2024年7月13日 (土)

今週の読書は経済書などのほか新書も合わせて計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)は、格差や少子化といった課題についてマクロ経済学の観点から数式の展開による理論モデルの分析を試みています。小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)は、財政や経済の観点から戦争を考え、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書に仕上がっています。河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)は、問題解決のためのアルゴリズムを考え、同時に、Pythonによるプログラミングの実例を豊富に取り上げています。佐藤主光『日本の財政』(中公新書)は、財政タカ派の観点から公的債務の安定化を目指して財政再建の方法についての提言を取りまとめています。小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)は、経済学を用いた分析を進める上で重要な思考軸、例えば効率と公平などについて取り上げています。玉野和志『町内会』(ちくま新書)は、行政を補完し地域共同管理に当たる住民組織としての町内会について、歴史的な観点から成立ちや今後の方向などにつき考えています。成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)は、小学生の脳の発達の観点から中学受験について考えています。どうでもいいことながら、今週はちくま新書を3冊も、よく読んだものだという気がます。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って先週・今週とも7冊をポストし、合わせて174冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
それからご参考で、7月9日付けの週刊『エコノミスト』で私が酷評した『金利 「時間の価格」の物語』の書評が掲載されています。過度な低金利批判に疑問を呈するとともに、ホワイト/ボリオといったBISビューを代表するエコノミストの重視など、私がAmazonのレビューで2ツ星に評価したのと同じラインの書評だという気がしました。ただ、その後、Amazonでは4ツ星や5ツ星のレビューもあるようです。繰り返しになりますが、ご参考まで。

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まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)を読みました。編著者は、神戸大学の研究者であり、本書は中京大学経済研究所研究叢書として中村教授の還暦記念として編まれています。序章の後、本書は4部から構成されており、第1部が現実とマクロ経済理論の対話、第2部が個人の選好とマクロ経済減少、第3部が分配・格差とマクロ経済学、第4部が少子化とマクロ経済政策、をそれぞれのテーマにしています。本書は完全に学術書であり、しかも、一部にシミュレーションを用いた数値計算を実施しているものの、ほぼほぼ数式の展開による理論モデルの分析で計量経済学的な実証研究はなく、一般的なビジネスパーソンには難しい内容であるように思いますし、私ごときでは4部13章のすべてを十分理解したとは思えません。ですので、第2部のマイクロな個人の選好に基づいたマクロ経済分析などから少しトピックを選んで取り上げておきたいと思います。すなわち、第6章では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにおける消費行動を分析しています。この分析では、家計調査などのデータから「巣ごもり消費」とも呼ばれた自宅待機要請の際の消費が、家計内の労働時間を要する時間集約財にシフトしている点を発見しています。ただ、中所得層での所得弾力性の低下という意味で時間集約財の特徴を消滅させた可能性も指摘されています。これは、家計のタイムユースの観点からパンデミック期の巣ごもり消費の特徴とも合致すると私は受け止めています。また、第3部の第8章や第9章では労働分配率の低下についてモデル分析を行っています。規模の経済を有する情報財部門と収穫一定の最終財部門からなる2財モデルで労働分配率が低下することが示されます。しかし、同時にこういった情報化社会の進展がマクロ経済を不安定化せるリスクにも言及しています。また、オートメーションによって資本が労働を置き換えるタスクモデルによれば、未熟練労働から資本へのタスク転換により賃金格差の縮小と資本分配率の低下がもたらされる一方で、金融自由化などに起因する技術的に最先端のタスクが増加すれば賃金格差の縮小と労働分配率の低下が同時に起こることになります。少子化対策では、第11章で、家計が利己的か、あるいは、利他的かで政策のインプリケーションが異なるモデルが提示され、人的資本希釈効果もあって、利己的な経済では子育て支援は逆に子供の数を減少させてしまうという結果が導かれています。第12章では、世代重複モデルの分析から、内生的出生率と最低賃金による失業をモデルに導入すれば、資本所得税の引上げにより1人当たりの資本蓄積を促進し、雇用も出生率も改善する可能性が示唆されています。ということで、必ずしも統一性あるテーマに基づく論文集ではありませんが、マクロ経済モデルの理論分析という形で、従来から示されているマクロ経済現象を確認するうことに成功しています。

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次に、小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、防衛研究所の研究者ですが、私と同じ京都大学経済学部のご卒業ですので、軍事や地政学ではなく経済学がご専門なのだと思います。本書は決して学術書ではなく一般向けの読み物であり、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書といえます。歴史的には西洋の古典古代であるギリシア・ローマ時代から、我が国の戦国時代や江戸時代も含めた前近代の戦争も対象とし、もちろん、近代戦争であるいわゆる総力戦の第1次世界大戦や第2次世界大戦、その前の我が国でいえば日清戦争や日露戦争の特徴的なエピソード、経済的な見方からのエピソードを豊富に含んでいます。ただし、最新の武力紛争、というか、何というか、ロシアによるウクライナ侵攻や中東ガザにおけるイスラエルのジェノサイドなどについては特に強く着目されているわけではありません。特に、中東については言及すらされていません。圧倒的に主張されているのは、一言でいえば「戦争には金がかかる」という点です。合理的な経済学の考えを身につけているエコノミストであれば、決して戦争なんかは見向きもしないということが明らかです。経済合理性ない人が戦争を始めるのだということがよく理解できます。特に、産業革命以降の近代的な産業の確立を受けて、刀やサーベルなどから銃器、それも重火器の武器を調達することは、個人レベルではほとんど不可能となり、国家が戦費を負担することになります。ですので、戦争が終結した後、近代的な戦争で必要とされた経費はすべて敗戦国が負担する、という原則が確立されます。それが、第1次世界大戦後のドイツに対するベルサイユ条約の賠償につながったことは明らかで、ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で強く批判した点でもあります。p.86の表3-4で主要戦争の賠償金比較がなされていますが、GDP比で見て第1次世界大戦後の賠償額が突出して大きいことが読み取れます。また、同じ戦費の別の観点で、前近代の戦争については、戦費をまかなうための国債発行といういうイノベーションを編み出したイングランド銀行の設立をはじめとして、戦争や武力衝突のリスク回避のための為替送金の一般化など、金融面において戦争という非常時においても、金融や生産などの平時の経済活動を円滑に行うためのイノベーションがなされたこともよく理解できます。今では、ウクライナは暗号資産で一部の継戦資金を受け取っている、と本書では指摘しています。これも送金リスクの低減のためなのでしょう。また、本書では経済学の視点ですから指摘はありませんが、武器の開発などで技術力についても戦争が一定の役割を果たした可能性も否定できません。医学なんかもそうです。でも、やっぱり、経済学的な見地からはまったく合理性ないと考えるべきです。最後に繰り返しになりますが、経済書というよりは歴史書に近い読み物の印象です。「戦争というものは、軍人たちに任せておくには重要すぎる」と喝破したのは第1次世界大戦をフランスの勝利に導いた時のクレマンソー首相の言葉と伝えられていますが、まさに、そういった面がよく感じられる読書でした。

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次に、河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)を読みました。著者は、長野県の工業高校の教諭などを経て、現在はカサイ.ソフトウェアラボの代表だそうです。タイトルにある「プログラミング的思考」とは、本書冒頭で、「問題を解決するための方法や手順をプログラミングの概念に基づいて考えること」としています。まあ、表現を換えただけで同じことだという気はしますが、そこまで突き詰めて考えなくても直感的に理解しておくべきなのかもしれません。私の理解では、プログラミング言語を理解するとともに、そのプログラミングを基にアルゴリズムを考えることだという気がします。プログラミングはまさにアルゴリズムに乗っかって動くわけです。本書ではプログラミング的思考の5本柱として、① 流れ制御構造(組み合わせ)、② データ化、③ 抽象化と一般化、④ 分解とモジュール化、⑤ データ構造とアルゴリズム、を示しています。経済学であれば、一言で「モデル」と表現してしまうような気もします。ということで、これまたタイトルにあるように、本書ではプログラミング言語はPythonということになります。このところ、因果推論とともにPythonについても探求を試みていたのですが、ややムリそうな気配が濃厚となっています。それはともかく、前半の冒頭3章でPythonの文法、書法・技法、グラフィックスを取り上げた後、先ほどのプログラミング的思考の5本柱を第4章で解説し、後半の第5章から第8章が実践編となっています。各章ではプログラミングの実例を豊富に取り上げていて、まあ、私のようなシロートから見てもレベルがまちまちなのですが、第5章でプログラミングの簡単な例示、第6章で再帰的思考、第7章でアルゴリズム、最後の第8章でデータサイエンスに焦点を当てています。簡単なプログラム例としてはフィボナッチ数列があります。まあ、フィボナッチでなくても数列であれば簡単なアルゴリズムに乗せてプログラムできるとは思います。ベルヌーイ数なんて巨大な桁数になりますが、プログラムで作り出すのは難しくもありません。再帰的な解法、というか、応用ではグラフィックスが持ち出されています。まあ、判りやすいような気がします。第7章のアルゴリズムがもっとも重要で、テイラー展開やハノイの塔、戦略性あるゲームの必勝法などが出てきます。いずれもすごく判りやすいのでオススメです。最後に、少し前まで、再帰的(recursive)な解法と反復法(iterative)による解法は、ほぼほぼ同じながら、ビミョーな違いがあることを理解し始めました。自分に返って来る部分があるのが再帰的(recursive)な解法で、少しずつ条件を変えるとはいえ単純に繰り返すのが反復法(iterative)なのだということのようです。まあ、差は大きくない気がします。どうでもいいことながら、PythonではDo While文がないらしいのですが、私はループさせる際はfor文を多用するクセがあったりします。

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次に、佐藤主光『日本の財政』(中公新書)を読みました。著者は、一橋大学の研究者です。私は財政学や公共経済学の分野にそれなりに専門性があり、したがって、この著者の従来からの主張も見知っています。すなわち、現在の日本の財政赤字や公的債務の累増を大きなリスクと考え、財政再建により公的債務の安定化を目指そうとする財政タカ派の財務省路線の代表的な論客の1人です。かたや、私は真逆の政策スタンスで財政赤字や公的債務にはかなり無頓着で財政ハト派だったりします。ですから、昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" でも、基礎的財政収支の改善と低金利により日本の財政は十分サステイナブルである、と結論したりしていました。でも、黒字と低金利の2つのサステイナビリティ条件のうち、3月に日銀が金融引締めを始めたことにより、崩れる可能性が出てきています。すなわち、金利が成長率よりも高くなる可能性が十分にあるわけです。その意味で、本書で改めて財政タカ派の主張を確認しておきたいと考えました。ただ、従来、というか、ここ30年ほど大きな主張の変化は見られません。要するに、財政収支の悪化を食い止めるのが主目的であって、その目的は一向にハッキリしません。つまり、財政収支を均衡させるのは唯一の目標であって、ほぼほぼ自己目的化しているといえます。少なくとも金融タカ派は不況になった際の金利引下げののりしろ論なんてのを考え出しただけマシな気がします。ただ、財政タカ派の場合は「痛みを伴う改革」について日本人のそれなりの思い入れがあるものですから、支持を得やすい可能性があります。ということで、本書では冒頭でいきなり財政再建の方策として5つの対策を上げています。すなわち、① ワイズスペンディング、② 企業・産業の新陳代謝の促進と雇用の流動化、③ 消費税の大幅増税という税制改革、④ セーフティネットの構築、⑤ Pay-As-You-Go などの財政ルールの設定、となります。②がとても異質に見えるのですが、税収を上げるために成長促進する必要があり、その成長促進のためにこういった政策が必要、という理由です。私は財政再建できるのであればした方がいいと考える一方で、そのコストは現時点では高すぎる可能性があるように見えます。この経済学的なコスト-ベネフィット分析をすることなく、財政再建を自明の目的として、ひたすら財政再建を目指しているように見えるので財政タカ派の議論は少し違和感を覚えます。

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次に、小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)を読みました。著者は、官庁エコノミストから早い段階で学界に転じていて、現在は一橋大学の研究者です。本書のサブタイトルは「効率か公平かのジレンマ」となっていて、トレード・オフの関係にある効率性と公平性のバランスを考えながら、ひいては、市場と社会保障の関係、あるいは経済と幸福、将来世代の経済的厚生まで幅広く論じています。あまりに幅広く論じていて、まさに経済学の論点をいっぱい取り込んでいるので、ここではサブタイトルにしがたって、効率と公平のジレンマないしトレードオフについて考えたいと思います。というのは、経済学における「効率と公平」の問題は、本書ではまったく意識されていないようですが、ある程度の部分まで政治学とか社会学における「自由と民主主義」の問題に通ずるものがあるからです。すなわち、効率と自由に親和性がある一方で、公平と民主主義には相通ずるものがあると考えるべきです。ですから、効率のためには自由を重視し、公平の確保には民主主義で対応すべきと私は考えています。自由と民主主義は一括されて「自由民主主義」という表現もあり、そういった政党も日本のみならず存在するわけですが、経済学における効率と公平のように、ジレンマがある可能性を指摘しておきたいと思います。あくまで効率や自由を重視するのであれば、たとえ大きくとも個人差というものを肯定して、経済学であれば生産性の差に従った処遇、というか、出来る人はできるようにご活躍願う必要があるのに対して、公平や民主主義ではそういった差をならしたり、あるいは、1人1票で参加を促したりする必要があります。少なくとも、効率を重視しすぎると公平が阻害される可能性は本書でも十分認識されているようですし、一般にもご同様だと思います。当然です。経済学的な見方から、効率的で生産性の高い特定の人物ないしグループが、例えば、所得という意味での購買力を平均よりも過大に持つようになれば、たとえそれが経済学的に根拠ある理由に基づくものであっても、公平の観点からは好ましくない可能性があります。ある程度の公平が確保されないと効率が阻害される可能性がある点も忘れるべきではありません。ですから、自由と民主主義において、「殺す自由」とか、「盗む自由」がないのと同じで、経済においても過剰な効率の重視は好ましくないと私は考えています。その昔にサプライ・チェーンと呼んだ複雑な分業体制が、現在では、グローバル・バリュー・チェーンと称されていますが、この複雑極まりない分業体制の中で民主的な公平性が確保されないと、チャイルド・レイバーやスウェットショップのようなものが分業体制に中に紛れ込む可能性が排除できません。特に経済学的には低コストでもって高効率と考えられる場合が少なくなく、効率がサステイナビリティに欠ける生産や消費につながりかねません。それが、市場の弱点のひとつだと思いますし、市場を分析する経済学の弱点でもあります。

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次に、玉野和志『町内会』(ちくま新書)を読みました。著者は、放送大学の研究者であり、ご専門は都市社会学・地域社会学だそうです。本書では、町内会という強制加入に近い地域団体が、本来は行政がやるべき業務を住民の好意に依存してやってもらい、その結果として生じかねないトラブルも行政として責任を取るわけでもなく、住民間の解決に委ねるという、行政から見て何とも都合のいい仕組みがなぜできあがったのか、を解明しようと試みています。私は、徳川期の五人組とか、戦中の隣組ではないかと思っていたのですが、そんな軽い単純な考えを吹き飛ばすような歴史的かつ学術的な分析がなされています。ただ、本書でも指摘しているように、戦後にGHQが戦争翼賛の観点から町内会を解散させた上で、サンフランシスコ平和条約によって独立を回復した後に復活したのも事実です。なお、町内会の学術的な定義はp.27に既存研究から引用されていて、本書では「地域共同管理に当たる住民組織」が肝と考えています。そして、この歴史的な解明とともに、本書では、日本の町内会は西洋における労働組合が果たしてきた自立や自治や参加促進などの役割を担ってきたのではないか、との仮説も提示しています。これはかなり斬新というか、GHQの見方からすれば真逆に近い見方ではないかという気がします。ただ、同時に、本書では行政の役割に分担という観点もあって、労働組合が果たしてきた役割と町内会では、かなり違うんではないかと、私は考えています。もっとも、終戦直後においてすら労働者の半分近くが農林水産業の第1次産業に従事していたわけであり、漁業権の設定とか、典型的には農村における入会地の管理といったような、最近の流行の言葉を使えば、コモンに関する業務は、行政から委託されるのではなく、自律的にこなしていた可能性が高いと私は感じています。自律的に担っていたとはいえ、結果的には行政の役割の分担をこなしていたのは事実かもしれません。そういった行政を補完するような役割は、本書でも指摘しているように、いまだに清掃やごみ収集の補助、あるいは、街灯の設置などでなくなってはいないものの、都市化の進展とともに大きく変化してきていることは確かです。その上、原則全員加入といえば、マンションの管理組合がマンション内ではその昔の町内会に代替する組織になっていて、これは明らかに全戸加入であり、マンション内の自治を有料で、というか、企業活動に住民が助力しつつ一端を担っていることは明らかです。そういった町内会も、あまりに過重な負担から担い手が少なくなり、活動水準を大きく低下させています。本書の最後では、町内会・自治会と市民団体を対比させて「水と油」と表現していますが、この先も、町内会の衰退は免れないのかもしれません。

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次に、成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)を読みました。著者は、子育て支援事業「子育て科学アクシス」代表であり、文教大学教育学部の研究者です。本書では、タイトル通りに、中学受験について考えていて、中学受験ですから小学生が受験するわけで、高校生の大学受験と違って親の影響力の強さがひとつの考慮するポイントとなります。実は、私自身も中学受験をして6年間一貫制の中学・高校に通いましたし、したがって、というか、何というか、倅2人もご同様です。いうまでもなく日本では中学校は義務教育であり、小学校から進学する先の中学校は住んでいる地区に従ってほぼほぼ自動的に決まります。ですから、その自動的に決まる中学校に通うか、あるいは、中学受験して異なる中学校に通うかの選択肢になるわけです。繰り返しになりますが、受験するのは小学生であり、自律的な判断ができる子どもがいる一方で、親の影響力も決して無視はできません。我が家の子どもたちの場合、父親の私が中学受験をして私立中学・高校に通っていた経験がある、という点とともに、当時住んでいたのが南青山という全国でも、というか、おそらく、都内でも有数の中学受験に熱心な地区だったこともあります。私の聞き及ぶ範囲では1/4から1/3くらいの児童が中学受験をするそうです。本書では著者の専門領域である脳の働きから中学受験を考えていて、からだの脳とこころの脳からなる1階部分の上の2階部分におりこうさんの脳が育まれると指摘しています。そして、このこころの脳とからだの脳とおりこうさんの脳の発達の観点から中学受験、さらには、中学受験を超えた範囲での子どもの発達が考えられています。詳細は本書を読んでいただくしかないのですが、もっとも私が肝の部分だと感じたのは、学校や塾では出来ず家庭でしか出来ない脳育てがあるという点です。これも読んでいただくしかないのですが、巷間いわれている点で常識的な範囲で、早寝早起きで朝食を取る、ということがあります。私なんかの時代の大学受験は睡眠時間を削ってでも勉強時間を確保するという考えがなくはなかったのですが、本書でも中学受験と大学受験は違うと指摘していますし、そういった生活リズムの確立は脳の発達が十分ではない小学生には重要なポイントであるのは理解できるところです。本書全体を通じて、やや中学受験のいわゆるハウツー本的な要素はありますし、そういった需要にも対応しているのかもしれませんが、脳の発達という観点から重要な点が指摘されてもいます。その点は評価できると思います。

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2024年7月 6日 (土)

今週の読書は夏休みの論文準備のための専門書3冊をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、北尾早霧・砂川武貴・山田知明『定量的マクロ経済学と数値計算』(日本評論社)は、EBPMに基づく政策分析に欠かせない数値計算による定量的な経済分析の理論と実践について解説しています。林岳彦『はじめての因果推論』(岩波書店)は、因果推論の基本的考え方や方法などを取り上げています。金本拓『因果推論』(オーム社)は、ビジネスシーンでの因果推論の実践的な活用を目指し、Pythonのプログラム・コードや分析結果のアウトプットなども豊富に収録しています。今野敏『一夜』(新潮社)は、竜崎と伊丹を主人公とする「隠蔽捜査」シリーズの第10弾です。神奈川県警管内の誘拐事件と警視庁管内の殺人事件の謎が解き明かされます。中山七里『有罪、とAIは告げた』(小学館)は、「静おばあちゃん」シリーズの主人公の孫が東京地裁判事として、中国から提供された「法神」と名付けられ、裁判官の役割を果たすAIの運用と評価を命じられます。清水功哉『マイナス金利解除でどう変わる』(日経プレミアシリーズ)は、日経新聞のジャーナリストが引締めに転じた日銀の金融政策の影響につき、住宅ローンなどの身近な話題を基に取材結果を明らかにしています。相場英雄『マンモスの抜け殻』(文春文庫)は、北新宿の巨大団地にある老人介護施設のオーナーが殺された事件の謎が解明されます。夏休みの研究論文のために因果推論の分厚な本を3冊も読んだのですが、実は、今もって読んでいるPythonの入門書も含めて、どうも、不発に終わってしまいました。この夏休みの研究はどうしようかとこれから考えます。
ということで、今年の新刊書読書は1▲6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って今週ポストする7冊を合わせて167冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、北尾早霧・砂川武貴・山田知明『定量的マクロ経済学と数値計算』(日本評論社)を読みました。著者は、経済学の研究者であり、それぞれ所属は政策研究大学院大学、一橋大学、明治大学です。本書は、学部上級生レベルの経済学に関する基礎知識を前提に、おそらくは、修士論文に取り組む院生を対象にした学術書です。ですので、一般ビジネスパーソンは読みこなすのはハードルが高そうな気がします。ただ、プログラミングに興味ある向きは一読の価値あるかもしれません。巻末付録には本書で使用したプログラム・コードを収録したwebサイトが紹介されていて、MatLab、Python、Julia、R、Fortranのソースコードがダウンロードできます。本書ではマクロ経済分析だけでなく、EBPMに基づく政策分析に欠かせない数値計算による定量的な経済分析の理論と実践について明らかにしています。本書は2部から構成されていて、第Ⅰ部の基礎編では数値計算の基礎的な理論を展開し、動学的計画法や時間反復法について解説しています。第Ⅱ部の応用編ではより実践的な数値計算の方法を議論し、代表的個人ではなくビューリー・モデルに基づく異質な個人を導入した格差分析、世代重複(OLG)モデルによる世代間の異質性の導入、時間反復法を応用し金利のゼロ制約を考慮したニューケインジアン・モデルによる最適コミットメント政策の評価、また、ビューリー・モデルを拡張した数値計算のフロンティアなどを取り上げています。私の理解なので間違っているかもしれませんが、本書のテーマであるマクロ経済学の数値計算とは、基本的に、時系列に沿ったマクロ変数、GDPとか、物価とか、金利とかの変化を相互の関係を微分法適式で表した上で、シミュレーションにより分析・解析しようと試みる学問領域です。もっとも、本書では「シミュレーション」という用語は出てきません。ほぼほぼ同じような使い方で、再帰的(ricursive)あるいは反復的(itarative)な解法、ということになります。すなわち、経済学をはじめとして多くの科学におけるモデルは数学的な表現として、各変数の関係を微分方程式体系で表します。しかしながら、中学校の連立方程式とは違って、その微分方程式体系を解析的に、すなわち、式のままエレガントに解くことがほぼほぼ不可能なわけです。その昔の大学生だったころ、微分方程式を解こうと思えばベルヌーイ型に持ち込む、といったテクニックがありましたが、宇宙物理学の数々の天体の運行とか、マクロ経済学の経済成長と失業率と物価の変動とかは、式のままでは絶対といっていいほど解けないわけです。特に、経済学の場合は時系列変数で時間の流れとともにGDPや失業率や物価指数が変動します。ですから、再帰的に数値を当てはめてたり、繰返し法により反復的に解くことになります。厳密には違うのかもしれませんが、モデルをシミュレーションするわけです。経済学では、その昔の1940年代にクライン-ゴールドバーガー型のモデルがケインズ経済学的な基礎による計量経済モデルとして提唱され、ガウス-ザイデル法を用いて解いていたりしたわけです。そういったマクロ経済学における数値計算についての計量経済学の学術書です。最後に感想として、私は1980年代終わりのバブル経済期まっ盛りのころに米国の首都ワシントンDCで連邦準備制度理事会(FED)に派遣され、クライン-ゴールドバーガー型の計量経済モデルをTrollでシミュレーションしていたついでに、BASICを勉強した記憶があるのですが、本書の付録のプログラム・コードにはBASICのソース・コードはありません。Fortranがまだ生き残っている一方で、BASICのコードが提供されていないのは少しばかりショックでした。PythonとかRはフリーで提供されている上に、その昔にサブルーチンとよんでいたライブラリなんかが豊富にあって便利なのかもしれません。まあ、計量経済学の初歩的なアプリケーションであるEViewsやSTATAがないのは理解できるのですが...

