今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、保城広至『ODAの国際政治経済学』(千倉書房)では、政府開発援助=ODAについて、、国益に利するという利己的な面と発展途上国の開発に資するという利他的な面の両方を考え、さらに、定性的および定量的の両方のアプローチを試みています。エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』(法藏館)では、仏教を他の宗教よりも優れているとみなし、仏教徒は本来的には合理的かつ経験主義的であり、したがって、宗教というよりは心の科学であるとする仏教モダニズムを批判しています。真下みこと『春はまたくる』(幻冬舎)では、高校の同級生でともに東京の大学に進学した2人の女性、すなわち、W大の理工学部に通う高学歴女子とインカレサークルで遊んでいる女子大の女性を主人公とし、大学生になって再会して友人となったこの2人のうち、女子大女子がW大の高学歴男子から性被害を受けます。土屋うさぎ『謎の香りはパン屋から』(宝島社)では、東京出身で大阪の大学生となった主人公の女子大生が、パン屋でアルバイトをする中で日常に潜むちょっとした謎を解明する5章構成の連作短編集です。第23回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作です。柴山哲也『なぜ日本のメディアはジャニーズ問題を報じられなかったのか』(平凡社新書)では、英国BBCの報道を待たなければジャニーズ問題を報じられなかった日本の大手メディアについて、権力・権威からの圧力とそれに対する忖度、さらに、記者クラブ制の弊害などについて論じています。おおたとしまさ『子どもの体験学びと格差』(文春新書)では、学力だけではなく、非認知能力のために子どもに体験をさせようとする現在の教育界を批判し、子どものころの体験がどうであれ、それが大人になってからの格差につながらないような社会を目指すべきと主張しています。林真理子『マリコ、東奔西走』(文春文庫)では、ほぼほぼ2023年中に「週刊文春」に掲載された著者のエッセイを取りまとめています。日大理事長のお仕事もチョッピリ紹介し、また、NHK朝ドラの評価なども私の見方と大いに共通する部分があります。石持浅海『夏休みの殺し屋』(文春文庫)は、この作者の殺し屋シリーズ第4作で、殺し屋が受けた殺人依頼について、依頼者や殺害の動機、あるいは、殺人に関する期間指定や殺害方法などのオプションの理由に関する謎を解明しようと試みる5話の短編を編んだ短編集です。
今年の新刊書読書は1~5月に137冊を読んでレビューし、6月に入って先週は7冊、そして、今週の8冊を加えて計152冊となります。半年足らずで150冊超ですので、今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。

まず、保城広至『ODAの国際政治経済学』(千倉書房)を読みました。著者は、東京大学社会科学研究所教授です。本書はタイトル通りに政府開発援助=ODAについて、2つの面、すなわち、国益に利するという利己的な面と発展途上国の開発に資するという利他的な面の両方を考え、さらに、ODAに対して定性的にアプローチしつつ、加えて、かなり基礎的で、それほど凝ったものではないもののの、定量的な分析も試みています。また、政策決定者の意図という解釈学の観点も含められています。まず、量的な分析として我が国のODAは1980年代以降、経済開発協力機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)の中で、国民所得比ではDAC平均に近い一方で、国民1人当たりではやや少ない、などの統計を示しています。私も援助活動に携わったことがあり、戦後の賠償とともにコロンボ計画などに沿ってODAが始まり、日本のODA第1号がインド向けである、などといった歴史的経緯は知っているのですが、本書冒頭でもそういった歴史が述べられています。そして、日本のODAの割と初期の特徴は輸出とのリンクが強く、決していわゆるタイドの紐付き援助ではないものの、ODAの供与にしたがって輸出が伸びるという利己的・利他的の両立がなされていた点が指摘されています。続いて、外交との関係で福田ドクトリンに注目しています。