2018年3月31日 (土)

今週の読書は印象的な経済書をはじめとして計6冊!

今週の読書は、オクスファム出身のエコノミストによる経済書をはじめとして、広い意味での歴史を解説した新書2冊を含めて計6冊を読みました。まあ、読書のボリュームとしてはいいセンではないかという気がします。

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まず、ケイト・ラワース『ドーナツ経済学が世界を救う』(河出書房新社) です。著者は英国の研究者であり、長らくオクスファムのエコノミストを務めていました。英語の原題は Doughnut Economics であり、邦訳タイトルはそのまんまです。2017年の出版です。極めて大胆に表現すれば、新しい経済学の構築を模索しています。先週の読書感想文で取り上げたユヌス教授のソーシャル・キャピタルに基づく経済学といい勝負で、基本的には、同じように貧困や不平等、あるいは、環境問題や途上国の経済開発などを視野に入れた新しい経済学だと言えます。それを視覚的にビジュアルに表現したのがドーナツであり、本書冒頭の p.18 に示されています。成長に指数関数を当てはめるのではなく、S字型のロジスティック曲線を適用し、ロストウ的な離陸をした経済は着陸もする、という考え方です。そして、現在の先進国はその着陸の準備段階という位置づけです。同時に、平均的な統計量としての成長ばかりではなく、分配にも目を配る必要があるというのが第7章でも主張されています。また、本書ではこういった視点を含めて7点の転換を主張しており、例えば、第3章では行動経済学や実験経済学、あるいは、ゲーム理論の成果も含めて、合理的な経済人から社会適用人への視点を変更した経済学を志向していたりします。とても素晴らしい視点の新しい経済学を目指しています。先週取り上げたユヌス教授の本とともに、私は2週連続で大きな感銘を受けました。

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次に、木内登英『金融政策の全論点』(東洋経済) です。著者は野村総研のエコノミストであり、本書の基となる公的活動としては、2012年から17年にかけて5年間、日銀政策委員を務めています。とても非凡なエコノミストなんですが、民主党内閣期に就任したものですから、その後の黒田総裁の下の日銀執行部の議案には反対する場面もあり、少し違った見方を示したような気がします。しかし、少なくとも私が認識している限り、公式のボード・ミーティングでは2%のインフレ目標に反対したのではなく、ごく初期の2年間での達成とか、その後の期限を切った目標達成に反対したのであって、いわゆる「拙速批判」ではあっても、2%のインフレ目標に反対したわけではないと受け止めています。本書は3部構成でタイトル通りの内容なんですが、いわゆる非伝統的金融政策、政府からの独立を含む日銀の役割、そして、ごく手短にフィンテックを取り上げています。私が強く疑問に感じたのは、日銀と金融政策をかなり国民生活や日本経済から遊離した観点を強調していることです。政府や内閣からの中央銀行の独立というのはインフレ抑制の観点から先進国では当然と考えるとしても、中央銀行や金融政策がその時々の国民生活や経済状況から無関係に運営されるはずはありません。しかし、本書の著者は、どうもその観点に近く、例えば、本書の著者に限りませんが、日銀財務についてバランスシートを膨らませ過ぎると債務超過に陥る、との指摘がなされる場合があるところ、こういった見方は国民生活や日本経済の実態から遊離した見方との批判は免れません。日銀財務の健全性と国民生活のどちらが重要なのか、もう一度考えてみるべきではないでしょうか。こういった日銀中心史観も、白川総裁時代で終了したと私は考えていたんですが、まだまだ大きな船が舵を切るには時間がかかるようです。

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次に、伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にはまるのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は著名な経営学者であり、一橋大学を退職してから国際大学学長を務めています。本書では、「戦略」というあいまいな表現ながら、何らかの企業行動を実行に移す際の落とし穴について論じています。第Ⅰ部が戦略を考え練り上げる際の思考プロセスの落とし穴、第Ⅱ部が戦略を実行する際の落とし穴、をそれぞれ論じています。具体的には、「ビジョンを描かず、現実ばかりを見る」、「不都合な真実を見ない」、「大きな真実が見えない」、「似て非なることを間違える」、「絞り込みが足りず、メリハリがない」、「事前の仕込みが足りない」などなど、落とし穴にはまるパターンとそれをどのように回避したり、リカバリしたりするかを解き明かそうと試みています。経営学の読み物としてはめずらしく、成功事例と失敗事例を割合とバランスよく取り上げています。でも、相変わらず、私の経営学不信の源のひとつなんですが、結果論で議論しているような気がします。基本はケーススタディですから、現実の事例をいかに解釈するかで勝負しているんですが、成功した例から成功の要因を引き出し、失敗事例からその要因を引き出そうとする限り、その逆はあり得ず、どこまで科学的な事例研究になっているかは私には計り知れません。すなわち、バックワードな研究になっていると考えざるを得ず、成功事例と同じ準備をしたところで、戦略が成功するかどうかは保証の限りではないような気がしなくもありません。

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次に、エミリー・ボイト『絶滅危惧種ビジネス』(原書房) です。著者は、米国のジャーナリストであり、サイエンス・ライターでもあります。本書の英語の原題は The Dragon behind the Glass であり、2016年の出版です。本書で著者はアロワナにまつわるビジネスを追跡するとともに、ハイコ・ブレハなる魚類を専門として前人未到の冒険をしている怪人物とともに、実際に特殊な野生のアロワナを求めて冒険に加わっています。その原資はピューリッツァー研修旅行奨学金だそうです。英語の原書のタイトルは、中国でアロワナを「龍魚」と称するところから由来しています。そして、邦訳本の表紙は、原書を踏襲して赤いアロワナをあしらったデザインとなっていますが、本書では「スーパーレッド」と呼ばれています。また、邦訳書の表紙では頭部が欠けていますが、本書を紹介しているNational Geographics のサイトでは、この真っ赤なアロワナの画像を見ることが出来ます。本書では、ワシントン条約で取引を禁止ないし制限された絶滅危惧種に指定されると、闇市場での取引価格が上昇し、むしろ、絶滅に至る可能性が高い、ないし、早まる、という仮説が提示されています。要するに、絶滅危惧種に指定されると希少性が広く認識されるため、価格が上昇するというメカニズムが発動する可能性は、確かにエコノミストでも否定しないだろうという気はします。そして、絶滅危惧種として指定されると、自然系に存在して、いわゆる野生の種は絶滅に向かう一方で、養殖の種が量産されて、世の中にはいっぱい出回る、と本書の著者は主張しています。そして、養殖の魚類と自然系の野生の魚類は、まったく違う生き物と認識すべきとも主張しています。すなわち、ダックスフントをツンドラに放り出すようなものであると表現しています。そして、本書では絶滅危惧種の魚を巡って犯罪行為が横行しているプロローグから始まって、本書の最終章のいくつかでは、冒険家とともに著者自身がアジアのアロワナを追っています。すなわち、ボルネオでスーパーレッドのアロワナを、政治体制も極めて閉鎖的なミャンマーでバティックアロワナをもとめ、ともに失敗した後、ブラジルのアマゾン川源流でシルバーアロワナを捕獲しています。そのあたりはサスペンス小説顔負けだったりします。

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次に、磯田道史『日本史の内幕』(中公新書) です。著者はメディアなどで人気の歴史研究者であり、今年のNHKの大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当しているらしいです。書物としては、私は映画化もされた『武士の家計簿』を読んだ記憶があります。また、別の著者ながら、中公新書では『応仁の乱』のヒットを飛ばすなど、日本史の類書が話題となっていて、私の大学時代の専攻は基本的に西欧経済史なんですが、まあ、歴史は好きですので読んでみました。サブタイトルは『戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』であり、著者が読み解いた古文書を手がかりに、主として、戦国時代に始まって織豊政権期から江戸幕府期、さらに、幕末期にかけての歴史のエピソードが60話以上収録されています。基本的に文学でいえば短編集であり、繰り返しになりますが、著者が読み込んだ古文書から日本史の裏側、というか、決して高校の教科書なんぞでは取り上げないようなトピックを選んで、なかなか興味深く仕立てあげています。

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最後に、小山慶太『<どんでん返し>の科学史』(中公新書) です。著者は早大出身の物理学系の研究者であり、本書のサブタイトル通りに、「蘇る錬金術、天動説、自然発生説」に加えて、不可秤量物質やエーテルなど、近代科学では一度否定されながら、何らかの意味で別の視点から復活した科学について取り上げています。一例として、本書の冒頭で取り上げられている錬金術については、近代科学の基礎を提供したといわれるほどの流行振りだったそうですが、まあ、「賢者の石」が空想的である限りにおいて、少なくとも化学的に混ぜたり熱したりという範囲では金は作り出せないことは科学的に明らかにされた一方で、原子レベルで電子と陽子と中性子を自由に操作できるのであれば金の元素は作り出せる可能性はあるわけで、ただ、市場価格と照らし合わせてペイしない、ということなんだろうと、科学のシロートである私なんぞは理解しています。別のトピックとしては、空間がエーテルで埋め尽くされている、という見方も、ダーク・エネルギーやダーク・マターに置き換えれば、決して的外れな主張ではなかったのかもしれません。アマゾンのレビューがとても高いのでご参考まで。

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2018年3月24日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計8冊!

先週はややセーブしたんですが、今週の読書は文庫本も含めて、とはいうものの、結局、計8冊に上りました。今日はすでに図書館を回り終え、来週はもう少しペースダウンして、5~6冊になりそうな予感です。

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まず、ムハマド・ユヌス『3つのゼロの世界』(早川書房) です。著者はバングラデシュの経済学者・実業家であり、グラミン銀行の創業者、また、グラミン銀行の業務であるマイクロクレジットの創始者として知られ、その功績により2006年にノーベル平和賞を受賞しています。英語の原題は A World of Three Zeros であり、邦訳タイトルはそのままで、2017年の出版です。上の表紙画像に見える通り、3つのゼロとは貧困ゼロ、失業ゼロ、CO2排出ゼロを示しています。そして、著者の従来からの主張の通り、ソーシャル・ビジネスの促進、雇われるばかりではなく自ら事業を立ち上げる起業家精神の発揚、そして、マイクロクレジットをはじめとする金融システムの再構築の3つのポイントからこの目標を目指すべきとしています。定義はあいまいながら、著者は資本主義はもう機能しなくなり始めているという認識です。経済学的には分配と配分は大きく違うと区別するんですが、資源配分に市場システムを用いるというのは社会主義の実験からしても妥当な結論と考えられる一方で、著者の指摘の通り、所得分配に資本主義的なシステムを適用するのは、もはや理由がないというべきです。そして、ここは私の理解と異なりますが、著者はやや敗北主義的に現在の先進国の政府では事実上リッチ層が支配的な役割を果たしており、政府による再分配機能は期待すべきではないと結論しています。「見えざる手は大金持ちをえこ贔屓する」ということです。ただ、政府に勤務していることもあって、私はまだ期待できる部分はたくさん残されていると考えています。そして、雇用されることではなく、自ら起業することによる所得の増加については、資本形成がかなりの程度に進んでしまった先進国ではそれほど一般的ではなく、途上国のごく一部の国にしか当てはまらない可能性があります。特に、私の専門分野である開発経済学においては、途上国経済における二重構造の解消こそが経済発展や成長の原動力となる可能性を明らかにしているんですが、マイクロクレジットによる小規模な企業では二重構造を固定化しかねず、農漁村などの生存部門から製造業や近代的な商業などの資本家部門への労働力のシフトがないならば、日本の1950~60年代の高度成長による形でのビッグ・プッシュが発生せず、途上国から抜け出せない可能性もありますし、いわゆる中所得の罠に陥る可能性も高くなるような気がします。ただ、マイクロクレジットとは関係なく、本書で指摘している論点のひとつであるソーシャル・ビジネス、すなわち、利己利益に基づく強欲の資本主義ではなく、隣人などへの思いやりの心に基づく非営利活動が経済の主体となれば、人類は資本主義の次の段階に進めるかもしれません。そして、本書が指摘するように、貧困と失業を最大限削減し、地球環境の保護に役立つことになるかもしれません。

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次に、北都光『英語の経済指標・情報の読み方』(アルク) です。著者はジャーナリストで、金融市場の情報に詳しいようです。出版社は英辞郎で有名なところです。ということで、本書では投資のプロがチェックしている海外の経済指標・経済情報の中で、いくつか金融市場に与える影響が特に大きいものをピックアップして、着目ポイント、読み解き方などをわかりやすく解説しています。基本的に、データの解説なんですが、中央銀行の金融政策決定会合の後の総裁の発言なども取り上げています。具体的には、第2章の基礎編にて、米国雇用統計、米国ISM製造業景況指数、CMEグループFedウオッチ、ボラティリティー・インデックス(VIX)、経済政策不確実性指数、米国商品先物取引委員会(CFTC)建玉明細報告、のほかに、一般的なデータのありかとして、米国エネルギー情報局(EIA)統計、国際通貨基金(IMF)の各種データ、経済協力開発機構(OECD)景気先行指数(CLI)、欧州連合(EU)統計局のデータを取り上げています。エネルギー関係のデータなどについては私も詳しくなく、なかなかの充実ぶりだと受け止めています。さらに、第3章の応用編では投資に役立つ英語情報の活用法として、要人発言を含めて、データだけでない英語情報の活用を解説しています。最終章では英語の関連する単語リストを収録しています。誠にお恥ずかしいお話しながら、commercialが実需であるとは、私は知りませんでした。これは英辞郎を見ても出て来ません。なお、私が数年前に大学教員として出向していた際にも、実際の経済指標に触れるために2年生対象の小規模授業、基礎ゼミといった記憶がありますが、その小規模授業にて日本の経済指標を関連嘲笑や日銀などのサイトからダウンロードしてエクセルでグラフを書くという授業を実施していました。日本ですから、GDP統計や鉱工業生産指数や失業率などの雇用統計、貿易統計に消費者物価にソフトデータの代表として日銀短観などが対象です。20人ほどの授業だったんですが、理由は不明ながらデータのダウンロードにものすごく時間がかかるケースがあって往生した記憶があります。

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次に、中村吉明『AIが変えるクルマの未来』(NTT出版) です。著者は工学関係専門の経済産業省出身ながら、現在は専修大学経済学部の研究者をしています。本書のテーマであるAIによる自動運転で自動車産業が、あるいは、ひいては、日本の産業構造がどのように変化するかについて論じた本はかなり出ているんですtが、本書の特徴は、自動運転車で人や物を運ぶ方法のひとつとして、乗り物をシェアするUberなどのシェアリング・エコノミーを視野に入れている点です。もっとも、だからといって、特に何がどうだというわけではありません。今週、米国でUberの自動運転中に死亡事故があったと報じられていましたが、自動車の運行については、私もそう遠くない将来に自動運転が実用化されることはほぼほぼ間違いないと考えていて、ただ、自分で自動車を運転したい、まあ、スポーツ運転のようなことが好きな向きにはどうすればいいのだろうかと思わないでもなかったんですが、本書の著者は乗馬の現状についてと同じ理解をしており、日本の現時点での公道で乗馬をしていないのと同じ理由で、自動運転時代になれば自動車の運転をするスポーツ運転は行動ではなく、まあ、現時点でいうところの乗馬場のようなところでやるようになる、と指摘しており、なるほどと思ってしまいました。また、将来の時点で自動運転される自動車は、現時点での自家用車のような使い方をされるのではなく、鉄道化すると本書では主張していますが、まあ、バスなんでしょうね。決まったところを回るかどうかはともかく、外国では乗り合いタクシーはめずらしくないので、私にはそれなりの経験があったりします。また、政府の役割として、規制緩和はいうまでもなく、妙に重複投資を避けるような調整努力はするべきではなく、むしろ、重複投資を恐れずにバンバン開発研究を各社で進めるべし、というのも、かつての通産官僚や経産官僚にはない視点だという気がしました。最後に、特に目新しい点がてんこ盛りとも思いませんので、自動運転の論考は読み飽きたという向きにはパスするのも一案かと思います。

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次に、マイケル・ファベイ『米中海戦はもう始まっている』(文藝春秋) です。著者は長らく米軍や米国国防総省を取材してきたベテランのジャーナリストであり、特に上の表紙画像に示された中国軍との接近事件などを経験した米軍関係者らにインタビューを基に本書を構成しています。英語の原題は Crashback であり、「全力後進」を意味する海洋船舶用語から取っており、米国のミサイル巡洋艦カウペンスが中国の空母・遼寧に接近した際に、間を割って入った中国海軍の軍艦との衝突を避けるためにとった回避行動を指しています。原書は2017年の出版です。ということで、上の表紙画像にも見られるように、中国海軍の戦力の拡充に対し、米国のオバマ政権期の対中国融和策について批判的な視点から本書は書かれています。本書冒頭では、かつての米ソの冷戦に対して、現在の米中は「温かい戦争」と呼び、米ソ間の冷戦よりも「熱い戦争」に近い、との認識を示しているかのようです。ただし、オバマ政権期であっても米国海軍の中にハリス大将のような対中強硬派もいましたし、それほどコトは単純ではないような気がします。中国が経済力をはじめとする総合的な国力の伸長を背景に、南シナ海などの島しょ部の占有占領を開始し、中には小規模ながら東南アジア諸国軍隊と武力衝突を生じた例もありますし、その結果、中国軍の基地が建設されたものもあります。もちろん、米国政府や米軍も黙って見ていたわけでもなく、カウペンスの作戦行動をはじめとして、中国海軍へのけん制を超えるような作戦行動を取っているようです。ただ、私は専門外なのでよく判らないながら、日米両国は中国に対して国際法を遵守して武力でなく対話による紛争解決など、自由と民主主義に基づく先進国では当たり前の常識的な対応を期待しているわけですが、平気で虚偽を申し立てて、あくまで自国の勝手な行動をダブル・スタンダードで世界に認めさせようとする中国の軍事力が巨大なものとなるのは恐怖としか言いようがありません。加えて、戦力的には現時点での伸び率を単純に将来に向かって延ばすと、陸軍では言うに及ばず、海軍であっても米軍の戦力を中国が超える可能性があります。そして、この観点、すなわち、覇権国の交代に際してのツキディデスの罠の観点がスッポリと本書では抜け落ちているような気がします。単純に狭い視野でハードの軍事力とソフトの政権の姿勢だけを米中2国で並べているだけでは見落とす可能性があって怖い気がします。加えて、日本の自衛隊にはホンのチョッピリにしても言及があるんですが、北朝鮮はほとんど無視されており、まあ、海軍力という観点では仕方ないのかもしれませんが、日本や韓国を含めた周辺国への影響についてはとても軽視されているような気がします。