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次に、林岳彦『はじめての因果推論』(岩波書店)を読みました。著者は、国立環境研究所の研究者です。タイトルから本書を初心者向けの入門書だと思いがちですが、私のレベルが低いだけかもしれないものの、あまり初心者向きともいえません。そもそも、因果推論そのものが学問的にそれほど容易に理解されているわけではありませんし、本書を読み進むには、それなりの科学的な素養を必要とします。また、バックグラウンドのお話であって、特に、明示はされていませんが、因果推論のためのプログラムはRでエンコードされているように私は感じました。本書は3部構成であり、第Ⅰ部では因果推論の基本的な考え方の理解を進めるべく工夫されています。DAG=Direct Acyclic Graphによって因果の方向を直感的に確認するとともに、処置変数と結果変数の両方に影響するような要因のないバックドア基準を満たす変数セットを取る必要性が強調されます。第Ⅱ部では因果効果の推定方法につき解説されています。共変量を用いた識別、傾向スコア法によるマッチング、さらに、共変量による調整ができない際に用いる差の差分析(DiD)や回帰不連続デザイン(RDD)、また、操作変数(IV)法や媒介変数法などが取り上げられています。そして、最後の第Ⅲ部では因果効果が何を意味して、逆に、何を意味していないのかについて解説を加えています。経済学の範囲でいえば、EBPMによる何らかの政策効果の実証のためには、本書p.233でもエビデンス・ヒエラルキーが示されていますが、最上位のもっとも強力な因果関係を確認するための方法はランダム化比較試験(RCT)のメタアナリシスです。それに続いて、少なくとも1回あるいはそれ以上のRCT、さらに、ランダム化されていない準試験、すなわち、本書の範囲内でいえば、自然実験や差の差分析、そして、観察研究としては回帰分析やコーホート研究があり、最後の方ではケーススタディなどの記述的研究となります。しかし、従来から十分自覚しているように、私は因果関係を重視するタイプのエコノミストではありません。経済データを用いた実証的な研究はもちろんやりますが、時系列分析に取り組む場合も少なくありません。GDPでも、失業率でも、物価でも、univariate=単変数で時の流れとともに確率的に変化・変動すると考えることも可能です。本書でも、因果関係と相関関係を識別することの重要性を強調していますが、因果関係とはそれほど単純なものではありません。少なくとも、一方向=unilateralな因果関係だけが存在するわけではなく、双方向=bilateralな因果関係もあれば、多角的=multilateralな因果関係すらあると考えるべきです。私がよく持ち出す例は、喫煙と肥満と低所得の3要因です。この3要因は複雑に絡み合って、お互いに因果関係を形成している気がしてなりません。もちろん、適切な分析目的に合致したモデルを構築して数量分析すれば、それなりの因果関係は抽出できる可能性が十分ありますが、そうなると、モデルの識別性にも立ち入った考察が必要になると私は考えます。もうそうなると、果てしない確認作業が必要です。そのあたりは、漠然と因果の連鎖、あるいは、ループで考えるのも一案ではないか、と私は考えています。また、論理的な因果関係があるにもかかわらず、無相関という稀なケースもあります。すなわち、人間の場合なら、統計的に、性行為と妊娠はほぼほぼ無相関です。しかし、性行為が原因となって妊娠という結果をもたらすことは中学生なら知っていることと思います。ビッグデータの時代には相関関係で十分であり、因果関係の必要性が薄れた、という議論も聞かれます。でも、エコノミストにとってはEBPMの要請は極めて強く、因果推論はこれからも必要になりそうな気がします。

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次に、金本拓『因果推論』(オーム社)を読みました。著者は、コンサルティング会社を経て現在は製薬会社にてご勤務だそうです。本書はかなり実践的な内容で、Pythonのプログラム・コードや分析結果のアウトプットなども豊富に収録しています。加えて、因果推論の中でも、ほぼほぼ経済や経営に関する分野に限定していて、純粋理論的な解説は数式の展開でなされている一方で、自然科学はほぼ含まれておらず、アルゴリズムの樹形図も数多く示されています。因果推論を経済・経営のex-anteな意思決定やex-postな評価に用いるという考えかもしれません。たただ、Pythonのプログラム・コードが示されているということは、本書冒頭でも明示しているように、基本的なPythonのコードの理解を有している必要があります。もっとも、私はBASICだけでPythonのプログラムを組んだ経験はありませんが、ある程度の理解は可能でした。逆にいえば、それほどPythonに関して深い理解を必要としているわけではありません。ということで、本書では冒頭第1章の次の第2章と第3章で因果推論の基礎理論や手法を展開しています。もちろん、第3章の手法の中には因果推論で多用される傾向スコア法、回帰不連続デザイン(RDD)、操作変数(IV)法、差の差分析(DiD)、といったところが網羅されています。そういった理論や手法の後、単なる因果推論だけではなく、さらに派生して機械学習を第4章で取り上げ、第5章では因果推論と機械学習の融合による因果的意思決定を議論しています。これも因果推論によく用いられるCausal Forestなんかはこの第5章で取り上げられています。機械学習まで範囲を広げるとは、私はちょっとびっくりしました。また、第6章ではセンシティビティ・アナリシス=感度分析を取り上げ、機械学習による感度分析の実行手順まで示しています。そして、私が特に興味を持ったのは第7章であり、因果推論のための時系列分析に焦点を当てています。因果推論では状態空間表現を用いることが少なくありませんが、本書第7章ではそこまで複雑な表現は多用されておらず、季節変動、トレンド、外因性変動、異なる時点での自己相関などの時系列解析の概要を説明した後、データの準備から始まって、検証から将来予測までを解説しています。最後の第8章では因果関係の構造をデータから推計する因果探索について取り上げています。時間整合的なものと時間に関する先行性を考慮した時系列モデルも解説されています。全体として、繰り返しになりますが、数式などで基礎理論の解説は十分なされている一方で、Pythonコードやアウトプットが幅広く示されていて実践的な印象です。感覚的に理解できる概念図やグラフも豊富に収録されていて、因果推論の各ステップが明示されているので理解がはかどります。特に、DAG=Direct Acyclic Graphをいちいちチェックするように各ステップが組み立てられており、関係性の確認が容易にできるように工夫されています。Pythonにはライブラリがいっぱい用意されていて、因果推論などには実践的に便利そうだという気がしました。私もBASICだけではなくPythonにもプログラミングを拡張しますかね、という気になってしまいました。

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次に、今野敏『一夜』(新潮社)を読みました。著者は、警察ものを得意とするミステリ作家であり、本書は幼なじみでともに警察庁キャリアの竜崎伸也と伊丹俊太郎です。竜崎は神奈川県警刑事部長、伊丹は警視庁刑事部長です。本書はこの2人を主人公、というか、主人公はたぶん竜崎ですが、この2人が登場する「隠蔽捜査」シリーズの第10弾と位置づけられています。ちなみに、出版社では特設サイトを解説しています。ということで、竜崎の管轄内である小田原で有名作家の北上輝記が行方不明との一報が舞い込みます。そこに、北上の友人で、同じく作家の梅林賢が面会を申し込み、誘拐とは断定されていない段階で誘拐ではないかと指摘します。なお、北上輝記は純文学作家、梅林賢はミステリを得意とするエンタメ作家で、神奈川県警の佐藤本部長は北上のファン、伊丹が梅林のファンだったりしますが、主人公の竜崎は小説を読まず、2人の作家を知りもしません。それはともかく、梅林は実に理論的に北上が単なる行方不明なのではなく、誘拐であると指摘します。そして、捜査への協力を示唆し、竜崎も参考意見としてミステリ作家の意見を聞くというオープンな態度を示します。他方、伊丹の警視庁管内では警備員が殺害されるという事件が発生していました。この誘拐事件の自動車の走行ルートが警備員殺害事件の現場に近接していることから、伊丹が神奈川に乗り込んできたりします。他方で、竜崎の家庭内でも問題が発生します。息子の邦彦が留学先のポーランドから帰国したのはいいのですが、せっかく入った東大を中退して、かねてからの希望であった映画製作の道に進むといい出します。ミステリですので、あらすじはここまでとします。まあ、小田原に端を発する有名作家の北上の誘拐と警視庁管内における警備員殺害が何らかのリンクを有していることは容易に想像される通りです。エンタメのミステリですので、詳細は言及しませんが、有名作家の誘拐事件の解決、警備員殺害事件の解明、さらに、邦彦の東大中退騒動の決着、と読みどころ、読ませどころが3点あるわけです。最後に、この「隠蔽捜査」シリーズはミステリとしての謎解きとともに、竜崎の非伝統的ながら合理的極まりないマネジメント能力の発揮も読ませどころなのですが、シリーズ第10弾の本作品にして、どちらもほぼほぼ最低レベルに落ちています。ミステリとしての謎解きは、別段、何の面白みも意外性もなく終わってしまいます。竜崎のマネジメントも、ミステリ作家の意見を聞くという非伝統的なやり方は目につく一方で、いつものキレはありません。ただ、さすがによく考えられた表現力、リーダブルな文章でスラスラと読み進めます。やっぱり、大森署のころのヒール役だった第2方面本部管理官の野間崎とか、大森署の刑事だった戸髙なんかの竜崎周辺にいるキャラの立った脇役がゴッソリと抜けると、こんな感じなのか、と受け止めています。脇役として、竜崎・伊丹の同期でハンモックナンバー1番の八島は本作品にも登場しますが、野間崎のようなヒール役としての登場ではありませんし、戸髙の役割を担う人物は私にはまだ見えません。

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次に、中山七里『有罪、とAIは告げた』(小学館)を読みました。著者は、多作なミステリ作家です。この作品もミステリであり、主人公は東京地裁の新人裁判官である高遠寺円です。姓から容易に想像される通り、同じ作家の「静おばあちゃん」シリーズの主人公で、日本で20人目の女性裁判官であった高遠寺静の孫に当たります。作品中では伝説となっている高遠寺静はすでに退官どころか、亡くなっています。当然です。高遠寺円は「静おばあちゃん」シリーズの初期の作品では、法律を学ぶ20歳前後の大学生であったと記憶していますが、司法試験に合格し判事任官しているようです。ということで、主人公は日々多忙な業務に追われていたところ、東京高裁総括判事の寺脇に呼び出され、AI先進国である中国から提供された「法神」と名付けられ、裁判官の役割を果たすAIの運用と評価を命じられます。地裁判事を高裁総括判事が呼び出して業務を指揮命令するのは、裁判官の世界だけに私はちょっと違和感を覚えるのですが、それはさておいて、「法神」を実際に運用すると、現場でとても重宝されます。実績としてすでに出されている過去の裁判記録をインプットすると、「法神」は一瞬にして判決文を作成してしまいます。それも、裁判官の持つ何らかのバイアスまで克明に再現した判決文を提供してくれます。そこに、主人公の高遠寺円は18歳の少年が父親を刺殺した事件を陪席裁判官として担当することになります。18歳という年齢、失業していた父親の行動などを勘案した犯行様態などから、裁判官として判断の難しい裁判が予想されます。しかも、東京地裁で裁判長を務めるベテラン判事は厳罰主義で臨む裁判官として知られています。裁判員裁判において、裁判長のベテラン判事は、自分の判決の傾向をインプットした「法神」の判断結果を裁判員に対して開示するというトリッキーなやり方で、裁判員にバイアスをかけようと試みます。といったあらすじでストーリーが進むのですが、繰り返しになりますが、この作品はミステリです。謎解きが含まれています、というか、重要な構成要素となります。ですので、あらすじはここまでとします。昨年2023年の東大の第96回五月祭では「AI法廷の模擬裁判」と題して、ChatGPT-4を裁判官役とする模擬裁判のイベントが開かれ、いくつかのメディアの注目を集めました。ですので、近い将来にこのような裁判が実行される可能性も否定できません。ただ、現時点では作者の取材が十分であったかどうかという点も含めて、やや消化不良の部分が残る作品と私は受け止めました。まず、AI裁判官たる「法神」を提供するのが中国というのがあざといです。その上、売込みに来る中国人も怪しげでうさんくさい人物です。ミステリとしての謎解きもありきたりで意外感はありません。AI裁判とか、AI裁判官、というものを一般国民が想像すれば、こんな感じ、という最大公約数的なストーリーやラストになっています。小説としてもいわゆる「生煮え」の部分が少なくなく、繰り返しになりますが、消化不良を起こしかねない作品です。まさか、読者のレベルを過小評価しているわけではないでしょうから、もう少し専門的な知識を調べて書いて欲しかった気がします。

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次に、清水功哉『マイナス金利解除でどう変わる』(日経プレミアシリーズ)を読みました。著者は、日本経済新聞のジャーナリストです。ですので、日銀による金融引締め、金利引上げ、あるいは、マイナス金利解除などは大賛成というメディアのジャーナリストで、タイトルのマイナス金利解除をはじめ、金利引上げなどの金融引締めを歓迎し、日銀に対する提灯本となっています。序章では私なんかがどうでもいいと考えている金融引締めへの転換を決めた時期について、どうして4月ではなく3月だったのかの解説から始まっています。私は本書の解説よりは、政府との関係であったのだろうと考えています。すなわち、その昔は予算案審議中の公定歩合操作は行わない、という不文律がありました。金利が変更されると予算の組替えが必要になる場合があるからです。しかし、1998年の日銀法改正から日銀の独立性が強化された一方で、今回の異次元緩和の終了、金融引締めへの転換などなどは政府の意向を大いに忖度した金融政策変更であったと考えるべきです。というか、そういった政府の意向を受けた総裁人事に基づく政策変更であったことは明らかです。政府の意向に基づく金融引締めという色彩を減じるための予算案審議中の金融政策変更ではなかったか、と私は勘ぐっています。その序章を受けて、第1章では、金融政策の引締めへの転換の内容をジャーナリストらしく解説しています。特に、ETF購入による株価の下支えを終了し、▲2%の株価下落に対応する「2%ルール」も終了するなどの株価への影響を詳述しているのが印象的です。この株式市場と対峙した日銀の金融政策については第4章でさらに詳しく掘り下げられています。今世紀に入ってからくらいの四半世紀の金融政策の歴史を振り返り、旧来の日銀理論に立脚して「金融政策の限界」を強調しています。第2章では、日銀による追加的な利上げについて、いつになるかの時点、判断要素、取りあえずは25ベーシスの引上げとしても、結局のところ、どの水準まで引き上げるのか、などなどを考えています。第3章では、一般国民の関心の高い住宅ローンへの対応を中心に、家計が取るべき対応に着目しています。このあたりは読んでいただくしかありません。第4章はすでに書いたように、日銀と株式市場との関係を考えており、第5章は、現在進行形のインフレの要因などを分析しようと試みていますが、むしろ、デフレからインフレへの転換で必要な対応策、というか、資産運用について考えています。つねに、資産運用に関するジャーナリストや専門家のアドバイスには眉に唾をつけて見る癖のある私にはそれほどのものとも思えませんでした。

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次に、相場英雄『マンモスの抜け殻』(文春文庫)を読みました。著者は、社会派ミステリ作家です。本書は2021年コロナまっ最中の作品でしたが、このほど文庫本で出ましたので読んでみました。ということで、主人公はこの巨大団地で少年時代を過ごした警視庁刑事の仲村勝也です。そして、この巨大団地で老人介護施設のオーナーで、ほど近い歌舞伎町の顔役でもある老人の藤原光輝が団地の上階から転落死します。防犯カメラの画像から、被害者に最後に接触したのは美人投資家で知られる松島環で、また、被害者の藤原光輝が経営する老人介護施設で働く石井尚人も捜査線上に浮かびます。そして、この松島環と石井尚人は、ともに、同じ団地で少年少女時代を過ごした仲村勝也の幼なじみであり、仲村勝也は彼らの無実を信じて操作を続けます。ということで、ミステリですのであらすじはここまでとします。タイトルにある「マンモス」というのは大規模な集合住宅、有り体にいえば団地のことであり、作中の「富丘団地」とは、明らかに新宿区の戸山団地です。私が3年近く勤務していた総務省統計局から大久保通りをはさんで斜向かいに広がっていました。その巨大団地が団塊の世代の高齢化をはじめ、団地内に老人介護施設が出来るほどの高齢化の時代を迎えています。ただ、こういった新宿近くの都心の団地だけでなく、多摩ニュータウンなどの戦後早い段階で開発された住宅地は一気に高齢化が進んでいることは事実です。そして、本書ではそういった老人介護施設の闇の部分が大きくクローズアップされています。老人介護施設ではなく障がい者施設ではありますが、「恵」が運営している障害者グループホームで食材費の過大請求などが発覚し、事業所としての指定取消しなどの処分が講じられたことは広く報じられ、情報に接した読者も多いと思います。でも、本書に登場する老人介護施設もものすごい闇の部分を持っています。その闇の部分に主人公の幼なじみであり、容疑者にも目されている石井尚人も巻き込まれていたりします。同時に、事件とは直接関係ないながら、主人公の仲村勝也の母親が独居していて、少し認知症の症状が出はじめ、主人公の妻が義理の母親の世話で精神的にも肉体的にも大きな疲労が蓄積している点も小説に盛り込まれています。本書は、ミステリというカテゴリーとしては、それほど凝った内容ではないかもしれませんが、高齢者介護の実態をフィクションとして描き出し、社会派ミステリとして読み応えある内容に仕上がっています。

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2024年6月29日 (土)

今週の読書は国際開発援助を取り上げた経済書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、稲田十一『「一帯一路」を検証する』(明石書店)は、国際開発援助において被先進国である中国が対外援助の乗り出したネガティブな影響について分析しています。中野剛志ほか『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済)では、脱成長が新自由主義的な主張につながりかねない危険を背景にした議論です。長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)では、昭和黄金期のSF少女マンガの歴史を概観しています。三浦しをん『しんがりで寝ています』(集英社)は「BAILA」に掲載された日常生活に根ざすエッセイを収録しています。酒井順子[訳]『枕草子』上下(河出文庫)は、清少納言の古典を現在の人気女性エッセイストが読みやすい文章に現代訳しています。恒川光太郎『真夜中のたずねびと』(新潮文庫)は、社会の辺境にある微妙な主人公たちをややズレのある角度から捉えた短編集です。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先週までに25冊をレビューし、今週ポストする7冊を合わせて160冊となります。順次、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでもシェアする予定です。