すなわち、(1) 日本は軍事大国にはならない、(2) 政治経済だけではなく文化や社会など幅広い分野での相互信頼を重視する、(3) 対等平等の関係の立場からの協力を進める、の3点が福田ドクトリンの中心であり、ベトナム戦争終了後の1977年にマニラで表明されています。この福田ドクトリンの趣旨に沿ったODAの展開がなされてきた、という分析です。私は、実は逆の方向を考えています。すなわち、本書ではほとんど無視していますが、ベトナム戦争終了後というタイミングで、いかに東南アジアの開発にコミットするのか、という観点からODAが進められ、後付で福田ドクトリンや外交政策が構築されていたように感じています。ただ、東南アジア向けのODAと違って、やや特殊な位置づけがなされているのが中国向けのODAです。1979年の当時の大平総理大臣の訪中でコミットし、2021年度末、すなわち、2022年3月末を持って終了した対中国ODAについては、歴史的経緯もあってなかなか単純ではありません。本書の分析を一面的と考える読者もいそうな気がします。そのあたりは読んでみてのお楽しみですが、少なくとも日本からのODAのレシピエントであった中国が、最近ではドナー側になっており、供与埼国で「債務奴隷」みたいに、債務を返済できない場合の差押えに回っている点くらいは言及が欲しかった気がします。そして、1992年に発表された「政府開発援助大綱」の重要性を指摘していますが、私はこれも後付ではないか、と考えています。1985年のプラザ合意から大幅な円高が進み、同時に、円高の影響軽減のための金融緩和により、1980年代後半に我が国ではバブル経済が発生し、あたかも、国力がドル建てで大きく増進されたように感じただけではなく、実際にドル建てのODA額が米国を抜いて世界一のドナーになったこともあり、少し勘違いが生じていた可能性は否定できません。その後、本書でも指摘しているように、2003年、2015年と「ODA大綱」は改定されていますが、世論の支持や関心が急速に薄れたことは本書でも指摘している通りです。もちろん、他方で、レシピエント側の、主として東南アジア各国の経済成長も見逃せません。最後に、大量の参考文献をコンパクトに整理した点には魅力を感じます。ただ、こういった本の常として、お値段が購買意欲を削ぐ可能性があります。

次に、エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』(法藏館)を読みました。著者は、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学哲学科教授であり、認知科学、心の哲学、現象学などの観点からの執筆活動をしているそうです。私は専門分野が違いますし、よく判りません。英語の原題は Why I Am Not a Buddhist であり、2020年の出版です。本書は、突き詰めていえば、何かを積極的に論証しようとしているわけではなく、逆に、欧米で主流となっている仏教モダニズム、すなわち、仏教を他の宗教よりも優れているとみなし、仏教徒は本来的には合理的かつ経験主義的であり、したがって、宗教というよりは心の科学やセラピー、あるいは、哲学や瞑想に基づく生き方であるという考えを批判するために書かれています。著者によれば、こういった仏教モダニズムは、仏教がコスモポリタニズムやコスモポリタン共同体に貢献できる価値ある正当な地位に位置づけられる妨げになっている、ということのようです。そして、著者が批判の対象としている運動の中では、神経科学にも特別な地位が与えられ、仏教と相まってニューラル・ブディズムの考えが生まれ、仏教的な悟りはある種の脳の状態、あるいは、固有の神経シグネチャーを持っており、この悟りに至る道であるマインドフルネスの実践は科学的な根拠に基づいた脳のトレーニングである、とされているようです。それを本書では批判しているわけです。ここまで来ると私の理解を超える部分もあります。ただ、本書の批判の対象については、おそらく、多くの日本人読者には十分な情報がないでしょうから、そのあたりは本書を読むに際して情報として得ておく必要があります。本書では、こういった批判の対象としている例として、ジャーナリストのロバート・ライト、あるいは、彼の著書である『なぜ今、仏教なのか - 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』を上げています。