今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、飯倉穣『なぜ日本経済は停滞したのか』(エネルギーフォーラム)では、バブル崩壊以降の日本経済の停滞について、高度成長を支えた理論として有名な下村治博士の下村理論の視点から再検討を加えようと試みていますが、どうも、緊縮財政による財政収支の追求にしか私には見えませんでした。続いて、渡邊勉『調査票のなかの「戦争」』(勁草書房)では、1951年に実施された京浜工業地帯の労働者1万4千人余りに対する調査結果から、男性の割合が高い集団の中で、戦争体験から、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験をした労働者、逆に、戦争体験のない労働者、ほかの人生を後づけています。続いて、村上春樹『夏帆』(新潮社)では、浦和の小児科医の一人娘として生まれ育ち、美大を卒業して絵本やデザインで生活している26歳の女性、とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心が強い主人公の夏帆が、ブラインドデートで「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」といわれてしまいます。続いて、スティーヴン・キング『チャックの数奇な人生』(文藝春秋)には2編の中編が収録されていて、表題作の「チャックの数奇な人生」では、世界に終末が迫り、カリフォルニアの半分が海に没した時期に「ありがとう、チャック!」と書かれた看板広告が至るところに出現します。依田高典『ノーベル賞で語る 現代経済学』(中公新書)では、ノーベル経済学賞の受賞者について、賞創設後の基礎理論への授賞から始まって、1970年代の石油危機やそれに伴うインフレに際してケインズ経済学に疑問が生じ、新自由主義的な色彩の強いシカゴ学派が台頭する歴史が後づけられています。続いて、杉谷和哉『エビデンスの罠』(PHP新書)では、「賢慮」という耳慣れない言葉をひとつのキーワードにしつつ、エビデンスと物語=ナラティブを対比させ、統計的なトリックやデータの嘘について議論する一方で、同時に、フェイクについては警鐘を鳴らしています。カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(創元推理文庫)では、ヘンリー・メリヴェール卿が「部屋が人を殺す」というマトリング邸の後家部屋の謎について、カードで選ばれた人物が部屋にこもるという実験に参加し、実際に密室で毒殺された殺人事件の謎の解明に当たります。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年で177冊、8月に入ってから先週までの12冊と今週の7冊を加えて合計196冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

まず、飯倉穣『なぜ日本経済は停滞したのか』(エネルギーフォーラム)を読みました。著者は、日本開発銀行、すなわち、現在の政策投資銀行のOBであり、設備投資研究所長も務めています。本書は、タイトル通りに、現在、というか、バブル崩壊以降の日本経済の停滞について、高度成長を支えた理論として有名な下村治博士の下村理論の視点から再検討を加えようと試みています。戦後1945-54年の復興期から始まって、コロナによる経済停滞の時期まで編年体で10部、それに今後の展望を加えて11部の構成となっています。ただし、下村理論が何かについては、たぶん、ご著者が十分理解しているだけに読者への解説があまりなく、ようやく今世紀の第7部に入って、p.397から数ページに渡って概観されているだけのような気がします。景気循環とはビミョーに異なる「景気変動」という用語を用いて簡単に解説されています。すなわち、有効需要が有効産出を上回れば需要超過であり景気は回復ないし拡大し、逆の場合は供給超過で景気は下降します。この当たり前の景気循環論に投資の二重性、すなわち、投資は需要項目であると同時に、生産能力を拡大するという見方を組み合わせたのが下村理論、として言及されています。