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次に、森正人『「親米」日本の誕生』(角川選書) です。著者は地理学研究者であり、同じ角川選書から出ている『戦争と広告』は私も読んだ記憶があります。本書では、終戦とともにいわゆる「鬼畜米英」から、「マッカーサー万歳」に大きく転換した日本の米国観について論じているものだと期待して読み始めたですが、やや期待外れ、というか、ほとんど戦後日本のサブカルチャーの解説、特に、いかに米国のサブカルチャーを受け入れて来たか、の歴史的な論考に終わっています。ですから、対米従属的な視点もまったくなく、講座派的な二段階革命論とも無関係です。要は、終戦時に圧倒的な物量、経済力も含めた米国の戦争遂行力の前に、まったく無力だった我が国の精神論を放擲して、その物質的な豊かさを国民が求めた、という歴史的事実が重要であり、進駐軍兵士から子どもたちがもらうチョコレートやガムなどの物質的な豊かさに加えて、社会のシステムとして自由と民主主義や人権尊重などを基礎とした日本社会の再構築が行われた過程を、それなりに跡付けています。ただし、繰り返しになりますが、音楽はともかく、美術や文学やといったハイカルチャーではなく、広く消費文化と呼ばれる視点です。すなわち、洋装の普及に象徴されるようなファッション、高度成長期に三種の神器とか、そののちに3Cと称された耐久消費財の購入と利用、そして、特に家事家電の普及や住宅の変化、米国化とまではいわないとしても、旧来の日本的な家屋からの変化による女性の家庭からの解放、などに焦点が当てられています。ただ、私の理解がはかどらなかったのは、米国化や米国文化の受容の裏側に、著者が日本人のひそかな反発、すなわち、米国に対する愛憎半ばするような複雑な感情を見出している点です。それは戦争に負けたから、というよりは、米国的なものと日本的なものとを対比させ、例えば、自動車大国だった米国を超えるような自動車を作り出す日本の原動力のように評価しているのは、私にはまったく理解できませんでした。そこに、戦前的な精神性を見出すのは本書の趣旨として矛盾しているような気がするのは私だけでしょうか。

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次に、佐藤彰宣『スポーツ雑誌のメディア史』(勉誠出版) です。著者は立命館大学の社会学の研究者です。そして、本書は著者の博士論文であり、ベースボール・マガジン社とその社長であった池田恒雄に焦点を当てて、その教養主義を戦後の雑誌の歴史からひも解いています。ほぼほぼ学術書と考えるべきです。なお、雑誌としての『ベースボール・マガジン』は1946年の創刊であり、まさに終戦直後の発行といえます。その前段階として、野球という競技・スポーツが、戦時中においては米国発祥の敵性スポーツとして極めて冷遇された反動で、戦後の米軍進駐の下で、価値観が大転換して、米国の自由と民主主義を象徴するスポーツとして脚光を浴びた歴史的な背景があります。他方、メディアとしての雑誌媒体は、新聞がその代表となる日刊紙に比べて発行頻度は低く、週刊誌か月刊誌になるわけですが、戦後、ラジオに次いでテレビが普及し、リアルタイムのメディアに事実としての速報性にはかなわないわけですから、キチンとした取材に基づく解説記事などの付加価値で勝負せざるを得ないわけで、その取材のあり方にまで本書では目が届いておらず、単に誌面だけを見た後付けの解釈となっているきらいは否めません。でも、スポーツを勝ち負けに還元した競技として捉えるのではなく、その精神性などは戦時中と同じ地平にたった解釈ではなかろうかと私は考えるんですが、著者はよりポジティブに教養主義の観点から雑誌文化を位置づけています。スポーツは、究極のところ、いわゆるサブカルチャーであり、美術・文学・音楽といったハイカルチャーではないと考えるべきですが、競技である限り、スター選手の存在は無視できず、相撲でいえば大鵬、野球でいえば長島、らがそれぞれ本書では取り上げられて注目されていますが、他方で、マイナーなスポーツとして位置づけられているサッカーでは釜本の存在が本書では無視されています。少し疑問に感じます。でも、ひとつの戦後史として野球雑誌に着目した視点は秀逸であり、サッカーなんぞよりは断然野球に関心高い私のような古きパターンのスポーツファンには見逃せない論考ではないかと思います。

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最後に、アンディ・ウィアー『アルテミス』上下(ハヤカワ文庫) です。著者は新々のSF作家であり、本書は何とまだ第2作です。そして、第1作は『火星の人』Martian です。といっても判りにくいんですが、数年前に映画化され、アカデミー賞で7部門にノミネートされた「オデッセイ」の原作であり、本書もすでに20世紀フォックスが映画化の権利を取得しています。実は、私はそれなりの読書家であり、原作を読んだ後に映画を見る、という順番のパターンが圧倒的に多いんですが、原作『火星の人』と映画「オデッセイ」については逆になりました。私の記憶が正しければ、ロードショーの映画館で見たのではなく、「オデッセイ」は飛行機の機内で見たんですが、とても面白かったので文庫本で読みました。そして、最近、本屋さんで見かけたんですが、『火星の人』の文庫本の表紙は映画主演のマット・デイモンの宇宙服を着た顔のアップに差し替えられています。大昔、私が中学生だか高校生だったころ、『グレート・ギャッツビー』が映画化により映画のタイトルである『華麗なるギャッツビー』に差し替えられ、主演のロバート・レッドフォードとミア・ファローの写真の表紙に差し替えられたのを思い出してしまいました。それはともかく、本書の舞台はケニアが開発した月面コミュニティです。その名をアルテミスといい、それが本書のタイトルになっています。直径500メートルのスペースに建造された5つのドームに2000人の住民が生活しており、主として観光業で収入を得ています。もちろん、本書冒頭にありますが、超リッチな人が移住したりもしていて、例えば、足が不自由な人が重力が地球の⅙の月面で、地球より自由な行動を取れることをメリットに感じる、などの場合もあるようです。ただ、この月面都市でもリッチな観光客やさらに超リッチな住民だけでなく、そういった人々をお世話する労働者階級は必要なわけで、主人公は合法・非合法の品物を運ぶポーターとして暮らす20代半ばの女性です。本人称するところのケチな犯罪者まがいの女性なんですが、月面で観光以外に活動している数少ない大企業のひとつであるアルミ精錬会社の破壊工作を行うことを請け負います。でも、月面の資源を基にアルミと副産物である酸素とガラス原料のケイ素を産するプラントの爆破を実行するんですが、実は、この破壊工作にはウラがあって、前作の『火星の人』と同じように、月面都市や天下国家を巻き込んだ大きなお話し、というか、陰謀論に展開して行きます。相変わらず、というか、前作の『火星の人』と同じように、少なくとも私のようなシロートには大いなる説得力ある綿密な化学的バックグラウンドが示され、キャラの設定も自然で共感でき、クライム・サスペンスとしてのスピード感も十分です。映画化されたら、私は見に行きそうな気がします。

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2018年3月11日 (日)

先週の読書は経済書や小説も含めてまたまた計9冊!

昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書感想文は先週分になってしまいました。読書日が1日多かったこともあり、先々週に続いて先週も9冊を読み切ってしまいました。2週連続で9冊の読書感想文というのは、やや異常の域に入るかもしれません。ということで、経済書や安全保障・危機管理などに関する教養書に加えて、小説まで含めて以下の通りの計9冊です。この週末は昨日に図書館を自転車で回りましたが、さすがに今週は3週連続で9冊とはならず、いくぶんなりとも読書のペースダウンが図られそうです。

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まず、ジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』(白水社) です。著者は米国ハーバード大学の労働経済学者であり、専門は移民の経済学です。本書は2015年にハーバード大学出版局から刊行されたテキスト Immigration Economics に続いて、一般向けに手ごろな分量でシンプルで率直な刊行物として2016年に出版された We Wanted Workers の邦訳です。前者のテキストは未訳ではないかと思います。なお、英語の原所のタイトルは、本書でも出て来る "We wanted workers, but we got poeple instead." すなわち、「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった。」というスイスの作家フリッシュの発言に由来しています。ということで、我が国でもそうですが、企業経営者が声高に人口減少に対抗する手段として移民の必要性を強調するのは、安価な労働者としてなんでしょうが、実は、社会保障の対象となったり、あるいは、本人だけではなく子弟が教育の対象となったりするという意味も含めて、実は、生身の人間がやって来るわけです。もちろん、生活や文化もいっしょですから、話は逸れますが、隣国に人口規模という意味で超大国が控えている日本においては、私は移民には反対しているわけです。数百万人単位で生身の人間が隣国の人口超大国から移住してくれば、「安価な労働者」の範疇を大きく超える日本社会へのインパクトになることはいうまでもありません。本書の書評に戻って、本書の著者は、米国における移民の経済効果を極めて率直かつドライに定量的に評価しています。すなわち、例えば高度技能を持った移民が現在の国民と補完的な役割を果たせれば、お互いにウィン-ウィンの関係を結べる可能性があるものの、移民と同じ、というか、代替的な技能を持つクラスの国民に対しては賃金引き下げ要因となり、その結果、5000億ドルの所得移転が労働者から企業にる、と結論し、「移民とは単なる富の再配分政策」と指摘しています。日本でも同じだろうと私は受け止めています。そして、ある意味で、あらゆる手段を駆使して移民が我々全員にとっていいことだとの証明を試みたコリアー教授を批判的に紹介しています。まあ、自由貿易もそうですが、すべての国民にプラスということはあり得ません。トータルでプラスなので、何らかの所得補償を実施すれば、という前提の下で自由貿易も国民のマクロの厚生にプラス、ということなんだろうと思いますし、移民も同じと考えるべきです。ただ、これらの計量的な結果をもってしても、12歳で母親とともにキューバから移民して来た著者は移民に対する暖かい眼差しを忘れません。欧米でポピュリズムが台頭し、排外的な思想の下で移民に対する見方がネガティブに傾く中で、しっかりと基本を押さえている経済書・教養書だと思います。

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次に、木内登英『異次元緩和の真実』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研・野村證券のエコノミストであり、2012年から5年間日銀の政策委員会の審議委員を務めています。そして、少なくとも任期後半、特にマイナス金利の実施以降は日銀執行部の議案に反対を続けて来たような印象があります。まあ、私のような部外者が見ていて、民主党内閣で任命されたので、アベノミクスに経済政策が大きくレジーム・チェンジしても、最後まで任命してくれた民主党に義理を感じ続けたんだろうか、という気もしなくもなかったんですが、本書を読んで認識の間違いに気づきました。というのは、以前から何となく雰囲気で理解していたつもりなんですが、やはり、マイナス金利については金融機関、特に銀行出身者にはとても過酷な政策に見えるようです。要するに、金融機関の収益を収奪しているような見方が主流のようです。しかも、本書でも指摘しているように、そのころの日銀執行部、というか、黒田総裁は金融政策当局と市場の対話については重視せず、むしろ、サプライズの方が政策効果が上がると見ていたフシもあり、その唐突な登場とともにマイナス金利がいかに金融機関の収益を圧迫するがゆえに忌み嫌われているのか、を改めて強く実感しました。加えて、イールドカーブ・コントロール(YCC)も同じように長期の利ザヤを稼ぐ機会を奪うことから金融機関に嫌われており、本書の著者は強く反対しています。その昔の旧法下では、総裁などの執行部のほかに、都銀・地銀・商工業・農業代表、などと出身のグループが明らかでしたが、現在もほのかに透けて見えるものの、出身母体の利益を代表するポジション・トークではなく、もう少し国民経済の観点からの議論をお願いしたいものだという気もします。加えて、日銀財務の健全性を相変わらず強調し、言うに事欠いて、日銀が物価の安定という本来のマンデーとよりも日銀財務の方のプライオリティが高いと見えかねない行動を取れば、円通貨に対する信認が失墜する可能性を示唆し、まさに、そのように日銀に行動させようと考えている著者の見方は何だろうかと不審を持ってしまいます。さすがに、ハイパー・インフレの可能性こそ言及されていませんが、旧来の日銀理論も随所にちりばめられており、かなり批判的な読書が必要とされそうです。

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次に、肖敏捷『中国 新たな経済大革命』(日本経済新聞出版社) です。著者はSMBC日興証券のエコノミストであり、中国経済を分析するリポートを配信しています。昨年の党大会にて「核心」となり、着々と権力の一極集中を測り、本書によれば毛沢東以来の権力者と見なされつつある習近平主席について、本書の著者の見立てによれば、反腐敗などによる権力闘争はほぼ終了し、経済の軸足を移行しつつある、と分析されています。しかも、それまでの成長一辺倒、というか、雇用の拡大による量的な民政安定から、分配を通じた安定化の方向に転換を図ろうとしている、ということのようです。私は中国経済の専門家ではありませんし、それほど中国経済をフォローしているわけでないんですが、本書の著者も指摘している通り、中国においては政策運営は、経済中心ではなくあくまで政治が主導し、共産党がすべての指導原理となっている、と私は認識しており、従って、私のようなエコノミストの目から見て、経済合理性に欠ける政策運営も辞さない政治的な圧力というものがあるんだろうと想像して来ましたが、他方で、経済的には別の動きがあるのかもしれません。それにしても、中国に限らず、アジアの多くの国は雁行形態論ではないんですが、やっぱり、日本の後を着実に追っている気がします。例えば、現在の我が国の若者などがインバウンドの中国人旅行者のマナーの悪さを指摘したりしますが、実は、1985年のプラザ合意後に大きく円高が進んで円通貨の購買力が高まって海外で買い物に走った日本人も30年ほど前には同じような視点で欧米先進国の国民から見られていたんではないか、という気もします。加えて、日本で高度成長が終了した1970年代前半と同じような経済状況が現在の中国にもありそうな気がします。その意味で、何と、本書ではまったく出世しない私が、現在は日銀審議委員まで出世されたエコノミストと共著で書いた学術論文「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」を大きくフィーチャーして引用(pp.86-87)していただいているのは誠に有り難い限りです。昨年、私自身が所属する国際開発学会で学会発表した最新の学術論文 "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" ももっと売れて欲しいと願っています。

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次に、佐藤雅彦・菅俊一・高橋秀明『行動経済学まんが ヘンテコノミクス』(マガジンハウス) です。タイトル通り、昨年のノーベル経済学賞を授賞されたセイラー教授の授賞理由である話題の行動経済学をテーマにし、まんがで伝統的な経済学の前提するような合理性をもたない「ヘンテコ」な人間の経済活動を解説したベストセラーです。まんがは23話に上り、なかなかよく出来ている気がします。そして、まんがを終えて最後のパートに出て来るグラフはとても有名なツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論のS字形のグラフです。我が家がジャカルタにいた2002年にカーネマン教授がノーベル経済学賞を授賞された功績の大きな部分をなしている理論です。フレーミング効果アンカリング効果、おとり効果など、おそらくは実際のマーケティングに大いに活用されている行動経済学の原理を分かりやすく解説していますが、ホントに合理的な経済活動を実践している人には不思議に思えるかもしれません。例えば、私の所属する研究所では忘年会にビンゴをするんですが、私は毎年のようにビンゴのシートを始まる前に交換を申し入れます。すると、ビンゴが始まる前ですから、各シートはすべて確率的に無差別のハズなんですが、一度配布されて自分のものとなったシートを交換に応じてくれる人はとても少数派です。たぶん、80%くらいの圧倒的多数はビンゴのシートの好感には応じません。また、第1話の最後のページの解説に国民栄誉賞の授賞が決定したイチロー選手が辞退したニュースが取り上げられていて、報酬が動機を阻害するアンダーマイニング効果として紹介されていますが、本書でも取り上げられているハロー効果=後光効果の一例として、リンドバーグを上げることが出来ます。ロックバンドのリンドバーグではなく、「翼よ、あれがパリの灯だ」の大西洋横断飛行に成功したリンドバーグです。私の小学生か中学生のころの1970年代前半に米国がベトナム戦争の中で、いわゆる北爆=北ベトナムへの空爆を強化するとの方針が明らかにされたことがあり、何と、中身はすっかり忘れてしまいましたが、リンドバーグが何かコメントしていました。新聞で見かけたような気がします。大西洋横断飛行を成功させたのが1927年で、その45年ほど後にも飛行機にまつわる話題の専門家としてコメントしていたのだと想像しています。イチローとりがって、若くして偉業を成し遂げて、その後忘れ去られていたのではないか、という気もします。

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次に、森本敏・浜谷英博『国家の危機管理』(海竜社) です。著者は防衛大臣も務めた安全保障の専門家と同じく安全保障や危機管理を専門とする研究者です。冒頭で、日本語の危機管理のうちの「危機」が英語のcrisisなのか、risukなのか、あるいは、「管理」がcontrolなのか、managementなのか、から始まって、いわゆる他国との武力衝突めいた安全保障だけでなく、テロ活動はもちろん、震災や津波などの自然災害なども含む幅広い危機を対象とし、さらに、管理の方でも事後的な後始末めいた活動だけではなく、発生を予防したり、あるいは、災害などで減災と呼ばれる方向、もちろん、情報収集活動も含めた幅広い活動を取り上げています。一般に、リスクが進行したり拡大したりしてクライシスになるんだということのようですが、経済分野ではその昔のナイト流の危険の分布が既知のリスクと不明な不確実性に分ける方法もありますし、また、明らかにクライシスの分類に入りそうなのに「システミック・リスク」と呼ばれるものもあります。ということで、私は大きく専門外ながら、本書でいえば第3章後半のISILによるテロ活動とか、第4章の原発事故や北朝鮮の核開発などが読ませどころかという気がします。私の認識している北朝鮮との軍事衝突シナリオと、ほぼほぼ同様の見方が本書でも提供されている気がしました。米国や韓国が先制攻撃するとすれば、一瞬で戦闘を終わらせて北朝鮮を制圧しなければ、国境を接する中国と韓国に戦闘が広がることはないとしても、難民が流れ込むなどが生じたりしますし、逆に、北朝鮮としてはとてもではないが米国とそれなりの黄な戦闘行為を継続するだけの能力はない、といったところではないかと思います。また、自然災害にほぼ絞られるんですが、米国のFEMAにならったREMAなる緊急対応組織を日本にも設置するような提案がなされています。私は危機対応における私権制限が気がかりだったんですが、本書では極めてアッサリと、道路では日常的に私権が制限されている、と指摘して緊急の危機時に私権が制限されるのは当然、という見方のようです。でも、一般道におけるスピード制限とか、信号によるゴー&ストップ規制が私権制限とは、私には考えられないんですが、いかがなものでしょうか。

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次に、古川勝久『北朝鮮 核の資金源』(新潮社) です。著者はどういう人か知らないんですが、本書との関係では、国連安全保障理事会・北朝鮮制裁委員会の専門家パネルの委員経験者です。2016年4月まで4年半の国連勤務だそうです。ということで、日米韓を先頭に独自制裁も含めて、厳しい国連の経済制裁を受けながらも、私のようなシロートにも北朝鮮は着々と核ミサイルの技術力を向上させているように見えるんですが、どういったカラクリで輸出を実行して外貨を資金調達し、同時に、国内で入手困難な開発必需品を輸入しているのか、それを明らかにしようという試みが本書に結実しています。要するに、いかに北朝鮮が制裁をかいくぐって、あるいは、他国からお目こぼしを受けているかを取りまとめています。例えば、お目こぼしをしている主要な大国として中国とロシアが上げられますが、中国の林業用トラックが北朝鮮に輸出されてミサイル運搬に使われていたりする一方で、輸出した中国企業の方では、軍事転用しないと一札取っているのでOKなんだ、と言い張ったりするわけです。ただ、似たような話は昔からあって、例えば、日本に寄港する米国の軍艦などが核兵器を搭載しているのではないか、という野党の追求に対して、非核三原則を堅持している日本への核兵器の持ち込みだったか、安保条約の事前協議に対象だったか、私はすっかり忘れましたが、日本へ核兵器を持ち込むに際しては米国からの事前協議があるハズであり、その事前協議がないので核持ち込みはない、と政府は強弁していたわけです。私が役所に入った1980年代前半なんてそんなもんでした。そして、世界でもっとも北朝鮮に厳しく対応している我が国でさえ、霞が関の官僚のサボタージュに近い対応により、抜け穴がいっぱいあったりします。例えば、日本には船舶を資産凍結する法律がない、と本書の著者は指摘しています。もっとも、パチンコ資金が北朝鮮に流れているんではないか、という伝統的な見方は本書では取り上げられていませんでした。我が国以外のアジア諸国では、ひとつの中国政策により、国として認められていない台湾はダダ漏れのようですし、東南アジアも決して効果的な政策を採用しているわけではありません。アジア以外でも、中南米もワキが甘いと指摘されていますし、欧州大国でも縄張り争いなどにより、決して効率的に制裁が実行されているわけではありません。もちろん、国連の査察でも、本書にある通り、それほど強力なものではありません。何となく、私のようなシロートは、大柄で重武装した米兵がドアを蹴破ってどこでも入り込み、銃を構えているところに国連職員が乗り込んで、洗いざらい書類や証拠品を持ち去るイメージだったんですが、あくまで当事国の合意ベースの査察のようです。ともかく、やや誇張が含まれていそうな気がしないでもないんですが、私のようなシロートが知らないイベントやエピソードが山盛りです。しかも、ノンフィクションとしてとてもよく書けています。ある意味で、エンタメとしても面白く読めたりもします。

