2022年7月 2日 (土)

今週の読書は雇用形態感の格差を分析した経済学術書をはじめ計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、禿あや美『雇用形態別格差の制度分析』(ミネルヴァ書房)は、正規と非正規の雇用形態別の格差、特に正規職員とパート職員の間の格差について、電機製造業と小売業の実態をかなり長い期間にわたってケーススタディしています。続いて、亀田達也『連帯のための実験社会科学』(岩波書店)では、社会科学における実験を活用して人間の行動や人間の集合体である社会をどこまで探究できるのか、にスポットを当てています。森永康平『スタグフレーションの時代』(宝島社新書)では、用語としては「高圧経済」とはいっていないものの、需要が供給を超過する「高圧経済」の必要性を論じています。石川幹人『だからフェイクにだまされる』(ちくま新書)では、進化心理学の観点からフェイクに騙されるバイアスを指摘しています。最後に、鴨崎暖炉『密室黄金時代の殺人』(宝島社文庫)は、第20回『このミステリーがすごい! 』大賞の文庫グランプリを受賞した作品であり、6ケースの密室殺人の謎を解き明かしています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えていますので、少し余裕を持って新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、あさのあつこ『火群のごとく』(文春文庫)を読み、Facebookの然るべきグループでシェアしてあります。本日の新刊書の読書感想文も、適当なタイミングで個別にシェアしたいと予定しております。

photo

まず、禿あや美『雇用形態別格差の制度分析』(ミネルヴァ書房)です。著者は、跡見学園女子大学の研究者で、職務評価の専門家のようです。ですから、私のようなマクロエコノミストと違って、マイクロな雇用や労働を専門にしているように受け止めています。本書は3部構成となっており、第Ⅰ部で電機製造業、第Ⅱ部で小売業の、それぞれのパートタイム労働者の歴史を詳細にケーススタディした後、第Ⅲ部で職務評価などに基づいて人事や処遇の分析を試みています。出版社から見ても、完全な学術書であり、一般の学生やビジネスパーソンにはオススメしません。読み進むには、ある程度の専門性が必要です。ということで、まず、第Ⅰ部と第Ⅱ部のケーススタディは極めて詳細に渡っており、1950年代や60年代のいわゆる高度成長期、作れば売れる、商品があれば売れるという需要超過の時期に、特に電機製造業などで人手不足を埋めるために主婦を中心とする臨時工や、小売業でのパートが、縁辺労働者として雇用され、男性正規職員で構成される中核雇用者の穴埋めをする形から始まっている歴史を明らかにしています。しかし、特に電機製造業の臨時工は労働組合運動の後押しもあって正規職員に変換したり、小売業のパートも基幹パートと補完パートのうちの前者は一定割合で正社員化しています。ですから、この初期のころから、臨時工やパートは中核雇用者に対して、景気の調整弁や低賃金を生かしたコスト削減の役割を果たしていると指摘しています。加えて、1970年代の2度の石油危機や1980年代からのグローバル化、そして、1990年代初頭のバブル崩壊が決定的な契機となって、非正規雇用はさまざまな給与や人事処遇の観点からも景気の調整弁やコスト削減の目的で活用が拡大しています。第Ⅰ部と第Ⅱ部のケーススタディは大雑把に2000年までの20世紀を対象に歴史を振り返っていますが、第Ⅲ部での職務評価は2010年以降も分析対象としており、人事評価における能力評価や仕事の評価、すなわち、分業に基づく賃金では決してなく、むしろ、勤務地=転勤や正規職員に対する生活給の保証などという「職務内容に見合った賃金を拒絶する障壁」(p.303)を設けた上で、賃金という処遇ありきで分業を逆から決める、という少し歪な職務分担になっている点を指摘しています。ですから、よく話題になるメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用に当てはめれば、本書では後者のジョブ型雇用という用語しか見当たりませんが、正規職員が生活給≈年功賃金を支給され、非正規職員が職務給を支給される、ということになる理解なのかもしれません。ただし、本書では正規職員は内部労働市場、非正規職員は外部労働市場という単純な分類には懐疑的です。とてもていねいに臨時工やパートといった非正規雇用のケーススタディを積み重ね、結局のところ、男性正規職員という中核雇用者と主婦パートという縁辺雇用者、ただし、「縁辺雇用者」という用語は使いっていませんが、の対比を浮き彫りにし、後者の非正規雇用者が景気の調整弁として好況期に雇用され、逆に、不況期に職を失う、という景気循環に応じた役割を果たすとともに、景気循環からは独立にトレンドとして低賃金をテコとしてコスト削減の役目を果たす、といった姿を明らかにすることに成功しています。マイクロな雇用・労働に関する分析としてはこれで十分なのですが、私自身の感想として2点コメントしたいと思います。第1に、雇用形態論として臨時工やパートなどの非正規雇用を取り上げるとすれば、1993年のパート労働法についてはその後の改正・改悪も含めて独立した章を設けて、キチンとフォローするべきです。本書では第5章のダイエーを取り上げた章で、ホンの少しだけ触れているに過ぎません。まあ、博士学位請求論文を基にしているのですから、仕方ない面はあるとしても、一般読者への配慮も欲しかった気がします。第2に、データがどこまで利用可能なのかが不明なのですが、雇用や労働に関する分析なのですから、ケーススタディでデータを2次元のカーテシアン座標にプロットするだけではなく、フォーマルな定量分析を加えて欲しかったと思います。最後に第3に、マクロ経済学の立場から、非正規職員の役割のひとつとして「雇用の調整弁」を重視するのであれば、単に、好況期に雇用され、不況期に職を失う、というだけではなく、不況が継続していれば就労意欲を減退させて労働市場には再参入せず非労働力化してしまう傾向も指摘して欲しかったと思います。それが、バブル崩壊以前に日本の失業率を2%程度の低率に抑えた主因であることは明らかです。ただ、この点も事業所データを中心とした分析ですので、家計のデータの利用可能性が低い点から止むを得ないのかもしれません。

photo

次に、亀田達也『連帯のための実験社会科学』(岩波書店)です。著者は、東大人文研の研究者であり、専門は社会心理学です。ちなみに、私の知る限りでは、心理学は経済学と同じようにマイクロとマクロがあり、臨床心理学がマイクロな心理学、そして、著者の専門である社会心理学がマクロの心理学と私は認識しています。本書は岩波書店のシリーズ ソーシャル・サイエンス全8巻の第3巻に当たり、実は、第4巻が私の専門分野にさらに近くて『経済学と合理性』とのタイトルで、私はすでに生協に発注して昨日入手しています。たぶん、このシリーズはマイクロな経済学ですので、私のようなマクロ経済学を専門とする研究者には難しいかもしれませんが、出来るだけ早く読みたいと考えています。ということで、本書では自然科学ならざる社会科学における実験を用いることにより、人間の行動や社会をどこまで探究できるのか、にスポットを当てています。ただし、このテーマは余りにも広すぎますので、特に、タイトルの通り、連帯に絞って議論しています。もっといえば、連帯をもたらす共感=empathyを呼び起こす作用について実験的な手法を用いて解明を試みています。笑顔を見せれば笑顔で返されるような身体的模倣から始まって、エモーショナルな共感、さらに、エコノミストにとって気になるところの分配の公平性に対する一種の正義感までお話は進みます。ただし、エモーショナルな点については、やっぱりオキシトシンの働きが出て来てしまいます。私は従来から経済政策の目的は主観的な幸福感の増進ではない、と主張していて、もっとハードデータとして把握可能な指標を経済政策の目標にすべき、と考えていますが、やっぱり、主観的な幸福感を目標とすれば、国民の間にオキシトシンを配布すればいいのか、ということになってしまいそうな気がして、少し怖いことを改めて認識させられました。分配の公平性に関しては、オマキザルでの実験が紹介されていて、トークンとの交換でもらえるのがキュウリとブドウでは、オマキザルの間ですら不公平感を生じるとの実験結果が示されています。同じトークンとの交換でキュウリしかもらえないオマキザルは、そのもらったキュウリを投げつけて不満を表明するそうです。これだけの経済的社会的格差の拡大に耐えている日本人の従順性に疑問を感じさせられてしまいました。そして、その公平性の原点としてロールズ的なマキシミン戦略、すなわち、もっとも恵まれない階層に手厚く分配する方法を論じています。私はこれを外国人大学院留学生に対して、貧困指標の計算問題として宿題を出したりしています。それはともかく、本書では「ロールズ実験」の結果を取り上げて、格差に注目した不平等回避傾向が実験における選択を繰り返すうちにロールズ的なマキシミン的配慮に置き換わる点を強調しています。この不平等や格差に関する議論に私は一番思い入れがありますから、ほかは軽く流しますが、公共財への拠出に関するフリーライダーに対するサンクション(賞罰)に関する議論なども興味深く読みました。ただ、最終章の実験社会科学の将来のあり方については、技術的な面を強調する本書と違って、私はより倫理的な面が強調されるべきであると考えています。すなわち、例えば、開発経済学で実験を行う際に、カギカッコ付きで「流行」となっているRCT(ランダム化比較実験)については、貧困状態にある集団を処置群と対照群に分けて効果を図る方法が、ホントに開発経済学目的に照らして望ましい方法であるのか、については私は強い疑問を持っています。その昔の心臓移植なんかについて、先進的な医学の臨床実験が医学者の名声のためと批判されたこともありますし、エコノミストも心して実験に取り組む必要があるように、私には思えてなりません。

photo

次に、森永康平『スタグフレーションの時代』(宝島社新書)です。著者は、エコノミスト・実業家であり、少し前までは「森永卓郎の倅」という紹介も有効だったかもしれませんが、今では立派に父親から独立した存在だと思います。私は同じ作者で同じく宝島社新書で出ている『MMTが日本を救う』を読んだ記憶があるのですが、なぜか、ブログの読書感想文の過去ログを見ても出現しませんでした。謎です。ということで、本書も前著と同じ基本的なスタンスであり、デフレが日本経済を蝕んでおり、明らかにマイルド・インフレの方が望ましく、財政出動などの高圧経済が必要、という私の政策論と方向性を同じくする議論に依って立っています。ただし、ロシアのウクライナ侵攻のホンの少し前から始まっているインフレを的確に捉えて、スタグフレーションを論じています。はい。その通りです。というのは、2021年4月から今年2022年3月まで、当時の菅内閣の強引な手法により携帯電話通信料が大きく引き下げられ、消費者物価(CPI)上昇率に対しておおよそ▲1.5%近いマイナス寄与を持っていたため、CPI上昇率はいかにも低く抑えられているように見えていましたが、じつは、この携帯電話通信料を別にすれば、すでに+2%近いインフレが始まっていました。その後、ウクライナ危機にともなって石油を始めとする資源価格や食料価格が大きく高騰したり、米国金融政策が引締めモードに入って金利差が広がって円安が進んだりして、さらにインフレ率が拡大したのは広く報じられている通りです。そして、本書公刊以降に値上げが幅広く拡大して現在に至っているわけです。ですから、本書では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)がインフレを引き起こした側面が強調されています。それはそれで真実です。そして、そのインフレに対して、デフレマインドが根強く残っているために資源価格や食料品価格の高騰にもかかわらず価格転嫁が進まず、加えて、従来からの緊縮財政によって需要が伸び悩んでいるために、日本経済が一向に活性化しない現状を実に的確に分析しています。本書でも何度か繰り返されているように、経済へのダメージが大きいのはインフレではなくデフレであり、こういった経済へのダメージが通り魔的な無差別殺人を引き起こしているひとつの要因である、と鋭く指摘しています。そして、現在の萎縮した日本経済への処方箋として、緊縮財政の放棄、具体的には、消費税率の引下げ財政政策と金融政策による高圧経済の実現、などを上げています。もっとも、「高圧経済」というのは著者の意を汲んだ私の解釈であって、著者自身はそういった表現はしていません。繰り返しになりますが、基本的な方向性については、私とまったく同じと受け止めています。

photo

次に、石川幹人『だからフェイクにだまされる』(ちくま新書)です。著者は、明治大学情報コミュニケーション学部の研究者であり、専門は認知科学だそうです。本書では、フェイク時代にふさわしい道しるべは進化心理学である、という観点から議論が進みます。やや、私には意外でした。というのは、私の偏った知識によれば、「進化心理学」とは子孫を残す重要性を強調するあまり、もっぱら、異性とセックスするためには何が必要か、を、各個体は考えている、という認識のもとに発達した学問体系だと思っていたからです。そうではなくて、本書によれば、原始時代、というか、狩猟採集時代から協力集団と運命をともにし、単独ではなく協力して狩りを行うという利点を認識した上で、こういった集団を形成して信頼し合うことが出発点となっている、ということのようです。ですから、逆に、フェイクに騙されやすいのが人間の進化上の「欠陥」といえるかもしれません。従って、本書の構成でいえば、他人のお話を信じるバイアスを持つがために共感に訴えるフェイクから始まり、さらに似たような言葉から言語がフェイクを助長するケースがあります。本書では蛾の「モス」と「マンモス」による行き違いを例示しています。承認欲求が暴走して自己欺瞞がフェイクのきっかけとなることについては、宗教的な演出が行き過ぎるきらいを本書では指摘します。同時に、SNSがここまで広く行き渡ると、承認欲求が暴走する可能性も高まると危惧するのは私だけではない気がします。また、科学の信頼性を利用したフェイクもあると本書では指摘しており、例えば、実体験に基づくとはいえ、やや過剰に科学的な装いをまとった健康法なんかがこれに当たるかもしれません。また、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論で明らかにされた損失回避のバイアス、確率に関する誤解、あるいは、移民に犯罪者が多いといった単なる偏った思い込みなどの語階からフェイクが生まれる可能性もあります。最後に、結束を高めるために集団の外部に敵を作るなど、部族意識からフェイクによって結束が高まってしまう、ということになります。最後のフェイクはナチスのユダヤ人攻撃に見られるフェイクだということは容易に理解できるのではないでしょうか。フェイクというよりはバイアスに基づく事実の誤認なのかもしれませんが、それを悪用されればフェイクと考えるべきです。しかも、私が恐れているのはそういった誤解を意図的に生じさせるやり方が、行動科学と称して研究されていることです。ナチスまでさかのぼらなくても、ケンブリッジ・アナリティカが2016年の米国大統領選挙で悪名をはせたことは記憶に新しいと思います。こういった行動科学の研究については、大学や然るべき研究機関でしっかりとした倫理基準を作成・運用する必要を指摘しておきたいと思います。

photo

最後に、鴨崎暖炉『密室黄金時代の殺人』(宝島社文庫)です。著者は、新進のミステリ作家であり、本作品で第20回『このミステリーがすごい! 』大賞の文庫グランプリを受賞しデビューしています。タイトルから明らかなように、不可能犯罪の中でも密室ミステリに挑戦しています。ということで、この作品では連続して密室殺人事件が起こるという実際にはありえない設定で、いかにも本格ミステリの大がかりな舞台が用意されています。その舞台は、著名なミステリ作家である雪城白夜が亡くなった後に遺した雪白館です。この雪白館に通じる橋が落とされ、Wi-Fiや携帯電話も通じない陸の孤島がクローズドサークルになる、という本格ミステリのお約束の展開です。そして、6つの密室殺人が盛り込まれています。主人公は高校2年生のノーマルな存在ですが、3歳年上の大学2年生と雪白館に行きます。そうすると、その雪白館に主人公のかつての部活仲間がやって来て、「光速探偵ピエロ」として謎解きに当たります。その他の登場人物は、雪白館のメイドと支配人、国民的アイドルとマネージャー、貿易会社社長、医師、密室探偵、日本語が流暢英国人少女、そして、極めつけで怪しい宗教団体の幹部などなどです。これらの登場人物のキャラ立てがかなり独特で、しかも、ネーミングが常識外れでおかしいのですが、それは別としても、6つもあるのですから、やや的外れに見えるものも含まれていますが、本格ミステリとしてはかなりいいセンいっていると思います。特に、当然かもしれませんが、最後のトリックが一番よかったように私は感じました。なお、やや軽いネタバレながら、主人公とその連れの大学生とかつての部活仲間の3人は殺人犯ではありませんが、プロの殺し屋が混じっていたり、恨みを持たれていて殺人の標的にされる可能性を自覚していて逃走しようとする人物がいたり、怪しげな新興宗教の幹部が含まれていたり、キャラの点でもいろんな仕掛けがあります。その中で、私が個人的に評価している点は、明るいタッチでストーリーを進めていることです。繰り返しになりますが、ネーミングも含めてコミカルな表現といってもいいかもしれません。加えて、ストーリー展開以上に表現がよく練られており、読みやすく仕上がっています。私なんかはスラスラと進み過ぎて、作者の仕掛けを見逃しているポイントがいくつもありそうで、やや怖い気すらします。独特の文体である点も新人作家としてはよく考えているような気がします。ただし、最後に、トランプに「十戒」、すなわち、ミステリ的なノックスの十戒とユダヤ教のモーセの十戒、の両方が重ねられている点、というか、十戒に見立てた殺人、というのは、評価する読者もいるかも知れませんが、私にはちょっとやり過ぎに感じました。やや無理やり感がありました。もちろん、ハナからリアリティは一切無視して謎解きに特化していることは理解しますし、それだけに、何らかのストーリーとして読者を引き付ける要素として「見立て殺人」が欲しかったのだろうという点は理解します。

| | コメント (0)

2022年6月25日 (土)

