今週の読書は経済学の学術書から海外ミステリまで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って先週までに13冊をレビューし、本日の6冊をカウントして257冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年内にあと10週を残していますので、年間300冊に達するペースかもしれません。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでもシェアする予定です。
まず、長岡貞男[編]『日本産業のイノベーション能力』(東京大学出版会)を読みました。編者は、経済産業研究所の研究者であり、一橋大学の名誉教授です。本書は3部構成であり、第Ⅰ部がイノベーションのパフォーマンスと政策展開、第Ⅱ部がイノベーション能力の検証、第Ⅲがイノベーション政策の検証、となっています。経済産業研究所で蓄積したオリジナルデータを活用しつつ、日本産業のイノベーション能力を定量的に検証しようと試みています。というのも、冒頭の第1章で概観されている通り、2000年以降20年間のの研究開発支出が日本は圧倒的に伸びていないからです。米国が年率+2.9%と高い伸びを示して20年間で1.8倍となっている一方で、日本は+1.7%にとどまっており、20年間で1.4倍にしかすぎません。東アジアの近隣国の韓国は+7.9%で20年間で4.9倍、中国に至っては+14.5%で20年間で18倍の伸びを示しています。ここまで金額的に差をつけられると、いわゆる「選択と集中」を進めたとしても、おそらく、これだけ量的な差があれば、どうしようもありません。本書では、産学連携、大学院での特に博士号に向けた教育、新規スタートアップ企業の育成、発明の支援、公的試験研究機関の活動、特許申請などなど、さまざまな観点からの分析を試みていますが、最終的に、日本産業のイノベーションが向上しているのか、あるいは、停滞しているのかといった結論については、私に限らず、悲観的な見方をする人は少なくないものと想像しています。技術的なイノベーションについてはともかく、私から2点だけ本書に付け加えておきたいと思います。まず、第1に、基本に立ち返って、エコノミストからすればイノベーションについては、シュンペーターが5つの類型を示しています。すなわち、(1) 新しい製品/サービスの創出、(2) 新しい生産方法の導入、(3) 新しい市場への参入、(4) 新しい資源の獲得、(5) 新しい組織の実現、ということになります。本書では技術的なブレークスルーという見方から、(1)と(2)にほぼほぼ限定しているようです。ただ、(3)以降の観点も決して忘れるべきではないと私は考えています。もちろん、(1)と(2)のイノベーションが難しい以上、それ以外のイノベーションもそう簡単でないのはいうまでもありません。第2に、もうひとつは、どこまで日本の独自リソースによるイノベーションを追求するか、です。すなわち、1950年代とか、60年代の高度成長期には、日本独自リソースによるイノベーションを基礎にして成長したわけではありません。ほぼほぼ海外、多くは米国からの技術導入に基づいたイノベーションであったと考えられます。ですから、将来的に、もしも日本が先進国でなくなるとすれば、再びキャッチアップ型の成長を目指すのも一案です。例えば、もう20年ほども前の共著論文ながら、私の書いた論文の中で一番売れたので、「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」というのがあります。米国との格差を説明変数に入れて、キャッチアップ型の成長はまだ終わっていない、と結論しています。イノベーションについても基本的に似たような考えが適用できる可能性があると私は考えています。そうでなくても、日本はいわゆるプロダクト・イノベーションよりもプロセス・イノベーションに強いといわれることも多く、自前で独自リソースに基づいたイノベーションも、もちろん、重要ですが、他の先進国から技術導入した上で精緻化を図る、というイノベーションも十分アリだと思います。ただ、そうすると、例の「2番じゃダメなんですか?」になってしまいそうな気もします。それは避けたいところであり、私の「好み」にもあいません。悩ましいところです。
次に、ブラッドフォード・デロング『20世紀経済史』上下(日経BP)を読みました。著者は、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校(UCB)の研究者です。ただし、邦訳タイトルから受ける印象とは異なり、経済史の専門ではないと私は考えています。英語の原題は Slouching towards Utopia であり、2022年の出版です。繰り返しになりますが、著者の専門分野は決して経済史ではありませんので、本書は歴史的に長い20世紀を経済学の観点から後付けているとはいえ、経済史の学術書ではありません。ですので、データの情報などはほとんどなく、グラフやテーブルも本書には含まれておらず、20世紀の経済史を著者の印象で、もちろん、必要な引用はしつつも、あくまで著者の印象でもって、必ずしも十分なデータの裏付けなしに語っている印象すらあります。