2019年3月23日 (土)

今週の読書は経済書より小説が多く計8冊!

今週も文庫本を含めて小説の数が多く、経済書は少なくなっていますが、話題の本も何冊か含まれています。来週くらいまでは数冊の読書ペースを維持したいと考えていますが、来週限りで公務員を定年退職しますので、4月に入れば読書ペースを大きく落として再就職先を探すのをがんばりたいと思います。
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まず、牛山隆一『ASEANの多国籍企業』(文眞堂) です。著者は日本経済研究センターの研究者です。本書では、タイトル通りに、ASEAN諸国、本書ではASEANオリジナルのインドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、シンガポールの5か国に加えて、ベトナムを加えた6か国の多国籍企業をリストアップしています。従来から、東アジアの中国も含めて、先進国からの直接投資を受け入れる形で経済発展が図られてきた、日韓が国内資本による経済成長を実現したのとは大きく異なる形での経済発展として捉えられてきましたが、1990年台からASEANの東南アジア諸国では、受け入れる対内直接投資だけではなく、対外直接投資を積極的に実施する企業が増加している現状を、基本的に国別の企業レベルで取りまとめています。すなわち、シンガポールやマレーシアについては国策として国営・公営企業やソブリン・ウェルス・ファンドからの投資も含めて、対外投資を実行しており、タイやインドネシアやフィリピンなどは民間企業が、ベト並みは社会主義経済ですので国営企業が、それぞれ表立って対外投資の主役となっています。また、従来、1990年台から貿易に関しては欧州以上に東南アジアでは域内貿易の比率が高くなっているんですが、直接投資についても同様であり、ASEANなどの東南アジア域内の相互の直接投資の比率が高くなっているようです。ただ、本書では記述統計というか、現状どういった企業がどの国に多国籍企業として展開しているか、という点についてはそれなりに詳しいリサーチがなされているんですが、誠に残念ながら、その背後の経済的な諸用因については目が届いていません。例えば、日本に歴史を紐解くまでもなく、我が国では製造業が対外直接投資の主役であり、その要因としては、米国などの先進国に対しては関税や輸出自主規制などの貿易制限的な制度を回避するため、途上国に対しては現地の安価な労働力を活用するため、というのが極めてステレオタイプながら、典型的な理解だったような気がします。他方で、本書で取り上げられているASEAN[の多国籍企業は、通信や運輸が世界的な展開を志向するのは理解できるとしても、それなりに国別の差の大きい食生活で外食産業が海外展開しているのはなぜか、私はとても興味がありますが、本書では踏み込み不足という気もします。実は、例えば、我が国でもカフェをはじめとしてハンバーガーやフライドチキンなどのファストフードも含めて、海外の外食産業はかなり多く日本国内で事業展開しています。ASWEANでも基本的に同じことだとは思うんですが、日本でいえば牛丼やうどん・そばなどの伝統的な外食産業との共存関係も気にかかるところで、多国籍企業だけを単独で分析することは限界があります。ただ、海外事情については、かなり身近なASEANであっても、これだけの情報が利用価値高いんでしょうから、まだまだ入手の壁が高いのかもしれません。
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次に、ステファニー L. ウォーナー & ピーター・ウェイル『デジタル・ビジネスモデル』(日本経済新聞出版社) です。著者2人は米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のビジネススクールの研究者です。本書の英語の原題は What's Your Digital Business Model? であり、2018年の出版で、邦訳は模村総研だったりします。本書では、タイトル通りに、デジタル・ビジネスモデル(DBM)に関して、最近のビジネス書でも共通限度と説得力あるフレームワークが欠けていると主張し、副題にある6つの問いとは、1.脅威:あなたの会社のビジネスモデルに対して、デジタル化がもたらす脅威はどれほど大きいか、2.モデル:あなたの会社の未来には、どのビジネスモデルがふさわしいか、3.競争優位:あなたの会社の競争優位は何か、4.コネクティビティ:「デバイスやヒトとつながって(コネクトして)学びを得る」ために、モバイル技術やIoTをどのように使いこなすか、5.能力:将来のためのオプションに投資するとともに、必要な組織変革の準備をしているか、6.リーダーシップ:変革を起こすために、すべての階層にリーダーとなる人材がいるか?であり、その上で、4つのフレームワークを以下のように示しています。1.サプライヤー:他の企業を通じて販売する生産者(例:代理店経由の保険会社、小売店経由の家電メーカー、ブローカー経由の投資信託)、2.オムニチャネル:ライフイベントに対応するための、製品やチャネルを越えた顧客体験を創り出す統合されたバリューチェーン(例:銀行、小売、エネルギー企業)、3.モジュラープロデューサー:プラグ・アンド・プレイの製品やサービスのプロバイダー(例:ペイパル、カベッジ)、4.エコシステムドライバー:エコシステムの統括者。企業、デバイス、顧客の協調的ネットワークを形成して、参加者すべてに対して価値を創出する。特定領域(例えばショッピングなど)において多くの顧客が目指す場所であり、補完的サービスや、時にはライバル企業の製品も含め、よりすばらしい顧客サービスを保証する(例:アマゾン、フィデリティ、ウィーチャット)、となります。これは、本書p.13の4象限のカーテシアン座標の図を見る方が判りやすいかと思います。大企業などでは、複数のフレームワークに基づく事業展開をしているものもある、と指摘しています。いつもながら、ビジネス書ですので極めて多数のケーススタディを実行していて、サクセスストーリーを数多く紹介しているんですが、その背後にどれくらいの失敗例があるのかは不明です。さらに、成功例について、売上げの伸び率が高いとか、利益率が高いとか、いくつかの数値例を上げていますが、これにつては逆の因果が成り立つ可能性を指摘しておきたいと思います。すなわち、デジタル・ビジネスモデルを確立した事業だから利益率が高い、という因果の流れではなく、逆に、何らかの他の理由で利益率が高いので、デジタル・ビジネスモデルの確立のために豊富なリソースを割くことができる、という可能性です。利益や売上げとR&Dの関係には、一部に、こういった因果の逆転が見られる例もあったのではないかと私は記憶しています。まあ、経営に関する私の知識には限りがあります。
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次に、ハンス・ロスリング & オーラ・ロスリング & アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS』(日経BP社) です。著者はTEDでもおなじみのスウェーデン人医師とその息子とその妻の3人です。ただ、ファースト・オーサーであろうハンス・ロスリングは2017年に亡くなっています。原書は2018年の出版です。本書では、ついつい陥りがちな偏見や先入観を排して、世界の本当の姿を知るために、教育、貧困、環境、エネルギー、人口など幅広い分野を取り上げています。いずれも最新の統計データを紹介しながら、一昔前とは時を経て変化した世界の正しい見方を紹介しています。私のやや歪んだ目から見て、著者の見方はほぼほぼマルクス主義的な経済の下部構造が政治や文化などの上部構造を規定する、というのと、開発経済学的な経済発展による豊かさとともに世界は収斂する、という2つの視点を支持しているように見えます。そして、実際には章別第1章から10章までのタイトルに見られる通り、分断本能、ネガティブ本能、直線本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、宿命本能、単純化本能、犯人捜し本能、焦り本能の10のバイアスを克服する必要を説いています。そして、ハンス・ロスリングの医師としての国際協力の現場などでの体験を基に、とても判り易く解説を加えています。世界各国を1日1人当り所得で4つの階層に区分し、それぞれの生活様式がとても似通っている点などは経済の下部構造の重要性を指摘して余りあります。加えて、ハンス・ロスリングは自らを「可能主義者」と定義していますが、私も基本的には世界の先行きについては、とても楽観的な見方をしています。本書では何ら触れていませんが、私は楽観的な見方の根拠には技術革新に対する信頼感があります。人間はなにかの必要に応じて技術革新でもって対応できる、と考えているわけです。そして、技術革新を基礎としつつ、歴史の進歩に対する信頼感もあります。世界はいい方向に向かって進んでいると私は考えているわけですが、基本的に、時系列で考えて、一直線とはいわないまでも単調に増加もしくは減少するものと、何らかの上限もしくは下限があってロジスティックなカーブを描く場合と、カオス的とはいわないまでも循環的に振動するケースの3つがあると私は考えています。もちろん、この組み合わせもアリで、経済は循環しつつ拡大を続け、先進国だけでなく発展途上国も豊かさの点では成長が継続し、世界経済は収斂に向かう、と私は考えています。今週の読書の中では、ベストでした。実は、2月16日付けの読書感想文で『NEW POWER』をもって今年のマイベストかもしれない、と書きましたが、本書もそうかも知れません。今年はマイベストを連発しそうで少し怖かったりします。
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次に、上田岳弘『ニムロッド』(講談社) です。ご存じ、第160回芥川賞受賞作品です。主人公はネット・ベンチャーで仮想通貨を採掘する中本哲史、その恋人で中絶と離婚のトラウマを抱えた外資系証券会社勤務の田久保紀子、さらに、小説家への夢に挫折した職場の元同僚であるニムロッドこと荷室仁の3人を軸に物語は進みます。ニムロッドから中本にダメな飛行機コレクションが送られくるのもとても暗示的です。本書のテーマは「「すべては取り換え可能」というものですが、実は、著者はそれを必死になって否定しようとがんばっているような気がします。「取り替え可能」というのは、資本主義の宿命であり、資本主義を象徴するマネーの変種である仮想通貨の採掘を、ビットコインの考案者であるサトシ・ナカモトと同名の主人公にタスクとして割り振っているのも象徴的です。「取り替え可能」を本旨とする資本主義の生産の最前線でがんばっている3人を見る著者の眼差しはとても温かく、励まされるものを感じます。いわゆる純文学ですから、私のよく読むエンタメ小説、というか、ミステリのような解決編、いわゆるオチはありませんが、表現力や構成力は芥川賞にふさわしく感じました。それにしても、数年前までは、私は熱心に芥川賞受賞作品を読んでいて、ほとんど『文藝春秋』の特集号で選評と併せて読んでいたものですが、年齢とともに純文学を読まなくなり、この作品はホントに久し振りの芥川賞受賞作の読書となりました。そこで、斜向かいに感じたのは主人公の年齢が日本社会の高齢化とともにジワジワと上がっているんではないか、という点です。その昔の吉田修一の「パークライフ」では主人公は20代ではなかったかという気がします。そして、芥川賞受賞作で初めてパソコンに関するテーマを私が読んだのは、絲山英子の『沖で待つ』でハードディスクを壊す、というのではなかったかと思うんですが、主人公はアラサーだったような気がします。そして、本作ではアラフォーにまで年齢が上がっています。そのうちに、芥川賞や直木賞も70代の主人公が活躍する小説に授賞されたりするんでしょうか。やや、気が滅入る思いだったりします。
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次に、ジェフリー・ディーヴァー『スティール・キス』と『ブラック・スクリーム』(文藝春秋) です。著者は、ご存じ、米国の売れっ子ミステリ作家であり、終盤のどんでん返しで有名です。実は、『スティール・キス』の方は決して新刊ではなく、2017年の出版なんですが、『ブラック・スクリーム』の出版を知って検索していると、『ブラック・スクリーム』はリンカーン・ライムのシリーズ第13作であって、その前の第12作が『スティール・キス』として出ていたらしいので、少しさかのぼって読んでみたところです。『スティール・キス』の方はいわゆるサイバー・テロの可能性を示唆するもので、『ブラック・スクリーム』は移民や難民に偽装したテロリストの侵入を扱っていて、特に、『ブラック・スクリーム』ではリンカーン・ライムがアメリア・サックスとともに、ニューヨークを出てイタリアに出張してのご活躍ですので、ややめずらしげに目を引きます。また、ご当地イタリアの森林警備隊の隊員が鮮烈なデビューを果たしますから、アメリア・サックスとか、ロナルド・プラスキーのように、リンカーン・ライム率いるチームのレギュラーメンバーになる可能性は低いとは思いますが、今後の成長も楽しみです。『スティール・キス』では、サイバー・テロのホントの首謀者がだれなのか、『ブラック・スクリーム』では難民に偽装したテロリストを暴こうとする意図が、それぞれ、ミスリードされていて最後の鮮やかなどんでん返しが堪能できます。さらに、『スティール・キス』ではライムがアメリアにまったくロマンティックではないセリフでプロポーズしたことが明らかにされ、『ブラック・スクリーム』事件の解決後に2人は欧州でハネムーンを楽しむようです。最後に、すでに米国ではほぼ1年前の2018年春先にリンカーン・ライムのシリーズ第14作が出版されていて、なかなかのペースでの執筆ぶりがうかがえます。
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次に、猪谷千香『その情報はどこから?』(ちくまプリマー新書) です。著者はジャーナリスト出身で、先に取り上げたロスリング一家の『FACTFULNESS』と違って、明確にフェイク・ニュースをターゲットにしています。ただ、そのターゲットは曖昧で、情報リテラシー一般も同時にテーマとなっていて、とても焦点がピンぼけのわけの判らない解説書です。読んでも読まなくても、その前後で情報リテラシーが向上するようには思えません。情報の選別に関しては、従来からの伝統的なメディアであった新聞や雑誌にラジオが加わり、さらにテレビが入ってきて、本書でも指摘するように、この4つが伝統的なメディアなんでしょうが、そこにインターネットが登場し、さらに、個人がSNSなどで情報発信をできるようになり、さらにそれが拡散していく、というプロセスが技術的に可能になった現段階で、明らかに、本書でも取り上げられているようなフィスター・バブルが生じ、また、本書では忘れられているエコー・チェンバーが発生したりしているわけで、その情報リテラシーの向上に何ができるかを考えるべきです。最後の最後に、図書館の利用が唐突に割って入っていますが、図書館のヘビーユーザである私の目から見て、この著者はほとんど図書館を利用していないように見えて仕方ありません。最近、東京などの区立や公立の図書館では、いわゆる指定管理者制度が広範に導入され、図書館職員の質の低下が著しくなっています。私はいろんな図書館に週当たりで3~4回くらいは行くんですが、図書館員すべてではないにしても、図書に対する知識がなく、まるで、できの悪い公務員になったかのように利用者にエラそうな態度で接する図書館員が目につくようになっています。ただ、利用者の方のレベルも低下している可能性があり、何ともいえませんが、図書館の利用が情報リテラシーの向上につながると考えるのは極めてナイーブな視点ではなかろうかと思います。さらに、ジャーナリスト出身らしく、インターネットよりも伝統的なメディアに信頼感があるようですが、単にジャーナリストノヨウニダブル・トリプルで裏を取ることを指した「ファクト・チェック」の用語を使うだけでは何の解決にもならないことは明らかです。経済学の著名な論文に "Who will guard the guardians?" というのがありますが、ファクト・チェックをする人をチェックする必要はどうなんでしょうか。さらに、それチェックする人は? となればキリがありません。
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最後に、カレン M. マクマナス『誰かが嘘をついている』(創元推理文庫) です。この作者のデビュー作です。高校の最終学年の何人かの生徒が登場し、まあ、何となくですが、青春小説風になっています。携帯電話に厳しい先生の授業に携帯電話を持ち込んだというので、作文、反省文の居残りをさせられた5人の高校3年生のうち、日本でいえば学校裏サイトのようなゴシップ情報を集めたアプリを運営している生徒が死にます。ピーナツ・アレルギーらしいんですが、水分補給の際にピーナツオイルをいっしょに摂取し、しかも、保健室にアナフィラキシー補助のエピペンが処分されている、という状況です。殺人と警察で考えられて捜査が進みます。死んだ生徒以外の4人には、学校裏サイトにゴシップをアップさせられる予定があり、それなりの動機があるとみなされます。しかも、この4人は代々イェール大学に進学する一家出身の優等生、大リーグからドラフトにかかりそうな野球のピッチャー、はたまた、マリファナの販売容疑で逮捕東国の前科ある不良、などなど、そろいもそろってクセのある生徒ばかりです。日本でいえばワイドショー的なメディアの取材攻勢があったり、人権保護団体の弁護士が乗り出してきたりと、いろいろとあるんですが、ハッキリいって、謎解きのミステリとしてはレベルが低いです。がっかりです。ただ、高校最終学年の青春小説として読む分にはそれなりの水準だという気もします。

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2019年3月16日 (土)

今週の読書は文庫本の海外ミステリをいくつか読んで計8冊!!!

