今週の読書は産業革命を取り上げた経済書をはじめ計7冊
今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、ロバート C. アレン『産業革命』(白水社)は、イングランドにおける産業革命の開始を分析し、その波及についても歴史的な見方を示しています。西川貴清『現場から社会を動かす政策入門』(英治出版)は、役所や官僚に政策提案をし要求を実現する方法などについて紹介しています。早見和真『アルプス席の母』(小学館)は、まったく今までになかった母親視点の新しい高校野球小説です。髙田一宏『新自由主義と教育改革』(岩波新書)は、大阪を例にとって新自由主義的な教育政策を批判しています。鈴木大裕『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)は、教育のサービス産業化に強い懸念を表明しています。鳥谷敬『ミスをしない選手』(PHP新書)は、ミスに対する準備、分析、練習の重要性を強調しています。標野凪ほか『眠れぬ夜のご褒美』(ポプラ文庫)は、夜食にまつわる短編を収録しているアンソロジーです。
なお、今年の新刊書読書は1~10月に265冊を読んでレビューし、11月に入って先週までに14冊、今日に7冊をポストし、合わせて286冊となります。たぶん、年間300冊に達するペースかと思います。今後、Facebookやmixiでシェアする予定です。また、事情あって、宮部みゆき『火車』(新潮文庫)を読んだのですが、もう30年も前の本ですので本日の読書感想文では取り上げず、すでにFacebookでシェアしています。
まず、ロバート C. アレン『産業革命』(白水社)を読みました。著者は、長らく英国オックスフォード大学の経済史担当教授を務めています。産業革命研究などで世界でもトップクラスの経済史研究者として知られています。本書は、オックスフォード大学出版会によるVery Short Introduction=VSIシリーズとして執筆されており、英語の原題は The Industrial Revolution であり、2017年の出版です。近年になって、「産業革命はなかった」とする極端に歴史修正主義的な見解に対して、産業革命研究の第1人者が反論を試みています。何度か繰り返して私も主張してきましたが、20世紀終了時点、あるいは、見方によっては現時点での世界経済の覇権を北米ないし西欧という意味での西洋が握っている大きな理由のひとつは産業革命の成功にあります。そして、17世紀が終了した1800年の時点では、世界経済で優勢であった中国ではなく西欧、特に、決して先進地域とは見なされていなかったイングランドで産業革命が始まった点の解明、さらに、産業革命による経済活動や国民生活の変化なども後付けています。というのも、産業革命とは華やかに生産や経済活動が飛躍したという側面だけではなく、労働者の労働環境や生活条件を劣悪なものにした、という側面もあるからです。もちろん、各産業における技術の観点からの解明も抜かりありません。ただ、私はこの方面は詳しくないので、生産や生活面に着目したいと思います。まず、現時点までの産業革命研究としては、売国の経済史学者であり、ノーベル経済学賞も受賞したノース教授らの制度学派が中心的なポジションを占めています。そして、この延長線上に今年2024年ノーベル経済学賞を受賞したアセモグル教授らの制度学派が位置づけられます。アセモグル教授らの研究は産業革命に焦点を当てているわけではありませんが、通常、制度学派の見方からすればイングランドにおける所有権の確立を重視します。まあ、要するに、経済学の祖と見なされるアダム・スミスと同じで、所有権が確立されて技術への投資が利益をもたらし、それを資本家や投資家が所有権に基づいて得ることが出来る点を利己的に実行すれば市場の見えざる手で個人レベルの最適化により社会レベルの最適化も進む、という見方です。しかし、本書ではもっと複合的な見方を提供しています。すなわち宗教や倫理観の果たす役割がどこまで重要だったのか、鉄や石炭といった天然資源の賦存状況は重要だったのか、また、黒死病パンデミックによる人口停滞が高賃金をもたらしたのか、などなど、1500年までさかのぼってグローバル経済におけるイングランドの成功を産業革命前の農業革命、石炭革命、高賃金経済、識字率拡大といったいくつかのキーワードで解き明かそうと試みています。そして、一部は繰り返しになりますが、産業革命が労働者や生活者一般にもたらしたもの、マルサスが不賛成に終止した社会改革的な観点、そして、もちろん、イングランドから英国全土に産業革命が広がり、さらに、他の西欧諸国、北米、そして極東の日本まで産業革命が始まった歴史を振り返っています。もちろん、こういった視点は世界史の中の産業革命というグローバルヒストリーにつながるものであり、いまだに産業革命を終了したかどうか疑わしい発展途上国の経済開発に対する工業化のためのビッグプッシュの必要性に関する議論にもつながります。シリーズ名に現れているように大きなボリュームではありませんし、産業革命とは現在時点での世界経済につながる原点のひとつに位置づけられますので、多くの人が手に取って読むことをオススメします。
