2018年12月 9日 (日)

先週の読書は経済・金融の専門書や話題の海外ミステリをはじめ計7冊!

昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書日が1日多くなったこともあり、先週の読書は計7冊です。経済や金融の専門書に歴史分野などの教養書、さらに、話題の海外ミステリなどなど、盛りだくさんに以下の通りとなっています。今週もすでに図書館回りを終え、経済書や金融専門書など数冊を借りてきています。

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まず、馬奈木俊介[編著]『人工知能の経済学』(ミネルヴァ書房) です。経済産業総研(RIETI)に集まった研究者による研究成果であり、タイトルといい、馬奈木先生の編著であることからも、かなり期待したんですが、さすがに、せまいAIだけの研究はまだ成り立たないようで、かなり広くICT技術の進歩に関する経済学の論文集と考えるべきです。特に、最後の第Ⅳ部のAI技術開発の課題に含まれているICT技術と生産性については、まだ、生産工程にAIがそれほど実装されているわけではなく、チェスや囲碁といったボードゲームやクイズ番組でチャンピオンを破ったからといっても、特定の産業の生産性が向上するわけではありません。もちろん、AIならざるICTばかりが取り上げられているわけではなく、ドローンや自動運転技術の開発なども含む内容となっています。英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる有名な研究も着目されており、AI導入に伴う雇用の喪失についての結果は、極端であると結論しています。また、第Ⅱ部のAIに関する法的課題といったタイトルながら、選択理論においてはゲーム理論のナシュ均衡をはじめとして経済学の思考パターンが応用されており、タイトル通りの狭義AIだけでなく、AIをはじめとする幅広いICT技術の経済学と考えた方がよさそうです。

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次に、ジョナサン・マクミラン『銀行の終わりと金融の未来』(かんき出版) です。著者にクレジットされているジョナサン・マクミランとは架空の存在であり、実は2人の人物、すなわち、マクロ経済学者と投資銀行家という意外な組み合わせと種明かしされていますが、誰かは明記されていません。英語の原題は The End of Banking であり、2014年の出版です。ということで、本書の定義する「バンキング」とは、信用からマネーを作り出すこと、と定義し、産業経済時代には小口の短期的な流動性高い預金から大口の貸付を行って資本蓄積を進める必要あったものの、デジタル経済時代には、本書でいうソーシャルレンディング、我が国では一般にクラウド・ファンディングと呼ばれる手法により、金融機関に小口の預金を集中させることなく資金調達が可能となっており、本書で定義するバンキングなしの金融活動は可能であるし、望ましい、と結論しています。そして、そのひとつの方法としてナローバンキング、すなわち、投資行為なしに決済だけを業務とする銀行・金融機関などを提唱しています。私はなかなか理解がはかどらなかったんですが、現時点の金融システムは、ある程度は、政府や中央銀行がデザインしたものも含まれるとはいえ、それなりに資本制下で歴史的な発展を遂げてきたものであり、政府や中銀の強力な規制により著者の目論むようなバンキングのない金融システムを構築する合理性が、単に、金融危機の回避だけで説明でき、国民の納得を得られるのか、という疑問は残りました。さらに、その上で、金融機関による決済業務の重要性について、キチンとした分析ないし説明がなされるべきではないか、と思いますし、自己資本比率の引き上げによりマネーの創造の上限を抑制できるわけですから、自己資本比率の引き上げとの違いについてももう少し詳しい議論の展開が求められるような気がします。とても良い目の付け所なんですが、少し、そういった点で、手抜きではないにしても、説明不足あるいは不十分な考察結果のような気がします。

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次に、スティーブン・レビツキー & ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方』(新潮社) です。著者は2人とも米国ハーバード大学の研究者であり、英語の原題は How Democracies Die となっていて、2018年の出版です。タイトルからも明らかな通り、最近におけるポピュリズムの台頭を民主主義の危機と受け止め、特に米国トランプ政権が多様性を認め寛容な米国民主主義に対する大きな挑戦をしている点を、いかに米国の伝統的な民主主義を守るか、という観点から考察を進めています。そして、ひとつのゲートキーパーとして、以前は政党やその指導者が過激勢力を分離・無効化、ディスタンシングし、インサイダーが査読していたのが、シチズンズ・ユナイテッド判決以降に少額寄付も含めて外部からの政治資金が膨大に利用可能となり、その昔の大手新聞やメジャーなテレビなどの伝統的なメディア以外のCATVやSNSなどの代替的なメディアで知名度を上げる道が開かれた点をあげています。トランプ政権の戦略について考察を進め、司法権などの審判を抱き込み、主要なプレーヤーを欠場に追い込み、対立勢力に不利になるようなルール変更を行う、の3点の戦略で典型的な独裁政権と同じと結論しています。さすがに、あまりに刺激的と著者が考えたのか、授権法によるナチスの独裁体制の確立やイタリアにおけるファシスト政権などを引き合いに出すことはためらっているように見えますが、戦後のマッカーシーズムはいくつかの点で参照されており、米国的な寛容な民主主義を取り戻すための一考にすべきような気がします。

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次に、氏家幹人『大名家の秘密』(草思社) です。著者は我が国近世史を専門とする歴史学者だそうですが、国立公文書館勤務とも聞いたことがあります。私は詳細を知りません。本書は上の表紙画像に見られる通り、江戸期の大名家、特に、水戸藩と高松藩の藩主について記した小神野与兵衛『盛衰記』を中心に、その後年に『盛衰記』について徹底的に検討を加えて削除と加筆をほどこした、というか、主君に対するやや冒涜的な内容を徹底的に批判した中村十竹『消暑漫筆』、加えて、『高松藩 盛衰記』などの類書を読み解いた結果を取りまとめています。私は、フィクションの時代小説ながら、かつて冲方丁の『光圀伝』を読んだことがありますので、光圀とその兄の間で子供を交換した、などの水戸藩と高松藩の歴史については、それなりに把握しているつもりでしたが、なかなか、高松藩の名君藩主の動向など、興味深いものがありました。基本的に、戦国期を終えて3代徳川家光くらいからの文治政治下では、武士は戦闘要員たる役割を終えて役人化している中で、さすがに、大名=藩主だけは役人が成り上がるのではなく、代々家柄で決まるものであり、圧倒的に家臣団から超越した存在ですから、現在の公務員の事務次官とは大きく異なるわけで、もっと大胆、というか、当時の時代背景もあって独善的に決断を下していたものだと私は想像していたんですが、名君とはこういう思考パターン、行動様式を持つのかと感心してしまいました。そして、部下たる侍も武士道や忠義一筋、といったステレオ・パターンと異なり、かなり実務的、実益本位の面があったというのも、薄々知識としては持っていたものの、歴史書に触れて感慨を新たにした気がします。第3章の子流しと子殺しについては、必ずしも大名家をフォーカスしたものではなく、ややおどろおどろしい世界ですので、読み飛ばすのも一案か、という気がします。

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次に、鹿島茂・井上章一『京都、パリ』(プレジデント社) です。著者は明治大学の仏文学者と京都の建築史の専門家で『京都ぎらい』がベストセラーになった井上先生です。共著というよりは、対談を収録しています。タイトル通りに、パリと京都だけでなく、フランスと日本を対照させた文化論なども展開しています。私が印象的だったのは第5章の食文化で、食べ物、というか、食文化については京都ではなく大阪、パリではなくローマ、というのがおふたりの共通認識で、なかなか参考になりました。また、鹿島先生が最近のフランス語の変化について判りやすく、ガス入りの水がかつての eau gazeuse から eau pétillante が主流になった、とのことで、私が大昔に読んだスタンダールの『赤と黒』にムッシュ95という人が登場し、どうしてこんなあだ名かというと、95をquatre-vingt-quinze(4x20+15)というその時点、というか、今現在そうである表現ではなく、nonante-cinq(90+5)という昔ふうの表現をするそうで、フランス語とは数の数え方という基礎的な表現ですらかなり短期間に変化する言語である、という印象を受けた記憶があり、それを思い起こしてしまいました。もっとも、ベルギーではまだ90をnonante-cinqで表現する、ということはEU勤務の経験ある友人から聞いたことがあります。といったことを早くも始まった忘年会でおしゃべりしていると、日本でも100年ほど前に「ひい、ふう、みい」から「いち、に、さん」に変更されたんではないのか、と反論されてしまいました。それはともかく、第2章から第3章にかけては、フェミニストにはそれほど愉快ではない論点かもしれませんし、かなり「下ネタ」的な内容もあったりするという意味で、品位に欠けると見なす読者もいるかも知れませんが、私が読んだ範囲でも、井上先生の『京都ぎらい』はかなり斜に構えた本でしたので、そういった観点で文化論とかいうのではなく半分冗談のつもりで軽く読み飛ばすべき本なのかもしれません。

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最後に、A.J.フィン『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』上下(早川書房) です。著者はエディタから本作品で作家デビューを果たしています。英語の原題は日本語訳そのままに、2018年の出版です。ということで、主人公のアナ・フォックスはアラフォーの精神分析医であるものの、夫と娘の生活と離れて暮らし、広場恐怖症のためにニューヨークはハーレムの高級住宅街の屋敷に1年近くも閉じこもって暮し、古いモノクロ映画のDVDを見て、ワインを浴びるほど飲み、そして、隣近所を覗き見して場合により一眼レフのデジカメに収める、という生活を送っています。そして、そのご近所で1人の女性が刺殺されるのを偶然にも見てしまいます。いろんな物的証拠が主人公の精神異常性を指し示していながら、実は、最後にとても意外な殺人犯が明らかになる、というストーリーです。決して、本格推理小説のような謎解きではありませんが、ミステリの範疇には入りそうな気がします。私は精神状態の不安定な主人公の動きの中で、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』と同じプロットではなかろうか、と考えながら読み進んだんですが、最後の解説ではギリアン・フリンによる『ゴーン・ガール』との比較をしていたりしました。『ゴーン・ガール』では妻が夫を殺人犯に仕立てようとする中で、最後のどんでん返しは、何と、この夫婦が仲睦まじく夫婦生活を再開する、というところにオチがあったんですが、本書はそういったオチはありません。ただひたすら意外などんでん返しが待っていて、サイコパスの犯人が明らかになるだけです。その分、やや『ゴーン・ガール』から見劣りすると受け止める読者もいそうな気がします。実は、私もそうです。出版社の謳い文句ながら、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに初登場で1位に入る快挙を成し遂げ、その後も29週にわたりランクインした、とか、英米で100万部以上の売り上げを記録した、とか、早くも映画化されて来年2009年の封切り、とか、宣伝文句に大いに引かれて借りて読んでみたんですが、少し、私の期待するミステリ小説とは違っているかもしれません。なお、どうでもいいことながら、上巻巻末に主人公などが見ているモノクロの古いフィルム・ノワールのリストが収録されていますが、加えて、本書で言及されている処方薬の効能書きなんぞも必要ではないか、と私は感じてしまいました。

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2018年12月 1日 (土)

今週の読書は何と経済書と経営書ばかり計8冊!!

先週末にアップした先週と先々週の読書感想文は、めずらしくも、ほとんど経済書らしい経済書がなかったんですが、今週の読書はその反動で10冊近く経済書・経営書ばかりでした。日銀関連の話題の本を含めて、以下の通り計8冊です。

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まず、白川方明『中央銀行』(東洋経済) です。著者はご存じの通り白い日銀のころの総裁であり、私の実体験から知る限り、今世紀初頭の速水元総裁に次いで、日銀総裁として2番めに無能だった人物です。もちろん、上から目線バッチリで、ほとんどのトピックについて自分が正しかった旨を主張しています。しかし、私が見ていた限りでは、リーマン証券が破綻した後の Great Recession の際、金融政策が後手に回り、市場はもちろん政府・国会などからの要求が激しくなると金融緩和策を繰り出し、「追い込まれ緩和」といわれたのは記憶に残っています。デフレを人口動態に起因する事態と「発見」しながら、藻谷浩介『デフレの正体』の著作を引用するでもなく、2012年の民主党から自民党への政権交代の直前から円安が急速に進んだのは、アベノミクスの金融緩和策への期待ではなく、ギリシアなどにおける欧州債務危機の後退から、円の安全資産としての安全性が低下したからである、といった主張には唖然としてしまいました。民主党政権下で当時の菅総理の辞任を受けての代表選で、野田候補以外はリフレ的な主張をしていて、暗澹樽気持ちになったというのは正直でいいとしても、市場や政府や国会から日銀無能説の大攻勢を受けていた中で、共産党の参議院議員だけが日銀の理解者だった、なんてことは、思っても著書に書くべきかどうか迷わなかったんでしょうか。唯一、中央銀行の独立性とは目標の独立ではなく、手段の独立、すなわち、オペレーショナルな独立性である、と記している点はやや意外でした。ただ、最後の方の p.672 で著者ご自身も認めているようで、日銀白川総裁の5年間の任期中に何と2度の政権交代があり、総理大臣が6名交代した、と記していますが、そのもっとも大きな原因を作った人物を1人だけ上げようとしたら、それは当時の日銀白川総裁その人であった、という事実にはご本人はまったく気づいていないようです。さらに、付け加えるとすれば、2012年12月の第2時安倍内閣成立から国政選挙で与党が連戦連勝なのは、これもその最大の功労者は現在の日銀黒田総裁である、という点は忘れるべきではありません。米国クリントン大統領の選挙キャンペーンのスローガンであった "It's the economy, stupid!" はかなりの程度に普遍的に成り立つわけです。

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次に、大村敬一ほか『黒田日銀』(日本経済新聞出版社) です。上の表紙画像に見えるように、7人のマクロ経済学や金融の専門家が、6年余りに及ぶ黒田日銀を評価しています。7人の中には翁教授のように日銀出身で旧日銀理論に立脚する著者も含まれていますが、1人を除いて、6人は黒田日銀に好意的な評価を下しているように私は読みました。典型的なのは第1章と第2章であり、典型的に評価するポイントは為替の円安誘導であり、逆に、量的緩和が物価目標を2年程度では達成できずに、金融緩和が長期化している点には懸念あるものの、実は、その昔の西村清彦『日本経済見えざる構造転換』でいつの間にか構造改革が進んでいたと主張されていたように、量的緩和は出口に向かい、ステルスでテイパリングが進められている可能性も指摘されています。その点を評価しているのは翁教授などの旧日銀理論の信奉者だという気もします。そして、いまだに物価目標2%が達成されていない原因は根強いデフレマインドである、ということになります。そして、本書で何人かの論者が指摘している黒田日銀への批判のうち、私も同意するのは、黒田日銀の市場との対話がコンセンサス形成ではなく、サプライズによる政策効果を狙っている可能性であり、その方向性が間違っている可能性が強い、という点です。もう1点、ETFを通じた日銀の株式買い入れやJ-REIT購入による株価や不動産価格に対する歪みを懸念する意見もありますが、私はこの方は大きな心配はしていません。パッシブに購入している限りは株価形成などに歪みをもたらすことはありませんし、サイレントな株主になって、ガバナンスに悪影響を及ぼす可能性は否定しませんが、リスク資産購入による政策効果のベネフィットの方が大きいものと考えるべきです。6年経過しても物価目標を達成できないながら、少なくともデフレ状態からは脱却していますし、それなりの景気拡大効果のある金融政策運営ですから、本書のような黒田日銀の評価は極めて正当なものと私は考えています。