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まず、稲田十一『「一帯一路」を検証する』(明石書店)を読みました。著者は、世銀勤務のご経験もある専修大学のエコノミストです。本書では、タイトル通りに中国の体外経済協力について分析しています。いわゆる「一帯一路=Belt and Road Initiative」構想に基づく対外援助です。本書は3部構成になっており、第1部で国際的な潮流への影響を、第2部でインフラ開発における日中の競合について、そして、第3部でアフリカ開発における中国の援助のインパクトについて、それぞれ焦点を当てています。どうして「一帯一路」を押し進める中国の対外援助を取り上げるのかというと、本書でも指摘されている通り、国際開発援助体制においては先進国が経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)を通じて国際公共財としての開発援助を実施している一方で、中国はOECD加盟国ではありませんから、当然にDACでの議論とは無関係に非DACドナーとして自国の「国益」に応じて、国際社会の協調体制とはほぼほぼ無関係な対外援助を実施しており、その問題点がここ10年余りで浮き彫りになっているからです。例えば、中国は「内政不干渉」を旗印にして民主主義の価値については無頓着ですし、ひどいケースでは内戦下の国に対して政府軍を支援するような対外援助すら実施されていたことがある、という指摘も散見します。私は30年ほど前まで在チリ大使館で経済アタッシェをしていて、開発援助の業務にも携わりましたが、少なくとも、日本はOECD/DACのメンバーですし、独裁者ピノチェト将軍が大統領職にあったころには円借款による国際開発援助は行っていませんでした。ピノチェト将軍が大統領職を退いて民政移管してから円借款を始めています。しかし、中国は主としてアジア地域なのですが、平和と民主主義、あるいは2015年以降は国連決議によるSDGsといった国際的な規範を無視した開発援助を実施しています。加えて、スリランカのハンバントタ港がもっとも有名なのですが、債務削減と引換えに港の運営権が99年間もの長期にわたって中国企業に移管されてしまいました。典型的な「債務の罠=debt trap」であると考えるべきです。こういったムチャな開発援助の供与をはじめとして、中国の援助に対する批判が強いのは、いわゆる紐付き融資でないアンタイド化が進む中で、中国の開発援助は中国企業が受注し、その上、労働者まで中国人が送り込まれるという独特の方式に根ざす部分もあります。また、こういった中国の援助により提供されたインフラの質にしても決して悪くはないものの、契約の際に疑義があったインドネシアの高速鉄道の例などもあります。すなわち、中国案は財政負担を伴わないとされていたものの、結局、建設費が膨らんで財政負担が生じるなどの不透明な契約も指摘されています。その昔は、リビジョニストなどが「日本異質論」を振りまきましたし、私自身は中国異質論には距離を置いていますが、少なくとも本書を読む限りでは、対外援助においては中国のやり方がOECD/DACのメンバーである日本をはじめとする先進国とは大きく異なるという印象を持ちました。

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次に、中野剛志ほか『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済)を読みました。著者は、経済産業省ご勤務のエコノミスト、ほかに、評論家・作家、また、九州大学の政治学者、京都大学の経済思想史研究者であり、私には解説能力ありませんが、「令和の新教養」研究会(第1期)メンバーだそうです。この研究会で議論した結果を明らかにした東洋経済オンラインの「令和の新教養」などをもとに書籍化しています。ですので、必ずしも経済書という内容でなく、経済思想の背景に迫るという目的の方に重点が置かれている気もします。本書は3部構成であり、第Ⅰ部で岸田内閣発足直後に掲げられた成長と分配の好循環が可能化を取り上げ、第Ⅱ部で自由の旗手アメリカの行く末を考え、第Ⅲ部でコロナ禍以後の国家と世界を見通しています。ナショナリズムやリベラルといった思想史的な部分は私の専門外ですので、タイトルに即して、私が期待した経済に関する部分を中心に考えたいと思います。まず、新自由主義ですが、経済分野における政府の役割を小さくし、市場の役割を大きくするというのが旗印であり、市場における価格メカニズムによる資源配分がもっとも効率的である、という厚生経済学の第1定理に基づいています。でも、同時に、第2定理により、消費者の選好が局所非飽和性を満たし、かつ、選好の凸性などの条件が満たされれば、当初条件で政府が適切な所得分配を行えば任意のパレート効率的な資源配分を達成させることができる、というのもあります。いずれにせよ、一般的な理解通りに、市場による資源配分は政府による所得分配によって補完されねばならないのですが、後者の政府による所得分配をまったく無視しているのが新自由主義だと私は単純に理解しています。ですから、米国のレーガン政権期、英国のサッチャー内閣期、日本の小泉内閣期には格差が大きく拡大したわけです。その不平等の拡大により、私は個人の基本的人権の保証や自由の行使すら難しい場面が生じかねないので、新自由主義による格差拡大を政府が是正すべき局面に来ている、と考えています。そして、別のトピックとして脱成長があります。これは、地球環境の重視、あるいは、気候変動の緩和から発生していると私は見なしています。すなわち、人新世に入って産業革命の達成とともに、GDPの成長と環境負荷の増大が爆発的に生じ、人類の生存のために環境を保全する必要があり、今後ともGDPの成長に環境負荷の増大が連動するのであれば、GDP成長の方を諦めねばならない、というものです。日本では東大社研の斉藤准教授などが論客として有名ではないかと思います。私はこの脱成長については、GDPと環境負荷の連動性を遮断しデカップリングを可能とする技術的なブレークスルーが、今後可能ではなかろうか、と思っています。ただ、タイミングとして環境破壊のティッピング・ポイントまでに可能かどうかについては、いささか自信がありません。ですから、本書のタイトルの新自由主義と脱成長はかなり異質なものであり、その思想史的な背景としてナショナリズムやリベラリズムを基にごっちゃに論じるのが適当かどうか、はなはだ疑問です。ただ、本書を読んで、脱成長は経済成長を否定しているように見えながら、突き詰めていえば、新自由主義を正当化する議論につながりかねない、という意識は読み取れました。ただ、私の頭の回転が鈍いせいで、どうしてそうなるのかは十分に理解できたとは思えません。だれか、教えて下さい。

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次に、長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)を読みました。著者は、歯学部をご卒業の後、歯学博士号まで取得していますので、歯医者さんではないかと思いますが、その一方で、本書のテーマであるマンガなどのサブカルも含めた幅広い評論活動もしているようです。ということで、私も自分でも何を思ったのか、朝日新聞の書評で見かけた本が、大学の図書館の新刊書コーナーに置いてあったものですから、ついつい借りて読んでみました。何が書いてあるかは明らかであり、昭和期のSF少女マンガの歴史が書いてあるわけです。本書の冒頭で未指摘しているように、戦後1960年前後に、マンガ雑誌が発刊され始めます。1959年に『少年マガジン』と『少年サンデー』、1962年に『少女フレンド』、1963年に『マーガレット』などです。私は決して裕福な家に生まれ育ったわけではないので、こういった分厚な週刊マンガ雑誌を買ってもらえるわけではなく、したがって、ストイックにも大きな興味を示しませんでした。でも、その当時の少年少女らしく、決してマンガが嫌いであったわけではありません。本書では、第1章でSF少女マンガの歴史を概観し、第2章では山岸凉子先生や倉多江美、佐藤史生、水樹和佳を、第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子を、第4章では萩尾望都先生だけを取り上げた後、最終の第5章でややマイナーな岡田史子、内田善美、高野文子などなどを取り上げています。私の主観で「先生」をつけたり、敬称略でいったりしているのはご勘弁ください。本書冒頭では、マンガ専門誌『ぱふ』1982年3月号に掲載されたSFマンガの読者投票の結果を転載しています。第1位は萩尾望都先生の『スター・レッド』、第2位も萩尾望都先生の『11人いる!』+『東の地平 西の永遠』、第3位が水樹和佳『樹魔・伝説』、第4位も萩尾望都先生『百億の昼と千億の夜』、第5位高橋留美子『うる星やつら』となっています。少々飛ばして、第7位が竹宮恵子の『地球(テラ)へ...』、同率第9位に山岸凉子先生の『日出処の天子』が入っています。うち、私が読んでいるのは『百億の昼と千億の夜』と『日出処の天子』だけなのですが、本書でも強調されている通り、このランキングは決してSF少女マンガに限定しているわけではなく、少年少女を問わずオールタイムでのSFマンガを対象にした読者投票なのですが、実に少女マンガが第5位まで、まあ、『うる星やつら』は本書では取り上げられていませんから、SFかどうかは議論あるかもしれませんが、それも含めて1位から5位までは少女マンガが占めているわけです。オールタイムのSFマンガといえば、当然に『鉄腕アトム』が入るものと私は想像していましたが、トップテンにすらありません。私が小学校に入るころ、マンガというよりもアニメだったのかもしれませんが、悪者に殺された主人公の人格と記憶を再現したロボットが活躍する『エイトマン』、正太郎くんがリモコンで操る『鉄人28号』、主人公が乗る流星号が印象的だった『スーパージェッター』といったところが、SF少年マンガだった気がします。少なくとも、『うる星やつら』よりはSFだったと思います。しつこいですが、『うる星やつら』がSFならば、「ポケモン」もSFだという気がします。まったく、ブックレビューになっていませんが、ご興味ある方は限られると思います。でも、一読をオススメします。

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次に、三浦しをん『しんがりで寝ています』(集英社)を読みました。著者は、小説家、直木賞作家ですが、エッセイも数多く書いています。本書は、コロナ前の2019年6月号から約4年分の雑誌「BAILA」での連載に、書き下ろしを加えた全55編のエッセイを収録しています。同じ出版社が出している『のっけから失礼します』の続編となります。作者と同年代のエッセイストの酒井順子のエッセイが、性的な内容を含めたものを別にすれば、優等生が書いたような極めてよく下調べが行き届いているのに比べて、三浦しをんのエッセイは一部の例外を別にしてほとんど取材もへったくれもなく、日常生活の観察から生まれたもので、本書冒頭でも「十年一日の日常エッセイ」とか、「いくらなんでもアホすぎる一冊に仕上がってしまった」と書いているくらいです。酒井順子のエッセイにはほとんど家族は登場しませんが、三浦しをんのエッセイには父母や弟まで登場します。ちなみに、父親は『古事記』研究で有名な三浦佑之教授です。ということで、エッセイの中身は読んでいただくしかないのですが、三浦しをんの愛する対象に本書から新たにポケモンが加わっています。映画『名探偵ピカチュウ』を見て、すっかりポケモン、というか、ピカチュウの虜になったようです。いろいろとポケモングッズを買ったことも明らかにされています。私も「かわいいは無敵」という言葉を思い出してさいまいました。ポケモンのストーリー自体は、もう引退したさとしがピカチュウなどとともに旅をしてバトルを繰り返す、というもので、私はゲームとしては、というか、ボードゲームとしてカードを使ったポケモンカードゲームはやりますが、ニンテンドーのゲーム機によるポケモンゲームはやりません。ですので、バトルは無関係に、もっぱらかわいいポケモンの画像を鑑賞したり、グッスを集めたりしています。さるがに、本書で取り上げられている名探偵バージョンのピカチュウは大昔のものとなりましたが、最近では船乗りさん、というか、キャプテンピカチュウをアレンジしたグッズはいくつか買い求めています。私の居住する県内にはポケモンセンターがないので、京都に出た機会に四条烏丸近くのポケモンセンターを見たりしています。本書に戻って、もちろん、ポケモン以外にもEXILE系の音楽コンサートの模様、両親をはじめとする家族との交流、さらに、お仕事の編集者との関係や友人らとのお付き合いなどなど、日常生活や軽くお仕事に関係するエッセイなど、肩のこらないおバカなエッセイで満載です。でも、この作者の確かな表現力には感心します。暇つぶしにはうってつけです。

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次に、酒井順子[訳]『枕草子』上下(河出文庫)を読みました。著者は、何と申しましょうかで、清少納言なのですが、エッセイストの酒井順子が現代訳を試みています。上下合わせても600ページに満たないので、現在の製本技術からすれば上下巻にする意味がどこまであるかが疑問なのですが、コンパクトなることを尊べば分けるのも一案かという気がします。上巻は142段まで、下巻は318段まで、をそれぞれ収録しています。ということで、私は『源氏物語』については円地文子訳の現代訳を読んだのですが、『枕草子』については初めてでした。よく知られているように、『源氏物語』があはれをテーマにしたフィクションの小説であるのに対して、『枕草子』はおかしをテーマにしたノンフィクションのエッセイです。「春は曙」から始まります。エッセイというか、論評ですので、作者ご自身の価値判断に基づいて、いいものとよくないものを並べている段がいろいろとあったりします。ただ、私の直感的な印象では、好ましいものを並べているよりも、好ましくないものを並べている方が多いと感じました。不平不満が多い人物であったのか、それとも、冷笑的でシニカルな見方を示そうと試みていたのか、私は専門外ですので何ともいえません。よくいわれるように、『源氏物語』作者の紫式部が謙遜が過ぎて漢籍については無知であるかのように装っていたのに対して、清少納言は人口に膾炙した「香炉峰の雪」にもあるように、漢籍に詳しいことを隠そうともしていません。藤原行成との会話でも清少納言が漢籍を理解していることを十分に踏まえた会話が成立しています。漢字の「一」すら知らないことを装った紫式部とは違います。まあ、それだからこそ「知ったかぶり」といった評判が立ったのかもしれません。漢籍に加えて、お釈迦さまに関係する言葉も盛んに引用されています。漢籍については、当時の流行であったと推測される『白氏文集』から白楽天の漢詩が多い印象でした。訳者がとてもていねいに脚注をつけてくれているので、何らかの典籍に則った表現であることが、私のようなシロートにも容易に理解できるのが有り難い点です。こういった名文を見ていると、実は、私がかつて大学院入試で使った英文和訳の問題にあった、米国大統領のスピーチなどもそうなのですが、自分独自の言い回しや表現も重要だとは思うものの、過去の古典的な名文・名スピーチから的確に引用するということが出来るのも重要だという気がします。例えば、私のようなへっぽこなエコノミストが、インパクト・ファクターを議論するのもはばかられる大学の紀要に掲載する論文を書く際でも、2-3ページに渡って50くらいの参考文献リストを付けます。修士論文指導をしている院生には「最低でも100くらいは参考文献を読むように」といったアドバイスをすることも少なくありません。ちなみに、昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability : Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?"には4ページほどに渡って70を超える参考文献をリストアップしています。小説である『源氏物語』には参考文献は不要かもしれませんが、エッセイであれば明示せずとも典籍に則った表現は必要なのであろう、という気がしました。強くしました。

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次に、恒川光太郎『真夜中のたずねびと』(新潮文庫)を読みました。著者は、どちらかといえば、私はホラー作家であると評価しています。それほど多くの作品を読んでいるわけではありませんが、角川ホラー文庫に収録されているデビュー作の『夜市』や『白昼夢の森の少女』は明らかにホラーです。そして、本書もややホラーがかってはいるのですが、ミステリと不条理ホラーの中間のようなテイストです。5話の短編からなる連作短編集であり、主人公は犯罪とかカルトとか異常な要素と社会の片隅や底辺に位置しています。私の趣味に合う、というか、とても共感できる世界観です。文章が極めて巧みで、情景が目に浮かぶようですし、現実からズレを生じて不気味でありながらも、何か身近な雰囲気を醸し出しています。収録順に、各短編のあらすじは以下の通りです。まず、「ずっと昔、あなたと二人で」では、災害孤児となりった少女アキが主人公です。占い師の老女に引き取られますが、老女が若いころに亡くして遺体を岩穴の奥にそのまま放置していて、その亡骸を掘り出しに行くことを要求されます。「母の肖像」では、殺人鬼の父親とそれに依存する母親の間に生まれた息子である河合一馬が主人公です。河合一馬が子供の時、父親に殺されそうになった母親を助けようとして警察に連絡し、その結果、父は警察が来るので逃亡して行方不明となり、薬物使用の罪で母は逮捕されてしまいます。河合一馬は大人になり自ら生計を立てるようになりますが、その主人公が人探し請負の女性を通して母から会いたいという連絡を受けます。「やがて夕暮れが夜に」では、あかりが16歳の高校生の時に、弟が起こした殺人事件のせいで、大学進学は当然のように諦め、それだけではなく、一家離散の憂き目にあい、加害者家族への容赦ないバッシングを避けるため山奥での生活を始めます。「さまよえる絵描きが、森へ」では、ふたたび河合一馬が登場し、旅先で知り合ったKENと名乗る、というか、ハンドルネームの男性から過去の人生を長々と打ち明けられます。すなわち、資産家の家に生まれて何不自由ない身でありながら、ひき逃げ事故を起こした後、残された母子に対する償いを考えている、といった内容で、KENを主人公としたお話に引き継がれます。最後の「真夜中の秘密」では、携帯電話の電波すら届きにくい山奥の家屋を相続してレンタル民家を経営する藤島が主人公です。ある日、死体を埋めに来た女性と出くわしてしまい、格闘の末に殺してしまったと思い、その女性の自宅まで遺体を運ぼうとするのですが、女性は死んでいたわけではなく生き返ってしまいます。藤島は自首を勧めますが、だんだんと事後共犯のような形になっていきます。繰り返しになりますが、現実から少し距離を置いた社会の辺境や底辺に位置する人々を描き出そうと試みています。しかも、通常のまっとうな生活からはみ出したような舞台設定です。でも、そのズレのある世界観というのがある意味で心地よく、とまではいわないとしても、身近な何処かにありそうな雰囲気をたたえています。でも、ある程度の読解力ないと読みこなせないおそれもあります。広く万人にオススメできる作品ではないかもしれませんが、好きな読者はめちゃくちゃに好きになる作品だという気がします。

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2024年6月22日 (土)

今週の読書は経済学の学術書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、西村和雄・八木匡[編著]『学力と幸福の経済学』(日本経済新聞出版)では、大学生の学力低下を実証的に分析し、あわせて、学力と幸福度との関係についても考えています。細田衛士『循環経済』(岩波書店)は、Sraffa-von Neumann-Leontirf的な分析アプローチに基づき、循環経済のモデルを数式で表現してモデル分析を試みています。杉山大志[編著]『「脱炭素」が世界を救うの大嘘』(宝島社新書)は、SDGs、特に、脱炭素に強い疑問を呈しています。酒井敏『カオスなSDGs』(集英社新書)は、乱雑さが増していくというエントロピーの法則から考えて、そもそも、自然界はサステイナビリティを欠いている可能性も指摘します。有田芳生『誰も書かなかった統一教会』(集英社新書)は、安倍元総理の暗殺事件をモチーフに、統一教会と北朝鮮との関係、米国フレイザー委員会報告、「世界日報」編集局長襲撃事件、「赤報隊事件」の疑惑、を取り上げています。銀座百点[編]『おしゃべりな銀座』(文春文庫)は、1955年に日本で初めて発刊されたタウン誌『銀座百点』に掲載された47編のエッセイを加筆修正して収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先週までに19冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて153冊となります。順次、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、新刊書読書ではないので、本日の読書感想文では取り上げてありませんが、米澤穂信『巴里マカロンの謎』(創元推理文庫)も読んでいます。米澤穂信による小市民シリーズの春夏秋冬四部作の完結編として『冬期限定ボンボンショコラ事件』が出版されて図書館で予約しているところ、直前刊で春夏秋冬から外れる『巴里マカロンの謎』もおさらいの意味で読みました。Facebookとmixiでシェアする予定です。

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次に、西村和雄・八木匡[編著]『学力と幸福の経済学』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、神戸大学と同志社大学の研究者です。本書では、現状における大学生の学力のレベルを測定し、ゆとり教育をはじめとする教育政策の帰結について分析し、また、幸福との関係について考えています。いくつか、ネット調査なども活用して独自データを収集し、フォーマルな定量分析をしている章もありますが、基本的に、私の専門分野である経済や本書が焦点を当てている教育は国民からみてとても身近なものであり、広く一般向けに判りやすい研究成果を収録しています。本書は4部構成であり、まず、第Ⅰ部で大学生の学力低下、特に数学力の現状を把握しようと試みています。結果として、数学力の低下が著しく、それはいわゆる文系学部だけでなく、理系学部においても数学力は大きく低下していることを実証しています。pp.32-33に学力調査で使用した21問の問題が掲載されています。小学生レベルから高校レベルまで、どのような正答率の分布かが示されています。そして、この学力低下の大きな原因がゆとり教育にあることが実証的に確認されています。そうかもしれません。ゆとり教育原因説は別にして、私も大学の授業で学生諸君の数学力については大いに悩まされています。第Ⅱ部では、数学をはじめとする学力が人生をかなり左右する、という結果が示されています。すなわち、数学の学力が高い人の所得が高い、とか、一般に認識されているのとは逆に、理系の大学卒の方が文系よりも所得が高い、とか、物理学への興味が高いと仕事ができる、とか、いろんな研究成果が示されています。加えて、一般入試以外の推薦入試、AO入試などの入試の多様化の成果に大きな疑問を呈しています。ただ、私自身はこの第Ⅰ部と第Ⅱ部の結論には少し疑問と異論があります。私の疑問と異論は後にして、第Ⅲ部では幸福度と家庭教育、広い意味での家庭教育について考え、子育てを支援型、厳格型、迎合型、放任型、虐待型に分類したうえで、子供の将来がどのようなものになるかを実証的に分析しようと試みています。最後の第Ⅲ部では、最近の行動経済学の成果も取り入れつつ、思考と行動のメカニズムを解明しようと試みています。コロナ期の外食や旅行についてガマンするか、ソーシャル・ディスタンスを取って実行するか、気にせず実行するか、における忍耐力の重要性などを論じています。分析の結果、自己決定の重要性がクローズアップされています。いろんな教育や学力に関する身近なトピックについて、ネット調査などを活用しつつ、さまざまな独自データを収集して定量分析がなされています。どこまで再現性があるかどうかについて、私はやや疑問なしとしませんが、とても貴重な分析結果であることは間違いありません。ただ、先に言及した第Ⅰ部に対する疑問は、OECDの実施するPISAとの関係です。PISAは3年おきにOECDが15歳の義務教育終了に近い時点の生徒の学力を国際比較を含めて把握するもので、国立教育政策研究所のリポート「PISA2022のポイント」なんかを見る限り、日本のスコアは決して悪くありません。数学なんかはトップクラスといえます。もちろん、PISAの高スコアと大学生の学力低下、すなわち、クロスセクションで日本の15歳の生徒の好成績と大学生の時系列的な学力低下は、決して大きく矛盾するものではありません。可能性としては4つほど考えられます。第1に、日本以上に先進各国の大学生が学力を落としている可能性です。第2に、15歳時点では世界のトップクラスでも、高校の3年間と大学の初期で大いに学力を落とす可能性です。第3に、15歳時点で低スコアだった生徒が多く大学に進学して、逆に、高スコアの生徒が大学に進学しない可能性です。第4に、PISAか本調査か、どちらかが間違っている可能性です。まず、第1の可能性は低かろうと推察されます。第3と第4も、取りあえずは除外することが出来るような気がします。問題は第2の可能性です。というのは、私の勤務校における実感にも合致し、かつ、国際比較した日本の労働者の生産性が低いという事実はかねてから指摘されている通りであり、義務教育を終えた優秀な日本の15歳に対して高校・大学、そして、職場で学力や生産性を上昇させないような何かがある可能性は排除できません。ただ、この点は私の専門外であり、指摘するにとどめておきます。さらに、第Ⅱ部の結論に関する異論は、相関関係と因果関係を、どうやら故意に混同した記述にしているような気がします。数学の学力が高い人が高所得になるのはあくまで相関関係であり、数学の学力が高いことが原因となって高所得をもたらしているのかどうかは、実証されているわけではありません。別の何らかの第3の要因があって、それが数学の学力を高め、同時に所得も高めている可能性があります。たぶん、そうだろうと思います。私は授業の中でいくつか質問をし、すでに授業で教えたハズの点とか、高校で習っていることとかを質問し、正答した学生には加点しています。加点を多く得る学生はリポートや定期試験でもいい点を取って、高い評価を得る場合が少なくないです。これは、加点を得るから最終的な評価点が高くなる、という因果ではなく、おそらく、もともと優秀だったり、授業に高い関心を持って臨んでいたりする学生が、教員である私の質問に正答して加点を得て、最終的にも高評価を得るんだろうと考えています。本書第Ⅱ部の数学や物理の学力と所得や仕事の能力の関係は、この順の因果関係ではなく、別の何らかの要因が数学や物理学の学力を高めていて、同時に、所得や仕事の能力も高くしているんだろうという気がします。それが何かを解明することなく、表面上の数学や物理の学力や好き嫌いだけを論じ得ることにも、意味がないことはありませんが、もう少し深い分析が必要そうな気がします。強くします。