まず、西川貴清『現場から社会を動かす政策入門』(英治出版)を読みました。著者は、私のような定年まで国家公務員を務めたものからすれば少し不思議な経歴なのですが、全国紙記者の後、厚生労働省にお務めになり、政策コンサルティング会社千正組取締役に就任しています。公務員の経験からなのでしょうが、医療・介護・福祉・労働分野を中心にした政策コンサルティングを行っている、ということです。政策策定には、極めて大雑把に、ボトムアップとトップダウンの両方向があり、本書では中心はボトムアップによる現場からの制作策定を中心に据えている印象ですが、もちろん、トップダウンの政策についても十分視野に入れられています。ということで、まず、国民の声が政策決定の場である政府や国会に届いているかどうかについて考えています。現実には、官僚=公務員が政策立案を行うことが多いでしょうから、p038では、官僚による政策案の作成、審議会などの政府会議での議論、そして、ここが少し飛ぶような気がするのですが、与党部会での議論=事前審査制、国会での議論・採血・成立、そして、政策の実行、としています。ただ、先日の総選挙後には与党の多数が失われましたので、雇うんの意見の集約も必要になっている点は本書の観点からは抜けています。まあ、仕方ありませんが、与党が多数でも野党の意見を取り入れるかどうかは視野に入れておいて欲しかった気がします。そして、政策と市場財との比較をし、政策には代替性がない点を強調しています。すなわち、例えば、自動車であれば、トヨタでもホンダでもいいとする消費者がいそうな一方で、政策には政策以外の別の手段が乏しいという意味です。そして、政策の種類として7つのツールをp.56で列挙しています。法案などによる規制、予算、税制、などなどです。以下、詳細は読んでいただくしかありませんが、定年まで国家公務員をしていた私の方で付け加えたいポイントは、第1に、公務員=官僚のお仕事は政策ニーズを把握したうえで、あくまで選択肢の準備であって、決定は閣議であれ、国会であれ、政治のレベルで決める、という点です。もちろん、より細かな施行上の点を政治レベルを含まない公務員レベルだけで決めることもありえますが、基本は、ボトムアップであるとすれば、国民や中間団体から制作ニーズを把握し、選択肢を準備するのが公務員の役割で、最後にその選択肢から決定するのは政治レベルの役割です。ただ、日本の決定システムはややこんがらがって、三すくみにある場合があります。すなわち、政官業の三すくみです。政治レベルは投票権を持つ広く国民や業界やの意見を聞く必要がある一方で、政府には指揮命令権、あるいは、官僚に対する人事権を持っています。でも、国民一般や業界は規制や補助金をはじめとする支援策により政府の顔色をうかがう必要がある一方で、政治家には投票権を持って意向を汲んでもらうことが可能です。政府やその構成員である官僚はその逆であり、政治家の指揮命令に従う一方で、規制や支援策により国民一般や業界に対する一定のコントロールが可能となる場合があります。また、第2に、政策実現のためには、EBPMとして、何らかの定量的なエビデンスを示す必要性があるケースの忘れるべきではありません。いずれにせよ、本書では、国民や中間団体からの政策要望を官僚を通じて、あるいは、政治家も巻き込みつつ実現するために、とても効率的で実践的なやり方を例示しています。
次に、早見和真『アルプス席の母』(小学館)を読みました。著者は、小説家であり、私は不勉強にして、たぶん、この作者の作品は『店長がバカすぎて』と『笑うマトリョーシカ』しか読んだことがありません。15年前の作者のデビュー作は『ひゃくはち』といって、補欠球児の青春を描いた作品だったそうですが、私は未読です。本書は、出版社の宣伝文句通りに、まったく新しい高校野球小説です。高校に限らず、野球小説やマンガはいくつか読んでいますが、これはホントに新しい小説です。出版社も力を入れているのか、特集サイトが開設されていたりします。ということで、主人公は高校球児の母親、秋山菜々子であり、配偶者と死別した後、神奈川で看護師をしながら湘南のシニアリーグで活躍する航太郎を育てていました。