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2024年11月 9日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、ヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』(みすず書房)は、国家権力よりも強大になったテック企業について分析しています。続いて、デヴィッド・グレーバー & デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(光文社)では、有史以前の人類史に新たな視点を当てています。続いて、金子玲介『死んだ山田と教室』(講談社)は交通事故で死んだ山田が教室に戻ってきておしゃべりするエモい小説です。続いて、市川憂人ほか『東大に名探偵はいない』(角川書店)は、東大卒や在学中の作家によるミステリ短編のアンソロジーです。続いて、大西広『バブルと資本主義が日本をつぶす』(ちくま新書)は、人口減少を食い止めるための平等化を論じています。最後に、スティーヴン・キング『コロラド・キッド』(文春文庫)はホラーの帝王の出版50周年記念企画の第4弾となる中編集です。なかなか、積読になっている新書の読書がはかどりませんが、来週はがんばりたいと思います。
なお、今年の新刊書読書は1~10月に265冊を読んでレビューし、11月に入って先週が8冊、今日が6冊をポストし、合わせて279冊となります。たぶん、年間300冊に達するペースかと思います。なお、今週になって10冊あまりの経済書まどを一気にAmazonのブックレビューにポストしました。ほかにも、本日分をはじめとしてFacebookやmixiでシェアする予定です。

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まず、ヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』(みすず書房)を読みました。著者は、英国オックスフォード大学教授であり、ご専門はデジタル経済などの経済社会学だそうです。本書の英語の原題は Cloud Empire であり、2022年の出版です。ということで、まず、本書の副題は表紙画像にも見られる通り、「プラットフォームが国家を超えるとき」となっています。コチラの方が本書の内容をよく表しているかもしれません。ただ、英語のサブタイトルは How Digital Platforms Are Overtaking the State and How We Can Regain Control ですから、英語の副題の後半は邦訳から落ちています。謎です。本書は3部構成であり、第Ⅰ部が経済的制度、第Ⅱ部は政治的制度、第Ⅲ部は社会的制度を対象にしています。私の専門から、また、本書での重要度の見方からしても、このレビューでは経済に焦点を当てたいと思います。ということで、対象とされている企業は本書p.3などから、Airbnb; Amazon; Apple; eBay; Google; Uber; Upworkなどのデジタルプラットフォーム企業であり、本書冒頭ではこれらの企業の紛争処理解決担当者のお仕事が紹介されていたりします。そして、紛争解決だけではなく、こういったテック企業の最高経営責任者=CEOは国の国家元首よりも大きな力を持っている可能性を示唆しています。そうかもしれません。ひとつには、経済活動がオンラインに移行すると、その経済活動に対してルールを設定して遵守させようとする主体が国家ではなくテック企業となる可能性が高くなります。詐欺やサイバー攻撃まで過激にならなくても、あるいは、ルールまで至らない評価やレピュテーションのたぐいについても同様です。例えば、グルメサイトの評価がレストランの売上げを左右しかねないのは広く理解されているところかと思います。そういった訴訟もあったんではないでしょうか。加えて、もうひとつはプライバシー保護についても、闇サイトのシルクロードを引き合いに出して、プライバシーをどこまで保護すべきかのジレンマについて本書は議論を展開しています。本書では取り上げられていませんが、現在の日本の首都圏で問題となっている闇バイトによる強盗事件などについても、秘匿性の高い通信ソフトが使用されている点が明らかになっていますので、プライバシー保護と犯罪行為の関係も議論されるべきポイントと考えるべきです。同時に、オンラインで労働するフリーランス的な労働が増えた際の統計的差別、すなわち、先進国の労働者と途上国の労働者の間の賃金格差の可能性についても言及しています。