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2024年10月12日 (土)

今週の読書は経済書や専門書からミステリまで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って先週6冊の後、本日の7冊をカウントして251冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、新刊書レビューだけで年間300冊に達するペースかもしれません。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、瀬尾まいこ『あと少し、もう少し』(新潮文庫)も読んでいて、すでにFacebookなどでシェアしていますが、もうずいぶんと前の出版ですので新刊書とは見なしがたく、本日のレビューに入れていません。それから、図書館で借りたものも、生協の書店で買ったものも合わせて、新書が手元に大量に積まれていますので、今後、精を出して読みたいと思います。

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まず、長谷川将規『続・経済安全保障』(日本経済評論社)を読みました。著者は、湘南工科大学の研究者です。タイトルから容易に想像されるように、「続」のつかない本も同じ著者が上梓しているのですが、10年以上も前の2013年の出版ということで、今回はパスして新刊の本書だけを読みました。出版社のサイトに詳細な目次が示されています。まず、経済安全保障という言葉の定義を明らかにしていますが、ちょっとばっかし私の理解とは異なっています。すなわち、冒頭で「安全保障への経済の利用」もしくは「安全保障のための経済的手段(経済手段)」としてますが、私の実感として通常理解されている経済安全保障とは、本書pp.6-7で議論されているように、「(重大な脅威から)経済を守る」というものに近い気がします。守られる対象は、企業の生産や流通などだけではなく、広く国民生活の安定にも及びます。例えば、企業における生産の安定的な継続、また、エネルギーや食料供給の安定とかが眼目となります。ただ、中身としてな大きく異なるわけではないように私は受け止めました。ただ、本書ではこの定義に従って9タイプの経済安全保障における経済手段を提示しています。すなわち、(1) シグナリング: メッセージを伝える、(2) 強化: 国のパワーを支える経済手段、(3) 封じ込め: 対立国のパワーの拡大を防止する、(4) 強制: 経済的損害を利用して敵対国を誘導する、(5) 買収: 経済的利益と引換えに敵対国を誘導する、(6) 相殺: 敵対国からの悪影響を緩和する、(7) 抽出: 敵対国の富や資源を調達する、(8) モニタリング: 敵対国の情報を得る、(9) 誘導: 敵対国の国益認識を変容させる、ということになっています。はい。私は専門外なので、このあたりは本書から適当に丸めて引用しています。ということで、私はいわゆるステイトクラフトの一部をなすエコノミック・ステイトクラフトを想定したのですが、本書p.25からの議論では似ているが違う、ということにようです。これも十分に理解したとまで自信を持っているわけではありません。第1章でこういった基礎的な概念や定義を明らかにした後、第2章では中国に関する議論を展開しています。すなわち、日本にとって中国とは脅威国でありながら密接な経済的交流のあるCEETS=Close Economic Exchange with a Threatening Stateであるので、大きなジレンマが生じる、という主張です。私が接している情報から極めて大雑把に分類すると、いわゆるネトウヨは経済的な交流を軽視して中国が脅威国である点を強調しますし、逆に、大企業やその連合体である経団連などは経済交流の重視に傾きます。まあ、当然です。それに対して、9カテゴリーの経済安全保障の手段をどのように組み合わせて効果的に対処するか、といった論点が提示されています。専門外の私の方で十分に理解して解説できるとも思えませんし、詳細は読んでいただくしかありません。第3章ではデカップリングについて論じていますが、私はすでに昨年2023年11月にレビューした馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)で明らかな通り、ウクライナ侵攻したロシアに対する経済制裁といったような攻撃的なデカップリングについては別にしても、自社の生産や企業活動を安定的に継続できるように取り計らう防衛的なデカップリングについては、輸入依存度の高さだけを問題とするのではなく、供給の途絶リスクの蓋然性に加えて、どの程度の期間で代替が可能となるか、などを分析することが必要であり、こういった対応は、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済みである。」