2017年2月18日 (土)

今週の読書も話題の経済書などハイペースに計9冊!

今週もお近くの区立図書館ががんばって予約を回してくれて、ヘリコプターマネーで注目の経済書など計9冊です。手軽に終わらせるべき本については読書感想文も短めにしています。今日の午前中にいくつかの図書館を回ったんですが、来週こそはペースダウンできるのではないかと期待しています。

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まず、アデア・ターナー『債務、さもなくば悪魔』(日経BP社) です。作者は英国金融サービス機構長官を務めたエコノミストであり、本書はヘリコプターマネーを提唱した話題の書です。英語の原題は Between Debt and the Devil であり、頭韻を踏んでいるんでしょうか。ショッキングな邦訳タイトルながら、かなり原題に近いといえます。出版は2016年です。ということで、ヘリコプターマネーがどうしても注目されるんですが、本書はそれにとどまらず、2009年からの金融危機やその後の Great Recession また長期停滞論なども視野に含めて、幅広い議論を展開しています。需要は貨幣創造で創出できるというのが結論であり、まさにリフレ派や私の直観と一致します。もっとも、本書でも銀行貸出は生産要素に向かうのではなく、最近では不動産ストックの取得に向かっているとの指摘が痛かったです。最近、私の所属する研究所で勉強会をやった折にも、マネーが資産購入には向かわず、文字通り「漏れなく」購買力に向かうというモデルの発表を聞いて脱力した記憶があります。また、100%準備銀行として、民間銀行に信用創造を許さないような制度を考えるかと思えば、ヘリコプター・マネーの議論をしてみたりと、偏見なく経済を上向かせる、あるいは、バブルを防止するような政策を網羅しているような気がします。ただ、最後の解説の早川さんはミスキャストです。本訴の結論に対しても、両論併記と言うか、いろんな見方を提起して議論を曖昧にしたり、本書の重要な結論のいくつかに疑問を呈したりと、本書で明確に否定された旧日銀理論を振りかざしています。理解のはかどらない出版社幹部が勝手にセッティングしてしまい、担当編集者がどうしようもなく断れなかったような気がします。こんな解説なら、むしろ、なかったほうが著者の意向に沿うような気がします。最後に、ヘリコプターマネーの有効性については私は著者とほぼほぼ一致しているんですが、現在の日本の経済情勢においては十分な成長を実現しており、ヘリコプターマネーは必要ない、というのが私の見立てです。ご参考まで。

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次に、フィリップ E. テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』(早川書房) です。著者の2人は政治心理学の研究者とジャーナリストです。この組み合わせで連想されるのが『ヤバい経済学』の2人の著者なんですが、本書の場合、本文中に1人称で出現するのは研究者のテトロック教授が多いような気がします。英語の原題は Super-Forecasting であり、邦訳のタイトルはほぼほぼ忠実に原題を直訳しているようです。2015年の出版です。タイトル通りの超予測について、さらに、実在の超予測者について、彼ら彼女らがどのように予測しているかのプロセスを考察しています。特に、超予測者についてはまとめとして、pp247-49 にいくつかの特徴を箇条書きしています。必ずしも経済書ではないかもしれませんが、一貫して主張しているのが、ランダムな判断として「サルのダーツ投げ」を引用していて、明示的な引用でははいものの、引用元はマルキール教授の『ウォール街のランダムウォーカー』です。私は大学に出向していた際の紀要論文に "An Essay on Random Walk Process: Features and Testing" というのがあり、"a blindfolded monkey throwing darts at a newspaper's financial pages could select a portfolio that would do just as well as one carefully selected by experts" として最後の結論で引用しています。また、予想は新しい情報が加われば変更すべきであるという著者の主張を補強する意味で、ケインズの言葉も引用されています。"When my information changes, I alter my conclusions. What do you do, sir?" なんですが、これも超有名なフレーズです。こう話しかけられた相手はサムエルソンではなかったかと記憶しています。また、軍事情報の予測も数多く取り上げられており、例えば、先日、大統領補佐官をわずか1月足らずで辞任したマイケル・フリンが国防情報局(DIA)長官を退官する直前のインタビューを取り上げ、pp.297-98 で国際情勢判断の間違いが指摘されています。いずれにせよ、予測を行うのに必要なのは、本書では明記していませんが、インプットする情報の質と量、それに、そのインプットをプロセスする評価関数もしくはモデルであり、予想が間違う場合は後者の評価関数もしくはモデルがおかしい場合が圧倒的に多い、と私は考えています。ケインズ的な評価関数(モデル)の臨機応変な変更をはじめ、評価関数(モデル)を洗練させるのに必要ないくつかの要素を読み取れれば、本書の読書の成果といえるかもしれません。

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次に、安岡匡也『経済学で考える社会保障制度』(中央経済社) です。著者は関西学院大学の研究者であり、本書は、基本的に、大学生に対する教科書、あるいは、初学者向けテキストとして執筆されたものだそうですから、期待すべき水準を推し量ってから読み始めるべきような気がします。全18章のうち16章までがほぼ制度論で、年金、医療、介護、生活保護、雇用、育児支援、障害者福祉となっています。もちろん、すべてが制度論ではなく、いくつか経済モデルの実際の数値例を基に、効用関数との対比でマイクロな選択の最適化などが扱われています。公務員試験に出そうなものもあったりします。ただ、制度論ですから社会保障の全体像を政府予算から把握できるようにするとかの工夫も欲しかった気がします。国際比較はいくつかの社会保障政策の分野ごとに扱っていますが、なぜか、国内の社会保障政策全体像の中で個別の年金や医療などの政策がどのように位置づけられているのかが明らかにされていません。個別の制度論から外れるのは最後の2章だけで、所得格差の指標と財源調達の経済分析を扱っています。財源では、消費税の軽減税率を批判していますが、とてももっともです。

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次に、フランシス M. ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会) です。著者は米国のミステリ作家・研究家・アンソロジストだそうです。というよりも、1974年出版の原書 Royal Bloodline、1980年の邦訳書『エラリイ・クイーンの世界』の作者といった方が判りやすいかもしれません。我が国ミステリ界に大きな影響を残した名著です。なお、この作品の英語の原題は Ellery Queen Art of Detection ですから、ほぼ忠実に邦訳されています。2013年の出版です。要するに、前著で積み残した部分を補った完全版、という気がします。ただ、前著との比較は私の能力を大きく超えていますが、私にとって参考になったのは、いわゆる本格推理小説である国名シリーズをはじめとするクイーンの初期の著作、と中期も最初の方の『災厄の町』や『九尾の猫』などであり、1940年代前半くらいを中心とするラジオ・ドラマについては、ほとんど興味ありません。日本人にはアクセスできないでしょうし、聞けたとしてもネイティブの米国人などとは理解度が違うんではないかと思います。ただ、オーソン・ウェルズの「宇宙戦争」が大混乱を巻き起こしたのが1938年ですから、年配の世代にはクイーンといえば小説よりもラジオ・ドラマの印象が強かった時代があるのかもしれません。ほか、19章でランダムに取り上げた作品解説、20章からのクイーンではない作家の代作なども興味深かった気がします。なお、本書の序でクイーンの名前が(日本を除いて)忘れ去られていると著者が記していますが、そうなんでしょうか。私もクイーンの小説はドルリー・レーンが主人公の4作を入れても、国名シリーズと『災厄の町』や『九尾の猫』くらいしか読んでいません。我が家の倅もミステリは好きそうなんですが、彼らの世代になると日本でもだんだんと忘れ去られていくのかもしれません。

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次に、清武英利『プライベートバンカー』(講談社) です。著者は読売新聞の記者を長らく務めたジャーナリストであり、ジャイアンツの球団代表まで勤めましたが、コンプライアンス違反を内部から告発して解雇されています。もともと、ジャイアンツというのは後ろ暗い裏のある球団ではないかと私は勝手に想像していますが、それにしても、著者はとても信頼を置けて尊敬できるジャーナリストではないかという気がします。2015年11月に山一證券の最後の整理を担当した人々を取材した『しんがり』を読んで、このブログに読書感想文をアップしています。本書はタイトルなどからも理解できる通り、シンガポールを舞台にした富裕層や超富裕層の個人資金を預かるプライベートバンカーを中心にしたノンフィクソンなんだろうと思いますが、一部にフィクションの小説的な要素も含まれており、どこまでがノンフィクションの事実で、どこからがフィクションなのかは私には不明です。主人公は実名である旨が明記されており、野村證券営業部隊の出身であるプライベートバンカーです。相続税逃れのためにオフショアのタックスヘブンであるシンガポールに移住して、何をすることもなく英語が出来ないので現地に溶け込めずに日本人ムラでブラブラしている富裕層を相手にしたビジネスなんでしょうが、とても批判的な視点から事実や事実に近いフィクションを取りまとめています。加えて、我が国の国税庁からの長期出張者の活動、私が考える限りはこの部分がもっとも事実を伏せている気がしますが、また、最後は顧客の資金を横領するプライベートバンカーについても取り上げ、とても幅広い取材の苦労がしのばれますが、さすがに、数十億円単位のカネを集めながら、何に投資しているのか、この部分だけはブラックボックスで終えています。仕方ない気もしますが、何か臭いだけでも発しておいて欲しかった気がします。

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次に、ピーター・ペジック『近代科学の形成と音楽』(NTT出版) です。著者は物理学の研究者であり、在野の音楽家でもあるようです。英語の原題は Music and the Making of Modern Science であり、冒頭のはしがきに科学ではなく音楽が先行する旨を強調しているにもかかわらず、科学と音楽を逆に邦題にしたセンスが私には理解できません。2014年にマサチューセッツ工科大学(MIT)出版局から出版されている学術書です。どこがどう学術書なのかというと、基本的に入門レベルの科学史となっています。しかも、英語の原題でも「近代科学」をうたっているんですが、ギリシアの古代科学から始まります。ケプラー、デカルト、オイラーなど、数学の精緻な世界観や近代科学の宇宙論とか古代科学も含めて天文学のハーモニーと音楽は、何となくの直観ながら相性がいいように思わないでもないんですが、相対性理論や特に量子力学になった以降の確率論的な科学といまだに決定論的な音楽については、どう考えるべきなのかは本書では扱っていません。化学や生物学との音楽は疎遠な気がします。これらはどう考えるべきか、興味あるところです。音楽と科学に関する古代からの図版が数多く収録されていて、それらを見ているだけでも豊かな音楽性が身につくような気になったりします。

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次に、有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川書店) です。作者はいわずと知れた新本格派のミステリ作家であり、火村シリーズ最新作です。思い起こせば、前作『鍵の掛かった男』を読んで読書感想文をアップしたのが2015年11月8日でしたから、1年余前になります。前作では、作家がタマネギの皮をむくように、ひとつひとつの事実解明に当たった後、最後の最後になって火村准教授が登場して、サヨナラの挨拶である「カウダカウダ」をキーワードとして、パタパタと一気に事件が解決する、という展開だったんですが、この作品は真逆というか、最初の方から火村が登場するものの、最後でとても以外な事実が判明する、という形になります。前作と同じで、新本格派らしからぬ動機のしっかりしたミステリです。「俺が撃つのは、人間だけだ」とうそぶきつつ、犯人を一気に追い詰め犯罪を狩る火村の迫力が尋常ではありません。最近は京都をホームグラウンドとする新本格のミステリ作家の中でも、我が母校の京大推理研出身作家よりも、ついつい、同志社出身の有栖川有栖の作品を読む機会が多いような気がして仕方がないんですが、綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸などの活躍を期待します。

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次に、中山七里『セイレーンの懺悔』(小学館) です。著者は『さよならドビュッシー』でミステリ作家としてデビューし、私も何冊か読んでいます。この作品は『きらら』の連載を単行本に取りまとめています。主人公はテレビ局の女性取材記者ですが、まだ2年目と若く、中堅のエース格の男性記者と組んでいます。女子高生の誘拐殺人事件を取材しているんですが、テレビ局が放送倫理・番組向上機構(BPO)から度重なる勧告を受け、午後の看板ワイドショーの番組存続の危機にさらされた社会部記者として、ついついスクープを求めて不十分な裏付けで動いて誤報を演じてしまいます。すなわち、警視庁の刑事を尾行した主人公は廃工場で暴行を受け無惨にも顔を焼かれた被害者を目撃してしまい、クラスメートへの取材から被害者がいじめを受けていたという証言を得て、そのいじめの主犯格とその取り巻きを犯人と断定して報道し、別の犯行グループが警視庁に逮捕されて、看板番組のスタッフは総入れ替えとなってしまいます。しかし、その犯行グループも実際に被害者を考察した記憶がないとの供述を始め、驚愕の心煩人が逮捕され、さらにさらにで、その殺害に至るバックグラウンドに主人公が深く深く入り込んでしまいます。最後は、報道するメディア、というか、この作品では古式ゆかしく「マスコミ」という表現を使っていますが、報道機関のあるべき姿に主人公が気づいて締めくくりとなります。メディア論としては極めて薄っぺらですが、ミステリとしてのどんでん返しは読みごたえがあります。

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最後に、依田高典『「ココロ」の経済学』(ちくま新書) です。著者はわが母校の京都大学経済学部の研究者であり、本書では行動経済学を判りやすくカラー刷りで解説しています。とはいうものの、私は本書のタイトルである行動経済学とセイラー教授らの実験経済学とカーネマン教授らの経済心理学の区別がやや曖昧であるものの、これらに対する印象は決していいものではありません。第1に、本書でも指摘していますが、合理的なホモ・エコノミカスを前提とする主流派経済学の恒星に対する惑星というか、太陽に対する地球というか、地球に対する月というか、要するに、合理性を前提とする主流派経済学は第1次接近としてはまだまだ有効であり、それに対するアンチテーゼとしてのみ行動経済学の存在価値があるような気がします。第2に、行動経済学や実験経済学については、経済学のカテゴリーではなく、マーケティングやセ0ルスマンの口上の範囲にある事柄が少なくないような気もします。最後に、強烈に感じるのは、これらの学問領域はあくまでマイクロな個人レベルの選択に関する問題意識であり、企業レベルにすらなっておらず、多くの国民が関心高い景気や物価や失業やといったマクロ経済学に積み上げていく際に合成の誤謬なdpが生じて、マイクロな個人の選択がマクロの好ましい経済活動を保証しない、という点にあります。その意味で、この経済学領域にはまだ私自身で疑問が払拭されていません。

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2017年2月11日 (土)

今週の読書も計9冊のオーバーリーディング!

今週も、経済書をはじめ、小説や新書も含めて計9冊です。じつは、今日の午前中のうちに近くの図書館をいくつか自転車で回ったんですが、アデア・ターナーの『債務、さもなくば悪魔』が光が丘図書館に届いていました。ヘリコプター・マネーで話題の本です。来週のいっぱい読みそうな予感です。

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次に、アルン・スンドララジャン『シェアリングエコノミー』(日経BP社) です。著者はインド出身のニューヨーク大学の研究者であり、この分野でもいくつか学術論文を書いていますが、本格的な著書は初めてだそうです。でも、しっかりした本であり、キチンと基本は押さえられている上に、私もよく知らない新しいシェアリングのサービスも大いに取り込んでいます。もっとも、私が知らないだけかもしれません。英語の原題は The Sharing Economy であり、そのままです。2015年の出版となっていますが、ものすごく日進月歩の分野ですので、いくつかの分析はすでに古くなっている可能性があります。ということで、シェアリング・エコノミーの中でも、Uber や AirBnB のような比較的人口に膾炙して以前から存在するビジネスだけでなく、議事ネスとして料金を徴収しない単なるサービスも広く含めている上に、ビジネスやサービスに従事する雇用者や独立起業家の労働待遇、あるいは、法的な地位まで視野に入れており、とても幅広くシェアリング・エコノミーを分析・解明しています。また、ついでながら、シェアリング・エコノミーとほぼほぼ同じ意味で、クラウド資本主義という用語も著者は使っています。従来のコミュニティや家族親族とシェアするのではなく、クラウドとして雲の中に存在する赤の他人から何らかのサービスを引き出す、くらいの意味ではないかと私は受け止めています。また、単にシェアするだけであれば、古くから存在するレンタカーや貸衣装などもシェアしているわけでしょうから、クラウドから引っ張って来るといったニュアンスはいいように思います。いずれにせよ、十分に利用されていない遊休部分のあるストックについて、インターネットからのアクセスにより料金を取る/取らないは別にして、赤の他人に開放する、というのが定義に近い気がします。そこから派生する問題についても、著者は本書で十分に理解して分析も加えています。消費者保護や労働者保護の観点は、現状の行政では対応しきれていないのは当然かもしれませんし、レビューによる選別や淘汰についても、ホントにサービスに対するレビューなのか、提供者の人種や性別・年齢に対する差別意識を含むのか、といった問題です。後者はダーウィン的なデータ進化論とも呼ばれているらしいです。ただ、すでに著作権上の問題ですでに死に絶えたナップスター類似のサービスについては、もう一度スポットライトを当てるのが正しいかどうか、私には疑問でした。本書で取り上げているシェアリング・エコノミーが新たなビジネス・チャンスなのか、単なる底辺への競争をあおるだけなのか、もちろん、シェアリング・エコノミーで大くくりにした一般論はムリでしょうが、直感的には Uber のように、後者である可能性が高いものも少なくないような気がします。こういった方向に対して、本書では p.324 からベーシック・インカムの議論を展開しています。シェアリング・エコノミーを論じる中で、非常に興味深い論点です。この点に着目した書評は多くないような気がしますが、シェアリング・エコノミーのひとつの弱点克服のための手段になりそうな気もします。最後に、この著書で取り上げられているシェアリング・エコノミーのビジネスについては、私が詳細を知らないものもあったりするんですが、少なくとも、Uber や AirBnB については明確な仲介者、というか、プラットフォームの提供者が存在しますが、現時点のこれらのビジネスは、ビジネスとしては中間段階の形態ではなかろうかと私は想像しています。というのは、おそらく、こういった仲介者の存在すらなくなって、ダイレクトに需要者と供給者がインターネットで結びつくのが第2段階の、というか、本来のシェアリング・エコノミーではなかろうか、とホンワカと想像しています。当たるかどうかは不明です。

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次に、デヴィッド・グレーバー『負債論』(以文社) です。著者はニューヨーク生まれの文化人類学者であり、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス大学人類学教授を務めています。同時に、反グローバリズム運動のアクティヴィストでもあるようです。ウォール街占拠運動に参加し、日本にも洞爺湖サミットに反対する運動に参加するために来日した経験があるようなことが訳者のあとがきに書いてありました。英語の原題は表紙画像に見える通り、DEBT であり、2011年の出版ですが増補改訂版が2014年に出されており、翻訳書はそれを底本にしているようです。なお、明示的ではないんですが、2部構成となっており、第8章がどちらかはビミューなんですが、第9章からが第2部になっています。第8章は第1部というよりは第2部なんでしょうが、ブリッジでつなぐ役割のような気もします。訳者あとがきでは、第8章からを後半と位置付けています。ということで、私なりに勝手に分割した第1部は貨幣の歴史を軽く考察し、実際には物々交換の時代は存在せずに、経済学者の頭の中だけにあると論じつつ、貨幣の起源を債務、というか、債務証券とそれに対する裏書による流通、との認識を示しています。でも主要には、哲学ないしモラルの観点から債務を考えます。というのは、債務は返済すべきであるというモラルがある一方で、返済できなければ、「債務奴隷」という言葉がありますが、文字通りに、逮捕・収監されたり、その昔は奴隷の身分に落とされたりしたわけなんですが、債務を返済するというモラルと奴隷制を認めるというモラルに関して、どちらがより強烈にモラルに反しているかという観点から論を進めています。著者の専門分野である文化人類学の観点から、アフリカや資本主義経済ではなかろうという段階の社会における婚礼や犯罪の際の社会的な支払ないし債務と債権の関係を解き明かそうと試みています。私にはどこまでが成功しているかは判断しがたいんですが、興味あるところです。第2部は副題の通りに債務の歴史をひも解いています。ただ、5000年というのはやや誇張があり、紀元前800年から紀元後600年の枢軸時代から始まっています。その次の中世までは、まあ、第1部の続きで軽く読み飛ばしてしまいました。本書の読ませどころは何と言っても第11章の大資本主義の時代と題された章とそれに続く現代までの時代、すなわち、米国発のニクソン・ショックにより貨幣が純粋にフィアット・マネーとなった時代の第12章といえます。新大陸からの貴金属の流入が欧州の価格革命を引き起こしたものの、その9割以上は中国に流れ、産業革命をもってしても欧州は中国に売るものがなく、アヘンを輸出する始末だったことが明らかにされます。その中で、イングランド銀行が中央銀行としての活動を始めますし、大航海時代の金融的基礎が整えられ、金本位制からその放棄に至り、ここ数十年は貴金属の裏付けのない純粋なフィアット・マネーの時代となります。しかし、著者からの具体的な提案はほとんどなく、p.577に示された債務放棄くらいなんですが、訳者あとがきではウォール街占拠運動の要求のなさとリンクさせていたりします。賃労働と奴隷制の類似点については私も理解できなくもないんですが、債権債務の関係をはじめとする格差問題については、著者のように債権債務に限って放棄を促すやり方もある一方で、政府による再分配政策やマルクス主義的な革命路線など、いくつかあるように感じないでもなく、著者的な債権放棄については、時の流れとともに同じことが繰り返される可能性が高いことから、どこまで有効なのかは疑問が残ります。また、歴史を振り返るスコープとしても、債権債務の関係を生じた商業のほかに、産業革命から勃興した製造工業をここまでスコープの外に置くのも疑問です。本書のメインテーマである貨幣と債務に関しては、面白い視点かと思わないでもありませんが、やや私の興味とはすれ違った気がします。