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次に、奥村綱雄『部分識別入門』(日本評論社) です。著者は横浜国立大学の研究者であり、専門は数理経済学です。本書で詳しく解説されていますが、部分識別とは、私の知る限りでは、モデルの組み方ではなく、あくまで、モデルのパラメータの推計に関する新しい方法論であり、従来のパラメータ推計が標本を基に何らかの分布を前提とするのに対して、部分識別とは標本ではなく全母集団情報を対象にして何らの分布を前提とせずにパラメータ推計を行います。というと、ノンパラメトリック推計なのか、という疑問が出るんですが、従来のパラメータ推計が確率変数に対して何らかの信頼区間は置くとしても、ほぼほぼ決定論的な数値を得るのに対して、部分識別ではパラメータの値そのものでなか卯、その存在するバウンドを求めるという作業になります。別の角度から、従来のパラメータ推計では前提となる仮定を緩めることにより一般化を図るのに対して、部分識別では弱い前提から強い前提を加えることでバウンドの範囲を狭めようとします。ただ、本書の著者が少し説明不足であるのは、操作変数法を用いたりする場合は別として、一般にパラメータを推計するなり、パラメータのバウンドを推計するなりは、因果関係ではなく相関関係の有無や強さの測定になります。この点はやや説明不足を感じました。基本的に、本書では教育の効果の例を出しての解説を進めているんですが、私が強い興味を感じたのは第5章の政策効果の測定です。単純に、フードスタンプを用いる家庭の子供の栄養状態は、フードスタンプに頼る必要のない家庭の子供より悪くなるのは当然ですが、単純なOLSに頼ると、フードスタンプを用いるとかえって子供の栄養状態が悪化するように見えかねません。この問題が部分識別では見事にクリアされています。また、家庭内暴力(DV)被疑者逮捕の効果の比較に関して、ランダム化比較実験(RTC)、操作変数法、部分識別の3つの手法による政策効果の把握が試みられており、単純なオツムの私なんぞから見れば、かなり説得的です。ただし、最後に、完全な学術書ですから、グラフによる直観的な説明は優れている印象はあるものの、数式はバンバン登場しますし、とても難易度は高いと考えるべきです。その意味で、一般的なビジネスパーソン向きとはいえません。その意味で、著者の講演スライドが大阪大学のサイトにあるのを発見しましたので、それを見てから読むかどうかを決めるのも一案かという気がします。

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次に、木内登英『トランプ貿易戦争』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ご存じ、最近まで日銀政策委員をしていた野村総研のエコノミストです。私は、チーフエコノミストやシニアエコノミストという肩書は知っていましたが、エグゼクティブエコノミストという肩書はこの著者で初めて知りました。ということで、本書のタイトル通りに、米中間の貿易戦争について取り上げています。基本的に、自由貿易を外れる貿易戦争、関税率引上げや輸入制限などに対しては、通常、エコノミストは批判的であり、本書も同様です。ただ、本書の米中貿易戦争に対する分析は、かなり多くのエコノミストの緩やかなコンセンサスの通り、というか、ハッキリいえば、特段の新しい発見のないありきたりな内容ともいえます。すなわち、米中間の貿易戦争に突入したのは、おおむね米国サイドの要因であり、2017年中は特段のアクションなかった米国トランプ政権が、2018年になって急に中国の貿易不均衡にセンシティブになり、関税率引上げなどの行動に出た背景は、核ミサイルをはじめとする北朝鮮問題で米朝間の直接対話に道が開かれ、中国の北朝鮮に対する影響力への期待が薄れ、それだけ強気に出ることが可能になった、という点が強調されています。そして、製造業の復権に強い期待をかけるトランプ大統領が、最先端技術分野で中国が米国を凌駕する恐れも中国への強硬姿勢の背景とされています。同時に、かなりバブリーな中国経済の現状に対しても、米国の関税引き上げに伴って経済にショックを生じて、景気が下り坂となれば、実体経済に加えて金融面からも大きなマイナスの影響を生じる可能性が指摘されています。そして、その対中強硬姿勢の理論的な支柱として、『米中もし戦わば』の著者であるナバーロ教授の存在を重視しています。本書でも指摘されている通り、かつて、日本に対しては口先介入を含めて「円高カード」を切って、かなり高圧的に経済交渉を持たざるを得なかった時期があり、私個人も1990年代半ばの日米包括経済協議の外交交渉に巻き込まれた経験があります。その日本の果たすべき役割について、自由貿易の利益を粘り強く米国に訴える、というのはやや寂しい気もしますが、そういった対応策は別にして、背景を含めた現在の米中貿易戦争、そして、それに伴って生じ得る中国経済の何らかの困難、などについて、コンパクトに理解するには役立つ読書だった気がします。

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次に、バーリ・ゴードン『古代・中世経済学史』(晃洋書房) です。著者はオーストラリアのニューカッスル大学教授であり、専門はキリスト教経済思想や古典経済学だそうです。英語の原題は Wconomic Analysis before Adam Smith であり、もっとも最初の出版は1975年だそうです。原題からも理解できる通り、アダム・スミスが経済学の創始者であるという、我々エコノミストの常識を真っ向から否定していて、古典古代から経済学の歴史を説き起こしています。よく間違われるんですが、私は大学のころは経済史のゼミにいて、経済史は経済の歴史ですので、かなり大昔にさかのぼっても何らかの経済活動がある以上は経済史は成り立ちます。一般には、マルクス主義的な経済史では古典古代の奴隷制から始まって、中世の封建制ないし農奴制、近代の資本制、さらに、革命を経て社会主義や共産主義が来る、ということになっていたわけです。他方、経済学史は経済学の歴史ですから、アダム・スミス以前は経済学が近代的な科学として成り立っていなかったので、本書のようなアダム・スミス以前の経済学史については、意味がないと考えられているわけです。しかし、私の暴行の京都大学経済学部の経済学史の口座を持っていた出口先生の言葉を訳者あとがきで引いていて、「経済生活の知的反省」と考えれば、スミス以前の経済学も考えることは出来るのかもしれません。私は、たぶん、古典古代からの経済学のテーマとしては、勤労はほぼほぼ一致した重要性が与えられるとして、貨幣と利子に関する考察、さらに、狭い範囲ながら交易の考察が含まれるべきと考えますが、本書ではそれぞれの時代の知識人の経済学的な活動を編年体で構成しています。もちろん、価値と価格の問題など、とても興味深いテーマも含まれています。全般的には、私のような不勉強な人間には、かなり判りにくい内容です。

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次に、小島寛之『宇沢弘文の数学』(青土社) です。著者は大学の学部で数学を修めた後、大学院では経済学に転向して宇沢教授に師事した経済学者です。専門は数理経済学のようです。ということで、タイトルは数学となっているんですが、私は宇沢先生の経済学の方がいいように感じました。唯一、数学的な理解が深まったのは、数学の言語性と数学能力が人類の innate と宇沢先生が表現したような先天的な形質かもしれない、という点かと思います。演繹的な数学と帰納的な統計の対比もなかなか興味深いと感じました。その一方で、数学ではなく宇沢先生の経済学は、典型的に、倫理感を重視し、本書にもある通り、その昔のシカゴ学派のベッカー教授のような合理性は、必ずしも肯定されません。合理的に薬物の乱用に走るのはあくまで非合理、という考えです。ですから、いつも称しているように、官庁エコノミストにして左派、という私の考え方にはとても親和性があります。著者は、冒頭に、経済学は数学の応用分野ながら、現実の説明力に乏しい、と記していて、まあ、多くの人が感じているところではないかという気がします。そして、宇沢先生の力点は市場が完結しているわけでも、市場化が効率化を意味するわけでもない、という点にあるんですが、その市場の解決策として宇沢先生は社会的共通資本を持ち出すわけですが、そこにおける政府の役割が私にはハッキリしません。単に、人間関係や流行りの絆とか、単なる文化的な共通認識で市場の不完全性を正すことができるとは私にはとても思えません。最近の日産・ルノーのカルロス・ゴーンの事件も、人間としての欲望丸出しで、ベッカー的な合理性ある犯罪なのかもしれませんが、こういった資本主義、というか、現代経済の歪みを正すのが社会的共通資本であるというのは、マルクス主義に対する空想的社会主義のように私には見えます。理想論は大いに共鳴するところがあるものの、もう少し地に足つけた議論も必要ではないでしょうか。

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次に、山本勲『労働経済学で考える人工知能と雇用』(三菱経済研究所) です。著者は、日銀から慶應義塾大学の研究者に転じた経済学者です。私も面識ありますが、労働経済学が専門だったりします。タイトルにあるような人工知能という狭い範囲ではなく、技術革新というもう少し広い視野から雇用を考えています。すなわち、技術と雇用が代替的であって、新技術の採用とともに雇用が減少するケースもあれば、保管的であって雇用が謳歌する場合もある、ということになります。そして、1980年台の英国サッチャー政権や米国レーガン政権の発足などとともに、格差が拡大した事実については、スキル偏向型技術革新仮説について、スキルに対するプレミアムの見方を、中間層の没落と貧困層と高所得層の増加という二極化を説明できない、などの理由から否定し、routinization 仮説=定型化仮説に基づく非定形化した業務への高報酬とする説を支持しています。そして、英国オックスフォード大学の研究者の成果も取り上げられており、AIに代替される雇用についても、Autor ほかによる AML タスクモデルの観点から疑問を提示しています。100ページ足らずのボリュームで、本というよりもパンフレットのような出版物ですが、それなりの内容を含んでいる気がします。

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最後に、服部泰宏・矢寺顕行『日本企業の採用革新』(中央経済社) です。著者2人は神戸大学大学院の同級生らしく、阪神方面で経営学の研究者をしています。タイトル通りの内容なんですが、もう少し詳しく展開すると、2016年卒業生の採用から、人手不足が顕著になり、いわゆる売り手市場が現出したことから、いくつかの企業で採用に関する革新が生まれ、その革新の謎解きをしています。ただ、「革新」は経済学では通常シュンペーター的な新機軸を指していて、英語では inovetion であるのに対して、上の表紙画像に見られる通り、本書では regeneration を使っています。経済学を大学時代に専攻していて、官庁エコノミストを自称する私には見慣れない「革新」だという気がします。本書の著者もそれには気付いているようで、第3章では、経営課題としては新規顧客の獲得や顧客との関係強化が上げられる場合が多く、採用が経営課題として認識されているのでなければ、何らかの確信をもって採用活動を変革しようとするインセンティブは小さい、と指摘してます。それはともかく、本書では採用の革新を募集活動の革新、選抜の革新、募集と選抜の革新、革新の対外発信、他企業との協力の5カテゴリーに分類しています。その上で、採用活動の従来系について、入学偏差値の高い大学の卒業生であって、頭脳明晰かつ明朗闊達な人材を採用する、そのために、早い時期から時間をかけて多くの志願学生から選抜する、という点が重視されてきたところ、このパターンから外れるユニークな採用を2016年スつ行政に対して実施した3社のケーススタディを実施しています。ただ、私が疑問に感じているのは、いつもながらの経営学のケーススタディですから、取り上げられたサクセス・ストーリーの裏側に死屍累々たる失敗例がいっぱいあるんではないか、という点です。そして、いつもの通り、その疑問には答えてくれていません。加えて、採用の革新例として、広く報じられた2社の採用革新、すなわち、ドワンゴの受験料徴収と岩波書店のコネ限定を冒頭に取り上げていますが、人手不足下の売り手市場に対応したものではないんではないか、という気もします。

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2018年11月24日 (土)

先週と今週の読書は合わせて11冊!!!

先週は土曜日11月17日まで北京出張のイレギュラーな週でしたので、本日、先週と今週の読書11冊を合わせてレビューしておきたいと思います。経済所がとても少なく、中にはごく短めの読書感想文もあります。

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まず、根井雅弘『英語原典で読む経済学史』(白水社) です。著者は我が母校である京都大学経済学部の経済学史を担当している研究者です。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスから始まって、20世紀の巨人ケインズまで、一部にマルクス主義経済学の文献も織り込みつつ、加えて、タイトルからは少し離れて英語以外のフランス語やドイツ語の原典も引きつつ、さまざまな経済書を取り上げています。タイトルの順番通りに、経済学史の勉強は後回しで、「英語原典で読む」の方に重点が置かれています。別の言い方をすれば、、スミスをはじめとして経済学史的に重要というよりも、有名で人口に膾炙した表現を多く拾っている印象があります。何かの折に、経済学の名著の英語原典を引用するには便利そうな気がします。

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次に、ローレンス・フリードマン『戦略の世界史』上下(日本経済新聞出版社) です。著者は、英国ロンドン大学キングス・カレッジ戦争研究学部に在籍した研究者です。意地悪な解釈をすれば、シンギュラリティが訪れてAIに取って代わられる前に、人類が築き上げた戦略の要諦について取りまとめた労作といえます。戦争や戦闘行為の戦略から始まって、個人の選択の問題、さらに、現代ビジネスマンの興味分野である企業経営の戦略などに至るまで、幅広い「戦略」に関しての歴史を集大成しています。第1部では、戦略の起源を、聖書、古代ギリシャ、孫子、マキャベリ、ミルトンに探り、ナポレオン、ジョミニ、クラウゼヴィッツ、モルトケ、マハン、リデルハート、マクナマラ、カーン、シェリング、ロレンス、毛沢東などの軍事戦略をひも解こうとしています。このあたりはまだ、私のような専門外のエコノミストにも馴染みがあるといえます。でも、下巻に入ると企業経営戦略も含まれているとはいえ、私なんぞには難しく感じられ始めます。すなわち、「下からの戦略」として、ガンジーらの非暴力運動、キング牧師らの公民権運動、クーンの科学革命論、フーコーの哲学、アメリカ大統領選挙戦など、多様な話題を通じて戦略思想の変容をとらえる一方で、「上からの戦略」として、テイラー、スローン、フォードら経営者、ドラッカーなどの経営理論家の思想、さらには、ゲーム理論などの経済学の隆盛、社会学的な取り組みを明らかにし、合理的選択理論の限界、ナラティブ、ストーリーとスクリプトの有効性を取り上げています。まあ、何かの記念に読んでおくのも一案かという気がします。

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次に、イワン・クラステフ『アフター・ヨーロッパ』(岩波書店) です。著者はブルガリア出身の政治学研究者です。欧州における極右・ポピュリズムの台頭、米国優先政治を掲げる米国トランプ政権、これらは、リベラリズム、民主主義、寛容といったキリスト教と啓蒙主義の遺産ともいえる西欧的な価値観を根底から覆しつつあるとの危機感を出発点として、従来の欧米価値観について論じています。すなわち、一般大衆がコスモポリタン的なエリートとトライバルな志向の移民の両方にNOを突きつけた結果としてのポピュリズムの台頭と捉え、その原因として、難民・移民危機はどのように欧州社会を変化させたか、支配階層にあるエリートへの有権者の反乱はなぜ起こっているのか.EU諸国のリベラル・デモクラシー体制がポピュリズムの台頭で内部的危機に直面する現在、その原因を解き明かし,どのように対応すべきかを論じています。ただ、その結論は私には説得的ではありません。といって、私自身が解決策を持っているわけでもなく、解がない問題なのかもしれません。私の偏見かもしれませんが、著者の出身から、どうしても視点が中欧ないし東欧に置かれている気がしてしまい、自由と民主主義の本流である西欧的な価値観に著者がやや理解が浅い気もしなくはありません。もちろん、専門外の私の理解が浅いだけかもしれません。

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次に、吉田忠則『農業崩壊』(日経BP社) です。著者はジャーナリストであり、現在の肩書は日本経済新聞社編集委員となっています。本書では我が国の農業について、小泉進次郎、植物工場、企業の農業参入の3つをキーワードに、問題点のあぶり出しとその解決策を模索しています。私は農業問題にはそれほど詳しくないんですが、中学や高校のころから、日本農業の問題点として上げられて来た経営規模の問題だけでなく、最新技術の応用や作物育成から流通問題まで、幅広い視野で農業を見ています。ただ、私の直観ながら、農業政策の本流の視点ではないような気もします。というのも、農政問題については、先の経営規模の問題と関係して、農地所有のあり方や補助金の問題などを議論して来たと思うんですが、本書ではこの2点はまったくといっていいほど触れられています。本書でスポットを当てられている植物工場に至っては、失敗例ばかりが並んでいる印象すらあります。植物工場は、企業の農業参入とともに、うまく立ち行かない我が国農業に経営効率の視点から、上から目線で農業に取り組んだ企業の失敗談とも読めます。将来の総理候補とまでいわれる小泉代議士についてもまだまだ未知数の部分が大きいのも事実です。やや眉に唾つけて読むべき本なのかもしれませんが、それなりに示唆に富む内容と受け取る向きもありそうです。