今週は、経済書・ビジネス書は冒頭の自動車に関するCASE革命の本くらいで、ほかは数学は自然科学、さらに昨年話題になった海外ミステリの文庫本など、以下の通りの計8冊です。なお、すでにこの週末の図書館回りを終えており、来週も芥川賞受賞作や海外ミステリを含めて、数冊の読書に上りそうです。なお、来週は経済書もそれなりに読む予定です。

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まず、中西孝樹『CASE革命』(日本経済新聞出版社) です。著者は、自動車に関するリサーチを行う独立の研究機関の経営者であり、ジャーナリストのような面も持っているんではないかと私は受け止めています。タイトルの「CASE」とは、C=接続 connected、A=自動運転Autnomous、S=シェアリング&サービス Sharing and Service、E=電動化 Electric、の4つのキーワードの頭文字を並べたものです。ということで、自動車産業とは20世紀初頭のフォードT型車から始まって、ハイブリッド車や電気自動車が登場するまでは、例えば、レシプロ・エンジンにはさしたる大きな進化もなく、製品としても産業としても成熟の極みであって、コンピュータが登場した電機などとの差は明瞭だった気もしていたのですが、最近になって、ハイブリッドや電気自動車やさらには燃料電池車まで視野に入れれば駆動方式に大きな変化が見られるとともに、ソフト的にも自動運転の実証実験が次々に実行され、死者が出るたびに大きく報じられたりしていますし、さらに、MaaSやカーシェア、ライドシェアなどの自動車を資産として家庭に保有する以外のサービスの提供元として活用する方法の広がりなどが見られます。本書ではそういった自動車の製品と産業としての最近時点での方向をざっくりと取りまとめるとともに、将来的な方向性を2030年くらいまでを視野に入れて論じています。まあ、いつまでの賞味期限の出版か、私には判りませんし、時々刻々と情報はアップデートされるんでしょうが、現時点での私のような専門外の人間にはとても参考になります。特に、タイトルにありませんし、本書でも重きを置かれているわけではありませんが、人工知能=AIの活用が進めば、さらに自動車が大きな変化を見せる可能性が高まります。私自身は今ではすっかりペーパードライバーですが、その昔は自分で運転を楽しむ方でした。でも、自動運転が大きく普及すると、自動車の運転は現時点の乗馬のように、閉鎖空間でマニアだけが楽しむスポーツのような存在になるのかもしれません。その場合、自動車レースなどはどうなるのか、今の競馬のような位置づけなんでしょうか。また、先ほどの電機産業などと対比して、次々と新製品を生み出したイノベーションあふれる業界ではなく、自動車産業が今まで量的にのみ拡大してきたわけですが、ここに来て、大きなイノベーションを体現して産業としても製品としても大きな進化の段階にあり、逆に、今までこういった進化が出来なかったのはなぜなのか、本書のスコープは大きく超えてしまうものの、自動車産業だけでなく、製造業や産業一般のイノベーションの問題としても、私は興味あるところです。まさか、単なる巨大IT産業経営者の気まぐれ、というわけでもないんだろうと思います。

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次に、ミカエル・ロネー『ぼくと数学の旅に出よう』(NHK出版) です。著者はフランス出身の数学者、専門分野は確率論で、本書のフランス語の原題は Le Grand Roman des Maths であり、2016年の出版です。自然科学の分野の学問領域では、いわゆる実験のような科学の実践があるんですが、社会科学、特に経済学では最近流行りの実験経済学などの一部を除けば実験がそれほど出来ないわけですし、また、自然科学でも数学については実験のような実践手段はなさそうに思えます。ということで、本書では邦訳タイトルに「旅」が入っていますが、旅をしつつ、何らかの数学の実践を盛り込もうと試みています。もっとも、実際には数学というよりも物理学とか天文学ではなかろうか、という例も散見されます。ただ、実践的な数学だけでなく、ほかの物理学とか化学などと違って、数学は高度に抽象化されているわけですから、定義、公理、定理の証明に一見すれば少し矛盾があるようなパラドックスなどまで、幅広く数学的な論理性を追求する姿勢も見せています。また、無限小という普通は取り上げないような数学概念を章として独立させて扱い、ピアソン-ジョルダン測度に代わって、極限関数の積分を可能とするルベーグ測度を実にうまく説明しています。また、ゲーデルの不完全性定理についても、無矛盾性と完全性が同時に成り立つことがない、という観点から、これまた実にうまく説明しています。物理学におけるハイゼンベルクの不確定性定理は位置と運動が同時に決定できない、ということですし、経済学におけるアローの不完全性定理は、私の学生時代には非独裁制が排除されないと飲み方が多かった記憶がありますが、現在では推移律が成り立たないと解釈されますし、専門外の私のようなシロートに、こういった判りやすい説明は歓迎です。ただ、最後に、20世紀初頭のヒルベルトの23問題を取り上げるのであれば、クレイのミレニアム懸賞問題についても言及が欲しかった気がします。実践の数学として暗号を取り上げないというのは、それなりの筆者の見識のような気もしますが、ミレニアム懸賞問題は数学実践として欠かせないと私は考えています。

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次に、リック・エドワーズ & マイケル・ブルックス『すごく科学的』(草思社) です。著者はいずれも英国出身で、テレビ司会者と科学ジャーナリストです。英語の原題は Science(ish) であり、2017年の出版です。副題にも見られる通り、SF映画から最新科学の解説を試みており、取り上げられているSF映画と科学テーマを書き出すと、「オデッセイ」から宇宙や他の惑星での生活について、「ジュラシックパーク」から恐竜や遺伝子について、「インターステラー」からブラックホールについて、「猿の惑星」から進化論や遺伝子について、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」からタイムマシンやタイムトラベルについて、「28日後...」からウィルスの脅威やゾンビについて、「マトリックス」からシミュレーション世界について、「ガタカ」から遺伝子やデザイナーベビーについて、「エクス・マキナ」から人工知能AIについて、「エイリアン」から地球外生命体について、ということになります。私も実は感じていたんですが、四次元ポケットから飛び出すドラえもんの道具となれば、かなりの程度に荒唐無稽ながら子供心に訴えるものがある一方で、これらのSF映画に応用されている科学はかなりの程度に大人に対して真実性をもって訴えかける部分が少なくありませんSF映画で科学を語るというのは、ありそうでなかったアイデアかも知れませんし、ジャーナリスト系の2人の著者ですので、科学者が書いた場合に比べて不正確かもしれませんが、それなりに判りやすく仕上がっているような気もします。また、取り上げられた映画について私なりに論評を加えてお口、。私は少なくとも冒頭の2作品、すなわち、「オデッセイ」と「ジュラシックパーク」については原作となる小説も読み、映画も見ていますし、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の映画も見ています。また、ウィルスとゾンビについては「バイオハザード」でお願いしたかった気がします。ただ、シミュレーション社会ということになれば、やっぱり「マトリックス」なんでしょうね。映画化されていないんですが、「リング」の貞子シリーズの「ループ」も悪くないような気がします。最後に、私はジャズファンで、よくCDSのジャケ買い、なんて言葉があったりするんですが、本書については表紙デザインで少し損をしている気がします。もっと壮大な宇宙をイメージするイラストなんぞはダメなんでしょうか?

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次に、ミシェル・フロケ『悲しきアメリカ』(蒼天社出版) です。著者はフランスのテレビのジャーナリストです。対米5年間の経験から本書を取りまとめています。フランス語の原題は Triste Amérique であり、2016年の出版です。タイトルは、レヴィ-ストロースの『悲しき熱帯』 Triste Tropiques を踏まえていることは明らかです。ということで、シリオンバレーの華やかなGAFAといった先進企業や強力な軍隊などの裏側にある米国の素顔、それも決して自慢できるものではない負の面を明らかにしようと試みています。出版社のサイトにかなり詳細な目次がありますので、それを一瞥するだけでもっ十分な気がしますが、まあ、取り上げられている項目はそれほど新規なものではなく、かなりありきたりです。しかも、編集者の能力の限界か、あるいは、著者のこだわりか、トピックが脈絡なく、せめてもう少し章の順番くらい考えればいいのに、と思わないでもありません。取り上げられているトピックは貧困や格差の経済的な問題、黒人やネイティブ・アメリカンの差別の問題、ファストフードなどの食品の工業化による肥満などの健康問題、ラストベルトなどにおける産業の衰退、銃社会における犯罪やひいては戦争の問題、そして、最後に、オバマ前大統領政権下における成果に対する疑問、現在のトランプ政権への批判、などなどとなっていますが、それなりにジャーナリストの取材に基づき、既存文献などからの引用で補強はされていますが、繰り返しになるものの、今までのいくつかの論調をなぞったものであり、新規性はありませんし、加えて、所得格差や貧困などの経済的な問題と薬物や犯罪の問題などが、かなり明瞭にまちまちで議論が展開されているため、これらの問題の本質が総合的に把握されることもなく、悪くいえば、問題の本質をつかみそこねているようにすら見えます。宗教の問題も取り上げられていますが、個々人の価値観の問題と社会的な構造問題は、いわゆる「鶏と卵」のように、どちらがどちらの原因や結果となっているといいわけではなく、一体となって分かちがたく因果を形成しているよう気もしますし、逆に、やはり経済や所得の問題がまず解決されるべきである、というエコノミスト的な見方も成り立ちます。ジャーナリストとして議論する題材を提供したことは大いに評価しますが、やや中途半端で踏み込み不足の感もあります。

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次に、井上章一『大阪的』(幻冬舎新書) です。著者は関西ネタのエッセイで有名な井上センセです。最近では『京都ぎらい』がベストセラーになった記憶があります。本書は、産経新聞大阪夕刊に連載されていたコラムを集めたものです。どうでもいいことながら、東京版では産経新聞は夕刊を出していないような気がするんですが、大阪版では夕刊があるんだと気づいてしまいました。ということで、、上の表紙画像にあるように、基本は、大阪的な「おもろいおばはん」に関するエッセイなんですが、それは1章だけで終わってしまっており、残りの2章から9章は大阪をはじめとする関西の文化一般に関するエッセイです。いつも通りに、さすがに研究者だけあって、調べがよく行き届いています。大阪的な「おもろいおばはん」は中年女性に限ったことではなく、男性も含めて、大阪弁の響きも含めて、ユーモアやウィットに飛んだ会話ができる大阪人あるいは関西人一般に対する印象であり、テレビがそれを増幅している、と著者は分析しています。それから、相変わらず、阪神タイガースに対する鋭い分析が見られ、私も目から鱗が落ちたんですが、関西であっても1960年代くらいまではテレビで放送されるジャイアンツのファンが多数を占めていた、というのは事実のような実感を私も持っています。そして、京都在住だった私の目にはそれほど明らかではなかったんですが、1968年に開局し、1969年から阪神のナイターしあいを試合開始から試合終了まで中継し始めたサンテレビの影響が大きく、一気に関西で阪神ファンが増えた、と分析しています。加えて、1971年からABS朝日放送のラジオで中村鋭一が「六甲おろし」を歌いまくったのも一因、と主張しています。実に、そうかも知れません。私の小学校高学年から中学生のころですので、うすらぼんやりながら、そのような記憶があります。また、神戸と亡命ロシア人の関係については、お節の通り、洋菓子のパルナスやモロゾフなどのロシア名のお店が頭に浮かびます。音楽もそうかも知れません。また、言葉については「がめつい」という形容詞が戦後の造語であって、決して関西伝来の言葉ではないというのは初めて知りました。ちょっとびっくりです。また、芦屋や岡本あたりの山の手の標準語に近い柔らかな関西弁については、今やノーベル文学賞候補に擬せられる村上春樹を上げて欲しかった気がします。

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』上下(創元推理文庫) です。昨年我が国で出版された海外ミステリの四冠制覇に輝くベストセラーです。著者はヤングアダルト作品を手がけたほか、人気テレビドラマの脚本もモノにしていたりしますが、私が読んだ記憶があるのは、いわゆるパスティーシュばかりで、ホームズものの『絹の家』と『モリアーティ』、ジェームズ・ボンドの『007 逆襲のトリガー』の3冊であり、少なくともホームズものはやや血なまぐさい殺人事件やビクトリア時代にふさわしくない社会風俗なんぞが飛び出して、ちょっと違和感を覚えなくもありませんでした。でも、007ものは、最新映画の主演であるダニエル・クレイグのようなやんちゃな主役であればOKだという気はしました。英語の原題は The Magpie Murders であり、2017年の出版です。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳です。ということで、この作品はメタな構造になっており、現代ロンドンを舞台にした出版界の殺人事件と、その出版会社で出しているミステリである約60年前の1955年の田舎の准男爵邸を舞台にする事件の両方の謎解きが楽しめます。本書の宣伝にある「名探偵アティカス・ピュント」というのは、実際には出版会社が出している小説の中で活躍する探偵であって、本書でダイレクトに扱っている現代ロンドンを舞台とする殺人事件は、その作者の担当編集者が謎解きに挑みます。どこまでホントかはやや疑わしいんですが、現代ロンドンの殺人事件と小説中の殺人事件が、ほどよく絡み合っていたりします。近年にない大傑作とは思いませんが、それなりに水準の高いミステリであることは受賞歴から見ても明らかです。

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最後に、ピーター・スワンソン『そしてミランダを殺す』(創元推理文庫) です。『カササギ殺人事件』が昨年の海外ミステリの各賞総なめであったのに対して、この作品は多くのランキングで2位につけていました。作者は長編ミステリ2作目だそうです。英語の原題は The Kind Worth Killing であり、2015年の出版です。邦訳タイトルは、あまりのセンスなさに私は呆れてしまいました。ということで、ロンドンのヒースロー空港のラウンジで出会った男女が男の妻を殺害するという点で意気投合し、米国への帰りの飛行機の中で計画を練る、という出だしで始まります。この女の方がサイコパスなんですが、男の方の浮気されたから妻を殺す、という発想にも少し飛躍があるような気がします。ところが、逆に男が妻の陰謀で殺されてしまい、その妻も同じ実行犯の手で殺され、その実行犯も姿を消す、という極めて複雑怪奇な人間関係の中で、そのカラクリに気づいた刑事が独断で捜査を進めてサイコパスの黒幕を尾行するうちに、刑事の方の異常性が浮かび上がって、などなど、基本的に倒叙ミステリであって、謎解きはほぼほぼないに等しいながら、極めて複雑で不可解な構造が解き明かされます。そして、真相にもっとも近づいた刑事は逆に異常と見なされ、サイコパスの黒幕は無事に逃げおおせる、という結末となるような示唆が示されています。かなりいい出来のミステリなんですが、私が最近ここ数年で読んだミステリの中では『ゴーン・ガール』に類似し、かつそれに次ぐくらいの不可解なミステリだった気がします。最後に、主犯的な主人公を務める女性が逃げ切るというのも似通った結末のように感じました。これまた、『ゴーン・ガール』と同じように、ミステリというよりは、サイコスリラーと呼ぶほうが似つかわしいのかもしれません。翻訳がいいのでスラスラ読めるんですが、映像向きだという気もします。

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2019年3月14日 (木)

ご寄贈いただいた『アベノミクスの真価』を読む!

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原田泰・増島稔[編著]『アベノミクスの真価』(中央経済社) をご寄贈いただきました。各チャプターのご著者の方々は、ほぼほぼリフレ派のエコノミストであり、束ねているのは日銀審議委員の原田さんと内閣府統括官の増島さんです。
日本経済の現状は、デフレとの関係で考えると、ほぼデフレからは脱却したものの、日銀の物価目標である+2%にはほど遠い、ということであろうかと思います。そして、本書はこれらにまつわる諸問題について回答を与えようと試みていて、一部に失敗しているものもありますが、ほぼ私も同じ結論に達しそうな気がします。例えば、+2%の物価目標未達については、2014年4月からの消費税率引き上げのショック、国際商品市況における石油価格の動向、そして、欧米では+1%から+2%近辺でアンカーされている物価上昇期待が、我が国では0%近傍でアンカーされていること、の3点を上げています。私なんぞは粗雑にも、国際商品市況の石油価格を上げてしまうことが多いんですが、そうなら日本以外の先進各国でも物価上昇率が低迷するわけで、そうなっていないのは、石油価格以外の我が国独自の要因があるというわけです。また、労働市場の現状についても、賃金が本格的に上昇していないわけですから、完全雇用には達していない、というのが私の結論なわけで、本書もまったく同じ分析結果を示しています。また、旧来の日銀理論から、低金利の副作用として債券価格形成の問題や金融機関の経営の問題などが指摘されていますが、少なくとも後者については、本書では預貸率の低さを原因として上げています。ただ、前者の債券価格形成の問題については、日銀が国債のかなりの部分を購入することにより、いわゆる市場の厚みが失われ、債券価格のボラティリティが高くなる問題はあるんだろうと思います。このボラティリティの高まりという点につき、本書では見逃している可能性があります。また、出口論についても一定の前提を置いたシミュレーションを示して、日銀が債務超過に陥る可能性に言及したのは興味深い点です。ただ、日銀が債務超過に陥るのを回避するために、すなわち、日銀自身の財務状況のために、日本経済を犠牲にするというのは本末転倒であり、我が国経済における日銀が果たすべき役割の放棄であるというのはその通りであろうと思います。

ご寄贈いただいた書籍などは、このように、律儀に取り上げることとしております。個人のブログなんぞという、誠に貧弱なメディアではありますが、図書や論文のご寄贈は幅広く受け付けております。

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2019年3月10日 (日)

先週の読書はビジネス書や教養書からラノベまでいろいろ読んで計9冊!!!

