今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って先週先々週と計16冊をポストし、合わせて226冊、本日の6冊も入れて232冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、瀬尾まいこ『温室デイズ』(角川文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしています。新刊書読書ではないと考えられるため、本日の読書感想文には含めていません。
まず、森永卓郎『投資依存症』(フォレスト出版)を読みました。著者は、テレビなどでもご活躍のエコノミストです。余命宣告されてから精力的な出版を続けています。同じ出版社から、『ザイム真理教』、『書いてはいけない』、『がん闘病日記』、そして本書と立て続けに刊行しています。私はタイトルから判断して『がん闘病日記』だけはパスしましたが、ほかは読んでいますし、シリーズ、かどうかは別にして、本書も同じ出版社から刊行されています。本書では、タイトル通りに、投資という行為について考え、ゼロサムに終わりかねない投資はギャンブルと同じであり、しかも、現時点で日本経済は株式資産市場などがバブルの状態にあることなどから、けっしてオススメ出来ない、と結論しています。まず、投資に関して、お金が自動的に増えることはないと指摘しています。その通りです。ただし、この指摘は金融資産に対する投資について当てはまるわけではありますが、実物資産に対する投資については生産過程における付加価値があれば増えるような気がします。もちろん、第2章では、完全市場においては超過利潤が生まれないことから、利潤ゼロであれば株式の理論値はゼロになる、という点を指摘して、やや完全市場に関する前提がキツい気はしますが、株式と実物資産のいずれも投資にはリターンがない、という理論を展開しています。加えて、現実に歴史的に見て株価は上がっているという点に関しては、日経平均に採用されている会社の株は上がっているかもしれないが、そうでない株の方が多い、さらに、投資信託なんかでは手数料が決して少額ではない、などと主張しています。私は理論的にはツッコミどころが多いのは認めますが、少なくとも米国や欧州と違って、日本では金融資産への投資がギャンブルと同じであることについては概ね同意します。決して、金融教育を普及させても、この点だけは変わりません。本書ではインサイダー取引については何ら言及がありませんが、日本の株式市場が欧米と同じようにダーティーである可能性は否定できないと考えています。要するに、一般投資家や国民の多くではなく、ごく一部の富裕層の投資家が有利になる資産運用となっている可能性については否定できません。銀行の定期預金の金利などを見ても、大口預金に有利な設定がなされています。おそらく、一般国民に政府が投資を奨励している背景には、証券会社あるいは投資銀行の相場捜査だけでなく、フィービジネスの実態に対する無理解があるような気がしてなりません。小口の一般国民が投資でババを引かされる確率は、大口投資家とかなり統計的に有意な差があるのではないか、と私は想像しています。その意味で、本書の指摘はかなり正確です。でも、ギャンブルと同じで、節度ある態度で参加していてお金をスるのも楽しい、という面はあります。ただ、ギャンブルと同じで、本書のタイトル通りに、依存症になる可能性も無視できません。
次に、ジャック・アタリ『教育の超・人類史』(大和書房)を読みました。著者は、フランスのミッテラン大統領の顧問を務めたりした欧州一流の知識人といえます。本書では、経済学ではない私の現在のフィールドともいえる教育について、タイトル通りに、ホモ・サピエンス登場のころからの歴史的な動向を探った後、現在を突き抜けて未来の許育について考察を巡らせています。教育については、まあ、その歴史はひょっとしたら別の教育史のテキストがあり得ると思いますし、それなりに信頼できる書物ではあっても、著者が一流の専門家であるとも私は見なしていませんので、ここでのレビューは教育の将来の方向、すなわちお、本書第7章を中心に見ておきたいと思います。もちろん、現時点での教育の到達点は、まだまだ不十分とはいえ、いろんな社会経済的な格差を背景にしつつも、一定の義務教育が実施された先進国では、本書では「読み書き算盤」と表現していますが、いわゆる読み書き計算が実用的に国民に広く普及しています。初等中等教育は所得や性別の差なしに広く普及し、大学を中心とする高等教育についても半数ないし半数を超える男女が進学するに至っています。本書では、「教育」という言葉を知識や情報の後世への伝達という意味で使っていますので、その意味で、いわゆる初等中等教育という基礎的な知識や情報の後世への伝達は、それなりに順調であろうと私は考えるのですが、著者からすれば、まだまだ不十分、という部分もあるのだろうと思います。