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次に、鈴木董『文字と組織の世界史』(山川出版社) です。著者は長らく東京大学東洋文化研究所をホームグラウンドとしていた研究者であり、オスマン・トルコ帝国の歴史が専門とあとがきにあります。本書は、いわゆるグローバル・ヒストリーを基礎としており、一国史やせいぜい地域史の範囲を超えて、ネットワークとして世界史を俯瞰する試みのひとつといえます。そのネットワークやリンケージのキーワードとして、タイトルにある言語と組織を基礎的な視点にして議論を展開しています。なお、小耳にはさんだウワサなんですが、東大東洋文化研究所では新しい世界史とタイトルされたサイトを解説しています。また、東大生協駒場書籍部における2018年9月度の人文書部門で『ホモ・デウス』につぐ第2位だったそうです。ということで、元に戻ると、タイトルにある文字と組織については、私の読み方が悪かったのかもしれませんが、圧倒的に文字に重点が置かれている気がします。むしろ、組織よりも文字にあわせた宗教の方がキーワードになっている気がします。我が国は、もちろん、文字や言語の点からは中国を拠点とする漢字圏なんですが、宗教的にはインドを拠点として東南アジアに広がっている梵語圏の中心をなす仏教の影響も大きいですし、経済的には少なくともアジアの中では西欧から米州大陸に広がるラテン語圏の影響も小さくありません。もちろん、グローバル化の進展の中で、東欧からロシアに広がるキリル語圏や中東からアフリカ北部のアラビア語圏とも決して関係が浅いわけでもないといえます。歴史書でいつも私が注目しているポイントのひとつに、欧米が現時点までで世界的な覇権を握っているのは英国を期限とする産業革命をいち早く成功裏に開始したからであり、どうして産業革命が西欧で始まったかは歴史家の間でもコンセンサスがないことから、この産業革命の視点がありますが、本書では極めてアッサリと、ウェーバー的な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で済ませていて、やや物足りないと感じましたが、400ページ近い本書にしても、1冊ですべての世界史を十分な深さで取り上げられるわけではないと考えるべきなのかもしれません。いずれにせよ、グローバル・ヒストリーの見方に触れ、それなりの世界の歴史観を感じ取れる読書だった気がします。

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次に、野村進『どこにでも神様』(新潮社) です。著者は大学の研究者であるとともに、ノンフィクション・ライターとしても活躍していて、何冊かノンフィクションの書籍を出版しているようです。本書では、副題にもある通り、出雲と神様をキーワードとして、出雲から少し広い範囲のや山陰地方の伝統文化や精神構造などを解き明かそうと試みています。すなわち、出雲ならざる鳥取の水木しげるの視点から、神様ならざる妖怪を取り上げたり、今では同じ島根県とはいいつつも、石見地方の神楽に注目しています。本書の後半で詳しく論じられますが、専門家ならざる私の見方でいえば、国譲りの伝説にもある通り、古典古代の我が国に置いては出雲政権は大和政権に敗れた、と考えているんですが、本書の著者は少し違った視点も盛り込んでいます。もちろん、古典古代においては極東に位置する我が国からして、中国という隣国はあらゆる意味において地域どころか世界の超大国であり、漢字を文字として受け入れたことに典型的に現れているように、中国やその文化の経由地である朝鮮半島に近い出雲の方が大和よりも先進地域であったことは想像に難くありません。もちろん、大和政権も九州かどこかはともかく、西から大和に攻め上ったんでしょうが、中国や朝鮮の直接の窓口をなる位置にある出雲の方が先進地域であった可能性の方が高いと私は考えています。しかし、21世紀の今、というよりももう少し前の20世紀半ばの戦後においては、本書でも「裏日本」とか、今でも山陰という表現があるように、決して、文化や政治経済の中心とはいえないのが現状であるという気がします。でも、神様や妖怪をキーワードに出雲周辺の歴史を振り返り、文化に着目するのはいい試みかもしれません。

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次に、東野圭吾『沈黙のパレード』(文藝春秋) です。著者は、ご存じの通り、売れっ子のミステリ作家であり、本書は人気のガリレオ・シリーズ最新刊です。湯川は米国留学を経て教授に昇進し、草薙も警視庁捜査一課で係長に昇進しています。本書では、グレーから極めてクロに近い犯罪容疑がありながら、かつては「証拠の王様」であった自白を避けて黙秘を通すことにより、「疑わしきは罰せず」の刑法の原則に従って無罪となった男が、いかにも、ということで、事件の犯罪被害者とその友人から殺害されたようなシチュエーションから始まります。そして、私もこのブログで何度か、例えば、同じ著者の『夢幻花』を5年前の2013年6月15日に取り上げた際に明記したように、この著者の遵法精神以外に何も感じられない正義感に疑問を感じていたんですが、ガリレオこと湯川教授に独白させ、『容疑者Xの献身』における一般的な善悪の感覚や広く受け入れられた道徳よりも、単なる遵法精神をあまりに優先させ倫理観にやや欠ける解決に対する反省の弁が見られます。私なんぞには理解できないガリレオ・シリーズ特有の殺害方法も首尾よく解決され、私も湯川教授の犯罪被害者とその友人に対する態度や考え方に深く納得しましたので、いい読書だった気がします。直木賞を授賞された『容疑者Xの献身』よりも、私は個人的に高く評価します。

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次に、池井戸潤『下町ロケット ゴースト』及び『下町ロケット ヤタガラス』(小学館) です。このシリーズの第3作と第4作だと思います。当然ながら、大田区の町工場地域にある佃製作所が舞台であり、第1作では、まさに、ロケットのエンジンに使うバルブそのもの、そして第2作の『ガウディ計画』では人工心臓向けのバルブを諦めての心臓の人工弁、そして、この最近2作のでは前2作のハイテク路線からグッとローテクに回帰して、農業機械、トラクタなどのエンジンとトランスミッションに挑戦します。『ゴースト』ではトラクタのトランスミッションに挑戦し、『ヤタガラス』ではトラクタのエンジンとトランスミッションを帝国重工に供給しつつ、その自動運転化技術にも挑みます。相変わらず、この作者の作品らしく、善悪が明瞭に分岐していて、悪いヤツはトコトン悪く、いい人はどこまでも勝ち続けます。経済学や物理学などのモデル分析を主流にする科学に親しもあればともかく、善悪をあいまいなままでコトが進む日本的な風土で、ここまでこの作者の作品が支持され、テレビでもドラマとして成功を収めているのはやや不思議な気がしますが、私が読んでも面白いんですから、かなり完成度は高いといえます。この2作と前の『沈黙のパレード』の3冊の小説は買って読みました。3冊も買うのは久し振りかもしれません。

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最後に、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書) です。著者は我が母校の京都大学のイスラム史の専門家であり、東大寺の長老としても名高い僧侶です。「東大寺」の懐かしい響きを感じ、ついつい借りてしまいました。聖武天皇の勅から始まったと考えられがちな東大寺の造営につき、その前の段階からていねいに歴史をひも解きつつ、東大寺や国分寺のなりたちや役割について解き明かしています。私は中学高校と6年間ずっと奈良に通っていたんですが、まさに南大門を入って大仏殿の前に校舎がありました。今はかなり離れたところに移転し、私が通ったころの2クラス100人足らずの生徒数から、倍くらいに大規模化したように聞き及んでいますが、男ばかりのムサイ6年間ながら、京都大学の学生時だよりも青春そのものの想い出深い時代でした。いまだに Facebook でつながっている仲間もいますし、逆に、顔も見たくないイヤなヤツもいます。それも合わせて、貴重な青春の6年間だった気がします。その中学高校は東大寺からのいくばくかの補助があったと聞いたことがあり、京都の名門である洛星高校などよりは、それなりに学費負担も大きくなく、決して恵まれた所得があったとはいえない我が家でも私を通わすことが出来たのかもしれない、と思い起こしています。約10年前に100歳超で亡くなった祖母が、私の学校との関係で東大寺のお水取りに加わって喜んでいたのは、もう40年以上も前のこととなりました。改めて、東大寺への感謝の気持ちを込めて拝読しました。

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2018年11月10日 (土)

いろいろ事情があって今週の読書は計9冊読み飛ばす!!!

今週は経済書や話題の小説をはじめとして、計9冊とかなり大量に読みました。というのも、来週の予定を考えに入れると、今週中に読んでおきたい気がしたからです。今週も自転車で図書館回りを終えていますが、諸般の事情により来週の読書はちょっぴり抑える予定です。ついでながら、今週の読書感想文は読んだ本の数が多くて、感想文のボリュームは抑えてあります。

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まず、大矢野栄次『ケインズの経済学と現代マクロ経済学』(同文舘出版) です。作者は久留米大学の研究者です。冒頭のプロローグにあるんですが、「現代経済学の流れのなかで、唯一、現代の世界経済の考え方と経済政策の方向性を変革しうる経済学が『ケインズ経済学』であり、『ケインズ革命』の再認識であると考える」との意識から書き始めていますが、本書の中身は、大学の初学年ではないにしても2年生ないし学部レベルのケインズ経済学の解説に終止しています。それなりの数式の展開とグラフは判りやすく取りまとめられていますが、1970年台に石油危機に起因するインフレと景気後退のスタグフレーションにおいてケインズ経済学批判が生じ、そして、2008年のリーマン証券破綻から再び見直され始めた流れについてはもう少していねいに解説してほしかった気もします。

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次に、ルチアーノ・カノーヴァ『ポップな経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者はイタリアの行動経済学を専門とするエコノミストです。原書はミラノで2015年の出版ですから、ややトピックとしては古いものも含まれていて、逆に、新しい話題は抜けています。当然です。冒頭ではAIによる職の喪失から話を始め、行動経済学のナッジやゲーミフィケーションの活用、クラウドファンディングの台頭についてはやや唐突感もあるんですが、テクノロジーの進歩による情報カスケードによすフェイクニュースの蔓延、ビッグデータの活用、大学教育の変革などなど、どこまでポップかは議論あるかもしれませんが、それなりに興味深いトピックを論じています。繰り返しになりますが、2015年の出版ですので新しいトピックは抜けていますが、概括的な解説としてはいいセン行っている気がします。

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次に、本田由紀[編]『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(ナカニシヤ出版) です。8人の研究者によるチャプターごとの論文集です。科研費を利用してマクロミルのネット調査からデータを収集し、かなり難しげな計量分析手法により、タイトルの文系大学教育と実務のレリバンスを探っています。ただ、自ら指摘しているように、あくまでアンケート対象者が役立ったと思っているかどうかのソフトデータであり、ホントに客観的なお役立ち度は計測しようがありません。その上、東大教育学部の研究者と大学院生が半分を占める執筆陣ですから、本書のタイトルの問いかけに対して否定的な回答が出るハズもありません。各章についても、ラーニング・ブリッジングといわれても、教育者により定義や受け止めは違うでしょうし、理系と文系の対比がありませんから、やや物足りない気もします。しかし、奨学金受給者が専門分野には熱心な学習姿勢を示しつつも、正規職員就職率には差が見られない、という計量分析結果については、やや悲しい気がしました。

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次に、持永大・村野正泰・土屋大洋『サイバー空間を支配する者』(日本経済新聞出版社) です。著者3人の打ち最初の2人は三菱総研の研究員で、最後の土屋先生は慶応義塾大学の研究者です。芸剤の先進国に限らず、新興国や途上国でも、国民生活も企業活動も、もちろん、政府に政策も、何らかの形でサイバー空間と関係を持たないわけには行かないような世界が形成されつつあります。そこでは、おどろおどろしくもサイバー攻撃、スパイ活動、情報操作、国家による機密・個人情報奪取、フェイクニュース、などなど、ポストトゥルース情報も含めて乱れ飛び、そしてグーグルを筆頭とするGAFA、あるいは、中国のバイドゥ、アリババ、テンセントのBATなどに象徴される巨大IT企業の台頭が見られます。そして、従来は、国家の中に企業や組織があり、その中に家計や個人が属していたという重層的な構造だったんですが、多国籍企業はいうまでもなく、個人までも国家や集団をまたいで組内する可能性が広がっています。私の専門がいながら、安全保障面でも、米国を始めとして軍にサイバー部隊を創設したり、何らかのサイバー攻撃を他国や他企業に仕かける例も報じられたりしています。こういった中で、サイバー空間の行方を決める支配的な要素として技術と情報を考えつつ、我が国がどのように関与すべきかを本書の著者は考えようとしています。ただ、私としては左翼の見方として対米従属に疑問を持つ見ながら、ここはサイバー空間においては米国に頼るしかないんではないか、という気もしないでもありません。

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次に、ジェイムズ Q. ウィットマン『ヒトラーのモデルはアメリカだった』(みすず書房) です。著者はイェール大学ロースクールの研究者です。英語の原題は Hitler's American Model であり、年の出版です。米国での出版ですから、ドイツで発禁処分となっている『わが闘争』からの引用もいくつかなされていたりします。タイトルから容易に想像される通り、ユダヤ人への差別、というには余りにも過酷な内容を含め、ナチスの悪名高いニュルンベルク諸法のモデルが、実に不都合な事実ながら、自由と民主主義を掲げた連合国の盟主たる米国の有色人種を差別する諸法にあった、という内容です。ジム・クロウ法とか、ワン・ドロップ・ルールなど、1950~60年代の公民権運動のころまで、堂々と黒人やネイティブ・アメリカンは差別されていたわけで、それなりの研究の蓄積もありますので、特別な視点ではないような気もしますが、2016年大統領選挙でのトランプ大統領の当選などを踏まえて、こういった差別をキチンと考え直そうという動向は米国だけでなく、日本も含む世界全体をいい方向に導くような気がします。

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次に、平野啓一郎『ある男』(文藝春秋) です。弁護士を主人公に、林業に従事する中年男性が事故で亡くなったところ、兄が来て写真を見て「これは弟ではない」と言い出し、そこから未亡人の依頼を受けて弁護士の調査が始まります。もちろん、戸籍の違法な取得や交換が背景にあるわけですが、例えば、宮部みゆきの『火車』のように、決して、ミステリとして謎解きが主体のストーリー展開ではなく、登場する人々の人生について深く考えさせられる純文学といえます。調査する弁護士は、まったく人種的な違和感ないものの、在日三世で高校生の時に日本人に帰化しているという経歴を持ちますし、中年以降くらいの人間が過去に背負ってきたものと人間そのものの関係、さらに、『火車』では借金が問題となるわけですが、本作では殺人犯の子供から逃れるための戸籍の違法な取引が取り上げられています。こういった、ひとりの人間を形作るさまざまな要素を秘等ひとつていねいに解き明かし、人間の本質とは何か、について深く考えさせられます。ただし、私はこの作者の作品としては『マチネの終わりに』の方が好きです。でも、来秋の映画封切りだそうですが、たぶん、見ないような気がします。

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次に、三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社) です。作者は私も大好きな直木賞作家であり、私は特に彼女の青春物語を高く評価しています。この作品も青春物語であり、舞台は東京は本郷の国立T大学とその近くの洋食屋さんであり、主人公はT大の生物科学科で研究する女性の大学院生とその院生に恋する洋食屋の男性のコックさんです。まあ、場所まで明らかにしているんですから、東大でいいような気もしますが、早大出身の作者の矜持なのかもしれません。タイトルは、ズバリ、植物の世界を表しています。コックさんは2度に渡って大学院生に恋を告白するんですが、大学院生は研究対象である植物への一途な情熱から断ります。そして、最後は、研究対象である植物への情熱こそ愛であるとお互いに認識し、新たな関係構築が始まるところでストーリーは終わっています。一体、どのような終わり方をするんだろうかとハラハラと読み進みましたが、この作者らしく、とてもポ前向きで明るくジティブな結末です。この作者の作品の中では、直木賞を授賞された『まほろ駅前多田便利軒』などよりも、私は『風が強く吹いている』や『舟を編む』が好きなんですが、この作品もとても好きになりそうです。

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次に、堂場瞬一『焦土の刑事』(講談社) です。終戦の年の1945年から翌年くらいの東京は銀座などの都心を舞台に、刑事を主人公に据えて殺人事件の舞台裏を暴こうとします。終戦前の段階で、東京が空襲された後の防空壕に他殺の女性の死体が相次いで発見されたにもかかわらず、所轄の警察署による捜査が注されて、事件のもみ消しが図られます。そして、その殺人事件は終戦後も続きます。特高警察や戦時下の異常な体験などの時代背景も外連味いっぱいなんですが、最後の解決は何とも尻すぼみに終わります。特高警察や検閲への抗議、あるいは、殺人事件のもみ消しなどは吹き飛んで、実につまらない解決にたどり着きます。大いに期待外れのミステリでした。

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最後に、久原穏『「働き方改革」の嘘』(集英社新書) です。著者は東京新聞・中日新聞のジャーナリストであり、本書は取材に基づき、現在の安倍政権が進める「働き方改革」とは労働者・雇用者サイドに立ったものではなく、残業を含めて使用者サイドに長時間労働を可能にするものだという結論を導いています。そして、最後の解決策がやや寂しいんですが、人を大切にする企業活動を推奨し、「官制春闘」といった言葉を引きつつ、労使自治による雇用問題の解決を促しています。私が考えるに、現在の我が国における長時間労働、いわゆるサービス残業を含めた長時間労働は、マルクス主義経済学の視点からは絶対的剰余価値の生産にほかならず、諸外国の例は必ずしも私は詳しくありませんが、もしも先進国の中で我が国が突出しているのであれば、我が国労使の力関係を示すものであるともいえますし、逆に、政治的に使用者サイドを支援せねばならないくらいの力関係ともいえます。いずれにせよ、長時間労働の問題と現在国会で議論が始まろうとしている外国人労働者の受入れは、基本的に、まったく同じ問題であり、抜本的な解決策の提示が難しいながら、エコノミストの間でも考えるべき課題といえます。

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2018年11月 3日 (土)

今週の読書は話題の経済書をはじめ大量に読んで計9冊!

