2019年11月 9日 (土)

今週の読書は話題の現代貨幣理論=MMTのテキストをはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、財政のサステイナビリティに関する話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の第一人者による入門テキストをはじめとして、以下の通りの計7冊です。NHKの朝ドラと「チコチャンに叱られる!」の再放送を見終えて、これから、来週の読書に向けた図書館回りに出かける予定ですが、来週も充実の数冊に上りそうな予感です。

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まず、L. ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』(東洋経済) です。著者は、米国バード大学のマクロ経済学研究者です。米国ワシントン大学ミンスキー教授の指導の下で博士号を取得しているそうです。英語の原題は Modern Money Theory であり、2015年の出版、第2版です。話題のMMT=現代貨幣理論の第1人者による入門教科書です。私は今回は図書館で借りましたが、来年になれば研究費で買えるのではないかと期待していますので、ザッと目を通しただけ、というところです。MMTに関しては大きな誤解があり、主流派のエコノミストは、おそらく、ちゃんと理解しないままに、MMTとは無制限に国債を発行して財政、もしくは、財政赤字を膨らませる理論である、と受け止めているんではないかと思います。でも、本書を読めば、MMTもそれなりに美しく主流派経済学と同じようなモデルに立脚したマクロ経済学理論であると理解できることと私は考えます。まず、冒頭で、貨幣=moneyとは一般的、代表的な計算単位であり、通貨=currencyとは中央銀行を含む統合政府が発行するコインや紙幣、とそれぞれ定義し、通貨が貨幣になる裏付け、通貨が生み出されるプロセス、財政政策の方向、の3点を理解することが重要と私は考えます。まず、第1に、通貨が貨幣という一般的な交換手段となる裏付けについては、市場で交換価値がある、すなわち、みんなが受け取るから、という主流派経済学の貨幣論を説明にならないと強く批判し、そうではなく、すなわち、交換で何か貨幣と同じ価値あるモノを受け取れるからではなく、政府が納税の際に受け取るからである、と指摘します。これはとても建設的な意見でクリアなのではないでしょうか。第2に、通貨創造についても、銀行が帳簿に書き込むからであって、それに対する預金の裏付けはない、と指摘します。キーストロークによる貨幣創造です。ですから、私なんぞも以前は誤解していたんですが、「国債発行が国内の民間貯蓄額を越えればアブナイ」という議論を否定します。政府が国債を発行して民間経済主体の銀行口座に預金が発生するわけです。当たり前なんですが、誰かの負債はほかの誰かの資産となります。そして、第3に、自国通貨を発行する権限のある中央銀行を含む政府は支出する能力はほぼ無限にある一方で、支出する能力が無限だからといって支出を無条件に増やすべきということにはならず、インフレや、同じことながら、通貨への市場の信認などに配慮しつつ、経済政策の目標を達成するための手段と考えるべきと指摘しています。逆から見て、プライマリーバランスや公債残高のGDP比などの財政健全性に関する指標を機械的に達成しようとするのは不適切である、ということになります。ということで、さすがに、定評あるテキストらしく、背後にあるモデルが明快であり、とても説得的な内容となっています。しかしながら、最後に、間接的な関連も含めて、3点疑問を呈しておくと、第1に、国債消化についてであり、負債は逆から見て資産とはいえ、国債が札割れを起こすこともあり、その昔の幸田真音の小説のような共謀は生じないとしても、負債が必ずしも資産に転ずるわけではない可能性をどう考えるか、そうなれば、主流派的な「みんなが受け取るから国債が資産になる」という考えが復活するのか、すなわち、我が国の財政法では国債の日銀引き受けは否定されているわけで、何らかの民間金融機関、プライマリーディーラーが国債を引き受けてくれる必要があるんですが、それが実現されないほどの大量の国債発行がなされる場合をどう考えるかに不安が残ります。第2に、私はリフレ派のように中央銀行が本書で政府の役割を果たすのも経済理論的には同じだと考えていて、例えば、「日銀はトマトケチャップを買ってでも通貨供給を増やすべき」と発言したとされるバーナンキ教授も同じではないかと思っていて、そうすればリフレ派とMMT派の違いはかなり小さく、MMT派が市場を無視する形で主権国家が財政を用いて強権的に購買力を行使するのと、中央銀行が市場の合理性を前提に通貨の購買力を行使して貨幣を供給するのと、は大きな違いではなく、実質的には差はなくなるような気がしないでもありません。最後の第3点目で、本書とは直接の関係ないながら、特に現在の日本で財政赤字がここまでサステイナブルなのは、動学的効率性が失われているからではないか、と私は考えています。動学的効率性の議論はかなり難しくて、長崎大学に出向した際に紀要論文で取りまとめた「財政の持続可能性に関する考察」においてすら回避したくらいで、このブログで論ずるにはあまりにもムリがありますが、MMT的な財政のサステイナビリティと動学的効率性が失われている時の財政のサステイナビリティが、どこまで違って、どこまで同じ概念なのか、理論的にはかなり気にかかります。ということで、ついつい長くなり、私には私なりの疑問はあるものの、実践的には、このテキストがどこまで中央銀行を含む政府の中で信任を得られるか、ということなのかもしれません。ケインズ政策が米国のニューディール政策に取り入れられるのに大きなタイムラグはありませんでしたが、政府を定年退職した我が身としてはとても気がかりです。なお、最後になりましたが、ひとびとの経済政策研究会のサイトに、とても参考になる解説メモが関西学院大学の朴教授によりアップされています。以下の通りです。ご参考まで。ただ、このメモを取りまとめた時点では、朴教授はMMT論者ではないと明記しています。お忘れなく。

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次に、ヤニス・ヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』(ele-king books) です。著者は、ギリシアの債務問題が発覚した後の急伸左派連合(シリザ)のツィプラス政権下で財務大臣を務めたギリシア出身のエコノミストであり、反緊縮など、かなりの程度に私と考えを同じくしています。立命館大学の松尾教授が巻末に解説を記しています。なお、バルファキスなのか、ヴァルファキスなのか、は、私はギリシア語を理解しませんが、このブログでも今年2019年月日に『黒い匣』の、また、同じく月日に『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の、それぞれの読書感想文を取り上げています。ということで、本書は基本的には、『黒い匣』と同じテーマ、すなわち、ギリシアの財政破綻とその後処理に焦点を当てています。『黒い匣』では、もちろん、対外的な交渉はあるものの、基本的に、当時のギリシア国内や政権内部にスポットを当てていたのに対し、本書では歴史的にかなり前にさかのぼるとともに地理的にも欧州延滞を視野に入れ、ユーロ圏の通貨同盟が成立する歴史をひも解いています。その上で、『黒い匣』と同じように、ギリシア国民の医療費や年金よりも、公務員給与よりも、欧州各国の銀行への債務返済に対してもっとも高い優先順位を付与するブラッセルのEU官僚やドイツ政府高官などを批判しています。特に、歴史的に通貨連合の設計段階までさかのぼっています、というか、第2次大戦末期のブレトン・ウッズ体制までさかのぼっていますので、何が問題であって、結局のところ、「強い者はやりたい放題、弱い者は耐えるのみ」という結果を招いたのかを解明しようと試みています。一言でいえば、ユーロによる通貨統合は民主的な制御を持たない金本位制の復活であったと私は考えています。トリフィンのトリレンマから、国際金融上では固定為替相場と自由な資本移動と独立した金融政策の3つは同時には成立できません。金本位制下では独立の金融政策を放棄して、また、戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場制では独立の金融政策もしくは自由な資本移動を犠牲にして、それぞれ国際金融市場を機能させてきたわけですが、欧州を除く日米では現在は固定為替相場を放棄しています。しかし、欧州のユーロ圏では独立した金融政策を放棄して固定為替相場、というか、通貨連合を運営しているわけで、そのリンクのもっとも弱い環であるギリシアが切れた、と著者も私も考えています。ギリシアに続くのはPIGSと総称されたアイルランドやスペイン・イタリアなどですが、なぜか、ギリシアに過重な負担を生ぜしめたのはEU官僚とドイツ政府高官が、いわば、後続の破綻可能性ある国への見せしめとする意図を持っていたというのは、私は否定しようもないと受け止めています。本書で著者は、欧州統合や通貨連合に反対しているのではなく、そういった経済政策が国民それぞれの民主主義に従って運営されることを主張しているわけです。その点は間違えないようにしないといけません。ケインズの「平和の経済的帰結」が何度か言及されていますが、ギリシアのツィプラス政権がトロイカの軍門に下った後、ギリシアのナチ政党である「黄金の夜明け」が議席を伸ばしたとまで書いています。正しく国民生活に資する経済政策が実行されない限り、民主主義が何らかの危険にさらされる可能性があることは、国民ひとりひとりが十分に自覚すべきです。

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次に、野村総合研究所・松下東子・林裕之・日戸浩之『日本の消費者は何を考えているのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルであり、3年おきに野村総研が実施している「生活者1万人アンケート」からわかる日本人の価値観、人間関係、就労スタイルなどを基に、世代別の消費行動などをひも解こうと試みています。今回の基礎となる調査は2018年に全国15歳以上80歳未満を対象に実施されており、2018年11月8日付けでニュースリリースが明らかにされています。本書では、世代的には、かの有名な独特のパターンを形成している団塊世代(1946~50年生まれ)から始まって、私なんぞが含まれるポスト団塊世代(1951~59年生まれ)、大学を卒業したころにバブルを経験するバブル世代(1960~70年生まれ)、団塊世代の子供達から成る団塊ジュニア世代(1971~75年生まれ)、さらにその後に生まれたポスト団塊ジュニア世代(1976~82年生まれ)、バブルを知らないさとり世代(1983~94年生まれ)、我が家の子供達が属するデジタルネイティブ世代(1995~2003年生まれ)に分割しています。第1章では、スマートフォンの普及などにより家族が「個」化していき、家族団欒が消失して消費が文字通りの「個人消費」となって行きつつある我が国の消費や文化を見据えて、第2章では世代別に価値観などを分析し、団塊世代や私のようなポスト団塊世代では日本に伝統的・支配的だった価値観が変容しつつあり、また、我が家の子供たちのデジタルネイティブ世代では競争よりも協調を重視し、全国展開しているブランドへの信頼感高い、などとの結論が示されており、さすがに、私の実感とも一致していたりします。また、最後の第3章では「二極化」と総称していますが、要するに、一見して相反する消費の現状を4つの局面から把握しようと試みています。すなわち、利便性消費 vs. プレミアム消費、デジタル情報志向 vs. 従来型マス情報志向、ネット通販 vs. リアル店舗、つながり志向 vs. ひとり志向、となっています。それぞれに興味深いところなんですが、3番目と4番めについては、時系列的に、ネット通販⇒リアル店舗、また、つながり志向⇒ひとり志向、という流れで私は理解しており、特に、ネット通販で大手筆頭を占めるアマゾンがリアルの店舗を、しかも、レジなどのない先進的なリアル店舗を始めたというニュースは多くの人が接しているんではないでしょうか。また、つながり志向にくたびれ果てて、結局ひとりに回帰するというのも判る気がします。ボリューム的にも200ページ余りで図表もあって、2~3時間で読み切れるもので、内容的にも「ある、ある」的なものであるのは確かなんですが、世間一般で言い古されたことばかりが目立ち、特に、何か新しい発見があるのかとなれば、とても疑問です。学問的には世間一般の実感をデータで裏付けるのは、それなりに意味あるんですが、本書については、消費の最前線でマーケティングなどに携わっているビジネスパーソンには、誠に残念ながら、目新しさはほとんどなさそうな気もします。

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次に、三浦しをん『のっけから失礼します』(集英社) です。著者は押しも押されもせぬ中堅の直木賞作家の三浦しをんであり、雑誌「BAILA」での連載に、それぞれの章末と最後の巻末の書き下ろし5本を加えた「構想5年!」(著者談)の超大作(?)エッセイ集に仕上がっています。ということで、相変わらず、著者ご本人も「アホエッセイ」と呼ぶおバカな内容で抱腹絶倒の1冊なんですが、自分自身の興味に引き付けて野球のトピックを、また、著者の追っかけの趣向に呼応して芸能ネタを取り上げたいと思います。まず、多数に上るエッセイの中で野球をテーマにしているのはそう多くありませんが、笑ったのは、著者の体脂肪率が首位打者並み、というので、軽く3割をクリアしているんだろうと想像できます。私自身は2割もないので、守備のいい内野手、ショートやセカンドあたりか、キャッチャーでもなければレギュラーが取れそうもありません。それにしても、阪神の鳥谷選手がどうなるのか、とても気になります。アラフォーの女性編集者が、楽天ファンでありながら、横浜に入団するプロ野球選手になる自分を完璧にシミュレーションしているというのは、驚きを越えていました。私は長らく阪神ファンですが、こういった自分のパーソナル・ヒストリーを改ざんすることはしたことがありません。もうひとつは、追っかけ関係で、BUCK-TICKのコンサートに強い情熱をもっていたのは、以前のエッセイなどから明らかだったんですが、私が読み逃していたのが原因ながら、宝塚への傾倒も並大抵のものではないと知りました。知り合いから『本屋さんで待ちあわせ』でも宝塚や明日海りおの話題があったハズ、と聞き及びました。すっかり忘れていました。それはともかく、明日海りお主演の「ポーの一族」観劇を取り上げたエッセイはもっとも印象的だったうちの1本といえます。ほかにも、EXILEファミリーへの熱い思いなどもありましたが、ソチラは私にも理解できる気がするんですが、三浦しをんだけでなく、一部の女性の宝塚への情熱は私には到底計り知れない域に達している気がします。まあ、逆に、それほどではないとしても、一部男性がひいきにするプロ野球チームへの思い入れが女性に理解できない場合があるのと同じかもしれません。同じ年ごろの女性ライター、というか、早稲田大学出身の三浦しをんに対して、立教大学出身の酒井順子のエッセイは、よく下調べが行き届いたリポートみたいなんですが、まったく違うテイストながら、私はどちらのエッセイも大好きです。

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次に、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋) です。今年2019年本屋大賞受賞作です。先週取り上げた『ベルリンは晴れているか』が3位で、2位以下が200点台の得点に終わった中で、この作品だけは400点を越えてダントツでした。それだけに、図書館の予約の順番もなかなか回って来ませんでした。主人公は女子高校生で、この作品の中で幼稚園前からの人生を振り返りつつ、短大を卒業して20代半ばで結婚するまでのパーソナル・ヒストリーが語られます。その人生は、穏やかなものながら起伏に富んでおり、水戸優子として生まれ、その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮優子を名乗っています。でも、「父親が3人、母親が2人いる。 家族の形態は、17年間で7回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」とうそぶき、家族関係をそれとなく心配する高校の担任教師に対して、ご本人はひょうひょうと軽やかに、愛ある継親とともに、そして、友人に囲まれながら人生を過ごします。まあ、現実にはありそうもないストーリですので、小説になるんだろうと私は考えています。ということで、本書の隠し味になっているピアノについて、この感想文で語りたいと思います。主人公の母親が死んだあと、実の父親が再婚しながら海外勤務のために離婚し継母との日本での生活を選択した主人公なんですが、この2人目の母親がキーポイントとなり、何と、主人公にピアノを習わせるためにお金持ちの不動産会社社長と再婚し、さらに離婚の後、東大での一流会社勤務のエリートが親として最適と判断して再婚して主人公の人生を託します。主人公も期待に応えてピアノを習い、そのピアノが縁となって結婚相手と結ばれ、その結婚式でこの作品を締めくくります。まあ、ここまで出来た継母に恵まれることは極めて稀なわけで、その継母がピアノに愛着を持って調律すら自分でするようなお金持ちと再婚し、最後に、継子を託すに足るエリートと再婚するなんて、あり得ないんですが、この最後の継父が主人公の結婚相手をなかなか認めてくれないというのも、とてもひねったラストだという気がします。もちろん、とてもひねりにひねったストーリー、というか、プロットをを構成し、それをサラリと記述する表現力は認めるものの、ここまで不自然なプロットが進行していく必然性が大きく欠けている気がします。時系列的にそうなった、という流れのバックグラウンドにあるきっかけでもいいですし、何かの必然性、特に、継母の考えや心理状態なんかはもっと深く掘り下げられていいんではないかと思います。私の独特の考えなのかもしれないものの、我々通常の一般ピープルの普通の生活に比べたノーマルよりも、良からぬ方向やアブノーマルなものについては、殺人事件が起こるミステリが典型ですが、それほど詳細な叙述を必要としない一方で、ノーマルよりもさらにきれいで美しく、とても良い方向が示される場合は、なぜ7日を詳細に裏付ける必要があります。残念ながら、作者にはそのプロット構成力ないのか、それとも、私に読解力ないのか、その流れを読み取れませんでした。ですから、私は感情移入することが難しく、「アっ、そう。そうなんだね。」としか感じられず、別のストーリーもあり得るという意味で、実に、小説の舞台を離れた客席から観客としてしか小説を読めませんでした。ハラハラ、ドキドキ感がまったくないわけです。でも、そういった読み方がいいという向きも少なくないんだろうという気もします。小説の好きずきかもしれません。

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次に、日本文藝家協会[編]『ベスト・エッセイ 2019』(光村図書出版) です。収録作品は、50音順に、彬子女王「俵のネズミ」、朝井まかて「何を喜び,何を悲しんでいるのか」、浅田次郎「わが勲の無きがごと」、東浩紀「ソクラテスとポピュリズム」、足立倫行「大海原のオアシス」、荒井裕樹「『わかりやすさ』への苛立ち」、五木寛之「『先生』から『センセー』まで」、伊藤亜紗「トカゲとキツツキ」、井上章一「国境をこえなかった招福の狸」、宇多喜代子「金子兜太さんを悼む」、内田樹「歳月について」、内田洋子「本に連れられて」、王谷晶「ここがどん底」、岡本啓「モーニング」、長田暁二「ホームソング優しく新しく」、小山内恵美子「湯たんぽ,ふたつ」、落合恵子「伸びたTシャツ」、小野正嗣「書店という文芸共和国」、角田光代「律儀な桜」、華雪「民―字と眼差し」、桂歌蔵「師匠,最期の一言『ハゲだっつうの,あいつ』」、角野栄子「アンデルセンさん」、金澤誠「高畑勲監督を悼む」、岸政彦「猫は人生」、岸本佐知子「お婆さんのパン」、北大路公子「裏の街」、くぼたのぞみ「電車のなかの七面相」、黒井千次「七時までに」、「共働きだった両親の料理」鴻上尚史、小暮夕紀子「K子さんには言えない夏の庭」、齋藤孝「孤独を楽しみ孤立を避ける50歳からの社交術」、酒井順子「郵便」、さだまさし「飛梅・詩島・伊能忠敬」、佐藤究「ニューヨークのボートの下」、佐藤賢一「上野の守り神」、沢木耕太郎「ゴールはどこ?」、ジェーン・スー「呪文の使いどき」、砂連尾理「ノムラの鍵ハモ」、朱川湊人「サバイバル正月」、周防柳「山椒魚の味」、杉江松恋「『好き』が世界との勝負だった頃」、瀬戸内寂聴「創造と老年」、高木正勝「音楽が生まれる」、高橋源一郎「寝る前に読む本,目覚めるために読む本」、高山羽根子「ウインター・ハズ・カム」、滝沢秀一「憧れのSという街」、千早茜「夏の夜の講談」、ドリアン助川「私たちの心包んだ人の世の華」、鳥居「過去は変えられる」、鳥飼玖美子「職業と肩書き」、永田紅「『ごちゃごちゃ』にこそ」、橋本幸士「無限の可能性」、林真理子「西郷どんの親戚」、原摩利彦「フィールドレコーディング」、広瀬浩二郎「手は口ほどに物を言う」、深緑野分「猫の鳴き声」、藤井光「翻訳の楽しみ 満ちる教室」、藤沢周「五月雨」、藤代泉「継ぐということ」、星野概念「静かな分岐点」、細見和之「ジョン・レノンとプルードン」、穂村弘「禁断のラーメン」、マーサ・ナカムラ「校舎内の異界について」、万城目学「さよなら立て看」、町田康「捨てられた魂に花を」、三浦しをん「『夢中』ということ」、村田沙耶香「日本語の外の世界」、群ようこ「方向音痴ばば」、森下典子「無駄なく,シンプルに。『日日是好日』の心」、山極寿一「AI社会 新たな世界観を」、行定勲「人間の奥深さ 演じた凄み」、吉田篤弘「身の程」、吉田憲司「仮面の来訪者」、若竹千佐子「玄冬小説の書き手を目指す」、若松英輔「本当の幸せ」、綿矢りさ「まっさーじ放浪記」となっています。収録順はこれと異なりますので、念のため。ということで、もちろん、作家やエッセイスト、あるいは、研究者などの書くことを主たるビジネス、あるいは、ビジネスのひとつにしている人が多いんですが、皇族方から、俳優さんなどの芸能人を含めて幅広い執筆陣となっています。昨年を中心に、いろんな世相や世の中の動きを把握することが出来そうです。掲載媒体を見ていて感じたんですが、京都出身だからかもしれないものの、全国紙の朝日新聞や日経新聞と張り合って、京都新聞掲載のエッセイの収録がとても多い気がします。毎日新聞や読売新聞よりも京都新聞の方がよっぽど収録数が多い気がします。何か、理由があるのでしょうか?