昨日の土曜日の読書感想文ブログの定例日に米国雇用統計が割り込んで1日ズレて、ラノベの文庫本が3冊入ったこともあり、先週は計9冊を読んでしまいました。本格的な経済書はないものの、フリマアプリのメルカリのIPOまでを追跡したジャーナリストのドキュメンタリのビジネス書もあれば、私の大好きな作家のひとりである宮部みゆきの最新作まで、以下の通りです。今週も昨日のうちに図書館回りをほぼほぼ終えており、それなりのボリュームを読みそうですが、定年退官までもう1と月もなく、官庁エコノミストではなくなりますから、明らかに読書傾向が変化してきたような気がします。

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まず、奥平和行『メルカリ』(日経BP社) です。著者は日経新聞の編集委員をしているジャーナリストであり、米国のシリコンバレー支局の経験もあるそうです。我が国のフリマアプリ最大手であるメルカリが創業からわずか5年にして昨年2018年6月にIPOに成功しわたけですが、そのメルカリを題材にして、成長の軌跡、特に、フリマアプリ後発であったにもかかわらずトップに立った戦略とそれを支えた経営陣、その中心は創業者の1人である山田会長への取材を通じて取りまとめられたドキュメンタリです。要するに、読後に一言でいえば、資金調達力にものをいわせてCMを流しまくった、という1点に尽きるような気もしますが、そこは、ある程度はインサイダー的な情報を与えられたジャーナリストによるドキュメンタリですから、やや提灯持ちのような視点も少なくなく、現金出品の事件も含めて、きれいに取りまとめられています。私自身はもうすぐ定年退官を迎える公務員ですから、メルカリのようなユニコーンまで成長したスタートアップ企業の経営者とは、ある意味で、対極に位置しているわけですので、ここまで猛烈に働くことは若いころしかしたことがありませんし、なかなか理解するに難しい面もあります。他方で、私は毎朝可能な限り、NHKの朝ドラを楽しみにして見ています。知っている人は知っていると思いますg、いかにも高度成長期後半の昭和の起業家であるチキンラーメンの安藤百福を中心に据えたドラマであり、ドラマの中の起業家が、やや誇張された面はあるとはいえ、天下国家に有益な開発を志していたのに対し、今どきのインターネット関連の起業家やスタートアップ企業が何を目指しているのかが、やや本書では捉え切れていなかった気がします。特に、それが目についたのが米国進出であり、創業者が米国進出をしたいと志したからそうするんだ、という以上の理念めいたもの、あるいは、経済学で考えるところの企業活動の本質である利潤極大化なのか、そのあたりの目的意識めいたものが少し興味あったんですが、本書では必ずしも明らかではありませんでした。でも、かなり狭い世界でスタートアップ企業経営者や幹部が活動いているのはやや意外でした。最後に、どうでもいいことながら、チキンラーメンの日清食品から、「チキンラーメン」ブランドが発売60周年目に史上最高売上を達成、とのプレスリリースが3月4日に出されています。ご参考まで。

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次に、シバタナオキ・吉川欣也『テクノロジーの地政学』(日経BP社) です。著者は、いずれもスタートアップ企業の経営者、すなわち、起業家です。そして、本書のタイトルの地政学というのはやや違ったふうに解釈する向きもありそうですが、本書では米国のシリコンバレーと中国を対比していることをもって地政学と呼んでいるようです。ということで、本書では人工知能、次世代モビリティ、フィンテック・仮想通貨、小売り、ロボティクス、農業・食テックの6分野に渡って、最新のビジネスモデルを解説していています。すなわち、各分野につき、マーケットトレンド、主要プレーヤーの動向、注目スタートアップ、未来展望を米国シリコンバレーと中国のそれぞれに分けて、私のようなシロートにも判りやすく取り上げています。もちろん、それぞれの分野におけるビジネスモデルなので、必ずしも反則ではないんですが、実際の財・サービスの詳細についてはやや省略気味です。それよりも、最初に取り上げている奥平『メルカリ』でも感じたところですが、人脈関係について詳しいような気もします。いくつか、私の記憶にある範囲で印象的な点を取り上げると、まず、人工知能についてタスクの星取表があって、今すでにできている、2-3年以内にできそう、5年かかっても難しそう、に3分類されていますが、自然分での会話が5年かかっても難しそうとされています。いわゆるチューリングテストに通らない、という意味なんだろうと私は解釈しています。次世代モビリティについては、私は従来から自家用車、というか、社用車なんかも含めて自動車は稼働率が低く、要するに、エネルギーを使う割には運べるキャパが少ないと感じています。その点で、電車やバスのような公共交通機関に軍配を上げるんですが、自動車の24時間稼働も含めて、新たなモビリティ技術でどこまで効率を高められるかは興味あるところです。最後のポイントとして、金融関係については、キャッシュレス取引をはじめとして、スピードを強調する意見が多く見られ、本書でも同じ傾向があるんですが、決済についてはスピードと正確性のトレードオフがあり、私は正確性の方を重視すべきと考えています。その観点からの議論が少ない点はやや残念に思います。

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次に、 イ・サンヒ & ユン・シンヨン『人類との遭遇』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア大学リバーサイド校の自然人類学ないし古人類学の研究者と韓国の一般向け科学誌『科学東亜』の編集者・ジャーナリストですが、本書の中身のほとんどはイ教授が書いているんではないかという気がし、ユン氏は編集の方に重きを置いているような気がします。『科学東亜』に2012年2月号から3013年12月号まで連載されていたコラムを単行本化したようですから、オリジナルは韓国語ではなかったのかと想像していますが、フォーブス誌に書評が掲載されているようですから、英語を含めて翻訳されているのだろうと思います。上の表紙画像に見える英語の原題 Cloe Encounters with Humankind はその英訳書のタイトルなのかどうか私は知りませんが、むしろ、日本語タイトルに合わせているような気もします。というのも、扉の裏に韓国語をアルファベット表記、あるいは、それを英語に直訳したしたのであろう IN-RYU-UI GHEE-WON (Human Origins) というタイトルが見えるからです。本書の中身を振り返ると、やや韓国語のタイトルに近い気がします。というのも、もっとも古いホミニンに関する探究を一般向けに短い連載コラムのような形で取りまとめているからです。ところで、ホミニンとは「ヒト亜科」という和約があり、最終的にヒトが類人猿あるいはチンパンジーから枝分かれした後の種のことを指すと本書では考えられているようです。これはもっとも狭義の定義のように私は受け止めています。ということで、人類への進化の過程を取り上げて、従来の俗説めいた定説をいくつか否定しつつ、新たな著者の見方を提示しています。著者が支持する学説のうちで、私の知らなかったもののひとつが、現生人類がアフリカに発祥しその他の旧人類などをすべて駆逐したという完全置換説ではなく、現生人類は複数の地点で発祥し移動しているうちに出会って各地で遺伝的に混合してひとつの種になった他地域新仮説です。加えて、長寿は世代を通じた情報の伝達に有利である点を進化論の立場から解き明かしたり、狩猟採集から農業の開始とそれに伴う農作物の摂取と定住が人類にとって、ホントによかったのかどうかを疑問視したり、私のような一般ピープルの間では進化=進歩という図式を信じているんですが、そうではない例もいくつか取り上げています。さらに、韓国人というアジア人の範疇に入る著者ですので、西洋の白人キリスト教徒中心の人類進化史観にも異議を唱えていたりします。最後に、DNAの分析から現生人類にもネアンデルタール人のDNAは数パーセント残っているという旨の分析を明らかにしていますが、私の知る限り、ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると98パーセント以上が相同で、ほとんど差がない、といった科学本もあります。DNAとゲノムの違いも私には明確ではないんですが、よく判らない点でした。

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次に、アレクサンダー・トドロフ『第一印象の科学』(みすず書房) です。著者はブルガリア出身で、現在は米国プリンストンだ学の心理学研究者です。英語の原題は Face Value であり、2017年の出版です。日本語タイトルは第一印象となっていますが、ほぼほぼ顔といって差し支えありません。髪の毛も抜きの顔です。服装や、ましてや体型は第一印象には入っていないということなのかもしれません。顔写真をモーフィングして、信頼性を高めたり、支配力を強化したりする実験が繰り返されています。特に、顔写真のモーフィングでキーワードとなるのは信頼性と支配性のようです。そして、私にはロンブローゾの名前とともに意識される観相学について、本書の著者は創始者のラヴァーターとともに取り上げていますが、その観相学と心理的な性格はまったく関係がないという論証を延々としているような気がします。みとrん、ロンブローゾの場合は観相学を犯罪者への応用として用いたわけで、それはそれとして大きな逸脱のような気もしますが、いずれにせよ、顔による第一印象と犯罪はもとより性格とは、必ずしも相関がなく、しかも、顔の第一印象が何らかのと因果関係をなしていて、性格を原因として顔の第一印象が結果として目に見える形で現れている、ということは決してありえない、というのが本書の著者の主張です。本書は4部14章構成なんですが、4部のうちの冒頭からの3部までが、観相学の否定に費やされている気がします。その観相学の否定のついでに、いろんな顔から読み取れる、というか、読み取れると多くの人が考えている心理的な性格などについて解説を加えています。そして、人間が持つ顔バイアスは、決して社会性のある経験に基づくものではなく、ほぼほぼ生後数日くらいで社会性のかけらもないような赤ちゃんでもバイアスがあり、さらに、人間ならぬ霊長類にも顔バイアスが見られることが確かめられています。しかし、同時に、人間は顔バイアスとともに、見た目に強い印象を持つことは明らかで、ただ、それが時代とともに変化する点も見逃せません。今ではセクハラまがいの発言かもしれませんが、私はかつて「美人だが、1000年前に生まれていれば、すなわち、平安時代であれば、もっと美人と評価されたかもしれない」といった旨をご本人の前でいったことがあります。絵画などで残る平安美人が今とはやや基準を異にしているのは明らかで、歴史の流れとともに、あるいは、地域性により、どのような顔バイアスの違いがあるのかも私は興味あります。

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次に、武田尚子『近代東京の地政学』(吉川弘文館) です。著者は早稲田大学の研究者であり、2017年9月に同じ吉川弘文館から出版されている『荷車と立ちん坊』を取り上げたこともあります。本書は青山から代々木ないし渋谷に広がる山の手地域の地政学的な位置づけについて、明治期の軍制などとの関係で解き明かそと試みています。しかし、タイトル通りの地政学というよりも、青山・渋谷・代々木あたり、もちろん、明治神宮やその内苑と外苑を中心とする地域の明治期以降の発展史というカンジです。我が家は現在の城北地区に引っ越すまで、南青山の公務員住宅に住まいしていたことがあり、私は表参道駅から地下鉄に乗って役所に通勤していましたので、とても馴染みがあります。今では公務員住宅は売り払われてしまいましたが、表参道の交差点から原宿・神宮前を背にして根津美術館に向かってみゆき通りを歩き、大松稲荷を経て菱形のガラスが印象的なプラダのブティックを右に曲がると住まいがありました。ということで、本書に戻ると、徳川期に大火で江戸城が類焼した際に武器庫を場内に設営していたために被害が大きくなったことから、青山あたりに弾薬庫を設営したことに始まり、明治期になっても地政学的に軍事的な施設が多く置かれ、青山練兵場や代々木練兵場への軍隊の行進や天皇の行幸のために道路などのインフラが整備され、さらに、明治天皇の崩御により遺骨は京都の御香宮に埋葬された一方で、明治神宮が整備されます。そして、戦後はワシントンハイツなどの米軍施設や住宅に衣替えし、それが東京オリンピック施設のために返還され、軍事施設からオリンピックという平和の祭典に活用される、という変遷を歴史的社会的に本書は跡付けています。繰り返しになりますが、我が家が子育てをした馴染みの地域ん歴史を振り返るいい機会でした。なお、どうでもいいことながら、本書冒頭のいくつかの地図のうち、p.2図1に見える表参道交差点は現在のものですが、p.6図4の最下部に見える表参道の電停は今の表参道の交差点ではなく、神宮前の交差点ないし地下鉄でいえば表参道駅ではなく、明治神宮前・原宿駅に相当します。逆に、p.6図4の明治神宮の電停こそが現在の地下鉄表参道駅に相当することになります。100年も違いませんが、ビミョーに地名も変化しているのかもしれません。

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次に、宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』(文芸春秋) です。著者は直木賞受賞の売れっ子ミステリ作家です。杉村三郎シリーズの第5弾であり、ちなみに、前4作は『誰か Somebody』、『名もなき毒』、『ペテロの葬列』、『希望荘』となっています。それから、文庫版の『ソロモンの偽証』の最終巻に、杉村三郎を主人公とする「負の方程式」が収録されています。100ページほどの書き下ろし中編です。私は全部読んでいます。知っている読者は知っていると思いますが、第3作の『ペテロの葬列』ラストで杉村は離婚して今多コンツェルンを離れ、第4作『希望荘』から私立探偵を始めます。本作では中編くらいの長さの3話を収録しています。「絶対零度」と「華燭」と表題作です。表紙画像の帯に「ちょっと困った女たち」とありますが、私のような公務員を定年まで勤め上げた人間から見ると、「ちょっと」ではなく、大いに問題ありなのではないか、という気もします。それに、第1話の「絶対零度」は困ったことをするのは女性ではなく、男性ではなかろうか、という気もします。この3話では、困ったことをする人がいて、いわゆる迷惑行為ともいえるんですが、電車の痴漢行為のように一線を越えて犯罪そのものもあれば、犯罪スレスレというものもありそうです。このシリーズの主人公の杉村は常識人であり、この作品の登場人物も常識人が多い一方で、犯罪スレスレの迷惑行為をなす単数ないし複数の人物が本作では登場します。そして、第1話の「絶対零度」と第3話の「昨日がなければ明日もない」では殺人事件で終わり、ネタバレなんですが、迷惑行為をなした人が殺されます。迷惑行為の延長で殺人事件が起きるのではなく、、迷惑行為の行為者が恨みをかって被害者に殺されるわけです。シリーズ内の『名もなき毒』や『ペテロの葬列』では、「困った人」は明確に警察に捕まるんですが、本作品では警察をはじめとする法執行機関ではなく、被害者が迷惑行為者に復讐めいた行為を実行するというのは、杉村が探偵になってからの変化なのかもしれません。すなわち、離婚前の作品では常識人の杉村が被害者だったので非合法手段で迷惑行為者に復讐めいた罰を与えることはしなかったんですが、実は、迷惑行為者だけではなく被害者の方も「困った人」であれば、法執行機関ではなく被害者ご本人が犯罪行為に及ぶケースがある、ということなのかもしれません。そこまで深く読むこともなさそうな気がしますが、迷惑行為の実行者たる純正の「困った人」、迷惑行為を受けて反撃してしまうレベルの「困った人」、迷惑行為を受けて法執行機関に正義を求める人、の3種類の書き分けが興味深かった気がします。どうでもいいことながら、文芸春秋のサイトにある人物相関図は以下の通りです。

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最後に、松岡圭祐『グアムの探偵』、『グアムの探偵 2』、『グアムの探偵 3』(角川文庫) です。著者は売れっ子の小説家であり、軽いなぞ解きのミステリの作品が多い気がします。私は、今まで、「万能鑑定士Q」のシリーズや「特等添乗員α」のシリーズを読んでいて、さらに、前者のシリーズの中で、綾瀬はるか主演で映画化された「モナ・リザの瞳」も見た記憶があります。ただ、これらの2シリーズは主人公がいずれも女性だったんですが、この「グアムの探偵」シリーズでは主人公は男性であり、原住民であるチャモロ人や米国人に交じって日系人3世代、すなわち、77歳の祖父ゲンゾー、49歳の父デニス、25歳の倅レイの3人が属する、というか、ゲンゾーが社長でデニスが副社長を務めるグアム島にある探偵社を舞台にして、軽めのミステリのようななぞ解きを収録しています。初刊から第3巻まで、短編が各5話ずつ収録されています。まあ、繰り返しになりますが、それほど本格ミステリ、というわけでもなく、かなり都合よく解決される謎が多くなっている印象です。ですから、読者によってはラノベに分類する人も多そうな気がしますし、ひょっとしたら、これから先、漫画化される可能性も十分あると私は予想しています。なお、探偵社の名称はイーストマウンテン・リサーチ社といい、親子3代の姓である東山から取られているようです。ゲンゾーの愛車は、デニスはジープ・チェロキー、レイはサリーン・マスタング・ロードスターと、キャラに合わせて米国的に車で表現したりの工夫がなされています。もちろん、グアム島は米国の準州ですから、探偵は探偵でも日本とは異なり、拳銃の携行が許可されていたり、政府公認の私立調査官として警察情報に接することが可能であったり、裁判などでの証言にも重きを置かれる、などの制度的な違いも解説されています。殺人事件がないわけではないものの、基本的には、リゾート地ののどかなトラブル解決が少なくなく、当然ながら旅行や移住でグアム島にいる日本人が巻き込まれる事件が中心です。ただし、グアム島は面積の⅓が米軍基地ですので、軍やスパイも絡んで、それなりの国際的なスケールの広がりのある謎もあります。軽めの読み物ですから、通勤時の時間潰しなどにとてもいいんではないでしょうか。最後にどうでもいいことながら、上に表紙画像を3つ並べていますが、現時点では第3巻の表紙デザインのラインで初刊と第2巻も統一的なデザインとなっています。でも、私が借りて読んだのは上の表紙画像の通りです。念のため。

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2019年3月 2日 (土)

今週の読書は本格的な生産性に関する経済専門書からエンタメ小説まで計8冊!