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次に、万城目学『パーマネント神喜劇』(新潮社) です。著者はご存じ売れっ子のエンタメ小説化であり、我が母校京都大学の後輩だったりもします。ですから、大阪などの関西方面を中心にご活躍と思います。本書は、名も知られぬ縁結びの神社の神様を主人公に、コミカルでありながらも心温まるストーリーの短編を4話収録しています。主人公やその仲間の怪しげな神様が、いかにも神様らしく時間を停止させて対象者に語りかけ、願いを成就させるわけで、男女間の恋愛がうまく行ったり、作家として新人賞を受賞して文壇デビューしたり、オーディションに合格してドラマや映画に出演したり、などといった夢を見させてくれるという形で、いわば神頼みのエンタメ小説です。ただ、神様が何から何まですべてをアレンジしてくれるわけでもなく、まあ、行動経済学のセイラー教授的な用語を用いれば、そっと肩を押すナッジのような役割を果たしています。もっとも、本書ではもっと現実的に2度発言することにより、行動を根本から変える言霊を神様が打ち込むことにより願い事が実現の方向に向かいます。第1話「はじめの一歩」では、付き合って5年も経つのに一向に進展しない同期入社カップルの話、第2話「当たり屋」では、神さまが神宝の袋にストックしていた言霊の源7コが当たり屋の男に届き、いろいろと当たりまくりながらも男がまっとうな仕事につく話、第3話「トシ&シュン」では、作家志望の男と女優志望の女のカップルが主役でともに神様の力で成功する夢を見る話、そして、第4話の表題作では地震がテーマとなり、東北大地震なのか、熊本地震なのかは私にはハッキリしませんでしたが、正面切って「地震をなくして欲しい」という願い事が神様に届けられながらも、地震で神社の神木は折れ、お調子者の神もただ沈黙する状況下で、神と人と自然の力が一体となり小さな奇跡が起こる話、の4話構成です。基本的に、この作家本来の、といってもいいですし、関西風の、と表現もできますが、コミカルで軽妙なストーリー展開や豊かな表現力の中に、ある意味で、シリアスで人生や自然というものを考えさせられる短篇集です。なかなか出来のいい小説で、私はほぼ一気読みしてしまいました。

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次に、柚月裕子『盤上の向日葵』(中央公論新社) です。著者は売れっ子のミステリ作家であり、私は堅持を主人公にした佐方貞人シリーズの短編が好きなんですが、長編小説で何度か直木賞の候補に上がったこともあると記憶しています。長編でも、刑事を主人公にしたミステリを何冊か読んだことがあり、この作品もそうです。平成6年が舞台ですから、まだっさいたま市になる前の大宮市の山中で発見された遺体が一式数百万円の値がつく高価かつ貴重な将棋の駒を持っていたことから、この名駒の所有者を探して埼玉県警でも指折りの名刑事が、何と、奨励会出身ながら年齢制限でプロ棋士になり損ねた刑事と組んで捜査に乗り出します。私の場合、このあたりから早々に現実感覚が失われていった気がします。そして、章ごとに、平成6年の本書の舞台となっている時点での将棋のタイトル戦の挑戦者のパーソナル・ヒストリーが明らかにされて行きます。すなわち、小学生3年生の時点で母親を亡くし、父親から虐待を繰り返される中で、定年退職した教師による将棋の手ほどきや生活面での支援があり、天才的な頭脳を有する高IQ児でもあることから、東大から外資系企業に就職し、すぐに独立起業して億万長者となった後に、今度は将棋の世界では破格の進撃からプロ棋士となり、そして、本書の舞台である平成6年の時点で将棋界でもっとも栄誉あるタイトルに挑戦するまでの半生です。ただ、埼玉県警の名駒を追った捜査とこの棋士のパーソナル・ヒストリーの構成がとても雑で、埼玉県警の捜査の方は1年くらいの期間である一方で、棋士のパーソナル・ヒストリーはラクに25年を超えるわけですし、その上に、無駄に長くて、しかもしかもで、ほとんどあり得ないパーソナル・ヒストリーなものですから、とても読みにくくて少し落胆も覚えてしまいました。将棋の棋譜については、私はまったくのシロートなんですが、面白く読む上級者もいそうな気がします。この作品の作者はだんだんと作品のボリュームが増えて行くような気がしてならないんですが、それが単なる冗長に堕しているように私には見えます。繰り返しになりますが、検事を主人公とした短編シリーズが、ある意味で、この作品の作者の代表作だという気もします。

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最後に、福田慎一『21世紀の長期停滞論』(平凡社新書) です。著者は東大経済学部でマクロ経済学を担当する教授であり、マクロ経済に関して我が国を代表するエコノミストの1人といえます。ただ、私の目から見て、例えば、先日3月7日付けの日経新聞の経済教室の寄稿のように、やや経済の構造面、中長期的な側面を重視する傾向がありそうで、それゆえに、人口減少を過大に重視し、逆に、数年くらいのスパンで運営される金融政策の効果を軽視しているような気もします。ということで、こういった福田先生のマクロ経済学説に対する私の見方を強めこそすれ、改めようという気にはさらさらなれない本です。通常、日本のみならず米国や欧州も含めた広範な先進国において21世紀型の長期停滞とは、サマーズ教授のいい出した secular stagnation であり、本来の実力より低いGDP水準に加えて低インフレと低金利の状態が長期に渡って続くという特徴を持ちます。そして、その原因は需要不足ないし供給過剰にあると世界的なエコノミストが多く指摘しているところなんですが、著者の福田先生は、日本では、というか、日本に限って、2013年のアベノミクス以降、雇用関連など力強い経済指標は存在するが、賃金の上昇は限定的で物価上昇の足取りも依然として重い上に、構造的に少子高齢化や財政赤字の拡大などの成長を促進するとは思えない要員が目白押しであり、日本では需要不足や供給過剰への対応、要するに、需給ギャップ対策の経済政策ではなく、構造改革こそが必要だと主張します。ですから、アベノミクスのような従来からあるケインズ型の需要喚起策では不十分であり、人口減少に対応する移民受け入れ策を検討すべき、となります。なんだか、やっぱりね、という既視感に襲われます。裁量労働制の拡大による絶対的剰余価値の生産は、ようやく働き方改革法案から削除されましたが、経営側はどうしても安価な労働力が必要と考えているようです。今週の読書感想文の最初に取り上げたボージャス教授の『移民の政治経済学』に実に適確に示されているように、移民の拡大は労働者から企業への所得分配を促進しますので、我が国で移民を受け入れれば、今以上に労働分配率は低下し、企業の内部留保は積み上がります。そうではありません。現在の景気回復・拡大が実感を伴わずに、力強さに欠けると認識されているのは、企業が内部留保を溜め込んで労働者に分配せず、賃金が上がらず消費も増やせないことに起因しています。移民受け入れはまったく逆効果の政策対応であり、企業サイドの党派的、もしくか、階級的な要求事項だということを認識すべきと私は考えています。

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2018年3月 3日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとしてとうとう9冊読んでしまう!

先週末はいろいろと図書館を回って、かなり集めに集めてしまい、こういうめぐり合わせもあるのかと思うほど予約の本を引き取ってしまいました。結局、各種の読書を合わせて計9冊でした。以下の通りです。

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まず、清田耕造・神事直人『実証から学ぶ国際経済』(有斐閣) です。著者は慶応大学と京都大学の国際経済学を専門とする研究者です。なぜか、私は母校の京都大学の神事教授ではなく、東京にあるという理由だという気もしますが、慶応大学の清田教授と面識があったりします。ということで、かなり標準的な国際経済学の理論モデルと実証について、ヘクシャー・オリーンの要素均等化定理から始まって、とても幅広くサーベイしています。本書では著者が国際経済に関して独自に実証研究をした結果を示している、というわけではなく、定評あるジャーナルなどから実証研究の結果をサーベイしているわけです。最初の方は、ヘクシャー・オリーン定理に基づいて貿易を決定する要因を分析したモデルの実証結果を示し、続いて、クルーグマン教授のまさにノーベル経済学賞の受賞理由となった差別化と規模の経済に基礎を置く産業内の水平貿易の理論モデルと実証を示し、メリット教授の企業の生産性と海外展開に関する新々貿易理論モデルと実証結果にスポットを当てています。第5章以降では貿易政策を分析対象とし、関税や保護貿易の理論モデルと実証結果をサーベイしています。付録として、データの在り処や簡単な入門編の計量経済分析の手法の紹介なども収録されています。全体として、学部生というよりは、博士前期課程くらいの大学院生を対象とするテキストのレベルかと思います。終章で、無作為化比較実験(RTC)に関する脚注で、「国際経済学の隣接分野である開発経済学では、フィールド実験などの手法を取り入れ…」(p.270)といった記述が見られて、私の専門分野の開発経済学は国際経済学の隣接分野なんだ、ということを改めて実感しました。しかしながら、海外生活の経験も豊富で、開発経済学を専門とし昨年は所属の国際開発学会で研究成果の学会発表もしていて、私自ら「国際派エコノミスト」を自称しているんですが、国際経済学に関しては見識があまりないことを実感しました。大学院教育を受けていないから仕方ないのかもしれませんが、それなりに官庁エコノミストとしてのお仕事で実証研究はしてきたつもりですが、この年齢に達してなお勉強不足を感じさせられた1冊でした。

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次に、松島斉『ゲーム理論はアート』(日本評論社) です。著者は東大経済学部教授であり、本書のタイトル通り、ゲーム理論について『経済セミナー』に連載したコラムや賀寿靴論文の解説などを本書で取りまとめています。いろいろな日常生活に関する話題から、ハッキリと日常生活から大きく離れたトピックまで、ゲーム理論でどのように解釈できるかについて数式を交えずに解説を加えています。ただ、冒頭のサッカーのPK戦でゴールキーパーの取るべき戦略について考えた上で、「ランダムに左右に飛ぶ」というのは、ゲーム理論の結果導出される最適戦略としても、やや情けない気もします。それは別としても、本書では、ヒトラーのような全体主義的な独裁制が現出するかどうか、また、オークションなどもテーマとして取り上げ、いわゆるマーケット・デザインやメカニズム・デザインを積極的にゲーム理論により我が国に適用しようという意欲はあるようです。他方、本書の著者らの設計による「アブルー・松島メカニズム」の簡単な解説も盛り込んでおり、アカデミックな自慢話もしたい意欲も大いに感じられます。ただ、悪いんですが、著者ご本人は本書を一貫したテーマで見つめることが出来るのかもしれませんが、一般読者を代表した私の目から見て、ハッキリとバラバラで取りとめないテーマが並べられているように感じてしまいます。メカニズム・デザインに話を絞って入門書的に構成を改めた方がよかった気がしますが、まあ、著者の好みなんでしょうね。また、細かい点を指摘すれば、確かにオークションにおける勝者の呪いは、情報の非対称性のために誤った情報に基づいて高値で競り落としてしまった、ということも出来るんですが、通常は違う理解ではないかという気もします。ヒトラーを支えたアイヒマンに対するハンナ・アーレントの「小役人的」という評価についても、ゲーム理論というよりも、本書でも取り上げられているジンバルドー教授のスタンフォード監獄実験などで示された心理学的な知見に基づいて理解したほうが、一般的にはすんなりと頭に入るような気もします。もちろん、私のような末端のエコノミストでも経済学中華思想というのを持っていて、東大教授がゲーム論中華思想に浸っているのは当然という気もします。ビジネスマンなどの一般の読者には少しオススメしにくい本かもしれません。

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次に、高橋洋『エネルギー政策論』(岩波書店) です。著者はよく判らないんですが、学部レベルでは東京大学法学部を卒業した後、大学院レベルでは東京大学大学院工学系研究科の博士課程を修了して学術博士の学位を取得し、現在は都留文科大学社会学科教授だそうです。本書は出版社の紹介を見る限り、明記はしていませんが、エネルギー政策論の入門編ないし大学の学部上級生向けの教科書を意図して企画されたようです。私の大学生時代は遥か彼方の昔ですが、環境経済学すら講座としては確立されていませんでした。今は、京都大学経済学部にも環境経済学の授業があるようですが、エネルギー政策論については、おそらく経済学部が適切ではないかという気もしますが、大学や大学院のどこの学部に置けばいいのかも確立された結論はないような気がします。その中で、公共経済学や環境経済学はもちろん、安全保障を含む国際関係論、そして、工学的な知識も必要でしょうし、エネルギー政策論は極めて学際的かつ多角的な位置にある一方で、2011年の福島原発事故から、本書でエネルギー・ミクスと呼ぶエネルギーの将来像、もちろん、原発の位置づけも含めたエネルギー調達のあり方に関する議論の必要性が高まっているのも事実です。そういった中で、極めて高品質な試みといえますし、和y太氏のような専門外のエコノミストが太鼓判を押しても仕方ないんですが、確かにこのまま教科書としても適用可能なレベルに達しているような気がします。そして、その昔、私が公務員試験を受ける際にミクロ経済学のテキストは岩波書店の『価格理論』でしたし、岩波書店とはそういった良質の教科書を刊行する出版社のひとつであると目されていました。その面目躍如という気がします。その上で、いくつか指摘しておきたい点があります。第1に、1次エネルギーと2次エネルギーに関して、同じ点と違う点をもっと明確にすべきではないかと思います。現在の技術水準からして、かなり多くのケースでは燃料か何かで熱を発して水を沸騰させて、その昔の蒸気機関の応用でタービンを回して動力を得る、というケースが多いかと思います。もちろん、蒸気機関でタービンを回して電気という2次エネルギーを得る場合もありますし、そのまま動力として用いるケースもあります。私の限定的な工学の知識からすれば、タービンを回さ図に直接電力を得るのは太陽光発電だけです。タービンを回すものの熱は発しないのは風力発電や潮力発電などです。いずれも2次エネルギーである電力を取り出すために用いられると認識しています。この燃料と電力の同じ点と違う点をもう少し工学的な視点と経済学的な視点から解説して欲しい気がします。第2は、細かい点ですが、経済成長と二酸化炭素排出のでカップリングまで取り上げるのであれば、その背景にあるクズネッツ環境曲線も紹介しておけばいいんではないか、という気がします。第1の点に比べて第2の点は極めて些末ですが、経済学、特に私の専門である開発経済学の観点からは決して意味ないことではないと感じています。

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次に、奈良潤『人工知能を超える 人間の強みとは』(技術評論社) です。著者は、私から見ればよく得体の知れない人物なんですが、基本的にはコンサル活動をしているようで、認知心理学者ゲイリ ー ・クライン博士に師事して、クライン博士の教えを忠実に守って普及に努めているようです。そして、本書でもハイライトされているんですが、その教えとは naturalism を邦訳した現場主義の直観による判断、ということになります。そして、そのクライン博士の直観勝負に対比させているのが、とても迷惑そうな気がしますが、ノーベル経済学賞を受賞したカーネマン教授です。コチラは、ヒューリスティックにバイアスがあり、システム1よりもシステム2でじっくりと判断を下すほうが望ましい、という考え方です。本書の著者はかなり手薄な論証でクライン博士の直観勝負こそが人間が人工知能(AI)を超える強みであると結論します。まあ、判らないでもありません。というのは、カーネマン教授や心理学一般で用いられるシステム2の方こそAIが膨大な情報を参照しつつディープ・ラーニングで確立させた判断方法であり、少なくとも情報量の点からは人間の頭脳がAIにかなうわけはありません。ですから、人間がAIに勝てるとすればイステム1の領域であるのは、ある意味で、当然のことだともいえます。ただ、かなりお粗末な議論の進め方であり、人間の強み、特にAIに対する強みが直観に起因するとしても、それを直観で議論を進めているような印象であり、ツッコミどころがあまりにも多くて、逆に、説得的な部分が少ない気がします。AIを否定せんがために、シンギュラリティは来ないというのは言論の自由の一部のような気がしますが、他方で、2045年に来るというカーツワイルを支持する人達もいるわけで、単なる信念の表明に終わっているだけでは、何ともお粗末としかいいようがありません。結論を提示した後はスペースを埋めるのに苦労したようで、ページ数で半分も行かないうちに直観を鍛えるためのトレーニング法の4章とか、5章ではコツの伝授にトピックが移っていきます。そして、6章以下は読むに耐えないので、私はかなり飛ばし読みをしてしまいました。そして、「AI憎し」の思想の普及を図っているのかもしれませんが、もしそうだと仮定すれば、その意図は失敗しています。繰り返しになりますが、心理学的なシステム2では人間はAIに太刀打ちできないことは明らかながら、それをもっと便利に利用するという指向方向が見えません。システム2でAIに負けるならシステム1で勝負、とばかりに、システム1を鍛える方向に話が行ってしまい、支離滅裂な出来栄えとなっています。ここ数年の読書の中でも最低レベルの1冊でした。

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次に、キース E. スタノヴィッチ『現代世界における意思決定と合理性』(太田出版) です。著者はカナダにあるトロント大学の名誉教授の大御所であり、専門分野は認知心理学です。オックスフォード大学出版局から刊行されている判断・意思決定論シリーズの1冊でとして2010年に出版されています。英語の原題は Decision Making and Rationality in the Modern World であり、邦訳タイトルはそのままではないかと思います。ということで、伝統的な主流派経済学がホモエコノミクスとして超合理的な個人の経済行動を分析対象とする一方で、20世紀後半の認知革命から生まれた人間の認知研究や認知科学、すなわち、経済学でいえば行動経済学ですし、心理学ならば進化心理学などで、人間の意思決定における不合理性を次々に明らかにしてきたという歴史的な背景の下に、本書は書かれており、入門編かもしれませんが、確実に学術書と見なすべきです。本書の著者は合理性について道具的な合理性と認識的な合理性の区別を導入しますが、前者の道具としての合理性はまさに経済学の前提とするところであり、効用もしくは利得の最大化を目指す最適化行動の判断といえます。同時に著者は薄い合理性と広い合理性の区別も導入し、実は、本書は最終章に至るまで前者の薄い合理性につき考察の対象としていますが、薄い合理性とは目的の正当性を問わないものと考えてよさそうです。すなわち、ヒトラーが世界征服のためにいかに合理的な手段を取るかどうか、といった判断について考えるものです。本書で展開している合理性、あるいは、現実の人間行動の非合理性については、行動経済書きや実験経済学ではほぼほぼ明らかにされてきており、カーネマン教授がノーベル経済学賞を授賞されたのは、まさにその功績です。ツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論が本書でもスポットを当てられています。また、カーネマン教授の『ファスト&スロー』でも取り上げられていたシステム1とシステム2、ほぼ前者がヒューリスティックに相当するんだと私は考えていますが、このシステムの違いは行動経済学や心理学ではかなりの程度に受け入れられてきています。ですから、入門編の学術書ながら、行動経済学について読書している向きには、特に目新しい要素は少ないような気もしますが、最後の最後にある合理性を合理的に判断するメタ合理性については、何か、目を開かせるものがありました。最後に、学術的にはとてもよく取りまとめられている一方で、経済学と心理学の用語の差なのかもしれないんですが、私には邦訳がイマイチしっくり来ませんでした。