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最後に、日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』(徳間文庫) です。文庫本で大きな活字ながら、700ページに達するボリュームです。私にして読了するには丸1日近くかかります。ということで、収録作品は作者の50音順に配されており、青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」、朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」、朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」、朝倉宏景「代打、あたし。」、小川哲「魔術師」、呉勝浩「素敵な圧迫」、小池真理子「喪中の客」、小島環「ヨイコのリズム」、佐藤究「スマイルヘッズ」、嶋津輝「一等賞」、清水杜氏彦「エリアD」、高橋文樹「pとqには気をつけて」、長岡弘樹「傷跡の行方」、帚木蓬生「胎を堕ろす」、平山夢明「円周率と狂帽子」、藤田宜永「銀輪の秋」、皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」、米澤穂信「守株」となっています。作者に関しては、大ベテランといえば聞こえはいいものの、要するにお年寄りから若手まで、バラエティに富んでいれば、作品もミステリや大衆的な落ちのある作品から、純文学、ファンタジー、ホラーにSF、さらにドキュメンタリータッチと幅広く収録しています。平成最後の昨年の傑作そろいを収録したアンソロジーに仕上がっています。

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2019年11月 3日 (日)

先週の読書は経済書から文庫本の小説まで大量に読んで計8冊!!!

先週は、昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書日が1日多かったことに加えて、割とボリューム的に軽めの本が多く、結局、8冊の読書になりました。先々週や先週からの反動増という側面もあります。逆に、今週の読書は3連休でありながら、かなり水準の高い経済学の教科書『MMT現代貨幣理論』を借りたこともあって、冊数的には少しペースダウンするかもしれません。

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まず、嶋中雄二ほか[編著]『2050年の経済覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は、三和総研からUFJ総研、さらに、現在は三菱UFJモルガンスタンレー証券の景気循環研究所の所長であり、私の所属学会のひとつである景気循環学会の副会長でもあります。本書においても、景気循環研究所のメンバーが分担執筆しているようです。ということで、副題の「コンドラチェフ・サイクルで読み解く大国の興亡」に見られるように、バンドパス・フィルターを駆使してunivariate に設備投資のGDP比などから長期波動であるコンドラチェフ・サイクルを抽出し、2050年くらいまでの経済的な循環をひも解いています。最初の第1章と第2章でコンドラチェフ・サイクルの解説などがあり、その後、実際に、第3章では軍事と科学技術から、第4章では人口動態から、第5章では国際収支から、第6章では相対価格から、第7書の大トリでは各種指標のGDPから、それぞれ、おおむね、産業革命以後2050年くらいまでの長期波動の抽出が試みられています。もちろん、過去の同様の研究成果であるロストウの結論を再検討しているように、本書の結論も新たなデータが付加されるに従って、それなりの修正が施される可能性は大いにありますが、超長期の経済サイクル、というか、経済だけでなく、その昔の総合国力的なサイクルの抽出が示されているのは、極めて興味深いと私は受け止めています。私が知る限りで、2050年までを見通した経済予測は、本書でも取り上げられている通り、アジア開発銀行(ADB)の Asia 2050: Realizing the Asian Century と経済協力開発機構(OECD)の Looking to 2060: Long-term global growth prospects があり、特に後者はこのブログの2012年11月13日付けで取り上げていたりします。もちろん、ほかにも投資銀行などの金融機関やシンクタンク、あるいは、個人の研究者などが長期見通しを明らかにしています。そういった中で、本書の特徴は、生産関数などに特段の前提を置かずに、バンドパス・フィルターを用いて univariate にそれぞれの指標を引き延ばしている点であり、逆に、それが弱点と見なす向きもあるかもしれませんが、超長期見通しに取り組むんですから、これくらいのモデルの特定化は私は受け入れるべきだと考えています。ですから、抽出されたサイクルに、表現は悪いかもしれませんが、後付けで理由が添えられていたりします。2050年の世界経済、あるいは、経済覇権なんて、蓋然性に対する評価は私のは出来ようはずもなく、今年3月に60歳の定年退職を迎え、すでに61歳の誕生日も過ぎている身としては、2050年には90歳を超えるわけですから、我と我が身で2050年の世界経済を見届けることはムリそうな気もします。それでも、こういった大胆な超長期見通しの有用性や有益性は、決して、小さいわけではないと考えています。

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次に、大海渡桂子『日本の東南アジア援助政策』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、世銀やその昔の海外経済協力基金(OECF、今は経済協力機構=JICAに統合)などで開発金融の実務の経験ある方のようで、すでにリタイアしているのではないかと思います。私はジャカルタにてJICA長期専門家として経済モデル分析の技術協力に携わって来ましたし、それなりの実務経験もありますので、専門分野にも近く興味を持って読みました。ただ、出版社から想像されるような専門書や、ましてや学術書ではありません。残念ながら、その域には達していないといわざるを得ません。ただ、日本の経済協力の歴史を概観するものとして、大学生くらいを対象にする読み物としてはいいんではないか、という気もします。ということで、日本の海外経済協力=ODAの4つの特徴、すなわち、アジア、インフラ、タイド、円借款が、歴史的にいかにして形成されて来たかについてひも解いています。米軍占領下で外交主権を持たず、また、その後のサンフランスシコ平和条約締結後も東西対立の冷戦という世界情勢の下、対米従属下で援助をはじめとする外交政策の策定や遂行を行ってきた我が国としては、ほかに選択の余地もなかった、ということなのかもしれません。特に、「国際収支の天井」と称されたブレトン・ウッズ体制下の外貨制約の下で、希少なドルを外国に支払うことを回避して資本財や役務での賠償支払いに持って行った外交努力は特筆すべきものがあります。その流れでタイドの円借款になったのは経路依存的なODAでは、ある意味で、必然だったかもしれません。地域的な特色として、米国やカナダの北米が中南米に、欧州がアフリカに、そして、我が国がアジアに援助の対象を広げるというのも、とても自然であることはいうまでもありません。大陸にける中華人民共和国という共産主義国家の建国と朝鮮戦争における参戦を経て、中国という資源供給元かつ製品輸出先を失い、東南アジアにその代替的な役割を求めたのも自然な流れといえます。ただ、日本の援助政策はあまりにも経済に偏っており、米国的な人権外交のような民主主義的改革の徹底という面を欠き、東南アジア各国が開発独裁に陥った責任は本書では分析することを回避しており、少しその面で物足りない気がします。また、著者の上げる日本の援助政策の4つの特徴は、我が国経済政策の基となる家族観である長期雇用下での年功賃金を受け取る男親方働き+専業主婦+子供2人、という、いわゆる「モデル家計」のように、今では、決して、アジア、インフラ、タイド、円借款の4点セットを反映する代表的な援助は多くはない一方で、日本の援助政策を考える上では基本となると私は考えており、少数派になったからといって軽視すべきではないと考えます。

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次に、室脇慶彦『IT負債』(日経BP社) です。著者は、野村総研のコンサルタントであり、本書でも明らかにしているように、従来は基幹系システムについてモノリスなウォーターフォール型のシステム開発を推奨していたようなんですが、本書では、2025年のレガシー・システム問題に米国流のマイクロサービスによる基幹系システム再構築で対応すべき、との議論を展開しています。これですべてを理解した人は、おそらく、本書を読む必要すらないような気がしますが、一応、本書の概要と私の感想を記しておきたいと思います。ということで、IT分野では何によらず我が国産業界の遅れが目立つんですが、本書は、DX=デジタルトランスフォーメーション、すなわち、企業がIT技術を駆使して、企業活動のスコープや業績を画期的に改善ないし変化させる、というDXについての概要解説書であり、特に日本企業の遅れを鋭く指摘しています。私には技術的な解説や方向性については、おそらく半分も理解できなかった気がしますが、その昔のように、給与計算とか一定のデータベース管理にとどまるのではなく、企業経営に通信とデータ解析を大いに盛り込むことは必要であることはいうまでもありません。直感的な感覚で勝負していたスポーツ分野、例えば、野球でもサイバー・メトリクスが活用されたマネー・ボールになりつつありますし、米国で盛んなバスケットボールやアメリカン・フットボールなどはデータも豊富に提供されています。ただ、我が国企業経営の場合、とかくハードウェアに目が行きがちで、その昔は立派なメインフレーム・コンピュータを購入して据え付ければOK,というカンジで、いまでも、従業員の席上にPCを1人1台並べればOK、という気もします。従業員は、例えば、ネット・ショッピングに興じていたりしても外観上は判りはしません。ですから、むしろ、データやソフトウェアの活用が重要となるんですが、外観上の明確な変化がない上に、日本的に年齢のいった経営者に理解されにくいのも事実です。本書では、ウォーターフォール型でモノリス的な一枚岩の技術利用から、クラウド型のマイクロサービスへの切り替えを提唱していますが、国家の発展段階と同じで、企業の発展段階においてもリープ・フロッグ型の成長が成り立つような気がします。すなわち、本書のタイトルである「IT負債」はそれなりの歴史ある企業に蓄積されていて、スタートアップ企業には夫妻がない分、いきなりマイクロサービスを導入することが出来そうな気もします。ですから、システム利用技術の面だけでなく、企業文化の若返りの面からも技術利用が進む必要あるんではないか、と詳しくない私なんぞは思ってしまいます。ハッキリいって、本書を読んで目覚めた技術者は、本書を読まなくても理解が進んでいるんでしょうから、アタマの堅い上司の説得に本書は利用されるんではないか、という気もします。

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次に、パブロ・セルヴィーニュ & ラファエル・スティーヴンス『崩壊学』(草思社) です。著者2人はフランス人ということで、崩壊学や移行過程に関する専門家、また、環境分野に詳しい印象ですが、私にはよく判りません。フランス語の原題は Comment tout peut s'effondrer であり、2015年の出版です。ということで、基本はエネルギー問題におけるローマ・クラブ的なメドウズらによる『成長の限界』のラインに乗りつつ、それをさらに進めて、現在の経済はもはやサステイナブルな軌道を外れており、後は崩壊が待ち受けるのみ、という極めて悲観的な結論を提示しています。本書は3部構成となっており、第1部では崩壊のきざしを論じており、ロック・イン現象が働いて軌道修正が困難となった現状を詳細に展開しています。異常気象はいうまでもなく、ピークオイルからエネルギーの枯渇というローマ・クラブの伝統に根ざす議論、まだまだ現役のマルサス的な人口問題、生物多様性の喪失、さらに、経済分野では金融危機の多発まで、これでもかというくらいの崩壊への兆しが列挙され、私のような楽観バイアスの塊の人間ですら不安を覚えます。ただ、第2部に入って、その崩壊がいつぬかるのか、というトピックに移ると、未来学の難しさなるテーマが冒頭に来て、議論が極めてあいまいになり、一気に崩壊に向かう歴史的確実性に対する信頼性が落ちてしまいます。第3部では本書の基礎をなしている「崩壊学」が取り上げられています。私が読んだ限りですし、私が読み切れなかった部分もあるかもしれないんですが、本書の結論は、繰り返しになりますが、もはやサステイナブルな軌道に戻るすべはなく、ハッキリとは書かれていないものの、「何をしてもムダ」であり、人類文明の崩壊を避けることはできない、ということのような気がします。ただ、それはいつのことなのかは判らない、ということです。ですから、この核戦争バージョンが『渚にて』なわけで、いろいろな人生模様が盛り込まれていましたが、まあ、人生最後の日が近づく中で、もう助からないとすれば自分の好きなことをしたり、最悪、自暴自棄になる人もいれば、逆に、今までと同じ人生の日々を送ろうとする人もいるわけで、やっかいなのは、これも繰り返しになりますが、その人生最後の日がいつになるかが判らない点です。地球最後の日が数年以内であればともかく、数百年後で人類の寿命というタイムスパンで考えれば、まだまだ先、ということであれば、大きな差があります。私はそれなりにまじめに読んだつもりですが、地球は崩壊する、必ず崩壊するが、それがいつになるかは判らない、といわれれば、それは地球は崩壊しない、といわれているのと同じと受け止める人は少なくないような気がします。

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次に、ヤシャ・モンク『民主主義を救え!』(岩波書店) です。著者は、ポーランド人の両親を持ちドイツで生まれ育ち,英国で学位を取得し、現在は米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者です。現在の先進国の政治経済状況について、リベラルと非リベラル、そして、民主主義と非民主主義のそれぞれの二分法の観点から分析し、米国と欧州各国におけるポピュリズムの台頭などのポスト・トゥルースの現状について議論を展開しています。著者は、基本的に、私と同じでリベラルかつ民主主義的な方向を支持しているわけですが、欧州各国やトランプ大統領当選後の米国ではそうなっていないわけで、政治状況とともに経済についても分析を加えようと試みています。ただし、後者の経済分析についてはかなりお粗末といわざるを得ません。3部構成を取っており、第1部ではリベラル・デモクラシーの危機を論じ、第2部でその危機の起源を探り、最後の第3部で対処方針を考察します。第1部の危機に関する現状認識は私もかなりの程度に共有します。ただ、第2部のその起源に関しては、確かに、インターネット上にて無料で提供されるソーシャルメディアなども重要で、いわゆるエコーチェンバーやフィルターバブルを否定するものではありませんが、もっと大きなコンテクストで世界的な冷戦終了に伴い、資本のサイドで何はばかることなく露骨な利益追求がまかり通るようになった点は忘れるべきではありません。ソ連や東欧については、マルクス主義本来の社会主義ではなく、私も少し馬鹿げた社会実験だと思わないでもなかったんですが、今にして考えれば、それなりに資本のサイドへのプレッシャーになっていた可能性は否定すべくもありません。従って、なりふり構わない資本から労働サイドへの露骨な利潤追求のために賃金は上がらず、失業はヤル気や能力の欠如による「自己責任」とされ、生活水準は上がらず経済が停滞する結果をもたらしました。その経済の停滞を移民などの対外要因に責任転嫁し、ナショナリスティックな排外主義に転じたプロパガンダに絡め取られたわけです。本書ではまったむ取り上げられていませんが、自由貿易協定に反対して雇用を守ろうとする労働組合が米国大統領選でトランプ支持に回ったのが典型だと私は考えています。従って、解決策を探る第3部で冒頭に課税が上げられているのは、私も極めて同感なんですが、現実性を問われることになりかねません。そして、著者の説では、生産性を高めて、カギカッコ付きの「現代的」な福祉国家の方向を模索するのは、ほぼほぼ資本のサイドの攻勢に流され切った対処方針といわざるを得ません。せめて、右派と左派で合意可能なユニバーサルなベーシックインカムくらいの知恵がひねり出せないものかと、少し情けなく思えるくらいです。緊縮財政に戻ることなく国民サイドの見方に立った財政政策の実現など、現状でも取りえる政策の選択肢にはまだまだ広がりあるにもかかわらず、やや視野狭窄に陥っているのではないか、とすら思えてしまいます。

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次に、深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房) です。私はこの作者については前作の『戦場のコックたち』しか読んでいませんが、両作品とも直木賞候補に上げられており、それなりの水準の小説だということは十分理解しているつもりです。『戦場のコックたち』はドイツ占領下のフランスに侵攻した連合国部隊の特技兵、すなわち、タイトル通りのコックを主人公とし、本書でも第2次大戦直後のベルリンの米軍レストランで働くドイツ人少女を主人公に据えています。この少女の一家はナチではなかったため戦争中は恵まれない生活を送っていたんですが、戦後に価値観が一気に反転した上に英語ができる少女は勤め先があり、米軍からの物資も入手可能となっています。そして、恵まれなかった戦争中に恩になった音楽家が米国製の歯磨きチューブに入った青酸カリで毒殺されるという不可解な殺人事件が発生し、ソ連情報部の将校から命じられ、被害者の甥を探して思わぬ仲間とともにベルリン均衡を旅します。時はまさにポツダムで連合国のビッグスリーが会談を持ち、日本に対する降伏勧告のポツダム宣言を議論しようとしており、地理的にはまさにそのあたりです。米英仏ソの4か国が共同統治しながらも、すでに冷戦が始まっているベルリンにおいて、ゲットーから帰還したユダヤ人も入り混じって、もちろん、圧倒的な連合国の権力と物資不足と闘いながら、少女は最後に殺人事件の被害者である音楽家の甥にたどり着きます。もっとも、距離的にもベルリン均衡出隅、かつ、時間的にもわずかに2~3日のストーリーですが、本編とは別建ての「幕間」によって、主人公の幼いころにさかのぼった事実関係が解き明かされ、最後に、驚愕の殺人事件の真相が明らかにされます。繰り返しになりますが、私はこの作者の作品は『戦場のコックたち』と本書しか読んでいませんが、人物造形、というか、キャラの設定が非常に素晴らしく、また、終戦直後という異常な社会的背景、例えば、善と悪、真実と虚偽、の単純な二分法では計り知れないグレーな部分の描き方も、こういった実体験ない世代の私なんぞにも実に理解しやすくなっています。フィクションの小説であることはもちろんですが、戦時下で、とても非合理的な体験が、日本だけでなく、ドイツという敗戦国にもあったのだと実感できます。ミステリとしての謎解きは、前作の『戦場のコックたち』に及ばない気がしますが、作品としての広がりは本作の方が上かもしれません。まあ、連作短編と長編の違いも感じられます。本書は今年の本屋大賞で3位に入りましたが、1位の大賞に輝いた『そして、バトンは渡された』はすでに借りてありますので、これはこれで楽しみです。

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次に、門井慶喜『定価のない本』(東京創元社) です。著者は50歳を前に脂の乗り切ったエンタメ作家の境地に入った、と私は考えています。もっとも、私自身は不勉強にして。この作者の作品は、直木賞受賞作の『銀河鉄道の父』すら未読で、『家康、江戸を建てる』しか読んでいませんので、この作品が2作目だったりします。ということで、舞台は東京の古書街である神田神保町、時代は終戦からちょうど1年目の1946年8月15日の殺人事件から始まります。というか、主人公の弟分のような古書店主が古書の山に押し潰されて圧死し、さらに、その妻が首吊り自殺をしたように見せかけて殺されてしまいます。基本は、これらの殺人事件をGHQの指令下で主人公が解決に当たる、ということになります。死んだ2人の夫婦の謎解きについては、まあ、何といいましょうかで、本格ミステリとはほど遠いんですが、逆に、GHQとの関係、特に、「ダスト・クリーナー作戦」という「大きな物語」には、思わず、天を仰ぎました。できの悪いネトウヨの世迷い言のようなお粗末な大作戦です。確かに、ホームズのシリーズでも「ブルースパーティントン設計書」のような天下国家の大きな物語もありますし、ミステリに、というか、できの悪いミステリに天下国家を持ち込むこと自体については、決して悪いとはいいませんが、それにしても出来が悪いです。結末についても、極めてお粗末にGHQが完敗するというナショナリスティックな傾向を示しています。タイトルの「定価のない本」とは、定価が帯や表紙などに示された新刊本ならざる古本のことなんですが、その中でも、古典の典籍に歴史を見るというのもやや視野狭窄な気がします。古本ですから、徳富蘇峰や太宰治をチョイ役で登場させるのも悪くはないんですが、古書店主のキャラ設定が少しあいまいで、見分けがつきにくいというのがありますし、まあ、何につけ出来の悪い小説を選んでしまったと悔やんでいます。この作者の作品は数も多いだけに、もっとしっかりした下調べ、というか、世間の評価をちゃんと確認した上でチョイスしないといけない、すなわち、やや出来の良し悪しがハッキリするおそれがあると考えざるを得ません。本書の前に取り上げた『ベルリンは晴れているか』は、若いころに住んでいた経験があるのでそれなりに馴染みあるながら、今の住まいからはかなり遠い図書館まで自転車を飛ばして借りに行ったんですが、その甲斐はありました。でも、本書は駅前にあるすぐ近くの図書館で借りたものの、やや読み応えに欠けるものでした。とっても残念です。

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最後に、ロバート・ポビ『マンハッタンの狙撃手』(ハヤカワ文庫NV) です。著者は、それなりの年齢に見えますが、本書は初の邦訳小説であり、テイストとしてはジェフリー・ディーヴァーのようなミステリ、すなわち、本格的な謎解きというよりも、サスペンスフルでアクションたっぷりのいかにも米国的な暴力満点の事件を特殊技能持つ主人公が解決する、という小説です。英語の原題は City of Windows であり、今年2019年の出版です。ということで、米国ニューヨークはマンハッタンで、まあ、日本人しか判らないかもしれませんが、ゴルゴ13並みの凄腕の狙撃犯が大口径ライフルで連続殺人事件を起こし、主人公である元FBI捜査官のコロンビア大学教授ルーカスが事件解決に当たる、というストーリーで、この主人公のルーカスが信じられないような空間把握能力を持っており、例えば、走るトラムに乗車中の人物が狙撃された最初の事件で、狙撃地点を正確に特定したりします。ちょっと、東野圭吾の『ラプラスの魔女』を思わせる特殊能力だったりします。繰り返しになりますが、舞台はニューヨークのマンハッタンであり、クリスマス直前の12月中下旬に時間が発生します。私は同じ時期のワシントンDCを訪れた経験がありますが、12月の米国東海岸の寒さは東京の比ではありません。もちろん、雪が積もることもありますし、そうなると路面は凍結します。私は米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチアシスタントをしていたころ、ワシントン市内からジョージタウン北方のダンバートン・オークス公園や米国副大統領公邸のある米国海軍観測所の近くから通っていたんですが、北に向かって緩やかな上り坂になっているウィスコンシン・アベニューを、凍結した路面をまったく制御できなくなった大型のアメ車がスピンしながら滑り落ちていくのを何度か目撃しました。その極寒の気象条件でサイ撃ちのような大型ライフルを使い、1キロを超える距離でフットボールくらいの大きさの人間の頭部に正確にヒットさせるんですから、これはフィクションでしかあり得ません。しかも、そこにFBIの捜査活動で隻眼隻腕隻足となったコロンビア大学の宇宙物理学教授が、これまた、信じられないような空間把握能力をもって狙撃地点を特定し、事件解決に乗り出すんですから、荒唐無稽であり得ないフィクションそのものとはいえ、エンタメ小説らしく手に汗握るハラハラドキドキで楽しめる運びになっています。映画化されたりするのかもしれませんが、私は実はジェフリー・ディーヴァー原作の映画は見たことがなく、まあ、映画化されたリンカーン・ライムのシリーズは「ボーン・コレクター」くらいしか知らないので、おそらく、この作品を原作とする映画も見ないような気がします。

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2019年10月26日 (土)

今週の読書は共感できる移民に関する開発経済学の経済書から話題の芥川賞受賞作品まで計6冊!!!

