今週の読書は経済書・歴史書、それに現代小説や時代小説にミステリまで計7冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、野村総合研究所コンサルティング事業本部『日本の差別化戦略』(東洋経済)では、人口減少とそれに伴う人手不足、加えて、生産性の低さなどに起因する経済成長の停滞といった日本の弱点に対して、国や地方、企業、また、個人がどのように対応すべきかを議論しています。ダリン M. マクマホン『<平等>人類史』(作品社)では、原始共産制のような段階から説き起こして、搾取に伴う奴隷制が始まった一方で、キリスト教が神の愛の平等を説き、啓蒙主義的な近代的な平等思想から、20世紀初頭のロシアにおける共産主義革命における平等の追求など、平等の歴史を概観しています。綿矢りさ『グレタ・ニンプ』(小学館)では、4年続けた不妊治療や妊活を諦めた途端、自然妊娠した妻が、見た目も、言葉使いも、行動も大きく変化し、最初は驚きばっかりだった夫も段々と受け入れるようになっていく変化がとても、何というか、綿矢ワールド全開で描写されています。ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』(春秋社)では、巨漢で色黒、見た目が悪い上に、体臭もきつく、お付き合っていた女性から振られたアレが、37歳の誕生日に24時間後に自殺を決意し、翌朝に屋台のミーアヤムを食べようとするのですが、それからさまざまなことが起こります。中村隆之『今こそ経済学を問い直す』(講談社現代新書)では、市場における金銭の支払い意思で示される購買欲求に応じたリソースの配分ではなく、社会的な必要に応じた配分という経済学を志向しています。とてもいい経済書です。広くオススメできます。貴戸湊太『有能助手は名探偵を操る』(ハーパーBOOKS+)では、ビジュアルはいいものの推理はへっぽこな名探偵とその名探偵を操る有能な助手のコンビが主人公で、ただし、そういった逆転をコミカルに描き出すだけではなく、しっかりと本格的な謎解きが展開されているところが魅力です。砂原浩太朗『藩邸差配役日日控』(文春文庫)では、徳川期の神宮寺藩7万石の江戸藩邸の差配役を務める里村五郎兵衛が、今でいえば総務部総務課長のような役どころで、藩邸内の「なんでも屋」と揶揄されるように、さまざまな出来事に対処します。さまざまな伏線が最後に回収されます。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入って先週の6冊と今週の7冊を加えて合計110冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。
まず、野村総合研究所コンサルティング事業本部『日本の差別化戦略』(東洋経済)を読みました。著者であるコンサルティング事業本部が所属する野村総合研究所(NRI)は、1965年に日本初の本格的な民間総合シンクタンクとして設立され、2025年で創立60周年を迎えたそうです。本書の最大の問題意識は人口減少とそれに伴う人手不足です。それらに加えて、生産性の低さが経済成長の足を引っ張っているという事実も忘れるべきではありません。こういった日本の弱点に対して、国や地方、企業、また、個人がどのように対応すべきかを本書では議論しています。ですので、冒頭章で人口減少や人手不足をデータで概観した後、続く3章で国だけでなく地方の戦略の重要性を指摘し、企業の成長シナリオを論じ、最後に個人の働き方やその基礎となるキャリア形成について分析しています。まず、何と言っても、国と地方の戦略でもっとも重荷になるのが医療や介護をはじめとする社会保障経費です。また、ここでは、私の所属する高等教育の役割も議論されています。留学生対応だけではなく、大学での英語授業の拡大をひとつの解決策として考えています。私は留学生向けの修士論文指導を英語でやっていますが、それほど簡単ではないのは容易に理解できると思います。労働力不足についても、いくつか興味深い試算を提供しています。第1章の最後のpp.34-35では、人口減少を前提とした豊かな社会実現について、3つの視点を提供しています。このあたりは、読んでみてのお楽しみです。第2章の国や地方向けの差別化戦略では、東京はいいとしても、地方の企画人材やグローバル人材の偏在を分析し、国内外の経験を収録しています。