今週の読書は市場経済史に関する経済書をはじめとして計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って本日の6冊をカウントして244冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間250冊は明らかに超えて300冊に達するペースかもしれません。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、M.W.クレイヴン『キュレーターの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)も読んで、すでにFacebookなどでシェアしていますが、もう2年余り前の出版ですので新刊書とは見なしがたく、本日のレビューに入れていません。『キュレーターの殺人』の続編である同じ作者同じシリーズである『グレイラットの殺人』も手元にあって続けて読む予定ですが、コチラはまだ出版から1年ですのでレビューしたいと思います。
まず、B. ファン・バヴェル『市場経済の世界史』(名古屋大学出版会)を読みました。著者は、オランダのユトレヒト大学の研究者です。オックスフォード大学出版会から出ている英語の原題は The Invisible Hand? であり、2016年の出版です。原書と邦訳の両方の出版社から考えると、かなり専門性高い学術書と考えるべきですが、経済学プロパーというよりも歴史学との学際分野である経済史ですので、それほど一般向けにもハードルは高くないと私は見ています。ということで、まず、単に市場経済と聞くと製品市場のことかと受け取れられがちですが、本書の邦訳タイトルの市場経済は要素市場を対象にしています。すなわち、労働と資本、あるいは、資本のもとになる資金、はたまた、土地です。狭い意味での資金提供だけではなく、貸付なんかも含みます。どうして、生産物市場ではなく、生産要素市場に着目するかといえば、取引が継続的だからです。生産物市場では、1回限りの取引=交換で終わる場合も少なくありませんが、労働を考えれば典型的であって、継続的に何年間もの契約を交わして労働を提供する場合が多いのは明らかです。ですので、ムチャな、というか、詐欺的なものも含めて、不公正な取引が生産物市場に比べて少なく、かなり長期に渡る歴史的な分析にふさわしいと考えられます。本書では、この要素市場について、3つの時代と地域を分析対象としています。すなわち、中世初期の帝国における市場、500~1500年のイラク、中世都市国家における市場、1000~1500年の中部及び北イタリア、そして、中世後期から近代初期の公国群における市場、1100~1800年の低地諸国です。これらに加えて、エピローグとして正真正銘の近代、すなわち、1500~2000年のイングランド、アメリカ合衆国、西ヨーロッパにおける市場も最後に概観されています。中国や日本はメインでは取り上げられていません。それぞれの経済発展を後付けつつ、生産要素市場の成立ないし発達を分析し、生産要素市場を起源とする不平等についても分析しています。それぞれの時代や地域の具体的な分析は読んでいただくしかありませんが、結論においては、「サイクル」なる用語を用いて、歴史的な発展段階を説明しようと試みています。このサイクルは、例えば、p.250の図6-2などでは、横軸に年代、縦軸に1人当たりGDPをとったカーテシアン座標で逆U字カーブを描く可能性を指摘しています。本書では何ら言及ありませんが、極めてクズネッツ的な逆U字カーブであり、経済発展の歴史的段階において、たぶん、不平等により経済発展が阻害される可能性を示唆しています。これは、21世紀の現代の経済に対して極めて示唆に富んでいます。要するに、注目すべきは生産要素市場が発達したところで、あるいは、生産物市場も同様かもしれませんが、自動的にそのまま経済発展が続くわけではない、ということです。グラノベッター的にいって、経済学がモデルとしているような自由で十分な情報のある市場というものは、現実には存在せず、社会関係や規則が存在して市場においても権力格差が作用している、という結論です。
次に、大谷俊雄『霞が関官僚の英語格闘記 「エイゴは、辛いよ。」』(東洋経済)を読みました。著者は、財務省OBであり、財務省勤務時はいわゆる国際派として米国コロンビア大学に留学したり、アジア開発銀行(ADB)や国際通貨基金(IMF)・世界銀行などのご勤務の経験があるようです。タイトルは「エイゴは、辛いよ。」となっていて、もちろん、英語で苦労されたエピソードもいっぱいありますが、まあ、基本は自慢話です。ただ、留学や国際機関勤務などでの勤務は、多くの一般的なビジネスマンにはそれほど経験されない場合が多いと思いますので、そういった経験談はそれなりに参考になるかもしれません。ただし、著者がタイトル通りに霞が関官僚ですので、ビジネス的な経験は含まれていません。