今週の読書は、かなり大量に読みました。日経センターの金融政策に関する話題の経済書をはじめ、経済的な不平等に関するリポートなど、以下の通りの計9冊です。今週の図書館巡りはすでに終えており、来週もそれなりに読書がはかどりそうな予感です。

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まず、岩田一政・左三川郁子・日本経済研究センター[編著]『金融正常化へのジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。今春に黒田総裁が再任され、2期目10年の人気まっとうを目指して、引き続き、異次元緩和の金融政策が続いています。しかし、他方で、10月末に明らかにされた「展望リポート」でも政策委員の大勢見通しは、またもや、成長率も物価もともに下方修正され、日銀のインフレ目標達成の時期は先送りされっぱなしです。そして、本書は副総裁経験者である岩田理事長を筆頭に日本経済研究センターの金融分析部門を上げて、金融正常化への道を探ろうと試みています。本書では章ごとにジレンマを付して金融政策を概観していますが、何といっても最大の問題点は第2章の強力な緩和を続けつつも物価が上昇しない点です。おそらく、現状では人で不足に現れている通り、実体経済は景気循環的にはピークを過ぎたという議論はあり得るものの、景気はかなり好況を呈していると考えるべきであり、需給ギャップは需要超過であることはいうまでもありません。他方で、政府による女性や高齢者の労働市場への参加拡大策の成功等により、労働のスラック墓だ完全には尽きているとはいい難く、賃金が上昇する気配すらありません。賃金と物価のスパイラルによる内生インフレの段階には達していないわけです。それだけに、日銀による財政ファイナンスや日銀財務の健全性の問題などの観点からの批判も絶えません。ただし、本書の底流にある、こういった日銀金融政策のカッコつきの「正常化」を目指すべしとの見方は、日銀を浮き世離れして国民生活から切り離されたかの視点からの議論であり、私はどうも受け入れがたい気がしています。まず、デフレではない状態になった経済の現状から、さらに一歩進めてデフレ脱却にどのような政策が必要か、金融政策だけでは物価目標達成がムリなのであれば、いかなるポリシー・ミックスが考えられるのか、もう少し突っ込んだ議論が求められています。

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次に、木下智博『金融危機と対峙する「最後の貸し手」中央銀行』(勁草書房) です。著者は日銀から学界に転じたらしいんですが、法学部出身であり、専門分野は物価をターゲットとする金融政策ではなく、金融システムの安定性をターゲットにしたプルーデンス政策のようです。特に、本書ではプルーデンス政策の中でも最後の貸し手としての中央銀行、Lender of Last Resort (LLR) を分析対象としています。もちろん、バックグラウンドには2008年9月のリーマン証券破綻をどう考えるか、の疑問があります。従って、冒頭からいわゆる日銀特融23件を分析対象にしつつ、巷間指摘される銀行の救済は、誤ったイメージであると主張します。すなわち、日銀から流動性が供給されても、両建てで借方と貸方の両方に日銀から供給された流動性が計上されるわけですから、債務超過の額は日銀からの流動性供給の前後で変わりないというわけです。しかし、私は大きな疑問を持ちます。すなわち、流動性供給による支払能力の維持が救済であって、債務超過の解消をもって「銀行救済」と考える人はいないハズです。資本注入は政府のプルーデンス政策であり、中央銀行の場合は流動性供給による支払能力、すなわち、ソルベンシーの確保であると考えるべきです。こういった根本的な疑問がありつつも、金融政策の経済分析ではなく、金融の安定性確保のケーススタディもなかなかに興味深いもんだということが本書を読んでいてわかった気もします。すなわち、私の専門のひとつである景気循環の平準化などのマクロ経済の安定性確保とともに、金融システムの安定性確保もシステミック・リスク回避の観点から大きな意味があります。ただし、どちらも恣意的に解釈されて不必要な政策対応となり、いわゆるモラル・ハザードにつながる危険もあります。本書では、中央銀行の最後の貸し手としての原則を確立した19世紀半ばのバジョット原則を基本として、日米英欧州などの中央銀行による最後の貸し手昨日の実際の発揮のケーススタディが豊富に取り入れられています。また、BOX 17で中央銀行の債務超過は問題かどうかを論じていて、中央銀行の会計上の健全性と金融システムの安定性確保との関係の複雑性が解説されています。

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次に、ファクンド・アルヴァレドほか[編]『世界不平等レポート 2018』(みすず書房) です。「ほか」に入れてしまいましたが、『21世紀の資本』で有名なピケティ教授も編集人に名を連ねています。そのベストセラー『21世紀の資本』を作り出したデータべースを基に、世界各国及び世界経済の不平等の最新動向を世界横断的にの100人以上の研究者ネットワークを駆使して、隔年で報告する新たなリポートとして発汗される運びとなったと出版社のサイトにはあります。第Ⅰ部ではWID.worldプロジェクトと経済的不平等の測定と題して、本リポートの目的意識などを明らかにし、第Ⅱ部では世界的な所得不平等の傾向を取り上げ、米国、フランス、ドイツなどの先進国はもとより、中国・インド・ロシアなどの新興国や途上国の不平等、この場合はフローの所得の不平等を、場合によっては100年以上の歴史的なタイムスパンで跡付けます。もっとも、我が国はデータがないのか、取り上げられていません。第Ⅲ部では公的資本と民間資本の動向を分析し、我が国はバブル経済期において不動産価格が高騰したことなどから、先進国の中でも民間資本が公的資本に比べて大きな割合を占めていると指摘しています。第Ⅳ部では富の不平等に着目し、ストックである富はフローの所得よりも不平等の度合いがさらに大きいと結論しています。そして、最後の第Ⅴ部では不平等と闘うとして、累進課税の役割の重視やタッkスヘブンでの課税逃れに対応するため世界金融資産台帳の必要性を明らかにし、教育の重要性に焦点を当てています。繰り返しになりますが、国によっては100年を超える超長期に渡るデータに基づく議論を展開し、不平等の改善のための政策についてはやや弱いところがありますが、事実をまず明らかにして今後の研究のツールとするという姿勢が読み取れます。なお、邦訳書は7,500円プラス消費税と高額ですが、以下のWID.worldのサイトでは英語版のpdfファイルが無料でダウンロードできますし、その他、各章のもととなっているワーキングペーパー、さらに、本リポートで用いられているデータはもとより、データプロセッシング向けのプログラムコードも圧縮ファイルでアップされています。大学院生向けのような気もしますが、ご参考まで。

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次に、佐藤航陽『お金2.0』(幻冬舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、いわゆる青年起業家なんだろうと思います。タイトルからして、お金や経済についての話題が多いものの、副題が上の表紙画像に見られるように「新しい経済のルールと生き方」となっていますので、仮想通貨やブロックチェーンなどのFINTECHの簡単な解説も含まれていますが、同時に、人生論を始めとして、哲学的とまではいわないまでも、かなり抽象度の高い、決して具体的な応用可能でない議論も展開されています。その意味で、年配の経営者の人生を振り返ったエッセイに近い印象もあります。本書の底流に一貫して流れているのは、今までの常識を疑うという視点であり、逆から見て、事故を確立し自分なりの味方ができるように自分を鍛える、教養や見聞を広める、ということになります。電車の広告などで、メチャメチャ目についたので借りてみましたが、確かに、私のように大きな組織の中でのうのうとサラリーマンをしてきて定年に達してしまった人間には出来ない発想もいっぱいありましたが、特に、マネーキャピタルとソーシャルキャピタルを対比させて、前者の資本主義的色彩と後者のより共同体的、というか、人によっては社会主義的な色彩まで読み取る読者もいるかも知れません。ただ、起業家として資本主義のルールのもとで成功して、十分な所得を得たからいえるのかもしれない、と思わないでもない部分も少なくなかった気がします。年齢的に、上から目線になっていないのも好ましい点かもしれません。私のような年配の読者ではなく、もっと若い学生からなりたてビジネスマンくらいの読者を想定しているように受け取れる部分もありました。ただ、我が家の倅どもに読ませたいとは私は思いませんでした。むしろ、私くらいの引退世代に近い読者の方が理解が進むような気がします。ただし、複数の経済システムが共存する世界、というのは、不勉強にして私は理解できませんでした。

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次に、大原扁理『なるべく働きたくない人のためのお金の話』(百万年書房) です。著者は、数年前から25歳にして東京都内国立市にて「隠居生活」を実践し、定収入のもとで支出の少ない生活を送っていて、今では台湾に移り住んで同様のケチケチ生活を海外で続けているそうです。私も、来年3月には定年退官し、無職無収入に陥る可能性もかなりあり、あるいは、参考になるかもしれないと考えて読んでみました。もっとも、私の場合はカミさんがパートにでも出てくれれば、私は楽ができますし、今の人で不足が叫ばれる東京で私もまだ何らかの収入ある職につける可能性は少なくないと楽観しています。私も大学を卒業してから現在まで、キャリアの国家公務員として、ほぼほぼ日本国民としての平均的な生活を保証するだけの収入を得てきましたが、60歳で定年退官すれば自力で収入を得る必要があるわけで、それが出来なければ、本書で低回しているようなケチケチ生活を送らねばなりません。もっとも、本書ではケチケチ生活のすすめを展開しているわけではなく、桶ねとの付き合い方の基本論を展開しています。ただ、私が疑問に受け止めたのは、お金との付き合いであって、お金を稼ぐための労働観とか働くということについての著者の考えがまるで伝わってきませんでした。勤労という行為は、一面では社会的な貢献、あるいは、社会的貢献をしている自分に対する責任感であり、他面から見れば個人や家族の生活の基となる収入を得る手段です。マルクスが喝破した通り、資本制下では商品生産がその特徴を表し、商品を市場において貨幣と交換するために労働力しか持たないプロレタリアートはその労働力を売ることを余儀なくされます。そして、本書の著者は支出を低水準に抑える結果として、労働も低水準の供給しかしない、という選択をしています。あるいは、低生産性の労働にしか従事しない、ともいえます。労働供給と生活水準は、どちらが卵か鶏かは議論が分かれる可能性もありますが、私は本書の著者のように生活が先にあってそれに必要な労働供給があるんだろうという気がしています。単なるケチケチ生活の実践だけでなく、なかなかに、基本哲学がしっかりしていて驚きました。

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次に、キャス・サンスティーン『#リパブリック』(勁草書房) です。著者は、憲法専門とする米国ハーバード大学の法科大学院(ロースクール)の教授であるとともに、ノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らとともに行動経済学や実験経済学の著作を公表したり、あるいは、その見識をもってオバマ政権において行政管理予算局の規制担当官を務めたりしています。本書は、タイトルからは判りにくいかもしれませんが、もう15年以上も前に刊行された『インターネットは民主主義の敵か』の問題意識をいくぶんなりとも共有し、熟議民主主義に重点を置いた現在の民主制に対して、インターネットや進歩の激しいテクノロジーが何をもたらすかについて考察を巡らせています。特に、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを対象に、フルター・バブル≅情報の繭≅エコーチェンバー(共鳴室)により意見を異にする他者からの断絶を生じかねない、また、それを快いとも感じかねない情報やコミュニ受け―ションのあり方に疑義を呈しています。少なくとも、その昔の新聞は、完璧とはほど遠いながらも、それなりに異なる意見を収録し、例えば、私が見ている範囲でも、専門家の意見として両論併記を試みたりしているわけですが、ネット上のSNSなどでは意見を同じくする集団が形成されてしまい、その中に取り込まれて自分と同じ意見だけに接するようになると、それなりに快く感じたりする一方で、熟議に基づく民主主義の健全な運営にはマイナス要因ともなりかねない、というのは一般にも理解できるのではないでしょうか。我が国におけるネトウヨなんかがひょっとしたら当てはまるのかもしれません。そこに、無制限の表現の自由を許容するのではなく、何らかの政府による規制が必要になる可能性の端緒があります。米国的な極端なリバタリアンの世界ではなく、日本的な世論形成を考えれば、本書の主張はもっと判りやすいような気がします。かなり難しい内容ですが、テクノロジーと民主主義の未来について、次に取り上げる『操られる民主主義』とともに、考えさせられる1冊でした。

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次に、ジェイミー・バートレット『操られる民主主義』(草思社) です。英国の左派シンクタンクに属するジャーナリストで、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The People vs Tech であり、今年2018年の出版です。前の『#リパブリック』と同じように、民主主義が技術の進歩により歪められる危険を指摘しています。例えば、典型的には、先の2016年の米国大統領選挙においてトランプ陣営で暗躍したケンブリッジ・アナリティカの果たした役割などです。もちろん、行動経済学や実験経済学の見識からして、アルゴリズム的に処理された情報に基づく一連のナッジの支配下に人々が置かれる危険はあり、私もこういった技術の過度の利用、というか、悪用に近い利用により世論が歪められる危険があるのは理解できますが、選挙などでは逆の陣営もこういった技術を利用し始めるわけですから、長期的には民主主義には悪影響はないものと理解していましたが、例えば、独占が形成されるなどにより長期に渡って技術の悪用により世論が歪められる可能性がある点は理解が進んだ気がします。また、本書では民主主義を支える人々へのベーシックインカムの必要性も主張していますが、同時に、ベーシックインカムはあくまで基礎的な生活の必要をまかなうだけであり、決して格差を解消するほどのパワーはないと結論しています。こういったリスクは当然にあるわけですが、私は民主主義も技術に合わせて、というか、やや遅れつつも、システムとして進歩するんではないか、という気がしています。本書ではカーネマン教授の言うところのシステム2に基づく熟慮の民主主義に重点を置いていますが、そのためには一定の時間的な余裕も必要ですから、生産性の向上も不可欠です。経済と民主主義が車の両輪としてともに進化する中で、技術の過度の進歩に起因する民意の歪曲などの問題は、個々人の自覚ではなく、社会経済のシステムの問題として、システムそれ自身の進化や進歩により、あるいは言葉を変えれば、同じ意味ながら、技術革新により解消される部分が小さくないというのが私の直観的な理解です。その意味で、民主主義に関しては、私は本書の著者ほど悲観的ではありません。

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次に、ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』(白水社) です。著者はドイツの作家・ジャーナリストであり、本書のドイツ語原題は Der totale Rausche となっていて、直訳すれば、「全面的な陶酔」ということにでもなりそうです。ドイツ語原書は2015年の出版ですが、邦訳のテキストは2017年出版のペーパーバックだそうです。ということで、ナチス・ドイツの総統だったヒトラーとその主治医モレルを中心に据えて、ヒトラーが重度のジャンキーであったことを本書は主張しています。私自身のイメージとしては、ナチスは道徳的に退廃しきったワイマール帝国への嫌悪感や反省からドラッグに対しては厳しい態度で臨み、同時に、自分の肉体は自分の裁量下にあるというユダヤ的、あるいは、マルクス主義的な見解ではなく、いかにも全体主義的な遺伝子のベクターという見方に立脚して、肉体的にも精神的にも健全なアーリア人の育成に努めていた、と思っていたんですが、まったく事実は異なるようです。ヒトラー自身は菜食主義者であったのは有名ですし、ヒトラー・ユーゲントでは今どきの田舎のボーイスカウトよろしく、地産地消などの大地に根ざした活動を進めていたと私は認識していて、それはそれで、田舎っぽくて私の趣味に合わない、と感じていたんですが、カギカッコ付きで「超都会的」な薬物中毒だったとは知りませんでした。前線兵士については、特に日本の神風特攻隊の兵士などは薬物で精神的に高揚しきった状態でなければ、とても任務に臨むのは不可能だったとは容易に想像できますが、いやしくも国家の最高指導者であったヒトラーが薬物中毒のジャンキーだったわけですから、第三帝国が英米連合国に負けたのも当然といえます。それなりにショッキングな内容の本でした。私はもともとがマルクス主義をバックボンとする左翼ですので、ファシズム・ナチズムやヒトラーは目の敵なんですが、その感をいっそう強くした気がします。

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最後に、中澤克昭『肉食の社会史』(山川出版社) です。本書の著者は当然ながら歴史の研究者です。本書では古典古代ほどではないものの、律令制の成立した平安期くらいから近世江戸期くらいまでを対象に、我が国における肉食の歴史を宗教史とともにひも解いています。すなわち、我が国では明治維新まで動物を殺して肉食するという文化が、いわゆる「薬食い」などで例外的な肉食はあったものの、決して肉食は一般的ではなかった、という俗説的な理解はそれほど正しくない、というのが本書の著者の主張です。その日本での肉食を本書では歴史的に跡付けているわけですが、その際のひとつの観点は、天皇を頂点とする身分制の中での差別と格差の問題であり、もうひとつは殺生を禁じた仏教という宗教的な影響です。まず、身分の違いによる肉食については、天皇家から始まって、摂関家、侍(≠武士)の食事を解明し、それなりに肉食が行われていた実態が明らかにされます。加えて、宗教の観点からも、動物が人間に肉食されることにより、食べた方の人間が死ぬ際に同時に成仏できる、との宗教観もあながち一般的でなくもなかった、との見方を著者は示します。そうかも知れません。ただ、本書で強調しているのは、明治維新まで肉食される対象はあくまで野生の動物が狩りによって仕留められた場合であって、肉食を目的として飼育されていた家畜を屠殺してまで肉食のもととなることはない、という点です。すなわち、我が国では家畜は農耕などの際の実用的な使役獣であって、肉食の目的で飼育されているわけではない、ということで、これは西洋的な家畜の概念とは大きく異なっているような気がします。

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2018年10月27日 (土)

今週の読書は話題の『ホモ・デウス』ほか計9冊!

