今週の読書は経済の学術書をはじめとして計7冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、福田慎一[編]『地政学的リスクと日本経済』(東京大学出版会)では、サプライチェーンの見直しだけにとどまらず、幅広く、企業、金融機関、政策当局のリスクについて分析しています。松井暁『ここにある社会主義』(大月書店)は、新自由主義を批判しつつ身近にある社会主義的な動きを指摘し、社会主義に移行することの意味を考えています。麻生競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)は、正義に満ち溢れた意識高いZ世代やそうでもない直前の20代半ば後半くらいの大学生ないし新卒若手社会人をメインに据えて人生というものを深く考えさせられる作品です。松島斉『サステナビリティの経済哲学』(岩波新書)は、人類喫緊の課題となっていて国連のSDGsにも取りまとめられたサステイナビリティに関して経済学のゲーム論などを応用して考察しています。難解です。布施哲『日本企業のための経済安全保障』(PHP新書)は、日本企業が経済安全保障を考える際に避けて通れない中国市場との関係について理解を深めようと試みています。一穂ミチほか『有栖川有栖に捧げる七つの謎』(文春文庫)は、作家デビュー35周年となった本格ミステリ作家の有栖川有栖に対してミステリ作家7人がトリビュートの作品を寄せています。北村薫『中野のお父さんの快刀乱麻』(文春文庫)は、シリーズ3冊目で文芸編集者である田川美希の父親が文芸にまつわるちょっとした謎に対する回答を試みています。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って先週までに計22冊をポストし、合わせて232冊、本日の6冊も入れて238冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達するペースかもしれません。なお、最後に取り上げた『中野のお父さんの快刀乱麻』の前作である北村薫『中野のお父さん』と『中野のお父さんは謎を解くか』(文春文庫)も読みましたが、新刊書ではないので本日のレビューには含めていません。これらも含めて、Facebookやmixiやmixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
まず、福田慎一[編]『地政学的リスクと日本経済』(東京大学出版会)を読みました。著者は、東京大学経済学部教授であり、マクロ経済学に関するトップクラスの研究者といえます。各チャプターごとの著者も日本経済研究所の研究会に集まったエコノミストのメンバーです。本書は、ロシアによるウクライナ侵攻を契機とするとはいえ、サプライチェーンの見直しだけにとどまらず、幅広く、企業、金融機関、政策当局のリスクについて考えています。また、リスク分析の面がありますので、決して従来タイプの学術書のように小難しい計量経済学的な手法を取っている論文は少なく、一般的なビジネスパーソンにもそう難しくなく、十分役立つ内容となっているような気がします。いくつかのチャプターに着目して簡単に私の印象は以下の通りです。まず、繰り返しになりますが、本書は3部構成であり、企業、金融機関、政策当局のリスクについて各2-3章の分析論文が集められています。まず、明らかにしておきたいのは、私自身は経済安全保障については、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)の、特に第2章にあるように、サプライチェーンのリスク管理について、供給の途絶リスクの蓋然性に加えて、どの程度の期間で代替が可能となるかを分析することが必要であり、こういった対応は、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済みである。」との見方をしていて、政府としてサプライチェーンのリスク管理まで手を伸ばすのはどこまで必要なのか、少し疑問を持っています。本書でも第Ⅲ部の経済政策のリスクについては、財政の持続可能性、金融政策、基軸通貨について3章に渡って分析されていますが、サプライチェーンのリスク管理を政府の役割として分析対象とはしていません。