2023年9月23日 (土)

今週の読書は経済書に小説や新書を合わせて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)は、経済の基盤をなす信頼についてゲーム論を援用しつつ分析しています。池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)は、父親の郷里の田舎に移住したミステリ作家の周囲で起こる事件の謎を解き明かすミステリです。宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、大津に住む女子中学生・高校生を主人公に「滋賀愛」あふれる小説です。安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)は、双子研究の成果も踏まえて教育よりも遺伝が強力である点を明らかにしています。島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)は、世界的な帝国における宗教の役割を歴史的に明らかにしています。最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)は、ニートの若者が遺産相続した保養所のある離島に送り込まれて、移住してくる仲間を探して生活を成り立たせます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~8月に76冊の後、今週ポストする6冊を入れて9月には28冊を読み、今年の新刊書の読書は合わせて148冊となります。
なお、新刊書読書ではありませんが、50年近く前に出版された堺屋太一『団塊の世代』を読んでいます。Facebookでシェアしてあります。

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まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、米国ヴァッサー大学の研究者であり、専門は行動経済学だそうです。どうでもいいことながら、私はヴァッサー大学といえば米国東海岸のアイビー・リーグにも相当するくらいの名門女子大学といわれるセヴン・シスターズの一角だと思っていたのですが、とうの大昔から共学化されているようです。英語の原題は Why Trust Matters であり、2021年の出版です。ということで、本書は出版社からして基本的に学術書なのですが、著者は行動経済学の専門とはいえゲーム理論をもって信頼の経済学を展開していますので、それほど難しい内容ではありません。私はゲーム理論やマイクロな経済学はまったくの専門外なのですが、読んでいて十分に理解できました。ただ、最近の全米経済研究所(NBER)のワーキングペーパーとして私が読んだ "Mistrust, Misperception, and Misunderstanding: Imperfect Information and Conflict Dynamics" で取り上げられているような国際関係の分析に用いられる one-shot security dilemma/spiral model などではなく、個人の意思決定、すなわち、ミクロ経済学の理論で行動や選択を主眼にしています。ですので、最初に生物学的な基礎として、オキシトシンといった脳内分泌物質のお話から始まります。私の苦手な分野です。ただ、貨幣が市場取引において一般的な受容性を持つ点とか、信頼の重要性は経済学でも重要ですから、そういった分析は本書でも十分なされています。私の場合、基本的に、信頼という個人的、あるいは、集団的な認識の問題ではなく、経済学においては情報の問題として分析されるべきだと考えています。この情報本質論については、本書では実にサラッとしか言及されていません。ミクロ経済学にせよ、マクロ経済学にせよ、経済学で考える経済主体は個人ないし家計と企業と政府が国内経済主体となり、海外経済主体も開放経済では考えます。身近な個人、親戚とか大学の同級生とかについては情報が十分あるので高い信頼を置いて少額であればお金を貸したりするわけですが、見知らぬ個人には気軽にお金を貸せないわけです。また、ほぼ常にホームバイアスがあって、国産食品は情報量が豊富で安心安全という信頼感がある一方で、情報が不足しがちな輸入食品は国産食品に安心安全の点で及ばなかったりするわけです。そして、これは本書で指摘している点ですが、取引における情報が大きく偏って非対称であれば市場取引そのものが成立しないケースもあるわけです。米国財務長官のイエレン女史のご亭主であるアカロフ教授の研究の成果であり、ノーベル賞が授賞されています。ただ、本書では専門家に対する信頼とか、さまざまな観点から信頼の経済学を議論しています。経済社会のオンライ家、というか、デジタル化が進んで、今まで会ったこともなければ、名前も知らない個人や企業とコンタクトを取る機会も少なくない中で、スムーズな関係を築くためにも信頼関係が重要であることはいうまでもありません。ただ、直感的にあるいは経験的に思考して行動しているだけではなく、それなりの信頼に関する理論的なバックグラウンドも必要です。そういった意味も含めて、大きな国際関係などではなくもっと身近なところの信頼を考える上で、なかなかいい良書だと思います。

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次に、池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)です。著者は、いうまでもなく小説家であり、『下町ロケット』で第直木賞を受賞しています。日本で一番売れている小説家の1人といっていいと思います。本書はテレビ朝日系にてドラマ化されています。もう放送は終わったにもかかわらず、交通事故で入院中に図書館の予約が回って来たようで、予約を取り直して読んでみました。ということで、まず、本書は作者の思惑は別として、私はミステリとして読みました。すなわち、作品の主人公がそもそもミステリ作家で、自然豊かな田舎に移住してきたところ、連続放火事件が発生し、さらに、死人まで出るわけですから、いわゆる名探偵という存在は明確ではないものの、動機や犯人探しなどからしてミステリと呼ぶにふさわしい気がします。少なくとも、以前の半沢直樹シリーズのような企業小説ではありませんし、「アリバイ」という言葉も登場します。そして、振り返れば、前作の『アルルカンと道化師』についても、半沢直樹シリーズながら、どうしてあの出版社をIT長者が熱心に買収したがるのか、という動機の点はミステリみたく読むことも可能であったのだろう、と今さらながらに思い返しています。本書に戻ると、亡父の故郷のハヤブサ地区にミステリ作家が移り住んで来て、地元の人の誘いで居酒屋を訪れて消防団に勧誘され入団する、というところからストーリーが始まります。そのハヤブサ地区で不審な火事が立て続けに起こるわけです。その合間に、というか、ヤクザとも関わりあるとウワサされていた問題児の青年が滝で死体で発見されたり、保険金目当てや怨恨からの放火という見方が出る中で、太陽光発電会社による土地買収や、その太陽光発電会社というのは実は新興宗教のフロント会社であったとか、いろいろと事情が入り組む中で、少しずつ事件の真相が明らかになっていきます。その意味で、最後に名探偵が一気に事件を解決するわけではなく、少しずつ真実が明らかにされるタイプのミステリで、私は評価しています。ただし、新興宗教の信者が地区の中の誰なのか、あるいは、信者でないまでも教団と関係する人物は誰なのか、といった謎も出て来て、これには私も大きく驚きました。最後に、ドラマを見逃して公開しているのは、新興宗教の教団が売りつけるロレーヌの十字架によく似た地区の名門家の家紋がどんなのであったのかをビジュアルに見ておきたかった気がします。私は、一応、カトリック国の南米チリに3年間外交官として滞在してお仕事していましたので、ロレーヌ十字は知っています。ロレーヌ十字はこの作品には明記されていたかどうか覚えていないのですが、フランス愛国の象徴で、たぶん、ハンガリー十字がロレーヌから伝わったのであろうといわれています。ですから、というか、何というか、ハンガリー十字も横2本です。なお、チリ人の中で日本でもっとも名前を知られているであろうピノチェト将軍はフランス系です。十字架に戻ると、ほかに、モラビア十字もあったと記憶しています。繰り返しになりますが、ハヤブサ地区の名門家の家紋も、したがって、横2本なのだろうと想像しています。最後の最後に、まったくこの作品とは関係ないながら、最近のドラマでは「VIVANT」を熱心に見ていました。でも、スパイ、というか、公安のお仕事はともかく、自衛隊のスパイはああなんだろうか、と思ってしまいました。

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次に、宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)です。著者は、小説家なんでしょうが、私は不勉強にして、この作品が初読でした。私は出身からして京都本はフィクションもノンフィクションも年間何冊か読むのですが、現住地である滋賀本は初めて読むのではないかと思います。まあ、有名な琵琶湖が舞台になった小説であれば、万城目学『偉大なる、しゅららぼん』とかは読んでいます。ほかにもありそうです。それはともかく、作者は私の後輩であり、経済学部ではありませんが、京都大学のOGです。当然、滋賀県在住です。主人公は成瀬あかりであり、この作品の中で女子中学生から女子高生に成長します。大津市内のにおの浜から膳所駅に向かうときめき坂野マンションに両親と住んでいます。また、全部ではないものの、語り手はあかりと同じマンションに住む幼馴染みの島崎みゆきであり、みゆきは「成瀬あかり史」の大部分を間近で見てきたという自負でもって、成瀬あかりを見守るのが自分の務めだと考えていたりします。そうです、この作品を読めば理解できると思いますが、「成瀬あかり史」を残すのは人類に対する重要な責務と島崎まゆみは考えていて、私もまったく同感です。ただ、誠に残念ながら、島崎みゆきは成瀬あかりとは違う高校に進学し、さらに、父親のお仕事の都合で高校を卒業したら東京に引越すことが決定しているようです。主人公の成瀬あかりは、県内トップ校である膳所高校に進学し、本書では高校進学当初は東大を目指していて、東京まで出向いてオープン・キャンパスのイベントに出席したりしていたのですが、最終的には京都大学志望で落ち着いています。私も小説を読んで余りに感動して、レビューの順番がとっちらかっていますが、収録されているのは強く関連する短編6話です。短編タイトルは、「ありがとう西武大津店」、「膳所から来ました」、「階段は走らない」、「線がつながる」、「レッツゴーミシガン」、「ときめき江州音頭」となります。冒頭の短編では、コロナ禍の中で閉店する西武大津店を地元テレビ局が毎夕中継することになり、その中継に映るために出かける成瀬あかり、そして、時々くっついて行く島崎まゆみ、しかし、テレビ局スタッフからは完全無視されながら、地元民のお客さんの記憶に残る、というストーリーです。ほかに、2話目では漫才コンビの登竜門であるM-1に成瀬あかりが島崎まゆみとともに挑戦したりします。3話は飛ばして、4話では違う高校に進学した島崎まゆみに代わって同じ膳所高校の同級生である大貫かえでの視点からストーリーが進み、東大のオープン・キャンパスに参加します。第5話では、膳所高校の競技かるた部、というか、膳所高校では「部」ではなく「班」と呼ぶのですが、競技かるたの全国大会が滋賀県で開催され、広島代表の男子高校生の視点からストーリーが進み、成瀬あかりがこの広島の男子高校生を外輪船ミシガンで接待したりします。最終話では、成瀬あかりの普段の生活の一端が明らかにされ、地元の夏祭りにM-1に挑戦した島崎まゆみとともに司会として参画したりします。ほかにも、メインのテーマではないですが、ひと月に1センチ伸びるといわれる髪の毛の伸び方を実測するために坊主頭にしてみたり、200歳まで生きるといい出したり、まあ、要するに、成瀬あかりは、決して羽目を外すことなくお行儀よくて、学校の成績も東大を目指すくらいですのでトップクラスなのですが、通常の感覚からすれば、やや変人、変わり者、という印象が得られるかもしれません。言葉も関西弁ではありませんから、川上未映子や綿矢りさの小説のようなテンポいい会話は出てきません。でも、私の目には極めて合理的な行動・思考に基づいているのだと見えます。ですから、繰り返しになりますが、学校の成績は飛び抜けて優秀です。私が読んだ範囲で、ほかの小説で成瀬あかりと同じようなキャラを探すとすれば、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也がやや近いか、あるいは、竜崎伸也をもっと極端に合理的にしたような存在が成瀬あかりか、という気がします。最後に、成瀬あかりは作者と同じ、というか、私とも同じ京都大学に進学することが想定されます。ぜひ、私が滋賀県民である間に続編を読みたいと思います。強く思います。

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次に、安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)です。著者は、慶應義塾大学の名誉教授、研究者であり、専門は行動遺伝学だそうです。実は同じ著者が、『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』というタイトルでブルーバックスから、本書と同じように双子研究の成果を踏まえて、より専門的な議論を展開しています。しかし、ブルーバックスの方をパラパラとめくると、私のような頭の回転の鈍い読者には難しすぎて、本書を当たってみました。ということで、ブルーバックスの方も本書も、いずれもそのタイトルは極めて議論を呼ぶ疑問点であり、私の直感からすれば、信念として、あくまで信念として、遺伝的要素よりも教育や環境の方が重要、と考えている日本国民が多いと実感しています。その意味で、私は少数派です。そして、本書の結論も少数派の私と似通っています。例えば、あくまで思考実験なのですが、ヒトとチンパンジーはDNAでは2%ほどの違いしかないといわれていますが、ヒトとチンパンジーの認知能力の差を教育で埋められると考えている読者はほとんどいないと思います。まあ、ヒトとチンパンジーの例は良くないんじゃないの、という考え方には半分くらい賛成しますが、ブルーバックスの広告には、大谷翔平と一般人の遺伝子は99.9%まで同じ、とありましたから、この0.1%の差を教育や訓練・努力で解消することがどこまで可能かは、考えて見る価値があるような気がします。ヒトとチンパンジー、あるいは、大谷翔平と一般人の比較から類推するに、遺伝的な要素というものは極めて強力に生物に作用している点は認めざるを得ないと私は考えています。本書では、繰り返しになりますが、双子研究の成果を踏まえて、さらに、実例を豊富に引いて、遺伝的な要因が極めて大きい点を強調しています。昨年の流行語に「親ガチャ」がありましたが、これは生活環境だけでなく、遺伝も含むと解釈するほうがよさそうです。そういった遺伝の要素も踏まえて、本書後半では親としてできることが何かについても考察を進めています。私は決して親としては遺伝子を子に伝えて終わり、というわけではないと考えており、遺伝子に沿った環境を整備することも重要であることはいうまでもありません。ただ、本書のタイトルに沿って考えると、教育は遺伝には勝てない、というのが本書の結論であり、私も同意します。たぶん、科学的根拠なく信念だけで、本書の結論に反対する向きは少なくないんだろうと想像します。加えて、経済社会が自由になれば遺伝的要素がより明確に発揮される場が整うことになり、権威主義的あるいは全体主義的な国家よりも民主主義体制の方が遺伝的要素が強く開放される点も忘れるべきではありません。米国の例ながら、上位の社会階層においては学力や知能に遺伝の影響が出やすく、逆は逆、という研究成果も本書では明らかにしています。ひょっとしたら、民主主義体制で自由が拡大すれば遺伝的な要因により格差が拡大する可能性すらあるわけです。ですから、エコノミストとしていえるのは、右派的な機会の平等というのは決して十分ではなく、事後的な結果についても格差を縮小する政策が必要である、ということです。しかし、他方で、本書のスコープがイながら、社会階層が低いクラスの方が結果ではなく機会の平等に賛成しがち、という研究成果もあり、悩ましいところです。

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次に、島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)です。著者は、日本女子大学の教授をしていた研究者であり、専門は宗教史です。ということで、本書では帝国の宗教を歴史的に解き明かしています。帝国の表舞台である政治や外交の裏側には宗教が控えているわけです。ということで、歴史的にはまずローマ帝国のキリスト教、中華帝国の華夷思想、儒教の易姓革命、仏教などなど、イスラム教のオスマン帝国とムガル帝国、そして、海の帝国たる米国のキリスト教、などなどとなります。まず、歴史的に帝国とは不断の領土拡大を目指すと強調し、なぜなら、技術革新などの緩慢な古代から中世においては領土を拡大して税を獲得する必要がある、と解説します。その帝国拡大の背景に宗教があるわけです。ただ、同時に、宗教には社会秩序維持の機能とその逆の秩序破壊の機能の両面があると主張し、それが帝国の興亡につながっている、ということです。まず、ローマ帝国のキリスト教については、アレクサンドロス大王の世界制覇に続いて帝国が出来なかったひとつの根拠として宗教の不在が上げられ、まず、ローマ帝国では皇帝に対する個人崇拝から宗教が始まったとし、それが4世紀末にはキリスト教がローマ帝国の国教となるわけです。中国については、基本的に、中華思想とそれに基づく朝貢貿易などを外交の基礎に置きつつ、内政では儒教思想が統治の中心に据えられました。そして、これも秩序の維持と破壊の両面を持っていて、後者が易姓革命に当たるのはいうまでもありません。中国の帝国の中でも征服王朝というのがいくつかあり、典型的にはモンゴル民族の元がそうで、中華民国成立直前の清も漢民族ではありません。元については、モンゴル人という遊牧民に由来することから、寺院のような建物を立てて崇拝の中心にすることはなく、宗教的には寛容と見なされる一方で、白蓮教徒の乱で滅亡するわけです。イスラム教については、いわゆる聖と俗の区別がなく、聖職者という存在がありません。それがオスマン帝国やサラセン帝国やムガル帝国の基礎となっていたわけです。私が宗教について従来からとても不思議に思っていた点のひとつが、キリスト教における異端の迫害や極端には魔女狩りなどの強烈な宗教的行為です。これは統治の手段として利用するのであれば、これくらいに強烈な方法も必要なのかもしれない、というふうに私は受け取りました。最後に、立論はかなりいい加減で、恣意的ですらあります。おもしろおかしい歴史書として、私のようにヒマ潰しのために読むのであればともかく、真面目な批判に耐える本ではありません。ハッキリいって、新書としてはレベルが低いです。中国の宗教に関しては特にそうです。

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最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)です。著者は、日常の謎を解き明かすストーリーが得意なミステリ作家です。殺人事件が出てこないなど、ノックスの十戒では許容されないかもしれませんが、本書でも謎解きめいたストーリー構成となっています。ということで、就活に失敗し、オンラインゲームに熱中して「ネトゲ廃人」となった主人公が、とうとう親からも見放され、叔父が遺産相続で残した離島の社員研修施設だか、保養所だかに放り出されて、オンラインゲーム仲間などといっしょに生活する、流行りの言葉でいえばシェアハウスする、というのがストーリーです。ハッキリいって、有川浩の『フリーター、家を買う。』の二番煎じ小説であることは明らかで、タイトルの210は日本的に「ニート」とも読める、ということで主人公が名付けます。高齢者ばかりの離島に、まず、呼び寄せる、というか、やって来るのはオンラインゲームの知り合いではなく、ひどいマザコンでこれも親から見放されつつある東大卒の気弱な青年です。この青年に主人公はオンラインゲームを教えこみます。そして、次の移住者は産婦人科医に嫌気が差した元医者の青年です。そして、最後には筋肉隆々のマッチョな体型の体育会系の青年が加わります。そして、最後には、『フリーター、家を買う。』とまったく同じ結末で、主人公はそれなりに安定した収入のある職業に就くことになります。周囲の高齢者との交流がうまく出来すぎていて、東京から滋賀県に引越した私が少し悩まされているような田舎っぽい閉鎖性というものが微塵もなく、小説らしい作為的非現実的な「作り」を感じます。主人公の次に島に来た東大での青年がどうして母親に送り込まれて来たのか、については軽い日常的な謎という作者得意の謎解きの要素が含まれていますが、ミステリというにはそれらしくない気がします。こういった出来過ぎのストーリー展開は、おそらく、好きな読者もいるのでしょうが、私には少し馴染めませんでした。ただし、お約束通りのハッピーエンドですので、小中学生向きにはいいんではないか、でも、私のようなひねくれた高齢者にはどうだろうか、という気がします。

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2023年9月16日 (土)

今週の読書は経済書3冊をはじめとして計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)では、我が国の財政政策の影響について、特に労働市場にも焦点を当てつつ実証的な分析がなされています。佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)では、開発社会学を用いて戦後日本の経済開発/発展について、特に、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てつつ分析されています。前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)では、現在の経済学の研究が理論研究ではなくデータ分析に偏重しているのではないか、という危惧が明らかにされています。荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)では、政府の推進するマイナ保険証にさまざまな観点から強く反対しています。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)では、主として10代の若者は決して読書離れしていないと統計的に明らかにしつつ、読書の傾向などを分析しています。エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』、『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』、『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(いずれも角川文庫)では、ポーのホラー、ミステリ、ユーモアといった短編を浩瀚に収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、交通事故による入院の後、6~8月に76冊の後、9月に入って先週先々週合わせて14冊、今週ポストする8冊を合わせて142冊となります。

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まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)です。著者は、東京都立大学の研究者です。国際通貨基金(IMF)などの勤務経験もあるようです。本書は2部構成になっていて、第Ⅰ部が財政政策効果の決定要因、第Ⅱ部が財政政策と労働市場、ということで、いずれにせよマクロ経済学の分析です。本書はほぼほぼ学術書と考えるべきであり、それなりに難解な数式を用いたモデルが提示された上で、そのモデルに沿って然るべく定量分析がなされています。定量分析に用いられているツールは、構造VAR=SVARとDSGEモデルです。ただ、DSGEモデルには失業を許容する変更が加えられています。分析目的からして、当然です。ですので、大学院生から研究者や政策当局の担当者などを対象にしていると考えるべきで、一般のビジネスパーソンには少し敷居が高いかもしれません。本書では、財政乗数について分析した後、第3章の高齢化と財政政策に関するフォーマルな定量分析では、高齢化が進んだ経済では財政政策の効果が低下すると結論しています。当然ながら、経済活動に携わる、という意味での現役世代の比率が低いのが高齢化社会ですので、財政政策に限らず、高齢化社会ではおそらく金融政策も含めて政策効果は低下します。景気に敏感ではない年金を主たる所得とする引退世代の比率が高くなると政策効果は低下します。公共投資の分析でもガバナンスと労働市場の柔軟性が重要との結論です。ひとつ有益だったのは、財政政策の効果はジェンダー平等に寄与する、という結論です。p.102から4つの要因をあげていますが、私は3つ目のピンクカラー職と呼ばれる職種への労働需要増が財政ショックによりもたらされ、4番目のパートタイム雇用を通じた労働需要増が女性雇用の拡大をもたらす、という経路が重要と考えます。ただし、本書では何ら考えられていないようですが、逆に、財政再建を進める緊縮財政が実施されて、ネガティブな財政ショックが生じた場合、女性雇用へも同様にネガな影響が発生し、あるいは、ジェンダー平等が阻害される可能性も、この分析の裏側には存在する、と考えるべきです。その観点からも、たとえ公的債務が大きく積み上がっているとしても、緊縮財政は回避すべきと私は考えています。第Ⅱ部では財政政策と雇用や労働市場に関する定量的な分析がなされていて、理論的には、というか、実証的にも、離職や就職がない静的であるモデルを用いるのか、あるいは、そうでないのか、が少しビミョーに結果に影響します。おそらく、現実の経済社会ではほぼほぼすべての労働市場における決定や選択が内生的に行われると考えるべきですので、分析結果にはより慎重な検討が必要です。最後に、本書p.172で指摘されているように、失業分析に関しては両方向のインパクトがあり得ますので、DSGEモデルを用いる場合、パラメータの設定がセンシティブになります。通常、理論的なカリブレーションや定評ある既存研究から設定されるわけですが、場合によっては、恣意的な分析結果を導くことも可能かもしれません。私は役所の研究所でDSGEモデルではなく、もっと旧来型の計量経済モデルを用いた分析にも従事した経験がありますが、「モデルを用いた定量分析の結果」というと、無条件に有り難がる、というか、否定し難い雰囲気を出せるのですが、それなりに批判的な視点も持ち合わせる必要があります。