今週の読書はかなり難解な経済学の学術書からミステリのアンソロジーまで幅広く計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)は、マイクロ経済学の理論の中心のひとつを形成する選好や選択の基礎となる効用=utikityに関して議論し、さらに、そもそも、エコノミストが何を考察しているのか、何を分析しているのか、について哲学的な考えを取りまとめています。かなり専門性の高い学術書です。続いて、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)では、歴史的に人間の寿命が延びてきた医学や衛生学の進歩を跡付けるとともに、ケース-ディートンの研究成果に着目して、長らく延び続けてきた寿命が反転して、逆に短縮化している可能性について議論しています。稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)は、サブスクで限界費用が無料になった映画やドラマの視聴について、タイトル通りに、早送りで観る人たちについて考察しています。私は特に財の消費方法についてエコノミストとしてわだかまりはありません。続いて、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)は、戦前・戦中的な個人よりも全体を尊ぶ、まさにその意味で全体主義的な部分が決して敗戦で一掃されず、今でも戦争を美化し占領軍に「押し付けられた』という意味で憲法「改正」を目標とする勢力が残存した理由について議論しています。最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)は昨年年央に出版されて、ミステリを中心にアンソロジーを編んでいます。それほど大した作品が集められているとは思えませんが、私の好きな作家の作品が収録されています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計116冊となりました。半年で軽く100冊を越え、昨年の112冊のペースを超えました。ですので、少し余裕を持って、新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、近藤史恵『ホテル・ピーベリー』と方丈貴恵の『孤島の来訪者』を読みました。特に後者については、これで方丈貴恵の主たる作品、すなわち、長編ミステリ3冊は全部読んだと思います。本日の読書感想文と併せて、これら2冊もFacebookの然るべきグループでそのうちに個別にシェアしたいと思います。

photo

まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)です。著者は、米国ウィスコンシン大学の名誉教授です。英語の原題は Preference, Value, Choice, and Welfare であり、2011年の出版です。本書はミクロ経済の選択に関する学術書であり、ハッキリいって難しいです。200ページほどのボリュームであるにもかかわらず、一応、大学の経済学部の教授職を務めている私が3日かけて読んでいます。学部生や一般のビジネスパーソンにはオススメしません。専門分野が近い大学院生レベルの理解力が必要そうな気がします。まず、何を本書で議論しているかといえば、マイクロな経済学者が何をやっているのか、そして、その方法論は正しいのか、という議論から始めています。そして、私の理解では、マイクロな経済学における選択の基準となっている効用=utiliyuとは、いったい何なのか、という問いに本書では答えようと試みています。そして、著者の結論として早々に示されるのは、効用とは総主観比較評価をもとにしていて、これに基づいて経済的な選択が行われているにもかかわらず、経済学者による選択理論、例えば、顕示選好などは総主観比較評価に基づいた効用概念となっていない、と批判します。私のようなマクロエコノミストからすれば、選択が総主観比較評価に基づいているという点は当然なのですが、逆にいって、マイクロな経済学者が総比較評価以外の評価で選択を決定しているとは、とても思えません。しかし、セン教授の選択理論なんかは、確かに、本書で指摘しているように総主観比較評価ではないかもしれない、という程度には理解します。でも、経済学者がそれほど大きな問題と考えていない「効用とは何か」という点について、ここまで取り上げて議論する意味は私には理解できません。こういった議論を、さらに、ゲーム理論に拡張し、さらに、厚生経済学にも適用されます。ここまでは書評をパスします。私が何とかキャッチアップしたのは、最後の経済心理学に入ってからです。選択には合理性という観点から、すべての選択肢の間で効用の順序付けが出来るという意味での完備性と順番が逆転することがない推移性を満たすと合理的な選択、ということになり、著者は加えて文脈からの独立性と選択の決定性を4条件としているのですが、経済心理学に入れば、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論が登場し、文脈からの独立性を犠牲にし、さらに、完備性と推移性を修正した上で、決定性を保持する、といわれれば、よく理解できます。最後に、マクロエコノミストである私にとって難しかったのはもう2点あり、第1は英語と日本語の対応関係です。本書ではadvantageという英語に「便益」という日本語を当てています。確かに、何らかの「お得感」というくらいの表現かもしれませんが、実に何度も何度も登場します。第2に、マイクロな経済学における選択の問題を哲学していますので、序数的なカウントを前提にしています。私のようなマクロエコノミストには、これが馴染みありません。マクロ経済学ではGDPにせよ、インフレ率にせよ、失業率にせよ、すべてが基数的なカウントとなります。すなわち、順番だけが問題なのではなく、絶対量の数値が把握できるわけです。マイクロな経済学では選択を考える際に、その昔のベンサム的な功利主義をとうに卒業していますので、効用=utilityを定量的に把握することをしません。それでも、効用が何になのかについては重要、というのが経済哲学の考え方なのかもしれません。繰り返しになりますが、それなりの専門性高く、しかも、必要性も高い、という読者にのみオススメします。

photo

次に、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)です。著者は、パリ在住の肝臓・消化器疾患の専門医、医学博士であり、欧州最大の病院グループである公的扶助パリ病院機構で特別研究員を務めています。フランス語の原題は La Grande Extension であり、2021年の出版です。本書は4部構成となっていて、先史時代から20世紀初頭の第1次世界大戦のグレート・インフルエンザ、いわゆるスペイン風邪までを「微生物の時代」とし、大雑把にそれ以降、特に第2次世界大戦後の1945年以降を「医学の時代」として、時代順に医療や衛生の歴史を振り返った後、21世紀の健康を巡る問題を取り上げ、最後に、寿命が後退し始めた直近足元の状況を取り上げています。第1部と第2部は、それほど私自身も興味ないのですが、後半の2部、21世紀に入ってからは医療や衛生だけではなく、健康格差や慢性疾患、特に、大きな問題として、タバコ、アルコール、運動不足、肥満を4つのリスクとして上げています。そして、本書の最大のテーマであろう寿命の後退については、経済社会的な問題としてケース-ディートン夫妻の研究成果、すなわち、非ヒスパニックの白人中年男性の米国人の死亡率上昇について、さまざまな考察を展開しています。もちろん、健康や寿命については、医療と衛生だけではなく、経済社会的な食事、というか、栄養状態とかが関係し、本書で指摘しているタバコ、アルコール、運動不足、肥満の4つのリスクも重要です。ですから、ごく単純にオピオイドの過剰摂取だけでもってケース-ディートンの研究成果を説明するのはムリがあります。しかも、それに自殺が加わります。それにしては、本書では精神疾患についてはかなり手を抜いています。平均寿命の延びが止まって、一部のクラスでは反転を見せているのは事実でしょうし、おそらく、永遠に寿命の延伸が続くとは誰も考えていません。ただ、ケース-ディートンによる『絶望死のアメリカ』(みすず書房)を私も読んで、昨年2021年9月の読書感想文をポストしていますが、この寿命の後退の原因は、自殺、薬物、アルコール、クオリティの低い医療制度、そして、何よりも貧困や格差の拡大であると分析されており、その上で、医療制度の改革、労働組合とコーポレートガバナンス、累進税制とユニバーサルなベーシックインカムの導入、反トラスト政策の推進、レントシーキングの防止策、教育制度の改善、などを対応策として上げています。本書でも、基本的な対応策のラインはケース-ディートンと変わりありませんが、特に、本書独自の分析、というか、表現として行動と環境に着目しています。環境とは、気候を指しており、気候変動が人類の寿命に影響する可能性は鋭く指摘されています。繰り返しになりますが、人類の平均寿命がどこまでも果てしなく延びてゆくとは考えられないわけで、その上で、ケース-ディートン的な個別米国における限定されたクラスの分析ではなく、地球上の人類の寿命を考えるのであれば、確かに、寿命の後退は気候変動=地球温暖化によってもたらされるのかもしれない、と専門外の私なんかは考えてしまいました。

photo

次に、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)です。著者は、ライター、コラムニスト、 編集者と紹介されています。本書では、タイトル通りに、映画やドラマを早送りで観る人たちについて考えています。一言でいえば、映画やドラマを芸術として鑑賞するのではなく、コンテンツとして消費する、という表現が取られていて、判ったような判らないような言葉遊びと感じる読者もいるかも知れません。サブスクで限界的に無料になったこういった「見放題サービス」二無限とは言わないまでも、大きな需要が生じるのは当然で、その需要を満たそうとすれば時間を圧縮してタイパのいい早送り、というのはある意味で当然、という気もします。ただ、小学生と同じようなレベルで、映画やドラマを「観た」ことにしておかないと、仲間内での会話についていけない、という意味で「幼稚化」との考えも成り立つかもしれません。さらに、見ていないと仲間内で話題についていけずに、本書では「マウントを取られる」、と表現してます。加えて、映画やドラマのこういった早送りで観るコンテンツ消費から、生産者サイドにリパーカッションがあって、映画やドラマでやたらとセリフで説明してしまう例が現れ始めた可能性についても言及しています。ということで、私から独自に2点指摘しておきたいと思います。第1に、映画やドラマを早送りで観るというのは、製作者や提供者の意図に反している、あるいは、通常のやり方から異なっている、という趣旨なのかもしれませんが、そんな財・サービスの使用や消費なんていくらでもあります。まず、何を持って問題とする、という表現は違うかもしれませんが、観察対象に置いて解明しようとしているのか、私には十分には理解できませんでした。まあ、ほのかには判るわけですが、十分には理解できなかったわけです。包丁を調理に使うのではなく人殺しに使う、といった極端な例は別としても、例えば、自動車やオートバイを本来の移動や運輸で使うのではなく、ドライブ、あるいはもっと言えば、スピードを出してストレス解消、スカッとする、という用途に使うのはどうなのか。それがさらに進んで、暴走族ならどうなのか。いろんな論点があると思います。あるいは、映画やドラマに近いところでいえば、書画・骨董や稀覯本を鑑賞目的ではなく、資産として値上がり待ちで所有するのはどうなのか。エコノミストとしては、すべてがOKに見えます。その意味で、理解が及びませんでした。第2に、映画やドラマを早送りしてまでして観て、知り合いから観ていないことを指摘されてマウンティングされるのを防止するという意味が、これは、著者の言いたい意味ではなく、早送りして見る人の言う意味が、私には判りません。私はもともとマウンティングを取る意欲に欠けていて、生物的なオスとして欠陥がある可能性は自覚しています。ついでにいうなら、1980年代後半のバブル期にいわゆる「適齢期」を迎えたために、両方相まって結婚が遅れたのだろうと自己分析していたりします。それはともかく、映画やドラマに関してマウントされるというまでのポピュラリティある映画やドラマがもしあるのであれば、それは著者のいう芸術を飛び越えて教養と表現すべきではなかろうか、とすら思います。この点も浅はかにも理解が及びませんでした。いずれにせよ、消費財、あるいは芸術であっても、非常に変わっら使い方をし、そして、それが一定理にかなっている、というのはままあることです。テレビなんかでも面白おかしく紹介されています。違いますかね?

photo

次に、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)です。著者は、戦史・紛争史の研究家だそうです。私はそれほど馴染みがありません。本書はタイトルから直感的に受ける印象は戦史とかの関係なのかもしれませんが、内容は敗戦によって決して昔の「大日本帝国」的な非民主的だった日本が民主的な国家に生まれ変わったわけではない、ということで、私も大いに賛同します。誰も責任を取らずに国民や部下を使い捨てにするような非民主的な昔の日本は敗戦では一掃されなかった、ということですから、歴史観としては私と同じで民主主義的な革命、ないし、大改革が必要と考えるべきです。そして、その先に社会主義革命を考えるのであれば、まさに、戦前からの講座派的な歴史観と一致します。まず、現状分析として、かつての戦前・戦中的に個人の価値観が国家や集団に従属するという部分が日本には大きく残っていることは事実として認められるのだろうと私は考えます。そして、その最悪の例として本書では靖国神社や太平洋戦争の「美化」、例えば、植民地アジアを欧米列強から「解放」する戦いであったとみなしたり、逆に、南京事件などの日本軍の蛮行を否定したりする歴史修正主義を上げています。そして、戦後の憲法を占領軍に「押し付けられた」と考えて改憲を企てる勢力も広く残っている、というか、それを党の綱領に掲げる政党が国会の第1党として政権を担って総理大臣を輩出しているわけです。私自身は、個人として戦死者を偲んで靖国神社に参拝するのは、百歩譲ってOKとしても、公人として戦争賛美につながりかねない靖国神社参拝はお止めになった方がよろしい、という考えです。そして、本書では保守と革新という言葉でそういったグループ、ないし、アンチ・グループを呼んでいますが、私は保守というよりは反動なのではなかろうかという気がします。私の考えでは、歴史は前進するものであり、その前進を止めようとするのは保守、前進どころか歴史を前に戻そうとするのが反動、そして、歴史をさらに前に進めようとするのが進歩派なのだろうと考えています。そして、こういった日本の民主化が不徹底に終わったのは、本書で指摘する通り、東西冷戦であることは明らかなのですが、では、なぜ、ドイツではナチスが徹底的に否定されている一方で、日本の民主化、というか、戦前の戦争推進派の否定が進んでいないのか、という疑問は残ります。私も専門外ですので大きな謎です。まあ、西欧と極東という位置だけではなく、民度の差がある、といわれればそれまでなのかもしれませんが、謎は謎です。もうひとつの要因として、本書の著者は教育を重視しています。批判的な観点を育成する教育になっていない、というわけです。ただ、これは双方向であって、教育に批判的な人格形成の要素が盛り込まれていないから、個人として民主主義的に未成熟であるともいえますが、民主主義が不徹底だから教育のこういった個人としての批判的見方の涵養が含まれない、とも考えられます。ただ、教育の一端を担う身としては考えさせられる見方であることは自覚しています。いずれにせよ、日本の経済社会、あるいは、日本人の国民性などを考える上で重要な視点を提供してくれた読書でした。

photo

最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)です。なかなか豪華にも、人気のミステリ作家6人によるアンソロジーです。収録順に、乾くるみ「夫の余命」、米澤穂信「崖の下」、芦沢央「投了図」、大山誠一郎「孤独な容疑者」、有栖川有栖「推理研VSパズル研」、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」の6作品で構成されています。すべて、文藝春秋社の『オール読物』に収録された作品です。最初の「夫の余命」は、余命1年と宣告されながらも結婚した若いカップルについて、日付を明記しつつ時系列を逆にたどります。『イニシエーション・ラブ』の作者らしく、みごとに読者をミスリードします。「崖の下」は、男女4人のスキーヤーが雪山で遭難し、うち1人が明らかな他殺体で見つかった殺人事件の謎解きです。凶器は何か、がポイントになります。「投了図」は、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のための緊急事態宣言か何かの行動制限下で、古本屋の主人について、将棋のタイトル戦の中止を訴える張り紙をした自粛警察ではないかと、妻が疑います。ミステリとみなさない読者もいそうです。「孤独な容疑者」は、迷宮入りした過去の殺人事件を再捜査する中で、アリバイトリックを解き明かす、という作品ですが、こんなことが現在の日本で可能なのだろうか、という意味で、やや納得いかない点が残りました。「推理研VSパズル研」は、学生アリスの作品です。パズル研から推理研に出題された謎解きについて、江上部長が見事に解決するという論理パズルをテーマにしています。最後の「2020年のロマンス詐欺」も、コロナ禍で行動制限が続く東京で、山形から出て来たばかりの大学生がロマンス詐欺の片棒を担ごうとしつつも、思い込み激しく見事に脱線する、というストーリです。私の読み込み不足なのかもしれませんが、少し物足りない作品、疑問ありの作品が多く、これだけの作者を集めたにしては、それほどいい出来のアンソロジーではありません。その中で、冒頭の乾くるみ「夫の余命」と米澤穂信「崖の下」の2作が光っていると私は思います。逆に、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」はあまりにナイーブ、というか、いかにも田舎から東京に出てきたばかりの大学生を主人公に据えるのがよさそうな作品、という気がします。ちなみに、どうでもいいことながら、「ナイーブ」という用語の私の用法について、簡単に記しておきます。その昔、絵画に「ナイーブ派」ないし「ナーブ・アート」一派がありました。19世紀末から20世紀初頭ですから、印象派なんかとよく似た時期に活躍していて、今でこそ「素朴派」と邦訳されていますが、私の知る限り、その昔は「稚拙派」と呼ぶ評論家がいたりしました。「ナイーブ」とは決してニュートラルな表現ではないし、ひょっとしたらよくない意味で使われている可能性がありますのでご注意ください。

| | コメント (0)

2022年6月18日 (土)

今週の読書は日本共産党国会議員による経済書をはじめ計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)は日本共産党の国会議員が新自由主義=ネオリベな現在の経済政策に代わるリベラルな経済政策を提言しています。私はほとんどの論点で賛成なのですが、金融政策運営と財政収支均衡に関して疑問を持っています。続いて、ジリアン・テット『ANTHRO VISION』(日本経済新聞出版)は英国「フィナンシャル・タイムズ」紙のジャーナリストが、経済や金融に人類学的な視点を導入する利点を強調しています。さらに、宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)は人気のミステリ作家の時代小説仕立ての謎解きです。「きたきた捕物帖」シリーズの第2巻です。そして、宮内悠介『かくして彼女は宴で語る』(幻冬舎)は、これも人気のミステリ・SF作家が実在の「パンの会」を舞台にした短編ミステリで、女給が安楽椅子探偵となって謎解きをします。最後に、おおたとしまさ『ルポ 名門校』(ちくま新書)では、日本各地の高校の名門校を取り上げて、単なる大学進学校とは違う顔を持つ名門校の取材結果を取りまとめています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計111冊となりました。6月半ばで軽く100冊を越えました。昨年は6月最後の土曜日で112冊でしたので、昨年を少し上回るペースです。ですので、少し余裕を持って、新刊書ならざる読書にも励みたいと思います。また、本日の読書感想文は、Facebookの然るべきグループでそのうちにシェアしたいと思います。

photo

まず、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)です。著者は、日本共産党の国会議員であり、経済問題の論客としても知られています。本書では、新自由主義=ネオリベな冷たく弱い経済から、より分配を重視した表題通りのやさしく強い経済を目指す経済政策のアウトラインを示す試みがなされています。ただ、150ページ余りのやや小振りな経済書ですので、足りない部分はいっぱいあります。2章構成で、第1章はネオリベ経済政策への批判に費やされており、第2章が私からすればメインとなります。その第2章では、第1章からの議論の続きで、極めて大雑把な私の理解ながら、冷たい=格差拡大、弱い=成長できない、から、結局、岸田内閣が腰砕けになってしまった分配の重視、ないし、成長から分配への経済の流れを戻す試みがいくつか提案されています。成長から分配へ、の「やさしい」方の大きな流れについては、私も従来から主張しているように、大企業を中心に内部留保利益=利益剰余金への課税、さらに、富裕層への課税強化、そして、消費税率の引下げを主張しています。まったくその通りです。そして、第2章後半の「強い」方の政策としては、賃上げと社会保障の充実による所得の底上げ、環境重視の気候変動抑止の政策による成長の強化、ジェンダー平等の達成による成長力の強化、個人情報保護を徹底したデジタル社会の発展の方向性、そして、教育や研究の自由を保証し中小企業を支援するなどの人的資本の重視の5点を上げています。私は諸手を挙げて賛成です。一応、というか、何というか、富裕層減税によるトリクルダウンが生じなかったという Hope and Linberg "The economic consequences of major tax cuts for the rich" キチンとした最新の学術文献も参照されています。その上で、あえて、その上で、3点、大きな2点とやや細かな1点について疑問を呈しておきます。まず、本書では、中央銀行の金融政策に関して何の言及もありません。大きく片手落ちだと私は感じています。私は現在の黒田総裁のもとでの異次元緩和は継続されるべきであり、金融政策が引締めに転じるのは間違った政策だと考えています。もっといえば、現在の水準くらいの円安は日本経済に決して大きなマイナスではなく、少なくとも政策的に、為替介入であれ、金融政策であれ、為替をターゲットにした政策によって「円安修正」を行うべきではないと考えています。加えて、物価についても、2013年には+2%のインフレ目標が政府と日銀で合意されており、現状のコアCPI上昇率+2%近傍の物価上昇は批判の対象にはならないと考えています。おそらく、私を含めた多くのエコノミストは、年内に+5%には遠く及ばずコアCPI上昇率はピークアウトするものと予想しています。その上で、黒田総裁の例の「物価上昇に対して家計の許容度が上昇している」発言に、たぶん、著者も批判を加えたのであろうと想像していますが、まさか、今さらながらに「中央銀行は政府から独立」なんてお題目で逃げを打つことなく、国民生活に大きな影響を及ぼす金融政策に関しても正面から発言することを期待します。もうひとつの大きな点は、財政政策における収支均衡の問題です。10年余前に当時の民主党を中心とする政権交代がありました。その差異、私はまだ総務省統計局に勤務していましたが、マニフェストに盛り込まれた政策を実行するための財源を確保するために、いわゆる「事業仕分け」が行われて、結局のところは緊縮財政に陥って国民の支持を失った記憶があります。そのあたりについても、例えば、プライマリ・バランスの黒字化達成目標なども何ら言及はありません。最近の岸田総理による軍事費拡大方針の表明についても、軍事費拡大とともに財源についても日本共産党の志位委員長がツイッタで疑問を呈しています。軍事費拡大は反対だが、国債による財源調達ならもっと反対、ということなのでしょうか。そうだとすれば、日本共産党が政権を取った際には国債ならざる財源で財政政策を運営するのか、という疑問もあります。もっと簡潔に、れいわ新選組と同じく「国債による財源調達もアリ」というのを大っぴらに認めるのも一案かと思わないでもありません。最後に、小さな点ですが、プライバシの確保についてです。私は市場との関わりにおけるプライバシがどこまで保護されるのかについては、それほど自信がありません。もちろん、他方で、市場との関わりのないベッドルームのプライバシについてはガッチリと保護されるべきであると考えますが、市場と個人の間の売買や資産購入や雇用と労働については、それほどプライバシはないものと覚悟しています。マネーロンダリングとまでいわないとしても、市場との取引情報はプライバシ保護の対象とすべきかどうか、かなりの程度にオープンにすべきではないのか、私は現時点でEUのGDPRのような規制はやややり過ぎのおそれがあると考えています。GAFAは、こういった市場との関係の個人情報を収集していますので、私自身はそれほど問題は大きくないし、少なくとも、現時点で国民が一方的に大きな損失を被っているのではない、と考えています。アマゾンのリコメンドなんかも、プライバシ侵害というよりは利便性の向上をもたらす部分も無視できない、と考えています。このプライバシの問題はやや別としても、中央銀行の金融政策と財政政策の大きな論点については、ぜひとも、正面から論じていただきたいと思います。