すなわち、私も公務員でしたので決定的に経験がないのですが、ビジネス上の商談やその結果としての契約については、本書にも含まれていません。逆に、国際会議における発言や司会進行などは一般的なビジネスマンにはそれほど関係深くないかもしれません。まあ、ダボス会議に出席するトップクラスのビジネスマンだけのような気がします。また、コラムで英語表現を数多く取り上げていて、繰り返しになりますが、国際会議なんて関係ないビジネスマンも少なくないこととは思いますが、読み物として楽しむことはできるのではないでしょうか。何度か、私も主張しているのですが、この先の日本経済を考えて、必要な人材分野はもちろん介護を担う人材なども重要である一方で、大学が一定の役割を担うべき分野の高スキルの人材としては、データサイエンス人材、グローバル人材、デジタル人材、グリーン人材が日本にはもっと必要ではないかと私は考えています。大学レベルでは、おそらく、データサイエンス人材のための教育がもっとも進んでいるように私は受け止めています。アチコチにデータサイエンスを標榜した大学の学部や学科ができているように見受けます。他方で、DXを担うデジタル人材と環境分野で活躍が期待されるグリーン人材については、やや工学的な分野ではなかろうかと受け止めており、私の所属する経済学部ではグローバル分野で活躍するための教育が必要とされるような気がします。その意味で、本書を読んでみた次第です。ただ、60歳の定年まで東京の役所で働いていた実感として、少なくともグローバル人材は東京では決して不足しているような気はしませんでした。十分いるように感じていました。ただ、東京、あるいは、首都圏を離れると、関西圏でもグローバル人材がそれほど十分でないことが実感されます。実は、私の勤務校ですらそうです。海外における留学や勤務経験のある教員はそれほど多くありません。東京の大学とは大きな差があります。逆に、海外留学や海外勤務経験のある教員は重宝されているように感じます。たとえ、海外に留学や勤務しなくても、外国人観光客によるインバウンドを考えれば、もっといえば、日本国内から一歩も出なくても、本書で力説しているような語学力とか、それなりのグローバルなスキルは必要です。そのためにも、実体験に基づくこういった本も有益ではないか、という気がします。
次に、株式会社闇[編]『ジャンル特化型ホラーの扉』(河出書房新社)を読みました。編者は、ホラー×テクノロジー「ホラテク」で、新しい恐怖体験をつくりだすホラーカンパニー、と紹介されています。私は不勉強にして知りませんでした。8ジャンルのホラーが収録されている短編集であり、帯に「14歳の世渡り術」と記されており、本文中には言及ないものの、私は中高生向けのホラー小説集と聞き及んでいます。出版社のサイトで「14歳の世渡り術」で検索すると、大量の図書がヒットします。一応、「児童書」というジャンルに指定されています。ですので、本書も小学校や中学校を舞台にするホラーが多く収録されています。そして、各短編の最後には、そのホラー短編がカテゴライズされたジャンルの解説などが収録されています。収録されている短編のあらすじは順に、澤村伊智「みてるよ」(心霊ホラー)は、たぶん、小学校が舞台です。ランドセルを背負った背の高い男の子が教室などをドアの隙間から覗いているのを主人公は目撃します。この男の子は「あすかわくん」らしく、学校で変質者に殺されたらしいです。そして、どうも、覗かれている人は何らかの不調、というか、明確におかしくなってしまうようです。続いて、芦花公園「終わった町」(オカルトホラー)は、より大規模に主人公が住む町全体が、皐巫女の風習の伝説に基づいて狂気に襲われます。主人公だけが正気を保つのですが、ある意味で、人々が次々とゾンビ化していく町のようです。続いて、平山夢明「さよならブンブン」(モンスターホラー)は、いじめを受けている主人公が自殺を試みようとした廃墟でモンスターキャットのブンブンと出会います。どうも、ブンブンは主人公をいじめていた同級生などを処罰しているようです。この作品がプロットといい、ラストの終わり方といい、本書の中では文句なく最高の出来だと思います。続いて、雨穴「告発者」(サスペンスホラー)は、主人公は友人とコンビで動画作成を始めるのですが、10年前のある日、友人は動画作成後に自殺し、その問題動画の冒頭部分が10年後の今になって拡散され始めています。10年後に20代になって、元動画をポストしたサイトのパスワードを忘れた主人公は、実家に帰って古いパソコンで元動画を削除しようと試みます。続いて、五味弘文「とざし念仏」(シチュエーションホラー)は、学校の文化祭でお化け屋敷をクラスでやることになり、転向してきたばかりの主人公はひょんなことからドラム缶に閉じ込められてしまいます。でも、ペアになったクラスメートが助けてくれません。続いて、瀬名秀明「11分間」(SFホラー)は、主人公のクラスの朝礼に担任の先生に代わってAIがやって来ます。そして、「自由」についての話を始め、人間の持つ「思いやり」をなくさなければ、ホントの「自由」は手に入らない、などと言い出します。