今週の読書は専門分野に近い開発経済学の経済書をはじめとして、以下の通りの計6冊です。ちょうど1週間前の先週土曜日の段階では、4冊かせいぜい5冊くらいと予定していたんですが、今村夏子の芥川賞受賞直前作の『父と私の桜尾通り商店街』をムリに入れたりして、6冊に増えてしまいました。なお、来週の読書については、すでに図書館回りを終えており、借りてきたのはかなり多数に上るんですが、今月から来月にかけては、勉強会などでお近くの大学などに行く機会が多くて、読書家ではなくエコノミストとして週末を過ごすパターンが増えそうで、今までのように、借りられた本から手当たり次第に乱読するのではなく、少し計画的な読書を心がけようかと考えています。

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まず、ポール・コリアー『エクソダス』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学の開発経済学の研究者であり、本書は著者が展開するもっとも貧しい社会、すなわち、「最底辺の10億人」に関する研究の一環であり、英語の原題は EXODUS です。2013年の出版です。本書では移民をテーマに取り上げており、結論を先取りすると、リベラルなエコノミストの主流をなす見解を批判するものとなっており、「移住がよいか悪か」という問いは間違っており、緩やかな移民=移住は利益をもたらし、逆に、大量移民=移住は損失をもたらす可能性が高く、重要なのは「どのくらいが最適か」を問うことである、ということになります。過大な移民=移住が不利益となる大きな理由は、国民的アイデンティティの喪失、あるいは、社会が脱国家的になる、というものです。ただ、このこりあー教授の見方には強力な反論もあります。私が知る限りでは、世銀ブログ Worldbank Blog "Reckless Recommendations" がもっとも目につきます。この世銀ブログの批判では、コリアー教授の移民=移住の出し手国が国民すべてを先進国である移住=移民の受入れ国に移住させて、国が空になる可能性を指摘しているのは非現実的であり、コリアー教授が大きな価値を置いている国民的アイデンティティはナショナリスト的な暴力や戦争をもたらす可能性もある、と指摘しています。従来からこのブログでも指摘している通り、私は圧倒的にコリアー教授の見方を支持します。すなわち、移民=移住は無制限に認めるべきものではなく、経済学によくある見方ですが、逆U字型の効用関数をしており、何らかの最適点があると考えています。特に、我が国の場合は海を挟んで隣国に人口大国が控えており、我が国の人口であり1億人強に匹敵する人数を送り込むことすら可能な人口規模を持っているからです。ですから、1億人を我が国に向けて送り出したところで、コリアー教授が懸念する送り手国の国民的アイデンティティはほとんど何の影響も受けない一方で、我が国の人口が2億人になって日本人は半分しかいない、というのでは、控えめにいっても、我が国の国民的アイデンティティが大きく変容する可能性が大きいといわざるを得ません。繰り返しになりますが、コリアー教授の国民的アイデンティティの議論は、大雑把な感触として、例えば、カリブの小国から北米への移住=移民により、送り出し国が空になる可能性であるのに対して、私の懸念はまったく逆であり、日本が人口大国の隣国から余りに大量の移住=移民を受け入れると、受け入れ国である日本の国民的アイデンティティが、場合によっては、よろしくない方向に変化する可能性がある、というものです。もちろん、世銀ブログの反論を紹介したように、そもそも、国民的アイデンティティに価値を置く議論を疑問視する向きもあるかもしれませんが、そこは価値判断だろうという気がします。

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次に、田辺俊介[編著]『日本人は右傾化したのか』(勁草書房) です。編著者は、早稲田大学の社会学の研究者であり、チャプターごとに社会学関係の著者が執筆を分担して担当しています。なお、ビジネスパーソンにも判りやすく表現されてはいますが、基本的には学術書と考えて、それなりの覚悟を持って本書の読書に取り組むべきです。ということで、印象論としては、自公連立の安倍政権がこれだけ継続していて、その背景にはもちろん選挙で連戦連勝という事実があるわけですから、政治的に、というか、投票行動として日本人が右傾化しているのは、動かしようのない事実だと私自身は考えていますが、他方で、このブログでも何度か主張しているように、現在の政権の経済政策は極めてリベラルで左派的な景気拡張的政策を実行しているのも事実です。ですから、財政的にこの10月1日から消費税率の引き上げを実施し、かなり緊縮的な運営になったわけですが、それでも、米中貿易摩擦に起因する世界経済の減速がなければ、かなり日本経済は順調であった可能性が高いと私は判断しています。ですから、改憲を目指す側面を支持する投票行動なのか、あるいは、景気拡大的な経済政策を支持する投票行動なのか、私には判断が難しいと感じていたところです。ただ、メディアなどで報道される限り、露骨なヘイトスピーチに至らないまでも嫌韓や嫌中の雰囲気は盛り上がっていますし、その昔にはなかったような「日本スゴイ」系のテレビ番組をよく見かけるのも事実です。そういった問題意識もあって、本書では、ナショナリズムとその下位概念である純化主義、愛国主義、排外主義などの観点から、2009年、2013年、2017年に実施された社会調査のデータを用いて定量的な分析を試みています。私が特に興味を持ったのは、いわゆる世代論であり、本書では第10章の若者論に当たります。半年余り前までキャリアの国家公務員として霞が関や永田町近辺に勤務し、総理大臣官邸や国会議事堂の周辺における意見表明活動を目の前で見ている限り、あくまで私の実感からではありますが、団塊の世代とかの引退高齢世代が左派的で、より若い世代が右派的、という印象を持っていました。本書の結論ではそれは否定されている、というか、半分否定されており、ナショナリズムに関しては今でも年長者ほど右派的・保守的であり、平成生まれなどの若者世代は決して右派的とか保守的というのではなく、権威に従属的な権威主義である、と本書では分析されており、「右傾化なき保守化」とか、「イデオロギーなき保守化」などと表言しています。加えて、私自身は手厚すぎる高齢者への社会保障給付にも一因あると考えている世代間の格差について、ナショナリズムや権威によって隠蔽されている可能性を示唆しており、さすがに、学術書のレベルの高さを見た気がします。

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次に、石川九楊『石川九楊自伝図録』(左右社) です。著者は書家であり、私の母校京都大学の卒業生でもあります。私自身も、20世紀まではピアノや書道のたしなみあったんですが、前世紀末に男の子2人が相次いで誕生した後、痕跡に入ってからまったく手が伸びなくなりました。特に、著者はかなり前衛的な書家であり、私の書道の先生とはかなり違った考えであったような気がします。もっとも、私の書道の先生はすでに亡くなっているので確認しようはありませんが、基本的に読売展への出展でしたから伝統派であり、前衛派の毎日展とは距離があったような気がします。本書で著者は、文として書道に取り組んでいて、細かな点や撥ねなどに重きを置かない理由を展開していますが、私の書道の先生は逆で文字に重きを置いていて、私が今でも記憶いているところでは、「大」と「太」と「犬」は点があるかないか、あるいは、どこにあるか、に従って異なる文字であり、その文字として識別されないと意味がない、とのご意見でした。このご意見は数回聞いた記憶があり、別件ながら、ドイツに日本文化紹介で訪問した際の現地市長からの感謝状はドイツ語がほとんど理解できないながらも10回近く拝見した記憶があります。そういった私の書道の先生の目から見れば、「デザイン的」と自称されている本書の著者の作品はカギカッコ付きながら「水墨画」に近い印象ではなかったか、という気がしないでもありません。例えば、上の表紙画像には著者の氏名が見えますが、かろうじて漢字として読めはするものの、本書に収録された120点余りの作品は、誠に残念ながら、私には読みこなせません。ただ、私が感銘したのは、著者の文を書くという姿勢とともに、何を書くかによって自らの初の作品を分類しているのは目を開かせるものがありました。本書の目次を拝見して、古典への回帰、とか、時代を書く、とかあるのは、読む前はもっぱら書法のことだと勘違いし、現代的な前衛的書法と古典的な書法だと思っていましたが、よくよく考えれば、私のつたない記憶でも、著者が古典的な草書や楷書や隷書や行書などで書いた書の作品は見たことがなく、題材が古典だったり、時代を反映したものだったり、ということだと理解し直しました。書道とは筆蝕の芸術という著者の見方は理解できないわけではないものの、単なる言葉遊びに堕していないのは著者の書家としての実力のなせるところであり、文字や文字の集合体としての文として認識されない場合、その筆蝕とは何なんだろうか、という気もします。王義之を持ち出すまでもなく、1000年を経てまだ評価され続けるのが書という芸術ではないかと私は考えています。1000年先まで生を永らえさせることが出来ないのはとても残念です。

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次に、今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版) とその前作の『父と私の桜尾通り商店街』(角川書店) です。作者は新々の純文学作家であり、『むらさきスカートの女』は第161回芥川賞受賞作です。私は『文藝春秋』9月号にて選評などとともに読みました。鮮烈なデビューを飾ってから、長らく芥川賞受賞が望まれていた、というか、私が望んでいただけに、さすがの水準の作品に仕上がっています。私はこの作者のデビュー作で三島由紀夫賞受賞の『こちらあみ子』、芥川賞候補となった「あひる」を収録した短篇集『あひる』は第5回河合隼雄物語賞受賞し、第3作の『星の子』でも芥川賞候補となり、第4作『父と私の桜尾通り商店街』も、今週バタバタと読みましたが、この第5作にして芥川賞受賞です。この作者の大きな魅力は、私はある意味での異常性だと考えています。「あひる」は子供達を引きつけるためにアヒルを取っかけ引っかけ飼い続ける物語ですし、芥川賞受賞の『むらさきのスカートの女』にいたっては、ストーカーとして破綻していく「黄色いカーディガンの女」とタイトルになっている「むらさきのスカートの女」との何ともいえない同一性と違和感が極めて超越的なバランスを保っています。最近では、まるっきりラノベのような非現実的な癒やしのストーリーが広く受け入れられているように、私には感じられるんですが、現実逃避的な癒やし系で明るく希望に満ちたラノベは。私にはものすごく物足りないように感じられていました。もっとキチンと事実を取材して表現も整理すると、まさに池井戸潤作品のような仕上がりになるわけですが、そうでなく表面的な上滑りの作品に終わっている例がいっぱいあります。そういった中身のないラノベ小説を読むくらいであれば、今村作品のような何ともいえない不気味さを内包した作品の方が私はインパクトを感じてしまいます。最後に、どうでもいいことながら、芥川賞の選評を読んでいて、古市憲寿作品「百の夜は跳ねて」と村友祐作「天空の絵描きたち」の関係に大いなる興味を感じました。剽窃や盗作ではなく、オマージュですらないといい切っているのは山田詠美だけで、川上弘美や吉田修一は明確に嫌悪感を表明しています。私はどちらも読んでいないので何ともいえませんが、とても野次馬的な興味をそそられます。

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最後に、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社) です。小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『桐島、部活やめるってよ』いら、人気小説家の道を歩んでいる著者ですが、私も直木賞受賞作の『何者』こそ読んでいませんが、デビュー作を含めて世間に遅れつつ何冊か読んでいます。それから、この作品は、このブログの読書感想文でもいくつか取り上げた中央公論新社創業130年記念の「螺旋」プロジェクトのうちの1冊となります。ですから、青い目の海族とそうでない山族の対立構造を基本としています。本書はシリーズ唯一の平成編となります。ほかに、このブログの読書感想文で取り上げた、ということは、私が読んだのは、以下順不同で、伊坂幸太郎による近未来編の『スピンモンスター』と昭和後期編の『シーソーモンスター』、薬丸岳による明治編の『蒼色の大地』、乾ルカによる昭和前期編の『コイコワレ』、澤田瞳子による古代編の『月人壮士』となっています。ということで、本書は平成時代の青春物語であり、海族の南水智也が頭を強く打って意識不明の植物状態となり、山族の友人である堀北雄介が入院先の病院を毎日見舞う、というスタートから一気にさかのぼって、小学生時代、中学校ないし高校時代、大学時代の、それぞれのころの南水智也と堀北雄介と関係する周囲の人物を主人公にした章立てでストーリーが進みます。タイトルほどアバンギャルドではありませんが、自分以外の人のためになる生きがいを持った人生、自分を対象にした生きがいある人生、そして、生きがいのない人生の3分類をモチーフとし、生きがいややりがいについて、せいぜい20歳前後の目から考える、ということになります。物静かな海族の南水智也に対して、競争や勝負を好む活動的な山族の堀北雄介を配し、札幌を中心的な舞台に物語は展開しますが、私の直感では、おそらく、若い世代は山族の堀北雄介の要素がかなりあり、私のような引退世代に近づくに従って海族の南水智也の要素が増えるような気がします。でも、人生最末期には、何ごとによらず自分の意図通りに出来ないことが増えるそうで、その意味で、イライラが募る、と聞いたこともあります。お題を与えられた制約のせいかもしれませんが、この作者の実力にしては、やや物足りない読後感でした。もう1冊最新刊の『どうしても生きてる』(幻冬舎) の予約をしています。これも楽しみです。

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2019年10月19日 (土)

今週の読書はいろんな分野の経済書など計4冊!!!

今週と来週の読書はかなりペースダウンします。今週は短編ミステリのアンソロジーも含めて計4冊。来週は同じくらいか、もっと少なくなるかもしれません。でも、週3~4冊というのは、私の従来ペースからすればやや少ない気がするものの、日本人の平均的な読書ペースからすると、まずまず読んでいる方なのかもしれません。

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まず、アレックス・ローゼンブラット『ウーバーランド』(青土社) です。著者は、テクノロシジー・エスノグラファーであり、データ・アントド・ソサエティ研究所の研究者、とあるんですが、これだけでは何のことやら、私にはサッパリ判りません。英語の原題も Uberland であり、2018年の出版です。少し前のCEOのスキャンダルで揺れたウーバーなんですが、Airbnbなどと並んで、シェアリング・エコノミーとか、ギグ・エコノミーをけん引する大企業であることは間違いありません。そのウーバーについて、本書では主としてサービスを提供するドライバーの立場から企業運営などについて批判的な議論を展開しています。スマ^トフォンのアプリで簡単に予約出来たりするサービスなんですが、逆のサービス提供サイドについては、ある意味で、アルゴリズムによって最適化されたプラットフォームからの情報に基づいてサービス提供をするとはいえ、ウーバー側の情報に踊らされたり、あるいは、締め付けが厳しかったりして、「最適化」されたアルゴリズムの意味が、誰に対する「最適化」なのか、慎重に問われるべき段階に達しているように私も考えています。日本では、白タク規制があって人を運ぶウーバーのビジネスは出来ていませんが、それなら、というわけで、ウーバー・イーツの大きなボックスを背負った自転車をよく見かけます。私の知り合いのジャーナリストは都心3区で共同運用している赤いシェア自転車は、ほとんどウーバー・イーツに思える、といっていたりもしましたが、先日、ウーバー・イーツの自転車が事故で大ケガをした保障の問題の報道なども見かけました。基本は、同じ問題ではないかと私は考えていますが、確かに、一般的な工場勤務やオフィスワークなどと違って、締め付けが個別バラバラの各個撃破になっていますので、さらに激しさの程度が高い気もします。ただ、アルゴリズムによる最適化のギグ・エコノミーの問題ではなく、あくまで、利潤最大化を目指す企業活動の問題と考えるべきです。すなわち、ギグ・エコノミーのウーバーだけではなく、多かれ少なかれ、アナログなタクシー業界でも同じ問題があるんではないか、と私は推測しています。もっとも、こういった新しげなギグ・エコノミーでの問題点を指摘すると話題になりやすいのも事実であり、こういった突破口から雇用や労働について、本来的な問題を考える起点になればいいのではないか、と私は考えています。本来的な視点を忘れるべきではないものの、社会的な注目度の向上にも配慮したいのは理解できます。

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次に、アダム・オルター『僕らはそれに抵抗できない』(ダイヤモンド社) です。著者は、米国ニューヨーク大学の准教授ですから若手研究者なんだろうと思います。専門は、行動経済学やマーケティング論だそうです。上の表紙画像に見える通り、英語の原題は Irresistible であり、2017年の出版です。邦訳タイトルの副題が「依存症ビジネス」のつくらかた、と和っていて、まざに、そのものズバリです。経済学的には、マイクロな経済学の観点から、シカゴ大学のベッカー教授なんかが「合理的な依存症の経済学」A Theory of Rational Addiction なんぞを検討していますが、本書の著者や私なんぞのように依存症ビジネスなんて合理的でもなんでもなく、健全な経済発展のためにはむしろ排除すべき対象のように考えているエコノミストとしては、受け入れられるもんではありません。本書でも、冒頭に、iPadのタブレットを考案してアップルから売り出したジョブズは、むしろ、自分の子供達にはタブレットを使わせなかった、という印象的なエピソードから始めています。インターネットに誰でもが気軽かつ安価にアクセスできるようになり、タブレットやスマートフォンなどの携帯できる端末によって、主として、ゲームとして楽しめるようになり、依存性の症状が広まり始めたと考えられます。第1章では、アルコールやドラッグなどのモノへの依存症から、今では行動嗜癖と呼ばれるアクションへの依存症が広まっていることが明らかにされ、第2章では、新しい依存症が人を操る6つのテクニックとして、数値設定などの目標依存症、SNSの「いいね!」やフォロワーを集めようとするフィードバック、射幸心を煽るガシャポンなどをはじめとする進歩の実感、ゲームだけでなく仕事も含めた難易度のエスカレート、ネットフリックスが生んだビンジ・ウォッチングをはじめとする行動経済学のナッジを悪用したクリフハンガー、インスタが刺激する他人と比較したい欲求を煽る社会的相互作用、の6点を上げています。ただ、これらのビジネス側のテクニックに対して、第3部で展開される3つの解決法はいかにも脆弱というそしりは免れず、さらに、エピローグでは、今後もこういった依存症ビジネスが予期せぬ形で現れる可能性を示唆しているだけに、むしろ、アナログの世界に閉じこもったほうがマシ、とすら考えてしまいます。私は自分自身を、特に意志が強かったり、精神が健全なるがゆえに、こういった依存症からは無縁、と考えているわけではなく、いついかなる場合でも陥る危険があると警戒心を怠らない必要があると考えていますが、個人的な病気という処理ではなく、社会全体としてあるいはシステムとして、こういった依存症から毒室した人格形成を目指すべきであり、そのためには市場万能ではなく、適切に市場の失敗を回避する方法を模索する必要があると考えています。そのためには、社会的な生産様式をさらに進化させる必要があるかもしれません。