政治的制度については、アマゾンという巨大なテック企業が売行きのよい商品を提供する弱小企業から、その商品を事実上乗っ取るような行為があり、そういった行為だけではなく、手数料の大幅な値上げなども市場集中の進んだテック企業では行われていると本書では指摘しています。オンラインビジネスでは極めて巨大なネットワーク効果が働くので、こういった市場の集中度が高まりかねません。同時に、デジタル決済プラットフォームに犯罪資金が引きつけられたため閉鎖せざるを得なくなった例も報告されています。そして、ビットコインなどの暗号資産は経済的制度ではなく政治的制度の中で、リバタリアン的な中央支配を拒絶するクリプトクラシーとして取り上げられています。このあたりは読んでみてのお楽しみです。社会制度についても、経済社会のデジタル化が進む中でセイフティネットをはじめとして福祉国家のほころびが目立ち始めていると指摘しています。その最大の例としてクラウドファンディングを上げています。日本でも国立科学博物館で公的資金が不足しクラウドファンディングでナショナル・コレクションを守る活動を始めたことは広く報じられているところです。最後の第12章では、デジタル暴君を退位させるための競争の回復、あるいは、市場集中の防止に関する議論が展開されています。米国では、金ぴか時代の反トラスト法などの経験があることも確かです。でも、どこまで有効性が確保されるか、私は疑問なしとしません。デジタルプラットフォームに関して経済・政治・社会の側面から幅広い議論を投げかけているオススメの本です。

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次に、デヴィッド・グレーバー & デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(光文社)を読みました。著者は、グレーバー教授は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの人類学教授であり、私も読んだ『負債論』や『ブルシット・ジョブ』などの著書のある研究者で2020年に亡くなっています。ウェングロウ教授は、ロンドン大学の考古学研究所に所属していて、比較考古学がご専門です。本書の英語の原題は The Dawn of Everything であり、2021年の出版です。邦訳タイトルはご大層に聞こえますが、ほぼほぼ直訳です。ということで、本書は文字記録の始まる前の先史時代、すなわち有史以前の人類史を捉え直そうとする試みです。ですので、歴史学者ハラリによる『サピエンス全史』、進化心理学者ピンカーの『暴力の人類史』、はたまた、進化生物学者ダイアモンド教授の一連の著作などと同じ試みといえます。もっと大昔でいえば、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』とも相通ずるものがありそうです。まあ、何と申しましょうかで、ゴーギャンの名画 1D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous? = 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか とよく似た問いに対する回答を試みています。はい、上下2段組で解説や参考文献まで含めて700ページ近いボリュームであり、私の専門分野とビミョーに異なりますので、すべてを的確に理解できたかどうかは自信ありませんが、それなりのインパクトある読書だったことは確かです。ただ、有史以前からの人類史とはいえ、歴史的なモデルは置かれています。近代的な経済社会においては、国家が成立して議会・政府・裁判所が三権分立し、国内治安を維持するための警察、対外的な安全保障のための軍隊などを備え、基本的人権などの前に所有権などの制度的な諸権利が確立するわけです。その前の状態をホッブズとルソーの2つの自然状態に関する人類観とでも呼ぶべきモデルを示します。すなわち、ホッブズは、人々は孤独で貧しく辛く残忍で短い、という、いわゆる「万人の万人に対する闘争」と考える自然状態のモデルを提示し、人類とは凶暴で争い好きな存在として描き出します。逆に、ルソーは、農業と冶金の勃興を機に土地が分割されて私的に所有され、しかも、貴金属の蓄積と支配隷属関係が始まってしまうんですが、その前の段階では、豊かな実りを採集できる森で小さな集団にしか属さなかった野生人は、欲望を競わず平等かつ平穏に暮らしていた、という自然状態のモデルを示し、人類とは自由で平等な無邪気な存在であるとします。