秋山航太郎には関東一円からスカウトが来ていましたが、秋山航太郎が希望したのは大阪の甲子園出場の常連校でした。でも、その大阪の名門校からはお呼びがかからず、結局、選んだのは同じ大阪の羽曳野にある新興高校でした。秋山航太郎は当然のように野球部の寮に入りますが、母親の秋山菜々子も学校近くに引越して来ます。新しい職場であるクリニックではいい条件に恵まれるものの、知らない土地での新しい生活には不慣れな部分も少なくありませんし、特に、高校の父母会での厳しいルール、あるいは、暗黙のうちに従わねばならない掟のようなものもストレスを高めます。また、明らかに不当不法な慣行もあります。秋山菜々子は父母会の会計係としてそういったものに接するようになります。倅の秋山航太郎は順調に育ちますし、父母会の中にもいい仲間が出来ますが、まあ、有り体にいって、母親の方にも、倅の方にも障害はいっぱいあります。詳細は、もちろん、結末も読んでいただくしかありませんが、倅の秋山航太郎の高校入学直前から、高校卒業後まで、数年間をスパンに収め、私なんぞの知らない世界を垣間見せてくれます。私は小説を読んだり、映画を見たりして泣くことはまったくありませんが、それでも、本書を読んで号泣する人がいそうな気がします。華やかで爽やかな高校野球の裏側で、高校球児ご本人たち以外にも父母や関係者がどういった役割を果たして、どういった理不尽な慣行があるのか、もちろん、フィクションの小説ですので、すべてをリアルであると捉えるのは間違っていると判っていつつも、主人公やその倅の高校球児に大いに感情移入してしまいます。とってもオススメで、多くの読者に読んでいただきたい感動の小説です。ただ、私は男ですので、主人公が死別し、高校球児の父親の存在が何度も出てきますが、もう少し死別した亭主について、高校球児との関係について詳しく知りたい気がしました。その点だけは少し残念に思いますが、そんな微細な欠点は微塵も感じさせないいい小説医でした。
次に、髙田一宏『新自由主義と教育改革』(岩波新書)を読みました。著者は、大阪大学教授であり、ご専門は教育社会学などだそうです。本書は、大阪維新の会による大阪府政や大阪市政の下で、新自由主義的な教育改革がもっとも大規模かつ組織的に実施されてきた大阪に着目して、新自由主義的な教育改革の問題点を明らかにしようと試みています。新自由主義は、ごく簡単にいえば、福祉国家の非効率を批判し、自由放任の下での市場を重視して、政府による再分配を軽視する傾向があると本書では指摘しています。は、その通りです。その新自由主義が教育改革に適用されるとどうなるかといえば、英米の例を引いて、学力テストによる目標管理、保護者による学校選択の自由や学校経営の自律性拡大による競争拡大、成果に基づく信賞必罰主義、などの特徴が上げられます。大阪における教育改革も基本的に似通っており、本書では教師責任論と競争礼賛を改革を支える思想として指摘しています。そして、大阪の教育改革を3期に分けて、2008年の橋下知事就任からの第1期で大阪府学力テストの実施や大阪の教育力向上プランなどで世論を喚起し、2011年の府知事と市長のダブル選挙以降の第2期で基盤固めを行い、2014年の2度目のダブル選挙以降の第3期で小中学校の学校選択制が始まり、中学生チャレンジテスト小学生すくすくウォッチといったテストの実施、加えて、公立高校の再編整備が進められた、とあとづけています。結局のところ、教育における公正を重視する姿勢から卓越性に重きを置く方向が志向され、格差拡大や地域分断が進んでしまった、と結論しています。判りやすいのは格差拡大ですが、地域分断については地域独特の部落差別などがあり、そういった差別感情などに基づき、低学力地域の学校からの退避が生じていて、大阪におけるインクルーシブな教育が放棄されつつある現場を指摘しています。すなわち、学校選択制と学力テストにより、特定の地域に対する予断や差別が学力テストの結果と短絡的に結びつけられ、地域的な分断が生じている実態が明らかにされています。同時に、高校は義務教育ではないことから、高校再編の中で定員割れ学校などがセーフティネットに対応した高校として、中学レベルの学び直しを重視するエンパワーメントスクールや多様な教育実践を行うとされたステップスクールと位置づけられたりしています。人口減少や少子化の中で、これらの高校は将来的に募集停止となる可能性が十分あります。そうなると、セーフティネットの高校も消滅しかねません。ただし、保護者の学校選択制に対する支持は揺るぎない、のも事実です。私立高校授業料無償化は、私立高校と公立高校の競争を激化させる可能性があります。いずれにせよ、大阪の学力は十分な成果を出せているとはいえないという結果が示され、権利の主体としての子どもが教育サービスの受け手や買い手として捉えられ、逆に、教師が教育サービスの提供者として市場における取引のように教育が考えられる点について疑問を、大きな疑問を呈しています。