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まず、芝田文男『「格差」から考える社会政策』(ミネルヴァ書房) です。著者は厚生省から中央省庁再編で厚生労働省を経て、京都産業大学の研究者に転じています。本書はタイトルとはかなり違って、大学学部初級レベルの社会政策論の、特に、制度論を取りまとめています。格差論を正面から論じているわけではなく、制度論を展開する中で格差の解消にも役立つ制度である、などの解説を付け加えているだけです。その意味では、看板に偽りありで、私にはかなり物足りないレベルであったことは確かです。ミネルヴァですから、京都にある大学の先生が教科書で売れると判断したのかもしれません。読書感想文として取り上げておきたい論題は、第12章のベーシック・インカムに関する議論です。この章の冒頭には「従来の社会保障・雇用政策のアンチテーゼの性格を持つ」と明記し、厚生省・厚生労働省ご出身の著者からすれば、かなり明確に敵意をむき出しにしつつも、賛成論と反対論をいかにも役人らしくバランスよく並べています。月額7-8万円のベーシック・インカムの場合、4ネットで0-56兆円くらいの財源が必要との試算を示した一方で、年額70兆円近い年金がゴソッと廃止できるとも付け加えています。ひょっとしたら、年金関係の公務員も減らすことが出来そうな気がします。それにしても、消費税率を8%に引き上げる際に、低所得層対策として簡素な給付制度の導入や、かなりベーシック・インカムに近い負の所得税などの検討が始まるんではないかと私は期待していたんですが、公明党が軽減税率にこだわって議論を歪めたのが、返す返すも残念です。軽減税率では、むしろ、高所得層が税額の点で多額の利益を得ますし、低所得層対策というよりも、むしろ、ひょっとしたら公明党支持層なのかもしれませんが、小規模な食料品店などのパパママ・ストアに対する補助金のような役割を期待されているんではないかと私は考えています。高齢者に偏った社会保障制度の打破のためにも、年金を廃止してベーシック・インカムを導入する方向の議論が始まらないものかと、今でも私は期待を込めていたりします。まあ、かなり長い議論になることは明らかなんですが、現行の年金制度が破たんする前に、年金を年金として制度的な継ぎ接ぎの制度論で終わらせるんではなく、高齢者だけでない国民全体の福祉の向上のためにベーシック・インカムの議論を始めるべき時期に差しかかっている気がします。

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次に、ロレッタ・ナポリオーニ『人質の経済学』(文藝春秋) です。著者はイタリア人であり、マネーロンダリングとテロ組織のファイナンスに関する研究の第一人者と紹介されていますが、所属のアフィリエートは示されていません。もう60歳を超えていますので、すでにリタイアしているのかもしれません。また、本書は研究者の学術書というよりは、ジャーナリストが取材したり、公開ドキュメントを当たったりして、ファクトを集めたものではなかろうかという気がしています。少なくとも私が読んだ直観的な受け止めはそうです。そして、イタリア人ながら、本書の英語の原題は Merchants of Men であり、2016年の出版です。なお、タイトルから明らかな通り、人質ビジネスは本書の一部を代表しているに過ぎません。すなわち、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)を主たる取材源とし、人質ビジネス、おそらく「経済学」よりは「ビジネス」に近い印象ですが、その人質ビジネスに始まって、海賊行為とその投資者の解明、密入国の斡旋、るいは、難民ビジネスなどを対象に幅広く取材しています。もっとも、第7章と第14章で誘拐交渉人やシリア人難民のモノローグが登場しますが、その内容については著者を信用するしかなく、どこまで真実性が担保されているかどうかは、読者の中には疑問に感じる向きがある可能性は残されていると私は感じました。そして何より、こういった七時地ビジネスや海賊行為、あるいは、密入国斡旋や難民ビジネスなどは、それなりにリスクが高く、したがって当然に、リターンも大きいビジネスであり、それはイスラム教の教義やましてやジハードと呼ばれる聖戦とは何の関係もない、という事実を私なりに感じ取りました。そして、かなり似た意味で、無名のジャーナリストがスクープ欲しさに紛争地帯に入って七時地になったり、あるいは、その果てに殺害されたりしている事実を見て、ある意味で、そういったジャーナリストは、もちろん、被害者であるものの、持ちつ持たれつの間柄と捉える向きもありそうで怖い気がします。

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次に、榊原英資『日本国債が暴落する日は来るのか?』(ビジネス社) です。著者は著名なエコノミストであり、当時の大蔵省の財務官経験者でもあります。本書はかなり平明な語り口で、タイトルから理解できる通り、主として日本の財政のサステイナビリティについて、財政にとどまらずに金融政策、現在の黒田総裁の下での異次元緩和や社会保障政策による財政赤字拡大などを論じています。基本的には大蔵官僚らしく財政赤字を忌避する志向が鮮明ですが、必ずしもそういった限界を感じさせず、基本的な経済学の役割も十分に読者に理解させようとする著者の方向性には賛同したいと思います。そして、タイトルの問いに対して、著者はあと10-11年と回答しています。もちろん、国債価格の暴落、逆から見れば、金利の暴騰を防止するためには、社会保障をはじめとして、歳出のカットは容易ならざるものがあるとし、消費税を20%まで引き上げることが必要との立場を明らかにしています。しかしながら、その根拠はそれほど明らかではなかったりします。財政を議論の基本として、財政に関しては縦軸方向に歴史をさかのぼって、戦前の高橋財政による国際の日銀引き受けまでスコープを広げたり、また、現時点の経済政策という点では財政にとどまらずに日銀の金融政策まで視野を広げて、著者としてはインフレ目標2%はやや高すぎることから、1%くらいでもいいんではないかと論じていたりします。でも、購買力平価に従えば、円高が進む結果になるんですが、それはお忘れになっているような気がしてなりません。また、財政について世界的な例を引くにしても、せいぜいが1980年代のラテンアメリカ諸国や直近のギリシアなものですから、ホントに日本もそうなるのか、という直観的な疑問は残ります。論証なしで、国内貯蓄を直近までの傾向線で国債累増を考えるというのも簡便法に過ぎるきらいがあると考える読者もいそうです。いずれにせよ、それほど学術的に深い議論を展開しているわけではないので、定量的なエビデンスも示されていませんし、著者の直観的な感覚を知るという意味での読書になろうかという気がします。すぐ読み切れるだけに、それほどためにもならない、といったところでしょうか。むしろ、高校生向け?

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次に、宮内悠介『カブールの園』(文藝春秋) と『月と太陽の盤』(光文社) です。著者は若手のSF作家、ミステリ作家で、私は大いに注目しています。我が家で購読している朝日新聞の1月29日付けの書評で2冊いっしょに取り上げられていたので図書館に予約を入れたところ、何と、2冊いっしょに借りられましたので、私も2冊いっしょに読書感想文を書いておきたいと思います。ということで、まず、『カブールの園』は短編集、というか、中編2編を収録しています。表題作の「カブールの園」と「半地下」です。いずれもややSFがかった純文学のジャンルではないかと私は考えています。表題作は、米国西海岸を舞台に友人たちとシステム開発の起業をした米国在住の日系女性を主人公に、米国の日系移民の歴史と悲劇に焦点を当てています。主人公より年長の世代は、日米どちらの社会と言語に帰属するのかの選択を突き付けられ大きな問題を抱えた歴史に対して、主人公が作った国籍も人種も超える可能性があるプログラムを対比させ、アイデンティティとしての人種の日本人とか言語の日本語に関し、大きな問いを発しています。同時に母娘関係も複雑な様相を見せています。タイトルは、主人公が小学生のころにいじめられていたトラウマの治療をしているバーチャル・ルアルティ(VR)の名前で、これがややSF的な要素を持っているような気がします。もうひとつ、誇張した日本人を演じるプロレスラーの姉と暮らす主人公を描く「半地下」も、東海岸はニューヨークを舞台に、同じ日本人としてのアイデンティティの問題、また、英語の日本語の言語の問題などを掘り下げています。ただ、主人公は姉の死後に日本に帰国します。そこで、さらに言語の問題がクローズアップされます。小説ですからノンフィクションとは違いますが、移民を含む多民族国家の米国の実態が垣間見える気がします。次に、『月と太陽の盤』は基本的に短編ミステリ集で、2012年から2015年にかけて、「ジャーロ」と「ランティエ」に連載されていた作品を単行本にしています。6つの短編に共通していて、主人公の探偵は碁盤師の吉井利仙なんですが、ワトソン役が若い16歳の棋士である愼です。愼の姓は不明です。そして、主要な登場人物がもう2人いて、碁盤の贋作師である安斎優と愼の2歳上の棋士の姉弟子の衣川蛍衣です。収録されている短編は「青葉の盤」、「焔の盤」、「花急ぐ榧」、「月と太陽の盤」、「深草少将」、「サンチャゴの浜辺」の6編です。私は最初の短編「青葉の盤」については、何かのアンソロジーで読んだ記憶があります。でも、結末はすっかり忘れていましたので、私くらいの記憶力になると何度もミステリが楽しめることを実感させられてしまいました。収録された作品の中では、ページ数では表題作の「月と太陽の盤」がもっとも長くて中編くらいのほかは完全な短編です。繰り返しになりますが、碁盤師の吉井利仙が探偵役で謎解きをする連作ミステリです。サザエさん方式ではなく、着実に時間が流れて登場人物が年齢を重ねて行きます。殺人事件があるのは表題作だけなんですが、基本的に、ミステリの謎解きはそれほど本格的ではありません。「深草少将」なんぞは深草の少将と小野小町の物語の謎解きですから、謎の解決というよりは解釈に近く、ひとつの意見というカンジではないかと思います。「あとは、盤面に線を引くだけです。」というのが決めゼリフとして各短編の解決が示される直前に出て来ます。まあ、ミステリですからネタバレも避けたいですし、詳細は割愛します。

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次に、ロジーナ・ハリソン『わたしはこうして執事になった』(白水社) です。同じ作者が出している前作『おだまり、ローズ』については私も読んでいて、2015年1月3日付けの読書感想文のブログで取り上げています。アスター子爵夫人お仕えするメイドさんが作者であり、とても型破りな貴婦人に仕えた型破りなメイドの実話であり、古き良き時代の栄子の上流階級の活動を知る上で、とてもユーモアとウィットにとんだ文章でした。この作品は、やっぱり、お屋敷勤めの奉公人なんですが、男性、特に執事に目を転じています。同じアスター子爵家にお仕えした男性5人に作者が取材し、そのインタビュー結果を取りまとめています。Gentlemen's Gentlemen ですから、「紳士付きの紳士」ということなのでしょう。1976年の出版です。ノンフィクションなのか、あくまで小説なのか、境界はビミョーなところですが、前作と同じように19世紀から20世紀前半くらいまでの英国上流階級やそれを支えた使用人の実態を知ることが出来ます。しかも、今度は男性の視点からです。2番めに登場するアスター子爵家の執事エドウィン・リーは本書でもクリヴデンのリー卿との別名が出ますが、『日の名残り』の主人公のモデルではないかと聞いたことがあります。ホントかどうかは私は知りません。ニューヨークの英国大使館執事として有名なチャールズ・ディーンは英米2国を股にかけた執事ですし、いろいろとアスター子爵家にまつわる名の知れた執事が登場します。私は南米はチリの大使館勤務の経験がありますから、それなりの旧体制のような階層社会は認識があります。まず、我が国では見かけないような社交雑誌があります。Cosas という月刊誌で、実は、私も彼の地の上院議員といっしょに、どこかのパーティーに出席した時の写真が掲載されています。25年ほど前に発行された雑誌ですが、まだ、我が家のどこかに保存してあると思います。メイドはもちろん、執事も大使公邸にはいました。私も大使公邸でのレセプションや大規模なパーティーを采配したことがありますが、現地人スタッフはクロークかかりなどのチップを貰う役割をとても卑しんで嫌がった記憶があります。本書では、お屋敷奉公人の当然の権利としてチップの稼ぎも出てきますから、そのあたりの受け取り方の違いは時を隔てて変化したのか、距離や民族を隔ててアングロ・サクソン人とラテン人では違うのか、そのあたりはよく判りませんが、やや私には理解できないところです。最後に、本書でも王族の接待が投稿しますが、私の勤務地にも皇族がご訪問されたことがあります。本書ではどこかの貴族の旅行がスーツケース99個、とあり、流石にそこまでの量ではありませんでしたが、私のような簡便な観光や出張旅行と比べれば格段に多かったのを記憶しています。記念に焼き物の三段重ねの盃をいただきました。これも、我が家のどこかにあるような気がします。

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最後に、海老原嗣生『お祈りメール来た、日本死ね』(文春新書) です。著者は雇用や労働などのHRに関するコンサルタントであり、私はメディアなどでも見たことがありません。本書は話題になっていたので借りたものの、タイトル的に見て期待はしていなかったんですが、いい意味で期待はずれ、というか、日本的な雇用にも海外、特にフランスの雇用にも、ちゃんとした見識のある良書でした。特に、第5章で卒業後に新卒として採用することのムリ、職種と職務の違いに無理解なまま職種別採用を提唱するムリ、日本的なこと雇用慣行の全否定などにつき、キチンとした見方が示されていると思います。雇用や労働については、社会的な制度・慣行であるとともに、経済学的にある程度の制約条件を課した上での最適化行動と考えるべきです。ただし、雇用が人生の大部分の超長期に渡ってしまうことから、市場のスコープが行き届かずシジョウノシッパイが生じやすい分野とも言えます。私自身が就活をしたのは30年超の大昔であって、その当時は「就活」という言葉すらありませんでしたし、現在のように非正規雇用が広がっておらず、しかも、はばかりながら30年超の大昔に京都大学の経済学部を卒業していれば、就職にはほぼほぼ無敵でしたから、特段の思い出もありません。しかし、数年前にわずか2年間とはいえ、長崎大学経済学部の出向し、しかもその際に、リーマン・ショックというウルトラ級の経済ショックがあり、大学生の雇用の大きく悪化したのを目の当たりに見て、それなりの経験も積んだと自負しています。ですから、本書でも最終章で問うているように、就活を4年生の遅くに持って来れば、ホントに学生は勉強するのだろうか、教員は勉強させるのだろうか、という疑問はもっともです。逆から見て、終活が勉学の妨げになっていない現在の大学教育が問題であろうという気もします。いずれにせよ、タイトルが悪いので敬遠している人には、オススメです。もう少しタイトルを考えるべき新書だという気がします。

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2017年2月 5日 (日)

今週の読書はかなり大量に読んで計9冊!

今週もかなり大量に読みました。特に、『ナショナリズムの昭和』が中身はかなり疑問だらけで大したことないながら、何と、700ページの大作でしたので読み切るのに時間がかかりました。でも、この週末に借りた本の中には800ページを超える本もあったりしました。今週もいっぱい読みそうな予感です。

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まず、日本経済研究センター[編]『激論 マイナス金利政策』(日本経済新聞出版) です。例えは悪いんですが、2014年11月22日付けの読書感想文で取り上げた『徹底分析 アベノミクス』と同じように、マイナス金利政策について効果ありとする論者と効果を疑問視する論者を並べて編集してありますが、元々は日本経済研究センターにおける講演会の議事録を起こしたもののようです。ということで、本書では日銀の理事や政策委員をはじめ、日銀OBや日本を代表するエコノミストら15人の識者が、マイナス金利政策の効果を中心に金融政策をめぐって熱い議論を繰り広げています。その陣容は上の表紙画像に並べてあります。議論は、(1)異次元緩和政策・マイナス金利政策の成否、(2)インフレ期待の引き上げに関する政策の論理の一貫性、(3)財政危機と隣り合わせの出口問題、(4)マイナス金利政策に特有な直接的な政策コスト・副作用の問題、(5)市中銀行のストックが尽きかねない国債購入、マイナス金利の深掘りなど金融政策技術上の限界、(6)異次元金融緩和政策の代替案、そして、マイナス金利政策以上に過激とみられるヘリコプターマネー政策へと及びます。私が読んだ限りでは、いずれもマイナス金利に効果ありとする意見の持ち主ですが、伊藤教授と日銀政策委員の原田さんのチャプターが理解しやすく、私の感覚とも合致していたような気がします。もっとも、私はその昔に原田さんとの共著論文を書いているくらいですから、経済に対する見方が似通っているのは当然です。まあ、私の直観的な理解では、旧来の日銀理論に立脚してマイナス金利の効果に疑問を持っている論者は、そもそも、金利レジームであろうと、量的なレジームであろうと、イールドカーブを対象にするレジームであろうと、かつての速水総裁を思い出しますが、ともかく円高と引き締めが好きで、何がどうあっても金融緩和に反対、という意見を持ち、ひたすら企業や国民に痛みを伴うカギカッコ付きの「構造改革」がお好きなんではなかろうか、と思わせる下りがいくつかありました。

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次に、井上智洋『ヘリコプターマネー』(日本経済新聞出版) です。この著者の主張は先日1月5日付けの読書感想文で文春新書の『人工知能と経済の未来』を取り上げたところです。その際も同じことを書いたんですが、本書も非常に正統的なマクロ経済学に基づいていると私は受け止めています。ですから、生産性の伸びに応じた貨幣を供給して需要不足を金融政策で創出する必要性なども共通しています。そして、冒頭(p.21)から「金融政策や財政支出拡大に積極的であるアベノミクスは左派的な経済政策」であり、「反対に、今の自民党より財政支出削減や増税に積極的で、金融緩和に否定的な民進党は、経済的には右派的である」と指摘し、まったく私も同感です。本書の著者の考えでは、貨幣の創造により需要は創出できるということであり、そして、長期にも価格の粘着性を仮定すれば、需要の不足が生じることがあり得る、というものです。昔々の大昔に私が経済学を習い始めたころ、経済に何かショックが生じる際、短期とは価格が固定的で数量で調整する世界であり、長期とは価格がすべてを調整する世界であり、しかも、我々はみんな死んでいる世界である、ということでしたので、長期でも価格が粘着的であれば需要不足は生じる可能性はあります。でも、私の知る大昔の経済学では長期とは価格が伸縮的であって粘着的ではなかったので、少し違和感はありました。それはともかく、その上で、長期のフィリップス曲線は正常なインフレ率の下では垂直かもしれないが、極めて低いインフレ率のデフレ経済の下ではマイナスの傾きを持っているとし、長期デフレ不況の理論的基礎としています。そして、ここからが著者の本領発揮なんですが、財政政策としては、ヘリコプター・マネーにより財源を調達した上で、ベーシック・インカムを実施することとし、他方、金融政策としては、銀行には100%準備を課し、すなわち、信用乗数をゼロにして貸し出しを禁止し、企業部門の資金調達は直接金融で社債などの発行で家計から借り入れる、というものです。いくつか疑問があるのは、ヘリコプター・マネーを実施した時点で中央銀行の独立性は完全に失われると私は考えており、財政政策と金融政策は一体化するんではないかと思います。そして、議論の本筋ではありませんが、本書で著者は量的緩和とゼロ金利を混同しているように見受けられます。中央銀行がマネーストックを増加させられず、単なる当預の「ブタ積み」になっているのはゼロ金利政策だからではなく、金融政策が金利ターゲットからレジーム・チェンジして当預をターゲットにした量的緩和に移行したからです。本書の論旨には大きな影響はありませんが、ゼロ金利と量的緩和のレジームを区別することはそれなりに重要かという気がします。いずれにせよ、本書では、ヘリコプター・マネーの議論に一石を投じるとても正統的ながら、おそらく旧日銀理論を信奉するエコノミストにはとても「奇っ怪」に見える議論を展開しています。ヘリコプター・マネーの議論を実りあるものとするため、多くのエコノミストが本書を読むよう、私は願っています。

