今週の読書は経済書や政治学の学術書をはじめ計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、岩田一政・日本経済研究センター[編著]『2075 次世代AIで甦る日本経済』(日本経済新聞出版)では、50年後の2075年の日本経済について、AIの活用が進んで明るい展望が持てる改革の未来のほか、停滞の未来や悪夢の未来の3つのシナリオを考え、人口やGDPの規模といったデータに基づいて議論しています。此本臣吾[監修]。森健[編著]・NRI拡張社会研究会チーム[著]『AIで拡張する社会』(東洋経済)では、野村総研のグループがAIにより人間の知力の拡張やマクロ経済などの社会の拡張を通じて、知性、労働、経済の未来予想図を考えています。もちろん、個人情報保護やAIの暴走といったリスクも議論されています。上川龍之進『消費税と政治』(有斐閣)では、消費税の導入と税率引上げの長期の歴史を後づけています。すなわち、財政再建策としての消費税がどのように位置づけられ、歴代首相がどのような理念や思惑で導入・税率引上げを進めたかを官僚・財界・世論の影響も含めた政治過程として描き出しています。小倉充夫『民主主義の躓き』(東京大学出版会)では、民衆、暴力、国民国家の3つの要素から、民主主義がタイトル通りに躓きを内包しつつ、歴史的に進化ないし発展してきた過程を分析し、未完の統治形態である現在の民主主義の危機を解明しようと試みています。新自由主義が民主主義を劣化させている、とも主張されています。豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書)では、戦後広く信じられてきた核抑止論を根本的に批判していますが、それでは実際に核兵器を廃絶し、あるいは、その前段階で核兵器の削減を進めるにはどうすればいいか、については、それほど説得力ある議論がなされているとも思えません。唐沢かおり『「気が利く」とはどういうことか』(ちくま新書)では、他者に配慮した「気が利く」行動や言動については、学習できるスキルである、としつつも、弊害も同時に指摘していて、自分で心をすり減らしてしまったり、見透かされて逆効果だったり、過保護に陥って成長を妨げたりする可能性も指摘しています。
今年2026年の新刊書読書は、1月中に24冊、2月に入って7冊、今週の6冊を加えて合計37冊となります。また、これらの新刊書読書のほかに、瀬尾まいこ『その扉をたたく音』(集英社文庫)も読んでいます。ただ、新刊書ではないので、本日のレビューには含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のツイッタ)、あるいは、mixi、mixi2などでシェアしたいと予定しています。
まず、岩田一政・日本経済研究センター[編著]『2075 次世代AIで甦る日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。編著者は、私と同じ内閣府ご出身で日銀副総裁も務められた大先輩のエコノミストです。本書では、現状維持の停滞の未来、AIの活用が進んで明るい展望が持てる改革の未来、そして、現状維持よりももっと悪い悪夢の未来の3つのシナリオを示し、本書と同様のタイトルの日本経済研究センター(JCER)の長期予測「2075年 次世代AIでよみがえる日本経済」の研究成果を基にした長期の将来予測です。そもそも、約50年後の2075年には私は生き長らえていないでしょうし、経済学的な予測がそこまでのことを可能にできるかどうかは疑問ですが、あくまで、可能性としての将来予測、ということで考えておくにとどめるべきだという気がします。現状維持的な未来では、世界的に汎用AIの導入が進む一方で、日本では遅れが目立つものの、総人口は9000万人台で下げ止まる一方で、改革が進めばAIの導入によって医療や介護を軸にした成長が達成され、総人口も1億人超を維持する、ということになります。悪夢のシナリオでは世界的に保護主義が蔓延し、日本国内でも格差が拡大する一方で貧困も増加し、社会保障は破綻する、ということになります。改革が進めば、ケインズの「わが孫たちの経済的可能性」にあるような労働時間の大幅な削減が可能となり、教育投資の拡大による人的資本の強化が図られ、現在のようなメンバーシップ型ではないジョブ型の雇用がさらに普及し、繰返しになりますが、人口は1億人を維持できることになり、GDPの規模も世界4位にとどまる、という未来が描かれています。ただ、ではどうすればいいのか、については4章で改革シナリオが示されているのですが、現時点でいわれていることの寄集め、としか私には見えませんでした。この改革シナリオでは、いいところ現状維持の停滞の未来のシナリオが実現されるだけなのではないか、という疑問が残ってしまいました。ただ、さすがに、狭い意味での経済だけではなく、カーボンニュートラルや世代間格差などのテーマにも手を広げており、日本社会全体を視野に収めた幅広い議論が展開されています。さらに、単なる方向性や印象論だけではなくデータの裏付けが示されていますので、それはそれで参考になる部分が少なくないような気がします。私自身は2章の現状分析や3章の標準的なシナリオ設定の議論が勉強になりました。参考文献もしっかりしています。