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まず、細田衛士『循環経済』(岩波書店)を読みました。著者は、慶應義塾大学の研究者を経て、現在は東海大学の教授です。タイトルから明らかですが、一直線の生産-消費-廃棄ではなく、リサイクルやリユースの循環型経済に関するモデル分析に関する学術書です。学術書ですので、専門分野に詳しい学生ないし大学院生レベルの基礎知識は必要とし、一般ビジネスパーソンにはハードルが高く感じられる可能性があります。本書では、廃棄物については、結合生産物、すなわち、長期的な競争均衡において使用目的の明確な生産物とともに、長期的には使用を終えた段階で廃棄物が発生するという意味で、スラッファ的な結合生産物を考え、フォン-ノイマン的な鞍点均衡として不動点定理を用いた線形一般均衡モデルにより競争的な市場分析を行い、さらに、レオンティエフ的な線形の波及を考える、という意味のSraffa-von Neumann-Leontirf的な分析アプローチに基づき、循環経済のモデルを数式で表現してモデル分析を試みています。これだけでスンナリと理解できる人はとても頭がいいわけで、本書を読む必要すらないのかもしれません。ただ、基本は線形モデルですので、行列式の解法が多用されている一方で、微積分を用いた解析的な解法は出現しません。ですので、逆行列などが考えますが、まあ、極論すれば加減乗除の四則の範囲の数学ともいえますから、非線形の微分方程式の解法は必要ありません。まあ、それでも、ほぼほぼ数式を解くことによってモデルの解を求めますので、数式はいっぱい出てきます。ということで、本書は冒頭3章で、このSraffa-von Neumann-Leontirfモデルを理論的な基礎を提示しています。特に、第2章では産業系の廃棄物、第3章で家庭系の廃棄物について理論的基礎を明らかにしています。第4章以降では、こういった理論的基礎の上に、資源の循環利用に関する応用問題を散り上げています。まず、資源循環政策の同値性ということで、廃棄物の処理やリサイクルにかかるコストの負担については、生産物連鎖の上流で生産者が負担しても、下流で消費者が負担しても均衡条件に変わりはない、という点が示されます。ただ、これは合理的な生産者=企業や消費者を前提にしているわけで、少なくとも、消費者にコスト負担を求める方が不法廃棄が生じやすい、という点は広く合意があるものと思います。更に進んで、環境負荷の小さな財と大きな財の間の技術的選択において、コストミニマムの原則下で生産者=企業の選択と消費者=家計の選択が一致しないケースが分析されます。ただ、生産者にコスト負担を求めることにより、この矛盾は解消可能であることが明らかにされます。最後の方の章では環境配慮設計やいわゆるエコデザインの効果が分析されています。各章の結論の直前の節には数学付録が置かれている章もあり、ていねいに読み進む向きには大いに助けになりそうです。もちろん、一般常識で緩やかなコンセンサスある判断が多くを占めていて、それでも、理論モデルを用いた確認がなされているのは重要なポイントといえます。ホントは、データを用いて実証的な確認も欲しいところですが、それはないものねだりのような気がします。ただ、実践的には市場は長期に渡る財使用に基づく価格づけには失敗する可能性が高い、と私なんかはマイクロ経済学に疎いながらも想像していますので、市場均衡をここまで長期に引っ張ることが比較静学としても、どこまで可能なのかは疑問なしとしません。もちろん、それも分析対象としているモデル次第、といわれればそれまでです。最後に、どうでもいいことながら、スラッファの Production of Commodities by Means of Commodities は、その昔に京都大学の菱山教授による邦訳書があったと記憶している、というか、私は持っていたのですが、今はもう絶版になっているのでしょうか?

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次に、杉山大志[編著]『「脱炭素」が世界を救うの大嘘』(宝島社新書)を読みました。編者は、キャノングローバル戦略研究所の研究者です。実は、同じ出版社から池田清彦『SDGsの大嘘』が本書のほぼ1年前の2022年に出版されていて、私は2022年9月に読んでレビューしています。その続編というわけでもありませんが、やっぱり、SDGs、特に、脱炭素に強い疑問を呈しています。SDGsについて正面切って反対は難しいと私は感じているのですが、本書などでも強調されているのは、経済と環境のトレードオフです。SDGsは環境だけがコンポーネントになっているわけではなく、17のゴールと169のターゲットには、ゴール5のジェンダー平等、ゴール8の働きがいや経済成長、ゴール9の産業と技術革新の基盤などなど、モロに矛盾しかねないトレード・オフの関係にあるいくつかのゴールやターゲットが含まれています。ですので、本書ではカーボン・ニュートラルという、ある意味でもっとも人口に膾炙した目標、ゴール13の気候変動に焦点を当てています。ただ、相変わらず、陰謀論的な色彩が強くなっています。というのは、もっぱら、ステークホルダーのうちで「誰が得をするか」のトピックに終止している気がするからです。科学的に脱炭素が必要かどうかについて議論することなく、現在の脱炭素の方向性についての損得勘定で議論しても、私は底の浅い議論にしかならない気がしてなりません。というのも、私が知る限り、米国 Committee to Unleash Prosperity のリポート "Them vs. U.S.: The Two Americas and How the Nation’s Elite Is Out of Touch with Average Americans" というのがあるのですが、一般国民とElite1%とIvy League Graduatesで気候変動に対する考え方にかなり乖離があります。これは、2016年の英国のEU離脱、いわゆるBREXITの国民投票と同じで、一般国民と高学歴層の間に乖離がありました。米国の気候変動に関するアンケート調査では高学歴層が気候変動に強い関心を示し、$500のwill to payでも高い比率を示すなど、生活や経済に犠牲があっても気候変動に対処すべき、という考えが強いことが示されています。英国のBREXIT国民投票でも年齢が低いほど、また、学歴が高いほど、leaveではなくremainに投票しているとの結果がLSE blog "Would a more educated population have rejected Brexit?"などで明らかにされています。ですので、カギカッコ付きの「意識の低い一般国民」に対しては、我が国でもSDGs、特に、脱炭素については反対意見が強い影響力を持つ可能性があります。私も、かねてより、省エネとかで経済的な利得を得られるのであればSDGsや脱炭素が進むのは当然なのですが、$500のwill to payなどといった何らかの敬愛的な犠牲やロスを受けてでも脱炭素を進めようという意見がどこまで一般国民の間で支持されるかは、何とも自信がありません。ただ、一昔前であれば、間接民主制というのは国民の意見、すなわち、民意にバイアスあるのであれば、民意をそのまま単純に国政や外交などに反映させるのではなく、専門家の知見に基づいて一定のバイアスの是正も考慮すべきと、私は考えています。経済政策においては金融政策がある程度そういった考えで中央銀行の独立性を認めているわけです。気候変動についても、本書の見方は国民一般にはあるいは受入れられやすいかもしれませんが、一定のバイアスあるような気がしてなりません。

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次に、酒井敏『カオスなSDGs』(集英社新書)を読みました。著者は、京都大学の研究者から現在は静岡県立大学の副学長です。ご専門は地球流体力学だそうです。まず、本書でも表紙画像に見える副題からして、SDGsに対する疑問を出発点としています。例えば、SDGsは巷間注目されている脱炭素などの地球環境だけがコンポーネントになっているわけではなく、17のゴールと169のターゲットには、ゴール5のジェンダー平等、ゴール8の働きがいや経済成長、ゴール9の産業と技術革新の基盤などなど、モロに矛盾しかねないトレード・オフの関係にあるいくつかのゴールやターゲットが含まれています。といった観点をはじめとして、SDGsに対する疑問は、京都大学卒業生である筆者から、少しナナメ目線で「ルールは破られるためにある」という京都大学のよき伝統に従って指摘されています。まず、一般にも広くウワサされているように、SDGsとは先進国の都合を途上国や新興国に押し付けているだけではないのか、という疑問を呈しています。はい、この見方は私も判らないでもありません。人によっては、特に脱炭素などは、先進国をもっと絞り込んで西欧の見方であって、米国は必ずしも強く同意しているわけではない、という意見を持つ人も見かけたことがあります。さらに、著者は自然界のエントロピーの法則、いわゆる乱雑さが増していくという点から考えて、そもそも、自然界はサステイナビリティを欠いている可能性も指摘します。すなわち、自然界は本来サステイナブルではなく、そこの人類からサステイナビリティを持ち込む不自然さがある、ということなのかもしれません。ただし、私のようなシロートからすれば、自然界もサステイナブルであってくれた方が人類には好ましいわけで、本来サステイナブルでない自然界にサステイナビリティを無理にでも持ち込むのは一定の理由があるような気もします。本書では、さらに、複雑系やカオスの考えを持ち込んで、部分部分の相互作用によって、経済学、特にケインズ経済学で強調されるような「合成の誤謬」が生じる可能性も指摘しています。ただ、カオスに何らかの秩序をもたらすスケールフリーネットワークの考えも同時に指摘し、それでも、フィードバックループにより格差や不都合な部分が積み重なっていく可能性を指摘するのも忘れてはいません。また東西の文明論的な議論も示し、西洋人は自然をコントロールしようとする一方で、東洋人は変化する自然に適用しようとする、など、やや私には受け入れがたい部分もあります。でも、科学は因果関係により未来を予測することが出来るとはいっても、本書の著者も諦めているように、遠い未来を予測することはカオス理論からして出来ないことは明らかです。最後に、SDGsの中でもっとも注目度の高い脱炭素について、今年2024年6月4日に閣議決定された「エネルギー白書2024」 第3章 GX・カーボンニュートラルの実現に向けた課題と対応の 第1節 各国における気候変動対策・エネルギー政策の進捗と今後の対応 では、環境省の中央環境審議会第151回地球環境部会の資料1「国内外の最近の動向について」を引用して、我が国では2050年カーボンニュートラルの目標達成に関して、「日本では、温室効果ガスの削減が着実に進んでいる状況(オントラック)です」(p.60)と指摘する一方で、英国・ドイツ・フランス・EUについても進捗を評価していますが、ホントにこの脱炭素は実現可能なのでしょうか。気候変動は+1.5℃に抑えられるんでしょうか。

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次に、有田芳生『誰も書かなかった統一教会』(集英社新書)を読みました。著者は、国会議員も務めたジャーナリストです。タイトル通りの内容だと思いますが、私はこのテーマにそれほど詳しくないので、今まで誰も書かなかったのかどうかについては不明な部分を残しています。当然、現在は世界平和統一家庭連合と称している統一教会=勝共連合=原理研は一体であり、霊感商法などで集めた資金を基に、政界工作や何やに使っているわけですが、その統一協会をめぐるトピックとして、第1章から第3章まで、軽く歴史や安倍元総理との関係、日本の政界工作などについて解説した後、第4章から第7章までは日本の政界への侵食、北朝鮮との関係、米国フレイザー委員会報告、「世界日報」編集局長襲撃事件、「赤報隊事件」の疑惑、を取り上げ、最後の第8章で締めくくりとして安倍元総理との関係を再考しています。ほぼ2年前の2022年7月、山上徹也被告による安倍元総理の暗殺がモチーフになっていますので、第1章はその大和西大寺駅前での事件から始まります。そして、本書では安倍元総理の「家庭の価値を強調する」統一教会へのビデオメッセージに対して、家族が崩壊した山上被告が強く反応した可能性を指摘しています。北朝鮮との関係については、文鮮明教祖が当時の金日成主席の後、中曽根総理も屈服させた、という表現を使っています。私からすればおぞましい限りです。米国下院の調査に基づく報告書では、統一教会は宗教団体ではなく、準軍事組織に似た国際政党の特徴を備えた「Moon organization=文鮮明機関」と見なしているとしています。そして、この調査を率いたフレイザー下院議員の自宅は放火され、犯人は不明だそうです。また、統一教会の機関紙ながら、1980年に経営立直しのために編集局長に就任した副島局長の下で一般紙に舵を切って調査報道で売上を伸ばしたものの、1983年には世界日報本社ビルが襲撃され他事件について「文藝春秋」の記事などをもとに、フレイザー委員会報告の結論を裏付けています。赤報隊事件は1987年5月3日に朝日新聞阪神支局が襲撃され、小尻記者が死亡、犬飼記者も大ケガを負った事件です。本書では、この赤報隊事件の前に、英国下院の報告書で統一教会が小型の銃器さえ製造しているという旨の分析がなされていたり、統一教会の関係団体である幸世物産が散弾銃を2500丁も日本に輸入するという事実があり、国会でも質疑が行われ、当時の通産省が輸入貿易管理令に基づいて問題ないと答弁した一方で、警察庁の後藤田長官からは通産省とは異なるトーンの答弁があったと本書で指摘しています。これらの銃器と赤報隊事件との関連は何ともいえませんが、少なくとも、統一教会=勝共連合=原理研が赤報隊事件クラスの襲撃事件を起こす「能力」があった可能性を指摘しています。最後の第8章の安倍元総理と統一教会との関係については、もう、本書を読んでいただくしかありません。何とも、裏に潜む闇の部分が大きいと実感します。最後に、本書では統一協会の信者は公称の60万人にははるかに及ばず、数万人との推定を示していますが、これだけの信者数で国政選挙に大きな影響を及ぼすことが出来るのは私には大きな驚きです。

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次に、銀座百点[編]『おしゃべりな銀座』(文春文庫)を読みました。編者は、1955年に日本で初めて発刊されたタウン誌です。本書はそのタウン誌に掲載されたエッセイを加筆修正して収録しています。収録しているのは47編のエッセイであり、著者の50音順に収録されています。ただ、掲載されたのがもっとも遅いものでも2017年ですので、かなり年季を経ています。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックのずっと前であり、今ではなくなってしまったお店もいくつか言及されています。執筆者は作家や小説家が多い印象です。地方在住の方もそれなりに含まれています。そして、場所柄か、ファッションと食べ物の話題が多い印象です。私自身に引きつけていえば、大学を卒業して就職してから東京に住み始めましたので、学生時代やさらにさかのぼった少年時代には銀座とは何の縁もありませんでした。今でも、私は基本的に「着るものと飲み食いするものにはこだわりがない」とうそぶいていますので、それほど銀座とは強い縁があるとは考えていません。60代も半ばに達した現在、ファッションはユニクロがあれば十分で、ほぼ上から下までユニクロで取りそろえていたりしますし、食べるものはカミサンの料理で満足しています。しかし、国家公務員として役所に勤め始めた20代のころは住んでいたのが西武新宿線沿線でしたので新宿駅から地下鉄の丸の内線に乗って霞が関に通っていました。判る人には判ると思うのですが、丸の内線で新宿から乗って、霞が関の次の駅が銀座です。ですので、一時期、私の人生からすればごく短い一時期ながら、定期券を霞が関までではなく銀座まで買って、銀座に出歩いていた時もありました。本書ではほとんど出てこなくて、たった1か所だけですが、文具の伊東屋への言及がありますが、私の銀座といえば、伊東屋と山野楽器とヤマハと機械時計のオーバーホールです。ファッション店とレストランはほぼほぼ興味の対象外でした。伊東屋だけに的を絞りつつ長々と脱線すると、大学を卒業た後、公務員として働き始め、何といっても、私自身は、事務官と技官に分ければ事務官ですし、文官と武官に分ければ文官ですので、やっぱり、筆記具には興味がありました。たぶん、クロム張りの一番安いクロスのボールペンを使い始めたころではないかと思います。その後、長い間、ウォーターマンのペンケースに3種類のペンセットを入れて使い回していました。まずはパーカーのインシグニアのほか、クロスのエボナイト張りのセットと欧州代表のモンブランです。10年ほど前に、現役出向で長崎大学に勤務していたころ、どこかのブランドの消せるボールペンを学生に教えてもらって使い始めてから、こういったブランド筆記具から離れていった気がします。60歳を超えて最近では生協の売店で研究費で買った使い捨てのボールペンで満足しています。脱線が長くなりましたが脱線を終えて、本書でも何人かから指摘されている通り、洋服やアクセサリーやといったファッション、あるいは、食べ物や飲み物などのハードだけではなく、雰囲気などといった意味のソフトを楽しむ場であることはいうまでもありません。そういった銀座の魅力を満喫できるエッセイ集です。

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2024年6月16日 (日)

Amazon に経済書のブックレビューを投稿する

毎週土曜日恒例の読書感想文ブログを基に、久し振りに、Amazon にブックレビューを投稿しました。順不同に、以下の経済書です。

  • 村田治『大学教育の経済分析』(日本評論社)
  • 高野剛『就職困難者の就労支援と在宅就業』(大阪市立大学出版会)
  • 飯田泰之『財政・金融政策の転換点』(中公新書)

なお、田中隆之『金融政策の大転換』(慶應義塾大学出版会)のレビューも投稿したつもりなのですが、なかなか掲載されません。さらについでながら、ずいぶんと前になりますが、経済書のカテゴリーでは、クィン・スロボディアン『グローバリスト: 帝国の終焉とネオリベラリズムの誕生』(白水社)とエドワード・チャンセラー『金利 「時間の価格」の物語』(日本経済新聞出版)のレビューも投稿しています。誠に残念ながら、スロボディアン『グローバリスト』のレビューは私の投稿だけで、その後は投稿がありません。チャンセラー『金利』については辛口で2ツ星としたのですが、その後、1件だけ投稿があり、何と厳しくも1ツ星だったようで、平均1.5星、というか、1ツ星半となっています。日銀が異次元緩和を終えて金融引締めを開始し、日本でも政策金利がゼロから離れたいいタイミングの出版だったので、もっとレビューがあってもよさそうに思うのですが、長々と書き連ねた私の最初のレビューがよくなかったのかもしれません。

この個人ブログと Facebook のほか、経済書については Amazon のブックレビューも活用したいと思います。無理やりながら、「読書感想文のブログ」に分類しておきます。

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2024年6月15日 (土)

今週の読書は経済学の学術書をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、村田治『大学教育の経済分析』(日本評論社)は、人的資本理論とシグナリング理論などにより大学教育に関する経済分析を試みています。高野剛『就職困難者の就労支援と在宅就業』(大阪市立大学出版会)は、障害者やひとり親などの就職困難者の在宅就業に関して支援団体や就労者個人に対してとてもていねいな聞き取り調査を行っています。コロナのパンデミックで在宅ワークが普及する前の貴重な研究成果です。背筋『近畿地方のある場所について』(角川書店)は近畿地方のダム近くの山などを舞台とするホラー小説です。飯田泰之『財政・金融政策の転換点』(中公新書)は、統合政府における需要主導型の経済政策に関して、極めて斬新な政策論を展開しています。橘木俊詔『資本主義の宿命』(講談社現代新書)は、市場に基礎を置く資本主義では必ずしも十分に解決されない貧困や格差・不平等の問題の歴史的、あるいは、学派を超えた分析を試みています。佐野晋平『教育投資の経済学』(日経文庫)は、幅広い教育の効果や学校のあり方などに経済学的な手法による分析を試みています。秋木真『助手が予知できると、探偵が忙しい』(文春文庫)はヤングアダルト向けの軽いミステリ作品です。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先々週と先週に合わせて12冊をレビューし、今週ポストする7冊を含めると147冊となります。順次、Facebook や mixi などでシェアする予定です。

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まず、村田治『大学教育の経済分析』(日本評論社)を読みました。著者は、すでに退職しているのかもしれませんが、関西学院大学のエコノミストであり、学長もお務めになったと記憶しています。ご専門は公共経済学や財政学です。私も何度か、このエコノミストの論文を引用した記憶があります。なお、本書は出版社からしても、完全に学術書であり、一般ビジネスパーソンや教育関係者が読みこなすのは少し難しいかもしれません。本書は3部構成となっていて、第Ⅰ部で人的資本理論とシグナリング理論のそれぞれについて考え、第Ⅱ部では大学進学の決定要因を分析し、第Ⅲ部がメインとなっていて大学教育の経済効果を分析しています。ということで、マクロ経済学的に見た大学教育について経済学の視点から分析を試みています。本書の冒頭で明らかにされているように、大雑把に大学教育については人的資本、すなわち、生産性を高めるという観点からの分析がある一方で、シグナリング機能、すなわち、どこの大学を出ているかという情報を付加するのが主たる効果であって、それほど生産性には寄与していない、とする見方もあります。特に、長らく日本の大学教育は「レジャーランド化」した大学のイメージが強く、生産性には寄与していない可能性が取り沙汰されてきました。また、この2つの理論については政策インプリケーションが正反対であるのも指摘されている通りです。すなわち、人的資本の蓄積に効果があって生産性を高めるのであれば、補助金を出してでも多くの学生を大学で学ばせることが望ましい、という結論となります。でも、シグナリング機能が中心ということになれば、希少性を減じるような政策、多くの大学生を教育するような政策はそれほど価値がなく、むしろ、大学生は少なくてもOKという結論が導かれる可能性があります。ただし、第Ⅱ部と第Ⅲ部で分析されていて、一般にも広く理解されているように、大学教育の恩恵にあずかれるのが比較的所得の高い階層の子弟である、ということになれば、格差との関係がクローズアップされます。私自身は、政策対応という観点からは真逆の可能性のある2つの理論ながら、どちらのモデルも現実をよく説明している可能性があるとかんが得ています。すなわち、シグナリング機能というのは、裏付けのない純粋なシグナルを発信しているわけではなく、過去の実績から考えて、十分な人的資本を蓄積し生産性高い人材を輩出しているからこそシグナリング機能を発揮するわけで、人的資本に裏付けられたシグナリングとなっているハズです。ですから、というわけでもないのですが、関西私大の雄である関関同立の一角とはいえ、私の勤務校からは超優良企業、実例としては、トヨタと三菱商事にはここ10年ほどでまったく採用がないと聞き及んでいます。パナソニックは地域性からして何人か就職しているようですが、トヨタと三菱商事はまったく採用してくれないらしいのです。加えて、その昔に、ソニーが大学名の記入を求めない採用を始めたのですが、フタを開けてみると結果として、有名なブランド大学の学生ばかりの採用になってしまった、という都市伝説めいたウワサも聞き及んでいます。では、政策対応はどうするか、という問題となります。私自身は、単なる生産性という観点だけではなく、例えば幅広い外部経済効果があることから、大学教育に対しては何らかの助成措置が必要、と考えています。経済的な生産性への寄与にとどまらず、高学歴化が進めば、犯罪の減少や公衆衛生に関する効果、そして、何よりも貧困の回避のためには大学教育は有益だと考えます。ですから、シグナリング機能を重視して希少性を保とうとするがために新設大学の認可を凍結する、といったその昔の文部科学大臣のやり方には批判的です。

