2023年3月 4日 (土)

今週の読書は観光経済学に関する学術書や話題のミステリなど計4冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山内弘隆ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)は、初学者向けの入門書ながら観光経済学に関する学術書です。呉勝浩『爆弾』(講談社)は、我が国で昨年もっとも話題になったミステリのひとつです。吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)では、長らく朝日新聞のジャーナリストだった著者が勢力均衡の考えに基づく核抑止策を「解体」し、新たな各シルク抑制の方策を議論しています。最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)では、11人の作家がいわゆる事故物件などの怖い物件についてホラーを展開しています。ただ、新刊書読書は今週4冊だったのですが、新刊書ならざるミステリを何冊か読んでいます。すなわち、近藤史恵『ダークルーム』(角川文庫)と伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』(講談社)、そして、麻耶雄嵩『化石少女』(徳間書店)です。最初の2冊はすでにFacebookでシェアしてあります。最後の『化石少女』のブックレビューもそのうちに、と考えています。
ということで、今年の新刊書読書は、1月2月ともに各20冊ですから1~2月で計40冊、3月に入って今週の4冊で、合計24冊となっています。

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まず、山内弘ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)です。著者は、交通経済学や文化経済学などの研究者が多くなっています。でも、エコノミストであることは明らかそうです。いずれにせよ、本書は学術書ですが、初学者の入門書でもありますので、研究者だけを読者に想定しているわけでもなさそうです。まず、最初にお断りしておきますが、私は観光経済学の専門家ではありません。しかも、本書については、4月に研究費が復活したら購入しようと考えていますので、やや雑な読み方になっている可能性はあります。構成は4部からなっており、最初にマイクロな経済学の基礎、次に、観光産業、そして、地域政策、最後に当kリヤ実証に、それぞれスポットを当てています。最初のマイクロな経済学は、通常のいわゆるミクロ経済学と大差ないのですが、私の印象で重要なポイントは2点あります。第1に、供給に関しては通常の財やサービスなどよりも供給制約が激しい点です。もちろん、普通のモノやサービスなどでも、売り切れになったり、サービス提供を受けられないケースはあり得ます。でも、バブル期のレストラン予約とか、いまでも繁忙期のホテルや飛行機の予約は通常以上に売切れ、というか、予約いっぱいとなるケースが多いのではないでしょうか。従って、観光に関する供給曲線はかなりスティープと考えるべきです。加えて、第2に、通常のミクロ経済学では市場における完全情報を前提にしますが、観光に関しては情報の非対称性はかなり大きと考えるべきです。観光に関する情報が完全であれば、わざわざ観光のために旅行して出向く必要はないからです。そして、第Ⅱ部の観光産業については、そもそも、通常の統計や経済学における産業分類は供給する財やサービスに従っていますので、観光サービスというカテゴリーはあり得なくはないものの、一般的ではありません。ですから、この第Ⅱ部ではいわゆる旅行代理店のような仲介業、宿泊と交通という3つの産業をそれぞれの章で取り上げています。すなわち、観光業というのは宿泊業とか、飲食サービス業とか、交通業にまたがって観察される一方で、例えば、交通では観光ばかりでなく通常の通勤通学も含まれてしまいます。ですから、統計的に観光のアウトプットを把握するのは少し難しい課題となります。そして、第Ⅲ部と第Ⅳ部は少し簡略に飛ばすこととし、私が今までに大学院生の修士論文指導などで勉強してきた観光経済学のいくつかのポイントを書き記しておきたいと思います。まず、広く観光とは旅行とほぼほぼ同じで日常生活を離れたアクティビティであり、英語では travel になります。ですから、狭い意味での sightseeing ではありません。英語の論文で勉強したもので英語が続いて申し訳ありませんが、やや記憶は不確かながら、観光目的は主として4つあります。(1) natural wonder、(2) urban convenience、(3) resort hospitality、(4) business、となります。最初の(1)はアフリカの大自然、野生の動物、ナイアガラの滝などに行くことです。(2)は主として都会で可能となる活動、美術館・博物館、あるいは、観劇などで、かつての訪日観光客の「爆買い」などのショッピングも含めていいかもしれません。(3)はいうまでもなく、ハワイやサイパンなどのビーチリゾートのほか、ニセコのスキー場などが上げられます。(4)はsightseeingの観光には含まれないと考える日本人が多そうですが、ビジネス客だって出張先には飛行機や列車などで移動しますし、レストランで食事してホテルに泊まったりします。おそらく、これらの観光目的別だけでなく、観光施設とその基礎となる施設、すなわち、ホテルやレストランは民間企業が受け持つとしても、飛行場や高速道路、あるいは鉄道網などのインフラをどのように整備するか、といった観点から地方進行の政策に結びつける観点も必要です。観光経済学とは決してマイクロだけな経済学ではありません。

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次に、呉勝浩『爆弾』(講談社)です。著者は、ミステリ作家です。おそらく、この作品は昨年2022年中の我が国ミステリ作品の中でも、夕木春央の『方舟』とともに、もっとも話題になった作品のひとつではないかと思います。酒の自動販売機を蹴って、酒屋に暴行を働くという微罪で野方署に連行されたスズキタゴサクと名乗る男が、取調べの際に霊感があると称して「10時に秋葉原で爆発がある」と予言し、その予言が的中して秋葉原の廃ビルが爆破されるところからストーリーが始まります。ここから東京都内で連続爆弾事件が展開するわけです。広い東京でどこの爆弾が仕掛けられたかをシラミ潰しに捜索するわけにもいかず、警察の方では警視庁捜査一課特殊犯捜査係を所轄の野方署に派遣して尋問を続け、次の爆発を防ぐにはこのスズキタゴサクの繰り出す「ヒント」をクイズのように解くしかなくなります。果たして、次の爆破地点はどこか、いつなのか、単独犯か共犯がいるのか、などなど、スズキタゴサクの発言を軸に、極めてテンポよくストーリーが進みます。そして、これも私の好きなタイプのミステリで、最後の最後にどんでん返しのように名探偵が真相を解き明かすのではなく、少しずつ 少しずつタマネギの皮を剥くように真相が明らかになっていきます。私のような単純な読者からすれば、一気読みしたくなるようなテンポのよさをもっているミステリです。尋問する方の警察官、もちろん、スズキタゴサクも極めて明快なキャラを持っていて、スズキタゴサクについては、とぼけたキャラながら、残虐な性格を隠し持っているほかに、何とも実に鋭い知性と演技力のようなものを兼ね備えていることが徐々に明らかになっていきます。しかし、日本警察の悪弊のひとつかもしれませんが、事件解決。真相解明のために、無差別爆破テロとはいえ、極めて極端に自供・自白に偏重した真相解明の方向が示されます。ほぼほぼ、物証はまったくないに等しく、論理性についても、クイズ・パズルを解くための屁理屈はいくつかでてきますが、選択肢をしっかりと絞れるほどではありません。せいぜいが「蓋然性が大きい」という程度のものです。犯人と警察の心理戦、といういい方が出来るのかもしれませんし、それはそれで、結構息詰まるバトルではあるのですが、もう少しミステリとしての論理性が欲しかった気がします。

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次に、吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)です。著者は、現在は長崎大学に設置されている核兵器廃絶研究センターの研究者なのですが、長らく朝日新聞のジャーナリストをと務めています。長崎大学は私も出向していましたから、少しくらいは土地勘あるのですが、この研究センターは知りませんでした。本書では、したがって、世界の常識とは少しズレているかもしれませんが、広島ではなく長崎を中心に据えています。すなわち、「長崎を最後の被爆地に」というスローガンが随所に引用されています。本書は4部構成であり、最初に最新のウクライナ情勢を引きつつ、ロシア、というか、ロシアのプーチン大統領による「核による恫喝」が現実のものとなった点を強調します。そして、勢力均衡の核兵器版である現在の核抑止システムのリスクを検証し、核抑止を「解体」しつつ、日本が核抑止で果たしている役割などを分析しています。そして、最後に、核抑止に代わるポスト核抑止のあり方を議論しています。おそらく、第3部までの議論は多くの日本人が十分に受入れ可能な内容だと私は考えます。特に、核抑止における日本の役割は、佐藤総理のころのその昔は、本書では日本が何ら自律的な行動を取らない「お任せ核抑止」だったのが、徐々に積極的な役割を果たすようになった危険性を指摘しています。およそ、この点については、核抑止だけでなく安全保障上の我が国の政策がここ数年で極端に積極化したことは多くの日本人の目に明らかです。昨年は貿易費=軍事費の倍増が議論されて、事実上決定されました。子育て予算の倍増が「子供が増えれば、子育て予算も増える」というのんきな議論とは違うレベルで決められたことは広く報じられている通りです。その上で、最終パートでは、現在の勢力均衡に基づく核抑止を支持し強硬な姿勢を取るタカ派、そして、逆に、耐候性力に対する融和策を思考するハト派、の2つの考え方ではなく、各リスクの逓減を目的とするフクロウ派の考えを提唱しています。ただ、本書でも指摘しているように、私の知る限りナイ博士の提唱するフクロウ派は、いわゆる「正しい戦争」や「正しい核兵器の使用」を含んでおり、どこまでの有効性や実現性があるのか、やや疑問です。そのあたりは、本書を読んだ読者がそれぞれに考えて議論すべき点かもしれません。でも、いずれにせよ、核兵器のリスク低減のためのひとつの方向性を含んだ良書だと私は受け止めています。

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最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)です。著者は、小説家ですが、11人の作者による短編集のアンソロジーです。収録作品は、宇佐美まこと「氷室」、大島てる「倒福」、福澤徹三「旧居の記憶」、糸柳寿昭「やなぎっ記」、花房観音「たかむらの家」、神永学「妹の部屋」、澤村伊智「笛を吹く家」、黒木あるじ「牢家」、郷内心瞳「トガハラミ」、芦花公園「終の棲家」、平山夢明「ろろるいの家」となっています。出版社は文庫オリジナル、と宣伝していますが、いくつかの短編は別のアンソロジーや短編集に収録されています。タイトルから容易に推察されるように、アパートなどの賃貸不動産で自殺などがあったような事故物件をはじめとする不動産や家にまつわるホラー短編を集めています。すべてのあらすじを取り上げるのは難しいので、いくつかに絞って言及すると、収録順に、まず、宇佐美まこと「氷室」は、古民家を購入した主人公が、そこにある氷室が気にかかるということで、ストーリーが進みます。そして、コーディネータの女性がどのようにして古民家の人気物件が空いて貸せるようにするかの謎が怖いです。糸柳寿昭「やなぎっ記」と花房観音「たかむらの家」は、小説という体裁ではなく、何となくノンフィクションのルポルタージュを思わせる文体となっています。神永学「妹の部屋」は、自殺した妹の部屋がいきていたときのままに「修復」というか、元通りになってしまいます。澤村伊智「笛を吹く家」は同じ作者の『葉桜の季節に君を想うということ』を読んだことがあれば、その類似性に気づくものと思います。黒木あるじ「牢家」は、家の真ん中に360度から見張れるような座敷牢があり、その謎に迫ります。そして、最後の平山夢明「ろろるいの家」は、家庭教師に来た家の超怖いお話で、おそらく、この収録作品の中の最高傑作だと私は思います。たぶん、タイトルに付けた「超」はやや誇張が含まれていて、まあ、フツーのホラーと考えるべきです。でも、最後の平山夢明「ろろるいの家」はホントに怖いです。「超」を付けてもいいと私が思うのはこの作品だけです。

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2023年2月25日 (土)

今週の読書は不平等に関する教科書をはじめとしてミステリ小説まで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)では、社会学ないし経済学の教科書として執筆されていて、格差や不平等について、特に、現在の日本で機会の平等はホントに確保されているのか、について議論しています。続いて、鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)では、東日本大震災の際の福島第1原発の運営にかんする「吉田調書」の「誤報」事件の際にデスクだったジャーナリストが、ご自分の半生を振り返るとともに、メディアと権力の関係などについて論じています。続いて、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)では、中世イングランドにタイムトラベルするとすれば、どのように生き残るか、について解説しています。続いて、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)は、芥川賞を受賞した小説家が、持ち前のやや不気味な雰囲気ある短編小説4話を収録しています。続いて、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)では、社会学者と経済学者が不倫という婚外性交症について定量的な分析を加えています。最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)は、英国を舞台に女子高校生が行方不明になった友人の兄を探すというミステリです。シリーズの第2作です。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで14冊、今週の6冊を含めて計40冊となっています。これらの新刊書読書のほかにも何冊か読んでいますので、順次、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。