その上で、ホッブズ的にいえば、社会契約によって人類の本能を権力サイドから抑圧することとなり、ルソー的にいえば、本来の自由を犠牲にしていろんな制約に服することになります。そして、本書の重要な観点は格差とか不平等という経済的な見方です。すなわち、先史時代には原始共産制のような平等な経済社会であったにもかかわらず、文明の発達が不平等に道を開いた、というのが『サピエンス全史』なんかで見られる歴史観だと思うのですが、そこに本書は大きな疑問を呈しています。現在では例外的な紛争地帯などを別にすれば大きな移動は見られませんが、今の移民どころではない大規模な人口移動が先史時代から有史時代でも大昔にはいっぱいあったわけで、地域選択も自由だったようです。こういった基本的人権のもっとも基礎をなす自由と平等の観点から壮大な人類史の構築を試みた歴史書です。書店や図書館で目にするだけでボリュームに圧倒されて手に取ろうという気が起こらないかもしれませんし、手に取って読んでみてもなかなか理解がはかどらないかもしれませんが、時間をかけてでも挑戦する値打ちのある歴史書といえます。

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次に、金子玲介『死んだ山田と教室』(講談社)を読みました。著者は、もちろん、小説家なのですが、この作品が第65回メフィスト賞を受賞してデビューしたのではないかと思います。やや記憶は不確かです。この作品はすでに映画化が決まっており、マンガも出ていて、出版社でも特設サイトを開設していたりします。ということで、とてもエモい作品です。特に、最後は果てしなくエモいです。舞台は、おそらく東京か、少なくとも言葉で判断する限り、首都圏の東京近郊にある大学附属高校です。まあ、架空の名称が付与されていますので、ソチラはどうでもいいのですが、重要なポイントのひとつは男子校である、もうひとつは高偏差値の進学校である、という点です。大学に進んで、弁護士や医師を目指す生徒が少なくありません。そして、タイトルにある教室とは2年E組です。花浦先生が担任で生徒は、当然ながら、男子ばっかりです。これまた、タイトル通りに、山田は死んでいます。飲酒運転の交通事故で夏休み最終盤の高校2年生の8月末の交通事故でした。飲酒運転です。見た目は金髪に染めて目の下のホクロが印象的であり、明るくギャグを飛ばしてクラスの人気者、しかも、それなりに成績もよくて付属校から成績優秀者のみが行ける大学医学部を志望していたりする、といった設定です。ところが、死んだハズの山田が2学期になってスピーカーから声を発します。というか、おしゃべりを始め、教室にいる生徒や先生の声などの音も聞こえる、という怪奇現象が起こります。視覚的に見ることはかなわないものの、聴覚は十分で山田とおしゃべりができるわけです。で、死んだ山田は2年E組の席替えとかを提案したりするわけで、生きている、というか山田以外の2年E組の生徒もいろいろと最初は山田に関する行動を取るわけです。例えば、新聞部が山田の交通事故の真相について取材したり、学園祭で金髪にホクロという山田の見た目をマネた出で立ちでカフェを開いたりします。ところが、その学園祭の山田カフェに山田のバンド仲間とか、山田が中学校のころに所属していた部活の同級生が来たりして、いろいろと山田の知られざる実態が、2年E組の生徒諸君が知らなかった事実が、明らかになったりします。ただ、そうこうしているうちに、いわゆうr「去る者日々に疎し」となって、2年生の終業式、さらに、3年生を終えた卒業式などの時間の経過とともに、2年E組の教室にやって来る同級生は減って行き、卒業して大学に進学し、さらに、その大学も卒業して社会人になってからは、ほとんど誰も来なくなるのは当然といえば当然の成り行きです。そして、最後にとっておきのエモいラストが待っているわけで、それは読んでみてのお楽しみとなります。


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次に、市川憂人ほか『東大に名探偵はいない』(角川書店)を読みました。短編を集めたアンソロジーなのですが、各作品の著者は、東大卒、あるいは、現役東大生です。そして、タイトル通りに、殺人事件こそ起こりませんが、日常のちょっとした謎も含めて短編ミステリといえます。収録順にあらすじを紹介すると、まず、市川憂人「泣きたくなるほどみじめな推理」は、1995年、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などがあった年、東大生となった女子大生が主人公です。主人公は失踪した従姉妹の痕跡を探すため東大の文芸サークルに入り、また、従姉妹の下宿のアパートの部屋を訪ねたりした上で、真相に近づきます。