今週の読書もいろいろ読んで計5冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、馬奈木俊介『ウェルビーイングの経済学』(中央経済社)では、経済産業研究所(RIETI)が2023年度に実施した独自調査のデータなどを活用して、主観的な幸福度や満足度などに関して、フォーマルな定量分析が行われています。ただ、ウェルビーイングの定義と計測は難しく感じました。河野有里『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)では、通史を明らかにするのではなく、個人単位での「史眼」や「史観」を論じています。発展段階説としてのマルクス主義的な史的唯物論もあれば、いわゆる皇国史観を持った歴史著述者も取り上げられています。永井紗耶子『めぐる糸』(双葉社)では、明治39年の東京を舞台に、霊異が「視える」主人公の斎木啓吾が連翹寺子爵家の次男、若様の連翹寺正周とともに子爵家の財力と影響力をバックに、また、アルバイト先の新聞社の取材を基に、さまざまな謎を解き明かすオカルトファンタジーの連作短編集です。秋吉理香子『月夜行路 Returns』(講談社)は、前作『月夜行路』の続編であり、辻沢涼子が野宮ルナとともに前作の大阪と違って、東京を舞台に夏目漱石のゆかりの地を回ったりしてさまざまな不可解な事件の真相を明らかにし、最後に、古いパソコンにあるファイルのパスワードを解明します。畠中恵『猫君 りんねの輪』(集英社)では、冒頭で猫宿の長が惨殺され怪僧天海も襲われ、猫宿に残されたみかんや師匠たち、猫宿の長や天海を襲った襲撃者とその黒幕、さらに、東海道筋の戸塚の猫又、などなどが入り乱れて猫宿、というか、江戸城を舞台に、尋常ならざるバトルを繰り広げます。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年で177冊、8月に入ってから先週までの19冊と今週の5冊、すなわち、8月の24冊を加えて合計201冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。
まず、馬奈木俊介[編著]『ウェルビーイングの経済学』(中央経済社)を読みました。編著者は、九州大学大学院工学研究院教授です。本書は、タイトル通りの学術書であり、かなりフォーマルな定量分析に基づいており、一般の読者にはややハードルが高いかもしれません。本書では、冒頭2章で基礎的なウェルビーイングについて議論した後、農村と都市におけるウェルビーイングの格差、GIS(地理情報システム)を用いた緑化との関係、孤独感からウェルビーイングへの波及経路、不妊治療がウェルビーイングに及ぼす影響、災害被災地域でのウェルビーイングの維持、競争と協調のウェルビーイングへの影響などなどを取り上げています。ただ、本書を読む上で、もっとも難しいのは「ウェルビーイング」の定義と計測です。特に、本書の場合はチャプターごとの著者が異なっており、しかも、分析対象としているデータも必ずしも統一されていません。データについては、経済開発協力機構(OECD)の Better Life Index (BLI) やギャラップなどの既存データとともに、経済産業研究所(RIETI)が2023年度に実施した独自調査のデータも活用されており、そもそもウェルビーイングの定義がエコノミストの間で強いコンセンサスあるわけでもないことから、読む方も骨が折れます。チャプターごとの著者によっては、主観的なウェルビーイング、満足度、幸福度、などなどさまざまです。分析の目的によって、ウェルビーイングの定義を変更し、データもいろんなものを使う点は私も理解するのですが、ウェルビーイングをもって beyond GDP の指標となる可能性を追求するのであれば、よりしっかりした定義や計測が必要であることはいうまでもありません。GDPが国連というきわめて大規模な国際機関によってマニュアルが示されている指標である点は忘れるべきではありません。本書でもいくつかのチャプターでは主観的ウェルビーイング(SWB)を取っていますが、主観的な幸福度や主観的な満足度とどう違うのか、逆に、「主観的」と付すのであれば「客観的」なウェルビーイングな何なのか、についても考えておかねばなりません。