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まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)です。著者は、北海道大学の研究者であり、専門分野は社会学です。第2版であり、しかも、2021年年末の出版で1年余りを経過していますが、私の興味分野のひとつである格差や不平等に関する学術書ですので、まあ、いいとしておきます。繰り返しになりますが、出版社から軽く想像されるように、学術書です。しかし、本書冒頭にあるように、教科書としての役割を期待されているように、学生諸君にも理解しやすいような工夫がなされており、定量分析のいくつかのテクニカル・タームを別にすれば、一般ビジネスパーソンにも判りやすい内容となっている気がします。やや先進的な部分は「発展」として別枠で記述されていますし、「コラム」も適切に配置されています。ということで、本書の結論として、おそらくは社会学の観点から、平等と不平等を論じる際にもっとも重要な観点である「機会の平等」が現代日本では必ずしも確保されていない、という点が重要であると私は考えます。経済学的には、ついつい、平等と不平等を結果としての所得を代理変数として考えますが、社会学ですので排除や包摂とも考え合わせて、まあ、複雑ながら経済学よりも深みのある議論が展開されています。そして、平等と不平等を考える際に、原因から結果に向かう中間経路として、本書では教育ないし学歴を大きなポイントに据えています。要するに、制度上はあくまで義務教育ではないにも関わらず、ほぼほぼ事実上の全入制となった高校進学を前提として、ホントに機会の平等が保証されているのであれば、誰でもが大学に進学する機会を平等に有しているかどうか、について定量分析も含めて考察を加えています。そして、その結論は否定的といわざるを得ません。すなわち、日本では大学進学における機会の平等は確保されていない、ということになります。その詳細な議論は本書を読むしかないのですが、私は少なくとも機会の平等を考える上で、あるいは、貧困からの脱出を考える上で、大学進学は重要なポイントになると考えています。その点は本書の著者と基本的によく似た見方をしています。米国の「大統領経済報告」ではじめて示されたグレート・ギャッツビー曲線を援用したりして、定量的なパネル分析からも大学進学が「親ガチャ」からは独立ではありえない、という分析結果です。本書は社会学的な分析ですが、経済学的に私が授業で教えているポイントは、その昔の高度成長期に広く観察された雇用慣行である年功賃金制にあります。チョット見では、いかにも子供達が大きくなって大学進学などで教育費がかかる時期にお給料が上がるのは好ましく思えますが、実はそうではありません。というのは、親が大学授業料を負担できる給与体系である年功賃金をもらっているがために、いわば、行政がサボって大学の学費を低く抑える必要がなかったわけです。すべてではありませんが、米国などの一部を除いて欧州諸国、特に北欧諸国では大学の学費を極めて低く、しばしば無料にしている点は広く知られているとおりです。

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次に、鮫島浩『朝日新聞政治部』』(講談社)です。作者は、長らく朝日新聞で記者をし、政治部を主にキャリアを積んだジャーナリストです。東日本大震災の折の福島第1原発の吉田調書に関する報道で処分を受けて、現在ではネットメディアを主催しているようです。本書では、基本的に著者自身の経験とある程度の憶測を交えながら、著者の半生の自伝を語りつつ、同時に、メディア論についても展開しています。すなわち、権力とメディアの距離感、そして、メディアの企業としてのあり方、などです。まず、よく知られたように、著者は朝日新聞特別報道部のデスクとして「吉田調書」を入手した部下とともに読み解き、吉田所長の待機命令に反して福島第1から第2に退避した職員がいたことを明らかにするスクープをモノにします。「新聞協会賞」に相当する快挙として社内ではもちろん、広く称賛されますが、実は、吉田所長の待機命令に反してではなく、その命令を知らずに避難した職員がいたのではないか、また、実際に退避した職員への取材がなされておらず、裏付けが取れていない、などといった疑問が持ち上がって、逆に「捏造」としてバッシングを受けます。社長が辞任し、現場の記者やデスクだった著者も処分を受けます。そして、同時に慰安婦問題に関する「吉田証言」も虚偽であったことなどをはじめとして、著者はここで朝日新聞は死んだと表現します。すなわち、権力の対するチェック機能とか、「社会の木鐸」と呼ばれる存在でなくなった、という意味なのだろうと私は考えています。そして、大手全国紙が横並びで東京オリンピックのスポンサーとなり、オリンピック開催反対の意見はしぼんでゆきます。現在では、大手メディアは権力と癒着し提灯持ちの記事が多くなっていることも事実です。本書に関して、私から2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、問題の「吉田調書」の読み方ですが、「待機命令に反して退避」というのは、「命令違反」というコンポーネントと「退避」というコンポーネントの2つの要素があり、私は報じられた当時から前者の「命令違反」がどこまで重要かを疑問視していました。むしろ、重点は「退避」の方にあるのではないか、という気がしていたからです。すなわち、現場を放棄して退避することが問題なのであって、命令違反というのはその退避という行動の悪質さをより重くするものであることは確かです。しかし、現場を放棄しての退避が重要と私が考えるにもかかわらず、本書でも「命令違反」の方に重点が置かれています。不思議です。この重心おき方を誤らなければ、この問題はここまでこじれることはなかったような気がします。本書で指摘する朝日新聞社内の危機管理体制以前の報道の問題です。第2に、本書の著者もそうですが、メディアと権力との距離感に関しては、記者クラブ制というシステムを考慮する必要があります。記者クラブという極めて特殊で排他的なシステムを、おそらく、全国紙やテレビのキー局の記者は当然のように考えているのでしょうが、地方紙や海外メディアからすれば、とてつもない特権としか見えません。こういった特権を与えたれているわけですから、全国紙やテレビなどのキー局が権力に近いという印象を持たれるのは当然です。私は、役所が主催する閣僚の出席する会議の写真を撮ろうとして、写真を撮れるのは記者クラブ所属のカメラマンだけ、といわれて諦めざるを得なかったことがあります。会議の事務方の公務員ですら写真が撮れなかったわけです。こういったべらぼうな特権を与えられている記者クラブ制がある限り、メディアの権力依存は続く、あるいは、少なくとも眉に唾つけて見る国民がいるような気がします。

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次に、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)です。著者は、歴史家、作家となっています。英語の原題は How to Survive in Medieval England であり、2021年の出版です。原題からほのかに理解できるように、21世紀の現代人が中世、本書では1154-1485年のプランタジネット王朝のころのイングランドにタイムトラベルしたとすれば、どのように生き残るか、という観点で記述されています。単純な修正の歴史書ではありません。まず、中世ですから、私が時折主張するように、英国=イギリスあるいは連合王国とイングランドが区別すべきです。本書でも、イングランドはスコットランドと戦争したりしています。おそらむ、本書の対象とする中世初期にはイングランドとウェールズでは言語がビミョーに違っていたのではないかと私は想像しています。そういった意味からも現代的にイングランドを英国やイギリスと同一視するべきではありません。ただ、細かい点ながら、タイトルに "survive" を用いているにも関わらず、以下に生計を維持するか、稼ぎを得るか、という観点は本書では極めて希薄であり、もっと原始的、というか、まるで無人島で生き残るかのような観点が支配的である点は申し述べておきたいと思います。まず、今もってそうなのですが、欧州諸国、というか、日本以外の多くの国は階級社会であって、所属する階級によっていかに生活するかは大きく異なります。最初の第2章の社会構造や住宅事情などは本書でもその観点がありますが、食べ物や医療事情になると、かなりの程度に忘れられている気がします。おそらく、電話や鉄道などはいかんともしがたいと思いますが、居宅近くでの日常生活では上流階級の人々は現在とそう遜色ない生活を送っていたのではないか、と私は想像します。だた、第2章の社会構造に次に第3章に信仰や宗教に関する歴史を持ってきているのは秀逸です。私はイングランドに限らず、おそらく、日本でも前近代においては宗教の果たしていた役割がかなり大きいと考えています。本書の対象とする期間のイングランドの宗教は、いうまでもなく、キリスト教の中でもカトリックなのですが、普段の日常生活を律するのは死後の天国と地獄ではなかったか、と私は想像しています。日本の中世のひとつの時代区分である鎌倉時代に仏教の新宗教が浄土宗や日蓮宗のように日本地場で起こるとともに、禅宗の臨済宗や曹洞宗が中国から持ち込まれたように、中世の12世紀から15世紀くらいまでは宗教の役割は大きかったですし、変化もありました。私の勝手な想像では、ゲーテが「もっと光を」といって死んだように、光が不足する、というか、夜が暗かったのが地獄をはじめとする異世界を想像たくましくさせたような気がします。今でも都会に比べて夜が暗い、というか、早くに暗くなる地方部では必ずしも宗教に限らず信心深い気がします。

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次に、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)です。著者は、芥川賞を受賞した純文学の作家です。この作品は短編集であり、4話を収録しています。まず、表題作の「とんこつQ&A」では、大将と坊っちゃんで切り盛りする中華料理店「とんこつ」で30代半ばの独身女性である主人公が働き始めます。しかし、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」すらいえなかったため、しゃべるのではなくメモを読み上げることで克服します。それから、挨拶をはじめとする店内で発するあらゆる会話、例えば、店の名前の由来、おすすめメニューなどをメモに記入し、「とんこつQ&A」を作り上げます。おしゃべりではなく、メモを読むことで対応するわけです。そこにもうひとり、主人公よりももっと鈍なアルバイトの丘崎さんが働き始めることになり、いろいろとお話が展開します。最後の結末は、思いもしなかったものでびっくりです。続いて、「嘘の道」では、小学校でのイジメられっ子の与田正のクラスメートの少女を主人公に、いじめられていた与田正が「イジメはよくない」という教師の指導などもあって、逆に、チヤホヤされるようになります。でも、おばあさんが教えられた近道でケガを負うという事件があり、濡れ衣を着せられた与田正が再びイジメにあいます。でも、おばあさんにその近道を教えたのが誰であるか、という真相は別のところにあるわけです。「良夫婦」では、小学生のタムに親切にする若妻を主人公に、タムがその主人公の家の庭にあるサクランボを取りに来て期から落ちて大怪我する時間があった際、すべてを処理する夫の事件処理のやり方を描き出しています。それは、夫婦が結婚前にそろって勤務していた介護サービス事業所での妻が起こした不都合な出来事の処理方法と同じでした。最後に、「冷たい大根の煮物」では、高校を卒業してひとり暮らしの工場勤務を始めた女性を主人公に、同じ工場の同僚で中年女性の柴山さんとの人間関係を描き出しています。柴山さんには寸借詐欺のウワサあるにも関わらず、主人公にはそれなりに親切で料理してくれたり、レシピを教えてくれたりします。でも、結局、柴山さんは工場を辞めることになります。あらすじは以上の通りですが、読者としては、主人公とそれ以外の登場人物の間のズレをどう考えるか、という点がポイントになります。ある意味で、ものすごく深い読み方をしなければ、この作者の作品をホントに味わうことが出来ないと私は考えており、その意味で、この短編集はこの作者の典型的な作品ともいえます。特に、4話の短編の中でも短めな「嘘の道」と「良夫婦」はホラーとすらいえる内容ですが、スラッと読めばホラーでも何でもなく読めてしまう可能性もあります。最後に、私もこの作者の作品をすべて読んだわけではありませんが、この作品の理解を進めるためには、『あひる』を読んでおくと参考になりそうな気がします。

