今週の読書はいろいろ読んで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(集英社)では、資本主義の次に来るシステムは社会主義ではなく、デジタル取引プラットフォームが市場に取って代わるテクノ封建制であり、クラウド領主がレントを農奴から搾取するシステムはもう始まっていると指摘しています。小山大介・森本壮亮[編著]『変貌する日本経済』(鉱脈社)は、マルクス主義経済学の観点から縮小し衰退しつつある日本経済や格差が拡大している日本や世界経済を分析し、グローバル化に疑問を呈し、ベーシックインカムの是非について議論を展開しています。河村小百合+藤井亮二『持続不可能な財政』(講談社現代新書)では、現在の財政は持続可能ではないとし、30兆円単位の財政収支改善を提案していますが、財政収支を30兆円規模で改善するとどうなるかについては覚悟と良心でもって気合で乗り切れ、といわんばかりです。ドナルド E. ウェストレイク『うしろにご用心!』(新潮文庫)は、不運な大泥棒のドートマンダーが主人公になるシリーズで、故買屋のアーニー・オルブライトから依頼を受けて、投資家で大富豪のプレストン・フェアウェザーから美術品を盗もうと計画します。高野結史『バスカヴィル館の殺人』(宝島社文庫)は、前作『奇岩館の殺人』の続編であり、実際に殺人が行われる推理ゲームであり、顧客の大富豪が探偵となって殺人事件の謎解きに挑みますが、相変わらず、シナリオ通りには進みません。西村京太郎『SLやまぐち号殺人事件』(文春文庫)は作者の絶筆であり、SLやまぐち号の最後尾の客車5号車が山口と仁保の間の7.5キロを走行中に消失し、乗客32名が誘拐され、乗客の1人が死体で発見されます。十津川警部が謎解きに当たります。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月は24冊、5月に入って今週の6冊と合わせて105冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の6冊のほかに、ロバート・ロプレスティ『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』(創元推理文庫)も読んでいます。2019年に読んでいて再読です。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。
まず、ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(集英社)を読みました。著者は、経済学者=エコノミストなのですが、経済政策の実践の場では、2015年のギリシア経済危機の際に財務大臣を務めています。本書の英語の原題は Technofeudalism であり、2023年の出版です。なお、本書は集英社のシリーズ・コモンの1冊として出版されており、本書に至るまでの既刊5冊のうち、斉藤幸平・松本拓也[編]『コモンの「自治」』とジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』は私も読んでいます。ということで、通常、というか、何というか、現在の資本主義の後には社会主義が来る、というのがマルクス主義の歴史観、唯物史観に基づく見方であり、私もその可能性は十分あると考えています。私のような不勉強なエコノミストだけではなく、例えば、日本でもイノベーション理論で人気の高いシュンペーター教授なんかも、資本主義はいつかは社会主義に取って代わられる、と考えていたように記憶しています。しかし、本書では資本主義の次に来るのは社会主義ではなく、テクノ封建制であると分析しています。というか、すでに、資本主義は死んでいて、テクノ封建制が始まっているとすら指摘していたりします。かつては、格差が大きく拡大し資本主義の存続ではなくコモンの拡大による社会主義的なシステムが主流になる可能性が十分あると、私なんかの凡庸なエコノミストは考えていたんですが、そうではない可能性を強く指摘しているわけです。資本主義における市場に対して、テクノ封建制ではデジタル取引プラットフォームが取って代わり、資本主義において企業が最大化するターゲットであった利潤ではなく、レントの追求に変質した、と主張しています。