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次に、モハメド・エラリアン『世界経済危険な明日』(日本経済新聞出版) です。著者は、たぶんエジプト人だったと記憶しているんですが、国際通貨基金(IMF)に勤務した後、投資会社PIMCOのCEOなども務めています。米国のオバマ政権でも公職についていたようです。英語の原題は The Only Game in Town であり、2016年の出版です。英語の原題はその昔のカーペンダーズの「ソリテア」にあった言い回しではないかと思うんですが、まあ、決してベストとは思えないけれど他の選択肢がない、くらいの意味ではないかと受け止めています。私の英語力ではそれ以上のことは判りません。といことで、リーマン・ショックなどの金融危機に続く Great Recession 大不況の後で、米国連邦準備制度理事会(FED)、欧州中央銀行(ECB)、イングランド銀行(BOE)、日銀などの中央銀行が世界経済にとって「最後の頼みの綱」となったわけですが、実は、中央銀行のとてつもない金融緩和それ自体が経済や金融を歪めかねない事態に陥っていて、金融緩和頼みではもはや経済が回らず、むしろ、その金融緩和政策がリスクを高め、所得・資産の格差を広げるなど問題を生み出していると指摘し、このままでは世界は重大なT字路の分岐点に直面すると警告しています。そして、どうすればいいかについて、急にお話しのレベルが違ってくる気がしましたが、先行き不確実な経済の中で多様性を重視した判断や組織、さらに、いくつかに分岐しかねないシナリオ分析が重要になり、投資においては流動性を重視すべきである、ということを指摘しているように私は受け止めました。指摘している経済問題は私のような官庁エコノミストが解決すべき課題だと思うんですが、解決方法が民間投資銀行の運営方針ではないのか、という気もします。問題の指摘はその通りなんですが、解決策や政策対応にやや不満が残りました。手短かに、サッサと店仕舞いにしておきます。

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次に、ハーマン・サイモン『価格の掟』(中央経済) です。著者は研究者の経験もありますが、基本的には、プライシングなどを専門とする経営コンサルタントのようです。英語の原題は Confession of the Pricing Man であり、2015年の出版です。企業活動を含む経済活動を評価す場合は、例えば、一昨日の金曜日に取り上げた成長率のように実質値で評価する場合が多く、すなわち、価格の変動を除去して数量ベースで評価するわけです。しかし、実際に企業活動で追い求められるべきは利潤の最大化というのが伝統的な経済学の立場であり、利潤とは売上げからコストを差し引いたものであり、売上げとは数量に平均価格を乗じた値として求められるのは当然です。ですから、経済活動、中でも企業活動を数量ベースで評価するのは片手落ちであり、価格付けの観点からも考えるべきである、というのが本書の立場であり、至極もっともな主張です。例えば、企業価値のひとつの尺度である株価なども企業業績に正の相関を持つと考えられているわけですから、価格動向は重要です。しかも、伝統的な経済学では市場における価格決定を需要曲線と供給曲線の交点から求められるとし、実は、市場で観測できるのは交点のデータだけであって、供給曲線はまだしも需要曲線は極めて観測が難しいと私なんぞは考えています。そして、現実の経済には古典派の考えるような完全競争市場などが存在するハズもなく、何らかの価格決定力を企業サイドが持っていることは明らかです。その点から、本書の極めて実践的なアプローチはとても興味深いものでした。特に、第3章のプライシングの心理学はカーネマン-ツベルスキー流のプロスペクト理論や価格のアンカリングなど、エコノミストにもなじみ深い分野であり、私の理解もはかどった気がします。そして、改めての感想ですが、行動経済学についてはエコノミストの観点ではなく、経営コンサルタントの目から分析した方が効率的な気がします。最後に、いくつか気づいた点ですが、私のプライシングに関する最大の関心のひとつは為替の変動と輸出価格付けの対応だったんですが、本書ではそれはありませんでした。その昔は、例えば、円安になれば外貨建ての価格を引き下げて数量を稼ぐ、という企業行動だったのが、最近時点では、円安になっても外貨建ての価格を変更せず、従って数量の増加を求めるのではなく円建ての売上げを伸ばす、という方向に企業行動が変化しているのではないか、と言われています。そのあたりの評価、というか、どう見るかを知りたかった気がしますが、本書の見方を私なりに敷衍すると、最近時点での外貨建ての価格を変更して数量を求めるのではなく円建ての売上げを伸ばす、という方向を評価するような気がします。企業にとって、右下がりの需要曲線から生じる消費者余剰をセグメント化された価格付けによって、いかにして企業サイドに取り込むか、の観点が重要という事実も理解できます。

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次に、保阪正康『ナショナリズムの昭和』(幻戯書房) です。著者はよく判らないながら、日本近代史に関するノンフィクション作家ということのようで、研究者ではないと本書にも記されてあります。本書は文藝春秋の『諸君!』に連載されていた論考を取りまとめて加筆修正して単行本にしています。700ページほどありますが、それほど中身が充実しているわけでもありません。重複している部分も少なくないですし、ダラダラと文章が続いている印象もあります。本書で著者は独特の視点を披露し、ナショナリズムの上部構造として政府や軍部を措定し、国益・国権・国威を置き、その下部構造として自然との共存、家族、共同体などを置いています。この時点で、「国益」を無批判的に用いていて、たぶん、判ってないんだろうなと私は予想してしまいました。その通りでした。国権はまだ西洋的な枠組ながら国際法の観点から理解できなくもないですが、国益については国内の階層構造や利益関係の中で、どのようにでも定義できますし、外からも見て取ることができます。ここに名ションリズムの本質のひとつがあるのであり、どうとでも取れるカギカッコ付きの「国益」を自己の属する集団などに有利なように解釈して、この作者のいうところの下部構造から支持を引き出し、ナショナルな国益に関する民主主義的な国民からの合意ないままに暴走したのが戦前日本の姿だったという分析は出てきません。逆に、本書では、ファナティックな戦前日本の軍国主義をナショナリズムではないと見ているようです。昭和史についてはそれなりに史料の調べがついているように感じ取れましたが、ナショナリズムに関しては基礎的な文献も目を通していないような印象を持ちました。一部の右派的な人々にはそれなりに受け入れられる論考かもしれませんが、著者本人が研究者ではないと自ら自任する通り、国際的な学界からの評価は得られそうもありません。ボリュームの割には失望感が大きかった気がします。

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次に、西森秀稔・大関真之『量子コンピュータが人工知能を加速する』(日経BP) です。著者は東京工業大学と東北大学の研究者です。早くても今世紀後半といわれてきた量子コンピュータが、カナダのベンチャー企業であるD-Wave社で、実験機や学術用途ではなく、いきなり商用機が開発され、しかも、世間の耳目を集めるにはもってこいというか、NASAやグーグルがそれに乗っかったものですから、ものすごい注目を集めた新技術です。それは、従来から開発途上にあった量子ゲート・コンピュータではなく、量子アニーリング・コンピュータであり、組み合わせの最適解を求めるのに特化した量子コンピュータだそうです。200ページ足らずで割合とガサッとした印刷で文字数も少なく、手軽に読めそうなので借りてしまいましたが、やっぱり、というか、何というか、先週のループ宇宙論と同じでサッパリ理解できませんでした。物理学については高校レベルの古典的なニュートン物理学でも私の理解は怪しいのに、20世紀的なアインシュタインのその先の量子物理学を基にした量子コンピュータなんですから、私が理解できるはずもなかったのかもしれません。取りあえず、最新技術に触れたかもしれない、という誤解に基づく充実した感じを持って読み終えることが出来ました。まあ、それはそれなりにいいもんです。なお、著者のうちの西森教授は量子アニーリングを発案したご本人だそうです。ですから、キチンと本書を読んで理解できれば、どのようにして量子力学で計算するのか、また、どのようにして人工知能、特に機械学習やディープラーニングに量子コンピュータが応用できるのか、そして、どうすれば日本の研究が世界をリードできるか、などなど、画期的な量子コンピュータの計算原理をはじめとして、ひょとしたら理解できるようになる本かもしれません。誠に残念ながら、私にはムリでした。

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次に、柚月裕子『慈雨』(集英社) です。この著者の作品では初期の検事の本懐の佐方シリーズが私は好きで、最近では、この作品の前の1月5日の今年最初の読書感想文で取り上げた短編集『あしたの君へ』もイイセン行っていたように思います。それから比べると、主人公の年齢が行ってしまったのもあるんですが、少し私の興味は後退した気がします。ということで、この作品の主人公は定年退官したばかりの群馬県警の警察官、もちろん、刑事だった警察官です。3月末で退官して6月から四国のお遍路さんを回り始めています。小学1年生の幼女に対する暴行殺人事件、それも、定年退官した後に発生した on-going の事件と、16年前のもう裁判すら終了して犯人と目された人物が服役している事件を結びつけて、後者が冤罪ではないかという可能性が生じ、娘の恋人、というか、ほとんど婚約者直前の元部下の刑事を通じて、夫婦で四国のお遍路さんを続けながらも、現在進行形の方の事件を解決に導く、というストーリーです。警察官として、だけでなく、家庭の夫として、娘の父親として、そして、何よりも善良で正直で正義感強いひとりの人間として、何が正しくて、でも、警察という組織の犠牲にすべきかどうか、を考え抜いた上での決断の過程を描き出しています。でも、ややストーリーのつながりや謎解きなんかも平板で、佐方シリーズや直近の『あしたの君へ』のような深みには欠ける気がします。でも、真っ正直で清々しい人生であることは確かです。そのような、というか、やや青臭いところもあるような正直で真面目な人生をよしとする人向けかもしれません。逆に、腹黒い人には向きません。

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次に、岡本隆司『中国の論理』(中公新書) です。著者は京都大学出身の東洋史学の研究者です。世間的には嫌中一色で、本書あとがきで著者も「中国・中国人が好きか、嫌いか、と聞かれれば、嫌いだ、と答えるだろう。」と書いています。日本とは尖閣諸島で、フィリピンやベトナムとも領土問題をかかえ、日本でも「爆買い」で潤っているごく一部の人を除けば、本書の著者のように「嫌い」と答える人が少なくないかもしれません。他方、地理的条件からどうしようもなくも隣国なわけであり、それなりのおつきあいが求められることも事実です。その嫌われかねない中国の論理を歴史的に明らかにしようと試みたのが本書であり、あらゆる場面に顔を出す二分法=ディコトミにその原因を求めているように見受けられます。すなわち、国内においては士と庶、あるいは、官と民であり、国外においては華と夷なわけで、いわゆる中華思想に基づき、日本のような夷は中国の風下にあるべき、との近代以降の世界ではとても通用しそうもない「中国の論理」を振りかざしているわけです。しかも、著者によれば、その昔の君主独裁制から立憲共和制へ、三民主義からマルクス主義へ、計画経済から市場経済へと変化しても、底流では脈々と続いているということで、歴史的に中国人に深く刻み込まれた思考回路なのかもしれません。それでも、少し前までは成金国家として、かつての日本と同じように勝手な振る舞いが部分的には許容されていましたし、現在でも我が国では「爆買い」を有り難がる人は少なくないような気がしますが、今や、中進国の罠にとらわれて成長率も大きく鈍化し、我が国でも「爆買い」の伸びがストップするのも間近かと見なされています。民主主義体制が整っていない現状では先進国とも見なし難く、かといって、核戦力をはじめとする軍事力では周辺諸国から見て無視しがたい実力があるともいえます。いずれにせよ、引っ越しのできないお隣さんですから、日本としては被害を最小限にくい止めつつ、それなりのおつきあいを願う、ということになるんだろうと思います。

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最後に、ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(文春文庫) です。パリ警視庁のカミーユ・ヴェルーヴェン警部を主人公とするシリーズ3部作の最終編です。私も『その女アレックス』、『悲しみのイレーヌ』と読み継いで来てこの作者の3冊目です。ただし、原書と邦訳では出版順が違っており、原書では『悲しみのイレーヌ』が先で、『その女アレックス』が後の出版なんですが、邦訳は当然ながら意図的に1-2冊めの順を入れ替えています。でも、この『傷だらけのカミーユ』が3部作の締めくくりであることは違いがありません。ということで、とても出来のいいミステリです。『悲しみのイレーヌ』で妻を失ってから5年後という設定で、当然パリのど真ん中を舞台にします。ヴェルーヴェン警部の恋人が強盗事件に巻き込まれ瀕死の重傷を負い、しかも強盗犯人の顔を見たためなのか、命を付け狙われてしまいます。彼女を守るためヴェルーヴェン警部は警察の上司や判事にもハッタリをかませつつ、かなり独断で犯人を追います。その過程で、次々と新たな事実が浮かび上がっていく、というストーリでーで、とても大仕掛けなどんでん返しが待っています。

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2017年1月28日 (土)

今週の読書はかなりがんばって9冊!

今週の読書は経済書に教養書や専門書など合わせて9冊です。それほどでもない気もしますが、1冊1冊がかなり難しくて分厚かったので、強烈に大量に読んだ気になりました。来週もそれ相応にありそうな予感です。

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まず、鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』(東洋経済) です。副題が「あいりん改革 3年8か月の全記録」となっており、大阪のあいりん地区の改革の記録となっています。「改革の記録」ですから、ある程度は、上から目線の自慢話であることは覚悟すべきですが、読む前に覚悟したほどひどくはなかったと思います。でも、所轄の警察署に対して府知事から府警本部長を通じたルートで協力を迫るなど、かなり露骨な自慢話も散見されることは確かです。ただ、上から目線も自慢話もひどくはありませんので、その点は評価しています。もっとも、私の読み方が浅くて不足しているのか、何がポイントなのかは不明でした。おそらく、マイクロな経済学の応用分野なんだろうと思いますが、やり方としては小泉内閣のころの経済財政諮問会議を運営した竹中大臣の手法を自慢げにまねているようです。役所や抵抗勢力を恣意的に設定し、ムリなくらいのビーンボールを投げて、落としどころに落とすという手法です。そのなかで、最終章や本書の結論部分がまちづくり会議の運営と改革の方針決定で終っているのも理解不能です。とても意地悪な見方をすれば、要するに、あいりん地区の改革案について会議を開催して、直接民主主義的に作文した、というのが成果というわけではないのだろうと思いますが、私の読解力が不足しています。薬物取引の取締りや不法投棄ごみの削減などの成果が冒頭に出て来ますが、それと改革方針の作文との関係も私は読み取れませんでした。誠にお恥ずかしい限りです。私の直感として、極めて単純なマクロ経済学的にいえば、途上国の経済開発・発展は、すべてではないとしても、ルイス的な2部門モデルに基づき資本蓄積を進めて生存部門から資本家部門に労働移動を進めつつ、資本家部門での生産性を向上させるため労働の質の向上のために教育や職業訓練を行う、という一方で、本書の対象とするような先進国での貧困政策は再分配が大きな役割を果たします。本書でも住宅局だったかどこだったかで、「100億200億持って来なはれ」との断りだった、という部分があったように記憶していますが、ある意味では正当です。加えて、一般的な貧困対策と異なり、あいりん地区改革などの場合は、いわゆるルンペン・プロレタリアートと称される反社会的な組織、ハッキリいえば暴力団などへの対応が全記録たる本書から抜け落ちているのはやや気がかりです。さらに、私の直感ですから、どこまで正しいかは必ずしも自信がないんですが、マイクロにインセンティブを設計しつつ貧困対策を進めるのは、場合によっては合成の誤謬を生じる場合もあります。本書でも、役所の役人を動かすためのインセンティブを分析し、縦割り行政についてはコラムで取引費用から説明を試みたりしていますが、著者や著者とともにあいりん地区改革に取り組んだ、本書でいうところの「7人の侍」のインセンティブ分析はスルーしているのも、私には少し違和感を持って受け止めました。この「7人の侍」のインセンティブを役人と同様に分析し、さらに、コラムで現状維持バイアスについて解説すれば、本書の評価はさらに高まりそうな気がします。でも、このままでも十分に貴重な記録だと私は受け止めています。

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次に、ピーター・レイシー/ヤコブ・ルトクヴィスト『サーキュラー・エコノミー』(日本経済新聞出版社) です。著者も訳者もアクセンチュアというコンサルタント会社に勤務しているようです。英語の原題はそのままであり、直訳すれば「循環型経済」ということになりそうな気がします。その趣旨は、家電や自動車のような耐久消費財が典型なんでしょうが、今までのように、短いサイクルで製品をグレードアップさせて買い替え需要を生み出そうとするんではなく、日本的な表現なら「静脈系」までを視野に入れて製品作りを行い、廃棄物を最小化させようとする生産活動や経済活動のことを指しているんだろうと理解しています。例えば、「耐久性が高く、モジュール化され、再生産が容易な製品」(p.256)といった視点です。そして、その発想の基をなしているのは、どうも、ローマ・クラブ流の「限りある資源」とか、マルサス的な経済学ということのようなんですが、逆から見て、そういった循環型社会に適した製品やサービスの方が、地球環境保護や何やといった関心を高めた消費者から支持されており、需要が見込めるという事情もあるような気がします。また、シェアリング・エコノミーとの親和性も悪くなく、例えば、その昔はステータス・シンボルの意味もあった自動車の稼働率は決してよくないことから、本書でも、消費者はドリルが欲しいのではなく、穴を開けたいのである、と表現しています。ただし、本書ではシェアリング・エコノミーによって収入が不安定デメリットの少ないワーキング・プアが生み出されるという指摘は正当である、としており、主としてウーバーの運転手側の利用者をタクシー運転手になぞらえているような気がしますが、それなりに正確な見方をしているように私は受け止めています。そして、もっとも私が評価するのは、著者が本書で指摘している循環型経済を実現するために重視する政策手段として、第12章で課税対象を労働から資源に転換することを上げています。ここはいかにもローマ・クラブ的という気もしますが、明記しておらず、著者自身も認識していない可能性が高いものの、現在の市場経済における資源へのプライシング(価格付け)が循環型経済やサステイナビリティの観点から「市場の失敗」を生じていることを直観的に理解しているんだろうという気がします。それを税制によって相対価格を変化させて、循環型経済やサステイナブルな方向に持って行こうという発想なんだろうと、多くではないにしても、一部のエコノミストは理解するだろうと私は考えます。こういった本書のエッセンスのほかは、いかにもコンサルタント会社らしく、延々と海外企業や政府の循環型経済実践例が並んでいます。それはそれで悪くないのかもしれません。