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次に、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)です。著者は、社会学の研究者と経済学の研究者であり、おそらく、ともに計量分野のご経験が豊富と思います。本書ではタイトル通りに、不倫、本書では婚外性交渉と定義されている行為について定量的な分析を試みています。ただし、婚外性交渉とはいっても風俗店での行為や風俗店できっかけの出来たものは除外されています。定量的な分析ですから、その基礎となる情報を得るために、NTTコムオンラインでアンケート調査を実施しています。ただし、選挙におけるブラッドリー効果のように、アンケート調査で真の結果を得られていない可能性もありますから、そのあたりはリスト実験などの工夫がなされています。ということで、構成として、第1章で不倫とは何かを考え、第2章でどれくらいの人が不倫しているのかの把握に努め、p.31表2-1のような結果を得ています。すなわち、既婚男性の半分近く、既婚女性の15%ほどが、結婚後に現在進行形も含めて何処かの段階で不倫の経験あり、という結論です。第3章で、不倫しやすい属性を検討し、第4章で誰と不倫するのかを解明しています。軽く想像される通り、男性の場合は職場で不倫相手が見つかりやすい、ということがいえます。第5章で不倫の終わり方、あるいは、なぜ終わらないのか、を検討し、不倫行為に関する定量的な分析はここまでなのですが、最後の第6章で社会的に不倫を非難する人たちについても考察を進めています。本書でも言及されているように、シカゴ大学のノーベル経済賞を受賞したベッカー教授などの「経済学帝国主義者」が結婚の経済学を分析したことは有名ですが、本書は経済学的なアプローチもなくはないですが、基本的に、社会学的なアプローチを取っていると私はみなしています。日本においては、ほぼほぼ先行研究のない分野ですし、本書も新書とはいえ、定量分析の手法の選択や参考文献の渉猟など、学術書とみなしていいと私は考えます。いくつかの章の終わりに置かれている補論は学術書っぽくなないですが、まあ、いいとします。ですから、基本的に、本書の不倫に関する分析結果は、諸外国、特に、米国の先行研究との整合性も考えると、十分に受入れ可能なものだといえます。分析結果は本書を読んでいただくしかありませんが、十分に評価するという私の基本を踏まえた上で、たった1点だけ指摘したのは、不倫においてマッチング・サービスの果たす役割です。基本的に、マッチング・サービスは結婚を希望する人々に開かれていて、私のような高齢の既婚者には関係ないと考えていますので、私はまったく情報がありませんが、おそらく、あくまでおそらくですが、既婚者の不倫行動に対して何らかのポジティブな役割を果たしている可能性が否定できません。でも、本書では、それについてはまったく無視しているように見えます。

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最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。この作品は、英国のリトル・キルトンのグラマー・スクール最上級生のピップ(ピッパ)が探偵役を務めるシリーズの第2作であり、前作は『自由研究には向かない殺人』であり、3部作といわれています。英語の原題は Good Girl, Bad Blood であり、2020年の出版です。3部作最後の As Good As Dead もそのうちに邦訳されることと私は想像しています。ということで、この作品では、主人公のピップに友人のコナー・レノルズから兄のジェイミーが失踪したので行方を探して欲しいと依頼が入ります。ほぼほぼ1週間7日が経過してもジェイミーは見つかりません。その間に、ピップは着々とリサーチを進めるわけです。前作と違って、この作品ではPodCastが多用されます。ミステリですので、あらすじも早々に、5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、前作では主人公のピップはきわめて強気に捜索を進めたのですが、この作品では少なくとも前作に比べれば控えめです。最後の方に、ピップの仲間、すなわち、前作で相棒になったラヴィ・シンとこの作品の依頼者のコナー・レノルズが家宅侵入をしたりしますが、まあ、強気な捜索というよりは控えめといっていいと思います。第2に、前作でも女子高生(当時)の行方不明事件であって、殺人事件とは確定していませんでしたが、本作品でもやっぱり行方不明事件です。ただ、この作品では最後の最後に殺人事件が起こります。主人公のピップの目前での銃撃殺人ですので犯人探しは不要ですが、生々しい殺人が描かれていることは確かです。第3に、この作品では有色人種に対する差別はそれほど大きく扱われていません。記者のスタンリーは前作では差別意識が激しい人物とされていたように私は記憶していますが、別の事情もあって、この作品ではとても好意的に、しかも、主人公のピップも同情を寄せるように描かれています。やや矛盾を感じる読者は私だけではないと思います。第4に、先週レビューした『罪の壁』で少し言及しましたが、このシリーズは登場人物が多岐に渡り、隠れた顔がいっぱいあります。それを「深みがある」と称するかどうかはともかく、極めて複雑なミステリ作品に仕上がっていることは確かです。第5に、最初の作品である『自由研究には向かない殺人』に比較して、この作品はミステリとしてクオリティは大きく落ちます。3部作の最後の作品がやや心配です。最後に、おそらく、作者はまったくあずかり知らぬことなのでしょうが、日本人であれば神戸の連続児童殺傷事件、俗にいう「酒鬼薔薇事件」を強く思い起こさせる可能性があります。

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2023年2月18日 (土)

今週の読書は経済書や人類学書のほかミステリも合わせて計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)は、1971年8月の米国ニクソン政権による金ドルの交換停止を決定したキャンプ・デービッドでの会議をルポしています。続いて、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)は、ソロモン諸島におけるフィールド・ワークに基づき、人類学の新しい方向などにつき論じています。続いて、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)は、正面からのプロット勝負の本格ミステリの短編5話を収録しています。続いて、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)は、昭和期の主として第2次世界対戦前後の陸海軍の軍人を中心とする人物評伝を編集しています。最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)は、後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association)最優秀長篇賞の第1回受賞作品であり、兄の死の真相を弟が解明するものです。
ということで、今年の新刊書読書は、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで9冊、今週の5冊を含めて計34冊となっています。

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まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)です。著者は、米国イェール大学経営大学院の名誉学長ということですが、この著書からはジャーナリストなのかと思わせるものがあります。副題が「キャンプ・デービッドの3日間」となっているように、米国ニクソン政権において米ドルの金との交換停止を決断した会議のルポとなっています。エコノミストの間ではよく知られているように、1944年に米国東海岸の保養地であるブレトンウッズにおいて議論・決定された国際金融体制が崩壊し、終焉したわけです。ブレトンウッズ体制とは、本書では米ドルを金にリンクさせ、35ドルと1オンスの金との交換を保証しつつ、米ドルと各国通貨の間に固定為替相場制を敷いたものです。他方、こういった国際金融制度をサポートするために、世界銀行や国際通貨基金(IMF)といった組織を設立しているのですが、コチラの方は本書ではほぼほぼ無視されています。もちろん、同時に戦後経済体制を形作ったGATTについても、ここまで米国の貿易収支に注目しながらもほぼほぼ無視しています。ですので、本書は4部構成で、幕開け、配役、その週末、終幕、となっています。中心となる読ませどころは第3部でクロノロジカルに詳述されるルポだと思いますが、第2部ではエコノミストはほとんど注目しない会議参加者のパーソナリティなどが紹介されています。逆に、貿易収支以外の客観的な経済情勢はかなりの程度に省略されています。私と同じように、物足りないと感じるエコノミストは少なくないと思います。もちろん、エコノミストが注目していない点で、いくつか興味をそそられる事実も明らかにされています。そのひとつは、このニクソン政権の決定、訪中とその結果としての米中の国交樹立と並んでニクソン・ショックと称されるブレトンウッズ体制の崩壊、あるいは、一連の経済政策、すなわち、金ドル交換停止以外にも物価と賃金の凍結などが、米国民から熱狂的に支持された、という点は私も知りませんでした。その支持の強さは「パールハーバー以来」と表現されています。もっとも、私は1971年当時は中学生でしたので、言い訳しておきます。株式市場は株高で支持を表明し、米国以外の、特に日本の株価市場が大きく下げたのとは対象的です。加えて、1971年8月15日の当時のニクソン大統領のスピーチが、かなり詳細な脚注を付して紹介されているのは、それなりの資料的な価値もあると私は考えます。私が本書を読んで不可解なのは、著者が金ドル交換に大きな重点を置いている点です。ブレトンウッズ体制が終焉したのは、金ドル交換が停止されたからではなく、固定為替制が崩壊したからです。スミソニアン合意という一時しのぎではどうしようもなく、変動相場制に移行したのは歴史的事実です。その点まで、どうも、著者の理解が進んでいない気がします。経済学的な理解を基にするのではなく、むしろ、ジャーナリスティック、というか、インナー・サークルのセレブしか知りえない事実に対するのぞき見趣味的な満足感を得ようとするのは、私はどうも違和感あります。むしろ、巻末の「解題」が経済学的な興味を満たしてくれるような気がします。しかし、解題が判りやすいのは本文が判りにくいともいえ、いく分なりとも邦訳がそれほど上質ではない点は指摘しておきたいと思います。

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次に、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)です。著者は、早稲田大学の研究者であり、専門は文化人類学です。本書は3部構成であり、他者、歴史、自然、から構成されています。2011年7~9月における著者のフィールドワーク、ソロモン諸島マライタ島におけるフィールドワークを中心に、幅広く人類学の方法論や学説史にまで言及されています。タイトルは、当然ながら、レヴィ-ストロースによる Tristes Tropiques を念頭に置いているんだろうと思います。「不穏な熱帯」だったら、"Inquiétantes Tropiques" とでもなるんでしょうか。私はスペイン語はともかく、フランス語はサッパリですので、自信はありません。なお、私の専門は、もちろん、経済学なのですが、経営学なんぞよりも人類学などの方が、より、経済学に近い隣接領域だと考えています。終章「おわりに」のエピグラフにあるように、精神分析と文化人類学は人間という概念なしで済ませられる、といいますが、経済学はもっとです。人間が出てきません。合理的な経済活動を営むのであれば、人間でなくても動植物やロボットでもOKです。そういう意味で、本書もとても刺激的でした。例えば、民族誌的な記述と自然概念についての哲学的な思索という両極端を本書の中で統合させようとした著者の試みは、高く評価されるべきだと考えます。しかし、いかに隣接領域とはいえ、私は人類学にはトンと専門性がありませんので、人類学の方法論について、少し論じたいと思います。すなわち、本書で「存在論的転回」と称されている人類学の転換とか、自然/文化の二分法については、私はマイクロな学問/観察とマクロな学問/観察の違いではないか、と考えています。自然科学は別にして、社会科学ないし人文科学で学問領域をマイクロとマクロに分割する二分法が明快に確立しているのは経済学と心理学であると私は受け止めています。経済学ではモロにミクロ経済学とマクロ経済学が併置されています。心理学でも、フロイト的な個人を対象とする臨床心理学とツベルスキー=カーネマンに代表される社会心理学が並立しています。おそらく、人類学でも従来の民族誌的なエキゾチシズムに立脚する多文化の研究、という側面と、もっとマクロに自然と人類の間のインタラクティブな関係を考察する学問領域が出来るのではないか、という気がしています。本書でいうところの「岩が育つ」、「岩が死ぬ」といった自然を外部と考えるのではなく、人類の活動の内なる対象と考える人類学がありそうな気がします。というのは、ごく当たり前に考えている労働について、経済学では自然に対する働きかけ、と定義する場合が少なくありません。もちろん、英語表現で2種類ある "made of" と "made from" の違いはあるとしても、少なくとも製造業においては、自然に存在する原料や燃料を基にして、労働という人間作業を加えて製品を作り出す過程であると考えられます。サービス業で少し製造業とは違う側面があることは否定しませんが、ごく一部の例外を除けば、自然にはあり得ないサービスの提供であることは間違いありません。例えば、理美容というサービスについて考えると、こういったサービスなしに自然のままでは髪の毛は伸び放題だったりします。そして、いうまでもなく、労働という人間作業がサービスを生み出しているわけです。本書の幅広い論点をカバーし切るだけの能力が私にはありませんが、少なくとも自然/文化の二分法については、人類学よりは経済学の方が新たな論点を提供できる可能性が高い、と考えています。最後の最後に、数多くのソロモン諸島とおぼしき写真が収録されていますが、何の説明もなく、ランドスケープの横長写真がポートレートの縦長に回転させて配置されています。何とかならなかったものでしょうか?