貯蓄率に加えて、回帰支出率、すなわち、生産物に対して生産維持に必要な支出の割合と投資の感応係数の大きさなどを考慮して景気動向を判断するということなのですが、詳細は本書をお読みいただくしかありません。こういった観点から、戦後80年近く、すなわち、1945-2024年の日本経済の動向を分析しようと試みています。はい、当然ながら、1950-60年代の高度成長期までは、下村理論の通りに日本経済は動いており、1970年代の石油危機あたりから軌道を外れ、1990年代初頭のバブル経済崩壊からは、完全に下村理論の枠外となっているように見えます。特に、アベノミクスの金融政策に依存した経済政策運営が本書では強く批判されています。その意味で、私の理解する限り、下村理論とは1980年代からの実物的景気理論(RBC)に近い印象なのですが、いかんせん、私自身が下村理論をそれほどよく理解していない上に、下村理論そのものの理論的解説が少ないので、それほど大きな自信はありません。最後の今後の展望を示した第11部については、雇用を重視する政策運営という以外に、私はまったく理解がはかどりませんでした。本書の冒頭では、終戦直後に累進制の財産税1000億円の1回限りの徴収により、推定GDP比2.5倍あった2174億円の国債残高を1270億円まで償却した(p.13)、とあり、最後の第11部では、経済と財政の均衡を回復させるための大規模なマクロ経済調整によって、実質的な経済水準が10%以上低下することは不可避(p.595)とあります。やや常軌を逸した緊縮財政を志向しているように見えるのは、私だけでしょうか。

次に、渡邊勉『調査票のなかの「戦争」』(勁草書房)を読みました。著者は、関西学院大学社会学部教授であり、本書はシリーズ「数理・計量社会学の応用」の一環として出版されています。冒頭に明記してあるように、本書のテーマな戦争です。終戦から6年後の1951年に京浜工業地帯の労働者1万4千人あまりに対して実施したデータを基に、国勢調査データなどと比較しながら分析を進めています。基本的に、記述統計を中心として、一般読者にも判りやすく分析している印象です。冒頭に個票から一定の特徴ある個人の生涯を抜き出していますが、第2章以降では戦争体験、すなわち、徴兵、引揚、戦災、といった戦争体験の有無などに基づくコーホート別の分析なども示しています。地域の特性からして全国平均よりも男性の割合が高い集団の中で、戦争体験から、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験をした労働者、逆に、戦争体験のない労働者、エリートたち、女性、のグループで個人的な人生を後づけています。しかし、個々人の状況を個票から見る限りでは、不平等については把握できません。ですので、まず、グループとしては引揚者の割合を見ていますが、京浜工業地帯ではかなり低い割合にとどまっています。それについての合理的な解釈も示されていますが、そのあたりは本書の読ませどころですので、読んでみてのお楽しみです。また、1948年に転居や転職が一時的な増加を示している点も解釈が示されています。漠然とした理解ながら、繊維産業の比重がそれなりにある阪神圏や名古屋圏と違って、京浜工業地帯はいわゆる重工業が集積していて、大規模工場があって、男性労働者の比率が高い、という特徴は垣間見えます。加えて、地理的な条件から東日本、東北や信越地方の出身者が少なくないのも事実です。その上で、第3章では性別、年齢、職業、産業、企業規模という属性から労働者を7つのクラスタに分けて、p.97表3-1とp.98表3-2に基づく分析を示しています。本書前半のハイライトと私は考えています。第4章からはライフコースの分析となります。おそらく、当時は就業者の半分近くが農民でしたから、出身は第1次産業が多いのは当然です。ライフコースのパターンとともに、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験も確率的に示されています。戦争経験者のうち、徴兵者の特徴はかなり明確だと思われますので、私自身は引揚者、逆にいえば、外地に赴いた者の特徴に興味がありましたでも、本書によれば、外地居住者と引揚者の間にかなり大きなズレがある、ということのようです。第6章では、戦争体験者、すなわち、徴兵、引揚、戦災の戦争経験者は、非経験者よりかなり所得が高い結果が示され、本書でも「にわかには信じがたい」(p.176)とされていて、そういった謎解きもなされています。第7章の女性の戦後、終章については読んでみてのお楽しみとしますが、調べればすぐに判ることながら、終章のタイトルは「戦争とは人びとを選別するシステムである」となっています。私が以前から主張しているように、戦争はみんなを不幸にするわけではありません。はい、戦争で得をする人がいて、そういった戦争で得をする人が戦争を始めるのです。その点は忘れるべきではありません。