ラストはハッピーエンドです。続いて、伊与原新「アスアサ五ジジシンアル」は、東大の地震研究所を舞台に、地震予知を示唆する「アスアサ五ジ ナガノ ジシンアル」と記されたはがきが届きます。この文面が、かつて虹で地震を予知すると注目をされた椋平広吉の電報とそっくりでした。主人公の研究員は、このトリックを明らかにし、その背景も探ります。続いて、荒川帆立「東大生のウンコを見たいか?」では、作者ご本人がミステリ作家という設定で、謎解きのワトソン役を務めます。すなわち、東大准教授の同窓生から依頼が入り、人糞から飲用水を作る研究をしている農学部の施設で、学生を人糞タンクに突き落とした犯人を突き止める、というミステリです。続いて、辻堂ゆめ「片面の恋」では、東大に入学した女子大生が主人公で、入学早々にやってきた学園祭である5月祭でクラスで焼き肉ホットサンドの模擬店を出すことになり、クラスメートたちは試作に余念がありません。そういった中で、男子たちは都内の名門中高一貫女子校出身の美女ふたりに大きく注目して、主人公はやや等閑視されるわけですが、ある男子学生が帰り道で急速に熱を冷めさせてしまいます。その理由を「片面は...さすがに」という一言から想像するのですが、まるで、ケメルマンの名作短編「9マイルは遠すぎる」のような見事な推理が展開されます。続いて、結城真一郎「いちおう東大です」では、共働きながらすべての家事をこなしてくれる妻に満足し、東大の見えるところに住みたいという妻の希望を入れた住まいで暮らす主人公なのですが、年始の挨拶に妻の祖父母の家を訪れて一家が東大卒ばっかりであることに驚き、妻の恋愛や結婚に対する考えを知って愕然とします。最後に、これだけが現役東大生の作品で、浅野皓生「テミスの逡巡」では、学生によるwebメディアの記者をしている男子学生が主人公です。ちょっと風変わりな卒業生をインタビューに行きます。法学部を卒業し弁護士になりながら、医学部に入り直して医師をしているOBです。法律による救済と医療による命の救済について、何とも摩訶不思議で偶発的な、というか、ものすごく小説らしい作為的な謎解きです。たぶん、世間一般では結城真一郎「いちおう東大です」の評価が高そうな気がします。途中で真相に気づく読者もいそうですが、いかにも世間一般の東大生に対する雰囲気をよく取り込んだ作品です。でも、私は辻堂ゆめ「片面の恋」をもっとも高く評価します。繰り返しになりますが、ケメルマンの名作「9マイルは遠すぎる」のような見事な安楽椅子探偵の謎解きです。

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次に、大西広『バブルと資本主義が日本をつぶす』(ちくま新書)を読みました。著者は、慶應義塾大学と京都大学の名誉教授であり、ご専門はマルクス主義経済学です。実は、京都大学経済学部のOBですので、私の2年先輩に当たります。はい。私は著者と面識があります。それも、かなり親しい関係といえると思っています。本書は、おそらく、同じ著者による前著である『「人口ゼロ」の資本論』の続編という位置づけなのでしょうが、誠に申し訳ないながら、私はこの前著はよんでいません。ですので、十分本書を理解したかというと、s値モン分野が違う点も含めて、それほど自信がありません。ということで、私自身は定年まで長らく官庁エコノミストをしていて、まさに、政府の御用学問的な経済学に親しんでいますが、本書の著者はいわゆるマルクス主義経済学の観点から人口減少と貧困や不平等のはびこる日本経済について分析と解決策の提示を試みています。まず、人工減少については、私は目先の将来についてはそれほど心配していません。目先の将来とは、まあ、20-30年先くらいまで、という感触です。ただ、人口の年齢構成、すなわち、少子高齢化については大きな懸念材料だと考えています。ただ、年齢構成のバランスそのままで人口減少が起こるはずもありませんから、両者はコインの裏表で一体的に考えるべきである、というのは確かです。まず、人口減少については、私自身はある一定のクリティカル・ポイントまでは線形で考えて十分だと見なしています。ただ、おそらく、直感的には2000-3000万人くらいのところでキンクするポイントがあり、そのあたりからはノンリニアで急速に国家としての日本の衰退が始まると考えています。すなわち、インフラ、単なる道路や何やといったハードな物的なインフラから、社会関係資本などのソフトなインフラ、もちろん、学校・病院、果ては、警察や消防などに至るまで、経済成長や生産・物流なんてところにとどまらず、国家の体をなさない状態に陥る可能性があります。