という主張に強く同意します。本書の主張する「ガーゼのカーテン」というのは十分理解できた自信はありませんが、理解できたとしても同意することはないものと思います。第5章のデジタル人民元に対応する金融面の経済安全保障については、かなり先のお話として可能性があるとはいえ、米国のドル基軸通貨体制、また、これを基盤とするSWIFTなどのシステムについては、目先の近い将来ではゆるぎないものと私自身は楽観しています。本書でも中国の貿易決済は輸出入とも米ドルの占める比率が90%超である、と指摘していところです。たぶん、日本は輸出で50%、輸入でも70%くらいだろうと私は考えていますから、中国は日本以上にドルに依存しているわけです。最後に、本書は学術書に近いので広く一般読者に対してオススメできるわけではありませんが、海外との貿易などに従事しているビジネスパーソンであれば、十分読みこなせるでしょうし、それなりにオススメできます。

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次に、ミレヤ・ソリース『ネットワークパワー日本の台頭』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、米国ブルッキングス研究所の研究者であり、東アジア政策研究センター所長を務めています。本書の英語の原題は Japan's Quiet Leadership であり、2023年の出版です。ということで、大胆不敵にも日本をそれなりに評価し、英語の原タイトルは、いかにも日本が世界で知らないうちにリーダーシップを取っている実態を表しているようでもあり、ネトウヨなどによるやや的外れな「日本スゴイ論」を別にすれば、めずらしく日本を持ち上げている本です。5部構成となっており、グローバル化、経済、政治、地経学、地政学の5つの観点から日本を論じています。まず、グローバル化では、さすがに、日本の立遅れを指摘しています。ただ、日本が遅れているのは本書の視点からは主として移民の受入れですので、私はこの点は立ち遅れていても何ら不都合ない、というか、十分にOKだと受け止めています。移民受入れで測ったグローバル化で、日本が世界に先頭に立つ必要はまったくありません。第2部の経済は私の専門分野ですので、意図的に後でレビューすることにして、第3部の政治について、著者が日本を評価しているのは、ポピュリズムに流されないレジリエンスがある、という点です。ここは、私はビミョーだと受け止めています。すなわち、確かに日本では大陸欧州のいくつかの国のように、明確なポピュリスト政党が議会で議席を伸ばしたり、あるいは政権についたりすることにはなっていません。ただ、他方で、米国でもご同様にポピュリスト政党の伸長は見られないのですが、共和党という伝統的でGOPとも呼ばれる政党がトランプ前大統領というポピュリストに、いわば「乗っ取られた」形になっているのも事実です。安倍内閣が前の米国トランプ政権同じようにポピュリスト政権であったとは考えませんが、いくぶんなりともそういった色彩がある気がします。そして、それ以上に、私は議会にポピュリスト的な議員が議席を得ることは、それほど悪いことではないと考えています。少なくとも、ごく短期で民主党政権による政権交代があったとはいえ、自公連立政権がここまで長々と安定した政権維持をしているのが、その裏側でポピュリスト政党の進出を抑えている、とまで評価するのは過大な評価だと思います。第3部の政治から第2部の経済に戻って、本書ではアベノミクスを真っ当に評価していると私は受け止めています。今週国会が解散されてから、というか、その前からアベノミクスについてはさまざまな評価がなされています。いくつかのアイテムについて、何で見たのかは忘れましたが、いわゆるアベガーのように全否定で評価する向きもあります。例えば、アベノミクスの5つのアイテムのうちの4つ、すなわち、物価についてはリフレ政策、金融については緩和政策、為替については円安志向、消費税増税については慎重姿勢、といった経済政策運営については、本書と同じで、私は正しかったと考えています。5つのアイテムのうち残る1つの間違いはトリクルダウンです。ただ、成功の中でも、ひとつだけ留保するのは金融緩和であって、生産をはじめとする企業活動にはプラスであったことは確かなのですが、地価やひいては住宅価格の大きな上昇をまねいて、マイホームを念願する国民生活を圧迫しかねない点は考慮すべきであった可能性は残ります。大いにそう考えます。繰り返しになりますが、アベノミクスで大きな誤りであったのは、トリクルダウンの考えに基づいて、株価をはじめとする企業への過剰な対応をしてしまったことです。これまた繰り返しになりますが、トリクルダウンについてはまったく破綻しています。企業優遇以上に大きなアベノミクスの弱点であったのは分配の軽視です。