ただ、コンサルらしく失敗例は見受けられません。第3章の企業向けの成長戦略では、単に規模別だけでなく、グローバル大企業、グローバルニッチ企業、地域の大企業、地域のニッチ企業、フォロワーやスタートアップの中小規模企業の5つのカテゴリーから分析を進めています。最終章の個人向けの視点では、企業スペシフィックなスキルアップではなく、キャリア自律を目指す社会情動的スキル(SES)を提唱し、北欧諸国の例などに言及しています。最後の最後に、いつもこういったコンサルの事例紹介を含めた分析結果を見るにつけ、私なりに考えるのですが、成功例の紹介の裏には失敗例もいっぱいあるんだろうな、という気がします。加えて、この成功例が実践できないからこそ、現在の日本があるのではないか、と考える読者もいっぱいいそうです。
次に、ダリン M. マクマホン『<平等>の人類史』(作品社)を読みました。著者は、米国ダートマス大学の歴史学教授だそうです。英語の原題は Equality: The History of an Elusive Idea であり、2023年の出版です。本書はタイトル通りに、不平等ではない平等の歴史を概観しています。昨年2025年の今ごろの5月に、私は田中将人『平等とは何か』(中公新書)を読んでいます。そこでは、ロールズやスキャンロンの平等観を発展させて、実証研究ではなく規範研究の方法を取って平等について考えていました。本書では、まず冒頭の序文で、平等の歴史であって、不平等の歴史ではない点が強調されています。しかも、生物学的に、というか、何というか、チンパンジーやボノボの世界は決して平等ではない、という点も強調されています。ついでながら、マルクス-エンゲルスも平等と平等主義の政策には批判的だった、とも言及されています。その上で、太古の昔のいわゆる原始共産制のころから始めて、平等について歴史的な見方を示しています。注を含めて500ページを超える力作であり、3部構成となっています。マルクス主義的な歴史区分で示せば、第Ⅰ部で原始共産制から奴隷制くらいまで、第Ⅱ部で古典古代のギリシア-ローマ時代から近代初頭のフランス革命くらいまで、第Ⅲ部でそれ以降の近代から現代に焦点を当てています。私の勝手な読み方かもしれませんが、生産拡大とともに剰余生産物を獲得するため、初期国家に神々が創造されて、その片方で奴隷も誕生し、搾取が始まって平等は失われます。古典古代のギリシアやローマでは奴隷が生産に従事し、平等とは市民、とくに、男性の市民の間での関係性となります。女性、奴隷、外国人は公共の場での活動から除外されます。そして、キリスト教が広まります。神のもとでの平等が導入され、神の愛により自由民と奴隷は平等と考えられるようになります。さらに、ストア派は人間の潜在能力の同等性を主張しはじめ、これは人々の解放の可能性を秘めていた、と本書では主張しています。このあたりは、キリスト教の教義には詳しくないので、私には微妙に理解が進まない点だったりします。そして、暗黒の中世をすっ飛ばして、人類の平等の近代的な起源は啓蒙主義との指摘があります。これは大方のコンセンサスかと私は考えています。ルソーの『人間不平等起源説』や米国独立革命についても言及されています。ただ、この両者の平等観に大きな違いがあるのは周知の事実かと思います。また、私の専門分野に関連して、経済学の父であるアダム・スミスの平等観がp.199にあり、各人の生まれつきの才能の違いは実際には小さい、との指摘が『国富論』から引用されています。フランス革命を経て、さらに、20世紀初頭のロシアにおける共産主義革命から、平等の追求が大きく前進した、との指摘は、まあ、そうなのだろうと私も考えます。ただ、同時に、プルードンからの引用ながら、共産主義とは不平等なものであり、弱者が強者を搾取する、という観点も言及しています。そして、再度、マルクスが共産主義について平等・公平と考えていた根拠は何らない、と指摘されています。ファシズムにおける平等観は少し難解であり、国連の設立により国家間の平等は制度上は担保されたように見える一方で、安全保障理事会での拒否権などにより、国家間での平等はほとんどないに等しいという現状の指摘も、その通りかと私は考えています。最終章の平等を達成する導き手や結論性については、やや難解ながら読んでみてのお楽しみです。