まず、第Ⅰ部第1章では、コロナ禍における半導体不足などについて企業経営の問題として分析を進めています。その上で、産業構造変化度をリリエン測度で計測し、米国とドイツでは設備投資の変化がもっとも大きく、次いで付加価値、最後に就業者数の順であるのに対して、日本では付加価値の構造変化がもっとも大きく、次いで就業者数、最後に設備投資となっていて、企業における資本ストックの遅々たる対応が指摘されています。また、金融機関のリスク対応については、第4章でシリコンバレー銀行(SVB)の銀行取付けに関して、流動性依存理論の議論を紹介しています。すなわち、シリコンバレー銀行の破綻は金利上昇による単なる流動性不足ではなく、金融政策の量的緩和と量的引締めの2つの異なる局面において銀行が非対称な行動を取る流動性依存から説明できると指摘しています。ニューヨーク大学アチャリャ教授とシカゴ大学ラジャン教授の研究によれば、量的緩和の際には銀行は流動性の高い取引を行う一方で、量的引締めの際には単純に流動性の低い取引を増やすのではなく、資産サイドで流動性の高い資産は減少したものの、負債サイドでは流動性の高い負債が減少することは起こらなかった、と結論しています。例えば、要求払い預金から定期性・貯蓄性預金へのシフトは資産サイドほどスムーズではなかった、ということです。そうすると、資産サイドと負債サイドで流動性のミスマッチが生じ、流動性ストレスに脆弱になる可能性があります。これは、日本でも日銀が量的引締め、というか、量的緩和を終了ないし量的引締めに転換する際に顕在化する可能性あるリスクと考えるべきです。最後に、第5章では財政の持続可能性を開放経済の一般均衡OLGモデルで分析しています。開放経済を前提にすれば、従来型の閉鎖経済モデルよりも他国と比較して成長率の低い日本経済は世界経済からの恩恵が大きく、財政状況も改善する可能性が示唆され、逆に、地政学的リスクが高まってグローバル経済のリンケージが後退すると、日本の財政持続可能性にも影響を及ぼしかねない、との結論を得ています。この財政の持続可能性で論文を書いた経験がありながら、私のパースペクティブにはなかった発見でした。
次に、松井暁『ここにある社会主義』(大月書店)を読みました。著者は、専修大学経済学部教授であり、ご専門は経済哲学です。実は、今週、このご著者もお招きして本書の書評会があって私も参加しました。本書は完全にマルキスト哲学・経済学の基本書である一方で、私はマルキストではなくて典型的な主流派エコノミストです。定年の60歳まで政府で官庁エコノミストをしていたわけですから、御用学者を超えた政府ベッタリのエコノミストとして経済分析をしてお給料をもらっていたわけです。しかし、他方で、私はとある先輩官庁エコノミストから、「官庁エコノミストとしては最左派」との評価を受けたこともあり、本書で徹底的に批判している新自由主義的、ネオリベな経済学については批判的な見方をしています。基本的な歴史観は唯物史観に近いと自ら認識していて、生産力がこのまま拡大して商品やサービスの希少性がゼロに近くなった世界が共産主義的な「必要に応じて受け取る」世界だと考えたりしています。他方で、資源分配については市場の効率性を高く評価していて、旧ソ連なんかの「自称社会主義」の下での指令経済は非効率極まりなく、そのためにソ連は崩壊したのだろうという正しい認識も持っています。例えば、ケインズ卿の『雇用、利子及び貨幣の一般理論』でも強調されているように、市場経済に基づく資本主義の効率性を評価しつつも、完全雇用が保証されないという意味での人的資本の非効率を許容したり、雇用に基づく人的能力の発達を阻害したりする可能性があるとともに、富と所得の不平等を是正するシステムが欠如している点で資本主義経済の欠陥を認める必要があると思っています。本書でも、「どこにでもある社会主義」のひとつとして、年金や医療保険などの社会保障が極めて社会主義的な色彩が強い点を強調しています。これは、ケインズ卿が指摘した資本主義経済の欠点の是正といえます。では、社会主義になると社会保障がどうなるのか、という展望が本書で示されているわけではありません。