逆にそれだけむしろ、一般読者には判りやすい可能性も否定できません。他方で、経済史の碩学であるロバート・アレンの著書などがしばしば引用されているのは事実です。まず、長い20世紀ということで、1870年から2010年くらいまでの期間が本書の体操です。1870年とは欧米の今でいうところの先進国がマルサス的な罠を逃れて、本格的に資本主義の成長軌道に乗ったあたりということになります。この長い20世紀のスタート時点が、日本の明治維新とほぼ時期を同じくしている点は、私の方で追加的に指摘しておきたいと思います。そして、長い20世紀の終わりはほぼリーマン証券破綻に起因する金融危機、あるいは、その後の長期停滞の始まりの時点と考えるべきです。まず、この長い20世紀の経済史を語る上で欠かせない市場に関する見方について、ハイエクとポラニーのやや極端な対比が示されます。前者は、市場は人間には理解できない市場自身の原理で動くことから市場にすべてを委ねるのが最善だと考える一方で、ポラニーは市場では財産権だけが認められ財産を持たざるものは何の権利もないが、財産なくても声を上げる社会的な権利はあり、同時に、社会は財産を持たざる者が必要とするものや望むものに配慮すべきである、という視点です。この基本的な視点をベースにして、以下の5点のテーマが本書では語られることになります。すなわち、(1) 歴史の主役は経済になった、(2) グローバル化が進行した、(3) 豊富な技術が原動力となった、(4) 政府は市場の管理に失敗し、不安定と不満足を招いた、(5) 独裁政治が増殖した、の5テーマです。上下巻合わせて700ページをはるかに超える大著ですので、すべてを大雑把に取り上げることはせず、基本は読んでいただくしかありません。第6章の1920年代の狂騒の時代とか、その後の第7章の大恐慌とか、もちろん、2度に渡る世界大戦とか、その後の第11章の冷戦とか、とても興味をそそられる時代もあるのですが、私の方で第2次世界大戦後における経済社会の格差と成長に関する部分だけ簡単にコメントしておきたいと思います。すなわち、総力戦となった第2次世界大戦の戦費調達のために大きな増税が実施され、米国では「大圧縮時代」が到来し、戦後もケインズ政策が実施されて貧困層の所得底上げから格差の拡大はそれほど問題にはなりませんでした。この点を捉えてクズネッツの逆U字カーブ仮説などが現れるわけです。本書では第14章で社会民主主義の栄光の30年として後付けています。このあたりは、Fourastié Les Trente Glorieuses から取っているのではないか、という気がします。しかし、先進国で完全雇用に近づいた1970年代の2度に渡る石油危機に起因するインフレによりケインズ政策の有効性が失われて、本書では新自由主義の時代に入ったと指摘します。英国のサッチャー政権や米国のレーガン政権の経済政策といえます。日本では中曽根内閣でしょう。ここから格差拡大が始まります。ただ、本書では下巻pp.152-153あたりで、新自由主義について、特に途上国で未成熟な政府を経済から切り離す試み、あるいは、「政治的影響力の強い集団に所得分配を有利に捻じ曲げようとする政府の試みをおおむね無力化し、経済に実害がおよばないようにすることができる」手段として考えているようです。通常のエコノミストが有する新自由主義の実感とはかなり距離があるように、私は感じました。逆であり、ハイエク的に市場にすべてを委ねる姿勢を超えて、富裕層に有利に所得分配を変更するのが新自由主義ではないか、と私なんかは考えています。少なくとも米国レーガン政権はそういう政策変更をしたと考えるべきですし、日本でも遅まきながら小泉内閣から安倍内閣くらいまではそうであり、だからこそ申告所得が1億円を超えるとむしろ税率が低下する、なんてパラドックスが生じているのではないでしょうか。最後に、本書の英語の原タイトルにあるユートピアの定義がなかなかはっきりしなくて、だから、邦訳タイトルに取らなかったのではないか、と私は考えているのですが、第7章で少し言及があった後、第15章の下巻pp.224-225あたりで、ケインズの1930年の小論「孫の世代の経済的可能性」の引用により明確にしています。すなわち、"how to use his freedom from pressing economic cares, (how to occupy the leisure, which science and compound interest will have won for him), to live wisely and agreeably and well" 「経済的逼迫から自由になった状態をいかに使い...賢明に、快適に、裕福に暮らしていくか」ということのようです。これを最初に持って来てくれれば、もっと判りやすかったのに、のに、と思うのは私だけではないと考えます。