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次に、アーサー・ディ・リトル・ジャパン『モビリティ進化論』(日経BP社) です。著者はコンサルティング・ファームのコンサルタントであり、自動運転やモビリティの観点から、交通サービスの方向性や今後の自動車産業について論じています。昨年2017年2月から7月にかけて、日経テクノロジーオンラインにアップされていた記事を加筆修正して書籍化しているようです。一昨年2016年に同じ出版社からデロイト・トーマツ・コンサルティングの『モビリティー革命2030』という本が出版されていて、このブログの2016年12月24日付けの読書感想文で取り上げていて、かなり二番煎じに近いんですが、まあ、注目の自動運転技術ですし読んでみた、というところです。人口規模と人口密度で都市構造と交通サービスを整理するところまではよかったんですが、世界における交通サービスや自動車産業の動向と日本国内の動きをゴッチャにして論じてしまっていて、かなり整理が悪い気がします。もう少し顧客のことを考慮すれば、この程度の内容では、少なくともトヨタをはじめとする自動車メーカーは食いつきが悪そうな気がします。というのも、本書の結論で注目すべきポイントのひとつは、p.185に示されている各国別の自動運転による自動車生産への影響なんでしょうが、日本が▲18%ともっともネガティブ・インパクトが大きく、米国の▲4%や欧州の▲11%を上回っているわけで、貿易のみならず、国内産業への波及の大きさからいっても、我が国はかなり自動車製造業のモノカルチャーに近い産業構造であり、その昔にコーヒー豆がコケたらブラジル経済がコケたように、自動車産業がコケると日本経済は停滞しかねないわけですから、自動車産業についてはよりていねいな分析がなされるべきです。それが、自動運転やレンタカーに代わるカーシェアリングやUberのようなライドシェアリングで自動車への需要が落ち込む可能性も含めて分析対象となっていながら、コスト面での試算にとどまっているのは不親切な気がします。コンサル的に、というか、オンライン・マガジン的に仕方ないのかもしれませんが、ポンチ絵でごまかしている雰囲気が強く、私には説得力不足と見えました。

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次に、アビゲイル・タッカー『猫はこうして地球を征服した』(インターシフト) です。著者は「スミソニアン」誌のジャーナリストであり、サイエンス・ライターです。そして、何よりも猫好きのようです。英語の原題は The Lion in the Livingroom であり、Carl Van Vechten による The Tiger in the House を大いに意識したものとなっています。2月3日付けの日経新聞の書評を見て借りてみました。その日経新聞の書評では、「昨年暮れ、日本でのネコの推定飼育数がイヌのそれを初めて上回ったというニュースが流れた。その差はおよそ60万匹。ただし、米国ではネコの方が1200万匹も多いという。」としています。私はどちらかんといえば、というか、ハッキリと猫好きであって、母親が好きだったので、京都の生家では猫を飼っていたことが多く、犬は飼ったことがありません。ですから、まったくどうでもいいことながら、私は猫の蚤取りが出来ます。白っぽい猫は蚤取りがやりやすいのも知っていたりします。要するに、私から見て猫はかわいいわけです。ですから、まあ、教養というほどのこともなく、井戸端会議的な雑学知識として本書も読んでいます。現在のイエネコの祖先はリビアヤマネコであり、西暦600年くらいまではいわゆる柄の差はなく、ほとんどすべてが今でいうキジトラの柄だったのが、ここ1000年ほどで柄に差が出て来た、というのは雑学知識としては極めて貴重です。また、洋の東西を問わず、猫は鼠を捉まえると考えられていて、それだけに船に乗せられて世界各地に猫が生息地を広げた、といわれているんですが、実はほとんど鼠を捉まえることはしない、でも、野良犬と違って野生が残っていて自活は出来る、ということらしいです。ついでながら、飼い犬が野良になるとゴミなどの残飯以外には食料確保が難しく、野良犬が子を残すことは極めてまれな一方で、野良猫は大いに食料確保の能力があり、祖先のリビアヤマネコの名から想像される通り、中東のご出身ということでラクダ並みとはいかないものの、水分補給もさして必要とせずに狩りの獲物から生き血をすすり、まったく問題ないようです。私の知る限りの犬と猫の違いとしては、犬は人に住み、猫は家に住む、というのがあって、本書では犬の方はともかく、猫はフェロモンの臭いでコミュニケーションを取ろうとするので場所に住むというのは確からしいというのは確認できました。また、私の父親がよくいっていたんですが、人間とペットの関係は、犬の方が誤解して人のペットになっていて、猫については人の方が誤解して猫をペットにしている、というのがあり、少なくともその雰囲気は感じ取ることが出来ました。特に、インターネットがこれだけ普及し、静止画像や動画が手軽にアップロードできるようになれば、見た目で犬よりも猫の勝ちだと私は考えます。いずれにせよ、食物連鎖の頂点に立つ超肉食獣の猫が大好きな読書子にはオススメできる1冊かもしれません。

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次に、鈴木貴博『仕事消滅』(講談社+α新書) です。オックスフォード大学のフレイ&オズボーン論文などで、人工知能(AI)の深化・普及やそれらをインストールしたロボットにより人間労働が代替されるとの研究成果が示されていて、このブログでも取り上げた記憶がありますが、本書はそれに対してコンサルタントの著者が正面から回答を出すべく試みています。職の数のベースで、すなわち、雇用者の人数ベースではなく、あくまで分類上の職の数のベースでほぼ半数の職が失われる、というぜんていで、本書ではわかりやすく、2025年には、まずタクシーなどのドライバーの仕事が消滅し、金融ではAIファンドマネジャーが人間を駆逐する、そして、2030年には銀行員、裁判官、弁護士助手など専門的頭脳労働者がAIに換わる、さらに、2035年には経営者、中間管理職、研究者、クリエイターもAIに置き換えられ、サラリーマンは逆年功序列化する、としています。特に、専門的な頭脳労働の方がAIに置き換えやすいというのは、常識に反するかもしれませんが、説得的です。というのも、肉体労働に置き換わるロボットについては生産設備の能力の限界があって、そうそうはロボットを製造できない一方で、デジタル・データと見なされるAIについては容易にコピーが可能だからです。そして、職が奪われるという事実に対して、本書の著者はビル・ゲイツのロボットへの課税を換骨奪胎して、ロボットに賃金を支払うようにし、その賃金は政府に収め、それを原資にベーシック・インカムを充実させる、という方向性を打ち出しています。とても斬新です。ロボットの登録には自動車などの登録と同じで車検制度により自動車の整備状況を把握しているのと同じシステムが使えると主張し、実現可能性について決して夢物語ではないと結論しています。ただ、国際的な何らかの抜け穴を国際協調によりふさがないことには、例えば、実体的に中国にあるロボットの製品が日本国内市場を席巻すれば、国内に未登録で賃金を支給されていないロボットがあるのと同じことですから、その国際的な取り決めによる抜け穴の防止は必要です。今週は人工知能(AI)に関する読書を2冊したわけですが、圧倒的に本をが優れています。ロボットへの賃金支払い、というか、課税とベーシック・インカムを組み合わせて対応するというのは理論的にはあるいはかなり優れていそうな気がします。ただ、大きなハードルは、裁量労働制の拡大による剰余価値の獲得に熱心な経営者なのかもしれません。

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最後に、ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの挑戦』(創元推理文庫) です。著者は英国の歴史家であり、同時に、アイルランドの歴史やケルトの歴史文化についてノンフィクションや学術論文を発表しており、その道の権威でもあるようです。この修道女フィデルマのシリーズは7世紀後半のアイルランド南部を舞台に、アイルランドの5王国のうちのモアン王国の国王の妹であり、修道女にして、古代アイルランドのブレホン法の弁護士・裁判官の資格も持つ美貌の女性フィデルマが探偵役を務めるミステリです。主人公フィデルマはシリーズの進行とともに年齢を重ねて行っているようですが、20代後半から30前後に達しています。相棒として、ホームズに対するワトソンやくではないんですが、サクソンの修道士エイダルフが配されることも多くなっています。ネットで調べる限り、このシリーズは20作を超えていますが、2012年でストップしているようです。なぜか、邦訳の発行順が原書と違っていて、私は原書の発行順に邦訳を読んだのでOKだったんですが、邦訳書の発行順に読むとかえって混乱しそうな気もします。本書は邦訳では3冊目の短編集であり、学問所入所直後にフィデルマの身の回りの品を入れたポウチ紛失の謎を解く「化粧ポウチ」、学問所の最終試験の課題として出された頭蓋骨消失事件に挑む「痣」、そして学問所を卒業後、ドーリィの資格を得て修道女になってからの4つの事件、すなわち、殺された女性の身元と犯人を推理する「死者の囁き」、3晩続けて聞かれた死を告げるバンシーの声の正体を解く「バンシー」、有名なローマ第9ヒスパニア軍団の鷲の謎にフィデルマが挑む「消えた鷲」、消えた川船にまつわる犯罪を暴く「昏い月 昇る夜」の全6編を収録しています。第5話は500年ほど昔の謎に挑むということで、御手洗潔のシリーズのような立てつけだったりします。私は本シリーズは邦訳が出版されている限り、すべて読んでいますが、主人公のフィデルマが王妹としての身分も、ドーリーとしての学識も、とても優れていることは確かにしても、それにしても、極めて高ビーで威圧的な態度で事件解決に当たる一方で、古代アイルランドの法体系や基本的な意識が近代の男女同権や個人の方の下での平等などに極めてよく合致しており、どこまでが歴史的な事実か、それとも創作家は知りませんが、主人公には好感持てないものの、法体系や社会的な制度体系にはそれなりの好感を持って読み進んでいます。なお、11世紀イングランドの修道士カドフェルを主人公にしたエリス・ピーターズ作のミステリのシリーズと合せて読むと、数百年の間にほとんど中世という時代は進歩していないんではないか、と思わされてしまいます。

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2018年2月24日 (土)

今週の読書は経済書を中心に計7冊!

先週末に自転車で図書館を回ると、予約しておいた本がいっぱい届いていましたので、ついつい今週は読み過ぎた気がします。経済書を中心に計7冊なんですが、新書が2冊ですし、それほどのボリュームではありませんでした。今日はこれから図書館を周る予定ですが、来週もそこそこな量の読書をするような予感です。

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まず、チャールズ・ウィーラン『MONEY もう一度学ぶお金のしくみ』(東洋館出版社) です。著者は米国ダートマス大学の経済学研究者であるとともに、経済学や統計学の入門書のライターとしても人気あるところで、本書の英語の原題は Naked Money なんですが、すでに、Naked EconomicsNaked Statistics というタイトルで、いかにも同一ラインにあると思しき本を出版しています。本書の英語の原書は2016年の出版です。ということで、翻訳者の1人である山形浩郎が役者解説にも書いていますが、本書の内容は Naked Economics に含まれていないのか、という疑問が残りますが、私は読んでいないので詳細は不明ながら、まあ、含まれないわけはない一方で、別途論じてもいいともいえるような気がします。本書では基本的にとても標準的な経済学の見方考え方をベースに、冒頭にマネー=お金の役割について、会計的な計算単位、価値貯蔵手段、交換手段の3つのを提示し、その後も、金本位制のような本来的に価値あるもの、貴金属とは限らないものの、何らかの使用価値あるモノにマネーを結び付ける制度や現行の管理通貨制度、さらには話題のビットコインまで、もちろん、国内金融だけでなく国際的な取引の為替まで、幅広くマネーやその制度を概観しつつ、やっぱり、というか、何というか、2008年後半のサブプライム・バブル崩壊後の一連の金融危機についても分析を試みています。我が国については、1980年代後半のバブル経済崩壊後の長期停滞を、星-カシャップ論的な追い貸しを含めたゾンビ企業の存続に伴う生産性の停滞に一因を見出すとともに、アベノミクスについては基本的にとてもポジティブな取り上げ方がなされています。ただ、黒田総裁の5年の任期をもってしても2%インフレには到達していない現状についても批判的に見ているようです。本書の著者のような標準的な経済学の見方や考え方を適用すれば、ある意味で、当然の評価だという気もします。欧州のユーロについても、マンデル授の最適通貨圏理論を援用しつつ、金本位制に近い独立した金融政策を奪う可能性、特に、為替相場の調整政策の手段がなくなる危険に焦点を当てています。何度も繰り返しになりますが、とても標準的な経済理論・金融理論を当てはめた明快な解説・入門書ですので、判りやすいんではないかと思います。

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次に、岡崎哲二『経済史から考える』(日本経済新聞出版社) です。実は、私の大学時代の専門分野は西洋経済史で、その経済発展史を就職してからは開発経済学に当てはめているんですが、著者は日本経済史や比較経済史を担当する東大教授であり、その意味で、我が国でも屈指の経済史学者であるといえます。私なんぞとは大違いです。そして、本書では、朝日新聞などのコラムで書き溜めた小論を中心に書き下ろしも含めて、経済発展と停滞を解き明かそうと試みています。その意味で、かなり雑多なテーマを詰め込んでおり、私の興味ある分野に引きつけて感想を書いておくと、まず、高度成長期における産業政策の評価がやや高過ぎる気はしますし、産業政策の評価が高いのにつれてそれを策定した官僚の評価にもバイアスあるように感じなくもありません。ただ、おそらく、著者の専門外なので私から見て大きな疑問があるのはアベノミクスの評価です。財政均衡を重視し、金融緩和については、いまだに、ハイパーインフレを懸念するのもどうかという気がします。そして、財政規律に引きつけて昭和初期の軍拡路線を論じるのもやり過ぎだと思います。そして、これも極めてありきたりで表面的なアベノミクスに対する批判なんですが、成長率のトレンドを引き上げる政策の必要性を強調しています。高度成長期の産業政策評価の観点から、本書でもターゲティング・ポリシー、すなわち、政府が将来性ある分野に何らかの優遇措置を講じる政策が推奨されていますが、意地悪な見方をすれば、アベノミクスにおける財務省の財政政策は大赤字を出して財政均衡を失して間違っているが、経済産業省のターゲット産業を探す能力にはまだ信頼を置いている、ということなんでしょうか。また、デフレの原因のひとつに、1990年代で成長の源泉、すなわち、ルイス的な二重経済解消の過程における労働移動と先進経済へのキャッチアップ成長の2つの源泉が枯渇した、との議論も意味不明です。最後に、ピケティ教授の『21世紀の資本』における成長率と資本収益率の乖離から格差が生じる、という論点を批判していますが、本書でもご同様で、いくつか因果推論が逆ではないか、という議論が私のようなシロート、とまではいいたくないものの、少なくとも著者に比較して大いに格下のエコノミストの目から見てもあるような気もします。

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次に、リチャード E. ニスベット『世界で最も美しい問題解決法』(青土社) です。著者は米国ミシガン大学の社会心理学の研究者であり、10年余り前に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』がベストセラーになったのを記憶している人も多いんではないでしょうか。それなりの心理学の権威なんではないかとおもいます。本書の英語の原題は Mindware であり、2015年の出版なんですが、邦訳タイトルはかなりミスリーディングであり、売上げ重視でやや不誠実の域に近いと思います。中身はかなりの重厚な読書になると思いますが、私は勉強不足にして第5部の論理学と第6部の認識論については理解が及びませんでした。副題で「賢く生きるための行動経済学、正しく判断するための統計学」とあるのが私の専門分野に近いと思って読み始めましたが、この副題に相当する部分は決してページ数で多くはありません。出版社に騙されないように注意することが必要です。統計学に関する部分では、ありきたりながら相関と因果の違いを強調しているものの、何度かこのブログでも指摘しましたが、本書でまったく取り上げていないビッグデータの世界では相関が重要であって、因果推論はそれほど重視されないというのも事実です。それから、あくまで私の理解であって、本書の著者の見方ではありませんが、経済学や医学で統計が重視されるのは、実は、分析の背景にあるモデルがかなりいい加減で、因果推論を成り立たせるのが苦しいので、仕方なく、リカーシブに統計的な有意性でお話を進めようとしているフシがあります。すなわち、本書でも因果の流れが実は逆というケースをいくつか取り上げていますが、理論的な因果関係が不明確であるがゆえに、統計で帰無仮説が棄却されるかどうかでごまかしている面があるような気がしてなりません。冗談半分によくいわれるように、セックスと妊娠には統計的に何の相関関係も見いだせませんが、因果関係があるのはそれ相応の大人なら誰でも知っていると思います。前著に続いて、東洋的というよりは中国的な円環的歴史観、というか、循環的な輪廻転生の時間の進み方とかなり一直線に近い西洋的な歴史観、時間の進み方の対比がまたまた示されたんではないかと思います。

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次に、ガルリ・カスパロフ『ディープ・シンキング 人工知能の思考を読む』(日経BP社) です。著者はご存じチェスの世界チャンピオンであり、同時に、世界チャンピオンとしてIBMのディープ・ブルーに敗れたことでも、逆に、その名を高めたチェス・プレーヤーです。英語の原題は Deep Thinking であり、2017年の出版です。将棋の永世名人であり、チェス愛好家としても名高い羽生善治二冠が巻末で解説しています。チェスの世界王者といえば、本書の著者であるカスパロフから1世代前の米国の」ボビー・フィッシャーがあまりに有名でかつ衝撃的であり、ついつい変人であると想像しがちなんですが、本書ではそれは否定されています。1996~97年にかけての2回に及ぶIBMディープ・ブルーとの対戦が有名であり、1996年はカスパロフが3勝1敗2分で勝利したものの、1997年は1勝2敗3分で敗戦しています。特に1997年のシリーズには引き分けに持ち込める対戦を投了して負けてしまった2回戦を中心に、本書では第6章から第10章くらいが読ませどころなんでしょうが、やはり、著者のカスパロフは敗者ですので、ついつい愚痴が多くなるのも致し方ありません。IBM主催のゲームであったために多くの不利を背負い込んだのは理解できます。例えば、クラッシュ-リセット-再起動などで集中力が殺がれたことはまだしも、事前にディープ・ブルーの棋譜が公開されなかったこと、ロシア語を理解できる警備員を配されて控室での内密の会話をまるで盗聴するように聞き出されていたこと、そして、これは世間一般にも怒りの声が噴出したのを覚えていますが、カスパロフにはリターン・マッチが許されず、1997年の勝利を最後にIBMディープ・ブルーが勝ち逃げしたことなどです。チェスの世界チャンピオンでなくても、コンピュータが極めて大きなスピードで進化を遂げて、チェスの世界だけでなく人間の思考を代替したり、人間の認知能力を上回ったりする時点が、すでに過ぎ去りはしないものの、急速に近づいているという事実については理解しています。カーツワイル的に大雑把にしても、2050年の前にシンギュラリティが来る可能性についても否定できません。AIが人間の認知作業に取って代ろうとする現時点で、チェスの世界から人間と機械との向かい合い方に関して興味深い本が出版されたと受け止めています。