極端にいえば、人口1万人では国土の防衛は不可能と考えるべきです。ですので、本書では、そうならないために平等化が志向されます。もっともです。底辺労働者に限らず、国民生活全体の底上げが必要です。そもそも、低所得であるがゆえに結婚や子育てを諦めている国民がとても大きな割合いて、それが人口減少の主因となっていることは明らかです。加えて、本書の主張ではなく、私自身の考えとして、現在の日本の貧困や不平等は基本的人権の尊重すらリスクにさらしている可能性があります。選挙で適切な選択をするためには、それなりに日常的に政治・経済ニュースなどの情報に接する必要がありますし、就労するためには居住する場所や情報を受け取る機器が不可欠です。その観点からも不平等の是正が必要です。現在の経済社会では自由ばかりが重視され、平等やその基礎となる民主的な参加や決定が軽視される傾向にあります。本書の分析や推論について十分理解した自信はありませんが、その主張しようとするポイントは重要ですし、方向性は完全に正しいと思います。

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次に、スティーヴン・キング『コロラド・キッド』(文春文庫)を読みました。著者は、いわずと知れたホラー小説の大御所です。本書は短編というよりは中編くらいのボリュームの作品3点を収録しています。作家活動50周年記念刊行第4弾となります。第4弾ということらしいのですが、出版社では第1弾から順に『異能機関』、『ビリー・サマーズ』、『死者は嘘をつかない』に続く第4弾、という位置づけらしいです。私はそれほどキングのファンというわけでもないので、第1-2弾の『異能機関』と『ビリー・サマーズ』は読んでいません。ぎゃくに、50周年企画とは関係なく、ミステリ3部作の『ミスター・メルセデス』、『ファインダーズ・キーパーズ』、『任務の終わり』とか、『アウトサイダー』なんぞは読んでいたりします。ということで、収録されている順に、まず、冒頭の「浮かびゆく男」は、リチャード・マシスンの名作「縮みゆく男」を想起させます。場所はキングのファンであればご存じのキャッスルロックとなります。ITデザイナーのバツイチ40男スコットが主人公です。巨体を誇り、身長は190cmを超え、体重も軽く10キロオーバなのですが、外見の体型はまったく変わらないのに体重だけが減少を続けます。しかもこの体重減少が加速したりします。隣人のレストラン経営の同性婚の女性2人とは、隣人らしい衝突から始まって、ターキートロット・レースと呼ばれる12キロのマラソン大会から親密な関係を気づくとともに、かかりつけの医師夫妻と5人で定期的な夕食会を持って、体重がゼロ、というか、マイナスに突っ込む最後の日を迎えます。最後はエモいです。タイトル作の「コロラド・キッド」は、登場人物はたったの3人で、メイン州の小さな島の新聞ウィークリー・アイランダー紙の発行社にインターンでやってきたステファニーが、2人の年配記者であるヴィンスとデイヴから聞かされる奇妙な物語です。大昔に島の海岸で発見された死体の来歴が語られます。その名の通り、コロラドからはるばるやって来て、島の対岸にあるレストランで食事して、島の海岸で死体が発見されます。どうしてコロラドからやって来たかが判明したかというと、タバコのパッケージにあった納税スタンプです。不思議とか奇妙というよりも、とても不気味なストーリーです。作者自身によるあとがきがあり、それも含めて名作だという気がします。最後の「ライディング・ザ・ブレット」は正真正銘のホラーです。しかも、オカルトや超常現象の要素もあるのですが、そういったものよりは、私がホントに恐怖を覚える常軌を逸した人間行動によるホラーです。主人公はメイン州立大学に通う男子学生で、主人公が過去を回想するという形を取ります。ある夜、郷里の隣人から電話があり、母ひとり子ひとりで主人公を育てた母が倒れて入院したという知らせでした。主人公はヒッチハイクで夜を徹して母親が入院している郷里の病院を目指します。その最後に、乗っけてもらったドライバーから究極の選択を迫られます。車の運転も怖いですが、この選択を迫られる主人公の心理描写も怖いです。ただ、超長い文章で細かい描写を得意とするキングにしては、という意味ながら、心理描写がそれほど細かく微に入り細を穿っていない気もします。でも、車の疾走感も重要ですし、このあたりは評価がビミョーなところかもしれません。私のようなさほど熱心ではない読者も読んでいるのですから、熱心なキングのファンにはとってもオススメです。

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