本書の欠点、というか、私にとって物足りない点が2点あります。第1に、資本主義の改良思想である社会民主主義と社会主義の間の違いが明確ではない点です。さらにいえば、資本主義から社会主義に至るマルクス的な「革命」とは何であるのか、どういうものであるのか、について明確な展望を欠いている点です。第2に、本書では民主主義の必要性についての追求が不足しているように感じられてなりません。本書でも指摘しているように、日本を含む先進国で社会主義に至る道筋は選挙を通じた政権交代となる可能性が圧倒的に高いのはいうまでもありません。暴力革命なんてのは選挙を通じた政権交代と比べて格段に確率が落ちます。だとすれば、私が「花咲舞のような忖度のない自由な選択」に基づく選挙が決定的に必要であり、日本のような同調圧力が強い社会では、社会主義に至る前に徹底的な民主主義化の必要があると私は感じています。社会主義がどこにでもあり、近づいている、という認識は結構であり、決して間違っているとは思いませんが、社会主義に到達するにはホントに民主主義的な選択を可能とする大変革が必要だと私は考えています。
次に、麻生競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)を読みました。著者は、注目の覆面小説家であり、私はデビュー作の『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』は読んでいます。たぶん、本作品がデビュー2作目ではないかと思います。ということで、タイトル通りに、正義に満ち溢れた意識高いZ世代やそれほどでもない直前の20代半ば後半くらいの大学生ないし新卒若手社会人をメインに据えて、人生というものを深く考えさせられる作品です。短編ないし中編くらいの長さの4話構成であり、10年近いタイムスパンでクロノロジカルに並べてあります。すなわち、「第1話 平成28年」、「第2話 平成31年」、「第3話 令和4年」、「第4話 令和5年」となります。視点を提供するという意味での主人公はすべての短編で違う人物なのですが、共通して沼田という男性が登場します。第1話の慶應義塾大学の2年生から、最後の第4話では20代後半の社会人となっています。ただ、この沼田の人生に対する基本的なスタンスというものはほとんど変化していないようです。また、明記はしていませんが、当然に、各短編の舞台はすべて東京で、それも都心に近い場所と考えて差し支えありません。あらすじを紹介しますと、まず、第1話は、地方から慶應大学に入学した意識の高い系の新入生男子が、これまた、意識の高い人の集まるビジネスコンクールの運営サークルに入会するところから物語が始まり、沼田はこのサークルの中での目立って意識低い系のメンバーです。第2話は、早稲田大学を卒業した主人公である女子が、大手町に本社を構えるベンチャー系だった人材系大手企業に就職し、この同期入社組に沼田がいます。驚くべきことに、面接で「クビにならない最低限の仕事をして、毎日定時で上がって、そうですね、皇居ランでもしたいと思ってます」と沼田はのたまって創業社長に認められて入社したというウワサです。第3話は、鉄道会社に勤める若手ビジネスパーソンが、会社が「なんかクリエーティブでイノベーティブな事業」として未利用地を活用して始めた大学生向け大型シェアハウスに6人いる社会人チューターのリーダーとして入居するところから始まりますが、その社会人チューターの1人が沼田なわけです。第4話は、前年に明治大学を卒業しPR会社に勤めている男性の若手社員が、高円寺にある老舗銭湯「杉乃湯の未来を考える会」にジョインするところから始まりますが、この「考える会」には人材系大手企業を辞めた沼田がいました。小説、というか、各短編のホントの主人公は沼田なわけです。そして、その沼田の人生哲学、というほどの大げさなものかどうかはともかく、基本ラインは最初に就職した人材系大手企業の面接の発言で一貫しています。共感できるかどうかは読者にもよりますが、私自身は実に強く共感します。