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次に、グレアム・アリソン『米中戦争前夜』(ダイヤモンド社) です。著者のアリソン教授はハーバード大学ケネディスクールの初代のトップであり、米国の歴代国防長官の顧問を務めリアルな国際政治にも通じる研究者です。英語の原題は Destined for War であり、2017年の出版です。私ははるか大昔に『決定の本質』を読んだ記憶があります。いわゆるキューバのミサイル危機をモデル分析した名著ですが、その点以外はすっかり忘れてしまいました。本書では、いわゆるトゥキディデスのトラップに基づき、新興国の台頭が覇権国のヘゲモニーを脅かして生じる構造的なストレスが戦争という武力衝突につながるかどうか、について分析し、現時点での焦眉の的である米国という覇権国に対抗する新興国である中国との関係をモデル分析しています。トゥキディデスの罠は古典古代の覇権国スパルタと新興国アテネの関係から始まり、本書ではいくつかのケースのデータベースを整備し、米中関係がどのように帰結するかを予測・考察しています。そのデータベースでは、覇権国の交代に伴う構造ストレスについては、戦争になってしまうケースが多いんですが、最近100年ほどの大きな衝突として、英国から米国への覇権の移行、さらに、米ソ間での覇権争いで米国の覇権にソ連が挑戦して敗れた冷戦、の2ケースについては小競り合いはともかく、全面戦争には至らなかった稀有な例として引き合いに出されています。もちろん、その昔にもポルトガルとスペインはローマ教皇という極めて高い権威を引き入れて戦争を回避し、トルデシラス条約により南米を分割した例もあります。そういった高い権威は現時点では国連というわけにもいかないでしょうから、戦争=武力衝突を避けるために米国が取りえるオプションとしては、覇権の移行=新旧逆転を受け入れて何らかの交換条件を設定するか、新興国の中国を弱らせるか、日中間で国交回復時に尖閣諸島の領有権問題を扱ったように一定の時期だけ継続する期限付きの平和を交渉するか、共通のグローバルな課題に対応するために米中関係を再定義するか、といったところが上げられています。ただ、オープンな外交姿勢を示したオバマ政権期にはともかく、米国ファーストのトランプ政権の現時点で採用可能なオプションは限られている気もします。

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次に、小野善康『消費低迷と日本経済』(朝日新聞出版) です。著者は大阪大学をホームグラウンドとしていたエコノミストであり、本書は朝日新聞などで掲載されていたコラムなどを取りまとめています。ですから、この著者の一貫性ない見識ゆえに仕方ないのかもしれませんが、内容的にムリある矛盾した中身となっています。ご案内の通り、民主党政権の菅内閣のころに私の勤務する役所の研究所の所長に政治任命されたエコノミストですので、野党的な見方でアベノミクスに反論しており、例えば、物価目標の2%を達成していないのでアベノミクスは失敗だと結論したかと思えば、円安で景気が回復した点はアベノミクスの成果ではなく、震災で原発が停止して燃料輸入が増加し経常収支が赤字になったのが原因であると主張するなど、およそ、真面目な経済に関する議論とは思えず、繰り返しになりますが、現政権に反対するための無理矢理な論陣を張るために、その昔の関西名物だったボヤキ漫才のような経済解説になっています。特に、私が理解できなかったのは、本書の著者の小野教授の何が何でもな前提は中長期に渡る需要不足が日本経済の低迷の根本原因だそうで、そのために失業が生じているらしいんですが、同時に、アベノミクスによるハイパーインフレの懸念も表明されており、不況克服が日本経済の課題なのか、インフレ抑制が重要なのか、現政権の経済政策をムリにでも批判する必要あることから、経済の現状に関してかなりムリある解釈、あるいは、矛盾した見方を必要としているような気がします。もっと、見識あるエコノミスト、あるいは、常識的なビジネスマンとして虚心坦懐に日本経済を見れば、確かに物価目標には達しないものの、民主党政権時に再確認されたデフレからの脱却も視野に入り、日本経済はかなりの長期にわたる回復・拡大過程にあると思うんですが、どうしても党派的な観点から現政権の経済政策に対する批判をせねばならないとすれば、本書のような形になるのかもしれません。

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最後に、中野信子『シャーデンフロイデ』(幻冬舎新書) です。著者はベストセラーをバンバン出している脳科学者であり、私も前著の『サイコパス』は読んでいたりします。本書のタイトルは、ネットにおけるスラングのひとつである「めしうま」と同じ意味であり、他人の不幸を喜ぶ心情を指しています。そして、その脳の働きにはオキシトシンが関係しており、このオキシトシンは愛情や人とのつながりを醸成する肯定的な働きをしつつも、「可愛さ余って憎さ百倍」のように、あるいは、愛情から出たストーカー行為が犯罪に転じるように、愛情から妬ましさに転化するらしいです。ただ、私はこのあたりの心理は理解できません。例えば、私は京都の出身であり小さいころからタイガースのファンですが、その昔にはいわゆる「アンチ・ジャイアンツ」といわれる人々がいたことを記憶しています。これは私には理解できませんでした。好きな球団があるのはいいことですし、それを応援するのも娯楽のひとつだと思うんですが、嫌いな球団を設定してそれを貶める、というのは私の理解を越えていました。本書のめしうまや他人の不幸を喜ぶ心情も、まったく同様に、私には理解できません。ですから、本書の問題設定自身が理解できないといってもよかろうかと思います。ですから、人類を代表して不埒な人にサンクションを加えるという心情も理解できません。ひょっとしたら、私は何らかの意味でサイコパス的な共感、あるいは、反感の心情が欠落しているのかもしれません。それはそれで心配な気もします。経済的な観点から、極めて大きな偏見を持って、どこかに金持ちがいたら、「お前ももっとよく勉強して立身出世して、もっと金持ちになれ」というのが、日本をはじめとするアジア的な発想であり、それゆえに教育が重視されたりしますが、ここから大きな偏見なんですが、「お金持ちがいれば自爆テロに巻き込んで殺してしまえ」というのがイスラム教原理主義だという見方も何かで聞いたことがあります。私はまったく同意できませんが、もしもそうだと仮定すれば、私は確かに圧倒的に前者の信条に近いと思います。

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2018年2月17日 (土)

今週の読書は経済史や経済学の学術書を中心に計6冊!

今週はペースダウンできず、結局、経済書をはじめ6冊を読みました。実は、今日の土曜日に恒例の図書館回りをしたんですが、来週はもっと読むかもしれません。

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まず、ロバート C. アレン『世界史のなかの産業革命』(名古屋大学出版会) です。著者はオックスフォード大学の経済史研究者であり、オランダ生まれで米国ノースウェスタン大学のモキーア教授とともに、産業革命期の研究に関しては現時点における到達点の最高峰の1人といえます。本書の英語の原題は The British Industrial Revolution in Global Perspective であり、2009年の出版です。産業革命に関しては生活水準の低下や過酷な工場労働の現場などから悲観派の見方もありますが、本書の著者のアレン教授はアシュトンらとともに楽観派に属するものといえます。ということで、このブログの読書感想文ほかで何度か書きましたが、西洋と東洋の現段階までの経済発展の差については、英国で産業革命が開始され、それが米国を含む西欧諸国に伝播したことが西洋の東洋に対する覇権の大きな原因である、と私は考えていて、ただ、どうして英国で産業革命が始まったのかについての定説は存在しない、と考えていました。本書を読み終えてもこの考えは変わりないんですが、本書における見方としては、やや定説と異なり、プロト工業化を重視する一方で、農業生産性の向上による生活水準の上昇、ロンドンを中心とする高賃金、石炭などの安価なエネルギーの活用、そして、機械織機、蒸気機関、コークス熔工法による製鉄を3つの主軸とする技術革新などの複合的な要因により、英国で世界最初の産業革命が始まり進行した、と結論づけています。私はマルクス主義史観一辺倒ではないにしても、何かひとつの決定的な要因が欲しい気がしますし、また、産業革命の担い手となる産業資本家の資本蓄積に関する分析も弱いですし、さらに、機械化の進行については馬や家畜などによる動力源を代替する蒸気機関だけでなく、手工業時代における人間の手作業を代替する機械の使用をもっと重視すべきだと考えており、やや本書の分析や結論に不満を持たないでもないんですが、繰り返しになるものの、世界の経済史学界における現時点でのほぼ最高水準の産業革命の研究成果のひとつといえます。よく私が主張するように、産業革命期の研究に関しては、英国=イギリスとイングランドをキチンと区別する必要があるという見方にも、当然、適合しています。完全なる学術書ながら、テーマが一般的ですので、研究者だけでなくビジネスマンなどの研究者ならざる、という意味での一般読者も楽しめるんではないか、という気がします。

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次に、ジェフリー・ミラー『消費資本主義!』(勁草書房) です。著者は米国の進化心理学の研究者であり、本書は必ずしも経済書とはいえないと考える向きもあるかもしれませんが、ツベルスキー・カーネマンのプロスペクト理論のような例もありますし、かなり経済書に近いと考えるべきです。英語の原題は Spent であり、2009年の出版です。ということで、大昔のヴェブレンによる見せびらかしの消費やガルブレイスの依存効果など、決して使用価値的には有益な利用ができないにもかかわらず、事故の何らかの優越性を誇示するための消費について、心理学的な側面も含めて分析を加え、最後の方ではその解決策の提示も行っています。まず、もちろん、見せびらかしでなく使用価値に基づく利用が行われている消費も少なくなく、典型的には食料などが含まれると私は考えていますが、本書では一貫してある種の自動車をヤリ玉に上げています。私は自動車を持っていませんので、まったくその方面の知識がないんですが、ハマーH1アルファスポーツ車です。いろんな特徴ある中で、私の印象に残っているのは燃費がひどく悪い点です。こういった見せびらかしの消費を本書の著者は「コスト高シグナリング理論」と名付けて、要するに、生物界のオスの孔雀の尾羽と同じと見なしています。ある麺では、要するに、将来に向けてその人物のDNAを残すにふさわしいシグナリングであると解釈しているわけです。そうかもしれないと私も思います。その上で、こういったプライドを維持するに必要な中核となる6項目として、開放性、堅実性、同調性、安定性、外向性を上げています。そして、解決策として、第15章でいくつか示していて、買わずに済ませるとか、すでに持っているもので代替するとか、有償無償で借りて済ませるとか、新品でなく中古を買うとか、といったたぐいです。しかしながら、その前にマーケターによるこういった見せびらかしの消費の扇動について触れながら、情報操作による消費活動の歪みを是正するという考えには及んでおらず、少し不思議な気もします。いずれにせよ、私のような専門外のエコノミストから見ても、消費の際の意思決定において心理学要因がかなり影響力を持ち、しかも、その心理要因をマーケターが巧みについて消費を歪めている、というのは事実のような気がします。ですから、行動経済学や実験経済学のある種の権威はマーケターではなかろうか、と私は考えています。

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次に、井堀利宏『経済学部は理系である!?』(オーム社) です。著者は長らく東大教授を務めた経済学者であり、本書は冒頭で著者自身が「単なる経済数学の解説書ではない」と明記しているものの、否定されているのは「解説書」の部分ではなく、「単なる」の部分だと私は受け止めました。ですから、経済学で取り扱うさまざまなモデルを数式で解析的に表現し、微分方程式を解くことによりエレガントに解を求めようとする経済書です。しかも、ミクロ経済学にマクロ経済学、短期分析に長期分析、比較静学に動学、さらに、経済政策論として財政学や金融論まで、極めて幅広く網羅的に解説を加えています。最近の動向は必ずしも把握していないものの、私のころでしたら公務員試験対策にピッタリの本だよいう気がします。ですから、おそらく学部3#xFF5E;4年生向けのレベルであり、経済学部生であっても初学者向きではありません。一般のビジネスマン向けでもありません。実は、私は30年超の昔に経済職の上級公務員試験に合格しているだけでなく、20年ほど前には人事院に併任されて試験委員として、経済職のキャリア公務員試験問題を作成していた経験もあります。当時は、過去問だけを勉強するのでは不足だという意味で新しい傾向の問題を作成する試みがあり、私はトービンのQに基づく企業の設備投資決定に関する問題を作成した記憶があります。また、すでに役所を辞めて大学の教員になっている別の試験委員がゲーム理論のナッシュ均衡に関する問題を持ち寄ったのも覚えています。そして、本書ではナッシュ均衡についても解説がなされていたりしますから、さすがに、先見の明のあった試験問題だったのかもしれないと思い返しています。20年前にはほとんど影も形もなかった地球環境問題とか、さらに進んで排出権取引を数式でモデル化するといった試みも本書では取り上げられています。なお、本書の冒頭で偏微分記号の ∂ について「ラウンドディー」と読む旨の解説がなされていますが、これについては党派性があり、京都大学では「デル」と読ませていた記憶があります。大昔に、英語の planet を東大では「惑星」と訳した一方で、京大では「遊星」と訳し、現状を鑑みるに、東大派の「惑星」が勝利したように、偏微分記号の読み方でも京大派は敗北したのかもしれません。

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次に、中西聡[編]『経済社会の歴史』(名古屋大学出版会) です。本書は、同じ名古屋大学出版会から既刊の『世界経済の歴史』と『日本経済の歴史』を姉妹編とする3部作の最終巻という位置づけだそうですが、私は単独で読みました。20人近い歴史の研究者が集まって、各チャプターやコラムなどを分担執筆しています。副題が上の表紙画像に見られる通り、「生活からの経済史入門」ということで、4部構成の地域社会、自然環境、近代化、社会環境というように、やや強引な切り口から、災害、土地所有、エネルギー、健康と医薬、娯楽、教育、福祉、植民地などなど、ハッキリいってまとまりのない本に仕上がっています。アチコチで反省的に書かれている通り、経済史を考える場合は生産様式、というか、生産を供給面から追いかけるのが主流であり、生活面からの社会の変化は、まあ、服装の近代化とか、食生活の西洋化とか、住居の高層化とか、それなりに興味深いテーマはあるものの、誠に残念ながら、学問的な経済史の主流とはならない気がします。もっとも、私の読んでいない姉妹編の方で取り上げられているのかもしれませんが、それはそれで不親切な気もします。正面切ってグローバル・ヒストリーを押し出して、西洋中心史観から日本などの周辺諸国の歴史をより重視する見方も出来なくはありませんが、まあ、これだけの先生方がとりとめなく書き散らしているんですから、統一的な歴史の記述を読み取るのは困難であり、井戸端会議的な雑学知識を仕入れるのが、本書の主たる読書目的になるのかもしれません。その意味で、トピックとして雑学知識に寄与するのは、エネルギーのチャプターで、20世紀初頭に英国よりもむしろ日本で電化が進んだのは、実は、安全規制が疎かにされていたためである、とか、第2次世界大戦時の日本における戦時体制はかなりの程度に近代的・現代的かつ合理的であったと評価できる、とか、植民地経営の中で、安い朝鮮米を日本本土に飢餓輸出した朝鮮は満州から粟を輸入したとか、そういったパーツごとにある意味で興味深い歴史的な事実を発見する読書だった気がします。

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次に、平山雄一『明智小五郎回顧談』(ホーム社) です。著者は翻訳家であり、シャーロッキアンでもあり歯科医だそうです。本書は引退した明智小五郎を警視庁の箕浦刑事が「警視庁史」を取りまとめるために取材するという形で進行します。でも、最後に、この箕浦刑事の正体が明らかにされます。何といっても豪快に驚かされるのは、明智小五郎はシャーロック・ホームズの倅だった、という事実です。例のライヘンバッハの滝でホームズが死んだと思わせた後に日本に渡り、日本人女性、その名も紫とホームズの間に誕生したのが明智小五郎であり、結核で紫がなくなった後に明智小五郎に養育費を送付し、一高から帝大を卒業できるようにロンドンから仕送りをしたのがその兄のマイクロフト・ホームズです。もう何ともいえません。私は滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。そして、明智小五郎が度々外地に赴くのはホームズと会うことも重要な目的のひとつであり、上海においては明智小五郎はホームズとともにフー・マンチュを追い詰めたりします。そして、もうひとつの驚愕の事実は怪人20面相は明智小五郎の親戚縁者であるという事実です。明智小五郎と怪人20面相は同じ師匠から変装を学んでいるのです。本名平井太郎こと江戸川乱歩は、当然ながら、明智小五郎の友人であり、明智小五郎が解決したさまざまな事件を記述しています。すなわち、「屋根裏の散歩者」であり、「D坂の殺人事件」であり、「二銭銅貨」であり、「心理試験」であり、「一枚の切符」などなどです。ただ、主たる事件は終戦までであり、戦後の小林少年を主人公のひとりとする少年探偵団の行動範囲までは本書では追い切れていません。これはやや残念な点です。そして、もっとも残念な点は、明智小五郎が戦時下で軍部の諜報戦に協力していることです。おそらく、江戸川乱歩も、横溝正史なんかも、言論の自由を封じ込め、伏せ字だらけの出版を余儀なくした軍事体制というものには反感を持っていたと、多くの識者が指摘しています。明智小五郎が軍部の戦争遂行に協力することは、当時の政治的な状況下で致し方ないのかもしれませんが、とても残念に感じるのは私だけではないでしょう。最後に、明智小五郎ファンにはかねてより明らかな事実なのですが、小林少年は3人います。本書冒頭で明らかにされています。こういった事実を整合的にフィクションとして記述しています。イラストは、集英社文庫で刊行された「明智小五郎事件簿」と同じ喜多木ノ実です。日本のミステリファンなら、是が非でも読んでおくべきです。

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最後に、玉木俊明『物流は世界史をどう変えたのか』(PHP新書) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者なんですが、経済史ながら経済学ではなく、いわゆる文学部の一般的な史学科のご出身と記憶しています。本書では経済学帝国主義ならぬ物流帝国主義、物流中華思想、物流中心史観から、物流が世界史をどう形作って来たのかを分析しています。ローマとカルタゴ=フェニキア人との物流を巡る確執、7世紀からのイスラーム王朝の伸長、ヴァイキングはなぜハンザ同盟に敗れたか、ギリシア・ローマの古典古代における地中海中心の交易からオランダなどのバルト海・北海沿岸諸国が台頭したのはなぜか、英国の平和=パクス・ブリタニカの実現は軍事力ではなく海運力により達成された、英国の産業革命は物流がもたらした、などなど、極めて雑多で興味深いテーマを17章に渡って細かく分析記述しています。ひとつの注目されるテーマとして、ポメランツ的な大分岐の議論があり、要するに、明初期の鄭和の大航海をどうしてすぐにヤメにしてしまったのか、という疑問につき、本書の著者は、明帝国はほとんどアウタルキーのできる大帝国であって、外国との交易に依存する必要がなかった、との視点を提供しています。まあ、ありきたりの見方ではありますし、今までも主張されてきた点ではありますが、同意できる観点でもあります。ほかにも、学術のレベルではなく、井戸端会議の雑学のレベルではありますが、私のような歴史に大きな興味を持つ読者には、とてもタメになる本だという気がします。2時間足らずですぐ読めます。

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2018年2月10日 (土)

今週の読書は学術書2冊を含めて計6冊!