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次に、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)です。著者は、ミステリ作家です。そして、昨年の芥川賞受賞の高瀬隼子、今年の直木賞受賞の千早茜と同じように、というか、何というか、私の勤務校の卒業生です。3人とも文学部のご主審であり、経済学部ではありませんが、私は実は文学部や法学部などでも授業を持っていたりします。琵琶湖キャンパスから京都の衣笠キャンパスに週イチとはいえ、通勤するのはなかなかタイヘンだったりします。ということで、本書は、5編の短編が収録されていて、堂々の王道ミステリです。ホラーの要素はほぼほぼなく、倒叙ミステリや叙述ミステリでもって、表現で読者をミスリードするわけではなく、正面からプロットでもってパズルを解こうとします。不勉強にして、この作者の作品は初めて読んだので、ほかの作品もそうなのかは不明です。あらすじを収録順に追うと以下の通りです。「ボールがない」は、そこそこ名門、というか、古豪の高校野球部の新入生を主人公とし、上級生が対外試合に出かけた際の居残り練習で、練習開始時に100個あったボールが練習終了時には1個不足し、消えたボールを探し出そうと論理的に考えます。記念ボールの扱いが上手です。「夢も死体も湧き出る温泉」は、ひなびた温泉の食堂の倅が主人公で、川原の手掘り温泉で突如として死体が発見され、その犯人はもちろん、死体出現のトリックについても解き明かそうと試みます。この作品と最後の表題作は行きずりの旅人っぽい登場人物が謎解きをします。「宇宙倶楽部へようこそ」は、10年前を振り返るという形で、その当時の高校の宇宙倶楽部=天文部を舞台に、相談に来た高校新入生を主人公に、主人公宛てに届いたナゾのメールについての解明が天文部員によって試みられます。なかなか、カッコいい終わり方です。「ベッドの下でタップダンスを」は、会社社長の奥さんに間男をする従業員を主人公に、社長が思わぬ時刻に帰宅したためベッドの下に逃げ込んだものの、見張りをしている社長がいるために抜けでられないうちに居眠りしてしまいますが、何と、その居眠りの間にベッドを見張っていたハズの社長が撲殺され、その犯人と方法が主人公によって解明されます。「秘境駅のクローズド・サークル」は大阪にある大学の鉄道研究会の新歓イベントで土讃線の秘境駅を旅行している新入生を主人公に、周囲に何もない秘境駅のクローズドサークルで先輩の女性部員が殺される事件を、これまた、通りすがりの別の鉄道オタクが解明します。繰り返しになりますが、正面から堂々のトリック勝負の本格ミステリです。すべてではありませんが、最初の作品の記念ボール、あるいは、最後の表題作の鉄研OB/OGの登場などのように、短い作品ながら、キチンと伏線が張られている作品もあり、それなりに読み応えはあります。5篇の短編のうち、いかにもミステリらしい殺人は3話、高校生の日常の謎解きが2話、まあ、バランスも考えられています。ただ、高校生や大学生、あるいは、社会人でも若い主人公が多いことは確かです。いずれにせよ、私の勤務校の卒業でもあり、これからも応援したいと思います。

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次に、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)です。著者は、昨年なくなった『文藝春秋』の編集者であり、昭和市に関する書籍も多数出版しています。まあ、昭和史の研究者といっていいかもしれません。本書は、タイトルが人間学ですから、多くの人物が議論されています。ただ、年代としてはタイトルにある昭和全体というよりは、第2次対戦前後に限定されています。ですから、本書の構成は7章構成なのですが、最後の章の政治家と官僚を別にして軍人で占められています。すなわち、卓抜、残念、その他の3カテゴリーかつ陸軍と海軍で2×3の6章となります。もちろん、著者はすでに亡くなっているわけですので、既発表の雑誌記事などを編集しています。私自身は本書に取り上げられている人物については、もりとん、あったこともなければ、それほど評伝のようなものを読んでいるわけでもないので、本書の人物評については何とも評価し難いのですが、巷間いわれている評価にかなり近い、というか、本書の著者などの評価が広く人口に膾炙している、という気がします。ただ、軍人については軍事作戦や軍事行動に関しては、何とも評価は難しいのだろうと想像しています。卓抜の軍人について褒めちぎるわけではありませんが、残念な軍人については容赦なく批判を加えています。中には、戦争が終わってからインタビューをした対象者もいますが、それほどインタビューの有無が人物評の中心となっている印象は読み取れませんでした。ただ、私の直感としては、ある意味で、異常な状態だった戦時ではなく、歴史として戦争を振り返る時点でのインタビューに、それほど大きな意味があるようには思えません。もちろん、粉飾のおそれもありますから、むしろ、古文書のような考えで資料をひも解くのが一番かという気もします。本書は、それほど取りまとめられた文献とは思えませんが、だんだんと遠ざかる昭和、特に、戦争に関するひとつの見方を提供してくれる貴重な資料だと思います。

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最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)です。著者は、英国人作家であり、本作品は後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association=CWA)最優秀長篇賞の第1回受賞作品です。しかも、出版社の宣伝文句では本邦初訳のオリジナル作品、ということです。1950年代なかば、戦争の影がまだ残り、同時に東西冷戦の対立が厳しい英国から欧州大陸、オランダとイタリアを舞台にしています。主人公は、ターナー兄弟末弟3番めのフィリップです。米国カリフォルニアで航空機の開発の仕事をしていましたが、考古学者としてジャカルタで発掘作業をしていた次兄グレヴィルが帰国途上のオランダで死んだと知らされて、家業を継いだ長兄のもとに帰国します。兄グレヴィルは優秀な物理学者であったにもかかわらず、マンハッタン計画の原爆開発に関与することから逃れるために考古学に転じています。しかし、フィリップはグレヴィルがオランダの運河に身を投げて自殺したと知らされて、到底信じることが出来ず、自ら真相を解明すべくオランダに乗り込みます。その際、レオニーという謎の女性とバッキンガムという英国人が関係している疑いがあると聞き及び、バッキンガムを知ると紹介されたコクソンに動向を依頼します。コクソンはスコットランド貴族の血筋の英国人です。そして、当地警察で、レオニーという名の女性との恋愛に敗れて自殺したらしい、と聞き込みます。さらに、レオニーがイタリアに滞在しているとの情報があり、事情で同行できないコクソンと別行動し、単身でイタリアに向かいます。もちろん、最後に兄グレヴィルの死の真相を解明します。いかにも、大時代的ではありますが、驚愕の真相です。思っても見なかった人物がバッキンガムだったりします。また、繰り返しになりますが、1950年代半ばの時代背景ながら、古さをまったく感じさせません。どうしても、電報での連絡が出て来たりしますが、飛行機での移動などは現在と同じです。ただ、オランダとイタリアの違いがどこまで書き分けられているのか、やや疑問がありました。ジャカルタでの考古学の発掘作業、ということで、旧宗主国のオランダということになったのでしょうが、せっかくですから、国情や警察の対応の違いなんかも言及した方がいいような気もしないでもありませんでした。私の知る範囲では、同じラテンの国でスペインとイタリアならよく似ているのに、とついつい思ってしまいました。

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2023年2月11日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計4冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)は、イノベーションの期待大きいスタートアップ企業に関する教科書的な分析を取りまとめています。続いて、降田天『事件は終わった』(集英社)は、地下鉄内無差別殺人事件に関わった人々の後日譚を短編で収録するミステリです。続いて、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)は、安倍内閣から菅内閣まで続いたアベノミクスについて金融政策から財政政策へのシフトをドキュメンタリとして追跡しています。最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)は、LGBTQへの差別に関して、キチンとした制度的な担保が必要であって、思いやりや優しさでは解決しないと主張しています。そして、この4冊に加えて、今週は、アンソニー・ホロヴィッツ『その裁きは死』(創元推理文庫)と松尾由美『バルーン・タウンの殺人』、『バルーン・タウンの手品師』、『バルーン・タウンの手毬唄』(創元推理文庫)のバルーン・タウン3部作を読みました。新刊書ではないのでこのブログでは取り上げませんが、Facebookでシェアしたいと思います。というか、『その裁きは死』はすでにシェアしてあります。Facebokkでは続編が『殺しへのライン』というのは明記したつもりですが、「もう新作出てますよ」という残念なコメントをもちょうだいしたりしています。バルーン・タウン3部作は、たぶん、一気にFacebookでシェアするのではないか、と思います。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週の5冊と今週の4冊の計29冊となっています。

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まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)です。著者は、関西学院大学の研究者です。通常の企業に関するマイクロな経済学と違って、スタートアップに関する経済学は、外部性や情報の非対称性が強く作用し、ある種の特別経済学を必要とします。もちろん、マクロ経済学におけるイノベーションについても、スタートアップ企業が担う部分が少なくないわけですから、ここでも通常の企業や産業に関する経済学とは別の経済学研究が進められるべきです。本書はそういったニーズに即してスタートアップの経済学に特化した研究成果を集めています。まず、スタートアップ企業では市場の失敗が通常の企業や産業と比べて大きいと私も認識しています。本書では「新規性の不利益」としています。というのは、おそらく、従来ある業態でのスタートアップというよりは、新しいニッチを探してのスタートアップに重点が置かれているためであろうと私は推測します。例えば、フランチャイジーとしてコンビニを新規に出店するとか、クリーニングの取次店を開くというスタートアップよりは、何らかのイノベーションを利用した新い製品とか、新しい製造方法に即した生産とか、いわゆるシュンペーター的なイノベーションを実用化するスタートアップに重点が置かれています。ですから、かなり外部性が大きいにもかかわらず市場では評価されず、また、新規性故に情報の非対称が大きい、といったことがあります。その上で、スタートアップ企業を起業するアントレプレナーの個人的な資質を論じ、スタートアップ企業を取り巻く企業環境について明らかにしています。ただ、本書でも指摘されているところですが、スタートアップ企業については成功例ばかりが注目される一方で、じつは、その背後には失敗して市場から退出するスタートアップが大量にある、という点は忘れるべきではありません。最も、本書では特に第8章で、スタートアップ企業の退出は決して常にバッド・ニュースであるわけではない、と指摘しています。そして、スタートアップに対する公的支援については、市場の失敗に起因する創業支援や資金不足に対する支援は、もちろん、あり得るとしても、企業のハードルを一律に低下させる公的支援については大いに否定的です。その意味で、アントレプレナーシップ教育の重要性が浮き彫りになります。日本では、リスクを取った挑戦ということが、積極的・肯定的な受け止めをなされず、むしろ、ギャンブルのようなムチャで好ましくない「暴挙」のようにみなされる意識が、デフレ経済下で高まっています。逆に、そいうか、それだけに、中央・地方の政府を上げてスタートアップ支援については大盤振る舞いされる傾向もあります。また、大企業のほうがイノベーションには有利であるとするシュンペーター仮説を無視して、スタートアップ企業に対して過大にイノベーションを期待する向きもあります。私自身はマクロ経済学を専門としていて、本書のようなマイクロな経済学はややや苦手なのですが、こういったキチンと学術的な分析を基にした議論がなされるよう期待したいと思います。ただ、ひとつだけ本書の難点を上げると、データ・研究成果ともにやや古いキライがあります。私は専門外だけに印象論となってしまいますが、「ホントにこれが最新データで、最新の研究論文なのか。もっと新しいのはないのか?」といった疑問を感じないでもない部分がいくつかありました。

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次に、降田天『事件は終わった』(集英社)です。著者は、ミステリ作家なのですが、その昔のエラリー・クイーンや岡嶋二人よろしく、執筆担当の鮎川颯とプロット担当の萩野瑛の2人による作家ユニットです。ということで、本書は12月20日という年の瀬も迫った折に起こった地下鉄内無差別殺人事件、すなわち、犯人がナイフで妊婦に切りつけようとして、止めに入った老人を刺殺するという事件について、冒頭の「00 事件」で短く紹介した後、その後日譚として始まります。「00 事件」を除いて6編の連作短編を収録してます。各短編でクローズアップされる事件関係者はまず、「01 音」では、一目散に事件現場から逃げ出したことをSNSにさらされて、その行為から非難されたことにより、職を失って引きこもりとなった20代の元サラリーマンは、毎日のように正体不明の音に悩まされます。続いて、「02 水の香」では、切りつけられた妊婦は幸いにも軽症ですみましたが、事件後に「霊が見える」といい出し、水の腐った匂いに悩まされます。続いて、「03 顔」では、事件発生の車両に乗っていたという高校テニス部員がケガを克服してインターハイに出場する過程を、同じ高校の報道部員が取材します。続いて、「04 英雄の鏡」は、私のような浅い読み方の読者は、少し理解に苦しんだのですが、ホストを主人公にしています。詳しく書くと叙述トリックのネタバレになりますのでヤメにしておきます。続いて、「05 扉」では、「03 顔」の高校テニス部員と報道部員が、未来を知ることが出来る「未来ドア」のインチキを暴きます。最後の、「06 壁の男」では妊婦を守って刺殺された老人が、どういった人となりで、なぜ妊婦を守ろうとしたのかの理由が明らかにされます。ということで、世間的には一般的にいって事件が終わった、と考えられるつつも、じつは、事件に何らかの形で関わった関係者には、決して事件は終わっていない、ということです。そして、私は、基本的に、ミステリとして読みましたが、隣接ジャンルで、かなり、オカルトやホラーの要素も含んでいます。でも、そういった超自然現象は、本書では科学で解明されます。そういった観点では、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズに似ているかもしれません。