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次に、猪木武徳『自由の条件』(ミネルヴァ書房) です。著者は大阪大学の名誉教授であり、やや古い時代を代表するエコノミストです。出版社の月刊誌に連載されていたコラムを単行本にして出版されています。副題に見える通り、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を中心に、民主制化の自由と平等を論じています。ただ、本書のタイトルの自由論について、J.S.ミル張りの議論を期待すると少し違和感あるかもしれません。そうではなく、本書の最初の方では民主制下の公共善を成す基礎的な条件をトクヴィルの著書を借りて米国に探りつつ、後ろの方では少し論点を変更して、逆に、民主制が学問・文化や尚武の精神にどのような影響を及ぼすか、という反対のルートについて論じています。ただ、この逆ルートについては著者は特に意識していないようにも見受けられます。いくつかの議論はあると思いますが、米国における民主制を補完する制度的な要件としてトクヴィルが上げている地方自治、結社、裁判の陪審制については、私は専門外ながら興味ある観点と受け止めました。また、メディアの役割も極めて常識的というか、ある意味ではありきたりの議論ながら、当然の筋道といえます。もっとも、英国や我が国では全国紙と地方紙が併存している一方で、米国にはほとんど全国紙は存在せず、ラジオやテレビの時代になって初めて全国レベルのメディアが誕生した点はもう少し議論されて然るべきかという気もします。また、トクヴィルにとって米国がかなり宗教的であったのが意外感を持って紹介されていますが、米州大陸は、主として中南米を念頭に置けば、カトリックにとっては宣教師による布教先であり、しゅごちて米国を念頭に置けば、清教徒にとっては本国における宗教的迫害からの避難先であったわけですから、欧州よりも宗教的な色彩が強いのは当然です。商業の拡大による国民性の違いに及ぼす影響もさることながら、製造業の発展によるマルクス的な規律が強化された国民性の進化、なども本書の視野に収めて欲しかった気がします。また、米国における学問の発展に寄与したのは英語という英国の下でかなりの程度に世界の共通語になった言語的な素地も見逃すべきではありません。そのあたりは、どうも行き届いていない印象があります。最後に、月刊誌の連載を単行本化したので致し方ない面もありますが、文章が荒っぽくて理解が進みにくくなっているような気がします。民主制とデモクラシーは使い分けているのか、それとも同義の言い換えなのか、ほかにも、月刊誌で月ごとに読んでいるのであればともかく、単行本にするに際しては編集者がもう少しキチンと修正すべきではないかという気もします。誤植も散見されます。「陸相」はその昔の陸軍大臣であって、自衛隊の階級は「陸将・陸将補」であろうと思います。

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次に、町田祐一『近代都市の下層社会』(法政大学出版局) です。著者は日大教員であり、歴史の研究者です。この著者の著書については『近代日本の就職難物語』を昨年2016年8月7日付けの読書感想文で取り上げています。本書もやや似通った分野であり、タイトルとは違って、あとがきのp.279にあるように、近代東京の職業紹介事業について取りまとめた学術書です。チャプターごとに基になる既発表論文が明らかにされています。ということで、口入れ業から始まって、浄土真宗や救世軍あるいはYMCAなどの宗教団体による職業紹介、そして、最後に、欧米を手本とした公的機関による職業紹介まで、明治末期から大正期にかけての近代東京における職業紹介の概要につき、各事業の成立と展開、国や自治体の政策などを体系的に検討し学術的に分析しています。ただ、現代のハローワークでもそうですが、こういった職業紹介事業では必ずしもステータスの高い職業が紹介されるとは限りません。本書が対象としている時代では、事務員や官吏などの紹介ではなく、人夫や女中の紹介などが中心を占めています。ですから、本書のタイトルのように、職業を紹介される前は下層社会を形成していたと考えるのもムリないところかもしれません。もともと、口入れ業と呼ぶのであればともかく、手配師と言えばほぼヤクザの世界ですし、本書の冒頭でも、ほぼ詐欺そのものといった桂庵=口入れ屋の実態が明らかにされています。ですから、かなり貧民対策に近い形で職業紹介が公的部門でなされたように考えられ、おそらく同時に職業訓練も提供されているような気がしますが、本書では職業訓練についてはスコープに入っていません。また、本書で少し残念に思うのは、経済社会の時代背景がまったく無視されていることです。短期的な景気循環に伴う労働需要の変動とともに、中長期的な経済発展に伴う需要される労働の質の高度化、それと同時並行的に進む教育制度の発達などの職業紹介の背景をなすような情報と切り離して職業紹介だけが単独で歴史的に跡付けて分析されていますので、読み物としては、すなわち、知らない時代の知らない事業ですから、新たな情報を得るための読み物としては、まずまずなのかもしれませんが、もっと職業紹介事業について広がりを持った政策論を展開するにはやや物足りない気もします。

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次に、ノミ・プリンス『大統領を操るバンカーたち』上下(早川書房) です。私が見た限りなんですが、今週日曜日の日経新聞で書評に取り上げられていました。著者は銀行勤務の経験もあるジャーナリストで、英語の原題は All the President's Bankers であり、2014年の出版です。タイトルから理解できる通り、ここ100年くらいを時間的視野に収めて米国大統領と米国の銀行・銀行家との関係を解き明かそうと試みています。巨大な金融機関の破綻はシステミック・リスクを引き起こしかねませんから、世界のほぼすべての国で銀行は強い規制を受ける産業であり、逆に、銀行は規制緩和によってより自由な経済活動を求める傾向があります。本書の上巻は第2次世界対戦くらいまでの期間を、下巻は戦後を対象としており、上巻の読ませどころは1929年からの世界恐慌なんですが、やはり、本格的に銀行業界が政治家を取り込み始めるのは戦後であり、下巻の展開がとても面白かったです。ケネディ大統領は銀行活動よりも国際収支の赤字によるドル流出に懸念を持ち、銀行業界との関係は必ずしも良好ではなかったとされており、暗殺との関係が記述ないものの、ニクソン大統領のドル兌換停止などの強い規制的な措置も銀行には評価されず、いずれもその後任者の銀行からの評価と比較対照されています。また、いわゆる米国の政府とビジネス界の「回転ドア」についても、政府と銀行の関係の深さを中心に取り上げられています。ジャーナリストの手になる本書ですから、どうしても人脈的な分析が中心になり、かつては、J.P.モルガンに代表されるような大金持ちの名望家層にほぼ独占されていた銀行経営者が、今ではそのような家系を必要としなくなった一方で、ストック・オプションをはじめとして従来では考えられないような高額の報酬を手にするようになった経緯なども明らかにされています。ただし、いくつか物足りない点もあり、いわゆる転換点における逆転の原因については、かなり原因は明白ではあるんですが、それだけに、もう少し丁寧に情報を収集して欲しかった気がします。第1に、英国と米国の逆転です。第1次大戦後に経済力の逆転があったのが背景になっていて、原因は明らかなんですが、英国側の情報も欲しい気がします。第2に、米国内の商業銀行と投資銀行の逆転です。本書にもある通り、ここ20年くらいはゴールドマン・サックスの天下となっており、かつてのモルガンなどの商業銀行から投資銀行に銀行業務の中心が移っていることは明らかです。本書でも明らかにされているレギュレーションQによる銀行預金金利の規制があった一方で、株式市場の発達とともに、日本的な用語で言えば「貯蓄から投資へ」米国家計の行動がシフトする中で、株式や債券への投資が厚みを増し、また、同時に当たらな資金調達手法のイノベーションもあって、銀行業務が商業銀行から投資銀行に移行しつつあるわけですが、すでに廃止されたとはいえ、グラス・スティーガル法の下で分離されていた商業銀行と投資銀行の思考や行動の様式の違いなどについても情報が欲しい気がします。

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次に、アダム・ロジャース『酒の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、ワイアード誌の科学部門の編集者です。英語の原題は Proof: The Science of Booze であり、2014年に出版されています。酵母や糖をタイトルとする章から始まり、人類がまだ地上に現れる前から酵母が糖を分解して酒を造っていた点を強調するとともに、そのアルコール分を蒸留して別の酒にするのはごく最近の人類の発明であるとしています。その後、樽に詰めて熟成させブラウン・リカーを作り出し、香味をつけ、酒を飲んだ人間の体と脳がどうなるかを論じ、最後は二日酔いで締めくくっています。実は、個人的な生活の範囲ながら、私は職場の歓送迎会や忘年会などを別にすれば、家庭外で酒を飲むことはほとんどしません。ここ10年以上はないような気がします。また、家庭内でもほとんど酒は飲まなかったんですが、数年前に地方大学で教員をした際に飲むようになってしまいました。1年生から4年生まで少人数のゼミナールをそれぞれ担当していたところ、1年生向けの「教養セミナー」と称する授業だけがどうにも苦手で、昼食時に当時の経済学部長も同じだと言っていましたが、その教養セミナーの授業があった日はビールを飲むようになってしまいました。明らかにストレス解消を目的としていました。そして、東京に戻ってから、ここ3-4年で夏の間にナイターを見ながら缶ビールを飲む習慣がついてしまいました。まあ、専業主婦と学生の子供2人を養うに足るお給料を働いて稼いでいるんですから、ナイターをテレビ観戦して、ひいきの野球チームを応援しながら、350㎖か500㎖の缶ビールを飲んでいます。そして、この正月にも飲むようになってしまいました。このまめ酒を飲む機会が増え続ければアル中になってしまうかもしれないと危機感を持って本書を読み始めた次第です。でも、酒については科学的にも社会的にもまだまだ解明されていない点がたくさん残されており、ワインのテイスティングがいかに根拠ないものか、二日酔いに関する科学的な解明がまったくなされていない現状、などなど、それなりに勉強になりましたが、本書をちゃんと読みこなすには化学や生物学に関するそれなりの知識も必要かもしれません。次の『カフェインの真実』とは異なり、酒を否定したり批判したりする内容ではありません。むしろ、酒をそれなりに肯定的に評価する本だと受け止めています。

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次に、マリー・カーペンター『カフェインの真実』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストであり、アストロズのホームグラウンドが近いそうですから、」ヒューストン在住ではなかろうかと想像しています。英語の原題は CAFFEINATED であり、2014年に出版されています。タイトルから容易に想像される通り、カフェイン摂取に関してかなり批判的な内容となっています。まあ、いずれにせよ、「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉がありますが、カフェインにせよ、先ほどのお酒=アルコールにせよ、もちろん、塩や砂糖に至るまで、個人差があるとはいえ、ほどほどに取る分にはいいんでしょうが、摂取し過ぎると害をなすわけですし、おそらく、食べ物や飲み物については米国では摂取過多となっている場合が多いんではないかという気がします。特に、役所のオフィスでも、若い研究者が厳しい残業の後にエネジー・ドリンクのカンやビンが転がっていることもありますし、必要な時は必要だという気がするものの、依存し過ぎるのもよくないのは明らかです。本書でも戦時の米国の兵隊さんがコーヒーを大量に飲用してカフェインを摂取していた事実が跡付けられていますが、日本はもっとひどくて、戦時中から戦後の一時期まで覚醒剤を推奨していたかのごときノンフィクションも私は読んだことがあります。例えば、すべてではないにしても、特攻隊で死にに行く若い飛行兵に覚醒剤まがいの薬物を与えたり、銃後ですら現在のブラック企業も真っ青の軍需工場などで工員さんに眠気を克服するような薬物を与えて作業させていたような調査結果も見たりしたことがあります。戦後でも、「ヒロポン」と称された覚醒剤のような薬物が広く出回っていたとの記録もあるやに聞き及んでいます。フィクションですが、『オリンピックの身代金』なんかはそういった過酷な作業現場を舞台にしていたりするんではないでしょうか。というような脱線はここまでにして本書に戻ると、カフェイン含有飲料で大儲けする食品飲料会社と、それを規制しようとする政府当局の攻防戦も取り上げられていますが、少なくとも、肥満をはじめとする米国の保健・健康問題や医療問題、あるいは、食品問題に関しては、カフェインに矮小化することなく、さりながら、カフェインも忘れることなく、バランスを取った総合的なケアを必要としている気がします。もうひとつは、特許や知財関係の問題なのかもしれませんが、これだけ乱立しながらも、カフェイン含有飲料でここまで大儲けできる経済とは何なのか、が気にかかります。砂糖の摂取方なども含めて、消費者の意識が低いということなんでしょうか。それともうひとつは、日本でもノンアルコール・ビールが売れ始めているようですが、米国でもカフェイン抜きのいわゆるデカフェが国際会議などで出されるようになっています。タバコはもはや「悪役」として立派な地位を占めているようですし、これでカフェインが槍玉に上げられるとすれば、次は何なんでしょうか。私は食品行政などはトンと知りませんが、やや気にかかる点だったりします。

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最後に、マーチン・ボジョワルド『繰り返される宇宙』(白揚社) です。自然科学に関する白揚社の刊行物を今週は3冊も読みましたが、その締めくくりです。物理学、特に宇宙論については、生物学の進化論とともに経済学との親和性が高いと私は勝手に見なしているんですが、その宇宙論を展開しており、特に量子力学のひとつであるループ量子力学理論に基づく宇宙論を論じています。この理論を使うと何かいいところがあるのかといえば、ビッグバンやブラックホールなどの宇宙論における特異点を使うことなく、整合的に宇宙論が展開できる点にあります。とても昔の2010年3月23日付けの読書感想文で、モファット教授の『重力の再発見』を取り上げていますが、『重力の再発見』ではダークマターやダークエネルギーの存在が不要になり、同時に、本書と同じように特異点の仮定も不要となると記憶しています。経済学と物理学の親和性というか、勝手にエコノミストの方から親近感を持っているだけなんでしょうが、やっぱり、現実に即しながらもやや簡略化したモデルを用いて、モデルも含めて数学を多用した解法を用い、そして何よりも情報の生成される過程を決定論的ではなく確率論的に考えるという点で、一定の共通点はあるような気もします。他方で、物理学に特段の知識のない私のようなシロートにとっては、ビッグバンやブラックホールなどの特異点とか、ダークマターやダークエネルギーの方が惑星の重量よりも1-2桁多い、とか言われてしまうと、何やら理解不能なだけに、関西弁で言うところの「気色悪い」気がしてしまいます。そういった仮定を置かなくても宇宙を理解できるのであれば、その方が望ましいような気もしますし、他方、私も何度かこのブログで歴史観を披露していますが、歴史とはかなり一方的に進歩し、それを食い止めようとするのが保守で、さらに逆戻りさせようとするのが反動と呼ばれ、歴史の進歩はある程度は確率論的に微分法的式に乗りつつも、完全に微分方程式に従うのであれば、初期値さえ決まってしまえばアカシック・レコードやラプラスの悪魔のように、未来永劫までも決定されかねないので、歴史の流れに中には微分不可能で何らかのシフトとかジャンプと呼ばれる特異点のようなものがある、と考えています。その意味で特異点も私自身は容認しています。でも、時間の流れである歴史観と空間的な把握である宇宙論は、物理学的には同一で、例えば、ブラックホールでは時間と空間が入れ替わると言われており、また、私のようなシロートは、ビッグバンは時間の中の特異点で、ブラックホールは空間における特異点と考えていましたが、実は、本書を読めば、どちらも時間軸における特異点であることが理解できます、いや、理解できるというか、理解できないまでも、そう宣言されていて、物理学的には時間と空間はそれほど区別すべき要素ではないのかもしれませんが、やっぱり、私にとっては時間と空間は違うわけで、その意味で、歴史観と宇宙観の統合を図るべく、こういった物理学の宇宙論についても今後ともひも解きたいと思います。本書については、ほとんど中身が理解できなかったので、適当にごまかしています。悪しからず。

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2017年1月21日 (土)

今週の読書は経済書や専門書に小説と新書も加えて計7冊!

今週の読書は以下の通り、経済書や専門書に小説と新書も加えて計7冊です。ただし、今週号の経済週刊誌のいくつかで書評が取り上げられた『大統領を操るバンカーたち』上下巻のうちの上巻を読み終えたんですが、タイムリミットで現時点ではまだ下巻が読めていません。さすがに、上巻だけの読書感想文は奇怪な気がしますので、上下巻セットで来週に回します。先週の8冊からはビミョーにペースダウンしたんですが、新書が3冊あって少し冊数としては多い気がしますが、心理的なボリュームとしては私はペースダウンしたつもりになっています。ただし、来週はドッと予約が回って来てしまいましたので、今日は自転車で取りに行くのがタイヘンそうな気がします。せっかく今週ペースダウンしたにもかかわらず、来週は大きくペースアップすること確実です。

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まず、小川光[編]『グローバル化とショック波及の経済学』(有斐閣) です。タイトル通りに、ショックの波及に関する定量分析を主たるテーマとしています。第1部は長期時系列データに基づく地域の対応分析であり、第2部では個別ショックへの対応分析を行っています。まず、第1部で、地域経済や市町村レベルでのショックに対する対応として、グローバルショックでは共通因子モデルの構造が変化したかどうかを実証し、最近時点に近くなるほど内需主導から外需依存を強め、その分だけショックの影響が大きくなっている点を示唆しています。財政ショックに対する自治体行動については私は少し異論があり、本書では投資的支出でショックへの調整を図っている点をサポートしていますが、逆から見れば、景気循環の振幅を大きくさせるような調整であり、私は支持できません。自治体財政のショック対応の国際比較は、制度面での違いを無視しており、どこまで評価できるか疑問です。ここまではいいんですが、第2部では自治体の予防接種政策は横並びかフリーライダーかを空間的自己回帰モデルで検証しており、モデルの選択が疑問です。ただ、リーマン・ショック後の金融円滑化施策については、都市と地方の効果の差はこんなもんだという気がします。また、自然災害ショックへの備えについて、銀行などの外部資金調達がより難しいと考えられる規模の小さな企業で保険の活用が進んでいないのは、そもそも、保険料支払いの資金アベイラビリティを無視した議論のように見受けられ、保険会社の提灯持ちであればともかく、これも疑問なしとしません。最後の南海トラフ地震への備えについては、徳島県阿南市の調査をもとに地震災害の要因などから家賃を推計しようと試みていますが、海岸性からの距離が津波災害への耐性を持っていて家賃に有意に効いているほかは、ほとんで意味のない回帰分析のように私には見えます。せっかく借りて読んだんですが、特に第2部はどこまで役に立つ分析なのか疑問だらけです。

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次に、ジョナサン・ウルフ『「正しい政策」がないならどうすべきか』(勁草書房) です。著者は長らくユニバーシティ・カレッジ・ロンドン哲学部教授を務め、現在はオックスフォード大学に移っている政治哲学を専門とする研究者であり、英語の原書は原題 Ethics and Public Policy として2011年に出版されています。ということで、数年前に米国のサンデル教授が正義論で脚光を浴びましたが、その流れで英国の哲学研究者が正義に関して論じた本書では、動物実験、ギャンブル、ドラッグ、安全性、犯罪と刑罰、健康、障碍、自由市場について論じ、最終第9章で結論を引き出しています。でも、ハッキリ言って、日本語タイトルは不可解です。エコノミストの目から見れば政策選択の理論を論じているように見え、哲学を論じた本書とのかい離が大きく誤解を与えかねないと危惧しています。動物実験だけを取り上げて、家畜を屠殺して食用に供する点はスルーしているのも奇妙な気がしますが、エコノミストの観点からは第2章のギャンブルと第3章のドラッグを興味深く読みました。特に、昨年はいわゆるカジノ法案と呼ばれたIR法案が国会で審議されましたし、ギャンブルとフドラッグについてはそれなりに経済学の視点も重要と考えます。しかし、まず考慮すべきは、市場経済というのは完全情報というあり得ないような強い前提でその効率性を成り立たせているわけで、ハイエクですら認めるように、完全な情報が利用可能であれば市場経済でも社会主義的な指令経済でも、あるいは他の資源配分システムでも、おそらく、効率的な資源配分が可能になることは間違いなく、論ずるに値しません。ですから、私がギャンブルについて感じているのは、はなはだ非合理的である、という1点です。確率的に損するに決まっているのにギャンブルするのは、まあ、社交場のお付き合いがあるからです。加えて、我が国のパチンコについては北朝鮮の核開発などへの資金を提供している可能性も考慮して、私は手を出していません。それから、ドラッグについては私は解禁するのも一案かと考えています。というのは、現在のように厳しい禁止下に置いて猛烈なプレミアムで価格が跳ね上げるんではなく、かつての専売制の下にあったタバコなどと同じように政府ないし公的機関の専売とし価格を引き下げた上で、ドラッグの使用者を把握して治療に差し向けるためです。ギャンブルも一定の中毒性を有しますが、ドラッグは完全に中毒を引き起こし医療機関による治療が必要です。それから、ギャンブルもドラッグも禁止している制度下では、どうしても非合法団体、特に日本の場合は暴力団の暗躍を招く原因となります。そのあたりを総合的に勘案した政策がセカンド・ベストとして採用されるような気がします。