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次に、高野剛『就職困難者の就労支援と在宅就業』(大阪市立大学出版会)を読みました。著者は、立命館大学経済学部の研究者であり、すなわち、私の同僚教員です。私はとても尊敬しています。ということで、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミック前の2019年までを研究対象として、タイトル通りの就職困難者への支援と在宅就業について分析しています。本書は3部構成であり、第Ⅰ部で障害者を、第Ⅱ部でひとり親家庭を、第Ⅲ部で被災地域と過疎地域を、それぞれ対象としています。対象者と地域で分類しているので、やや重複感がないでもないのですが、いずれにせよ、何らかの要因により通常の工場やオフィスや商店などにおける労働に就職することが困難なケースに焦点を当てて、就職支援や在宅就業の実態について考えています。まず、雇用者と違う形態での在宅就業ですから、本書では「フリーランス」という言葉は使っていませんが、一部の例外を別にすれば、フリーランスと同じく雇用契約ではなく請負契約という形が無視できない割合を占めていて、もしも請負なのであれば、労働者保護の適用を受けませんし、最低賃金も適用されません。もともとが研究の対象とされているのが就職困難者なわけですので、就労、あるいは、就労の結果得られる所得についても不利な条件が重なります。ですので、適切な支援が必要とされるわけで、本書では、非常にていねいに支援団体の活動内容について調査を実施ています。例えば、Ⅰ部の障害者、第Ⅱ部のひとり親家庭のそれぞれに対する支援団体については、ビジネス志向型、当事者設立型、サポート型の3類型に分類し、それぞれの特徴を浮き彫りにしています。そして、支援の対象となっている障害者やひとり親についても、スノーボール・サンプリングというややトリッキーな、というか、統計局勤務経験のある私から見てのお話ですが、母集団が不明なケースに非確率的な抽出をするのは仕方ない気もしますが、各個人にていねいな聞取り調査を行っています。被災地域と過疎地域での在宅勤務についても、非常に多くの対象に対してヒアリング調査を実施ています。在宅就労ということであれば、私のような年代の人間からすれば、内職という言葉が思い浮かびます。京都であれば、今はもう考えられもしない任天堂が花札を作る過程で内職を発注していたことがありました。でも今はパソコン作業が中心になります。データ入力とか、ホームページ作成とか、DTPとかです。また、特にひとり親家庭の場合は洋服リフォームというのもあるようです。しかし、本書では洋服リフォームの職業訓練の講座には訓練手当が目当てだったり、また、高級外車で通う人とかを指摘して、やや批判的な見方も示しています。最後のあとがきで著者が記しているように、COVID-19パンデミックによりテレワーク・リモートワークは急速に普及しました。したがって、パンデミック前の在宅就労についての聞き取り調査はほぼほぼ不可能になってしまいました。それだけに、貴重な記録として本書の価値はとても高いと私は考えます。しかし、それだからこそ、残念な点を2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、ひとり親家庭、特に母子家庭の考察において、「母親に親権を認めないで父親に親権を認めるようにすれば、母子家庭の貧困問題は解決するという意見もある」(pp.231-232、p.383)とか、「夫婦の共同親権を認める方法も検討する必要があるだろう」(p.232、p.383)との指摘は、貧困と親権をここまでリンクさせるのはあまりにも軽率だとの批判は免れません。特に、共同親権については、実際に民法「改正」がなされてしまい、私を含めて非常に強い批判を持つ人は少なくないものと認識しています。第2に、クラウドソーシングについては、メアリー L. グレイ & シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』などで、これまた、とても強い批判が展開されています。典型的には、アマゾンのメカニカル・ターク(Mターク)などです。本書ではこれを踏まえているのでしょうか。私が読んだ範囲では疑問なしとしません。最後に、強い疑問ではありませんが、ひとり親家庭、特に母子家庭で在宅就労を選択する理由として、「子どもといっしょにいたいから」といった趣旨の理由が少なからずあるような印象を受けましたが、保育所不足の問題はどこまで考慮されているのでしょうか。強い疑問ではありませんがやや気にかかるところです。

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次に、背筋『近畿地方のある場所について』(角川書店)を読みました。著者は、ホラー作家、というか、この作品でデビューしています。モキュメンタリー・ホラーといわれています。モキュメンタリー・ホラーとは、実録風に作られたフィクションのことで、ホラーの分野では小野不由美、三津田信三、芦沢央らの作品が有名です。ということで、繰り返しになりますが、この作品はモキュメンタリー・ホラー小説です。Twitterではやっていた掌編を書籍化しています。いろんなパターンの短編、文字起こし、ネット情報、記事、インタビューなどなどの形で収録していて、それがだんだんと謎に迫っているように見えて、何とも怖いです。表紙画像からして、我が家からほど近い琵琶湖を想像してしまいましたが、どこかのダム貯水池のようです。県名としては、滋賀県ではなく、奈良県が頻出します。極めて単純なあらすじで紹介すると、まっしろさん、ましらさま、山の神などは、私が読んだ限りでは同一の何か恐ろしいオカルト的な存在を指している存在が、人間の女性を嫁にしたがって、あるいは、柿で人を誘う、とかします。新種のUMAという説も紹介されています。はたまた、「赤い女」とか、「あきらくん」もご同様です。カルト教団かもしれないと示唆する部分もあります。そして、小沢くんが山へ向かうわけです。近畿地方のある場所は●5個で「●●●●●」と表記されます。ちゃんと数えていませんが、たぶん、ネットで短く公開されていた20余りの短文から構成されているのですが、それぞれの短文がとても緻密に表現されていて、その上、各短文の順番、というか、配置が絶妙にな。れています。逆に、どこかで大きく話が途切れることがないので、どこでひと休みするかのタイミングが図り難くなっていて、その上、モキュメンタリーだと理解して、フィクションなのだと判り切っているのですが、私のように近畿地方在住の読者の中には、一気に読み切るファンも少なくなさそうな気がします。フィクションであるにもかかわらず、ホントはどこかにこういった場所があるような気すらして、虚構と現実の境目が危うくなってしまいました。最後に、何ら、ご参考までなのですが、最後の袋とじになっている「取材資料」と称する画像は、私は見て失敗した気がします。見ない方がよかったかもしれません。でも、そんなわけには行かない読者ばっかりだと思います。

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次に、飯田泰之『財政・金融政策の転換点』(中公新書)を読みました。著者は、明治大学のエコノミストです。本書は4章構成であり、第1章で交際の負担に関する理論的な整理をし、需給ギャップがあり需要が潜在供給力を下回るのであれば、国債発行による財政支出拡大は、現在世代だけでなく、将来世代に対しても決して負担にならないと主張しています。第2章では、金利操作による伝統的な金融政策とそれ以外の非伝統的な金融政策の違いについて否定的な見方を示し、金融政策に対する効果をか投げれば、財政政策も同時に必要との結論に達しています。そして、第3章が決定的に重要なのですが、財政政策と金融政策の両方の政策手段の連動により長期的な成長の達成が可能となる政策運営を明らかにしています。すなわち、狭義の政府と中央銀行を合わせた統合政府の債務総額は財政政策で決定され、その内訳、というか、構成を決めることに対して金利を割り当てる、という政策論議です。そして、最後の第4章では、従来は短期的には需要を、長期的には供給を重視し、長期的に生産性を向上させる構造政策の重要性が指摘されてきましたが、本書では、生産性向上や供給サイドの強化をもたらすのは需要であると結論しています。はい。私も従来から需要サイドを重視するエコノミストでしたが、何分、頭の回転が鈍いので、ここまでクリアに議論を展開する能力にかけていました。その意味で、本書で展開されている議論に感激したところです。少し前までの私も含めて、本書で指摘するような高圧経済はサステイナビリティがないような意見が主だったと思いますが、本書ではタイトル通りに経済政策の転換を主張しています。特に、本書第3章で示されている統合政府による経済政策のモデルは極めてクリアであり、サムエルソン教授のような新古典派総合の easy money, tight budget とか、シムズ教授のような物価水準の財政理論(FTPL)なども視野にれつつ、逆に、現代貨幣理論(MMT)の財政政策に関するマニフェスト的な理論も必要とせず、主流派経済学の枠内で今後の財政政策と金融政策の連動による統合政府の政策の方向性を示しています。特に、第3章のごくごく簡単な数式を展開した統合政府モデルは鮮やかとすらいえます。加えて、ムリな中央集権に基づく政府の産業政策的な産業選別政策、まさに、経済産業省が志向するような政策のリスクについても的確に指摘されています。ともかく、1年の半分もまだ経過していませんが、ひょとしたら、今年の年間ベスト経済書かもしれません。新書といった一般に判りやすい媒体も結構なのですが、野口旭教授の『反緊縮の経済学』に次ぐような学術書に仕上げて欲しい気がします。大いに期待しています。

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次に、橘木俊詔『資本主義の宿命』(講談社現代新書)を読みました。著者は、京都大学をたぶん退職したエコノミストであり、貧困や格差の是正に重点を置いた研究をしています。ということで、本書ではピケティ教授の研究成果を踏まえて、効率性の重視に基礎を置く成長と公平性の重視に基礎を置く分配の重視のトレードオフについて議論を展開しています。同時に、この著者のいつもの論理ですが、市場の重視が行き過ぎている市場原理主義的な保守派の経済学と、ケインズ卿のマクロ経済学に始まる福祉国家的な方向と、さらに、マルクス主義経済学を対比させています。どこまで意味があるのかは不明ですが、某労働組合ナショナルセンターのトップは執拗に反共の姿勢を見せていますから、同じ志向を持っているのかもしれません。ただ、著者の理解は私も共有していてます。それは、日本はもはや「一億総中流」の格差が小さく、均質性の高い経済社会ではなく、先進国の中でも格差や貧困が大きい国のひとつとなっている、という事実認識です。そのうえで、もうひとつ共有しているのが、私だけではなく多くのエコノミストに共通して、市場では格差や貧困は解消されず、政府のマクロ経済政策による所得再分配が必要である、ということも同様です。そして、本書の結論は日本は福祉社会を実現できるし、そういう方向に進むべきである、というものです。ただ、ハッキリいって、本書ではその方向性を目指すべき理由、というか、判断材料がやや乏しい気もします。著者も手を変え品を変え、本書では経済史や経済学史まで引っ張り出して、従来からの主張を繰り返しています。したがって、本書の見方を支持するかどうかは、本書内で決まるのではなく、本書を読む前に決まっているような気がします。すなわち、新自由主義のネオリベな人は格差や貧困に関する本書の史的を読んだとしても、とても意見を変えそうにありません。逆に、私も含めてですが、もともとリベラルな平等感を持っている人は、本書を読まなくても貧困や格差に対する批判的な見方をしていることと思います。それにしても、本書では著者の漸進主義があまりにも徹底していてびっくりします。欧州が福祉国家で、そのうちの北欧が高福祉国家、中欧とフランスが中福祉国家、南欧が低福祉国家、そして、米国と日本は非福祉国家、というのはいいとしても、日本は「中福祉・中負担」から始めて、徐々にに「高福祉・高負担」を目指すというのは、どのくらいのタイムスパンでお考えになっているのかを知りたい気もします。少なくとも、そういっている間に生活困難者がさらに困窮することは、著者の視野に入っていないのかもしれません。マクロの集計量として中福祉だ、高福祉だというだけではなく、喫緊に必要な政策課題がどこにあるかも考えた方がいい気がしてなりません。

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次に、佐野晋平『教育投資の経済学』(日経文庫)を読みました。著者は、神戸大学のエコノミストです。文庫ということなのですが、やや縦長で、形はどう見ても新書だという気がします。それはともかく、本書では、大学教育だけではなく、広く子どもの教育一般についてのデータ分析の結果をサーベイしています。例えば、本書冒頭では、「いい大学を出ると給料は高いのか」、「幼少期にどんな習い事をすると子どもは伸びるのか」、「クラスサイズを小さくすることは効果があるのか」、「なぜ教員不足が生じているのか」、「授業料無償化はいいことなのか」といった例を上げています。ただ、私の目から見て最後の問いだけは価値判断を問うていますので、それは人により考えが違う、という気もします。本書は5章構成となっていて、第1章で教育投資のリターンを分析し、第2章ではスキル形成のための学校と家庭の役割を考え、第3章では学校の仕組みを経済学で解き明かし、第4章は教育政策を評価し、第5章で経済社会の変化に対応した教育のあり方を考えています。第1章は、基本的に、村田治『大学教育の経済分析』(日本評論社)と同じ問であり、人的資本形成とシグナリング理論で分析が進められています。私自身も、直感的に、子どもへの教育投資と自分への健康投資はリターンが高い、と認識しています。本書でも1年あたりの教育のリターンは10%に達する(p.38)と主張していたりします。銀行預金よりはよっぽどリターンが高いと考えるべきです。加えて、大学教育の普及率が高まると、教育を受けた人のリターンだけでなく、例えば、犯罪率の低下などの社会に広くスピルオーバーをもたらすので、教育の普及は望ましいと考えています。ただ、高度な教育を子どもに受けさせるためには家庭の条件がそれなりに必要です。東大生の家庭の平均所得が1000万円を超えているという統計もあります。その点で、どのような家庭のサポート、所得と資産が考えられるのかを分析しています。家庭における「しつけ」とかのお話ではありません。学校教育を経済学で考える場合、クラスサイズについて分析されることが多いのですが、日本でも縮小化の方向にあるものの、世界標準からすればまだ大きく、さらなる分析が求められている分野です。ただ、世界でもクラスサイズがテストスコアに及ぼす明確なエビデンスは少ないようです。教員の質の計測は難しい課題であり決め手に欠けますが、経験年数というのがひとつの代理変数の候補となります。本書では、教員の労働市場についても経済学的な分析を試みています。最後に、男女格差の縮小に向けた教育の課題や高齢化に対応した教育のあり方なども論じられてます。学校教育だけでなく、最近公表された政府の「骨太の方針」などにも示されている成人教育、リカレント教育なんかはこれから日本に根付くんでしょうか。

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次に、秋木真『助手が予知できると、探偵が忙しい』(文春文庫)を読みました。著者は、もちろん、作家なのですが、私は「怪盗レッド」のシリーズを知っているだけで、基本はヤングアダルト向けの作品が多いと受け止めています。この作品もそうで、大学祖卒業した後2年ほど会社勤めをしてから辞めて探偵を始めた、たぶん、20代の探偵である貝瀬歩とその探偵事務所のアルバイトの高校1年生のJKである桐野柚葉が主人公となったミステリの謎解きです。実は、このシリーズ第2弾が来月の7月の出版されることになっているらしいです。そこで少しシリーズ物ですので全体像を明らかにしておくと、まず、本書は連作短編3話から成っています。貝瀬探偵事務所があるのは所沢です。貝瀬歩は叔父の貝瀬泰三が2年前に亡くなって探偵事務所を引き継いでいます。叔父の後輩であった探偵で、今は探偵事務所の所長をしている谷原、また、貝瀬歩の大学時代の友人で今は埼玉県警の刑事をしている坂倉豊などがサポート役です。そのうち、タイトル通りに、アルバイトの桐野柚葉に予知能力があります。ということで、前置きナが長くなりましたが、まず、最初の第1話は、桐野柚葉がその能力により、自分自身が殺される場面を予知し、貝瀬探偵事務所に駆け込んできます。ストーカーの可能性を見据えて貝瀬歩が推理し、桐野柚葉が殺害されるのを防止しようと奮闘します。この第1話デ探偵への支払いが滞ることになるので、桐野柚葉が貝瀬探偵事務所でアルバイトとして働くとこになります。第2話では、アパートの隣人が怪しい会話をしているとの調査依頼を受け、桐野柚葉の予知能力も活用し、また、谷原の助力も得て、貝瀬歩が事件を解決します。第3話では、2年前の高校生のころに友人を交通事故で亡くした女子大生が、その死んだはずの友人、あるいは、その幽霊を見たという調査依頼を貝瀬歩が受けます。事故現場で再び幽霊が現れて、もう1度事故が起こりそうになりますが、貝瀬歩が謎を解決します。登場人物はいかにもヤングアダルト作品らしい年齢ですし、ミステリではあっても本格とはいい難い謎解きです。でも、時間つぶしにはピッタリかと思います。

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2024年6月 8日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、田中隆之『金融政策の大転換』(慶應義塾大学出版会)は、実務的な側面を取り入れた解説を試みており、量的緩和はテイパリングしつつ長期金利を低位に誘導するという金融政策の可能性を探っています。ワルラス『社会経済学研究』(日本経済評論社)は、社会的富の理論を解き明かす純粋経済学、富の生産の理論を明らかにする応用経済学に続いて、所有権や税をはじめとして富の分配を研究する社会経済学について論じています。西原一幸『楷書の秘密』(勉誠社)は、字体規範あるいは正字体としての楷書の歴史を後づけるとともに楷書の秘密に迫っています。毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)は、脳科学の専門家が記憶力などの狭い意味だけでなく、体のスムーズな動きまで含めた脳の働きについて考えています。今野真二『日本語と漢字』(岩波新書)は、正書法のない日本語という言語が漢字とどう取り組んで来たのかについて『万葉集』や『平家物語』などから考えています。最後に、辻村深月ほか『時ひらく』(文春文庫)では、三越創業350年にちなんで、三越に関する短編を収録したアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先週に6冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて140冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、2019年の出版ですから新刊書読書ではないので、本日の読書感想文には含めませんでしたが、別途、平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)も読みました。軽く想像される通り、毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)の読書にインスパイアされて読んでみました。すでに、AmazonとFacebookでレビューしておきました。

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次に、田中隆之『金融政策の大転換』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、長銀ご出身で現在は専修大学の研究者です。本書は、出版社からして学術書と考えるべきなのでしょうが、それほどハードルは高くないと思います。おそらく、経済学部生でなくても大学生レベルの基礎知識があれば読みこなせると思いますし、一般ビジネスパーソンでも十分な理解が可能だろうと思います。タイトルは物々しいのですが、金融政策に関する解説と考えて差し支えありません。ただし、出版時期が昨年2023年11月ですので、日銀が異次元緩和を終了する前のタイミングでしたので、実践的な日銀金融政策のホントの転換が盛り込まれておらず、しかも、本書の結論との関係でいえば、足元で長期金利が1%を超える勢いで上昇している点も考慮されていません。やや不運な時期の出版だったといえるかもしれません。ということで、冒頭第1章では伝統的な短期金利を操作目標とする金融政策について、歴史的な観点も含めた解説を置き、続いて、それに対して非伝統的な金融政策の様々な手段とメカニズムを解説しています。大量の資金供給、資産購入、フォワードガイダンス、対象分野を想定した貸出を誘導するタイプの資金供給、そして、マイナス金利です。コロナショックとその後の「新常態」=ニューノーマルを概観し、最後に、日銀の異次元緩和の特種性(「特殊性」ではなく、「特種性」という用語を使っています)と今後の方向性を議論しています。とてもよく取りまとめられています。学術書っぽくないのは、ひとつには、モデルではなく実務的な側面を取り入れた解説をしていることです。私が大学の授業で強調するのは、経済学は物理学などと同じで、観察される現実を対象にしつつも、分析を行うのはモデルである、という点です。しかし本書では、モデルではなく「ロジック」で議論を進めています。私は違和感を覚えましたが、確かに、そういった議論の進め方の方が判りやすい可能性はあります。それはともかく、コロナショックを経て、金融緩和局面を終えつつある現時点での先進各国の金融政策の実情を、本書では金融政策の新常態=ニューノーマルとして、「超過準備保有型金融政策」と考えています。超過準備があるということは量的緩和からの脱却がまだなされていないという意味だと考えるべきです。非伝統的金融政策についての評価は、私もかなりの程度に同意します。他国の中央銀行はともかく、日銀が実施した大量の資産購入による量的緩和は物価上昇=デフレ脱却にも、景気浮揚にも効果がかなり小さかった、と考えるべきです。少なくとも、2013年4月から始まった黒田バズーカ、というか、異次元緩和は2014年4月からの消費税率の5%から8%への引上げにより、その効果が吹っ飛んだといえます。ただ、現在まで続く公的債務の累増の基を作った前世紀末の小渕内閣や森内閣のころの財政拡大もそれほど効果あったとは考えにくいですから、官庁エコノミストとして経済政策の末端を担っていた私としては、いったいどうすればよかったのか、という疑問は残ります。その意味で、本書の最後の結論は、世上一般で議論されているような金利引上げや金融引締め一本槍ではなく、長期金利は1%程度に保ちつつ、量的緩和は終了して財政ファイナンスからは脱却する、という方向性を示しています。ただ、ティンバーゲンの定理からして、マーケット・オペレーションと金利を切り離すことが可能となるような政策手段が示されていません。昔懐かしの窓口規制でも復活させるのでしょうか。もう少し議論が深まればいいという気がします。