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次に、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)です。著者は、時事通信をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。岩波新書から、本書の前に『官僚たちのアベノミクス』、『ドキュメント 強権の経済政策』を出版していて、本書で3部作の完成、ということのようです。私自身は『官僚たちのアベノミクス』は既読ですが、『ドキュメント 強権の経済政策』は読んでいません。ということで、ジャーナリストによるアベノミクスの記録、といえそうです。そして、もちろん、アベノミクスが変化していったさまをあとづけています。ジャーナリストらしく、政治家の影響力を中心に変化の要因を考えていますので、客観的、というか、政策変更の背景となる経済動向については、それほど詳細な観察がなされているわけではないような印象を持ちました。あるいは、逆から見て、私は政策変更の背景の政治家の影響力についてはほぼ無視していますので、私の目から見て経済動向が軽視されているようにみえるだけかもしれません。ということで、私は政治家や官僚あるいは中央銀行幹部のインタラクティブな関係や影響力の行使などにはそれほど興味はありませんので、経済動向との関係で政策変更を考えると、何といっても本書でも指摘しているように、金融政策と財政政策のバランスだろうと考えます。2012年年末の政権交代から、本格的にアベノミクスが始まった2013年には、金融政策も財政政策も、どちらも脱デフレに向けて景気拡大的に運営されていた一方で、2014年4月に消費税率引上げが実施され、軽減品目無しで5%から8%になりました。そして、この緊縮的に運営された財政政策がアベノミクス最大の失敗であった、と私は考えています。ただ、本書でも指摘されているように、震災からの復興税の増税には国民が好意的であることが世論調査の結果などから明らかにされた点も政治的には考慮されたんだろうと思います。加えて、浜田教授をはじめとしてシムズ論文から「物価水準の財政理論」に関心が移ったのは事実かもしれません。でも、安倍内閣の後の菅内閣まで含めたアベノミクスを考えるとしても、私は2014年4月と2019年10月の2度に渡る消費税率引上げを見る限り、財政政策はアベノミクスのしたので緊縮的に運営された、と考えています。ですから、財政政策が緊縮的であっただけに、金融政策が過剰に緩和的に運営される必要があったと考えるべきです。ちょうど、来週に日銀総裁・副総裁の候補が国会に示されると報じられていますが、黒田総裁の異次元緩和という記入政策だけを取り出して議論するのではなく、アベノミクスの下で緊縮的に運営された財政政策とセットとして経済政策、アベノミクス、あるいは、現在の岸田内閣の下でのポストアベノミクスについて、評価する必要があります。

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最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)です。著者は、LGBT法連合会事務局長ということですが、市民活動家のカテゴリーに当てはまるのではないか、と私は考えています。本書の副題が「ジェンダーやLGBTQから考える」となっており、いろんな差別がある中で、LGBTQから見た差別を中心に議論していますが、それ以外にも当てはまる論点が提示されていると私は考えています。LGBTQの問題に関しては、私自身はしす現だ~のヘテロセクシュアルであって、しかも、中年・初老の男性として、ある意味で、もっとも保守的と考えられるクラスに属しています。ですから、頑迷固陋な意見を持つ同僚や友人はいっぱいいます。ただ、私自身は基本的にリベラルなナチュラリストであって、ご本人や周囲がよければ構わない、と考えています。よく引用する文句は「いいじゃないの、幸せならば」だったりします。ただ、本書に関して2点付け加えたいと思います。第1に、私はエコノミストとして、大学生向けに経済学の授業をする際に、基本的に、「思いやりでは解決しない」と同じことをいっています。すなわち、「経済学とは政策科学であって、ひとのココロの問題ではない」ということです。小学生レベルであれば、「人のココロから憎しみがなくなれば戦争しない」なんてのもいいのですが、経済学を学ぶ大学生に対しては、キチンと制度的な対策や組織的な政策が必要と教えるべきだと私は考えています。反論する学生は今までいませんが、反論されたら、「交通安全を願うココロだけでは交通事故はなくならない。信号や横断歩道や速度制限などの交通ルールが必要」と回答します。第2に、総理秘書官の放言や辞任問題と関連して、岸田総理自身の「社会が変わってしまう」発言が問題視されていますが、私は別の意味で「社会を変えたい」という観点も必要と考えています。直接にLGBTQではないのですが、私は女性の管理職を大幅に降らすことが出来れば、日本の経済成長を大いに加速することが出来ると期待しています。それはまさに、「社会が変わるほどのインパクト」を持った大変革であるべきです。繰り返しになりますが、LGBTQには詳しくありませんが、まさに、保守的な人々が「社会が変わる」と思うくらいの大変革をもたらすインパクトある制度を構築する必要があるのではないか、と考えています。そうすれば、保守的な人々の「ココロ」の持ちようも変わると期待できます。

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2023年2月 4日 (土)

今週の読書はまたまた経済書なしで計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)は、社会主義時代の旧東ドイツのジョークを収録しています。あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)は、小暮進次郎と遠野屋清之介が主人公となる弥勒シリーズの時代小説で、シリーズ第11巻目となります。絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)は、十数年前の『逃亡くそたわけ』の続編であり、富山県を舞台にしています。保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)は、太平洋戦争を中心に昭和史をひも解いています。最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)は、新宿歌舞伎町を舞台に中年男性から風俗産業で資金を得た女性がホストに貢ぐというエコシステムを貧困女性に対するインタビューをてこに明らかにしています。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って今週の5冊の計25冊となっています。後期の授業を終えて、何となくだらけて経済書を読んでいないのは別としても、『乱鴉の空』は私はミステリと考えていますが、最近の読書では極めてミステリが少なくなっています。来週こそはしっかりとミステリも読みたいと思います。

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まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)です。著者は、ドイツ製品文化・サブカルライターと東ベルリン生まれでドイツ語ネイティブのフリーライターです。実は、1月21日付けの朝日新聞の読書欄で紹介されていて大学の生協で買い求めました。日本人的な観点からすると、欧州のジョークは英国が一番であって、ドイツ人はそれほどジョークを得意としているわkではない、特に、社会主義体制下の旧東ドイツは尚さら、という見方がありそうな気がしますが、私はそれなりに外国生活を経験して、旧ソ連や社会主義だったころの東欧圏でもジョークはいっぱいあるのは知っていました。例えば、先日のブログでも取り上げましたが、東ドイツ製の自動車トラバント(あるいは、ソ連製のラダでも何でもOK)とロバが道で出会った際の会話で、ロバがトラバントに対して「自動車くん」っと挨拶を呼びかけるのに対して、トラナbトが挨拶を返して「ロバくん」と呼びかけると、ロバが不機嫌になり、ロバの方はトラバントに対して「自動車」とサバを読んで格上げしているのだから、トラバントもロバのことを「ウマ」くらいにお世辞をいえないのか、と文句を垂れる、といったものです。トラバントは「自動車」ではない、それは、ロバがウマではないのと同じ、という趣旨です。もっとも、私の知っているこのトラバントに関するジョークは本書には収録されていませんでした。ただし、本書でも、そういった種類の旧東ドイツに関するジョークが、ドイツ、ないし、東ドイツの概要の解説から始まって、政治ジョーク、お役人ジョーク、生活ジョーク、インターナショナルなジョーク、ブラックなジョーク、などと分類されて収録されています。ドイツ語の表現とともに収録されていて、当然に、邦訳するよりもドイツ語そのままの方がヒネリが利いている、というジョークが少なくありません。実は、私は大学生の頃は第2外国語はドイツ語を取った記憶が鮮明にあるのですが、まったくドイツ語は理解しません。むしろ、在チリ大使館に3年間勤務しましたので、スペイン語の方が理解がはかどります。でも、東欧のスラブ語ではなく、西欧のラテン語から派生した言語はそれなりに共通性があります。英語で clear は日本でも理解されやすい外来語ですが、ドイツ語では klar、スペイン語では claro になります。英語では限られた意味しか持ちませんが、ドイツ語やスペイン語では単独で使うと「もちろん」という肯定の回答になったりします。おそらく、イタリア語とスペイン語は大元のラテン語にもっとも近いんではないか、と私は想像しています。でも、他の言語をそれほど理解しませんし、パリに行った際にはフランス語ではなくスペイン語ですべて済ませていた程度の語学力ですので、詳細は不明です。脱線しましたので本書に戻ると、私も知っている範囲で、モノ不足をモチーフにしたジョークと情報制限や情報操作をモチーフにしたジョークが印象的でした。前者では、資本主義地獄に対して社会主義地獄では生産が不足して針山ができない、とかですし、後者ではナポレオンが東ドイツの製品でもっとも欲しがるのはご当地の新聞で、ワーテルローで破れたことを知られずに済む、というものです。ナポレオンについては、本書では言及していませんが、ロスチャイルドがワーテルローで英国勝利の情報をいち早く得て巨利を得た、という史実を踏まえています。本書で欠けている最後のポイントなど、もう少しドイツから視野を広げた方がジョークをより楽しめる、という些細な難点はありますが、まあ、面白い本でした。

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次に、あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)です。著者は、『バッテリー』などの青春小説でも有名な小説家です。本書は「弥勒」シリーズの最新刊であり、シリーズ第11作めに当たります。私は、たぶん、全部読んでいると思います。主人公は、極めてニヒルですべてを見通したかのような八丁堀同心の小暮進次郎、そして、国元では刺客・暗殺者として育てられながら江戸に出て商人として成功した遠野屋清之介ですが、小暮進次郎の手下の岡っ引きである伊佐治も重要や役回りを演じます。ということで、本書では、小暮進次郎の屋敷が奉行所の探索にあって小暮進次郎が姿をくらますとともに、手下の伊佐治が大番屋にしょっぴかれて取調べを受けるところからストーリーが始まります。まずは、遠野屋清之介が伊佐治の店である梅屋に現れて、商いのツテから伊佐治の釈放に努めます。そして、小暮進次郎の行方は遠野屋清之介がつきとめ、別の案件に見えた鍛冶職人やその関係者が襲われるという事件から、謎が解かれていきます。実に大きな天下国家にかかわる事案であることが明らかにされます。本書では、最後の方に遠野屋清之介に発見されるまで、ほぼほぼ小暮進次郎が不在なので、いつもとは違う雰囲気のストーリー展開です。その分、というわけでもないのでしょうが、伊佐治の家族、というか、梅屋の一家の様々な面を垣間見ることができます。また、このシリーズは時代小説ながら、基本的にはミステリだと私は理解しており、これまた、小暮進次郎の頭の中だけで謎解きがなされる、というのもこのシリーズの特徴です。ある意味で、このシリーズの終りが近いことを感じさせた作品でした。というのは、このシリーズは町方の小さな事件から始まって、少し前には抜け荷=密輸のお話が出てきましたし、この作品では、繰り返しになりますが、公儀を揺るがせかねないほどの天下国家の大事件が背景に控えている可能性が示唆されます。同心と岡っ引きの事件探索に実は凄腕の剣術家の商人が関わってストーリーが展開される、という基本ラインはほぼほぼ終了した気がします。でも、少なくとも遠野屋に手妻遣いの新たな人物が送り込まれてきましたし、少なくとも次回作には続くんだろうと思います。まあ、何と申しましょうかで、シリーズ終了まで私は読み続けそうな予感があります。最後の最後に、有栖川有栖の本格ミステリに『乱鴉の島』というのがあります。大丈夫と思いますが、お間違えにならないようご注意です。