タイトルの11分間はAIが世界を支配する時間であり、要するに、AIはわずかに11分間で世界支配に失敗してしまいます。世界がAI支配からどのように脱するのかは読んでみてのお楽しみです。続いて、田中俊行「学校の怖い話」(モキュメンタリ―ホラー)は、いかにも学校にありそうな短いショート・ショートの怪談、呪いの鏡とか、主人公と母親だけが覚えていて、ほかのクラスメートの記憶から消えている死んだ女子とか、をいくつか集めています。とても伝統的、というか昭和的な怪談だろうと思います。最後に、梨「民法第961条」(モキュメンタリ―ホラー)は、文芸部に所属していた主人公の高校時代の朝読会の思い出の体裁を取っています。タイトルに取られている民法961条では遺言に関する規定があり、手紙の写真などのビジュアルな恐怖も同時に収録されています。
次に、吉弘憲介『検証 大阪維新の会』(ちくま新書)を読みました。著者は、桃山学院大学の研究者であり、ご専門は財政学、地方財政学だそうです。ですので、ご専門の観点から地域政党である大阪維新の会について、どういったグループに手厚く、また支持されていて、逆に、どういったグループに対して冷たい政策を持って臨んで、また、支持されていないか、について検証しています。一応、当然のお断りですが、本書で対象としている大阪維新の会は大阪のローカル政党であり、他方、日本維新の会は全国政党です。もちろん、政策的には密接にリンクしている、というか、ほぼほぼ同じと考えていいのでしょうが、例えば、住民投票で2度に渡って否定された「大阪都構想」なんて政策は大阪維新の会だけで、日本維新の会はそういった地域ローカルの政策は地域ごとになくもないのかもしれませんが、「大阪都構想」のような大阪以外のローカル政策は、私は不勉強にしてよく知りません。ということで、本書の冒頭の2章で政党としての特徴とか、主要な政策を概観した後、第3章からが本書の眼目である検証を始めます。その際、財政学・地方財政学の独特の見方なのかもしれませんが、公務員や役所の外郭団体、あるいは、教育組織や住民組織などの中間団体を通じた従来型の財政リソースの分配ではなく、大阪維新の会はこういった中間組織を経由せずに住民に直接財政リソースを頭割りで分配するという形を志向していると指摘し、それを「財政ポピュリズム」と呼んでいます。マクロエコノミストとして私はこの点には大きな異論があります。すなわち、従来の中間組織として本書がスポッと忘れているのが建設会社や土木会社であり、いわゆる「土建国家」タイプの財政リソースの分配だったと思います。それに対して、教育バウチャーとか、あるいは、何らかの社会保障による住民への直接の財政リソースの分配については、むしろ「福祉国家」としてあるべき姿のひとつではないか、と私は考えているからです。いずれにせよ、クラウドソーシングによるアンケートの結果を駆使しつつ、政党としての支持の構造を明らかにし、特に、大阪維新の会は大阪「土着」の支持層から支持されているだけではなく、生活保護や貧困世帯児童支援に対する見方を除けば、全国の一般的な傾向から統計的に有意に乖離するものではない、と結論しています。ほかにもいろんな定量的な分析がなされていて、それはお読みいただくしかありません。最後に、本書は「財政ポピュリズム」という用語に示唆されているように、大阪維新の会の政策、あるいは、政策運営を批判的に見ているように感じましたが、私はまったく別の観点から大阪維新の会については批判的な見方をしています。少なくとも、来年の万博についてはマネジメントが破綻しているように見えますし、万博の先にあるIR=カジノ構想については特に強く反対します。
次に、佐高信・西谷文和『お笑い維新劇場』(平凡社新書)を読みました。著者2人は、評論家とジャーナリストです。タイトルから明らかなように、また、表紙画像からもうかがえる通り、ほぼほぼ、たぶん大阪維新の会と日本維新の会の両方を対象にした維新の会に対する強い批判を加えた著者2人の対談を収録しています。すなわち、冒頭が維新不祥事ワースト10で始まり、終章もそれに加えて維新不祥事ワースト10の追加で締めくくっています。広く報じられている通り、兵庫県で100条委員会を設置して調査が行われている齋藤元彦知事(失職)も維新の会の推薦を受けて当選していて、本書のスコープには時間的に入らなかったようですが、あるいは、冒頭か終章のワースト10に入れるべきとの意見も無視できない気がします。著者2人の主張は維新に批判的、というか、反対の立場を鮮明にしていて、詳細はお読みいただくしかありませんが、私の方で気になったのが、維新を報じるメディアの問題についての著者2人の見方です。要するに、維新に気兼ねしてメディアが報じない不祥事た不都合がいっぱいある、と著者2人は主張しています。私が現在の与党政権に関する見方とかなり共通する部分がありますので、取り上げておきたいと思います。