photo

次に、ジリアン・テット『ANTHRO VISION』(日本経済新聞出版)です。著者は、フィナンシャル・タイムズ紙(FT)のジャーナリストであり、ケンブリッジ大学から社会人類学の博士号を取得しています。FTは日経に買収されたとはいえ、ロンドンをベースにした経済紙であり、人類学とは関連薄い気もしますが、逆に、というか、それだけに、経済や金融に関する問題を読み解く際に、経済学や経営学ではなく人類学を応用する可能性を本書では議論しています。そして、その試みはハッキリいって失敗しています。そりゃあそうです。ムリがあります。確かに、感染症のパンデミックについては、まだ、人類学的な観点からのアプローチが可能だといえます。本書だけではなく、例えば、イタリア人はハグをするので感染が拡大した、なんて議論もありました。でも、金融などのデータがしっかりした分野ではモデルをキチンと組んで分析する学問体系が有利に決まっています。私は人類学はほとんど知りませんが、データのに基づくモデルを組んで分析する学問であるかどうかは疑問を持っています。もちろん、何らかの科学である限りはモデルを組んで分析をするわけですが、そのモデルがデータを基に組まれているとは限りません。経営学のケーススタディなんかは、観察結果をデータ化するのではなく、別の方法でモデル化しているようにしか私には見えません。ですから、ケーススタディでは良好な結果があ示されているとしても、確率的に失敗ケースがいっぱいありそうな気がしてなりません。失敗ケースに目を向けることなく、成功ケースだけを取り出してケーススタディしても、幅広い応用が可能であるかどうかは怪しいと思います。ただ、本書でも指摘しているように、将来の不確実性が大きく高まっている時代にあっては、経済学や経営学だけではない幅広い知見を総動員する必要が高まっていることも事実です。最も、他方で、AIがビッグデータを用いて問題解明に当たる時代なのですから、人類学の方法論から大きく遠ざかっているのも認めざるを得ません。加えて、著者自身が明らかにしているように、著者はリーマン・ブラザーズの破綻も、ケンブリッジ・アナリティカの暗躍も、実は、見逃していると明記しています。まあ、人類学の知見がそれらの対しては実践的には役に立たなかったわけです。当然のように、失敗ケースも成功ケースの裏側に数多くあるわけで、そのあたりのバランスを取りつつ読み進むのが吉かもしれません。

photo

次に、宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)です。著者は、我が国でももっとも売れているミステリ作家の1人です。本書のサブタイトルは「きたきた捕物帖(二)」となっていて、一昨年2020年9月26日に読書感想文をポストした『きたきた捕物帖』に続いてシリーズ第2弾となります。出版社の方でも力が入っているようで、特設サイトを開設していたりします。キャスティング、というか、人物相関図がとても判りやすくなっています。しかも、このシリーズに限定せず、同じ作者の他の作品とのリンケージも明らかにしてくれています。例えば、本書の主人公である北一が住んでいるのは、勘右衛門が差配する通称富勘長屋なのですが、『桜ほうさら』の主人公であった古橋笙之介も江戸では同じ富勘長屋に住んでいました。また、出版社は違いますが、政五郎親分やその配下だった記憶力抜群のおでこは「ぼんくら」シリーズにも登場します。おでこが記憶をたどるのは「ぼんくら」シリーズとまったく同じだったりします。ということで、この作品は3章構成なのですが、ストーリとしては2つの物語が詰め込まれています。第1章では、宝船の七福神の絵から子供を授かった家でありながら、子供が亡くなった後には弁財天が下船していた絵が見つかった事件が2件相次いで生じ、その絵を書いた酒屋で騒動が持ち上がって、町衆が解決するものの、北一は遅れて真相に気がつく、という軽い謎解きです。第2章と第3章が続き物で、弁当屋の親子3人がトリカブトの毒で死にます。そして、拷問により犯人が「自白」し、そのまま獄死して一件落着となるのですが、真犯人を北一が追いかけます。その北一を奉行所の検視役である栗山周五郎がバックアップします。この一家3人殺人事件で政五郎親分やおでこが登場します。実は、私は宮部みゆきの時代小説のシリーズの中では「ぼんくら」がもっとも好きで、出来もよかったと評価しているのですが、どうも、このままシリーズの続きは出ないようなウワサです。従って、というわけでもないのですが、出版社が違うにもかかわらず、ホンの少しだけリンケージをこの「きたきた捕物帖」シリーズに残しているのではないか、と私は想像しています。ひょっとしたら、この「きたきた捕物帖」は宮部みゆきの時代小説の集大成となるシリーズなのかもしれません。本書だけは大学の生協で買って読みました。1割引は有り難いです。

photo

次に、宮内悠介『かくして彼女は宴で語る』(幻冬舎)です。著者は、人気の若手ミステリ・SF作家であり、私はどちらかというとSF作家として評価していたりします。本書はサブタイトルに見えるように、明治期末から大正期にかけて活躍した作家や画家といった文人墨客が「牧神=パンの会」に集まって、各回ごとに謎解きをする、という趣向です。5話構成となっています。ホントは、それだけでなく、実は、最終話にちょっとしたサプライズが隠されていたりします。この作品の登場人物は、私もそう詳しくないのですが、ほぼほ実在していたようですし、「パンの会」そのものは確実に実在したもので、『スバル』系の詩人たちと『方寸』系の画家たちが語らって作ったロマン主義運動のサロンだったと、物の本には書かれていたりします。しかも、その第1回の集まりが「第一やまと」という料理屋で開催されたのも事実でそうです。そして、毎回謎解き、ということで、女給のあやのが安楽椅子探偵の役割を演じて解明をして、パンの会にご出席の上流階級の文人墨客を出し抜きます。ただ、ミステリに詳しい読者であれば、これがアシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズで給仕のヘンリーが謎解きをするのと同じ趣向であることは明確でしょうし、本書の第1章の最後の覚え書きでも作者自身がそう記しています。というか、この覚え書きを付すのもまた「黒後家蜘蛛の会」シリーズと同じといっていいかもしれません。そして、謎解きそのものは、ハッキリいって、凡庸です。しかも、「黒後家蜘蛛の会」と同じで、真相を確かめようがありませんから、まあ、言葉は悪いですが、出席者を納得させ説き伏せればそれで謎解きとして成立、ということになります。ただし、「頃後家蜘蛛の会」シリーズと異なる点がいくつかあります。まずは、「黒後家蜘蛛の会」シリーズの登場人物が、たぶん、上流階級ではあっても、まあ、一般ピープルと大きくは違わない人物像を前提としているのに対して、この作品では明治-大正期の実在の文人墨客を登場させていますし、それなりに、私のようなシロートからすれば、雰囲気ある会話をしているように見えます。ただ、登場人物に生気は感じられません。会話が面白いだけです。そして、「黒後家蜘蛛の会」シリーズと圧倒的に異なるのは、最終話でいくつかのとんでもない仕掛けがなされていることです。まず、ややネタバレかもしれませんが、謎を解く安楽椅子探偵役のあやの正体に驚かされる読者が多いと思います。そして、これもネタバレしてしまいそうなのですが、ある意味でメタ構造になっていて、最終5話で前の謎解きが振り返られるとともに、本書を離れた歴史のタイムトラベルめいた小説としての構造に驚かされます。いや、ミステリなのに、やや突っ込んだ感想文になってしまいました。少し反省しています。

photo

最後に、おおたとしまさ『ルポ 名門校』(ちくま新書)です。著者は、教育ジャーナリストであり、同種のものとして、私は同じ著者の『名門校とは何か?』(朝日新書)を2015年5月23日の読書感想文でポストしています。ということで、ここでいう「名門校」というのは、高校レベルの名門校です。ですから、大学ではありません。最後の方で明かされますが、著者の頭には、英国のパブリック・スクールのようなものがイメージされているようです。そして、決して大学進学一本槍ではないティーンエイジャーのころの高校生活の楽しさを満喫できる名門校が取りそろえて紹介されています。私も本書の見方には賛成です。というのも、学年が進むほど専門性が高くなり、高校というのは、ギリギリでその後の専門分野が入り乱れて学生間での異質性がかなり高いからです。異質性高くダイバーシティが進んでいる方が、ある意味で、友人関係というのは面白い可能性があります。一応、ここであからさまな自慢なのですが、私と2人の倅が卒業した高校は3校とも本書で取り上げていただいております。一応、我が母校は名門校の末席に連なっているという誇りは確認できました。ただ、男女比では圧倒的に男子校が多いような気がします。もちろん、公立校も数多く取り上げられていますし、私立高でも男女共学校は少なくないのですが、やっぱり、男子単学が多いのは、まさか、取材不足ではないのでしょうが、どうしても大学進学がひとつの名門高校の目安になるためであると私は理解しました。ただ、少なくとも、私の出身校は本書で言うところの自由とか、リベラルとよくマッチしています。バンカラで統制の行き届いた高校も、ある意味では魅力なのかもしれませんが、名門校とまでいわないとしても、特色ある教育という意味では自由な校風とリベラルな教育、ということになりそうです。ただ、本書では緩いという意味での自由ではない、と指摘していますが、私の出身校はハッキリいって緩かったような気がします。そして、自由な校風であるのは、言って悪いですが、そもそも大学受験に適した、というか、それなりの大学に合格するくらいの学力を持った生徒を集めているから、シャカリキになって詰め込む必要がない、というのもあります。生徒や学生ではなく、ある学校を名門校に育て上げていくためには、大学進学実績を作り上げるのが近道であることはいうまでもありませんし、実際にそういうコースを辿って名門校となった高校も少なくないと思いますが、その名門校といわれるステータスを得ることができれば、後は、自然といい生徒が集まっていい大学進学実績が残せる、という好循環に入るような気もします。ただ、そういった名門校入りすることがそもそも難しいのかもしれません。

| | コメント (2)

2022年6月11日 (土)

今週の読書は興味深い経済書のほか合わせて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、ダニエル・サスキンド『World without Work』(みすず書房)は、マシンの能力が人間に追いついて超えるとどうなるか、という思考実験の場を与えてくれます。「特異点=シンギュラリティ」という言葉こそほとんど使っていませんが、その後の経済や労働についてのヒントが得られます。パラグ・カンナ『移動力と接続性』上下(原書房)は、気候変動と地球温暖化が進み、内陸部であれば高地、あるいは、北方の未開の地に移住する可能性を示唆しています。ただし、移民は現地に「同化」することが前提の議論のような気がしますので、多様化やダイバーシティとは少し違う気もします。塩田武士『朱色の化身』(講談社)はグリコ・森永事件を扱った『罪の声』の作者の手になるミステリです。ガンで闘病中の父からの依頼により女性を探す中で、さまざまな社会問題を含めて事実関係が明らかになります。最後に、ジョン・メイナード・ケインズ『ケインズ 説得論集』(日経ビジネス文庫)はインフレとデフレ、あるいは、金本位制などについて論じています。100年近い昔の議論とはとても思えないほど、現在のマクロ経済にも通ずる慧眼に驚かされます。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計106冊となりました。6月半ばで100冊を越えましたので、何とか、年間200冊を少し超えるレベルには達するのではないかと考えています。これら新刊書読書のほかに、先週書いておくのを忘れたのですが、6月に入ってから、東野圭吾『美しき凶器』(光文社文庫)を読みましたのでFacebookでシェアしておきました。

photo

まず、ダニエル・サスキンド『World without Work』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学のエコノミストであり、AI倫理研究所の研究者でもあります。英語の原題はそのままに World without Work であり、2020年の出版です。3部構成となっていて、第1部が背景、第2部が脅威、第3部が対策を扱っています。ということで、とても秀逸な経済書です。現状分析にやや偏って、対応策が少し弱い気もしますが、私なんかはもっとそうです。まずもって、いわゆるシンギュラリティ、すなわち、マシンの能力が人間を超える、という意味を本書の著者は正確に理解してます。もちろん、本書でも的確かつ明確に指摘しているように、シンギュラリティが突然やって来て、今日からは昨日までとまったく違う、というわけではなく、徐々に切り替わっていくのでしょうが、要するに、機械が人間の能力を超える、ということは、人間が何もしなくていい、というか、何も出来なくなってしまう、ということなのです。機械がすべてをやってくれて、特に、機械が機械を作り出したり、修理したり出来る、という意味なのです。ですから、本書の第2部で指摘しているように、機械は徐々に人間のタスクを侵食してきて、すなわち、人間労働や芸術活動までを代替してきて、そして、シンギュラリティからはすべてを代替することになります。シンギュラリティまでは、スキル偏重型の技術進歩の下で、マシンを扱える高スキル高賃金労働とマシンではなく従来型の人間労働に依存する低スキル低賃金労働に二極分解していましたが、シンギュラリティ以降、人間はマシンを扱う能力がマシンよりも低くなるわけですので、マシンを扱うのはマシンであって、人間はすること、というか、労働という名の活動は不要になります。より高性能なマシンを作るのは現在あるマシンであり、人間ではありません。ですから、馬が自動車に取って代わられたのと同じです。今でも馬はいて、何らかの活動にいそしんでいるわけですが、もはや、自動車が現れる前に馬が運送や移動で果たした役割はほぼほぼなくなっているのは広く知られている通りです。あるいは、猫の親子を考えれば、子猫が怪我をすると親猫は舐めて傷の治りを早くしようと試みる場合がありますが、人間の獣医が出現すれば、おそらく、親猫は相変わらず子猫を舐め続けるとは思いますが、そういった行為はそれほど必要ではなくなります。それと同じと考えるべきです。この点を理解しているエコノミストは極めて少ない、というか、個人としてのエコノミストにせよ、経済書にせよ、この点を理解して明記明言している例は不勉強にして私は知りません。ただ、私自身は本書の著者に賛同していて、この意味でのシンギュラリティは、2045年や2047年ではないかもしれないですが、やって来ると思っています。ただ、アセモグルとレストレポのように、マシンが人間労働を代替すると、さらに複雑な人間労働が生み出されて、永遠に、ではないとしても、かなり先までシンギュラリティは来やしない、と見なす向きも少なくありません。そのあたりは経済学的見地というよりも工学的な見方であろうと私は考えています。ただ、このシンギュラリティの後で行うべき本書第3部の対策がやや貧弱です。学校教育や職業訓練を鼻でせせら笑うのはOKとしても、ユニバーサルなベーシックインカム(UBI)ではなく、条件付きのベーシックインカム(CBI)で対応、というのは、まあ、それしかないのかもしれませんが、やや疑問なしとしません。というのは、経済政策運営でも、ひょっとしたら、人間よりもマシンの能力が上回る可能性があると私は考えており、そうなると、チンパンジーを動物園に入れたような扱いをマシンが人間に対してする可能性は否定できないと想像しています。ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモデウス』と似た見方かもしれません。

photo

photo

次に、パラグ・カンナ『移動力と接続性』上下(原書房) です。著者は、インド出身のグローバル戦略家だそうです。同じ出版社から『「接続性」の地政学』を出版しており、これまた同じ出版社から『アジアの世紀』上下を出版していて、私は2020年2月15日付けの読書感想文をポストしています。英語の原題は Move であり、2021年の出版です。上の表紙画像に見られるように、日本語のサブタイトルは「文明3.0の地政学」となっていますが、大雑把に文明1.0とは放牧を含む農耕社会であり、文明2.0は製造業中心の工業社会、そして、本書の第13章のタイトルとなっている文明3.0が現在の世界であり、移住が繰り返されながらも、接続性も保たれる、という意味なんだろうと思います。しかし、ここで「移住」とは二重の意味を持たされており、積極的によりよい環境を求めて移住する場合と何かの厄災から逃れるべく移住する場合の両方を含んでいます。ですから、移住先として好まれるのは、いうまでもなく、人口動態のバランスが良く、政治的に安定しており、経済的にも繁栄し、環境も安定している場所、ということになります。本書ではこういった移住先について、いろんな観点から議論を進めていますが、気候変動が進む結果として地球は温暖化し、内陸部であれば高地、あるいは、北方の未開の地に移住する可能性を示唆しています。ロシアによるウクライナ侵攻の前の出版ですので、シベリアなんかがターゲットのひとつになっているわけです。そうした中で、本書の著者は世界人口が21世紀半ばに減少に転じるというシナリオを基本としています。このため、若年層の奪い合いが生じる可能性もありますし、いずれの観点からも移住や移民が増加するトレンドは不動のものとして前提されています。でも、欧州諸国で、あるいは米国でもネオナショナリストによる移民に対する嫌悪感の拡大が見受けられるのですが、著者はこういった勢力は高齢世代に指示されているだけであり、時間とともに支持を失う、と考えているようです。そうかもしれません。従って、世界の対立軸は若者対年長者となる未来が描かれています。その後、長々と世界各地の移住先としての魅力が取り上げられており、日本では沖縄にスポットが当たっています。ただし、こういった移住の魅力を語る大前提が、いわゆる移民の「同化」に置かれています。すなわち、半ば多様性を否定しているように私には見受けられます。もしも、移民が同化せずに母国の文化を守り続けるのであれば、本書の議論は半分くらい否定されそうな気すらします。ただし、私の直感では移動=移住出来るのは、移住のための十分な資金を持っている富裕層が中心となるように見受けられ、こういった富裕層は容易に同化しない可能性が高いのではないかと考えています。いずれにせよ、本書の著者の議論でもっとも感心したのは、移動=移住により大きな混乱がもたらされることは否定できないながら、それが進化というものである、と指摘している点です。悪く評価すれば「開き直り」とも見えかねませんが、私はかなりの程度に同意します。単なる安定であれば中世に人類は達成しているわけで、その後の産業革命以降の人新世は混乱しつつも進歩していた、と考えるべきなのかもしれません。