今週の読書は生産性に関する経済書をはじめとして、教養書や専門書などを含めて、さらに、米国大統領経験者が共著者となっているエンタメ小説まで、以下の通りの計8冊です。今日も図書館回りはすでに済ませており、文庫本が入るので、来週もそれ相応の冊数を読みそうな予感です。

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まず、森川正之『生産性』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済産業総研の副所長であり、官庁エコノミストです。生産性、特にサービス業の生産性を専門分野のひとつとしています。本書では、「実務家」という表現で、ビジネスパーソンにも判りやすく、決して学界の専門家だけを対象とはしていません。広く生産性についての解説や実証研究などのサーベイを盛り込んでいます。もっとも、生産性と成長率の関係についてだけは、あまりに長期の関係ですので、これだけはアプリオリに生産性が向上すれば成長率も高まる、と仮定しているように見えます。ただ、現在の「長期不況」= secular stagnation の一因としての生産性との関係については、IT技術革新の成果が2000年代半ばまでに出尽くしたのと教育投資による人的資本の改善がピークアウトした2点をインプリシットに主張しています。そうかもしれません。また、最近話題になっているトピックについてもいくつか取り上げられており、例えば、AIやロボットによる雇用の代替効果については、そもそもカールワイツのような2045年シンギュラリティに素朴な疑問を呈するとともに、代替される労働は日本でもせいぜい10%足らずとの実証研究を引用していたりしますし、政府の進める働き方改革は、生産性向上に対する効果については疑問であり、労働者の福利改善と理解すべきと主張しています。外国人労働の受け入れについても、地方経済活性化の効果は限定的と分析しています。ただ、本書は供給サイドと生産性の関係だけを論じており、私から見て生産性について論じる場合、需要との関係が本書には決定的に欠けているような気がします。すなわち、あくまで短期的な関係かもしれませんが、資本生産性であれば、短期的には稼働率と生産性は正の相関関係があります。かなり正確に比例関係といっていいかもしれません。労働生産性は資本生産性ほどの比例的な関係ではありませんが、需要との相関は高いと考えるべきです。需要が高まれば労働生産性も高まります。ですから、本書のような長期的な視点ももちろん重要ですが、中期的に、例えば、バブル崩壊後の「失われた20年」で我が国の生産性が停滞したのは、イノベーションや人的資本や教育とかではなく、我が国の需要が盛り上がらなかったからではなかろうか、という短期的な視点をまったく無視するのは適当ではないような気がします。

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次に、デービッド・アトキンソン『日本人の勝算』(東洋経済) です。著者は、ゴールドマンサックスのエコノミストを務め、今では京都で美術工芸社の経営者をしています。何冊かのシリーズで似通った本を出版しているんですが、私もいくつか読んでいて、少しずつビミョーに論調を変化させていますが、経済実態が変化しているんですから、それは当然としても、底流にあるのは、日本人の労働者が優秀である一方で、経営者は水準が低く、高スキルの労働者を低賃金で雇えているのだから、日本企業に競争力があるのは当たり前である、という事実です。本書では、特に、高齢化や少子化などの影響により、社会保障財源のためにも優秀な日本人労働力をさらに生産性を高める必要がある、という論旨で一貫しています。ですから、今年始まる外国人剤の受け入れや消費税率の引き上げなどに小手先の政策対応ではなく、本書では最低賃金の引き上げによる賃金の全般的な底上げにより、逆に、効率や生産性を高める、という方策を推奨しています。その背景には、同様の最低賃金引き上げを実施した英国の例が引用されています。加えて、成人教育の充実も半ば強制的に実施することを提唱しています。本書では言及されていませんが、ノーベル賞も受賞したアカロフ教授が高賃金による贈与経済的な高生産性の実現をモデル化しています。やや、アカロフ的なモデルとは違っていますが、高賃金で経営者に労働の効率化を図り、同時に、労働者のインセンティブも高める、という結果に関しては、ここ何年か試みられた「官製春闘」に似た発想かもしれません。でも、今春闘はこれをギブアップして、安価な外国人労働力の導入という真逆の政策に切り替えたわけですし、「1人勝ち」とメディアに称される安倍内閣ですらできなかった賃金引き上げですから、どこまで本書の政策提言が有効なのかは、私は測りかねています。

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次に、ジョン・ルイス・ギャディス『大戦略論』(早川書房) です。著者は米国イェール大学の研究者であり、米ソ冷戦史が専門です。英語の原題は On Grand Strategy であり、邦訳タイトルはそのままだったりします。2018年の出版です。本書は、著者が米海軍大学校で講じた「戦略と政策」の内容も踏まえ、古典古代のペルシャ戦争やペロポネソス戦争から始まって第2次世界大戦までを対象に、孫子、マキアヴェリ、クラウゼヴィッツの3大家をはじめ、トゥキュディデスからリンカーンまで古今の戦略家・思想家を数多く取り上げ、大戦略の精髄を凝縮して戦略思考の本質を浮き彫りにすることに挑戦しています。ということで、大戦略とは、著者によれば、無限に大きくなる可能性ある願望に対応して、それを実現する能力が有限であるため、その間でバランスをとる必要がある、ということだとされています。本書ではまったく取り上げる素振りもありませんが、東洋の片隅に位置する我が国近代化の過程の中では、日清戦争と日露戦争、特に後者の終わり方に典型的に現れていると私は考えています。そして、このバランスを失したのが第2次世界大戦の終わり方であり、バランスを取るために必要と著者が力説する常識=コモンセンスが当時の我が国には欠けていた、ということになろうかと思います。ただ、私自身はその前段で緻密な情報収集と分析の能力も不可欠だと考えます。そして、本書では一般的な自然科学や社会科学で応用されるようなモデルを前提とする分析ではなく、歴史を分析しケーススタディを繰り返すことを重視しています。個別のケーススタディから汎用的なモデルを抽出して理論構築するのではなく、歴史学の観点から個別の事実を数多く集めて、それを応用することにより将来のあり得る事態におけるよき選択の導きを見出す、という方法論を取っているわけです。そして、繰り返しになりますが、そのスダンが理性であり、常識ともいいかえることができる、と結論しているわけです。個別の観察された事実から共通する要因としての理論やモデルを構築するのではないのは、近代科学の方法論ではないんですが、それだけに戦争というのは各ケースでモデルとして抽象化できる要素は少ない、もしくは、より平たくいえば共通性がない、と著者が考えているのだと私は受け止めています。そうかもしれません。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を導いたわけですが、古典古代の戦争から第2次世界大戦までの戦争の歴史をかえりみても、共通のものさしで図れる部分は少ない、ということです。なお、どうでもいいことながら、歴史家の意見が一致する点で、米国の歴代大統領のうちでもっとも歴史的な貢献が高いのはリンカーンだと本書の著者は示唆しています。これも、そうだろうという気がします。

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次に、ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの世界文明講義』(河出書房新社) です。著者は、ご存じの通り、現代のイタリアのみならず世界を代表する知識人でしたが、2016年に亡くなっています。イタリア語の原題は Sulle spalle dei giganti Umberto Eco であり、著者死後の2017年の出版です。本書は、基本的に、最終章を除いて、2001年から15年までのミラネジアーナという文学・文化・芸術イベントにおける著者の講義・講演の記録を取りまとめたものです。ただ、何年か抜けていますので、15年間で15章ではなく11章です。それに最終章を加えた12章構成となっています。おそらく、エディタの編集にして正しいのではないかと私は思いますが、議論はあるかもしれません。すなわち、エーコ教授が生きていれば違う編集をした可能性は排除できません。それは別にして、本書の各章に通底するのは、美と真実に関する著者の見方、あるいは、美学と真実について延々と10年超に渡って語っている、というのが私の印象です。そして、読者としての私にすれば、美よりも真実の方に力点を置く読み方になってしまいます。でも、専門外ですから当然としても、かなり難解です。真実の相対性を否定し、絶対性を力説することから始まり、真実に対比する概念として、嘘、間違い、偽造などから、秘密を経て、最後は陰謀まで引っ張ります。嘘と間違いは意図の有無で区別されるので判りやすく単純な一方で、最終的な陰謀については、秘密結社が企むものもあって、とても胡散臭いわけですが、そこは、さすがのエーコ教授といえ、薔薇十字団やテンプル騎士団の伝説、フリーメーソンやユダヤの議定書といった陰謀説の歴史と同じ文法で、ケネディ暗殺や9.11テロに関する陰謀説に対する著者の考え方がかなりクリアに示されます。こういった数々の実例を上げつつ、「陰謀症候群の歴史は、世界の歴史と同じくらい古い」と述べる著者の博識には舌を巻きます。その上で、特に『ダ・ビンチ・コード』については明記して取り上げています。ダン・ブラウンのラングドン教授シリーズについては、私は最新刊の『オリジン』まですべて読んでいるつもりですが、さすがに、フィクションの小説では底が浅い、というか、逆に、エーコ教授の知識の該博さには圧倒されます。美と真実のうちの校舎の真実について長々と感想文を書きましたが、前者の美に関しては、数多くの図版をフルカラーで収録し、それを眺めるだけでも本書の価値あり、と考える読者もいそうな気がするくらいです。

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次に、相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK』(文藝春秋) です。著者はNHK大阪放送局(BK)の記者として森友事件の取材にあたった経験を持つジャーナリストです。今はNHKを辞職して大阪日日新聞の記者のようです。ということで、本書は森友事件の取材メモのような体裁で、NHK内部での取材メモやメールのやりとりなども赤裸々に引用されていますが、私のような読者が期待する森友事件の真実を明らかにする目的で公刊されたわけではないようです。ですから、事件発覚後の著者の取材過程や関係者の動向などは本書でかなり明らかにされていますが、事件発覚前、というか、実際に誰によって何がどのような意図のもとになされたのか、という事件をさかのぼった事実解明は本書の眼目ではありません。この点は忘れずに読み進むべきです。本書のタイトルは、いかにも安倍官邸からの圧力に抗してNHKのジャーナリストが報道しようと試みたプロセスを収録しているように見えますが、私が読み逃したのかもしれないものの、安倍官邸からの圧力はまったく出現しません。少なくとも、本書の著者が安倍官邸からの圧力を感じたとは思われません。もちろん、NHK報道局長などの幹部からの圧力が著者の記者にかかったことは記述されていますし、おそらく、直接ではないにしても忖度レベルかも知れないですが、何らかの安倍官邸からの圧力はNHKに対してあった可能性は否定できないものの、本書では実証されていません。広く知られた通り、大阪地検特捜部の結論は全員不起訴、すなわち、公判維持は困難、ということだったのですが、森友事件の実態とともに、この地検特捜部の意思決定の過程にも光を当ててほしかった気がするんですが、ここも消化不良で終わっています。私の期待が筋違いだったのかもしれませんが、ジャーナリストとしての取材の心がけや取材対象との接し方などの記者としてのあるべき姿はよく見えるんですが、NHK内部の幹部と現場記者との関係はともかく、安倍官邸との関係についてはタイトル倒れのような気がします。森友事件に関しては、かなりの程度に事実関係は明らかになりながら、その事実の背景、特に安倍官邸との関係については、何も国民には明らかにされていないわけですから、ジャーナリストとしてその点を掘り下げてほしかった気がします。

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次に、太田省一『テレビ社会ニッポン』(せりか書房) です。著者は社会学者・文筆家であり、テレビと戦後日本社会の関係をメインテーマとしています。本書は、タイトル通りに、テレビ論なんですが、「人はなぜテレビを見るのか?」という問いを発して、回答としては、視聴者が自由を得るためであり、テレビは自作自演的習性、つまり「自分でやったことなのに素知らぬふりをする」習性を持つ一方で、視聴者は番組に出演したり、ツッコミを入れたりしながらも、テレビを実質放置しており、戦後、暗黙の共犯関係によるテレビ社会ニッポンが誕生した、と主張しています。テレビの65年余りに及ぶ歴史を検証し、転換期にあるテレビと視聴者の未来、ポストテレビ社会を展望しようと試みています。 ということで、通例通りに、1950年代のテレビ放送の始まりに際して、プロレス、あるいは、力道山から話が始まります。そして、テレビから放送されるコンテンツとしてはプロレスをはじめとするスポーツはすぐに忘れられて、基本的に、いわゆるバラエティとワイドショーに的が絞られます。ドラマについては目配りされますが、バブル期のトレンディドラマくらいが取り上げられるだけで、ニュース報道にてついてはワイドショーで代表されている印象です。そして、私がもっとも不満に感じているのはアニメがまったく無視されている点です。そして、アニメが無視されていますので、21世紀の現代におけるテレビとゲームの関係がスッポリと抜け落ちています。典型的にはポケモンです。もちろん、ドラえもんやジブリについても、本書では何の言及もありません。ついでながら、ウルトラマンなどの特撮もアニメほどではないにしても、サブカルながら我が国を代表する文化です。忘れるべきではありません。加えて、米国テレビからの影響についても、ワイドショーがスポンサーのヴィックスの関係もあって、NBCの Today をベースにしている点しか触れられておらず、『クイズ100人に聞きました』がABCの Family Fued をベースにしているとかも、まさかと思いますが、ご存じないんでしょうか。テレビ初期の『ライフルマン』や『逃亡者』などについても、我が国テレビ界への影響力という点では忘れるべきではありません。何か所か「テレビが社会になった」という点を力説していますし、有名な「1億総白痴化」も言及されていますが、テレビ業界の内幕を中心とした内容のような気がします。少し物足りない読後感でした。

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最後に、ビル・クリントン & ジェイムズ・パターソン『大統領失踪』上下(早川書房) です。著者は1990年代に2期8年の米国大統領を務め、弾劾裁判にも生き残ったクリントン元大統領と米国の売れっ子エンタメ小説作家パターソンです。英語の原題は The President Is Missing と邦訳タイトルはそのままであり、2018年の出版です。要するに手短かにいえば、タイトルそのままに米国大統領がホワイトハウスから失踪する事件です。そして、どうしてかといえば、米国を標的とする強力なサイバーテロに対処するためです。ということで、現在もしくは近未来をの米国を舞台にしたエンタメ小説であり、サイバーテロリストと電話で連絡を取り合い、そのテロリストが命を狙われていた際にCIAエージェントの1人を犠牲にしてまでもテロリストの命を救った、という嫌疑で議会の公聴会への出席を求められ、場合にっよっては弾劾裁判にも進もうかという男系の米国大統領がホワイトハウスから失踪し、サイバーテロの防止が可能な人物との接触を試みます。そして、結局、ドイツやイスラエルの首脳と協議のうえでカギとなるウィルス無力化のパスワードを探しつつ、国内の対立党との政争や駆け引きに神経を消耗し、さらに、ロシアとの対外関係にも気を配る、というストーリーです。加えて、大統領自身の暗殺を狙うテロリストとシークレットサービスとの攻防戦も見ものです。さらにさらに、で、政権あるいはホワイトハウスの内部にも内通者がいることが明白で、そのあぶり出しや最後のどんでん返しなどなど、エンタメ小説としての面白さが満載です。主人公の米国大統領がどの政党なのかは明記されていませんが、政党のシンボルがロバですから民主党と推察されます。共著者の1人がクリントン元大統領なんですから当然です。そして、私が見た範囲では初めてかもしれないと思うのが、米国大統領が1人称でストーリーを進めている点です。大統領が話者となっている章とテロリストの側の章とが入り混じっているんですが、米国大統領がストーリー・テリングをしている小説なんて、私は初めて読みました。でも、ホワイトハウス内部の事情やシークレットサービスとの関係など、大統領経験者でなければ知りえない情報が盛り込まれているのかもしれません。ミステリとしてのホワイトハウスないし政権の内通者については、かなり底が浅くてすぐに判りますが、エンタメ度はかなり高くて楽しめる読書でした。いつもながら、翻訳者のひとりである越前敏弥の訳はとてもスムーズでリーダブルでした。

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2019年2月16日 (土)

今週の読書は特に印象的な『NEW POWER』をはじめとして計7冊!