ということで、日本人である私には本書の立場は至極まっとうなものであり、仏教モダニズムの方に疑問が多いと感じるのですが、米国などでは事情が違っているようです。というのも、仏教、特に、日本的な仏教が海外に知られるようになったのは、何といっても、鈴木大拙先生の影響によります。ですから、海外で仏教を基にした連想ゲームは、単純化すれば、仏教→禅→瞑想=マインドフルネス、という連想になります。我が家は浄土真宗であり、坐禅などの自力による救済にはまったく重きを置かない宗派ですから、こういった海外の仏教観には大いに違和感あります。マインドフルネスに仏教を結びつけるのさえ抵抗あります。ただ、本書では、批判対象である仏教モダニズムにおける悟り、涅槃、あるいは、空などの見方などについて、ていねいに反論を加えており、海外における仏教の「曲解」一般は別としても、もしも読者が仏教徒であるならば、本来の自分の宗教観を鍛えるのにはいいような気がします。

次に、真下みこと『春はまたくる』(幻冬舎)を読みました。著者は、小説家なのでしょうが、私は不勉強にして初読の作者さんでした。単純なストーリーとしては、高校のころは疎遠だった2人の女性の同級生が、ともに、東京の大学に通うようになって東京で再会して友人となる、というものです。2人の名は牧瀬順子と倉持紗奈です。牧瀬順子は陰キャで目立たず、高校のスクールカーストでは下の方だったのですが、東京の名門W大学理工学部に進学しプログラミングなどを勉強しています。他方、倉持紗奈は逆に陽キャで高校の中でも可愛くて、オシャレにも気を使っているものの、T女子大という、たぶん、そう偏差値の高くない大学に進学しています。この2人が東京で再会し、倉持紗奈が牧瀬順子の通うW大学の生協の学食にやって来るようになり、高校のころには考えられなかったことに、この2人の間に友情が芽生えて親しく交わるようになります。ただ、牧瀬順子の方は理工学部で実験があったりするのでズボン姿で化粧もせずにいる場合があったりする一方で、倉持紗奈は髪を明るくしたりしてオシャレにも気を使っています。質実剛健で勉強に励む牧瀬純子に対して、倉持紗奈は三角関数には理解が及ばない程度で、W大生からは軽く見られる一方で、逆に、W大生などの「高学歴男子はちょろい」と考えていたりします。そして、インカレのテニスサークルに入った倉持紗奈が性被害に遭います。男子3人女子2人の宅飲みで、もう1人の女子大生がキャンセルしたため、倉持紗奈は女子1人で参加して未成年飲酒をした上で被害に遭うわけです。性被害に遭った当初は、生理が来ずに妊娠も疑われましたが、妊娠は結果的に回避できていました。その後のストーリーは読んでみてのお楽しみです。牧瀬順子は倉持紗奈に対して、警察に訴えたり、あるいは過激にもSNSでの拡散を持ちかけたりしますが、当然に、倉持紗奈は泣き寝入りします。女子1人で派手なファッションで従業員や他人のいるお店ではない宅飲みに行って、未成年飲酒したのですから出るところには出られない、というわけです。そして、これも女性が性被害に遭った際によく聞くお話として、激しく自分で自分を責めることになります。ただ、かなり表面的で、しかも、いかにもあり得る的なストーリーです。その意味で、深みに欠ける気がしてなりませんでした。私は悪いヤツにはもっと大きな罰が下ってもいいような気すらしました。その意味で、私は読後感が悪かったのですが、もちろん、別の意味で読後感は決してよくありません。私の場合は何となく大学生を相手にする職業上の興味で読んでみた、といったところです。

次に、土屋うさぎ『謎の香りはパン屋から』(宝島社)を読みました。著者は、大阪府箕面市生まれ、東京都府中市育ちで、大阪大学工学部応用理工学科を中退し、現在は漫画アシスタント兼漫画家をしつつ、本作品が第23回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、小説家デビューをしているそうです。ということで、舞台は阪急線石橋阪大前駅にある商店街のパン屋ノスティモです。ただ、ノスティモはパンだけではなくスイーツの部門があります。販売だけでなく、イートインできるスペースも持っていたりします。そして、主人公は一倉小春であり、ノスティモでアルバイトをしている大学1年生、私の想像ではおそらく阪大生で、作者とは逆に東京で生まれ育って大阪の大学に進学しています。