次に、村上春樹『夏帆』(新潮社)を読みました。著者は、日本人で3番目のノーベル文学賞が待望されていて、日本でもトップクラスの小説家です。ですので、出版社でもこの作品への期待は大きいようで、特設サイトが開設されています。小説の主人公はタイトル通りに夏帆です。現在はさいたま市となった浦和にある小児科の開業医の1人娘として育ち、美大を卒業して絵本やデザインで生活している26歳です。とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心が強い、という性格です。足立区の花畑に住んでいたのですが、ブラインドデートでBMWのモーターサイクルに乗るお相手の佐原から「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」といわれてしまいます。それで、まあ、何と申しましょうかで、お告げのようなものがあって、武蔵境に引越します。JRの駅からかなり離れた一軒家を借り、その地下に住みついたありくい、そうです、表紙にシルエットのあるありくいの奥さんからの情報に基づいて、ファンタジーの世界が繰り広げられます。ただし、このファンタジーの世界は、『街とその不確かな壁』にはなく、『騎士団長殺し』にさかのぼるような、やや「暴力的」な傾向のある村上作品のファンタジーです。もっと前の作品を持ち出せば、『海辺のカフカ』につながっているともいえます。ただし、ファンタジーや幻想ではなく、現実の物語から外れた主人公の夏帆が心のなかで体験している感情のメタファーという見方もできようか、という気がします。その意味でも、村上春樹によるこの傾向の小説の頂点は、明らかに、『海辺のカフカ』だろうと思います。特に、暴力的という意味では、本書におけるとぎやの店主や母親に取り憑いたアマゾンの怪物と対決するシーンは『1Q84』で主人公の青豆が教祖を倒すシーンと重なります。最後に、最近、「ドライブ・マイ・カー」がひとつの話題になって、村上春樹作品の映像化が進んでいるような気がしますが、この『夏帆』を映画あるいはドラマにすると、20代半ばの主人公はどなたになるのでしょうか。成瀬あかりを舞台で演じた山下美月ではなく、私は勝手に藤野涼子を推したいと思います。

次に、スティーヴン・キング『チャックの数奇な人生』(文藝春秋)を読みました。著者は、世界的なホラー小説の巨匠です。ただし、本書はホラーというよりは、ホラーの要素はあるとしても、どちらかというと感動ストーリーに属するのではないかと考えています。2話の中編くらいの長さの小説が収録されています。「ハリガン氏の電話」と表題作の「チャックの数奇な人生」です。まず、「ハリガン氏の電話」は、『スタンド・バイ・ミー』の系統の作品であり、主人公の少年が10歳に満たないころに朗読や庭木の手入れのために、引退した大金持ちの老人宅に出入りするようになり、ロトくじで当てた3000ドルで少年が老人にiPhoneをプレゼントします。その電話は老人が死んでも少年がかけるとつながったりして、少年のある種の望みを叶えてくれたりします。「チャックの数奇な人生」は、時間をさかのぼるような構成になっていて、第3幕のチャックが死の瀬戸際にあるところから小説が始まり、第2幕、第1幕と時間をもとに戻します。第3幕の冒頭では世界に終末が迫り、カリフォルニアの半分以上が海に没して、「日本沈没」が世界レベルで生じている終末期に、「ありがとう、チャック!」と書かれた看板広告が至るところに出現します。第2幕で物語は過去へとさかのぼり、若き銀行員チャックは出張先のボストンで、ドラムを叩くストリート・ミュージシャンや失恋したばかりの若い女性と出会ったりします。2つの中編作品を読んでみて、私自身の好みとしては冒頭の「ハリガン氏の電話」がいいと感じるのですが、そこは出版社の意向として映画化されて封切られたばかりの「サンキュー、チャック」に敬意を表して、このタイトルにする方が売行きがいいと考えるのは、出版社の担当者だけではないと思います。私も売行きの観点からは同意します。最近では、吉田修一『国宝』で思い知らされましたが、少なくとも日本人の平均的なリテラシーのレベルでは、小説よりも映画の方に大きく影響を受けるということなのだろうと思います。