フランスにおけるスティグリッツ委員会やOECDのBLIなどがひとつの候補となりますが、おそらく、主観的な幸福度や満足度では国によって差がありすぎるでしょうから国際比較に難が生じるでしょうし、アリストテレス的なエウダイモニア(本書p.139では、「ユーダイモニア」と表記)も少し違う気がしますし、何とも難しいところかもしれません。本書では、効率を旨とする経済学らしい観点で、GDPは経済成長に基づいており、人的資本と物的な資本ストックの蓄積および生産性向上という名の効率性の強化で計測されてきたと指摘していて、私もその通りかと思いますが、そもそも、ウェルビーイングないし幸福度の定義と計測がある程度のコンセンサスないと、国際比較だけでなく、国内でのウェルビーイングの向上目指した政策も難しくなります。GDPは付加価値の総計ですから、雇用との関係が深く、私のような雇用を重視するエコノミストからは使いやすい指標ですし、加えて、ベーシックインカムの議論あるとはいえ、雇用や労働はウェルビーイングや幸福度や満足度との関係は無視できません。もっとも、私自身は定義や計測を先行させるばかりではなく、本書で取られているように、「群盲象を撫でる」がごとき感なきにしもあらずながら、同時に何らかのデータを用いた研究を進めるのは十分理由があることだと思います。だた、俗にいう Garbage In, Garbage Out: GIGO にならないように願うばかりです。
次に、河野有里『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)を読みました。著者は、法政大学法学部教授であり、ご専門は政治学・政治思想史だそうです。本書は、新潮社の国際情報サイト「フォーサイト」の連載を書籍化しています。タイトルからビミョーに理解できるかという気もしますが、本書では通史を明らかにするのではなく、個人単位での「史眼」や「史観」を論じています。発展段階説としてのマルクス主義的な史的唯物論もあれば、いわゆる皇国史観を持った歴史著述者も取り上げられています。「歴史著述者」というのは私の解釈であって本書の表現ではありません。本書ではp.4にて「本職の歴史学者だけでなく、作家や批評家、政治学者や社会学者や人類学者」と表現されています。実に残念ながら、経済学者=エコノミストは入っていないようです。17章に渡って20人の日本史を物語ってきた歴史著述者が取り上げられています。ただ、第1章が百田尚樹に始まって、最終第17章が平泉澄ですから、皇国史観、というか右派的な史観が示されていると受け止める読者もいそうです。しかし、さすがの皇国史観の提唱者である最終章の平泉澄ですら、万世一系は否定しているわけですから、あまりに非科学的な皇国史観は排除されていると考えた方がいいのかもしれません。男系男子に天皇位が限定されるような皇室典範が改正された現時点で読むのに適した歴史論考だという気がします。ひとつの流れとして、さすがに皇国史観ではないものの、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観があり、他方に、その「つくる会」に批判された司馬遼太郎史観があります。でも、司馬遼太郎は章として独立には取り上げられていません。第12章で松本清張とともに一括して着目されています。いずれにせよ、歴史を実証と物語(ナラティブ)の軸と右翼と左翼の軸で分割して論じたp.81の模式図はそれなりに参考になります。最後に、もう一度、エコノミストが取り上げられていないので、マルクス主義的な唯物史観は本書では批判される一方だった気がして、発展段階説にそれなりの親近感を覚える経済史の理解者としては少し残念でした。加えて、グローバル・ヒストリー全盛の時代にあって、日本史を日本というテリトリーの中だけで語ることの難しさも感じました。