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次に、レイ・ダリオ『PRINCIPLES』(日本経済新聞出版社) です。著者はヘッジファンドのウォーターブリッジ・アソシエイツの創業者であり、投資業界の著名人です。英語の原題も PRINCIPLES であり、2017年の出版です。第1部の著者の生い立ちは別にして、第2部の人生の原則と第3部の仕事の原則が中心をなしています。もちろん、年配の成功した実業家の本ですから、上から目線の自慢話ばかりなんですが、まあ、そういった本だと覚悟して読み進めばいいんではないかと思います。私の知り合いで、もともとエンジニアなんだと記憶していますが、業界の常なのかどうか、パナソニック創業者の松下幸之助を大いに尊敬して、その著書も読んでいる人がいます。まあ、そんな感じで軽く考えてヒマ潰しの読書と割り切るのが吉かもしれません。ただ、かなりの大判の本で600ページ近いボリュームです。邦訳がいいのでスラスラと読めますが、大きさで気後れする人がいるかもしれません。内容は人それぞれの受け止めなんだろうと思いますが、私には3点ほど目につきました。まず、人生と仕事の原則に共通して、いろんな局面でオープンであることの重要性は私も大いに同意するところです。政府機関に長らく勤務した経験から、いわゆる「よらしむべし、知らしむべからず」という裏ワザが身についてしまっている気もしますが、私もオープンでありたいと思います。次に、もうひとつ気にかかったのは、これも人生と仕事の両方に共通して苦楽に対する考え方で、とても循環的というか、「苦」がなければ「楽」が来ないような体験が多いのかもしれません。我が国の政権でも、「痛みを伴う改革」を強調する場合がありますが、私は「苦」や「痛み」は否定的です。避けられれば避けた方がいいに決まっています。キリスト教的には自らに苦痛を与える宗派があって、『ダビンチ・コード』でも出てきたように記憶していますが、仏教の浄土真宗の門徒である私としては、楽な方がいいに決まっています。最後に、仕事だけの原則ではなかったかと思いますが、「誰」の方が「何」よりも重要という原則がありました。生産の場ばかりではありませんが、企業活動においては人的資本の方が物的しほにょりも重要であるというのは、多くの経営者が同意しているようですが、なかなか実践している場合は少ないような気がします。モノである資本よりも労働・雇用の方が重要です。いうまでもありません。

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最後に、日本推理作家協会[編]『ザ・ベストミステリーズ 2019』(講談社) です。タイトルから明らかに理解される通り、ミステリの短編を集めたアンソロジーです。収録作品は、澤村伊智「学校は死の匂い」、芦沢央「埋め合わせ」、有栖川有栖「ホームに佇む」、逸木裕「イミテーション・ガールズ」、宇佐美まこと「クレイジーキルト」、大倉崇裕「東京駅発6時00分 のぞみ1号博多行き」、佐藤究「くぎ」、曽根圭介「母の務め」、長岡弘樹「緋色の残響」の9作であり、もともとの短編の出版元も本書の講談社に限定されていません。上の要旨画像に見られる宣伝文句は「耽読必至! ようこそ、日本最高水準のミステリーの世界へ」ということなんですが、決して大げさではありません。とても水準の高いミステリ短編ばかりです。世の中には長編ミステリを有り難がる人も少なくないですし、私も理解するんですが、こういった水準の高い短編集も見逃せません。

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2019年10月12日 (土)

今週の読書は軽めの経済書と重厚な専門書の組み合わせで計6冊!!!

今日は、台風の影響で外出もままならず、ずっと在宅しています。後で、もう少し書こうかと思うんですが、実は、昨日は関西に行ったものの、今日の新幹線が運休になるとのことで、下の倅の大阪のアパートに宿泊する予定を繰り上げて夜遅くに帰京したりしました。今日は図書館も軒並み閉館で、来週の読書向けの本はまだ集まっていません。ということで、前置きが長くなりましたが、今週の読書は新書も含めて軽めの経済書が3冊、ほかに重厚でボリューム十分な専門的教養書が3冊、以下の計6冊です。

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まず、根井雅弘『ものがたりで学ぶ経済学入門』(中央経済社) です。著者は、我が母校の京都大学で経済学史を専門とする研究者です。マンガで科学や経済などを解説する本がありますが、本書もフィクションを取り入れて、アダム・スミス以来の古典派や限界革命、マルクス主義経済学からケインズ経済学まで幅広く鳥瞰しています。フィクションは、経済学の研究者の倅である中学3年生を家庭教師的に勉強を見ている高校3年生が主人公で、中学3年生の父親の経済学の研究者から指導を受けて、英語の原書を含めて経済学の古典を読破するという、まさに、フィクションならではのドラえもんの道具的な荒唐無稽なストーリーです。でも、そのフィクションの高校3年生が経済学の英語の原書の古典を読破するという部分をガマンして読めば、それなりの中身になっている可能性はあります。私はこのフィクションの構成はともかく、スミスのところでsympathy の邦訳語を「同情」を排するのはいいとして、「同感」を取っているのがムリ筋と考えてしまいました。「共感」ではないでしょうか。その後、まあ、それなりの初歩的な内容でしたが、一応の経済学史が鳥瞰されていて、参考にはなると思います。ただ、クロニカルにはケインズ経済学で終わっていて、我々が現に体験している戦後のブレトン・ウッズ体制下の経済の基となる理論的背景についてはお話が及んでいません。戦後の経済学史で、ケインズ経済学から、ブレトン・ウッズ体制末期のインフレの下でマネタリスト経済学や新自由主義的な経済学が米国のレーガン政権や英国のサッチャー政権下で主流となり、21世紀に入ってから、米国のサブプライム・バブル崩壊後に再びケインズ経済学が見直されている現状などにもう少し目が行き届けば、もっといいような気もします。もっとも、著者の意図としては、決して、現在までに至る経済学シすべてのトピックを取り上げるというよりは、本書のボリュームのほぼ半分をスミスないしミルやリカードなども含めた古典に当てていますし、スミスの経済学が「夜警国家」を推奨し、見えざる手なる市場の調整機能への過信に基づく自由放任経済ではない、という点に重点があると考えるべきなのかもしれません。

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次に、清水洋『野生化するイノベーション』(新潮選書) です。著者は、一橋大学出身で現在は早大の経済史の研究者、特に、イノベーションの歴史を専門にしているようです。本書では、かなり通り一遍なのですが、イノベーション、特に、破壊的で従来の技術を無効化するようなイノベーションについて、歴史と理論を概観した後、現在の経済の停滞の一員たるイノベーションの不活発さについて著者の見方を示しています。従来の技術を無効化するような破壊的なイノベーションとは、例えば、自動車がウマを駆逐したようなものだと指摘し、現在のイノベーションが流動性が高い中で、ついつい手近な、あるいは、低いところにある果実をもぐことに専念し、より高いところにありリターンの大きなイノベーションに手が伸びていない可能性を指摘しています。私の目から見て、歴史的な資本リターンの低下傾向が続く中で、いくら金融政策で低金利を続けても、その低金利すら超えないリターンしかもたらさないイノベーションは採用されないわけであって、さらに、流動性が高まれば、安定した研究体制は構築しにくくなる、というか、ハイリスク・ハイリターンの「冒険主義的」な研究開発を必要とするイノベーションが遠ざかるのは事実です。安定した研究体制を構築して、多少のムダは覚悟の上でハイリスク・ハイリターンのイノベーションを支えるためには流動性が低くて安定した研究体制を必要とします。ただ、大筋で、私は手近な果実は取り尽くされたというのは事実であり、「冒険主義的な」研究開発で大胆なイノベーションが実現されるようなサポート体制が必要になる、という意味で、イノベーションが野生化したというのは事実なんだろうと考えています。

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次に、ヴィルヘルム・フォン-フンボルト『フンボルト 国家活動の限界』(京都大学学術出版会) です。著者は、どういえばいいのか、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したドイツの行政官、外交官、政治家、政治学者といったところなんですが、ベルリン大学の創設者ですし、「国家は教育に介入するな」という超有名な金言も人口に会社しているものですから、私なんぞの専門外のエコノミストは教育の分野の歴史的人物、と考えていたんですが、本書の解説では、テンポラリーな行政官として大学開設に関わったのであって、教育者でもなければ、教育行政が専門であるわけでもない、と指摘しています。また、本書は検閲やなんやの事情により、著者死後の19世紀なかばに出版されています。ドイツ語の原題は Ideen zu Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des zu besitimmen であり、原書は1851年の出版です。英語圏の出版物であるミル『自由論』で高く評価されたことにより世界的な評価を受けるようになったと私は受け止めています。なお、出版社のサイトによれば、本書は「近代社会思想コレクション」のシリーズの一環で第26巻として出版されており、本書に続いて、ヒューム『道徳について』、J.S.ミル『論理学大系4』が出版される運びとなっているようです。前置きが長くなりましたが、タイトル、出版社、そして、何よりも600ページを超えて700ページ近いボリュームなどから、読み始めるにはかなりの覚悟が必要です。でも、おそらく邦訳がいいんだと思いますが、読み始めるとスラスラと読むことが出来ました。ただし、政府機関で活動した人物ですから、ある意味で、私と活動分野が似ていたのかもしれませんから、このあたりは少し割り引いて考えた方がいいかもしれません。ただ、前置きばかりを長くしたのは、古典書ということもありますが、読んだ私がよく理解できなかったわけで、邦訳は判りやすくてスラスラ読めるとしても、内容ば難解であることはいうまでもありません。ただ、私の直感的な受け止めとしては、ドイツの経済学者として有名なリストなどは、ドイツという経済的には後発国において英国やフランスなどに対抗するために保護主義的関税の導入などの国民経済保護の経済学を展開したんですが、本書ではフンボルトは現在でいえばかなりリバタリアンに近い国家の限界に関する考え方、すなわち、国家活動に対するかなり強い懐疑論や、嫌悪感に近い議論が展開されている、と考えています。最初に引用した「国家は教育に介入するな」ではありませんが、教育だけでなく、色んな分野で国家の介入への否定的な議論が見られます。

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次に、テイラー・フレイヴェル『中国の領土紛争』(勁草書房) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学の国際政治学の研究者であり、国際関係論と主として中国に関する比較政治学が専門だそうです。英語の原題は Strong Borders, Secure Nation であり、2008年の出版ですが、その後の尖閣諸島に関する問題などを含めたエピローグが日本語版のために書き下ろされて収録されています。本書も、かなり大判な上に、500ページ近いボリュームがあり、出版社からしてもほぼほぼ専門学術書と考えるべきで、それなりの覚悟を持って読み始める必要を指摘しておきたいと思います。ということで、邦訳タイトルに明らかな通りの内容で、中華人民共和国成立後の1950年以降の歴史的な外観と分類が中心になっていますが、必要に応じて、さらに歴史的にさかのぼって事例がいくつか参照されています。米国の研究者による出版ですが、かなり広範に中国語文献や資料を渉猟しているようで、英語情報だけによる表面的、対外公表な文献の分析だけでなく、かなり内部文書的的な資料の分析も加わっています。ただし、もちろん、米国のような体系的公文書公開の制度が中国にあるわけでもなく、それほど、というか、まったく情報公開には前向きの姿勢がない国家ですので、限界はあるのかもしれません。もちろん、中国は常に武力行使により領土問題を解決してきたわけではない点は、我が国の尖閣諸島問題でも実証されている通りで、領土紛争がエスカレーションして武力行使に至る以外に、どのような場合に引き伸ばしを図り、どのような場合に妥協するか、を極めて多くの歴史的事例に基づいて分析し解説しています。その歴史的事例は、中華人民共和国建国以来のすべてである23例とされています。専門外の私が考えても、本書が出版されて以来の10年間で中国が国力を増したのは紛れもない事実であり、加えてその経済的な発展からして、領土紛争の大きな要因の一つであるエネルギーや資源に対する需要は高まっている点は忘れるべきではありません。加えて、経済学にはウィン-ウィンの関係は広く見られますが、国際政治の場における領土紛争は確実にゼロサムです。ですから、本書が指摘するトーンよりも隣国としては警戒色を高める必要があると考えるのは、私だけではないと思います。

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次に、石橋毅史『本屋がアジアをつなぐ』(ころから) です。著者は、出版業界をホームグラウンドとするジャーナリスト・ライターであり、我が国を含めて、インターナショナルな本屋さんをコンパクトに紹介している、一種の紀行本です。著者が実際に訪問しているんでしょう。なお、本書冒頭では、「書店」はお店というハードウェアであって、「本屋」はその書店を運営管理する経営者、あるいは書店員を指す、と断り書きをしていますが、まったく守られていません。ほとんどの「本屋」は書店というハードウェアとして使われている気がします。私はスペイン語を理解しますので、スペイン語では店を librería、書店員を librero あるいは、女性型なら librera とし表現します。このラインを狙ったんでしょうが、残念ながら失敗しています。本書で取り上げられている書店の中で、私が圧倒的に興味を持ったのが、上海を拠点としていた内山書店です。現地でお尋ね者となってしまった魯迅を匿ったり、書店らしく、いろいろと言論の自由や人権を守るリベラルな活動が歴史に残っています。直接的な政治活動だけでなく、出版や研究といった広く開かれたドメインでより有効性や効率性を増す活動は他にもいっぱいありますし、そういった自由が保証されないとそもそも活動すら出来ない場合も少なくありません。私は割引になるので早大生協で本を買う事が多いんですが、そもそも、買うよりも図書館で借りることのほうが圧倒的に多く、改めて、こういった出版物や印刷物の重要性、そして、それらの流通を担い人々に広める書店の役割をアジアで発見した様な気がします。

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最後に、山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学』(光文社新書) です。著者は、最近カナダから帰国し東大の研究者に就任しています。専門は労働経済学であり、その派生領域として結婚・出産・子育てなどを経済学的な手法で数量分析する家族の経済学に分析を広げています。ということで、本書では、数量分析に基づいて、結婚、出産と乳児の子育て、育児休暇、父親の子育て、保育園の経済分析、そして、最後に、離婚、といった章立てで家族の経済分析をサーベイしています。ご自分の分析結果も含まれていますが、本書で新しい数量分析結果が示されているわけではなく、既存研究のサーベイです。いくつかの例外を除いて、ほぼほぼ常識的な分析結果が取り上げられているんですが、本書でも著者が指摘している通り、こういった常識的な結果を数量分析で跡づけるのは学問的にも、広く常識的にも有益なことである私も考えます。特に、保育園における集団的な子育ての要素は母親の学歴が低いほど、子供にはプラスの影響がある、というのは、直感的に理解していても、なかなかその直感的な理解が主張しにくい場合が多いと思うんですが、それなりのジャーナルに査読付きの論文が掲載されていれば、参照することも抵抗感は低下すると思います。ただ、本書で議論されている常識的ながら、一部に抵抗感が残らないでもない主張ですので、ほぼほぼ海外の数量分析で大きな部分が占められているのは、すでに定年退職した私も含めて、我が国経済学界の一層の奮起を促すものと受け止めるべきなのでしょう。

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2019年10月 5日 (土)

今週の読書はついつい読み過ぎて小説2冊を含めて計8冊!!!

今週の読書は、ペースダウンの予定だったのですが、もっとも近い区立図書館が10月いっぱい休館らしく、何の関係もないものの、ついつい読み過ぎてしまいました。来週は後半が忙しくなる予定で、一応、暑い中を図書館回りを終えて数冊借りて来たんですが、さすがに、2~3冊に減るんではないかという気もします。今週の読書は小説2冊も含めて、以下の計8冊です。
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まず、中野剛志『奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ) です。同じ著者によるシリーズ前編【基礎知識編】は8月24日付けの読書感想文で取り上げています。【基礎知識編】では、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開していて、【戦略編】となる本書の冒頭では簡単にそのおさらいをしてから、MMT理論を普及させるための戦略、また、どうしてMMTが現時点でそれほど受け入れられていないのか、といった議論が展開されています。本書の議論は私はどちらもとてもよく理解できるような気がします。ここで、「どちらも」というのは、MMT理論そのものとMMT理論が学界や政策当局に受け入れられないその両方を指しています。というのは、私はかなりの程度にMMTは正しいと本能的に感じている一方で、どこか頭の中で「怪しげ」と感じる部分もあるからです。今夏にレイ教授によるテキストである『MMT現代貨幣理論入門』の邦訳書が東洋経済から出版されていながら、諸般の事情によりまだ読めていません。本書で引用されているラガルド女史によれば、主流派経済学のように数式をきれいに展開していて、それなりの説得力ある理論である、とのことで、私も直感的かつ本能的ながら、MMTは理論的には十分成り立っているんだろうと理解しています。自国通貨建ての国債であれば、いくら積み上がってもデフォルトに陥るおそれはなく、財政政策をインフレ率で判断するというのは、従来からもある考えです。少なくとも、日銀が物価目標を掲げる前に、旧来理論でハイパーインフレに言及していたようなエコノミストの主張はもうなくなりましたし、岩石理論もご同様です。ただ、現在の日銀の量的緩和と同じで、出口に一抹の不安が残るのも事実です。本書では、インフレ率が一定の水準に達した段階で前年度と同じ財政赤字にすればいい、という主張なんですが、ホントにそれで済むのか、これも私の直感ではそれでOKのように受け止めているんですが、不勉強が原因となって不安を覚えているだけのような気がします。ただ、私が主張したいのは、MMTはインフレというマクロのアグリゲートされたターゲットには有効なんですが、逆から見て、量的なターゲットだけでなく、質的、あるいは、分配面からの格差是正などについて目が行き渡っていないような気がします。すなわち、インフレ、というか、デフレからの脱却については、ある意味、本書で展開するMMT理論で十分なんですが、MMTが政策的に採用されないうちにでも分配政策によって格差や格差に一部ながら起因する成長促進などの課題の改善は可能ではないか、という気がする次第です。本書の議論を否定しようとはまったく思いませんが、MMTの実践だけが解決策ではないという点も忘れるべきではありません。

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次に、山口周『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社) です。著者は、コンサル出身の著述家で、講演などでも見かける方ではないかと思います。本書は、習慣ダイヤモンドで連載されていたコラムを取りまとめて単行本化したもので、ダイヤモンド・オンラインのサイトでも読むことが出来ます。もちろん、本書のタイトルはガンダムのアムロ・レイなどのニュータイプと似てはいますが、少し違います。すなわち、商品生産やサービス供給が十分人々の欲望を満たす水準にまで達し、消費に飽和感がある中で、いくつかの古い思考や行動の様式を新しくする方向について議論しています。例えば、問題がいっぱいあった従来の社会では、その問題の解決方法を探るのが主要な課題であり、オールドタイプのエリートは解決策の提示ができる人だったわけで、実は、本書の著者もその一種ではないかという気がしないでもないんですが、ニュータイプはビジョンを持って望ましい状態と現状との差を「問題」として捉え、その問題発見ができる人、ということになります。また、その実現の一つの形式であるイノベーションについても、こういった解決すべき課題=問題なしにイノベーションそのものにこだわっていると本末転倒である、と指摘し、解決すべき問題がないのに技術的に凝った乗り物を作ってしまったセグウェイの失敗例を引いていたりします。実に、私も感心してしまいました。他方で、私のように、現在の資本制的な生産や分配のシステムをもっと柔軟に改革して、あるいは、もっと過激に資本主義から社会主義に革命を起こす、という方向性は否定されています。私自身はこの方向性をアプリオリに否定するものではありません。ケース・バイ・ケースで考えるべきだと思います。本書のp.28にあるオールドタイプとニュータイプの新旧対照表を、ダイヤモンド・オンラインのサイトから引用すると以下の通りです。私は下の5項目、すなわち、ルールに従う⇨自らの道徳観に従う、一つの組織に留まる⇨組織間を越境する、綿密に計画し実行する⇨とりあえず試す、奪い、独占する⇨与え、共有する、経験に頼る⇨学習能力に頼る、はこの通りだと思います。