今週の読書は、通常通りの数冊、経済書からウィルス論まで、以下の7冊です。ただ、その中で、ジェレミー・ハイマンズ & ヘンリー・ティムズ『NEW POWER』(ダイヤモンド社) がとても印象的でした。まだ2月半ばながら、今年のマイベストかもしれません。なお、今週は小説はありませんが、来週は小説も読みたいと予定しています。

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まず、橘木俊詔『定年後の経済学』(PHP研究所) です。著者はご存じ京都大学を定年退職したエコノミストであり、専門は労働経済学などのマイクロな経済分析です。私は少しだけながら面識があることから、きっと、もっと仕事がしたいというワーカホリックな著者の意向を強く反映して、定年制に対する著者ご本人の否定的な見解が満載されているのではないかと想像していたのですが、決してそうではありませんでした。書き出しこそ、海外では日本のような定年制は年齢による差別と受け取られる、とかで始まっているものの、定年制攻撃はなされていません。もっとも、上の表紙画像の帯に見られるような従来からの主張である格差論を展開しているわけでもなく、最終第6章を別にすれば、むしろ、淡々とタイトル通りの定年後の生活や諸制度を経済学を援用しつつ分析ないし解説しています。ただし、マクロもミクロも経済制度や経済現象を単独で取り出しても仕方ないところがあり、定年制についても雇用制度全体の中で考える必要があります。その点で、本書はやや私とは視点が異なり、通常の理解のように、終身雇用ないし長期雇用の中で若年期間は生産性を下回る賃金が支給され、逆に、中高年齢層には生産性を上回る生活給的な賃金が支払われる、という高度成長期に確立した我が国特有の雇用慣行と併せて考える必要があります。すなわち、長期雇用慣行の下では、どこかで賃金上昇をストップさせるか、そうでなければ、雇用そのものをストップするしかないわけです。本書では、退職金が長期雇用や生産性に比較した賃金支払と関連付けて論じられていますが、タイトルである定年制とは関係する議論はありません。本書でも引用されているラジアー教授による、我が国長期雇用との関連の仮説は、退職金ではなく定年制とリンクしていると考えるべきです。加えて、我が国の労働市場や社会保障制度において、かなり常軌を逸して恒例世代に有利で若年世代に不利な制度や慣行が成立してしまっています。先ほどの生産性と賃金の関係もそうですし、政治的な力関係で決まりかねない社会保障についてはもっとそうで、高齢世代をやたらと優遇する制度設計になっています。それを断ち切って若年世代の雇用を促進するため、私は年齢による差別であっても定年制の存在意義はあるものと考えています。ただ、平均的な日本国民と比較しても勤労意欲が決して高くない私ですら働き続け8日と考えざるを得ない背景には所得を得ねばならないという悲しい現実があります。その視点も本書では希薄ではなかろうかという気がします。

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次に、要藤正任『ソーシャル・キャピタルの経済分析』(慶応義塾大学出版会) です。著者は、国土交通総研の研究者であり、出版社からしても、かなりの程度に学術書に近いと考えるべきです。ということで、定義が今ひとつはっきりしないながら、『孤独なボウリング』で有名なパットナム教授による集合行為問題、すなわち、相互の信頼性とか、互酬性とかの人と人とのつながりを肯定的に捉えようとする姿勢、その集合体としてのソーシャル・キャピタルについて、定義と定量化を考え、また、いかに形成されるか、あるいは、世代間で継承・共有されるか、地域社会に有意義なフィードバックが及ぶか、などなどにつき、国際機関などでの研究をサーベイしつつ、また、可能な範囲でフォーマルな定量分析を試みています。伝統的な経済学では、企業は利潤を極大化しようとすますし、個人または家計は効用を最大化しようとします。そして、古典派経済学ではスミスのいうような神の見えざる手により、個々人が慈悲心ではなく利己的な効用最大化を図ることにより、社会的な分業体制のもとで市場が最適な資源配分の基礎となる、ということになっています。でも、ケインズがそのマクロ経済学で明らかにしたように、景気循環は市場経済では緩和されませんし、ナッシュやゲーム理論化が明らかにしたように、何らかの協力の下でゲーム参加者互いの効用をもっと公平に、あるいは、大きくすることも可能です。本書では、伝統的な経済学から外れはするものの、ソーシャル・キャピタルについて地域経済との関係を主に分析を進めています。ただ、まだ未成熟な研究分野ですので、やや勇み足のように先走った分析も見られます。例えば、幸福阻止表のようにGDPを否定する、とまでいわないものの、一定の代替性を認めておきながら、ソーシャル・キャピタルと1人当りGDPで代理した豊かさを回帰分析しようと試みたりしています。でも、一昨年ノーベル経済学賞が授賞された行動経済学や実験経済学などのように、合理性豊かな経済活動を前提にするのではなく、より根源的な人間性に根ざした経済分析として、まや、幸福度指標などとともに、国際機関での研究も盛んですし、今後の注目株かもしれません。

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次に、ジェレミー・ハイマンズ & ヘンリー・ティムズ『NEW POWER』(ダイヤモンド社) です。著者は、本書の著者は、amazonのサイトでは「ハーバード大、マッキンゼー、オックスフォード大などを経て、現在は、ニューヨークから世界中に21世紀型ムーブメントを展開しているハイマンズと、約100か国を巻き込み、1億ドル以上の資金収集に成功したムーブメントの仕掛け人であり、スタンフォード大でも活躍するティムズ。」と紹介されています。判る人には判るんでしょうが、ニューパワーとは縁遠い公務員の世界に長らく働く私にはよく判りませんでした。ということで、パワーをバートランド・ラッセルに基づいて「意図した効果を生み出し能力」と定義し、統制型からシェア型へ、競争からコラボへ、また、プロからアマへ、などなど、BREXITのレファレンダムやトランプ米国大統領の当選などのあった2016年あたりを境にして、ここ2~3年で大きく変化した新しい世界のルール、法則を解明しようと試みています。オールド・パワーとニュー・パワーを対比させていますが、前者が非効率とか、あるいは広い意味でよくないとか、また、前者から後者にこれからシフトする、とかの単純な構図ではなく、両者のベストミックスの追求も含めて、いろんなパワーや影響力の行使のあり方を考えています。いろんな読み方の出来る本だという気がしますが、私のようなエコノミストからすれば、あるいは、そうでなくても広く一般的にビジネス・パーソンなどは、企業における組織や企業行動のあり方とか、イノベーションを生み出す源泉とか、経済活動について古典派経済学的な家計の効用最大化や企業の利潤極大化に代わる経済社会の新たなあり方、などの方向付けとして読まれそうな気がします。強くします。繰り返しになりますが、今年に入ってまだわずかに1か月半ながら、ひょっとしたら、今年もマイベストかもしれません。長々と私ごときが論評するよりも、ハーバード・ビジネス・レビューのサイトに原書の解説で "Understanding 'New Power'" と題して掲載されている記事から2つの図表、邦訳書ではp.51とp.65の本書のキモとなる図表2つを引用しておきます。これで十分ではないかと思います。

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邦訳書にはないんですが、下の図表には、執務室のオバマ大統領はオールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいていたのに対して、選挙活動中のオバマ大統領はニューパワーのモデルとニューパワーの価値観に立脚していた、とされる点です。また、邦訳書でもフォーカスされていますが、アップルはiPhoneなどを出しているにもかかわらず、オールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいて企業活動を行っていると著者は理解しているようです。どちらも、そうかもしれません。

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次に、小路田泰直・田中希生[編]『明治維新とは何か?』(東京堂出版) です。著者は、私の専門外でよく判らないんですが、どちらも奈良女子大学の研究者です。基本は、歴史学の視点から、明治維新150周年を記念して奈良女子大学で開催された公開セミナーの講演録となっています。ただ、歴史学だけでなく、政治学の視点も大いに入っているような気がします。ということで、編者の1人による冒頭の「刊行にあたって」では、明確に明治維新に対する講座派的な見方が否定されています。その上で、本書が皇国史観に基づいているとは決して思えませんが、本居宣長や平田篤胤などのいわゆる国学に則った見方が引用されたり、神話にさかのぼった天皇観が示されたりと、私にはとても違和感ある明治維新観の書となっている気がします。私は大学のころには西洋経済史のゼミに属していましたが、いわゆる労農派的なブルジョワ民主主義革命でなく、明確に講座派的な見方が明治維新については成り立つと考えています。すなわち、特に、私の見方では、土地所有制度と農業経営において、英国的な借地と地代支払いに基づく資本主義的な農業経営ではなく、さすがに土地緊縛や領地裁判権はないとしても、封建制の残滓を大いに残した前近代的な特徴を持った不完全な資本主義制度の成立であったことは明らかです。ですからこそ、戦後のGHQによる大きな改革の中に農地開放と労働民主化が含まれていた、と考えるべきです。まあ、そのひとつの結論として二段階革命論というのがあるわけですが、それはともかく、我が国経済史学界で最大の影響力を持つ大塚史学でも日本の民主主義の担い手として自由で独立した市民社会が形成されていたとは見なされておらず、少なくとも、経済史の分野では、明治維新が不徹底なブルジョワ民主化であったという評価は、かなりの程度に確立された見方だという気がします。神話や国学にさかのぼった解釈が主を占める本書が、その明治維新の本質をどこまで解明できたのか、私には大きな疑問が残ります。

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次に、浅古泰史『ゲーム理論で考える政治学』(有斐閣) です。著者は早稲田大学の研究者であり、タイトルは政治学となっていますが、実は、著者のアカデミック・コースは一貫して経済学分野だったりします。それはともかく、読んでいるわけではないものの私が知る限り、政治学に関するゲーム理論のテキストはジェイムズ・モローによる『政治学のためのゲーム理論』(勁草書房)であり、邦訳書は割合と最近ここ2~3年の出版ですが、原書が1990年代なかばとかなり古く、ゲーム理論の最近の伸展を見るにつけ、本書のような数式でキチンと表現されたフォーマルなモデルを扱うテキストも必要という気がします。ただし、ゲーム論のモデルとしてそれほど数学表現されておらず、どこまで有効なのかは専門外ながら、はなはだ心もとない気もします。すなわち、単なる仮の数字を当てはめての確率計算に終止している気もしないでもありません。それから、著者の元のホームグラウンドが経済学ですので、かなり集合的なモデル表現になっている気がします。すなわち、経済学のモデルでは、一方で、企業部門ではたったひとつの企業がすべての財を生産し、かつ、すべての労働を需要しつつ、他方で、家計部門は代表的なたったひとつの家計がすべての財を購入・消費しつつ、かつ、すべての労働を供給する、と考えればそれでこと足りる気もしますが、政治学ではそれなムチャに単純化しすぎたモデルだろうと私は考えます。すなわち、本書冒頭の選挙についても、単純化されたモデルとはいえ、投票先として与党と野党、投票する国民というか、有権者としてコアな与党支持者とコアな野党支持者と浮動票、くらいの分類は必要ではないか、と考えるのは私のようなシロートだけなんでしょうか。加えて、政治学では何らかの利益・不利益の分配に関する調整が行われる過程を分析する場合も多そうな気がするところ、そういったモデルは扱われていない気がします。まあ何と申しましょうかで、物理学を数少ない例外として、こういった専門の経済学以外の学問分野のモデル分析を勉強するにつけ、私のようなエコノミストから見てもモデルの欠陥が目につくんですから、他の分野の専門家が経済学のモデルを見ると、いい加減で現実適用性が低い、と受け止めているんだろうなあ、という気がしてしまい、我と我が学問分野を振り返って反省しきりとなってしまいます。

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次に、稲田雅洋『総選挙はこのようにして始まった』(有志舎) です。著者は社会学の研究者であり、かなりのご年配です。第6章まである構成をお考えだったようで、議会と立憲政治をテーマにしたかったようですが、年齢や体調との関係で4章構成の第1回総選挙に的を絞ったようです。そして、本書もまた、コミンテルンの32年テーゼを基とする講座派的な第1回総選挙やその結果として成立した議会=衆議院を「地主の議会」とする従来からの支配的な見方に対するチャレンジと志しています。ということで、まず、おさらいですが、1890年の第1回総選挙、すなわち、衆議院議員選挙は25歳以上成年男子が選挙権と非選挙権をもつんですが、制限選挙であり、直接国税15円以上の多額納税者に選挙権も被選挙権も限定されていました。それも地租なら1年、所得税なら3年の継続期間が必要でした。衆議院議員がほとんど地主とされる根拠のひとつですが、著者はこれを否定します。すなわち、第1章では候補者に焦点を当てて、特に民権派議員の中にとても地主とは思えない中江兆民とかが入っており、その背景に、こういった民権派活動家などを議会に送り出したい人々が土地の名義や税金支払人の名義を書き換えて、これらの民権派活動家などを財産家に仕立て上げた、という点を第1章で強調しています。候補者ご本人が議員になりたかった場合をwin-win型と命名し、そうでない場合を勝手連型と本書では名付けています。そうかもしれません。その上で、第2章では、選挙の有権者にスポットを当てて、今でいうところの「1票の格差」を取り上げ、確かに、地方では地主が有権者が多くを占めていたものの、1票の格差からそれほど多くの議員を選べず、地主が少なかった都市部の1票の重みの方が10倍近い格差でもって議員を選ぶウェイトがあった、と結論づけています。さらに、第3章では当選人の分類を試み、第4章では民権派の圧勝に終わった栃木県と、逆に、民権派がほとんど当選しなかった愛知県をケーススタディとして取り上げています。まあ、いろんな考えから、コミンテルン32年テーゼに従った講座派的な歴史観に異を唱えるのは判らないでもないですが、本書で明記しているように、ソ連の崩壊をもってコミンテルンのテーゼがすべて無効になったとする考え方には私は同意できません。明治維新に対する歴史観も含めて、明治期の土地所有制が半封建的な寄生地主であったことは明白ですし、第1回総選挙の結果の衆議院議員が地主でなくても、講座派の歴史観を否定することにはつながらないような気がします。

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最後に、山内一也『ウイルスの意味論』(みすず書房) です。著者は獣医学が基本ながら、北里研究所や東大で研究者を務めたウイルスの専門家です。ただ、90歳近い年齢ですから、現役ではないのかもしれません。本書は月刊「みすず」の連載を単行本化したものです。ということで、単なるウイスルに関する書物ではなく、なかなかに難解な「意味論」がついています。ただ、私は専門外ですので、どこまで理解したかは自信がありませんが、「意味論」の部分は関係なくウイルスに関して現時点で、どこまで科学的な解明がなされているかを明快に取りまとめています。まず、本書でもひとつのテーマとなっているんですが、ウイルスは生命あるいは生物であるのかどうか、NASAの地球外生命探査計画で定義された「ダーウィン進化が可能な自立した化学システム」も援用しつつ、私の理解した範囲では、細胞内にあるときはウイルスは生命・生物であり、細胞外にあるときは無生物、ということになりそうです。もちろん、この生物・無生物の定義の他にも、根絶された天然痘ウイルス、まだ根絶されていないものの、かなり抑え込まれた麻疹ウイルス、などの人間界から閉め出されつつあるウイルス、もちろん、逆に、人間だけでなく昆虫などと共生し何らかの利益をもたらすウイルス、さらに、海中などの水の中に多数存在するウイルスなどなど、私のようなシロートにもそれなりに判りやすいウイルスのうんちく話を詰め込んでいます。通常の理解では、ウイルス=病気、怖くて予防すべき、と考えがちで、おおむね、その通りなんでしょうが、そうでない例外も少なくない点を含めて、いろんなトピックがいろいろと盛り込まれています。まあ、専門外の読書でしたので簡単に切り上げておきます。

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2019年2月 9日 (土)

今週の読書は本格的な経済の学術書からテレビドラマの原作まで計8冊!