問題は、この先生リアの更衣った教育という名の知識や情報の後世への伝達です。本書では3つのシナリオを提示しています。そして、驚くべきことに、3つのシナリオのうち2つまでが知識の伝達制度が崩壊ないし弱体化する可能性を示唆しています。本書で名付けたシナリオの3つの方向をタイトルだけお示しすると、無知による蛮行、人工物による蛮行、ホモ・ハイパーサピエンスと超集合知、となります。詳細は本書を読んでいただくしかありませんが、大学において教育に携わる教員として、私なりの教育論をお示ししておきたいと思います。まず、初等中等教育までは必要なレベルへの到達が求められます。いわゆる読み書き計算の現時点までのそれなりのプラスアルファが加わるわけです。そして、私の携わる高等教育ではそういった初等中等教育のレベルアップとともに、全員ではないものの、突出した能力の開発というものも場合によっては必要とされます。大学が教育機関として特殊なのは、よくいわれるように研究を行っているからです。研究成果はイノベーションとして生産過程に取り込まれて生産力の向上に結実するわけです。他方で、研究成果は初等中等、そして高等教育のコンテンツにもなります。この点がやや特殊なところです。そして、もうひとつ教育が、高等教育だけでなくすべての教育が特殊な点は、行政的に見てとてつもなくスピルオーバーが大きい、すなわち、個人の利得と社会的な利得に差がある点です。個人として読み書き計算ができる利得=ゲインよりも、すべてではないとしても圧倒的大多数の国民が読み書き計算をできるというのは、集合的に考えて国家としての利得が個人の利得の合計をはるかに上回る、と考えるべきです。他方で、予算措置なしの何らかの教育的な措置が可能に見える点も考慮せねばなりません。例えば、道路を通したり、橋を架けたりするのは、当然に大規模な光司が必要で、予算措置なくして道路や橋は出来ません。しかし、教育については「理数科教育を充実させる」というのは、それほどの予算措置なくして教員の負担で出来てしまうように見えます。このギャップが大きいため、個人はもとより、政府でも教育にかける財政リソースをケチる可能性が高くなります。現在の日本でも教育が崩壊しかけていることは報道などでも確認できるのではないでしょうか。
次に、山我浩『原爆裁判』(毎日ワンズ)を読みました。著者は、編集者、ライターです。本書は、話題のNHK朝ドラ「トラに翼」の参考文献といえます。ドラマの主人公のモデルとなった三淵嘉子について、その生涯を跡づけるとともに、同時に、原爆使用についても米国での開発から歴史をひも解いています。この裁判の判決については、極めて短いダイジェストながらドラマでも放映されました。米国による原爆投下は国際法違反と断じ、原告らの救済に対して司法権の限界を示して、行政と立法の、そして、政治の貧困を指摘した画期的な判決でした。しかし、本書で指摘していることは、まず、驚くべきことに、この歴史的な裁判の記録が判決文を除いてあらかた処分されていることです。例の神戸地裁の酒鬼薔薇事件の裁判記録が処分されていたことが発覚し、裁判所が謝罪したのは広く報じられて記憶に新しいところですが、ドラマの主人公のモデルとなった三淵嘉子が参加した裁判の記録も判決文以外はほぼほぼすべて処分されていると、本書では指摘しています。歴史的にも極めて貴重な資料ですし、何らかの意図を感じる国民も少なくないものと私は想像しています。ほか、ドラマを楽しむ上で、個人的な人となりについても本書では詳しく取り上げています。ただ、ドラマの前半部分のハイライトとなった主人公の父親の疑獄事件への関与については、本書では一切言及がありません。また、最高裁長官のご子息との結婚は事実のようですし、何よりも本書のタイトルであり、後半のハイライトのひとつとなった原爆裁判については、本書でも、右陪審として弁論の最初から最後まで参加した、裁判長も左陪審も途中で交代する中で、三淵判事だけは最初から最後まで参加していたと、何度も繰り返し強調されています。ただ、原爆の開発、あるいは、三淵判事の生い立ちなんかに割かれたページ数の方が多くて、本書のタイトルである原爆裁判に関しては、それほどのボリュームは割かれていません。裁判記録が残っていないのも一因でしょうし、私の下衆の勘繰りながら、まあ、読者の関心は原爆裁判というよりも、ドラマ主人公のモデルとなった人物の方にあるんではないか、という推測が透けて見えます。はい、その通りです。私も巻末に添付されている原爆裁判の判決文を読みましたが、ドラマで大幅にダイジェストされていた部分で十分と感じました。NHK朝ドラ「トラに翼」にご興味ある向きには、とてもいい参考文献といえます。