今週の読書は、話題のユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上下ほか、フォーマルな経済書は少ないものの、量だけは10冊近く読みました。天候不順につき、今日はまだ図書館には行けていないんですが、来週は量的には少しペースダウンするものの、しっかりした経済書を借りる予定です。

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まず、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上下(河出書房新社) です。著者は歴史学を専門とするヘブライ大学の研究者です。日本で2年前に邦訳本が出版された前著の『サピエンス全史』はかなり流行った記憶があり、我が家の近くの区立図書館ではまだ予約の行列が長々とできていました。私のこのブログでは2016年10月1日付けの読書感想文で取り上げていて、「ジャレド・ダイアモンド教授の『銃・病原菌・鉄』をはじめとする一連の著書に似通ったカンジで、ハッキリいって、二番煎じの感を免れません」との酷評を下している一方で、本書との関係では、人類においては「虚構」が他人との協力を可能にし、他人との絆が文明をもたらした、と結論し、その「虚構」とは国家、貨幣、企業などなど、という点を評価しています。この点は本書でも同じように引き継がれています。すなわち、主観と客観と共同主観という3つの認識方法が示されています。典型的には貨幣、経済学では管理通貨制化の貨幣 fiat money ということになります。ということで、本書の流れに戻ると、冒頭で、その昔からの飢餓・疫病・戦争による死からは現代人は解放され、技術進歩とともに不老不死が達成された暁には、人類は神性を求める、というところからお話しが始まります。私はこの前提は「神性」という言葉の定義次第だろうと考えているんですが、私が読み逃したのでなければ、本書ではその定義は示されていません。ただ、私の考えでは人類が地球の生物のトップに立ったのは事実といえます。ただし、著者のいう「虚構」ではありませんが、マルクス主義的に考えれば、疎外は忘れるべきではありません。すなわち、人類=サピエンスが地球のすべてをコントロールできるわけではない、というのと同じレベルで、集団としての人類=サピエンスの行動もコントロールできな場合があり得ます。例えば、気候変動のようなマクロの問題は個々人のマイクロな意思決定が自由かつコントロール可能でも、マクロでは制御不可能かもしれません。そのあたりは、やや私にはまだ物足りない気もしますし、加えて、意識の問題をサピエンスの特徴と考えるのは異論がありそうですが、前著よりは格段に出来がよくなった気がします。ただ、地球生物の支配者となったサピエンスが、ほかの意識を持たない動物をどう扱ってきたかについての考察が、AIがサピエンスを上回る知性となった場合に援用されているのはとても秀逸な分析です。私はこれにはかなり同意します。

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次に、スコット・ギャロウェイ『the four GAFA』(東洋経済) です。著者は、連続起業家(シリアル・アントレプレナー)として著名だそうで、いくつかの大学院でMBAコースの授業も持っているらしいです。本書のタイトル通りに、デジタル時代の4巨頭である GAFA (Google、Apple、Facebook、Amazon) を対象にしているんですが、このテの本はほとんど内輪誉めも含めて、これらの業績抜群のGAFAをほめたたえ、人事制度や事業化の過程や在庫管理やなんやかやについて日本企業もGAFAのマネをすべし、という内容だと考えていたんですが、本書はそうでもありません。すなわち、サクセス・ストーリーではなく、これらのGAFAの企業活動などについてはかなり懐疑的な見方が示されています。例えば、宗教に近いような崇高なビジョンを掲げつつ、利益、特に株主に還元する利益は軽視し、法律は抜け穴を見つけては無視し、競争相手は豊富な資金で踏みつぶし、コレクションという人間の本能を刺激して売りまくり、結果として、ほとんどの人を農奴にしてしまう、などの議論を展開しています。また、本書 p.289 では、これらGAFAの共通項として、「商品の差別化」、「ビジョンへの投資」、「世界展開」、「好感度」、「垂直統合」、「AI」、「キャリアの箔付け」、「地の利」8項目を上げています。特に、経済学的には「スーパースターの経済学」や「1人勝ち経済」などと呼ばれているデジタル経済の特徴のひとつを体現する企業と考えられているようです。もちろん、GAFAにとっては酷な物言いであり、デジタル経済の特徴を生かしつつ経済学が考える合理的な利潤極大化などの経済目標に向かう活動にいそしんでいるだけなんでしょうが、少なくとも結果として、格差の拡大などをもたらしていることは事実かもしれません。GAFAをはじめとするデジタル経済で大きな力を持ちつつある企業に対する国民からの注視に役立つかもしれません。しかし、最後の方にある個人の対処方法、すなわち、大学に行く、などはほとんど役立ちそうにない印象を持ったのは私だけでしょうか。

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次に、藤原洋『全産業「デジタル化」時代の日本創生戦略』(PHP研究所) です。著者は、大学を卒業した後、日本IBM、日立エンジニアリング、アスキー、ベル通信研究所などでコンピュータ・ネットワークの研究開発に従事し、1996年に株式会社インターネット総合研究所を設立して現時点でも代表を務めていますが、私は専門外なのでビジネスの実態はよく知りません。本書では、現時点で想定可能な範囲で2030年を見通し、現在進行中のAIとIoTと5Gの活用により第4次産業革命が進み、我が国経済が大きく成長して2030年にGDP1,000兆円達するという楽観的なシナリオを提示しています。どうでもいいことながら、先週取り上げたニッセイ基礎研の「中期経済見通し」では予測期間最終年2028年度で680兆円弱の名目GDPを予測しています。それから、日本経済が長らく停滞して来たのは、私のようなリフレ派エコノミストが考える金融政策の失敗に起因するのではなく、政府が規制や保護で旧態依然とした産業構造を維持してきたため、アマゾンに典型的に見られるように外来種によって日本市場が席巻されたためである、と結論しています。まあ、そうよ移動が起こりにくくした政策動向は確かに私もあると考えていますので、判らないでもありません。話を元に戻して、本書では、具体的に、情報通信、流通、農業、金融・保険、医療・福祉などの産業分野において、ビジネス実態や企業がどう変わるか、何をすべきか、政府の規制緩和の動向、などをわかりやすく解説しています。第3章の企業のAIに関する取り組みなどは、専門外の私でも知っているいくつかの企業活動が取り上げられており、特に目新しさはない一方で、現時点における幅広いサーベイ、というか、極めて大雑把な産業や企業活動の概観が得られると思います。加えて、GAFAの企業活動を見るにつけ、第4次産業革命は早くも勝負が決まった、と考える必要は何らなく、これからが勝負なので、日本企業にも目いっぱいチャンスがある、というのは私も同感です。金融のFINTECHはやや怪しいですが、物流や医療介護などは我が国企業にとって得意分野ではなかろうか、という気は確かにします。

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次に、ジェイムズ・グリック『タイムトラベル』(柏書房) です。著者は、よく判らないながら、どうもサイエンスライターのようなカンジで私は受け止めました。英語の原題も Time Travel そのもので、2016年の出版です。本書は、タイトル通りに、「タイムトラベル」をキーワードにしつつも、立体的で可視的な3次元空間と違って、目に見えない4次元目の時間について歴史的な考察を巡らせたエッセイです。ですから、第1章はタイムマシンから始まります。マシンものなしでタイムスリップする場合とか、その昔の米国のTV番組だった「タイムトンネル」のような構造物を別にすれば、私の貧困なる発想と想像力では、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のデロリアンか、ドラえもんのいかだのようなタイムマシンしか思い浮かびません。そして、時間を行き交いする以上、タイム・パラドックスも避けて通れません。これも発想と想像力貧困にして、極めて上手にタイム・パラドックスを処理した映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の例と、ホラー作家ですからディストピア的な仕上がりになるのは仕方ないスティーヴン・キングの『11/23/63』が印象に残っています。ということで、長々とした前置きを終えて、本書では歴史的に時間を考えていますが、近代的な時間感覚を一般大衆が持ち始めたのは、20世紀に入るころからであると本書の著者は指摘しています。そこにほどなく、相対性理論に基づく宇宙の時間をアインシュタインが持ち込み、宇宙というものを4次元時空連続体のモデルで計算できることを示したわけです。最後に、本書で指摘ないし取り上げている興味深い点を2つ上げると、タイムトラベルで標的にされやすいのはヒトラーらしいです。おそらく、近代以降でもっとも忌み嫌われている人物の1人であり、ヒトラーがこの世に生を受けなければ、もっといい世界が展開していたのではないか、と思わせるのかもしれません。そして、タイムトラベルを取り扱った日本の小説としては、民話レベルの「浦島太郎」を別にすれば、唯一、村上春樹の『1Q84』に言及がなされています。ここまで海外でも有名なんですから、早くノーベル文学賞を取って欲しいものです。

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次に、戸田学『話芸の達人』(青土社) です。著者は、テレビやラジオの番組構成、映画や落語を中心とした著述で活躍しているライターのようです。上の表紙画像に見られる通り、関西で活躍した西条凡児と浜村淳と上岡龍太郎の3人の話芸の達人を取り上げ、昭和から平成の話芸史を跡付けます。そして、結論として、この3人の話芸のバックボーンは、西条凡児には落語があり、浜村淳には浪花節があり、上岡龍太郎には講談がある、と示唆しています。3人とも生粋の大阪人ではなく、西条凡児は神戸、浜村淳と上岡龍太郎は京都の出身であるとして、やや柔らかで上品な語り口の秘密のひとつとして上げています。西条凡児については、戦前戦後の転換点で権力への反骨精神を指摘しつつ、浜村淳については文章として書き下せば標準語となる言葉に対して、いわゆる「てにをは」を強調する関西風のアクセントを付けるのが特徴と解説しています。さらに、立川談志が上岡龍太郎の頭脳と感性を絶賛したとして、その尻馬に乗るがごとく、漫画トリオでいっしょに高座に上がった横山ノックへの弔辞を長々と引用し、「井原西鶴から織田作之助にまで見られる物事を饒舌に列挙して語るという大阪文学の特徴までも垣間見えた」と称賛を惜しみません。東京で同様の話芸といえば、永六輔や小沢昭一などが上げられそうな気もしますが、関西文化圏の話芸とどこまで比較できるか、は、私には判らないものの、現在でも落語が東京と上方で分かれているように、話芸もご同様かもしれません。最後に、実は、私も話芸の要求される職業に就いていたことがあります。それは大学教員です。初等中等教育の教員であれば、かなりインタラクティブな生徒とのやり取りを含みつつ、せいぜいが1時間足らずで授業が終わりますが、大学教員の場合は、規模の大きな教室の講義ではインタラクティブな学生とのやり取りもなく、ほぼほぼ一方的に1時間半、90分間しゃべり続けなければなりません。しかも、それを半年で15回、1年通じて30回の講義として一貫性あるものとする必要があります。ハリ・ポッターのシリーズでホグワーツで魔法史を教えるビンズ先生のように淡々と退屈な授業をするのもひとつの手ですが、それなりに学生の興味を引こうとすれば、教員の方でも話芸を磨く努力が必要かもしれません。私はしゃべる方はかなり得意でしたが、それでも、十分な準備が必要でした。

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次に、辻村深月『噛みあわない会話と、ある過去について』(講談社) です。ご存じ、作者は売れっ子の小説家であり、本書は『かがみの孤城』による本屋大賞受賞後の第1作でもあります。独立した短編4編を収録しています。そして、ジャンルを問われれば、私はホラー小説であると回答しそうな気がします。学生時代に異性でありながら恋愛関係にはなり得なかった男性の友人が結婚するに当たって、その婚約者=配偶者に縛られていく様子を描いた「ナベちゃんのヨメ」、小学生のころに担任ではないながら少しだけ教えた記憶がある地味でおとなしい子がアイドルになってから母校を訪問した際の気まずい思いを取り上げた「パッとしない子」、成人式の着物の写真が変化して行って、その写真に整合的な人生を送るようになる「ママ・はは」、小学生のころの同級生が学習塾産業で大成功した後にミニコミ誌からインタビューに行き厳しい質問を受ける「早穂とゆかり」から編まれています。特に、「パッとしない子」と「早穂とゆかり」はモロに相手から詰め寄られるシーンが圧倒的で、「ママ・はは」は超自然現象的に写真が変化するとともに、真面目過ぎる母親がいなくなるという意味深長なフレーズに戦慄を覚えもしました。もちろん、「ナベちゃんのヨメ」には人間らしい自分勝手さがにじみ出ています。そして、何らかの対立、というか、対決も含めて二項対立がストーリーの中心にあるわけですが、西洋的な善悪の対立ではなく、コチラが悪くて、アチラが正しい、とかの明確な対立・対決ではありません。そこは東洋的、というか、日本的なあいまいさに包まれているんですが、こういった対立・対決の構図はまたまたホラーに見えてしまいます。ある意味で、読後感はよくありませんし、その辺に転がっている日常の風景でもないんですが、普通の人が普通の人の心を傷つけるということですから、我と我が身を振り返って何らかの身につまされる思いが起こらないと、逆に、アブナいんではないか、とすら思ってしまいます。

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次に、周防柳『高天原』(集英社) です。表紙画像は少し見にくいかもしれませんが「たかまのはら」とルビが振られています。作者は、すでに何本かの小説を出版していますが、私の頭の中では、我が国の古典古代の時期を舞台とする時代小説家です。私はこの作家の作品は3作目ですが、六歌仙を取り上げた『逢坂の六人』と『古事記』を口承したといわれている稗田阿礼を主人公とする『蘇我の娘の古事記』の2作を読んでいます。そして、この作品はサブタイトルにもある通り、成文化された国史を編纂する、というか、国作りの物語を口承説話などから構成しようとする厩戸皇子=聖徳太子を主人公とし、その実務に当たる船史龍にも重要な役割を振りつつ、『天皇記・国記』と呼ばれる国史編纂事業に焦点を当てた時代小説です。しかし、厩戸皇子=聖徳太子はこの小説のラストから半年後に亡くなり、さらに、編纂所が設けられていたのは蘇我馬子の屋敷の別館なんですが、その馬子も亡くなり、『天皇記・国記』は未完のままに終わります。もっとも、イザナギ・イザナミによる国作りの物語やアマテラスの天孫が降臨して天皇家の始祖となる、などの国司の骨格は厩戸皇子=聖徳太子と蘇我馬子の会話で示されており、成文化された国史の書物、というか、その当時でいえば巻物こそ完成しなかったものの、国史のあらすじはこの時代に完成していた、という設定になっています。あくまで時代小説、すなわち、フィクションですから、どこまで史実に忠実かは不問としつつも、その昔に時代的にズレがあるとはいえ、1980年から1984年にかけて『LaLa』に連載された山岸涼子の『日出処の天子』を愛読した身としては、かなりいいセン行っているような気がします。私はこの作者の古典古代を舞台とする時代小説は引き続きフォローしたいと考えています。

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最後に、安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書) です。本書ではできる限り混同を避けようという意図がよく理解できるんですが、それでも右翼と保守をかなりの程度に同じ意味で使っているような気がします。私は保守とは歴史をの流れを止める、ないし、逆周りさせるものであると私は考えているのに対して、右翼とは左翼の逆であるに過ぎません。もっとも、社会主義勢力に敵対するという点では同じです。ということで、本書では、昭和初期1930年代くらいからの右翼の歴史を追いつつ、もちろん、重点はタトル通りに戦後史にあるわけですが、終戦で神国日本が敗戦したわけですから、本書のいう通り、戦前の右翼は壊滅したといえます。そして、その後の右翼は天皇を中心に据える、さらに、反共ないし防共以外は何ら共通点がないと考えるべきです。憲法に対する態度、自衛隊や軍事力に対する考え方、在日朝鮮人や他の外国人に対する排外的あるいは許容的な態度などなど、天皇と共産主義に対する考え方以外は何ら共通点はありません。しかし、その上で、本書の著者は、まるで、戦前タイプの右翼が本筋で許容的なのに対して、現在のネトウヨに代表される排外的な右翼は、本筋ではないかのような視点を提供していますが、それはかなり本質を見誤った味方だと私は考えています。左翼がプロレタリアートの前衛部隊として社会主義革命から共産主義革命を先導するのに対して、右翼とはそれを阻止することを使命としています。ですから、歴史を逆回しにする保守と同じともいえるわけです。本書のハイライトは現在の政治シーンで隠然たる影響力を持つ日本会議ではなかろうかと私は期待していたんですが、一般的な右翼に流れすぎていて、かつ、戦前的な右翼と現在のネトウヨに関するまったく本質的でない議論にとらわれていて、期待は裏切られて失望を禁じえませんでした。

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2018年10月20日 (土)

今週の読書は貧困に関する経済書をはじめ計7冊!!!