次に、此本臣吾[監修]。森健[編著]・NRI拡張社会研究会チーム[著]『AIで拡張する社会』(東洋経済)を読みました。著者は、野村総研(NRI)のグループです。本書は3部構成であり、第1部はAIの現在までの進化と将来の予想、第2部は人間を中心に据えた知力の拡張、第3部はマクロの社会の拡張を考えています。表紙画像のサブタイトルに見られるように、知性、労働、経済の未来予想図を考えています。まず、AIが拡張する知力としては6項目を並べています。すなわち、予測する=Predict、識別する=Distinctify、個別化する=Customize、会話する=Comunicate、構造化する=Model、創造する=Create、となります。その萌芽的な実例がp.74図表3-1に示されています。そして、単なるソフトウェアとしてのAIだけではなく、フィジカルなロボットも同時に議論していて、ロボット店員なんてのも議論されています。自動運転はソフトに重きがあるものの、ハードとしての自動車も考えれば、中間的なものかもしれません。ただ、私が少しびっくりしたのは、カーネマン教授の指摘するシステム2だけではなく、システム1も可能なAIが登場する可能性です。演算の速さから考えて、時間をかけるシステム2がAIの主たる活躍の場であることに変わりないのでしょうが、システム1も実装するAIが登場する可能性も本書では指摘しています。ただ、AIに対するキーリソースとして、学習データ、半導体、電力、冷却水を上げていて、AI活用の制約を考えるとともに、もちろん、個人情報保護やAIの暴走といったリスクも忘れてはいません。私は賢い人が詐欺に走ったら、私のような凡人がコロリとだまされて、被害が大きくなると前々から考えていたのですが、そういったAI詐欺についても取り上げています。もちろん、労働がAIで代替された失業も議論されています。詳細は読んでみてのお楽しみです。本書を読んでいて、私の最大の疑問はAIは人間を補完するのか、あるいは代替するのか、という観点です。本書では前者の補完を主として考えていますが、労働や雇用を考えると代替の観点も忘れるべきではありません。場合によっては、人間がAIに知性の点で凌駕され、AIが操るフィジカルなロボットはもともと人間の身体能力を上回っていて、人間がAIに支配される、あるいは、隷従するという将来が考えられなくもありません。AIはマイクロな個々人に対するリスクとチャンスの両面ありますが、マクロな経済社会にもリスクとチャンスの両方があり得ることは忘れるべきではありません。その意味で、日本はAI利用が遅れていたので助かった、被害が小さかった、という未来もあり得る、と私は考えています。
次に、上川龍之進『消費税と政治』(有斐閣)を読みました。著者は、大阪大学大学院法学研究科の教授であり、ご専門は政治過程論、現代日本政治、行政学だそうです。本書はあとがきにあるように、著者による「財政政策に関する研究の集大成」(p.377)と位置づけられています。今年2月の総選挙でも消費税減税が各政党の公約として持ち出されましたし、加えて、私の専門とする経済学の隣接領域でもあり、読んでみた次第です。構成としては、序章と第1章で日本の財政赤字について概観し、そもそも、国際的にもかなり小さな政府で政府予算の歳出の規模は決して大きくないにもかかわらず、先進国の中で突出して公的債務残高が大きい謎を示し、要するに、歳入が歳出に輪をかけて少ないからである、と指摘しています。まあ、当然です。その上で、第2章で1965年度の赤字国債発行から始まって、第8章のアベノミクスまで、延々と消費税の導入と税率引上げの歴史を後づけています。すなわち、財政再建策としての消費税がどのように位置づけられ、歴代首相がどのような理念や思惑で導入・増税を進めたかを、官僚・財界・世論の影響も含めた政治過程論として描き出しています。