次に、原田昌博『ナチズム前夜』(集英社新書)を読みました。著者は、鳴門教育大学の研究者であり、ご専門はドイツ現代史だそうです。はい、実に的確な専攻分野だと思います。ということで、2022年暮れにテレビ番組で飛び出した表現に「新しい戦前」というのがあり、その翌2023年には内田樹と白井聡の対談による対談書も出版されています。そして、本書で焦点を当てているナチズム前夜のワイマール共和国は、第1次大戦後のドイツのとても理想的で高度に民主主義的な政治体制であり、私なんぞの専門外の人間からすれば、民主主義が一瞬で崩壊したように見えます。その時代を概観するのが本書となるわけです。私が少し驚いたのは、当時の1920年代のワイマール共和国においては政治的な暴力が日常茶飯事となっていた点です。本書では、まず、左派の共産党と右派のナチスなどが中道の社会民主党が主流をなしている国家、あるいは警察に対して暴力的行為に及んだ後、左派と右派の間の、すなわち、共産党とナチスの間の暴力に変質した、と主張しています。私はホンワカとナチスが一方的に国家・警察や共産党を攻撃していたのではないか、と想像していたのですが、おそらく、当時のコミンテルンの方針もあって、共産党がかなり暴力的な手段に訴えていた時期なのだろうと受止めています。ただ、本書ではコミンテルンについてはまったく言及ありません。ナチスがイタリアのファシスト党から受けた影響はいくつか言及されていますが、コミンテルンに言及ない点は少し疑問です。当時の各国共産党なんてコミンテルンのいいなりだったのではないかと私は想像しています。もちろん、そういった暴力は日本の過激派学生のゲバ棒なんて生易しいものではなく、拳銃での撃ち合いということらしいです。現在の日本の治安状況からは、これまた、想像ができかねます。もはや、銃で撃ち合う、特に政府権力や警察を対象にして拳銃で撃ち合うというのは、内戦状態に近い印象すらあります。そういった拳銃を使った暴力が頻発し日常化する中で、選挙によりナチスが比較第1党となり、ヒンデンブルク大統領に直接的な恫喝までした上で、ヒトラーが首相に任命され、いわゆる「授権法」を国会で議決して、ワイマール共和国の民主主義は一気に崩壊し、ナチスの、というか、ヒトラーの独裁体制が成立するわけです。詳細は、新書ながら400ページ近いボリュームとはいえ、本書を読んでいただくしかありませんが、コミンテルンとドイツ共産党の関係はすでに疑問を明らかにしていますので、それ以外に私なりに3点ほど本書に関して指摘しておきたいと思います。第1に、私はエコノミストですし、ワイマール共和国といえば、民主主義の崩壊に先立って経済が崩壊してハイパー・インフレーションに陥ったという歴史的事実は高校などでも習いますから、経済と政治的暴力とのインタラクティブな関係はもう少し掘り下げて分析してほしい気がします。単に、暴力だけを表面的にクロニクルに追うだけでなく、他の諸条件、特に経済との関係を考えたいと思います。第2に、ユダヤ人との関係です。ユダヤ人は本書で指摘されているようなワイマール共和国の暴力とどのような関係にあったのでしょうか。ナチスはユダヤ人に暴力的に接したのは容易に理解できるとしても、共産党はユダヤ人に暴力をふるったのかどうかは気にかかるところです。第3に最後に、これは疑問ではなく逆に評価する点ですが、ナチスないしナチズムを「国民社会主義」と邦訳しています。通常一般的には、「国家社会主義」と邦訳される場合が多いような気がしているのですが、私は「国民社会主義」だと理解しています。この点についても何の言及もありませんが、私は正しい用語を使っていると考えています。
次に、倉山満『自民党はなぜここまで壊れたのか』(PHP新書)を読みました。著者は、憲政史研究家、また、肩書としては救国シンクタンク理事長兼所長ということになっています。本書でも、過去の刊行本についての言及がいっぱいあるのですが、私はこの著者は初読だと思います。ということで、本書では、タイトルとはほとんど何の関係もなく、日本の政治状況について記述しています。ですので、タイトルになっている問いに対しては、本書を読んでも回答は得られません。まあ、そういう本もいっぱいあります。本書は3部構成であり、これだけは知っておきたい政治改革挫折の歴史、あなたが日本の政治に絶望する10の理由、「ひれ伏して詫びよ」というのがそれぞれのタイトルです。まず、私も実感しているところですが、いくら何回総選挙をしても、日本では一向に政権交代が起こりそうにありません。歴史的事実として、2009年9月の総選挙で政権交代があったのは事実ですが、わずかに衆議院議員1期3年余りで2012年年末の総選挙で再度の政権交代があったのも事実です。