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次に、佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)です。編者は、アジア経済研究所の名誉研究員ということでアジ研のOBの方かもしれません。ということで、本書は開発経済学ではなく、開発社会学の観点から戦後日本の開発/発展を後付けています。分野としては、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てています。私は高度成長を準備した経済的な条件としては、日本に限らず、二重経済における労働移動と資本蓄積であると考えていて、一昨年の紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model : How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" でも理論モデルで解析的に分析を加えています。本書は、私の論文のようなマクロ経済ではなく、もう少し地域に密着したマイクロな観点から日本の戦後経済発展を分析しています。ただ、本書では戦後日本は、自動詞的に、途上国から先進国に発展し、それには、他動詞的に、GHQをはじめとする米国による開発援助があった、との背景を考えています。私も基本的に同じなのですが、私の論文では自動詞的な発展を分析しています。他動詞的な開発については、本書でも言及されているロストウの経済発展段階説におけるビッグプッシュに先進国からの援助がどのように関わるか、という見方になると思います。ただ、ロストウ的な発展段階としては、一般的に、(1) 伝統社会、(2) 過渡期、(3) テイク・オフ、(4) 成熟期、(5) 高度大衆消費時代、をたどるということになっていて、日本は20世紀初頭にはテイクオフを終えている、という見方もあることは確かです。その意味で、戦後日本の経済発展を途上国としての出発点に求めることはムリがある、という本書ケーススタディのインタビュー先のご意見も理解できます。でも、やっぱり、終戦直後の日本は援助を必要とする途上国であった、というのは、大筋で間違いではないと思います。その前提に立って、21世紀の現時点でも途上国から先進国に発展を遂げた国が少ない点は留意されるべきかと思います。すなわち、戦後の極めて典型的な例では、いわゆる西洋諸国、欧米以外のアジア・アフリカなどでの経済発展の成功例は日本くらいしかないという見方もできます。その意味では、本書に欠けている視点として、日本の成功例をいかにアジア・アフリカなどの途上国に応用するか、という点があります。和葦は経済学的に発展や開発を考えれば、日本の成功例は労働移動と資本蓄積にある、と考えているのですが、残念ながら、本書ではそういったスコープが見えません。

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次に、前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)です。著者は、日経新聞のジャーナリストから退職して経済関係の研究をされているようです。ということで、タイトルからも理解できるように、経済学の研究をざっくりと理論研究と実証研究に二分割すると、かつての理論研究中心から現在は実証研究、というか、データ分析が中心になっているが、それでいいのか、という問題意識だろうと思います。はい。私もそれに近い感覚を持っていて、特に、経済学においては第がウインレベルでプログラミングを勉強する必要があまりにも高く、それだけに、私のような大学院教育を受けていないエコノミストには難しい面がある点は認識されるべきです。でも、私自身はかなり初歩的な計量分析しか出来ませんが、それで十分という面もあり、現在の経済学研究がデータ偏重であるとまでは思っていません。ただ、私の場合はマクロ経済学の研究で、マクロ経済データ、ほとんどは政府や中央銀行の統計を用いていますが、あまりに独自データを有り難がる向きが少なくないことは確かにあります。ですから、一般にはまったく利用可能性がない政府統計の個票を活用するというのはまだしも、本書で指摘しているように、RCT(ランダム化比較実験)への偏重、特に、マイクロな開発経済学の援助案件の採択などにおけるRCTへの偏重はいかがなものかと思わないでもありません。もちろん、ヨソにないデータを集めるために、独自アンケートの実施については、WEBの活用でかなりコストが低下したことは確かです。しかし、RCTについては時間も金銭もかなりコストが高く、個人の研究者では大きな困難を伴います。本書で取り上げている順とは逆になりますが、因果関係についても本書の指摘には考えるところがあります。おそらく、現在の大学院教育では修士論文レベルでは、それほど因果関係を重視するわけではなく、むしろ相関関係でかなりの立論ができると思いますが、博士論文となれば外生性と内生性を厳密に理解し、因果関係を十分立証しないといけない、という雰囲気があることも確かです。私は困っている院生に対して、ビッグデータの時代なのだから因果関係も重要だが、相関関係で十分な場合もある、と助け船を出すことがあります。いかし、あまりに理論研究に偏重するのも好ましくないのは事実です。以前に取り上げた宇南山卓『現代日本の消費分析』にもあったように、消費の決定要因としてライフサイクル仮説モデルを信頼するあまり、フレイビン教授らの過剰反応の実証を否定するような方向は正しくないと考えます。ですから、本書でも認識されているように、経済学に限らず、理論モデルをデータで実証し、実証結果に沿ってモデルを修正する、というインタラクティブな研究が必要です。私もそうですが、大学院教育を受けていないエコノミストにはデータ分析やプログラミングのハードルが高いのは事実で、そういった難しさを著者が感じているのではないか、と下衆の勘ぐりを働かせてしまいました。しかし、繰り返しになりますが、理論研究と実証研究のどちらに偏重しているのかは、現時点では私はそれなりにバランスが取れていると理解しています。ただ、実証研究に沿った理論モデルの修正という作業を多くのエコノミストが苦手にしているのも事実かもしれません。

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次に、荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)です。著者は、経済ジャーナリストであり、引退世代に深く関係する年金や相続などに詳しいと私は理解しています。今年2023年7月には、老齢期に健康を維持する経済効果について論じた『5キロ痩せたら100万円』(PHP新書)を読書感想文で取り上げています。ということで、本書のタイトルから理解できるように、著者は強くマイナ保険証に反対し、現在の保険証の存続を求めています。私もまったく同感です。まず、私も知りませんでしたが、マイナンバーとマイナンバーカードは異なるものであるという点は、おそらく、ほぼほぼ国民に知られていないと思います。マイナンバーは国民もれなく付与し、政府が管理し、トラブルには政府が責任を持つ、という一方で、マイナンバーカードはあくまで取得は任意であり、本人に希望に応じて持ち、トラブルは自己責任、ということになります。こんなことを知っている国民は少ないと思います。私は60歳の定年まで国家公務員をしていて、役所に入る入館許可証、というか、その情報はマイナンバーカードに記録する、ということになっていましたので、マイナンバーカードを強制的に取得させられ、国家公務員としての関連情報をマイナンバーカードに記録し、役所の建物に入るための入館許可としてマイナンバーカードを出勤時は持って来なくてはなりませんでした。もう役所を辞めて随分経ちますが、たぶん、今でもそうなのだろうと想像しています。加えて、マイナンバーカードは任意取得ですので、「立法事実がない」点も本書では指摘しています。私は1990年代前半という大昔の30年前ですが、在チリ大使館勤務の外交官として3年余りチリで過ごした経験があります。チリでは身分証明書の携行が義務つけられていて、少なくとも私のような外交官は不逮捕などの外交官特権を有することを明らかにするために身分証明書を常に携行していました。でも、現在の日本国内においては、私のようなペーパードライバーであれば、運転免許証を携行することすらしていない人も決して少なくないと思います。私は大学のIDカードも研究室に置きっぱなしです。というのも、大学のIDカードには図書館の入館証の機能があって、それ以外にはキャンパス外で必要ないものですから、私のような図書館のヘビーユーザには家に忘れた時のダメージの方が大きいもので、研究室に置きっぱなしにしています。話を元に戻すと、マイナ保険証にしてしまうと介護施設で大きな混乱を生じる可能性があるとか、英国では国民IDカードがいったん2006年に法律ができながら、2010年には早々に廃止されたとか、一般にも広く報道されている事実が本書には詳しく集められています。私はほぼほぼ本書の著者に賛成で、マイナ保険証には強く反対です。ただ、1点だけ、やや踏み込み不足な点があります。というのは、政府がマイナ保険証をここまで強引に推進しようとするウラ事情です。おそらく、なにか巨大な利権が絡んでいるのか、それとも、政府に国民無視の姿勢が染み付いてしまっているのか、そのあたりも知りたい気がします。

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次に、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)です。著者は、編集者の後に独立し、現在ではWEBカルチャーや出版産業などの論評をしているようです。本書を読んだきっかけは、実は、先週読んだ波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』の主人公の北関東の田舎のJKである朴秀美がアトウッドの『侍女の物語』を読んでいて、大いにびっくりして、最近の中高生の読書事情を知りたくなって図書館から借りた次第です。本書では、著者は「当事者の声」を聞くインタビューというケーススタディに頼ることなく、マクロの統計を中心に中高生の読書について論じています。私はこういった姿勢は高く評価します。というのも、マーケティングなどの経営学の成功例のケーススタディを集めた本はいっぱいあるのですが、その裏側で失敗例が成功例よりケタ違いに多いのではないか、というのが私の疑問だからです。ということで、統計的な事実から2点上げると、第1に、本書のタイトルの疑問は否定されています。すなわち、中高生の読書は平均的に毎月1冊台であって、少なくともここ20年ほどで読書離れが進んだという事実はありません。他方で、この読書量が「読書離れではない」とまでいえるのかどうか、すなわち、その昔からずっと読書離れだったんではないか、という疑問は残ります。第2に、大人も含めて、日本人の不読率は40%から50%の間、というか、50%を少し下回る程度、というのも、ここ20年ほどで大きな変化はなく、繰り返しになりますが、中高生だけでなく、大人も同じくらいの不読率がある、ということになります。つまり、「近ごろの若いモンは、本を読まない」なんていっている人がいたとしても、実は、大人も若者と同じくらいに本を読まない人がいる、ということです。その上で、10代の小学校上級生から中高生くらいまでによく読まれている、あるいは、受け入れられやすい本の属性を分析しています。それは、第2章で読まれる本の「3大ニーズ」と「4つの型」で明らかにされています。その内容は読んでみてのお楽しみ、ということで、この書評では明らかにしませんが、第3章ではこの観点から、児童文学/児童書、ライトノベル、ボカロ小説、一般文芸、短篇集、ノンフィクション、エッセイの7つのカテゴリー/ジャンル別に、よく読まれている本が分析されています。ボカロ小説というジャンルは不勉強にして知りませんでした。初音ミクとポケモンがコラボして、「ポケミク」なんてハッシュタグの付いた画像がツイッタに大量にポストされているのは見かけました。ツインテールならざる初音ミクもいたりしました。それはともかく、ボカロが小説になっているのは初耳でした。最後の章で、今後の方向性や中高生のひとつ上の大学生の読書などが論じられています。結局、当然ながら、アトウッド『侍女の物語』はまったく言及されていませんでした。いくつか、私の視点を加えておくと、しつこいのですが、アトウッド『侍女の物語』のような海外文学がまったく取り上げられていません。それは、実際に中高生が読んでいない、ということもあるのだろうと思います。というのは、韓国エッセイなどはよく読まれているとして取り上げられているからです。他方で、もう10年とか15年も昔のことですが、我が家の倅どもが小学校高学年や中高生だったころ、『指輪物語』とか、その発展形ともいえる「ハリー・ポッター」のシリーズがよく読まれていた記憶があるのも事実です。現在、こういった中高生向けの海外文学がどうなっているのか、私はよく知りませんが、まったく息絶えたとも思えません。第2に、マンガとの関係が不明でした。いくつか、マンガからのノベライズ、例えば「名探偵コナン」のシリーズなどが言及されていましたが、マンガと文字の読書の間の関係が少し判りにくかった気がします。それにしても、10年ほど前に赴任した長崎大学では、『リアル鬼ごっこ』などの山田悠介作品が全盛期だった気がするのですが、今はすっかり下火になったとの分析もあり、時代の流れを感じました。

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次に、エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(角川文庫)です。著者は、エドガー・アラン・ポーであり、私なんぞから紹介するまでもありません。邦訳者は、河合祥一郎であり、各巻末の作品解題ほかの解説も執筆しています。私の記憶が正しければ、ほぼ私と同年代60歳過ぎで東大の英文学研究者であり、シェークスピアがご専門ではなかったかと思います。ということで、3冊まとめてのズボラなご紹介で失礼します。3冊まとめてですので、どうしても長くなります。悪しからず。繰り返しになるかもしれませんが、各巻の巻末に詳細な作品解題が収録されており、私のような頭の回転が鈍い読者にも親切な本に仕上がっています。ものすごくたくさんの短編が収録されていて、いわゆる小説だけではなく、詩や評論・エッセイもあります。出版社のサイトからのコピペ、以下の通りの収録作品です。『黒猫』ポー傑作選1の収録作品は、「赤き死の仮面」The Masque of the Red Death (1842)、「ウィリアム・ウィルソン」William Wilson (1839)、「落とし穴と振り子」The Pit and the Pendulum (1842)、「大鴉」* The Raven (1845)、「黒猫」The Black Cat (1843)、「メエルシュトレエムに呑まれて」A Descent into the Maelstrom (1841)、「ユーラリー」* Eulalie (1845)、「モレラ」Morella (1835)、「アモンティリャードの酒樽」The Cask of Amontillado (1846)、「アッシャー家の崩壊」The Fall of the House of Usher (1839)、「早すぎた埋葬」The Premature Burial (1844)、「ヘレンへ」* To Helen (1831)、「リジーア」Ligeia (1838)、「跳び蛙」Hop-Frog (1849)となります。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2の収録作品は、「モルグ街の殺人」The Murders in the Rue Morgue (1841)、「ベレニス」Berenice (1835)、「告げ口心臓」The Tell-Tale Heart (1843)、「鐘の音」* The Bells (1849)、「おまえが犯人だ」Thou Art the Man」 (1844)、「黄金郷(エルドラド)」* Eldorado (1849)、「黄金虫」The Gold Bug (1843)、「詐欺(ディドリング)- 精密科学としての考察」Diddling (1843)、「楕円形の肖像画」The Oval Portrait (1842)、「アナベル・リー」* Annabel Lee (1849)、「盗まれた手紙」The Purloined Letter (1844)となります。そして、最後の『Xだらけの社説』ポー傑作選3の収録作品は、「Xだらけの社説」X-ing Paragrab (1849)、「悪魔に首を賭けるな - 教訓のある話」Never Bet the Devil Your Head: A Tale with a Moral (1841)、「アクロスティック」* An Acrostic (c. 1829)、「煙に巻く」Mystfication (1837)、「一週間に日曜が三度」Three Sundays in a Week (1841)、「エリザベス」* Elizabeth (c. 1829)、「メッツェンガーシュタイン」Metzengerstein (1832)、「謎の人物」* An Enigma (1848)、「本能と理性 - 黒猫」** Instinct versus Reason: A Black Cat (1840)、「ヴァレンタインに捧ぐ」* A Valentine (1849)、「天邪鬼(あまのじゃく)」The Imp of the Perverse (1845)、「謎」* Enigma (1833)、「息の喪失 - 『ブラックウッド』誌のどこを探してもない作品」Loss of Breath: A Tale neither in nor our of 'Blackwood' (1833)、「ソネット - 科学へ寄せる」* Sonnet - To Science (1829)、「長方形の箱」The Oblong Box (1844)、「夢の中の夢」* A Dream Within a Dream (1849)、「構成の原理」** The Philosophy of Composition (1846)、「鋸山奇譚」A Tale of the Ragged Mountains (1844)、「海中の都(みやこ)」* The City in the Sea (1831)、「『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/苦境」How to Write a Blackwood Artilce / A Predicament (1838)、「マージナリア」** Marginalia (1844-49)、「オムレット公爵」The Duc de L'Omlette (1832)、「独り」Alone (1829)となります。日本語タイトル後につけたアスタリスクひとつは詩であり、ふたつは評論ないしエッセイです。全部はムリですので、有名な作品だけ簡単に紹介しておくと、『黒猫』ポー傑作選1ではゴシックホラー編のサブタイトル通りの作品が収録されています。詩篇の「大鴉」では、各パラグラフの最後が "nevermore" = 「ありはせぬ」で終わっています。タイトル作の「黒猫」は、冥界の王であるプルートーと名付けられた黒猫と殺した妻を壁に塗り込めますが、当然に露見します。「アッシャー家の崩壊」ではアッシャー家の一族が息絶えて、語り手がアッシャー家を離れた直後に、文字通りに屋敷が崩壊します。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2では怪奇ミステリー編ということで、ホラー調のミステリが収録されています。タイトル作である「モルグ街の殺人」は密室ミステリといえますが、事情聴取でイタリア語がどうしたとか、いろいろと情報を散りばめつつも、犯人がデュパンによって明らかにされると、大きく脱力して拍子抜けした読者は私だけではないと思います。「黄金虫」では、暗号トリックが解明されます。『Xだらけの社説』ポー傑作選3はブラックユーモア編であり、ホラーと紙一重のストーリーも収録されています。タイトル作である巻頭の「Xだらけの社説」は出版物で活字が足りなくなるとXの活字を代替に使い、まるで伏せ字のような社説を掲載する新聞を揶揄しています。「一週間に日曜が三度」では、金持ちの叔父が結婚を認める条件として、1週間に日曜日が3度ある週に結婚式を上げるよう申し渡された甥が、日付変更線を利用したトリックを思いつきます。ウンベルト・エーコの『前日島』と同じような発想だと記憶しています。評論の「構成の原理」では、知的・理性的・合理的に作品を構成すべきと考え、人間を超越した絶対的な価値を直感的に把握しようとする超絶主義に反対するポーの姿勢がよく理解できます。繰り返しになりますが、各巻に収録された作品の解題がとても詳細に各巻末に収録されていて、収録作品の出版年を見ても理解できるように、ポーの作品は200年ほど前の19世紀前半の社会背景の下に書かれているわけですので、こういった解説はとても読書の助けになります。また、各巻末の作品解題の他にも、第1巻『黒猫』の巻末には、「数奇なるポーの生涯」と題する解説や「エドガー・アラン・ポー年譜」が、また、第2巻『モルグ街の殺人』巻末には、「ポーの用語」と「ポーの死の謎に迫る」といった解説が、さらに、第3巻『Xだらけの社説』の巻末には、「ポーを読み解く人名辞典」と「ポーの文学闘争」と題する解説が、それぞれ置かれています。作品解題も含めて、すべて邦訳者である河合祥一郎氏によるものです。東大の英文学研究者による解説ですので、とても有益です。この3巻を読めば、私のような手抜きを得意とする読書ファンなら、いっぱしのポー作品のオーソリティを気取ることができるかもしれません。

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2023年9月 9日 (土)

今週の読書も経済書を2冊読んで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)は、ライフサイクル仮説を中心に日本の消費を分析する学術書です。イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)は、初学者にも読みやすい経済の解説書で、当然ながら、物価や金融について詳しいです。小川哲『地図と拳』(集英社)は、第168回直木賞を受賞した大作であり、20世紀前半の満州についての壮大な叙事詩を紡いでいます。山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)は、現代の官庁や企業までつながる江戸期の幕府組織などを解説しています。染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)では、読売新聞のジャーナリストがパチスロや競艇などのギャンブル依存に苦しむ人へ取材しています。波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)は、北関東の田舎の工業高校の女子高生を主人公にした痛快かつ疾走感のある青春物語です。坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)では、明治維新で没落した武家の若い当主が志願して西南の役に出陣します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に27冊、そして、9月に入って先週7冊の後、今週ポストする7冊を合わせて133冊となります。年間150冊は軽く超えそうですが、交通事故による入院のために例年の200冊には届かないかもしれません。

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まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、京都大学の研究者であり、消費分析が専門です。私は総務省統計局で消費統計を担当していた経験がありますので、一応、それなりの面識があったりします。出版社からも容易に想像できるように、本書は完全な学術書であり、経済学部の上級生ないし大学院生、また、政策担当者やエコノミストを対象にしており、一般的なビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。副題が「ライフサイクル理論の現在地」となっているように、ライフサイクル仮説とその双子の兄弟のような恒常所得仮説について分析を加えつつ、それらに付随する消費のトピックも幅広く含んでいます。本書は5部構成であり、タイトルを羅列すると、第Ⅰ部 消費の決定理論、第Ⅱ部 ライフサイクル理論の検証と拡張、第Ⅲ部 現金給付の経済学、第Ⅳ部 家計収支の把握、第Ⅴ部 貯蓄の決定要因、となります。繰り返しになりますが、本書の中心を占めるのは消費の決定要因としてのライフサイクル仮説であり、これに強く関連する恒常所得仮説も取り上げられています。本書では、ケインズ的な限界消費性向と平均消費性向の異なる消費関数は、流動性制約下におけるライフサイクル仮説と変わるところないと結論していますが、Hall的なランダムウォーク仮説やFlavin的な過剰反応と行った実証研究からして、私はライフサイクル仮説がモデルとして適当かどうかはやや疑わしいと考えています。特に、Flavin的な過剰反応については、彼女の論文が出た際には私もほぼほぼ同時代人でしたので記憶にありますが、本書でも指摘しているように、ライフサイクル仮説が正しいという前提でFlavin教授の実証のアラ探しをしていたように思います。通常、理論モデルが現実にミートしなければ、理論モデルの方に現実に合わせて修正を加える、というのが科学的な学術議論なのですが、経済学が遅れた学問であるひとつの証拠として、理論モデルを擁護するあまり、理論モデルに合致しない実証結果を否定する、ないし、例えば、市場経済の効率性を実現するために実際の経済活動を理論モデルに近づける、といった本末転倒の学術活動が見られます。本書がそういった反科学的な方向に寄与しないことを私は願っています。ライフサイクル仮説のモデルを修正するとすれば、経済政策の変更に関するルーカス批判と同じで、消費と所得の一般均衡的なモデルが志向されるべきだと私は考えています。すなわち、消費と所得の相互作用、所得から消費への一方的なライフサイクル仮説ではなく、ケインズ的な所得が増加すれば消費が増加し、消費の増加に伴いさらに所得が増加するという乗数過程を的確に描写できるモデルが必要です。現時点で、ライフサイクル仮説がこういった消費と所得のリパーカッションを的確に表現するモデルであるとは、私は考えていません。最後に、本書はマクロ経済学的な消費を中心とする分析を展開しているわけですが、マイクロな消費についてももう少し分析が欲しかった気がします。マイクロな消費分析というと、少し用語が不適当かもしれませんが、支出対象別の消費に関する分析です。例えば、その昔は「エンゲル係数」なんて指標があって、食費への支出割合が低下するのが経済発展のひとつの指標、といった考えが経験的にありました。現在に当てはめると、教育費支出の多寡が生産性や賃金とどのような関係にあるのか、スマホなどの通信費への支出は幸福度と相関するのか、医療や衛生への支出と平均寿命・健康寿命との関係、などなどです。リアル・ビジネス・サイクル理論などにおけるマクロ経済学のミクロ経済学的な基礎については、私自身はまったく同意できませんが、消費のマイクロな支出先による国民生活や経済活動への影響については、今少し研究が進むことを願っています。