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次に、エリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』(ハヤカワ文庫NF) です。2012年出版の単行本が昨年2016年年央に文庫化されています。著者はジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズをクビになり、全米公共ラジオ(NPR)などで世界のいくつかの国の海外駐在員を務めた経験があります。英語の原題は The Geography of Bliss であり、2008年に出版され、邦訳の単行本は2012年に刊行されています。昨年文庫本化されたものを取り上げています。ということで、タイトル通りに、幸福について考えるために世界中を旅行した紀行文です。訪問して本書に収録されているのは、最終章の著者の本国である米国を別にして、第1章のオランダから第9章のインドまで9か国です。オランダは世界降伏データベースを構築している学者を訪問し、その後、幸福度が高そうな欧州のスイスとアジアのブータンを訪れ、さらに、アイスランドをはさんで、金銭的に豊かなカタールとそうでないモルドヴァを比較し、アジアに戻ってタイ、そして、英国では幸福度の高くないスラウという街で6人の幸福学研究者が心理的傾向を変更させることを目指したBBCの実験を取材しています。ブータンは先年国王夫妻が来日した折にも話題になりましたが、国民総幸福量(GNH)なる指標で有名ですし、インドでは宗教的な短期セミナーを体験しつつ彼の国の幸福感は著者も謎であると認めていたりします。でも、最終的に、著者はタイ的な「マイペンライ(気にしない)」が幸福への近道ではなかろうかと示唆しているように私には読めました。ただ、幸福を個人的な状態と考えるだけでなく、英国におけるBBCの実験もそうで、功利主義的に幸福が可算かつ加算・減算できるものとして、政策目標とするのは不適当な気もしますが、何らかの方法によって世界全体の幸福度を高めることが望ましい、との著者の考えの方向は示唆されているような気がします。ただし、それを直接的にやってしまえばセロトニンを分泌する薬物を配布するのも一案となってしまい、本書でも、幸福感を感じるために食事も忘れて脳の一定の部分に電気を通じさせるスイッチを押し続けるマウスの事例が何度か批判的に引かれているのも事実です。このあたりの含意はビミョーなところがありますので、読み進むにはある程度の批判的な精神が必要かもしれません。

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次に、ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社) です。昨年亡くなったエーコ教授の小説としての遺作に当たります。ただし、まだ邦訳されていない小説があり、La misteriosa fiamma della regina Loana 『女王ロアーナ、神秘の炎』は岩波書店から刊行予定らしいです。ということで、『薔薇の名前』で始まった小説のシリーズも、私はすべてこの著者の小説は邦訳されている限り読んだと思いますが、これで絶筆であり、遅い刊行の『バウドリーノ』や『プラハの墓地』ではよりエンタテインメント色をとよめ、本作ではさらにその傾向を強め、多くの読者が楽しめる小説になっているように私は受け止めています。舞台は1992年のミラノであり、主人公のコロンナは編集者として雇われ、「ドマーニ」と題する新しい日刊紙の発刊に向け、準備作業に入ります。出資者はコンメンダトールなるイタリアの勲位を持ち、業界では名を知られた人物であり、真実を暴く新聞を作るというのが表向きの理由となっているものの、じつは、触れられたくない裏話を取り上げるという脅しで、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたり、といった日本の総会屋の雑誌や新聞に近い出版物であり、イタリア的には、というか、日本的にもそうで、ホントに出版される前に発刊取りやめになることが予想されるシロモノでだったりします。このため、コロンナの雇主は発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつきます。すなわち、前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になると考え、ゴーストライターのコロンナを雇うわけです。他に6人ほどの記者を雇い、彼らには本当のことは伏せて、創刊準備号「ヌメロ・ゼロ」の編集会議を開きます。創刊準備号とはいっても、枝番まであって0-1号から0-12号までが計画されていたりします。そして、編集会議の内容をそのまま本にしようというわけです。ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのが著者の狙いなんでしょうし、小説のラストは、いかにもウラ情報を取るためにウラ社会との接点を持った記者の末路をあぶりだした形になるんですが、他方、労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれ、テレビと新聞の違いがありながら、ベルルスコーニ元首相を髣髴とさせる登場人物=出資者もあります。読ませどころは記事の作り方を話し合う日々の編集会議であり、著者自身の饒舌が乗り移ったかのように抱腹絶倒の怒涛の展開となり、記者達がトンデモな話をぶち上げたりします。いろいろと与太話が続く中で、特に私が印象に残ったのはムソリーニの最期に関するものですが、ほかにも風俗的というか、イタリア的な面白さがいっぱいです。このあたりは、『バウドリーノ』のホラ話に通ずるもの、というか、その現代版という気もします。

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次に、河村小百合『中央銀行は持ちこたえられるか』(集英社新書) です。著者は日銀出身の日本総研エコノミストであり、本書はいわゆる現在の黒い日銀の前の白い日銀のころの旧来に日銀理論を幅広く展開しています。日本総研がそもそも翁夫人の活動拠点ですから、そうなっているのかもしれません。私も気を付けているんですが、ものすごく「上から目線」で書かれた新書です。本書のタイトルとなっている「中央銀行は持ちこたえられるか」と同じタイトルを取っているのが第5章なのですが、基本的に、大規模な量的緩和による国債などの資産購入にともなう日銀の財務について「持ちこたえられるか」同化を懸念しているように読めます。ほかは、一貫して財政再建を訴えているわけで、判らないでもありません。というのも、財政は強制力を持って税を徴収したり、逆に公共事業を実施したり社会保障などで財政リソースをばらまいたり出来るんですが、金融については特に銀行が合理的な経済行動を取ってくれないと政策効果が発揮できません。ですから、市場メカニズムが正常に機能するよう、規制緩和や財政再建を力説するセントラル・バンカーが少なくないのは私も理解できます。でも、本書の最大の欠陥は、リフレ派の理論に基づいた現在の異次元緩和が日銀のインフレ目標の達成はおろか、ほとんど物価の上昇に寄与していない点につき、何らの分析や解釈を加えられていない点です。単なるお題目、というか、安倍総理ならば「レッテル貼り」と表現するかもしれませんが、単に日銀が債務超過になるかどうか、財政赤字が積み上がっているという事実関係のみを述べているに過ぎません。日銀財務が悪化して日銀職員のお給料にしわ寄せが行くのを懸念しているとも思えませんが、ちなみに、震災後に我々公務員のお給料は震災復興経費捻出のためにカットされたりした経験があります。それにしても、財政再建が出来ない政府が悪い、それを真っ当に伝えないメディアも悪い、正しいのは著者をはじめとする旧来の日銀理論の信奉者だけ、という、ものすごく視野狭く「上から目線」の新書です。著者あとがきなどを見ると、数十人を相手にした講演会の議事録を起こして書籍化したような印象を受けるんですが、興奮してやり過ぎたのかもしれません。もっとも、こういった新書が出ると「闘うリフレ派」のエコノミストも立ち向かう人が出るようなも気もします。でも、それは泥仕合になりかねないリスクをはらんでいそうな雰囲気を感じないでもありません。

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次に、水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書) です。著者は千葉大学の政治学の研究者です。昨年最大の話題のひとつであった米国大統領選におけるトランプ大統領の当選などの先進各国におけるポピュリズムの台頭について解説してくれています。私は1991-94年の3年余り南米はチリの首都であるサンティアゴに経済アタッシェとして大使館勤務を経験し、隣国アルゼンティンのポピュリズムなどもお話には聞いてきましたが、最近では欧州や米国でもポピュリズムの台頭が見られ、我が国でも大阪維新の会などがポピュリズム政党と見なされており、エコノミストの専門外ながら、とても参考になりました。本書でも定義されているように、ポピュリズムとは既存の政治家や官僚・企業経営者をはじめとするエリート層に対するアンチテーゼとして位置付けられ、幅広く国民の中から包摂されていないと感じられる階層の支持を受け、例えば、先進国でいえば、まさに米国のトランプ大統領の目指す政策、製造業のブルーカラーとして働く白人中年男性の利益を全面に打ち出すような政策を志向していると理解されています。ただし、日本ではほとんど実感ないんですが、そのために反移民政策、特に反イスラム政策を推進しかねない方向を志向しているようにも見えます。その理由がふるっていて、イスラム教は男女平等ではなく、反民主主義であるという民主主義やリベラルを標榜するポピュリズムが最近の傾向であると本書は指摘しています。かつてのナチスは授権法により民主主義を否定しましたが、その逆を行くと見せかけて反イスラムの方向を志向するもののようです。また、私はまったく専門外ですので、アウゼンティンのペロン党やフランスの人民戦線やその党首であるルペン女史くらいしか知らず、ほかは何の知識もなかったんですが、大陸ヨーロッパにおけるオーストリアの自由党やベルギーVBなどのポピュリスト政党の動向、あるいは、スイスの直接民主主義に基づく国民投票でいかにポピュリズム的な結果が示されるか、などの、まあ読み物も興味深く読めました。私がこのブログで何度か指摘した通り、良し悪しは別にして、間接民主制は、ある意味で、増税などの国民に不人気な政策を決定・実施する上で、別の視点に立って民意を「歪める」働きが求められる場合があるのも確かです。その昔には、 田原総一朗『頭のない鯨』(1997年)では、国民の不人気政策は「大蔵省が言っているから」というわけの判らない理由で、大蔵省が前面に立って悪役を務めることで政治家も言い訳して来た、と主張していたように記憶しています。我が国でもそういった「悪役」を務めて不人気政策を遂行することが出来なくなったわけで、その意味で、具体的かつ個別のポピュリスト政党を論じなくても、ポピュリズム的な政策形成への流れというものは出来ているような気がしますし、何らかのきっかけで政党として支持を集める素地もあるように感じます。最後に、先進国の中南米のポピュリズムの違いを論じて、伝統的な中南米のポピュリズムではエリート層への配分を中間層へ差し向けることを要求したのに対して、先進国でのポピュリズムは移民、特にイスラム系移民に向けられる分配リソースを中間層へ戻すべし、と主張する点にある、との指摘は新鮮でした。さらに、時代背景もあるんでしょうが、中年米のポピュリズムはバルコニーから集まった聴衆に対して演説するコミュニケーションである一方で、先進国はテレビやネットを活用する、というのも判る気がします。ポピュリストかどうかはビミョーなところですが、在チリ大使館に勤務していた折に、キューバの故カストロ議長が若かりしころの演説をビデオで見たことがあり、私はスペイン語は経済関係しか詳しくなかったものの、とても感激した記憶があります。「君だ!」といって聴衆の一角を指さすんですが、かなり角度的にムリがあったにもかかわらず、私自身が指差された気がしました。雄弁が求められる国民性だったのかもしれません。長々と書き連ねましたが、今週3冊読んだ新書の中では、私から見て一番の出来だった気がします。

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最後に、青木理『日本会議の正体』(平凡社新書) です。少し遅れて図書館の予約が回ってきましたが、日本会議に関する新書です。著者は共同通信のジャーナリストであり、本書のあとがきにも明記されている通り、日本会議に対しては批判的なまなざしを送っています。その上で、類書と同じような内容であり、発足当時の生長の家の強い影響や新党や仏教などの宗教との強い結びつき、憲法改正やその前段階としての教育基本法の改正に対する志向、夫婦別姓への反対などの伝統的な家族観などなどが明らかにされていますが、その意味ではありきたりな内容で、本書の大きな特徴は然るべき人物に対するインタビューをかなりナマな形で収録している点ではなかろうかという気がします。防衛大臣の稲田代議士まで登場します。私の考えは何度かこのブログでも明らかにしたつもりですが、私自身は進歩的かつリベラルな考えを有しており、進歩の反対が歴史を現時点で押しとどめようとする保守であり、もっと強烈なのが歴史を逆戻りさせようとする反動ないし復古というように捉えています。その意味で、日本会議は私の基本的な価値観の逆に当たっていると認識しています。ただし、それは歴史観と宗教観が大いに関係すると考えるべきです。すなわち、中国ほどではないにしても、日本でも円環的な歴史観を有している人は少なくなく、私のように直線的といわないまでも歴史の進歩が一方的かつ不可逆的と考える人は少ないかもしれません。一例としては、宗教的な輪廻転生が上げられます。私は浄土真宗の信者として、一方的というか、不可逆的な輪廻転生からの解脱と極楽浄土への生まれ変わりを信じていますが、来世の輪廻的な生まれ変わりを信じている人はいなさそうで、まだまだいる気がします。歴史の歯車を元に戻そうとすることは、私には無意味で不可解な努力だと見えるんですが、そういった努力をしている筆頭が日本会議だという気もします。私の理解を超えている組織・団体です。

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2017年1月14日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして専門書・教養書など計8冊!

今週は経済書をはじめとして、専門書・教養書とミステリの短編を収録したアンソロジーや野球に関する新書まで、計8冊を読みました。まあ、先週の読書感想文は早めにアップして営業日が1日多いので、こんなもんかという気もします。来週からはかなり確度高くペースダウンする予定です。今週の読書8冊は以下の通りです。

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まず、宮尾龍蔵『非伝統的金融政策』(有斐閣) です。著者は東大教授の研究者であり、昨年まで5年間に渡って日銀審議委員を務めていました。本書では、白川総裁とともに日銀にあった3年間と黒田総裁の下での2年間に及ぶ非伝統的な金融政策手段を分析しています。なお、どうでもいいことかもしれませんが、タイトルにより誤解を生じるといけないので、あくまで念のためにお断りしておくと、非伝統的なのは金融政策ではなく、金融政策の手段にかかる形容詞であり、金融政策で非伝統的な政策目標を目指すわけではなく、非伝統的な政策手段により伝統的な政策目標を目指すわけですので、大丈夫とは思いますが、念のために確認しておきます。ということで、まず、非伝統的な金融政策の政策手段として、著者が直接的に挙げているのとは別に私なりの解釈で分類すると、時間軸政策とも呼ばれるフォーワードガイダンス、これには金利と資産購入の2つのフォーワードガイダンスが含まれており、加えて、非伝統的な資産、すなわち、短期国債以外の長期国債とか株式とかの買い入れとバランスシート全体の拡大、そして、昨年から始まったマイナス金利について本書では分析を進めています。そして、各種の非伝統的金融政策の政策手段について、第2章で理論的なモデル分析を、第3章で実証的な数量分析を試み、非伝統的な金融政策手段は理論的に株価や為替のチャンネルを通じて効果があるとのモデル分析を明らかにするとともに、実証的にもGDPを引き上げたり物価を上昇させたりする効果があったと結論しています。まあ、当然、自然体で曇りのない目で日本経済を見ている限り常識的な結果であろうと私は受け止めています。その上で、第4章では2%物価目標は妥当であると結論し、第5章で懸念すべき副作用として、いわゆる「岩石理論」的なインフレ高騰、資産価格バブル、財政ファイナンスの3つのリスクを否定しています。第5章では副作用を軽く否定した後で、いわゆる長期停滞論を引き合いに出して、当時のセントルイス連銀ブラード総裁の2つの均衡論を考察し、現状では日本経済はデフレ均衡を脱しつつある、と結論しています。そして、第6章ではマイナス金利を俎上に載せています。最後の第7章では、日銀審議委員としての5年間を回顧しています。要するに、、極めて真っ当で、常識的かつ当然の結果が示されています。昨年2016年12月29日付けで取り上げた「戦うリフレ派」の岩石理論批判もよかったんですが、こういった真っ当な金融政策の解説書もいいもんだという気がします。

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次に、清田耕造『日本の比較優位』(慶應義塾大学出版会) です。著者は慶応大学の研究者であり、国際経済学を専門としているようです。本書ではタイトルの通り、いくつかバージョンのある貿易モデルのうち、主としてヘクシャー・オリーン型の比較優位について論じています。ただ単にモデルを論じているだけでなく、主として経済産業省の工業統計やJIPデータベースを用いた実証的な研究成果も示されています。既発表の論文と書き下ろしが半々くらいでしょうか。最近では経済学のジャーナルの査読を通ろうと思えば、何らかの実証が必要不可欠になっていますので、既発表論文を含む本書で実証結果が示されているのは当然かもしれません。ということで、比較優位という経済理論はリカードの昔にさかのぼり、とても理論的には評価されているモデルなんですが、実証的に正しいかかどうかについては疑問を呈されることもあります。特に、現実世界では経済学的に疑問の余地なく正しいとされている自由貿易すら実現されていないわけですから、比較優位についてもご同様です。本書では比較優位に産業構造を結び付けて、いくつかの実証研究成果を示しています。すなわち、「疑問の余地なく」ではないとしても、比較優位説は机上の空論ではなく妥当性が支持されると、既存研究ながら、何と、幕末明治維新前後の実証研究を紹介し、ほとんど貿易のなかった鎖国時代の日本と、貿易を開始し、しかも、関税自主権がなく自由貿易に近かった明治期の日本の貿易から比較優位説の妥当性を確認しています。また、米国に関するレオンティエフ・パラドックス、すなわち、世界でもっとも資本が豊富な米国がネットで資本集約財を輸入し、労働集約財を輸出しているとのパラドックスと同じように、戦後日本が非熟練労働力よりも熟練労働力の豊富な日本が、熟練労働集約財を輸入し非熟練労働集約財を輸出している、とか、エネルギーを産しない日本の輸出が必ずしもエネルギー節約的ではない、などを示しています。また、最後の第Ⅲ部ではアジアのいわゆる雁行形態発展論と日本国内の都道府県別の賃金と産業構造をそれぞれ実証しています。なお最後に、出版社からも明らかな通り、本書は学術書です。しかも、学部レベルではなく大学院博士前期課程くらいのレベルです。数式も少なくありませんし、データに基づくものではなく概念的なグラフもいくつか見受けられます。かなり専門分野に近い私でも、最後の第Ⅲ部を読みこなすのは骨が折れました。メモと鉛筆を持って数式をいっしょに解いて行くくらいでないと十分に読みこなせないかもしれません。読み進むには、脅かすわけではありませんが、それなりの覚悟が必要です。

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次に、スティーブン・ピンカー/マルコム・グラッドウェル/マット・リドレーほか『人類は絶滅を逃れられるのか』(ダイヤモンド社) です。誰が見ても、ハチャメチャで意味不明なタイトルなんですが、ムンク財団の主催でカナダのトロントで開催された2015年のディベートを収録しています。ディベートのテーマは「人類の未来は明るいか」ということで、将来に対する見方が楽観的か悲観的かについてのディベートです。上の表紙画像には3名の著者しか現れませんが、ピンカー+リドレーが楽観派で、グラッドウェル+ ボトンが悲観派です。結論を先取りすると、トロントの会場の聴衆はディベートが始まる前は楽観派が71%、悲観派が29%だったところ、ディベート終了時には楽観派が73%で悲観派が27%となり、ディベートは楽観派の勝利で終了しました。まあ、ディベートの中でも出て来るんですが、過去に比べた現時点までの人類史の実績を考えると、寿命が伸び、戦争・戦乱が減少し、消費生活が豊かになり、それらのバックグラウンドで技術が大きく進歩しているわけですから、どこからどう見ても人類史は、特に、戦後の50-70年では大きく楽観派が強調するような方向に進んでいる気がします。将来を悲観する要素としては、このディベートでも悲観墓強調した地球環境問題とわけの判らない病気のパンデミックくらいで、戦争、特に核戦力による戦争はかつての冷戦時代よりは確率が大きく減じた気がします。ディベートで出なかったポイントは、特に日本の例を引くまでもなく、先進国における人口減少問題ではなかろうかという気がします。移民の受け入れが少ない場合、欧州でもアジアでも、1人当りGDPで見て豊かないくつかの国で人口減少が始まっており、その中でも日本は飛び抜けて人口減少が大きな問題といえます。日本はすでに世界経済におけるメジャー・プレイヤーでなくなったとはいえ、悲観派が人口減少を取り上げなかったのはやや不思議な気がします。それと、ローマ・クラブ的な資源制約も着目されていません。その意味で、やや物足りないディベートだったかもしれませんが、私の考えとほぼ一致する方向の議論が圧勝している気もします。当然の結果かもしれません。