ですから、経済的な格差が大きく拡大してしまいました。米国なんかでは富裕層がさらに所得を増加させることによる格差拡大でしたから、平均所得は上向きましたが、日本では非正規雇用の拡大などによる低所得層の所得が伸び悩むという形での格差拡大でしたので、平均所得は伸び悩んだり、減少すらしたりしました。菅内閣の後を継いだ岸田内閣では分配重視を打ち出したのですが、金融所得倍増なんぞに大きくスライスしてしまって、OBゾーンに落ちただけに終わりました。総合的に考えて、アベノミクスを評価する点で、本書は正しくも世界標準の経済学を理解していると私は受け止めています。最後の4部と5部はごく簡単に、第4部の地経学による分析では、特にアジア地域におけるインフラ重視の経済援助やTPP11やRCEPといっ地域貿易協定から日本のエコノミック・ステートクラフトを評価し、第5部の地政学的観点からは、国連決議に基づく平和維持活動への参加、日米豪印戦略対話(クアッド)や自由で開かれたインド太平洋(FOIP)などでの我が国のイニシアティブを評価しています。大学の図書館で借りて読んだのですが、研究と教育のために手元に置いておきたいので生協で買い求めました。

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次に、エミール・シンプソン『21世紀の戦争と政治』(みすず書房)を読みました。著者は、英国出身で現在は米国ハーバード大学の研究者ですが、本書が出版された2012年の時点では、英国の防衛奨学基金を得て英国陸軍に従軍してアフガニスタンで作戦行動中だったのではないか、と想像しています。ただ、軍事活動ですので、そこまで明記はしていません。本書の英語の原題は War from the Ground Up であり、繰り返しになりますが、2012年の出版です。ということで、戦争について深く考察したクラウゼヴィッツ『戦争論』を基にしつつ、いくつかの点で現代的な修正、というか、追加を加えています。なお、本書に序を寄せている軍事史の大家マイケル・ハワード卿は「クラウゼヴィッツ『戦争論』の終結部と呼ぶに相応しい」と激賞しています。なお、軍事行動としては、著者本人の実体験はアフガニスタンの英米軍の作戦行動から取っているようです。私は軍事作戦や軍事行動についてはまったくのシロートながら、一応、政治や戦略との観点から、クラウゼヴィッツ『戦争論』、リデル-ハート『戦略論』、マハン『海上権力史論』などの有名な戦略論はいくつか読んでいます。ですので、戦争とは別の手段を持ってする政治や外交の延長で考えるべき、というクラウゼヴィッツの『戦争論』に対しても限定的ながら一定の理解はもっています。そして、ナポレオン戦争を題材とするクラウゼヴィッツの『戦争論』に対して、本書が何を現代視点から修正・追加しているかというと、2点理解しました。第1に、戦争をナラティヴによる構成物と捉え、母国ないし作戦遂行地域の国民・住民からの支持を取り付けるか、あるいは、管制化に置くか、といった、軍人だけではない多くに人々を巻き込む総力戦について考えている点です。専制国家であれば、そういった観点は大きな要素とはならない可能性がありますが、民主主義体制の下における軍事行動・作戦行動は、本書では「コンテスト」という用語を用いて幅広いサポートが必要である点を強調しています。第2に、第2次世界大戦くらいまでの、古典的というか、近代的な戦争は相対立する国家間で宣戦布告をもって開始され、どちらか一方が降伏する形で集結します。しかし、現代の対テロ武力行使などはこういった類型には当てはまらず、非対称な形を取ります。宣戦布告はありませんし、2国、あるいは2極に集結した形の武力衝突ではなく、3者の間で戦闘が繰り広げられる場合もあります。まったく専門外の私でも、その萌芽的な3国による戦闘については、すでに第2次世界大戦からあったことは聞き及んでいます。それはフィンランドの立場です。領土拡張的な姿勢を示すソ連から攻められ、「敵の敵は味方」という論法にしたがって、ドイツからの支援を受けていましたが、決してファシズムやナチズムを支持しての観点からの戦争ではありません。現在では、特に本書ではアフガニスタンの民兵組織の例を引いて、敵と味方という2極に分類することができず、フランチャイズ的に戦闘に参加するグループがある点を明らかにしています。加えて、その昔の中国の旧満州にあった地方軍閥の中には、その地域に侵攻する勢力に対しては日本軍であれ、国民党軍であれ、共産党軍であれ、ともかく、すべての侵略者に対して敵対した地方軍閥もあった、と考えられます。まあ、私なんぞよりももっと専門知識のある人が読めば、さらに多くのポイントが含まれていえる可能性は否定しません。でも、私はクラウゼヴィッツの逆を考えて、本書の戦略論は戦争だけではなく、政治、特に国内政治にも十分当てはなるのではないか、と考えています。本書p.169では、「戦略とは本質的に、要望(desire)と実現可能なこと(possibility)のあいだで交わされる弁証法的関係」と指摘しています。はい。その通りだと思います。ですから、クラウゼヴィッツのように戦争とは政策に従属する一方的なものではなく、双方向なものである可能性も排除できない、という本書の主張はそのまま受け入れることが出来ます。