今週の読書は、数式がいっぱい詰まった本格的な経済学の学術書や話題のAIと雇用の関係を論じた経済書から、TBSで放送中のテレビドラマの原作ミステリまで幅広く、以下の8冊です。来週の読書に向けた図書館回りは、降雪のために自転車に乗れずにすでに諦めて、明日になる可能性が高くなっています。今週と同じ8冊には及びませんが、来週もそれなりに数冊は読みそうな勢いです。

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まず、柳川範之[編]『インフラを科学する』(中央経済社) です。著者は東大経済学部の研究者であり、本書は国土交通省のスポンサーで出版されているようです。第1部は主として交通インフラの経済分析を実証的に行っているんですが、私のような不勉強なエコノミストには理解が難しいくらいのレベル感です。第2部の都市の経済学とともに、ほぼほぼ学術書のレベルであると考えて差し支えありません。ということは、一般的なビジネスパーソンには難しすぎる可能性が高いと私は考えています。ただし、この点については編者や各チャプターの著者も十分に意識しているようで、各章の扉で「本章のねらい」、「本章を通じてわかったこと」、「政策的な示唆・メッセージ」を簡潔に提示し、各章の冒頭と最終節もねらいやまとめになっているため,、何と申しましょうかで、たとえ専門的な予備知識がなくても、この部分だけ立ち読みでもすれば、それなりに本書を理解できた雰囲気になれるように配慮されています。その上、結論がかなり常識的で、定量的な分析にはそれなりに意味あるものの、インフラの効果がプラスかマイナスかくらいは誰にでも理解できるでしょうから、まあ、定量的な分析が肝なんですが、それが判らなくても方向性は直感的に理解できるものと思います。もちろん、定量的な分析でなくても、英国の交通省による広義の経済効果として第1章にあるように、集積の経済、競争促進効果、不完全競争市場における生産拡大効果、雇用改善に伴う経済便益、とかも先進国の事例の勉強にはなります。経済学的ではないかもしれませんが、第2部の都市の経済学もそれなりに興味深かった気がします。EBPM(Evidence Based Policy Making)に関心が集まり、このような定量分析の学術書も出版されているんですが、ただ、その基となる統計データに信頼性なければ定量分析も「絵に描いた餅」です。それから、インフラの経済のもととなる集積の経済はそうなんですが、行き過ぎると混雑の不経済に転化する可能性も否定できません。そのあたりの分析はスポンサーとの関係で割愛されているのかもしれません。

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次に、スティーヴン K. ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』(日本経済新聞出版社) です。著者はカリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の政治学の研究者であり、本書冒頭の謝辞に登場し『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著作で有名なエズラ・ヴォーゲル氏の何らかの縁戚ではないかと私は想像しています。よく知りません。上の表紙画像に見えるのとは異なり、英語の原題は Marketcraft であり、2018年の出版です。原題からも明らかなように、日本に限定した分析ではなく、日米を並べて論じています。まず、市場について、市場と政府規制を二律背反的あるいは対立的にとらえるのではなく、古典派経済学の考えるような完全市場というものは存在せず、市場には法と慣行と規範が必要であり、政府はそれらを市場に与えることができる、ということから始まります。その上で、ややステレオタイプな見方という気もしますが、英米の自由市場型経済と日独のような調整型市場経済をモデル化して議論を展開し、実は、調整型市場経済よりも自由市場型経済の方こそ政府の関与が必要と説いています。そして、「失われた20年」とかの日本経済の失敗は、自由市場型経済に移行するための規制緩和や政府関与の縮小が出来なかったからではなく、むしろ、政府関与の増加を含めたマーケットデザインに失敗したためである、と結論しています。もちろん、市場に関与する政府のあり方にはいろいろあって、日本だけではなく米国でもカリフォルニアの電力供給の例を引いて、さまざまな政府によるマーケットデザインの失敗も論じていますし、何といっても最大のマーケットデザインの失敗の結果が過剰なリスク・テイクに起因する2008年のリーマン・ショックであると結論しています。ただ、私のようなエコノミストからすれば、市場というメカニズムは資源配分とともに所得分配の場でもあると考えるべきであり、従来は資源配分は効率を重視して市場に任せた上で、その結果たる所得については政府が再分配を行う、という役割分担だったんですが、ややこの点が混同されているような部分もあります。加えて、私には非常に判りやすくて受け入れやすい分析だったんですが、2点だけ経済学的な論点を提示すると、ルーカス批判や合成の誤謬が生じる可能性を指摘する必要があります。すなわち、政府のマーケットデザインに対して、国民が事前の予想とは異なる反応を示す可能性があるとともに、本書では一貫してインセンティブに対するマイクロな反応を論じていますから、マクロ経済的にマイクロな反応の積み上げが合成の誤謬を生じる可能性も否定できません。ただ、繰り返しになりますが、なかなか日米経済の本質を的確についた政治学者による経済の分析だという気がします。

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次に、岩本晃一『AIと日本の雇用』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済産業省出身の研究者です。タイトルにあるAIと雇用については、英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる大きな雇用減少の可能性に関する研究成果と、それを真っ向から否定する米国マサチューセッツ工科大学(MIT)オーター教授の論陣なんですが、本書の著者は圧倒的に後者の論拠によっています。人間の脳をそのままエミュレートするかのようなカートワイツ流の2045年のシンギュラリティは否定される一方で、確かに、ルーティンに基づくお気楽な事務職や定形作業はAIやロボットに取って代わられる一方で、高度なスキルが要求される専門職・技術職で雇用は増加し、さらに、やや不都合な真実ながら、未熟練労働による低スキル職も増加する、という見立てです。そのあたり、本書は6章立てで構成されていて、前半3章の分析は、オーター教授の分析に基づいて、それなりに私も同意する部分が多いものの、後半3章は、どうも日本企業の競争力維持に大きな関心が払われているようで、ややピント外れな気もしました。最後に、本書の著者は鋭くも、私と同じで、ロボットやAIの活用が進めば、雇用とともに分配の問題が重要となり、ベーシック・インカムやロボット税の問題も浮上するといいつつも、本書ではスコープ外とされているようで、そこはやや残念です。まあ、そのほかにも、タイトルにひかれて読んだんですが、MITオーター教授の見方を紹介している以外には、それほど参考になるところはありませんでした。野村総研(NRI)がかなりオックスフォード大学フレイ-オズボーンの見方に肩入れしていますが、経済産業省や経産研はこれに対抗してMITオーター教授の方に肩入れするんでしょうか。私のような部外者からすれば、なかなか見ものかもしれません。

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次に、アニンディヤ・ゴーシュ『Tap』(日経BP社) です。著者はニューヨーク大学のビジネス学の研究者です。英語の原題も Tap であり、2017年の出版です。私も著者も合意しているのは、最近のICT技術の発展や特にスマホの登場による経済社会のもっとも大きな変化は生産性向上などの生産現場におけるものではなく、娯楽を含めた消費行動に及ぼした影響に起因します。そして、その消費行動への影響については、エコノミストたちの行動経済学をあざ笑うかのように、マーケターが定量的な分析も含めてキッチリと把握し切っているように私は考えています。上の表紙画像にあるように、ついついスマホで買ってしまう大きな原因は宣伝です。市場とは情報の塊と考えられますから、購入行動を促す情報が実に適切に提供されている、ということもできます。そのモバイル・マーケティングの9つのコンポーネントがp.73に示されています。すなわち、場所、時間、顕著性、混雑度、天気、行動履歴、社会的関係、テックスミックス、そして状況です。購入場所に近い位置に消費者がいれば宣伝効果は上がります。ただ、距離の壁はクーポンの割引率で代替することは可能なようです。そして、必要とする時より早過ぎても、逆に、時間的な余裕がなくても宣伝効果は薄く、タイムリーな宣伝こそ必要です。顕著性というのは検索でヒットした順番であり、パソコンでの検索ではトップともっと低い出現順位でも大きな差はありませんが、モバイルの場合は検索の出現順位が大きくモノをいいます。混雑度については、通勤電車などで適度に混雑していればスマホに逃避する場合もあります。天気はいうまでもありません。温度が高ければビールやアイスクリームの売上に大きな影響を及ぼします。社会的関係というのは判りにくいかもしれませんが、人は1人で買い物をする時よりも2人の時の方が、さらに、3人の時の方が宣伝広告に敏感に反応するらしいです。もっとも、2人の場合が男女のカップルであるときは例外的に宣伝広告に反応しません。まあ、そうかもしれません。ただ、本書の著者もハッキリと書いているように、宣伝広告がすべてではありません。マネーボール分析をしたからといって、ワールド・シリーズで優勝できるわけではありません。言外に、消費者に評価の高い製品作りが必要、とモノ作りの重要性が示されているような気がしました。

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次に、照井伸彦『ビッグデータ統計解析入門』(日本評論社) です。著者は東北大学経済学部に在籍する研究者であり、本書は「経済セミナー」に連載されていたシリーズを単行本化したものです。上の表紙画像に見られるように副題は「経済学部/経営学部で学ばない統計学」となっていますので、ついつい借りてしまいました。まず、150ページ足らずのコンパクトな入門編テキストながら、完全な学術書であり、読みこなすにはそれなりの専門性が要求されると考えるべきです。難解な数式もいっぱい登場します。巻末の補論が基礎事項の確認と題されており、確率統計、行列と分散共分散行列そして回帰分析のそれぞれの基礎を展開していますので、この部分にザっと目を通して本書のレベルを確かめた上で取り組むかどうかを考えた方がいいような気がします。ただ、ソフトウェアについてはRを基本にしたパッケージで解説されていますので、Rのユーザであれば取り組みやすい気もします。私も著者のサイトですべてのRのプログラム・コードやCSVに格納されているデータをダウンロードして目を通したり、走らせたりしたわけではありませんが、座学的に本を読んで理解しようとするより、実際にパソコンでプログラム・コードを走らせると理解度が違ってくるのは何度も経験しました。したがって、計量経済学については、理論的なテキストで勉強するよりも、実務的にSTATAやEViewsなどのソフトウェアの解説書で勉強した方が身についた気もします。本書では第2章のベイズ統計に関する部分のハードルが高そうな気がしますが、私なんぞの実務家にしてみれば、第6章あたりのリッジ推定の方が判りやすかったりしました。もっとの、リッジ回帰の拡張版であるLASSO回帰は初めて知りましたので、人生60歳を迎えても、まだまだ勉強する必要があるようで、進歩の速い分野とはいえ、なかなかタイヘンです。

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次に、フランチェスコ・グァラ『制度とは何か』(慶應義塾大学出版会) です。本書も出版社から明らかなように学術書です。著者はイタリアのミラノ大学の政治経済学の研究者です。原初はイタリア語ではなく英語であり、原初のタイトルは Understanding Institutions であり、2016年の出版です。ということで、著者は制度について議論を展開しており、本書でもエコノミストとしてノーベル経済学賞を授賞されたノース教授らの制度学派が取り上げられています。制度のタイプとしては、結婚、私有財産、貨幣にフォーカスされており、均衡アプローチとルール・ベースのアプローチの両方について解説されていますが、私の印象では後者に重点が置かれているように感じました。ただ、ルール・ベースのアプローチだけでは、どうしてゲームに加わる参加者がルールに従うかについて説明できないとしており、インセンティブが果たす役割が強調されています。逆に、すべてのゲーム参加者がルールに従った行動をとるという空想を全員が共有して、それを信頼する限り、システムは問題なく機能する一方で、信頼性に欠けるようになればシステムに綻びが生じる、その典型例がサブプライム住宅証券で起こった、と指摘してます。本書で取り上げられているうちでは、エコノミストとしては貨幣、もちろん、fiat money である不換紙幣について着目したんですが、金本位制下の兌換紙幣と違って、現在の不換紙幣は、誰もがアクセプトするという確信の下に流通しています。もちろん、政府が強制通用力を持たせている点も重要ですが、人々の革新の方が重要ではないかと多くのエコノミストは考えています。ただ、本書ではインフレに対する考察が少し弱い気がします。貨幣の流通とインフレについては、本書でも決して無視されているわけではありませんが、例えば、マートン的な自己実現的予言では取り上げられておらず、また、やや要求レベルが高い気もするものの、動学的な考察や分析もあっていいんではないか、と思ってしまいました。繰り返しになりますが、本書もほぼほぼ完全に学術書ですので、私もそれほど十分に理解したとは思えません。読みこなすにはそれなりの素養が求められるかもしれません。

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最後に、加藤実秋『メゾン・ド・ポリス』『メゾン・ド・ポリス 2』(角川文庫) です。ご存じ、TBSで放送中の高畑充希主演のテレビドラマの原作です。小説の原作ベースでは、初刊に5話、第2巻に4話の短編ミステリが収録されています。本書を読んで判る人は判るんでしょうが、人物相関図についてはTBSドラマのサイトで確認しておいた方が手早く理解できるかもしれません。ただ、ドラマでは瀬川草介は買い物コーディネータ、というか、出入りのご用聞きで、よくシェアハウスで油を売っていたりするんですが、原作では主人公の女性刑事ひよりが通うバー ICE MOON のバーテンダーです。また、大きな違いはないのかもしれませんが、ひよりの父はドラマの相関図チャートでは死んだことになっていますが、原作では失踪とされています。ただ、私はテレビドラマの方はほとんど見ていませんので、ストーリーの違いはよく判りません。ということで、難易度の高い事件が発生すると、主人公の女性刑事ひよりが退職警察官が居住するシェアハウス「メゾン・ド・ポリス」を訪問しては、立派に事件を解決する、というのが基本となるストーリーです。シェアハウスのオーナーと管理人と居住者は基本的に退職警察官で、すべて定年退官なんですが、管理人の手伝いの西島秀俊演ずる夏目だけは、準主役級ながら、わけあって50歳と中途で辞職しています。その理由は初刊第3話に初めて登場し、小説では初刊第5話で完結します。しかし、夏目は第2巻でも引き続きシェアハウスに登場し、事件解決に当たります。そして、第2巻では、原作小説で10年前から失踪となっている主人公ひよりの父親の件についても、最終第4話でほぼほぼ解決されます。主人公のひよりの父親の失踪も、準主役の夏目の辞職も、どちらも個人的な恨みつらみや金銭トラブルなどではなく、いわゆる「大きな物語」に起因していることに設定されており、決してなぞ解き主体でフェアな本格ミステリではありませんが、なかなか壮大なストーリー展開が楽しめます。

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2019年2月 2日 (土)

今週の読書は経済史から小説まで計7冊!

今週も、経済書や経営書をはじめとして、化学や歴史に関する教養書に、朝日新聞に連載されていた小説など、計7冊、以下の通りです。今週もすでに図書館回りを終えており、来週の読書も充実した内容になるような気がします。

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まず、ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(人文書院) です。著者はベルリン自由大学をホームグラウンドとしていた歴史学の研究者であり、経済史にも通じているようです。ドイツ語原題は Geschichte des Kapitalismus であり、2017年の出版です。前近代のころから記述を始めた資本主義の通史なんですが、ボリューム的には極めてコンパクトです。したがって、というわけでもないんでしょうが、産業革命についてはほとんどスコープの対象外となっており、ポメランツの『大分岐』などをチラリといんよすしているだけで、私は少し不満に思っていたりします。マルクス主義的な経済史にも十分通じている印象です。私の考える資本主義とは基本的に近代と同義であり、政治的には個人の基本的人権や自由などを構成要素とする民主主義の定着を見つつ、経済的には奴隷制や農奴制から自由な市民が産業資本家が組織する商工業の企業で賃労働を行う、というものです。その前提としては、スミス的な協業に基づく分業が発達し、現代的な用語を使えば、サプライ・チェーンが高度に発達した中で、賃労働者が資本家の指揮権の下で労働を行い、生産物は商品として流通し貨幣が流通を媒介する中で、貨幣が蓄積された資本に転嫁する、というのが資本主義の語源となるわけです。資本主義の最大の問題点のひとつは景気循環の中での景気後退局面の過酷さであり、それを回避するためにケインズ的な政府の経済への介入が提案されたり、あるいは、もっと徹底して市場による資源配分を停止して生産手段を公有化した上で中央指令に基づく計画経済が志向されたりしてきたわけです。繰り返しになりますが、とてもコンパクトな経済史の通史を目指した本書の弱点のひとつは産業革命ないし工場制製造業の成立について、やや軽視しているように見える点と、さらに、資本主義の歴史を振り返って、その先に何が見えるのか、もはや旧ソビエト的な社会主義や共産主義を見出す経済史家はほとんどいないとは思いますが、いくつかのオプションでも示されていれば、とても大きな課題ながら、私のような読者にはさらによかったような気がしないでもありません。

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次に、鈴木裕人・三ツ谷翔太『フラグメント化する世界』(日経BP社) です。著者は2人とも米国のコンサルティング・ファームであるアーサー D. リトルの日本法人のパートナーとなっています。本書では、経済というよりは経営的に国際標準に基づくグローバル資本主義から、それぞれの価値観を大事にするポスト・グローバル資本主義を本書のタイトルであるフラグメント化と捉え、その世界観の中では日本企業が大いに強みを発揮することができると考えられる、といった議論を展開しています。ですから、まず、本書のタイトルである「フラグメント化する世界」とは、コミュニティを基盤とした自律分散型の社会の実現として定義されており、グローバル資本主義の下で世界共通のスケーラブルな世界で大いに称賛されたGAFAではなく、地域や顧客ごとに固有の価値を重視するフラグメント化された世界では、繰り返しになりますが、日本的な経営が脚光を浴びる可能性があると指摘しています。ただ、2030年ころまで時間をかけた以降になる可能性も同時に示唆されています。ということで、その経営的な要素は第5章で展開されており、以下の6つの「脱」で表現されています。すなわち、①脱コミットメント経営、②脱選択と集中、③脱横並び経営、④脱標準化、⑤脱大艦巨砲主義、⑥脱中央集権主義、となります。③と④のように、かなり重複感のある項目もありますが、いかにもコンサル的というか、何というか、こういった概念的な整理とともに、我が国のリーディング産業である自動車と電機、家電と重電の両方を例に、ケーススタディも試みられています。パナソニックやソニーがサクセス・ストーリーを提供している一方で、東芝は半導体と原子力に「集中と選択」してしまい、挙句に粉飾決算に走った、といわんばかりで、私は少し疑問を感じました。電機メーカーの経営状態を見るにつけ、特に韓国勢との国際競争においては、為替の果たした役割がとても大きいように私は感じていますが、それでは経営コンサルの出番はないのかもしれません。私は経営学は専門外もはなはだしく、マクロ経済からいろんな解釈を試みようとする傾向があるのは自分でも理解していますが、少なくとも、経営方針がすべてではない一方で、マクロ経済の景気動向もすべてではない、ということなんでしょう。もちろん、長らくGEの経営者だったウェルチ氏の著書に見える "GE will be the locomotive pulling the GNP, not the caboose following it" くらいの気概は、日本の経営者にも大いに持っていただきたい、とは私も考えています。