今週は貧困や開発に関する重厚な経済書をはじめ計7冊、以下の通りです。これから自転車で図書館を回りますが、来週はもっと読みそうな予感です。

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まず、マーティン・ラヴァリオン『貧困の経済学』上下(日本評論社) です。著者は、それほど有名ではありませんが、貧困や途上国開発に関する経済学の現場、特に、世銀のエコノミストを長く務め、現在は米国の大学の研究者をしています。邦訳タイトルは英語の原題そのままであり、The Economics of Poverty であり、オックスフォード大学出版局から2016年に刊行されています。上下巻通しでページ数がふられており、注や参考文献を除いても800ページを超える大分な著作です。極めて包括的な貧困に関する経済学を展開しています。通常、経済学は先進国経済を対象にしているんですが、先進国における貧困だけでなく、途上国における貧困や開発の問題も幅広く取り入れています。また、標準的な経済学だけでなく、マルクス主義的な経済学の視点にも配慮しているように見受けられました。ただ、BOXと称するコラムが余りに大量にあり、読みにくくなっている感は否めません。これだけ膨大なボリュームの本を読んでおいて、いくつかのトピックを取り上げるのは気が引けるんですが、ひとつはワシントン・コンセンサスについては肯定的な評価を下しています。まあ、ワシントンにある世銀のエコノミストを長らく務めて、まさにワシントン・コンセンサスを実践していたような人物ですから当然という気もします。また、これも当然のことながら、貧困は個人の自己責任に帰すべき問題ではなくマクロ経済や法制度や社会的な慣習も含めて、幅広く原因が散在しており解決策も多岐に渡る点は強調しています。理論やモデルだけでなく、実践的な個別事案の大作なども豊富に収録されていて、私にはとても勉強になりました。ただ、貧困というよりは開発経済学なんですが、昔から疑問に思っているところで、中国の成長や貧困削減は経済学的にどのように解釈されるのか、解釈すべきか、という問題には答えてくれていません。すなわち、アセモグル-ロビンソン的な inclusive な成長ではないですし、経済が豊かになっても一向に民主主義的な方向への変化は見られません。あの国は経済学の常識が成り立たないのでしょうか?

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/ 次に、服部暢達『ゴールドマン・サックスM&A戦記』(日経BP社) です。著者は、日産の技術者からMBAに留学した後、ゴールドマン・サックスに入社し、投資銀行業務、中でも、本書のタイトル通りにM&Aを中心とする業務に携わった経験がある人物です。なぜ、日産に入社したのかはそもそも不明なんですが、本書の中心となる経験はゴールドマン・サックスで積んだようですので、それなりに興味深い経験ではあります。しかも、私と同じくらいのそれなりの年令に達した人らしくなく、それほど「上から目線」でもなく、割合と、淡々と自分の経験を基にしたM&A活動について明らかにしており、それなりに好感が持てますし、読みやすくもあります。ただ、人生観は公務員の私なんぞと違って、いわゆる「ハイリスク・ハイリターン」型の人生を思考してきたような雰囲気があり、私の理解が及ばない点も少なからずあった気がします。日本の経営については、俗説ながら、ものづくりなどの現場は一流、経営は三流、などと揶揄される場合もありますが、本書の著者はM&A案件で接した経営者、何と、郵政省の事務次官経験者の通信会社社長も含めて、決して米国と見劣りすることはないと言明し、我が国経営者の質の高さも評価しています。おそらく、私もそうなんだろうと感じています。我々公務員もそうなんですが、我が国の経営者がボンクラではここまでの経済大国にはなれなかったでしょうから、歴史によって後付かもしれませんが、我が国企業の経営者は優秀であることは証明されているように私は感じています。繰り返しになりますが、人生観や処世術などの点では、私は理解できませんし、また、仮定を重ねて「ひょっとしたら」という程度のお話しではありますが、何かの歯車が狂っていれば、本書の著者はまったく違った人生を送っていた可能性がある一方で、私のような平々凡々たる公務員は、少々の歯車の狂いには動じない可能性が高い、という点も大いに感じてしまいました。それが人生観、世界観なんだろうという気がします。
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次に、湯澤規子『胃袋の近代』(名古屋大学出版会) です。著者は筑波大学の研究者であり、出版社から判断すれば学術書のように見受けられますが、食に関する近代日本の社会史であり、私のような専門外の一般読者にも十分タメになります。私が見た範囲でも、日経新聞読売新聞毎日新聞、などで書評に取り上げられていて、それなりに注目度が高いのかもしれません。ということで、明治後期ないし大正期の20世紀に入ってからくらいの我が国の食の社会史を跡付けています。ただし、家庭における食事ではなく、学校・工場やあるいは職場の寮の共同炊事、加えていわゆる外食の範囲の一膳飯屋などのいわゆる日常食であって、高級料亭などの非日常食は残飯屋を取り上げる際に登場するくらいです。ですから、地域的には学校や工場などの集中している都市部が中心になります。「同じ釜の飯を食う」という表現がありますが、集団で喫食し、食事だけでなく、文字通り寝食をともにするといった集団生活での食の役割などにも着目しています。もちろん、カロリー摂取だけでなく、衛生面での清潔性の確保も重要ですし、明治維新からの近代化という大きな流れの中で、江戸期にはなかった学校教育の推進や産業化の進展を支える背景としての食事の役割も目配りが行き届いています。細かな点かもしれませんが、在日朝鮮人と内地人とでおかずの盛りが違うとか、大阪で香々、東京で沢庵と呼ばれる漬物があらゆる外食に欠かせなかったとか、それなりに井戸端会議で取り上げることができるトピックも豊かです。

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次に、デズモンド・モリス『デズモンド・モリスの猫の美術史』(エクスナレッジ) です。猫がペットとして飼われ出したのは古代のエジプトという説がありますが、本書では、そのエジプトの猫の少し前あたりから、猫を題材にした美術史を回顧しています。すなわち、古代の旧石器時代の猫から始まって、我が国でも有名な美術家といえるレオナルド・ダビンチを筆頭にマネ、モネ、ゴーギャン、ロートレック、クレー、ピカソ、ルソー、ウォーホルなどなどの猫の絵画を、フルカラーで収録しています。250ページ近くのボリュームに130点余りの猫の絵画を収録して、税抜きながら1900円という価格は、それなりにお買い得感もあるような気がします。ごくごく古代では人間の狩りを手助けする猫の姿も描かれていますが、気まぐれを身上とする猫のことですから、それほど人間の生産活動に役立っている姿は多くありません。中世は魔女とセットにされて迫害されたりもしていたりします。私は基本的に犬派ではなく、圧倒的に猫派であって、今年に入ってからも、3月3日付けの読書感想文で、タッカー『猫はこうして地球を征服した』を取り上げたりしていますし、なかなか本書も愛着を覚えるものです。最後になりましたが、我が日本代表として猫の絵画が取り上げられているのは、浮世絵の葛飾北斎、歌川国芳、菱田春草のほか、近代洋画家の藤田嗣治などです。

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次に、瀧澤弘和『現代経済学』(中公新書) です。著者は中央大学の研究者であり、上の表紙画像に見られる通り、本書の副題はゲーム理論・行動経済学・制度論となっています。ですから、経済学のメインストリームであるミクロ経済学やマクロ経済学にとどまらず、ゲーム理論、行動経済学や神経経済学などの大きな最近の流れを見据え、実験や制度、経済史といった重要な領域についても解説を加えています。多様化した経済社会を分析する経済学の見取り図を示すべく幅広いトピックに焦点を当てています。ただ、私は経済学には、というか、少なくともマクロ経済学には、かなりの有用性があると考える一方で、やや制約を強調しているような気もします。例えば、今週のニッセイ基礎研の中期見通しを取り上げた際に、日銀物価目標は10年しても到達しない、という結論がありましたが、そういったことです。マイクロな経済学が実験経済学の手法を含めて、さまざまな展開をしている一方で、マクロ経済学は政策科学として万能ではないのは当然としても、少なくとも、雇用の確保などでは国民生活に大きな寄与をしている点は忘れるべきではありません。最後に、大きな経済学の流れを展開するには、新書という媒体は良し悪しなんですが、コンパクトに理解するには決して悪くないような気がします。

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最後に、ジェフリー・アーチャー『嘘ばっかり』(新潮文庫) です。作者はご存じの英国の国会議員であり、売れっ子の小説家です。この作品は15編の短編を収録していて、それぞれ、時代背景が決して同じではなく、地域的にも欧州内ではありますが、英国にとどまらずフランスやイタリアなどなど多彩な短編を収録しています。特に、今までにない趣向としては、オー・ヘンリーの「運命の道」のように、作家が結末をひとつに決めかねて、3つの結末を用意した「生涯の休日」が目立ちます。ただ、オーヘンリーの短編と違い、というか、短編で有名なサキに近く、すべてがハッピーエンドで終わるわけでもなく、かなり皮肉の効いた仕上がりとなっています。私が最初にこの作家の連作短編集で読んだ『100万ドルを取り返せ!』のように、脱法的に金儲けをする短編、例えば、「上級副支店長」なんかも印象的でしたが、欧州各国の国際性や戦争と平和について考えさせられる「コイン・トス」が本書では私の一番のお気に入りかもしれません。

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2018年10月13日 (土)

今週の読書はちゃんとした経済書はなく計7冊!

先週はティロル教授の重厚な経済書を読み、来週に予定している読書の本はすでに図書館回りを終えていて、ラヴァリオン教授の『貧困の経済学』上下を借りましたから、またまた重厚な経済書に取り組む予定で、今週はその谷間でマトモな経済書はなし、ということなのかもしれませんが、数はこなした気がします。以下の計7冊です。

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まず、橘木俊詔『ポピュリズムと経済』(ナカニシヤ出版) です。著者はご存じの通り、私の母校である京都大学経済学部の名物教授だった経済学研究者です。本来は労働経済学などのマイクロな分野が専門と記憶していますが、ご退官の後は、幅広く論評活動を繰り広げているようです。ということで、タイトル通りの内容なんですが、英国のBREXITの国民投票とか、大陸欧州における極右政党の伸長とか、何よりも、米国におけるトランプ政権の誕生とかの話題性を追って、ポピュリズムについて論じています。でも、本書こそがポピュリズム的な内容である点には著者ご本人は気づいていないようで、何か「もののあわれ」を感じてしまいます。ポピュリズムについて、典型的には、私はナチスを思い浮かべるんですが、著者は、その昔の「左右の全体主義」よろしく、南米のペロン大統領や最近までのチャベス政権などを念頭に、左翼のポピュリズムの存在も視野に入れたと称しつつ、右派の米国トランプ政権やすランスの国民戦線ルペン党首などの極右政党についても、左右両方のポピュリズムと称して同一の切り口で論じようとムチャなことを試みて失敗しています。どうしてムチャかといえば、右翼的なナショナリズムが内向きで排外的で、そして何よりも、ポピュリズムの大きな特徴である多元主義の排除と極めて大きな親和性がある一方で、左翼はインターナショナリストであり外向きで体外許容性に富んでいます。まさに多元主義の権化ともいえます。ナチス的な雇用の重視を持って、著者はポピュリズムの特徴と捉えているようですが、笑止千万です。俄勉強でポピュリズムを論じると、このような本が出来上がるという見本のような気がして、私も肝に銘じたいと思います。

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次に、稲葉振一郎『「新自由主義」の妖怪』(亜紀書房) です。著者は明治学院大学の研究者であり、社会哲学が専門だそうです。本書では、マルクス主義的な歴史観、すなわち、唯物史観を持って新自由主義の資本主義の段階を解明しようと試みていますが、私の目からは成功しているように見えません。19世紀後半にマルクスが大英博物館にこもって『資本論』を書き上げた時点では、ビクトリア時代の大英帝国がもっとも発達した資本主義国家であり、マルクス主義的な歴史観からすれば、資本主義から社会主義に移行する場合、もっとも発展した段階にある資本主義国が社会主義に移行するのが必然と考えられます。しかし、英国に社会主義革命は起こらず、レーニンの分析によれば独占資本が支配的とな理性産物だけではなく資本の輸出が行われるような帝国主義の段階が資本主義最後の段階であり、社会主義の前夜とされるようになります。さらに、まったく発達した資本主義ではなかったロシアとか中国で革命が成功して社会主義に移行し共産主義を目指すことに歴史的事実としてなるわけですが、他方で、欧米や日本などの先進国ではスミスなどの古典派経済学的な夜警国家を超えて、不況克服などのために、あるいは、いわゆる市場の失敗の是正のために、国家が積極的に資本主義に介入して国家独占資本主義が成立します。資本の側からはケインズ政策を応用した福祉国家の成立とみなされます。そして、1970年代の2度の石油危機と同時にルイス的な二重経済が終わりを告げて、典型的には日本の高度成長期が終了して、ケインズ政策の有効性が疑問視されて、1980年ころから英国のサッチャー政権、米国のレーガン大統領、日本の中曽根内閣などにより新自由主義的な経済政策、あるいは、その背景となるイデオロギーが幅を利かせ始めます。こういった歴史的事実に対して、本書の著者は、極めて唐突にも、産業社会論を持ち出したり、ケインズ政策への賛否などを考察した上で、マルクス主義的な歴史観と新自由主義の背景に同一とまではいわないものの、かなり似通った要因が潜んでいると指摘します。私には理解できませんでした。マルクスのように英国に発達した資本主義の典型を見たり、あるいは、レーニンのように資本輸出に特徴づけられた帝国主義が資本主義の最終段階であり社会主義の前夜であると見たりするのは、それぞれの個人の歴史的なパースペクティブにおける限界であり、生産力の進歩が見られる限り、何と名付けようと、どのような特徴を持とうと、資本主義は生き残りを図るわけですから、おのおのの観察者のパースペクティブに限定されることにより、資本主義の最終段階=社会主義の前夜を設定するかは異なるはずです。この自明の事実を理解せずに、教条的にマルクス主義的な歴史観からして、どの段階が資本主義の最終段階=社会主義の前夜かを論じるのはまったく意味がないと私は考えます。