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次に、榎本博明『「指示通り」ができない人たち』(日経プレミアシリーズ)を読みました。著者は、MP人間科学研究所代表ということなのですが、私は人事コンサルタントではないか、と受け止めています。本書では、管理職の目線で部下の教育について考えています。その主要な観点は章構成通りに3つあって、認知能力、メタ認知能力、非認知能力、ということになります。ざっくりいって、認知能力とは学生でいえば学力のことです。社会人でいえば、認知を外した能力そのものと考えても大きく違いません。そして、メタ認知能力とは、その認知能力をどのようにしたら伸ばすことができるかを把握する能力です。最後に、非認知能力とは、認知能力、仕事の遂行能力以外の分野であり、社交性とか、落ち着いた温厚な態度とか、ていねいなしゃべり方とか、継続してやり抜く忍耐、とかとなります。私自身はキャリアの国家公務員から大学教員ですから、それなりに認知能力の高い同僚や部下に囲まれたお仕事となります。広く知られている通り、公務員試験というものがあり認知能力評価の観点も含んでいて、たぶん、あまりに低い認知能力、本書で例示されているような極度の認知能力不足の同僚や部下はいなかったのではないか、と思います。大学教授が頭いいというのは、まあ、当然かもしれません。したがって、本書の第1章で例示されているような、日本語を理解する、あるいは、国語的な読解力の不足、記憶力の欠如というのは、ホントに日本企業にいっぱいあるのだろうか、と疑問に感じています。確かに、分数の計算ができない大学生、%が判らない大学生というのはあり得ますが、それほど日本人の基礎学力は低くないと思います。ただ、確かに、メタ認知能力、すなわち、どうすれば認知能力を伸ばすことが出来るかを知っている人は少しくらいであればいるような気がします。そして、本書でも指摘しているように、能力の低い人ほど自分の能力を過大評価しがちであるというのは、いくつかの実証例もありますし、その通りだと思いますが、業務に支障が出るくらいに自分の能力について誤解している人はそれほど多くはないのではないか、と私は考えています。したがって、本書ほど極端に認知能力・メタ認知能力が低い同僚や部下というのは、ちょっと想像できません。非認知能力についてもご同様であり、草食系的な向上心のない部下はそれなりにいますし、若い世代の昇進意欲が年々低下しているのも、いくつかのアンケートなどから明らかになっています。私自身もそうだったかもしれません。ただ、そういった向上心の不足というのは、ご本人の問題もさることながら、日本経済社会全体として停滞に極みにある、という事実も併せて考える必要がありそうな気がします。他方で、本書が指摘するように、「甘え」が受け入れられないからすねたりする人がどれくらいいるのかは私は疑問です。ということで、私は本書で取り上げられている例はかなり極端であると私は受け止めています。おそらく、通常のオフィスや工場などでは見られないような極端な例が人事コンサルに持ち込まれ、その上で、人事コンサルに持ち込まれた極端な例の中からさらに極端な例を本書に収録している可能性があります。他方で、ここまで本書がベストセラーになって売れて注目されるのはやや謎です。私自身は、日本人はそれなりに勤勉であって、時間厳守や手先の器用さなどから、決して潜在的な生産性は低くない、と考えています。また、社会に出る前の段階でも、経済開発協力機構(OECD)の実施している「生徒の学習到達度調査 (PISA)」の結果などからして、初等中等教育段階での日本人の優秀性というのは実証されていると受け止めています。でも、本書で取り上げている例が事実としていっぱいあるのであれば、考えを改めないといけないかもしれません。