というのも、私は今でいうメガバンク、すなわち当時の都市銀行や商社などでの競争社会では生き延びられる自信がなくて、「でもしか」に近い存在だった公務員の道を選び、就職した直後の20代末から30代始めに経験したバブル経済期には公務員に就職したことを非公務員の周囲の知り合いなどからは否定的に見られつつも、バブル崩壊後の景気低迷期には公務員への就職が再び脚光を浴びたりして、世間の評価というものは一貫せず、自分でラクな道を選ぶのがベスト、という価値観ですので、沼田の生き方に共感するところは多々あります。最後に、小説としての完成度も極めて高くなっています。各話は短編としても楽しめますし、もちろん、続けて読む長編としても、いいストーリー展開を示しています。細部についても、よく考えられていて、第1話では大学の新入生が年齢をさほど気にすることもなく酒を大量に飲んでいる一方で、最終第4話では新入社員がソフトドリンクを飲んでいたりします。わずか10年足らずで日本、というか、東京の若い世代の考えや行動がかなり変化したことが伺えます。そして、最後の最後に、やっぱり、日本の中心が東京にあることが実感されます。ひょっとしたら、地方在住の読者には共感できるポイントが少ない可能性は否定できません。その意味で、私の勤務校の学生にどこまで勧められるかは考慮すべきかもしれません。
次に、松島斉『サステナビリティの経済哲学』(岩波新書)を読みました。著者は、東京大学経済学部教授であり、ご専門はゲーム論です。本書では、J.S. ミルなんかの想定した定常状態にはならずに成長を続ける経済社会のサステイナビリティについて考えています。本書でも指摘されているように、国連によるSDGsを引くまでもなく、サステイナビリティが現時点における人類のもっとも重要な課題といっても過言ではなく、人類存続のために未来世代にも十分な資源や環境条件を残すことが求められているのはいうまでもありません。その経済哲学の基礎について考え、サステイナビリティを確保するために、第3章で新しい資本主義や第4章で新しい社会主義についても言及しています。この両章は、ある意味で、本書の核心と私は受け止めています。まず、第3章の新しい資本主義においては、営利企業と非営利企業との中間に位置する社会的企業について考えていますが、役割としての社会的企業というのは、すべての企業が社会的な分業体制に組み込まれて、経済社会において何らかの存在意義を持ち、企業活動を継続できるという意味では、すべてが社会的企業というカテゴリーに入ってしまいかねない曖昧さを私は感じます。もちろん、薬物やポルノやといった製品を供給したり、反社会的な活動を行っている企業は話が別でしょうし、あるいは、論者によっては武器製造企業などの「死の商人」もそうだと考えるかもしれませんが、本書の用語でいえば、世界市民に有益な何らかの製品やサービスを提供している企業は、すべて社会的企業ということになりかねません。他方で、社会的所有の下の企業ということになれば、そのまま、生産手段の公的所有という意味で社会主義になります。やや議論の意味が不明です。そして、第4章では新しい社会主義にも考えを広げています。私は、部分的なりとも、本書の主張、すなわち、資本主義のままでサステイナビリティのための社会的責任が達成できるという考えは、ひょっとしたら、楽観的すぎる可能性がある、という考えに同意しています。ただ、本書でいうところの「新しい社会主義」とは、いわゆる旧来のソ連型や中国型ではない、という意味ではなく、私には理解が十分及びませんでした。ゲーム論的な暗黙の了解とか、報復の連鎖なんて考えについていけませんでした。少なくともこの部分は難解であった印象が強いです。ハーディン的な共有地の悲劇から、オストロム的なコモンズの適切な管理の可能性などは十分経済学でフォローできる範囲ですが、サステイナビリティの議論はそういったモデル分析だけではなく、もっと実践的な部分も考えられるべきですが、どうも、私にはゲーム論を基にして、思考実験のような議論展開の印象があって、やや現実から遊離した空想的な部分も目につきました。冒頭の「大義の経済学」なんてその最たるものです。それよりもむしろ、スミス以来の経済学の伝統に従って、利己心を基礎にしたサステイナビリティの経済理論ができそうな気がするのですが、それよりも大義や世界市民を持ち出すことに意義を見出す論調に、私はチョッピリ不満を持ちました。