photo

次に、塩田武士『朱色の化身』(講談社) です。著者は、ミステリ作家あであり、特に、私の印象に残っているのはグリコ・森永事件について解き明かそうと試みた『罪の声』です。確か、私は見ていませんが、昨年映画化されています。ということで、主人公はライターの大路亨です。物語は、その主人公がガンを患う元新聞記者の父から辻珠緒という女性を探すように言われるところから始まります。この女性は、かつては、一世を風靡したゲームの開発者として知られた存在だったのですが、突如として姿を消しました。そして、ほぼほぼストーリーは主人公がこの女性を探す中でインタビューした相手、すなわち、辻珠緒の元夫や大学の学友、銀行時代の同僚などが語る言葉、ということになります。それらから浮かび上がるのは、昭和31年1956年の福井あわら温泉の大火が何らかのきっかけとなっているという点でした。チェーン・インタビューという言葉があるのかどうか私は知りませんが、辻珠緒の生涯を追って次々とインタビューを重ね、バブル初期の男女雇用機会均等法、もちろん、バブル期の銀行活動、そして、ゲーム開発車となってからのゲーム依存症などなど、女性個人の動向とともに社会問題を浮き彫りにしつつ人探しは進みます。ですから、最後の最後に山場があるのはミステリの常套手段ですが、私の好きなタイプのミステリであり、タマネギの皮をむくように徐々に真実が明らかにされてゆきます。ただし、難点はいくつかあって、まず、海外ミステリのように登場人物が多すぎます。まあ、私が読んだ範囲でも仕方なく、というか、必要あってインタビューしているのですが、もう少し要点をかいつまんでコンパクトに仕上がらなかったものか、という気はします。もうひとつは、社会的な問題点をミステリに入れ込もうとした松本清張以来の我が国ミステリ界のひとつの潮流ではありますが、やや社会問題の質が異なりすぎて、バブルや男女雇用機会均等法までは1980年代半ばから後半にかけて社会的に広く認識されたことは事実ですが、ゲーム依存症については、私なんかがそうで、それほど広く国民一般に関係するわけではなく、逆に、関係ない人は関係ないのではないか、という気もします。ただ、ジャーナリスト的にひとつひとつ事実を明らかにした上で、それらのリンケージを考え、論理的に必然な結論を導く、という意味では上質のミステリに仕上がっています。ただし、考え方にもよりますが、ラストがやや物足りないと感じる読者はいそうな気がします。私もそうです。繰り返しになりますが、ジャーナリスト的にひとつひとつ事実を積み上げるプロセスは大いに評価しますが、そのプロセスに対して結果がショボい、と感じてしまうのは私の読み方が未熟で浅いのかもしれません。でも、劇的な幕切れが欲しいという読者は、私以外にも少なくないのではないか、と想像しています。

photo

最後に、ジョン・メイナード・ケインズ『ケインズ 説得論集』(日経ビジネス文庫) です。著者は、いうまでもなく、偉大な英国人エコノミストであり、マクロ経済学の創始者といえます。基本的に、5部構成を取っていて、インフレとデフレ、金本位制、自由放任の終わり、未来、繁栄への道、を取り上げています。学術誌ではなく、一般メディアへの投稿を中心に収録していて、判りやすくはなっていますが、それなりに昔の文体だという気がします。邦訳の時点で工夫されているのだとは理解しますが、40年ほど前に私が大学生だったころに読んだ経済書とはこんなものだったか、と思い起こさせるものがありました。ということで、小説を読んだのではないので文体に関してはともかく、マクロ経済学に関して現時点でも通用する立派な理論が集められています。というのは、本書に収録された記事をケインズが書いたのは1920年代から30年代にかけてであり、第2部で論じられているように、金本位制が世界的なスタンダードとなっている経済社会です。そういった時代の制約があるハズなのですが、それを感じさせません。インフレとデフレについては、現時点でも同じ議論が通用します。インフレとデフレのどちらもストックとしての富や資産への影響を及ぼし、単純化すれば、インフレは負債のある人に有利で、資産や債権のある人に不利に作用します。デフレは反対です。ただし、インフレが生産刺激的であるのに対して、デフレは生産を抑制する方向で作用します。こういったマクロ経済学の面で、今でも十分に理解されているとは言い難いポイントを極めて正確に指摘しています。そして、金本位制や自由放任については経済政策運営の観点からとても否定的な議論を展開します。少なくとも、その時点の英国でトピックとなっていた第1次世界対戦後の英国の金本位制復帰における為替レートについては、現在でも通用する議論です。広く知られたように、実は、我が国でも従来レートでの金本位制復帰を目指したがために、ひどいデフレを経験したのは英国と同じです。現時点でも、円安が金融政策の湿性のように報じるメディアがいくつかありますが、というよりも、そういった論調での報道の方が多いくらいですが、おそらく、ケインズであれば為替レートについては現時点での我が国のメディアとは違う方向の議論を展開したものと私は想像します。ケインズが明らかにしたのは、不況期ないし景気後退期に需要が不足するのであれば、政府が需要を創出するのか、それとも、民間経済でコストを削減するのか、のどちらかが必要となる中で、前者の方がいいのではないか、という点を説得しようとしているのだと思います。円安が短期的に家計や企業といった国内経済主体の実質所得を低下させるのは事実ですが、円安をいかに所得増加につなげるか、を考えるのがエコノミストの役割です。まあ、いずれにせよ、戦後経済社会では、特に1950-50年代は米国のニクソン大統領がいうように "We are all Keynesians now" だったわけですから、ケインズは説得に成功したんだろうと思います。

| | コメント (2)

2022年6月 4日 (土)

今週の読書は統計書をはじめとしていろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、経済書やエッセイ、さらに新書まで計5冊です。
まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会)は、統計の歴史に関する資料集のような位置づけで読むのが適当かという気がします。ただ、著者の統計に関する専門性はそれほど高くないと感じました。、次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版)は、タイトル通りに、京都の経済や地域振興に関してコンパクトに取りまとめられています。続いて、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ)は、世界で活躍する日本人ピアニストのエッセイです。こういった超一流の人物のバイタリティ溢れる活動には、ただただ圧倒されるばかりです。さらに、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)は、ドンキホーテを例にして、社会学的な観点から、チェーンストアの進出が決して地方に画一性をもたらすものではない、ということを考察しています。最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書)では、仏教伝来のころや聖徳太子の古典古代から始まって、大きな活気となった鎌倉仏教の開花、江戸期の停滞を経て、明治初期の廃仏毀釈、そして現在へと我が国仏教史をコンパクトに後付ています。
最後に、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計101冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊を少し超えるレベルには達するのではないかと考えています。

photo

まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会) です。著者は、一橋大学・東京外国語大学の研究者です。はしがきでタイトルの意味を述べていますが、「ねつ造」ではないという意味らしく、単にアイキャッチャーなのだろうと私は解釈しています。ですから、相次ぐ政府統計部局の統計改ざんとは関係ありませんし、そういった「期待」を基に読むのはNGだろうと思います。基本的に、我が国の統計史をひも解こうとしているのですが、統計に関係するグループとして5つを考えます。すなわち、統計学者、統計に関する意思決定を下す政治家、統計実務家、調査対象、統計利用者、です。これをムリヤリに2次元のカーテシアン座標に落とし込もうとします。そのあたりが第2章で取り上げられています。少なくとも、私は第5の統計利用者を第2の意思決定者と同一視するのはムリがあると考えますし、少なくともこの試みは明確に失敗していますから、これ以上考える必要はありません。むしろ、統計史としての資料集として考える方がいいと私は考えます。著者のオリジナルな主張も少なくありませんが、統計資料名を一覧にしているとか、調査票をそのまま転載している部分が「半分」は言い過ぎとしても、かなりのボリュームに上ります。その資料的な価値はあるといえます。ただ、極めて残念なのは2点あり、第1に、日本の統計の歴史であって、明治期に先進国から輸入された諸外国の統計とは何ら比較がなされていません。例えば、ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(東京創元社)では、当時のフランスでは統計局が情報部の一部門であるかのような記述があります。日本ではどうだったのか、一考に値する歴史の一場面だという気がするのは、私だけでしょうか。第2に、日本の統計の歴史を概観するとしても、日本の統計に関する組織上の無理解が目立ちます。私も経済官庁から一時的に総務省統計局に出向していただけで、それほど詳しくもないのですが、それでも、統計局の統計と各省庁の統計の違いくらいは理解しています。すなわち、2001年の中央省庁再編まで日本では当時の「省」は業所管であり、「庁」はそうではありませんでした。今では、防衛省とか、環境省とかが、業所管でない「省」なのですが、2000年まではそうだったわけです。統計にはその当時の組織上の特色が残っていることから、業を所管している省では、その業の統計、あるいは、その省の業務に関する統計を作成しています。典型的には、経済産業省の鉱工業生産指数とか、商業販売統計とか、財務省の通関統計、厚生労働省の有効求人倍率、などで、役所の所管する業に関する統計と、役所そのものが遂行している業務に関する統計です。他方で、多くの場合は、事業所ではなく一般家計に対する調査になるのですが、所管する業や業務に関係ない社会全体を俯瞰する統計は統計局で作成しています。典型的には、国勢調査とか、消費者物価指数とかです。ということで、結論なのですが、そもそも、分析する2次元モデルに無理がある上に、諸外国との比較がなく、しかも、日本における統計組織に関する基礎知識も十分ではないようなので、結論はあってなきがごときもので、それほど参考にもなりません。最後の最後に、しかも、製本が悪くてページがバラバラになってしまいそうな雑な作りです。私は何か新聞の書評で見て読んだのですが、決してオススメしません。

photo

次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版) です。著者は、ノンキャリアながら、私の役所の先輩であり、京都学園大学での研究者としてご活躍でした。たぶん、私とは面識があると思います。ということで、京都学園大学は、今では、京都先端科学大学といって、亀岡市にあります。私自身は宇治市の出身なものですから、やや方向は違います。本書では、京都府や亀岡市などの経済動向や人口減少の影響、コロナと観光事業、NPO法人などによる市民活動、地方における公共サービスの行方、自治体における幸福度、などについてエコノミストや地方振興の立場からいろんな論点について議論しています。私はマクロエコノミストとして、ほぼほぼ地方振興には無関心であり、長崎大学に出向していた折には九州や長崎についてまったく見識がなくて、郷土愛に燃える長崎経済人などには辟易したものですが、さすがに自分の出身の関西に戻ってきて、それなりに地方経済には関心があります。一応、地域学会の会員でもあります。ただ、地方において将来不安があるのは財源です。日銀が政府の「子会社」であるかどうかはともかく、中央政府は国債を発行して中央銀行が市中から買い取ってくれれば、税収が不足してもインフレにさえならなければ、それなりの財源を確保することが出来ます。しかし、発券銀行を持たない地方公共団体はそうは行きません。財源を確保した上でなければ公共サービスの提供はサステイナブルではありません。ですから、本書ではスコープ外としていますが、京都市は深刻な財源不足に陥っており、2019年度決算では、いわゆる「将来負担比率」が190%を超えており、政令指定市20市の中で最悪です。ダントツといっていいかもしれません。最大の要因は京都市地下鉄です。料金がバカ高で、私も使い勝手が悪く感じていましたが、私の実感では、時間帯によっては、いわゆる「敬老パス」で無料で乗車しているお年寄りの方が多いくらいではないか、とすら見えました。加えて、小学生の虫歯治療費の全額助成とか、ムダに手厚い市民サービスが充実しています。市役所職員の給与水準が極めて高く、私は地元民ですので、府庁職員と市役所職員のご夫婦を知っているのですが、市役所の給与水準に不調職員の方がびっくりしていました。こういった支出が多くて、ムダなサービスがいっぱいですから、京都市の財政難も理解できます。段々と、脱線が激しくなってしまいましたが、ことほどさように、地方経済や地域振興には無知なもので、本書はとても参考になりました。

photo

次に、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ) です。著者は、ピアニストです。チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門でグランプリを獲得しています。小柄な体をめいっぱい使って、躍動するようなプレー・スタイルと記憶しています。そのエッセイです。ヤマハの教室から、東京のマスタークラスに通い、パリで生活してヨーロッパを舞台に活躍しながら、本書で私は初めて知りましたが、20代半ばで、いわゆる「できちゃった婚」で結婚して女の子3人の母親となり、それでもめいっぱいピアニストとして活躍しています。実は、私もピアノを習っていた経験があります。もっとも、私の場合は大学生の大人になってから習い始め、一番熱心に弾いていたのは30代前半で、在チリ大使館に赴任した折に88鍵フルスケールの電子ピアノを日本から地球の裏側まで持って行き、現地の音大教授に習っていました。でも、今となっては、自動車の運転とピアノの演奏についてはまったく自信がなく、私自身の満足感よりも周囲の迷惑の方が大きかろうと思いますので、決して手を出すまいと決めています。でもこういったピアニストのエッセイを読むのは大好きです。また、もう30年近くも前のことながら、ワルシャワに出張する機会があり、お土産でショパンの手の石膏像にとても心動かされながらも、自制心強く買わなかったことも思い出します。やや話が脱線しましたが、いずれにせよ、私はこういった世界的に活躍している芸術家のエッセイとか、あるいは、すでに引退した米国政治家の回顧録とかを読んで強く感じつのは、そのバイタリティ、というか、エネルギー溢れる活動ぶりです。私のような凡人にはとてもかないません。凡人の悲しいところで、私なんかは何をやっても世界レベルどころか日本レベルにも達しません。最後に、どうでもいいことながら、本書で「オヤ」と思ったのは、著者の中学生くらいの折の写真が何枚か収録されているのですが、メガネをかけています。スコアを見るのに必要だったのかもしれません。私も、先生が弾いて下さるのを後ろから見るというレッスンがあって、とてもスコアが見にくかったのを記憶していたりします。そして、私が知っているレッスン仲間の高校生の女の子で、「メガネをかけるくらいなら、ピアノを諦める」といって、実際にピアノレッスンをやらなくなってしまった人がいたりします。メガネとピアノ、お年ごろの女性には、もちろん、男性にも悩ましい選択なのかもしれません。本題に戻って、本書では、さまざまな作曲家の作品についての著者の感想めいた実体験談もコラムで収録されています。ショパンがやや軽く扱われているような気がしますし、リストは取り上げられていません。でも、ロシア派のピアニストらしく、チャイコフスキーをはじめとして、私のような初心者にはとても難しそうな作曲家が並んでいます。あまりにも当たり前のことですが、大きな差を感じてしまいます。

photo

次に、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書) です。著者は、早大の大学院生のようです。本書では、ドンキに代表されるチェーンストアの出店が、地域の商店街と対比される形で、地方や地域の特色を減じ画一性をもたらすのではないか、という懸念に対して、ドンキのケーススタディによって反論しようと試みています。ただ、やや私の目から見て心配なのは、第1に、そういった地方色にマイナスなのはチェーンストアではなく、マスメディアではないのか、という気がするのですが、ソチラにはスコープが向いていないようです。第2に、本書のタイトルに象徴されるようにドンペンと回遊型の商品ディスプレーに特化した議論を展開していて、何を売っているかという商品ラインナップには目が向いていません。以上が、特に第2の点がエコノミストの私の目から見てやや心配な点です。ということで、本書で注目しているドンペンは、目立つということが主たる目的なのだろうと思いますが、本書では、思い切って拡大解釈して、レヴィ-ストロースの砂時計型形象まで持ち出して、内と外とを渾然一体とする作用を強調しています。このあたりは、作者の意図とともに、私にはよく理解できません。さらに、ジャングルのような商品ディスプレーといったドンキの特徴を羅列していき、本屋さんのヴィレッジ・ヴァンガードと対比させる形で、セミ・ラティス型にしかなり得ないヴィレヴァンとセミ・ラティス型にもツリー型にもなれるドンキの違いについても解説してくれます。ここはそれなりに理解できます。ただ、その昔に、ドンキに集まったDQNについては、現時点で掘り起こすのはムリがあります。そもそも、「DQN」は差別用語ではなかったでしたっけ、という危惧もあります。こういったさまざまな対象を持ってきてドンキの特徴を浮かび上がらせようとしますが、私の目から見て、ここまでは、むしろ、チェーンストア代表たるドンキが地方に対して画一性をもたらす懸念を増加させかねない主張に見えます。そして、私から見てドンキが唯一地方に画一性を持ち込まない、と見られる根拠は、いわゆる「居抜き」による買収を主とした店舗展開です。まったく何もないグリーンフィールドから新たな店舗を展開するのではなく、居抜きで買い取ってドンキにしてしまうわけですから、ドンキになる前のお店の特徴は一定残ることになります。ただ、居抜きの店舗展開をしないチェーンストアであれば地方に画一性を持ち込むことになるので、この議論はドンキをはじめとする居抜きの店舗展開をするチェーンストアだけに成り立つわけで、やや不安を覚えます。最後に、本書の著者は、小さいころにドンキの北池袋店に行って恐竜キングで遊んだ記憶から始めています。我が家の子供達でいえば、恐竜キングの1世代前のムシキングに当たります。しかも、私は2年前に完済に引越す前まで城北地区の川越街道近くに住まいし、ドンキの練馬店とか北池袋店には、ある種の懐かしさを覚えます。その前に青山に住んでいた折にはドンキ六本木店もよく利用しました。東京住まいであれば、ちょっとした大きなチェーンストアに行くのが、日常生活を少しだけ離れた家族の楽しみのような気がします。その目的地のひとつは、確かにドンキなのかもしれません。

photo

最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書) です。著者は、山形大学の名誉教授であり、専門は日本中世史、宗教社会学だそうです。本書は、タイトル通りに大陸から日本にもたらされた仏教の歴史をとてもコンパクトに取りまとめています。ということで、私は日本仏教を語る際には、自分の宗派である浄土真宗=一向宗の宗祖親鸞聖人の生きた鎌倉仏教がいつも気にかかるのですが、本書でも、最大のハイライトのひとつであり、いろんな意味で、とても常識的な日本における仏教史となっています。というか、私がほぼほぼ理解してい仏教史といえます。もちろん、私は専門外もいいところなので、勉強になった点はいくつもあります。まず、仏教伝来は末法の始まりを措定して552年であるとされ、当初は、国家鎮護の役割を持たされたというのは、中学校や高校で学ぶ通りです。まあ、疫病退散なんて、いまでも新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に対してアマビエ様を持ち出すくらいなのですから、日本の古典古代期にはそうだったんだろうと思います。そして、国家公務員と同じ官僧しかいない中で、鎌倉期には個人の救済が始まって、法然、親鸞、日蓮などが他力本願の宗派を開いたのに対して、道元と栄西が禅宗を中国から持ち込んだわけです。他力本願と自力の宗派が対比されています。ただ、浄土真宗の本願寺なんかは典型ですが、従来宗派と同じように武装し始めたのは鎌倉期から戦国の武家の世になったためであろうと私は考えています。自力・他力とも、いずれにせよ、天下国家を救うのではなく、自分という個人を救うという観点は重要であろうと私も思います。そして、本書では『歎異抄』を引いて、「ただ親鸞1人がためなり」ということを強調しています。それから、聖と俗の境目については、浄土宗と浄土真宗で少し差があり、私は在家の方から見てこの宗派2つにほとんど違いはないと考えているのですが、僧の側に違いがあります。すなわち、浄土宗の僧侶が得度して戎を守らねばならないのに対して、浄土真宗は僧侶の受戒は必要ないのではないかと思います。まあ、専門外ですから、私の理解が間違っているかもしれません。そして、徳川期には寺請制度とか檀家制度によって、典型的には仏教が大きく堕落して、現在の葬式仏教になる方向性が明らかになったわけです。ですから、私のような専門外の通俗的な理解では、その反動もあって明治期の廃仏毀釈が幅広く実行された、ということになります。ただ、本書ではその徳川期にも仏教界には一定の進歩が見られた、と指摘しています。すなわち、戒律復興運動や釈迦への回帰が志向されています。僧だけのレベルではなく、俗人にも十善戒が説かれたりしています。このあたりは、さすがに、私も知りませんでした。また、ほのかにしか知らなかった点で、隠元禅師が日本に持ち込んだのは黄檗宗という禅宗の一派だけでなく、その名の通りのインゲン豆や普茶料理などがあったとは、明示的な理解は初めてです。江戸末期から昭和期にかけての新宗教として、神道系の天理教、仏教系の創価学会が正面から取り上げられており、「個」を超える絆の重要性を本書では指摘していて、それなりの影響力が想像されます。仏教の難しい教義は最小限に止められており、さまざまな 仏教の影響力を知る上で参考になります。

| | コメント (2)