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次に、イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)です。著者は、英国の中央銀行です。本書のクレジットでは「イングランド銀行」が著者となっているのですが、まさか全員で書いたわけもなく、ルパル・パテル & ジャック・ミーニングが著者として名前を上げられています。基礎的な経済学の入門書であり、第1章と第2章はマイクロな経済学、第3章で労働や賃金を取り上げてマクロ経済学への橋渡しとし、第4章からはマクロ経済学となります。イングランド銀行の出版物らしく、第6章からは物価や金融を詳しく取り上げています。ということで、本書からインスピレーションを得て、私の授業では、ミクロ経済学については制約条件の下での希少性ある財・サービスの選択の問題を対象とし、マクロ経済学では希少性ある資源の供給増加や分配の改善、あるいは、可能な範囲での制約条件の緩和を目指す、と教えています。まあ、経済学の定義なんて、教員が100人いれば100通りありそうな気はします。それはともかく、後半、というか、マクロ経済学の解説は秀逸です。第5章では経済成長を取り上げて、歴史的に経済、というか、国民生活は豊かになってきた姿を示し、第6章では貿易などの国際取引に焦点を当てています。そして、第6章からは中央銀行における経済学の中心的な役割の解説が始まります。すなわち、第6章では物価やインフレを考え、第7章ではお金、マネーとは何なのか、第8章では民間銀行や中央銀行の役割、そして、第9章ではリーマン・ショックから生じた金融危機の予測に失敗した際の女王からの質問やエコノミストの回答まで含めて、幅広く金融危機について言及し、最後の第10章ではマクロ経済政策、とくにサブプライム・バブル崩壊後の経済政策について解説を加えています。後半の各章では日本もしきりと取り上げられています。特に、第10章ではノッケのp.364から量的緩和などの非伝統的な金融政策の先頭を走った日本について詳しく言及されています。全体として、いかにも中央銀行らしく、検図理論を中心に据えたマクロ経済学の解説となっています。マネタリズムや古典派的な貨幣ヴェール論などについては貨幣の流通速度が変化することから否定的に言及されています。もちろん、金融政策が政府から独立した専門家によって中央銀行で運営され、財政政策は政府が管轄する、といった基礎的な事項についてもちゃんと把握できるように工夫されています。大学に入学したばかりの初学者はもちろん、高校生でも上級生で経済学や経営学の先行を視野に入れている生徒、さらに、就職して間もないビジネスパーソンなど、幅広い読者に有益な内容ではなかろうかと考えます。ただ、数式がほぼほぼ用いされていないのがいいのかどうか、私には不明です。

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次に、小川哲『地図と拳』(集英社)です。著者は、小説家であり、SFの作品も手がけています。というか、むしろ、SF作家とみなされているようです。広く報じられているように、この作品で第168回直木賞を受賞しています。この作品は、20世紀初頭から半ばまでのほぼ半世紀に渡り、中国東北部、当時「満州」と呼ばれた地域を舞台にした壮大な叙事詩といえます。私は、最近の直木賞受賞作では、あくまで私が読んだ中では、という意味ですが、北海道のアイヌを取り上げた川越宗一『熱源』が同様の壮大な叙事詩だと感じています。この作品も、ボリュームとしては『熱源』を上回っており、ただ、作品の出来としては私は『熱源』に軍配を上げますが、とても大きなスケールを感じます。どうでもいいことながら、『熱源』が直木賞に選出された第162回の選考会でもこの作者の『嘘と正典』がノミネートされています。ということで、とても長いストーリーなので、舞台は満州としても、主人公が誰なのか、というのは議論あるところかもしれません。朝日新聞のインタビューでは、作者自らが「あえていえば物語の主人公は李家鎮という都市ですね。」と回答していたりします。ただ、ストーリーの冒頭からほぼ最終盤まで、細川という男性がずっと出ずっぱりとなっています。細川は中国語の他にロシア語も堪能で、密偵の役目を帯びた陸軍士官の通訳として中国の満州に渡ります。そして、架空の満州の街である李家鎮を舞台にさまざまな人間模様が繰り広げられます。細川のほかに、ロシアの鉄道網拡大に伴って派遣された神父クラスニコフ、叔父にだまされて不毛の土地である李家鎮へと移住した孫悟空、地図に描かれた存在しない島を探して海を渡った須野、李家鎮の都市計画に携わった建築学科の学生である須野の倅、李家鎮の陸軍憲兵である安井、などなどです。そして、とっても詳細に書き込んでいます。歴史的な事実関係は私は詳しくありませんし、この作品でも歴史的な事実を下敷きにした小説ではないと理解していますが、SF作家の作品だけに、どこまでが歴史的事実で、どのあたりから架空のフィクションになるのか、を見極めるのも読書の楽しみのひとつかもしれません。なお、出版社の特設サイトに登場人物一覧や関連年表などがpdfファイルでアップされています。ボリュームある長編で視点の切り替りもいっぱいあるので、なかなか読み切るのは骨ですので、こういった関連資料は読書の助けになります。最後に、『熱源』に及ばないと私が判断した点は3点あり、第1に、満州の気象に関して、須野の倅が気温や湿度をピタリといい当てるにもかかわらず、『熱源』のようなリアリティを持って伝わってきませんでした。第2に、『熱源』における日本人とアイヌ人との関係が、この作品では日本人と現地の中国人、そして、満州人との関係が十分に捉えきれていない恨みがあります。また、第3に、ストーリーが最後に失速する感じがあります。したがって、ボリュームあるにもかかわらず、読後感が軽くてイマイチな読書だった雰囲気を持ってしまいます。その分、星1つ『熱源』の後塵を拝する気がします。

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次に、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)です。著者は、東京大学の史料編纂所などで歴史研究者をしていましたが、2020年に亡くなっています。副題が「現代企業も官僚機構も、すべて徳川幕府から始まった」となっているのですが、明治期以降の組織人についてはまったく言及がありません。ただ、この副題の通りなんだろうという気はします。ということで、基本的に、江戸幕府の組織とそこで働く主として高官について歴史的にひも解いています。現在にも通ずるような表現にて、キャリアの公務員とノンキャリアの公務員、といった具合です。おそらく、組織と組織人については、江戸期と現在で大きな変化はないものと思いますが、家柄と能力で比重の置き方が違っているのだろうと思います。江戸期には家柄と能力のうち、家柄の方に相対的に重きが置かれ、現在では本人の能力の方が重要、ということなのでしょう。もちろん、江戸期にも能力の要素が十分考慮されていた点は本書でも何度か強調しています。本書では言及ないのですが、現在でも家柄や出自がまったく無視されているわけではありません。それは公務員の勤務するお役所だけでなく、フツーの民間企業でも同じことだろうと思います。ただ、江戸期の方が現在よりも圧倒的に不平等の度合いが高く、したがって、出世した方が格段に収入などの面で有利になるので、出世競争は激しかったのだろうという気はします。ただ、本書では冒頭で士農工商を無視して、侍の士分と町民だけの二分法で始めていますが、現在でも江戸期のような士農工商は一部に残っている事実は忘れるべきではありません。すなわち、士農工商のうちの工商です。知っているビジネスマンは決して少ないとは思いませんが、工=製造業が上で、商=サービス業が下、という構図は残されています。典型的には、日本でトップの経営者団体である経団連ですが、会長は必ず製造業から出ます。銀行や商社から出ることは決してありません。これは基本的に江戸期の名残りといえます。というのは、工商だけで士農を別にすれば、お江戸は職人=製造業従事者の町であり、他方で、大坂は商人=サービス業の町です。ですので、江戸を大坂の上に位置させようとして、この序列が決められているのではないか、と私は訝っています。今でもものづくりや製造業を重視し、商業を卑しめる考えが広く残っているのは忘れるべきではありません。実は、経済学でもアミスやマルクスのころまでは製造業が圧倒的な中心を占めていて、サービス業が無視されていたのも事実です。組織人とは関係ありませんが、身分や序列に関しても江戸期の名残りが随所に見られるのは忘れない方がいいような気がします。

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次に、染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)です。著者は、読売新聞のジャーナリストであり、医療・健康を中心に活動しているようです。本書では、タイトル通りにギャンブルに対する依存を取材により、その破滅的な典型例を紹介しています。6章構成となっており、5章まではパチスロ、競艇、宝くじ、パチンコ、闇カジノの実例を取材に基づいて明らかにしています。最後の第6章で本書を総括しています。ということで、平たくいえば、ギャンブルで身を持ち崩した実例、それもとびっきり悲惨な例を5人分取材しているわけです。依存症の対象はいっぱいあって、依存症というよりは「中毒」と呼ばれるものもあり、人口に膾炙しているのはアルコール依存症、あるいは、「アル中」と呼ばれるもので、タバコのニコチン中毒なども広く知られているのではないでしょうか。ただ、そういった物質への依存と違って、ギャンブルの場合はモロにお金の世界ですので、ギャンブルをする資金をショートすれば誰かから借りることになります。最後は、いわゆる消費者金融から借りて雪だるま式に借金が膨らむ、ということになります。本書では言及がありませんが、大王製紙の御曹司がラスベガスで散財したのは例外としても、サラリーマンが数百万円を超える借金をすれば返済はかなり困難となります。日本の消費者金融は独特のビジネスモデルで、厳しい取立てが、少なくとも以前はあったということは広く知られているのではないでしょうか。ある一定の限界を超えれば、仕事も家庭も破綻するわけです。しかも、ギャンブルについては、確率的に必ず胴元が儲かるシステムになっていることは、ほぼほぼ万人が認識していて、それでもギャンブルにのめり込むということは、なんらかのビョーキである可能性が示唆されています。経済学は合理的な経済人を前提にしていますので、基本的に、ギャンブルは排除されます。しかし、ギャンブルで金儲けをするのではなく、何らかの効用を見出す場合もあります。ストレス発散だったり、社交の一部として知り合いと親交を深める、とかの効用です。ただ、私を含めて、ギャンブル依存で人生が破綻するまでのめり込むというのは、なかなか理解できないことであり、203年秋には大阪に統合型リゾート(IR)という名のギャンブルをする場としてのカジノができるわけですし、こういった本で不足する情報を補っておくべきかもしれません。

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次に、波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)です。著者は、たぶん、小説家といっていいのだろうと思いますが、この作品は「弱冠21歳の現役大学生による松本清張賞受賞作」としてもてはやされました。今年になって文庫化されましたので、私もFacebookなどで話題になったこともあり読んでみました。主人公は北関東の「クソ田舎」にある工業高校に通う朴秀美というJK高校2年生です。朴はヒップホップとSF小説を心の逃げ場としています。というのも、工業高校のクラスは機械工業学科の生徒ばかりで、女子は3人しかいません。朴秀美のほかの女子は、朴と同じ陰キャの岩隈、そして、男子とフツーに接している陽キャの陸上部の矢口です。そして、何とこの3人がチームを結成して犯罪に手を染めます。すなわち、朴がひょんなことで入手した大麻の種子を栽培し、それを売りさばいて大金を手に入れるわけです。しかも、栽培するのは高校の屋上だったりします。このあたりまでは、普通に紹介されていますが、私が不思議だったのは高校生がどこまで大麻を楽しめる、というか、大麻を吸えるか、という点です。というのは、私や我が家の倅どもには大麻は無理な気がするからです。どうしてかといえば、大麻を吸うとすれば、少なくとも通常のやや重めのタバコは無理なく吸えなければ、とってもじゃないですが大麻なんて吸引できません。我が家では誰も喫煙しません。しかし、読み進んでみて、主人公の朴はヒップホップの仲間といっしょに缶チューハイは飲むし、タバコも吸うしで、大麻の栽培もそういった素地の上に構築されているんだと、作者の構成の鋭さに感心してしまいました。小説としては、Facebookなどで「痛快」という表現が使われていた気がするのですが、私はそれよりも若者らしい疾走感を感じました。何か、コトを成して痛快とか、爽快、というのではなく、やや方向はムチャだとしても精一杯突き進んでいる疾走感です。ただ、私も60代半ばですので、映画や音楽曲のタイトルがいっぱい出てくるのは閉口しました。半分も知りません。また、特に朴は読書家でかなり本を読みこなしています。おそらく、これは作者自身からくる人物造形だと思います。でも、現実の北関東の底辺高校生に当てはめてみると、むしろ、もっとゲームとアイドル/芸能人なんじゃないの、という気がします。もちろん、ゲームもある程度は登場しますが、やや違和感あるのは私だけでしょうか。あと、関西人の観点かもしれませんが、会話のテンポがよくない気がします。田舎の高校生だから仕方ないのかもしれませんが、会話がモッチャリしています。最後のオチもややビミョーです。ただ、今後の作品に期待したいと思います。大いに期待します。

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次に、坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)です。著者は、小説家なんですが、2019年にこの作品で第26回松本清張賞を受賞してデビューしています。私は一昨年2021年に文庫化された作品を読んでいます。この作者の作品としては、ほかに、終戦直後の大阪を舞台にした『インビジブル』と返還直前の沖縄を舞台にした『渚の螢火』を私は読んでいますが、本作を含めてこの作者の長編小説はその3作品が出版されているだけだと思います。ということで、この作品も大阪を最初の舞台にしていますが、神戸から出向して西南の役の戦乱の舞台となった熊本なども主人公は出向いています。主人公は大坂詰めの武士の家のでなのですが、当然ながら明治維新で大きく没落し、大阪道修町の薬問屋で丁稚奉公を始め、17歳になった現在は手代になっています。そこの西南の役が起こり、武功を上げる最後のチャンスを逃すまいとして、政府軍の兵役に応募します。しかし、応募して主人公と同じ分隊に編成された兵は、一癖も二癖もある、というか、個性が強くて、そう大して兵隊として役立ちそうもない連中ばかりです。でも、分隊長に任命された主人公は仲間とともに神戸から出向し、熊本で戦い、まあ、歴史的事実ですから、政府軍の勝利に終わるわけです。この作者の作品のひとつの特徴で、本書には乃木希典、犬養毅、嘉納治五郎など同時代人が登場します。また、西郷札などの経済情勢をはじめ、軍事的な情報も含めて、西南の役当時の経済社会情勢がよく調べられており、大阪人の行動や意識などとともに楽しむことが出来ます。そういった細部の組立てとともに、ストーリーの大きな流れもキチンと筋立てられており、読んでいて強く引き込まれます。繰り返しになりますが、この作者が今までに出版した長編小説を、私は『渚の螢火』、『インビジブル』とこの『へぼ侍』と、出版とはまったく逆順に読んでしまいましたが、いずれも平均的な水準を十分にクリアしている立派な作品でした。これからもこの作者の作品に注目した位と思います。

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2023年9月 2日 (土)

今週の読書は米国を分析した経済書をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大橋陽・中本悟『現代アメリカ経済論』(日本評論社)は、現在の米国バイデン政権で進められている反トラスト政策の背景にある米国経済における独占の進行について分析しています。奥村皓一『転換するアメリカ新自由主義』(新日本出版)は、これも米国バイデン政権下で進められている新自由主義的な経済政策からの脱却について分析を加えています。島田荘司『ローズマリーのあまき香り』(講談社)は、1997年時点のストックホルム在住の御手洗潔が1977年に起こったニューヨークでの世界的バレリーナ殺害事件の謎を解き明かす本格派のミステリです。奥田祥子『シン・男がつらいよ』(朝日新書)は、右肩下がりの日本経済において「男らしさ」のジェンダー規範を具現化できず苦しむ男性について取りまとめています。泡坂妻夫『ダイヤル7をまわす時』(創元推理文庫)は、作者の生誕90周年を記念して再出版されたミステリ短編集です。最後に、泡坂妻夫『折鶴』(創元推理文庫)も同じで、それほどミステリ色の強くない短編を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、先週8冊の後、今週ポストする冊を合わせて冊となります。

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まず、大橋陽・中本悟『現代アメリカ経済論』(日本評論社)です。編者は、いずれも私の勤務する大学の研究者であり、まあ、平たくいえば同僚です。本書の副題は「新しい独占のひろがり」となっています。広く報じられている通り、本書のいくつかの章で強調されていたように、2021年からの米国バイデン政権下で連邦取引委員会(Federal Trade Commission=FTC)の委員長にリナ・カーン女史が委員長に就任し、昨年2022年11月には Federal Trade Commission Act の Section 5 に関する Policy Statement として "Rigorous Enforcement" 「厳格な執行」を軸にした "Policy Statement Regarding the Scope of Unfair Methods of Competition Under Section 5 of the Federal Trade Commission Act Commission File No. P221202 " を公表しているだけに、極めてタイムリーな分析が提供されています。なお、本書は、3部構成であり、第Ⅰ部 現代アメリカ経済における新たな独占、第Ⅱ部 独占のグローバル・リーチの新展開、第Ⅲ部 独占と経済・規制政策論、となっています。私も米国の反トラスト政策は気になっていて、2年ほど前の2021年6月の読書感想文でティム・ウー『巨大企業の呪い』を取り上げましたので、その観点から読んでみました。ただ、やや未成熟な議論を展開している部分もあり、やや物足りない仕上がりとなっています。例えば、第2章の金融に関する分析において、プライベート・エクイティ(PE)によるメイン・ストリートの収奪に関しては、単に、党派や立場によって見解が様々、というだけでなく、何らかのPEの投資行動の評価基準を提起できるだけの分析が欲しかったと思います。厳密にはプライベート・エクイティとは異なりますが、いわゆる機関投資家におけるGFANZ (Glasgow Financial Alliance for Net Zero)のような動きもありますし、SDGsの観点も含めて金融の分析が欲しかった気がします。また、ITのビッグテック、GAFAなどの巨大な企業体によるデータの独占的な収集については、一定の分析がなされていますが、なぜか、エネルギー企業についてはスルーされています。その昔のAT&Tとともにスタンダード石油の分割でもってエネルギー企業の独占は終了したとは考えられません。シカゴ学派的な、というか、スティグラー教授の「規制の虜」は、私の直感ではエネルギー企業にもっともよく当てはまると思うのですが、本書のスコープに入っていない点は私には理解がはかどりませんでした。最後に、これも本書のスコープ外なのでしょうが、独占企業体での雇用について、第9章で高度人材について、また、第10章でインフレとの関係で取り上げられていますが、生産段階における独占企業による競争企業の収奪という企業間の関係だけではなく、企業と労働者の関係についても、何らかの特徴があるのかどうか、もう少し突っ込んだ分析が欲しかった気がします。でも、繰り返しになりますが、米国での競争促進政策は今後注目されるところであり、私も本書をはじめとして勉強しておきたいと思います。

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次に、奥村皓一『転換するアメリカ新自由主義』(新日本出版)です。著者は、東洋経済でジャーナリストであった後、大東文化大学や関東学院大学で研究者をしていました。本書は、2021年1月から始まった米国バイデン政権下でシカゴ学派の主導する新自由主義的な経済運営への反省から、1930年代の民主党ルーズベルト大統領の下でのニューディール政策のような資本主義の枠内での経済政策について分析しています。当然ながら、古典派経済学のような自由放任を排し、政府と経営者と労働者の共同による経済再生、大不況からの脱出ということになります。ただし、本書ではケインズ政策という表現はほとんど出てきません。やや不思議な気がしました。本書は3章構成であり、第1章のバイデン生還における脱新自由主義的経済政策を中心都市、第2章のIT巨人・GAFAMの解体的規制をめぐる攻防、に加え、第3章では金融危機における米国銀行システム崩壊とメガバンク再構築による金融寡頭制、となっています。私は読んでいて、第3章の位置づけや内容が本書のスコープと当関係するのか、理解がはかどりませんでした。申し訳ないながら、第3章をほぼほぼ無視して、第1章を中心に見ていくこととします。まず、米国経済の脱新自由主義については、私の理解では労働サイドのテコ入れが主たる制作集団であろうと考えています。広く知られた通り、1940年代後半の米軍を中心とする占領軍による日本経済の三大改革は、農地開放、財閥解体、労働民主化です。労使のバランスが1981年からの当時のレーガン政権により決定的に労働者に不利になるような政策が取られてきています。典型的には航空管制官1万人余りの解雇と代替者の雇用です。我が国では、1987年の三公社の民営化に伴う国労解体かもしれません。本書では、1935年ワグナー法の基本に立ち返るべくタスクフォースからの報告を求めた旨の分析が目を引きます。2009年からのオバマ大統領はウォール・ストリートの利益代表に近い経済政策により、その次のトランプ大統領への道を開いてしまいましたが、バイデン大統領は労働組合の復権に力を注いでいる印象です。ただ、これは政策的にどうこうというよりも、むしろ、人口動態的な人手不足、特に、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)後の労働市場への戻りの遅さも含めた人手不足が大きな要因となって、労使間の力関係のバランスを労働サイドに有利に作用した、と私は考えています。おそらく、その方向性を政策的にバックアップした、ということなのだろうと思います。長期的には日本や米国に限らず、労働組合の組織率が低下の方向にあることは事実ですが、日本でも西武百貨店池袋店の労働組合が米国ファンドへの売却を巡ってスト権を確立していることは広く報じられていますし、日本でも現在のような反動的な内閣のもとでも、何らの政策的支援を受けずに、少子高齢化や人口減少の流れの中で人手不足が進み、労使間のバランスが労働サイドに有利な方向に動いているのが実感できます。いずれにせよ、米国では脱新自由主義が意図して政策的に進み始めています。日本でも早くに脱新自由主義が進むことを私は願っています。