次に、永井紗耶子『めぐる糸』(双葉社)を読みました。著者は、たぶん、時代小説家であり、私は『木挽町のあだ討ち』を読んだ記憶があります。本書は、『小説推理』に連載されていた短編を単行本として出版されています。副題は表紙画像に見えるように、「明治浪漫霊異譚」であり、舞台は明治39年=1908年の東京です。主人公の斎木啓吾は帝大生であり、木彫り職人の父親の正司、母親の幾、妹の寿々が寓居している寺、母親の実兄が住職をしている寺から離れて湯島に下宿していました。少し年長者である連翹寺子爵家の次男、若様と呼ばれ同じく帝大生の連翹寺正周の秘書あるいは書生のような存在です。連翹寺正周は連翹寺子爵邸の蔵に書斎のような部屋があって心霊研究をしています。斎木啓吾は第1話で湯島の下宿から連翹寺子爵邸の敷地内にある書生たちの住む鳳雛寮に移ります。斎木啓吾には大きな秘密があって、この世ならざる「霊異」が視えてしまいます。母も同じ体質で、決して「視える」ことを明かしてはならないと教えられてきましたが、連翹寺正周には「視える」ことがバレてしまい、まったく視えないながら霊異に対する感覚が鋭い連翹寺正周の目となり、連翹寺子爵家の援助を受けながら帝大に通いつつ、小規模ながら気骨ある記事で人気ある銀座の新聞社の毎報社でアルバイトをしています。といった前置きが長くなりましたが、本書は霊異の見える主人公のオカルトファンタジー、少しミステリ仕立ての連作短編を5話収録しています。以下順にあらすじは、まず、「ロマン髑髏」では、40年ほど前の上野の彰義隊に参加した幕臣の髑髏を拾わされる羽目になった斎木啓吾は警察の留置場に入れられて湯島の下宿を追い出され、その髑髏になった幕臣の妻と助けた女の子を探します。続いて、「祈り猫」では、廃寺で手を合わせて祈るような格好をしている猫を、斎木啓吾はアルバイト先の新聞に『奇事片々』として掲載すべく取材しますが、その猫には吉原の花魁が憑依していました。続いて、「笑う写真」では、連翹寺正周の許婚である松木原男爵家令嬢の薫子が榊原兼人の写真館で家政婦の若い女性に写真を撮ってもらい、浅草12階の凌雲閣にて開催された写真展で展示されたところ、その写真が表情を変えるという評判になってしまいます。斎木啓吾には、その写真が松木原薫子には見えません。続いて、「霧箱の糸」では、少し時をさかのぼって、斎木啓吾が中学生のころ、連翹寺正周の父親、すなわち、連翹寺当代子爵の母親で御門跡と呼ばれる寿照尼が京都から上京し、連翹寺正周が新橋に迎えに行きますが、はぐれてしまって斎木啓吾が桐箱から延びる糸を手繰って、易者の占部峯斎の家の近くで見つけ出す、という一校生の連翹寺正周と府立三中学生の斎木啓吾の出会いが回想されます。最後に、「生きていた令嬢」では、石炭で財を成した実業家の永富祐太朗の令嬢で、7歳の時に失踪した絹子が10年を経て現れます。永富家に出入りしている占部峯斎とともに、斎木啓吾と連翹寺正周が真相を突き止めようとします。さすがに面白く読めました。とってもオススメです。
次に、秋吉理香子『月夜行路 Returns』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ小説家であり、基本的に、私はイヤミス作家と見なしていたのですが、本書の前作となる『月夜行路』とともに、本書もイヤミスではありません。当然ながら、私は前作の『月夜行路』も読んでいます。ということで、前作では夫の浮気を疑って銀座にあるミックスバー「マーキームーン」に入った主人公の辻沢涼子が、バーのママである野宮ルナと大阪に行って、いろいろと文学の知識を活かした謎解きを繰り広げていました。主人公の辻沢涼子は40代半ば、かつてはオリンピック選手候補にまでなった経験ある元バレーボール選手で現在は専業主婦です。前置きはこれくらいにして、前作の舞台は大阪でしたが、続編の本書の舞台は東京です。しかも、序章のタイトルが「吾輩は猫である」となっていることから理解できるように、東京の中でもほぼほぼ夏目漱石に関係するお話ばっかり、と考えてよさそうです。序章では、野宮ルナの父親のものであると後に判明する古いパソコンが持ち込まれるところからお話が始まります。ファイルを開く6ケタ以上の数字を探すミステリ短編3話と短い最終話を収録しています。まず、「桜の森の満開の下」では、夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版復刻本を求めて、辻沢涼子が野宮ルナとともに下北沢の古書店を訪れると、店主が血を流して倒れていました。