デジタル取引プラットフォームはかつての中世の「封建領地」になぞらえられ、私のような一般市民はその「封建領地」を耕す農奴なわけです。もちろん、対極にはテクノ封建領主=クラウド領主がいて、クラウド・レントを求めて農奴を搾取しているという構図です。軽く想像される通り、本書では明示されていませんが、GAFAMを想像すればいいわけで、アマゾンなどのデジタル・プラットフォームを基礎にしたEコマース、あるいは、SNSなどの経営者がクラウド領主に該当します。そして、世界経済に視野を拡大すれば、米国と中国がテクノ封建制の新たな土俵で覇権を争う冷戦が始まっているわけです。インターネットが提供するコモンズは、やや「お花畑」的に想像された自由で平等な世界を実現するのではなく、逆に、テクノ封建制を準備したに過ぎなかった、という評価です。このあたりまでは、直感的に理解できるところではないでしょうか。もちろん、その「変容」=メタモルフォーゼの詳細、そして、テクノ封建制の実態の解明、そして、何よりも本書が最終章で提示するテクノ封建制からの脱却=クラウドへの反乱、などなどにつては、お読みいただくしかありません。細かな論証については、決して学術的にコンセンサスを得られるものではない可能性が高いと私は受け止めていますが、現在の世界経済の現実を的確に説明できる可能性があり、専門家でなくても直感的な理解は十分可能だろうと思います。とても散文的で難解な表現も含まれていますが、本書の内容は多くのビジネスパーソンが日々接している現実経済を解明している部分が多々あると考えるべきであり、その意味で、とってもオススメです。
次に、小山大介・森本壮亮[編著]『変貌する日本経済』(鉱脈社)を読みました。編著者2人は、それぞれ、京都橘大学経済学部准教授と立教大学経済学部准教授です。ほかの章ごとの分担執筆者も基本的にマルクス主義経済学のエコノミストではないかと思います。なお、『季刊 経済理論』第59巻第4号に書評が掲載されています。ご参考まで。実は、ゴールデンウィークの合間を縫って、私の勤務する立命館大学経済学部の研究会に出席したのですが、私以外はマルクス主義経済学のエコノミストで、他方、官庁エコノミスト出身の私はほぼほぼまったくマルクス主義経済学の専門性はなく、いわゆる「界隈」が違うのですが、実証分析や対象のエリアによっては理解できる部分もあります。本書は日本経済を対象にしていますので、今年度前期の授業が本格的に始まった段階で目を通してみました。まず、当然ながら、事実認識に大きな違いがあるわけではありません。すなわち、日本経済が縮小している、別の表現では、衰退している、という認識は変わりありません。この点は誰の目から見ても明らかです。さらに、日本のみならず世界で格差が拡大しつつあリ、格差拡大は決して好ましいことではない、という認識も共通しています。加えて、日本では格差拡大は雇用の劣化から生じている可能性が高い、という認識も同じではないか、という気がしています。ですので、かなり多くの分野でマルクス主義経済学と主流派経済学は同じ認識を共有し、同じ方向を向いていると考えても差し支えありません。しかし、主流派経済学との相違がまったくないわけではなく、いくつかの点に現れています。例えば、グローバル化がホントに日本経済に役立っていて、国民生活を豊かにするのか、という点に対しては本書は大いに疑問を呈しています。ただ、主流派経済学でもそういった見方が広がりつつあり、特に、米国トランプ政権がむやみな関税政策を振り回し始めて以来、ホントにグローバル化の進展が企業にもいいことだったのだろうか、という疑問が生じ始めている可能性はあります。マルクス主義経済学ではもっと脱成長の議論が盛んなのかと思っていましたが、主流派経済学と同じで日本経済が衰退しているのは決して好ましいことではなく、国民生活を豊かにするためには決して成長を諦めるべきではない、という認識は共通しているようです。もちろん、社会保障や福祉の観点からは主流派経済学よりもマルクス主義経済学の方が進んでいる可能性もあり、本書ではベーシックインカムについて章立てして議論をすることを試みています。もちろん、ベーシックインカム万能論では決してなく、その否定的な側面も指摘しています。それだけに、議論をきちんと進めようという姿勢も見えます。ただし、雇用を考えるチャプターでは、主流派経済学の本と同じように、日経連の『新時代の「日本的経営」』をまったく無視しています。ついでながら、第3章では置塩定理が援用されています。私にはもちろん、大学の学部レベルでは難しいのではないかと思いますが、実に判りやすくていねいに説明されているのが印象的でした。ちょっと、私には不慣れな分野だったかもしれませんが、「セカンドオピニオン」を求めるような気軽さで読んでみた次第です。