まず、維新の会の不透明な政治資金、文書交通費を自分に対して寄付しているという領収書について、記事として取り上げたのが『日刊ゲンダイ』と『赤旗』だけと主張しています。事実関係は私には確認しようがありませんが、あり得ることだと受け止めています。メディアが権力や権力に近いグループの主張について、また、国民の間で議論が分かれている論点について、メディアとして都合の悪いものと見なし選別して報道しない姿勢は長らく続いています。日本の民主主義が大きな危機に陥っているひとつの要因がメディアの姿勢にあることは明らかです。その裏側で権力者がやりたい放題になっているわけです。最近、報道ではサッパリなNHKがドラマで不平等を取り上げた「虎に翼」がありましたが、この朝ドラがヒットしたひとつの要因は不平等の蔓延だと私は受け止めています。繰り返しになりますが、権力者は何をやってもやりたい放題なわけです。権力者とは政治権力だけではなく、もっと広い意味で上位者と考えるべきで、上位者が下位者に対してやりたい放題で下位者は抵抗するすべがなくなりつつある、というのが日本の現状に近いと私は考えています。私はいろんな職場でほぼほぼ常に主流派のポジションになく、非主流派か反主流派とみなされていたと考えているのですが、かつての長期政権を保った内閣で一時期「お友だち内閣」というのがありました。インナーサークルに所属するお友達は特段の主張なくても、上位者の忖度により希望が通る一方で、私のような非主流派の下位者はギャーギャーいわないと要望が実現されません。反主流派に属する下位者はギャーギャーいっても希望が通らないかもしれません。おそらく、国政トップの内閣から始まって、私のような一般国民が働く職場まで、こういった上位者の圧倒的な権力が平等とか公平の観点を大きく外れる形で下位者にのしかかってきており、多くの下位者は抵抗するすべがない、と私は考えています。革命はいうまでもなく、政権交代すら望むべくもない可能性が高くなっています。その典型的な専制的上位者の醜い行動をさらしているのが、全部ではないとしても維新所属の政治家であることを本書は主張しています。そして、そういった行動をメディアはスルーしているわけです。なお、維新政治家による専制的上位者の行動に対する抵抗に成功したのは、一部のれいわ新選組の国会議員さんくらいしか私は知りません。大石晃子代議士などです。そういった高いレベルではないとしても、私は職場における上位者の「圧政」に対する抵抗に失敗している「そのた大勢」の1人ではなかろうかと思います。でも、抵抗すらしていない人が決して少なくないので、私は抵抗を続けたいと思います。
次に、石田祥『猫を処方いたします 3』(PHP文芸文庫)を読みました。著者は、小説家です。タイトルに「3」とあるように、シリーズ第3巻です。もちろん、私は第1巻と第2巻も読んでいます。シリーズ第3巻の本書は4話構成となっています。「中京こころのびょういん」を舞台に、ニケ先生と看護師の千歳のコンビが少し心を病んだ患者に本物の猫を処方するストーリーです。京都のど真ん中が舞台ですので、ある意味では「京都本」ともいえますし、実際に、第1巻は第11回京都本大賞を受賞しています。1話から3話は、フツーに患者が猫を処方されるのですが、最後の第4話は舞台となっている「中京こころのびょういん」ができる、あるいは、発生する前日譚を含んでいます。ということで、各章のあらすじは、第1話では、雑貨を扱っている会社の経理担当の30前の女子社員が新製品に関する企画について、社長も出席する重要なプレゼンを控えたタイミングで訪れます。表紙画像の右側の猫を思わせるシャム猫が処方されます。第2話では、父親としての育児のまっ最中で、会社の飲み会に出席するのも気が引けている営業マンが、猫を処方されるのではなく、中京こころのびょういんで「猫を習う」という実技、というか、療法を受けます。第3話は、似顔絵をメインに請ける30歳のイラストレーターが前途に迷いを生じて訪れ、ラグドール種のプロの猫を処方されます。本来であれば、指名料が必要なくらいのプロの猫だそうです。第4話は、中京こころのびょういんが現在入っているビルの5階の同じ部屋にあった猫のブリーダーにアルバイトに来た10代の女性の視点から、ブリーダーの破綻の様子を描写しています。とても切ないストーリーです。そして、ほぼ全話に登場するのが中京こころのびょういんと同じビルの同じフロアに入っている日本健康第一安全協会、そうです、アノ怪しげな健康器具である磁気ネックレスを売っている会社の椎名彬です。当然ながら、なかなか真実に近づいてはいませんが、そのうちに何らかの悶着があって、このシリーズは終わるんだろうという気がします。謎めいた中京こころのびょういんですが、今少しシリーズが続くとしても、私の予想では10巻には至らないのではないか、という気がします。5巻かもう少しの数巻で完結するようなペースでストーリーが進んでいるように見受けます。でも、次が楽しみです。
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