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まず、ワルラス『社会経済学研究』(日本経済評論社)を読みました。著者は、主として19世紀に研究活動していたフランス生まれのエコノミストであり、1870年から研究の拠点はスイスのローザンヌ・アカデミー(現在のローザンヌ大学)でした。1910年に亡くなっています。本書のフランス語の原題は Études d'économie sociale であり、1936年出版の第2版を訳出しています。ワルラスについては、一般均衡理論の研究により名高く、また、一般均衡理論を含む純粋経済学の研究のほか、応用経済学と本書の課題である社会経済学の3分野の研究を進めています。理由は不明ながら、本書の邦訳者の解説で取り上げている順は、純粋経済学-社会経済学-応用経済学、なのですが、当然ながら、ワルラスご本人は純粋経済学-応用経済学-社会経済学の順で言及しています。本書冒頭第Ⅰ部の「社会の一般理論」pp.27-28にあるように、交換価値と交換についての研究、すなわち、社会的富の理論を解き明かすのが純粋経済学であり、繰り返しになりますが、経済学の一般均衡理論がこれに含まれます。そして、農業、工業、商業、信用の有利な条件、すなわち、富の生産の理論を明らかにするのが応用経済学、最後に、本書で取り上げているように、所有や税に関する研究、すなわち、富の分配を研究するのが社会経済学、ということになります。なお、本書で繰り返し表明しているように、ワルラスは自分のことを「社会主義者」であると考えています。ただ、他方で、マルクス主義的な方向性は「共産主義」と呼んで、ご自分の「社会主義」から区別しようとしているように私には見えます。ついでながら、本書の訳者からも明らかにされていますが、ワルラスは純粋経済学についてはキチンと編集された教科書を書き上げていますが、応用経済学と社会経済学については関連する論文集として出版しています。ですから、本書も第Ⅰ部の社会理想の探求、第Ⅱ部の所有、第Ⅲ部の社会理想の実現、第Ⅳ部の税、の4部構成となっていますが、中身は関連する論文や講義資料となっていて、悪く表現すれば、関連論文の寄集めです。ただ、 Selected Writings なんてタイトルで出版されている論文集も決してないわけではなく、本書についても十分価値あるものだと私は受け止めています。マルクスにはエンゲルスという優秀な同僚がいて、マルクスも『資本論』は自分自身では第1巻しか出版できなかったのですが、第2巻と第3巻はエンゲルスの編集により出版しています。ワルラスにはマルクスの場合のエンゲルスに当たる人物がいなかった、ということなのだろうと思います。加えて、ワルラス自身については、ご活躍当時の評価がそれほど高くない一因は、現在とまったく反対で、数学や数式を使いすぎる、というものでした。本書の中では、第Ⅲ部の「土地の価格および国家によるその買上げの数学理論」で長々と数式を展開していますが、当時と現在の数学のレベルの差もあって、それほど難しい数学ではありません。せいぜいが現在では高校レベルの数学と考えられます。ただし、それなりに全国レベルの知名度を誇る私の勤務校でも、高校レベルの数学を身につけている経済学部生というのは決してマジョリティではない、と私は感じています。長々と前置きを書いてしまいましたが、中身は学術書、というか、学術論文を集めた論文集ですので、読みこなすのはそれほど簡単ではありません。でも、本書の特徴的な論点をいくつか上げておくと、社会主義者と自称するだけあって、まず、土地は国有制とし各個人のスタート時点で差がつかないように配慮すべきであると主張しています。ワルラス自身はフランス革命やナポレオン帝政の後の世代なのですが、英国などで見られる土地所有の不平等にも気を配っていたようです。そして、当時の標準的な比例税ではなく累進課税を主張しているケースが見受けられ、さらに、強烈にも、労働賃金に対しては課税すべきでないという意見を表明しています。最後に、所有や分配を考えますので「社会経済学」という用語はしばしば「マルクス主義経済学」と非常に似通った、あるいは、まったく同じ意味で使われる場合があります。しかし、本書では、社会経済学はあくまで社会経済学であって、マルクス主義経済学ではありません。

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次に、西原一幸『楷書の秘密』(勉誠社)を読みました。著者は、金城学院大学の名誉教授であり、ご専門は中国や日本の古代辞書だそうです。大学の図書館の新刊書コーナーに本書が置いてあり、私の興味範囲のタイトルで、しかも、1ページ目をチラリと見ると、私の書道のお師匠が口癖のように前衛書道を批判していた「大と犬と太」の一角の点の有無や位置の違いによる字としての区別が明記してあったので、ついつい借りてしまいました。それなりに面白い読書でした。5万字を超える数を誇る漢字が1300年に渡って一角の違いを保ち続けている点を強調し、正字体としての楷書の秘密を解き明かそうと試みています。まず、本書では日本の漢字は特に考えられていません。すなわち、漢字発祥の地である中国での漢字の中の楷書だけが考察の対象となっています。ですので、後述の通り、最後の結論は私は承服しかねます。それを別にすれば、本書冒頭の楷書の定義なのですが、どうしても行書や草書と比較して余りに明らかなので私も見逃していましたが、本書によれば、三節構造を取り、横線が右肩上がりであること、の2点だそうです。最初の三節構造というのは、「筆を下ろす、線を伸ばす、筆を止める」という明確な3つの節目があることを指します。そういえば、行書や草書は滑らかに丸みを帯びた運筆となります。しかし、これだけでは隷書と区別がつかないので第2の右上がりの横線が持ち出されます。隷書の横線は水平です。楷書の成立は隋唐の直前の六朝や北魏に求められ、日本における研究としては『干禄字書』を中心として異字体研究があります。しかし、1970年代以降、『正名要録』が発見され、『顔氏字様』や『S.388字様』などの研究が進められます。まあ、このあたりは研究史ですので私も軽く読み飛ばしています。私が知る限り、4世紀の王羲之やその末子である王献之まで遡らずとも、楷書の成立期である隋唐期は北魏の欧陽詢から褚遂良などのやや細身の楷書が中心であった、という点です。ですから、というか、何というか、私はお師匠の元に毎週土曜に通って、さして上達もしないながら、延々と欧陽詢の『九成宮醴泉銘』を練習し続けたわけです。しかし、本書では『顔氏字様』に見られるように、顔真卿の楷書、すなわち、やや太身の楷書こそが主流、という結論となっています。しかし、いずれにせよ、漢字は欧米のアルファベットなどに比べて、画数が多くて極めて複雑であることから、正体のほかに、俗体や世字、あるいは、通体などがいっぱいあることは明らかで、余りに正体に固執すると一般向けには判りにくくなり、逆に、通俗体にて記すと不正確になる、というトレードオフがあることは明らかです。唐代の玄宗時代末期の安史の乱から唐朝は傾いて、さまざまな場面で緩みを生じますが、字体規範という考え方も徐々に衰退します。しかし、最後の結論には私は異議を呈したいと思います。すなわち、本書に従えば、現代の楷書と考えるべきは中国の簡体字であると結論しています。これも、私のお師匠によれば、当然ながら漢字は表音文字ではなく表意文字であり、その文字の持つ意味を考慮しながら簡略化すべきであるところ、現在の中国が進めている漢字の簡略化は意味ではなく書き方を容易にするという観点が重きをなしていて、それでいいのか、ということになります。簡体字が現代の楷書である、とする本書の見解よりも、字の意味を考慮すべきというお師匠の考えに私は賛同しています。強く賛同します。

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次に、毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)を読みました。著者は、お茶の水大学の研究者です。冒頭のお断りにあるように、本書は頭がよくなるための、あるいは、頭がいい子を育てるためのハウツー本ではありません。脳科学、すなわち、脳の働きから「頭がいい」とはどういうことかを解明しようと試みています。まず、「頭がいい」ということを知性と結びつけて考えることを本書では否定しています。というか、軽く想像されるように、偏差値の高い大学、例えば、東大の入試に合格できる事をもって頭がいいというのとは否定されています。いわゆる「ギフテッド」を持ち出して、知性を学力などの認知能力だけでなく、非認知能力をはじめとする脳の持久力に求めています。それは同時に、AI時代に求められる知性でもある、ということだそうです。記憶力についても、短期記憶と長期記憶があり、また、自転車や水泳などのように長らく実践していなくても、いわゆる「体が覚えている」記憶もあります。手続き記憶というそうです。一般的には頭の働きとは考えられていないようなアーティストの感受性なども考察の対象とされています。また、ニューロンはすべて働いていて、脳の10%しか使っていないというのは俗説ながら、アストロサイト=グリア細胞が脳内の異物や不要物を排除していて、これが大いに働いているかどうかで差がつく場合があるそうです。そのほかにもいろいろと勉強になる点があったのですが、読者によって勉強になりそうなポイントは違うので、後は読んでいただくしかないのですが、私の方で1点だけ強調しておきたいのは、体の動きも「頭がいい」というカテゴリーで考えるべきという本書の主張です。すなわち、本書では、プロ野球のピッチャーが自分の望む球速を自由に設定し、例えば、143キロの球速でボールを投げることが出来る、といった例を示して、総合的な結果を示して体を動かすことが出来ることを脳の働きと考えています。そうかもしれません。ただ、初心者に対するレッスンではそうはいかないわけで、ゴルフのレッスンを受けて、いきなり、「ボールをティーアップしてドライバーをスイングし、フェアウェイのセンターに250ヤード飛ばしなさい」と指示されても、それができないからレッスンに通っているのであって、それが出来るためのもっと具体的な指示が欲しい、ということになります。例えば、脇を締めるとか、ボールから目を離さずヘッドアップしないとか、などなどです。要するに、私なんぞはそれが出来ないからゴルフに関しては「頭が悪い」ということになるのでしょう。

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次に、今野真二『日本語と漢字』(岩波新書)を読みました。著者は、清泉女子大学の研究者であり、ご専門は日本語学だそうです。著者によれば、言語学は、音声・音韻、語彙、統語=文法、文字・表記などの分野に分かれるそうです。このうち、語彙を考えると、日本語は50%近くが漢語からの借用だそうですが、英語も60%近くがフランス語やラテン語からの借用だそうです。ということで、本書は、日本人が感じとどのようにインタラクティブは取組みをなしてきたか、すなわち、漢字を日本語に取り入れ、日本語に反映させ、漢字を日本語に対応するものに作り変えてきたかを歴史的に後づけています。まあ、中国のメインランドにおける漢字に日本語のサイドから影響を及ぼした、という点は稀なのかもしれませんが、日本で使う漢字については一定の改変があったものと考えるべきです。特に、強調されているのは、表紙画像にも見える通り、日本語には正書法がないという観点です。決まった書き方が確立されていない、というか、今後とも確立される可能性はないものと考えるべきですから、ある意味で、混乱していて未熟な言語という見方もできます。その意味で、正書法がないというこの観点に興味を持てないと、つまらない読書になってしまう可能性があると考えられます。私が知る限りでは、正書法とは少し異なりますが、国語審議会で当用漢字を決めているのは確かなのですが、平仮名や片仮名については正書法があるとまでいうのは怪しいと思います。ちなみに、正書法とは定まった表記方法ですが、日本では、例えば、私の勤務先は「大学」と表記しても、「だいがく」と表記しても、「ダイガク」と表記してもOKです。英語であれば、"university"となるわけで、ほかの表現方法はあっても、ほかの表記方法はありません。別の表記をすると間違った綴りと見なされるわけです。前置きがとてつもなく長くなりましたが、本書では、第1章で『万葉集』、第2章で『平家物語』を取り上げた後、国学などに基づいて日本語のルネサンス期として第3章で江戸時代を取り上げます。特に、江戸期には書き言葉ではなく、話し言葉の『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』などが鎖国下で日本に入ってきます。最後の第4章で辞書に載っている漢字、ということで北魏ないし初唐に完成した楷書について取り上げています。西原一幸『楷書の秘密』と同じような議論が展開されています。じつは、私にとって謎であったのは漢字の訓読みの成立なのですが、日本語の「よむ」という行為ないし動作を「読」の字に当てたり、あるいは、ほかの訓読みの漢字をどのように選択したのかについてはほとんど取り上げられていませんでした。やや残念です。

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次に、辻村深月ほか『時ひらく』(文春文庫)を読みました。何を思ったのか、創業350週年を迎えた老舗デパート三越にまつわる短編を集めたアンソロジーです。たぶん、表紙デザインは三越の包装紙をイメージしているような気がします。伊坂幸太郎作品だけは三越の中でも仙台店を舞台にしていますが、ほかの著者の作品はすべて日本橋本店を舞台にしています。収録順に簡単にあらすじを紹介します。まず、辻村深月「思い出エレベーター」は高校の制服の採寸に訪れた少年が主人公です。小さいころ、5歳くらいの時に、母や父の妹の叔母とともに祖父のお葬式のための服を買いに訪れた記憶が蘇ります。親子三代に渡って、結婚や出産やお葬式やと人生の節目で訪れる三越に家族の思い出が重なります。伊坂幸太郎「Have a nice day!」では、仙台店を舞台に、高校受験を控えた中学3年生の少女が主人公です。三越のライオンに他の人に見られずに跨がると夢が叶う、という伝説に従って、友人とロボットのような表情や感情の薄い担任教師と閉店間際の三越でライオンにまたがった際に、現実のものとは思えない場面を目にします。そして、10年後に三越のライオンが日本を、あるいは、世界を救います。阿川佐和子「雨あがりに」では、三越勤務経験ある継母に付き合って買い物に来た中堅遊具会社のグループリーダーの女性が主人公です。ランチの後、屋上でリモート会議に出席した後、母親が見当たらず館内放送をお願いしたところ、逆に呼び出されてしまいます。恩田陸「アニバーサリー」は、何と申しましょうかで、『熈代勝覧』絵巻の犬が主人公です。三越本店の地下道に展示してあるそうです。そして、在りし日のエリザベス女王、ダイアナ妃などの英国王室と三越の関係が語られます。ほかの短編作品にも登場するライオン像はもちろん、日本橋本テンの天女像、パイプオルガン、そして、壁のアンモナイトの化石、などなども取り上げられていて楽しく読めます。柚月麻子「七階から愛をこめて」はロシア人と日本人の両親から生まれたギタリスト/インスタグラマーの女性とバンドを組む男性が主人公です。現時点でもロシアのウクライナ侵略など十分に暗い世相なのですが、三越の食堂で昭和戦前期の女性の遺書が見つかったりします。東野圭吾「重命る」は、「かさなる」と読むようで、ガリレオのシリーズです。ですので湯川教授が主人公、草薙警部も登場します。隅田川で死体が発見された実業家男性の死にまつわる謎が解き明かされます。この死んだ男性が三越日本橋本店で訪問先に手土産を買うのですが、このアンソロジーに収録された短編の中では、もっとも三越とは縁遠いお話です。私自身は三越のない京都の生まれ育ちで、百貨店といえば京都発祥の丸物や高島屋でした。たぶん、大学を卒業して東京で就職してから初めて三越に行ったのだろうと記憶していますが、ひとつだけ三越にお世話になった思い出があります。2003年9月に一家4人で3年間過ごしたジャカルタから帰国し、その半年前の4月にジャカルタ日本人学校小学部に入学し小学1年生になっていた上の倅のためにランドセルを探したのですが、当時はどこにもありませんでした。今は夏休みとかのかなり早いタイミングで売り出されていると聞き及びますが、20年超前の当時は9月のタイミングではランドセルの入手が難しかったのです。しかし、三越、たぶん、日本橋本店ではなく銀座店ではなかったか、と記憶していますが、三越の倉庫には在庫があるといい、色は黒しか選べませんでしたが、三越ブランドのランドセルを買い求めました。ようやくランドセルを買えた時の倅のうれしそうな顔は忘れられません。三越に対してとても有り難いと感謝したものです。

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2024年6月 1日 (土)

今週の読書は古典派経済学の経済書や統計学の本のほか小説も含めて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、トーマス・ゾーウェル『古典派経済学再考』(岩波書店)は、社会哲学、マクロとミクロ、方法論の観点から古典派経済学の真髄に迫ります。デイヴィッド・シュピーゲルハルター『統計学の極意』(草思社)は、それほど数式に頼らず豊富な実例について確率と統計から解説を試みています。原田泰『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(PHP新書)は、国を上げて生産性向上を妨害している、と独特の語り口で解説しています。くわがきあゆ『レモンと殺人鬼』(宝島社文庫)は、とてもよく出来たサスペンスフルなミステリで、アット驚くラストが待ち構えています。宮内悠介『スペース金融道』(河出文庫)は、宇宙を舞台にした金融会社の取立て業務をコミカルに表現したSF小説です。中島京子ほか『いつか、アジアの街角で』(文春文庫)は、アジアにまつわる女性作家の短編を収録したアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って本日は6冊をレビューし合わせて134冊となります。順次、Facebookやmixi あるいは、気が向けばAmazonなどでシェアやレビューする予定です。

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まず、トーマス・ゾーウェル『古典派経済学再考』(岩波書店)を読みました。著者は、米国のエコノミストであり、現在はスタンフォード大学の研究者です。ご専門は経済学史、社会思想史だそうです。本書の英語の原題は Classical Economics Reconsidered であり、1974年の出版の後、1994年にペーパーバック版が出版されています。本書はペーパーバック版の邦訳です。ということで、本書ではタイトル通り、古典派経済学について4つの章から成り、4つの側面からの再評価を試みています。すなわち、社会哲学、マクロ経済学、ミクロ経済学、方法論の4章構成となっています。まず、社会哲学の冒頭章の中で、古典派経済学のスコープを論じていますが、これはそれほど難しくない気がします。重商主義を批判し否定したスミス『国富論』に始まって、リカードォが完成させた、と本書では考えていますが、要するに、ワルラスやジェヴォンズなどによる限界革命の前まで、ということになります。ほぼほぼ、異論ないところだろうと思います。ただ、本書ではマルクスも古典派経済学に含めています。第1章の社会哲学は、人口に膾炙した一言でいえば自由放任=レッセフェールということになります。他方、社会とは貴族社会と考えられているものの、土地所有からの地代については批判的ないし否定的な見方が提供されています。奴隷制についても個人的なリベラリズムから反対する古典派エコノミストは少なくないものの、経済学的な考えは明確ではないような気がします。続いて、第2章の古典派マクロ経済学の中心にはセイの法則が据えられています。そうです。供給が需要を作り出すというセイの法則です。ケインズが徹底的に否定したセイの法則です。私は誠に申し訳ないながら、このあたりの理解ははかどりませんでした。ただ、古典派経済学のマクロ経済学では成長の問題が重要であり、本書では言及されていませんが、ソロー=スワンの新古典派成長論につながるのであろうという点は理解しました。第3章のミクロ経済学で中心的な役割を果たすのは収穫逓減の法則です。ペティ=クラークの法則により、古典派経済学隆盛の時期は英国ですら第1次産業の従事者が過半であったろうと想像されますが、農業には典型的に収穫逓減の法則が成り立つ一方で、製造業では収穫一定ないし規模の経済が働きます。時代背景に従って、価格理論が発展してきたことが実感されます。最後の第4章の方法論は、私は少しムチャな気がしました。著者も、「古典派経済学自体は他と比べて殆ど語るべきものをもっていない」(p.101)と指摘しています。でも、モデル、因果律、数学の役割、科学、などについて論じています。本書はかなり難解な内容なのですが、この最後の第4章がもっとも難解です。

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次に、デイヴィッド・シュピーゲルハルター『統計学の極意』(草思社)を読みました。著者は、英国ケンブリッジ大学の研究者であり、医学統計学への貢献によりナイトを叙爵されています。本書の英語の原題は The Art of Statistics であり、2019年の出版です。ということで、本書は9章構成であり、著者の専門分野である医療統計や犯罪統計を例にして解説しています。したがって、私の専門分野である経済統計はほとんど現れません。9章を順に簡単に追うと、カテゴリーカルな質的データ、連続変数の数値データ、母集団と測定、因果関係、回帰分析による関係性のモデリング、アルゴリズムと分析・予測、標本の推定と信頼区間、確率、確率と統計の統合、となります。私は興が乗ると「統計と確率は基本的に同じ」と学生に説明することがありますが、本書でも最後の方は同じ考えにたった統計学の解説が行われています。それはともかかく、本書を読みこなすには高校レベルの数学の基礎は必要です。出版社のサイトでは「数式は最小限」という宣伝文句が見られますが、数式だけでなく数学の基礎知識は必要です。邦訳者も文学部の英文科のご出身とかではなく、お茶の水女子大学大学院理学研究科数学専攻修了の方だったりします。私が教えている経済学部生は、高校レベルの数学はすでに怪しい場合が少なくなく、専門家である高校の数学教師が出来なかったことを、大学の経済学の教師である私に出来るはずがないと諦めています。ただ、数式が少ないことは確かで、しかも、数式を延々と解いていく論文形式ではなく、実務的な問題や課題を中心に据えてトピックを展開していますので、判りやすい気はします。例えば、冒頭から、英国のシリアルキラーだった医師について、統計学ではどの段階で止めることが可能であったかの確率、というか、蓋然性を考えたり、近所に有名大手スーパーがあると住宅価格がどれくらい上がるかを考えたり、といったところです。いずれも統計的な確率分布で信頼性のある数字が推計される可能性があります。いずれにせよ、本書で取り上げているようなデータサイエンスはディープラーニングやそれに基づく人工知能(AI)といった最先端技術の基礎となることはいうまでもなく、そのような最先端技術を直接に扱ったり、仕事として従事したりするわけではないとしても、一般教養的に情報として持っておくことは必要です。加えて、類書でも散々指摘されているように、統計やグラフの書き方、あるいは、アンカーをどこに置いてしゃべるかなどで、人の受ける印象は一定程度変わってきますし、そういった情報操作的な手法に騙されないリテラシーも現代では必要です。ただ、Amazonのレビューを見ていると、極めて高い評価とそうでないものと両極端に分かれている気がします。ちょっと難しいかもしれませんが、理解できれば面白いと思います。でも、理解が及ばないと面白くないかもしれません。ビミョーな気はしますが、私は面白かったです。