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次に、絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)です。著者は、小説家であり、「沖で待つ」により芥川賞を受賞しています。たぶん、私はこの「沖で待つ」と、本書の前作に当たる『逃亡くそたわけ』とか、やや限られた作品しか読んでいません。ということで、前作に当たる『逃亡くそたわけ』は福岡の精神病院から20歳過ぎの女子大生の花ちゃんが、名古屋出身で慶応ボーイの20代後半サラリーマンのなごやんが脱走して、阿蘇や鹿児島までクルマで逃走する、というストーリーでした。本書は、何と、その花ちゃんとなごやんが十数年を経て富山県で再会し、ともに家族持ち、というか、結婚して配偶者を得、さらに、子供もともに1人ずつもうけるという舞台設定での続編です。ですから、前作で何度も登場したマルクス『資本論』からの一節はまったく出てきません。そして、前作では、まだ精神病が治り切っていない段階でも逃亡劇でしたが、本作では薬の服用はあるものの、ライオンめいた精神科医に飛び込んで診察して薬の処方箋を出してもらう、といったシーンはありません。ストーリーは、2人が富山県で再会して家族ぐるみのお付き合いが始まる、というところから始まり、共通の趣味であるキャンプに行ってなごやんの家の犬が行方不明になって探したり、さまざまな人生、もちろん、タイトル通りのまっとうな人生に起こり得るイベントへの対応で進みます。最後の方で、なごやんが音楽フェスに行くかどうかで、絶対に行くというなごやんと反対する花ちゃんやなごやんの奥さんが仲違いしそうになったり、といったクライマックスに向かって進みます。このあたりは、コロナ文学の一部が現れています。実に、作者の筆力がよく出ている優れた作品です。ストーリー、というか、大衆文学に求められがちなプロットの面白さ、あるいは、結末の意外性などをまったく持たなくても、これだけ書ければ読者は満足する、という意味での純文学のパワーが感じ取れます。まあ、シロートが書いているわけでもないですし、芥川賞作家なのですから当然といえます。ただ、プロットではないかもしれませんが、「沖で待つ」にせよ、前作『逃亡くそたわけ』にせよ、この作品でも、恋愛関係にない男女の仲、というか、関係や心の動きなどを実にうまく表現しています。他の作品をそれほど読んでいるわけではありませんが、この作者の真骨頂を増す部分かもしれない、と思ったりしています。男女の機微も含めて、本書では風景や情景というよりも、登場人物の心の動きが実に繊細かつ美的に描写されています。それらを表現する言葉を選ぶセンスが抜群です。まあ、これも当然です。最後に、2011年3月の東日本大震災やそれに起因した原発事故の後には、震災文学と呼ばれる作品がいくつか発表されました。本書は、その意味でいえば、コロナ文学といえるかもしれません。私は不勉強にして、ほぼほぼ初めてコロナ文学を読んだ気がします。なごやんの音楽フェス待望論ではないですが、コロナとの付き合い方を登場人物が正面から考え、小説としてコロナのある日常を描こうという試みの小説は、他にもあるとは思うものの、その中心をなす作品かもしれない、と思ったりも足ます。

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次に、保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)です。著者は、作家、評論家とされていますが、私は基本的にジャーナリストに近いラインと考えています。ですから、文藝春秋の半藤一利と同じような属性、と考えていたりします。なお、本書の最終第5章のそれも最後の方で半藤一利が言及されていて、本書の著者はそれに対して「作家の」という形容詞を付けていて、やや笑ってしまいました。他方で、著者は太平洋戦争当時の軍部に対してき分けて批判的な見解を本書でも明らかにしており、ある意味で、リベラルなのかもしれない、と思ったりします。まあ、違うかもしれません。ということですので、本書のタイトルに即していえば、昭和史の最大重視されるべき史実は太平洋戦争、ということになります。ただ、それは本書の著者でなくても大部分の日本国民は同意することと思います。ですから、ハッキリいって、本書はそれほど歴史の勉強になるものではありません。著者独自の見解がいくつか見られますが、たぶん、平均的な日本人と大きくは違わないものと私は受け止めています。加えて、本書巻末で示されているように、本書に初出の論考はありません。すべて、毎日新聞、信濃毎日新聞、共同通信から配信されたコラムなどを編集し直したものですので、新たに発見された歴史的事実が示されているわけでもありません。ただ、いくつか考えるべき論点は示されています。すなわち、著者の最も関心深い戦争についてで、本書では軍部が日清戦争の教訓から戦争を「儲かるもの」として捉え、太平洋戦争でも勝つまで遂行する、という姿勢を崩さなかった、と指摘していますが、私は違うと思います。というのは、基本的に儲かるかどうかを経済学的に考えると、設備投資と同じで投資とリターンの収益性を考えることになりますので、「勝つまで止めない」ではなく、そもそも「始めるかどうか」についてキチンと原価計算する、ということが要諦です。ですから、原価計算が出来ていなかった、というのが真相ではなかろうか、あるいは、原価計算を判断する主体がいなかった、ということだろうと思います。後者から考えるに、本書でも指摘しているシビリアン・コントロールが欠如していた、ということになります。日清戦争や日露戦争では、明らかに、政府首脳が戦争をやるかやらないか、あるいは、どこで止めるか、についてしっかりと判断を下しています。まあ、第1次世界対戦が欧州の勝手で始まって、勝手で終わってしまったために、やや感覚がおかしくなった面はあると思います。でも、経済計算や原価計算で戦争を考えるのは限界、というか、軍部の態度がそうだったとするのにはムリがあります。加えて、ほぼほぼ日本国内で議論が尽きていて、海外の反応という要素がまったく欠落しています。このあたりを批判的に考えながら読み進み必要があります。

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最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)です。著者は、ノンフィクション・ライターで、少し前までは風俗ライターだったと本書では自ら記しています。本書は、タイトル通りに、新宿歌舞伎町、特に、ゴジラヘッドが特徴的な新宿東宝ビルができた2018年以降に、そのあたりに集まり出したトー横キッズなどを中心に、風俗産業や街娼などで中年男性から得た資金をホストに貢ぐといった使い方をする貧困女性などを取材して取りまとめた結果です。なお、おそらく、本書では言及されていませんが、プレジデントオンラインにて本書と同じタイトル、同じ著者による『歌舞伎町と貧困女子』という連載がありますので、おそらく、かなりの程度には連動しているのだろうと想像されます。取材対象はあくまで歌舞伎町貧困女子であり、繰り返しになりますが、表裏を問わず風俗産業で男性から得た資金を持って、多くの場合はホストに貢いだり、何らかの暴力的な要因も含みつつ男性に奪取されたり、といったために貧困に陥っている女性です。そして、中には月収100万円超の女性もいますが、それをホストに貢ぐために稼いでいるのであって、自分の消費に回す部分は極めて小さい、ということが想像されます。加えて、こういったインタビュー対象の女性の中には、何らかの精神的な疾患や障害を抱えている人もいます。個別のインタビィーは本書を読むか、プレジデントオンラインを見るのがベストですので、個々では詳細には言及しませんが、とても悲惨な現状が明らかにされています。まあ、合いの手に、警察の規制が厳しくなって活動範囲が大きく制限されるようになったヤクザの現状なども、まあ、歌舞伎町のエコシステムの一部でしょうから、簡単にルポされていたりします。私は性産業で搾取される女性に極めてシンパシーを感じていて、一般社団法人Colaboの活動などは強く支持していますが、ただ、本書でも例外があって、パパ活の定期19人で月に150万円以上稼いで、ホストに入れあげることもなくガッチリ貯金している女子大生がいましたので、こういうのをクローズアップしてColaboの活動などに反論したりするする連中もいるのだろうと思います。何と申しましょうかで、60歳の定年まで公務員だった私のような凡庸な人間には、なかなか目につかない世界なのだという気はしますが、こういった現実がまだまだある点は忘れるべきではないと思います。最後に、歌舞伎町における資金の流れ、というか、中年男性から風俗産業の女性が資金を得て、それがホストに貢がれる、という歌舞伎町のエコシステムに何度か言及されていますが、その食物連鎖の底辺の男性にはインタビューがなされている一方で、頂点のホストへのインタビューはありません。少し物足りないと感じる読者もいそうな気がします。

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2023年1月28日 (土)

今週の読書は経済書なしで計3冊にとどまる

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)は、早大探検部出身のノンフィクションライターの語学学習に関するエピソードです。続いて新書が2冊で、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)は、総合商社のマルチな活動に焦点を当てており、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)は、毎日新聞のジャーナリストがマルチ商法をルポしています。
ということで、今年の新刊書読書は1月中に計20冊になりました。なお、新刊書ならざる読書については、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)、絲山秋子『逃亡くそたわけ』(講談社文庫)、さらに、萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)も読みました。最後の萩尾望都の漫画はすでに昨日にこのブログで取り上げていますが、それ以外も順次 Facebook などでシェアしたいと予定しています。

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まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)です。著者は、早大探検部語出身の辺境ノンフィクション作家です。表紙画像の帯にあるように、学んだ言語は25以上だそうです。フランス語やスペイン語、ポルトガル語などの西欧言語、あるいは、中国語やタイ語、ビルマ語などのアジア言語のほか、本書の冒頭第2章ではアフリカ言語もリンガラ語の他、いくつか学習しています。もちろん、外国語学習の絶対的なモチベーションは現地に赴いて何らかの活動を行うことですから、本書の眼目としては、タイトル通りの語学学習、そして、辺境を含めた現地事情、の2点となります。後者の現地事情については、著者の他の著作でも広範に紹介されているようですのでサラリと流して、主として語学学習を取り上げたいと思います。というのも、私も在チリ大使館で3年間の勤務経験があり、スペイン語の理解は一応あります。今は今で、大学では英語の授業をいくつか受け持っています。本書の著者は語学学習の要諦として、ネイティブについて学ぶ、とか、ボキャブラリーを重視し、文法は会話するうちに自分で見つける、とかあるのですが、私もかなりの部分は同意します。私の知る限りでも、インドネシアのマレー語もそうで、アフリカの言語などでも動詞の活用がほとんどない言語があります。あるいは、主語と動詞と目的語の語順をそれほど神経質に考えなくてもいい言語もあります。ドイツ語のように助動詞が入れば動詞が語尾に来るとか、フランス語やスペイン語のように目的語が代名詞であれば動詞の前に来るとか、などなどです。ですから、私としてはボキャブラリーが重要と考えています。また、語学に限定せずに、いろんな勉強に当てはまるという示唆もいくつか本書には含まれています。例えば、第4章にあるのですが、近い場所、安い授業料、融通の利く時間帯、というのはよくない場合があり、高いお金を払って、遠い場所までわざわざ行って、固定された時間に最優先で授業を受ける勉強こそが身につく、というのは真実の一部を含んでいると思います。25年ほども前の大昔ながら、私は公務員試験委員として人事院に併任されて試験問題の作成を経験したことがあるので、今でも学生諸君から公務員試験のアドバイスを求められたりするのですが、公務員試験対策の講座は取った方がいいと思っています。たぶん、30万円以上かかると思います。でも、それくらいの金銭的時間的な負担をしてモチベーション低下を防止した方がいい場合も少なくありません。最後に、私も本書にあるような挨拶や感謝や謝罪のない言語というものは想像できませんでした。英語とスペイン語はもちろん、マレー語にも時間帯ごとの挨拶の言葉がありますし、感謝や謝罪の表現は何通りかあります。意思疎通というよりは、社会生活を送る上で困らないのか、と考えてしまいました。

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次に、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)です。著者は、サービス・マーケティング研究家ということになっています。総合商社勤務の後、コンサルタントとして活動し、その後、大学教授もしているとされています。基本的には、総合商社の提灯持ちの本なのですが、実体の判りにくい業態だけにこういった解説書は有益です。副題にあるように、総合商社を「最強のビジネス創造企業」と位置づけています。まず、本書にもある通り、総合商社ではない専門商社という卸売業の企業も日本にはいっぱいあります。典型的に、私が知る範囲では鉄鋼商社や食品商社などです。しかし、本書でも指摘しているように、総合商社では単なる売買の商行為だけではなく、金融や投資も含めた幅広い活動をしています。私はこういった幅広い活動については、まさに、「マルチ」という用語を当てるのが適当だと考えます。マルチな活動をするだけに、本書では言及していませんが、英語で総合商社に相当する定訳がありません。というか、正しくは sogoshosha であって、サムライ、フジヤマ、ゲイシャなどと同じで日本語がそのまま英語になっています。それほど独特なマルチの活動を展開しているといえます。本書では、そのマルチな活動として、主として8つの活動をp.178以降で取り上げています。本書では、冒頭で社史をひも解いていて、まあ、それはそれでいいのですが、このあたりのマルチな活動はもっと早い段階で紹介しておくのも一案かと思います。そして、総合商社の活動の基本になっているのは、やはり、マルチな活動であるがゆえに業としての規制がほぼほぼないという点も忘れるべきではありません。私の学生時代には、大規模な製造業、日立とか、トヨタとか、当時の新日鉄とかに加えて、今でいうところのメガバンク、当時の表現でいえば都市銀行、総合商社などが人気の就職先でした。私のゼミの先輩で本書でも紹介している堅実経営の総合商社に就職したものの、ヘッジのための為替取引を担当し2-3年おきに胃潰瘍を患って入院をしていた人もいたりします。それなりに体力的には過酷な業務ながら、やりがいもあると聞き及んだことがあります。私のゼミの学生で総合商社に就職する学生が出るよう願っていたりします。