2022年5月28日 (土)

今週の読書はアダム・スミスに関する教養書とミステリと新書の3冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)は英国の保守党国会議員による評伝であり、スミスに関するいくつかの神話ないし誤解の解明を試みています。次に、東野圭吾『マスカレード・ゲーム』(集英社)は我が国でもっとも売れているミステリ作家の1人によるミステリであり、ホテル・コルテシアを舞台とするシリーズ4作目にして、出版社では「総決算」と呼んでいます。最後に、トム&デイヴィッド・チヴァース『ニュースの数字をどう読むか』(ちくま新書)は報道などで示されるデータについて、そもそも、データの算出プロセスにおける誤解、というか、誤解を誘おうとするかのようなプレゼン、そして、データを解釈する際のバイアスなどについて広く解説しています。
今週は、新刊書読書はこの3冊なのですが、やや旧作のミステリを何冊か読んでいます。すなわち、翔田寛の『真犯人』(小学館文庫)、東野圭吾『白馬山荘殺人事件』(光文社文庫)、方丈貴恵のデビュー作『時空旅行者の砂時計』(東京創元社)の3冊です。この3冊についてはFacebookでシェアしておきました。さすがに、旧作ミステリを3冊読むと新刊書読書は少し伸び悩んだりします。
最後に、今週の3冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計96冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊くらいには達するのではないかと考えています。

photo

まず、ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)です。著者は、英国の現役の保守党国会議員であり、哲学の博士号を持っていたりもします。英語の原題は Adam Smith: What He Thought, and Why It Matters であり、2018年の出版です。ということで、第1部 生涯、第2部 思想、第3部 影響、の3部構成を取って、スミスに関するいくつかの神話ないし誤解の解明を試みています。すなわち、自己利益の養護者、金持ち贔屓、政府嫌い、本質的には経済学者、などの5点です。そして、基本的に、本書の結論では否定されていたりします。特に、私のようなエコノミストはアダム・スミスの第1の功績は『国富論』であり、近代的な経済学の確立者の1人である、と考えていますが、本書では、道徳哲学者、特に哲学者であるとの主張です。本書では、もちろん、『国富論』がもっとも人口に膾炙いていることは認めつつ、その前の著書である『道徳感情論』と『国富論』の間の『法学講義』も重視しつつ、エコノミスト=経済学者だけでなく、法学者や哲学者としてのアダム・スミス像を浮き彫りにしてくれています。同時に、経済学の文献としてはアローの一般均衡理論を重視しています。このあたりは、私にはよく理解できません。私はマクロエコノミストですので、英国人であれば特にケインズが登場してしかるべきと思うのですが、違います。もちろん、アダム・スミスは昨今の新自由主義=ネオリベなエコノミストとは違って、市場が機能するためには政府の力が必要だと考えていましたし、本書の著者が主張するように不平等や貧困に対しては厳しい見方をしていました。特に、市場における見えざる手については、市場での交換=取引を損得だけで考えるのでははなく、市場での取引が法律、制度、規範、アイデンティティなどに支えられている点を重視していることが明らかにされています。もう15年近くも前に、大阪大学の堂目教授が『アダム・スミス -「道徳感情論」と「国富論」の世界』を中公新書で出版して話題を集めましたが、本書も、著者の視点からした哲学者という面も重要ながら、私のようなエコノミストが「経済学の父」としてのアダム・スミスを念頭に置きつつ読むのにも最適です。400ページを超える大作ですが、おそらく、経済学の専門的知識がそれほどなくてもスラスラと読めるような気がします。たぶん、邦訳がいいのではなかろうかと考えています。

photo

次に、東野圭吾『マスカレード・ゲーム』(集英社) です。著者は、私がコメントする必要のないくらい、我が国で最も売れているミステリ作家の1人といっていいと思います。今作品は「マスカレード」のシリーズの第4作となります。順に、『マスカレード・ホテル』、『マスカレード・イブ』、『マスカレード・ナイト』、そしてこの作品です。私の勝手な感想ながら、最初の『マスカレード・ホテル』は長編ながら連作短編集として読めましたし、次の『マスカレード・イブ』は第1作の事前譚の純然たる短編集ですし、おそらく、『マスカレード・ナイト』がシリーズで初めての本格的な長編で、この作品も長編です。まあ、何と申しましょうかで、箱崎の近くにあるホテル・コルテシア東京を舞台に、ホテルのコンシェルジュ、従業員である山岸尚美と警視庁の刑事である新田浩介のコンビがホテルでの犯罪を未然に防止するというものです。新田はホテルの従業員に扮して潜入捜査を行います。その点に関してはシリーズに共通しています。この作品では、まず、おそらく同じナイフを用いたと考えられる3件の殺人事件が短期間に発生します。そして、これらの殺人事件の被害者がかつて人を死なせた経験があり、しかも軽微な罪にしか問われなかったりして、被害者感情には合致しない形で「更生」と認められて、フツーの人生を送っている点が共通しています。そして、とても偶然とは思えない中で、クリスマスイブに3件の殺人事件で殺された人物に命を奪われた遺族が、はい、ややこしいです、なぜか全員コルテシアに宿泊します。加えて、殺人事件の4人目の被害者の候補となり得る人物、すなわち、心神耗弱で罪に問われなかったものの、恋人を刺殺した女性もホテルに宿泊します。どう見ても偶然とは思えないわけで、この4人目が被害者とならずに事前に犯罪を防止する目的で、新田は女性警部の梓とともに潜入捜査を命じられます。そして、梓警部がやや暴走したりする一方で、米国ロス・アンゼルスの系列ホテルで働いていた山岸が帰国して新田ら刑事たちをサポートします。もちろん、ミステリですので犯人のネタバレはしませんが、出版社がこの第4作をシリーズの「総決算」と呼ぶのは理由があります。すなわち、最後の最後に、新田が警視庁に辞表を提出して刑事を辞職しようとし、ホテル・コルテシアの総支配人がホテルの警備マネージャーに新田をスカウトしようとします。はたして、このシリーズは新田がホテル従業員となって継続されるんでしょうか。それとも、辞表は受理されないんでしょうか。続きがとても楽しみだったりします。

photo

最後に、トム&デイヴィッド・チヴァース『ニュースの数字をどう読むか』(ちくま新書) です。著者は、英国のサイエンス・ライターとエコノミストです。同じ苗字ですので、兄弟なのか、親子なのか、私には判然としません、訳者のあとがきでも触れられていません。英語の原題は How to Read Numbers であり、2021年の出版です。更生としては区別されていませんが、大雑把に2つのグループから成っていて、前半で数字を提供するサイドでの統計的なごまかしや誤解を招く手法について解説されていて、後半では数字を受け取るサイドでのバイアスなどを取り上げています。特に目新しさはなく、私が今までに読んだ類書と同じなのですが、新書らしくコンパクトに取りまとめていますし、各トピックについて明確に章で分割していますので、とても読みやすく仕上がっています。表紙画像にあるように、22章構成で260ページほどですので、各章平均的に10ページあまりのボリュームです。反面、簡略な解説に終わっているので、キチンとした数式などが示されておらず、pp.25-26のSIRモデルの式はカッコが足りなかったりします。もうひとつだけ疑問に思ったのは、RCTとかを用いて、確かに因果関係を把握することは重要なのですが、最近のビッグデータの世界であれば相関関係も十分役に立つ、という点はもっと強調されていいんではないかと私は受け止めています。例えば、日本では低所得と喫煙と肥満が、まるで「三位一体」のように特定の層に現れることがよくあるのですが、この3要素はいずれがいずれの原因で結果か、ということを考えるのは適当ではありません。まあ、そういっ細かい点は抜きにして、本書のように統計的なリテラシーを高めようと試みる方向性は望ましいと私は考えています。加えて、行動科学によって悪い方向に引きずられないような観点もこれから必要になるかもしれません。

| | コメント (0)

2022年5月21日 (土)

今週の読書は観光に関する学術書をはじめ計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りの計5冊です。
まず、遠藤英樹[編著]『アフターコロナの観光学』(新曜社)はタイトル通りに、コロナ禍の後における観光学に関する社会学から見た理論とフィールドワークを収録した学術書です。竹中佳彦・山本英弘・濱本真輔[編]『現代日本のエリートの平等観』(明石書店)は1980年に実施された同種のアンケート調査を40年の時間の経過の後に再度実施し、さまざまな数量分析を行っている学術書です。特に「運の平等主義」に関わる考え、さらに、「機会の平等」の重視に関する重要な示唆を与えてくれます。クーリエ・ジャポン[編]『海外メディアは見た 不思議の国ニッポン』(講談社現代新書)かいろいろな海外メディアで報じられた日本の経済社会における奇妙な特徴についてコンパクトに取りまとめています。宮城修『ドキュメント <アメリカ世>の沖縄』(岩波新書)では、1952年産フラシンスコ講和条約で日本が独立を取り戻してからも、1972年の本土復帰まで米軍の過酷な軍政下にあった沖縄の実体を取りまとめたドキュメントです。最後に、板野博行『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(王様文庫)は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも参考にされているらしい北条執権得宗家の準公式歴史書である『吾妻鏡』を同時代の『愚管抄』の著者である慈円の視点から解説しています。なお、どうでもいいことながら、本日5月21日付けの朝日新聞の書評欄で、4月30日の読書感想文で注目した『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が取り上げられています。ご参考まで。
最後に、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計93冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊くらいには達するのではないかと考えています。また、新刊書読書ではないのですが、西村京太郎の『特急ゆふいんの森殺人事件』(光文社文庫)を読みましたので、このブログではなくFacebookでシェアしておきました。

photo

まず、遠藤英樹[編著]『アフターコロナの観光学』(新曜社) です。著者は、実は、私の勤務する大学の研究者なのですが、私と同じ経済学部ではなく、観光社会学を専門としています。本書も社会学から分析した観光の専門書といえます。実は、9月卒業の外国人留学生の修士論文が最終盤に入っており、観光の新しい視点を求めて図書館で借りて読んでみました。2部構成であり、第1部が社会理論、第2部がフィールと的考察となっています。いろんなフィールドの論文を集めています。観光の社会学については英国のジョン・アーリ教授が有名であり、『場所を消費する』、『モビリティーズ』、『オフショア化する世界』の3冊を読んだ記憶があります。ただし、もっとも有名な『観光のまなざし 』については未読だったりします。まあ、専門外ですから手が届かない、というところです。ということで、観光とともに、ポップカルチャーについても少し論じられていて、第1部の理論については、少し「観光」というものの定義が必要そうな気もします。なぜなら、オンラインによる観光は私自身は十分観光であろうと考えるのですが、アーリ教授などのモビリティとか移動、あるいは、場所の消費という点から観光とは、少なくともその昔は、考えられていない可能性があるからです。特に、歓待=ホスピタリティの観点から、実際にその場所に移動する必要についてどう考えるかの整理も必要です。私は移動ではなく体験という観点から、オンライン観光は十分アリだと考えています。VRによる観光も同じです。そうなると、エコノミストとしては観光が収益につながりにくくなるケースも考えるべきかもしれません。交通費がかからず、飲食費も場合によっては不要で、参加費だけが必要になる観光です。でも、現時点でもこういった観光はあるわけで、アミューズメントパークでの活動は、こういったオンライン観光に近い気もします。そして、コロナとともに発達したデジタル技術はこういったバーチャルな観光を、リモートワークとともに大いにサポートし、新しい仕事のあり方や観光様式を生み出しつつあります。第2部は、「フィールド」という観点から、基本的にケーススタディが集められていあmす。コロナの時代における移動についての与論島のケース、浅草での和装しての観光、ペナン島ジョージタウンでのオーバーツーリズムの是正、インドネシア観光のレジリエンス、北タイ山地民カレンの観光に関するモラル・エコノミーの考察、コロナ禍における宗教観光となっています。「コロナ」と「観光」が2つの大きなテーマとなっている本書ですので、移動を伴う観光とともに、オーバーツーリズムの是正も重要な観点であろうと思います。特に、SDGsの観点からも観光のサステイナビリティを回復すべき観光地はペナン島以外にも少なくないと私は感じています。最後に、一昨年に取りまとめた紀要論文が典型的ですが、私はマクロエコノミストですので、マイクロな観光振興とかは不得手な分野で、観光や観光消費の数量分析が主たる興味分野になります。本書は、観光学やフィールドしての観光実践に関するコロナ後の展開について、そういった分析の基礎となる参考文献として役立ていたいと考えています。

photo

次に、竹中佳彦・山本英弘・濱本真輔[編]『現代日本のエリートの平等観』(明石書店) です。著者たちは、政治学の研究者です。同志社大学の研究者であった三宅教授らが1980年に行った「エリートの平等観」調査をアップデートした内容の調査を2018-19年度に筑波大学を中心に実施した結果を10人ほどの研究者が取りまとめています。本書でいう「エリート」とは、政党・政治家、官僚・自治体職員、経済団体、労働団体、農業団体、商工団体、市民団体・NPO、専門家、学者・文化人、マスコミの10分野から全国レベルと地方レベルで選ばれています。もちろん、「エリート」という母集団は明確ではありませんが、大雑把に緩やかなコンセンサスが出来る範囲か、という気はします。大規模な調査に基づいて、数多くの専門家が定量的な分析を加えていますので、かなり大量のファクト・ファインディングが得られています。例えば、前回調査の1980年から今回調査の2018-19年にかけて、多くの回答が経済的な不平等が拡大していることを認めています。まあ、当然です。この間、40年近くが経過しているわけですが、ほぼ「1億総中流」と称された時代の末期から、1979年に英国のサッチャー政権が、そして、1981年に米国のレーガン政権が、それぞれ発足し、あるいは同時期に日本でも中曽根内閣が政権に就いて、いわゆるネオリベラルな経済政策が展開され、現在まで経済的な不平等が大きく拡大した最近時点までの不平等の進行については、幅広い社会的なコンセンサスがあると考えるべきです。さらに、経済的なものばかりではなく幅広い平等観を考えると、いわゆる権力エリートとか、支配エリートと呼ばれ、主流を構成するエリートは平等意識が弱い一方で、こういった主流派に反対の目標や異なる体制の樹立を目指す対抗エリートでは平等意識が高い、という、これまた、かなり明白な結果が得られています。私が忠告したのは、特に、「運の平等主義」に関わる考えです。すなわち、自らの選択の結果として生じた不平等は共用される一方で、個人の選択が及ばない理由によって生じた不平等は許容されない、という考え方です。これに基づけば、親ガチャによる子供の不平等は救済されるべきである、ということになります。しかし、他方で、この考え方は、いわゆる「機会の平等」さえ確保されていれば、その結果については自己責任である、という考え方にもつながります。我が業界である教育については、教育の機会が各個人に平等に与えられる点が重要であり、その選択の結果としての学歴と能力などに基づく所得の不平等は許容されるのが機会の平等であり、そうではなくて、教育の結果である学歴や能力などにかかわりなくすべての人が大きな差のない所得を受け取る、というのが結果の平等です。この機会の平等の重視が1980年時点では77%であったのですが、2018-19年には84%に上昇しています。加えて、今回調査で明らかになったのは、エリートばかりではない有権者レベルでも66%と⅔の日本人が機会の平等を支持している点が明らかにされています。しかし、私自身はこの結果の平等の重視に大きな疑問を持っています。というのは、これも何度も書きましたが、基本的人権、というか、他の重要なポイントである自由、あるいは、民主的な権利の行使のためには、結果の平等が必要だからです。衣食住などのナショナル・ミニマムがある程度の水準を超えて満ち足りており、特に、「親ガチャ」を防止して不平等が世代を超えて継承されるのを防ぐためには結果の平等が重要です。自由を保証し、民主的な権利を実行できるようにするためには、現在では、例えば、インターネットに接続できるパーソナルなデバイスが必要であり、その必要不可欠な水準は10年前や20年前からずいぶんと上昇してきている点を理解すべきです。ですから、機会の平等を重視するエリートの比率が上昇しているのは、望ましくない要素を含んでいると私は考えています。