今週は、やっぱり、6冊読んだんですが、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』のボリュームがものすごくて、私が足かけ3日かけて読まねばならない分量の本というのは久し振りな気がします。ほかにも、重厚な学術書が2冊含まれていて、それなりに時間を取って読書した気がします。なお、最後のオーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』は数年前の単行本出版の際に読んだ記憶がありますが、とてもスンナリと借りられたので文庫本も読んでしまいました。

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まず、寺西重郎『歴史としての大衆消費社会』(慶應義塾大学出版会) です。著者は金融史がご専門で長らく一橋大学をホームグラウンドとしていた研究者、エコノミストです。出版社も考慮すれば、明らかに学術書と考えるべきであり、読み進むためのハードルはそれなりに高いと考えるべきです。本書で著者は、我が国戦後の高度成長期について、極めて旺盛な大衆消費によって支えられていた特異な時期であったとし、敗戦に際しての方向感覚の喪失と政府介入によって生じた一時的な現象であったとの結論を導いています。私は一昨年に高度成長期研究の成果として経済計画の果たした役割に関する論文を取りまとめましたし、開発経済学の視点ながら、それなりに高度成長期に関する見識は持っているつもりですが、この著者の結論は間違っています。まず、著者が結論に至る論点は3点あり、第1に、戦後日本での爆発的な消費拡大は、敗戦による環境の変化に対して、人々と政府が「さしあたって」消費と生活様式の西洋化を決意したことによって引き起こされ、第2に、大衆消費を支えた分厚い中間層は、金融と産業に対する政府規制が生み出すレントの分配によって支えられており、1970年代後半以降に規制緩和が進展した結果、そのレントが消滅して高度成長は終焉したとされ、第3に、1980年代以降の日本で観察された消費の差異化は、普遍的なポストモダンの動きの一環ではなく、伝統的な消費社会への回帰現象であろう、というものです。そして、相変わらず、英国をはじめとする欧米のキリスト教的な供給が牽引する経済と我が国の仏教的な需要が牽引する経済の差をチラチラと出しています。高度成長期に政府が一定の役割を果たしたのは事実ですし、ある意味で、レントを生じていたのも事実です。そして、そのレントは当時極めて希少性の高かった外貨の配分から生じており、それを天下りなどに使っていたわけです。しかし、一般に19世紀後半の1870年代とされるルイス的な転換点は、我が国の場合は高度成長期であった可能性が高く、まさに農業などの低生産性の生存部門から製造業などの近代的な資本家部門に労働が移動したことが高度成長の基本を支えていたわけであり、その時期に大衆消費社会が訪れたのは戦争の期間と終戦直後の混乱期に抑制されていた消費が、米国をはじめとする当時の先進国との技術的なギャップをキャッチアップする過程で、大きく盛り上がった、と考えるべきです。1970年代半ばに高度成長が終焉したのは、石油ショックによる資源制約に起因する成長の屈折ではなく、ましてや、本書で主張されているような規制緩和によるレントの消滅ではあり得ません。立派なエコノミストによる重厚な学術書なんですが、中身はやや「トンデモ」な歴史観を展開しているような気がします。

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次に、ハンナ・ピトキン『代表の概念』(名古屋大学出版会) です。著者はドイツ生まれでユダヤ人であるために米国に渡り、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者の後、現在は名誉教授となっています。その代表作のひとつである本書に対してはリッピンコット賞が授賞されています。英語の原題は The Concept of Representation であり、50年前の1967年の出版です。どこからどう見ても完全な学術書であり、代表論の古典とすらいえますので、読み進むためのハードルは決して低くありませんが、欧米でポピュリズムの影響力が大きくなっている昨今の政治情勢の中で、決して雲の上の学術だけの課題ではないと私は考えています。ということなんですが、何分、原題にも含まれている英語の Representation は日本語にすると、代表と表現のやニュアンスの異なる2種類の邦訳が当てはめられ、必ずしもスッキリしない場合も見受けられます。ホッブズから始まって、バークなどの理論家や実践家、すなわち、民主主義下での代表的な政治家の考えを引用しつつ、古典古代のような直接民主主義から自由主義まで、思想の土台より政治的代表の意味を徹底的に検討を加えています。政治的な代表だけでなく、君主制の象徴 symbol、あるいは、代理 proxy など、代表に類似する概念と併せて素材とされています。そのあたりの代表と象徴や代理の違いは、それなりに、理解できる一方で、代表の中でももっとも大きなポイントとなるには、いうまでもなく、民主主義下において投票によって議会の構成員を国民の代表として選出する際の代表の考え方です。バークの議論ではありませんが、この代表が何らかのグループの利害関係を代表するのか、それとも集合名詞としての国民、あるいは、国家の利益を代表するのかの議論は分かれることと思います。地域なり、職能なり、階級なり、何らかの利害集団の利益を代表するだけであれば、議会の構成員としての見識や経験はまったく不要であり、まさに、ポピュリズムそのものですし、後者の国民全体あるいは国家の利益を代表するのであれば、極めて高い見識を必要とする一方で、選挙を実施する意味がありません。というか、マニフェストや公約で示すのは、利害調整の際のポジションではなく、見識の高さを競うのかもしれません。いずれにせよ、50年前のテキストながら、ポピュリズムが台頭しつつある21世紀でもまだまだ参考とすべき内容を含んでいる気がします。

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次に、伊東ひとみ『地名の謎を解く』(新潮選書) です。著者は奈良の地方紙のジャーナリストの出身で、私よりも年長ですのでリタイアしているんではないかと思わないでもありません。地名については在野の民俗学の権威のひとりであった柳田國男などにも同様の研究がありますし、ほかにもいろんな調査研究結果があるんでしょうが、本書では奈良ローカルらしく万葉仮名の表現まで引用して地名の起源や変遷について跡付けています。私が本書を読もうと思った本来の目的である雑学的な知識の詰め合わせは p.200 以降の最後の最後に取りまとめられています。本書の著者の前著がキラキラネームに関する雑学書でしたので、平仮名名の地名で外来語由来の地名などにやや嫌悪感、とまではいわないまでも、何らかの違和感を持って取り上げているような気がしますが、私はそれをいい出せばアイヌ語や沖縄由来の地名についても、何らかの色メガネを持って見られそうな気がして、もう少しオープンな視線で地名を見てみたい気がします。さらに、地名と姓名の入れ込み、というか、地名が姓になった利、逆に、姓が地名になったりした例も多いような気がします。例えば、我が家が引っ越し前に住まいしていた青山なんぞは、赤坂とともに、徳川時代に屋敷を置いていた旗本の姓に由来するんではないかと記憶しています。決して青山なる山があったり、赤坂なる坂があったりしたわけではありません。同様に、本書で縄文や弥生まで地名の起源をさかのぼるのが、どこまで意味があるのかどうかも私には不明です。地名の起源が古ければ有り難いというわけでもないでしょうし、実際に、本書に何度か出て来る表現を借りれば、ホントにフィールドワークをしたのであれば、歴史を経て大きな変更があった可能性もありますが、産物や景観なども含めた起源をフィールドワークして欲しかった気もします。ただ、東京になる前の江戸の起源がよどだったのは知りませんでした。あと、「谷」の漢字を「や」と読むのか、「たに」と読むのか、さらに、万葉仮名を持ち出すのであれば、決して漢字を音読みしない古今集タイプも同時に考え、音読み地名と訓読み地名についても、平仮名地名とともに、もう少し掘り下げて欲しかった気がします。まあ、私の期待値が高過ぎた気もしますし、努力賞なのかもしれません。

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次に、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』(シンコーミュージック・エンタテイメント) です。著者は2009年出版時点では南カリフォルニア大学の、そして、現在ではカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の米国史、黒人史などの研究者です。英語の原題はそのままに Thelonious Monk であり、繰り返しになりますが、2009年の出版です。歴史研究者が14年に渡って調べ上げたジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクの生涯をカバーするノンフィクションの伝記です。二段組みの本文だけで670ページを超え、索引と脚注で30ページあり、全体で700ページを超える極めて大きなボリュームの本であり、何と、大量の読書をこなす私が足かけ3日かけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。一応、ていねいには書かれていますが、登場人物については、それなりのバックグラウンドを知っておいた方が読書がはかどります。当然ながら、モンクを知らないし、聞いたこともない人にはオススメできません。邦訳が出版された昨年2017年はモンク生誕100年ということで、1917年に生まれて、幼少のころからニューヨークで過ごし、1982年に64歳の生涯を閉じるまで、モダンジャズの歴史そのものの人生を送った偉大なるピアニストの生涯を極めて詳細に跡付けています。ビバップからモダンジャズの誕生については、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーに果たした役割が大きいと評価されて来て、ピアニストとしてはモンクよりもバド・パウエルの存在を重視する見方が広がっている中で、モンクの再発見につながる本書は貴重な見方を提供しているといえます。単に音楽生活だけでなく、その基盤となったネリーとの結婚生活や、パノニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人との交流や援助など、もちろん、音楽シーンでのほかのジャズ・プレーヤー、プロモーター、マイナーレーベルのオーナー、レコーディング・エンジニアなどなどとの人間関係も余すところなく描き出しています。化学的不均衡により、モンクの双極障害、統合失調症などによる特異な行動や言動などがどこまで説明できるのかは私には理解できませんが、ピアノの弾き方がとても独特なのは聞けば理解できます。決して、音楽の名声の点でも、もちろん、金銭的にも、恵まれた人生であったかどうかは疑問ですが、モダンジャズの開拓者、先導者としてのモンクの役割を知る上で、そして、音楽シーンを離れたモンクの人生を知る上で、十分な情報をもたらしてくれる本だといえます。ただし、かなりのボリュームですので、粘り強く読み進むことが出来る人にオススメです。

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次に、関満博『日本の中小企業』(中公新書) です。著者はご存じの製造業研究などで有名な一橋大学をホームグラウンドにしていた研究者であり、エコノミストというよりは経営学が専門なのかもしれません。繰り返しになりますが、中小企業というよりは、製造業がご専門のような気がしますが、本書では中小企業にスポットを当てています。特に、最近の中小企業経営を取り巻く環境変化として、国内要因の人口減少や高齢化、海外要因として中国をはじめとする新興国や途上国における人件費の安価な製造業の発展を上げています。その上で、第1章では統計的な中小企業の把握を試み、第2相と第3章では企業の観点から、また、第4章では継承の観点から、大量にケーススタディを積み上げ、繰り返しになりますが、第5章では中小企業経営の環境変化、すなわち人口減少・高齢化とグローバル化の進展について考察を進めています。なかなかに元気の出る中小企業のケーススタディであり、どうしても製造業の割合が高いながらも、高い技術に支えられた中小企業の存在意義を明らかにしています。ただ、こういったケーススタディによる研究成果、というか、本書のようなサクセス・ストーリーのご提供に関しては、2点だけ不安が残ります。第1に、これらの成功例のバックグラウンドに累々たる失敗例が存在するのではないか、という点です。我が国では米国などと比べると、起業件数とともに廃業件数も少なく、企業経営が米国ほど動学的ではない、とされていますが、他方で、その昔に「脱サラ」と称されたコンビニ経営などが、一定期間終了後に店仕舞いしている実態も、これまた目にして実感しているわけで、当然ながら、起業がすべて成功するわけもなく、成功例の裏側に失敗例が数多く存在し、単に成功例と失敗例は非対称的にしか扱われていない可能性があります。第2に、最近の中小企業経営の環境変化の中で、非製造業における人手不足について情報が不足しています。本書の著者の専門分野からして、製造業、特に、かなり高い技術水準を有している製造業に目が行きがちで、それだけで成功確率が高まるような気もしますが、建設や運輸、さらに、卸売・小売といった非製造業の中小企業もいっぱいあり、昨今の人手不足の影響はこれら非製造業の中小企業ではかなり大きいのではないか、少なくとも製造業よりもこういった非製造業への影響の方が大きそうな気もします。そういった、否定的な情報が、失敗例にせよ、人手不足の非製造業への影響にせよ、意図的に隠しているわけではないんでしょうが、ほとんど提供されておらないように見受けられなくもなく、技術力の高い製造業の成功例だけが取り上げられているおそれがあるのか、ないのか、やや気にかかるところです。

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最後に、ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) です。文庫本で出版されたので借りて読んでみました。私は単行本も読んでいて、2013年5月24日付けの読書感想文で取り上げています。その際に、私の知り合いの表現を引いて、「オーツの入門編として最適な1冊」と書いています。詳細は省略します。

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2018年2月 4日 (日)

先週の読書は興味深い経済書など計6冊!

先週の読書は、もっとペースダウンしようと考えていたものの、それでも6冊を読み切ってしまいました。まあ、軽い本が多かった気がします。今週はすでにこの週末に図書館を回って、ハンナ・ピトキン『代表の概念』とか、寺西先生の『歴史としての大衆消費社会』といったボリュームある学術書を借りていますので、冊数としてはもっとペースダウンする必要がありそうな気がします。

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まず、トム・ウェインライト『ハッパノミクス』(みすず書房) です。著者は英国エコノミスト誌のジャーナリストであり、英語の原題は Narconomics となっていて、邦訳タイトルは忠実に訳されています。2016年の出版です。著者はジャーナリストらしく、中南米の原産地やメキシコや中米の輸送経由地、米国をはじめとする先進国の消費地などをていねいに取材しています。ものすごく危険な取材であったろうと勝手ながら想像しています。私は南米の日本大使館勤務の経験がありますので、そういったウワサ話も少しは理解できますし、少なくともスペイン語は一般的な日本人のレベルよりも格段に使えますが、ジャーナリストの取材でも現地語の理解は不可欠であったろうと想像します。ということで、ドラッグの生産・流通・消費、さらに、ドラッグを扱うギャング組織の経営実態までを経済経営学的な見地から跡付けた取材結果のリポートです。経営組織の連携や離合集散など、通常の企業体ではM&Aに属する経営判断、あるいはフランチャイズやアウトソーシングなどの活動、サプライ・チェーンの管理やマーケティングなどなど、通常のグローバルなビジネスの経営と同じように、ドラッグを扱うギャング組織も極めて経済学的かつ経営学的に合理的な活動をしている実態が明らかにされています。そして、それらのギャング組織によるドラッグ蔓延を阻止すべく活動を強化している政府の活動についても分析を加えています。現在のドラッグ阻止活動の中心は供給サイドの締め付けにより、経済学的な需要供給の関係からドラッグの価格上昇をもたらして、需要を抑え込もうという点が中心になっています。タバコの需要抑制のために価格引き上げを実施するようなものであろうと理解できます。しかし、それに対して麻薬カルテル側では買い手独占で負担を農家に負わることができるため、大きな影響は受けない、という実態も明らかにされています。そして、実は、これは私が勤務した当時の大使館の大使の主張のひとつでもあったんですが、ドラッグを合法化して流通の一部なりとも政府で押さえる、そして需要サイドの中毒者を把握し、必要に応じて、集中的に治療を加える、という方策が現実味を帯びるような気がします。私は決して経済学帝国主義者ではありませんし、経済学中華思想も持っていないつもりですが、本書を読んでいると、麻薬カルテルの活動に経済学や経営学を適用すれば、実にスッキリと理解がはかどるというのも、また事実のような気がします。

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次に、『山を動かす』研究会[編]『ガバナンス改革』(日本経済新聞出版社) です。編者にはみさき投信の社長が含まれていて、そのあたりが中心か、という気もしますが、私はこの分野は詳しくありませんので、確たることは不明です。前著は『ROE最貧国 日本を変える』らしく、私は読んでいませんが、同じラインの本であり、我が国の資本生産性を上昇させることを目的にしているようです。そして、これまた私の専門外なんですが、アベノミクスの第3の矢であった成長政策のひとつの目玉が本書のタイトルとなっているガバナンス改革であったのも事実です。その中で、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードも制定され、投資家と企業の新しい関係も始まっています。ただ、ガバナンス改革については、かなり狭義に、株価上昇のための会計上の創意工夫、というややアブナい、というか、東芝なんかはそれで一線を超えてしまったようなラインで理解している向きもありそうで少し怖い気もしますので、本書のような本筋の知識を普及させることは大いに意味あることと私も理解しています。ただ、本書の中の第4章に収録されている対談にもある通り、ガバナンス改革は何らかの公的・自主的な規制やイベント、それこそ、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードの制定とか、会社法の改正による社外取締役の義務付けとかですすむのかといえば、必ずしもそうではないような気もします。すなわち、市場における投資家や情報提供に携わるエコノミストやアナリストも含めて、市場からの圧力により、「自然と」という表現は違うかもしれませんが、いつの間にか気が付いたら、「山が動いていた」、すなわち、ガバナンスが革命的に短期間で、あるいは政府や証取などの公的な機関の指導やインセンティブ付与などで、カギカッコ付きの「改革」されるものではなく、それぞれの市場の歴史的経緯の経路依存性や参加者の構成などの実情に応じて、グローバル・スタンダード的なガバナンスが各国市場に一律に適用されるのではなく、各国のその時点の市場に応じた形でガバナンスが向上する、そしてその背景では、資本の生産性が上昇している、というものではないかという気がします。その点では、労働の生産性向上と大きく違う点はないものと私は考えています。そして、これまら労働の生産性と資本の生産性のそれぞれの向上を考える際に共通して、我が国は先進国としては、いずれの生産要素の生産性も決して高いとはいえず、先進例へのキャッチアップにより要素生産性を向上させることが可能ではなかろうか、という気がします。製造業の生産性は別かもしれませんが、少なくともサービス産業の労働生産性は、資本の生産性と同じように、まだまだ我が国は遅れている面があり、同じようなことがいえるんではないかと私は考えています。

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次に、岩田正美『貧困の戦後史』(筑摩選書) です。著者は日本女子大学を代表する社会政策や社会学分野の研究者なんですが、すでに退職されて名誉教授となっているようです。本書では、上の表紙画像に見られる副題のように、貧困を量的に捉えるのではなく、かたちとして、すなわち、何らかの類型や生活実態に即して捉えようと試みています。そして、タイトル通りに、これはあとがきにもありますが、最近の貧困論や格差論はせいぜいが1990年台のバブル崩壊以降しか視野に入れていないのに対して、戦後を通じた時間的な視野を持って分析が進められています。繰り返しになりますが、著者はそれをあとがきで自慢しているんですが、そうなら、もっと時間的にさかのぼって、明治期からの近代日本をすべて視野に収めるのも一案ではないかとも思いますし、特に戦後、というか、終戦直後から分析を始めることに意味があるとは私は思いません。そして、本書の特徴は著者の専門分野からして、ある意味で当然なんですが、かなり極端な貧困、すなわち、生きるか死ぬかのボーダーラインにあるような貧困を対象にしています。終戦直後であれば、いわゆる浮浪者、現在であればホームレスといったところが対象となっており、OECD的な相対的貧困率も取り上げていたりはしますが、そんな生易しい貧困ではなく、もっと強烈な貧困に焦点を当てています。ただ、どうしても私の目から見て、本書のような社会学的な貧困分析は表面的な印象を拭えません。エコノミストの目から見て、表面的、すなわち、かなり具体的に社会的な問題となっている、というか、見つけやすい貧困を対象にしているような気がしてなりません。それは第1に、都市の中で、人としては失業者、地区としてはスラムであって、地方の農村の貧困は等閑視されがちになっています。第2に、どうしても声高な主張のできる高齢層に目が向きがちで、子どもの貧困には関心が薄いのではないかと心配になります。ですから、この点は著者が批判的な眼差しを向けている戦前的な貧困対策、すなわち、働ける医師や能力を持った失業者への対策が政策の中心をなしていて、ホームレスなどについては置き去りにされがちな傾向と、実は、軌を一にしている可能性があることを考慮するべきではないでしょうか。貧困の三大要因は、私が大学のころに習った疾病、高齢、母子家庭から40年を経て大きく変化しているわけではありません。働けない人々に対していかに社会的な生活を保証するかの観点が重要です。