次に、河村小百合+藤井亮二『持続不可能な財政』(講談社現代新書)を読みました。著者は、それぞれ、日銀から民間シンクタンクの日本総研に転じたエコノミストと参議院事務局を退職した白鴎大学法学部教授です。本書の意図は明らかであり、現在の財政赤字の継続は公的債務残高の累増を招いており、このままでは財政は持続可能ではなく、したがって、歳出削減または歳入増加により財政収支の改善を図るべきで、その財政収支改善幅は30兆円程度である、というものです。何度か書きましたが、はい、私は一応この方面では学術論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" も書いていて、日本の財政は成長率と利子率の関係が動学的効率性を満たしておらず、その上、政府の基礎的財政収支改善努力もあって、財政はサステイナブルである、と結論しています。もちろん、本書は新書でのご議論であって学術論文のような正確性を問うものではありませんが、財政破綻したらたいへんなことになるとか、将来世代に負担を先送りするとかの、やや根拠が不確かで扇情的な議論は回避すべきだと私は考えています。ですから、私が論文で指摘したような公的債務のGDP比での安定を図るか、横断条件を満たすように国債をすべて償還することを考えるのか、などの議論はすっ飛ばしてもいいのですが、せめて、財政破綻のコストと30兆円の財政収支改善のネガな経済効果を比較するくらいの議論はあって然るべき、と私は考えます。そういう議論がなく、本書の隠し味は、日銀がこれから利上げする方向にあるので、それをサポートするように財政収支を改善するべし、という形で、アベノミクス期の逆回転を試みようとしているように見えてなりません。私が長らく見てきた中で、本書のような stirve the beast でもって、財政破綻回避を「錦の御旗」にしてある種の政策に対する拒否感を示すのは、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)で示されていたように、過剰に客観的な根拠を求めてある種の政策に拒否感を示すのと、まったく同じだと考えるべきです。要するに、政策に反対する根拠が希薄であることを自覚しているため、財政破綻のおそれや客観的根拠の要求を持ち出しているとしか思えません。ですので、本書の第5部の最後の節のタイトルは 問われる"国全体の覚悟"と"日本人の良心" となっていて、覚悟と良心を持って30兆円の財政収支改善を気合で乗り切ることができるかのような表現になっています。エコノミストとしては、実に、悲しい限りです。
次に、ドナルド E. ウェストレイク『うしろにご用心!』(新潮文庫)を読みました。著者は、米国のミステリ作家であり、多作なことでも有名です。著作は100冊を超え、米国探偵作家クラブ(MWA)賞を3度受賞しているそうです。多くの作品が映画化もされています。なお、この作品は本邦初訳です。この作者によるドートマンダーを主人公とするシリーズはユーモア・ミステリとして有名らしいのですが、私は2年半ほど前にこの著者の『ギャンブラーが多すぎる』を同じ新潮文庫で読んでいるものの、それはドートマンダー・シリーズではなく、不勉強にしてドートマンダーを主人公とするミステリは初読でした。参考ながら、巻末にドートマンダーのシリーズの著書が長編10冊超をはじめとしてリストアップされています。ということで、主人公は運の悪い大泥棒のジョン・ドートマンダーです。本作品では、付き合いは深いものの、それほど好感を持っているわけではない故買屋のアーニー・オルブライトからの依頼があり、ニューヨーク在住の投資家で大富豪のプレストン・フェアウェザーがコレクションしている美術品を盗み出すことを計画します。プレストン・フェアウェザーご本人はカリブ海のリゾートで休暇中なのですが、謎の美女が誘拐目的で接近してきます。大富豪のプレストン・フェアウェザーは露出度の高いビキニ水着のまま海に逃げ出して、ニューヨークの自宅を目指します。そして、帰り着いてぐっすり眠っているところにドートマンダーと仲間が盗みに入って大騒動となるわけです。なお、アムステルダム・アヴェニューにあって、ドートマンダーと仲間がいつも作戦会議に使う<OJ>という店、ロロというバーテンダーがいる店が、美術品の盗みとは直接関係ないながらも、まあ、キーポイントのひとつ、重要な要素となります。ドートマンダーの盗みの副産物といえるかもしれません。