次に、布施哲『日本企業のための経済安全保障』(PHP新書)を読みました。著者は、NECのシンクタンクであるIISE国際社会経済研究所の研究員です。私はこの研究所のサイトを何度か訪れたことがあるのですが、いまだに「地球温暖化」という用語を使っていて、世界標準の「気候変動」にしていないので、あまり先進的な研究は望めない恐れがあると感じた記憶があります。それはともかく、本書はタイトル通りに、ややマニュアル的に日本企業に対して経済安全保障への対応を紹介しています。そして、さすがに、東京大学出版会の書籍とは違って、良くも悪くもとっても実践的です。日本企業にとっての経済安全保障とは、p.101にあるように経済安保のリスク管理は突き詰めれば「中国市場との向き合い方」であると喝破しています。まあ、そうなんでしょう。ただし、一般的にサプライチェーンの管理などの供給サイドからの防衛的な経済安全保障だけではなく、攻めの方向性もいくつか示唆しています。国家レベルでは、まさに、日本が現在やっているような対ロシア経済制裁のような経済安全保障政策が攻めの方向性を示すのですが、本書はあくまでも企業レベルの攻めであって、政府から補助金や助成金をせしめることをもって「攻め」として位置付けています。これはこれで正解かと思います。逆に、セキュリティクリアランスなんかは政府の対策と共通する部分がありそうです。私は大きく専門外ながら、2点ほど注目しました。ひとつは、短期の金銭勘定だけではなく、より長期的なコスト-ベネフィットを考慮する重要性です。今現在は原材料やエネルギーなどをある特定の国から輸入するのが経済的にもっともペイするとしても、経済安全保障の観点としては薄いながらも、レピュテーションリスクも含めて、長期的な何らかのサプライチェーン維持のコストを考える必要があるという点です。これは、一般的な家計の消費になぞらえれば、何が何でも金銭的に安いもの、コスパのいい商品・サービスに需要が向かうばかりではなく、社会的な満足度、例えば、環境にやさしいとか、フェアトレード商品であるとか、そういった価格に現れない価値を見出す消費と、いくぶんなりとも似通った面がありそうな気がします。もうひとつが、米国巨テック企業によるデータ支配、デジタル支配に対する企業の危機感を感じた点です。最近の一連の選挙でSNSの影響力を再認識した国民も少なくないと思いますが、少し前までのハッキングされないようにセキュリティを強化する、なんてレベルではなく、レコメンドなんかで購買意欲をそそるようなポジの影響力とともに、SNSには恐怖や不安や疑惑といったネガな感情を惹起させるような誘導も可能なわけで、政府や共同体ではなく企業レベルでの視点ながら、私の認識不足を痛感しました。デジタル支配の面では、「デジタル自給率」の向上というのも新鮮でした。
次に、一穂ミチほか『有栖川有栖に捧げる七つの謎』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家ですが、中にはホラーを得意とする作家もいたりします。本書は、本格ミステリ作家の大御所である有栖川有栖のデビュー35周年、というやや中途半端な節目を記念して展開されていた「オール讀物」と「別冊文藝春秋」のトリビュート企画の短編7話を収録したアンソロジーです。いわゆるパスティーシュの形を取って、有栖川有栖の代表作である火村-有栖、あるいは、江神-有栖による本格ミステリもあれば、初期作品の山伏地蔵坊に対するオマージュの作品、あるいは、有栖川作品のファンが登場しつつも、殺人事件のないミステリ作品など、バラエティに富んだ作品が収録されています。あらすじは順に、青崎有吾「縄、綱、ロープ」は、作家アリスの火村-有栖のパスティーシュで、殺人事件の犯人は同じマンションにいることから、絞殺に用いた凶器とその犯人を火村が特定します。ほぼほぼ有栖川有栖作品の完コピだといえます。一穂ミチ「クローズド・クローズ」も、火村-有栖のパスティーシュで、制服盗難事件を解決するために火村と有栖が女子校の文化祭に乗り込み、今どきのJKを相手に奮闘します。織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」も、これまた人気の火村-有栖のパスティーシュで、都内のバーで客が火村と有栖に怪談を語ります。