この部分は、ひつは本書の中心かもしれませんが、エコノミストの私にはそれほど関心ないところで、昼食に知り合いのエコノミストとビールを飲んで酔っ払って、半分居眠りしながら流し読みしてしまいました。著者と出版社も考え合わせて、完全に学術書なのでしょうが、こういった歴史回顧の部分が多くのボリュームを占めていて、多くのビジネスパーソンにも判りやすくなっている反面、私には物足りなく見えました。ただ、しっかり読めば消費税の導入と税率引上げに関する政治過程論として十分な内容なのかもしれません。ただ、エコノミストの目から見て、消費税に関する多くの政治的決定が総理大臣のパーソナリティから論じられている気がして、財政の背景にある経済の景気動向などが少し軽視されている印象があります。特に、終章の総括において、p.341以下の財政再建への態度の要因分析があまりに雑で、分析というよりは適当に分類しただけのように見えます。まあ、それは、政治過程論だから経済学的観点は一部捨象されている、ということなのかもしれません。政治過程論であるならば、いわゆる中選挙区制のころの総理大臣官邸と大蔵省のパワーバランスと小選挙区になってからの官邸と大蔵省/財務省のパワーバランスはもう少していねいに分析してほしかった気がします。最後の最後に、タイトルが消費税であって、サブタイトルに財政再建が入っていますが、小泉内閣の時の三位一体改革がまったく無視されています。中央政府と地方政府の関係なども、それほど歴史をさかのぼることなく、最近の分だけでもOKなので、もう少していねいに論じてほしかった気がします。その意味で、ほぼほぼ消費税の歴史の本でした。
次に、小倉充夫『民主主義の躓き』(東京大学出版会)を読みました。著者は、津田塾大学の名誉教授です。本書は、副題にあるように、民衆、暴力、国民国家の3つの要素から、民主主義がタイトル通りに躓きを内包しつつ、歴史的に進化ないし発展してきた過程を分析し、未完の統治形態である現在の民主主義の危機を解明しようと試みています。ですので、民主主義ですから、当然に、ギリシアから歴史が始まります。ただ、実際に近代ないし現代で民主主義の画期のひとつとなったのは1968運動であり、代議制民主主義に対する市民の直接的な抗議活動から本格的な分析を始めています。日本ではベ平連が活躍した時期であり、70年安保につながります。ただ、民主主義にはいくつかのタイプがあるかどうかも議論しており、西欧や日本の民主主義だけではなく、植民地支配を受けていたアフリカにおける単一政党による民主主義の可能性についても考えています。本書においても、歴史的な民主主義の範囲の広がりが示されます。投票というやや狭い範囲での決定の方式としての参政権の観点からは、資産や納税額による制限から始まって、そういった制限の緩和ないし撤廃、さらに、男性から女性への参政権の広がりを経ているのは、広く知られたところです。さらに、米国などでは黒人奴隷、植民地では現地住民の参加などに広がるわけです。民主主義批判のひとつの観点はこういった参加の広がりが愚民制に陥る、という視点です。他方からの批判は、数少ない民主主義を執行するエリートは真に国民を代表していない、という批判です。そういった議論にていねいに本書は応えようと試みています。そのあたりは読んでみてのお楽しみといえます。本書がすぐれていると私が考えるひとつの点は、民主主義を参加と統治の形態と捉えていることです。識者の中には民主主義を狭く投票による決定の方式であると考える向きがありますが、私は本書と同じ考えをしています。ですので、本書でも強く批判している新自由主義的な考えが民主主義を劣化させていると考えています。新自由主義は市場の重視であり、市場に供給された商品を貨幣の所有という意味での購買力にしたがって配分することを重視します。厚生経済学の基本定理から、市場の価格に基づく配分がもっとも効果的だからです。他方で、ピケティ教授が脱商品化といっているや、斎藤幸平准教授がコモンの拡大、といっているのは、私は同じと考えていますが、貨幣を持っている購買力ではなく、必要性や適性などに応じてさまざまなリソースを配分するというやり方もあります。現在の日本では教育や医療などの社会保障がそうなっています。加えて、住宅、交通、通信、食料なども購買力に基づく配分をヤメにすることを考えるべき時期に差しかかっている、と私は考えています。そして、それについて多くの参加者が熟議し、統治システムとして結論を出すのが民主主義だと考えます。経済から少し離れた参加や統治について、私の専門外ながら、とてもタメになる読書でした。