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次に、原田泰『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(PHP新書)を読みました。著者は、官庁エコノミスト出身で日銀政策委員も務め、現在は名古屋市立大学の研究者です。一応、私はこの著者との共著論文「日本の実質経済成長率は、なぜ 1970 年代に屈折したのか」を書いていたりします。ということで、本書のタイトルの質問に対する回答は、三段論法よろしく何段階かの論法になっているのですが、まず、第1段階は極めて常識的に生産性が上がらないから賃金が上がらない、ということに尽きます。しかし、第2段階でどうして生産性が上がらないかというと、政府や企業やメディアなどがこぞって生産性を向上させることを妨害している、というやや突飛な発想になります。ただ、その解決策は割合と常識的であって、高圧経済を達成して人手不足の経済を達成することが重要、ということになります。具体的な分析や政策的なインプリケーションは私自身の考えと一致する部分もあります。例えば、キャッチアップの余地がまだ大いに残されている、とか、日本は投資不足である、とかの本書の主張は私もほぼほぼ全面的に同意します。政府が成長戦略により成長率を高めることが難しい、というか、政府の成長戦略は成功することに対して否定的なのもご同様です。そんなことを政府ができるのであれば、目端の利いた民間企業がとっくにやっていると私は思います。その意味で、経済産業省の目指すような国家統制のもとでの経済成長に期待すべきではありません。財政赤字が成長の制約条件となるというロゴフ教授らの見方に反対であるというのも私は同じです。昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" で示したところです。ただ、本書の主張とは違う点も大いにあります。少なくとも所得分配を改善してより平等な所得を実現できれば、私は成長率は加速すると思っています。限界消費性向の高い低所得層に所得を分配すれば消費が伸びるのはかなり明らかだと思うのですが、本書では否定しています。もうひとつ異なっているのはアベノミクスの評価です。私は第2次安倍内閣発足直後の2013年の財政政策は評価しています。しかし、2014年と2019年と2度に渡った消費税率の引上げはどうしようもなく間違っていましたし、最近では2013年に就任した黒田日銀総裁による異次元緩和も少し疑問視し始めています。理由は簡単で、デフレ脱却が出来なかったという実績に加えて、コロナ後に東京の住宅価格が高騰するという副作用が大きく目につくようになった、と考えるからです。異次元緩和の最中、それも最近まで割合と金融緩和は高く評価していたのですが、最近になって少し評価を変更しつつあります。ケインズ卿と同じです。すなわち、"When the facts change, I change my mind - what do you do, sir?" ということです。

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次に、くわがきあゆ『レモンと殺人鬼』(宝島社文庫)を読みました。著者は、京都府ご出身の小説家ですが、専業の作家さんではないようなことを聞いた覚えがあります。記憶はやや不確かです。2021年に第8回「暮らしの小説大賞」を受賞した『焼けた釘』でデビューし、本作品は2023年の第21回『このミステリーがすごい!』大賞・文庫グランプリ受賞作です。ということで、主人公は小林美桜、大学事務室に派遣職員として働いています。10年前に、そこそこはやっていた洋食屋経営の父親恭司が通り魔の少年に殺されて、母親寛子も失踪し、妹の妃奈とは別の親戚に引き取られて、不遇な人生を歩んできています。その上、生命保険外交員だった妹の妃奈の遺体が発見され、しかも、その妃奈に保険金殺人のウワサが立ったりします。ちょうどそういったタイミングで、父親を殺害した当時14歳だった少年の佐神翔が10年を経て出所したりします。そういった中で、妹の潔白を信じて疑惑を晴らすべく、主人公が行動を開始します。大学内に協力してくれるジャーナリスト志望の経済学部4年生の渚丈太郎を見つけ、真相解明に乗り出します。ほかに、主人公が有償ボランティアという名の副業を始める学童クラブの後に子どもたちを預かるボランティア活動している農学研究科の院生である桐宮証平、大学事務室の同僚派遣職員である鹿沼公一、中学のころにいじめられた海野真凛は協力者の渚丈太郎の恋人であるとともに一緒にボランティア活動をしたりして気まずい思いをします。こういった登場人物に囲まれて、妹が付き合っていたレストラン経営者の銅森一星に話を聞きに行こうとしたり、その銅森一星の用心棒の金田拓也から妹の話を聞いたり、サスペンスフルなストーリーが展開します。基本的にミステリの謎解きですので、あらすじはここまでとします。でも、ミステリといいつつ、いわゆる謎解きに当たる名探偵は登場しません。最後の最後に、犯人が主人公を殺害しようとして真相が明らかにされるタイプのミステリです。私は頭の回転が鈍いので、意図的にミスリーディングな作者の展開にすっかり騙されましたが、私だけではなく騙される読者は少なくないものと思います。いろんな伏線がいっぱいばらまかれていて、最後には見事に回収され、衝撃的などんでん返しとなります。ただ、どこかに既視感がある気がしたのは、我孫子武丸『殺戮にいたる病』とプロットが似ています。名探偵が登場しない点も似ています。共通するのは読者をミスリードするバラバラな視点、アチコチと前後する時系列、それぞれの視点からの観察結果が記述され、そういったバラバラかつアチコチなストーリーが一気に加速してラストを迎えます。最近では、なかなか完成度の高いミステリ読書だったと感じています。オススメです。

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次に、宮内悠介『スペース金融道』(河出文庫)を読みました。著者は、ワセダミステリクラブ=通称ワセミスご出身のSF作家、ミステリ作家であり、SFでもミステリでもない昨年の『ラウリ・クースクを探して』で直木賞候補にノミネートされています。ということで、本書はタイトルのスペース=宇宙から容易に想像される通り、SF作品となります。主人公は金融会社である新星金融で働いていて、イスラム教徒であり量子金融工学の研究をしていた経験を持つユーセフの部下として取立て業務に携わっています。舞台は人類が最初に移住に成功した太陽系外の惑星、通称「二番街」であり、新星金融の二番街支社に所属しています。要するに、少し前までの日本の消費者金融と同じで、小売の資金を貸し付けては、かなり過酷に取り立てるわけです。「バクテリアだろうとエイリアンだろうと、返済さえしてくれるなら融資する。そのかわり高い利子をいただきます。」というのがモットーになっています。また、ユーセフが主人公に何度も復唱させる企業理念は「わたしたち新星金融は、多様なサーボスを通じて人と経済をつなぎ、豊かな明るい未来の実現を目指します。期日を守ってニコニコ返済」というのもありますし、取立てについては「宇宙だろうと深海だろうと、核融合炉内だろうと零下190度の惑星だろうと取り立てる。」と、ユーセフが何度も繰り返し発言します。本書は5章構成となっていて、表題章が冒頭に置かれているスペース金融道、続いて、スペース地獄篇、スペース蜃気楼、スペース珊瑚礁、スペース決算期、となります。舞台となる二番街では、いかにもSFらしく、人間よりも数の少ないマイノリティながらアンドロイドがいっぱいいて、実は、新星金融の主要な顧客はアンドロイドらしく、ユーセフと主人公が取り立てる対象はアンドロイドばっかりです。もちろん、マイノリティですのでアンドロイドは人間から差別を受けているのですが、なぜか、二番街の首相はアンドロイドのゲベイェフが選ばれていたりもします。そのアンドロイドに関して、アシモフが『われはロボット』をはじめとする一連のシリーズで設定したルール「ロボット工学の三原則」になぞらえて、新三原則が課されています。潜在的なスペックは人間よりもアンドロイドの方が高いわけですから、少なくとも知性の面で人間を超えないようなルール設定がなされているわけです。以下の通りです。

第1条
人格はスタンドアロンでなければならない
第2条
経験主義を重視しなければならない
第3条
グローバルな外部ネットワークにアクセスしてはならない

第1条は人格の複製や転写を禁じるもので、第3条は知識の面で制限するためです。第3条に基づいてアンドロイドはグローバルなwebへのアクセスが禁じられており、アンドロイドの間だけのネット空間である暗黒網=ダークウェブだけにアクセスしています。第2条は判りにくいものの、「黒猫が前を横切ると不吉の前兆」といったジンクス的なものを取り入れて、アンドロイドを人間っぽくすることを主眼としています。といった前提ばかりが長くなりましたが、主人公が上司のユーセフに振り回されつつ、回収額を超えるコストがかかっていそうな取立てをして、とても酷い目に合うわけです。なぜか、カジノで自分の臓器をチップに変えてポーカーをやったり、差別主義的な人間原理党の党首に祭り上げられて、人間票を分割してゲベイェフの再選のために犠牲になったり、というわけです。そのあたりは読んでいただくしかありませんが、とてもテンポのよい文章で、ユーモアのセンスも抜群ですので、とても楽しめる読書でした。

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次に、中島京子ほか『いつか、アジアの街角で』(文春文庫)を読みました。著者は、6人の女性作家です。収録順に、簡単にあらすじを追っておきたいと思います。まず、中島京子「隣に座るという運命について」の主人公は女子大生の真智です。知った人もいない大学生活が始まって、隣の席に座ったよしみで仲良くなった「よしんば」に誘われた文芸サークルで偶然に出会ったエイフクさんの名前の通りに台湾に思いが飛びます。桜庭一樹「月下老人」のタイトルは、台湾の民間信仰の縁結びの神様です。舞台は、大久保のイケメン通りにほど近い道明寺探偵屋なのですが、火事を出した台湾料理屋がそこに転がりこんできて、火事にまつわる誤解が解明されます。島本理生「停止する春」はややディストピアのストーリーです。東日本大震災から11年を経て、社内の「黙とうをささげます」の放送がなくなり、主人公は勤続15年になるのですが、会社を休みます。少し不安定な主人公の心の動きが気にかかります。大島真寿美「チャーチャンテン」は、台湾ではなく香港です。1997年夏の香港でお腹のなかにいた子は、2022年に東京で働くことになり、初めての東京勤務を心配した友人から会ってやってくれるように依頼されますが、まったく何の心配もなく、逆に、東京にある香港に擬した一角に連れて行ってもらいます。宮下奈都「石を拾う」は、タイトルの石ではなく、むしろ、マグマの方がふさわしいかもしれません。外国人の同級生に対する陰湿なイジメに、小学生の主人公の身体の中にある活火山が噴火します。でも、そのマグマが固まった火成岩を見て、主人公は地球はマグマで出来ていると感じます。角田光代「猫はじっとしていない」では、19年飼って1年前にいなくなった愛猫のタマ子が、夢の中に出てきて台湾にいると告げられた主人公は、もちろん、台湾に向かい、猫がいっぱいの猫村を訪れます。最後に、「チャーチャンテン」では、ラストに主人公が金髪にして出社して、周囲が仰け反ったり、「グエ」と声を上げたりするシーンがあります。実は、私も頭髪がさみしくなってきて、できれば、丸刈りにしたい、でも、何らかの差し障りがあるかもしれないので、息子の結婚式の後に丸刈りにする、という人生プランを持っています。早く結婚してくれないものかと待ち望んでいますが、まだ先は長そうな気がします。

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2024年5月25日 (土)

今週の読書は経済書と歴史書に新書を合わせて計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、エドワード・チャンセラー『金利』(日本経済新聞出版)は、どこかで見たような低金利批判のオンパレードです。クィン・スロボディアン『グローバリスト』(白水社)は、シカゴ学派ではなくジュネーブ学派のハイエクなどに新自由主義=ネオリベの源流を求めた歴史書です。堤未果『国民の違和感は9割正しい』(PHP新書)では、能登半島地震の復興策や自民党のパーティー券収入の裏金などに関して、国民の違和感を正しく評価しています。雨宮処凛『死なないノウハウ』(光文社新書)は、格差が広がり貧困が蔓延する日本社会で、生死を分けかねない社会保障などの重要な情報を収録しています。柯隆『中国不動産バブル』(文春新書)は、中国のバブルはすでに崩壊したと指摘し、中国バブルの発生と進行を後づけています。寺西貞弘『道鏡』(ちくま新書)は、日本史上の悪僧として名高い道鏡について、巷間のウワサの域を出ない物語を否定し、その実像に迫ろうと試みています。
ということで、今年の新刊書読書は1~4月に103冊の後、5月に入って先週までに19冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて128冊となります。順次、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。なお、経済書ということで冒頭に取り上げた『金利』はすでにAmazonでレビューしており、現時点では私しかレビューを掲載していないようです。誠に申し訳ないながら、2ツ星の評価としておきました。

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まず、エドワード・チャンセラー『金利』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、金融史研究者、金融ジャーナリスト、ストラテジストと紹介されています。英語の原題は The Price of Time であり、2022年の出版です。本書は三部構成であり、金利の歴史、低金利の分析、ビー玉ゲームとなっています。日本経済新聞らしく、本書の一貫したテーマは低金利に対する批判です。第Ⅰ部は金利の歴史をなぞっていて、第Ⅱ部が本書の中心的な部分と考えるべきです。そして、この第Ⅱ部で極めて執拗な低金利及び低金利政策に対する批判が加えられています。おそらく、本書のタイトルからして、金利とは時間の価格であり、一般的に正の時間割引率を前提とするのであれば金利はそれ相応の水準になければならない、ということのようです。歴史的に、自然利子率の考えは、名称ではなく、考えは、17世紀のロックの時代までさかのぼることが出来ると指摘しつつ、しかしながら、20世紀のケインズ卿は自然利子率が完全雇用を保証するとは限らない、しかも、利子率の水準よりも雇用のほうが重要、という価値判断から金利を低く抑えて完全雇用を達成するための政策手段のひとつとして利用しようとします。私はこのケインズ卿の理論は完全に正しいと考えていますが、本書ではこういった考えに基づく低金利が攻撃の槍玉に上げられています。繰り返しになりますが、それが第Ⅱ部の主たる内容です。まず、グッドハートの法則を持ち出して、金融政策の操作目標が金利になると不都合を生じる可能性を示唆します。後はどこかで見たような主張の羅列となります。ゾンビ企業が淘汰されずに生き残ってしまって非効率が生じ、当然のようにバブルが発生してしまうと主張します。バブルは生産活動に従事しなくても所得を得る可能性を生じさせて経済の生産性を低下させるわけです。もちろん、低金利では社会保障基金の収入が低下しますので、第13章のタイトルは「あなたのお母さんは亡くならなくてはいけません」になるわけです。でも、マリー・アントワネットではないのですから信用を食べて生きていけるわけではない、という結論です。最後の第Ⅲ部では金融抑圧や中国の例が持ち出されて、低金利批判が繰り返されます。要するに、低金利が原因となって非効率や低成長といった結果をもたらすという主張なのですが、整合性を欠くことに、時間の価格としての金利を想定していますので、時間が経過しても生産が増加せずに結果として低金利に帰着する、という因果関係は無視されています。私は、金利と生産性のは双方向の因果関係、というか、もはや因果関係とは呼べないような相互のインタラクションがあるのではないかと考えていますが、本書ではそうではなく、低金利がすべて悪い、という主張のようです。しかも、しばしば言及されているのは国際決済銀行(BIS)のチーフエコノミストだったホワイト局長とか、ボリオ局長です。ややバイアスあるエコノミストという気がしないでもありません。ただ、出版されてほぼ1か月を経過し、アマゾンのレビューの第1号が私のもののようですが、日経新聞が利上げを強硬に強力に主張し、日銀が3月に利上げを開始したところですから、ある意味で、タイムリーな出版ともいえます。それなりの注目を集める可能性があります。でも、それほど大した内容ではありませんし、間違っている部分も少なくないと私は考えています。

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次に、クィン・スロボディアン『グローバリスト』(白水社)を読みました。著者は、カナダ生れの歴史学者であり、現在は米国ボストン大学の研究者です。ご専門はドイツ史や国際関係史だそうです。ですので、p.20では「本書の物語は、中欧からみたネオリベラルなグローバリズムのビジョンを提示する。」と宣言しています。そうです、ネオリベといえば英米が中心、しかも、フリードマン教授やスティグラー教授などの米国のシカゴ学派が拠点と考えられがちですが、本書ではシカゴ学派ではなく中欧のジュネーブ学派、ミーゼスやハイエクなどのエコノミストを念頭に置きつつ、1920年代から現在までのほぼ100年に及ぶネオリベラルな政治経済史を明らかにしようと試みています。そして、私はエコノミストですので、1980年前後から英国のサッチャー内閣、米国のレーガン政権、あるいは、モノによっては我が国の中曽根内閣などのネオリベな経済政策が頭に浮かびますが、そういったネオリベな経済政策、国営や公営企業の民営化や規制緩和などはほとんど言及されていません。そうではなく、もっと政治経済学的な帝国、特に、ハプスブルグ帝国やその末裔、また、帝国の後を引くような国民国家(インぺリウム)と世界経済(ドミニウム)を融合させる連邦を理想とした政治家たちを取り上げて、制度設計を中心に据えるネオリベラルの歴史をひもといています。特に、英米や日本といった先進国もさることながら、途上国にも自由貿易を理想として示したり、あるいは、21世紀になって「ワシントン・コンセンサス」とやや揶揄されかねない呼称を与えられた経済政策を旗印にした国際機関にも注目しています。ここでも、ジュネーブ学派が国民国家における民主的な議会制度などではなく、超然とした存在の国際機関をテコにしたネオリベラリズムを志向していた可能性が示唆されます。他方で、一国主義的な自由や民主主義はグローバリズムによる制約を受ける可能性、というか、グローンバリズムが一国内の民主的な制度を超越しかねないリスクもありえます。私は、今世紀初頭にインドネシアの首都ジャカルタで国際協力の活動に参加して、1990年代終わりの国際通貨危機の後始末もあって、ワシントン・コンセンサスに基づくネオリベなIMF路線が蛇蝎のように嫌われていながらも、受け入れて救済を受けるしかない国民の不満を目の当たりに見ましたし、韓国でも同じような状況であったと聞き及びました。ただ、それでは国内に重点を置けばいいのかというと、ポピュリスト政権、例えば、米国のトランプ政権のような方向性が望ましいのかといえば、もちろん、そうでもありません。ネオリベな格差の是認や貧困の放置は、少なくとも日本では極限に達していますが、それだけではなく、ネオリベラリズムの国際的な側面、歴史的な成立ちを解き明かそうとする真摯なヒストリアンの試みの書といえます。

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次に、堤未果『国民の違和感は9割正しい』(PHP新書)を読みました。著者は、国際ジャーナリストであり、私はこの著者の新書は『デジタル・ファシズム』、『堤未果のショック・ドクトリン』ほかを読んでレビューしています。5章構成となっていて、第1章では、災害の違和感として、災害時、特に今回の能登半島地震などに見られる棄民の実態、あるいは、地方政府などの提供するインフラの切売りを取り上げています。第2章では戦争と平和を取り上げて、ガザやウクライナにおける戦争や防衛費増額の疑問に焦点を当てています。第3章では農業と食料を取り上げ、第4章ではパーティー券収入の裏金問題をはじめとする情報操作に注目し、第5章ではこれらの違和感に対する対応につき議論を展開しています。ということで、特に、官庁エコノミストとして長らく官庁に勤務した私の目から見て、やっぱり、パソナや電通をはじめとする民間企業に政府のなすべき公務を丸投げして大儲けさせている実態には唖然とするしかありません。水道インフラを外国企業に売り渡す地方自治体があったり、農家を立ち行かなくする制度を作った上で農地を海外投資家に売るように仕向けたりといった形で、なんとも日本の国益に沿った政治がなされているのかと疑問に感じるような政策が次々と実行されています。加えて、貿易費調達のためにNTTの通信インフラを売りに出したり、無理ゲーのマイナカードの普及を図ったりと、国民生活を中心に据えた政策ではなく、政治家や一部の政治家に癒着した企業が儲かるだけの違和感タップリの政策をここまで堂々と推し進められてはかないません。しかし、他方で、メディアの劣化もはなはだしく、災害報道や芸能ニュース、はたまた、実にタイミングよく飛び出す北朝鮮のミサイル発射など、国民の耳をふさぎ真実を伝えない報道も本書では明らかにされています。本書では取り上げられていませんが、私は最近の民法改正の目玉であった「共同親権」については大きな疑問を持っていますが、メディアでは法案が成立した後になって報道し始め、一部に批判的な専門家を取材したりして、それでもってお茶を濁すような姿勢が明らかです。メディアがここまで政府の提灯持ちとなって劣化していますので、本書の最終章でも「選挙で政権交代」といった解決策は提示されていません。そうです。私も現在の日本でホントに選挙で政権交代が出来るとは思っていませんし、その意味で、日本は中国やロシアの独裁政権に似通った部分がある可能性を憂慮しています。かといって、武力革命なんて選挙による政権交代よりも10ケタ以上可能性が低いことは衆目の一致するところです。このままでは、米国ハーバード大学のエリカ・チェノウェス教授の『市民的抵抗』で取り上げられている3.5%ルールに望みをかけるしかないのか、という悲観論者になってしまいそうです。

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次に、雨宮処凛『死なないノウハウ』(光文社新書)を読みました。著者は、反貧困や格差への抵抗を旗印にした作家・活動家です。本書は、タイトルこそおどろおどろしい印象なのですが、実は、困ったときのマニュアルといえます。もちろん、何に困るかにもよりますが、表紙画像にあるように金欠問題を取り上げた第1章のお金始まって、第2章では仕事、第3章で親の介護、第4章で健康、第5章で相続などの近親間でのトラブル、最後の第6章で、これも表紙にある散骨を含む死を取り上げています。私はカミサンとともに両親ともすでに死んでいて、現時点で親の介護の必要はないものと想定していますが、その他のお金にまつわる問題点についても、何とか大問題と考えずに済むような状態にあります。仕事も60歳で公務員の定年を、65歳で大学教員の定年を、もう2度の定年を超えて退職後再雇用の状態にありますから、それほど心配はしていません。ただ、もう60代半ばですから健康についてはこれから悪化していくことが明らかであり、何かで見たように「死と税金ほど確かなものはない」というブラックジョークにあるように、いつかは不明であるとしても、そのうちに死ぬことは確かです。その意味で、自分自身の身に引きつけての読書ではありませんでしたが、日本の経済社会一般の格差や貧困を考慮しての必要とされる一般教養として、とても勉強になります、本書の序章では必要な情報を持っているかどうかで生死を分けかねないと指摘していますし、それを持ってタイトルとしているわけですが、まったくその通りです。本書の位置づけは、決して、より豊かに、あるいは、楽をして暮らすためのマニュアルではなく、生死を分ける境目で役に立つ情報を収録していると考えるべきです。本書の評価としてはとても素晴らしいのですが、本書で取り上げている生命を維持し、健康を保つなどのために必要な実効上の日本の福祉制度などの評価は何ともいえません。ただ、「ないよりまし」な制度もあり、本書では、それでも死を避けるためには有益、という評価なのだろうと思いますが、もう少し有益なものにする努力も中央・地方政府に求めるべきではなかろうか、というものも散見されます。最後に、こういった本が出版されるのは、本書でも指摘しているように、特に地方政府に総合的なワンストップの窓口がないことによります。そこまで含めた見直しが必要かもしれませんし、そもそも、こういった情報が本に取りまとめられて売り物になる日本の現状を憂える人も少なくないものと想像します。私もこういった情報本がなくても死なない日本を構築する必要を痛感します。それにしても、入居金6000万円の高級老人ホームのコラムは嫌味でした。