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次に、ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』(東洋経済)です。著者は、エスワティニ(旧スワジランド)のご出身で英国王立芸術家協会のフェローであり、専門は経済人類学だそうです。英語の原題は Less Is More であり、2020年の出版です。本書では、人新世=anthropoceneないし資本新世=capitaloceneにおける生態系の破壊を防止するために、脱成長の必要性を分析しています。特に、資本主義の下で企業の行動原理は利潤の最大化ということですので、計画的陳腐化や不必要な買換を促進させようとする広告戦略などに基づく過剰な生産を減速させ、不要な労働から労働者を開放しすることを目的とした方向性が示されています。もちろん、完全雇用を維持するために労働時間を短縮し、また、フローの所得とストックの富=資産を公平に分配し、医療や教育や住宅などの公共サービスへのアクセスを拡充することも重視しています。ただ、過去の歴史を振り返り、植民地化による桎梏、あるいは、自然と人間という啓蒙主義における二元論などから説き起こし、マテリアル・フットプリントの考えの導入なども、とっても有益な方向性なのですが、具体的な方策への言及がほとんどありません。プラネタリ・バウンダリの考えはいいのですが、消費を地球が供給できる範囲に抑えるために、まず、計測の問題があり、次に、その実現のための方策が必要です。さらに、本書ではグリーン成長論を否定しています。成長と環境負荷のデカップリングが出来ないという前提なのですが、これについても計測が不十分ではないか、と私は考えています。おそらく、本書の主張はほぼほぼすべてが正しく、啓蒙主義的な二元論を脱するなら、自然からの収奪ができなくなれば労働からの収奪になる、というのもその通りなのだと思うのですが、もう少し具体的な計測と方向性が示されれば、さらに充実した主張になる気がします。私が常に主張しているのは、環境保護や生態系破壊の防止などは心がけとか気持ちの問題では解決しません。実際に実行力ある何らかの制度的な枠組みや規制がなければ、どうにもなりません。計測の問題にしても、GDPは一定の目的に即した指標であって、環境保護や生態系破壊防止のためには、GDPに代替する別の指標を考えねばなりません。それは、幸福指標ではないと私は考えています。気候変動防止や生態系保護の必要性を主張するのは簡単です。その実現のための計測と具体的な方策の提示が重要です。

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次に、島田荘司『ローズマリーのあまき香り』(講談社)です。著者は、私なんぞがいうまでもない本格ミステリの大御所です。本書は、その大御所の御手洗シリーズ最新刊であり、1997年の時点でスウェーデン在住の御手洗潔がその20年前1977年のニューヨークで起こった不可解な殺人事件の謎を解きます。その殺人事件とは、当時の世界トップであり、ナチスの絶滅収容所からの生き残ったという意味でも生きた伝説といえるバレリーナ、35歳と最盛期を迎えたフランチェスカ・クレスパンがニューヨークの劇場で上演された4幕もののバレエの主役を務めた際に、いわゆる楽屋の休憩室の密室で撲殺されます。死亡時刻から考えて、2幕と3幕の間の休憩時間に殺害されているのですが、彼女は最後まで、すなわち、3幕と4幕も踊っていることが多くの聴衆に目撃されています。この密室殺人と死亡時刻の謎が、実際に起ってから20年を経て、御手洗潔によって解明されるわけです。殺害場所は、ニューヨークのロックフェラー・センターを思わせる、というか、モデルにしたであろうウォールフェラー・センターです。そして、ユダヤ人とユダヤ教、もちろん、繰り返しになりますが、ナチスによる絶滅収容所、さらに、ナチスから逃れた後の旧ソ連における芸術家の待遇、また、ユダヤを代表するウォールフェラー一族の時刻までも十進法で表現する家法、などなど、島田荘司らしい数多くの奇想が盛り込まれています。最後には、もちろん、御手洗潔によってローズマリーの香りが現場に残されていたのかも明らかにされます。トリックについては疑問なくすべてが明らかにされるのですが、難点としては、「ノックスの10戒」や「ヴァン・ダインの20則」に、おそらく、抵触している可能性が高い点です。しかも、謎解きというよりは、私の感想としては力技です。ですので、騙された読者が、「なるほど」と感心するのか、それとも、「これは反則である」と感じるのかはビミョーなところかという気がします。ちなみに、私はフィフティ・フィフティで謎解きの鮮やかさに感激しつつも、どうも反則っぽいところが気がかりになった読後感でした。まあ、殺されたクレスパンのファーストネームのフランチェスカはイタリア人じゃないの、というのは別にします。

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次に、奥田祥子『シン・男がつらいよ』(朝日新書)です。著者は、読売新聞のジャーナリストを経て、現在は近畿大学の研究者を務めています。本書では何の言及もありませんでしたが、私は「プレジデント・オンライン」で同じ連載を一部見た記憶があります。5章構成となっており、4章までが取材の結果を取りまとめたルポ編で、最終5章が分析と解決のための考察編となっています。最初の4章では、女性に虐げられる男たち、男性に蔑まれる男たち、母親に操られる男たち、「親」の代償を払わされる男たち、とタイトルされていて、出世しなかったり、定年で権力を失ったり、マザコンで配偶者よりも母親を忖度したり、といった男性を取材し、それぞれをケーススタディしています。実際の取材例は本書を読むしかないのですが、私自身の経験に引き付けると、やや極端という気もします。私自身はキャリアの公務員として定年まで東京の本省で働いていましたから、平均的な民間企業よりも男女の性差はあまりなくて平等で、体育会的な要素はほぼほぼなく、営業のノルマやリストラなどはまったくない、という意味で、働きやすい良好な職場でした。私自身は上昇志向がほとんどないこともあって、平均以下の出世しかしませんでしたが、それほど不満はありませんでした。キャリアの場合は課長の上の局次長とか審議官まで出世する人が少なくない中で、課長止まりでしたので、繰り返しになりますが、キャリア公務員としては出世したのは平均以下でした。でも、キャリアですので、ノンキャリアも含めたすべての公務員の平均は軽く超えていたことも事実です。ですから、それなりに居心地がよかったのかもしれません。また、本書では何らかのハラスメントを受けたり、逆に、ハラスメントの加害者として告発されたり、といった例が散見されますが、そういった競争の激しさもそれほどなかった気がします。ですから、私のように出世は諦めてエコノミストとして経済学の勉強に励むべしという人事のはからいもあったのか、なかったのか、研究や調査の仕事をすることが多かった気もします。ただ、第5章で分析されているように、日本人男性の幸福度が国際的に低い水準にあることも確かで、中高年男性の生き難さが現れている可能性もあります。また、母親や父親からの影響という点に関しては、大学まで親元にいながら働き始めるに当たって東京に出る、という移動パターンでしたので、現在のように通信手段が多岐に渡って発達していたわけでもなく、公務員の仕事や役所についてほとんど情報のない親からの干渉はほとんどありませんでした。まあ、要するに時代が違うという面はありますし、私自身がそう気張らない性格とテンションの高くない職場でしたので、本書のような「つらい男たち」にはならなかったのかもしれません。

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最後に、泡坂妻夫『ダイヤル7をまわす時』(創元推理文庫)です。著者は、家業の紋章上絵師として働く一方で、ミステリ作家やマジシャンとしても活躍し、2009年に亡くなっています。この本と次の本はともに短編集であり、今年2023年になって作者の「生誕90周年記念」として再出版されています。この本はミステリ色が強く、次の本はミステリ色はほとんどありません。したがって、読書感想文を分けています。なお、最初の出版は『ダイヤル7をまわす時』は1985年に光文社から単行本が出ています。収録されている短編は、「ダイヤル7」、「芍薬に孔雀」、「飛んでくる声」、「可愛い動機」、「金津の切符」、「広重好み」、「青泉さん」となっています。ほぼほぼ表題作といえる「ダイヤル7」は、問題編と解答編で構成されたロジカルな犯人当てミステリとなっていて、抗争する暴力団の片方の組長が殺害されるのですが、何せ、1985年代前半の電話機ですので、ボタンではなくダイヤル式です。やや、今どきの若い読者には理解しにくいかもしれません。「芍薬に孔雀」は、客船内で口に靴にポケットに全身に稀覯モノのトランプのカードを詰め込まれた奇妙な死体の謎を解き明かします。「飛んでくる声」では、団地内で不思議に会話の声が反響して別棟の部屋に聞こえてしまい、殺人劇の解明へとつながります。「可愛い動機」では女性らしい動機から自動車を海に突っ込ませるという犯罪です。ラストの1行が鮮やかです。「金津の切符」はコレクター心理が読ませどころとなっています。倒叙ミステリなのですが、警察が解明するラストも興味深いところです。「広重好み」では、殺人事件は起こらず、なぜか、「広重」が名前に入る男性に興味を引かれる女性の謎に迫ります。最後の「青泉さん」では、小さな町で常連客しか来ない喫茶店に来るようになった画家の青泉さんが殺されますが、作品がすべて持ち去られるという謎が、殺人者の解明よりも重点を置かれています。

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最後に、泡坂妻夫『折鶴』(創元推理文庫)です。著者は、家業の上絵師として働く一方で、ミステリ作家やマジシャンとしても活躍し、2009年に亡くなっています。この短編集には、「忍火山恋唄」、「駈落」、「角館にて」、「折鶴」の4話が収録されています。ややミステリ色のある作品も含まれていますが、前作の『ダイヤル7をまわす時』がハッキリとミステリ短編集であったのに対して、この作品はかなり色合いが異なります。作者の「生誕90周年記念」として東京創元社からの再出版ですが、もともとは1988年に文藝春秋から単行本が出ています。第16回泉鏡花文学賞受賞作です。「忍火山恋唄」では、新内語りの名人の人生に絡んだ殺人事件と幽霊の怪談譚に本格ミステリの手法を加えているのですが、ミステリではなく人情話しとして私は読んでしまいました。「駈落」では、悉皆屋の男性が若かったころに経験したたった3日間の駈落事件が語られます。実は、大きなお釈迦様の手のひらでの操られた形で、最後には鮮やかなどんでん返しで終わります。「角館にて」では、男女の微妙な価値観や物の考え方のすれ違いが鮮やかに対比されています。ミステリ色の薄いこの作品の中でも、もっともミステリ色が薄い作品です。最後に、「折鶴」では、ミシンの導入により仕事が大きく変化する職人が主人公になります。投宿先で自分の名を騙られた主人公が、その謎の男の正体を名刺を渡した相手を回想しながら考えるという趣向で、ラストが鮮やかです。ミステリ色の薄いこの作品の中でも、謎解きという意味で、もっともミステリ色が濃い作品です。泡坂作品の中でも、どんでん返しはあるものの、よりしっとりとした大人の恋や人間関係を扱っている作品が多く、ミステリ色の強い作品と読後感がかなり違ってきます。

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2023年8月26日 (土)

今週の読書は経済書をいっぱい読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、渡辺努・清水千弘[編]『日本の物価・資産価格』(東京大学出版会)では、主として研究者を対象に物価や資産価格の決定について分析しています。リンダ・スコット『性差別の損失』(柏書房)は、主として途上国における男女格差に基づいて性差別が大きな経済損失をもたらしていると主張しています。道重一郎『イギリス消費社会の生成』(丸善出版)は、産業革命前夜の近世の長い18世紀における英国の消費社会の成り立ちについて、産業革命を主眼に据えた生産面からではなく、需要や消費の面から歴史的に後付けています。櫻本健・濱本真一・西林勝吾『日本の公的統計・統計調査 第3版』(三恵社)は、統計調査士の資格試験テキストなのですが、公的統計についてコンパクトに取りまとめています。柏原光太郎『ニッポン美食立国論』(日刊現代)は、ガストロノミー・ツーリズムについて、ほぼケーススタディで個別の成功例を取り上げています。ミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』(集英社文庫)は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』をモチーフにしており、仏領ポリネシアのヒバオア島で「創作アトリエ」に集まった作家志望の女性が次々に殺さるミステリです。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に入って先週までに21冊の後、本日ポストする6冊を合わせて119冊となります。
最後に、新刊本ではないので、このブログでは取り上げませんが、森村誠一『高層の死角』を再読しました。そのうちに、Facebookあたりでシェアしたいと予定しています。ただし、どうでもいいことながら、奥田英朗の『コメンテーター』の予約が回ってくる前にと、精神科医・伊良部シリーズの前作『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』を先週のうちに読んでいるのですが、この3冊は未だにFacebookでシェアできていません。

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まず、渡辺努・清水千弘[編]『日本の物価・資産価格』(東京大学出版会)です。編者はそれぞれ、東京大学と一橋大学の研究者です。本書は、30年余り前の1990年に同じ東京大学出版会から公刊された西村清彦・三輪芳明[編]『日本の株価・地価』の後を受けて編集されています。タイトルに合わせて2部構成であり、第Ⅰ部全7章で物価を、第Ⅱ部全6章で資産価格を取り上げています。出版社から考えても、ほぼほぼ完全な学術書であり、ビジネスパーソンというよりも研究者を対象にしている印象です。すべてのチャプターを取り上げることが出来ませんので、第Ⅰ部を中心に私の印象に残った分析について考えたいと思います。第1章では日本の価格硬直性を取り上げ、フィリップス曲線がフラットになり、企業が価格形成力(プライシングパワー)を喪失したとしています。なぜかというと、需要曲線が屈折し、価格据置きが長引く中で、小売店で買回り品が値上げされている場合、別の小売店に回る、という消費者行動が一般的になったためである、と指摘しています。もしも、緩やかな物価上昇が継続しているのであれば、別の小売店に行っても同じように価格が上昇している可能性が高いのですが、価格据置きが長く継続しているのであれば、別の小売店では従来通りの据え置かれた価格で販売している可能性が高い、と消費者が考えるから、と説明されています。ただ、これは購買対象がかなり幅広く存在する都会部ではそうかも知れませんが、地方圏でも当てはまるかどうか、私はやや疑問です。また、第2章では貨幣量と物価の関係について、インフレ率や貨幣成長率が高い経済では古典派的な貨幣数量説に近い状態となって、物価と貨幣量に正の相関がある一方で、日本のようにインフレ率や貨幣成長率が低い経済では特に相関はない、と指摘しています。これは私もそうかもしれないと思います。また、第Ⅰ部最後の第7章では、人口高齢化がインフレにどのような影響を及ぼすかを分析していて、貯蓄-投資バランスから自然利子率に影響するとともに、政治経済学的な要因、すなわち、高齢者が名目貯蓄額を維持するために低インフレを選好するのに対して、労働年齢階層は雇用や賃金のために高インフレを志向することから、年齢構成が高齢化すると低インフレが好まれ、中央銀行がインフレ目標を低位にする可能性がある、と指摘してます。これもそうかもしれません。第Ⅱ部の資産価格については、第12章で日本が、と明記していませんが、キャッチアップ型の成長が終わって世界経済の中でトップランナーとなった段階で、銀行がリスク回避型の貨幣や国債などの安全資産を需要するようになり、現在の日本のような安全資産の膨張が志向される可能性があると示唆しています。まあ、それぞれに説得力ある分析なのですが、3点だけ私から指摘しおきたいと思います。まず第1に、物価上昇率ないしインフレ率とは積上げで各消費財の価格を計算する、と言う暗黙の前提があるような気がするのですが、果たしてそうなのでしょうか。逆から考える見方も分析目的によっては必要そうな気がします。すなわち、物価とは貨幣価値の逆数であるという見方です。デフレで価格が低下する、というのは、逆から見て貨幣価値が上昇している、という意味である、という点が忘れられている気がします。ですから、円が希少性を高めてデフレになるのと、円高が進むのは表裏一体の同じ現象なのではないか、ということです。そして第2に、物価を計測するに際して、母集団、というか、真の物価水準をどう考えるかです。本書で見第3章で建築物価指数をアウトプット型で計測する試みがなされていますが、現状の消費者物価指数(CPI)がラスパイレス式で上方バイアスあるのは広く知られていますが、それでは、真の物価水準は何なのか、という視点も必要です。例えば、景気動向については、観測できない真の景気指標が存在して、それを観測可能な指標から状態空間モデルで計測しようとする試みもなされていますし、真の物価が何なのかについて考えるのもムダではないと私は考えています。最後に第3に、本書のように、財サービスの、いわゆる物価と資産価格を分割することの意味です。昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、石油や穀物の価格が上昇してコストプッシュ・インフレが進行していることは広く報じられています。しかし、石油や穀物は原材料となって財価格に波及するだけでなく、国際商品市況で取引される資産でもあります。原価のインフレの大きな特徴は、このように石油や穀物といった資産でもあり財の原材料でもある物資が資産価格と財・サービスのインフレをリンクする点だと私は考えています。でも、この点に着目した分析はそれほどなされているようには見えません。少なくとも、本書には含まれていません。本来でしたら、マクロエコノミストである私自身が取り組まねばならない課題なのかもしれず、それほど無責任な態度は取れませんので、私も勉強を進めたいと思います。

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次に、リンダ・スコット『性差別の損失』(柏書房)です。著者は、米国生まれで現在は英国オックスフォード大学やチャタムハウスの研究者をしています。世界的に有名な経済開発の専門家です。英語の原題は The Cost of Sexism であり、2020年の出版です。ということで、私の従来からの主張は、女性の経済社会への進出が大きく画期的に進めば、まだまだ日本経済も成長の余地が十分残されている、というものです。そして、いうまでもなく、日本での女性に対する不平等の度合いは先進国の中では飛び抜けて高く、6月21日に世界経済フォーラムから発表されたジェンダーギャップ指数でも世界146か国中の125位に位置しています。健康や教育はまだしも、政治経済の分野での男女格差がひどくなっています。本書では、その経済的な性的格差が大きな損失に結びついていると指摘しています。その前提として、本書から2点指摘しておきたいと思います。第1に、p.205に示されているルーカス-トンプソンほかのメタ分析、すなわち、Lucas-Thompson et al. (2010) "Maternal Work Early in the Lives of Children and Its Distal Associations With Achievement and Behavior Problems: A Meta-Analysis" により、1970年代ながら働く母親と専業主婦の母親の子供たちには行動面でも学業面でも何らの違いがないことが明らかにされています。加えて、p.224に示されているハネット・ハイドほかの分析、すなわち、Hyde, Janet S. et al. (1990) "Gender Differences in Mathematics Performance: A Meta-Analysis" により、少年少女の数学の成績に性差がないことが明らかにされてています。これらは、第1に、専業主婦のほうが子育てに有利であるとか、第2に、女子は男子より数学の能力が劣っているとかの俗っぽい迷信を否定するものです。その上で、女性を高等教育からは除していることにより世界経済がこうむっている損失が30億ドルに達するとかの統計的なエビデンスを提供しています。ただ、専門分野のために途上国における例が多く、先進国のエコノミストからすればかなり極端に見える事例が多いことも確かです。ただ、こういった女性を教育から、そして、経済から排除することのコストが極めて大きい点は理解すべきです。そして、一面では、地球上の耕作可能地の80%が男性所有である、あるいは、マルクス経済学を持ち出している点など、本書でも十分に意識しているように、女性が生産手段を持たないことが原因になっているケースがかなり多く見受けられます。この男女格差の課題解決はかなり難しいことは事実です。私は何らかのクオータを設ける必要を感じていますが、本書では第14章が救済への道と題されているものの極めて短い章になっていますし、エピローグでは米国が取り組むべき優先課題6点に加えて、世界や個人ができることをいくつか上げています。これまた、私が常に主張しているように、男女格差是正に限らず、個人のココロや意識改革に訴えるだけでは解決につながりません。制度的に、あるいは、法令によっても何らかの強制力ある措置が必要です。強力な政治的リーダーシップの基で、女性のクオータを設けるのが私はベストだと思いますが、その政治的リーダーシップがいつまでも実現されないおそれもあります。そうでなければ、英国のサフラジェットのような直接的な行動に出ることを厭わない人々が現れる可能性も否定できません。

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次に、道重一郎『イギリス消費社会の生成』(丸善出版)です。著者は、東洋大学の研究者であり、専門は経済史です。歴史学ではなく経済史がご専門です。本書では、イギリス消費社会の経済史について、生産関係や供給サイドから後付けるのではなく、消費・支出や需要サイドからの歴史を明らかにする試みです。対象となる地域は英国であり、英国の中のイングランドには限定していません。そして、時代としては、本書でいう長い18世紀であり、17世紀後半から19世紀初頭の時期を指しています。この時期には都市化の進行とともに、ひと目で見て洗練されているとか、上品であるとか行った文化的な価値が重んじられるようになり、英国で消費社会が実現された、と指摘しています。そして、それを裏付ける史料として、都市における女性向け服飾品消費を破産したメアリー・ホールの目録から、また、都市における男子服飾品消費をセイヤー文書から、そして、農村における消費活動をハッチ家文書から、それぞれひも解いています。小売業者が残した経営文書を史料として活用しているわけです。もちろん、会計的な商店サイドの史料だけでなく、トーマス・ターナーなど個人の日記も大いに援用されています。そこから垣間見えるのは、現在と少し違って、店舗は店先のカウンターで売るだけではなく、カーテンで仕切られた奥にはテーブルと椅子があって、馴染客にとってはお茶を飲みながらの社交の場でもあった、といったあたりです。本書では、ほとんど意識されていませんが、おそらく public と private の違いがカーテンの仕切りだったのだろうと私は認識しています。他方で、英国が世界の工場となり、20世紀初頭まで世界の覇権国となったのは産業革命をいち早く開始したからであることは明白なのですが、本書が指摘するように、ここでは英国ではなくイングランドにおける消費社会の実現は、その産業革命に歴史的に先行していた、という事実は重要です。供給サイドからの産業革命の重要性はいうまでもありませんが、消費社会の実現という需要サイドから産業革命を導いたの要因も見逃すべきではありません。そして、本書でも指摘しているように、都市化に伴って見た目で判る上品さや洗練などの消費に対しては、女性的であるとか、フランスかぶれとかの批判もありましたが、18世紀後半の啓蒙主義を待たねば克服されなかった、との本書の指摘は重要だという気がします。いずれにせよ、中性的な自給自足に近い生活から、本書でターゲットにする近世=アーリー・モダンの時期は、分業の発達とともに生産力が伸びて、個人がひとつの職業に特化して剰余物を販売するとともに、自分で生産しない物資を商品として購入するという意味で、市場経済の成立に向かう時期です。その最先端を走る英国の消費社会について、とても勉強になるいい本でした。経済学や経済史を専門にしていなくても、多くの方が楽しめると思います。