次に、綿矢りさ『グレタ・ニンプ』(小学館)を読みました。著者は、芥川賞作家です。本書の主人公は、呉田俊貴であり、舞台は武蔵小杉です。主人公はオフィスが同じビルにあることから、控えめで笑顔が可愛い由依と知り合って結婚します。夫婦で妊活や不妊治療を4年続けた末、結局、子どもを諦めて夫婦2人で生きていくと決めた矢先に、俊貴が仕事から帰宅すると、由依がまるで『八つ墓村』のように、妊娠検査薬を角のように頭に刺して、さらに髪の毛も短くした珍妙な格好で踊っていました。要するに、妊活を諦めた途端、自然妊娠したわけです。妊娠した喜びなのか、何なのか、由依は内面外見ともに豹変してしまいます。髪型はデニス・ロッドマンのようにベリーショートかつパープルに染め上げられていて、喋り方は『ドラゴンボール』の孫悟空のようなべらんめえ調になっています。最初は驚きばっかりだった夫の俊貴も段々と受け入れるようになっていく変化がとても、何というか、綿矢ワールド全開で描写されます。産婦人科での受診、出産時期と重なった転勤・転居、もちろん、出産と夫婦の両親がすべて集合したお宮参り、などなど、繰返しになりますが、綿矢ワールド全開です。そのあたりの詳細は読んでみてのお楽しみですが、綿矢りさのファンであればぜひとも読んでおくべき作品です。したがって、私は読みました。最後に収録されている短編「深夜のスパチュラ」は、文春文庫のアンソロジー『二周目の恋』に収録されていましたので、私は既読でした。最後の最後に、まったくどうでもいいことながら、その昔、「マル金」と「マルビ」の流行語を生み出した『金魂巻』を思い出させるように、フォントが所々で大きくなったり、太字にされたりで、強調されているところがあります。『グレタ・ニンプ』だけでなく、「深夜のスパチュラ」もそうなっています。アンソロジーで読んだ際にはそうではなかったような気がします。
次に、ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』(春秋社)を読みました。著者は、インドネシアの作家です。たぶん、本書が本邦初訳ではないかと思います。インドネシア語の原題は Seporsi Mie Ayam Sebelum Mati であり、2025年の出版です。私は家族とともに3年間ジャカルタで暮らしていた経験がありますが、インドネシア語はほぼほぼ理解できません。主人公はジャカルタのダウンタウンにあるスディルマン地区のオフィスに勤める男性のアレです。巨漢で色黒、見た目が悪い上に、体臭もきついらしく、お付き合いしていた女性からも振られて独身です。オフィスの同僚などからは、からかい、ないし、いじめの対象になっています。こうしたことから、37歳の誕生日に、24時間後に自殺することを決意します。でも、これがタイトルなのですが、死ぬ前にいつも行きつけの屋台のミーアヤムを食べることにします。で、翌朝、その屋台を訪れると、何と、屋台の店主が亡くなっていて、アレは店主の自宅での葬式に出席し、棺を持つうちの1人になったりします。そうこうするうちに、身に覚えのない冤罪で留置所に入れられ、ギャングのボスと知り合って気に入られてしまいます。冤罪はすぐに晴れて留置所から出ますが、同時に出所したギャングのボスの手下になって働く羽目になります。それから、いろいろあって、ラストはハッピーエンドで終わりますが、そのあたりの詳細は読んでみてのお楽しみです。最後に、ジャカルタ生活3年の経験者として、ひとくさり書きとめておきます。まず第1に、本書ではイスラム教的な要素はほとんど見られません。お祈りの時刻を知らせるアザーンが聞こえる、といった下りはいくつか見ました。まあ、日本の小説でも神道や仏教の宗教的な要素はほぼほぼ含まれませんので、そういったものか、という気はします。第2に、ミーアヤムとは、本書を読めば判りますが、鶏肉のヤキソバです。「ミー」は、たぶん、現地では「ミエ」と発音されるような気もしますが、麺を指します。アヤムが鶏肉です。なお、コメはナシですから、ナシアヤムというのもあるんだろうと思います。ナシゴレンは焼き飯です。ただ、日本人的な感覚では、ミーアヤムを朝食に食べるというのは少し違和感があります。現地の人だけかもしれません、第3に、移動手段にも注目です。主人公はオフィス勤務ですから、それなりのお給料を取っていてバイクも買えるようですが、平均的なジャカルタ市民は、少なくとも私が住んでいた20年余り前には、バイクには手が届かなかったような気がします。