そして、ストーリーは5章構成の連作短編集となっています。働く仲間には堂前店長や他のアルバイトがいて、パン屋が舞台となりますのでクロワッサン、フランスパン、シナモンロール、チョココルネ、カレーパンにちなんだストーリーとなっています。まず、「焦げたクロワッサン」では、小春と同じようにソーシャルゲーム『想剣演舞』のファンであり、やっぱり、ノスティモでアルバイトしている親友がアルバイトをやめるといい出します。「夢見るフランスパン」では、スイーツのパティスリー部門からヘルプに来た堀田紗都美が、なぜかフランスパンにクープ=切れ目を入れられません。「恋するシナモンロール」では、近くの、というか、堂前店長の出身校である豊中中央高校の幼なじみの男女の同級生が店に来て、イートインスペースでコーヒーがこぼれて男子生徒のカバンのお守りを汚してしまいます。「さよならチョココロネ」では、バレエを習う小学生の凛の母親の葉子がバレエ教室に行く途中でオートバイに乗ったひったくり被害に遭って、バッグからぶちまけられたうちで、母親の財布ではなく凛の財布だけが持ち去られます。「思い出のカレーパン」では、近くに住んでいて夫を亡くした梢江がノスティモに来て、夫が生前に夜勤明けに買ってきてくれたカレーパンを探しているといいます。はい、どの短編もよく出来ていて、ちょっとした日常生活に潜む謎の解明が鮮やかでした。ただ、日常の謎については謎のまま放置したほうがよくね、と考えられるものもあったりします。でも、ホームズのような専門の探偵ではあるまいし、そんなにしょっちゅう殺人事件が起こるという不自然さを回避できる日常の謎ミステリは、私も大好きです。

次に、柴山哲也『なぜ日本のメディアはジャニーズ問題を報じられなかったのか』(平凡社新書)を読みました。著者は、ジャーナリストであり、朝日新聞や朝日ジャーナルでのご経験が長いように見受けました。本書で取り上げているテーマはタイトルから明らかだと思いますが、サブタイトルの「記者クラブという病理」が少しミスリードです。記者クラブに大きく依存した取材が主たる原因ではないのではないか、と私は考えているからです。要するに、BBCの報道を待たなければ、どうして日本の大手メディアはジャニーズ問題を報じられなかったのか、というテーマです。すなわち、芸能界だけでも、本書で取り上げているジャニーズ問題のほか、宝塚歌劇団いじめ事件、松本人志セクハラ裁判などなど、いろいろとありますが、その本質は、本書冒頭 p.4 にあるように「人間の尊厳の毀損」や「人権意識の不在」ではないか、という点に関して私も賛成です。マルクス主義的な見方ながら、生産手段を持たない労働者階級が労働サービスを売ることによって生計の基となる賃金を得る資本主義システムが、物神化=フェティシズムにまで達し、人間がその尊厳を尊重されることなくモノ化していることに大きな原因があります。ただ、社会主義革命を待たなくてもできることはいっぱいあると私は考えます。第1章冒頭では、当時の東洋経済新報社の主筆で、戦後に短期間ながら内閣総理大臣となった石橋湛山の大政翼賛会批判が取り上げられています。現実では、現在のメディア界の「新しい戦後」を私は大いに懸念しています。例えば、本書では、第3章で国境なき記者団(RSF)による報道の自由度ランキングにも注目しています。2009年に政権交代した直後の鳩山民主党内閣の際には、世界で11位まで上昇した日本の報道の自由度が、2012年の安倍内閣の成立とともに低下し始め、2024年には180国中で70位まで低下した事実に言及しています。なお、私が調べた範囲では、2025年には66位にチョッピリ上昇しています。その要因として、本書では政治権力からの圧力と、それに対するメディア側での忖度、サブタイトルにあるような記者クラブ制の弊害、そして、経済的停滞の4点を上げています。はい、私もおおむねその通りだと思いますが、メディア側の要因をもっと重視すべきではないかと考えています。すなわち、政治権力だけではなく、現在のメディアはあらゆる権力や権威に対して対抗できるだけの勢力となっていません。本書のテーマである芸能界の権力・権威もそうですし、東京から関西に引越して強く感じのは、それほどメインストリームのメディアではないスポーツ新聞まで、関西では阪神タイガースに対する批判が出来ないようです。監督の采配批判とかを報じたら、特オチとか何らかの報復措置があるんではないか、とすら感じることがあります。政治権力だけではなく、芸能界、さらにスポーツ界までニュースソースになりそうなあらゆる分野の権力や権威に忖度しまくるメディアは、もはや、メディアの名に値しない気すらします。ちなみに、ツイッタで見かけたDr.ナイフのツイート「日本のクオリティペーパー ベスト5」では1位が赤旗で、2位が週刊文春となっていました。この後に朝日新聞などが続くのですが、全国紙各紙はこのツートップをどう見ているのでしょうか。