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次に、楊海英『中国を見破る』(PHP新書)を読みました。著者は、静岡大学の研究者なのですが、生まれは南モンゴルのオルドス高原であり、モンゴル名はオーノス・チョクト、日本名は大野旭というそうです。したがって、いわゆる漢民族ではなくモンゴル人ということで、中国に関して少し独特の見方を示しています。タイトル通りなわけです。最初と最後を別にして、本書は3部構成であり、いずれも中国の本質を見破る視点を提供しています。すなわち、第Ⅰ部が歴史を「書き換える」習近平政権、第Ⅱ部が「他民族弾圧」の歴史と現在、第Ⅲ部が「対外拡張」の歴史と現在、ということになります。まず、第Ⅰ部の歴史改変については、どこの国のどの政権でもやっているように思いますが、視点として興味深いのは「中国4000年の歴史」がいつの間にか「5000年」に書き換えられている、という指摘です。そうかもしれません。さらに、漢民族が成立したのは20世紀の清朝廃止後であると主張し、しかも、易姓革命を繰り返してきた中国の歴史はどうしようもなく、王朝を捏造するわけにもいかず、民族としての漢民族が継続されてきたのだ、という「民族の万世一系」の神話を作り出した、と主張しています。私には真偽のほどは確認できません。第Ⅱ部の他民族支配については、本書で指摘するように、もっとも重要なポイントは現時点での少数民族弾圧ではないでしょうか。著者はモンゴル系ですし、それなりの実体験も示されています。国際的にも、モンゴルの他に、ウイグル、チベット、南方のエスニック・グループ、台湾の高山族、などなど、本書以外でもアチコチで言及されている通りです。第Ⅲ部の対外拡張については、清朝が極めて例外的に日本に学ぼうと留学生を送り出したほかは、いわゆる朝貢制度を経済的あるいは貿易のシステムではなく政治的なものと解釈して、古い歴史を引っ張り出して領土拡張の根拠にしていると本書では主張しています。これもどこの国でもやっているように私は見ていますが、現実的に考えれば、日本とは尖閣諸島で領有権争いをしていますし、フィリピンやベトナムとも南シナ海で領土紛争があるわけで、決して現時点での軍事や外交とも無関係ではありえません。ただ、武力的な領土拡張だけではなく、経済的な借款をテコにした領土的野心も忘れるべきではありません。本書で抜けている視点として、スリランカのハンバントタ港がまるで「債務の罠」のように、中国に対して運営権を譲渡した事実などがあり、注目すべきではないか、と私は考えています。嫌中派には溜飲の下がる読書かもしれませんが、少し眉に唾して読んだ方がよさそうに私には見受けられました。

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次に、浅田次郎『母の待つ里』(新潮文庫)を読みました。著者は、日本でも有数の売れている小説家ではないかと思います。この作品を原作として、今夏、NHKでドラマ化がなされています。「母の待つ里」に行くのは3人いて、まず第1に、名の知れた大企業の社長で、独身のままで結婚もしていない松永徹、第2に、定年と同時に妻から離婚されながらも、のんきな生活を送っている室田精一、第3に、親を看取ったばかりのベテラン女医で、病院勤務に区切りをつけることを決意した古賀夏生、となります。どうでもいいことながら、私はドラマの方はまったく見ていないのですが、NHKのサイトによればドラマでは、松永徹を中井貴一が、室田精一を佐々木蔵之介が、そして、古賀夏生を松嶋菜々子が、それぞれ演じています。繰り返しになりますが、私はドラマの方は見ていませんので、ソチラは何ともいえませんが、原作となった小説の方は極めて不思議な印象でした。冒頭の松永徹のところで作者は早々にネタバレを明らかにしていますが、このレビューはいっさいネタバレなしで進めます。まず、東京の人にとってのふる里、というか、母の待つ里というのはこういったイメージなのだということが、関西人の私には十分理解できたとは思えません。すなわち、東京の人、しかも、この作品では社会的に成功しているか、少なくとも劣悪な状態ではない生活を東京で送っている人が考えるふる里、母の待つ里とは、雪深い東北の寒村にあって、今でも関西人には理解しにくい方言を使っている人が少なくないところ、ということなのだろうと思います。私は大学を卒業した後に東京で国家公務員の職を得て、出身地の関西、京都の片田舎に両親を残してふる里を離れ、定年退官した後になって再就職でふる里に舞い戻る、という半生でした。父親は東京で働いている間に亡くなり、母親は関西に戻ってから亡くなりました。それほど方言がきつくなく、雪も少なく、愛嬌のある関西弁をしゃべる人の多い土地柄です。ただ、他方で、子ども2人は、親と同じ意味で、置き去りにしました。すなわち、東京の大学を出た方は東京で就職していましたし、大阪の大学を出た方も大阪に住んで仕事をしています。東京に残した子は、社長になるかどうかは別にして、この小説に登場するような、ふる里観やイメージを持つのかもしれません。でも、ふる里は雪深い東北にあるのではなくて、関西であって欲しいとうのは私の勝手な願いです。大阪の子は、まあ、私の住まいと十分日帰り圏内ですので、年1-2回くらいは顔を合わせます。親を置き去りにしてふる里を離れて就職し、子どもを置き去りにして定年後にふる里に帰ってしまう、というわがままな私からして、とても不思議で少し理解が及ばない小説でした。時に、私は男親なもので、ふる里といえば母親かもしれませんが、「父の待つ里」はないんでしょうかね?