photo

次に、クーリエ・ジャポン[編]『海外メディアは見た 不思議の国ニッポン』(講談社現代新書) です。編集したクーリエ・ジャポンは、自らの取材というよりも、米国「ニューヨーク・タイムズ」、英国「ガーディアン」、フランス「ル・モンド」などのいわゆる高級紙をはじめとして、世界中のメディアから厳選した記事を日本語に邦訳してwebで提供しています。私は有料会員ではないのですが、一応、会員登録をして時々見ていたりします。ですから、本書もこういったメディアからの邦訳を取りそろえています。ということで、本書は5章構成となっていて、最後の章では天皇制や皇族について取り上げています。まあ、私のことですからパスします。第1章が、日本株式会社の不思議と題して、会社にすべてをささげるサラリーマンから始まって、働きすぎなのに生産性が低い、とか、世襲政治家が多い理由、なぜファックスをやめられないのか、会社員を縛る「義理チョコ」という集団心理、居眠りは勤勉の証、などに着目しています。第2章では日本社会を考察し、年功序列の理由を考えた上で、日本でポピュリズムが台頭しない理由についても解き明かそうと試みています。第3章ではニッポンの今を歩くと題して、日本人の自殺率が高い理由、「人間より人形が多い」限界集落、創業1000年の老舗の生存戦術、などに焦点を当てています。第4章では日本の若者の実体に迫り、なぜ若者は海外へ行かないのか、女性スポーツ選手に「女らしさ」を求める理由、なぜ若者の投票率は低いままなのか、などの解明に取り組んでいます。確かに、こういったいくつかの疑問、これらは外国メディアだから「不思議」に感じるのではなく、私のような日本人ど真ん中からかなり外れた人間にも「不思議」に感じられる謎が少なくありません。また、日本におけるポピュリズムについては、こういった見方もできるのだということを改めて思い知らされました。東京から関西に戻って来て、就職するまでは影も形もなかった大阪維新の会なんて政党がポピュリズムを振りまいているご近所で暮らしていながら、ローカルのポピュリズムとナショナルなポピュリズムを海外メディアはこう見ているのだ、というのがよく理解できました。まあ、でも、何といってもポピュリズム的な排外主義が高まらないの理由は移民の影が薄い、というのに尽きるんでしょうね。

photo

次に、宮城修『ドキュメント <アメリカ世>の沖縄』(岩波新書) です。著者は、沖縄出身で、「琉球新報」のジャーナリストです。タイトル通りに、1952年のサンフランシスコ講和条約発効から1972年5月15日の施政権返還まで、沖縄が米国、というか、米軍統治下に置かれていた期間のドキュメンタリです。なお、タイトルに関して、本書冒頭から引用すれば、「<アメリカ世>の「世」とは、しまくとぅばで「時代」を指す」ということです。なお、「世」には「ゆー」とルビが振ってあります。先週の読書感想文で取り上げた坂上泉『渚の螢火』(双葉社)と同じで、今年2022年5月15日が沖縄の本土復帰ちょうど50年、ということで読んでみました。実は、私はその当時の県民生活についても興味を持っていたのですが、そういった情報はまったく収録されていませんでした。1950-60年代といえば、日本はまさに高度成長期を謳歌していて、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機、さらに、「3C」と称されたカラーテレビ、自動車、クーラーなどの耐久消費財が幅広く普及し、国民生活がガラリと変化したころです。そのころ20年間の沖縄における生活も知りたかった気がしますが、本書では政治向きのトピックばかりでした。すなわち、情報のソースは当時の新聞報道や日米沖の政治家による回想が主となっています。この点は少し残念ですが、逆に、米軍統治下の沖縄の対米従属的な位置関係が実に生々しく描き出されていました。当時の沖縄における最高権力者である高等弁務官とは米国の軍人であり、まさに軍政が敷かれていたわけです。一応、沖縄県民による議会や政府、さらには裁判所もあって機能はしているのですが、すべてを米軍がひっくり返す権力を持っていました。琉球警察は米国軍人に対する操作権も逮捕権もありませんでした。裁判は高等弁務官次第で米国本土で行われることもあり、軍人に対しては米国の軍事裁判所が判決を下したりしました。ですから、本書にも収録されているように、米国軍人が運転するトラックが信号無視して交差点に突っ込み、沖縄の中学生が死んだ交通事故では、「太陽光の反射で信号が見えなかった」という言い訳で無罪になったりしましたし、その昔の関税自主権を回復する前のように、県民の重要なタンパク源であったであろうイワシが急に関税20%をさかのぼって課されたり、いろんな理不尽を県民は被っていたわけです。ただ、私は単純に沖縄県民は米軍施政下から本土復帰を目指していたのであろうと想像していたのですが、無視し得ない意見として、貧しい日本に復帰するよりも豊かな米国の信託統治領のまま存続する、という意見もあったといいます。そして、本書では沖縄の本土復帰、ちょうど50年前のイベントですが、に至る過程をていねいにあとづけて、その折々に重要と考えられるさまざまな事件、暴動、運動、選挙をはじめとする政治的な動き、あるいは、日米沖間での交渉と駆引きと得られた結論、などについて浮き彫りにしています。1960年代から1970年代前半にかけて激化するベトナム戦争、あるいは、先の見えない東西の冷戦、そういった世界規模での地政学的な要因も本書では取り上げられておらず、県民生活の実体の描写の欠落とともに、私にはやや不満が残りますが、私のような専門外の人間にもわかりやすく沖縄の本土返還へのプロセスを明らかにした基調な記録であると考えます。

photo

最後に、板野博行『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(王様文庫) です。著者は、予備校のカリスマ講師です。同じ出版社から、『源氏物語』、『万葉集』、『徒然草』、『平家物語』などの「眠れないほどおもしろい」のシリーズを出版しています。ということで、『源氏物語』、『万葉集』、『徒然草』、『平家物語』などに比べて、『吾妻鏡』はややマイナーな歴史書なのですが、鎌倉幕府の特に執権得宗家である北条氏の準公式歴史書と位置づけられています。その『吾妻鏡』を本書では解説しているのですが、何と、同時代の『愚管抄』の著者である慈円に成り代わって解説しています。ですから、執権得宗家である北条氏のために話を盛っている部分を批判的に解説しているわけです。現在のNHK大河ドラマである「鎌倉殿の13人」の放送が続いていて、私はまったく視聴していないのですが、そういったドラマファンにはとても参考になりそうな気がします。もちろん、公家=貴族の時代から、平家政権の時期を経て、本格的な武家社会を画期した時代、とはいえ、まあ、とても血なまぐさいトピックでいっぱいです。現在の21世紀でもロシアの戦争犯罪が広くメディアで報じられているわけですから、まあ、当然なのかもしれません。少なくとも、徳川期まで数百年の間武家支配が続いていたわけで、そして、徳川期に武家の作法や心構えが出来上がるまでは、日本社会というのはかなり大雑把で、礼儀作法の心得がどこまであるか疑わしく、例えば、男女の性的な関係はいうに及ばず、主君への忠誠なんぞよりも下剋上を目指してがんばってみたり、生き残るためにはお味方を裏切るなんて日常茶飯事、といった社会であったと考えるべきです。ですから、本書もそういった時代背景を持つ『吾妻鏡』を正面から解説しているわけです。特に、公家社会から武家が支配する世の中となれば、武力でコトを決着する傾向は強くなったであろう点は疑いありませんし、平家のように都に悪慣れしない用心として鎌倉に本拠を置いたために、貴族的な礼儀作法よりも武家的な実力行使の能力が幅を利かせたであろうことは想像の通りなのでしょう。そういった内容が、私の想像通りに満載です。たぶん、あくまでたぶん、なのですが、一般的な『吾妻鏡』の入門書としては十分な内容ではないかと思いますし、NHK大河ドラマにインスパイアされての読書という点でもOKなのでしょう。ただし、私はこの著者の類書を読んでいないので十分な評価は出来かねますが、それは、『吾妻鏡』がややマイナーな歴史書であるためであろうと私は理解しています。すなわち、私ですら『源氏物語』や『平家物語』の現代訳は読んでいるわけですので、こういった超有名な古典文学を取り上げたシリーズでは、評価が違ってくる可能性がある、大いにある、という点は忘れるべきではありません。

| | コメント (2)

2022年5月14日 (土)

今週の読書は経済書やミステリをはじめとして計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
玄田有史・萩原牧子[編]『仕事から見た「2020年」』(慶應義塾大学出版会)は、雇用に関する経済書です。さらに関連して、佐藤明彦『非正規教員の研究』(時事通信社)は、かなりブラックな職場といわれる学校の中でも、非正規教員の実態を明らかにしたノンフィクションです。さらに、単行本で最新刊のミステリを2冊読みました。方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社)と坂上泉『渚の螢火』(双葉社)です。前者は我が母校である京都大学推理小説研究会ご出身の作者で、後者は本土復帰50年を迎えようとしている沖縄を舞台にしています。最後に、酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書)では、ネオリベ政策で数多く生み出されたブルシット・ジョブを解説する新書です。計5冊です。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計78冊と去年に比べてちょっぴりスローペースです。でも、年間200冊くらいには達するのではないかと考えています。また、新刊書読書ではないのですが、劉慈欣の『三体』を借りることができました。読み終えれば、このブログではなくFacebookでシェアしたいと考えています。

photo

まず、玄田有史・萩原牧子[編]『仕事から見た「2020年」』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、東大とリクルートワークス研の研究者です。本書では、リクルートが2016年に始めた大規模パネルデータである「全国就業実態パネル調査」(JPSED)に基づく研究が収録されています。出版社が出版社ですから、かなりレベルの高い学術書のようにも見えますが、それほど小難しい内容ではなく、直感的に理解できやすい事実が数量的に確認されています。2020年のコロナ禍の時点までを対象に、主として新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の影響について分析を試みています。もちろん、COVID-19による雇用や国民生活への影響についてはon-goingで継続している課題ですので、今後も研究が続けられるものと考えるべきであり、その意味で、中間報告的な位置づけと私は受け止めています。まあ、永遠に中間報告なのかもしれません。いろんな論点が示されていますが、働き方の柔軟性による格差の拡大、すなわち、テレワークなどの活用による柔軟な働き方は高所得者層ほど利用可能性が高くなっているわけですが、こういった働き方のレジリエンスの格差は確かに生じたものの、ウェルビーイングの格差にまではつながっていない、と結論しています。また、緊急事態宣言下においてテレワークの実施による通勤時間の削減は確実に家事・育児時間の増加につながったことが明らかにされています。地域別の失業の状況については、最低賃金の4地域別の考察がなされていて、都会ではテレワークの活用により失業率の高まりが抑制された一方で、地方では、というか、収録論文ではかなり露骨に「田舎」と記述していますが、テレワークとともに、転職の容易さという要因もあって難しい面がある、と指摘しています。また、ワーク・エンゲージメントについては、経験年数の短い若年労働者と事業を営む経営者・事業者にダメージ大きかった、との結論が示されています。加えて、エッセンシャルワーカーの高いワーク・エンゲージメントが示され、国民生活がエッセンシャルワーカーの義務感の上に成り立っていた事実が明らかにされているとともに、休業や自粛要請は業務が不要不急であることを示すシグナルとなってワーク・エンゲージメントの低下につながった可能性を示唆しています。ただ、「やりがい搾取」といった観点は含まれていません。テレワークの分析に関しては、緊急事態宣言とともにテレワークに移行したものの、宣言終了とともに60%超がフルタイム出社に戻っていて、必ずしも定着率は高くなかったことが明らかにされています。テレワークでは、仕事の評価に対する不安が残るとともにヨコの連絡が取りにくくて業務効率を阻害している可能性が示唆されています。また、こういったテレワーク下の職場でのコミュニケーションとして、労働組合や労働者代表・職場代表の存在が重要である可能性を指摘しています。この点については、ここまで考えが至りませんでしたが、実は、私は大学の労働組合の執行委員をしていたりして、それなりに組合活動に対する貢献はしているつもりだったりします。また、右派エコノミストから労働の流動性を阻害していると批判の大きい休業手当については、就業確率、人間関係などのスコアが高くて非労働力化しにくいという結果が示されています。私の想像ながら、人的資本の維持にもつながっていると考えるべきです。最後に、正規・非正規の格差については、従来から、所得と安定性の二重の格差が指摘されてきましたが、コロナ禍における雇用・労働においてはテレワークの利用可能性なども含めた柔軟性が重要となりますが、この柔軟性も含めて、正規・非正規の間には従来の所得と安定性の二重の格差に加えて、柔軟性という三重の格差が出現した可能性が示唆されています。そうかもしれません。

photo

次に、佐藤明彦『非正規教員の研究』(時事通信社) です。著者は、教育ジャーナリストです。本書では、臨時的任用教職員=臨任と呼ばれる非正規教員を中心に、その実態を明らかにしようと試みられています。p.51図表2-1に見られるように、教員とは、実は私も大学教員なのですが、正規教員のほかに4種類の非正規教員のカテゴリがあります。1年間で期間が区切られた臨時的任用教職員=臨任、産休・育休代替教職員、主として定年後の再任用教職員、そして、非常勤講師です。そして、非常勤講師のほかは副業、というか、兼業は認められず、クラス担任を受け持ったり、中高の場合は部活動の顧問をしたりと、ほぼほぼ正規教員と同じ役割が割り振られています。ただ、校長や教頭の学校経営方針により大きく違いがあり、非正規教員にはやっかいな業務はやらせないという学校がある一方で、逆に、非正規教員こそやっかいな業務を担当して使い捨てにする、という学校もあるといいます。ただ、私のような大学教員は何ら教員免許を必要としませんが、小中高の場合は、いわゆる教員免許が必要である一方で、教員免許を持っていても教員採用試験に合格する必要があり、教員免許を持ちながら教員採用試験に不合格となってしまった人が非正規教員になる場合が多いわけです。しかも、決して事実として公式に認められる内容ではありませんが、教員の年代構成に歪みをもたらさないという観点から、特定の年代の教員が採用されにくくなっているのではないか、という疑問も本書では指摘されています。最近、都立高校での男女別の合格ラインの違いが話題になりましたが、教員採用でも年代別に合格ラインが意図的に異なるようにされている可能性があるわけです。他方で、今年2022年1月31日付けで文部科学省から「『教師不足』に関する実態調査」の結果が明らかにされており、小中学校合わせて2500人を超える教員不足が報告されています。この背景には、制度的な劣化があり、2004年には総額裁量性が導入され、さらに、いわゆる三位一体改革の一環として義務教育国庫負担の負担率が½から⅓に引下げられたりといった財政面での教育の軽視が上げられています。加えて、将来の少子化進行の影響を見据えて、解雇できない正規教員の採用を手控えている可能性も示唆されています。学校教育の雇用や労働というのはかなり独特の制度であり、有期雇用の無期転換ルールはありませんし、残業に対する超過勤務手当もありません。ですから、非正規はいうに及ばず、正規教員ですらも、かなり「ブラック」なお仕事であるという認識はかなり広く国民各層で共有されているのも事実かと思います。学校はいわゆる「やりがい搾取」の職場なわけです。ですから、非正規教員は民間の派遣社員のように、派遣会社にお給料をピンハネされていることこそないものの、クラス担任を受け持ったり、部活の顧問をしたりと、正規教員と大差ないお仕事であるにもかかわらず、ボーナスの額が低かったり、1年ごとの契約で不安定だったりと、通常の正規・非正規の所得と安定性の二重の格差があるのはまったく同じであり、本書でも、まずは、非正規教員にも初任者研修の場を確保することから始めて、教員不足なのだから正規教員の採用数を増やすのがもっとも正当な解決策であることを指摘しています。私もまったく同感です。教育のクオリティが低下すると、経済はもちろん、いろんな点から不都合が生じます。何とかすべき大きな課題と考えるべきです。

photo

次に、方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社) です。著者は、京都大学推理小説研究会出身のミステリ作家です。2019年に『時空旅行者の砂時計』で鮎川哲也賞を受賞してデビューし、長編第2作は『孤島の来訪者』、そして本作品は第3作となります。「竜泉家の一族」シリーズだそうですが、私はこの作品が初読です。綾辻行人や法月綸太郎などと同じく、我が母校出身のミステリ作家ながら、私は不勉強にしてこの作品をが初めてのわけです。だもので、前の「竜泉家の一族」シリーズの2作品を読んでいませんから、少し判りにくいところがあったかもしれません。でも、ミステリ大道のクローズド・サークルにおける密室殺人ミステリであり。相変わらず、まったく現実味はないものの、エンタメとしてのミステリの楽しさは十分に得られる大作です。主人公の加茂冬馬はゲーム会社のメガロドン・ソフトのプロデューサーから犯人役を依頼され、岡山沖の瀬戸内海に浮かぶ孤島での試遊会に出席します。なお、「犯人役」という役回りは後ほど。そこには、前作でごいっしょっだったらしい遠い親戚の竜泉佑樹もいて、現在はミステリ作家となっています。2024年秋に時代は設定されていて、ほぼコロナの感染拡大が抑制ないし管理されて、昔のノーマルな生活に戻った、との設定です。加茂冬馬と竜泉佑樹のほかには、素人探偵が数人招かれていて、さらに、メガロドン・ソフトのプロデューサーとディレクターと名前すら出ないスタッフが加わります。メガロドン・ソフトが開発したのはVR=ヴァーチャル・リアリティのミステリのゲームであり、ゲームの中で殺人が実行されます。ですから、主人公の加茂冬馬が犯人役として招待されるわけです。ただ、この犯人役についてもいろいろとトリックが隠されていますし、犯人役だけではなく、ほかの役割を持った人物もいたりします。しかし、試遊会のイベントは実のところ、メガロドン・ソフトのディレクターが仕組んだ実際のゲームであり、招待された素人探偵とその人質の命を懸けた殺戮ゲームが始まってしまいます。なお、ここで人質というのは、例えば、主人公の加茂冬馬の場合、妻と娘であり、人質は招待されたゲストと同じスマートウォッチを付けていて、何と、VR制作のゲーム会社でありながら極めてアナログな毒針が仕込まれている、という設定です。デジタル・アナログ両方でご活躍の会社のようです。とても大掛かりな殺人が、リアルとバーチャルの両方でいくつか実行され、登場人物も決して多くはないので、私もじっくりとていねいに読み進みましたが、さすがに私くらいの頭の回転ではトリックを見破ることはできませんでした。特に、最初の方の毒殺については、現実にはありえないとしても、エンタメ小説ですから、とっても斬新な殺害方法と評価できます。あるいは、私くらいの頭の回転でも、何度か読み返せば、ひょっとしたら、どこかに論理のほころびがあって、それを見つけることが出来るかもしれませんが、取りあえず初読の段階ではムリでした。VRのミステリといえば、その昔に岡島二人の『クラインの壺』を読んだ記憶がありますが、細かな点、例えば、ポケットに鍵が入っているかどうか、といった部分については岡嶋二人の作品に軍配を上げたくなりますが、大掛かりな特殊設定によるとはいえ、斬新なクローズド・サークルにおける密室殺人という点では、本作品が優れています。ミステリとしての濃厚な殺人事件があり、しかも、めいっぱいのトリックを駆使しています。ただし、私の場合は、繰り返しになりますが、「竜泉家の一族」シリーズの前2作品を読んでいませんから、不明の点が少なくありませんでした。砂時計のペンダントがクラッキングを実行出来るとか、ワトソン役、というよりは、クイーン作品のJJマック役のホラの存在と砂時計のペンダントとホラの関係とか、できれば、前作にさかのぼってこの作家さんの作品を読んでみたいと思います。