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次に、ジョン・アーリ『オフショア化する世界』(明石書店) です。著者は英国の社会学の研究者なんですが、すでに2016年3月に亡くなっています。私はこの著者の社会学の本は、『場所を消費する』と『モビリティーズ』を読んだ記憶があり、後者の読書感想文は2015年5月16日付けのブログでアップしてあります。本書の英語の原題は Ofshoring であり、2014年の出版です。ですから、監訳者のあとがきにもある通り、話題になった2016年公刊のパナマ文書などは取り上げられていません。ということで、私は数年前にこの著者の移動に関する本を読んだところでしたので、ついつい、モノやサービスに移動や輸送に引き付けて本書も理解しようとしてしまいました。また、同時に本書も経済学的な金融や生産などの狭義のオフショアリングと違って、レジャー、エネルギー、セキュリティ、から果ては廃棄物まで、とても幅広くオフショア化を展開しています。そして、最後は第10章ですべてをホームに戻す、という章タイトルでオフショア化の巻き戻しを論じています。オフショア化については、本書でも規定している通り、見えにくいところに移動させて税金などをごまかすための手段と狭い意味で考えられていますが、本書のように、地産地消という観点からすれば、私は交易の利得を否定しかねず、やや方向として疑問が残ります。よく知られている通り、体を鍛えて地産地消の質素な生活を送るというのは、実は、ヒトラー・ユーゲントに由来します。また、海外まで含めて遠い距離を移動することによるオフショアリングは、いわゆる海の帝国である英米の得意とするところであり、大陸欧州の独仏のような陸の帝国は、オフショアリングはやや苦手とする傾向があるのが一般的な理解です。こういった背景を考えつつ読み進むと、本書の観点はやや疑問とする部分もありますが、マルクス主義的な見方でなくても、オフショアリングが貧困層や一般家計に対する概念としての富裕層や国民や消費者に対応する概念としての企業に、いいように使われて一般国民から見て何の利益ももたらさない、というのも事実です。そのあたりのバランスを持った議論は必要だと思うんですが、本書は後者の一般国民からの議論を代表しているとの前提で読み進む必要あるかもしれません。

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次に、佐藤健太郎『世界史を変えた新素材』(新潮選書) です。著者は医薬品メーカーの研究職も経験したサイエンス・ライターです。医薬や化学が専門分野ということなんだろうと思います。そして、その著者の専門知識が生かされたのが本書といえるかもしれません。しかしながら、化学ではなく経済ともっとも関連深い金から本書は始まります、現在まで世界で採掘された金はわずかにオリンピック・プール3杯分にしかならない、というのに驚きつつ、以下、12章に渡って、陶磁器、コラーゲン、鉄、紙(セルロース)、炭酸カルシウム、絹(フィブロイン)、ゴム(ポリイソプレン)、磁石、アルミニウム、プラスチック、シリコンの順で取り上げられています。金を別にすれば、金属でフォーカスされているのは鉄は当然としても、銀でも銅でも鉛でもなくアルミニウムとなっています。軽い金属ということで独特の位置を占めています。紙は記録のための活用が評価され、化合物としてはゴムは天然人工屋やビミョーなものの、プラスチックとシリコンが注目されています。章別タイトルだけを見ると、セメントは選から漏れているのか、と想像しがちなんですが、炭酸カルシウムのいちコンポーネントとしてちゃんと入っています。それにつけても、やっぱり、私のようなシロートから見て、鉄が素材・材料のチャンピオンなんだろうという気がします。本書ではそのカギは地球上に大量に存在することがポイントと解き明かしています。この週末の新聞報道で、世界鉄鋼協会の記者発表によれば、2018年の粗鋼生産量は世界で4.6%増となり、我が国はインドに抜かれて中国・インドに次ぐ世界第3位の粗鋼生産国となった、といった記事も見ました。それから、私はゴムとプラスチックとシリコンの区別が判然としませんでした。「シリコンゴム」というのもあって、実は、私は週末にはプールで3~4キロほど泳ぐのを習慣にしているんですが、我が家のある区立体育館プールのひとつのルールとして金属を身に着けず泳がねばならない、というのがあって、私は左手の薬指にシリコンゴムの指輪をして泳いでいます。本書では、「シリコンゴム」については、ケイ素=シリコンと炭素を人工的に結合させたものであると解説されています。私のような文系の表現でいえば、ケイ素も炭素もどちらも4つの手で結合できますから、人工的にその結合物を作るのはできそうです。耐熱温度も高そうな気がします。まあ、私のような用途からすれば50度もあれば十分だったりします。タイトルの前半、すなわち、世界史を変えた部分も、決して重点を置かれているわけではないながら、ちゃんと解説されており、それなりに楽しめる読書でした。

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次に、河内将芳『信長と京都』(淡交社) です。著者は奈良大学などで研究をしていた歴史家です。上の表紙画像にも見られる通り、「宿所の変遷」をキーワードに織田信長と京都について歴史をひも解いています。冒頭は有名な歴史的事実で始まります。すなわち、織田信長は本能寺の変により京都で死んだ、ということです。本書でも、相国寺や妙覚寺などの宿所が紹介されており、また、もともとの織田家の本拠である岐阜から、ジワリと京都に近づいて安土に城を築いたのは有名な歴史的事実ですが、亡くなるまで織田信長は京都に屋敷、というか、本拠地を持たなかったというのは、改めて、いわれれば、そうかもしれないと気づかされます。京都南部の洛外ながら伏見城を築いたり、醍醐に聚楽第を設営した豊臣秀吉とはかなり違います。江戸期の徳川氏に至っては二条城を京都の本拠としています。加えて、本書でも強調されている通り、織田信長は洛外と上京を焼き討ちしており、京都市民、という表現がこの時代に適当かどうかは別にして、公家や京都市民から織田信長の上洛は恐怖を持って迎えられていたのは、そう難しくなく想像できます。そういった、極めてビミョーな織田信長と集合名詞としての京都との関係が、本書ではかの有名な『言継卿記』などの古文書から明らかにしようと試みられています。ただし、先ほどは、公家と京都市民と書きましたが、朝廷は公家のコンポーネントと見なして、神社仏閣や僧侶などを別にしても、京都にはもうひとつ重要なコンポーネントがあり、それは室町幕府です。織田信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛し、その後、天正元年(1573年)にその足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡したというのが、私のようなシロートの理解ですから、室町幕府については考慮する必要はない、ということなのかもしれません。ただ、織田信長の宿所について、相国寺や妙覚寺などをどのような基準で選び、あるいは、変更したのか、ほとんど史料のない世界かもしれませんが、何らかの仮説なりとも立てて欲しかった気もします。いずれにせよ、織田信長と京都とのビミョーな関係につき、なかなか興味深い読書でした。

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最後に、吉田修一『国宝』上下(朝日新聞出版社) です。作者は、ご存じ、我が国でも売れっ子の小説家であり、純文学も大衆エンタメ小説も全方位でこなす作家です。私も大好きな小説家であり、青春物語の『横道世之介』が私のマイベストです。ということで、この作品は、我が家でも購読している朝日新聞に連載されていた小説です。作者の出身地である長崎の興行師のヤクザの倅が大阪に出て歌舞伎の女形になり、もちろん、その後に東京にも進出して、波乱万丈の人生で芸を極めつつ、最後は人間国宝になる、という長崎人の一代記です。繰り返しになりますが、歌舞伎のいわゆる梨園に生きた女形の一代記であり、中学生のころから60代までの50年を有に超える極めて長い期間を小説に取りまとめており、しかも、小説の視点がドラマのナレーションのような「神の視点」で、ストーリーとして触れられすに飛ばされた部分はナレーションで補う、という、この作者には今までなかったのではないかという手法が取られています。このナレーション方式というのは、部分的には、私のような一般ピープルで歌舞伎などの伝統芸能の世界に馴染みのない読者に歌舞伎や梨園の仕来りなどを解説するには、とてもいい手法かもしれませんが、他方で、ややくどい印象もあります。それから、この作品に私は深みを感じなかったんですが、その大きな要因は登場人物が梨園に極めて近い人物に限られているからではないかと考えます。例えば、文中でとても影響力ある早大教授の劇評論家の評価が語られますが、その人物は決して登場しません。主人公とその早大教授が言葉を交わしたり、あるいは、主人公が1人の文化人として歌舞伎と関係ない世界の他の文化人と交流を持ったりすれば、この作品ももっと深みが感じられたんではないかという気がします。その意味で、とてもボリューム豊かな作品ながら、深みや広がりが感じられませんでした。一部に、この作者の最高傑作とする意見も聞きますが、好きな作家さんの作品であり残念ながら、私はそうは思いません。

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2019年1月26日 (土)

今週の読書は経済書や教養書など計6冊の通常ペース!

今週の読書は貧困論や不平等論などの専門家であるアトキンソン教授の経済書をはじめとして、ほかにも経済書・ビジネス書や教養書など計6冊の通常ペースです。ただし、小説は読んでいません。今週はすでに図書館回りを終えており、私の好きな小説家の吉田修一の最新作など、これまた、通常ペースで数冊を借りてきています。

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まず、アンソニー B. アトキンソン『福祉国家論』(晃洋書房) です。著者は英国の経済学者であり、不平等論や貧困論などの碩学です。2017年に物故しています。本書の英語の原題は Incomes and the Welfare State であり、1995年の出版です。まず、1995年の出版であり、かつ、講演などのスピーチから起こした原稿が少なからず含まれているのには驚きますが、必ずしも現時点で無効な議論があるわけでもなく、十分な一般性を持って受け入れられる結論が提示されていると考えられます。もちろん、1942年ノベヴァレジ報告から50年とか、現下の大問題はロシアや東欧の資本主義への移行問題、などと書かれていると、ついつい読書意欲が削がれる思いをするわけでうが、それでも、所得の不平等や貧困問題、さらに、福祉国家論などは今でも十分に通用する議論が展開されています。特に、日本語タイトルに凝縮されている福祉国家論については、福地国家のさまざまな政策が市場経済に決していい影響を及ぼさない、例えば、失業給付が自然失業率を高めるとか、最低賃金の上昇が失業を生み出すとか、賦課方式の年金が資本蓄積を低下させるとか、といった右派エコノミストからの理論的かつ実証的な論考に対して、それでも著者は福祉国家を擁護する論陣を張っています。ただ、論文や講演録の寄せ集めというイメージはぬぐえず、精粗まちまちの議論が展開されています。英国と欧州を大賞にした論考であり、米国ですら参考程度の扱いであり、我が日本はまったく分析の対象外である点も残念です。3部構成となっていて、第Ⅱ部の失業分析ではモデルを数式で表現して解析的に分析している一方で、延々と言葉で説明を繰り返している部分も少なくありません。ただ、ユニバーサルな給付を重視し、ターゲティング政策については批判的である点については、私の見方と一致します。最後に、この著者の本であれば、本書よりも、やっぱり、『21世紀の不平等』の方がオススメです。私のこのブログの読書感想文では、ちょうど3年前の2016年1月30日に取り上げています。ご参考まで。最後の最後に、どうでもいいことながら、上の表紙画像に見える4人はどういった方々なんでしょうか。

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次に、清水勝彦『機会損失』(東洋経済) です。著者は慶應義塾大学ビジネススクールの教授であり、今までにも経営書を何冊か出版しています。私も読んだような記憶がありますが、ちゃんと覚えているのは『あなたの会社が理不尽な理由』くらいです。本書は機会損失とのタイトルですが、あくまでキーワードとしての機会損失であり、機会損失そのものを深く掘り下げているわけではなく、経営戦略一般を広く浅く取り上げています。ついつい見過ごされがちな機会費用なんですが、経営学では、何かの決定を行うに際して、トレードオフのように犠牲になるもう一方の損失、ないしコストを指します。希少性高い、すなわち、平たくいえば、限りある経営資源を何に投入するか、を決めれば、その経営資源を投入しなかった先が他方に残るわけですから、それが機会損失となります。ですから、ホントのネットのリターンは、実行するプロジェクトのリターンから断念したプロジェクトのリターンを差し引いた額になるわけで、経済学では「限界的」という用語を用いると思いますが、本書では登場しません。そして、本書でも強調しているように、マイナスを回避するバイアスが強いプロスペクト理論からして、チャンスをみすみす逃す経営も大いにありそうです。本書では、捨てられない、止められないでズルズルと経営資源をつぎ込むプロジェクトを続けるコストを「エスカレーション・オブ・コミットメント」と呼んでいますが、経済学ではあからさまに「ゾンビ」といったりもします。ただ、本書では、このエスカレーション・オブ・コミットメントなり、ゾンビなりに対応する概念として、早く止めすぎる機会損失も指摘していますが、これはどちらも機会損失になるとはいうものの、結果論といわれてもしようがないような気もします。もっとも、私が地方大学に出向した際に感じたところですが、経済学よりも経営学の方が格段に実務に近いですから、経営学の方が結果論、というか、結果に執着する傾向は強そうな印象を持った記憶があります。でも、何につけ、上下・左右どちらでも言い逃れられるのが経済学や経営学の弱点でもあり、いいところかもしれません。最後に、オポチュニティ・コストとは、経済学では「機会費用」の用語が一般的なんですが、経営学では「機会損失」になるのか、とミョーなところに感心したりもしました。

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次に、ジャコモ・コルネオ『よりよき世界へ』(岩波書店) です。著者はイタリア出身で、現在はベルリン自由大学教授で公共経済学科長を務めています。ドイツ語の原題は Bessere Welt であり、日本語タイトルはほぼほぼ直訳のようです。2014年の出版です。本書で著者は、資本主義の浪費、不公正、疎外の3点として上げており、第1章のプロローグと第12章のエピローグでは父と娘の会話として問題意識の発見と取りまとめに当たっています。本書では、資本主義の特徴として生産手段の私有制と市場による資源配分と所得分配を前提とし、古典古代の哲学者であるプラトンの「国家」や中世トマス・モアの「ユートピア」から始まって、クロポトキンの無政府共産主義、もちろん、マルクス-エンゲルスの社会主義と共産主義、ステークホルダーによる株式市場社会主義などさまざまな代替的システムとともに、資本主義下での改良策としてのベーシックインカムなどを考慮の対象として、いろんな思考実験をしています。あるいは、ネタバレっぽいんですが、特徴的な結論だけを簡単に取りまとめると、資本主義の定義とされた生産手段の私有制と市場による配分と分配に対立するものとして、生産手段の国有ないし公有と計画経済を特徴とするマルクス的な社会主義については、生産手段の公有は否定され、計画経済もスコアが低くなっています。他の代替システムはもっとスコアが低いんですが、少なくとも、繰り返しになりますが、生産手段の国有ないし公有は明確に否定的で、しかも、株式会社社会主義においても企業活動の目的は利潤の最大化とすべき、と結論していますので、現行の資本主義と大きく異ならないシステムが、やっぱり、推奨されるような雰囲気があります。その代わり、資源配分は市場メカニズムが効率的であるとしても、所得分配の改善のため、ベーシックインカムと中央ないし地方政府が運営するソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)が推奨されています。ただ、本書の最初の方では経済システムと民主主義について、それなりの考慮がなされていたにもかかわらず、真ん中あたりから忘れられた印象があり、そのために冒頭の3点目の疎外の問題がほとんど取り上げられていないと見たのは、私だけでしょうか。最近時点で欧米におけるポピュリズムの問題がクローズアップされてきており、本書の執筆時点を考慮すると重点ではなかった可能性もあるとはいえ、ある意味で残念です。

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次に、アニー・デューク『確率思考』(日経BP社) です。著者は米国人で、プロのポーカー・プレーヤーとして400万ドルを稼いだと豪語し、現在は引退してコンサル活動をしているということです。英語の原題は Thinking in Bets であり、昨年2018年の出版です。日本語タイトルは、むしろ、原題を活かせば「賭け型思考」というカンジなんではないかという気がします。賭けの大きな特徴は2つあって、ひとつは本書でも強調されていますが、ザロサムであるという点です。阪神-巨人戦で阪神が勝てば巨人は負けなわけです。もうひとつは、本書では明示的には示されていませんが、大数の法則が必ずしも成り立たない小数の試行結果だということです。サイコロの目が出る事前確率はそれぞれに⅙なんですが、事後的には、出た目そのものの確率が1である一方で、出なかった目はゼロなわけです。ですから、本書でも明らかにされているように、確率20%の結果が実現することもあるわけですが、それで賭けの勝負するのは決して賢明ではない、ということになります。ただ、人間は自分に都合よく考えるバイアスがあり、成功は自分の能力やスキルに起因し、失敗は運が悪かった、と考える傾向がありますから、オープンに他者の目を取り入れて、客観的な判断を下し、説明責任を全うする必要があります。経済学では、その昔のシカゴ大学ナイト教授のように、確率が判っているリスクと判らない不確実性を区別しますが、大数の法則を無視する、というか、大数の法則に達しない段階での意思決定をせねばならないギャンブル的な思考では、その区別はありません。ということで、カーネンマン教授らのプロスペクト理論も登場すれば、セイラー教授の名は出なかったような気もしますが、実験経済学的な思考もふんだんに盛り込まれており、「意思決定はギャンブルである」というフォーマルにはみんながなかなか認めたがらない事実に関して、あけっぴろげに論じています。本書では明示的に示してはいませんが、「結婚の意思決定はギャンブルである」というのは、多くの既婚者が身にしみて感じていることではないでしょうか。