次に、高野結史『バスカヴィル館の殺人』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、半年ほど前に同じ出版社から出ている『奇岩館の殺人』を私は読んだ記憶があります。基本的に、繰り広げられるのはリアルな殺人を含む推理ゲーム「推理遊戯」であり、実際に殺人が実行されるゲームに富裕層の顧客が大金を払って探偵として謎解きを行い、運営スタッフが探偵をサポートしつつゲームを進行する、ということであり、設定は同じです。ですから、謎が難しすぎると顧客の探偵が解けませんし、簡単すぎると満足度が上がらない、というフェアウェイの狭いゲームです。前作ではカリブ海の孤島でしたが、本書では森の奥に立つ洋館、バスカヴィル館がクローズド・サークルとなります。タイトルのバスカヴィルは当然ながらホームズの長編小説のひとつから取られていて、火を吹く魔の犬にちなんで死体が焼却されるところからの命名のようです。前作と同じところは、運営サイドのシナリオから実際の進行がズレまくる点で、軌道修正に運営スタッフが大きな苦労をします。今回作品の新規な点としては、誰が探偵役なのかが判別しきれず、運営スタッフのうちの1人が早く謎を解かせたいにもかかわらず、なかなかヒントを提供する相手が特定できない点です。もうひとつは、米国本社から日本支社の支社長だか、支部長だか、に対する査察役が運営スタッフとして密かに加わって、いわば、スパイのような役割を担うところもポイントかと思います。このため、前作よりも謎が複雑になっていることはいうまでもなく、出版社のうたい文句によれば「多層ミステリ」ということになるのですが、それでも、2番煎じであることは明白であり、他の読者はともかく、私自身は前作の方の評価が高いと考えます。評価高い読者は、ひょっとしたら、前作を読まずに本作品を読んでいるのかもしれません。何となく、続編がさらにありそうな気がしないでもないのですが、私が編集者であればヤメにしたら、とアドバイスします。
次に、西村京太郎『SLやまぐち号殺人事件』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。ほぼ3年前の2022年3月に亡くなっており、本書が絶筆といわれています。本書も、この著者の作品の一連のシリーズである十津川警部が主人公となります。ということで、舞台はタイトル通りに山口県であり、何と、SLやまぐち号の最後尾の客車5号車が山口と仁保の間の7.5キロを走行中に消失し、乗客32名が誘拐されます。乗客の中に東京に本社がある警備会社の社長が含まれており、身代金、というか、諸経費として請求された2億円をこの警備会社が株式売却により調達して支払ったことが明るみに出ます。しかし、乗客の1人の死体が発見されます。加えて、鉄道敷設の際の延長問題、さらには、もっと古い幕末の山口における歴史的事件などが怨念を伴って関係してきます。列車消失ミステリは、この作者の代表作のひとつである『ミステリー列車が消えた』もありますし、私が読んだ範囲内でも、島田荘司『水晶特急』とか、いっぱいあります。その意味で、それほど奇想天外でも奇抜でもないのですが、本書のミステリの肝は列車消失とともに、同じような列車内の殺人事件であるクリスティの『オリエント急行殺人事件』も緩やかな関連性を持っている点だと思います。絶筆という意味で記念すべき作品といえるかもしれませんが、あるいは、全盛期のサスペンスフルな展開は望めないと考えるべきかもしれませんし、評価はさまざまだと思います。ただ、ここまで大昔の怨念のようなものを持ち出されての謎解きでは、「どうして、今になって?」という疑問が生じるのはやむを得ません。10年後でもいいでしょうし、5年前であってもいいような事件だと受け止めるのは私だけなんでしょうか。
| 固定リンク
コメント