これは、有栖川有栖の世界よりも、ほぼ織守きょうやの世界の作品です。白井智之「ブラックミラー」は、有栖が登場しない火村の謎解きのミステリで、双子の兄弟が仕組んだアリバイのトリックを火村が解明します。夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」は、有栖川有栖作品が話題になったので、ファンの知人に本を借りようとしたところ、その知人が有栖川有栖作品を何故か酷評して、借りる気が失せてしまいます。でもなぜ、という謎解きです。阿津川辰海「山伏地蔵坊の狼狽」は、有栖川有栖の初期作品の主人公である山伏地蔵坊が、何と、40年の歳月を経て復活し、バーで不思議な物語を語ります。今村昌弘「型取られた死体は語る」は、学生アリスの江神-有栖のパスティーシュで、織田が持ち込んだダイイング・メッセージの謎を江神たちが解き明かそうと試みます。ということで、織守きょうや作品の怪談を別にすれば、ほぼほぼ本格ミステリの謎解き作品を収録しているといえます。繰り返しになりますが、有栖川有栖作家デビュー35周年というやや中途半端に見える節目のトリビュート短編集ながら、各短編は充実しています。表紙デザインも私は高く評価しています。
次に、北村薫『中野のお父さんの快刀乱麻』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家、小説家であり、ミステリ作品としては殺人事件といったモノモノしい事件を発端とするのではなく、日常のちょっとした謎解きに関する推理小説を得意としている印象です。本書はこの著者の「中野のお父さん」シリーズの第3作、すなわち、『中野のお父さん』と『中野のお父さんは謎を解くか』に続く第3作となっています。文庫本としては最新刊ですが、単行本としては第4作『中野のお父さんと五つの謎』もすでに今年2024年に出版されています。いずれも短編集です。どうでもいいことながら、こういったシリーズにありがちなことで、段々とボリュームを増してきています。最初の『中野のお父さん』は8話収録で300ページ足らず、次作の『中野のお父さんは謎を解くか』も8話収録ながら300ページ超え、そして、本書は6話収録で300ページ超え、となっています。主人公は田川美希という出版社の文芸編集者です。大学生のころは体育会のバスケットボール部で活躍していましたので、モロに体育会系ですし、たぶん、ガタイもいいと想像しています。そして、タイトルにあるのがその田川美希の父親であり、謎解きを披露します。タイトル通り、中野にある主人公の実家にいて、シリース最初のころはまだ60歳手前の現役の高校国語教師でしたが、本書では定年退職しており、ささやかな家庭菜園を楽しんでいるようです。小説や落語や映画や音楽やといった文芸にまつわるちょっとした謎を解き明かそうと試みています。ただ、いわゆる安楽椅子探偵ですので、大昔の出来事も含まれていて、中には、中野のお父さんの謎解きが正解かどうか、十分に判断できないものも含まれています。本書に収録されているの短編を順に紹介すると、まず、「大岡昇平の真相告白」では、大岡昇平の小説タイトル『武蔵野夫人』の「夫人」をつけた理由やその時代背景を探ります。「古今亭志ん生の天衣無縫」では、落語の「蚊帳売りの詐欺師」のエピソードから破滅型落語家と考えられている古今亭志ん生の人柄を偲びます。「小津安二郎の義理人情」では、里見弴が作家として小津安二郎映画に提供したいくつかの原作と映画が大きく異なっている理由を考えています。「瀬戸川猛資の空中庭園」では、鋭い文芸評論を展開した瀬戸川猛資が学生のころに書いた映画批評と映像を比べています。「菊池寛の将棋小説」では、菊池寛作品に収録されている江戸時代の棋譜を先崎学9段と室谷由紀女流3段が読み解きます。「古今亭志ん朝の一期一会」では、ふたたび古今亭志ん朝の落語が話題となり、志ん生が演じた「三軒長屋」のCDを探す未亡人の本当の目的を推理します。ドナルド・キーンとマリア・カラスが同時に聞けるレコードというのもヒントとなっています。
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