ですから、本書で指摘する通り、派閥解消や政治改革などは自民党の長らくのお家芸であって、過去、何度となく繰り返されたものの、一向に実効が上がっていません。本書では、派閥解消を口にするたびに党内の派閥は強固になっていった、と指摘しています。はい、その通りだという気がします。加えて、政治資金に関する腐敗は目に余るものがあり、自民党内における自浄作用はまったく見られません。まあ、派閥解消なんて1回だけ本腰で実行すれば、それで終了なのですが、何度も派閥解消が実行されているわけで、その昔の笑い話に「趣味は禁煙」とか、「毎年1度は禁煙をしている」というのとそう大してレベルは変わりません。私の友人は、現在の政治状況であれば、フランスなら市街戦が起こっても誰も驚かない、という人がいますが、日本では何ら政権交代を期待する声すら上がりません。たぶん、現在の自民党の総裁選挙で国民の多くが騙されてしま、この先1年間で必ずある総選挙でも政権交代にはつながらないのだろうと私は予想しています。要するに、日本人は黙々と耐えるだけなわけです。少し頭を使えば、自民党は国会における最大会派であって、政権の座にあるわけですから、総裁選挙に立候補している候補者の主張は、現時点でも十分に実現可能なわけなのですが、それを総裁に就任しなければ実現できないかのごとく主張しているのも謎です。本書では、第2部で日本の政治に絶望する理由を10項目上げています。具体的には読んでいただくしかないのですが、私の大きな疑問として、多くの日本人は現在の政治に絶望しているのではなく、ひょっとしたら、大いに満足しているのではないか、という点です。私も66年余り日本人をやっていますが、実に不思議です。最後に、私なりに本書のタイトルの問いに答えるとすれば、アベノミクスが成功したのが一因、すべてではあり得ませんが、安倍政権が経済政策を成功させて国民の強い支持を受けたのがひとつの要因ではなかろうか、と考えています。
次に、清水克彦『2025年大学入試改革』(平凡社新書)を読みました。著者は、政治・教育ジャーナリストです。本書は、まあ、有り体にいえば、大学入試を控えた高校生やその親に対するアドバイスが主たるコンテンツなのですが、私のような大学教員にもかなり参考になります。すなわち、一応、私は大学の教員ですし、それも私大ですので国公立大学よりも入試のバラエティが富んでいると一般的には考えられます。大学院入試は別として、高校からの普通の一般入試のほか、推薦入試、学士入学の入試、AO入試、そして、たぶん、私のような一般教員は関わらなさそうですが、総合型選抜入試なんてのもあります。国公立大学と私大の大きな入学方式の差は付属校です。私が京都大学の入試を経験した50年近く前は一般入試の一発勝負だったのですが、いくつかの入試の選択肢があり、その分、入学してくる新入生にも多様化が進んでいる、というのは決して悪いことではありません。ただ、大学での勉学にふさわしい学力を身に着けている点は必須であることもいうまでもありません。現時点で、私の勤務校では付属校からの入学や何やがあって、一般入試で入学する学生は40%ほどではないかといわれています。本書では、さすがに私学トップ校である早慶は55-56%が一般入試と推定しています。そして、一般入試による学生が通常は付属校からのいわゆる持上がりの学生よりも学力的に優位であると考えられていますが、本書でも、私の実感でも、必ずしもそうではありません。例えば、私の勤務校ではありませんが、慶應義塾大学なんかでは、むしろ塾高からの入学者、ただし、幼稚舎とかではなく塾高から慶應義塾のコースに入った学生がもっとも優秀で、いわゆる「金時計」の人たちである、と慶應義塾卒業生から実しやかに聞いた記憶もあります。ホントかどうかは私には確認のしようがありません。本書では難関校を目指す際に総合型選抜入試を候補に考えるのを推奨しています。私はこの入試方式に詳しくないのですが、ボランティア活動なんかを評価し、一般入試のような一発勝負ではなく高校3年間をトータルで評価する方式ですから、別の意味で負担は小さくないと思います。でも、学力だけではなく生活面も含めて、こういった入試によく適合するご家庭はありそうな気がします。最後に、本書では取り上げられていませんが、私の勤務校はそれなりの規模で歴史もありますので、スポーツなどを基にした推薦入試制度もあります。甲子園球児を野球部に迎える、といったものであり、スポーツに限らず文化活動に基づく水栓もあります。例えば、私の勤務校のある滋賀県は競技かるたの伝統があり、高校選手権が近江勧学館で開催されたりします。まさに、『成瀬は天下を取りにいく』の世界です。ですから、競技かるた、囲碁・将棋、書道が絵画などの芸術面で秀でた高校生などに開かれた制度です。
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