次に、依田高典『ノーベル賞で語る 現代経済学』(中公新書)を読みました。著者は、我が母校の京都大学経済学部の教授です。ご専門は応用経済学だそうです。本書では、1968年から始まったノーベル経済学賞、スウェーデン国立銀行が創立300周年祝賀の一環としてノーベル財団に働きかけたことで設立され、正式には「ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」ということらしく、本書にはありませんが、私の記憶する限りで、賞金はノーベル財団ではなくスウェーデン国立銀行から拠出されています。そのノーベル経済学賞の受賞者について、かなり系統的に分類して戦後約80年の経済学史を後づけています。ただ、同じ京都大学経済学部教授の根井雅弘教授が10年ほど前に『ノーベル経済学賞』という本を講談社から出しています。根井教授はたぶん経済学史のご専門だったと記憶していますが、まあ、10年経ったのですから、リニューアルさせた、という感じかもしれません。本書冒頭の序章では、1968年に賞が創設される前のエコノミスト、当然、スミスに始まって、リカード、マルクス、ワルラスからケインズまでの5人を振り返り、その後、賞の創設後にミクロ経済学的な一般均衡論やマクロ経済学の分野での計量経済学などの基礎理論への授賞について解説されます。そして、1970年代の石油危機やそれに伴うインフレに際して、ケインズ経済学の有効性に疑問が生じ、そのあたりから新自由主義的な色彩の強いシカゴ学派が台頭する流れが後づけられています。今でも、私はすでに時代遅れだと感じていますが、ノーベル賞の分野ではシカゴ学派の新自由主義的な経済学が幅を利かせているような気がします。もちろん、ルイス卿やセン教授といった開発経済学の分野、あるいは、貧困や不平等の経済学も注目されますし、映画化されてヒットしたナッシュ教授によるゲーム理論、あるいは、カーネマン教授らの経済心理学から発展して来たセイラー教授の行動経済学、などなど、決して最新理論とはいえませんが、さまざまな経済学を概観しています。最近、ということになると、ゴルディン教授のジェンダー経済学、アセモグル教授らの新制度学派による経済発展論などが注目だろうという気がします。ただ、ノーベル賞ですので、いわゆるマルクス主義経済学は大きく劣勢であり、ほぼほぼ純粋なマルクス主義経済学に基づくエコノミストへの授賞はありません。最終章で、ノーベル経済学賞は受賞しなかったものの、学界に大きな足跡を残した経済成長論のハロッド教授と日本の森嶋通夫教授が「ノーベル経済学賞の忘れもの」として取り上げられています。

次に、杉谷和哉『エビデンスの罠』(PHP新書)を読みました。著者は、岩手県立大学准教授であり、公共政策学がご専門のようです。また、本書の冒頭では何度か村上靖彦『客観性の落とし穴』についての言及があり、かなり意識しているように感じました。ただ、本書では、エビデンスとは必ずしも客観的なデータを考えているようではない印象を受けました。例えば、第1章のタイトルはエビデンスvs物語、ということで、後者の「物語」というのはいわゆるナラティブのことを指しているものと私は理解しました。ただ、この両者を対極に置いて、エビデンスを数値データ、物語をエビデンス否定と考えるのは少し疑問が残ります。いずれにせよ、本書では「賢慮」という耳慣れない言葉がひとつのキーワードになっており、数値によるマネジメントの歴史や陰謀論の問題などを取り上げ、いかにして賢明な判断が下せるかについて考えようと試みています。ただ、データに対する否定的な考えはいくつか見られ、第4章では統計的なトリックやデータの嘘についても議論しています。もっとも、同時に、さすがにフェイクについては警鐘を鳴らしており、第5章ではナラティブとの関係などを示して本書を締めくくっています。