次に、豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書)を読みました。著者は、国際政治学者・外交史家であり、京都大学法学部助教授、立命館大学教授、関西学院大学法学部教授などを歴任し、ご専門は国際政治論・外交史だそうです。本書は、第2次世界対戦後における冷戦期やその後の核抑止論を根本的に批判する目的を持っています。すなわち、戦後、広く信じられてきた核抑止論は、核兵器の保有により事前はもちろん、先制攻撃を受けた後でも、相手国を確実に大規模に破壊できるという脅威を見せつけて、攻撃を抑止するというものです。ですから、私の理解によれば核兵器が開発される前の通常兵器の時代の論理、すなわち、勢力均衡=balance of powerとはやや異なっています。本書でも勢力均衡は一向に現れません。批判はまず、私が考えても理解できるのですが、核兵器の使用により大規模な破壊が実現する可能性がどこまで認識されるかです。相手国に大規模な破壊をもたらす可能性や蓋然性が、決して、客観的ではなく相手国の主観的な受取り方次第の不確実なものである、という点は考えておく必要があります。実に、20世紀前半の日本は、まったく客観的ではない認識に基づいて戦争を開始し遂行したことは忘れるべきではありません。加えて、核兵器使用が狂気、ないし、狂人の仕業であるという点も本書では強調しています。米ベトナム戦争当時の国ニクソン大統領の発言からの狂人理論も印象的です。ですので、そういった従来からの核抑止論への批判はとても適切なのですが、それでは、実際に核兵器を廃絶し、あるいは、その前段階で核兵器の削減を進めるにはどうすればいいか、については、それほど説得力ある議論がなされているとも思えません。もちろん、そんなに決定的な手段があるのであれば、誰かがすでに実行しているでしょうから、核廃絶を目指す勢力を拡大させ、核保有国への圧力を高めることにより段階的な核兵器の削減やその先の廃絶を地道に目指す、というしかいいようがないのかもしれません。そういった究極の核兵器廃絶という目標に対して、一昨年2024年の被団協=日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞は画期的であったと私は評価しています。
次に、唐沢かおり『「気が利く」とはどういうことか』(ちくま新書)を読みました。著者は、東京大学大学院人文社会系研究科教授であり、ご専門は社会的認知だそうです。タイトルになっている「気が利く」というのは振る舞い方と見られ方に関してであり、他者が望むこと、他者が嬉しく思うことに応答する、また、他者がどう解釈するかに関する自分の評価、だそうで、判りにくいのですが、要するに、他者に配慮した行動や言動であり、もっと重要な点は、学んで学習できるスキルである、ということです。他者との円滑な人間関係を築くということなのですが、本書ではその弊害も同時に指摘していて、何ごとも「過ぎたるは及ばざるが如し」といえます。気が利くように思われようとし過ぎると、逆に、自分で心をすり減らして精神的に参ってしまったり、他者から見透かされて逆効果だったり、あるいは、私のような教員からすれば、他者を助けすぎて過保護に陥って成長を妨げたりする可能性もあると指摘しています。ですので、気が利くというのは決して万能ではなく、ネガな面もあることを意識すべき、という結論です。当然、不適切な配慮というのもありえます。ですから、「気が利く」を学ぶハウツー本をひも解く前に、その基礎的な理論を解明するため、こういった心理学のきちんとした本を読んでおくのも重要だという気がします。ところで、私の専門である経済学では、アダム・スミスのいうところの「見えざる手」が人々の利己的な経済活動を調整します。ですから、「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」として、市場における価格付けによる分散的な資源配分が実現されることを示しました。他者からどう見られるか、どう思われるか、ではなく、自分の利益を考えれば経済活動は見えざる手で調和が図られる、気が利く必要はない、ということになります。最後の最後にどうでもいい点がら、有名なナイロンストッキングの評価に関する心理学実験の論文が本書でも引用されていて、ニスベットの論文とされています。私はこの論文を読んだことがあるのですが、ウィルソンとニスベットの共著論文です。しかも、ファースト・オーサーはウィルソンであったと記憶しています。でも、なぜか、本書に限らず、いつも「ニスベットの論文」として言及されるケースが多いような気がします。謎です。
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