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次に、櫻本健・濱本真一・西林勝吾『日本の公的統計・統計調査 第3版』(三恵社)です。著者は、立教大学社会情報教育研究センターの研究者や研究アシスタントです。本書は、立教大学社会情報教育研究センター(CSI)の統計調査士の資格試験テキストとして開発されています。したがって、その資格試験の練習問題が各部の最後の方に収録されていたりします。この統計調査士の資格は、社会調査士などとともに、どちらかというと、経済学部学生よりも、マーケティングなどを学んでいる経営学部や商学部の学生に馴染みあるように思います。それはともかく、本書は、資格試験を志す学生はテキストとして通して読むのでしょうが、一応、手元に置いて辞書的に活用する場合も多そうな気がします。pp.130-33にかけての見開きには政府が取り組んでいる基幹統計の一覧表が掲載されています。ただし、統計局を中心とする調査統計が主となっており、業務統計は含まれていません。ですから、何と申しましょうかで、調査票を作ってわざわざ統計として調査するわけです。そうでないものは主として業務統計です。ハローワークのお仕事から有効求人倍率を弾き出したり、通関業務から貿易統計が出来たりするわけです。主要な統計は、人口統計、雇用統計、生活関連統計、物価統計、産業・企業統計、国民経済計算の各章に分かれています。差以後の国民経済計算だけが、いわゆる加工統計で2次統計とも呼ばれます。調査票を配布して調査する1次統計をいくつか組み合わせて加工して統計を作ります。そして、基礎的な統計データ分析も収録しています。クロスセクションの分布を見たり、時系列の変化を追ったりという分析です。おそらく、表計算ソフトでできるレベルの分析であって、それほど高度な計量経済学的な分析ではありません。記述統計が主となっていますが、いくつかの統計には必要とされるので、季節調整についてはそれなりの解説がなされています。いずれにせよ、夏休みの宿題とか、何かの機会に、手元にある、あるいは、近くの図書館で借りることができると便利そうな気がします。

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次に、柏原光太郎『ニッポン美食立国論』(日刊現代)です。著者は、60歳の定年まで文藝春秋社で編集に携わった後、現在は美食倶楽部「日本ガストロノミー協会」を設立し会長を務めています。本書では、「立国論」と銘打っているものの、まあ、そこまで大きな風呂敷を広げているわけではなく、具体的な個別のガストロノミー・ツーリズムの成功例を取り上げています。インバウンドとともに国内富裕層のガストロノミー・ツーリズムだけでなく、いわゆるラグジュアリー・ツーリズムへの示唆も豊富に含んでいます。ただし、成功例から演繹して、部分的に、より一般的なコンサルのような方向性も示していますが、ガストロノミー=美食の関係はあまりにも好みが分かれているため、一般論の展開は難しそうな気もします。ということで、私自身はガストロノミーにはまったくご縁がありません。食事とは基本的に体力維持や活動のためのエネルギー補給だと考えていて、もちろん、マズい食事よりは美味しい方がいいに決まっていますが、それほどのこだわりはありません。富裕層、というよりも、超富裕層のツーリズム、ガストロノミーだけを主眼とするものだけではなく、ガストロノミーも含めてラグジュアリーなツーリズムは、私のような庶民の目から見てもツーリズムの多様性を広げるには大いに有効だと見えます。例えば、本書でも第4章で「7.30.100」の壁として指摘していますが、1泊2食付きの高級旅館でも1泊7万円の値段を付けるには心理的な抵抗がある、というもので、それでも、インバウンドも含めて超富裕層であれば、例えば、JR九州の「ななつ星」で1泊30万円の実例はありますし、さらにその上を行く1泊100万円もあり得る、と指摘しています。私はこういった超富裕層からの波及効果、本書では、特に食に関しては「ヘンタイ」と呼んでいるフーディーから滴り落ちるという意味で、「トリクルダウン」というやや評判の悪い言葉を使っていますが、何らかの超富裕層からの波及は考えるべきだと思います。もちろん、インバウンドはともかく、国内の超富裕層からの波及は、できれば、政府がキチンと徴税した上で所得の再配分を実施するというのがもっとも好ましいのですが、現実にできていないのであれば、ビジネスでこういった同じ効果を模索するのも一案かもしれません。例は違いますが、私が経験した範囲では、スポーツジムが典型的に高齢者から若年層への所得移転を実行しているように見えました。高齢者が会費という形でおカネを払ってスポーツに励む一方で、インストラクターやスタッフの年齢は若くて、量的に十分かどうかはともかく、一定の所得の移転ないし再配分されている気がします。本書では、ガストロノミーだけでなくアートも含めて、ラグジュアリー・ツーリズムの成功例をいくつも上げています。私の従来からの指摘で、こういった成功例の裏側にはその数倍以上の失敗例があるのだと思いますが、行政によるフォーマルな所得再配分に加えて、富裕層・超富裕層からの所得の移転を受けるよう、ビジネス面からの何らかの方策も合わせて考える価値があると思います。

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次に、ミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』(集英社文庫)です。著者は、地質学者で、元ルーアン大学教授、2006年に作家デビューしています。私は、たぶん、『黒い睡蓮』と『彼女のいない飛行機』を読んでいるのではないかと思いますが、すっかり忘れ去っていたりします。本書は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』をモチーフにしたミステリです。舞台は画家ポール・ゴーギャンやシャンソン歌手ジャック・ブレルが愛した南太平洋仏領ポリネシアのヒバオア島です。日本ではその近くのタヒチ島やパペーテの方が有名かもしれません。実は、私もタヒチ島には行ったことがあります。また、アルファベットの表記では Hiva Oa ですので、「ヒバ・オア島」とカタカナ表記した方が一般には通用しやすいかもしれません。それはともかく、謎めいた石像ティキたちが見守るこのヒバオア島在住のカリスマ的な人気ベストセラー作家であるピエール=イヴ・フランソワ(PYF)が、彼の熱烈なファンでもある作家志望の女性5人とその同行者を招いて、「創作アトリエ」なる7日間のセミナーを開催します。彼女たちの宿泊すバンガローがタイトルの「恐るべき太陽」荘、ということになります。しかし、ここからが『そして誰もいなくなった』的なストーリーが始まります。招かれたのは、野心的な作家志望の女性、ベルギーの人気ブロガーの老婦人、パリ警察の主任警部には夫の憲兵隊長が同行し、黒真珠養殖業者の夫人にも娘が同行し、謎の多い寡黙な美女、ということになります。加えて、バンガローのオーナーと娘やパリの出版社の編集者なども重要な登場人物を構成します。ストーリーの冒頭でまずホストのPYFが疾走した上に、招かれた女性が次々に殺されます。タヒチからの警察は到着が期待されながら、まったく現れません。その意味で、「恐るべき太陽」荘ではなく、ヒバオア島が全体としてクローズド・サークルを形成しています。ストーリーの進行とともに、パリでの昔の殺人事件など、登場人物の黒歴史、というか、いろんな秘密が明かされ、人間関係の交錯した、また、決してきれいごとで済まない部分が明らかにされていきます。ただ、徐々に真実が明らかにされるタイプのミステリではなく、最後の最後に大きなどんでん返しの大仕掛けがあります。中には、冒頭から再読するミステリファンもいそうな気がします。明示されるとはいえ、語り手が時折変わる点は、私にはマイナス点と映りますが、決して『そして誰もいなくなった』のいわゆる二番煎じではありませんし、本書を高く評価するミステリファンもいっぱいいそうです。私もそうです。ひょっとしたら、ミステリの中では今年一番の収穫かもしれません。

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2023年8月19日 (土)

今週の読書は経済所2冊をはじめ計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大塚節雄『インフレ・ニッポン』(日本経済新聞出版)は、日経新聞ジャーナリストが我が国と世界のインフレについて考えていますが、小売店や消費者にはまったく取材せず、日銀当局の「大本営発表」みたいな公式見解をそのまま右から左に流すという形で、ジャーナリズムとして日経新聞のリテラシーの低さが垣間見える仕上がりになっています。メアリー L. グレイ & シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』(晶文社)では、アマゾンのMタークというプラットフォームに象徴されるようなweb上で仕事を請け負い、ソフトやアルゴリズムを補完する仕事に関して、人的資本や雇用の観点から強い警鐘を鳴らしています。綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』(河出書房新社)は、作者の芥川賞受賞作家の独特の軽妙でコミカルな語り口を堪能できる短編が収録されています。宮永健太郎『持続可能な発展の話』(岩波新書)では、SDGsなどに集大成されているサステイナビリティの議論を幅広く解説していますが、残念ながら、解決策や政策対応が抜け落ちていて物足りない印象です。有村俊秀・日引聡『入門 環境経済学 新版』(中公新書)は、20年余り前の旧版を改定した新版であり、環境経済学の理論を第1部で解説した後、第2部では日本の環境問題の実践編を展開しています。山形辰史『入門 開発経済学』(中公新書)では、マクロの開発経済学を基礎にし、資本蓄積や技術の応用、そして、国際開発援助まで幅広く論じています。一穂ミチほか『二周目の恋』(文春文庫)では、7人の豪華な執筆陣が短編、タイトル通りに成熟した「二週目の恋」の短編を収録したアンソロジーです。最後に、織守きょうやほか『ほろよい読書』(双葉文庫)は5人の作家によるお酒にまつわる短編を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に入って先週までに13冊、そして、今週ポストする8冊を合わせて113冊となります。
なお、新刊本ではないので、この読書感想文のブログには取り上げていませんが、奥田英朗『コメンテーター』の図書館予約待ちの間に、その前の精神科医・伊良部シリーズ3冊、すなわち、『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』も読んでいたりします。新刊書読書とともにFacebookあたりでシェアしたいと予定しています。

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まず、大塚節雄『インフレ・ニッポン』(日本経済新聞出版)です。著者は、日経新聞のジャーナリストです。冒頭のプロローグで、日本の異常性について指摘があり、物価上昇を異常だと考えること自体が世界的には異常である、と喝破しています。まさにその通りだと思います。そして、ウクライナ危機の少し前2021年秋以降の物価上昇について、輸入インフレから企業間インフレ、そして消費者インフレに波及していったとし、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)による需給両面からのインフレ圧力、交易条件悪化による所得の海外流出、などなど、かなり的確な指摘だと思います。しかし、そう思ったのはこのあたりまでであり、ジャーナリストらしく、メディアで大きく取り上げられたトピックに引きずられている印象もあります。典型的には、当時の黒田総裁の「インフレ許容度」発言で、強制貯蓄の積上がりを根拠にした発言を、メディアといっしょになって議論するのはいかがなものかという気はします。また、タイトルと違って、物価やインフレに直接に向き合うのではなく、ニュースソースである金融政策当局に焦点を当てるのも、やや違和感を覚えます。マクロ経済学的には金融政策はとても重要なのですが、メディアのジャーナリストとしては金融政策当局に取材するだけではなく、企業行動や消費者マインドなどのマイクロな視点ももう少し欲しかった気がします。その意味で、本書は強烈に物足りません。金融政策当局の動向に着目するとしても、日銀をはじめとする多くの中央銀行と違って、米国の連邦準備制度理事会(FED)は物価安定とともに最大雇用の達成も、いわゆるデュアルマンデートにしているわけですので、そのあたりはもう少していねいに書き分けて欲しかった気がします。いずれにせよ、民間部門、というか、繰り返しになりますが、価格戦略をはじめとする企業活動、小売店の価格対応、購買や支出の基となる所得や消費行動や消費者マインド、こういったジャーナリストが本来得意とすべき個別の分野で地道な取材をした上での分析ではありません。私はもともと日経新聞の報道姿勢については懐疑的なのですが、財政政策については財務省に取材して、また、物価については金融政策当局に取材して、それぞれの政策当局の公式見解を鵜呑みにして政府や日銀の広報活動を補完するようなジャーナリズム成り下がっているような気がします。やや悪い意味で「大本営発表」に近いと感じてしまいました。国民や企業、メーカーや小売店や消費者に取材したりはせず、日銀での取材結果をそのまま取りまとめている印象で、たぶん、その方がジャーナリストとしてはラクなんでしょうし、そういった公式発表の寄集めが「勉強になる」と感じる読者がいるのは判らないでもありません。そこは理解しますが、それでも、ジャーナリズムとしては独自のニュース・ソースを持って、それらに当たる取材をすべきであると私は考えています。例えば、東大の渡辺教授がプライシングパワーと呼んでいる価格形成力、というか、コストプッシュ・インフレの価格転嫁力を企業が持っているのかどうか、企業に取材して真実に迫るような方向性はジャーナリズムとして持っていてほしい気がします。その意味で、本書は記者クラブに流される政策当局の公式発表を寄せ集めたり、政策当局、特に、政権幹部のウラ情報を有り難がったりするばかりで、国民や中小零細企業に目を向けて取材しているのかどうか疑わしい日本のジャーナリズムのリテラシーの低さが詰まっていて、それほどオススメ出来ないと感じてしまいました。

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次に、メアリー L. グレイ & シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』(晶文社)です。著者は、2人ともマイクロソフトリサーチの研究者であり、専門分野は経済学ではなく人類学、メディア学、社会学などだそうです。英語の原題は Ghost Work であり、2019年の出版です。まず、タイトルのゴースト・ワークなのですが、典型的には、アマゾンのメカニカル・ターク(Mターク)というWebインターフェースやAPIを通じて、色々な仕事を世界中の人に依頼することができるクラウドソーシングサービスで仕事を請け負う人達のこなすお仕事です。Mターク以外にもこういったプラットフォームがあるのかもしれません。本書でも指摘されていますが、現時点の人工知能(AI)やアルゴリズムでは、すべてをソフトとマシンで仕上げることは出来ず、アンケート、美しさの評価、ニュースの分類などを人力でやっているわけで、こういったお仕事です。リクエスターがMタークに仕事内容と報酬や納期などの条件をアップロードし、そのゴースト・ワークを請け負うのがワーカー、というわけです。リクエスターは主要にはGAFAなどのIT大手らしいです。たぶん、それなりにリクエスターとして発注している側のマイクロソフトの研究所の研究者が、こういった問題点を研究できるのですから、私はやや驚いています。60歳の定年まで国家公務員をしていた私には馴染みのない世界なのですが、馴染みなくても、容易に問題点は理解できます。まず、雇用関係ではありませんから、日本語のニュアンスでいえば、独立請負契約ということになり、当然ながら、最低賃金や労働災害などは適用されず、何らの雇用者保護も受けられませんし、必要なPCやネット接続などもワーカー側の負担となります。いろんなゴースト・ワークの実態を紹介し、問題点を指摘するとともに、18世紀産業革命からの雇用と労働の大雑把な歴史についても概観していたりします。たぶん、不勉強な私だけでなく、こういった働き方については知らない人が少なくないでしょうから、米国とインドだけながら、事実関係を情報として集めただけでもそれなりの価値があると私は受け止めています。最後に解決策を10点、社会的変化を起こすための技術的解決策5策と技術的な専門知識を必要とする社会的解決策5策です。これらの解決策については、私には評価が難しいのですが、AIやアルゴリズムが広く活用されるに従って、こういった働き方も増えていくことは明らかだと思います。私は雇用をもっとも重視するエコノミストであり、現在の日本経済の停滞は派遣やパートをはじめとする非正規雇用の拡大を深く関係していると考えていて、たとえ「規制強化」になるとしても、非正規雇用の拡大を食い止めたいと考えています。おそらく、現在の政権や経済界は私と真逆の方向性なのだろうということは認識しています。それだけに、近い将来の日本の問題として考えておくべき問題かもしれません。

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次に、綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』(河出書房新社)です。著者は、芥川賞作家です。本書には、関連のない、というか、独立した4話の短編を収録しています。順に、「眼帯のミニーマウス」、「神田タ」、表題作の「嫌いなら呼ぶなよ」、唯一の書下ろし「老は害で若も輩」となります。この作者は私は不勉強にしてそれほど読んでいないのですが、なかなかに軽妙な文章のテンポとクセのある登場人物が魅力だと考えています。本書では、そのどちらも楽しめます。「眼帯のミニーマウス」では、学生のころのファッション趣味から、社会人になってちょっとした美容整形を繰り返すようになり、その事実を職場でカミングアウトし、仲間内で話題になる、というストーリーです。なお、作者のデビュー20周年記念作の『オーラの発表会』の主人公の1人だった海松子が端役で登場します。「神田タ」では、飲食店のアルバイト女性から素人ユーチューバー神田への応援コメントが過熱していくさまがコミカルに描かれています。表題作の「嫌いなら呼ぶなよ」では、不倫を突き止められて、結婚前からの親しい友人宅の落成パーティーで吊るし上げられる男性を主人公に、口から出る謝罪の言葉と心の声である本音の対比が、どちらもありえないくらいに自然だったりします。最後の唯一の書下ろし「老は害で若も輩」では、女性作家にインタビューした女性ライターの原稿が女性作家に大きく手直しされ、男性編集者が間に板挟みになって苦しみつつ、でも、三者三様にバトルを展開します。なお、「老」を代表する女性作家の名字は作者と同じ綿矢だったりします。いずれの短編も、ある意味で設定はとても怖い毒なのですが、決してその怖さや毒を前面に打ち出すのではなく、コミカルで軽妙なテンポで文章が進み、さすがに芥川賞作家の筆力を感じさせます。私は『オーラの発表会』を読んでからこの作品を読むようにと、その昔の文学少女にオススメされたのですが、『オーラの発表会』を読まずにこの作品を読みました。オススメに従っておけばよかったかもしれません。

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次に、宮永健太郎『持続可能な発展の話』(岩波新書)です。著者は、京都産業大学の研究者であり、専門は環境ガバナンス論だそうです。ということで、本書は環境に限定せずに、いわゆるSDGsに集約されているサステイナビリティに関する概説書です。ですので、地球環境問題、あるいは、環境の一部と考えられがちな廃棄物問題、生物多様性、水資源問題などを幅広く扱っています。当然ながら、現在のサステイナビリティ問題の元凶は人新世=Anthropocene であり、人間活動です。まあ、広い意味での経済活動といっていいと思います。本書では、私の見方に比較的近くて、環境サービスや生態系サービスが提供されていて、価格が付けられていないことから市場の失敗が生じている、というのが基礎にあります。ただし、私は Steffen 教授の Planetary boundaries と同じで、何らかの限界を越えると不可逆的な変化をもたらす、と考えていますが、そのあたりは本書では不明です。SDGsについては、その前のMDGsがほぼほぼ政府に責任を限定していた一方で、責任論をひとまず棚上げして、先進国だけでなく新興国や途上国も含めた「全員参加型」の目標設定になっていますが、それだけに、というか、逆に、参加意識の希薄なグループも少なくない、というのが私の印象です。でも、2030年に向かってもうSDGsの中間年を過ぎて、本書では、まだ、解決編が示されていないのが最大の弱点です。問題の指摘はいっぱいあって、いかにも岩波新書らしい気がしますし、研究者でなくてもジャーナリストでもこの程度の指摘はできそうな気がしますので、問題はSDGsの最終目標年である2030年に向けて、どういった行動が必要なのか、政府や企業の活動はどうあるべきか、という点はほのかに明らかになっていますが、そのためにどのような対策や解決策があるのか、そして、それらの評価やいかに、といった重要なポイントが本書ではスッポリと抜け落ちていて、外宇宙から地球を見た宇宙人の評論家のような視点しか提供されていません。その意味で、とても物足りないと感じる読者が多そうな気がします。

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次に、有村俊秀・日引聡『入門 環境経済学 新版』(中公新書)です。著者は、いずれも大学の研究者です。本書は「新版」とあるように、20年余り前に出版されたものを改版しています。ということで、本書は2部構成であり、第1部は理論的な環境経済学について解説し、第2部で日本の環境問題についての実例を引いています。本書では、環境経済学はやや狭く外部性で解説しようと試みています。私は大学の講義で環境経済学とは自然環境から得られる環境サービスに関する経済学であり、いくつかの特徴として、外部性とともに不可逆性についても付け加えています。すなわち、経済学においても、いくつか不可逆的な動きは観察されるのですが、自然環境から得られる環境サービスについては不可逆性があると考えています。例えば、気候変動が進んで極地の氷が溶けるともう元通りにすることが出来ない、といった点です。ただ、本書第1部の経済理論については、不可逆性を持ち出すことなく外部経済だけで極めて明快に解説されています。この方がいいのかもしれないとついつい考えてしまいました。私の専門はマクロ経済学ですので、マイクロな経済学から環境を説明しようとすれば、本書のようなやり方がいいそかもしれません。第2部では、廃棄物問題、大気汚染、気候変動について現実の問題とその解決方法について解説しています。ただ、経済学の弱点なのかもしれませんし、むしろ長所かもしれませんが、ゴミなどの廃棄物も含めて、汚染物質とかほかの何らかの排出をゼロにしようとすれば、経済活動をストップさせて生産をゼロにしなければならないわけで、結局、本書でも重視されている費用便益分析で最適点を探る、ということになりますが、実はこれはそう簡単ではなく、経済学のような不確定な学問に基礎を置くと、それぞれの主張者に都合のいい結果が示されかねません。他方で、政府に委任しても政府の失敗も無視できません。あまりにこういった点を強調すると、不可知論に陥ってしまいますが、環境をどの程度重視し、それとのトレード・オフの関係にある経済活動をどの程度重視するか、これにかかってきますし、場合によっては党派性もむき出しになります。理論的には可能でも、実践がどこまでできるかは疑問、というのが、環境経済学かもしれません。