次に、おおたとしまさ『子どもの体験学びと格差』(文春新書)を読みました。著者は、教育ジャーナリストだそうです。実は、2か月ほど前の今年2025年4月半ばに今井悠介『体験格差』(講談社現代新書)を取り上げて、親の所得格差が子どもの体験格差につながり、子供のころの体験が少ないと社会情動的スキル、例えば、grit=やり抜く力などの非認知能力の格差を生み出し、子どもの将来の選択肢を狭める恐れがあることから、低所得家計への補助などを模索する動きについて紹介しています。しかし、本書は、この『体験格差』に対する批判も込めて、別の方向を打ち出しています。すなわち、メリトクラシー、あるいは、ハイパー・メリトクラシーに基づく格差を批判し、子どものころの体験がどうであれ、それが大人になってからの格差、特に、経済的な、あるいは、所得の格差につながるような経済社会を批判しています。はい、私は完全に宗旨替えしました。本書の主張に大きく賛同します。そして、本書ではそれほど明確には言及していませんが、こういったメリトクラシー批判はサンデル教授が数年前に『実力も運のうち 能力主義は正義か?』で主張していたポイントとほぼほぼ一致しているような気がします。加えて、本書では、子どもの体験を過剰に重視することが、別の意味で、親の経済的あるいは時間的負担を大きくし、親の方のウェルビーイングも毀損する可能性を指摘しています。また、体験学習ビジネスに対する批判にも鋭いものがあります。そうです。親に対しては子育ての一環としての体験学習を強迫症状的に考えさせている可能性を指摘していて、これは統一協会の「霊感商法」と根っこでは似通っているものがあるのではないかと私は感じています。おおよそ、これが第1章の主張のエッセンスであり、第2章と第3章は実際の実践活動を紹介している部分が少なくなく、まあ、私は本書を読み通しましたが、場合によっては第1章を読むだけで十分な読書効果が得られるような気もします。いずれにせよ、一般的な学力向上を目指し認知能力を育もうとする学習とともに、非認知能力を伸ばそうとする体験についても、こういった子どものころに受けた教育や生活上の実践などで身についたスキルが、後々の50年60年の長きに渡る人生の差を生み出すシステムに問題があるという気がしてなりません。それでは、努力を評価しないのか、といわれれば、決してそうではありません。特定の認知能力や非認知能力だけが評価される理由は成果としての生産性に直結しているわけで、経済学的な付加価値を生み出すのには有効かもしれませんが、そうではないスキルも正当に評価されるべきである、というのが、本書を離れての私の考えです。稼ぎ出せる所得だけで人間を評価するのを止めるべきで、そのための努力しか評価しないのは不当であり、もっと多様な人々からなる経済社会を目指すべき、というのが、繰り返しになりますが、本書を離れた私の主張です。最後の方は、ブックレビューではなくなってしまった部分もあります。ご容赦ください。

次に、林真理子『マリコ、東奔西走』(文春文庫)を読みました。著者は、直木賞作家の小説家・エッセイストであるとともに、本書の売り言葉にあるように、日大の卒業生であり、日大理事長もお務めになっています。「週刊文春」に連載されている著者のエッセイを取りまとめて単行本にし、さらに本書はその文庫版です。収録されている期間は「週刊文春」の発刊日で見て、2022年1月13日号から2023年1月5-12日新春特大号までとなります。ですから、ほぼほぼ2023年1年間をカバーしていて、5月のゴールデンウィーク明けにはコロナの感染法上の分類変更があった、ということになります。はい、私はこの作者のエッセイを前々から読んでいるわけでは決してなく、まあ、「マリコ、日大理事長になる」という本のうたい文句にひかれて大学の図書館で借りて読んでみました。