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次に、大野哲弥『通信の世紀』(新潮選書) です。著者はKDD(国際電信電話株式会社)のご出身のようです。通信について、暗号通信とともに、19世紀半ばの明治維新期から20世紀いっぱいくらいまでのインターネット時代を概観しています。通信の戦略的な面とともに、技術的なテクノロジーも判りやすく解説を加えています。明治維新から、いわゆる列強の帝国主義時代に通信が技術的にも大いに進歩し、例えば、岩倉使節団が米国サンフランシスコに到着したとの第一報は、米国を西海岸から東海岸に横断して、大西洋を渡って欧州経由で長崎にもたらされるまで1日かかったが、長崎から東京まで10日を要した、などは通信の技術的進歩をよく表しているような気がします。暗号については、日米開戦間際の最後通牒の受け渡しが取り上げられていて、14分割の電報をタイピストを使わずに書記官がタイプして野村大使がハル米国国務長官に渡したのが真珠湾攻撃開始後だった、という失態ですが、現在では私のような下っ端管理職でもパソコンが机にあって、キーボードを使ったタイピングに慣れている時代と違い、おエラい外交官がタイプするのは時間がかかったのは理解できるところです。分割電報が全部そろうまで何もしないというのはとてもお役所的で、私も、図書館で借りた本を返却する際、すべてそろうまで平然と突っ立ったままで、何もしない図書館アルバイトが多いのは実感で知っています。まあ、図書館が指定管理者制度になって、図書館員の質が大きく下がったのは周知の事実ではあります。戦後は、同軸ケーブルと衛星通信が高度成長を支え、サービスとしては、電報からテレックス、さらに電話に通信の主流が移り変わり、今ではインターネットによる通信が大きな割合を締めているのは周知の事実であろうと思います。本書では必ずしも定量的に明らかではないんですが、通信トラフィックも劇的に増加しているのは確実です。通信の内容も、電報にせよ、テレックスにせよ、電話にせよ、長らくテキストだったのが、電話から音声になり、インターネット時代は画像ないし今では動画になっています。ついつい、KDDの社史の方に流れて、そういったあたりをカバーしきれなかったのが本書の弱点かもしれません。

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最後に、井手英策『幸福の増税論』(岩波新書) です。著者は慶應義塾大学の経済学の研究者であり、専門は財政学や公共経済学です。従来から、増税に対する我が国国民の意識として、政府の歳出に対する信頼感が薄く、社会保障でユニバーサルに国民に給付されるのではなく、公共投資を通じて国民に還元される「土建国家」であるために、その財源として徴収される税金に対する忌避感覚が強い、と主張していて、私も大いに合意していたんですが、本書ではかなりトーンが違ってきている気がします。というのは、日本のリベラルの価値観を自由、公正、連帯の3点に凝縮し、国民全員に利益となるベーシック・サービスによるニーズの見たしあいを重視し、それを公共財として提供する財源としての税金を増税することに力点を置いています。その上で、累進課税による従来型の所得再分配ではなく、繰り返しになりますが、ベーシック・サービスの供給という、何とも、実態のハッキリしない財政需要を想定します。すなわり、p.83の表現を借りれば、「社会のメンバーに共通するニーズを探しだし、そのために必要となる財源をいなで負担しあう道を模索しなければならない」ということになります。私はそこまでして財政支出を拡大し、そして、その財源を増徴する必要は感じません。ムリに財政をユニバーサルにし、財政支出をして国民の連帯や絆の手段とするのは政策割当を間違っているとしか感じられません。国民間の連帯強化には財政政策ではなく、別の政策が割り当てられるべきです。担税感をして国民の連帯感情の基礎にするのは私は同意できません。本書では、消費税の負担軽減措置については否定的な見方を示しており、私が同意する部分も決して小さくはないんですが、少し従来からは違う方向に舵を切った気がしてなりません。

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2019年1月19日 (土)

今週の読書は経済書からミステリまで通常ペースで計6冊!

今週もそれなりにボリュームある読書が多かったような気がしますが、冊数的には通常通りの数冊ということで以下の6冊です。これから自転車で近隣図書館を回りますが、来週も数冊くらいの読書になりそうな予感です。

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まず、玄田有史[編]『30代の働く地図』(岩波書店) です。編者は東京大学の研究者であり、幸福学などでも有名ですが、本来のホームグラウンドは労働経済学です。本書は全労済協会が主催した研究会に集まった研究者や実務家の論文を編者が取りまとめています。回答のあるナビゲーションではなく、自ら選ぶ地図をイメージしてタイトルとした、ということのようです。編者が冒頭と締めくくりを担当しているほか、各チャプターごとの著者は研究会の委員さんではなかろうかと想像しています。労働や雇用に関しては、私のようなマクロ経済の観点よりもむしろ、マイクロな選択の問題と考えるエコノミストも少なくありませんし、まあ、毎月勤労統計のような信頼感薄いマクロ労働統計ではなく、マイクロな雇用や労働の分野の方がデータが豊富で、フォーマルな定量分析も盛んです。加えて、経済学だけではなく労使関係ですから法学の分析も必要ですし、実務面からの分析も可能で、本書でも労働組合幹部の執筆するチャプターがあったりもします。高度成長期に成立した新卒一括採用の下での長期雇用、年功賃金、企業内組合という日本的な雇用慣行は、現時点でも、あるいは、高度成長期でも、雇用者の多数を占めていた時期はないんですが、それなりにモデルとしての有用性があったと私は考えている一方で、21世紀に入って大きくモデルとしての第1次アプローチの有用性が崩れていることも事実です。ただ、雇用の柔軟性が必要といわれているとしても、柔軟性が増せば定義的に反対側で安定性が損なわれるわけですし、同時に賃金水準も切り下げられることは経験上明らかです。高度成長期に成立した我が国の労働慣行は、性別役割分担とも関係して、男性正規社員が長期雇用下で無限定に長時間労働する一方で、女性が専業主婦として家計を仕切って男性を支える、というものでした。それが、大きく崩れてきているわけで、本書でも指摘しているように、単に長時間労働の是正にとどまらない抜本的な働き方改革が必要となっています。最後に、本書の対象とする30代は子育て世代であり、かつ、中堅として職場の中核的な働き手なんですが、同時に、本書で取り上げている通り、転職や独立、あるいは、兼職や副業を考えて、自分のキャリアを見直す時期でもあります。私のような60歳超と違って、別の意味で、岐路に立っているともいえます。多くの若い現役世代に参考になる議論を展開してほしい気もしますし、他方で、私のような引退世代の介護との両立についても議論が必要だとも思います。

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次に、川野祐司『キャッシュレス経済』(文眞堂) です。著者は東洋大学の研究者です。タイトル通り、北欧を先進国として欧米だけでなく中国やケニアなど世界で進行中の経済のキャッシュレス化について、現状と展望と可能な範囲で歴史的な背景などを解説しています。ただ、時折、著者の独自の見方が紹介されている部分があり、明確に歩者の意見として提示されているので好感は持てるんですが、やや私の感覚とはズレがあったりもしました。特に、我が国経済のキャッシュレス化については、ソニーのFELICAなどを見ても明らかなとおり、技術的には世界に後れを取ってはいないものの、実際の波及面であまりに数多過ぎる提供主体があって普及面の問題がある、というのは、私の実感と少し違う気もしました。それは別として、オンライン化の推進力として、製造業と同じ理屈を銀行に当てはめ、要するに人件費削減と業務のスピードアップの要請に基づいたキャッシュレス化、という理由を上げています。私はその通りだと思うんですが、少し、デジタル化とキャッシュレス化の混同が見られるような気もしました。特に、ビットコインの記録上の中核技術であるブロック・チェーンについて、アナログでも実現可能というのは、私もそういえばそうなんだと初めて気づいた次第ですが、帳簿上のシンボリックなお金の動きとそれをサポートするデジタル技術については、もう少し詳しく解説してもらえば金融政策上のインプリケーションも出てきそうな気がします。典型的には、キャッシュレス化やデジタル化で、いわゆるナローバンキングに特化する金融機関も出そうな気がする一方で、預金と信用に基礎を置く信用乗数の大きさにどのようなインパクトを及ぼすのか、といった点です。また、私はこういった金融の関係は専門外なんですが、技術革新の進歩の速度が極めて速くなった先の展望を見越すと、本書の賞味期限がどれくらいあるのかは不案内です。読むとすれば、早めに読むのが吉かもしれません。

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次に、ジョン・キーガン『情報と戦争』(中央公論新社) です。著者は、長らく英国サンドハースト王立陸軍士官学校で戦史の教官を務め、2012年に他界しています。英語の原題は Intelligence in War であり、2003年の出版です。最後の邦訳者あとがきにもありますが、本書では厳密には区別されていないながら、英語の intelligence と information について、後者に「生情報」を当てて、前者は「情報」ないしカタカナで「インテリジェンス」と訳し分けているようです。そして、タイトルとは裏腹に、本書に一貫して流れているのは、戦争で勝つために情報収集やその分析は役立つが、戦争遂行のための戦略の立案や物理的な戦闘力がより重要である、という点に尽きます。情報線と関連して、太平洋戦争時のミッドウェイ海戦が上げられて、典型的に情報が勝敗を決した鍵となる戦闘と見なされているようですが、本書では情報とともに、偶然とか、運とか、ツキといった要素にも着目しています。そして、物理的な戦闘力の重要性に関しては、ナチスのクレタ島侵攻をケーススタディのひとつに取り上げ、どのように事前の情報収集が万全で十分であっても、迎え撃つ方の戦闘力が不足していればどうにもならない例、として扱っています。もちろん、情報収集は戦争や戦闘行為に限らないわけで、経営戦略策定の際に無重要な要素となりますが、クレタ島のケースは、例えていえば、売れる商品をリサーチで十分に把握していたとしても、工場の生産能力やロジスティックな配送能力が追いつかなければ十分な売上には結びつかない、といったカンジかもしれません。私も公務員として在外公館の海外勤務を経験しているわけですから、経済的な要素が極めて強いとはいえ、情報収集活動はしたことがあり、しかも、私が大昔に奉職を始めた役所は総合国力の測定を組織のミッションのひとつにしていましたので、情報収集の重要性は理解しているつもりですが、物理的な対応能力も同様に重要である点は本書の指摘する通りだと考えます。

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次に、マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会) です。著者は英国のミステリ作家・評論家であり、約20冊の長編や50編以上の短編を発表し、自らの作品で英国推理作家協会(CWA)の最優秀短編賞を受賞したほか、多数のアンソロジーを編纂したことがあると紹介されています。上の表紙画像に見られる通り、本書の英語の原題は The Golden Age of Murder であり、2015年の出版です。ということで、主として英国における探偵作家の親睦団体=ディテクション・クラブが発足した1930年前後くらいのの、いわゆる戦間期におけるミステリの黄金時代を歴史的に跡付けたノンフィクションです。ディテクション・クラブ発足当時の会長はチェスタトンであり、女性作家のセイヤーズやクリスティーも会員として集まっており、繰り返しになりますが、このクラブの歴史と作家たちの交流、なぞ解きのフェアプレイの遵守を誓う入会儀式の詳細、会員のリレー長篇出版などの活動、もちろん、知られざる私生活における興味津々のゴシップまで、豊富なエピソードを収録しています。ただ、注意すべき点が2点あり、英国中心のミステリ作家の歴史であり、日本人には気づきにくい英米の違いなどは無視されていると考えるべき、というか、米国の事情は、わけあって英国に移住したカーを唯一の例外として、クイーンやヴァン・ダインなどの名がチラリと登場するくらいで、ほとんど本書のスコープの範囲外となっています。もう1点は、本書の英語の原題を見れば理解できる通り、直訳すれば「殺人の黄金時代」であり、小説の中の事件だけでなく、広く社会を騒がせた殺人事件にも、まあ、一部には小説のモチーフとなったという意味においてであっても、注目されています。ロンドンの「切り裂きジャック」なんぞは日本でも人口に膾炙していますが、私のような不勉強な読者には心当たりのない事件も少なくありません。本書が対象としている時期は、1929年からの大不況の時期を含んでおり、それなりに犯罪も発生したのだろうと想像されます。現在のミステリの隆盛に話題がつながる最終章まで、圧倒的なボリュームで堪能させられます。A5版の大きさに加えて2段組みで製本されており、写真も含めた図版も豪華に、とても読み応えあふれる力作です。私は図書館で借りましたが、たとえA5版2段組みの400ページ余りを読み切れる自信ない場合であっても、蔵書として本棚に飾るのも一案ではないでしょうか。

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次に、渡辺順子『世界のビジネスエリートが身につける教養としてのワイン』(ダイヤモンド社) です。著者は、フランスへのワイン留学を経て、大手オークション会社であるクリスティーズのワイン部門に入社し、NYクリスティーズでアジア人初のワインスペシャリストとして活躍した経験をお持ちだそうです。ということで、タイトルから明らかな通り、ワインに関してビジネス・エリートに解説をしているわけで、私の良いなビジネス・エリートでも何でもない人間は関係なさそうな気もしますが、実は、私も安物のワインは飲んだりもします。1990年代前半の3年間を南米はチリの日本大使館で外交官として過ごし、ちょうどそのころからチリのワインを日本に輸出する事業が始まったこともあり、今でもチリ・ワインは週に何度か飲んだりしています。その名も「サンティアゴ」のメルローなどです。もちろん、ワインに限らず、「飲みニケーション」という雑な言葉がある通り、お酒は飲んで楽しんでコミュニケーションを取るツールとして認識されているのは日本だけではありません。ですから、ほかのお酒、すなわち、ビールや日本酒や焼酎やウィスキーやブランデーなどなど、なんでも飲んでコミュニケーションが取れるとは私は思うんですが、やはり、ビンテージ物のワインにはかないません。また、お酒以外で、私も少し前に『西洋美術史』を読みましたが、絵画・彫刻などの美術を見ながらのコミュニケーションは大きな限界がありそうな気がしますし、クラシックなどの音楽をコンサートで聞きながらではおしゃべりできませんし、文学作品ではあまりに広がりがあって一致点が見出しにくそうな気がします。本書では、欧州と地中海沿岸を中心に、ワインの歴史を振り返るとともに、第1部ではフランスはボルドー5大シャトーやロマネ・コンティ、アンリジャイエなど、第2部ではイタリアを中心に食事とのマリアージュを見て、第3部では米奥などのニューワールドのワインを概観し、さらに、ワインへの投資や関連するビジネスを取り上げています。高校の社会科のように、産地やシャトーやブランド名を暗記するのも目的とするなら、とても味気ない読書になりかねませんが、テーマがテーマだけに楽しく読めればラッキーかな、という気がします。

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最後に、宇佐美まこと『聖者が街にやって来た』(幻冬舎) です。売出し中の女性ミステリ作家で、最近、もっとも話題になった『骨を弔う』を読んだばかりですが、その『骨を弔う』がもっともできがいいといわれていたにもかかわらず、私はあまりにも作り過ぎていて不自然な気がしたんですが、本作品の方がその意味ではより現実味を増したエンタメ作品という気もします。相変わらずプロットがややお粗末で、突っ込みどころが多いんですが、それなりのレベルの作品には仕上がっているような気がします。被害者が5人に上る殺人事件ですから、もっと登場人物がいていいような気がするんですが、この作者はどうもキャラの設定に難があるようで、多人数の登場人物が描き切れないのかもしれません。例えば、本作品でいえば、お花屋さんの3人の女性のキャラが極めて似通っています。店主親子は、まあ、親子ですので性格的にも似通っていていいようにも受け取られるんでしょうが、店主の娘とアルバイト女性のキャラに差異が感じられません。半グレのグループの構成員もほとんど違いが感じられず、仕方ないので体のサイズや外見で区別するしかないような有り様です。もう少していねいに人物の造形やキャラ設定をすれば作品に深みが出そうな気がします。なかなかの力作だけに少し惜しい気がします。もう少しこの作者の作品を23作読んで、もっと読み続けるかどうかを考えたいと思います。今の段階ではギリギリ合格点か、という気もしますが、ファンになるほどではない、というカンジでしょうか。

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