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次に、 御厨貴・芹川洋一『政治が危ない』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大で長らく政治学の研究者だった学者と日経新聞のジャーナリストです。ともに東大法学部の同じゼミの同窓生で対談の形を取っており、少し前に日経プレミアムから本書の前作となる『日本政治 ひざ打ち問答』を出版していて、本書はその対談集の第2段となるようです。昨年年央まで3年半続き、今も継続中の安倍内閣と安倍総理について論ずるところから始めて、回顧を含めて政治家について談じ、天皇退位も含めて憲法について断じ、最後に、メディアについて論じ、その4章構成となっています。まあ、ジョークで「時事放談」ならぬ「爺放談」という言い方もありますが、好き放題、勝手放題、縦横無尽に政治を断じていますが、タイトルになっている危なさは、現在の安倍総理・安倍内閣の後継者問題に尽きるようです。かつては与党自民党の派閥が後継者を育てるシステムを有していたものの、小選挙区制で党執行部の権力が絶大になった一方で派閥の衰退が激しく、総理総裁の後継者が育ちにくい構造になっている、というのがタイトルの背景にある考えのようです。ある秘突然に日本の政治が崩壊するかもしれないとまで言い切っています。もちろん、繰り返しになりますが、それ以外にもワンサと山盛りの話題を詰め込んでいます。田中角栄ブームは昭和へのノスタルジーと同一視されているような気もしますし、鳩菅の民主党政権はボロクソです。私がもっとも共感したのは憲法論議の中で、天皇の退位を天皇自身が言い出したのは国政への関与に近く、憲法違反の疑いがある、との指摘です。私もまったく賛成で、そもそも、我が事ながら退位すら天皇は言い出すべきでなく、黙々と象徴の役割を果すべきであり、象徴の役割が出来ているかどうかは天皇自身ではなく内閣が判断すべき事項であると私は強く考えています。最後に、最近の政治家、主として総理大臣の演説で印象に残っているのは、私の場合、本書では取り上げられていませんが、2005年8月の郵政解散の際の当時の小泉総理のテレビ演説です。私は官房で大臣対応の職務にありましたから特にそう感じたのかもしれませんが、感銘を受けて記憶に強く残っています。

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次に、 ポール J. ナーイン『確率で読み解く日常の不思議』(共立出版) です。著者は米国の数学研究者であり、ニュー・ハンプシャ大学の名誉教授です。数学に関する一般向けの解説書やパズル所などを何冊か出版しています。本書の英語の原題は Will you be alive 10 years from now? であり、2014年の刊行です。日本語のタイトル通り、本書は確率論に関する一般向けの解説書なんですが、それでも微分積分に行列式を合わせて数式はいっぱい出て来ます。ただ、本書のひとつの特徴は、解析的にエレガントに式を展開して解くだけでなく、リカーシブに解くためのMATLABのサンプル・プログラムを同時にいくつかのトピックで示している点です。本書は、古典的な確率論パズルを示した序章のほかに、個別の確率論に関するテーマを取り上げた25章から成っていて、その25勝すべてにMATLABのサンプル・プログラムが示されているわけではありませんし、MATLABがそもそもかなり専門性の高い高級言語ですから、それほど本書の理解の助けになるとも思えませんが、私のようにBASICしか理解しない初級者でも割りと簡単に移植できそうなシンプルなプログラムの作りにしてくれているように感じます。テーマごとにいくつかとても意外な結果が出て来るんですが、まず、第1章の棒を折る問題がそうです。2つの印を棒に付けて、その棒をn個に折るとして、等間隔に折る場合とランダムに折る場合で、同じ小片に印がある確率はランダムに折る後者の方が2倍近く大きい、というのは意外な気がします。第11章の伝言ゲームにおける嘘つきの存在についても、嘘つきの存在確率が0と1でないなら、ほかのいかなる確率であっても、伝言ゲームの人数が大きくなれば、最後に正しく伝えられる確率は漸近的に1/2に近づきます。逆から言っても同じことで、正しく伝えられない確率も1/2に近づきます。これも意外な気がします。最後に、どうでもいいことながら、確率論の数学研究者は『パレード』誌のコラムニストであるマリリン・ヴォス・サヴァントを常に目の敵にしていて、本書でも彼女の間違いをいくつか指摘しています。でも、モンティ・ホール問題でマリリンが正しい結果を示し、多くの数学研究者が間違っていた点にはまったく口をつぐんでいます。とても興味深い点です。日本語のWikiPediaのモンティ・ホール問題へのリンクは以下の通りです。

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次に、ハリー G. フランクファート『ウンコな議論』(ちくま学芸文庫) です。2005年に出版された単行本が昨年ちくま文芸文庫として出されています。翻訳はクルーグマン教授の本でも有名な野村総研の山形浩生さんです。その長い長い訳者解説でも有名になった本ですが、その訳者解説では8-9割がタイトルにひかれたんではないかと想像していますが、私自身は昨年2016年10月29日付けで取り上げた『不平等論』の続きで読んでみました。ということで、翻訳ではすべてタイトル通りに「ウンコ」で統一しているんですが、私の決して上品でもない日常会話で使われる用語としては「クソ」とか「クソッタレ」に近い印象です。そして、訳者も認めているように、原文には「ウンコ」しかないのに訳者が「屁理屈」を勝手にくっつけている場合も少なくないように見受けられます。といのも、私はすべて読み切ったわけではありませんが、最後においてあるリンクからほぼ英語の原文がpdfで入手できます。それはともかく、本題に戻ると、「ウンコな議論」とは著者がいうに、お世辞やハッタリを含めて、ウソではないにしても誇張した表現ということになろうかという気がする。日本の仏教的な表現で言えば、いわゆる方便も含まれそうである。思い出すに、その昔の大学生だったころ、母校の京都大学経済学部の歴史的な大先生として河上肇教授が、その有名な言葉として「言うべくんば真実を語るべし、言うを得ざれば黙するに如かず」というのがあります。まあ、それとよく似た感慨かもしれません。ただ、訳者解説にもある通り、ウンコ議論のない簡潔な事実だけの議論は「身も蓋もない」と言われかねないだけに、世渡りの中では難しいところです。最後に、私はやや配慮なく本書をカフェで読もうとしてしまいました。かなり大きな活字で150ページ足らずの文庫本ですので、すぐに読めてしまうんですが、タイトルといい表紙画像といい、飲食店で読むのはややはばかられる気がしました。家でこっそりと読む本かもしれません。

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次に、日本推理作家協会[編]『殺意の隘路』(光文社) です。昨年2016年12月30日付けで取り上げた『悪意の迷路』と対をなす姉妹編のミステリを集めたアンソロジーであり、最近3年間に刊行された短編を集めて編集しています。上の表紙画像を見ても理解できる通り、売れっ子ミステリ作家が並んでいます。コピペで済ませる収録作品は、青崎有吾「もう一色選べる丼」、赤川次郎「もういいかい」、有栖川有栖「線路の国のアリス」、伊坂幸太郎「ルックスライク」、石持浅海「九尾の狐」、乾ルカ「黒い瞳の内」、恩田陸「柊と太陽」、北村薫「幻の追伸」、今野敏「人事」、長岡弘樹「夏の終わりの時間割」、初野晴「理由ありの旧校舎 -学園密室?-」、東野圭吾「ルーキー登場」、円居挽「定跡外の誘拐」、麻耶雄嵩「旧友」、若竹七海「副島さんは言っている 十月」の15編です。さすがに秀作そろいですので、伊坂作品と東野作品は私は既読でした。でも、私の限りある記憶力からして、ほぼ初見と同じように楽しめたのはやや悲しかった気がします。赤川作品や長岡作品のように小学生くらいのかなり小さな子供を主人公にした作品もあれば、今野作品や若竹作品のようにオッサンばかりの登場人物の小説もあります。有栖川作品のように時間の観念が不明の作品もあれば、乾作品のようにとても長い時間を短編で取りまとめた作品もあります。必ずしも謎解きばかりではないんですが、とても楽しめる短編集でした。

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最後に、小林信也『「野球」の真髄』(集英社新書) です。著者はスポーツライターであるとともに、中学生の硬式野球であるリトルシニアの野球チームの監督をしていたりするそうで、その野球に対する思い込みを一気に弾けさせたような本です。私より数歳年長であり、ジャイアンツの長島選手が活躍した時期の、どちらかと言えば後半を体感として知っている世代です。私もそれに近い世代なんですが、地域的な特徴から、私は特に長島選手に憧れを持ったりはしませんでした。もちろん、私も阪神タイガースには熱い愛情を注ぎ続けていますし、少なくとも観戦するスポーツとしては野球にもっとも重きを置いているのも確かです。念のため。とは言え、なかなか興味深い本でした。例えば、他の球技と違って、野球だけは生死観があって、アウトになる打者とセーフになる打者の違いがあって、セーフになって生き残る打者は塁上でランナーになる、とか、投手だけは試合と同列に勝ち負けがつく、といった指摘は新鮮でした。ただ、とても大きな誤解もいくつか散見されます。例えば、ほかの球技と違って野球では守備側がボールを支配する、としているんですが、野球の前身であるクリケットに対する無理解からの記述としか思えません。すなわち、誤解を恐れず単純化して言えば、クリケットとは野球の投手に当たるボウラーがボールを投げて、野球なら捕手のいる位置に置かれた木製のウィケットを壊しに行くという暴力的な競技であって、それを阻止すべくバットを振るのがバッツマン、つまり野球の打者なわけです。ですから、クリケットではボールを持ってウィケットを壊しに行くボウラーの方が攻撃なわけで、野球に取り入れられて攻撃と守備がなぜか逆転してしまったんですが、クリケットを判っていれば抱かざる疑問のような気もします。まあ、インチキのお話も古くて新しいところながら、なぜか歴史に残る八百長事件は取り上げられておらず、本書の中では第2章の古き佳き野球の時代が読みどころかもしれません。

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2017年1月 5日 (木)

今週の読書を早めにアップする!

今週の読書です。というよりも、年末年始休み後半のエンタメ小説を中心とした読書です。新書も何冊か読みました。通常、読書感想文は土曜日にアップするんですが、今週は米国の雇用統計が公表される週ですので、読書感想文は早めにアップしておきます。明日からは経済評論をはじめとして本格的に従来のブログ記事に復帰する予定です。

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まず、高嶋哲夫『電王』(幻冬舎) です。著者は売れっ子のエンタメ作家であり、私はこの作者のすべてではないにしても、かなり多くの作品を読んでいるつもりです。台風の大雨や富士山噴火、さらに、感染症のパンデミックなどの自然災害を中心とするパニック小説の作品が多いような気がします。この作品は、将棋の奨励会でともに腕を磨いた小学生の同級生2人の天才を主人公とする小説です。裕福な企業経営者の一家に生まれ育った少年は将棋を離れて大学から数学やプログラミングに進み、人工知能(AI)の将来を担う若き学者として世界に令名が知れ渡る一方で、中卒からプロ棋士となった天才少年も2度に渡って将棋界のタイトルを総なめにした七冠を達成しています。そして、バックグラウンドでは企業経営を巡って疑心暗鬼の買収・資本提携・技術提携などの情報戦もが繰り広げられています。最後は2人の天災が将棋でぶつかり合います。すなわち、主人公の1人の学者の開発した電脳将棋プログラムともうひとりの主人公の将棋名人の対戦で幕を閉じます。勝敗は明らかにされません。ということで、エンタメ小説として、それほど完成度は高くありませんが、なかなかおもしろかったりします。もちろん、この作家の得意分野の災害パニック小説と同じで、ほぼほぼあり得ない設定なんですが、そうはいいつつも、ネコ型の子守りロボットが未来からタイムマシンでやって来て四次元ポケットからいろんな不思議な道具を取り出すのは、まったくあり得ないわけですから、年末年始休みに時間潰しで読むようなエンタメ小説としてはなかなかいい出来ではなかったか、という気がします。

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次に、米澤穂信『いまさら翼といわれても』(角川書店) です。古典部シリーズ第6巻最新刊であり、『野性時代』と『文芸カドカワ』に掲載された表題作他5編を収録した短編集です。主人公の折木奉太郎、古典部部長の千反田える、そして、古典部部員である福部里志と伊原摩耶花の4人が通っている神山高校古典部を主たる舞台にした青春小説でもあり、ちょっとした謎解きのミステリだったりもします。収録作品は「箱の中の欠落」、「鏡には映らない」、「連峰は晴れているか」、「わたしたちの伝説の一冊」、「長い休日」、「いまさら翼といわれても」となっていて、4人が高校2年生に進級してからその夏休みくらいまでの時間軸のお話しとなっています。長編では欠落していたいくつかの重要なパーツがあきらかにされます。すなわち、摩耶花がどうして漫画研究会をやめたのか、また、奉太郎のモットーが「やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。」となったのか理由を小学生のころにさかのぼって述懐する、といったものです。今回、私は古典部シリーズ既刊の5冊を読み返してしまいました。そのうち、『氷菓』、『愚者のエンドロール』、『クドリャフカの順番』の3冊は明らかに読んでいた記憶があります。しかし、短編集の『遠まわりする雛』と直前の長編の『ふたりの距離の概算』は未読でした。ただ、『遠まわりする雛』の中の校内放送からケメルマンの「9マイルは遠すぎる」のように紙幣贋造事件を導き出す短編だけは、何かのアンソロジーで読んだ記憶がありました。この短編集もそれなりに面白いんですが、最初の『氷菓』からしてそうだったんですが、話が重いです。表題作の「いまさら翼といわれても」なんぞは、私のような人間には想像もできない重さだろうという気がします。同じ作者の作品で同じようように高校生を主人公にした小市民シリーズも明らかな犯罪行為に足を踏み入れますので、それはそれで重い気がしたんですが、このシリーズも犯罪行為ほどではないとしても、かなり重いテーマを扱っていますので、私のような年齢の読者であればともかく、ホントに主人公と同じような高校生くらいが軽く読み飛ばす小説ではないような気がします。

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次に、柚月裕子『あしたの君へ』(文藝春秋) です。作者はミステリ作家であり、佐方検事シリーズの短編が私は好きで、ドラマ化されていたり、あるいは、いくつか文学賞も受賞していると思いますが、この作品も短編集ながら、家庭裁判所調査官補を主人公にした少年少女の触法行為や両親の離婚などを扱っています。収録作品は「背負う者」、「抱かれる者」、「縋る者」、「責める者」、「迷う者」の6話ですが、最初の「背負う者」は『先週の読書感想部mで取り上げた『悪意の迷路』に収録されていました。これも短編集ながら、家庭裁判所の調査官補が主人公ですからテーマが重いです。実は、私事ながら、私が高校生の時に進路を考えて、当時は頭のいい高校生は、理系では医学部を志望して、当然ながら医者を目指し、文系では法学部から弁護士や裁判官などの法曹界を目指す、というのが見かけられたんですが、私の場合は医者にしても、法曹界にしても、当時の田舎の高校生からすれば、どうも人生の暗い面を見るような気がして、結局、経済学部を志望したという経験があります。まさにちょうど、そういった人生の暗い面を小説に起こしているような気もします。もちろん、大切で重要な事項であり、未成年が触法行為というか、犯罪を犯したり、夫婦が離婚したり、という人生の暗い面の背景を鋭くえぐるタイプの小説です。脳天気に笑って読み進めるような小説ではありませんが、謎解きめいて人生の暗い面の背景に何があるのかが鮮やかに示されたりもします。その意味ではそれなりの上質のミステリかも知れません。検事ほどエラくない調査官補が主人公ですから、その分は親しみやすいストーリーになっているかもしれません。同じシリーズの続編が出版されたりしたら、たぶん、私は読みたくなるんだろうという気がします。なお、同じ作者の最新刊が『慈雨』と題してすでに出版されています。警察官を定年で退官した男性を主人公とする長編ミステリのようで、私はまだ図書館の予約の順番が回って来ていません。

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次に、高村薫『土の記』上下巻(新潮社) です。著者はもうベテランの域に達したミステリ作家なんですが、本書はミステリではないという位置づけになっています。ただし、というか何というか、私は最近ではこの作者の作品は、ほぼ合田雄一郎シリーズしか読んでいなかったりしますが、最近作の『太陽を曳く馬』とか、『冷血』とかの文体はこの作品と同じだと受止めています。ですから、扱っている内容が、警視庁の警部が犯罪行為の解明に当たるというミステリに対して、この作品では、70過ぎの平凡な男性が極めて淡々と奈良に在住してシャープを定年退職し農業にいそしむという小説に仕上がっているだけで、私には大きな違和感はなく読み進むことが出来ました。私は奈良の中学校・高校に通っていましたし、馴染みのある地名がいっぱい出て来ました。ちなみに、私の出身高校の名も出て来ますし、その高校の同級生の一家が代々経営する最中とか、そうめんの銘柄も出ています。ということで、主人公の勤務していたシャープという企業名を含めて、割と堂々と実在する学校や企業などの固有名詞を引き合いに出して、奈良在住の田舎の生活を活写しています。そして、亡くなった主人公の女房は70近くになっても浮気をしていたり、行方不明の大昔の人が大雨の後の土砂崩れで死体が出て来たりと、また、最後の行方不明者の記述なんかもミステリ、というか、ホラーじみた田舎生活を暗示しないでもないんですが、基本はミステリでもホラーでもないような気がします。そして、そういった主人公の農業を主体とする田舎生活に比べて、娘は東京で離婚してニューヨーク生活で新しくアイルランド系の獣医と再婚したり、その娘、すなわち、主人公の孫が夏休みに奈良に期てテニス三昧の生活を送ったりと、決して田舎生活の描写だけに終始した小説ではありません。まあ、好き嫌いはあると思いますし、繰り返しになりますが、合田雄一郎シリーズとの連続性は大いに感じられます。書評を読んで読むかどうかを決めるべき作品ではなかろうかという気がします。

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次に、井上智洋『人工知能と経済の未来』(文春新書) です。著者は若手のマクロ経済学者です。早大大学院では若田部先生あたりを指導教員にしていたような雰囲気が、本書から私には読み取れました。ということで、新年早々ですが、ここ数年で一番の新書でした。かなり前に、大阪大学の堂目教授が書いた『アダム・スミス』という中公新書を読んで、2008年5月26日付けで読書感想文を書きましたが、それに匹敵する内容だった気がします。本書では、前半部分でAIの進歩などを概観しつつ、今世紀半ばにはほぼ90パーセントくらいの雇用が失われる可能性があるとし、その対策としてベーシック・インカムの導入を主張しています。要するに、ごく短く書くとそういうことです。もちろん、AIについても、現在かなりの程度に実用化されている特殊な用途に特化したAIと人間の知能に極めて近い全脳的なAIはまったく違うとか、経済についても平均年齢が上がって資産が増加すると成長に対する志向が衰退するとか、生産性の伸びに応じた貨幣を供給して需要不足を金融政策で創出する必要性とか、正確でありかつ、なかなか興味深い視点を提供しています。でも、何といっても労働が機械化されて雇用が激減する経済ではマルクス的な階級観からすれば労働者階級がいなくなって、資本家階級しか残らないということであり、その場合は、生活保護におけるミーンズ・テストで行政コストをかけるよりは、ベーシック・インカムで最低限の生活を保証する方が適切、という視点には驚きつつも、大いに同意してしまいました。特に、p.219にはベーシック・インカムの賛同するエコノミストが何人か上げられていて、私の尊敬する人が少なくないのには感激してしまいました。ただ、私自身はケインズ的にワークシェアリングで各個人の労働時間を劇的に減らすとか、マルクス的に中央集権指令経済にはしないまでも社会主義的な道も、国民の選択としてあり得るではないか、という気はします。大いにします。