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次に、山形辰史『入門 開発経済学』(中公新書)です。著者は、私の所属する国際開発学会の会長も経験したエコノミストであり、当然ながら、開発経済学の専門家です。本書で扱っている開発経済学はあえて分類すればマクロの開発経済学であり、大塚啓二郎教授の最近の出版『「革新と発展」の開発経済学』が個別の政策や国際協力案件の評価といったマイクロな開発経済学を主たる眼目にしているのとかなり趣が違っています。ですから、本書で何度か強調されているのが公平や平等の観点であり、「理不尽な悲惨さ」を低減させ回避することを本書では主たる眼目のひとつにしているようです。ですので、私が一昨年の夏休みに書き上げた紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model: How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" と同じように、二重経済における資本蓄積や成長からお話が始まっています。ただ、私も何度か強調していますが、この21世紀になっても、というか、戦後80年近くを経過して、途上国から先進国レベルの所得を達成した国はそれほど多くありません。おそらく、産業革命以降で欧州と北米を除いて、いわゆる先進国レベルの所得を実現したのは、日本のほかはシンガポールと韓国くらいなのだろうと思います。その意味で、大塚教授の本と同じ用に、本書でもイノベーションの重要性が強調されていますが、私はそこまで大上段に振りかぶらなくても、先進国へのキャッチアップを主眼にした開発が可能なのではないか、という気がしています。もちろん、日本の場合は、当時の欧米から技術を導入し、それを洗練された、というか、日本流に変化・変形させて対応する、という方法を取ったわけですが、途上国ではまだまだ応用可能なキャッチアップがあるのではないかと考えています。最後に、私はインドネシアの首都ジャカルタでのお仕事だった国際協力の虚しさを感じています。本書では最終第4章で取り上げています。日本ではJICAが受け持っている国際援助や国際協力なのですが、ホントにこれらを活用して先進国並みの所得を実現できるのでしょうか。本書では、「外交の視点」という名の国益重視を批判していますが、批判、ないし、反省すべきは、それだけではない気がするのは私だけでしょうか。

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次に、一穂ミチほか『二周目の恋』(文春文庫)です。7人の作家によるアンソロジーです。収録作品は順に、島本理生「最悪よりは平凡」、綿谷りさ「深夜のスパチュラ」、波木銅「フェイクファー」、一穂ミチ「カーマンライン」、遠田潤子「道具屋筋の旅立ち」、桜木志乃「無事に、行きなさい」、窪美澄「海鳴り遠くに」となります。「最悪よりは平凡」は、魔美という特別な名を持つ平凡な容姿の女性を主人公に、家庭のトラブルと恋愛遍歴を描き出しています。「深夜のスパチュラ」は、合コンで気の合った男性に対してバレンタインの手作りチョコを渡すべく悪戦苦闘する女性のコミカルな騒動を題材にしています。タイトルは料理とかお菓子作りに使うヘラのことのようです。「フェイクファー」では、大学の手芸サークルに入ったものの、実は着ぐるみの愛好家が集まっていて、その魅力に引かれた男性の数年後の物語です。「カーマンライン」では、19歳の女子大生が日米で分かれて育った双子の男性が来日して再会します。タイトルのカーマンラインとは地球と宇宙を分けるラインだそうで、私は線=ラインじゃなくて平面=プレーンじゃないの、と思ってしまいました。「道具屋筋の旅立ち」では、年下でありながらファッションや化粧まで口出しする横暴で強引な恋人に、かつての太っていたころの自分を思い出す女性の物語です。「無事に、行きなさい」では、アイヌの血を引くインテリア・デザイナーとレストランのシェフの恋物語です。最後の「海鳴り遠くに」では、夫を早くに亡くした女性が別荘に隠棲して自分の性に目覚める、というストーリーです。本書のタイトルの「二周目」からも理解できるように、初恋の物語ではなく、やや年齢を重ねた雰囲気があり、成熟したラブストーリーを集めています。しかも、作者を見ただけでも理解できるように、豪華執筆陣です。決して女性向けとか、もちろん、女性限定というわけではなく、私のような年齢のいった男も含めて楽しめる短編集だと思います。

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最後に、織守きょうやほか『ほろよい読書』(双葉文庫)です。5人の作家によるアンソロジーです。収録作品は順に、織守きょうや「ショコラと秘密は彼女に香る」、坂井希久子「初恋ソーダ」、額賀澪「醸造学科の宇一くん」、原田ひ香「定食屋「雑」」、柚木麻子「barきりんぐみ」です。表題から理解できるように、何らかのお酒にまつわる短編を収録しています。一応、双葉社の発行する月刊誌『小説推理』に掲載されていた作品を集めているのですが、まったくミステリではありません。念のため。ということで、まず、「ショコラと秘密は彼女に香る」では、チョコレートボンボンが取り上げられます。海外勤務もしたカッコいい独身の叔母の登和子を姪のひなきが語ります。叔母が姪の自宅である実家を訪れる際に定番のお土産で持ってきてくれたのがチョコレートボンボンです。その思い出を追って、主人公ひなきは神戸に旅して叔母の過去の友人さくらを訪ねます。「初恋ソーダ」では、果実酒が取り上げられます。主人公の果歩は自分でも果実酒を漬けるとともに、果実酒のバーにも通います。そこで同じ常連の中年バツイチ男が果歩のアパートに寄って来たりします。「醸造学科の宇一くん」では日本酒です。同じ一族の親戚ながら、仲のよくないご両家の酒造一家の娘と息子が同じ大学の醸造学科に相次いで入学し、しかも同じ学生寮の男子寮と女子寮で生活するという青春物語です。「定食屋「雑」」では、たぶん、ビールなのだと思いますが、酒類は特定せずに食事と飲酒をテーマにします。新婚ながら、亭主が食事時に飲酒するのが我慢できない女性沙也加が主人公です。結局、沙也加の主人公は気詰まりで家を出ていってしまうのですが、主人公は亭主が通っていた定食屋でアルバイトを始め、いろいろな発見をしたりします。最後の「barきりんぐみ」では、名門カクテルバーkilling meのバーテンダー有野は、コロナ禍で店が立ち行かなくなった時、大学の同級生である大塚からオンライン飲み会でシェーカーを振る腕前を披露してくれと、かなり破格のギャラで誘われます。しかし、そこは、コロナ陽性の疑いある保育士を出して一時的に閉鎖されている保育園きりん組の保護者がオンラインで集まってストレス発散を図っている場でした。そこで、主人公の有野はありあわせの材料でできるカクテル、モクテル、お料理を紹介する。というストーリーです。私のような酒好きには、とっても身にしみるような短編集です。

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2023年8月12日 (土)

今週の読書はケインズ卿の伝記やミステリなど計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946』上下(日本経済新聞出版)は、マクロ経済学の偉大なる創始者のケインズ卿の伝記といえます。リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』と『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』(ハヤカワ・ミステリ)は、英国の高級高齢者施設による殺人事件などの謎解きを取り上げたミステリです。ゴジキ『戦略で読む高校野球』(集英社新書)は、たけなわとなった高校野球の戦略について2000年以降の甲子園覇者の高校を分析しています。青崎有吾『11文字の檻』(創元推理文庫)は、表題作のミステリをはじめとする短編集です。最後に、アリス・フィーニー『彼は彼女の顔が見えない』(創元推理文庫)はスコットランドの廃チャペルを舞台にして読者をミスリードし大きなどんでん返しを作者が用意しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊の後、8月に入って先週6冊、そして、今週7冊を合わせると計105冊となります。
なお、新刊本ではないので、この読書感想文のブログには取り上げていませんが、綾瀬はるか主演で映画化されて昨日封切られた長浦京『リボルバー・リリー』も読んでいたりします。新刊書読書とともにFacebookあたりでシェアしたいと考えています。

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まず、ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946』上下(日本経済新聞出版)です。著者は、英国の研究者であり、経済学というよりは歴史の専門家です。英語の原題は John Maynard Keynes 1883-1946: Economist, Philosopher, Statesman であり、2007年の出版です。いくつかのバージョンがありますが、マクロ経済学を切り開いたケインズ卿の伝記です。家系をたどり、死後の経済学の広がりまで広範に取り上げています。1年近く前の昨年2022年11月末の読書感想文で、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)を取り上げた際に、第2次世界対戦開戦前の段階で「1人IMF」としてのケインズ卿の活躍を実感しましたが、本書では国際舞台のみならず、1929年の米国ウォール街の崩壊から始まった世界不況において、英国内の緊縮派の大蔵省やイングランド銀行と対決する「1人リフレ派」の実践行動もスポットが当てられています。もっとも、国際舞台はまだしも、英国内では経済学に限定されないブルームズベリー・グループ、あるいは、経済学に限定しても、著者がケインズ・サーカスと呼ぶグループの支援はあったように感じますが、まあ、ケインズ卿のご活躍が本書の主たる眼目です。また、スラッファのように第1次大戦中は「敵性外国人」として収容所に入れられていたエコノミストがいることも確かです。私の関心は、もちろん、経済学、特にマクロ経済学であり、その中でも、不況期の経済博の実践です。この観点からケインズ派の特筆すべき点を著者は5点に取りまとめています。すなわち、本書下巻p.154からのパートを要約すると、1) 循環的な予算均衡、として、単年度で予算を均衡させるのではなく、不況期に債務を増やして好況期に返済すべき、2) 当時の英国は総和では需要不足ではないが、産業構造が硬直的で、産業や地域ごとに大きな需要不足が見られる場合がある、3) 幅広く公共投資の必要性を強調し、4) 需要管理のために国民所得統計の整備が必要、5) 恒久的な低金利が必要、という5点です。いわゆる長期不況=secular stagnation の下で、我が国にも当てはまる点だろうと私は受け止めています。しかし、日銀総裁の交代があって、「アンシャンレジーム復活」と称されるような金融政策の変更がなされ、財政も軍事費や少子高齢化対策のために着々と増税が模索され、日本の行く末を危惧する数少ないエコノミストに私は成り果てたのかもしれません。

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次に、リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』(ハヤカワ・ミステリ)です。著者は、英国のコメディアンなのですが、第1作の『木曜殺人クラブ』からミステリの執筆を始めています。英語の原題は The Thursday Murder Club であり、2007年の出版です。タイトルはミス・マープルを主人公にしたアガサ・クリスティーの『火曜クラブ』を踏まえたものである、という点はミステリ・ファンであれば、すぐに気づくことと思います。なお、本シリーズ第3作の『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』も同じ出版社から邦訳が出版されています。ということで、このシリーズが英国の高級高齢者施設クーパーズ・チェイスを舞台に、70代の高齢者が施設の中のいくつかあるサークルのひとつである木曜殺人クラブの活動により、過去の殺人事件の解決に乗り出すことから、現在進行形の身近な殺人事件や謎解きに迫る、というものです。まあ、高齢者施設のサークル活動ですので、この木曜殺人クラブに限らず、基本的にヒマ潰しの活動なのですが、実際の事件の解決や謎解きに貢献するわけです。クラブのメンバーは、主人公で第1作では過去に関して謎の多いエリザベス、元看護師のジョイス、元精神科医のイブラハム、元労働運動家のロンの4人となっています。しかし、この4人には入っていないものの、エリザベスと2人でクラブを結成した時のメンバーのペニー元刑事がいて、退職直前に警察から未解決事件のファイルを持ち出して情報提供した、ということが素地になっています。第1作では、クーパーズ・チェイスを建設した業者であり、施設の経営にも携わるトニー・カランが自宅で何者かに撲殺されるという殺人事件が起こります。そして、施設の共同経営者であるイアン・ヴェンサムが容疑者と見なされますが、このヴェンサムも殺されてしまいます。しかも、約50年前の事件も浮かび上がり、これらの謎を木曜殺人クラブのメンバーが解き明かす、ということになります。第2作の『二度死んだ男』では、主人公のエリザベスの過去が元諜報員と明かされます。そして、エリザベツのところに離婚した元夫であり、同じく諜報員でもあるダグラスが助けを求めて連絡を取ります。ダグラスは米国のマフィアから2000万ポンドもの多額のダイヤモンドを失敬した、というのです。しかしそのダグラスが殺されてしまいます。加えて、クラブのメンバーであるイブラハムが地元のストリートギャングの強盗によりスマートフォンを奪われます。この2作では、ミステリよりもマフィアとか、ストリートギャングが絡むサスペンスの色彩が強くなり、ミステリとしての謎解きもさることながら、ダイヤモンドを巡っての騒動もひとつの読ませどころとなっています。whodunnit のミステリの謎解きとしては第1作の方が評価できるような気がします。でも、この2作については、単なるミステリとしての謎解きだけでなく、登場人物の会話の間合い、高齢者のコミカルな志向や行動、といった要素も十分加味すべきですから、2作品ともかなり水準の高いエンタメ小説に仕上がっています。加えて、邦訳がよく出来ていて、たぶん、原作のコミカルなタッチをちゃんと表現できている気がします。また、いろんなところで紹介されていますが、平文は3人称で書かれているのですが、いくつかのパートではジョイスと明記して、メンバーであるジョイスの1人称、というか、日記やモノローグの形でストーリーを進めています。私自身はこういった形式はそれほど評価しませんが、視点が移動する妙を感じる読者がいるかもしれません。いずれにせよ、私は第3作も読んでみたいと思います。

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次に、ゴジキ『戦略で読む高校野球』(集英社新書)です。著者は、野球著作家と紹介されていますが、私は本書が初読でした。高校野球を題材にしていて、いろんなデータも豊富に収録しています。広く知られたように、ブラッド・ピット主演で映画化もされたビリー・ビーンの『マネーボール』で野球のデータ分析であるセイバーメトリクスが、というか、その一部が紹介されていて、収益につながるプロ野球だけでなく、高校野球でもデータ分析を生かした戦略が幅広く採用されていることはいうまでもありません。しかし、本書ではデータ分析の実態を明らかにするというよりは、2000年以降の高校野球の、しかも、春夏の甲子園大会というトップレベルの高校野球で日本一になる戦略を分析しようと試みています。ただ、実際には、私は我が家で購読している朝日新聞の記事「立命館宇治を支える教諭4人の分析チーム 選手の成長率をグラフに」なんぞを見て、テレビ観戦していたりして、勤務校の系列校であり、私の出身地を代表する高校でもあって、熱烈に応援していたのですが、あえなく大敗してしまったわけですから、まあ、それほど重視すべきでもないかな、という気もします。第2章と第3章ではいくつかの典型的な強豪校が甲子園大会で勝ち進んで優勝するまでの軌跡を後付けています。ただ、戦略とまでいえるかどうか、かつては三沢高校の太田幸司投手が典型で、1人のエースが大会を通じて投げ抜く、あるいは、超高校級の選手が投げてはエースで、打っては4番打者で、スターに頼って勝ち抜く、という程度のレベルであった高校野球が、投手は分業体制を敷き、打者もいくつかのポジションをこなす、というふうに変化しているのも事実です。その意味で、夏の高校野球まっただ中、野球をテレビ観戦しながら楽しむにはいい1冊かもしれません。

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次に、青崎有吾『11文字の檻』(創元推理文庫)です。著者は、ミステリ作家であり、本書は表題作をはじめとする短編集です。特に統一的なテーマの設定はありません。巻末に作者自身による作品ごとの解説が付されています。収録されている作品は、「加速してゆく」、「噤ヶ森の硝子屋敷」、「前髪は空を向いている」、「your name」、「飽くまで」、「クレープまでは終わらせない」、「恋澤姉妹」、最後に表題作の「11文字の檻」、ということになります。繰り返しになりますが、巻末に著者人による解説があり、特に、著者から「前髪は空を向いている」については解説を先に読んだ方がいいというオススメがあります。私はオススメにより先に解説を読んだのですが、それでも十分な理解が出来ませんでした。海浜幕張駅前の地理などについて詳しくないからかもしれません。それから、「噤ヶ森の硝子屋敷」と「飽くまで」は既読でした。前者は文芸第三出版部[編]『謎の館へようこそ 黒』(講談社)に、後者は講談社[編]『黒猫を飼い始めた』にそれぞれ収録されています。ということで、実は、恥ずかしながら、私はこの著者の著作は初読でした。というのは、前に上げた2短編だけでなく、いくつかの短編をアンソロジーで読んだ記憶はあるのですが、本として取りまとめられているのは初めてでした。ということで、8話の短編すべてを取り上げることはしませんが、かなりミステリ色の強いのが「噤ヶ森の硝子屋敷」と表題作の「11文字の檻」、ということになります。でも、さすがに冒頭に置いた「加速してゆく」もいい出来です。JR西日本の福知山線脱線事故を題材として、地方紙の報道カメラマンが、現場に隣接する駅で見かけた高校生に関する謎を解き明かします。3年B組金八先生の第6シリーズがキーワードです。続く「噤ヶ森の硝子屋敷」は、見取り図付きで密室殺人の謎解きを展開します。少し省略して、「クレープまでは終わらせない」は、ガンダムを思わせる巨大ロボットにまつわるSFなのですが、戦闘ではなく整備に関するストーリーです。「恋澤姉妹」は作者自身が百合小説と称していますが、これこそ接近戦を含む戦闘小説です。師匠を殺害された主人公が、中東を舞台に恋澤姉妹に挑みます。そして、本格ミステリとして評価が高いのが最後の表題作「11文字の檻」です。近い将来でファシスト国家となった日本を舞台にしたディストピア小説です。言論統制国家である東土で敵性思想により収監された主人公らが、当てれば釈放されるという日本語の11文字のキーワードを論理的に推理しようと挑戦します。この最後の短編だけでも読む値打があるような気がします。

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次に、アリス・フィーニー『彼は彼女の顔が見えない』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家であり、2年前に同じ出版社から前作『彼と彼女の衝撃の瞬間』というミステリも出ていますが、私は未読です。ということで、私のような頭の回転が鈍い田舎者はすっかり本作には騙されました。主要な登場人物はたった3人であり、40歳を少し過ぎた中年夫婦であるアダムとアメリアと、それに、ロビンという名の同じ年ごろの女性です。アダムは脚本家であり、アメリアは動物愛護団体で働いています。取りあえず、ロビンは謎の人物です。タイトルになっているのは、相貌失認という病気をアダムが持っていて、顔が見分けられない、という病気だそうです。もちろん、これがストーリー展開のカギになります。この相貌失認も一因で、夫婦関係がうまく行かない夫婦がコンサルタントに勧められて、2020年2月の真冬に2人で旅行する、というのが主たるストーリーで、その旅行先というのがスコットランドの雪の積もる廃チャペルを改造したところ、ということになります。着いた途端に、窓の外を人の顔が通り過ぎ、それが近くに住むロビンということになります。チャペルの方では停電や断水したり、また、夫婦が乗って来た自動車のタイヤがすべてパンクさせられていたり、と、さまざまな不気味な出来事が起こります。その中で、主としてアダムの過去について、ただし、アラサーで結婚して以降の人生遍歴、作品の映像化をまったく許可しない人気作家から指名を受けて、その作品の脚本を執筆し、当然ながら、注目を集めて脚本家として充実した活動に入る、という点が明らかにされます。そして、繰り返しになりますが、私がすっかり騙された点がp.318から明らかにされます。そこは読んでのお楽しみ、ということになります。殺人事件が起こって、その謎、すなわち、whodunnit 誰が、あるいは、whydunnit どうして、あるいは、howdunnit どのように、といった謎を解き明かすタイプのミステリではありませんが、読者をミスリードし、隠されていた事実を明らかにするどんでん返しの作品です。

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2023年8月 5日 (土)

今週の読書は大御所による経済書をはじめミステリも含めて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大塚啓二郎『「革新と発展」の開発経済学』(東洋経済)は、開発経済学の第1人者がご自身の自慢話も交えつつ、途上国の経済発展における農業と工業での革新と集積の重要性を解き明かしています。平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)は、芥川賞作家が我が国の作家として川端康成などとともにノーベル賞候補に擬せられていた三島由紀夫の文学について論じています。近藤史恵『ホテル・カイザリン』(光文社)は、既発表の短編8話を収録しています。各作品は基本的に独立で関連はありません。紫金陳『知能犯の時空トリック』(行舟文化)は、中国の人気ミステリ作家が法執行機関のトップに対する復讐劇を倒叙ミステリの作品にまとめています。田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)では、ガバナンスが崩壊し、危機にある大学の現状をルポしています。坂上泉『インビジブル』(文春文庫)では、昭和29年1954年の大阪を舞台に、政治家の秘書が刺殺される殺人事件をはじめ、3件の殺人事件の謎が解明されます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~7月に48冊の後、今週ポストする6冊を合わせると計98冊となります。

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まず、大塚啓二郎『「革新と発展」の開発経済学』(東洋経済)です。著者は、開発経済学を専門とするエコノミストです。英文論文146本とか、あるいは、本文中にも研究者としてのアドバイスなんかがあったりして、いかにも年配の方の自慢話がいろいろと盛り込まれています。それはさておき、本書はかなりレベルの高い学術書に仕上がっています。はしがきには、学部4年生から大学院修士課程の院生、そして経済学の基礎がある実務家が読者として想定されている旨が記されています。まあ、私のような研究者も入っているんだろうと思いますが、一般のビジネスパーソンは含まれていない可能性があります。ということで、本書のスコープは農業と製造業(工業)であり、いわゆるペティ-クラークの法則で示されている第1次産業から第2次産業、そして第3次産業へと付加価値生産や雇用者がシフトするという第3次産業はスコープに入っていません。まあ、開発経済学ですからそうなのだろうと思います。タイトルにも示されているように、農業にせよ工業にせよ革新が重要であると強調しています。ただし、人口に膾炙したシュンペーター的な創造的破壊までのマグニチュードを持った革新でなくても、もっと普通の革新、本書では日本のQCサークル的な「カイゼン」まで含めて考慮されているように見受けられます。そして、もうひとつのキーワードが発展なのですが、これは、本書を読む限りでは発展というよりは集積のほうが適当そうな気がします。編集者の目から落ちたのか、著者の強力な思い入れ7日、私には判りかねます。集積については、平屋的集積という表現で繊維産業などで同じような生産関数を持った小規模零細企業が一定の地域に集まる集積に加えて、ピラミッド型の集積、すなわち、自動車産業のようにトップのアセンブラーに対して、部品を供給する1次サプライヤー、さらに2次サプライヤー、あるいは、3次、4次とあるのかもしれませんが、そういったピラミッド構造の集積を想定しています。そして、当然ながら、途上国の特性に応じた技術が採用されるべきであり、まずは、繊維産業やアパレルなどの平屋的な集積を分析の対象としています。さらに、「キャッチアップ」という用語は見かけませんが、当然、先進国からの直接投資(FDI)を受け入れ、あるいは、グローバル・バリュー。チェーン(GVC)に組み入れられ、何らかのスピルオーバーを受けて発展する、ということなのだろうと思います。ただ、日韓のように国内貯蓄を活用してライセンス的に技術だけを導入するケースと東南アジアや中国のように技術とともに資本も含めて受け入れる場合の違いについては、私自身は興味あるのですが、本書ではそれほど重視していないような印象でした。いずれにせよ、とてもレベルの高い議論が展開され、経済史と開発経済学のリンケージも指摘されていて、私にはとても勉強になりました。本書で強調しているように、開発経済学は戦後の新しい経済学の領域であって、まあ、財政学とか金融論とかの政府の経済政策を分析したり、あるいは、ミクロ経済学やマクロ経済学のようにいわゆる経済原論的な学問領域ではありませんので、私のような官庁エコノミストにも開かれている部分が少なくなく、したがって、私もマクロの開発経済学についてはそれなりに馴染みないこともないのですが、途上国の経済実態も含めてマイクロな開発の現場についてはよく知りません。これもとっても勉強になりました。大くの読者が対象になるわけではないのでしょうが、それでもできるだけ多くの方に読んでほしい気がします。