20年以上経過していますので所得も向上していることと想像しています。また、本書では1箇所だけ「三輪タクシー」として登場していますが、バイクの後ろにオレンジ色のホロを被せた席を設けているバジャイ bajaj という交通手段が20年余り前にはいっぱいありました。これも時代の経過とともに少なくなっている可能性があります。最後に第4に、やたらと喫煙シーンが登場します。主人公もタバコを吸います。これは、20年前から所得が向上したとはいえ、まだ、喫煙習慣は大いに残っている、ということなのかもしれません。
次に、中村隆之『今こそ経済学を問い直す』(講談社現代新書)を読みました。著者は、青山学院大学経済学部教授であり、ご専門は経済史、経済思想史だそうです。京都大学経済学部の八木先生の門下生だったようですから、マルクス主義経済学がご専門かもしれません。結論として、とてもいい経済書です。ひょっとしたら、少し前に取り上げた私の同僚である松尾匡先生の『「上」vs.「下」の経済学』より良質の経済書かもしれません。すなわち、私が普段から感じている点について、それなりの正しい方向性を示している気がします。冒頭で、経済成長の限界を2点から説き起こします。第1に、自然環境の制約です。第2に、経済の成熟化に伴う変化であり、金銭の支払い意思で示される購買欲求と必要性の乖離です。まず、マイクロな経済では、伝統的な経済学は、売り手と買い手がともに市場で交換すれば、本書でいうところのwin-winの関係になることを示しています。しかし、実際には、本当に社会的必要性を満たしているかは疑問であると本書では指摘しています。そして、マクロ経済のフィールドでは、ケインズ卿が指摘するように、市場は雇用の自動調整機能を持たない、と指摘しています。ほぼほぼ、私は本書の指摘や結論に賛成していますが、私なりの言葉で言い換えれば、経済学では労働サービスも含めて市場に商品として供給される財やサービスに価格をつけて、その価格を支払える購入者にそういったリソースを配分する機能を有していることは事実です。そして、そういった価格に応じた資源配分がもっとも効率的であることも証明されています。ただし、購買力たる貨幣は持たないが必要性の高い企業や家計に財やサービスを供給する機能はありません。ですから、日本をはじめとする先進各国で典型的に市場における供給と購買力に基づいた配分を部分的なリとも回避する仕組みがあるのが、現時点では、医療をはじめとする社会保障と教育です。私が活動している教育、大学教育に引き付ければ、高いレベルの教育を提供する大学の教育サービスは市場における価格に従って、すなわち、高い値段でオークションのように競り落とされるわけではなく、入学試験を通して、教育を受ける準備が整っている学生に対して提供されます。医療はもっと必要に応じて、社会的に標準とされる価格で提供されます。私はこういった社会的な必要に応じた供給というものが広がる必要を感じています。社会的な必要に応じた供給という本書の大きなテーマのひとつは、ピケティ教授のいうところの脱商品であり、斉藤准教授のいうコモンの拡大にほかなりません。現在の日本では、まだ医療をはじめとする社会保障や教育にとどまっている社会的な必要に応じた供給、市場を通じない脱商品としての供給を、さらに拡大して、まずは住宅、さらに、交通や通信、もっと拡大するべき分野も少なくないと思っています。そういった方向性を指し示し、かなりの程度に理論的な展開も本書では見せています。多くのひとにオススメです。
次に、貴戸湊太『有能助手は名探偵を操る』(ハーパーBOOKS+)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私は、本書の著者の作品の中では、『その塾講師、正体不明』や『図書館に火をつけたら』といったミステリを読んでいます。タイトルから軽く想像されるように、探偵がへっぽこで、実は有能な探偵助手が謎解きをしている、というパターンです。それほどめずらしいものではなく、いくつかあると思います。本書は、そういった探偵と助手の逆転をコミカルに描き出すとともに、それでも、コミカルに終わるだけではなく、しっかりと本格的な謎解きが展開されているところが魅力です。