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次に、中野信子『サイコパス』(文春新書) です。著者は脳科学者で、医学博士の学位を持っています。本書は、タイトル通りというか、サイコパスに関する諸説を並べていますが、例えば、サイコパスは遺伝で先天的に受け継がれるのか、あるいは、後天的に社会や家族の中で形成されるのか、また、サイコパスを見抜くための身体的特徴などといわれると、大昔のロンブローゾ的な決めつけの失敗を思い出しかねないんですが、繰り返しになるものの、いろいろと心理学や脳科学の立場から諸説が展開されています。その中で、その昔にはエリートなんぞと呼ばれた社会的地位の高い人にサイコパス的な特報を見出す下りがあります。当然といえば当然なんですが、社会的な地位が高い、というか、出世した人は、まあ、よくない表現かもしれませんが、それなりに「腹黒い』要素を正確的に持っていなければならないような気もしますし、そうであれば、サイコパス的な要素をいくぶんなりとも持っているような気もします。ただし、私が大きな疑問とするのは、サイコパス、というか、ソシオパスは医学的ないし心理学的な脳科学の対象なのかどうか、という点です。すなわち、私自身はサイコパスというよりも、ソシオパスと表現すべきと考えており、すぐれて社会的な存在なんではないかと受け止めています。例えば、家畜を屠殺するのとペットを虐待するのは、社会的な位置づけの違い以外の何物でもありません。家畜でもなく愛玩動物でもないクジラを食べるかどうかを考えれば明らかです。ですから、医学的・心理学的に科学の装いを持ってロンブローゾ的にサイコパスを論じるのは少し私には危なっかしい議論に思えてなりません。十分な警戒心を持って読むべき本ではないかと思います。少なくとも、決して本書の内容を鵜呑みにすべきではないでしょう。

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最後に、冷泉彰彦『トランプ大統領の衝撃』(幻冬舎新書) です。著者はジャーナリストのようです。割と早く、昨年の年内に読んだんですが、大いに期待外れでしたので、読書感想文としては最後に持って来ました。やや意外感を持って受け止められた昨年11月の米国大統領選挙のトランプ次期大統領の当選について、何らかのジャーナリストらしい分析や、事実の発見があるのかと思いましたが、何もありません。米国の共和党と民主党の両党の予備選挙から、11月の米国大統領選挙にかけて、著者が何らかの媒体に寄稿して来たコラムや記事の断片を、特に何の工夫もなく、ダラダラとクロノロジカルにつなぎ合わせただけの代物です。政策分析というよりは、選挙手法・選挙のやり方に関する論評はそれなりに含まれていますが、選挙システムが日米で大きく異なりますから、それほど印象的でもありませんし、だからどうなのか、トランプ次期大統領に何かが有利に働いたのか、といわれれば、とくにそういった分析もなされていません。まあ、便乗商法の一種で出版されたと考えるべきかもしれません。なお、本書を離れて、私の見方ですが、トランプ次期大統領の当選は、米国の民主党から黒人大統領が生まれ、さらに今回も女性の候補を出して来て、政治的なマイノリティの候補、あるいは、政治的な正確さ political correctiness がかなり極限までリベラル化された反動ではないか、少なくとも、ひとつの要因ではないか、と考えています。振り子が逆に振れたわけです。そして、世論調査の結果と少しズレがあったのはブラッドリー効果ではなかったのか、と受け止めています。いずれにせよ、もう、就任式まであとわずかですから、話題の閣僚や在日大使などの人事だけでなく、実際の政策動向に関する情報が欲しいところです。日本経済は再び相対的に米国と比べて小さくなり、その昔の「米国がくしゃみをすれば日本が風邪をひく」という状態になっていることを忘れるべきではありません。

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2016年12月30日 (金)

年末年始休み前半の今週の読書は経済書など計9冊!

役所で忙しいとされる予算業務が先週のうちに終わり、今週は時間が十分ありましたので、かなり読み込んでしまいました。公務員である私とほぼ時を同じくして図書館が閉まりますので、今週は経済書や専門書、来週の年明けの年始休みはエンタメ系の小説など、と適当に私自身の基準で区分して読書にいそしんでいます。従って、昨日のご寄贈本を別にして、今週は経済書など以下の9冊です。

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まず、トーマス・シェリング『ミクロ動機とマクロ行動』(勁草書房) です。著者は2005年にノーベル経済学賞を受賞したトップクラスの経済学者であり、本書は Micromotives and Macrobehavior と題して、もともとは1978年に出版されていて、本書はノーベル賞の受賞講演を最終章に含めた新装版です。たぶん、ノーベル賞受賞スピーチの前の中身は変わっていないんではないかと思います。ということで、本書では一部に数式を展開しつつ、あるいは、グラフで動学的な動きを解説しつつ、マイクロな意思決定がマクロの社会活動、特に経済活動にどのような結果をもたらすか、について鮮やかなモデルの展開により分析しています。すなわち、講演会場の着席パターンから始まって、個人が誰と付き合うか、あるいは、誰と暮らすか、また、誰と仕事をするか、さらに、誰と遊ぶか、などの選択について、特に、白人と黒人の振舞いのあり方、さらに住居の分居を論じ、高速道路上に落下したマットレスが渋滞を引き起こした例を取り上げます。また、当時はまだアイスホッケーの試合でヘルメット着用が義務付けられていなかったことから、選手の負傷とヘルメット着用はどうあるべきかを議論するなど、全体を構成する個人や家族などの小グループの行動基準や特性とそのマクロの結果との関係を分析しています。要するに、マクロの結果は個人の最適化行動に基づくマクロレベルの最適性を保証しない、という意味で、合成の誤謬が起こりまくるという結論です。ですから、少し前のリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論のように、マクロ経済のマイクロな基礎付けを求めるのは、かなり怪しい、という結論を引き出すべきと私は考えます。企業や個人といったマイクロな経済主体の最適化行動がマクロ経済の最適性をもたらす保証がどこにもないんですから、昔ながらの「どマクロ」な議論、例えば、ケインズ的な消費関数やマネタリスト的なGDPと仏果とマネーサプライの関係の類推なども、私はそれなりに意味のあることだと受け止めています。40年近く前の名著ですが、こうして新装版が出た折に読み返してみるのも一興かもしれません。ただ、最後に、冒頭のp.22で「均衡そのものにはさしたる魅力は何もない」といいながら、ほとんどが均衡分析、静学的にせよ、動学的にせよ、になっている気がするのは私だけでしょうか?

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次に、エドマンド S. フェルプス『なぜ近代は繁栄したのか』(みすず書房) です。著者は、先のシェリング教授に続いて、2006年のノーベル経済学賞受賞者です。英語の原題は Mass Flourishing であり、2013年の出版です。ですから、出版社のサイトに「長期停滞を超えるための、経済、文化、倫理を横断する独創的提言」なる宣伝文句が見えるんですが、オリジナルのハンセンまでさかのぼればともかく、サマーズ教授が長期停滞論をいい出したのが2013年末か2014年ですからその前の出版であり、この宣伝文句はやや怪しいところです。といいつつ、本書は基本的に経済史をひも解こうとしているように私は受け止めているんですが、何か、焦点の定まらない議論に終始している印象です。すなわち、一言でいえば、著者が重視するのは副題にもある「草の根イノベーション」であり、「草の根」がないただのイノベーションでもいいんですが、いわゆる近代、すなわち、19世紀半ばでほぼ完成した産業革命から1960年代くらいまでの欧米諸国の経済的な繁栄はイノベーションに基づくものであり、イノベーションを阻害する社会主義やコーポラティズムはよろしくなく、また、日本た最近のアジア諸国、特に中国は独創的なオリジナルのイノベーションではなく、先進国からのイノベーションを導入したキャッチアップ型の繁栄であった、ということになろうかと思います。私が常々主張しているように、西欧、というか、米国を含めて欧米といってもいいんですが、こういった地域が現時点で繁栄を謳歌しているのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命の成果であり、産業革命がイングランドで生じた説得的な歴史的根拠はまだ学界で提示されていない、というのが極めて緩やか、あるいは、大雑把なコンセンサスではないかと思うんですが、本書で著者は経済的社会的繁栄の原動力にイノベーションを置いていて、しかも、そのイノベーションがシュンペーター的な革新ではなかったりします(p.192など)し、さらに「繁栄」も成長とは違うと主張したりして、もうこうなれば定義次第でどうでも立論が可能となり、平たくいって、いったもん勝ちの世界のような気もします。しかも、最後の方ではアリストテレス的なエウダイモニアやセン的なケイパビリティの議論で善を論じてみたり、私のような頭の回転の鈍い人間には訳が分かりません。大雑把に著者が80歳のころの出版で、エコノミストとしての人生の集大成的な著作を目指したのかもしれませんが、少なくとも私クラスの知性では読み解くのが難しかった気がします。でも、うまく言葉で表現できませんが、とても「みすず書房」的な書物ではないかという思いもあったりします。同時に、私は読んでいませんので、単なる直感での評価ですが、米国版の「里山資本主義」のノスタルジックな趣きがあるかもしれません。私は中国的な円環歴史観には否定的であり、マルクス主義的とはいわないまでも、かなり直線的に発展する歴史観を持っていますので、時計の針を逆戻りさせて昔を懐かしがる趣味はありません。

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次に、沢井実『日本の技能形成』(名古屋大学出版会) です。著者は大阪大学を定年退官した労務経済論の研究者で、現在は南山大学に天下りしているようです。本書は出版社からも理解できる通りに明らかな学術書であり、阪大の紀要に掲載された論文も何本か改稿の上で収録されています。大雑把に、熟練工不足が問題になり始めた満州事変直後の1930年代半ばころから戦争をはさんで1950年代初頭まで、いわゆる高度成長期直前くらいまでの四半世紀における金属加工や電気自動車を含む広い意味での機械産業における熟練工の育成に焦点を当てています。戦前の義務教育であった尋常小学校や高等小学校を卒業した10代前半から半ばくらいまでの男性を中心とした職工の技能育成です。大雑把に、現在でいうところのOJTとOff-JTに分かれますが、前者は統計処理が極めて難しく、聞き取りの結果の分析に終始しています。後者については、現在から見ると職業訓練校に近い存在を多く取り上げており、中でも、いわゆる公立の技能習得校とともに、三菱造船と三菱電機が神戸でいっしょに設立した三菱職工学校などが取り上げられています。三菱、川崎重工、日産などの大企業は独自の技能習得学校を設立したりしている一方で、中小企業は公立校への依存を強めているというわけなんでしょう。ただ、注意すべき点で抜け落ちているのは、技能育成・習得と雇用システム、というか、雇用慣行との接点が本書では考慮されていません。本書でも指摘しているように、1930年代の好景気と満州事変ころから熟練工などの不足は問題となり始めていましたが、高度成長期から本格的な人手不足が始まり、労働力の囲い込みの必要から1950-60年代に長期雇用慣行、いわゆる終身雇用が始まる一方で、本書がスコープとしている年代ではまだ転職が少なくありませんでした。おそらく、中小企業のレベルでは1960年代位までいわゆる「渡りの職工」は広く観察され、技能の育成や習得の上で少なからぬ摩擦を生じる可能性もあったりしました。本書では学歴との関係で、戦前における2つの学歴系統、すなわち、小学校-中学校-高等学校-大学、のパターンと、小学校-実業学校-実業専門学校のパターン、もちろん、小学校からいきなり就職するケースもありますが、これらの学歴パターンには目を向けているものの、長期雇用下で他社と差別化された技能の育成が始まる前の段階の我が国における汎用的な技能育成が転職とどのような関係にあったのかが、もう少し掘り下げて論じる必要がありそうな気がします。最後に、繰り返しになりますが、かなり難解な学術書です。OJTの聞き取りを収録した第5章などは私には理解できない部分の方が多かったような気がします。覚悟して読み始めるべきでしょう。

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次に、ロバート B. ライシュ『最後の資本主義』(東洋経済) です。著者はクリントン政権下で労働長官を務めたリベラル派のエコノミストです。上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は Saving Capitalism であり、2015年の出版です。まさか、今どき、資本主義がマルクス主義的な社会主義革命で打ち倒されると予想するエコノミストはいないでしょうから、資本主義本来のあり方を政府が主体となって取り戻すべき、との主張であると理解すべきでしょう。まず、自由市場と政府のどちらが好ましいかという立論を論破します。すなわち、所有権の尊重や独占の回避と競争の促進などの市場の基礎的な条件を整えないことには自由な市場などあり得ないわけで、その市場の基礎的な条件整備を行うのはまさに政府でしかありえない、という議論が展開されます。その上で、資本主義の5つの構成要素として、所有権、独占、契約、破産、執行を上げ、これらのすべてについて、ここ20-30年で大きな変容を来たし、資本主義の市場システムの名の下に富裕層に所得や富が集中するようなシステムが出来上がってしまっており、政府がもっと活動的な仕事をして富裕層に課税して事後的に再分配を行うとか、あるいは、もっと望ましいのは再分配するまでもなく、多くの市民が公平な分配であると納得するような市場のルールを定め、それにより格差を縮小させるようなシステムを作り上げることであると結論しています。そして、その最大の眼目として、著者は本書でベーシック・インカムの導入を主張しています。そうしないと、やや極論に聞こえるかもしれませんが、ワイマール民主主義がナチスに乗っ取られ、ロシアが共産主義という大きな遠回りをしたように、資本主義がある意味で崩壊する危険があるとし、それが本書の英語の原題のタイトルとなっています。ピケティの『21世紀の資本』が主張するように、企業幹部がとてつもない所得を得ているのはストック・オプションたストック・アワードのためであると結論し、富裕層に対する拮抗勢力、すなわち、ガルブレイス教授の主張した意味でのCountervailing Powerの必要を強調しています。米国大統領選はトランプ次期大統領の当選で終了しましたが、民主党の予備選で社会民主主義者をもって任ずるサンダース候補の善戦が注目されましたし、そういった意味で、格差の拡大をはじめとして今の経済システムは何かがおかしい、と感じている市民は少なくないと思います。なかなか実現の難しい課題ですが、ライシュ教授の主張に耳を傾けることも必要だと私は感じています。

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次に、アレック・ロス『未来化する社会』(ハーパーコリンズ) です。著者は未来学者として2008年大統領選挙の当時からオバマ政権の成立に尽力し、第1次オバマ政権ではヒラリー・クリントン国務長官の参謀として世界80万キロを行脚したといわれています。その未来学者が、ロボット、ゲノム、暗号通貨、サイバー攻撃、ビッグデータ、未来の市場の6つのテーマで未来世界を論じています。いろんな点で興味をそそられるんですが、第1に、テクノロジーの観点からは、ひとつひとつのステップを駆け上がるような段階的な発展ではなく、跳躍の論理が可能となる場合があります。すなわち、典型的には移動体通信であり、米国や日本のように固定電話から携帯電話に進むんではなく、固定電話の段階をすっ飛ばしていきなり携帯電話の段階に進んだ中国やアフリカの国なども少なくありません。ですから、その昔に一橋大学の松井先生や小島先生が主張された雁行形態発展理論もあるにはあるんでしょうが、その昔のような繊維や食品や雑貨といった軽工業から重化学工業に続く発展段階をたどる国もあれば、軽工業を経験せずにいきなり重化学工業に進む国もあり得ます。第2に、本書でもテクノユートピアとして批判的に指摘されていますが、未来の発展方向はすべからくすべてがバラ色であるとは限りません。ロボットが外科手術を行うようになれば、医療費負担の軽減のために保険会社などが安価なロボット手術を半強制する可能性もありますし、もちろん、ロボットや人工知能(AI)で失われる雇用も少なくない可能性が高いと考えるべきです。ゲノムの解読が進めばデザイナーベビーの可能性がうまれますが、それがいいことなのか、どうなのか、著者も判断を保留しているように見えます。仮想通貨ではつい最近日本に本拠を構えビットコイン大手だったマウントゴックスの事件も記憶に新しいところです。ただ、本書ではビットコインが通貨としては失敗する可能性があるものの、ブロックチェーンは信頼できる取引のためのプラットフォームとして活かされる可能性は十分あると主張しています。また、私が従来から指摘している通り、ビッグデータが利用可能となった現段階で、プライバシーについては一定の範囲で犠牲になる可能性を本書でも認めています。とまあ、いろんな論点で未来社会について論じており、私のような頭の回転の鈍い人間でもインスパイアされるところが大いにありました。未来社会をのぞいてみたカンジでしょうか。

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次に、エドワード・ヒュームズ『「移動」の未来』(日経BP) です。著者はピュリツァー賞受賞経験もある米国のジャーナリストです。本書の英語の原題は Door to Door であり、通勤や貨物の移動も含めて、もちろん、自動車だけでなく海運や鉄道まで幅広く視野に収めています。ただし、米国の交通事情からして、やや鉄道の比重が小さいような気がします。特に、地下鉄はニューヨークなどでとても発達しているにもかかわらず、カリフォルニア在住の著者の視野には入っていないように見受けられます。ということで、ネットで電子的につながり合って、情報がモノすごい速さで飛び交う世界で、実際にヒトやモノの移動がどこまで重要かは疑問に感じる向きもあるかもしれませんが、実はかなり重要だと私は考えています。かつては買い物といえば、ヒトの方が商店に出向いて買い求めるのが一般的でしたが、今ではネットで注文して運送屋さんが届けてくれるのが無視できない割合を占めています。本書では、世界が、特に経済が、ヒト、特に通勤面から考えたヒト、さらに、もちろん、モノがどのように移動して経済社会を成り立たせているかを概観しています。特に、グローバル化が進んで輸出入による取引がここまで拡大すれば、移動も当然グローバルに行われます。日本などは、特にヒトの移動における通勤では、いわゆる公共交通機関である鉄道やバスが大きな役割を果たしていますが、まだまだ地方では米国と同じようにマイカーによる通勤も少なくありませんし、ほとんど1台に1人しか乗っていないクルマによる移動がいかに非効率なものかは議論するまでもありません。本書では重視していないように見受けられますが、地球温暖化の帽子のための二酸k炭素排出の抑制の観点からも、移動に関する議論は決して軽視できません。本書では、どうしても米国、それも西海岸の地域性が表面化していて、我が国の現状とビミューにズレを見せている気もしますが、最終的にはバスの活用とか、理解できなくもない結論を導き出しています。炭素税の導入という環境面も配慮した政策対応は著者の頭にないようですが、いろいろと日本の実情も読者の方で考え合わせて補完して、交通や移動について考えることが必要かもしれません。

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次に、竹内早希子『奇跡の醤』(祥伝社) です。舞台は陸前高田にあった醤油製造会社の八木澤商店です。2011年3月11日の震災直後の津波によって、200年の歴史を持つ土蔵をはじめ、醤油製造業にとって命ともいえる微生物の塊りだったもろみや杉桶、また、従業員の1人と製造設備のすべてを失っています。作者は有機農産物宅配業者に勤務し、八木澤商会との接点を持ったといわれています。ということで、本書はノンフィクションであり、新作・津波直後の4月1日に急遽9代目を継いだ社長の河野通洋をはじめとする八木澤商会の奮闘を取り上げています。震災から5日目にして「必ず再建する」と社員を前に約束し、醤油の製造復活前は、醤油の派生商品である麺類のつゆなどを作りつつ、必死に再建を目指す社員たちを温かい筆致で描き出します。そして、震災・津波直後の4月に、何と、岩手県水産技術センターから、伝統の醤油復活のために不可欠なもろみが津波の被害を逃れて無事に発見され、陸前高田を離れて内陸の一関市に工場を新設し、以前と同じ味の醤油の製造に成功するまでの5年間のドキュメントです。最後は、社長も従業員も昔の味の醤油の復活に半信半疑だったところ、舌の肥えた社長の子供達からお墨付きを得て安堵するシーンも印象的でした。地銀の岩手銀行や震災復興ファンドからの資金調達に支えられながら、誰1人として会社から解雇することはしないながらも、工場新設の過程で離れて行った何人かの従業員もいたようですし、企業経営のあり方について、すなわち、震災・津波で壊滅的な打撃を受けた地場の中小企業の復活の心あたたまる物語に終わるのではなく、企業の社会的使命とは何か、企業と従業員の関係はいかにあるべきか、そして、その企業を側面から支える銀行や公的機関の役割とは何か、そして何よりも、企業のトップ経営者の決断と行動の基準をどこに置くべきなのか、こういった企業を取り巻く経済活動の基本について大いに考えさせられる1冊です。