次に、ぺこりーの『妻より長生きしてしまいまして。』(大和書房)を読みました。著者は、よく判らないのですが、1957年生れでサラリーマンを定年退職してからコンサルタントをしていて、ユーチューバーでそれ相応の収入があるようなことも本書には書いてあります。それから、出版社のサイトを見ると、「ようやく妻が死んでくれた」と題する動画がバズっている、という情報もあります。まず、年齢ですが、私とほぼほぼ同じです。私の方が1年だけ遅く生まれています。ですから、基本、年配の人のいうことは自慢話だと考えて差支えありません。本書もそうです。表現ぶりからして、それほど上から目線ではありませんが、自慢話であることは変わりありません。第1章が台所や料理、食事について、第2章が住まいや日々の生活など、第3章が年金や所得など、第4章が老いの美学のような生活信条など、という4章構成となっています。私は東京で役所務めを定年退職してから関西に来て大学教員として再就職しましたが、関西に移って来る際に、単身赴任するつもりはまったくありませんでした。夫婦でいっしょに移り住むか、あるいは、どうしてもカミさんが東京から引越したくないといえば離婚する可能性もゼロではありませんでした。ですから、第一線を退くくらいの定年退職のタイミングで、生き別れの離婚でも、死に別れでも、独り身に戻ることが、それなりに悪くはない可能性を認める、というのは、たとえ不謹慎の誹りを受けようとも理解できるつもりです。ただ、私はこの著者と違って、たとえ飢え死にしようともまったく料理はしません。50歳前後に長崎大学経済学部に単身赴任した経験がありますが、まったく料理はしませんでした。パンを買って牛乳で流し込む朝食以外はすべて外食でした。牛乳とビールのために冷蔵庫こそありましたが、皿とかコップすら持ちつげず、料理どころか、朝食以外は自宅では食事すらしませんでした。昼食は生協の学食が多かったです。ただ、私が本格的に年金生活に入ったら、たぶん、もう数年、70歳になったら特任教授も任期を終えて、読書とスポーツを熱心にやりそうな気がします。これは本書ではほとんど取り上げていません。私から見てとても不思議です。私自身は65歳で大学の定年を終えてから特任教授となって、いくぶんなりとも授業負担が軽減され、年金生活に入る前の現時点でも、読書は熱心に取り組んでいますし、スポーツも自転車と水泳は仲間がいなくても出来るので、可能な範囲で時間を割いています。というのは、私は本書の著者のように人様に向けて情報を発信するような能力はほとんどありませんから、後は、子どもや周囲に迷惑をかけないように、心身の健康を出来る範囲で維持することを重視しています。加えて、出来ることであれば、本書の著者のようにカミさんよりも長生きしたいと考えています。表紙画像の帯にあるように、自由が手に入れられそうに感じているからです。ただ、カミさんも同じことを考えている可能性がある点は十分認識しています。
次に、中野雅至『没落官僚』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、神戸学院大学の研究者ですが、大和郡山市の市役所勤務の後、旧労働省でキャリア公務員として勤務経験もあるようです。本書は7章構成であり、行政改革の悪しき結果、警察国家化しつつある現状、先細る天下り、人事権限を利用した影響力の拡大、政治家の下請けで裁量権小さくなった官僚、若手や女性の活躍できない現状、最後に、政治家の能力、をそれぞれ取り上げています。ということで、官僚、特にキャリア官僚が没落して、公務員制度が大きな危機に瀕する可能性を示唆しています。ただ、表紙画像に見える「国家公務員試験志願者がゼロになる」というのは一部を切り取った表現であって、本書の中では東大卒はコンサルに流れてキャリア官僚志望者がいなくなり、MARCHや関関同立などの卒業生がキャリア官僚になる、といった趣旨であるらしく、そのことを官尊民卑に対比する形で「逆転」と呼んでいます。さらに時間が経過して現在の流れが続けば、MARCHや関関同立の卒業生の国家公務員志望者も大きく減少しかねない、という予想です。私は60歳の定年までキャリア公務員でしたし、エコノミストの目から見て、キャリア公務員はコスト/ベネフィットが悪い、というか、現在の用語法でいえばコスパが悪い、ということになるんだろうと思います。おそらく、コストの方、すなわち、過酷なブラック労働については過去から少しばかり改善されているとはいえ、世間一般と比較して、それほど大きく変化ないのに対して、キャリア公務員の人生に魅力がなくなったんだろうと思います。本書で指摘しているように、政治主導が大きく進んで総理や官房長官の意を汲んだ官邸官僚の権力が大きくなり過ぎたというのも一因ですが、やっぱり、私は天下りが一部の公務員に限定されてしまったのが主因だと思います。というのも、本書では何も言及がありませんが、当然に公務員の仕事というのは民間企業でそのまま通用するような市場性がないわけです。キャリア公務員のお仕事ではありませんが、判りやすいので警察官を例に取ると、拳銃の腕前とか、信号を無視してパトカーなどの緊急車両を走らせるドライビング・テクニックといったものは、例えば、警備会社では必要とされません。でも、国民の安全を守り治安を維持するためには必要なスキルである可能性が十分ありますので、警察官には身につけておいて欲しいと考えられます。でも、市場性がないので拳銃の訓練を忌避する警察官がいる場合、単に公的業務に対する精神的な「ヤル気」だけではなく、然るべき時点で然るべき天下り先を斡旋する約束をしないといけない場合もあります。公務員退職後の再就職まで含めてトータルな人生を考える場合、民間企業で不要な市場性ないスキルを公務員が必要としているとすれば、そのマッチングを考える必要があります。天下りというのがよろしくないのであれば、それに代わるシステムが必要なのですが、現時点でそれがないために公務員の魅力が減じているのであろう、と私は考えています。ただ、そういった内容の本であれば出版できないであろう、という点も理解しています。