当然ながら、日大理事長としての職務や日大の理事会などの生々しい内幕暴露話をエッセイで取り上げているわけでもなく、その意味では少し物足りませんでしたが、直木賞作家のペンにより、さまざまな社会の出来事を取り上げて論じています。繰り返しになりますが、収録期間が2023年ほぼ丸ごと1年で、後半のゴールデンウィーク明けにコロナの感染法上の分類変更があって、まあ、なんと申しましょうかで、その意味で、社会生活が「正常化」した、ということになります。そして、さかのぼれば、2021年11月に当時の田中理事長が逮捕され、その後の2022年7月ですから、本書のカバレッジの期間の前で、著者は日大理事長に就任しています。そして、さらに時系列を続けると、本書のカバーする期間内の日大の事件としては、2023年8月にアメリカンフットボール部で薬物事件が発生しています。まあ、本書の背景についてはこれくらいとします。話題を大きく転換して、私が大いに共感したのはNHKの朝ドラの評価です。本書の執筆期間前の「カムカムエヴリバディ」をきわめて高く評価し、それに続く「ちむどんどん」をディスっています。私を含めて世間一般の評価とかなりの部分で一致するように受け止めています。我が家がジャカルタから帰国してからの20年余りで、私のNHK朝ドラ評価のトップは何といっても「エール」なんですが、それとほぼ同等の評価ができるのが「カムカムエヴリバディ」だと思います。ほかは、私のような散漫な読書だと忘れてしまった部分が多くあるような気がします。さすがの文章力ですからスラスラと読めて、その分、頭には残りにくいかもしれませんが、時間つぶしにはピッタリです。

次に、石持浅海『夏休みの殺し屋』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。この作者による殺し屋シリーズ第4作です。前3作は、『殺し屋、やってます。』と『殺し屋、続けてます。』と『男と女、そして殺し屋』になります。私はすべて読んでいて、レビューも明らかにしていると思います。ですので、登場人物などのおさらいから始めます。基本は独立した短編集です。主人公の殺し屋は男女2人いて、何の連携も取っておらず独立しています。2人とも副業めいた殺し屋家業です。ただ、3作目の『男と女、そして殺し屋』と本作品では同じ短編に2人同時に登場するものもあります。男の殺し屋は富澤允、経営コンサルタントをしています。女性の方は鴻池知栄、アクセサリをネット販売しています。ですので、必ず殺人事件が起こるわけですが、犯人は殺し屋ですので犯人解明がミステリの主眼ではありません。殺人の依頼者は誰なのか、どうして殺人の依頼があったのかといった動機、あるいは、殺人に関する期間指定や殺害方法などのオプション指定があった場合の理由、などなどを殺し屋ご本人が解明しようと試みるわけです。ということで、本書は5話の短編から編まれています。あらすじなどは、順に、「近くで殺して」の殺し屋は富澤允です。大学院生をターゲットとする殺人依頼が来ます。オプションで依頼者への殺害の日付・時刻の報告と第1発見者の指定があります。「人形を埋める」の殺し屋は鴻池知栄です。ターゲットは30代後半の一人暮らしの女性です。奇妙なことに、畑に人形を埋め続けるの行動を繰り返しています。「残された者たち」の殺し屋は富澤允です。ただし、殺人事件の背景についてさまざまな推理を巡らせるのは殺し屋ではなく、被害者の同僚やその妻たちだったりします。会話とともにモノローグで謎が解き明かされます。「花を手向けて」の殺し屋は鴻池知栄です。ターゲットは20代半ばの好青年です。期間指定と死体に椿の花を添えてほしいというオプションがつきます。最後に、「夏休みの殺し屋」は富澤允と鴻池知栄の両方が登場します。したがって、というか、何というか、短編よりは少し長くて中編くらいのボリュームで章立てがなされています。独立した営業をしている殺し屋が2人ですのでターゲットも2人いて、自殺事件のあったお嬢様女子高校の生徒の母親、それから、その高校の別の女子高生です。タイトル通りに、夏休みが明けるまでという期間限定のオプションがつきます。どうして、依頼者や動機とともに、そのお嬢様女子高校で起こった事件の真相も含めて殺し屋たちが推理します。
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