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最後に、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)です。著者は、毎日新聞のジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、街中で「いい居酒屋知らない?」と声をかけて、マルチ商法のマインドコントロールに追い込んで、人間関係からカネを搾り取る脱法マルチについてルポしています。こういったマルチ商法は、基本的に、カルト宗教と同じで、人間関係からマインドコントロールに入って、基本的には、経済的に金銭を搾り取る、という形になります。マインドコントロールという点では宗教カルトと同じです。そして、カネを目的としている点も同じです。マルチ商法とは、経済学的にはすでに解明されていて、いわゆるポンジスキームという名称まで与えられています。ポンジースキームとは、マルチ商法の逆回りでいえば、借金で借金を返すという雪だるま式に借金が増えるだけで、サステイナブルであるハズもなく破綻に向かうだけです。合理性はまったくありません。このスキームは、それらしく、本書p.189に図解されていますが、ネズミ講=無限連鎖講と同じで、いつかは破綻します。なお、宗教については、合理性ないのは明らかなで「信ずる者は救われる」ので世界すが、マルチ商法のように一見経済行為と見える活動に対して合理性が働かないのは私はかねてからとても不思議に関していたのですが、マインドコントロールで宗教的に、というか、心理学的にコントロールされているのだとは知りませんでした。結局のところ、近づかないのが一番、という気がします。というのは、私が父親からいわれたのとほぼ同じ注意を倅どもが高校を卒業して大学に入る時にした記憶があり、第1に宗教は絶対にダメ、第2にマルチ商法は逃げられるのなら見極めて逃げるべし、第3に学生運動はホントに正しいと心から信じるのであればOK、というものです。しかし、マルチも宗教と同じでマインドコントロールされるのであれば逃げられない確率が高く、最初から手を出すべきではない、ということになりそうです。最後に、私は実は国民生活センターに勤務した経験があり、マルチ商法にはそれなりに知見があります。その目で見れば、やや取材が甘くて踏込み不足な点も見受けられます。でも、まったくマルチ商法について情報ない向きには、それなりに参考になると思います。

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2023年1月27日 (金)

萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読む

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萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読みました。1967年に出版された光瀬龍の同名のSF小説を原作として萩尾望都が漫画化しています。原作の小説にせよ、漫画にせよ、いくつかのバージョンがあるのですが、今回、私が読んだ漫画は小学館のプチコミックスから1985年に出版されたものでした。でも、この漫画が『少年チャンピオン』に連載されていたのは1970年代後半だと思います。どうでもいいことながら、1985年なんて大昔という印象がありますが、私はすでに公務員として働き始めていましたし、この年に阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制しましたので、役所で祝勝会をやった記憶もあります。
ということで、なぜ読んだのかというと、先週の読書感想文ブログで、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)を取り上げた際に、人類は肉体を棄てる、という結論を紹介しました。同時に、この『百億の昼と千億の夜』の漫画では、「A級市民はコンパートメントが提供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていた」と不確かな記憶を引いておきました。その私の記憶を確認するために読みました。はい。私の記憶が正しかったです。ゼン・ゼン・シティではでっぷりと太ったA級市民はコンパートメントで眠っており、B級市民がコンパートメントを欲しがる、という部分があります。
またまた、どうでもいいことながら、いくつか不確かな知識を並べておくと、第1に、この1970年代から1980年代前半くらいまで、このころの日本の上流階級、というか、今でいうところの富裕層というのはゼンゼン・シティのA級市民のように、でっぷりと太っていた記憶があります。北朝鮮や中国の政権トップの体型は今でもそうなっているという気がします。40-50年くらい前までは日本の政権トップも似たようなものでした。ひょっとしたら、ある種のステータスであったのかもしれません。別のトピックながら、三島由紀夫が「人間というのは豚になる傾向をもっている」と予言したと、適菜収『日本人は豚になる』(KKベストセラーズ)では指摘しています。何かの関連があるかもしれません。ないのかもしれません。第2に、呼び方はともかく、A級市民とB級市民への階級分化については、ほかにもいろんな小説や映画などで扱われています。中でも、強烈に私の印象に残っているのが、貴志祐介『新世界より』(講談社文庫)です。人間とバケネズミの関係などで言及されています。さらに、どうでもいいことながら、この小説も及川徹が漫画化しています。

まったく新刊書読書でもなんでもないのですが、大学の授業や定期試験監督が一段落して、ややココロにゆとりがある週末の前に、冗長ながら、取り上げておきたいと思います。

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2023年1月21日 (土)

今週の読書は経済書のほかに新書4冊も含めて計6冊

今週の読書は以下の通りです。
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)では、古典派ないし新古典派への回帰を図るネオリベな経済理論を強く批判しています。井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)は、メタバースの基本を解説しつつ、メタバースで供給・消費されるデジタル財からなる経済について解説を試みています。中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)では、いわゆる空想的社会主義のサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人の思想や実践に焦点を当てています。牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)は、ナチスをはじめとする全体主義の恐怖を取り上げています。鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)は、徳川期から昭和期1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展史を地形にも注目しつつ跡付けています。辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)は、終戦直後の過酷なシベリアでの捕虜収容所で未来への希望を失わなかった山本一等兵の物語です。
ということで、今年の新刊書読書は今週の6冊を含めて計17冊になります。
どうでもいいことながら、最近、ミステリを読んでいない気がします。ようやく、図書館の予約の順番が回ってきましたので、新刊ではないながらディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)を借りることができました。映画化もされ、話題になったミステリですので、早速、読んでみたいと思っています。

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まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)です。著者は、フランスのエコノミストであり、レギュラシオン理論の第1人者でもあります。フランス語の現代は Une discipline sans réflexivité peut-elle être une science? であり、2021年の出版です。フランス語の現代を直訳すれば「再帰的反省なき学問は科学たり得るのか?」という意味だと思います。キーワードは「再帰的反省」であり、フランス語では "réflexivité" あるいは、英語にすれば "reflexivity" ということですから、英語の "recursivity" や "recursion" ではありません。訳注(p.15)では「研究対象に対する研究主体を客観的に反省すること」とされています。ただ、こういった議論は別にして、本書では20世紀終わりころから、そして、典型的には2008年のリーマン証券破綻からの金融危機、さらに、2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより混乱まで、レギュラシオン学派ならざる主流派経済学、特に、新自由主義=ネオリベな実物的景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクル=RBC理論)の破綻について論じています。もちろん、その解決策がレギュラシオン理論、ということになります。ボワイエ教授の考えでは、本書に限らず他の著作などでも、理論は歴史の娘であって合理性の娘ではない、という点が強調されます。ケインジアンないしニュー・ケインジアンの経済理論を「ミクロ的基礎づけ」の観点から批判し、古典派ないし新古典派への回帰を図る経済理論を強く批判しています。特に、私が強く同意するのは経済学の数学化に関する第5章から第6章の議論であり、何度か私も主張しているように、エコノミストが用いている経済学のモデルは現実に合わせて修正されるのではなく、逆に、モデルに適合するように政策的に現実の経済社会が古典派の世界に近づけられている危惧が本書でも指摘されています。もちろん、どうしてエコノミストがそのようなインセンティブを持つかといえば、エコノミストのヒエラルキーがあるわけで、私のように上昇志向を持たない例外は別にして、トップ・ジャーナルへの掲載を志向すれば、いろいろと制約条件が重なるわけです。経済学が専門職業化し、さらに学問分野が細分化され、個々のエコノミストの視野狭窄が始まると、経済学が現実の経済社会の問題を解決する能力が低下しかねない、というのはその通りで、現実に生じていいるといえます。そして、経済学をもとから考え直すべき基礎は歴史である、と著者は強く主張します。私はこの点にも合意します。経済学があらぬ方向に向かってしまった今となっては、さまざまな観点からの経済学の再生めいたアクションが必要なのかもしれません。

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次に、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)です。著者は、駒澤大学のエコノミストです。冒頭にタイトルとなっているメタバースの簡単な解説をした後、本書の主張はノッケから、将来の経済がスマート社会とメタバースに分岐する、というところから始まります。すなわち、どちらもAIやデジタル技術が大いに活用されるわけですが、現実社会がAIの活用などによって純粋機械経済に近づくのがスマート社会であり、後者のメタバースとは、大雑把に、仮想現実(VR)や拡張現実(AR)が進化したものであり、通貨も仮想、あるいは、暗号通貨だったり、アバターで活動して生身の人間の所在が問われないわけです。もちろん、本書は現実社会の空間がスマート化していくことはスコープ外であって、後者の仮想・拡張空間の進化型の経済活動を対象にしています。ですから、メタバースにおける経済活動は純粋デジタル経済になります。そのココロは、純粋なデジタルな財とサービスだけが供給される経済、ということになります。実体経済のスマート化が進み、デジタルでない実体あるモノやサービスはスマート社会から供給され、メタバースで供給・消費されるデジタル財は実体のあるモノやサービスではありませんから、資本財は不要で、限界費用はコピーですからゼロになり、差別化された財の供給という意味で独占的競争が支配的になります。ですから、希少性に従って市場で価格付がなされ、その価格に応じて資源配分されれば効率的、という経済学ではなくなります。限界費用がゼロで供給が無限、というか、経済学的に正しくいえば、希少性がゼロになります。私のような単純エコノミストがパッと思い付きで考えれば、資本主義社会の次に来る社会主義を飛び越して共産主義になるようなものです。ですから、本書でも真剣に資本主義がどう変わるかを第5章で議論しています。現在の企業に代わって、分散型自立組織=DAO (Decentralized Autonomous Organization)が経済活動の中心になれば、資本家/経営者/労働者といった階級分化はなくなり、デジタル通貨により銀行支配が大きく縮小する可能性が示唆されます。同時に、格差についても、明らかに、地域格差は縮小、というか、消滅の方向に向かいます。気候変動=地球温暖化も緩和される可能性が示唆されます。そして、本書の最後の結論は人類は肉体を棄てる、というものです。ここまでくると、まるっきりSFチックなものですから、眉唾で懐疑的な見方が増えそうな気もします。この結論は別としても、メタバースないしメタバース経済に関する入門書としては適切ではないか、と私は考えます。最後の最後に、人類が肉体を棄てるかどうかについて、光瀬龍の原作を基にした萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』では、A級市民はコンパートメントが供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていたように私は記憶しています。まあ、やや記憶が不確かなのは認めます。

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次に、中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、専門は政治学です。本書でいうところの「社会主義」は、理論とか運動場の社会主義であって、しかも、その前夜ですのでマルクス主義的な科学的社会主義ではなく、サン=シモン、オーウェン、フーリエの3人を軸とする空想的社会主義について、経済社会の時代背景などとともに振り返っています。すなわち、資本主義社会黎明期としての19世紀初頭から半ばにかけて、フランス革命後の政治的、あるいは、産業革命期に不安定だった経済社会、資本家と労働者のはなはだしい貧富の格差、貧困層の劣悪な労働・生活環境といった問題に取り組んだ理論・思想・運動としての社会主義の誕生の時期にスポットを当てています。後には、暴力革命による体制変革を目指すマルクスとエンゲルスによって空想的社会主義と名付けられ、まあ、マルクス=エンゲルスの科学的社会主義よりもやや質落ちの印象が与えられましたが、オーウェンが米国で始めた労働協同村ニューハモニーとかの実践も本書では取り上げています。ただ、空想的社会主義のその後の歴史的な発展は本書ではややスコープ外とされているようで、英国ではフェビアン協会から労働党が組織されたり、あるいは、欧州各国で革命的な共産主義ではなく改良主義的な社会民主主義の正統が政権に参加したりといった活動は本書では取り上げられていません。もちろん、マルクス=エンゲルスによる科学的社会主義が現在の共産主義につながっていることは明確なのですが、空想的社会主義が社会民主主義につながっているのかどうかは私はよく判りません。ただ、病気の治療なんかもそうですが、経済社会の問題解決に当っては対症療法というのも決して無視してはいけない、と私は考えています。例えば、人類はほぼほぼ天然痘を地球上から駆逐したといわれていますし、こういった病気の克服というのは、もちろん、ある意味での最終目標なのかもしれませんが、熱を下げたり咳を止めたり痛みを緩和したりといった対症療法も必要な場合は少なくないと考えます。また、マルクス=エンゲルス的な社会主義/共産主義がソ連東欧で失敗したわけですし、対症療法として、あるいは、空想的とはいえ、こういったサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人が果たした役割というのは決して小さくない、と私は考えています。