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次に、日本推理作家協会[編]『悪意の迷路』(光文社) です。ここ3年間に発表された短編を日本推理作家協会がアンソロジーとして編集しています。なお、すでに姉妹編の『殺意の隘路』も刊行されており、私も借りてあるんですが、本書でいえば2段組500ページ超のボリュームであり、年末年始休みの暇潰しにうってつけです。ただし、『殺意の隘路』は400ページ余りです。コピペで済ませる収録作品は、芦沢央「願わない少女」、歌野晶午「ドレスと留袖」、大沢在昌「不適切な排除」、大山誠一郎「うれひは青し空よりも」、北原尚彦「憂慮する令嬢の事件」、近藤史恵「シャルロットの友達」、月村了衛「水戸黄門 謎の乙姫御殿」、西澤保彦「パズル韜晦」、東川篤哉「魔法使いと死者からの伝言」、藤田宜永「潜入調査」、三津田信三「屋根裏の同居者」、湊かなえ「優しい人」、森村誠一「永遠のマフラー」、柚月裕子「背負う者」、米澤穂信「綱渡りの成功例」となっています。売れっ子ミステリ作家の力作そろいですが、特に、「憂慮する令嬢の事件」はシャーロック・ホームズのパスティーシュとなっていて、面白く読みましたが、謎解きが少し平板だったような気がして、もう少し意外性が欲しかった気がします。また、水戸黄門のパロディタッチで書かれている「謎の乙姫御殿」もとても面白く読めました。「背負う者」は新しい著者のシリーズでしょうか、『あしたの君へ』の冒頭に収録されている短編らしく、同じ著者の検事の佐方シリーズと少し似ている家裁調査官補の望月大地のシリーズ第1作だと思います。なお、『あしたの君へ』はすでに借りてありますので、来週の読書で取り上げるんではないかと予定しています。またまた繰り返しになりますが、年末年始休みの暇潰しにうってつけです。

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最後に、井手留美『賞味期限のウソ』(幻冬舎新書) です。著者はケロッグの勤務やフードバンクのお勤めなど食品・食料に関する実務経験があるだけでなく、栄養学の博士号もお持ちの専門家です。本書では、日本の食品業界のビジネス慣行などから賞味期限が短く設定され、食品ロスが生じている実態を明らかにしています。なお、私が借りて読んだのは黄色の表紙の新書で、上の画像のような派手な表紙ではなかったんですが、まあ、同じ内容なのだろうとしておきます。ということで、食品ロスとはすなわちコストアップの原因であり、我々消費者に跳ね返ってきているわけですが、著者は他の点については食品業界だけでなく家庭の責任や浪費を主張しているにも関わらず、なぜか、賞味期限の厳しい設定については、章句品業界のバックグラウンドに控える消費者に目が行っていないように見受けられ、私は少し不思議な気がしました。食品だけでなく、衣料品とか、電機製品など、日本の消費者の要求水準はすべからく厳しく高く、そのためのコストアップはかなりのものだと私は認識しています。もちろん、国内消費者の要求水準に適合した品質を持って海外に売り込めば、価格はともかく品質面では高い国際競争力を得た、という面はあるにしても、エコノミストでなくとも品質と価格がトレードオフの関係にあることは知っているわけで、本書でも高品質低価格の食品を求めるとかは消費者のエゴであると断じています。ですから、価格見合いの品質で満足し、賞味期限や消費期限の長い製品を店の奥まで目を走らせて買い求めるような消費行動を慎み、消費期限ギリギリの食品はフードバンクに寄付する、などのより合理的な消費行動、企業活動を推奨しています。ただ、エコノミストとしての私の感触からすれば、残り消費期限と価格を連動させるなどの合理性も必要かという気はします。年末大掃除で忘れ去られていた食品が見つかった場合などの対応にも参考になるかもしれません。

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最後の最後に、上の画像は今週日曜日12月26日の日経新聞の「エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」から引用しています。一応、私の官庁エコノミストの端くれとして、この10冊はすべて読んでいますが、6位、8位、10位と3冊も白川総裁時代の旧来型の日銀理論家の著作が入っており、私には少し違和感が残りました。黒田総裁下での異次元緩和に対する批判がそこまで強いんでしょうか。そうだとすれば、昨日取り上げたリフレ派の本で、批判に対する反論を強く打ち出すのも理解できるような気もします。どうも、私にはよく判りません。

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2016年12月29日 (木)

原田泰・片岡剛志・吉松崇[編著]『アベノミクスは進化する』(中央経済社)を読む!

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今週になって、思わぬ方からクリスマス・プレゼントが届きました。原田泰・片岡剛志・吉松崇[編著]『アベノミクスは進化する』(中央経済社) を共著者のおひとりである三菱UFJリサーチ&コンサルティングの片岡剛志上席主任研究員からご寄贈いただきました。
副題が「金融岩石理論を問う」となっていて、リフレ派の観点から金融政策に関していくつかのの疑問や批判に対して反論したもので、大学の研究者というよりは、なぜか、シンクタンクなどのアナリスト系のエコノミストが多く執筆しています。民間エコノミスト出身の日銀政策委員である佐藤委員と木内委員の任期が来年2017年半ばだったように私は記憶していますので、何か関係があるのかないのか、私にはよく判りません。といった野暮な詮索は別にして、いろんなテーマで勉強になる本なんですが、ハッキリいって「今さら感」いっぱいな気もします。特に最後の12章のマイナス金利は取って付けたようで中身もやや貧弱と受け止めました。あえて取り上げれば、4章のバブルと11章の構造失業率の推計問題が評価できると考えます。以下の通りです。
まず、4章で取り上げているバブルについては、旧来の日銀は「羹に懲りて膾を吹く」ように、バブル崩壊を招かない要諦は、そもそも、バブルの発生を避けるという観点から、ひどい引き締め基調の金融政策運営だったわけで、こういった点を私なんぞも批判的に見ていたんですが、本書第4章ではそれなりによく整理されたバブル観が示されています。今や「合理的なバブル」とか「バブル・ライド」といった見方もあるわけですし、少なくとも、バブル発生を防止するのが経済政策運営の最大の目標とする考え方がおかしいという点についてはほぼ合意があるように私は考えています。次に、11章でスポットを当てている構造失業率については、本書の結論を私も大いに支持します。すなわち、フィリップス曲線的にいうと現状の3%を少し上回るくらいの失業率は完全雇用ではなく、日銀のインフレ目標の2%に対応する失業率は3%を下回る、というのが私の直感的な理解です。11章でも出てくる労働に関する国立の研究機関に私も在籍していたことがあるんですが、いくつかの経営者団体や労働組合などとの懇談会で、当時の3%台半ばの失業率が完全雇用であって、それ以上に失業率が下がらないだろう、とのご意見に対して、私から失業率が3%を下回らないと物価は上がらない、とフィリップス・カーブ的な反論をしてしまったことも記憶しています。

最後に、繰り返しになりますが、本書はリフレ派の金融理論に対する疑問や批判に対する反論を収録していますが、とても「今さら感」が強いです。浜田先生が金融政策だけでなく財政政策のサポートも必要、と主張し始めたのはつい最近で、書籍メディアでの対応はまだムリとしても、少なくとも、黒田総裁の下で異次元緩和が始まって3年半を経過してもサッパリ物価が上がらないのはなぜなのか、をもっと正面から説得的に提示すべきです。異次元緩和で物価が上がらないのであれば、逆から見て、まさに「岩石理論」的に、物価が上がり始めてしまってから引き締めに転じても、金融政策による物価のコントロールが出来なくなる可能性も残されているわけですから、金融政策でどこまで物価をコントロールできるかは重要な論点だと思うんですが、いかがなもんでしょうか。加えて、ご寄贈いただいた片岡さんは、以前、アベノミクスの「進化」の方向として分配を示唆されていたように記憶しています。実際に、同一賃金同一労働などを含めて、いわゆる働き方改革も進んで来ており、本書のタイトルであれば、そういったラインに沿った「進化」を期待するのは私だけでしょうか?

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2016年12月24日 (土)

今週の読書はグッと落ち着いて経済書と専門書ばかりで5冊だけ!

先週末あたりから年末年始休暇も見据えて、周辺の図書館から大量に本を借りまくっています。一時、在住区の図書館からは限度の20点に近い19点まで借りてしまいました。そのうち、今週の読書は以下の5冊にペースダウンしました。最後に取り上げているワシントン・ポスト取材班による『トランプ』にものすごく時間をかけてしまった結果だという気がします。

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まず、伊藤宣広『投機は経済を安定させるのか?』(現代書館) です。著者は京都大学大学院で博士号を取得した高崎経済大学の研究者です。副題は「ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』を読み直す」となっており、ケインズ的な観点から投機と経済的安定を議論しています。というのも、もともと、ケインズ的な理論で国民所得水準を決める重要な変数のひとつである利子率は流動性選好と貨幣供給から決まり、後者は中央銀行がコントロールするとしても、前者の流動性選好のバックグラウンドには投機の問題があると考えられるからです。本書では議論の前提として、いわゆるケインズ経済学の戦後経済社会における隆盛と衰退、特に、1970年代のインフレやスタグフレーションに伴ってケインズ的なマクロ経済政策の有効性に疑問が持たれ、1980年前後から英国のサッチャリズムや米国のレーガノミクスによる新自由主義的な経済政策の試みはもちろん、ケインズ個人の投資実績まで明らかにして、当期と経済的安定性の問題について解明を試みますが、結局、結論は竜頭蛇尾に終わり、p.198 にある通り、当期が逆張りか順張りか、すなわち、上がっている銘柄をさらに上がると考えて買い求めるか、それとも、上がったら下がると考えて売りに出すか、それ次第であると結論しています。ただし、私は市場それ自体の動きも考慮に入れる必要があると指摘しておきたいと思います。すなわち、例えば、日米の株式市場においては、米国ではモメンタム相場であって、上がっている株をさらに買い上げるという順張り戦略のリターンが高く、逆に、日本はリターンリバーサル相場で逆張りのリターンが大きいとされていて、少なくとも計量経済学の分野では実証的に決着がついています。すなわち、本書の結論に従えば、米国では投機は不安定要因であり、日本では経済安定要因である可能性があります。しかし、そこまで単純かといえば、私にはそうも思えません。もちろん、本書でも紹介されているように、右派的な経済学において、例えばフリードマン教授が投機を安定化要因と指摘し、変動為替相場制を推奨したわけですが、これまた、それほど単純でもないような気がします。まあ、極めて複雑怪奇な問題にこの程度のボリュームの書籍における検証で決着がつくと考えられないわけですから、このあたりの結論が妥当なのかもしれません。

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次に、久保亨・加島潤・木越義則『統計でみる中国近現代経済史』(東京大学出版会) です。著者3人は中国経済史の研究者であり、出版社から明らかな通り、本書は学術書と考えるべきです。ということで、本書は19世紀半ば過ぎくらいから、大雑把に150年に渡る近現代中国の経済史を経済活動と政策動向の両面から跡付けています。すでに、21世紀に入り、GDPで測った経済規模では我が国を追い越して米国に次ぐ経済大国となった中国を、それなりの長いタイムスパンで歴史的に分析し直し、歴史から中国経済の先行きを考える際の指針とすべく、来し方行く末を考えるのもいいような気がします。ただ、本書は経済史のいくつかの方法論の中でも、かなり淡々と経済発展を数量的に、というか、もっと端的に表現すると量的にのみ把握しようと試みており、逆にいえば、1920年の辛亥革命による封建制の清朝打倒と1949年の共産中国の成立など、政体的に極めて大規模な質的変化があったにもかかわらず、というか、それよりも経済活動の継続性をより重視した研究を取りまとめています。ですから、王朝ごとに取りまとめられた歴史と違って、本書では具体的に工業、農業、商業・金融業、エネルギーといった分野ごとに分析、というか、記述を進めています。確かに、製造業に目を向けた大Ⅱ章の近代工業の発展についても、いわゆる西欧的な産業革命やロストウ的なテイクオフといった質的な転換点に関する議論よりも、生産量の推移などの定量的な把握が中心になっていたりします。それはそれで、OKという読者と、私のように少し物足りない読者もいそうな気がします。特に、近代的な組織だった生産ラインを持つ工業はともかく、小規模な農業などは生産意欲、というか、いわゆるインセンティブに如実に反応する場合も少なくなく、第Ⅴ章の農業を取り上げた章で、生産互助会から合作社、さらに、人民公社に生産形態が集約され、そして、現在はどうなっているのか、といった生産高のバックグラウンドになっている生産組織や生産様式についても、もっとしっかりした分析が欲しかった気がします。ただ、研究者の書いた学術書ですから、分析目的についてはそれなりの背景があり、例えば、テキストにするとか、あったりするんでしょうから、読者によってはOKかもしれません。質的変化の分析や記述がほとんど欠けている分、統計的なテーブルは充実しています。ソチラの目的で読めばOKなのかもしれません。

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次に、 デロイト・トーマツ・コンサルティング『モビリティー革命2030』(日経BP社) です。著者はコンサルティング・ファームのリサーチチームであり、企業名からして会計士さんが多かったりするんでしょうか。私はこの業界はよく知りません。本書では、自動車産業が大きなティッピング・ポイントを迎えているとして、その要因を環境対応としてのパワートレーンの多様化、自動運転などのインテリジェント化、そして、Uberなどのシェアリングサービスの3点があると指摘し、産業としての方向性を議論しています。まず、パワートレーンの多様性とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、要するに、従来のように、トラックやバスなどのごく一部のディーゼルを別にすれば、自家用車はほとんどガソリンで動くレシプロ・エンジン一本槍、というわけではなく、ハイブリッド車や、プラグイン・ハイブリッド、電気自動車など動力源が多様化したという意味です。これに、自動運転などのインテリジェント化とシェアリング化を加えると、まず、自動車がドライバーにとっても運転する楽しさではなく、運転手付きの社用車で通勤する重役のごとく、単なる移動の手段となるわけですから、例えば、自動車の動力性能などは重視されなくなる可能性が高くなります。シェアリング社会で自動車を保有するのではなく、単なる利用者になれば、自動車そのものの稼働率は高まり、効率的な運用が可能となりますから、人々の移動に必要とされる自動車の数量=台数は少なくて済みます。有り体にいえば、自動車が売れなくなるわけです。我が国経済は私の実感でもかなり自動車産業のモノカルチャーに近く、自動車が効率的に組織されて公共交通機関に近くなり、多くの台数を必要としなくなれば、我が国経済は大いに傾く可能性すらあります。関連産業としても、米国の保険業の業界団体の試算によれば、自動ブレーキ搭載車の保険金請求件数は▲14%減少したといいますので、自動運転によって安全性が高まれば保険業の収入も減少する可能性が高くなります。その中で本書最終章の提言は迫力不足としかいいようがありません。まあ、本書後半の商用車のあたりから、米国の先進的なメーカー幹部へのインタビューでもって方向性を探ったりしていますので、それほど自信がないのも判りますが、やや迫力不足で、しかも、タイトル通りに2030年というかなり近い将来のお話であって、いわゆるシンギュラリティの2045年よりずっと前の段階の将来像を探っているにも関わらず、現状の方向性を先延ばししただけの内容だという気がします。もう少し深い内容を望んだ私の期待が過剰だったのかもしれませんが、やや迫力不足で物足りない気がします。

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次に、中野佳裕/ジャン=ルイ・ラヴィル/ホセ・ルイス・コラッジオほか『21世紀の豊かさ』(コモンズ) です。著者は掲げた他にも何人かいて、名前から判別できる日本人は別として、フランスなどの大陸欧州と中南米出身の社会科学系統の研究者が中心かと思います。邦訳者が序章の冒頭に記している通り、「「本書は、フランスの社会学者ラヴィルとアルゼンチンの経済学者コラッジオの共同編集による『21世紀の左派 - 北と南の対話に向けて』の日本語特別編集版だ。」ということのようであり、スペイン語版は2014年に、フランス語版は2016年に、それぞれ出版されています。ちなみに、私はスペイン語を理解するんですが、早く出版された方のスぺイン語版のタイトルは Reinventar la isquierda en el XXI siglo となっています。そして、邦訳する段階でなぜか「左派」が「豊かさ」に置き換えられています。理由は不明です。私はタイトルが「左派」であっても読んだかもしれませんが、パスする人もいるかもしれません。ということで、本書では経済的な成長至上主義を批判しつつ、本書のキーワードとなっている「オルタナティブ」を提示しようと試みています。その試みは成功しているかどうかは、私には判然としませんが、ひとつには「公」でも「私」でもなく、「共」の分野の拡大を目指す点などが上げられます。単なる言葉遊びではなく、もちろん、精神論だけでもなく、コモンズとしての適用可能な範囲の拡大が上げられます。そうすると、右派的な所有権の問題がありますので、一気に社会主義とまではいかないとしても、本書では何度か社会民主主義に言及されますが、何らかの左派的な所有権構造の社会を変革することもひとつの視点となるかもしれません。ただ、本書でも指摘している通り、ソ連の崩壊や現在の中国を見ている限り、マルクス主義的な共産主義や社会主義が国民の理解を得られるとは到底思えませんし、本書でも、マルクス主義的な一直線の生産力の拡大は否定されています。他方で、マルクス主義的な革命路線までの大きな変革ではないとしても、ポスト資本主義やポスト民主主義に向けての何らかのパラダイム・シフトや変革=トランジションの必要性も本書では追求しています。また、ラクラウの議論に立脚して、マルクス主義的な観点から、単なる階級闘争にすべてを流し込むのではなく、フェミニズムや教育・医療をはじめとする広い意味での社会福祉の増進、労働者保護などの視点も導入されています。社会民主主義的というか、社会改良主義的な視点かもしれません。最後に、そうはいっても、本書はフランス的な構造主義・ポスト構造主義などの影響を強く受けており、しかも、邦訳の質がそれほど高くなく、例えば、「デアル」調と「です・ます」調の文章が混在するなど、決して読みやすい内容ではありません。出版社も聞きなれないところですし、編集の質にも疑問があります。どこかで少しくらいは立ち読みしつつ、読むかどうかを決めた方がいいかもしれません。

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最後に、ワシントン・ポスト取材班『トランプ』(文藝春秋) です。今年の海外からの大きなサプライズとして上げられるのは、英国のEU離脱、いわゆるBREXITと、米国大統領選挙でのトランプ候補の当選だったのではないでしょうか。しかし、世界の困惑をよそに、少なくとも我が国経済はトランプ次期米国大統領を好感し、円安と株高が進んでいるのも事実です。ということで、本書はワシントン・ポスト取材班が今年半ばに3か月間20人のジャーナリストを動員して、米国共和党の予備選挙と党大会までのトランプ次期大統領に関するパーソナル・ヒストリーや言動・行動を取りまとめたものです。上の表紙画像に見る通り、英語の原題は Trump Revealed ですから、直訳すれば、「暴かれたトランプ」といったカンジでしょうか。圧倒的なボリュームです。引用文献を含めて500ページをはるかに超え、トランプ次期米国大統領の人となりを余すところなく明らかにしています。11月の米国大統領選挙前までの情報ですから、かなりトランプ次期大統領に対して否定的な内容と読めますが、不動産経営者、カジノ経営者、テレビのエンタテイナー、などの公的、というか、人々の目に触れる面の顔を中心に取材したり文献に当たったりしており、家族構成やましてや祖先の出身地などは、かなり粗略な扱いとなっています。私はこれが正しい報道だと受け止めています。ともかく、情報量としては圧倒的です。これほど私が時間をかけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。そういった意味で、典型的な米国ジャーナリズムの成果といえます。同じような情報量の多さで、例えば、ナオミ・キャンベルの著作などは、左派ベラルとして私の傾向にマッチしているのがわかっていながらも読了を諦めたりしたことがあるんですが、本書は何とか読み通すことができました。とても興味あるテーマと題材ながら、覚悟して読み始めるべきです。

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