photo

次に、坂上泉『渚の螢火』(双葉社) です。著者は、注目のミステリ作家です。デビュー作の『へぼ侍』、第2作『インビジブル』に続いて、本作品が第3作となります。私は不勉強にして、この作者の作品は初めて読みました。前2作と同じで警察小説です。舞台は本土復帰直前の1972年4-5月の沖縄であり、琉球警察本部、すなわち、後の沖縄県警に勤務し、東京の日大を卒業し警視庁に出向していた経験を持つエリート刑事が、ドルから円への切替えに際して起こった100万ドル強奪事件の真相に迫ります。ということで、もうすぐ、沖縄の本土復帰50年ですし、私が毎朝熱心に見ているNHK朝ドラも沖縄が舞台です。特に、NHK朝ドラでは主人公の兄がドルから円への切替えに当たって詐欺に巻き込まれます。ということで、この作品を読んでみました。なかなかによく出来た警察ミステリなのですが、同時に、沖縄の少しビミョーなあり方というのにも接することができました。米軍基地がいっぱいあるというのは、ある意味で重荷でしょうし、そのために、というか、それを遠因として倒れた内閣もありました。他方で、いろんな不都合はありつつも、米軍基地のお陰で生活が成り立っている県民もいるのかもしれません。私は沖縄と米軍基地というテーマを考える時、私はル-グィンの『風の十二方位』に収録されているヒューゴー賞受賞作「オメラスから歩み去る人々」を思い出します。確か、サンデル教授の何かの本でも紹介されていました。脱線してしまいましたが、この作品の読書感想文に戻って、最後に一挙に真相が明らかにされる、というよりも、ジワジワとタマネギの皮をむくように少しずつ真相に迫るミステリの手法であり、私の好きなミステリのタイプといえます。もちろん、少しずつ真相に迫りつつも、読者をミスリードする点でも作者の素晴らしい力量が示されています。すなわち、大量に人が死んで、しかも、米軍はもちろん、米国国務省の役人まで関係していたことから、「ひょっとしたら、日米外交関係にも影響を与えかねない大事件」と思わせつつ、実は、単なる、といっては申し訳ないのですが、個人的な復讐が動機になっていたりします。そのあたりの作者のプロット作りの上手さには舌を巻きます。そして、私がもうひとつ感激したのは、沖縄生まれの登場人物が、いかにも、沖縄っぽい苗字で登場する点です。鈴木とか田中とか佐藤とかいった姓の登場人物はいません。実に巧みに、私のような沖縄通ではない読者に、いかにも沖縄という雰囲気をもたらしてくれています。また、主人公にかけられる疑いの中で、極めて通俗的なのですが、「スパイ」というのがあります。実は、そのスパイが主人公の身近にいるというのも、まあ、プロット上で判るのですが、それなりに上手く描き出されています。主人公自身のアイデンティティの問題とも絡めて、果たして、どちらに付けばいいのか、というとても大元の問題を見ているようで、その意味で、沖縄の複雑さを際立たせている気がします。

photo

最後に、酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書) です。著者は、大阪府立大学の研究者であり、専門は社会学です。というよりも、本書のタイトル通りに、グレーバー教授の『ブルシット・ジョブ』や『負債論』の邦訳者です。ですから、本書のタイトルに深く関連する『ブルシット・ジョブ』だけでなく、『負債論』からも多くの引用が引かれています。本書は、序論に当たる0講から始まって8講までの講義形式を取っています。ということで、私は本家のグレーバー著『ブルシット・ジョブ』をすでに読んでいて、昨年2021年2月7日付けで読書感想文を明らかにしていますので、特に、大きな感激はなかったのですが、今回改めて知らされたのは、ブルシットなジョブが資本主義、というか、特に現在のネオリベと深く関係しているという点です。逆にいえば、ネオリベな経済政策によって、しょうもなくて有害ですらあるジョブがはびこっているということで、実に、マルクス主義的な阻害の実体を見る気がします。本書や本家の『ブルシット・ジョブ』で、ブルシットなジョブとされているのは、マーケティングで「欲しい!」を作り出す仕事とか、たんなるマネジメントだけの仕事とかなのですが、実は、現在の先進国において、そういったマネジメントの仕事が、もっともお給料がよくて、しかも、社会的なステータスも高いわけです。典型的には、私のいた官界ではキャリアの国家公務員、ということになります。例えば、官界でもエリートとされる財務省主計局でいえば、電卓をたたいて計算し、表計算ソフトにインプットするという作業をするのはノンキャリの公務員なのですが、そういったノンキャリの公務員を統括して仕事を割り振ったり、大きな会議で発言したりするだけのキャリア公務員の方が地位は上だし、さらに、お給料は多い、ということになっています。しかも、こういったブルシットなジョブの逆転現象は日本だけではありませんし、もちろん、官界だけではなく広く民間企業に見られます。実際に組立ラインで製品を作ったり、あるいは、計器とにらめっこをしてプラントを動かしたりしている現場の作業員ではなく、ホワイトカラーと呼ばれマネジメントに携わる従業員の方がランクは上だし、お給料も多い場合が圧倒的多数です。同じことが社会的グループにもいえて、非正規職員の方が正規職員よりも所得が低くて安定性にも欠ける、というのが通り相場だったりします。ホントは、経済学的に考えると、「雇用の調整弁」という言葉があるように、非正規雇用が不安定な雇用であれば何らかのプレミアムがお給料に上乗せされていてもおかしくないのですが、そうなっているのはほとんど見かけません。現場作業している労働者の方がランクが上という例外であるのは、病院の医師と学校の教員だけです。どちらも高学歴職であり、少なくとも大学を出ている必要があるとはいえ、病院の事務職員よりも医師の方がステータスは上でお給料も高いのが普通であろうと思います。私が勤務経験あるのは学校の中で大学だけなのですが、たぶん、現場で教育サービスを提供する教員の方が事務職員よりも高ステータスで高給なのではないか、と思います。実に不思議なのですが、こういった謎のブルシット・ジョブについての講義形式の解説書です。

| | コメント (0)

2022年5月 7日 (土)

GWの読書は経済書2冊とミステリを合わせて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。さすがに、ゴールデンウィークの中心となる週でしたので、ついついミステリ小説が多くなりました。
オリヴィエ・ブランシャール & ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶応義塾大学出版会)は2019年に米国のシンクタンクであるピーターソン国際経済研究所(PIIE)が主催したコンファレンスでの発表論文を取りまとめています。タイトル通りに、現時点での格差や不平等の現状を計測しつつ、その是正に関する議論が多岐にわたって展開されています。本日5月7日の朝日新聞の書評欄で取り上げられています。渡辺努『物価とはなにか』(講談社選書メチエ)は我が国物価研究の第一人者により物価について解説されています。物価指数の計測などについては詳細な議論がなされている一方で、アベノミクスや現在の黒田総裁のもとでの異次元緩和などの評価については旧来の日銀理論が顔をのぞかせます。相沢沙呼『invert』(講談社)は好評だった前作『medium』の続編となる短編ないし中編ミステリ3作を収録しています。すべてが倒叙ミステリであり、犯人の特定や犯行手口などの謎解きがあまりなくて、もっぱら犯行の証拠固めに費やされていて、それほど高い評価のミステリにはならないだろうと思います。最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』(創元推理文庫)は、大きな話題を集めた 前作の『カササギ殺人事件』の続編であり、別のミステリが本編中に挿入されるというメタ構造となっています。海外長編にありがちな登場人物いっぱいで、しかも構造は複雑なのですが、謎解きを中心に据えるミステリとしてとても上質で明快な作品に仕上がっています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計73冊と去年に比べてちょっぴりスローペースです。

photo

まず、オリヴィエ・ブランシャール & ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶応義塾大学出版会) です。編者2人は、私ごときが紹介する必要ないくらいに著名なエコノミストであり、そのうちにノーベル賞を受賞するのではないか、と予想しています。ということで、本書に収録されている論文は、米国のシンクタンクであるピーターソン国際経済研究所(PIIE)主催で2019年10月に開催された Combating Inequality: Rethinking Policies to Reduce Inequality in Advanced Economies と第するコンファレンスに提出されたものであり、このコンファレンスのコーディネータが本書の編者2人ということになります。なお、PIIPのサイトには論文やプレゼン・ファイル、さらに、プレゼンの動画もアップされています。ご参考まで。まず、本書は11部構成で、各部に3章ほどが含まれていて、全てで29章構成となっています。寄稿者はダイヤモンド教授のようにすでにノーベル経済学賞を受賞したエコノミストから、この先、ほぼほぼ確実に受賞するであろう大物エコノミスト、さらに、エコノミストではないけれども格差や不平等の問題に意見表明している哲学者や政治学者などなど、極めて水準高い研究者を取りそろえています。とても長くなるのをいとわずに、論文タイトルとともに敬称略でズラズラと書き連ねると以下の通りです。

第Ⅰ部
状況の展望
第1章
先進国の格差をめぐる10の事実 (ルカ・シャンセル)
第2章
状況についての議論 (ピーター・ダイアモンド)
第Ⅱ部
倫理と哲学の元
第3章
経済理論に新たな哲学的基盤が求められる時代か? (ダニエル・アレン)
第4章
経済学者が対処すべきはどんな格差か? (フィリップ・ヴァン・パリース)
第5章
なぜ格差が問題なのか? (T.M. スキャンロン)
第Ⅲ部
政治の次元
第6章
資産格差と政治 (ベン・アンセル)
第7章
格差への対処に必要な政治的条件 (シェリ・バーマン)
第8章
アメリカで経済格差に取り組む際の政治的な障害 (ノーラン・マッカーティ)
第Ⅳ部
人的資本の分配
第9章
現代のセーフティーネット (ジェシー・ロススタイン、ローレンス・F・カッツ、マイケル・スタインズ)
第10章
教育の未開拓の可能性 (ターマン・シャンムガラトナム)
第Ⅴ部
人的資本の分配
第11章
なぜ「チャイナショック」は衝撃だったのか、政策にとって何を意味するのか (デヴィッド・オーター)
第12章
貿易、労働市場、チャイナショック - ドイツの経験から何が学べるか (クリスチャン・ダストマン)
第13章
格差との戦い - 先進国の格差縮小政策を再考する (キャロライン・フロイント)
第Ⅵ部
金融資本の(再)分配
第14章
(するべきなら)富裕層に増税する方法 (N. グリゴリー・マンキュー)
第15章
資産税は格差との戦いに役立つか? (ローレンス H.サマーズ)
第16章
資産に税を課すべきか? (エマニュエル・サエズ)
第Ⅶ部
技術変化のスピードと方向性に影響を与える政策
第17章
(過度な)自動化を後戻りさせられるか、させるべきか (ダロン・アセモグル)
第18章
イノベーションと格差 (フィリップ・アギオン)
第19章
技術変化、所得格差、優良な仕事 (ローラ・ダンドレア・タイソン)
第Ⅷ部
労働市場についての政策、制度、社会規範
第20章
ジェンダー格差 (マリアンヌ・ベルトラン)
第21章
所有権による格差の解消策 (リチャード B.フリーマン)
第Ⅸ部
労働市場ツール
第22章
万人への雇用保障 (ウィリアム・ダリティ・ジュニア)
第23章
仕事を底上げする (デビット T. エルウッド)
第24章
労働市場における効果的な政策手段を設計する際の法的執行力の重要性 (ハイディ・シアホルツ)
第Ⅹ部
社会的セーフティネット
第25章
社会的セーフティネットの向上を基盤にミクロとマクロのレジリエンスを高める (ジェイソン・ファーマン)
第26章
子供のいる世帯向けの社会的セーフティネット - 何が有効か、さらに効果を上げるにはどうするか? (ヒラリー・ホインズ)
第Ⅺ部
累進税制
第27章
再分配政策を支援する税制についての考察 (ヴォイチェフ・コプチュク)
第28章
私たちはなぜ再分配の増加を支持しないのか? - 経済学的調査からの新しい説明 (ステファニー・スタンチェヴァ)
第29章
資産税に効果はあるか? (ガブリエル・ズックマン)

あまりに多岐にわたる論点の論考が収録されていますので、いくつかに絞って取り上げておくと、まず、冒頭の第1章のシャンセル論文では、"The rise of inequality in rich countries is not driven by population ageing" と指摘して、不平等が高齢化に由来することを明確に否定しています。その論拠はそれほど明らかではないのですが、我が国では、従来から、というか、15年ほど前に出版された大竹文雄著『日本の不平等』を引いて、不平等や格差は高齢化で強調されている、とする見解を政府が繰り返しています。もちろん、もちろん、高齢化がすべての経済的格差や不平等の原因であるというわけではありませんし、やや不平等が大きく現れることの一因であるに過ぎないわけですが、この一文は目を引きます。そして、各論文に共通する考えとして、もはや先進国における不平等は社会的に許容できる水準を超えており、何らかの政策などで是正する必要がある、という点に関してはかなり多くのエコノミストの間に緩やかなコンセンサスがあると考えるべきです。そして、高所得者と低所得者の限界消費性向の違いを考慮すれば、高所得者から低所得者への所得移転により成長を加速することができる可能性が高まっています。加えて、本書を読んでいて、私は格差や不平等とともに貧困問題の解決も重要であると実感させられました。世界的に強気認められている自由や民主主義を実現するためには、あるいは、社会的文化的な生活をおくるためには、最低限必要な条件というものがあります。かつてはこの最低限の水準がそれほど高くなかったかもしれませんが、今ではそれ相応の知的レベルに達していないと、あるいは、十分な生活条件が満たされていないと自由で民主的な活動、あるいは、社会的に満たされていて、さらに文化的な生活を送ることができなくなりつつあります。仕事で十分な働きをなし、選挙で適切な判断を下し、健康で文化的な生活を送るためには一定の教育を必要とし、それは義務教育ギリギリの9年間では不足する可能性があります。ですから、日本では高等学校まで事実上全入に近くなっていますし、社会的な分業を維持するためには、一定割合の大学進学者の必要性も高まっています。インターネットに安価に接続できるパーソナルなデバイスがなければ、自由と民主主義の実践は難しくなりつつあります。さらに、日本では昨年「親ガチャ」なる新語・流行語が現れましたが、世代を超えて貧困や格差が継承=相続されるとすれば、機会の平等だけではなく、結果においても平等、あるいは、一定程度の格差の縮小が必要です。ホントの自由と民主主義のために、格差の縮小や貧困の是正が必要とされていると考えるべきです。本書では、日本が必ずしも含まれる論考ばかりではなく、米国、あるいは欧米先進国を中心とする論考が並んでいますが、格差や不平等ばかりではなく、貧困問題を考える上でも重要な論点が数多く取り上げられています。各チャプターの執筆者や出版社からしても、かなりの程度に学術書の色彩が強いのですが、可能な範囲で多くの方が手に取って読むことを私は願っています。

photo

次に、渡辺努『物価とはなにか』(講談社選書メチエ) です。著者は、東大の研究者であり、日銀ご出身です。私は総務省統計局に勤務していたころ、物価調査のセクションも統括していたのですが、その私の目から見ても我が国における物価指数の第一人者といえます。ですから、物価の計測、特に物価指数の作成なんかについては懇切丁寧に展開していますが、政策編となると、いかにも日銀官僚の言い訳に満ちている気もします。前者の評価できる点としては、いわゆる物価の会計理論に対する冷めた見方が上げられます。ここで強調しておきたいと思うのですが、私は物価とは貨幣価値の逆数であると考えています。ですから、現在のエネルギーを始めとする資源価格の高騰に起因する物価上昇率の高まりについては、どこまで政策対応すべきかについてやや冷めた見方をしています。我が国マクロ経済学界では、大御所の吉川先生が積上げ型の物価の会計理論に親近感を表すことがあるので、この点はそれなりに重要な気もします。そして、生計費指数に対するトルンクビスト指数の応用とか、物理学的な自信の発生を物価理論に応用するとか、なかなかに理論・実践ともに有益な見方が提供されています。特に、デフレとインフレに対する非対称な期待の働きは明快です。まあ、期待を「潰す」という表現には著者の感情がこもっていると受け止めました。ただし、繰り返しになりますが、特に力の入っていた物価に対する期待の影響力については、デフレとインフレで非対称、まではよかったものの、最後の最後で少しがっかりさせられました。すなわち、連邦準備制度理事会(FED)の金融政策の実践などを通じて、金融市場には期待の役割が大きいとしつつも、一般人のインフレ期待への影響を及ぼすことは難しい、との結論となっています。また、1円でも値上がりしていたら買わない選択をする消費者の存在とか、まあ、日銀ご出身らしい一般消費者への上から目線というか、不首尾な日銀金融政策の言い訳としか聞こえないような部分もあったりします。加えて、全体としてアベノミクスについての言及、というか、金融政策のレジーム転換に対する評価がまったくなされていません。少なくとも、渡辺教授もアベノミクス前には日銀的な岩石理論とか、ハイパーインフレ到来説に加担していたこともありましたから、その逆で、黒田総裁になってからの異次元緩和のインフレ率への効果が小さい点について批判するほどの不整合こそありませんが、結局は、旧来の日銀理論で物価のコントロールはできない、と考えているのではないか、と思わせる部分がいくつかありました。最後に、物価安定とマクロ経済の関係には大した言及がなく、物価の専門家だけに、マクロ経済から物価だけを取り出してしまう意味のなさ、ナンセンスに気づいていないかもしれません。

photo

次に、相沢沙呼『invert』(講談社) です。著者は、ミステリ作家であり、私は前作の『medium』をそれなりに評価したので、城塚翡翠を主人公とする同じシリーズの本作品も図書館で借りて読んでみました。しかし、やや期待は裏切られて、それほど感心するミステリではありませんでした。長編だった前作と違って、この作品は『短編、というよりも、中編くらいの長さの3つのミステリから編まれています。すべて叙情ミステリとなっています。「雲上の晴れ間」ではIT企業のエンジニア、「泡沫の審判」では小学校教員、そして、「信用ならない目撃者」では警視庁の刑事から探偵に転じた犯罪界のナポレオン、がそれぞれ殺人犯であり、犯人の特定ではなく、単なる証拠固めをするという役回りが主人公に割り振られています。ただ、前作から当然のようにハードルが高くなるわけですし、その分も含めてですが、それほどの出来のミステリとは思えません。まず、叙情ミステリですので仕方ないとはいえ、犯人が明らかな上に、他の犯人候補、というか、疑うべき被疑者がまったくいません。一応、被疑者の特定についても説明がなされるのですが、その被疑者の特定がかなりずさんで、叙情ミステリだから手を抜いているようにすら見えてしまいます。しかも、ストーリーの語り手はその犯人だったりします。ですから、主人公の名探偵さんは犯人を特定する必要も、犯人の心情を察する必要もほぼほぼなく、殺人を隠蔽するトリックを暴くというミステリらしい展開がまったくありません。その上、決して、論理的ではないとはいいませんが、かなり偶然に依存する方法、ないしは、故意に近い捏造が示唆される方法で証拠集めがなされています。ここでも、かなりの程度に、叙情ミステリで読者が鋭く突っ込まないという前提でストーリーが展開されています。謎解きも犯人の特定も何もなしで、ひたすら証拠集めというのは、実際の警察による犯罪捜査に近い気もしますが、ミステリ小説としては出来がよくないと考えるべきです。では、何に工夫するかといえば、例えば、東川篤哉の「魔法使いマリィ」のシリーズでは、コミカルな表現力とマンネリ化したギャグ的展開があったわけですが、この作品ではそこまで到達していません。主人公のキャラに依存しているということなのかもしれません。第2の残念な点なのですが、おそらく、主人公である城塚翡翠のミステリアスで謎多きキャラが少しずつ明らかにされていく、といったあたりが読ませどころなのかもしれませんが、少なくとも、この作品ではまったく進展ありません。引き続き、超絶技巧を示してくれるだけで、なんの目新しさもありません。助手の千和崎真も頭脳の冴えが主人公の翡翠に少し劣る以外は万能ぶりを発揮しています。ほぼほぼ欠陥なき主人公コンビなわけで、同時に面白みもありません。ただし、この主人公の素顔については、東野圭吾作品のガリレオこと湯川学教授についても、ようやく最新作で実の母親が登場したところですので、今後の展開で少しずつ明らかになるのかもしれません。主人公2人の女性キャラに好感を持てれば次回作も読む人が多そうな気がしますが、私自身は子に2人のキャラが好きにはなれませんから、このシリーズはこの作品で私は読むのを打ち止めにする可能性が高いと思います。他にも出来のいいミステリはいっぱいあります。この作品で「オッ」と思わせたのは、カクテルのサンドリヨンが登場したところくらいでした。理由は知る人ぞ知るところです。ということで、さよなら、城塚翡翠!!!