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次に、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社) です。著者についてはよく判りません。本書では、差別について、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)との関係で、いろんな考察や分析を進めています。ポリコレ的には差別はいけないわけですが、実際にレイシストはいますし、ヘイトスピーチも後を絶ちません。そのあたりの周辺事情、というか、現実的な実態解明と対応につき考えています。特に、本書では、足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない、というフレーズが繰り返し引用され、差別されたサイドの痛みの理解についても思いをいたしている気がします。ポリコレに関してはあまり実践も応用もないように見受けるんですが、私が2016年の米国大統領選挙について、たぶん、このブログの場だと思うんですが、ポリティカル・コレクトネスが行きつくところまで行って、米国に黒人大統領が誕生したのが当時のオバマ米国大統領であり、その振り子が反対側に振れた、との感想を持ちました。ポリティカル・コレクトネスなんて、行きつくところまで行けば反転する可能性もあると私は考えていますし、何よりも、1990年代にいわゆる米ソの冷戦が明確に終了して、ソ連的な共産主義が大きく後退し、中国やベトナムなどに極めて市場経済的な社会主義は残るものの、冷戦が終了した段階で国内的な意思統一が不要になって、いろんな意見が飛び出し始めている、というのも事実です。冷戦時代にソ連に負けないためには、米国内でもそれなりの意思統一が図られて、いわば、一致団結してソ連に対峙する必要があったものの、その必要がなくなったわけです。いまだに、この冷戦型の国内世論統一を図ろうとしているのが韓国の文政権といえます。民主主義が未成熟としか私の目には見えません。まあ、韓国は別としても、実は、米国でもそれほど民主主義が成熟していなかったわけで、対外的な仮想敵国がいなくなった途端に国内で清掃が始まってしまった、と私は解釈しています。加えて米国では、2001年のテロから国内的な統一が一時的に強化されましたが、それも20年近くを経過してテロの実行例も少なくなり、外国に対する緊張感が弛緩して、国内での政争に目が移った、ということなんだろうと思います。欧州もご同様です。本書では、カール・シュミットにならって、アイデンティティを基礎とする民主主義とシチズンシップを基礎とする自由主義を対比して、差別やハラスメントの原因をアイデンティティがシティズンシップをオーバーテイクしたことに求めようと試みていますが、私の目には成功しているとは思えません。

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次に、リチャード・ローズ『エネルギー400年史』(草思社) です。著者は米国のジャーナリスト・作家であり、ピュリツァー賞の受賞経験もあるようです。英語の原題は Energy: A Human History であり、2018年の出版です。動力、照明、新しき火の3部から構成され、軽く600ページを超えるボリュームですが、これも邦訳がいいのか、私の興味分野だからなのか、割合とスラスラと読み進むことが出来ました。でも、私にして読了するのに2日かかりましたので、それ相応に時間はかかると覚悟すべきです。ということで、邦訳タイトルにあるように、薪から始まった400年に及ぶエネルギーの歴史をひも解こうと試みています。ただし、エネルギーだけではなく、外国人ジャーナリストに多い傾向なんですが、周辺事情までていねいに情報を集めた上に、集めた情報はすべて本に詰め込まないと気が済まないようで、ややムダの多い本だという気もします。極めて大雑把にエネルギーの歴史を概観すると、まあ、誰にでも判るところで、薪から石炭に、石炭は石油に、石炭・石油は天然ガスに、さらに原子力に、そしてそして、今からは再生可能エネルギーに、その主役を次々と交代しています。そして、そのエネルギーの利用の目的も、かつては調理と暖房、せいぜいが灯りだったんですが、石炭以降からは大規模に産業や運送で利用されるようになっているのは周知の事実です。エネルギーを動力源として用いる場合、蒸気機関、内燃機関、発電機と歴史的な発展があり、輸送に使う場合は、蒸気車、蒸気機関車、自動車、電車、もちろん、その後の飛行機やロケット、場合によってはドローンまで上げることが出来ます。そのバックグラウンドにはそれぞれをアイデアとして思いつき、製品として世に送り出すために試行錯誤し、製品化した後には応用し普及させた有名無名の人物の存在があった点についても、とても幅広く様々な情報を取りまとめています。またエネルギー利用の普及は人びとの生活の質を上げ経済を活性化する一方で、公害をはじめとする新たな災厄や難題をももたらし、また、生産現場の過酷な労働も必要としました。こういった400年に及ぶエネルギーの歴史を振り返り、現在の地球規模の気候変動や地球温暖化、さらには、中国・インドやをはじめとする新興国・途上国の経済成長に伴って増加し続ける巨大な人口を支えるエネルギー需要への対応、などなど、今までにない難題への答えは、本書のように過去の歴史を詳細に検証することで見出せるのか、どうか。もちろん、ひょっとしたら、何ら解決できない可能性もなくはないながら、少なくとも、解決策を見出せるとすれば、科学に基づく技術革新だけである可能性が高いと考えるべきです。本書は、基本ラインがしっかりしているとともに、ムダとすら見える極めて多数の人々のドラマが盛り込まれており、それはそれでとてもいい読書だった気がします。

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次に、マーク・モラノ『「地球温暖化」の不都合な真実』(日本評論社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、英語の原題は The Politically Incorrect Guide to Climate Change であり、The Politically Incorrect Guide シリーズの1冊として2018年に出版されています。ということで、本書では人類による地球温暖化や気候変動について、押しとどめようとする「脅威派」と否定する「懐疑派」に分けた上で、本書は後者の懐疑派として人類に起因する気候変動や温暖化をデータを含めて、あるいは、脅威派の発言の矛盾を突いたりして、徹底的に人為的な気候変動を否定しようと試みています。ここで多くの読者が見逃しそうなポイントなんですが、著者は人的でない、すなわち、太陽活動の変動に伴う気候変動や温暖化を否定しているわけではない、という点を強調しておきたいと思います。著者の主張では温暖化はかなりの程度に観測誤差の範囲であると考えているようなんですが、太陽活動に伴う気候変動、典型的には氷河期と間氷期が交互に来たりするという意味での大きな気候変動は否定していません。ただ、現在の温暖化が人類の人的な行為、すなわち、CO2排出によるものであるかどうかは疑わしい、と主張しているわけです。これについて、私はシロクマが増えているかどうかは知りませんが、例えば、著者の指摘通り、1970年代には地球寒冷化による食料危機が真剣に論じられていたのは事実ですし、その気候変動が大きく逆転して、温暖化に取って代わられたわけです、医学的に健康にいいと悪いが大きく逆転するケースがいくつ私も見て来ましたが、まさに、同じことが気象科学でも生じたわけで、気候科学の信頼性が問われても不思議はないといえます。また、例のゴア元米国副大統領の邸宅が通常の20倍のをエネルギーを使っているとか、温暖化対策を叫ぶハリウッドのスターが自家用ジェット機で温暖化ガスを排出しながら移動しているとかの実態に疑問を感じるのもあり得ることです。もちろん、シロートの私の目から見ても、極めて限られた有識者しか温暖化や気候変動を否定しておらず、著者の主張が科学的に立証されたとはいいがたいと感じますし、十分に人々を納得させる根拠が示されているとはとても考えられませんが、他方で、研究費のために熱心に地球温暖化や気候変動の研究に取り組む科学者が多いだろうという点だけは判りやすいものの、その他の点で、こうした本が米国で一定の支持を得る可能性があり、日本でも出版されるという現実は、地球温暖化や気候変動に対して常識的な考えを持つ社会人として、それなりに反省を持って受け止めねばならないのではないかと考えます。

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次に、ジーヤ・メラリ『ユニバース2.0』(文藝春秋) です。著者は米国のジャーナリストなんですが、米国のアイビーリーグ校であるブラウン大学で、何と、ロバート・ブランデンバーガー教授に支持して宇宙論の博士号を取得している本格派です。英語の原題は A Big Bang in a Little Room であり、2017年の出版です。副題の「実験室で宇宙を創造する」に示されている通り、宇宙論の中でも宇宙の発生に関するベビー・ユニバースについてのリポートです。ざっと相対性理論をおさらいし、ビッグバンによる宇宙の生成からインフレーション理論による拡大宇宙論、そして、ブラックホールからワームホールを通って別の宇宙に行きつく、ということで、その別の宇宙を実験室で作れないか、という試みです。というか、実は、実験室で宇宙を創るために逆算的な思考で、さまざまな理論が紹介されています。私のようなシロートにはサッパリ判らない理論ばっかりなんですが、そこは科学者ではないジャーナリストによる本ですので、それなりに雰囲気が感じられるように工夫されています。でも、それなりの専門的な知識なければ十分な理解はできないと覚悟すべきです。特に、S極かN極しかない「磁気単極子」があれば、それを使って実験室でインフレーション宇宙が作れる、というのはまったく私の理解を越えていました。そしてその「磁気単極子問題」とともに宇宙論の3大問題とされる「平坦性問題」と「地平線問題」についても、私の理解は及びませんでした。宇宙が実験室で作れるとしても、本書に従えば、その人工宇宙と普通のブラックホールとを区別することは、ホーキング放射が観測できなければ、ムリなようですし、出来上がった人口宇宙を取り囲むブラックホールであるベニーユニバースと我々のいる時空を結ぶワームホールは極めて短い時間で消滅する、ということですし、いずれも、エコノミストの目から見て、とても夢のある宇宙なんですが、どれくらいのコストがかかるのかも気にならないわけでもありません。加えて、本書ではかなり片隅に追いやられている印象がありますが、ビッグバン宇宙論に髪を配置しようとするカトリック信者を私も知っていますし、宇宙の生成と神の関係をどう考えるか、そういった神学論争についても何らかの話題になる可能性もあります。エコノミスト的には神学論争はまったく興味なく、「できることはやったらいい」というのが私の感想なんですが、コストはともかく、いろんな視点から宇宙の発生・生成について考えさせられました。専門外の読者には特にオススメしません。

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次に、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』(NHK出版) です。作者は、私が中途半端な解説を加えるまでもなく、売れっ子のミステリ作家です。この作品のタイトルは、まあ、何と申しましょうかで、この作品のラスボス的な存在である「ハシビロコウ」なる鳥ののラテン語の学術名の日本語訳です。ということで、それなりの規模のお菓子メーカーに勤めるサラリーマンである主人公の岸、作者の応援する楽天イーグルズのエース投手と同じ姓となっていますが、この岸を主人公に、都議会議員の池野内征爾と大人気のダンスグループのメンバーである小沢ヒジリの3人が奇妙な夢でつながって、戦士として社会的な大問題を解決したり、逆に、窮地に陥ったりする、というストーリーです。過去のトピックである金沢旅行の際の火事を3人は共有し、さらに、仙台近海の人工島でのコンサート後のパニック事件に岸と小沢が巻き込まれた際には池野内が救援に駆け付けたりします。そして、さらに、15年後の第2幕でも大事件が発生します。池野内は都議会議員から国会議員に当選して、さらに、有力ポストの大臣を務め、小沢はダンスグループから俳優になり、岸は会社で課長まで出世しています。そこで、猛毒性の鳥インフルエンザがパンデミックに近い広がりを見せ、3人がワクチンをいかに必要とする病人に届けるか、という点で一協力して解決に当たります。もちろん、ハッピーエンドで終わるんですが、さすがに伊坂作品らしく私のような一般ピープルが考え付かないような一筋縄ではいかなイラストが待っています。夢と現実を3人で、あるいは、それぞれ単独で行き来しながら、問題を解決したり、あるいは、大問題で窮地に陥ったりと、ある意味では、ファンタジー的な現実にはあり得ないシチュエーションが展開されるんですが、夢で戦うという点は現実でもあり得ることであり、その点で、少し前の作品である『フーガはユーガ』で双子が瞬間移動で入れ替わるような超常現象といい切るにも勇気が必要で、まあ、荒唐無稽な非現実的展開はない、ともいえます。加えて、3人はいろんな問題、というか、トラブルに遭遇するわけですが、かなり近いとはいえ、犯罪や組織的な陰謀とは違い、まあ、ギリギリあり得るかも、と思わせるものもあります。しかも、いかにもこの作者の作品らしく、いろんな伏線が密接に関連して後々にきれいに回収されます。私のように速いペースで読んだ挙句に、読み返さざるを得なくなる、といった読者も少なくなさそうな気がします。でも、それだけ面白い、ともいえそうです。最近の作品の中では傑作に近く、ひょっとしたら、読者によればこの作者の最高傑作に推す人がいるかもしれません。早大生協で消費生率引き上げ前に買った5冊のうちの最後の読書でした。

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最後に、宮内悠介『遠い他国でひょんと死ぬるや』(祥伝社) です。著者は、私の好きなSF作家です。実は、本書の出版を知って図書館で予約したところ、前作の『偶然の聖地』を読んでいないことに気づいて、近くの図書館で借りて一気に1時間ほどで読んでしまいました。ひょっとしたら、この作者の作品はすべて読んでいるかもしれません。ということで、本書ではフィリピンを舞台に、元テレビ番組制作会社のディレクターが太平洋戦争で戦死したと考えられている詩人の竹内浩三のノートを求めて冒険を始める、というストーリーです。本書のタイトルも、竹内浩三が入営前に書いた詩「骨のうたう」が出典となっています。テレビのディレクターの職を辞してフィリピンに渡ってタガログ語をマスターし、竹内のノートの捜索に入りますが、そこに、山下財宝を狙っているトレジャーハンターを自称する女性とそのお付き、主人公と行動をともにするうちに距離が縮まっていく女性、さらに、その女性の元彼カレで、結婚を申し込んでいる超大金持ちのぼんぼん、さらにさらにで、休戦が成立したにもかかわらず、まだ、ミンダナオ島の分離独立のために戦うムスリムの青年などが急展開の冒険物語を構成します。最後は、かなり荒唐無稽に結婚式を破壊したりして、これが解決なのかどうかは疑わしいと私は考えたりもしましたが、著者の力量が垣間見える気もしました。単純に読めば、冒険譚とはいいつつも、単なる騒がしくて暴力的なドタバタ劇になりかねないところに、詩人である竹内浩三の存在を入り込ませ、その実像に迫ろうと試みるも、竹内の最期は実際のところ不明としかいいようがなく、竹内が実際に何を目にし何を感じ何を想ったのかは、主人公も含めてもはや誰にも判らなくなっているわけで、ただ、戦争の歴史を風化させるわけにはいかないと作品を作り続けてきた主人公だったんですが、ドタバタ劇が進む中で、そういった信念の根元には大したものは何もないことに気付かされていきます。他方で、じいさんの占いとか、旅の中である種のアジア的な神秘と接することによって、何らかの意味で、竹内と似た境地に達することができたのかもしれない、という気もします。基本的に、インドネシアの首都であるジャカルタしか私は住んだことがなく、タイやマレーシア、あるいは、シンガポールには旅行したものの、フィリピンには旅行ですら行ったこともありません。従って、どこまでフィリピン現地の雰囲気が再現されているか、フィリピン人の考えが反映されているか、は判りませんし、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールについても、私はよく知りませんが、少し前まで中央アジアのムスリム国家に着目していた作者が、本作品で東南アジアを舞台にした小説にチャレンジし、アジアの奥深さに気づいたのかもしれません。

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2019年9月28日 (土)

今週の読書は話題のラグビーの200年史を振り返る歴史書など計6冊!!!

今週はいろいろと忙しかったんですが、それでも硬軟あわせて6冊の以下の通りの読書です。ワールドカップが始まったラグビー200年史を振り返るボリュームたっぷりの歴史書もあります。今週もすでに図書館回りを終えており、来週も数冊の読書になりそうなんですが、何分、かなり忙しいので時間が取れないかもしれません。

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まず、杉本和行『デジタル時代の競争政策』(日本経済新聞出版社) です。著者は、財務省の事務次官経験者であり、現在は2期目の公正取引委員会委員長を務めています。もう70歳近いんでしょうが、私と同じ公務員でも出世するとここまで職が保証されるんだと、我と我が身を振り返って忸怩たる思いがあります。ということで、本書はタイトルこそ華々しいんですが、何ということのないフツーの競争政策、すなわち、公正取引委員会の通常業務がほとんど80パーセントくらいを占めます。160ページほどのボリュームのうち、第3章のタイトルが書籍と同じ「デジタル時代の競争政策」となっていいて、この第3章がメインなんでしょうが、中身は100ページ目から始まり、その第1節はグローバル化に割かれていますので、経済のデジタル化に即した内容になるのは118ページまで待たねばなりません。ただ、ここに至るまでの、いわば、前置き部分も私のような専門外のエコノミストには、競争政策をとてもコンパクトに取りまとめつつも、実際の違反事例や大企業の合併の事例などが実名入りで豊富に取り上げられており、それなりに勉強にはなりそうな気もします。そういった専門分野の方には公正取引委員会の競争政策の重点などが透けて読み取れるようになっているのかもしれません。今年2019年の6月22日付けの読書感想文で取り上げた森信茂樹『デジタル経済と税』は、同じように財務省で出世された公務員OBのご著書ながら、ほとんどデジタル経済とは何の関係もなく、国境をまたいだ移転価格操作という多国籍企業の税制に終始していたのに比べれば、それなりに、本書ではデジタル経済のプラットフォーム企業に対する競争政策や、デジタル経済に限定されないながらも、企業の自由な活動とそこから生み出されるイノベーションに対して阻害することなく、それでも、消費者の利益となる競争政策の在り方につき、示唆するところは大いにあります。SNSや検索エンジンなどを無料で提供する企業に集積されたデータのロックイン効果の防止やフリーランサーの競争促進など、基本編ながら、しっかりした内容の良書だと思います。

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次に、ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社) です。著者は、英国の認知神経科学の研究者ですが、英米間を行き来しているようです。英語の原題は The Influential Mind であり、2017年の出版です。また、2018年にイギリス心理学会賞を授賞されています。認知神経学というのは聞き慣れない学問分野ですが、人間は脳であり、ニューロンの発火によって生み出される、と本書で著者は断言しています。ただ、エコノミストの目から見て、経済学における選択の問題、特に、行動経済学との関係もとても深いんではないかと、本書を読んでいて私は感じられました。言及はされていませんが、ポストトゥルースのように、客観的な事実や真実に基づいて論理や知性に訴えるのではなく、その場の雰囲気とか感情を含めたすべての感受性に訴えるのがポストトゥルースですから、本書冒頭のワクチンに関する議論なども含めて、現在の言論界や政治を理解するのには非常に適した書物です。ただ、邦訳タイトルよりも現代の英語タイトルの方が内容を理解しやすく、要するに、何が人の意見や行動に影響を及ぼすか、ということを考察しています。当然、ポストトゥルースのネット社会におけるエコー・チェンバーやフィルター・バブルの現象がワンサと満載です。そして、エコノミスト的な行動経済学や実験経済学と違って、ヒト以外の生物や、あるいは、ヒトであっても現代的な社会性がかなりの程度に欠けている文明前期的な社会や子供にすらなっていない生後間もない赤ん坊の行動なども対象にして分析を進めています。加えて、実践的、というか、何というか、邦訳タイトルのように事実で説得できないとすれば、果たしてどうすればいいのか、についても実験と実践を進めています。すなわち、何かの行動に結びつけたいのであれば、ポジティブなご褒美を用意し、逆に、何かを思いとどまらせたいのであれば、ネガティブなペナルティを示す、といった例です。もちろん、逆に、他人を説得しようとするときに陥りがちな罠と、それを避ける方法も紹介されています。それらが、それほど判りやすくないイラストとともに示されています。本書もいい読書だった気がします。