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次に、芳賀徹『文明としての徳川日本』(筑摩選書) です。著者は東大名誉教授の比較文学者であり、本筋は仏文だと記憶しています。ですので、歴史学者ではありません。本書では、与謝野蕪村などを多く引用し、徳川期について西洋の中世的な暗黒時代や文化・文明の停滞期と考えるのではなく、多様な文化・文明の花咲いた完結した文明体として捉えようと試みています。ただし、私の考えるに、タイトルの「文明」はやっぱり大風呂敷を広げ過ぎであり、まあ、「文化」程度に止めておいた方がよかった気もします。そして、著者の専門分野からして、本書の冒頭でも絵画的、というか、美術的な文化・文明にも触れていますが、やっぱり、文学が本筋だという気がします。その意味で、我が国独特の短い表現形式である俳句の世界から与謝野蕪村、そして松尾芭蕉を多く取り上げているのは、なかなかいいセン行っていると思います。私が興味を持ったのは、オランダのカピタンをはじめとして、鎖国状態の中でも海外からの情報取得が活発であり、もちろん、支配階層だけのお話でしょうが、かなり熱心な情報収集を行っている点です。加えて、改めて、なんですが、文化・文明のそれなりの発展のためには平和が欠かせない、という点です。戦争状態であれば、国内の内戦であろうと、海外との戦争はいうまでもなく、文化・文明は戦争遂行、特に戦争の勝利に支配されるわけで、文化・文明の発展は大きく滞ります。その点で、天下泰平の徳川期に文化・文明は大きく発展し、識字率などの我が国国民の民度も向上し、明治期の近代化を準備したといえます。本書では、徳川期を他の日本史の時期から切り離して、単独での文化・文明を論じていますが、私は大きく我が国の近代化が進んだ明治期につながる準備期間としての徳川期の文化・文明というのも重要な観点ではないかと思います。

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次に、織田一朗『時計の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者はセイコーの前身となる服部時計店の広報などを担当してきており、時の研究家と自称しているようです。本書では、その昔からの欧州や中国における時計の歴史、日時計や水時計、もちろん、機械時計そして、現在のクオーツ時計や電波時計などの最新技術を駆使した時計まで、その歴史をひもとき、時計と時に関して技術的な、あるいは、場合よっては哲学的な知識を明らかにしています。読ませどころは、第4章のセイコーによるクオーツ時計の開発ではないでしょうか。著者ご本人が勤務していたわけですので、それなりに詳細に渡って興味深く展開しています。時計に関しては、私は朝が弱いので目覚ましがないと起きられません。時計だったり、女房に起こしてもらったりします。腕時計は、いくつか持っているんですが、 ビジネス・ユースは2つあって、いずれもオメガです。亡き父親の形見の自動巻きのコンステレーションは50年以上前のものだと思います。もうひとつの手巻きのスピードマスターは結婚前の結納で女房からもらったものです。いずれも機械時計ですので3~5年に1回位の頻度でオーバーホールしています。一度に2つともオメガの正規店に持ち込むと平気で数万円かかりますので、半額くらいで済む街中の時計店にお願いしています。他に週末の普段使いとしてスウォッチをいくつか持って使い回しています。ですから、腕時計はすべてスイス時計だという気がします。オメガは機械時計ですが、スウォッチはクオーツです。それから、時計代わりにラジオやテレビの時報などを用いるというのもありますが、テレビに時刻が表示されることもあります。朝のニュースなどです。私が南米はチリの日本大使館の経済アタッシェをしていたのは1990年代前半で、まだ日本のテレビでも分単位の時刻表示しかしていなかったところ、何と、チリの首都サンティアゴのテレビは秒単位の時刻表示をしていて、少し驚いたことがあります。そして、もっとびっくりしたのは、テレビ局によってかなり表示時刻が違っていることです。曲によっては平気で2分くらい違います。日本では考えられないことだと思いました。また、南半球のクリスマスやお正月は真夏の季節なんですが、ラジオも曲によって時報がズレています。南半球の真夏の年越しカウントダウンに参加したことがあるんですが、あるラジオ局を聞いているグループは、我々よりも1分くらい早く新年を迎え、我々のグループはそこから1分あまり遅れて新年を迎えてクラッカーを鳴らしたことを記憶しています。ラジオ局やテレビ局によって独自の時報の設定がなされていたようです。ラテンの国らしく、とてもいい加減だと感じざるを得ませんでした。

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最後に、マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』(ハヤカワ文庫NF) です。著者は米国の宇宙望遠鏡科学研空所に勤務する天体物理学の研究者です。名前を素直に読むとイタリア人っぽく聞こえるんではないでしょうか。英語の原題は Is God a Mathematician? であり、邦訳タイトルは忠実に訳されているようです。原書は2009年の出版であり、2011年出版の邦訳単行本が文庫本として出されたので読んでみました。著者の邦訳は3冊目らしく、第1作は『黄金比はすべてを美しくするか?』、第2作は『黄金比はすべてを美しくするか?』となっています。本書では、特に、「数学の不条理な有効性」と著者が呼ぶもの、すなわち「何故数学は自然界を説明するのにこれほどまで有効なのか?」について、ピタゴラス、プラトン、アルキメデスなどの古典古代から始まって、ガリレオ、デカルト、ニュートンなどの中世から近代にかけて、そして、もちろん、ユークリッド幾何学の否定から始まったリーマン幾何学を基礎としたアインシュタインの相対性理論、さらに、数学というよりも論理学に近い不完全性定理を証明したゲーデルなどなど、数学の発展の歴史をたどりながら論じています。本書でプラトンが重視されているのは、プラトンは本来は数学分野の功績はないものの、数学は発見されたのか、発明されたのか、という問いに関係しているからです。すなわち、プラトン的な見方からすれば自然の中にすべてが含まれているわけであり、数学も自然になかにあることから、人間が自然を記述するために発明したのではなく、もともと自然の中にある数学を発見した、ということになります。私はこういった哲学的な観点は興味ありませんが、エコノミストの目から見ても、少なくとも、自然科学だけでなく、経済的な現象、というか、モデルの記述には数学がとても適しています。南米駐在の折は経済アタッシェとはいえ、外交活動、というか、社交的な活動が中心だったんですが、ジャカルタではゴリゴリのエコノミストの活動で、いくつか英語で学術論文を書いたりしていましたので、数学の数式でモデルを提示するのは英語という外国語で記述するよりも格段に論理的かつ便利であることを実感しました。アムエルソン教授の何かの本の扉に「数学もまた言語なり」というのがあったのを思い出した次第です。

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2018年1月27日 (土)

なかなかペースダウンできずに今週の読書はやっぱり7冊!

先週の読書は明らかにオーバーペースでしたが、今週もやや読みすぎたきらいがあり、計7冊に上りました。やっぱり、睡眠時間を犠牲にして読書しているんでしょうね。来週はペースダウンしたいと思います。

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まず、キャス・サンスティーン『シンプルな政府』(NTT出版) です。著者はハーバード大学教授であり、本来の専門分野は憲法だと記憶しているんですが、私の専門分野との関係では行動経済学にも深い見識を有しています。そのため、第1期のオバマ米国政権において米国大統領府の行政管理予算局のひとつの組織である情報・規制問題室長を務めています。この組織は本書でOIRAとして頻出しますし、主として、本書の内容はこの政府における活動を中心に据えています。ですから、2013年に出版された英語の原書の原題は、上の表紙画像に見られる通り、Simpler とされています。ただ、邦訳タイトルのように政府の規制のあり方だけを論じているわけではありません。ということで、政府規制を中心に据えつつも、幅広く行動経済学を論じています。もっとも、政府の公職を離れた後で上梓した本ですので、ハッキリいって、そうたいした内容ではありません。このブログでは取り上げなかったと記憶していますが、日本で本書の直前のこの著者の出版に当たる『賢い組織は「みんな」で決める』が、同じ出版社から出ており、コチラの方がレビューの星が多そうなきがします。もっとも、アマゾンの例では、『賢い組織は「みんな」で決める』はまだレビューがなく、本書『シンプルな政府』は星3つです。まあ、可もなく不可もなく、といった内容だという気がします。政府内での規制の実践が中心をなしていますので、そんなに突飛な実験もできないわけで、それはそれで仕方ない気もする一方で、行動経済学の政府における実践編としては貴重な実証記録なのかもしれません。繰り返しになりますが、本書の特徴をまとめると、行動経済学の新しい理論面を開拓するのではなく、米国政府における実践結果として評価すべきかもしれません。

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次に、ダニエル・コーシャン/グラント・ウェルカー『奇跡のスーパーマーケット』(集英社インターナショナル) です。著者の2人はビジネス・スクールでCERを専門とする研究者とこの本野部隊となるん米国ニューイングランドの地方紙のジャーナリストです。英語の原題は We Are Market Basket であり、日本では、フジテレビの「奇跡体験アンビリーバボー!」で11月に放送された米国ニューイングランドのそこそこ大手のスーパーマーケットの物語です。要するに、スーパーマーケットのファミリー・ビジネスの継承で、一方が典型的な日本的浪花節の世界の経営者アーサーT.で、顧客を大切にし、取引先のサプライヤーも地元から選んでムリをいうこともなく、従業員にも十分な利益還元や就業条件で報いていた一方で、ファミリー・ビジネスのもう一方の大株主の従兄弟アーサーS.はビジネス・スクールを出たエリートで、会社は株主のためにあるというガバナンスを信条に、顧客には売れるだけ高く売りつけ、納入業者を締め上げ、従業員はこき使う、という経営をしたわけです。アーサーT.のいかにも日本的なCSRを重視する経営者からアーサーS.のエリート経営者に経営の実権が移り、従業員はもとより、顧客、納入業者までが一致団結してデモを繰り返し、最後には州議会議員や州知事まで介入して、CSR重視の経営者アーサーT.にアーサーS.から株式が売却され、経営の実権が戻されるように取り計らい、めでたくも抗議行動が集結した、というものです。ただ、本書の著者たちは冷静で、「めでたし、めでたし」で終わるのではなく、返り咲いた経営者アーサーT.が株式を購入するに当たっての借り入れの資金コスト負担、従業員を大切にする長期雇用下で、今回の抗議行動の立役者などの昇進を望む圧力など、今後の先行きの経営の不透明さも浮き彫りにしています。日本的経営を手放しで賞賛するだけでなく、そのコスト面も視野に入れた冷静な分析結果が提供されています。そういった意味で、なかなかの秀作です。

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次に、ウォルフガング・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(河出書房新社) です。著者はドイツ人の社会学者であり、マックス・プランク研究所やケルン大学をホームグラウンドにしています。前作の『時間かせぎの資本主義』(みすず書房)は私も読んでいて、このブログの2016年7月30日付けの読書感想文で取り上げています。ハッキリいって、前著の方が出来がよく、1980年代の米国レーガン政権や英国サッチャー政権から本格的に始まった新自由主義的な経済政策が最終的に今世紀のリーマン・ショック、というか、本書の表現では世界的により広く流布している「グレート・リセッション」で世界経済の停滞がピークを迎えたと分析し、銀行危機・国家債務危機・実体経済危機という三重の危機を迎えたとの認識が示されていましたが、本書ではどうもつながりのよくない単発の論文を合本したような印象で、特に、第6章以降はまとまりのなさが露呈していると私は受け止めています。第5章までの議論では資本主義と民主主義が近代の初めから「できちゃった結婚」により、手を携えて発展して来たものの、21世紀の現在では市民社会に根差した民主主義が大きく後景に退き、それが資本主義の矛盾を大きくするとともに、格差の拡大や危機の深化などの資本主義の終焉に向かう動きを強めている、という主張ではないかと忖度するんですが、当然のことながら、資本主義の後の経済体制に関する考察を欠きます。その昔のマルクス主義では、さすがに先進国での暴力革命による政権転覆は非現実的としても、また同時に、成熟した先進国の民主主義を経た現状では、プロレタリアート独裁も考えられないとしても、これらの暴力革命やプロレタリアート独裁に代わる成熟した民主主義を代替案と出来るとしても、市場経済に基づく資本主義にとってかわる社会主義、すなわち、中央指令に基づく集産主義的な経済体制については、マルクス主義的な将来像に対する何らかの代替案が欲しかった気がします。格差の是正や民主主義の徹底などは、マルクス主義でなくても、社会民主主義的な改良主義でも、ある程度実現可能と考えられるわけですから、社会民主主義を超えるマルクス主義の主張を正当化するための議論も必要ではないでしょうか。実は、私も資本主義は終わる方向に向かっていると考えているんですが、どう終わるかも重要ですが、その先に何が待っているのかも不可欠の議論の対象だと思います。

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次に、若森章孝・植村邦彦『壊れゆく資本主義をどう生きるか』(唯学書房) です。著者はマルクス主義の研究者であり、本書もマルクス主義の観点から資本主義の終焉や最終段階説を取っています。というのは、約100年前のロシア革命によりソ連が成立してから、資本主義の最終段階説が登場し、今にも世界各国で社会主義革命が起こる、といわれ続けて100年を経て、その前にソ連的なコミンテルン型の社会主義が先に崩壊したわけです。本書ではウォーラーステインの歴史観に基づきつつ、資本主義の最後の世界、特に、1980年ころに成立した英国サッチャー政権や米国レーガン政権以降の新自由主義主義的な経済政策の下で、成長率が向上しない一方で企業部門が利潤を上げながらも労働者にその成果は分配されず、格差が拡大し資本主義の腐敗が進し、同時に民主主義が崩壊に向かって、市民社会も危機に瀕する、という歴史観を共有しています。ただ、完全な共産党員である英国のホブズボームと違って、米国のウォーラーステインはより社会民主主義的であり、改良主義的です。ですから、私が常々疑問に感じている暴力革命とプロレタリアート独裁は必要ではないという立場のように見受けられます。同時に本書では、どうも、後づけのような気もしますが、米国トランプ政権の成立や英国のBREXITなどのポピュリズムの台頭を念頭に置きつつ、深刻化する世界的な分断と排除の根源にはナショナリズム/レイシズム/階級問題があると指摘します。この三位一体構造が私には理解できないんですが、流行を捉えているということは、決して悪いことではありません。ただ、本書の場合、各章の後半部分の対談の収録はカンベンして欲しかった気がします。別の表現をすれば、キチンとした学術書、でなくても専門書か教養書に仕上げて欲しかったと思います。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』(朝日新聞出版) です。同じ著者による同じ出版社からの『世界をつくった6つの革命』に続く第2段といえ、英語の原題は上野表紙画像に見える通り、Wonderland であり、2016年の出版です。著者はよくわからないんですが、ジャーナリスト出身のノンフィクションライターではないかと思います。前著の6つの革命は、ガラス、冷たさ、音、清潔、時間、光、で、とても判りやすくてよかったんですが、本書の6つの気晴らしは、ファッションとショッピング、音楽、特にひとりでに鳴る楽器、コショウや味覚、イリュージョン、ゲーム、レジャーランドなどのパブリック・スペース、となっています。本のタイトルも、章のタイトルも、邦訳はかなり苦しく、少しムリをしている嫌いがあります。特に、最後の章のレジャーランドについては、むしろ、公園なども含めたパブリックなスペースの意味なんですが、日本語では「パブリック」はプライベート=私的の反対で公共の意味をもたせる場合が多く、少し邦訳に苦労している様子がうかがえます。本書での気晴らしについても、第3章の食生活なんて、衣食住の人類の生活に不可欠な要素であって、決して気晴らしではないと思いますし、中身としても、このブログでは取り上げていなかったような気もしますが、前著の『世界をつくった6つの革命』の方が出来がいいような気がします。少なくとも併せて読むべきではないかと思います。どちらか1冊だけ、ということであれば、本書ではなく前著の『世界をつくった6つの革命』の方を私はオススメします。

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次に、今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社) です。作者は新人ミステリ作家であり、この作品は第27回鮎川哲也賞受賞作です。小説のタイトルとなっている「屍人荘」は作品中では、どこかの大学の映画サークルが合宿をする「紫湛荘」であり、主人公は大学1年生で、多くの登場人物も大学生というてんでは、いわば、青春小説でもあったりします。しかし、他方で、クローズド・サークル内での殺人事件に対する本格的なミステリとなっています。そして、きわめて独創的なのがクローズド・サークルの発生であり、通常のような吹雪などの気象条件とか、がけ崩れなどの事故とかではなく、生物兵器的なテロによって一種の細菌がばらまかれ、特に伏字とするべきxxxが発生して、一部の登場人物の大学生などもこれに感染してxxx化した中で、その紫湛荘への襲撃を防止しつつ、クローズド・サークル内の殺人事件を解決する、という立てつけとなっています。しかもしかもで、伏字としているxxxも単にクローズド・サークルを形成しているだけでなく、もっと積極果敢な(謎?)役割を果たしたりしています。ホラーとミステリの要素を合体させた作品ですから、この両者の合体自体は江戸川乱歩にさかのぼるまでもなく、決してめずらしいわけではありませんが、xxxの発生によりクローズド・サークルを発生させるというのは、管見の限りなかったような気がします。xxxの駆除、というか、撲滅、というか、何というか、については詳細は明らかにされていませんが、クローズド・サークル内の殺人事件の謎解きは本格的なミステリ作品ですし、私から見ればなかなかのミステリに仕上がっている一方で、読み手によっては評価は分かれる可能性があります。特に、キャラの設定が工夫はしているものの、ややありきたりな印象です。アマゾンのレビューでは星5ツから1ツまで、大きく評価が分かれていますが、私はこの本を買って読みましたが、先々週の読書感想文で取り上げた辻村深月『かがみの孤城』と貴志祐介『ミステリークロック』に比べれば、新人作家ながら「買ってよかった感」を強く持ちます。

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最後に、ロナルド A. ノックス/アントニイ・バークリーほか『シャーロック・ホームズの栄冠』(創元推理文庫) です。論創社から2007年に出版されていた同名の単行本が創元推理文庫で昨年に出版されましたので読んでみました。なお、単行本が出版された折に、2007年はホームズ生誕120年であるとされていましたので、昨年2017年は生誕130年、というか、登場から130年なのかもしれません。本書は5部構成となっており、第1部王道篇、第2部もどき篇、第3部語られざる事件篇、第4部対決篇、第5部異色篇です。未訳の短編作品を中心に、まさに、ホームズのパスティーシュといえるものから、ジョークでしかないものまで、ホームズの物語が取り上げられています。必ずしもミステリだけではありません。第1部はジョークもないわけではないものの、文字通りの堂々たるパスティーシュが多く収録されており、第2部はホームズ・ワトソンのコンビになぞらえた推理探偵と語り部のコンビによるミステリが中心となり、第3部では、ドイル著のホームズ小説で事件名のみが取り上げられて、中身の不明な事件について明らかにされており、第4部ではホームズ以外の著名な探偵であるデュパンや007ジェームズ・ボンドとの対決があり、最後の第5部では雑多な短編が収録されています。

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2018年1月20日 (土)

今週の読書は専門の開発経済学をはじめ多岐に渡り大量に計8冊!