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次に、平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)です。著者は、芥川賞作家であり、本書でも明らかにしているように、三島由紀夫に深く傾倒しているようです。700ページ近い本書は、序論、結論、あとがきを除いて4部構成であり、それぞれ三島の代表作を年代順に取り上げています。すなわち、『仮面の告白』論、『金閣寺』論、『英霊の声』論、『豊饒の海』論、となります。もちろん、これ以外にも三島作品は数多く取り上げられていて、私が読んだ印象では小説では『禁色』や『鏡子の家』、戯曲では『サド侯爵夫人』への言及が多かった気がします。実は、恥ずかしながら、私はこの4冊の中では『金閣寺』しか頭に残っていません。ほのかな記憶として『仮面の告白』は読んだ記憶があるのですが、中身は記憶からスッポリと抜け落ちています。一応、我が家には『豊饒の海』4冊の箱入りの本があって、カミさんのものなのですが、上の倅の中学校・高校の文化祭に行くたびにこの箱入り4巻セットの『豊饒の海』がバザーに毎年出されていて、4冊で500円というお値段でしたので、売れ残っている上に大した価格ではない、という印象しかありませんでした。まあ、それはともかく、大雑把に650ページ強のコンテンツで、最初の3部、すなわち、『仮面の告白』論、『金閣寺』論、『英霊の声』論がそれぞれ、これも大雑把に100ペジくらいなのですが、第4部の『豊饒の海』論は残り300ページ強あります。『豊饒の海』を構成する4巻、『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』については、ごていねいにもpp.326-27であらすじを紹介していたりします。でも、最後の第4部『豊饒の海』論については、p.350過ぎあたりから仏教のご説明があり、阿頼耶識、説一切有部の存在論、唯識や唯識における輪廻が三島論とともに展開され、私はその後は文字を追うだけで、中身が頭に入りつつも理解が及ばない、という状態になってしまいました。三島の文学をきちんと読んでいる読者でしたら、もっと理解がはかどったのだろうと思います。ただ、ひとつだけ指摘しておきたいのは、三島由紀夫は1970年に市ヶ谷で割腹自殺を遂げた右翼的な行動の人なのですが、平野啓一郎はツイッタのつぶやきを見ても理解できるように、我が京都大学の後輩らしく極めて左派リベラルな志向を示している文化人です。私も同じ方向性ですので、私自身は三島由紀夫や石原慎太郎の作品はそれほど多く読んでいません。文字や文学を用いて表現する創作活動と肉体や姿勢を持って表現する行動とは別物と考えるべきなのでしょうか、それとも、基本は同じとみなすべきなのでしょうか。私には不明です。三島の割腹自殺は1970年で、私自身はまだ小学生でした。しかし、政治的な行動に嫌悪感を覚えた記憶がありますし、その直後の1972年のあさま山荘事件の極左の行動にも同じく嫌悪と恐怖しかありませんでした。他方、石原慎太郎については私自身も投票した東京都知事としての政治的姿勢や活動は、一定の評価ができると考えていて、少なくとも、私の目から見て現在の小池都知事よりは「マシ」泣きがします。話を元に戻すと、三島についてはノーベル賞候補にも擬せられた文学者とシテの高い評価、それに対して、楯の会を組織し右翼として行動する政治的な面、本書については、後者はかなりの程度に捨象した上で前者の文学を論じていると考えてよさそうです。ただし、最後の最後に、本書の三島論は著者である平野啓一郎の「読書感想文」です。学術的な文学論と考えて読むのは適当ではないように私は受け止めています。

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次に、近藤史恵『ホテル・カイザリン』(光文社)です。著者は、ミステリ作家であり、ホラー超の小説も少なくない作家です。ほとんどハズレがないですし、私は大好きです。本書は短編集であり、悪くいえばやや寄せ集めの感があります。出版社のサイトでは、「失ったものと手に入らなかったものについて」という統一的なテーマが設定されているかのような宣伝なのですが、統一したテーマは私には感じられませんでした。まあ、よく考えれば、バラエティにとんだ短編8話が収録されている、ということです。さらに、アミの会のアンソロジーなどにすでに収録されている短編もいくつかありますので、買う前には確認をオススメします。収録されているのは、「降霊会」、「金色の風」、「迷宮の松露」、「甘い生活」、「未事故物件」、「ホテル・カイザリン」、「孤独の谷」、「老いた犬のように」です。「降霊会」では、高校の文化祭でやらせの降霊会を仕組んだ女生徒なのですが、友人の大姿勢との妹が亡くなった死因について、知りたくもない事実が明らかになったりすして、ややホラーテイストに仕上がっています。「金色の風」では、短期の留学でパリに来た女性がチェコ人の女性と犬と知り合って成長するというストーリーで、モロッコに感傷旅行する女性を主人公にした「迷宮の松露」とともに、それほどミステリでもなく、ホラーでもなく、この作者にしては純文学的な作品ではなかろうかと思います。「甘い生活」は幼少のころから人も持ち物を欲しがる女性を主人公にして、甘い生活を意味するイタリア語のネーミングがなされたボールペンにまつわる少しホラーな作品です。「未事故物件」とは、アパートなどで自殺などがあった部屋を指す「事故物件」に「未」がついた物件で、空室なのに人がいる気配のする部屋にまつわる事件を未然に回避した女性の物語です。表題作の「ホテル・カイザリン」は、その名もホテル・カイザリンで出会って友情を深める女性2人なのですが、会えなくなった事情が生じた際に、そのうちの1人が取った行動がとってもホラーでした。「孤独の谷」では、まあ、SF調のホラーというか、その昔に「読者が犯人」という謳い文句のミステリがありましたが、そんなことで人は死ぬのか、というカンジで私は読んでいました。最後の「老いた犬のように」では、主人公の男性小説家を中心にして、離婚した妻と男性の作品のファンの若い女性と、ある日突然に態度が豹変する女性に対して戸惑う男性を描き出しています。2話ほど既読の短編があり、どれもまずまずの作品なのですが、最後の「老いた犬のように」はちょっと何だかなあ、というカンジで、男性を主人公にするストーリーの面白みはなかったです。ただ、逆に、というか、何というか、「金色の風」、「迷宮の松露」あるいは表題作の「ホテル・カイザリン」などで、女性を主人公にした旅を題材にする作品はとってもよかったです。特にミステリファン必読、とまでは思いませんが、この作者のファンであれば読んでもいいのではないかという気がします。

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次に、紫金陳『知能犯の時空トリック』(行舟文化)です。著者は、中国のミステリ作家であり、官僚謀殺シリーズや推理の王シリーズがヒットしているそうで、映像化されている作品も多いと聞き及んでいます。でも残念ながら、日本で邦訳されている作品は多くないようです。なお、表紙画像に見えるように、本書は前者の官僚謀殺シリーズの作品です。舞台は中国の寧県で、当然、ミステリですので殺人です。寧県検察院のトップである検察長が喉をかき切られて殺害された後、寧県人民法院の裁判長が自宅マンションの入り口で落下してきた敷石の直撃を受けて死亡し、さらに、寧県公安局長が海岸から投身自殺をしたように見える死に方をします。最初の殺人事件は市公安局の刑事捜査担当の副局長である高棟が捜査に当たります。そして、高副局長は事故死に見える人民法院裁判長や自殺に見える公安局長の死についても捜査を進め、かなり真相に近いラインに到達します。すなわち、最初の検察長の殺人とその後の2人の事故死ないし自殺に見える事件は犯人が異なっていて、特に後者については、物理学や力学の知識を十分持った教師とかエンジニアとかによる計画犯罪ではないか、という見立てです。ということで、小説としては、いわゆる倒叙ミステリの形を取っています。ですから、私が読んだ感想としては、日本のミステリである貴志祐介『青の炎』とよく似た印象でした。でも、犯人の犯行に及ぶ知的レベルが極めて高く、逆に、というか、捜査側の高副局長もかなり真相に迫るのですが、最後は、犯人の自供を持ってしかホントの真相にはたどり着けません。しかも、これまた、日本のミステリになぞらえると、東野圭吾『容疑者Xの献身』に似た方法でDNAなどを偽装した上で、犯人は逃げ切ったのではないか、と示唆する終わり方になっています。犯人と捜査側の知恵比べ、心理戦という色彩もあります。その上で、シリーズ名になっている官僚謀殺に示されているように、国家公務員として定年まで長らく勤務した私には心苦しいながら、中国の治安当局トップの官僚の実に腐敗にまみれた実態も明らかにされています。同じ作者と邦訳者のコンビで、この作品の前作に『知能犯之罠』というタイトルのミステリがあると紹介されていますので、読んでみたいという気にさせられました。ただし、邦訳がそれほどこなれていません。やや読みにくい、と感じる読者もいるかも知れませんが、それを補って余りあるプロットやストーリー展開の素晴らしさを感じます。中国の小説としてはSF作品で『三体』が余りに有名ですが、ミステリもいくつかいい出来の作品が出始めているように感じます。

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次に、田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)です。著者は、ジャーナリスト、ライターであり、大学の雇用崩壊やガバナンス、ハラスメントなどを執筆しているようです。本書では、タイトル通りに大学の崩壊について、国立大学、私立大学、ハラスメント、雇用崩壊、文部科学省からの天下りの5章の章立てで論じています。我が母校の京都大学が突端で吉田寮の問題や立て看板の撤去などの大学の自由と自治の観点から始めています。ただ、最終的には文科省からの天下りで大学の自治がおかしくなったり、教職員の人事が専断されたりといった観点からの結論になっているように感じて、少し違和感があります。本書の観点はすべてに重要なのですが、3点ほど抜けているように思うからです。第1は学問の自由、第2に人事と絡めた業務分担、第3に大学院の過剰な定員です。まず、学問の自由については、軍事研究の観点からチョッピリ触れられているだけで、例えば、日本学術会議の任命拒否問題などもう忘れ去られている印象です。次に、大学の観点ばかりで、学部の観点も入っていません。というのは、教員人事など、最終的には大学評議会的な全学の会議で決定されるとはいえ、学部教授会の権限である場合が少なくないわけで、私のようなヒラ教員は学部執行部が直接の「上司」筋に当たることから、大学執行部というよりは学部執行部からのハラスメントなんぞの可能性の方が高いわけです。たしかに、初等教育や中等教育の場での教師の負担が大きくなっている点は報道などで注目されていますが、大学などの高等教育機関でも同じです。ですから、サバティカルで1年間の研究休暇をチラつかせて「やりがい搾取」まがいの業務割当てがあったり、何らかの人事的な扱いを眼目に授業の担当を増やしたりといった行為はハッキリとあります。私の経験からも、授業の担当コマ数を割り当てすぎたので、むしろ、学部執行部の方から減らすべく働きかけを受けた教員もいたりします。最後に、本書で忘れられている点は大学院です。バブル経済崩壊後、1990年代半ばの就職氷河期・超氷河期あたりから、就職の先延ばしのために大学院の定員がやたらと増員されています。ですから、経済学部だけなのかもしれませんが、15年ほど前の長崎大学でも、現在の勤務校でも、日本人学生だけでは定員に達せず外国人留学生を大量に受け入れている大学があります。というか、それが経済学部に関しては大半だろうと思います。教員サイドでどこまで英語での大学院授業や論文指導をできるのか、そうでなければ、院生サイドでどこまで日本語授業を消化できるのか、不安に感じる場合すらあります。そういった点も含めて、本書だけではカバーしきれていない分野で大学は崩壊を始めているのかもしれません。

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次に、坂上泉『インビジブル』(文春文庫)です。2021年に単行本が出版され、大藪春彦賞と長編および連作短編部門の日本推理作家協会賞を受賞しています。今年2023年になって文庫化されて私も読んでみました。著者は、ミステリ作家であり、社会派の骨太でサスペンスフルな作品が多い印象です。私は、沖縄返還直前のドル円交換を題材に盛り込んだ『渚の螢火』を読んだ記憶が鮮明に残っています。ということで、この作品は、まだ戦争の記憶が色濃く残っている昭和29年1954年の大阪を舞台にしています。このころは、現在の自衛隊はもちろん、警察組織もまだ完全に整備されているとはいいがたく、自治体警察と国家警察が並立されていて、大阪市の自治体警察は警視庁と呼ばれていたころです。まあ、国家警察というのは、米国の連邦捜査局=FBIになぞらえた組織だったのでしょう。そして、その大阪、シンボルの大阪城付近で代議士の秘書が頭に麻袋を被せられた刺殺体となって発見されます。中卒の若手ノンキャリアながら刑事になっている20歳そこそこの新城は初めての殺人事件捜査に意気込み、国家警察の東京帝大卒のキャリア警察官である守屋と組んで捜査することになります。その後、同じように頭に麻袋を被せられた殺人が2件連続して発生します。そして、刺殺体の凶器は軍の武器である銃剣で刺された痕であることが判明します。さらに、冒頭から満州開拓団の挿話が挟まれたり、街中で覚醒剤の使用による犯罪が発生したり、華僑を顧客とする金融機関でのマネロンまがいの金融取引があったり、なぜか、えびす信仰が注目されたりと、いろいろな伏線がばらまかれます。ついでながら、ストーリーの本筋にはあまり関係ありませんが、競艇事業を手がける大物フィクサーの笹川という人物も登場したりします。そして、大阪市警視庁の刑事部長が政治家を巻き込んだ汚職事件の匂いを嗅ぎつけて、大いにやる気を出したりした後、少しずつ少しずつ真相が明らかになります。これまた、最後の最後で名探偵が真相を一気に明らかにするタイプのミステリではなく、少しずつtラマネギの皮を剥くように真相が明らかになっていくタイプの、私の好きなミステリです。ホームズやポアロなどのようなたった1人の名探偵はこの作品には存在しません。ミステリとしての謎解きだけでなく、当時の経済社会情勢もふんだんに盛り込まれて、大いに雰囲気を盛り上げます。政治家の汚職だけでなく、太田愛『天上の葦』を思わせるような戦争に関する壮大な社会的テーマを底流に秘めています。

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2023年7月29日 (土)

今週の読書は歴史から見た本格的な経済書やミステリをはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、バリー・アイケングリーン & アスマー・エル=ガナイニー & ルイ・エステベス & クリス・ジェイムズ・ミッチェナー『国家の債務を擁護する』(日本経済新聞出版)は、歴史的な観点から国家の債務の有用性について、戦費の調達やインフラ整備、あるいは、福祉国家の構築などの観点から論じています。なお、監訳者は東京大学経済学部で経済史を担当する岡崎哲二教授です。三上真寛『景気把握のためのビジネス・エコノミクス』(学文社)は、初学者ないし一般ビジネスパーソン向けに日本経済の景気動向の把握に関する実務的な情報を提供してくれます。方丈貴恵『アミュレット・ホテル』(光文社)は、我が母校の京大のミス研出身のミステリ作家の作品であり、犯罪者ご用達のホテルで生じる殺人事件の謎解きをしています。伏尾美紀『数学の女王』(講談社)は、第67回江戸川乱歩賞を受賞してデビューしたミステリ作家の受賞後第1作で、札幌の新設大学における爆破事件の謎解きなのですが、ハッキリいって期待外れの駄作でした。稲田和浩『落語に学ぶ老いのヒント』(平凡社新書)では、必ずしも落語からの出典に限らず、幅広い古典芸能から高齢気に入る生活上のヒントなどを解き明かします。最後に、エリカ・ルース・ノイバウアー『メナハウス・ホテルの殺人』(創元推理文庫)は、アガサ賞最優秀デビュー長編賞受賞のミステリで、エジプトの高級ホテルにおける殺人事件の謎解きをします。6冊の新刊書読書のうち、3冊がミステリであり、夏休みに向けてミステリの読書が増えそうな予感がしています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6月に19冊、7月中に今日の分まで含めて29冊となり、合計92冊となります。今年は年間200冊には届きそうもありません。

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まず、バリー・アイケングリーン & アスマー・エル=ガナイニー & ルイ・エステベス & クリス・ジェイムズ・ミッチェナー『国家の債務を擁護する』(日本経済新聞出版)です。著者は、メディアなどでも人気の歴史研究者と国際通貨基金(IMF)の現役及びOG/OGの研究者です。監訳者は東京大学経済学部で経済史を担当している岡崎哲二教授です。ということで、ほぼ1か月前の6月24日の読書感想文で取り上げたオリヴィエ・ブランシャール『21世紀の財政政策』とおなじように、政府債務について経済厚生などのポジティブな面を歴史的観点から後付けています。すなわち、中世のハプスブルグ家の没落から始まったオランダや英国の勃興とともに、その近世、いわゆるアーリー・モダンの時期の戦費調達に国債発行や借入れの果たした役割から始まって、産業革命前後からのインフラ、特に鉄道の整備に政府債務や借入れが資金調達に用いられ、また、20世紀前半は再び戦費調達の必要が生じた後、第2次世界大戦後の福祉国家の構築にも国家債務が役立った、と歴史を後付けています。一般に、日本ではメディアのナラティブで政府の債務は好ましくないものとされ、国債残高が積み上がるとデフォルトの可能性が示唆され、果ては、ハイパー・インフレ、資本の国外逃避(キャピタル・フライト)、極端な円安の進行などなど、とても否定的な視点が提供されています。しかし、先週取り上げた森永卓郎『ザイム真理教』もそうですし、もちろん、ブランシャール『21世紀の財政政策』も同じですが、政府債務は十分有用性があり、決していたずらに忌避する必要はない、という考えが浸透しつつあります。私も基本的には同じであり、検図経済学の基本にある需要不足の場合は政府支出でGDPギャップを埋める、というのは合理的な経済学的結論だと受け止めています。本書でも、第7章補遺で経済学におけるドーマー条件と同じような、というか、ドーマー条件に外貨建て国際を評価する際の為替調整などを含む調整項をつけて、3条件で債務のサステイナビリティを分析しています。すなわち、ドーマー条件と同じ基礎的財政収支(プライマリー・バランス)、及び、利子率と成長率の差、そして、本書独自の調整項です。日本では、7月27日に公表された内閣府による「中長期の経済財政に関する試算」でも、基礎的財政収支の黒字化を政府の財政運営の目標のひとつとし、これに偏重した政策が実行されています。本書では違う視点を提供しており、例えば、1990年代初頭のバブル崩壊後の債務の積み上がりについては、財政政策への過度の依存ではなく、経済が回復の兆しを見せるたびに政府は緊縮財政に走ったため、成長が低迷して歳入が落ち込んで、債務残高のGDP比が上昇した、との分析を示しています。今では、この理解がかなり多くのエコノミストに浸透していると私は考えています。加えて、国債発行や債務残高の積み上がりに関して、現代貨幣理論(MMT)を持ち出して、主権国家として通貨発行権を持つ中央銀行があり、変動相場制を採用している国では政府債務は無条件にサステイナブルである、という考えも示されていますが、私はこのような異端の経済学(heterodox economics)を持ち出さなくても、現在の主流派経済学の枠内で、十分に国債発行や政府債務の有用性を指摘できる理論的な枠組みは整っていると考えています。いずれにせよ、国債発行や債務のパイルアップに関する間違った志向を正すべきタイミングに達しているのではないでしょうか。

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次に、三上真寛『景気把握のためのビジネス・エコノミクス』(学文社)です。著者は、明治大学の研究者です。所属は経営学部とのことですが、本書ではタイトル通りにビジネス・パーソンや大学の学部性向けの入門編の経済学を解説していると考えてよさそうです。2部構成となっていて、前半では日本における景気動向の現状把握など、後半で経済政策に関して論じています。私は大学の授業で、日本経済における企業の役割を考える際に、極めて大雑把ながら、供給サイドあるいはミクロ経済学的にはイノベーションの実現などの能動的な役割が期待されている一方で、需要サイドあるいはマクロ経済学的には景気動向に売上げが左右されルド度合いの強い受け身的な存在、と教えています。本書では前者の供給サイドやミクロ経済学ではなく、後者のパッシブな需要サイドやマクロ経済学に焦点が当てられていると考えています。その意味で、基礎的なマクロ経済学を学んだ経済学部生やビジネスの初歩について理解できているビジネス・パーソンなどには、なかなか判りやすくて、さらに、実用的な良書だと思います。さすがに、日本経済にも大きな影響を及ぼす米国や欧州などの海外経済動向には目が向いていませんが、初歩的なマクロ経済学についてもていねいに解説されている上に、政府や日銀が公表するマクロ経済統計についても多くの紙幅が割かれており、新聞などのメディアでは不十分な理解しか得られない点も十分に考慮されている印象です。私は大学で「日本経済論」を教えていることから、こういった参考文献的な書籍も目を通しておきたい方なもので、本書などにも興味があります。本書については、大学の授業における教科書としてはやや物足りないかもしれませんが、学生や若い世代のビジネス・パーソンが独学する上では有益な教材と受け止めています。最後の最後に、とっても好ましい良書であるという前提で、ひとつだけ難点を指摘すれば、第5章冒頭の雇用量の決定要因いついては、あまりにもマイクロ経済学的な説明に終止しています。家計サイドにおける収入を得る労働と効用を得られるレジャーの間の代替関係で家計からの労働供給を説明するのは古典派経済学からの伝統であり、それはそれでいいのですが、それだけではケインズ経済学的な非自発的失業が抜け落ちることになります。マクロ経済学の視点からの失業は同じ章の少し後に出て来ますが、少し整合性にかける説明であり、本書で独習するとすれば混乱を来す可能性がある点は忘れるべきではないと感じました。