photo
br />photo

最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』上下(創元推理文庫) です。著者は、前作『カササギ殺人事件』で日本でも話題になった英国のミステリ作家です。実に、本作品は『カササギ殺人事件』の続編であり、主人公は英国人の元編集者で、英国で教師をしていたギリシア人の夫とともに、現在はクレタ島でホテルを経営するスーザン・ライランドです。この主人公の経営するホテルに、同じように英国でホテルを経営するトレハーン夫妻が訪れます。というのは、8年前にトレハーン夫妻の経営するホテルで起こった殺人事件を題材にして、作家のアラン・コンウェイが探偵アティカス・ピュントのシリーズのひとつとして『愚行の代償』と題して発行したミステリがあり、その編集を主人公がしていました。トレハーン夫妻の経営するホテルで起こった実際の殺人事件はすでに犯人が逮捕され、判決も下っているのですが、この『愚行の代償』を読んだトレハーン夫妻の娘セシリーが、『愚行の代償』の中に8年前の殺人事件の真相を発見したとトレハーン夫妻に連絡し、その直後、セシリーが失踪した事件を聞かされます。コンウェイはすでに死亡しており、残る関係者は主人公のスーザンしかおらず、トレハーン夫妻は失踪した娘セシリーの行方と実際の殺人事件の真相究明を主人公のスーザンに依頼します。カネに目のくらんだ、とまではいわないものの、主人公のスーザンは依頼主のトレハーン夫妻の陽性を受入れて英国で真相究明と失踪したセシリーの捜索に乗り出します。というのがストーリーです。前作『カササギ殺人事件』と同じでメタ構造になっていて、作品中にアラン・コンウェイ作の『愚行の代償』が丸ごと挿入されています。このミステリの出来も優れていて、クリスティ作品みたいです。でも、海外ものの長編ミステリらしく登場人物がいっぱいいる上に、さらに、メタ構造で別の小説が挿入されているわけですから、私のような頭の回転の鈍い読者にはキャラを把握するだけでもタイヘンですし、なかなかストーリー展開もドラマチックで、楽しくはあるのですが、かなり集中して読まないと理解がはかどりません。軽い娯楽読み物ではなく、学術書とか古典文学を読むような重さを感じたりします。これは読書の良し悪しであって、重厚な読書を志向する場合もあれば、時間つぶしで軽い読み物がほしい時もあります。読者ニトリ、あるいは、TPOによってさまざまですが、本書は重厚なミステリと考えた方がいいかもしれません。私の場合は学術書を読む機会も少なくなく、重厚な読書が苦にならない上に、特に今週についてはゴールデンウィークまっさいちゅうで時間的な余裕があるタイミングでしたのでOKなのですが、そういった集中力を要しじっくりと読む読書ばかりではなく、軽い時間つぶしの読書を求める向きには、あるいは、そういったタイミングの読書には不適なミステリかもしれません。でも、労力を必要とするだけに、軽くて時間つぶしにうってつけのミステリにはない濃厚で奥の深い謎解きが楽しめます。私はどちらのミステリも大好きです。

| | コメント (2)

2022年4月30日 (土)

(2022年4月30日) 今週の読書は社会学者が書いた経済書からSF小説も含めて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
ジェイク・ローゼンフェルド『給料はあなたの価値なのか』(みすず書房)は、社会学者が書いた賃金の不平等に関する経済書です。なかなか鋭く切り込んでいます。ただ、経済的な格差の進み方は日本と欧米ではかなり異なっていて、欧米ではお金持ちがさらに所得を増やして格差が拡大しているのですが、我が国では低所得者がいっそう貧しくなって不平等が拡大し貧困がひどくなっています。非正規雇用の拡大がどちらも一因となっていますが、特に、日本で非正規雇用拡大の影響が大きい気がします。カルロ・ロヴェッリ『科学とは何か』(河出書房新社)は、古典古代のギリシア時代のアナクシマンドロスの哲学、すなわち、雨や風や波を起こしているのは神々ではなく、原因は究明できるという観点と、事実を常に探究すべきであり既成事実に安住することはよくない、という点を強調しています。アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下(早川書房)は、地球の危機を救うために13光年離れた宇宙をたった1人で旅するSF小説です。日本人なら、「宇宙戦艦ヤマト」を思い起こすかもしれません。最後に、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)は、日本的なメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用の違いを明らかにし、従来の誤解を解こうとしています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計68冊と去年に比べてややスローペースです。昨年は5月1日の土曜日ですでに74冊を読み飛ばしていました。今年の4月は忙しかったせいかもしれません。ただし、何とか年間200冊には達するんではないか、と考えています。年間200冊は目標とかではなく、価値観抜きの単なる予想です。なお、このブログで取り上げた読書感想文は、順次、可能なものからFacebookでシェアする予定です。それから、本日の朝日新聞朝刊でアジア・パシフィック・イニシアティブ『検証 安倍政権』(文春新書)の書評が掲載されていました。私のこの読書感想文では2月26日付けで取り上げていました。

photo

まず、ジェイク・ローゼンフェルド『給料はあなたの価値なのか』(みすず書房) です。著者は、米国ワシントン大学の研究者なのですが、専門は経済学ではなくて社会学です。英語の原題は You're Paid What You're Worth であり、2021年の出版です。社会学が専門ですから、経済学的に限界生産性がお給料になる、といった点は無視して、かなりリベラル観の強い格差論、不平等論を展開しています。本書は4部構成であり、最初にお給料に関する疑問を上げています。お給料を決定する4要因として、「権力」、「慣性」、「模倣」、「公平性」を上げ、そもそも、お給料が過小であり、かつ、不平等に分配されていると主張します。第2部では、一般に広く信じられている成果主義にも疑問を投じ測定の問題や能力主義の落とし穴などを論じます。第3部では仕事、特に良い仕事と悪い仕事を対比させて、仕事とお給料の対応関係を考えます。最後の第4部では公平な賃金を目指す方策について取りまとめています。ということで、繰り返しになりますが、経済学的な観点からの限界生産力=限界生産性がお給料を決めるという理論はまったく無視されています。同じ小売業、後に悪い仕事の一つとして取り上げられるのですが、同じ小売業であっても低賃金しか提供しないウォルマートと高賃金のコストコを取り上げて、生産性や能力や、ましてや、成果がお給料に連動していない点を鋭く指摘しています。その上で、米国労働者が、日本もかなりの程度に同じと考えるべきですが、低賃金しか支払われていない理由として、分配率の変化、すなわち、株主重視のために資金を従業員のお給料から自社株買いにシフトさせたこと、派遣や臨時職(temporary)として雇用して給料を抑制したこと、労働組合が弱体化して使用者側よりも雇用者の方の交渉力が大きく低下したこと、などを上げています。その上で、技術偏向型の技術進歩という主流派エコノミストの見方を否定します。主流はエコノミストはこの技術偏向的な技術進歩により、高スキルを要求される職業が増加して高所得者がますます高所得になって格差が拡大する、という見方をしているのですが、この「高所得者がますます高所得になるので格差が広がる」という分析結果は、実は欧米各国に当てはまる見方であって、ですから、ウォール街の選挙運動で見られた1%と99%の対立があるわけですが、日本にはそれほど当てはまりません。というのは、日本では貧困層がますます所得を減少させて格差が広がっているからです。しかし、マルクス主義的ですらなく、勤労者と株主の対立について、株主のほうがますます所得を増加させる、という欧米型の格差拡大も、勤労者の、というか、定食と勤労者がますます所得を低下させる、という格差拡大も、両方の階級の格差が拡大する結果に変わりはありません。そして、最後には、格差拡大に対する処方箋として、低所得者のお給料に関しては最低賃金の引上げを提唱します。これは、むしろ、欧米ではなく日本に当てはまる可能性が高いと私は感じました。ただし、欧米諸国に当てはめるべき高所得者の天井を下げる方策については増税と取締役会に労働者代表を入れてガバナンスを強化する、という2点を主張しています。経済的な格差を是正するのは、とても困難な課題であり、現在の米国バイデン政権、そして、日本の岸田内閣ともに、少しずつ格差拡大を念頭に政策運営を変化させようとしているように見えますが、かなり長い期間が必要なのかもしれません。本書での指摘も、正しいのですが、どこまで実効性あるかは疑問なしとしません。社会学的な観点からの分析とはいえ、エコノミストにも大いに参考になる論考でした。

photo

次に、カルロ・ロヴェッリ『科学とは何か』(河出書房新社) です。著者は、物理学者であり、専門は量子力学だそうです。科学者であると同時に、非常の著名なサイエンス・ライターでもあります。でも、私は不勉強にして、この著者の本は読んだことがありません。本書のオリジナルはフランス語版で2009年に出版され、イタリア語版が出版され、それが邦訳の底本となっています。ということで、古典古代のギリシアの都市国家ミレトスのアナクシマンドロスの哲学を第1のテーマとし、第2のテーマは科学的思考の本質、すなわち、無知を自覚しつつ、知の探究としての「世界の描きなおし」であって、決して、科学の力は既存の知識の確実性の中には打ち立てられない、と指摘しています。その昔の古典古代のギリシアやローマなどでは、雨を降らせるのも、風を吹かせるのも、波を立てるのも、雷は言うに及ばず、こういった自然現象は神々に起因すると考えられていたわけで、それだからこそ、神に対する「雨乞い」なんてものが存在したわけですが、それを打ち破ったのがアナクシマンドロスであると指摘しています。不勉強ん敷いて、私は初めて接するお名前でした。経済学を物理学などの自然科学になぞらえる向きがあるのですが、かねてからの私の主張として、経済学がここまで不完全な科学に終わっている大きな理由のひとつは、現実に合わせたモデルを構築するのではなく、モデルに合わせて現実をカッコ付きで「改革」しようとしている点だと考えるべきです。物理学であろうと化学であろうと、経済学もそうですが、科学である限りはモデルを使って現実を表して理解を進めようとします。数式であったり、3次元の模型であったり、さまざまなモデルがあります。少なくとも、私の知る範囲で物理学は新たな事実が発見されれば、それまでのモデルを現実に合わせて修正しようと試みます。しかし、多くの主流派エコノミストは逆を行こうとします。モデルに合わせて現実の経済を修正しようと試みるわけです。罪深いのは「厚生経済学の第1定理」fundamental theorems of welfare economics であり、すなわち、自由な価格設定が許容された市場における競争均衡がパレート効率的である、というものです。ですから、かなり多くのエコノミストは、自由市場に対して政府が介入して価格に歪みをもたらすことのないように、あるいは、政府だけではなく独占や競争を阻害する要因を取り除いてやれば、市場価格に基礎を置く資源配分がもっとも望ましい均衡として達成される、と考えています。その意味で、最悪なのは中央司令型の社会主義経済だったりします。ですから、規制緩和や独占排除などの政策対応を必要と考えます。私は、これもかねての主張の通りに、市場における価格はかなり大きく歪められておりパレート効率を達成するとは限らない、と考えています。例えば、外部経済の多くは市場価格に盛り込まれませんし、情報の非対称が企業と消費者の間にあることはあまりに明らかです。その上、市場メカニズムは長期への対応が苦手で、現在排出される二酸化炭素が将来にどのような破滅的な気候変動=地球温暖化をもたらすかについては評価できません。もちろん、市場における資源配分が望ましくない大きさの経済的不平等、あるいは、社会的に許容できる水準を超えた格差をもたらす可能性を排除できません。私は本書を読んで、アナクシマンドロスが否定した自然現象を起こす神々の地位に、多くのエコノミストは市場を置いてしまっているのではないか、と危惧せざるを得ません。不断の知的探究を放棄して、既存の市場信仰の中に安住しているだけではないか、それは市場原理主義として否定されるべきではないか、などと連想をたくましくしてしまいました。いずれにせよ、私たちは間違うことがあります。正しい経済の発見が必要ではないでしょうか。

photo
photo

次に、アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下(早川書房) です。著者は、人気のSF作家であり、ユーモア・ミステリというジャンルがあるのですから、それになぞらえると、かなりユーモアSFに近いコミカルな表現を多く含んだ作品を発表し続けています。英語の原題は Project Hale Mary であり、2021年の出版です。なお、「ヘイル・メアリー」とは、いわゆる「アベ・マリア」のことである、というのは私も聞き知っていたのですが、アメリカン・フットボールでは負けている方のチームのQBが試合の最終盤において、イチかバチかで投げるロングパスのことも指すそうです。本書のタイトルはこのイチかバチかのロングパスに近い意味だったりします。本書はこの作者の長編3作目、すなわち、『火星の人』、『アルテミス』に続く長編第3作です。私はこの既存長編2作は読んでいます。というか、私がウィアーの世界に接したのは、最初は、『火星の人』を原作として映画化された「オデッセイ」を、何かの折に飛行機の中で見たのが最初だったような気がします。そして、逆順で原作の『火星の人』を読み、『アルテミス』を読んでいます。『火星の人』は火星に取り残された科学者がいかに火星で生き残り救援を待つか、『アルテミス』は月在住の下層階級の壮大な企み、といった内容でしたが、この『プロジェクト・ヘイル・メアリー』では地球を救う壮大なプロジェクトを描き出そうと試みています。ただ、日本人からすれば「宇宙戦艦ヤマト」の焼直しに見えるかもしれません。というのは、ある日、太陽エネルギーがわずかながら減少をはじめ、気候変動や農作物への被害などにより、20年足らずで地球人口が半減するという予測も飛び出したりします。原因はアストロファージと名付けられた超小型の微生物が相対性理論的に太陽用エネルギーを吸収しているためであり、このアストロファージはエネルギー備蓄にはうってつけながら、地球が受け取る太陽エネルギーの減少をもたらすわけです。そして、このアストロファージに太陽をはじめとする多くの恒星が「感染」している中で、13光年先にあるタウ・セチは感染を免れており、そこに科学者を送り込んでタウ・セチの「免疫」について分析・情報収集し、地球に情報を送って太陽に「免疫」を与えて正常化させる、というものです。イスカンダルに送られる「宇宙戦艦ヤマト」そのものであり、ガミラスのデスラー総統からの攻撃こそないものの、本書では友好的かつ目的を同じくする地球外生命体と邂逅し、主人公と協力して母星にエネルギーを送り込む恒星を正常化させるべく努力します。この異星人もコミカルに描かれます。結論としては、タウメーバなる、これまた微生物がアストロファージを駆逐するカギとなります。そして、こういった太陽正常化の情報や技術が得られるのは、当然のように軽く想像され、地球にとってのハッピーエンドとなる一方で、主人公の処遇については驚愕のラストがあります。主人公がタウ・セチに送り込まれる経緯とともに、作者のひとひねりが利いた部分だと思います。私は恒星間飛行などの宇宙物理学についてはトンと不案内で、そういった部分がどこまで現実にできているのか、あるいは逆に、どこまでSFなのかはまったく理解できませんでしたが、とても面白いです。一気読みした感じです。本書の主人公は、『火星の人』を原作として映画化された「オデッセイ」で火星に取り残される主人公と、かなりの程度に重なる部分があります。すでに映画化が進んでいるようですが、「オデッセイ」で主役を演じたマット・デイモンではなく、ライアン・ゴズリングが主演だそうです。ご参考まで。

photo

最後に、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書) です。著者は、労働省・厚生労働省出身で、現在は国立研究機関で研究所の所長をしています。私も同じ国立研究機関に勤務していた経験があり、著者とも少しだけ勤務時期が重なっていたりします。ただし、著者と私に共通しているのは、ほかに、ソニーのウォークマンを愛用していることくらいかもしれません。ということで、タイトル通りにジョブ型雇用について、メディアで流れるさまざまな誤解を修正し、正しくジョブ型雇用、あるいは、ジョブ型雇用社会について解説しています。なお、ついでながら、現在、というか、高度成長期に確立された日本の雇用がメンバーシップ型と呼ばれる一方で、ジョブ型雇用を取り上げて両者を区別することを主張したのはまさに著者であり、この方面の第一人者といえます。ただし、本書の第1章でジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の基礎の基礎を展開した後、労働法に基づく訴訟の紹介が多くなり、やや私の専門分野からズレを生じてしまった気もします。ということで、私もかなりの程度に理解しているつもりですが、メンバーシップ型雇用というのは人に中心を置きます。現在の多くの企業でなされているように、新卒一括採用で人を確保した後、その人にジョブを割り当てることになります。工場が不況で操業を一時的に停止すれば、まあ、工場周辺の草むしりをしたりする場合もあるわけです。年功賃金が支払われて、長期雇用で定年まで勤め上げます。他方で、ジョブ型雇用ではジョブ=職を中心とした雇用となります。職に空き(vacancy)ができると職務記述書(job description)を明示して、それに従って資格や能力を持った人が採用され、能力や成果に応じた賃金が支払われて、その職が終了もしくは消失すると解雇されます。そして、経済界では多くの経営者が、メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への転換を主張しているように見えます。私の勤務する大学でも、就活パンフレットに「ジョブ型採用への対応」なんて用語が踊っていたりします。ですから、私も4回生演習なんかを持ったりしていますから、それなりの就活対応の必要性もあって、本書を読み始めています。でも、ジョブ型雇用に転換すると社会全体が、まさに、マルクス主義的な見方ながら、下部構造が上部構造に大きな影響を及ぼすように、我が国経済社会に大変換をもたらすような気がします。ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の違いはかなりよく判りましたし、授業などにも活かせそうな手応えを感じますが、ホントにジョブ型雇用を日本社会に普及させていいものかどうか、もう一度よく考える必要がありそうな気がします。ただ、現実として、すでに日本でもジョブ型の雇用システムが採用されている分野があります。医師の世界と大学教員の雇用です。私もその中に入ります。大学教員でいえば、どのような学位を持っていて、あるいは、その学位相当の能力があり、どのような分野の授業がどのような言語でできるか、を明示した採用となります。そして、その職務記述書に沿ったお給料となるハズなのですが、なぜか、私の勤務する大学では年功賃金が支払われています。少しだけ謎です。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