先週末に図書館からかなり大量に借りてしまい、今週の読書は開発経済学や日本経済などの高度成長期研究などの私の専門分野、さらに教育や医療といった経済に大きく関連する分野の専門書、さらに直木賞候補に上げられた小説まで含めて、以下の通りの計8冊です。来週はもっとペースダウンしたいと考えています。

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まず、デイビッド・ヒューム『貧しい人を助ける理由』(日本評論社) です。著者は英国マンチェスター大学の開発経済学の研究者であり、邦訳にはJETROアジ研のグループが当たっています。英語の原題は should Rich Nations Help the Poor? であり、著者や私を含む多くの読者は Yes の回答を持っているものと想像しています。原書は2016年の出版です。ということで、本書ではまったく触れられていませんが、英国マンチェスター大学といえば、唯一黒人でノーベル経済学賞を授賞されたアーサー・ルイス卿が米国のプリンストン大学に移る前に在籍し、かの有名な二重経済を論じた "Economic Development with Unlimited Supplies of Labor" はマンチェスター大学の紀要論文として取りまとめられていると私は記憶しています。開発経済学を専門とする私としても、印刷物の実物は見たことがありませんが、何度も論文で引用していたりします。その著者が本書で論ずるに、豊かな国が貧しい人々を助ける理由として2点上げており、第1点目は倫理的な理由です。本書では正義感と表現しているところもあります。いかなる観点からも文句のつけようのない理由です。第2点目が、少し議論が必要かもしれませんが、日本的な表現をすれば「情けは人の為ならず、回り回って自分の為」というような観点ながら、要するに自国ないし自国民のためという理由であり、広く自分のためといいつつも、より正しく表現すれば、共通利益の実現、ということになります。ですから、豊かな国が援助するとしても、いろんな手段があるわけで、無償のヒモ付きですらない援助、償還を前提とする借款、人的な技術援助、そして、市場外の政府間の援助ではなく市場ベースで行われる直接投資や何らかの資本流入、その他、いろいろな先進国や豊かな国からの開発援助や市場ベースの技術や資金の流入があります。その上で、先ほどの共通利益の実現として、典型的には地球環境の保護、不平等の是正などを目指した活動があります。私は、本書では過去のものと見なされている「ビッグ・プッシュ」による開発促進はまだ有効であると考えており、ほかにも、必ずしも「フェア・トレード」を促進することが開発につながるかどうかには疑問を持っていたりします。開発初期には、クズネッツの逆U字カーブを持ち出すまでもなく、また、我が国などの女工哀史のような歴史に言及せずとも、何らかの開発に伴う犠牲は考えられます。こういった私の見方も含めて、開発経済学にはいろんな考えがあるんですが、それらを包含して、幅広い開発への合意形成もこういった著作から目指すのもとても意味あることだと私は思います。


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次に、マイク・レヴィンソン『例外時代』(みすす書房) です。著者はドイツ生まれの英国「エコノミスト」誌の編集者であり、本書の英語の原題は An Extraordinary Time であり、2016年の出版です。本書では、戦後1950-60年代の世界的な高度成長期を例外時代と見なし、現在の低成長の時期こそがノーマル、というか、普通=ordinaryなのだと主張しています。まあ、当然です。戦後の高度成長期に関しては、私も開発経済学の観点から研究対象とし、一昨年に "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" と題する学術論文を役所の同僚と共著で取りまとめ、昨年には所属学会である国債開発学会の年次大会にて学会発表しています。私の論文は高度成長期における経済計画の重要性に着目した内容ですが、本書でも、第1章の最後の方で経済計画の役割、特に、明記はしていませんが、我が国では通産省の産業政策と経済企画庁の経済計画の組み合わせによる行政指導を含む助言と指導が高度経済成長に大きな役割を果たした点を明らかにしています。ただ、本書では1973年の第1次石油危機により世界的に高度成長が終了したと示唆しており、私の理解とは少し違っています。すなわち、私はこれも役所の同僚、何と、今では日銀政策委員までご出世された先輩との共著で「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」 と題する学術論文を取りまとめており、この論文では、1970年代に高度成長を終了させ、その後の成長率を屈折させたものは、石油ショックや技術格差の縮小のような外的な要因ではなく、外的なショックに対して日本経済が反応する力の弱くなったことにある、と結論しています。そして、この論文では定量的な分析は提示できていないものの、アーサー・ルイス卿による二重経済の解消過程における労働力のシフトが高度成長をもたらした、と私は考えています。ですから、高度成長は戦後経済における1回限りの経済現象であったわけです。それは日本に限らず、欧米諸国でも同じことが当てはまります。同じことは本書の著者も理解しているようで、p.304 には、「戦後すぐに生産的な仕事へと移行していた未活用の膨大な労働力は、もうあてにできなかった。」と表現されています。おそらく、中国でも同じことでしょう。

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次に、高田創[編著]『異次元緩和脱出』(日本経済新聞出版社) です。編著者はみずほ総研に3人いるチーフエコノミストの1人であり、著者人はみずほ総研の研究者で固めているようです。本書では、現在の5年近く続いた黒田総裁の下での日銀の異次元緩和の出口について、テーパリングではなく金利引上げの観点から、いくつかのシナリオを考えた上でシミュレーションを行い、異次元緩和の出口戦略の考察を進めています。ということなんですが、出口に達する前に、まず、出口を判定する基準のようなものについて考えており、3つほどのケースを取り上げています。私はその中では、本書でいうところの「OKルール」なんだろうという気がします。すなわち、コアCPIの+2%上昇に達しないながらも、景気も含めて総合的に判断すればデフレを脱却した、という名目の下で出口戦略を開始する、というものです。ただ、本書で触れられていないのは為替に対する影響です。すなわち、私のような単純な頭で考えれば、物価上昇が+2%に達しなければ、もしも、米国や欧州が+2%の物価上昇を達成しているならば、購買力平価の観点から円高に振れかねない、という懸念があったんですが、どうも、米国もユーロ圏欧州も物価上昇率は必ずしも安定的に+2%に達しているわけでもなく、「まあいいか、OKか」という雰囲気が広がるのも理解できるところです。そして、この異次元緩和の出口に対応して、8つのシナリオを本書では用意しています。本書の p.125 に並べられています。債務超過に陥らないように日銀財務の収支を考慮するとともに、金利水準そのものに加えて、イールド・カーブの傾き、すなわち、長短金利差も含めた8つのシナリオです。その上で、日銀財務、政府債務残高と金融機関経営の三位一体の影響をシミュレーションしています。テーパリングではなく金利引上げを出口戦略の主たる対象としてますので、貯蓄投資バランス次第という気もしますが、伝統的な経済学では企業部門は投資超過、家計部門は貯蓄超過、政府と海外は適宜、と考えられている一方で、現時点では、事業会社を中心とする企業部門は、かなりの程度に投資超過を解消しており、貯蓄超過の企業も少なくなく、家計は伝統的に貯蓄超過となっていて、政府部門が大きく投資超過となっています。単純に考えると、金利が上昇すれば投資超過主体から貯蓄超過主体に所得が移転されます。ですから、金利上昇でもっとも大きなダメージを受けるのは、現時点の日本では政府です。そして、金利の絶対水準が上昇すれば、利ザヤを抜きやすくなるという意味で銀行をはじめとする金融機関の経営には朗報といえます。もちろん、本書で用意されたいくつかのシナリオで違いはありますが、基本ラインはこの通りではないかという気がします。そして、そこは金融機関から独立したシンクタンクらしく、というか、何というか、みずほFGのシンクタンクとして本書では金融機関の経営にも目配りし、少なくとも、私のような少数派のエコノミスト以外は多くの見方が一致する可能性のある「永遠のゼロ」は最もリスクが大きい、と結論しています。私は本書で指摘されている「悪い金利上昇」、すなわち、リスク・プレミアムによる金利上昇が最悪のケースではないかと考えていますので、半分とはいわないまでも、いくぶんなりとも金融機関のポジション・トークを本書は含んでいる気はしますが、現在の日銀の異次元緩和の出口戦略を考えるアタマの体操、ということで何らかの参考にはなりそうな気もします。

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次に、エリック・ホブズボーム『いかに世界を変革するか』(作品社) です。著者は著名な英国のマルクス主義歴史学者であり、数年前に亡くなっています。原書の英語タイ トルは "How to Change the World" であり、2010年の出版です。日本語版では解説のたぐいや編集後記などを含めて、ラクに600ページを超える大作に仕上がっています。単純な2部構成となっており、第1部ではマルクスとエンゲルスの人物像を明らかにし、第2部で彼らの思想というか、マルクス主義について考察を進め、最後の方ではマルクス主義の歴史、特に欧州での共産主義の歴史が焦点となっている、という印象です。特に、イタリア共産党のグラムシについて注目しており、その後の欧州におけるユーロコミュニズムの展開や、逆に、ソ連型社会主義の崩壊まで視野に入れて歴史を論じています。そして、ホブズボーム教授によれば20世紀は短いようですので、その対となる21世紀は長そうだ、という予感めいたもので締めくくられています。社会科学の分野におけるマルクス主義の影響については、もっとも影響力が大きかったのは歴史学であり、経済学はマルクス主義に対して「冷淡」と評価されています。私自身はその中間領域、というか、大学生のころは経済史を専攻していて、その後は経済発展の歴史を基に開発経済学を発展途上国や新興国に適用しようとしているわけですが、いずれにせよ、歴史をマルクス主義的に発展論として解釈すれば、本書でも何度か指摘されている通り、アジア的、古典的、封建的、そして近代ブルジョワ的な生産様式となり、その後に、マルクス主義では社会主義と共産主義がやって来る、という歴史観になっています。しかし、少なくとも、暴力革命とか、プロレタリア独裁とか、中央指令経済、とかはかなりの程度に、それこそ「冷淡」にエコノミストから見られていることは確かです。社会運動としてのマルクス主義の歴史としても、戦前期に反ファシズム、反ナチスとしてコミンテルンで統一戦線理論が発展し、戦後は、本書でも指摘されている通り、1970年代にユーロコミュニズムとして、この場合、ユーロコミュニズムには発達した先進国としての日本も含めて、特に大陸欧州で共産党が選挙の場を通じて躍進する時代もありましたが、1980年代の米国のレーガン政権と英国のサッチャー政権を経て、1990年代には大きく退潮していますし、21世紀に入っても飛躍的な復活がなされているとは、少なくとも私は考えていません。資本制生産様式が生産力の桎梏となりつつあるかに見え、いくつかの危機が先進国を襲う中で、かつてのソ連や中国のような暴力革命はもはや考えられませんし、マルクス主義的なプロレタリアート独裁や中央指令経済に代わる何かを提案できる段階にあるとも、私は考えていません。資本主義の次なる時代を残り少ない寿命で私は見ることができるのでしょうか?

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次に、ルーシー・クレハン『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』(早川書房) です。著者は英国の中学校の理科の教師であり、OECDのPISAの結果を受けて、その高スコア国5か国を巡る旅の資金をクラウド・ファンディングで集めて本書を仕上げています。英語の原題は Cleverlands であり、2016年の出版です。東大の苅谷剛彦教授が巻末に解説を寄せています。邦訳タイトルは、不正確であるともいえますが、出版不況の中で売上げを伸ばすための方便と受け止めておきます。ですから、PISA高スコア国5か国のうちに日本を含むのは当然ですが、英国は含まれておらず、日本以外の4国はフィンランド、シンガポール、上海、カナダとなっており、いわゆる西欧諸国は含まれていません。5歳児から学校教育を開始して教育課程の早い段階で分岐させる英国スタイルと違って、7歳児から学校教育を初めてかなり遅い時点まで高等教育と職業訓練の分岐点を設けずに包摂的な教育を特徴とするフィンランド、グループの集団責任や横並びの教育を重視し、フィンランドと同じように15歳時点まで高等教育=大学進学と職業訓練の分岐を設けない日本、12歳の小学校卒業時点でその名も小学校卒業試験(PSLE)という大きな分岐点を設けて競争の激しいシンガポール、しかも、シンガポールでは優生学的に優秀な遺伝子を持つ子供の誕生の促進までやっているそうです。加えて、中国では18歳時点で大学入試統一試験として実施される高考における競争の激しさが特筆され、カナダでは移民も含めた多様性な人口構成が高成績につながるシステムが紹介されます。各国3章が割かれており、計15章あって、冒頭の章に加えて、最後にもコンクルージョンの章を置き、そして、何よりも本書の特徴は最終章でPISAの高スコアの背景で犠牲になったものがあるかどうかを考察していることです。ただ、私がもっと知りたかった点が2点、残された課題があると考えています。すなわち、PISAというのは典型的に認知能力、平たくいえば学力を測定する目的で実施されていますが、非認知能力、例えば、途中で諦めずに粘り強くやり抜く能力、周囲と協調して何かを進める能力、マシュマロ・テストのような我慢強さなどなど、今までは認知能力に資する範囲でしか論じられてきませんでしたが、本書でも非認知能力はそれほど注目していません。そして、エコノミストの関心として教育が生産性に及ぼす影響、すなわち、教育と就業のリンケージです。この2点はもう少し掘り下げた分析が必要かという気がしますが、まあ、本書のスコープ外なんでしょうね。

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次に、武久洋三『こうすれば日本の医療費を半減できる』(中央公論新社) です。著者はリハビリ医であり、リハビリなどの慢性医療系の病院を多数経営する経営者でもあります。本書では一般病院たる急性期病院と慢性期病院を区別し、リハビリ医らしくリハビリにより早期の回復を目指すことにより、高齢化が進むわが国の医療費の軽減を図る方策について検討を加えています。冒頭章では寝たきり高齢者は病院における不適切な食生活や長過ぎる入院期間によって生じるとされ、その代替案として著者の専門領域であるリハビリの重視が提示されます。その後、厚生労働省などによる不適切なインセンティブ付与などにより病院経営が歪められ、入院期間の長期化や過剰な投薬、あるいは、ベッドでの安静の強要などが、かえって寝たきり高齢者の増加を招いている実態が明らかにされます。残りは、ご高齢のリハビリ医ですので、自慢話やリハビリ中華思想、あるいは、リハビリ帝国主義の開陳に終わっている部分も少なくないんですが、足腰が立たなくなって車椅子生活になっても、自己嚥下による食生活の充実と下の世話にならない排泄の自己処理の重要性については、高齢者の入り口である還暦を迎える身として大いに同意するところがありました。何か別の本で読んだ記憶がありますが、地下鉄や電車に乗っていると、「お客様ご案内中です」という、いかにも車椅子乗車の補助をしたことを自慢するかのようなアナウンスを聞く場合がありますが、車椅子の補助は駅員さんが喜んでやってくれる一方で、トイレに連れて行って下の世話をしてくれるかどうかは不安が残ります。ですから、とても共感できる部分がありました。また、自力か車椅子かは問わずに、出歩けるかどうかについて、私はこの2~3年位前から、特に自転車でできる限り出歩くようにしています。その昔のステレオ・タイプのテレビドラマなんぞで、年寄りが元気なころは自宅でゴロゴロしている一方で、車椅子生活になった途端に××に行きたいといい出した挙句に、車椅子を押してくれない家族に冷たく当たる、といったシーンが思い出されて、その逆をする、すなわち、出歩けるうちに自力で出歩いておいて、足腰が不自由になれば自宅でごろごろする、というのを実践すべく予定しています。もっとも、予定はあくまで予定なので、そのとおりに実行できるかどうかは不明だったりします。

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次に、柚木麻子『BUTTER』(新潮社) です。直木賞候補作に上げられましたが、惜しくも受賞は逃しました。実は、まったくの根拠ない直感で、この作品が直木賞を受賞するような気がしたので延々と待つのを覚悟の上で図書館に予約しましたが、読んでみて、『月の満ち欠け』のような完成度はないと実感させられました。結婚詐欺の末に男性3人を殺害したとされる容疑者、というか、すでに裁判になっていて地裁段階の一審判決は出ているので、被告、というべきかという気もしますが、この取材対象者に対して、30代女性の週刊誌記者が拘置所に通ってインタビューにこぎつけながら、取材を重ねるうちに欲望と快楽に忠実な被告の言動に翻弄されるようになって、結局、他社のアテ取材にされてしまって、記事が捏造に近い扱いを受けて、記者としての生命を絶たれ、友人との関係も一時的ながらマズくなる、というストーリーであり、題材は10年近く前の木嶋佳苗事件ではないかと思われます。その取材対象の被告の最大の結婚詐欺の武器だったものが料理であり、特に、フランス料理系のバターを多用する料理、しかも、取材対象者の新潟の郷里の近所に住む幼なじみが酪農を営み、濃厚な乳製品を小さいころから愛用していた、というのがタイトルになっているようです。『小説 新潮』の連載が単行本として出版されています。ということで、かなりしっかりした長編小説であって、女性心理を主人公と取材対象者はいうまでもなく、主人公周辺の母親、大学の同級生、職場の新入社員、などなどのさまざまに異なるキャラクターから描写し、もちろん、正常な女性心理とともに犯罪者の女性心理も余すところなく取り上げています。同時に、大学時代の友人夫婦の不妊治療などを題材にして、男女間の昔ながらの役割分担、特に、家庭内の専業主婦の役割観、若い女性の体型に対する厳しい見方、身長は努力でどうにかできる範囲が小さいのに対して、体重や体型は努力の余地が大きいことから、そういった努力不足に対する非難めいた見方など、特に、そういった見方が若い女性に集中する社会的な風潮などについても、決してそれが犯罪の情状材料になることはないとしても、そういった社会的な歪みをそれなりに違和感を持って描き出しています。ただ、れっきとした犯罪行為に対する倫理観というものが、私の見方からすればやや不満が残りました。同様に批判されるべき行為だとしても、犯罪とギリギリであっても犯罪でない行為には、もちろん、思想信条の自由から思考として持っている場合はいうに及ばず、社会的に許容する範囲は違う、と私は考えています。論評ではなく小説ですので、それはそれなりに解釈すべきですが、私の見方からすれば、やや得点を落とした気がします。逆に、なかなかのボリュームの長編でありながら、行きつくヒマもなく読み切らせる構成力と表現力は、小説家としての力量を感じさせます。

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最後に、滝田洋一『今そこにあるバブル』(日経プレミアシリーズ) です。著者は為替関連の著作も少なくない日経新聞のジャーナリストです。ということで、冒頭から1980年代終わりにバブル経済期を思わせる六本木でのタクシー乗車のシーンなどから始まり、日米欧の先進各国の金融当局による大規模な金融緩和に伴って、いわゆるカネ余りで資産価格の上昇が生じているように見えるいくつかのシーンをトピック的に紹介しています。その中心はREITであり、バブル経済期の土地神話を思い起こさせますが、本書の著者も認めているように不動産価格の高騰は今のところ生じている気配はありません。むしろ、すでに落ちてしまいましたが仮想通貨の高騰は、本書が出版された昨年2017年年央には見られていたかもしれません。本書では金融政策に対して、それなりにバブル警戒の視点を持ちつつも、同時に、翁教授を名指しで批判し、リーマン・ショック後の大きな景気後退期にイノベーションによる経済成長なんて非現実な対応を否定的に紹介しています。ただし、私のようなリフレ派の官庁エコノミストから見れば、なかなかにナローパスの経済政策運営を強いられている印象があり、現状の潜在成長率を少し超えたくらいの+1%少々の経済成長では物足りない感が広くメディアなどで表明され、同時に、不平等感の上昇もあって、国民の間で景気拡大の実感が乏しいとも聞き及ぶ一方で、本書のようにバブル警戒の意見もあるとすれば、一体全体、国民の経済政策運営のコンセンサスがどのあたりにあるのか、まったく視界不良に陥ってしまいます。もっと成長率を高くし、景気拡大の実感を強める方向の意見がある一方で、そろそろ引き締めを視野に入れた政策運営が求められるとすれば、方向感覚としては大きな矛盾を抱えることになります。中央銀行たる日銀は物価上昇をターゲットに、おそらく、景気循環の1循環くらいの時間軸で金融政策運営を行っているのに対して、政府の経済政策のスタンスはもっと長期の視野を持っています。教育なんぞで「国家100年の大計」とまではいいませんが、景気循環の秋季を超えたもう少し中長期的な経済政策のあり方を模索するわけですが、いろんなご意見を聞くうちに混乱しそうで少し怖い気がします。

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