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次に、高野結史『奇岩館の殺人』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。第19回「このミステリーがすごい!」大賞・隠し玉として『臨床法医学者・真壁天 秘密基地の首吊り死体』で2021年にデビューしています。ということで、典型的なクローズド・サークルにおける連続殺人ミステリです。ミステリの舞台はカリブ海の孤島に建っている奇岩館です。タイトル通りなわけです。少し奇妙な形をしていて、カリブ海にあるにしては日本で考えるような洋館建てです。本書p.129に見取り図があります。ここに、主人公の1人である「佐藤」がアルバイトに応募して連れてこられます。単に、外国の豪邸で3日間過ごせば100万円というアルバイトなので、日雇い仕事をしているのに比べて条件が格段にいいのですが、なぜか、ミステリの素養を問う条件があったりします。本名は不明ながら、「佐藤」と名乗って、出しゃばったことはしない、という点も言い含められます。怪しげなアルバイトながら、行方不明になった徳永を探すという目的もあって応募します。そして、殺人事件が起こるわけです。出版社のサイトにあるのでネタバレではないと思うのですが、そのまま引用すると、「それは『探偵』役のために催された、実際に殺人が行われる推理ゲーム、『リアル・マーダー・ミステリー』だった。佐藤は自分が殺される前に『探偵』の正体を突き止め、ゲームを終わらせようと奔走するが……。」ということになります。ですから、最初っからミステリがメタ構造になっているわけです。しかも、この「リアル・マーダー・ミステリ」には組織した会社サイドの演者/役者が入っていて、その主たる現場の演者がもう1人の主人公のような役割を果たして、「佐藤」とともに交互の視点でストーリーが進められます。有名な、というか、国内で有名な古典的ミステリに見立てての殺人、それにクローズド・サークルでの密室などの条件が加わり、なかなか大がかりなミステリに仕上がっています。でも、殺人事件の謎、また、会社が組織したリアル・マーダーの謎ともに、それほど複雑で凝ったものではありません。すなわち、読み進むうちに少しずつ真実が明らかになっていくタイプのミステリであり、その意味で、私の好きなタイプのミステリです。ですので、途中まで読んで、どのように終わらせるのかも段々と理解が進みますし、最後の最後のオチについても、まあ、そうなんだろうな、という納得感があります。主人公の「佐藤」は、決して、極めて反社会的な殺人ゲームを組織する悪辣非道な会社に挑む正義のスーパーマンではありませんし、殺人ゲームを組織した会社サイドからの視点を提供する人物も、繰り返しになりますが、決して悪辣非道な人非人ではなく、勝手気ままな上司やまったく協力的ではない協力者に苦しめられるサラリーマンだったりもします。ゲームとして殺人が行われるという非人道性は十分大きいとしても、また、ラストも「佐藤」が会社の手に落ちるものの、決してバッドエンドではありません。まあ、要するにエンタメ小説なわけです。その意味で、悪辣非道なゲームを描き出しているにしては、まあ、少しくらいは親しみを持った読書ができるかもしれません。最後に、私の読解力不足かもしれませんが、表紙画像がどの場面に対応しているのか、私には理解できません。

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