次に、M.W. クレイヴン『グレイラットの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、私は不勉強にして、このワシントン・ポー刑事のシリーズしか読んだことがありません。英語の原題は Dead Ground であり、2022年の出版です。本書はイアン・フレミング・スティールダガー賞を受賞しています。ということで、このシリーズは英国はイングランド最北端でのスコットランドと境を接するカンブリア州を舞台にした警察ミステリです。本書はシリーズ第4作となります。すなわち、順に、『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』、『キュレーターの殺人』に続く第4作です。すでに、第5作が邦訳されており同じ出版社から『ボタニストの殺人』として出版されています。シリーズにありがちなことですが、段々とページ数が増えていて、私が先日読んだ第3作の『キュレーターの殺人』は600ページ余りでしたが、本作品『グレイラットの殺人』は700ページを超えます。さらに、詳細不明ながら、『ボタニストの殺人』は上下巻となっていますので、さらにページ数のボリュームが増加していることと想像しています。一応、私はこの作品までシリーズは全部読んでいます。『ボタニストの殺人』もそのうちに読みたいと考えています。ということで、主人公のポー刑事は国家犯罪対策庁(NCA)重大犯罪分析課(SCAS)に所属していて、米国でいえば連邦捜査局(FBI)に当たる国家レベルの警察組織の刑事といえます。そして、シリーズでポー刑事をサポートするのは、分析官のマチルダ・ブラッドショー、上司のステファニー・フリン、そして、検死解剖を行う病理医のエステル・ドイルとなりますが、本作品では前作『キュレーターの殺人』のラストで負傷したステファニー・フリンはまだ入院中でほとんど登場しません。代わりに、というか、何というか、前作でキュレーターのヒントを与えた米国連邦捜査局(FBI)のメロディ・リー特別捜査官が英国に来て、ポーに協力します。事件の始まりは3年前にさかのぼり、銀行の貸金庫を襲った強盗団、全員が「007ジェームズ・ボンド」の映画で主人公を演じた俳優のマスクを着けて襲撃する強盗団が仲間を射殺した上で、邦訳タイトルにある灰色ネズミの陶製置物を現場に残して姿を消すところとなります。他方、ポーはカンブリア州カーライルの法廷で、地方当局から訴えられていました。すなわち、ポーの住まいは国立公園の拡張区域に含まれており、いくつかの改修が違法だということで原状回復を要求されていたわけです。そこに、謎の男たちが現れてポーといっしょにいたブラッドショーを連れ去ります。この男たちは国家保安局(MI5)の所属でした。ちなみに、どうでもいいことながら、冒頭の強盗団がマスクに利用していたジェームズ・ボンドはMI6の所属だったと記憶しています。本筋に戻って、ポーが連れ去られたのは、カンブリア州で開催される首脳会議(サミット)の開催地近くの売春宿で、会議出席者の輸送を担うヘリコプター会社の社長が惨殺された殺人事件を捜査するために、かなり荒っぽい方法で緊急に呼び出されたわけです。各国首脳が出席を予定するサミットですので、米国連邦捜査局(FBI)からメロディ・リー特別捜査官も派遣されているし、MI5の担当官も強くコミットしているわけです。そして、この殺人事件の現場から灰色ネズミの陶製置物が持ち去られていたことをポーが指摘します。まあ、いろいろあって、ネタバレは出来ませんが、米英が軍隊を派遣したアフガニスタンでの軍人の暴走や世界を股にかける密輸組織など、極めて「大きな物語」が展開されます。最後に2点だけ私から付け加えておきたいと思います。まず第1に、このシリーズはますます面白くなって行きますが、ポーのアイデンティティの探求がかなり進んだ気がします。シリーズ10作に届かない段階で完了しそうで、そうなると、このシリーズはどうなるのか、少し気がかりです、私個人的には大好きなミステリのひとつですので、ポーの自分探しが終わっても続いてほしい気がします。第2に、アフガンで米英が対峙していたのはアルカイダではなくタリバンじゃあなかったの、と専門外の私は理解していましたが、ミステリの本質とは関係ないところながら、私の理解が間違っているのでしょうか。
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