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次に、ニケシュ・シュクラ[編]『よい移民』(創元社) です。編者は、ロンドン生まれの英国の小説家・脚本家であり、インドにルーツを持っています。本書では編者も含めて計21人の「よい移民」、すなわち、演劇や文学などの芸術面で一定の成功を成し遂げたり、あるいは、名声を得たりしたアーティスト・クリエイターがエッセイを連ねています。英語の原題は The Good Immigrant であり、2016年の出版です。邦訳タイトルはそのままの直訳のようですが、単数形である点は着目しておきたいと思います。ということで、タイトルとは裏腹に、有色人種の移民として差別に遭遇した経験などの恨みつらみが集められている気もします。移民、特にアジアにルーツを持つ有色人種の移民としてのアイデンティティ、もちろん、英国社会の大きな偏見や差別や無知などを、ある時は否定的に、ある時はユーモアを交えて、繊細かつ巧妙にさまざまな表現力でもって語りかけるエッセイです。かつては、大英帝国として世界の覇権を握り、世界中に植民地を有する「日の没することのない帝国」を築き上げた英国では、もちろん、我が国と同じ島国ながら植民地などから大量の移民が流れ込んでいますが、その中で、移民の人々は「よい移民」、すなわち、お行儀のよく社会に溶け込み同化するモデル・マイノリティであることが、ほぼ強制的に要請されているような気がしますが、それに反発を覚えて、ルーツを強調する移民も少なくありません。そういった移民の視点から英国の白人社会を冷静に分析し、その根本にある何か生理的に嫌なもの、あるいは、緊張感とか、悲哀のようなものが読み取れた気がします。ただ、そういったネガな感情が底流に流れているとしても、移民はヤメにして民族国家の中で生きていくのがベスト、とは私も思わないわけで、こういったいろんな移民のいろんな視点を提供してくれる情報源は歓迎すべきと受け止めています。

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次に、周燕飛『貧困専業主婦』(新潮選書) です。著者は、労働関係の国立研究機関の研究員で、私はこの著者と同じ国立研究機関に在籍していたことがあり、著者と面識があるんではないかと記憶しているんですが、著者近影のお写真では確認できませんでした。学習院大学の鈴木旦教授の奥さまです。ということで、日本の雇用や家族のシステムの中で、本書でも指摘しているように、専業主婦とはダグラス・有澤の法則に従って、比較的所得の豊かな階層に多く見られる形態だと私も考えていましたが、実はそうではないという事実を突きつけています。すなわち、貧困であるにもかかわらず専業主婦として働きに行かないわけです。日本の貧困層の場合、典型的には3類型あり、それは高齢・疾病・母子家庭です。専業主婦ですから、亭主が働きに行っているという理解の下、母子家庭ではないとしても、疾病が多くを占めそうな気もするところ、実は、うつなどの疾病とともに、子育てに注力したい母親が決して少なくないことは初めて知りました。そして、本書の著者は、そういった家族のあり方に関する思考ですから、決してリバタリアン的な新自由主義に基づく個人の裁量に任せるのでもなく、国家が家族のあり方にパターナリスティックに介入するわけでもなく、行動経済学的なナッジを持って方向づけすることを示唆しています。まあ、そうなんでしょうね。でも、本格的に貧困問題に取り組むとすれば、すなわち、家族のあり方をリバタリアン的に個人裁量に任せつつ貧困を解消しようとすれば、ベーシックインカムの導入を真剣に考慮することが必要という気もします。我が家のカミさんはほとんど専業主婦でしたが、さすがに、私はキャリアの国家公務員ですから、一家4人を養うに足るお給料はもらっていました。日本の雇用システムは、何度か書きましたが、亭主が組織のために忠誠を誓って企業スペシフィックな能力をOJTで身につけ、無限定に長時間労働に勤しむ一方で、これまた、主婦は無限定に家庭を支える、という構造になっていました。しかし、高度成長期を終えて雇用の拡大から剰余価値生産を増加させることが困難になり、従って、企業が亭主に十分な支払いをできなくなったため、主婦を雇用に引っ張り出そうとしているわけです。それに対して、共働きをしないと貧困に陥ることを警告する本書は、私から見て少し視点がおかしいような気がします。子供を保育園に出して集団生活をさせれば粗暴でなくなるなんて研究成果を引用したりするんではなく、専業主婦でも貧困でない生活を送れるようなお給料の必要性を主張すべきです。このような企業サイドにベッタリ寄り添った主張は聞き飽きてしまいました。

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次に、トニー・コリンズ『ラグビーの世界史』(白水社) です。著者は、英国の歴史研究者であり、英国スポーツ史学会会長も経験しています。私よりも年下なんですが、デ・モントフォート大学名誉教授だったりします。英語の原題は The Oval World であり、2015年の出版ですが、前回のラグビーのワルードカップ開催前でしたので、我が日本が南アフリカのボクススプリングを破った快挙が盛り込まれておらず、従って、日本ラグビーの比重がやや小さいんではないか、という恨みはあります。ということで、邦訳タイトル通りに、ラグビー200年史を膨大なボリュームでつづっています。かなり大判の書物である上に、注や索引も含めれば軽く500ページを超えるボリュームです。書店で目にした瞬間に諦める向きもあるかもしれませんが、邦訳がとても出来がよくてスラスラと読めます。先週のジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』の邦訳とはかなり違いがあります。ということで、ラグビー200年史というのは、ほとんど伝説として、スポーツ競技のラグビーが英国パブリックスクールのラグビー校で1823年にエリス少年がサッカーのボールを手でもって走り出したことに由来する、とされていますので、ほぼ200年ということになります。ただ、本書では、この故事を明確に否定しており、村の祝祭の時に両チーム合わせて100人超の人数で、きわめて無秩序に始まった協議であり、徐々にルールが整備され、パブリックスクールでのスポーツ教育として取り入れられ、ほかに所得の道を有する上流ないし中産階級におるアマチュアのスポーツとして始まり、少しずつ大衆化して労働者階級の選手が休業補償的な支払いを要求して、アマチュア15人制のユニオンからプロフェッショナル13人制のリーグが分裂し、それ以降、英国、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドから大英帝国の版図に従って世界に広まり、1987年にユニオン方式のラグビーで第1回のワールドカップが開催される歴史が跡付けられています。私はラグビーに詳しくないので、人名やチーム名などに馴染みありませんが、我が国で開催中のワールドカップの参考書として、もっとも読んでおくべき書物の1冊ではなかろうか、という気がします。

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最後に、広尾晃『球数制限』(ビジネス社) です。著者は、野球を中心とするスポーツ・ライターです。タイトルそのままに、高校生を中心とする野球における選手の健康維持のため、特に投手の投球数制限を論じています。ただ、ありがちな両論併記ではなく、圧倒的に投球数制限を支持し、早期に取り入れるべき、との意見を鮮明に打ち出しています。出版時期から、今夏の高校野球の岩手県決勝における大船渡高校の佐々木投手の登板回避は取り上げられていませんが、本書の精神からすれば、国保監督の英断を高く評価していたんだろうと、私は想像します。私は野球の経験はありませんが、中学高校と運動部に所属していましたので、HNK大河ドラマの「いだてん」を見ていても、昔の精神主義的なスポーツの捉え方は世代的にも実体験として知っていますし、非合理的だとも考えています。ですから、私自身も本書で展開されている投球数制限には大賛成です。ビジネス界では、目先の利益という短期的な視点ではなく、長期的な取引を重視する傾向の強い日本で、高校野球だけが勝利至上主義で短期的な選手起用に陥っているのは、理解に苦しむところもあります。例えば、本書にもある通り、正しいフォームで投げていればケガしないというのは正しくなく、本書の例を引けば、スクワットを100回出来る人はいても、無制限にスクワットを続けられるアスリートはいないわけで、野球の投手の投球も同じことだと思います。特に、10代で肉体的に完成していない高校生が、しかも、来年のオリンピックでも「暑さ対策」が声高に叫ばれている中で、真夏のグラウンドで野球するというのは、正気の沙汰ではありません。高校野球の場合、サッカーの国立競技場とは比べ物にならないくらいの存在感を示す甲子園という野球の聖地を目指して、真夏の競技をするわけで、学業との兼ね合いから夏休みに設定するという季節性の問題もあります。本書でも、米国をはじめとする野球先進国における投球数制限についてリポートされており、勝利を最優先にして甲子園を目指す高校野球のアナクロな指導者の目を覚まし、高野連における議論の活性化、というより、即時の結論を願って止みません。

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2019年9月21日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!!!

何となく、3連休が続いたりして読書が進んでいるようで、今週の読書は経済書、というか、未来書や教養書・専門書に加えて小説まで含めて以下の計7冊です。東野作品と宮部作品は、いずれも早大生協で買って読みました。買ったうちで未読なのは伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』を残すのみとなりました。消費税率が10月から引き上げられると、しばらく本は買わなさそうな気がしないでもありません。

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まず、ジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』(SBクリエイティブ) です。著者は、私の知る限りエコノミストで未来学者なのかもしれませんが、もうそろそろ80歳ですし、技術関係がこんなに詳しいとは知りませんでした。大昔の米国レーガン政権期にサプライサイド経済学としてもてはやされたころ、『富と資本』を読んだ記憶があります。たぶん、まだ我が家の本棚にあると思います。ということで、本書では、実に大胆にも、今を時めくグーグルが近い将来にブロックチェーンの技術を基に開発された「ブロックスタック」に打倒され、世界の主役が交代すると予言しています。どうしてそうなるかといえば、一言で、無料サービスにこだわるグーグルは希少資源としての時間消費との矛盾を生じるから凋落するということで、要するに、無料サービスは我々の希少資源であり、万人に共通して1日24時間しかない時間の浪費を促進するから、ということのようです。すなわち、お金を出してなにか買うんではなく、時間を提供しているから、そんな資源の浪費は出来ない、といわけです。逆に、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、私にはよく理解できませんでしたが、要するに、リバタリアン的な理由のように感じました。すなわち、情報が分散処理されており何らかの中央処理機関のようなものが存在せず、他方、すべての参加者が共通の台帳を閲覧し、管理し、記録できる、わけで、何らかの情報処理センターを持っているグーグルとは異なります。ただ、このあたりの立論は強引な気がします。もっとも、私の読解力が不足しているのかもしれません。最後に、私の知る限り、本書は米国などではなかなかのベストセラーになっていますが、我が国での評判とはやや落差があります。テクノロジー関係の馴染みないカタカナ用語がいっぱい並んでいる点を別としても、問題の大きな部分は邦訳の文章が悪い、ということになるのかもしれませんが、私が感じたもうひとつは、400ページあまりのボリュームの中で、半分くらいがビットコインとかイーサリアムなど暗号通貨とそれを可能とするブロックチェーンの説明に費やされているのが読みにくい理由ではないかと思います。私の解釈では、グーグルが凋落するのは、無料サービスと希少な時間の浪費という矛盾を基にする理論武装で、多くのエコノミストの合意を得そうな気もしますが、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、ほとんど理由になっておらず、かなりムリな立論に頼っているために、やたらと事実関係をいっぱい引用して補強する必要性を著者が感じてしまったからではないか、という気がします。タイトル的に、グーグルが落日を迎えるという1点に絞って議論を展開して、グーグルに代わって勃興するグループについては別論とした方がよかったような気もします。読みにくいのを承知の上で、また、凋落するグーグルに対して勃興する勢力の理論付けにかなりムリあるのを承知の上で、それなりの覚悟を持って読み進む必要がありそうです。

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次に、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義』上下(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで、英国のオックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国のプリンストン大学の研究者です。専門分野は青磁思想史・政治理論となっています。私はこの著者の本としては、2年余り前に同じ出版社から出た『ポピュリズムとは何か』を読んで、2017年6月17日付けで読書感想文をアップしています。英語の原題は Contesting Democracy であり、2011年の出版です。上下巻ですが、歴史的な期間で区切られており、上巻では第2次世界大戦まで、下巻は戦後を対象にしています。ただ、上の表紙画像に見られる通り、副題は『20世紀ヨーロッパの政治思想』とされており、21世紀は対象外と考えるべきです。加えて、地理的なスコープは欧州に限られています。すなわち、我が国はもちろんのこと、米国すらも対象とされていません。ということで、上巻では、政治的には第1次世界大戦の結果としてソ連が成立し、経済的には米国を発端とする世界恐慌の結果、従来の地方名望家層に基礎を置く政治体制としての民主主義において、所得が十分あるブルジョワジーが政治に参加するとともに、製造業や商業を基盤とする資本主義的な経済が支配的な欧州において、資本主義と共産主義に対する第3の道としてのファシズム、中でもドイツのナチズムの成立がクローズアップされています。そして、下巻では同じく資本主義ながら、政府が積極的に市場に介入するというケインズ的な混合経済とベバリッジ的な福祉国家が1970年代の石油危機を発端とする大幅なインフレで疑問視され始め、この資本主義的な経済に対して、やっぱり、ソ連的な共産主義が対置されて、その第3の道としてのキリスト教民主主義ないし社会民主主義が模索される、というのが、大雑把なストーリーとなっています。どうしても、著者の出身からドイツが欧州の中心に据えられている気がします。ただ、戦前期から社会民主党が政権を担ってきたスウェーデンなどの北欧もありますし、もちろん、例外はいっぱいです。さらに、歴史的なスコープが20世紀で区切られているので、21世紀的なポピュリズムまでは、まあ、2011年の出版でもあり、BREXITや米国のトランプ大東慮y当選、さらに、大陸欧州でのポピュリズム政党の勢力台頭など、最近の出来事には目が届いていない恨みはあります。ただ、冷戦期からウェーバー的な官僚制が国家統治の主要なツールとなり、西側民主主義国政府だけでなく、むしろ、東側の共産主義国家の方でも官僚制がはびこっているとも指摘しており、今でもBREXITでの議論ではEU官僚が批判の矢面に立たされるなど、ポピュリズムの標的とされる場合すらあります。ただ、本書では著者は戦後欧州の民主主義や憲法秩序は、様々なチャレンジを乗り越えてその強靭さを示してきているということになりますが、無条件に自由と民主主義が侵犯されることはないとまではいえず、あくまで、自由と民主主義は「制度化された不確実性」である、ということになろうかと思います。すなわち、欧州においてすら初期設定が自由と民主主義であるわけではなく、主権者である国民自らがこれらを守ることに意図的に取り組む必要がある、ということなのだろうと私は解釈しています。

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次に、アンドレアス・ヴィルシング & ベルトルト・コーラー & ウルリヒ・ヴィルヘルム[編]『ナチズムは再来するのか?』(慶應義塾大学出版会) です。編者は、ドイツの研究者であり、チャプターごとの著者も同じくドイツの政治関係の研究者が主に執筆に当たっています。というか、ラジオ放送をオリジナルにして、新聞も含めてメディアミックス的に展開されたエッセイを取りまとめています。ドイツ語の原題は Weimarer Verhältnisse? であり、直訳すれば「ヴァイマル状況」という意味だそうです。2018年のヴァイマル共和国建国100年を記念して出版されています。ということで、本編は7章から成っており、原書からの章の組み換えはあるようですが、邦訳書では、政治文化、政党システム、メディア、有権者、経済、国際環境、に加わエて、最後に、外国からのまなざし、となっています。邦訳書には、ヴァイマル共和国略史と訳者あとがきなどの解説が付加されています。邦訳書では第5章に当たる経済のパートの副題が「ヴァイマル共和国の真の墓掘人」と題されており、エコノミストの目から見ても、まったく同感です。というか、ハイパーインフレを招いた通貨発行と緊縮財政の恐るべき組み合わせもさることながら、ケインズ的なマクロ経済政策を先取りするかのような財政拡張的なナチ党の経済政策が大きく上回って、その結果として国民各層、企業経営者も労働者も含めて、有権者の大きな支持を得て政権交代が生じた、ということになろうかと思います。そして、邦訳書のタイトルに設定された問いに私なりに回答しようと試みると、可能性は小さい、ということになろうかという気がします。本書では、あるいは、類書でも、最近の大陸欧州の政治状況、特にポピュリズムの台頭に関して、フランス国民戦のルペン党首とともに、ドイツでは極右とされるドイツのための選択肢AfDが注目されていて、特に地方政府の州議会選挙での躍進が報じられたりして、本書でもAfDとナチ党をなぞらえたり、比較を試みたりする見方が示されています。私は、ドイツ政治の実態を知らないので、何ともいえませんが、少なくとも私の理解する限り、ナチ党が政権に就いたひとつの要因に暴力による威嚇や脅威があったと考えています。すなわち、突撃隊SAや親衛隊SSというナチ党の私兵的な存在が警察や国防軍に入り込み、政府が集中管理する暴力に紛れてナチ党の暴力が国民の恐怖を引き起こして、決してドイツ国民の理性的な判断ではない投票結果をもたらした可能性があると私は考えています。これは、実は、スターリン政権下でのソ連も極めて類似しており、秘密警察が国家権力そのものであった違いだけであろうと思います。その意味で、現在のAfDがかつてのナチ党のSAやSSのような暴力装置をどこまで持っていて使用しているのか、私は知りませんが、21世紀の民主主義国家でSAやSSのような暴力装置が政権奪取にパワーを発揮するという政治状況は、控えめにいっても、あってはならないことだという気がします。

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次に、デイビッド・ウォルトナー=テーブズ『昆虫食と文明』(築地書館) です。著者は、カナダの疫学者、獣医学の研究者です。英語の原題は Eat the Beetles! であり、音楽グループのビートルズ Beatles と甲虫をもじっています。2018年の出版です。ということで、本書のモチーフとなったのは、冒頭にも言及されている通り、2013年に報告された FAO Edible insects: Future prospects for food and feed security のようです。近代から現代にかけて、人類がマルサス主義的な悲観論を克服したのは、アジアなどにおける「緑の革命」による食糧生産、中でも穀物生産の画期的な増加だったわけですが、我が国の明治期にも軍医としても森鴎外がカロリー摂取の点から白米の食事に全面的な信頼を置いていたのに対して、さすがに、21世紀に入れば主食の穀物だけでなく動物性タンパクが必要になりますから、こういった昆虫食のような発想が出るんだろうと思います。特に、本書でも何度も指摘している通り、欧州に起源をもつ人は昆虫食の文化がない一方で、日本の鮨が周辺~世界の中心的な食事になったことから、昆虫食についてもその可能性を秘めていると指摘しています。FAOの研究リポートや本書によれば、昆虫はウシ、ブタなどの家畜の肉に比べて高タンパクで、体によいとされる不飽和脂肪酸や鉄などの造血ミネラルも豊富に含んでおり、養殖するにしても他の家畜に比べて飼料効率が格段によく、発生する温暖化ガスや廃棄物は少なくて済み、その上に、養殖のためのインフラ整備にコストがかからない。とされており、いわゆるSDGsの観点からも人類は昆虫食から得るものが多い、と結論されています。昆虫を食用に用いないというのは、少なくとも宗教的な観点ではありません。広く知られている通り、ブタについてはユダヤ教やイスラム教ではタブーですし、ヒンズー教徒はウシを神聖視していたりもします。世界的にも、養殖の牛や豚などではなく自然の野生生物の食肉を用いたジビエがファッション的な観点からも注目されていますし、日本はもともとイナゴやハチノコなどの昆虫食があったりもします。しかしながら、そうはいっても、私自身は昆虫食をしたことがありませんし、抵抗感があるのも事実です。地球環境やSDGsの観点といわれても、ピンと来ないのも事実です。果たして、どこまで昆虫食が日本や欧米先進国で進むかは、大きな疑問ともいえます。本書でも、事前に私が想像したよりも、写真や図版がとても少ない気がしますが、そのあたりの配慮かもしれないと考えるのはよろしくないんでしょうか。

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次に、東野圭吾『希望の糸』(講談社) です。作者は売れっ子のミステリ作家であり、ガリレオのシリーズなどで有名ですが、本書は加賀恭一郎シリーズの作品で、でも、主役は加賀恭一郎の従弟の松宮脩平だったりします。内容は、2つの独立した家族関係、というか、イベントというか、静的には家族関係で、動的には殺人事件というイベント、ということになろうかという気がしますが、これらが同時並行的に謎として解決される、というミステリに仕上がっています。すなわち、一方は加賀や松宮が仕事として取り組む殺人事件であり、他方は松宮の個人的な出生の事実であり、いずれも謎解きの醍醐味が味わえます。この作者らしい切れ味鋭く、しかも、私の好きな徐々に真実が明らかにされる、という手法です。逆から見て、最後のどんでん返しはありません。ミステリですから、ここまでなんですが、タイトルについて少し考えておきたいと思います。すなわち、タイトルの「希望の糸」とは要するに家族のつながりなんですが、私の目から見て、やや遺伝的、というか、DNAに偏重した家族観ではないかという気がしています。同じような家族のつながりについて、表立ってはいないかもしれませんが、ひとつのテーマとして含んだ小説はいっぱいあり、私の好きな作家の作品として一例をあげると、三浦しをんの「まほろ駅前」シリーズがあります。このシリーズで作者の三浦しをんは遺伝子やDNAよりも、圧倒的に家族として過ごした関係とか時間の長さなどに重きを置いた家族観を披露しています。典型的には、行天と三峯凪子の間の子であるはると行天の関係です。行天のパーソナリティという設定なのですが、遺伝的には正真正銘の親子であっても行天は小さい子供であるはるを受け付けません。逆に、第1作の『まほろ駅前多田便利軒』のラストでは、体格から新生児の取り違えを強く示唆する一家の幸せそうな姿も描かれています。私は、これは男だからという生物学的な要素もあるのかもしれませんが、圧倒的に三浦しをんの家族観を支持します。もちろん、遺伝的なつながりが家族の基礎にあることは決して否定しませんが、家族とは文明以前の生物学的な観点から子孫を残すために結成されたグループなのではなく、社会的な生活を営むためのグループではないか、と私は考えています。その意味で、この作品に少し不満が残らないでもないんですが、少なくとも、松宮の出生の秘密に対する松宮本人と松宮母の受け止めの違いを読者は感じ取ってほしい気がします。私のようにこの作者のファンであれば、読んでおくべきだという気がします。