ということで、実はへっぽこながら、ビジュアルがよい名探偵が志谷禄郎、ウラで謎解きをしているのが助手の和戸村丈となります。標準的なボリュームの中で5年前の過去編と現在編に別れ、さらに、オマケでもないでしょうが、名探偵と助手の2人の出会いの大学時代編もあったりします。プロローグの事件で軽く名探偵と助手が登場した後、本編の現在編に入り、都内のバーでアルコール度数の高い酒をかけられて焼死させられるという事件が発生し、名探偵の叔父の警視副総監である福田宗寛から呼出しを受けて名探偵と助手が事件現場に臨みます。現在のこの事件が、5年前の菜の花山荘の事件と深く関係していることから過去編に飛び、5年前の事件の真相が謎解きされます。そして、現在に戻って、冒頭の事件の謎解きが展開され、最後に、名探偵と助手の出会いの大学時代を振り返ることになります。ミステリですので、詳細は読んでみてのお楽しみです。私自身の推理の謎解きのレベルは、本書のへっぽこ名探偵である志谷禄郎並みかそれ以下ですので、有能助手の和戸村丈が名探偵の志谷禄郎に出すヒントがとても有り難くて、その意味でスラスラと読み進めます。失礼ながら、そういったレベルの読者にも楽しめるミステリに仕上がっています。また、ついでながら、有能助手の和戸村丈は、謎解きに実際に取り組む探偵として有能なだけではなく、キチンと解決への伏線を文中にバラまいておく記述者のワトソン役としても有能だと私は感じました。ただ、そのヒントも含めて、推理のまっ最中に、へっぽこ名探偵と有能助手の両者の間のやり取りが冗長だと感じる読者もいるかもしれません。
次に、砂原浩太朗『藩邸差配役日日控』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説作家であり、私は『高瀬庄左衛門御留書』と『黛家の兄弟』を読みました。でも、葉室麟作品のような華やかさ、というか、エンタメ性に欠けた作品で、最近は読んでいませんでした。本書は単行本からすでに文庫本化されており、私はその文庫本を読みました。すでにシリーズ第2弾の『星月夜』も単行本で出版されています。本書は連作短編が5話収録されています。まず、本書の舞台は徳川期の江戸であり、主人公の里村五郎兵衛は、代々、神宮寺藩7万石の江戸藩邸の差配役を務めています。タイトル通りなわけです。主人公が常駐する上屋敷は本郷にあります。今の本郷にある東大キャンパスは、赤門が残っているように、その昔の加賀前田藩の上屋敷でしたので、場所柄は同じようなものです。ただし、主人公は常駐している上屋敷だけでなく、中屋敷や下屋敷にも出向くことがあります。差配役とは、今でいえば総務部総務課長のような役どころとされていて、藩邸内の「なんでも屋」と揶揄される時もあったりします。どういった働きをするかといえば、最初の短編「拐し」では、藩主の世子である亀千代ぎみがお忍びで上野の花見に出かけたところ、行方不明になってしまいます。江戸家老の大久保重右衛門からは「むりに見つけずともよいぞ」と言われてしまいますが、もちろん、里村五郎兵衛は副役の野田弥左衛門や下役の安西主税らとともに必死で探します。続いて、「黒い札」では、皿や椀などの奥向きの調度を納入する商人を選ぶ入札で不審があり、入札をやり直したりします。続いて、「滝夜叉」では、里村五郎兵衛が不在の折に副役の野田弥左衛門が口入屋から雇い入れた女中の滝夜叉こと、お滝をめぐる騒動が持ち上がります。続いて、「猫不知」では、藩主の正室であるお熙の方の愛猫の万寿丸が姿を消したため、差配役の里村五郎兵衛以下で屋敷の内外を探し回ります。このあたりから、江戸家老の大久保重右衛門と留守居役である岩本甚内の2人による藩内の派閥争いが激化し、お世継ぎを誰にするかを含めて、いかにも時代小説らしいお家騒動が始まります。最後の短編「秋江賦」は短編中でもっともボリュームがあり、病気で上府がかなわなかった藩主の和泉守正親が江戸にやって来て、お家騒動が決着します。5話の短編が強くリンクし、それぞれにさまざまな伏線がばらまかれていて、最後にそれらが回収されます。とてもよい構成の時代小説でした。でも、繰返しになりますが、葉室作品のようなエンタメ性には欠けます。エンタメ性には欠けると言っているものの、私は本シリーズの次作も読みたがるような気がします。強くします。
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