次に、鈴木大裕『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)を読みました。著者は、教育研究者であり、千葉市内の公立中学校での英語教員の経験もあります。本書冒頭で新自由主義とは、かつては国民の当然の権利であったものが商品として価格をつけて売られる方向を目指すものとの考えが示されています。その上で、教育とは生徒(+保護者)がお客様であって、教師がお客様を教育するというサービス産業となる可能性を示唆しています。タウプマンのTeaching by Numbers などを紹介して、マニュアルに沿った教育がいいのかどうかを本書では問うています。はい、私はマクドナルドのようなマニュアル通りの顧客サービスが教育の本質とは考えません。というのは、教育の主体は教師ではなく、特に基礎教育過程では子どもに置かれるべきだと考えるからです。教育を受けることは子どもの権利であり、教師が主体となるかどうかはケース・バイ・ケースながら、権利主体はあくまで子どもであると考えるべきです。その教育現場について、本書では政府が進めようとしている学校における働き方改革は教職員の勤務時間削減という「減らす」というベクトルが強すぎて、政府が投資をして「増やす」というベクトルとのバランスがあまりに悪い、と指摘しています。はい、私もその通りと受け止めていて、藤森毅『教師増員論』などの主張に強く共鳴しています。特に、本書ではコロナ禍を経て、学校教育がサービス産業化し、非正規の教員が増加して「使い捨て労働者」のような雇用が広がっている、と警告しています。同時に、教育される子どもの権利主体としての認識を否定しかねないような「お国のための教育」が幅を利かせるようになり、2006年の教育基本法改正に際しては、新自由主義時代の富国強兵を目指して、道徳心、愛国心、郷土愛などを強調するようになり、いじめの防止を目的とした道徳の教科化が、愛国教育のツールにされてしまったと批判しています。加えて、2007年に復活した全国学力テストは、大阪だけではなく、学力向上という大義名分をまとって、教育への政治介入を正当化するリスクがあると懸念を示しています。校則などが「べからず集」として、禁止事項でいっぱいになっていて、生徒のみならず学校や教師まで信用しない姿勢が明らかであり、人を育てる場としての学校にふさわしいかどうかという疑問を呈しています。そして、最後に、教育の場における「遊び」の必要性、あるいは、自由の前提としてパブリックな(あるいは、コモンの)スペースの必要性を強調しています。私の属する大学教育に関する本ではなく、初等・中等教育を主たる対象にしているように感じましたが、大学教育についても参考になる部分が少なくなかったと思います。
次に、鳥谷敬『ミスをしない選手』(PHP新書)を読みました。著者は、阪神に長らく遊撃手として在籍し、2000本安打も達成した名選手でした。私はこの作者の本については、『キャプテンシー』(角川新書)と『明日、野球やめます』(集英社)を読んだことがあります。現役選手のころは、打撃はもちろんのこと、守備でも名手とされていて、何度もゴールデングラブ賞を受賞しています。ただ、本書に書かれているように、遊撃手で4回、三塁手で1回というゴールデングラブ受賞歴は、とても少ないと感じてしまいました。もっと取っていたような気がしていました。加えて、連続フルイニング出場記録とか、ケガに強い鉄人としても知られていました。私が記憶しているのはジャイアンツ戦でデッドボールにより鼻骨骨折にもかかわらず、翌日の試合にファイスマスクをして代打出場した試合です。ネットで検索すれば容易に調べられると思います。そして、本書では守備機会における「ミス」に焦点を当てるとともに、選手時代のいろんなもいで、というか、大リーグ挑戦の内幕なども取り上げています。まず、野球を知っている人であれば、というか、本書を手に取るような読者はそれなりに野球に関する知識があることと思いますが、打撃では3割を打てば名選手、逆から見て、7割は打てなくてもOKなのですが、守備では97%とかそれ以上のノーミスが求められます。もちろん、著者は遊撃手という内野手ですので、外野手のお話はまったく出てきません。野球の技術的な内容はまったく私は不案内ですので、ミスへの一般的な対策としてp.21で上げている準備、分析、練習について考えたいと思います。