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次に、方丈貴恵『アミュレット・ホテル』(光文社)です。著者は、京都大学ミス研ご出身のミステリ作家であり、その意味で、かなり年齢は離れていますが、綾辻行人や法月綸太郎や麻耶雄嵩などの後輩ということになります。京都大学出身という点では私の後輩でもあります。ですので、私はやや極端なまでにこの作者を強く強く推しています。長編作品としてはすでに3冊を出版しており、鮎川哲也賞を受賞したデビュー作から順に『時空旅行者の砂時計』、『孤島の来訪者』、『名探偵に甘美なる死を』ということになります。この作品に至るまでの3作品はすべて東京創元社からの出版であり、三部作とでもいうべきで、竜泉家の一族シリーズとして独特の特殊設定ミステリに仕上がっています。すなわち、タイムリープにより過去が改変されて、いわゆるタイム・パラドックスが起こったり、時空の裂け目から変身ができる極めて特殊な異次元人が殺人を実行したり、VRで事件解決に当たったり、といったものです。しかし、この『アミュレット・ホテル』は犯罪者ご用達の特殊なホテル、ただし犯罪者の中でも大物の上級犯罪者だけが使える会員制の高級ホテルを舞台にしているものの、21世紀における物理学の成果を無視するような特殊な設定はありません。その舞台がタイトルとなっているアミュレット・ホテルです。4章構成で、長編というよりは連作短編集とみなした方が自然です。第1章のエピソード1の次に、その事前譚であるエピソード0が第2章に配されていて、後は、普通に第3章と第4章なのですが、第4章ではホテル開業のころの事件の解決も示されてます。ということで、前置きが長くなりましたが、本書の舞台となるアミュレット・ホテルのルールは2つだけ、すなわち、(1) ホテルに損害を与えない、(2) ホテルの敷地内で傷害・殺人事件を起こさない、ということです。まあ、第2点を考慮すれば窃盗や詐欺などは構わない、ということなのだろうと思います。しかし、犯罪者ご用達ですので殺人事件が起こるわけです。そして、第2章エピソード0に結果としてホテルに探偵として採用された桐生が謎解きをします。私は60歳の定年まで長らく国家公務員として働いていましたので、犯罪者の世界は皆目見当がつきませんし、ミステリにネタバレは禁物ですので、これ以上は詳細は控えますが、少し酷かもしれませんが、この作家の作品の中では全3作からは少し落ちる気がします。というか、私には前作の『名探偵に甘美なる死を』の方がよかったと思います。謎解きの質に加えて、登場人物のセリフにも、また、地の文にも説明調が多過ぎる気がします。最後に、冒頭の第1章エピソード1は芥川龍之介の短編「薮の中」を踏まえたミステリです。というか、もっといえば、芥川作品が典拠とした『今昔物語』の巻29第23話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語 (妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」を踏まえています。最近、あをにまる『今昔奈良物語集』を読んだところでしたので、私はすぐに判りました。この点を指摘している書評があれば、もしあれば、かなり教養ある書評者だと思います。と、自分で自慢しておきます。

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次に、伏尾美紀『数学の女王』(講談社)です。著者は、「北緯43度のコールドケース」で第67回江戸川乱歩賞を獲得し、デビューしたミステリ作家です。私はこのデビュー作を読んでいて、今年2023年3月4日付けの読書感想文でチラリと紹介しています。でも、読んだ時点で新作ではなかったので読書感想文はFacebookでシェアしただけです。この『数学の女王』は江戸川乱歩賞受賞後の第1作、ということになります。結論からいうと、前作からは大きく落ちます。前作では数年前の女児誘拐事件と絡めて、実に見事な謎解きがなされ、ミステリとしては上質の出来に仕上がっていましたが、何せ、若年性痴呆症まで含めて、いっぱいのトピックを詰め込み過ぎたので、謎解きを主眼とするミステリ小説としてはいいとしても、書物、というか、小説としてはそれほど評価できなかったのですが、最新作の本書はジェンダー・バイアスなどの社会性あるトピックはうまく処理されているものの、ミステリとしての謎解きは実に低レベルといわざるを得ません。主人公は前作と同じで、社会科学の博士号を持ち、北海道警察に勤務する警察官である沢村依理子です。そして、本作品の事件は札幌市内の新設大学院大学で発生した爆弾爆破事件です。何が起こったのか、という事件に関する whatdunnit は爆破事件ということで明らかで、howdunnit についても鑑識などの科学捜査から明らかですので、ミステリとしては whodunnit と whydunnit が焦点となります。そして、ミステリとしては、余りに登場人物が少なく、犯人候補がほとんどいませんから、whodunnit はそれほど考えなくてもすぐに判ってしまいます。その点で何ら意外性はありません。著者の方にも読者をミスリードしようとする意図は感じられません。ですから、whydunnit を中心にしたミステリと受け止めるべきなのですが、冒頭からジェンダー・バイアスが声高に盛り込まれていて、まあ、そうなんだろうという理解に達するには大きな障害はありません。これも、伏線を張っているつもりなのかもしれませんが、あるいは、ネタバレに近い伏線の張り方に見る読者もいそうです。私にとっての読ませどころは、むしろ、爆破事件やミステリの謎解きとは関係なく、主人公の大学院のころの恋人の回想であった気がします。次回作に期待します。

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次に、稲田和浩『落語に学ぶ老いのヒント』(平凡社新書)です。著者は、大道芸能脚本家と紹介されていて、本文中に落語の新作噺も扱っているような記述があります。本書は6章構成であり、第1章 <ご隠居>になるには、第2章 働く老人たち、第3章 女たちの老後、第4章 人生の終焉、第5章 最期まで健康に生きるには、第6章 第二の人生における職業、第7章 大江戸長寿録、となっています。タイトル通りに落語から題材を引いているのは第5章までで、最後の2章は落語とはあまり関係ありません。でも、第5章までは落語ですので、長屋の八つぁん、クマさんとご隠居がいろいろと会話を交わす場面が想像され、なかなかに示唆に富む内容となっています。第6章は伊能忠敬、歌川広重、大田南畝(蜀山人)、清水次郎長が取り上げられ、第6章は文字通りに男女別に長寿だった人々のリストとなっています。老後とは、私の考える範囲では、時間を持て余すことであって、何をするのか、どこに行くのかで老後生活の豊かさが決まるような気がします。実は、我が家でも、私はまだ正規雇用の身分を保持していて、それなりに労働時間があって、お給料も公務員のころから考えれば見劣りするものの、来年3月の2度めの定年まではそれなりに正規職員のお給料をもらっています。しかし、我が家では気軽に東京から京都、そして現在の大学至近地まで引越したウラには事情があって、子供たちが2人とも独立しているわけです。ですから、専業主婦のカミさんは掃除や洗濯や料理といった私の世話はなくもないのですが、ものすごく自由時間を持て余しています。その上で、知り合いもなく、土地勘にも欠ける地で、少し前までのコロナの時代には気ままな外出もできず、時間を持て余していたりして、私も自分自身の老後を考えて反面教師的に観察していたりします。本書では「人生100年時代」を標榜していますが、さすがに、私はそこまで長生きはできないと予想するものの、現実として長い老後をいかに過ごすのか、少しずつ考えを進めたいと思います。

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最後に、エリカ・ルース・ノイバウアー『メナハウス・ホテルの殺人』(創元推理文庫)です。著者は、軍隊・警察に続いて、高校教師を経験した後に作家となり、この作品でアガサ賞最優秀デビュー長編賞を受賞しています。この作品では、1920年代半ばのエジプトの首都カイロの郊外にあるメナハウス・ホテルを舞台としています。ストーリーとしては、米国人未亡人が主人公で、22歳で戦争未亡人となった現在30歳の主人公はアパー・ミドルの階層に属しているのですが、結婚により上流階級の仲間入りをした叔母の付添いでメナハウス・ホテルに滞在して、リゾートライフを堪能しています。でも、ミステリですので、当然、殺人事件が起こり、第1発見者となった主人公は、現地警察の警部から疑いをかけられ、真犯人を探すべく奔走する、ということになります。助力してくれるのは同じホテルに滞在している自称銀行家です。しかし、そうこうしているうちに、主人公への殺人疑惑は薄れたものの、第2の殺人事件が起こったりします。そして、ストーリーが進行していくうちに、次々と主人公や主人公の叔母の黒歴史が明らかにされていきます。どうして、エジプトが舞台に設定されているのかについても明快な理由が明かされます。どうも、明確な名探偵は存在せず、ストーリーの展開とともに少しずつ謎解き、というか、真相が明らかになっていくタイプの、いわば、私の好きなタイプのミステリで、最後の最後に名探偵が推理を展開してどんでん返しがある、というタイプのミステリではありません。ミステリとしてはかなり上質の出来栄えであり、約100年ほど前の遠い異国の地を舞台にしていることから生ずる違和感もありません。なお、すでに同じ作者の第2作『ウェッジフィールド館の殺人』も邦訳・出版されていますので、私は楽しみにしています。

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2023年7月22日 (土)

今週の読書は経済書2冊のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通り、難解な学術論文である経済書と軽めの経済書のほか、生成型AIのリスクに関する新書など計6冊です。
まず、マーク・フローベイ『社会厚生の測り方 Beyond GDP』(日本評論社)は、フランスのエコノミストがGDPに代わる経済指標を模索し等価所得アプローチを提唱しています。森永卓郎『ザイム真理教』(フォレスト出版)は、財務省による財政均衡主義について強い批判を展開しています。平和博『チャットGPT vs. 人類』(文春新書)は、生成型AIと人類の関係についてプライバシーの侵害や雇用の消失を例に考えています。佐伯泰英『荒ぶるや』と『奔れ空也』(文春文庫)は、「空也十番勝負」の締めくくりの第9話と第10話であり、坂崎空也が武者修行を終えます。最後に、夏山かほる『新・紫式部日記』(PHP文芸文庫)は、平安期におけるとても上質な宮廷物語に挑戦しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6月に19冊、7月に入って先週までに17冊の後、今週ポストする6冊を合わせて86冊となります。今年は年間150冊くらいかもしれません。
なお、新刊書読書ではないので、本日の読書感想文では取り上げませんが、三浦しをんのエッセイ『のっけから失礼します』(集英社)と松本清張『砂の器』上下(新潮文庫)を読みました。『砂の器』は再読ですし、まあいいとしても、『のっけから失礼します』は相変わらずおバカなエッセイ炸裂で楽しめましたので、Facebookあたりでシェアするかもしれません。

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まず、マーク・フローベイ『社会厚生の測り方 Beyond GDP』(日本評論社)です。著者は、フランスのパリ・スクール・オブ・エコノミクスの研究者であり、本書は学術論文である Fleurbaey, Marc. (2009) "Beyond GDP: The Quest for a Measure of Social Welfare." Journal of Economic Literature 47(4), December 2009, pp.1029-75 の全訳に訳者の解説などを加えた出版となっています。その昔から主張されているように、GDPは市場で取引される財の付加価値を集計したものであり、市場取引だけでは計測できない経済的厚生をどう扱うかは経済統計の大きな課題となっています。本書では、等価所得アプローチを取り、経済的厚生の個人間比較を行って、分配に配慮した経済社会的評価を行うことを推奨しています。と簡単にいうと、それだけなのですが、これだけで理解できる人はかなり頭がいいということになります。ハッキリいって、かなり難解な学術論文を邦訳していますので、訳者の解説やコラムがあっても、もちろん、そう簡単に理解できるものではありません。一般のビジネスパーソンを読者に想定するには少しムリがあるような気がします。例えば、判りやすい例でいうと、p.69の確実性等価があります。確率½で100万円、残りの確率½でゼロのギャンブルと、100%確実にもらえる50万円は、合理的な確率の上では等価と考えるべきですが、実際の人々の選択では、後者の確実な50万円が選択されます。ですから、後者は例えば30万円のディスカウントすれば等価と考えることができますが、こういった個人間で評価の異なる比較をどこまで可能なのかが、私には疑問です。ただ、本書では、環境などを考慮に入れた補正GDPについても、あるいは、セン教授の提唱した潜在能力アプローチも、そして、もちろん、国民総幸福量といった指標も、すべて否定的に取り上げています。私も基本的にこれらの点は同意するのですが、本書をはじめとして抜け落ちている視点をひとつだけ指摘しておきたいと思います。それは、雇用の視点です。現在のGDPは批判が絶えませんが、雇用との関係は良好です。例えば、本書ではストックが喪失した場合に、例えば、地震で道路が損壊した場合など、そのストックの修復に費やす市場取引がGDPに計上される計算方法に対して疑問を呈していますが、私は道路が地震で損壊したら、その修復のためにGDPが増加するわけで、そして、そのGDPの増加は雇用と結びついているわけですから、経済指標を雇用との関係で考えるとすれば、決して、GDPが有用性を失うことはない、と考えています。何か宙に浮いたような社会的な厚生を議論するのもいいのですが、雇用を重視する私のようなエコノミストには、GDPは雇用との連動性が高いだけに、まだまだ有用な経済指標であると強調しておきたいと思います。

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次に、森永卓郎『ザイム真理教』(フォレスト出版)です。著者は、テレビなどのメディアでもご活躍のエコノミストです。本書は、財政均衡主義に拘泥する財務省について強い調子で批判を加えています。まず、著者が当時の専売公社、今のJTに入社した当時の財務省との折衝から始まって、ザイム真理教を宗教的な教義、でも、カルトと指摘しています。特に興味深いのは第4章でアベノミクスの失敗の原因を消費税率の引上げと指摘している点です。私もまったく賛成です。さらに、強力なメディアなどのサポーターを得て、公務員をはじめとするザイム真理教の「教祖」や幹部の優雅な生活を暴き、最後に、現在の岸田内閣は財務省の傀儡であると糾弾しています。これまた、私もほぼほぼ大部分に賛成です。残念ながら、理論的な財政均衡主義に対する反論はほとんどありませんが、インフレで持って財政の規模をインプリシットに考える、という点は現代貨幣理論(MMT)と通ずるものがあると私は理解しています。そして、実は、私が戦慄したのは最後のあとがきです。pp.189-90のパラ4行をそのまま引用すると、「本書は2022年末から2023年の年初にかけて一気に骨格を作り上げた。その後、できあがった現行を大手出版社数社に持ち込んだ。ところが、軒並み出版を断られたのだ。『ここの表現がまずい』といった話ではなく、そもそもこのテーマの本を出すこと自体ができないというのだ。」とあります。著名なエコノミストにしては、失礼ながら、あまり聞き慣れない出版社からの本だと感じたのは、こういった背景があったのかもしれません。安倍内閣から始まって、現在の岸田内閣でも政権批判に関して言論の自由度が大きく低下していると私は危惧しているのですが、コト財政均衡主義に関してはさらに厳しい言論統制が待っているのかもしれません。というのは、日本に限らず世界の先進国の多くで、財政均衡主義というのは、右派や保守派ではなく、むしろ、左派やリベラルで「信仰」されているからです。政府の規模の大きさとしては、確かに、右派や保守派で「小さな政府」を標榜するわけで、左派リベラルは「大きな政府」を容認するように私は受け止めていますが、その政府の規模ではなく財政収支という点では、むしろ、左派リベラルの方が財政均衡主義を「信奉」し、逆に緊縮財政を志向しかねない危うさを私は感じています。それだけに、本書のような財政均衡主義に対する反論は左派からも右派からも批判にさらされる可能性があります。ただ、最後に、本書で指摘している点、まあ、公務員に対する批判はともかくとして、財政均衡主義がほとんど何の意味もない点については、広く理解が進むことを願っています。

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次に、平和博『チャットGPT vs. 人類』(文春新書)です。著者は、ジャーナリスト出身で、現在は桜美林大学の研究者です。実に、タイトルがとても正確なので、私もついつい手に取って読み始めてしまいました。本書では、GPT-2くらいのバージョンから話が始まって、GPT-3、GPT-3.5、そして現在のGPT-4くらいまでをカバーしています。AIの影響が大きいのは、軽く想像されるように、学校とメディアです。特に、私が勤務する大学教育のレベルでは、例えば、リポート作成にAIが活用されると、学習の達成度は測れませんし、果たして、人類が頭を使ってAIを使いこなすという教育と、人類がAIに回答を作成するよう依頼する教育と、どちらを実践しているのか、まったく不明になります。ここは混乱するのですが、何かの目標に向かって、例えば、売上げ目標達成のためにAIを活用して戦略を練る、というのはOKなのですが、その目標が授業のリポート作成だったりすると困ったことになるわけです。今年から急に持ち上がった点ですので、大学教育の現場でも試行錯誤で決定打はなく、しばらく混乱は続きそうな気もします。ということで、私自身の身近な困惑は別にして、果たして、AIは人類とどのような関係になるのか、という点が本書の中心です。ただ、やや本質からズレを生じている気はしました。すなわち、AIが「もっともらしいデタラメ」、あるいは、はっきりとしたフェイクニュースを作成し始める、という事実はいくつかありますし、プライバシーが侵害されるという心配ももっともです。そして、こういった観点から本書で指摘されているプライバシーの侵害、企業秘密の漏出、雇用の消失、犯罪への悪用といったリスクだけではない、と覚悟すべきです。すなわち、こういった本書で指摘されているリスクは、あくまでAIが悪用されるリスクであって、例えば、ウマから自動車に交通手段が切り替わった際に、交通事故が増えた、という点だけに本書は着目している危惧があります。私はむしろAIの暴走がもっとも大きなリスクだと考えています。今までの技術革新では、自動車や電話やテレビが、自分から暴走することはなく、それらを製造する、あるいは、利用する人類の不手際がリスクの源泉だったわけですが、AIの場合はAIそのものが暴走してリスクの源泉となる可能性が十分あります。人類のサイドからすれば「暴走」ですが、AIのサイドからすれば「進化」なのかもしれませんが、それはともかく、その暴走あるいは進化したAIに人類は太刀打ちできない可能性が高いと私は考えています。その上、本書では経済社会面だけに着目していますが、軍事面を考えると暴走・進化したAIが人類を滅亡させる、そこまでいわないとしても、人類がその規模を大きく縮小させる可能性も私は否定できないと考えています。

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次に、佐伯泰英『荒ぶるや』『奔れ空也』(文春文庫)です。著者は、小説家であり、この2冊は「空也十番勝負」のシリーズを締めくくる第9話と第10話となっています。出版社も力を入れているようで、特設サイトが開設されていたりします。時代は徳川期の寛政年間、西暦でいえば1800年前後となり、主人公の坂崎空也は江戸の神保小路で剣道場主をしている坂崎磐音の嫡男であり、その坂崎家の郷里がある九州から武者修行に出ています。まず、薩摩に入り、九州を北上して長崎から、何と、上海に渡ったりした後、山陽道を西へ向かい、京都から武者修行の最終地と決めた姥捨へと向かいます。第9話となる『荒ぶるや』では、京都の素人芝居で、祇園の舞妓さん扮する牛若丸・義経に対する武蔵坊弁慶を空也が演じたりします。最終第10話『奔れ空也』では、京都から奈良に向かう途中で小間物屋のご隠居とともに柳生の庄を訪ねたりします。そして、サブタイトルになっている「空也十番勝負」が繰り広げられ、もちろん、空也は勝負に勝って生き残ります。私は空也の父の坂崎磐音を主人公にした「居眠り磐音江戸草紙」のころからのファンで、磐音を主人公にするシリーズは全51話を読み切っています。この空也のシリーズは、何となく、もう読まないかも、と思っていたのですが、やっぱり、時代小説好きは変わりなく全話を読み切りました。なお、どうでもいいことながら、作者はもともとが時代小説の専門ではないのですが、こういったシリーズに味をしめたのか、あとがきで続編がありそうな含みを持たせています。

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最後に、夏山かほる『新・紫式部日記』(PHP文芸文庫)です。著者は、本書の巻末の紹介では短く「主婦」とされているのですが、学歴としては九州大学大学院博士後期課程に学んでいますし、本書で日経小説大賞を受賞して作家デビューを果たしています。本書は2019年に日本経済新聞出版社から単行本で出版され、今年になってPHP文芸文庫からペーパーバックのバージョンが出版されています。ということながら、広く知られている通り、『紫式部日記』というのは存在します。本家本元の紫式部ご本人が書いています。当然です。なお、私自身は円地文子の現代訳で『源氏物語』を読んでいますが、本書の基となった『紫式部日記』は読んでいません。そして、紫式部というのは『源氏物語』の作者であり、来年のNHK大河ドラマで吉高由里子を主演とし「光る君へ」と題して放送される予定と聞き及んでいます。何と、その新板の『新・紫式部日記』なわけです。ストーリーはもう明らかなのですが、本書では紫式部ではなく、多くの場合、藤原道長より与えられた藤式部で登場しますが、紫式部は学問の家にまれ育って漢籍にも親しみながら、父が政変により失脚して一家は凋落します。しかし、途中まで書き綴った『源氏物語』が評判となって藤原道長の目に止まり、お抱えの物語作者として後宮に招聘され、中宮彰子に仕えることになります。帝の彰子へのお渡りを増やそうという目論見です。まだまだ、亡くなった先の中宮の定子の評判が高い中で彰子を支えて、さらに、物語の執筆も進めるという役回りを負い、さらに、紫式部自身が妊娠・出産を経る中で、藤原道長が権謀術数を駆使して権力を握る深謀に巻き込まれたりします。もちろん、この小説はフィクションであって、決して歴史に忠実に書かれているわけではない点は理解していますが、実に緻密かつ狡猾に練り上げられています。フィクションであることは理解していながらも、かなり上質の「宮廷物語」ではなかろうか、と思って読み進んでいました。

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