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最後に、宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社) です。これまた、上の東野圭吾とともに売れっ子のミステリ作家であり、私からクドクドと説明する必要はないと思います。本書は、この作家の恐らく初めての本格的なSF短編集だと私は考えています。なぜに「本格的な」という形容詞を付けたのかというと、今作者の作品の中で、ゲームの原作的な作品や超能力をモチーフにした作品がいくつかあり、基本的には近未来や現代から時代小説でも超能力や『荒神』のような化け物のような非現実的な作品もあるんですが、あくまで「本格的」と形容されるSFは初めて、という気がするからです。この作者の作品はかなり数多く読んでいるつもりですが、読み逃しがあるかもしれませんが、私の知る範囲でそういうことになろうかという気がします。短編集ということで、8編の短編が収録されています。収録順に、「母の法律」、「戦闘員」、「わたしとワタシ」、表題作の「さよならの儀式」、「星に願いを」、「聖痕」、「海神の裔」、「保安官の明日」となります。「母の法律」では、児童虐待防止のためにマザー法が制定され、記憶消去だか、記憶沈殿だかの記憶の操作まで行われる社会での親子関係を描きます。「戦闘員」では、侵略者が監視カメラに化けて出没する中で、リタイアした老人がこの侵略者を破壊する戦闘員となって戦います。「わたしとワタシ」では、45歳のわたしの前に、中学生のワタシがタイムスリップして現れるというコミカルな短編です。表題作の「さよならの儀式」では、古くなり修理部品もままならない家事ロボットを廃棄する際の切ない感情を取り上げています。「星に願いを」では、宇宙人が乗り移って妹が体調を崩したり、駅前で無差別殺人が起こったりします。「聖痕」では、ある意味で神戸の「酒鬼薔薇事件」の犯人を示唆している「少年A」が黒き救世主となって児童虐待の復讐に現れ、鉄槌のユダまで登場します。なお、本編は『チヨ子』に収録されている同タイトルの短編との異同が不明でした。「海神の裔」では、ゾンビというか、フランケンシュタインのように死者をよみがえらせることが国家施策となっていた世界について老女がモノローグで語ります。最後に、「保安官の明日」では、人造擬体をキーワードに大富豪が人生の悲劇の原因を探るためにシミュレーションを行う世界を描き出しています。ということで、各短編作品のSF度はそれほど高くなくて、現在の社会とはホンの少しビミョーに違っているだけなんですが、作者の世界観がすごいと感じさせられました。同時に、マイノリティーや弱者に対する作者のやさしい眼差しが印象的です。宮部ワールドの新しい方向性かもしれません。現代日本を代表する女性小説家の1人の最新作ですから、私のようなファンでなくても読んでおくべきだという気がします。

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2019年9月14日 (土)

今週の読書は経済学史のテキストからラノベまで含めて計9冊!!!

今週は大量に10冊近くを読みました。ただ、ややゴマカシがあって、うち3冊はラノベの文庫本だったりします。大学の経済学史の授業のテキストから始まって、以下の計9冊です。なお、小説の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』だけは買った本で、ほかは図書案で借りています。早大生協で5冊ほど小説ばかり買い求めたんですが、先週取り上げた道尾秀介『いけない』と、今日の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』のほか、残る3冊は宮部みゆき『さよならの儀式』、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』、東野圭吾『希望の糸』です。順次取り上げるつもりですが、あるいは、一気に読み切るかもしれません。

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まず、野原慎司・沖公祐・高見典和『経済学史』(日本評論社) です。著者たちは、いうまでもなく、経済学史の研究者であり、本書は大学の学部生くらいを対象にしたテキストを意図されているようです。ですから、基本的には学術書なんでしょうが、世間で身近な経済分野を分析する経済学の歴史ですので、一般のビジネスパーソンでも十分に読みこなせて、職場でも話題にできるような気がします。おそらく、どのような学問分野にも、xx学史の研究テーマがあり、例えば、数学史や天文学史などが有名ではないかと思います。後者の天文学史では、天動説から地動説に大転換があったりするわけです。その意味で、経済学の歴史である経済学史は、本書で指摘されている通り、そもそも成立がメチャクチャ遅いわけです。通常、古典的なレベルでは、典型的には古典古代のギリシア・ローマやエジプトなどに発祥する学問分野が少なくないんですが、経済学は、どこまで古くさかのぼっても、せいぜい、スミス直前の重農主義や重商主義でしかなく、むしろ、スミスの『国富論』なんぞは、ほかの学問分野では近代と呼ばれそうな気もします。その後の歴史的な経済学の現代までの流れが、極めてコンパクトに取りまとめられています。ただ、惜しむらくは、ものすごく大量の経済学の歴史を詰め込もうとしているだけに、とても大量の人名と理論が登場します。役所の官庁エコノミストをしていたころは、ほとんど何の関係もなかったマルクス主義経済学まで本書ではカバーしていたりします。とても例えが悪いので申し訳ないんですが、まるで、その昔の高校の世界史や日本史みたいな気すらします。中国の諸王朝の名称とそれぞれの皇帝の名を暗記するような勉強に、私のようなこの分野の初学者は陥るような気もします。経済学史の先生方は、このように多くの経済学者の名前を記憶し、それぞれの理論や業績をしっかりと把握しているのでしょうか。とても驚きです。私の記憶が正しければ、日銀の若田部副総裁のご専門が経済学史だったような気がするんですが、確かに、経済学の分野における博覧強記を地で行くような先生であるとのウワサを聞いたことがあります。私自身は、名前だけはよく似ている経済史を学生のころは勉強していました。経済学史がその名の通りに経済学の歴史であるのに対して、経済史もその名の通りに経済の歴史です。途上国や新興国が経済の発展段階を進める際の開発経済学の分野への応用の方が主だという気もします。

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次に、ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(白揚社) です。著者は、米国ハーバード大学の人類進化生物学の研究者です。英語の原題は The Secret of Our Success であり、2017年の出版です。本書で著者は、生物学的な、というか、ダーウィン的な進化だけでなく、ヒトについては文化が進化に大きな役割を果たして点を強調し、文化が人間を進化させ、そうして進化した人が文化を高度化し、高度な文化がさらに人を進化させる、という文化と進化の相乗効果で、ほかの動物に見られない極めて高度な文化・文明を身につけた、ということを実証しようと試みています。確かに、ヒトは個体としては決して強力ではなく、スポーツのようなルールなく素手で対決すれば軽く負けてしまいそうな自然界の動物はいっぱいいます。本書の冒頭で、コスタリカのオマキザル50匹とヒト50人がサバイバルゲームをすれば、おそらく、ヒトが負けるといった事実を突きつけています。その上で、「習慣、技術、経験則、道具、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして後天的に獲得されるあらゆるものが含まれる」と指摘している文化が、火や道具や衣類や言語や、といった文化的進化の産物をもたらし、さらに、これらがヒトの脳や身体に遺伝的な変化をもたらすという意味で、「文化-遺伝子共進化」culture-gene interactions を考えて、これこそがヒトをヒトたらしめている、と強調しています。加えて、文化が社会的な思考や行動を要請し、ある社会集団の構成員が共有している知識の総体としての文化が、食物をどのように獲得するか、個人間の争いをどのようにして仲裁するか、死後の世界はどんなものだと想定するか、何をしてはいけないか、どんな服装をするべきか、などなどを決定しているというわけです。ですから、文化を異にするヨソモノが別の社会的な集団に加わることは、それほど容易ではない、ということになります。また、別の観点から、当然のように、なぜヒトだけがこんな文化を持つことができるのだろう、という疑問が生じます。そして、文化を持つために必要な能力とは何かを考え、文化を形成し、改訂を加え、さらに次世代に伝達していくために必要なヒト固有の生物学的本能にも視点が及びます。人類という意味での集団についても、個別の子供の育て方についても、決定的な影響を及ぼすのは、親から受け継ぐ遺伝子かそれとも環境下、という不毛な論争が続いて来ましたが、集団としての人類の優秀さのもとを解明するためには、どのように他者と知識を共有し、他者から学ぶのかの詳細を解明することを通じて、この論争を終結させる可能性があるような気がします。

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次に、トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房) です。著者は、米国海軍大学教校授であり、ロシア情勢や国家安全保障の研究者です。英語の原題は The Death of Expertise であり、2018年の出版です。基本的に、米国言論界の現状について、かなり上から目線ながら、専門知が尊重されず、議論が不毛のものとなって疲労感ばかりをもたらす現状について警告を発しています。もちろん、米国だけでなく、我が国を含むほかの先進各国にも、いくぶんなりとも共通するところが見出せるような気がします。すなわち、100年ほど前までは、政治経済や言論などの知的活動への参加は一部のエリート階級に限られていたが、現在に続く大きな社会変化でラジオやテレビ、さらにインターネットが普及して門戸は一般大衆に大きく開かれ、こういった方向は多くの人のリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代の到来が期待された一方で、実際には、極めて多くの人が極めて大量な情報にアクセスが可能となり、かつ、知的活動に携わりながら、実は情報や知識を吸収しようとはせず、自らのやや方向違いの信念に固執して、各分野で専門家が蓄積してきた専門知を尊重しない時代を迎えている、ということを憂慮してます。確かに、我が国のテレビのワイドショーなんぞを見ていると、単なるタレント活動をしている芸能人が政治経済に関するコメンテータの役割を果たしているケースも決して少なくなく、私も従来から疑問に思っていたところです。例えば、政府の進める働き方改革でその昔に議論されたホワイトカラー・エグゼンプションについて、プロスポーツを引退したばかりで母児雌マンをしたこともないような元スター選手にコメントを求めても私はムダではないか、と思った記憶があります。これは、いわゆるポストトゥルースやポピュリズムの時代に、自分の意見と合致する情報だけを選び取る確証バイアス、その極端なものとしてのエコーチェンバーやフィルターバブルなどの結果といえます。ですから、健全で熟慮・熟考に基づく議論が成立しません。ただし、逆の面から見て、本書の第6章でも指摘していますが、専門家が常に正しいわけでもなく、本書では取り上げていませんが、鉛を加えたハイオクガソリンやフロンガスを社会生活に導入したトマス・ミジリーの実例などもあります。何が正しくて、何が間違っているのか、私は決して民主主義的な多数意見が常に正しいと考えるわけではありませんが、おうおうにして「みんなの意見は案外正しい」こともあるわけで、健全な常識に基づいて相手に対する敬意を持った議論を重ねて、決して真実ではないかもしれませんが、何らかの一致点に達したいと希望しています。

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次に、ヤクブ・グリギエル/A. ウェス・ミッチェル『不穏なフロンティアの大戦略』(中央公論新社) です。著者は2人とも安全保障に関する研究者ですが、ともに国務省の勤務経験もあり、単なる研究者にとどまらず実務家としての経験もあるようです。英語の原題は The Unquiet Frontier であり、邦訳タイトルはそのまま直訳したようです。2016年2月の出版です。どうして月まで言及するかといえば、本書が出版された時点では、現在のトランプ米国大統領はまだ共和党の中でも決して有力とみなされていなかったからです。ということで、監訳者あとがきにもありますが、本書の結論を一言でいえば「同盟は大切」ということになります。現在、東アジアで日韓関係がギクシャクして、そこに米国が仲介すらできずに、半ば静観していて、逆に、軍事的な負担金の増額を我が国に求めるがごとき政府高官の発言が報道されたりしていて、米国の安全保障面での求心力の低下を私は実感しています。もちろん、マルクス主義的な上部構造と下部構造に言及する必要もないくら位に明白な事実として、米国経済が全般的にその地位を低下させるとともに、軍事的なプレゼンスはもとより安全保障上の発言力も大きく低下し、その上で、現在の米国トランプ政権のような同盟軽視で自国中心主義的な安全保障観が登場したのはいうまでもありません。そういった当然のような最近数十年の安全保障上の動向につき、本書では「探り」probimg という言葉をキーワードに、現在の覇権国であり現状を変更するインセンティブを持たない米国とその同盟国に対し、ロシア・中国・シリアなどの現状変更を目指す勢力が「探り」を入れて来ていると著者たちは感じているわけです。私の感覚からすれば、「探り」とは低レベルの圧力であり、言論を持ってするものもあれば、破壊力の弱い武力行使も含まれるというくらいの意味に取りました。要するに、現状変更を目指す3石は米国と直接の武力対決を目指すのではなく、日韓両国がまさにこれに含まれるフロンティア=周辺に位置する米国の同盟国を切り崩しにかかっていて、韓国はまんまとこれに翻弄されているように見えます。いずれにせよ、私の専門外でありながら、興味の範囲内である安全保障に関する本書は、同盟という観点から米国サイドの安全保障を分析しており、それなりの新味があった気がします。実は、私自身は対米従属から脱却するために日米同盟は廃棄することが望ましいと考えていますが、米国の方から同盟に対する否定的な意見が飛び出す政権が登場したのに、やや戸惑っているのも事実です。

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次に、池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社) です。作者はご存じ売れっ子の大衆小説作家であり、本書はTBSドラマの原作となっており、明日の日曜日が最終回の放映ではなかったかと記憶しています。名門ラグビーチームを抱える大手自動車会社の経営戦略室のエリート社員が、横浜工場の総務部長に左遷されて、自動的にラグビーチームのゼネラルマネージャー(GM)を兼務する、というか、本来の総務部長としてのお仕事よりもラグビーチームのGMとしてのご活躍がほぼほぼすべてとなります。辞任した監督の後任探しから始まって、地域密着型のチーム作り、さらに、ラグビー協会の改革、もちろん、チームの1部リーグの優勝まで、余すところなく目いっぱいの展開です。しかも、この作者らしく、社内政治も目まぐるしく変化し、今までになかったどんでん返しも見られたりします。というのは、この作者の作品の特徴として、半沢直樹シリーズが典型なんですが、白黒はっきりと別れて、主人公のサイドにいて味方するいい人たちと、それに対抗する悪い人たちが明確に分類される傾向があり所、この作品では白だと思っていたひとが黒だった、という展開もあったりします。そして、長らく定年まで役所に勤めた私なんかには想像もできないんですが、大きな会社ではここまでコンプライアンスに問題ある行為を実行する役員がいたりするものか、と感じさせられました。ラグビーですから、大学レベルでは関東の早大、明大、慶大、社会人レベルでもいくつかラグビーチームを持つ会社が実名で言及されたりして、また、監督についても実名で登場したりするんですが、実際に登場するチーム名や選手名は、もちろん、すべてが実在しないんだろうと思います。その点で、やや混乱する読者もいるかも知れません。それから、同じ作者で社会人のノンプロ野球をテーマにした『ルーズベルト・ゲーム』というのも私は読んでいるんですが、競技としてのルールや戦術などについてはラグビーの方が馴染みないんですが、それでも、作品としてはこの『ノーサイド・ゲーム』の方がよく出来ている気がします。私はドラマの方はまったく見ていませんが、明日の最終回を楽しみにしているファンの方も決して期待は裏切られないと思います。

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次に、ブレイディみかこ『女たちのテロル』(岩波書店) です。著者は英国ブライトン在住の保育士・著述家というカンジではないでしょうか。本書は出版社のサイトでは、評論・エッセイに分類されており、確かに、実在の人物や事件を基にしているわけですが、私の目から見て、あくまで私の目から見て、なんですが、真実は計り知れないながらも、かなり脚色もあって、むしろ、事実や実在の人物に取材した小説ではないか、という気がしています。まあ、赤穂浪士の討ち入りを題材にした時代小説のようなもんではないでしょうか、という気がします。したがって、私の読書感想文では小説に分類しておきます。ということで、女たちですから3人の約100年前の女性にスポットが当てられています。すなわち、皇太子爆殺未遂の金子文子、武闘派サフラジェットのエミリー・デイヴィソン、そして、アイルランドにおけるイースター蜂起のスナイパーであるマーガレット・スキニダーです。さすがに、私が知っていたのは金子文子だけで、本書でも言及されている朴烈の膝に寝そべった金子文子の写真も見た記憶があります。残念ながら、特に印象には残っていません。サフラジェットというのはたぶん、suffrage から派生していて、過激な女性参政権論者、アクティビストのようです。最後に、アイルランドのイースター蜂起は事件として知っているだけで、マーガレット・スキニダーについては皆目知りませんでした。いずれ3人とも恵まれない境遇から国家に反旗を翻した100年前の女性たちです。金子文子については、皇太子爆殺未遂の容疑なんですが、爆弾も用意せずに頭の中で計画を巡らせただけで、おそらくは、朝鮮人とともにという偏見もあって、それだけで有罪になったんですから、現在からは考えられもしません。でも、これら3人の女性が国家や権力と対決しつつも、前を向いて時代を生き抜く力の尊さについての温かい眼差しを感じることができました。ただ、金子文子の部分はともかく、先ほどのサフラジェットもそうなんですが、外国語をそのままカタカナにした文章表現は、やや読みにくく流暢な文章というカテゴリーからかなり遠いような気がしました。私はそれほどでもありませんが、それだけで嫌になる読者もいそうな気がします。着目した内容とアンリ・ルソーの雰囲気をたたえた表紙がよかっただけにやや残念です。

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最後に、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 10』、『京都寺町三条のホームズ 11』、『京都寺町三条のホームズ 12』(双葉文庫) です。個の私のブログでは、昨年2018年5月半ばに8巻と9巻の読書感想文をアップしています。その続きの10巻、11巻、12巻を読みました。10巻ではとうとう主人公の葵が5月3日ゴールデンウィーク真っ最中に20歳の誕生日を迎え、清貴と九州を走るJR九州のななつ星、だか、その架空バージョンに乗って婚前旅行、だか、婚約旅行をするストーリーです。そして、11巻は少し小休止で過去を振り返ったりします。このシリーズには第6.5巻というのがあったりしましたから、11巻というよりも10.5巻なのかもしれません。そして、12巻は清貴の修行シリーズに戻って、探偵事務所編です。どこまで続くんでしょうか。あるいは、私はどこまで付き合うんでしょうか?

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2019年9月 8日 (日)

先週の読書は経済書『グローバル・バリューチェーン』や教養書から小説までよく読んで計7冊!!!