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次に、グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』(明石書店) です。著者はフランスの国立科学研究所の研究者であり、専門は科学哲学だそうです。原書のフランス語の原題は Théorie du drone であり、直訳すれば「ドローンの理論」となり、2013年の出版です。タイトルはかなり幅広い門構えになっているんですが、本書で焦点を当てているのはドローンの軍事利用、しかも、ほとんど偵察は取り上げておらず、殺人や破壊行為に限定しているように私は読みました。もちろん、こういった戦争や戦闘における殺人や破壊行為にドローンを用いる非人道的な面を強調し、強く非難しているわけです。ただ、私から見て戦争や戦闘そのものが大きく非日常的な非人道的行為であり、そこで用いられる兵器ないし何らかの道具は非人道的な色彩を帯びざるを得ないという気がします。銃でもって人を殺せば殺人罪に問われる法体系の国が多いと私は推察しますが、戦争において戦時法体系化で銃器で敵国の兵隊を殺せば、あるいは、勲章をもらうくらいに推奨ないし称賛される行為となり得る可能性があります。ですから、通常の刑法の体系とはまったく異なる戦争法規があり、実感はないものの、軍法会議という裁判形態があることはよく知られた通りです。加えて、銃器や戦闘機、軍艦などは戦争や戦闘に特化した兵器である一方で、とても非人道的に見える究極の兵器としては核兵器があり、これはその爆発力を平和利用することも可能です。もちろん、核兵器を平和利用した原子力発電その他であっても、事故の際の甚大な破壊的影響は残るとの意見はあり得ますが、ドローンは平和利用がより可能、というか、そのような破壊的な危険が極めて小さい道具といえます。その意味で、平和利用ではなく、ドローンを戦争や戦闘で利用する非人道性を強く非難すべきであると私は考えており、本書の著者の視点とのズレが大きいと感じました。

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次に、デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(NHK出版) です。著者はハーヴァード大学医学大学院の遺伝学を専門とする研究者であり、ヒト古代DNA分析における世界的パイオニアといえます。本書の英語の原題は Who We Are and How We Got Here であり、今年2018年の出版です。日本語タイトルからは判りにくいんですが、要するに、現生人類ホモサピエンスないしその直前くらいのネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人類を視野に入れ、現生人類の起源について、地球上でいかに移動し接触し交雑したか、特に、ホモサピエンスの出アフリカ以降の移動・接触・交雑を追って考察しています。ただ、本書でも指摘していますが、DNA分析でなく文化的な考古学的出土品、例えば、土器とか石器を研究対象とする場合、ヒトが移動したのか、それとも、その文化が伝えられたのかの識別が困難なんでしょうが、DNAで直接分析を実施するとヒトが移動し、かつ、邦訳タイトルにあるように、新旧人類間での接触と交雑があったのかどうかが明確に把握できます。その結果、交雑の中で遺伝的な特徴を失ってしまったゴースト集団の動向も含めて、とても興味深い事実が多数提示されています。加えて、第2部では地域別にヨーロッパ、インド、アメリカ、東アジア、アフリカにおける人類史をひも解いています。そして、やや論争的なのが第3部です。現生人類はホモ・サピエンスの1種であるのに対して、いわゆる人種がいくつか観察されるのも事実であり、白人もしくはコーカソイド、黒人もしくはネグロイド、そして、モンゴロイド、とあり、加えて、ナチスの時代に遺伝学はアーリア人の支配を正当化するために大きく歪められた、という歴史があるのも事実です。本書ではそれほど取り上げていませんが、旧ソ連でもスターリン的に歪められた遺伝学の系譜があったような気もします。本書の著者は、人種は遺伝的な特徴を備えた側面もあり、決して100%社会的なものではない、と考えているように私は読みましたが、本書が強調しているのは、人類集団間において些細とはいえない遺伝学的差異がある、ということであり、これは、人類集団間には実質的な生物学的差異はなく、集団内の個人間の差異の方がずっと大きい、とする「正統派的学説」とは異なります。さらにいえば、「政治的正しさ」ポリティカル・コレクトネスに反していると解釈されても不思議ではありません。トランプ政権下の分断的な米国政治情勢下では許容される可能性が大きくなった気もしますが、私にはやや気にかかりました。

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次に、ジム・アル=カリーリ[編]『サイエンス・ネクスト』(河出書房新社) です。我が家は5分も歩けば県境を超えて埼玉県に行けるような位置にあるんですが、その隣接の埼玉県にある市立図書館の新刊書コーナーに借りてもなく並べてあったので、ついつい手が伸びてしまいました。英語の原題は What's Next? であり、2017年の出版です。編者は英国の物理学の研究者であるとともに、テレビやラジオの科学番組のキャスターを務めているようです。ということで、第1部の人口動態や気候変動などの経済学とも馴染みの深い分野から始まって、第2部の医療や遺伝学、第3部の細菌話題のAIや量子コンピューティングやインターネット上の新技術、第4部の素材や輸送やエネルギー、第5部の惑星間航行やタイムトラベルや宇宙移民といったSFに近い話題まで、世界の科学者はいま何を考えているのか、幅広い分野の科学者たちが極めて判りやすく解説しています。内容がとても多岐に渡っていますので、私のような科学とはやや縁遠く専門分野の異なる人にも、何らかの興味ある部分が見い出せそうな気がします。英語の原題を見ても理解できる通り、邦訳タイトルとは少しニュアンスが違っていて、科学だけでなく社会動向や工学を含め、さらに、惑星間航行に基づく宇宙移民といったSFに近いようなトピックも含めていて、とても幅広く興味深い話題を集めています。私のようなエコノミストからすれば、社会の生産や生活に及ぼす技術動向が気にかかるところで、特に、AIなどが雇用に及ぼす影響などがそうです。現在までは新技術は雇用を奪う以上に新しい雇用を生み出してきており、ですから、歴史的に振り返ればラッダイト運動などは「誤った方向」だったと後付で言えるんですが、現在進行形のITC技術革命、2045年と言われているシンギュラリティの到達などなど、気にかかるところです。本書をちゃんと読めば何かのインスピレーションを得られるような気がします。

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次に、ドナルド R. キルシュ & オギ・オーガス『新薬の狩人たち』(早川書房) です。英語の原題は The Drug Hunter であり、邦訳タイトルはかなり忠実に原題を伝えていると考えてよさそうです。著者2人は、そのドラッグハンターとジャーナリストの組み合わせです。経済学は、数学を用いた精緻なモデル設計によって物理学や化学と親和性が高い一方で、医学や薬学とは作用の経路や因果関係が不明ながら経験的な数量分析により効果が計測できるという類似性も持っていると私は考えています。もちろん、私の専門に近い経済社会の歴史的な発展を生物的な進化に見立てる場合もあります。ということで、私は他のエコノミストと違って医学や薬学の本も読書の対象に幅広く含めていて、本書のその一環です。本書では近代以降における薬、特に新薬発見の歴史を植物由来の薬、合成化学から作る薬、ペニシリンなどの土壌に含まれる微生物から抽出した薬、そして最近のバイオ創薬まで、場は広く薬が生まれた歴史を跡付けています。アスピリンが初めて患者に投与されてから70年超の年月を経てようやく受容体が特定された、などなど、どうして薬が効くのか、その作用機序が明らかでなくても、何らかの実験により統計的に薬効が認められるか脳性が大きく、そこが実験のできない経済学、というか、マイクロには実験経済学という分野が広がっているものの、景気変動に関して財政学や金融論を中心としてマクロ経済への影響という点では実感が不可能な経済学とは違うところです。もちろん、経済学に引きつける必要はありませんが、薬の歴史についてのちょっとした豆知識的な話題を集めています。ただ、日本ではほとんど存在を感じさせませんが、クリスチャン・サイエンスのように医学的な治療や薬物の摂取を拒否する宗教も、例えば、米国では大きな違和感なく社会的存在として認められていますので、その点は忘れるべきではないかもしれません。

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最後に、市田良彦『ルイ・アルチュセール』(岩波新書) です。フランスのマルクス主義哲学者であるタイトルのアルチュセールに関する本であることは明らかなんですが、それをイタリア的なスピノザの視点から解き明かそうと試みています。すなわち、アルチュセールについては、偉大な哲学者という側面と妻を殺めた狂気の人という両面の評価があり、まったく同時に、マルクス主義に立脚している一方でカトリック信者であることを止めなかった、という両面性も考える必要があります。マルクス主義といえば、あるいは、そうなのかも知れませんが、私から見れば、アルチュセールはマルクス主義の本流を大きく外れるトロツキストの理論的基礎を提供しているような気がしてなりません。それは、フランスの構造主義、あるいは、ポスト構造主義に立脚するマルクス主義がかなりの程度にそうなのと同じかもしれません。本書で特にスポットを当てているアルチュセールの研究成果は『資本論を読む』であり、誠に残念ながら、フランス語を理解しない私にとっては邦訳が1989年であり、すっかり社会人になってからの時期の出版ですので、手を延ばす余裕もなく、よく知りません。なお、本書の著者は神戸大学をホームグラウンドとする研究者であり、私の母校での1年先輩、すなわち、浅田彰と同門同学年ではなかったかと記憶しています。参考まで。

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2018年10月 7日 (日)

先週の読書は重厚な経済書や甲子園グラウンドキーパーの著書など計7冊!

先週は、いつも位のペースで読書した気もしますが、感想文の冒頭に取り上げるティロール教授の『良き社会のための経済学』がやたらとボリュームがあり、通常の四六判よりも大判である上にページ数も600ページを超えていて、それだけで2冊分くらいに相当していたような気がします。今週も数冊をすでにいくつかの図書館から借り受けています。

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まず、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者は、フランスの経済学者であり、2014年のノーベル経済学賞受賞者です。私は産業構造などのマイクロな分野がご専門と理解しているんですが、このクラスになれば金融をはじめとするマクロ経済学の分野での貢献も少なくありません。特に、バブルについてはかなり独特な見方を示しており、典型的には、p.340からのあたりになるんではないかと思います。私も地方大学に出向していた際の紀要論文で取り上げたことがあります。明治はしておらず、仮想通貨でややごまかしている気味はあるのもの、著者のバブルの眼目は貨幣 fiat money であろうと私は考えていますただ、それを突き詰めて考えれば、金本位制のような本来価値のある何かでなければ貨幣になりえず、バブルでしかない、というのは、私にはやや違和感あります。本書は経済に関する幅広い入門書という位置づけですが、例えば、大学新入の経済学の初学者ではやや苦しい気がします。少し経済についての見識あるビジネスマン向けか、という気もします。ただ、どういう経済学を背景にしているか、といえば、もちろん、かなりスタンダードで標準的な経済学、ということもできるんですが、左派を標榜する私のようなエコノミストからすれば、財政均衡、とまではいわないものの、増税や歳出削減などによる財政再建を目指した財政政策とか、あくまで市場による資源配分の効率性を前提にしていたりと、やや右派的な経済学であることは確かです。そのあたりは、リベラルなクルーグマン教授やスティグリッツ教授の議論とは少し経路が違う点は読み取って欲しい気もします。

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次に、金沢健児『阪神園芸 甲子園の神整備』(毎日新聞出版) です。著者は、まさに、阪神園芸甲子園施設部長の職にあり、甲子園球場整備グラウンドキーパーの責任者です。本書冒頭にもありますが、昨年10月のセリーグのクライマックスシリーズの阪神と横浜の泥んこの中での試合が記憶にまだ残っていて、甲子園球場の整備に注目が集まったところです。その甲子園で水はけがいい、というのは、球場のマウンドを頂点とする勾配の問題であると著者は指摘しています。要するに、マウンドからの勾配が均等であって、どこにも水が溜まらない、ということらしいです。種を明かせばそういうことかという気もしますが、我が阪神タイガーズのホームグラウンドであるだけでなく、高校野球の聖地としても、歴史も、収容人数も、注目度も、何から何まで野球のスタジアムとしては日本一の甲子園球場ならではのエピソードが満載です。著者が50歳そこそこですから、あまりに古いタイガースの選手、例えば藤村富美男とか、村山実とか、はエピソードに出てきませんが、投手では能見投手、走塁では引退した赤星選手のグラウンド整備に関するエピソードが語られていて、守備としては、「弘法筆を選ばず」よろしく鳥谷遊撃手は何の注文もつけない、というのが「グラウンドは選べないでしょ」という発言とともに引かれています。歴代阪神選手としてもっとも多くのヒットを放つとともに、神守備の遊撃手であり、歴代阪神選手の中でも私がもっとも敬愛するひとりである鳥谷選手らしい気がしました。いずれにせよ、阪神ファンであるなら、あるいは、高校野球ファンも、ぜひとも手に取って読んでおくべき本ではなかろうかという気がします。

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次に、ベン・メズリック『マンモスを再生せよ』(文藝春秋) です。著者は、ベストセラーを連発するノンフィクション・ライターであり、カジノでのカード・カウンティングを取り上げて、映画化もされた『ラス・ヴェガスをブッつぶせ!』とか、えいが「ソーシャル・ネットワーク」の原作である『facebook』などをものにしており、本書も映画化の話が進んでいるそうです。ということで、本書では、ヒトゲノム解析計画の発案者の一人ハーバード大学のジョージ・チャーチ教授を主人公に、タイトル通りに、絶滅したマンモスを再生するストーリーです。というか、より正確には、アジアゾウの遺伝子を操作してマンモスにする、ということらしいです。英語の原題である Woolly とは、毛やヒゲで「もじゃもじゃ」という意味です。絶滅した生物をDNAを解析することによって復活させる、というのは、私でなくても映画の「ジュラシックパーク」のシリーズを思い起こすだろうと思うんですが、数千万年から1億年以上前の琥珀に閉じ込められた蚊が吸った恐竜の血は宇宙からの放射線その他により決定的に琥珀になり切っていて、生物として復活させることは不可能である一方で、せいぜい2~3000年前に死んで、しかも死後に急速冷凍されたマンモスは復活させることが可能、というか、アジアゾウに遺伝子を組み込んでマンモス化することは可能だそうです。そこは私にはよく理解できません。ただ、私のようなシロートから見ると、単なる科学的な、あるいは、知的好奇心という以上に、このプロジェクトの持つ意味が理解できませんでした。途中でスアム研究所というのが紹介されていて、富裕層を顧客にしたクローン・ビジネスを展開している営利企業だそうで、実際に何をやっているのかといえば、可愛がっていたペットのイヌが死んだ後に、そのクローンを再生する、というビジネスだそうです。これなら営利企業として成り立つような価格設定にすればいいわけですから、エコノミストの私にもビジネスとして理解できます。しかし、マンモス復活に何の意味があるのか、単なる見せ物なのか、私には根本的な意味がよく理解できませんでした。

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次に、松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』(新潮選書) です。著者は、大学・大学院終了後にNECに就職して基礎研究に従事し、今では独立しているような経歴です。本書では、人工知能(AI)の研究の歴史とともに、人間の知覚についてもニューロンからの理解を展開しつつ、最終的にはシンギュラリティの到来、特に人間を凌駕する知性としてのAIに対する懐疑論を展開しています。本書の著者が「無限定な空間」と表現している知覚の対象は、レーニン的には無限の認識対象を人間は有限にしか認識できない、ということになるんですが、私が考えるに、AIについてはあくまでアルゴリズムに基づくデータ処理の問題であり、それを人間のような知覚や認識と同一視するのは、少し違うような気がします。著者の定義するような人間の知を超えるAIは将来ともに出来ないかもしれませんが、それは逆から見て、将来にも出来そうにないAIの存在を見越した人間の知を定義しただけ、という気もします。少なくとも、チェスや将棋や碁に関しては「勝つ」という意味で人間の知を超えたAIが誕生していることは明らかであり、それにハードウェアたるロボットの筐体を組み合わせれば、あるいは、情報処理の面でも肉体能力の点でも、人間を超える存在が出来、それが人類を滅ぼす可能性も否定できない、というのが悲観派の見方ではないでしょうか。こういった現実的な実際の存在としてのAIやその入れ物としてのロボットを考慮することなく、将棋の羽生の「ルール変更」でAIを撃退するといった、定義の問題でリアルな問題を回避できるかのような議論な私には疑問だらけです。私はこの著者の『人工知能の哲学』を読んだ記憶があるんですが、やっぱり、ピンと来なかった気がします。