続いて、「こころ」では、マーキームーンのかつての常連で、当然、野宮ルナと親しくて夏目漱石の熱烈な読者だった高齢女性が亡くなり、辻沢涼子が野宮ルナとともに早稲田にある夏目漱石生誕の地の石碑近くに弔問に訪れたところ、死の直前半年ほどで再婚した前夫と3人の子どもたちとで遺産相続の骨肉の争いを繰り広げていました。続いて、「舞姫」では、日本人男性とドイツ人女性のシュナイダー東大教授夫妻と中学生の男の子の家を辻沢涼子が野宮ルナとともに、『吾輩は猫である』の縮刷版を借りるために訪れると、家政婦に出迎えられます。でも、近くで公園の爆破予告があったり、シュナイダー家でも子どものカナタ=ハンスが問題行動を繰り返していました。そして、最終話の短い「吾輩は吾輩である」では、これまた当然に、パスワードを解明してファイルを開きます。ファイルは文書=ドキュメントなのですが、中身は読んでみてのお楽しみとしておきます。3話の短編の中かでは、たぶん私と同じで、「こころ」がいいと感じる読者が多そうな気がします。まあ、何と申しましょうかで、浜田廣介の有名な童話『泣いた赤鬼』の世界です。
次に、畠中恵『猫君 りんねの輪』(集英社)を読みました。著者は、時代小説作家であり、「しゃばけ」のシリーズが人気だと思います。「しゃばけ」のシリーズは私も10巻近くまで読んでいた記憶がありますが、あまりにもマンネリなもので読むのを止めました。本書は、前作の『猫君』の続編であり、『小説すばる』に連載されていた5話の連作短編を収録しています。5話のタイトルは、収録順に、「長、死す」、「首玉、化す」、「天海、話す」、「黒幕、露見す」、「明日を、志す」のとなっています。まず、当然ながら前作と同じで舞台はお江戸であり、将軍徳川家斉の時代です。猫が20年生き長らえると猫又という妖しになり、人に化けて言葉を操ったりするようになります。お江戸には6陣あって、20年を経て猫又になった新米は各陣から兄者や姉者に連れられて、何と江戸城にある猫宿に来て立派な猫又になる修行をすることになります。猫宿の長はかつて「魔王」と呼ばれ、人間としては織田信長と名乗っていて、すべての猫又を統べる猫君だったという噂もあります。本書の主人公は、前作では新米だったみかんであり、本書では2年生になっています。本書冒頭では、いきなり、猫宿の長が惨殺されるという超凶事が生じます。別の表現をすると、猫宿の長はりんねの輪に乗った、ということです。これに呼応して、猫君が出ると噂されるみかんたち2年生を除いて、修行中の猫又は各陣に返されてしまいます。そして、猫宿の長を殺害した襲撃者は、次に怪僧天海も狙ったりします。この時代にまで天海が生きているというのも、奇っ怪な気がしますが、それはそれで本書なりの理由があります。猫宿に残されたみかんや師匠たち、猫宿の長や天海を襲った襲撃者とその黒幕となっている人間の武士、さらに、お江戸の外の東海道筋の戸塚の猫又、などなどが入り乱れて猫宿、というか、江戸城を舞台に、きわめて尋常ならざるバトルを繰り広げます。前作ではかっぱが登場しましたが、本書では同じ猫又ながら、お江戸住みではなく戸塚の猫又が出てきます。また、前作で新米猫又たちが将軍からちょうだいした首玉の利用方法が少しずつ明らかになります。ただ、華々しい惨劇で始まりながら、最後は尻すぼみで終わります。
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コメント
作家というのは、マンネリに陥るものなんですね。常に斬新な切り口で考え物語を起こし、文章化するというのは相当難しいのでしょう。
投稿: kincyan | 2026年8月23日 (日) 09時18分
>kincyanさん
>
>作家というのは、マンネリに陥るものなんですね。常に斬新な切り口で考え物語を起こし、文章化するというのは相当難しいのでしょう。
たぶん、作家に限らず、いろいろな方々がマンネリに陥るのだろうと思います。そして、ある種の壁を突破すると、そのマンネリがかえって評価されたりするんだろうと思います。かつての時代劇のテレビドラマ「水戸黄門」なんかがそうだった気がします。それはそれで評価すべきかもしれません。でも飽きるとシリーズを途中で読むのを止めるのも読者の権利だと思います。
投稿: ポケモンおとうさん | 2026年8月23日 (日) 14時27分