最後に、本書が意識している『客観性の落とし穴』については、世間一般でかなり浅い読み方しかなされていないように私は感じています。すなわち、エビデンスとして客観性を求めるのは決して悪いことではないが、例えば、外国人政策や福祉政策など、自分が同意しない政策の方向性が示された場合に、過度にエビデンスや客観性を求めるのは決してよい議論の態度ではない、という含意を読み取っている読者は少ないように感じます。その昔に、「誠意を見せろ」という言葉があり、手に取って見せようのない誠意ではなく、まあ、「最後は金目でしょ」という結論を導かんとするような議論の態度がありました。まさに、私が懸念しているのは、ホントに客観性やエビデンスを求めるのではなく、議論に反対するために過剰なエビデンスや客観性を要求するタイプの態度です。ですので、エビデンスそのものには期待せずに議論の勝ち負けや正しい結論に混乱をもたらすようなエビデンスの求め方、客観性の追求というものを注意すべきではなかろうか、という気がします。

次に、カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(創元推理文庫)を読みました。作者は、ご存じ、今世紀前半もっとも傑出したミステリ作家の1人です。米国ペンシルヴァニア州生まれながら、英国に移住してロンドンを舞台にしたミステリも数多くあります。英語の原題は The Red Widow Murders であり、1935年の出版、本書は高見治による新訳版となっています。本書は、ヘンリー・メリヴェール卿(H.M.)のシリーズであり、したがって、というか、何というか、密室殺人を扱っています。ホームズ役の探偵はH.M.であることに間違いはないのですが、ワトソン役は米国のハーヴァード大学の英語学講座のテアレイン教授です。舞台はロンドンのマントリング邸、フランス革命当時の死刑執行人一族の家具が運び込まれ、過去に4人が怪死を遂げたという後家部屋の実験を行うのに、H.M.とテアレイン教授、また、H.M.の友人の大英博物館長のジョージ・アンストラザー卿を含めた何人かが参加します。2人以上なら死者が出ないが、1人で2時間こもれば死ぬ、という言い伝えです。もっとも、ジョージ卿とテアレイン教授は立ち合い人として、カード引きには参加しませんでした。カードでスペードのエースを引き当てたフランス人が部屋に入り、15分おきに部屋の外からの呼びかけに応じていましたが、毒殺されて発見されます。死因はクラーレであり、この毒は口から飲んでも何も悪影響がないのですが、毒針で刺されたりすると致命的となります。死者にはクラーレを刺されたような不審な外傷はなく、どのように毒が注入されたのかが謎となります。なお、毒物のクラーレは冒険旅行好きな当主のマントリング卿が収集したものでした。ロンドン警視庁のマスターズ主任警部が赤後家の部屋を徹底的に捜査するのですが、家具から毒針が飛び出すような機械的なトリックはどこからも発見することができません。そうこうしているうちに、後家部屋で第2の殺人が起こります。この家の歴史やオカルティズムに耽溺しており、警視庁からは犯人の容疑が濃いと思われていた当主マントリング卿の弟ガイが、後頭部を凶器で殴られて撲殺されて発見されます。最後に、本書の作者は、カーター・ディクスンなのですが、広く知られているように、ジョン・ディクスン・カーの別名義です。本書は、かなりオカルト趣味の要素を含み、出版当時は日本でも江戸川乱歩はじめとして評価が高かったのですが、死者の返答の声や密室やアリバイなど、後になってオカルト趣味とともにやや否定的な評価も出た作品か、という気がします。最後の最後に、個人的な事情をひとつ。ヘンリー・メリヴェール卿は、『黒死荘の殺人』で初登場するわけで、本書でもその『黒死荘の殺人』からいくつか引用されています。私はそれらの引用に覚えがあるので、『黒死荘の殺人』を読んだことはほぼほぼ間違いありませんが、犯人はもちろん詳細についてまったく記憶にありません。私の記憶力からすればあり得ないことではなく、昨年は本書の続編的な『爬虫類館の殺人』を読みましたし、何かの機会に『黒死荘の殺人』も再読しておきたいと思います。
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