最後の「練習」というのは、まあ野球における練習でしょうから、より一般的には「対策」とか、「対応」とかにいいかえてもOKではないかと思います。私はまず準備は入念に必要で、ボーイスカウトのモットーに「備えよ常に」というのがあり、倅が小学校のころからスカウト活動をしていたことから、本番で慌てないためにも準備の重要性を認識させられてきました。その上で、ミスをした後の分析というのは少し驚きました。というのは、私はまず「認識」が必要かという気がします。すなわち、大昔からミスは笑ってごまかすもの、という見方があります。どうしてミスをしたのかを分析するというのはさすがにプロだと感じてしまいました。私のような凡人では、まず、ミスではないことにする。そして、小学生なんかがよく「わざとじゃない」といい張るのですが、故意ではないことを強調する。まあ、ミスなんですから当然に故意ではありません。そして、大人になってからは同じポイントで、故意ではなく、ケアレスミスであると強調するケースが少なくありません。私にはあまり理解が進まないのですが、通常のミスよりもケアレスミスであれば批判を免れる、との考えが少なくないように思います。ケアレスミスであれば分析なんかはまったくせずに、次は気をつければいい、という結論にしかなりません。その点はさすがにプロは違う、と感じ入ってしまいました。大学の試験やリポートでは、ケアレスミスであっても採点結果は同じです。大学生が定期試験やリポートに臨む際もプロイ野球選手に近い姿勢を要求されるのかもしれません。それはそれで、少し酷な気もします。
次に、標野凪ほか『眠れぬ夜のご褒美』(ポプラ文庫)を読みました。著者は、もちろん、小説家なのですが、私は不勉強にして初読の作家さんが多かった印象です。ある程度読んだといえそうなのはラストの近藤史恵女史くらいです。表紙画像に見える6人の作家によるアンソロジーです。そして、テーマは夜食です。中には、夜食にしてはヘビーな食べ物も登場します。収録順にあらすじを紹介します。まず、標野凪「バター多めチーズ入りふわふわスクランブルエッグ」は、当然ながらスクランブルエッグを中心に据えています。主人公は若い女性の陽茉莉で、小学校の同窓生だった憲吾とは大学で再会するもすぐ疎遠になったものの、社会人になって偶然連絡を取り合い、恋人となっています。憲吾は吉祥寺のパン・ケーキ店の製造スタッフをしていて、その店のオーナーの総子さんのスクランブルエッグを絶賛します。冬森灯「ひめくり小鍋」では、これも若い女性の主人公のすず音は全国コンビニの1/3を占める大手チェーン店の開発担当をしていて、ヒットしそうなスイーツ開発に挑戦していましたが、何と、宣伝に起用した大物歌手が亡くなって、新開発スイーツは日の目を見ないままお蔵入りになってしまいます。ある夜、終電を乗り逃がしたすず音は、謎めいた女性に誘われてたどり着いたうしみつ屋というお店は、とても変わったところで、入店するのに合言葉が必要でした。そこで出されたのがタイトルにある鍋料理です。友井羊「深夜に二人で背脂ラーメンを」では、男子大学生2人が主人公で、不眠がちの勝を、深夜、同級生の昇一が、何と背脂ラーメンを食べようと誘いに来ます。お目当ての店に向かう途中、サークルの仲間が亡くなった事件の現場を通りかかります。八木沢里志「ペンション・ワケアッテの夜食」では、主人公の明美が傷心旅行で那須高原にある小さなペンションを訪れます、ちょっと変わったオーナー夫婦が経営していて、明美は散歩中にペンションオーナーの亭主の方の小吉と出会って、大きな穴に落ちてしまいます。大沼紀子「夜の言い分。」では、キンキンの水風呂とウワサされる50才手前の女性が主人公です。ファミレスで女子会ならぬ夜食会を定期的に催して参加しています。50才近辺ともなれば、バツがついた人、熟年結婚する人、子どもとの関係に悩む人、ずっとシングルで来た人、などなどいろいろとあります。気のおけない仲間内のおしゃべりの言い分は意外な方向に進みます。近藤史恵「正しくないラーメン」では、食と健康うるさい栄養管理士の母親に厳しく育てられた料理研究家の秀美が主人公です。しかも、亭主の亮太郎は胃が弱くて正しい食べ物が好きだったりします。でも、そして、秀美は母に内緒の食べ物、夫に内緒の食べ物は決して嫌いではないのですが、インスタントの激辛キムチラーメンが食べたいといいだせず、ストレスが溜まっていきます。以上があらすじとなります。私の好き嫌いをいえば、「ペンション・ワケアッテの夜食」のオーナー夫妻のキャラがよく出来ていて、ペンション名の謎もなかなかでした。また、「夜の言い分。」のラストはとても意外です。
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