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次に、牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)です。著者は、広島大学名誉教授で専門は政治学や政治思想史です。タイトル通りに、ハンナ・アレント女史を反全体主義という観点から取り上げています。ハンナ・アレントといえば、アイヒマン裁判の傍聴から「悪の凡庸さ」を指摘した、くらいしか情報を持たない私のような専門外のエコノミストはちゃんと認識していなかったのですが、権威主義体制と暴政(専制)と全体主義を区別して、判りやすい概念図としてpp.40-41に示してあります。暴政(専制)は1人の暴君がその他すべてを等し並に支配するのでやや判りやすくなっています。他方で、権威主義では超越的な指導者から取り巻きがヒエラルキー=階層構造を成している一方で、全体主義では指導者から同心円的な構造をなしていて階層構造を成していない、という違いがあるそうです。そして、というか、なぜなら、ハンナ・アレントが喝破したように全体主義とは運動である、と考えるべきだからです。もちろん、ハンナ・アレントの全体主義はほぼほぼナチス/ヒトラーと同じと考えるべきですが、当然ながら、イタリアのファシズムや日本の戦前体制も同様の特徴を兼ね備えています。他方で、本書では反ユダヤ主義や全体主義について、かなり歴史的に古くまで概観しているのはいいとしても、同時に、特に、反ユダヤ主義的行為、というか、ユダヤ人虐殺が権威主義的なパーソナリティに基づいて実行されている点は軽く扱われているような気がします。トイウノハ、アイヒマン的にユダヤ人虐殺に対して何らの人道的な痛みも感じることなく、いわば「上司からの命令に基づく業務遂行」のような形で実行している点は私はそれなりに重要な点だと考えています。のちの、ジンバルドー教授によるスタンフォード監獄実験の結果と同じで、役割を割り振られれば良心に反する行為でも実行されかねない危うさは指摘してもしすぎることはないと思います。他方で、私のようなエコノミストの目からすれば、反ユダヤ主義がナチスの残虐行為の源泉とみなされるのも、やや危うさを感じます。ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で指摘したような過酷な賠償という要因も忘れるべきではないからです。最後に、私の読み方が浅かったからかもしれませんが、やや読後感がよくなかったのは、どこまでがハンナ・アレントの考えで、どこからが著者自身の考えかが、必ずしも判然とはしなかった気がします。一般向けのコンパクトな新書ですから、学術論文的に引用や参考文献をどこまで示すかは議論あるところですが、少なくとも、ハンナ・アレントの主張と、それを基にした著者自身の考えは、もう少し判りやすく記述してほしかった気がします。

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次に、鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)(ちくま新書)です。著者は、東京都水道局ご勤務の公務員のようです。ただ、おそらくは技術者ではなく、ビジネス関係の大学のご卒業です。ということで、タイトルから明らかなのですが、近世徳川期から現代、大雑把に昭和の1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展を跡づけています。ただし、タイトルのように地形で跡づけているのは江戸期だけで、明治期以降の近現代はあまり地形には関係なく、というか、科学技術の進歩によって地形の制約が薄れた、ということなのだろうと思いますが、結果的に地形とは関係薄い東京の発展、ということになっています。お仕事柄なのかどうか、江戸期の上水道に関してはとても詳細な解説でした。でも、地形に即しているとはいえ、やや土木技術的な観点が多くて、専門外の私には判りにくかった気がします。他方で、社会科学的な観点から江戸・東京の発展史について、背景も含めて、判りやすく、かつ、多くの読者が興味を持てるように語られているわけでもないわけで、私の目から見て、やや辛い評価なのかもしれませんが、歴史書や事業史といった既存の参考文献をひもといて事実関係を羅列したに近い印象でした。まあ、私のように、浅草に使い下町から城北地区、世田谷区や杉並区といった山の手の住宅街、さらには多摩地区までいろいろと東京の中でも移り住んで、それなりの土地勘ある読者にはいいような気もしますが、それ以外の東京についての情報が少ない読者には大きな興味を持てる内容とは思えませんでした。私は年に何冊か「京都本」を読みますし、おそらく、それほど京都に土地勘ない読者にも興味を持てるように工夫されている感覚が判るのですが、本書については東京在住者の、しかも、読解力が一定の水準に達した、もしくは、マニア的な読者がターゲットなのかもしれません。でもまあ、それだけ東京や首都圏に人口が集中しているわけなので、読者も多数に上るのかもしれません。

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最後に、辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)です。本書は映画のノベライズ小説です。著者は、映画の原作となった『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の作者の小説家と映画の監督です。表紙画像にあるように林民夫監督作品として、二宮和也と北川景子の主演で昨年2022年12月に封切られています。私は不勉強にして映画は見ていません。まあ、何と申しましょうかで、映画は見なくてノベライズ小説を読んでおく、というのは、『すずめの戸締まり』と同じパターンだったりします。それはさておき、まず、「ラーゲリ」とはロシア語で強制収容所を意味します。そうです。この小説は、終戦直前に中国の旧満州から一家が帰国しようとする際に、家族と離れてシベリアの強制収容所に捕虜として抑留された山本幡男一等兵の物語、というか、映画のノベライズです。以下、ストーリーを追いますので、結末までネタバレと考えられる部分を含み、この先は自己責任で読み進むことをオススメします。ということで、十分な食事や休養も与えられずに、まったく国際法や基本的人権を無視されたまま強制労働に従事させられ、栄養失調や過酷な労働で病気や怪我をした上に、十分な治療もなされずに亡くなったり、あるいは、自ら命を断ったりする収容者が続出する中で、主人公の山本幡男一等兵は未来への希望、すなわち、家族の待つ日本への帰国の希望を持ち続け、人間らしい尊厳を保ちつつ、日々を過ごします。こういった人柄が収容所の周囲の人々にも伝播し、少しずつ収容者の気持ちにも変化が見られます。しかし、山本幡男一等兵を病魔が遅い十分な治療を受けられずに亡くなります。その直前に、長い長い遺書を書くわけですが、こういった遺書は収容所では許されず没収されるリスクがあることから、宛先別、すなわち、母宛、妻宛、子供達宛に分割して周囲の友人が記憶し、待ちに待った帰国の際の船中で文書に書き残し、帰国後に遺族を探し出して遺書を届ける、というストーリーです。私は感激しながらも涙なしで読み終わりましたが、読者、あるいは、映画の鑑賞者によっては滂沱の涙を流す人がかなりいそうな気がします。たぶん、泣きたい人にはオススメでしょう。

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2023年1月19日 (木)

千早茜『しろがねの葉』直木賞受賞おめでとうございます

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千早茜『しろがねの葉』(新潮社)、直木賞受賞おめでとうございます。作者は、我が勤務校の立命館大学OGだそうです。私は受賞直前に読んでおきました。

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2023年1月14日 (土)

今週の読書は経済書なしで小説を中心に計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)は織豊政権末期から徳川初期にかけての石見銀山での女性の生き様を描き出しています。直木賞候補作であり、私は『光のとこにいてね』とともに、受賞を期待しています。なお、作者は私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。続いて、石井幸孝『国鉄』(中公新書)は、国鉄に技術者として務め、国鉄の分割民営化後はJR九州の初代社長を務めた著者の国鉄に関する歴史や企業体としての記録です。そして、佐伯泰英『異変ありや』、『風に訊け』、『名乗らじ』(文春文庫)は、「居眠り磐音 江戸草紙」のシリーズを引き継ぐ「空也十番勝負」のシリーズです。九州での武者修行を終えた坂崎空也が東に向かいます。
ということで、今年の新刊書読書は、先週の6冊と合わせて11冊となります。

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まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)です。著者は、もちろん、小説家なのですが、私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。この作品『しろがねの葉』のほか、『あとかた』と『男ともだち』が直木賞候補作としてノミネートされています。ということで、時代背景は織豊政権末期から徳川期初期にかけて、地理的には石見銀山、ということになります。主人公はウメという女性であり、農村に生まれますが、逃散の途中で父母と生き別れになって山師の喜兵衛により、石見銀山で育てられます。時代が徳川の世になり、徳川御料地となっても石見銀山の活動に大きな変化はありません。ウメの育ての親である喜兵衛は石見銀山から佐渡に去りますが、ウメは石見銀山に残り、夫婦となって子をなします。しかし、銀山の鉱毒で夫は亡くなり、さまざまな試練に直面しながらも強い生き方が印象に残ります。ウメの生きざまが凛として美しい、と感じました。

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次に、石井幸孝『国鉄』(中公新書)です。著者は、技術者として国鉄に勤務し、分割民営化後はJR九州の初代社長も務めています。戦後の国鉄の公営企業としての社史を跡付けるとともに、技術上の革新や進歩、あるいは、経営上の問題点などを極めてコンパクトに取りまとめています。ただ、「コンパクト」とはいっても、そもそも国鉄は超巨大企業体でしたので、新書としては異例の400ページ近いボリュームとなっています。経済学的にいえば、電力などの多くのインフラ企業と同じで、大規模な鉄道はいわゆる限界費用低減産業であり、規模の経済が働きます。ですから、ある程度の規模を持たないと経営は成り立ちません。でも、国鉄の場合は巨大であっただけに経営も困難となった面があります。一般的には、鉄道から輸送手段がモータリゼーションによって自動車に転換したのが輸送量減少の一因とされますが、必ずしも輸送量が減少したからといって、あそこまでの赤字を計上するとは限らないわけで、どこかに非効率があったといわざるをえません。でも、「親方日の丸」の非効率だけですべての国鉄赤字を説明できるわけでもなく、さまざまな複合的な要因があるわけです。それを経営だけでなく技術や歴史も含めた新書くらいのボリュームで取りまとめた本書は、ある面では、ムリがある一方で、それなりにコンパクトで有り難い、という気もします。

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最後に、佐伯泰英『異変ありや』『風に訊け』『名乗らじ』(文春文庫)です。著者は、時代小説家です。というか、最初はスペインを舞台にした小説を書いていたようなのですが、サッパリ売れずに渋々時代小説に転じた、といったところのような気がします。この「空也十番勝負」のシリーズの主人公は坂崎空也なのですが、その父親の坂崎磐音を主人公にした「居眠り磐音 江戸草紙」シリーズが51巻に渡って続いていました。私はすべて読んでいます。親子で剣術家であり、時代は江戸期の田沼時代から少し下がったあたりです。「居眠り磐音」のシリーズは、双葉文庫で出版されていた後、文春文庫に移行しています。「空也十番勝負」のシリーズは最初から文春文庫だったのかもしれません。ということで、坂崎磐音の郷里である関前から武者修行に出た坂崎空也が、長崎での修行を終える際に、薩摩藩の刺客に襲われて、ほぼほぼ相討ちとなって大怪我を負い、長崎らしく蘭方医の手当を受けたところからこの第6巻が始まります。そして、、空也は東に向かい、萩藩城下、さらに、東に向かいます。武者修行の終わりは姥捨の里と決めているようです。「居眠り磐音」のシリーズと違って、この「空也十番勝負」のシリーズは剣劇ばっかりで、やや私は退屈しました。「居眠り磐音」のシリーズでは江戸を中心に侍だけでなく、町民の暮らしや政治向きのトピックなども豊富に取り上げられていましたので、退屈しませんでしたが、この「空也十番勝負」シリーズは剣術ばっかりです。なお、すでに第9巻の『荒ぶるや』が1月に出版されていて、3月に出版される第10巻で終結、というスケジュールのようですが、私はまだ第9巻は読んでいません。集結する第10巻と合わせて読みたいと予定しています。

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