昨日に米国雇用統計が入ってしまって、いつも土曜日の読書感想文が今日の日曜日にズレ込んでしまいました。『グローバル・バリューチェーン』や東京大学出版会の学術書といった経済書、さらに、教養書に加えて、道尾秀介の話題の小説まで、幅広く以下の通りの計7冊です。また、いつもの自転車に乗っての図書館回りもすでに終えており、今週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、荒巻健二『日本経済長期低迷の構造』(東京大学出版会) です。著者は、その昔の大蔵省ご出身で東大教授に転出した研究者です。本来のご専門は国際金融らしいのですが、本書ではバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷について分析を加えています。出版社から考えても、ほぼほぼ学術書と受け止めていますが、それほど難しい内容ではないかもしれません。というのは、著者はが冒頭に宣言しているように、特定のモデルを念頭にした分析ではなく、したがって、モデルを数式で記述する意図がサラサラなく、マクロ統計データを基にしたグラフでもって分析を進めようとしているからです。ですから、各ページの平均的な面積で計測したボリュームの⅓から半分近くが文字ではなくグラフのような気が、直感的にします。あくまで直感ですから、もちろん、それほどの正確性はありません。ということで、まったくエコノミスト的ではない方法論ながら、バブル崩壊後の日本経済の低迷について、国内要因と海外要因、あるいは、供給サイドと需要サイド、財政政策と金融政策、家計部門と企業部門、などなど、いくつかの切り口から原因と対応策を考えた上で、企業部門の過剰ストック、という、エコノミスト的な用語を用いればストック調整が極めて遅かった、ないし、うまく行かなかった、という結論に達しています。いくつかに期間を区切って分析を進めていますが、特に、停滞が激しくなったのは1997年の山一證券、三洋証券、拓銀などが破綻した金融危機からの時期であるとするのは、衆目の一致するところでしょう。しかし、結局、「マインドセット」という耳慣れない原因にたどり着きます。それまでの統計を並べた分析とは何の関係もなく、企業部門の行動パターンの停留にある毎度セットに原因を求める結論が導かれた印象です。あえて弁護するとすれば、あらゆる可能性を統計的には叙すれば「マインドセット」が残る、といいたいのかもしれません。でも、わけの判らない結論だけに制作的なインプリケーションがまったく出てきません。あえてムリにこじつけて、本書ではデフレ対策の意味も兼ねて、ストック調整を無理やりに進めて供給サイドのキャパを削減することを指摘しています。かつての nortorious MITI のように各社に設備廃棄を行政指導したりすることが念頭にあるとも思えず、苦笑してしまいました。確かに、私もかつてのリフレ派のように「金融政策一本槍でデフレ脱却」というのは、ここまで黒田日銀が異次元緩和を続けてもダメだったんですから、そろそろ考え直す時期に来ているというのは理解します。しかし、本書がその意味で役立つとはとても思えず、「やっぱり、現代貨幣理論(MMT)ですかね」という気分になってしまいました。ちゃんと勉強したいと思います。

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次に、猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』(日本経済新聞出版社) です。著者はJETROアジア経済研究所のエコノミストです。途上国経済の分析や開発経済学の専門家が集まっているシンクタンクですが、実は、本書の副題も「新・南北問題へのまなざし」とされていて、単純にサプライチェーンを新たな呼び方で分析し直しているわけではありません。ただ、本書はほぼ学術書と考えるべきで、一般的なビジネスパーソンにも十分読みこなせるように配慮されていますが、それなりにリファレンスにも当たって読みこなす努力があれば、各段に理解が深まるように思います。もちろん、モデルを説明するのにはビジュアルな図表を用いて数式はほぼ現れない、という配慮はなされています。ということで、本書のタイトルではなく、一般名詞としてのグローバル・バリュー・チェーン(GVC)については、本書でも参照されているように、PwCのリポートでデジタル経済におけるサプライチェーンの特徴づけがなされていて、従来のような直線的な調達・生産・流通といったルートから顧客に届けるんではなく、それぞれの段階に応じてサプライチェーンを管理する必要性が指摘されています。ただ、本書はそういったマネジメントや経営学的なサプライチェーンではなく、もっと純粋経済学的な理論と実証の面からGVCを分析しています。その観点はいくつかありますが、第1に、産業連関表というマクロ経済の鳥観図の観点からの分析です。付加価値ベースで、どの国でどの産業の製品をアウトプットとして製造しているか、そのためにどの産業の製品をインプットとして用いているか、関連して雇用なども把握できる分析ツールが産業連関表であり、本書では世界経済レベルの連結した国際産業連関表をベースにした議論がなされています。第2に、最新の貿易理論の視点です。古典的ないし新古典派的な経済学では、リカードの比較生産費説に始まって、サムエルソン教授らが精緻化を図りましたが、本書でも指摘されているように、モデルのいくつかの前提を緩めて現実に近づけていく中で、クルーグマン教授らの新貿易理論、さらに、メリッツ教授らの新・新貿易理論に到達し、さらに、GVCの分析から新・新・新貿易理論まで展望しています。第3に、途上国や新興国の経済開発に関する視点です。従来は、直接投資などで外資を受け入れ、垂直的な向上生産を丸ごと途上国や新興国に資本や技術を移転するという観点でしたが、GVCでは生産の部分的な貢献により先進国から技術やマネジメントの導入が可能となり、比較優位がさらに細かくなった印象を私は持ちました。その昔、リカードは英国とポルトガルで綿織物とブドウ酒の例で比較優位に基づく生産の特化をモデル化しましたが、すでに、1990年代には半導体の前工程と後工程の分割など、生産の細分化により世界中で幅広く生産を分散化するという例が見られています。本書冒頭では、アップルのiPhpneが米国カリフォルニアでデザインされ、中国で生産された、という、それはそれで、少しややこしい生産ラインについて言及していますが、いろんなパーツを持ち寄ってアッセンブルするという生産が決して例外ではなくなっています。そして、最後に、そういった生産工程の一部なりとも自国に取り込むことにより、工学的なテクノロジーや経営的なマネジメントなどの導入を通じて途上国や新興国の経済開発に寄与する道が開かれたわけです。こういった幅広い観点からGVCの理論的・定量的な分析が本書では進められています。ただ、その前提として自由で公正な貿易システムが不可欠です。現状の米中間の貿易摩擦はいうに及ばず、世界的に自国ファーストで政治的・経済的な分断が進む方向はエコノミストとして、特に、私のように自国の経済はもとより、途上国や新興国の経済発展にも目を配る必要を感じているエコノミストには、とても疑問が大きいと考えています。

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次に、本川裕『なぜ、男子は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、統計の専門家で「統計探偵」を自称し、財団だか社団だかのご勤務の傍ら、ネット上の統計グラフ・サイト「社会実情データ図録」を主宰しているんですが、私の記憶が正しければ、役所からはアクセスできなかったです。理由はよく判りません。その昔は、マンキュー教授の Greg Mankiw's Blog にもアクセスできませんでしたから、私が文句をいって見られるようになったこともありました。どうでもいいことながら、私が役所に入った際に上司の局長さんは「景気探偵」を自称し、シャーロッキアンだったりしました。今年亡くなられたところだったりします。ということで、前置きが長くなったのは、本書の中身にやや疑問がないわけではないためで、特に、タイトルにひかれて社会生態学的な若者論を期待した向きには残念な結果となりそうで、本書はひたすら統計をグラフにして楽しんでいる本です。ただ、統計のグラフからその原因を探ろうとしているところが「探偵」を自称するゆえんなんだろうと思いますが、因果関係にはほとんど無頓着なようで、タイトルになった「草食化」についてはいくつか統計的なグラフを示した後、その原因は統計やグラフとは何の関係もなく世間のうわさ話や著者ご自身の思い込みから類推していたりします。しかも、著者の主張する「草食化」の原因たるや、原因か結果かが極めて怪しいものだったりします。2つのグラフを書いて見て時期が一致いているから、というのが理由のようです。もちろん、経済学の分野ではグレンジャー因果という概念があって、先行する事象をもって原因と見なす計量分析手法が一定の地保を占めていて、実は私の査読論文もこれを使ったりしているんですが、それならそれで明記すべきですし、時系列の単位根検定などもあった方がいいような気もします。また、エンゲル係数の動きの解釈なんか、私から見ればムリがあるような気がしないでもありません。加えて、統計以外のトピックから持って来るとすれば、高齢者就業率なんかはいわゆる団塊の世代の特異な動向にも言及する必要があるような気がするんですが、そのあたりはスコープにないのかもしれません。ですから、何かの経済社会的な現象についての原因を探るよりは、その経済社会的な現象そのものが世間の見方とは少し違う、という点を強調するしかないようで、世間一般の見方、すなわち、常識と少し違うという主張が本書の主たる内容であると考えるべきです。半年ほど前の今年2019年3月30日付けの読書感想文で、ゲアリー・スミス『データは騙る』を取り上げましたが、本書で解説されているうちのいくつかが該当しそうな気すらします。マーク・トウェインの有名な言葉に、「ウソには3種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして、統計である」という趣旨の格言がありますが、ひょっとしたら、ホントかもしれない、と思わせるものがありました。少なくとも、今はポストトゥルースの時代ですし、平気で情報操作がなされるわけですから、世間一般に解釈されている内容と別の事実が統計から浮かび上がってくるのであれば、まず、それを健全なる常識に照らし合わせて疑ってみるべきです。もう少し、通説とか、一般教養とか、健全なる常識というものをしっかりと持った上で、統計的あるいは計量的にそれを裏付ける努力をすべきであり、悪質な改ざんや意図的なごまかしとは違う次元で、本書はそれなりに問題を含んでいる可能性があることを指摘しておきたいと思います。私の学生時代にブルーバックスから出た古い古い本で『統計でウソをつく法』というのをしっかり勉強する必要があるのかもしれません。少なくとも、統計から得られる事実を、自分の思い込みや世間のうわさ話で解釈するのはムリがあるような気がします。その典型が「草食化」なのかもしれません。

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次に、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』(弘文堂) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の研究者であり、米英における白人労働者階級の研究が専門のようです。英語の原題は The New Minority であり、2016年の出版です。邦訳書のタイトルはかなり直訳に近い印象です。ということで、訳者あとがきにもあるように、原書が出版された2016年とは英米で2つの国民投票におけるポピュリズム的な結果が世界を驚かせた年でした。英国のEU離脱、いわゆるBREXITと米国の大統領選挙でのトランプ候補の勝利です。これらの投票結果を支えたのが、本書でいうところの白人労働者階級であり、民族的にも人種的にも、かつては英米で多数を占めていたにもかかわらず、現在では新しい少数派になっている一方で、少なくとも2016年の英米における国民投票では大きな影響力を発揮した、ということになります。その英米両国における白人労働者階級について、英国の首都ロンドン東部と米国のオハイオ州においてフィールドワークを行い、計120人、うち約3割の35人はエリート層から選ばれた対象にインタビューを実施するとともに、定量的な分析も実施しつつ、いろんな面からの英米両国における白人労働者階級の実態を明らかにしようと試みています。ですから、というわけでもありませんが、本書はほぼほぼ完全な学術書です。第2章ではかなり広範囲な既存研究のサーベイがなされていて私もびっくりしましたし、フィールドワークのインタビューでも、定量分析でもバックグラウンドにあるモデルがよく理解できます。というか、少なくとも私には理解できました。そして、これらの白人労働者階級をアンタッチャブルで剥奪感大きなクラスとして見事に描き出しています。ポピュリズムの分析で、特に、英米の白人労働者階級にスポットを当てたものとして、この私のブログの読書感想文でも数多くの文献を取り上げていますし、訳者あとがきにも取り上げられていますが、本書は遅れて邦訳されたとはいえ、第一級の内容を含んでいて、通俗的ともいえるナラティブで一般読者を納得させる上に、きちんとモデルを背景に持った学術的な分析も十分に含んでいます。最後に、本書からやや離れるかもしれないものの、私が従来から強く思うに、こういった白人労働者階級は、かつてミドルクラスであり、特に英米両国に限らず欧米各国では広くマジョリティであったわけですが、その階層分解の過程で、20世紀初頭のロシアにおける農民層分解と同じように、何らかの左派のリベラル勢力がスポットを当てて、白人労働者階級の利益を代表して政策を打ち出すことが出来ていれば、ひょっとしたら、右派的なポピュリズムとは逆の目が出ていた可能性があるんではないか、という気がします。繰り返しになりますが、強くします。現在の英国労働党におけるコービン党首の打ち出している方向とか、米国民主党のサンダース上院議員の政策が、それを示唆しているように私は受け止めています。金融政策では為替動向を見据えつつ緩和を推進するとともに、財政政策では反緊縮でしょうし、企業の法人税を引き下げるのではなく、国民の雇用を確保して所得増を目指す方向です。

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次に、マーティン・プフナー『物語創世』(早川書房) です。著者は、米国ハーバード大学の演劇学や文学の研究者です。英語の原題は The Written World であり、2017年の出版です。地政学という言葉は人口に膾炙していますが、最近では経済地理学というのもありますし、本書はそういう意味では地理文学ないし地文学、ともいえる新しいジャンルを切り開こうとするものかもしれません。というのは、著者が著名な文学、ないし、英語の現タイトルのように書かれた記録に関する場所を訪れた経験を基に、その書かれた記録がひも解かれているからです。取り上げる対象は、聖書から始まって、「ハリー・ポッター」まで、本とか書物と呼ばれるモノなんですが、中身によって宗教書のようなものから、もちろん、小説がボリューム的には多くの部分を占めるんでしょうが、新聞やパンフレット、あるいは、宣言=マニフェストまで幅広く対象としています。それらの対象となる書物の中から、著者は「基盤テキスト」というものを主張し、これこそが世界に幅広くかつ強い影響力を及ぼす、と考えているようです。その典型例はいうまでもなく「聖書」であり、キリスト教政界にとどまらず、幅広い影響力を有しています。影響力が強すぎて、さすがに、地動説こそ広く受け入れられましたが、例えば、宇宙や世界の始まりに関するビッグバン、あるいは、ダーウィン的な進化論を否定するような非科学的な考え方すら一部に見受けられる場合もあったりします。これらの基盤テキストとして、本書では聖書に加えて、古典古代の『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』、さらに、やや宗教色を帯びたものも含めて、ブッダ、孔子、ソクラテス、『千夜一夜物語』、中世的な騎士道を体現しようとする『ドン・キホーテ』、などが解明され、我が国からは世界初の小説のひとつとして『源氏物語』が取り上げられています。異色な基盤テキストとしては「共産党宣言」が上げられます。これらの基盤テキストの著者に本書の著者のプフナー教授がインタビューした本書唯一の例が、第15章のポストコロニアル文学に登場するデレク・ウォルコットです。セントルシア出身の詩人であり、1992年にノーベル文学賞を授賞されています。ちょうど、私が在チリ日本大使館の経済アタッシェをしていて、ラテン・アメリカに在住していた時期であり、しかも、1992年とはコロンブスの新大陸発見からまさに500年を経た記念すべき年でしたので、私もよく記憶しています。当時、チリ人とついついノーベル文学賞の話題になった折り、「日本人でノーベル文学賞受賞者は何人いるか」という話題になり、1995年の大江健三郎の受賞前でしたから川端康成たった1人で悔しい思いをした記憶があります。というのは、その時点でチリ人のノーベル文学賞受賞者は2人いたからです。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと革命詩人のパブロ・ネルーダです。ウォルコットもそうですが、日本で的な短歌や俳句を別にすれば、我が国の詩人の詩が世界的に評価されることは少ないように私は感じています。詩に限らず小説も含めて、スペイン語や英語といった世界的に広く普及している国際言語を操るラテン・アメリカ人と違って、日本人や日本語のやや不利なところかもしれないと感じたりします。やや脱線しましたが、本題に戻って、小説や詩といった文学に限定せず、世界的に影響力大きい基盤テキストについて、地理的な要素を加味しつつ、それらが「書いたもの」として記録された意味を考える本書はなかなかに興味深い読書でした。今週一番です。

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次に、須田慎太郎『金ピカ時代の日本人』(バジリコ) です。著者は報道写真家であり、本書の期間的なスコープである1981年から1991年の約10年間は、主として、我が国における写真週刊誌第1号として新潮社から1981年に発効された「フォーカス」の専属に近い写真家であったような印象を私は持ちました。我が国では、写真家の先達として、賞にもなっている木村伊兵衛と土門拳があまりにも有名ですが、本書の著者は報道写真ということですから、後者の流れをくんでいるのかもしれません。というのは、木村伊兵衛はどちらかといえば、ということなんですが、人物や風景などのポートレイトが多いような印象を私は持っているからです。現在では、写真の木村賞といえば、小説の芥川賞になぞらえられるように、写真家の登竜門として新人写真家に対して授与され、他方、土門賞といえば、小説の直木賞のように、報道も含めてベテランで大衆的な写真家に授与されるような傾向あるものと私は理解しています。なお、「フォーカス」のような写真雑誌としては、海外では Life などが有名ですし、我が国では考えられないんですが、社交誌のような雑誌も発行されていたりします。実は、私が1990年代前半に在チリ日本大使館に勤務していた折、当地の Cosas という社交誌にチリの上院議員とともに収まった写真が掲載されました。今でも記念に持っていたりします。さらに、著者は定年退職したばかりの私の1年年長であり、本書の時期的なスコープがほぼほぼ私の社会人スタートと重なっています。しかも、タイトルに「金ピカ時代」、たぶん、英語では Gilded Age と呼ばれ、特に米国では南北戦争終了後の1870~80年代の急速な発展期と目されていますし、本書でも1981~91年はバブル経済の直前とバブル経済の最盛期と見なしているようです。まあ、いろんな視点はあるわけで、日銀的に、その後のバブル崩壊のショックまで視野に入れて、バブル期を評価しようとする場合もあるんでしょうが、私のようにその時代を実体験として記憶している向きには、華やかでそれなりに思い出深い時期、と見る人も少なくないような気もします。その後、我が国のバブルは崩壊して、私も海外の大使館勤務で日本を離れたりします。しかも、本書では写真家が著者ですので、著述家や作家と違って、被写体がいるその場に臨場する必要があるわけですから、とても迫力があります。もちろん、バブル経済直前とその最盛期の日本ですから、本書でも言及されているロバート・キャパ、あるいは、マン・レイのように戦場の写真はまったくありません。日本人でも沢田教一のように戦場の写真を撮り、戦場で死んだ写真家もいましたが、まあ例外なのかという気はします。架空の写真家としては吉田修一の小説の主人公である横道世之介がいますが、写真家としての活躍はまだ小説にはなっていません。本書では、上の表紙画像に採用されているようなAV女優に囲まれる村西とおる監督とか、あるいは、当時のトップレス・ノーパン喫茶の取材などの際の写真、といったくだけたものから、政治家や財界人などの写真、あるいは、山口組3代目組長の妻や4代目組長の写真などなど、歴史的な背景の記述とともに写真も幅広く収録されています。ただ、私の目から見て、なんですが、経済は人が出て来ませんので写真になりにくい恨みはありますが、スポーツの写真がかなり少ない印象でした。報道写真としてはスポーツも必要で、特に本書のスコープの中には1985年の阪神タイガース日本一が含まれますので、やや残念な気はします。

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最後に、道尾秀介『いけない』(文藝春秋) です。著者は、なかなか流行しているミステリ作家であり、私も大好きな作家の1人です。作品の8割方は読んでいると自負しています。この作品は、私の目から見て、「xxしてはいけない」という各賞タイトルが付いた3章の中編ないし短編集と考えています。連作短編集です。ただ、最後のエピローグも含めて4章構成の連作短編集とか、あるいは、全部ひっくるめて長編と考える向きがあるかもしれません。全体を通じて、この作家特有の、何ともいえない不気味さが漂い、ややホラー仕立てのミステリに仕上がっています。特に、第1章は倒叙ミステリではないかもしれませんが、実に巧みに読者をミスリードしています。そして、この第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、アンソロジーに収録されていて、私も読んだような記憶がかすかになくもなかったんですが、なにぶん、記憶容量のキャパが小さいもので、実に新鮮に読めたりしました。ただ、第2章以降も含めて、十王還命会なる宗教団体を中心に据えたミステリに仕上げた点については、疑問に思わないでもありません。もちろん、ホックの短編「サイモン・アーク」のシリーズと同じように、いかにも、近代科学では説明できない超常現象のように見えても、近代科学の枠を決して超えることはなく、その近代科学と論理の範囲内で謎が解ける、という点については高く評価するものの、宗教団体、特に、新興宗教というだけで、何やら胡散臭いものを感じる私のような読者もいることは忘れて欲しくない気もします。特に、本書の殺人事件は警察レベルではすべてが未解決に終わるんですが、その背後に宗教団体がいては興醒めではないでしょうか。ただ、読後感は決して悪くなく、上手く騙された、というか、何というか、各章最後の10ページほどで真実が明らかにされ、大きなどんでん返しが体験できます。私自身は、どちらかというと、ディヴァー的なものも含めて、ラストのどんでん返しよりも、タマネギの皮をむくように、徐々に真実が読者の前に明らかにされるようなミステリ、例えば、最近の作風では有栖川有栖の作品などが好きなんですが、こういったどんでん返しも、本書のように読後感よくて上手く騙された感がありますので、いいんではないかという気がします。実は、オフィスから帰宅の電車で読み始め、家に帰りついてから夕食も忘れて一気読みしました。250ページほどの分量というのも適当なボリュームだった気がします。なお、先週の読書のうち、本書だけは買い求めました。借りようとしても待ち行列があまりに長かったからで、加えて、来月から消費税率が引き上げられますので、小説ばかり何冊か買い求めたうちの1冊でした。本書を含めて5冊ほど早大生協で買い求めましたので、少しずつ読んでいこうと考えています。

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