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次に、山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館) です。著者はノンフィクション・ライターであり、私は初めてでした。ややクセのある文体で少し戸惑うかもしれませんが、読み始めればそうでもないと思います。カルピス創業者の三島雲海を中心に据え、明治期から大正・昭和の戦争の時期を経て、戦後の高度成長期までを視野に入れた長期にわたるドキュメンタリーです。表紙画像からもうかがわれる通り、カルピスのルーツは中国東北部からモンゴルあたりの遊牧騎馬民族の発酵食品だそうで、箕面の浄土真宗の寺に生まれた主人公が戦前期に大陸に渡って日本語教員をしながら、モンゴルまで足を伸ばした経歴が下敷きとなっています。ただ、企業経営者としての活動の中心となる高度成長期以降は、さすがに、著者の専門範囲外なのかどうか、「今は昔の物語」の感があります。実際に、カルピスは企業としては味の素の傘下に入り、さらにアサヒビールのグループに売られたわけですから、評価はいろいろなんだろうという気がします。ただ、本書でも紹介されているように、市その昔に「初恋の味」というキャッチフレーズで宣伝され、国民の99.7%が飲用経験ある国民的飲料ですから、誰もが何らかの思い入れがある身近な飲み物ですし、親しみを持って本書を読む人も少なくないと思います。その昔、私などはカルピスを希釈して飲むという経験を持っていますが、20歳前後の我が家の倅どもなんぞはペットボトルに入ってストレートで飲むカルピスしか知らないような気もします。その時代の移り変わりを実感できる読書であろうと思いました。

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次に、尾脇秀和『刀の明治維新』(吉川弘文館) です。著者はポスドクの歴史研究者です。本書のタイトルは刀なんですが、あとがきにもある通り、帯刀という行為についての歴史的な位置づけや世間一般の受け止めの変遷について、戦国期から江戸期を通して明治初期の廃刀令までの期間です。当然、場所的には江戸や京といった大都会が中心なんですが、都市部からやや遅れがちな地方についても目を配っています。ということで、刀といえば、江戸期の前の豊臣秀吉のもとで刀狩りが実施され、支配者たる武士階級以外から武器を取り上げたんではないかと私は認識していたんですが、本書ではきっぱりと否定されており、江戸期は農民や町人も刀を所持していたと指摘しています。その上で、人に何らかの司令を下す立場にある豪農とか神職、あるいは、大工の棟梁や鳶職などはその立場を象徴する刀を帯びていた、との事実を史料から明らかにしています。しかも、そういった支配層だけでなく、一般大衆でも旅行中や正月などの非日常の場においては帯刀していた事実を確認しています。進んで、豪商がお上に寄進したり、何らかの寄付行為などで苗字帯刀が許されたわけですから、何らかの象徴的な身分標識としての帯刀行為を浮き彫りにしています。そして、上の表紙画像にある通り、明治維新からはその帯刀という行為がガラリと意味を変じたわけで、ザンギリ頭に洋装で刀を捨てて馬に乗った文明が、ちょんまげ和装で刀にしがみついた旧弊を見下ろしているわけです。手の平を返すように、帯刀という行為が権威の象徴や身分標章から、単なる凶器の携行と貶められた、と結論しています。まあ、そうなんでしょうね。

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最後に、有栖川有栖『インド倶楽部の謎』(講談社ノベルス) です。著者はベテランの領域に入りつつある新本格派のミステリ作家であり、本書は後期の作家アリスの火村シリーズの中でも特に人気の国名シリーズ最新刊です。7人のメンバーがインド、特にその思想的背景かもしれない輪廻転生で結ばれたインド倶楽部で、前世から自分が死ぬ日まですべての運命が予言され記されてインドに伝わる「アガスティアの葉」のリーディングの後に、関係者2名が相次いで殺されます。まあ、「アガスティアの葉」というのは、著者の独創なんでしょうが、アカシック・レコードの個人版みたいな位置付けなんでしょうね。それはともかく、舞台は神戸ですので兵庫県警の樺田警部、火村を快く思っていない野上警部補、遠藤刑事などが登場します。その昔の、名探偵、みなを集めて、「さて」といい、あるいは、名探偵コナンのように「犯人はお前だ」と指差すような派手なラストの犯人指摘を含む全貌解明シーンでなく、ページ数で真ん中あたりから少しずつ事件の概要が読者にも判るように手じされ始め、タマネギの皮をむくように一歩一歩すこしずつ事件の真相に迫りつつ、それでも、最後は驚きの結末が待っています。新本格派ですから、やや動機が軽く扱われていると感じる読者もいるかも知れませんが、謎解きとしてはとても良質のミステリです。

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2018年9月29日 (土)

やや時間的余裕あった今週の読書はとうとう2ケタ10冊に達する!!

今週は偶発的な事情により、止むを得ず仕事が停滞し、その分、時間的な余裕が出来てしまい、大量の読書をしてしまいました。経済・経営に歴史に数学、宗教、さらに、ミステリなどなど、以下の通りの計10冊です。なお、台風到来前にすでに図書館を回り終えたんですが、来週もそこそこ通常通りに数冊くらい読みそうな雰囲気です。

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まず、小黒一正[編著]『薬価の経済学』(日本経済新聞出版社) です。編著者は財務省から法政大学に転じた経済学の研究者です。各チャプターごとに研究者が担当執筆しています。タイトルは薬価になっているんですが、さすがにそこまで狭い議論ではなく、幅広く社会保障における医療、その中の投薬や薬価や、その他、お薬に関する分析が集められています。本書にもある通り、国民医療費年間40兆円のうち約10兆円が薬に投じられており、ジェネリック薬普及のキャンペーンなどもあるものの、高齢化の進展が進む我が国経済社会ではすべからく社会保障関係経費が増加し、そうでなくても世界中を見渡しても我が国では例のない財政赤字が積み上がっている中で、単に国民の傾向に関する厚生労働省の製作というだけでなく、財政政策としても重要な論点です。ただ、本書はやや中途半端な議論に終始しているきらいは否めません。制度論も中途半端ですし、情報の非対称性に関する経済学的な議論も少なく、財政収支への影響の分析も物足りません。社会保障の経済学のうち、さらに狭い医療、さらに薬価の狭い分野の絞った議論を展開するのであれば、もっと突っ込んだ分析が求められると私は考えます。従来にこのような分析が決して多くはなかった、という意味ではそれなりの評価が出来る一方で、やや物足りない読後感も同時に持ってしまいました。

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次に、ダグ・スティーブンス『小売再生』(プレジデント社) です。私は専門外で詳しくないながら、著者は世界的に著名は小売りコンサルタントだそうです。アマゾンなどのネット通販の急成長を前にして、冒頭に、著名な投資家マーク・アンドリーセンの「もう小売店は店をたたむしかない」との発言を引くところから始まって、最後の結論ではこれを否定してリアル店舗の生き残りに関してご高説を展開しています。私もシンクタンクのマイクロな消費を見ているエコノミストなどから、ミレニアル世代の消費を見るにつけバブル期のような爆発的な消費ブームはもうあり得ない、といった意見を聞くこともあるんですが、私はこういったマイクロな消費動向を将来に単に外挿してマクロを判断しようとする見方には賛成できません。私が青山に住んでいたころには、アップル・ストアの行列を目の当たりにしましたし、あのアマゾンがシアトルにリアル店舗を構えたわけですから、本書で指摘する通り、五感すべてで商品やブランドを体験する、という意味で、リアル店舗の存在は消費には欠かすことは出来ません。同時に、英国などのミレニアル世代の消費動向の変化についても興味深い分析が紹介されています。

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次に、砂原庸介『新築がお好きですか?』(ミネルヴァ書房) です。著者は、神戸大学の政治学の研究者であり、副題は「日本における住宅と政治」となっており、経済学的な観点から中古住宅流通の問題もなくはないですが、副題に沿った中身と考えて差し支えありません。ですから、近代的な都市の形成と、特に、戦後の核家族化や地方からの労働シフトに起因する大都市での住宅不足の解消などのプロセスを、取引費用などの経済学的な観点を踏まえつつ、政治的な意思決定のプロセスに関する議論も重視して、解き明かそうと試みています。日本人が新築が好きな一方で、経済学的な選択の問題としても、終身雇用の下で社宅などの給与住宅から始まって、アパートを借りたり、公団住宅に入ったりした後、いわゆる「住宅双六」で最後の上がりに一戸建てを購入し、終の棲家とするというプロセスです。しかし、私が疑問なのは、従来の人生50年とか60年であれば、「住宅双六」の上りで終わったかもしれませんが、高齢化が進み、特に女性が配偶者を亡くした後に一定の単身時期を過ごすような人生を送る現在、郊外の一戸建てで「住宅双六」を上がりには出来ず、さらにその先があるんではないか、という気がする点です。我が家の私が定年近くに達し、給与住宅である公務員住宅を出てマイホームを購入したわけで、さらにその先を考える時期に差しかかった気もします。

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次に、高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社) です。著者は、越前町織田文化歴史館学芸員を経て安田女子大学の研究者であり、日本中世・近世史が専門です。我が国の古典古代である奈良時代の和同開珎が国の手によって発行されてから、本書で対象とする織豊政権期から江戸期には、高額貨幣は国=幕府または藩から発行された一方で、銭については中国からの輸入や民間発行に任されていた、という事実があります。特に、江戸期は各藩の藩札などを別にすれば金貨、銀貨、銭の3種の貨幣が流通している中で、幕府では金貨と銀貨を発行し、庶民の使う銭は幕府ではほとんど発行していませんでした。その銭について、基準貨の移り変わりを論じた議論に興味を持ちました。すなわち、戦国ないし織豊政権期からタイトルにある撰銭が始まり、この時点では品位が高く、正貨と見なされる銭が基準貨となっていて、品位の低い銭、そのうち、もっとも品位が低いのがビタなわけですが、の正貨との換算比率などを領主が定めていたところ、時代を下るについて、ビタが基準貨になった、というものです。最初はビタに対して品位の高い正貨からディスカウントする、という方法だったんですが、グレシャムの法則よろしく、品位の高い銭をビタに比較してプレミアムを付ける、という方向に変更したわけです。とても合理的な方法だと私は受け止めました。

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次に、先崎彰容『維新と敗戦』(晶文社) です。著者は日大の研究者です。本書は第Ⅰ部と第Ⅱ部に分かれており、第Ⅰ部では福澤諭吉から始まって戦後の吉本隆明や最後の高坂正堯まで明治期以降のオピニオン・リーダー23人の人としての軌跡や論調を振り返ります。我が国の国のかたち、近代化とは何か、福沢は圧倒的に近代化とは西洋化であると考えていたのに対し、西郷隆盛は日本的な要素、アジア的な何かを大切にしていた、と著者は主張し、そこからナショナリズムの萌芽を認めています。第Ⅱ部ではテーマ別に、ナショナリズムとパトリオティズムの対比、水戸学の流れを明らかにしたりと、私のような官庁エコノミストにして左派を任じている視点からは、かなり右派的な観点からの論調が多いような気もします。ただし、本書のタイトルにあるような明治維新と終戦の対比はそれほどクリアではありません。産経新聞などに連載されていたコラムなどを取りまとめて単行本として出版したもののようですが、それほど矛盾、というか、違和感はなく、第Ⅰ部で取り上げるオピニオン・リーダーにより濃淡はもちろんあるものの、それなりに整合性は感じます。

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次に、山本義隆『小数と対数の発見』(日本評論社) です。著者は有名大手予備校に勤務だそうで、本書の著者略歴を見る限りでは、数学講師かどうかは明らかにされていません。決して学術書ではないんですが、読み進むに当たっては、それなりの数学的なリテラシーは要求されると考えるべきです。タイトル通りに、小数と対数をテーマにしていますが、小数が小学校レベルであるのに対して、対数は高校レベルですから、やや不思議な取り合わせで、この違和感は読後でも解消されませんでした。小数の60進数小数は、やや面食らいましたが、英語やドイツ語の12進数的な計数、すなわち、twelve の後に thirteen が来る、というのはよく知られた事実ながら、ラテン語系の言語、典型的にはスペイン語は15進数で計数する、というのも視野に入れて欲しかった気がします。対数については、自然対数のベースをネイピア数というがごとくにネイピアの貢献はとても大きいんですが、ネイピアは指数に至る前に対数の概念を得ていた、というのは私には大きな驚きでした。また、対数の発展におけるケプラーの貢献は、私も含めて知られていない事実かもしれませんが、ケプラーといえば何といっても天文学となり、天文学に対する対数の貢献なども議論を展開して欲しかった気がします。といった点からして、私はやや物足りない気がしました。

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次に、永野裕之『数に強くなる本』(PHP研究所) です。著者は大人のための数学塾の塾長だそうで、これだけでは何のことやら私は理解できません。ただ、タイトルにあるようにあくまで「数」であって、「数学」ではない点は注意すべきかという気はします。ということで、「数字を比べる」、「数字を作る」、「数字の意味を知っている」の3つのテーマを基に、数学を一部含みつつも、数に対するシテラシーについて論じています。友愛数や完全数といった整数論も少し出現しますし、ラングドン教授っぽい黄金比やフィボナッチ数列も登場しますが、やっぱり数を論じる時はフェルミ推定が欠かせません。私はこのフェルミ推定については、桁数であっていればいい、という観点は別にして、まるでミステリ作家が自分自身の作品の犯人当てをするようなインチキっぽさを感じてしまいます。答えを知っている人が推定しても仕方ないような気がするんですが、どうでしょうか。最後に、経済で把握しておくべき数字を4つ上げており、それらは、GDP、労働分配率、国家予算、出生率だそうです。なかなかイイセンいっているような気がしますが、経済部門では、数字そのものよりも系図的な複利の概念が重要ではないか、という気が私はします。

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次に、ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房) です。著者は科学ジャーナリストであり、宗教的な出版はほとんどないと思うんですが、本書ではかなり日本人が考える仏教とは異なる仏教を取り上げている気がします。すなわち、著者はマインドフルな瞑想から仏教に入っていて、禅宗の座禅とも少し違っていて、やや原始仏教に近い瞑想観ではないかと思ってしまいました。さとりについて、輪廻転生からの解脱という観点はなく、瞑想からつながるさとりを論じています。仏教は、原始仏教のころから心理の体系、システムであり、それはキリスト教と同じだと私は考えていたんですが、より創始者のイエスに強く依存するキリスト教と、ブッダは崇めつつもそれほどの依存はなく、父なる神と子なるイエスと精霊の三位一体を説くキリスト教の一方で、仏と創始者ブッダが同じわけではない仏教の特徴かもしれません。人の心がモジュールで出来ていて、直観的な判断を下す点については、カーネマン教授のシステム1に近く、瞑想で熟慮するのがシステム2なのか、とエコノミスト的な見方をしてしまいました。

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次に、国分拓『ノモレ』(新潮社) です。著者はNHKのディレクターであり、南米アマゾン源流の秘境で未開の原住民を取材した記録を基にしたドキュメンタリーだと私は受け止めています。でも、ひょっとしたら、フィクションの小説として読むべき本なのかもしれません。タイトルの「ノモレ」とは、友人とか仲間とか、場合によっては家族などの極めて親しい間柄の人をア指す言葉だそうです。舞台はアマゾン源流とはいえ、我々文明人が引いた国境に従えば、ブラジルではなくペルーの施政下になります。本書での表現に基づいて、私なりの表現に従えば、我々文明サイドと未開の原住民サイドの交流をテーマにしています。表紙画像が雰囲気をよく表しています。主人公はペルー政府を代理して先住民との交流の最前線の役割を担う男性です。第2部では、接触先の原住民のクッカも登場します。開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、私自身は西洋化あるいは近代生活化を進めるのが圧倒的な目標と考えていて、本書でもあるように、未開の原住民を現代人から隔離するがごとき政策はムリがあると考えています。ただ、それがホントに国民、というか、人々の幸福につながるかどうかはたしかに疑問が残ります。他方で、永遠にバナナをあげ続けることは出来ないような気もします。少し考えさせられるところのある議論展開でした。私なりに消化するのに時間がかかるかもしれません。

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最後に、島田荘司『鳥居の密室』(新潮社) です。著者は、我が母校の京大ミス研の綾辻行人や法月綸太郎などのいわゆる新本格派の生みの親といえるミステリ作家であり、本格派といえます。本書は謎解きの探偵役に御手洗潔を配し、1964年の東京オリンピックから10年後の1970年代半ばの京都を舞台に、東野圭吾のガリレオ張りの工学的、というか、自然科学的な要因も取り入れたミステリ作品です。経済社会の下層や底辺に位置する恵まれない階層に対する著者の温かい眼差しを感じることが出来ます。クリスマスとサンタクロースを隠しテーマに、心温まる物語です。

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