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次に、柯隆『中国不動産バブル』(文春新書)を読みました。著者は、長銀総研や富士通総研の勤務の後、現在は東京財団の主席研究員だそうです。アカデミックな大学などではなく民間シンクタンクのご経験が豊富なようです。本書では、タイトルのとおりに中国のバブルについて論じています。ただ、本書冒頭で指摘しているように、すでに中国のバブルは崩壊したと著者は考えているようです。2021年の恒大集団(エバーグランデ)のデフォルトがバブル崩壊の幕を開け、昨年2023年10月には碧桂園(カントリーガーデン)がオフショア債の利払いを延滞しています。この2社は不動産開発会社=デベロッパーですが、今年2024年1月には不動産関連案件に投資するシャドーバンキング大手の中植企業集団が破産を申請しており、これらをもって中国のバブル崩壊と見なすべきであるという見解です。また、バブル崩壊の要因は2点あり、第1は、習近平主席が「家は住むためのものであり、投機の対象ではない」と発言したことから人民銀行が住宅ローンへの規制を強化したことであり、第2に、ゼロコロナ政策によるコロナ禍の中での需要の減退、と指摘しています。もう中国バブルはすでに崩壊したのか、といぶかる向きがあるかもしれませんが、我が国でも、現在から見れば1991年2月には景気の山を迎えていた一方で、その後もしばらく認知ラグが発生してバブル崩壊が認識されなかったことは歴史的事実です。私は1991年3月から南米チリの日本大使館での勤務を始めましたが、バブルの象徴という人もいる「ジュリアナ東京」は私の離日直後の1991年5月にオープンし、私が帰国した1995年4月の直後の1994年8月に閉店しています。ほぼ私の海外生活の時期と重なっていて、私が帰国した時にはバブルがすでに崩壊していたのは明らかでしたから、私はジュリアナ東京に足を運ぶ機会はありませんでした。それはともかく、本書では中国のバブルの発生と進行について詳細に報告しています。基本的に、日本の1980年代後半のバブル経済や米国の2000年代半ばのサブプライムバブルと同じで土地や不動産を起点にするバブルであると結論しています。ただし、中国は土地国有制ですので、土地使用権に基礎を置くバブルであり、したがって、地方政府が収入を得るタイプのバブルであったと見なしています。すなわち、不動産開発に基礎を置くバブルにより、地方政府が正規と非正規の収入を得るとともに、住宅開発の面からは地域住民の利益になる部分もあった、ということです。日本では地方政府はそれほどバブルの「恩恵」は受けていないように思います。また、地方政府が非正規の収入を得たというのは、政府、というよりも政府で働く公務員がワイロを、しか、お、莫大な学のワイロを受け取った、という意味です。不動産開発会社=デベロッパーが大儲けし、そこに融資したシャドーバンクも同様です。日本のバブルと少し違う点が3点ほど私の印象に残りました。第1に、中国人の家に対する執着です。まず家を用意した上で結婚を考える、ということのようです。日本ほど賃貸住宅の発達が見られないのかもしれません。第2に、地方政府の公務員に対するワイロです。とても巨額のワイロが平気でまかり通っているのが不思議でした。第3に、本書では第7章の最後に、バブルは崩壊したものの、情報統制で金融危機が防げる可能性が指摘されていると同時に、第9章ではコロナ禍によりすでに「恐慌」に入っている可能性も示唆されています。ここの理解ははかどりませんでした。何といっても、バブル崩壊はその後の金融危機、特に、大規模な不良債権の発生で金融システムのダメージが大きいことが経済への大きな影響につながりますから、金融危機を防止できればひょっとしたら大きな影響は避けられるのかもしれません。同時に、強烈なゼロコロナ政策により経済が不況に陥っている可能性も無視できません。バブル崩壊は大きなインパクトないが、ゼロコロナ政策のために不況に陥っている可能性がある、ということでしょうか。でも、やっぱり、少し不思議な気がします。

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次に、寺西貞弘『道鏡』(ちくま新書)を読みました。著者は、和歌山市立博物館の元館長さんです。本書では、日本史上稀代の悪僧と見なされている道鏡について確実と考えられる史料から、その実像の解明を試みています。まず、道鏡が太政大臣禅師の地位に就いたのが、重祚前は孝謙天皇と呼ばれていた称徳女帝と同衾しその性的な能力や魅力に基づく、とする淫猥伝説は一刀両断の下に否定されています。すなわいち、8世紀後半のこういった太政大臣禅師就任などの政治動向について、性的な能力によるとする淫猥伝説が現れたのが数百年も時代を下った『水鏡』、『日本紀略』、『古事談』などであることから、何ら信頼性がない俗説であると結論しています。加えて、称徳女帝は未婚のまま践祚し次の男帝までのつなぎの位置づけであったことが明らかであり、その点は周囲もご本人も十分に認識していたハズ、と示唆しています。まあ、そうなのだろうと私も思います。そして、道鏡の出自を明らかにし、出家と受戒についても考察した後、道鏡がいかにして称徳女帝の信頼を勝ち得たのかについては、当時の仏教界の状態や影響力に基づいた議論を展開しています。繰り返しになりますが、道鏡が活動していたのは8世紀後半であり、高く評価していた称徳女帝の父は東大寺建立で有名な聖武天皇、そして、次代はやや無名の光仁天皇ですが、さらにその次代が桓武天皇ですから平安遷都の直前といえます。その時代の仏教はいわゆる「鎮護国家」であって、僧侶は今でいえば国家公務員です。国家の安泰を目指すとともに、本書では医者の役目など一般国民に対する呪術的な役割も果たしていた、と指摘しています。しかも、平安期に入って空海や最澄などが世界の大先進国であった当時の中国から最新の密教を持ち帰る前の時代ですので、日本の伝統的な呪術信仰と仏教が入り混じった宗教であった可能性を本書では示唆しています。現在、というよりも、数百年後の日本ですら記憶が薄れた呪術的な仏教、国家を鎮護するとともに、病気の平癒を祈念するとかの幅広い効用を仏教に求めていたため、その方面で道鏡は称徳女帝から過大評価を受けていた可能性があるとの意見です。ですから、道鏡からの求めや働きかけ、というよりも、称徳女帝からの一方的な過大評価かもしれない、というわけです。このあたりの本書の見方は、私には何とも評価できませんが、まあ、あり得るのだろうと受け止めています。奈良時代末期の歴史をひもとくいい読書でした。

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2024年5月18日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ小説はなく計5冊

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、二宮健史郎・得田雅章『金融構造の変化と不安定性の経済学』(日本評論社)は、ミンスキー教授の理論によるポストケインジアンのモデルに基づいて経済の不安定性を論じた学術書です。日本地方財政学会[編]『マクロ経済政策と地方財政』(五絃舎)は、編者の学会総会のシンポジウムや研究論文などを収録した学術書です。鈴木貴宇『「サラリーマン」の文化史』(青弓社)は、明治・大正期からの職業としての「サラリーマン」の成立ちやその文化を論じた教養書です。前野ウルド浩太郎『バッタを倒すぜアフリカで』(光文社新書)は一連のアフリカにおけるバッタ研究を取りまとめつつ、現地生活も振り返っています。橋本健二『女性の階級』(PHP新書)は、女性自身と配偶者の組合せによる30パターンのケースについて女性階級の格差を検証しています。
ということで、今年の新刊書読書は1~4月に103冊の後、5月に入って先週までに14冊をレビューし、今週ポストする5冊を合わせて122冊となります。順次、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。

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まず、二宮健史郎・得田雅章『金融構造の変化と不安定性の経済学』(日本評論社)を読みました。著者2人は、立教大学と日本大学の研究者ですが、それぞれの前任校の滋賀大学で研究者をしていたようです。本書は、出版社からも軽く想像される通り、完全な学術書です。税抜きで6000円を超えますし、一般ビジネスパーソンはもちろん、学部学生では少しハードルが高いかもしれません。専門分野を学んでいる修士課程の大学院生くらいの経済学の基礎知識を必要とします。私は大学院教育を受けたことがありませんし、専門外ですので、かなり難しかったです。十分に理解したかどうかは自信がありません。なお、著者ご自身が明示しているように、非主流派に属するポストケインジアン派の経済学の中のミンスキー教授が示した経済の不安定性を、実践的には2008年のリーマン証券の破綻以降の金融危機に適用しようと試みています。ミンスキー教授の理論は、ヘッジ金融から投機的金融、そして、最終的には、ポンジー金融に至る金融構造の脆弱化が進めば、実物要因が安定的であっても経済は不安定化する、というものです。そして、この理論は現代貨幣理論(MMT)へとつながりますので、本書で直接にMMTへの言及はありませんが、MMT研究者にも有益な学術書かもしれません。ということで、本書を一言でいえば、Taylor and O'Connell (1985) "A Minsky Crisis" の議論をS字型の貯蓄関数と結びつけ、Hopfの分岐定理を適用して金融的な循環を論じている、ということになります。これで理解できる人はとっても頭がいいわけで、ひょっとしたら、本書を読む必要すらないのかもしれません。本書では、非線形の構造VAR(SVAR)を適用して、金融構造の変化と経済の不安定性の関係を実証的に分析しようと試みています。バックグラウンドのモデルや方法論については、以上の通り、かなり難しいので、得られた結論だけに着目すると、Taylor and O'Connell (1985) の結論通りということですので、特に新規性はないのですが、利子率が長期正常水準を下回る期間が長くなれば、それだけ確信の状態が上昇し、そして、確信の状態が高まれば所得が上昇しているにもかかわらず、利子率がさらに低下する可能性がある、ということにつきます。本書ではそれを実証的に示しています。確信の状態が高まって、いわゆるユーフォリアが生じてバブルが発生する可能性が高まるのは、我が国の1980年代後半のバブル経済期に観察されている通りです。経済学的には、緩和的な金融政策の継続が資産価格を上昇させてバブル経済をもたらした、と政策オリエンテッドな理解が一般的ですが、経済に内在的な要因から不安定化がもたらされる可能性が示唆されているわけです。最後の最後に、どうしてもこの学術書のエッセンスに接したいという向学心旺盛な向きには、この両著者による学術論文「構造変化と金融の不安定性」が2011年に経済理論学会から『季刊 経済理論』第48巻第2号に掲載されています。web検索すれば発見できると思います。何ら、ご参考まで。

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次に、日本地方財政学会[編]『マクロ経済政策と地方財政』(五絃舎)を読みました。著者は、名称通りの学会組織です。本書は昨年2023年6月に名古屋市立大学で開催された学会第31回総会のシンポジウムや発表論文などを取りまとめています。第1部がシンポジウム、第2部で研究論文を収録し、第3部は書評、第4部は学会の活動報告となっています。第1部と第2部を簡単にレビューしておきたいと思います。第1部のシンポジウムは本書と同じテーマ、というか、シンポジウムのテーマがそのまま本書のタイトルに採用されているわけです。シンポジウムのメンバーは、なぜか、総務省の財政課長とか愛知県の副知事とかの行政官が登壇し、アカデミアの貢献は少ない印象です。でも、マスグレーブ的な財政の3機能、すなわち、資源配分機能=公共財の供給、所得再分配、マクロ経済安定、については、米国のような連邦制に基づく分離型の地方財政を前提とすれば成り立つ一方で、日本をはじめとする融合型の地方財政においては判然としない、といった見方が示されています。そうかもしれません。論文は3編掲載されています。まず、地方税に法人税が含まれていて、しかも、後年度に損金算入ができる制度を持つ国は少ない中で、この制度に基づく超過課税について分析した研究が示されています。当然ながら、超過課税は増税であり、同時に、利子率の上昇も招くことから企業の投資を阻害する要因となりかねない点が示されています。したがって、設備投資の資金調達の中立性を確保するために、法人税率の引下げの必要性を示唆しています。続いて、中国の政府間財政関係の論文が示されています。中国は政治的にはかなり高度に中央集権的である一方で、財政制度については地方分権が進んでいるという不整合が、ある意味で、地方間の格差是正につながっている可能性を示唆しています。最後の論文は、財政構造の変化が、いわゆるティボー的な「足による民主主義」を促すとすれば、公共財の供給などによる地域住民が享受する便益が地価や住宅価格などの不動産価格に反映する可能性があると指摘し、この資本化仮説に基づく実証的な分析を行っています。実際には、公共財の供給を地方財政費目で代理し、注目すべき結果としては、土木費は政令指定市ではすでに過大供給となっていてマイナスの便益を示している一方で、中核市では過小供給であり増加させることが望ましいと結論しています。書評は2冊を取り上げています。最後に、シンポジウムの収録はテーマからして、私にも興味引かれるものだったのですが、登壇者が盛んに言及しているスライドがどこにも見当たりません。学会の総会ホームページにもありません。会員サイトにあるのかもしれませんが、一般向けに書籍を販売している以上、やや疑問がある対応であると私は考えました。大いに改善の余地ありだと思います。

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次に、鈴木貴宇『「サラリーマン」の文化史』(青弓社)を読みました。著者は、東邦大学の研究者であり、ご専門は日本近代文学、日本モダニズム研究、戦後日本社会論といったところだそうです。本書の内容はタイトル通りであり、明治期の近代化から先進国に近い産業化が進み、それに伴って「サラリーマン」が我が国にも誕生しています。その歴史を後づけています。ただ、歴史的なスコープは明治期から戦後昭和の高度成長期までです。ということで、産業構成の発展方向としてペッティ-クラークの法則というのがあります。付加価値生産、だけでなく、本書が焦点を当てている労働者の構成が、第1次産業から第2次産業、そして第3次産業へとシフトする、というものです。徳川期には圧倒的多数を占めていた農民から、明治期に入って第2次産業や第3次産業のシェアが高くなり、サラリーマンという人々が雇用者の中で生まれます。当初は都市住民であって、比較的学歴が高く、したがって、所得も高いアッパーミドル層でした。ただ、本書では第1次産業従事者と対比させるのではなく、「丁稚上がりと学校出」という勤め人の間での対比を取っています。さらに、経済的な側面ではなく、タイトル通りに文化史に焦点を当てています。基本的には、都市住民が想定され、現在のような会社勤めをはじめとして、官吏や教員、銀行員などが代表的な存在です。官吏の中でも下級職員の昔ながらの「腰弁」と洋館に住んで洋服を着て自動車で通勤する高級官僚を区別しています。そして、特に後者では旧来の地縁や門閥による登用ではなく、出身階級の桎梏から逃れて学歴、勉強により立身出世を目指す向きが主流となります。知識階級とか、インテリゲンチャというわけです。そのサラリーマンが時代を下るにつれて、明治期のインテリやアッパーミドル層から、高度成長期後半にはごく普通の国民である「ありふれた一般人」となり、「一億総中流」を形成するわけです。もちろん、男性だけではなく、大正デモクラシー期には高等教育が女性にも開かれるようになり、女性の社会進出も始まります。ただし、本書で詳細に触れられていませんが、20世紀半ばの敗戦まで国民の半分近くは農民だったわけであり、農作業は夫婦共同作業が一般的であった点は本書のスコープ外とはいえ忘れるべきではありません。そして、高度成長期になって労働力不足から雇用者の囲い込みをひとつの目的として長期雇用、あるいは終身雇用が成立し、それを補完する制度として年功賃金も支給されるようになります。そして、サラリーマン家庭では専業主婦の形で女性が家庭を守る役割を与えられるようになります。ただ、こういった経済史は本書では詳しく取り上げられていません。そして、家庭内での専業主婦の役割や多くの家庭では子供が2人といった文化的な同質性が形成されることになります。こういった文化史を文学作品や戦後は「君の名は」といっらラジオドラマや映画などに基づきつつ、詳細に論じています。経済的な基礎の上に文化を考える私にはとても参考になりました。

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次に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒すぜアフリカで』(光文社新書)(光文社新書)を読みました。著者は、バッタ博士と自称する研究者であり、アフリカのサバクトビバッタの研究がご専門です。本書の前編となるのが同じ光文社新書の『バッタを倒しにアフリカへ』であり、2017年の出版です。なお、同じ著者からほかにも同じようなバッタ本が出版されています。私は『バッタを倒しにアフリカへ』は読んでいて、レビューもしていたりします。新書ですし、著者ご本人も本書は「学術書」であると位置づけています。ですので、それなりに難解な部分もあります。したがって、ここでは現地生活や現地での人的交流を中心にレビューしたいと思います。ということで、私も2度ほど海外生活を送りました。30過ぎの独身のころに南米チリの大使館勤務、そして、その10年後にインドネシアへの国際協力のため家族4人でジャカルタに住んでいました。それぞれ約3年間です。ですので、私はエコノミストでもあり、基本的に首都住まいでしたので、本書の著者のようにバッタのいる砂漠に野営する生活ではありませんでした。本書の著者がアフリカで活動した中心はモーリタニアだそうで、本書冒頭ではスーパーで売っているモーリタニア産のタコが取り上げられていたりもします。私の場合は南米とアジアですので、アフリカほど文化的な違いは大きくないのでしょうが、やっぱり、日本とは違います。当然です。私が滞在していたのはいずれも先進国ではありませんでしたから、やっぱり、時間の流れが緩やかであったように感じました。要するに時間がかかるのです。ただ、この点は役所を定年退職した後に関西に来た際にも、東京よりも時間がかかる、というのは感じました。現地での人的交流という点に悲しては、本書では「学術書」といいつつも、著者の運転手だったティジャニなる人物にスポットが当てられています。そうなんですよね。私もチリでは運転手ではなく自分で自動車を運転していました。外交官ナンバーの治外法権の自動車でしたが、ジャカルタではもっとも人的交流が多かったのはやっぱり運転手さんでした。ラムリーさんといいます。ラムリーさんのご自慢は「プリンセス紀子」をお乗せした、ということでした。すなわち、私が担当していた国際協力プロジェクトの前任者として川嶋教授が働いていたのか、あるいは、講演会などで短期的にジャカルタにいらしたのか、そのあたりはハッキリしませんが、いずれにせよ、私の担当のインドネシア開発企画庁(BAPPENAS)の国際協力プロジェクトに川嶋教授がいらして、そのご縁で紀子さまが、当然秋篠宮に嫁ぐ前に、ジャカルタにお出ましになって、その際、私の送迎を担当してくれたラムリーさんが運転した、ということのようです。ブックレビューもさることながら、私の海外生活のレビューの要素が多くなってしまいました。悪しからず。

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次に、橋本健二『女性の階級』(PHP新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者です。ご専門は経済学ではなく、社会学なんだろうと思います。本書では「社会階層と社会移動に関する全国調査」、すなわち、SSM調査のデータを用いて、女性の階級につき、資本家階級、新中間階級、労働者階級、旧中間階級を考え、さらに、労働者階級を正規と非正規で分割し、さらにさらにで、女性ご自身だけではなく配偶者の階級も考慮し、無配偶も入れて、本書冒頭のpp.10-11で示されたように30のグループに分割して分析を進めています。第2章では女性の賃金の低さを考え、おそらく、私も推計したことのあるミンサー型の賃金関数により、学歴、勤続年数、年齢などの属性を取り除いても、なお男女間に賃金格差が残るとの分析結果を引用しています。資本主義的生産様式が男女間の賃金ほかの格差を生み出している根本原因とするマルクス主義的なフェメニズム観も示しつつ、家事労働などの無報酬の女性労働の存在も指摘していたりします。特に、女性の場合、いわゆる専業主婦という無職も少なくない上に、ご本人の所得のほかに配偶者の所得を考慮する必要があり、かなり細かな分類をしています。男性の所得が、資本家階級>新中間階級>旧中間階級≥労働者階級、とシンプルであるのに比べて、とても複雑になっています。例えば、男性が非正規雇用の労働者階級であれば、ほぼほぼアンダークラスなのですが、女性の場合は配偶者が新中間階級で、ご本人がパート勤務であれば、アンダークラスでないケースがほとんどであろうというのは容易に想像できます。その分析結果の読ませどころが第4章であり、30グループの女性たちに適切にネーミングを施した上で、詳細な分析結果が示されています。例えば、ご本人が資本家階級であり、かつ、配偶者も資本社会級であるケースは「中小企業のおかみさん」と名付けられ、消費行動や余暇活動などの特徴を明らかにしています。そのあたりは、30グループすべてを取り上げるわけにも行きませんから、読んでいただくしかありません。私が興味深いと感じたのは、独身女性が両親と実家暮らしをしていたりすると、かつては、親に養ってもらって自分のお給料はお小遣い、という「パラサイトシングル」を想像していたのですが、今では、年齢が進行して逆に独身女性が親を養っている、というケースも少なくないと報告しています。本書では、特に、相対的な格差だけではなく、絶対的な貧困についても、アンダークラスを中心に詳細な分析が行われています。第4章に続く第5章において、アンダークラスに陥りやすい女性についての分析がなされています。最後の第7章では格差に関する意識についても論じられていて、その第7章のタイトルは「格差と闘う女性たちが世界を救う」となっています。私も強く同意します。ただ、最後に、本書で分析されているのは相関関係であって因果関係ではない、という批判はあるかもしれません。しかし、私はこれだけのデータをそろえれば、相関関係で十分と考えます。

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