2020年11月28日 (土)

今週の読書はコロナ危機に関する経済書と家族に関する社会学書と新書が3冊の計5冊!!!

今週の読書は、主流派のエコノミストによる経済書と広く社会学ないし社会科学の専門書に加えて、大学に再就職してから学生諸君にオススメするために盛んに読んでいる新書3冊の合計5冊、以下の通りです。

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まず、小林慶一郎・森川正之[編著]『コロナ危機の経済学』(日本経済新聞出版) です。経済産業研究所の関係者の研究者が集まって、まさに、コロナ・パンデミックの経済学を展開しています。第1部 今、どのような政策が必要なのか、と、第2部 コロナ危機で経済、企業、個人はどう変わるのか の2部構成であり、各部が10章ずつの大量の論文を収録するとともに、序章や終章まであって、とても盛りだくさんな内容です。ただ、それだけに、精粗まちまちな印象はありますが、この時期のこのテーマの出版でそこまで求めるのは酷というものだと私は思います。まあ、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)とは何の関係もなく、おそらくは従来からの自説を展開しているだけ、に近い印象の論文も第9章と第10章をはじめとして、いくつか含まれているような気がします。加えて、私なんかにはとても勉強になるんですが、一般のビジネスパーソンに役立つというよりは、学術書の要素の方が強そうです。私が特に興味を持ったのは、第1に、パンデミックに関するSIRモデルです。古い古いモデルで、1927年にKermackとMcKendrickの論文で明らかにされています。このSIRモデルにおいては、国民を免疫のない非感染個体(S)と感染個体(I)と免疫を保持した回復個体あるいは隔離個体(R)の3カテゴリーへ分割され、①非感染個体(S)は感染個体(I)に移行し、その際、非感染個体(S)と感染個体(I)の積に比例して定率で移行します。そして、②感染個体(I)は別の定率で回復個体あるいは隔離個体(R)に移行します。また、③感染期間は指数分布に従うとして、この①から③が仮定されます。時刻tの時点における免疫のない非感染個体数S(t)と感染個体数I(t)と回復個体あるいは隔離個体数R(t)の3つの未知関数の時間変化に伴う増減は時間tで微分されていますから、その連立微分方程式を解けばいいわけです。これで理解できた人は素晴らしく頭がいいんですが、私自身もまだ一知半解な部分も残っています。少なくとも、パラメータを置いて表計算ソフトで手軽に計算できそうな気がします。そのうちに挑戦したいと思います。第2の関心は、当然ながら、雇用に関するものです。第2部のいくつかの章で格差の拡大、エッセンシャル・セクター労働者の過重労働の問題、在宅勤務の生産性の問題、などが取り上げられていました。現時点までの、というか、本書が執筆された5月時点くらいまでのデータでどこまで実証分析が可能なのかの問題はありますが、ongoingで展開している問題ですので、こういった分析を早めに世に問うのはとても意味あると私は受け止めています。

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次に、津谷典子ほか[編著]『人口変動と家族の実証分析』(慶應義塾大学出版会) です。多数に上るチャプターごとの著者は、津谷教授の定年退職を記念して集まられたような雰囲気があり、最後に、津谷教授の履歴・研究業績が示されています。どちらかといえば、家族を中心にしているので人口学や社会学の系統なんだと私は理解していますが、経済学とも密接に関連していることは事実です。私は大学で学部でも大学院でも「日本経済論」という授業を担当していて、この授業の呼称は10年ほど前の長崎大学とも共通するのですが、マクロ経済学の応用分野である日本経済論いついては、日本経済の大きな特徴である少子高齢化や人口減少をどこまで重視するのか、というスタンスの違いが現れます。本書は人口減少を人口変動のひとつのバリエーションとして分析対象としており、まあ、人口増加はスコープ外ながら、人口変動が経済に及ぼす影響も同時に別の意味でスコープ外となっています。私自身は人口減少は日本経済の停滞の要因である可能性は否定しないものの、それほど大きな影響を及ぼしているとは考えていません。ほかにいっぱいあります。ただし、高齢化については財政や社会保障の分野、特に、サステイナビリティの観点から大きな影響があると考えています。それほど突き詰めて考えたことはないという気もしますが、ある意味で、役所のカルチャーの部分もあろうかと思います。例えば、平成20年版の「経済財政白書」の第3章などでは、明確に人口減少が成長率の低下につながることを否定していますし、逆に、14~15世紀のペストのパンデミックが成長率を引き上げた事例なども紹介していたりします。ですから、吉川先生の中公新書『人口と日本経済』なんかもすんなりと頭に入りました。かつての日銀白川総裁が藻谷浩介『デフレの正体』に飛びついて、デフレは日銀の金融政策が悪いからではなくて人口減少のせいである、年て主張し始めたときはとても下品なものを感じました。まあ、それはともかくとしても、本書は完全な学術書です。家族というマイクロな社会学の対象から、マクロ経済学への橋渡しとなるのが人口動態だと私は考えています。その意味で、なかなかに勉強になる読書でした。少なくとも、私の専門分野からして、実証的な分析手法に大きな違いはなかったような気がします。

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次に、太田康夫『スーパーリッチ』(ちくま新書) です。著者は日経新聞のジャーナリストです。一昨日のブログで、もっとも重要な新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の経済的帰結のひとつは格差拡大であると、いくつか授業の教材を紹介しつつ主張しましたが、IMFブログやBrookingsなどが社会的な海藻の下の方の女性や黒人や若年者に注目して、支援を呼びかけているのに対して、逆に、本書ではタイトル通りに超富裕層について取り上げています。COVID-19パンデミックでは、インターネット宅配のアマゾンをはじめとして、GAFAとマイクロソフトなどが在宅勤務で収益を増加させ、あるいは、在宅時間の増加とともにSNSも収益を上げていると私は考えており、ますます格差が拡大しています。ただ、決して覗き見趣味ではないつもりですが、本書の第3章で取り上げられているようなスーパーリッチの新貴族文化については、私も興味ないわけではありません。もっとも、私なんぞのサラリーマンで一生を終える一般ピープルには手の届かないことばっかりで、ついついため息が出そうです。特に、従来勢力というか、王侯貴族をはじめとする欧米先進国のスーパーリッチだけでなく、最近の時点でシェアが増加している中国人のスーパーリッチは、かつての日本人的な「成金趣味」がうかがえる部分もありました。格差先進国の中国の動向を中止しつつ、格差拡大が進めば経済社会がどうなるのかについてもエコノミストとして考えを巡らせたいと思います。

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次に、坂本貴志『統計で考える働き方の未来』(ちくま新書) です。著者はリクルートワークス研の研究者です。内閣府に出向して官庁エコノミストとして「経済財政白書」を執筆していた旨の紹介がなされています。失礼ながら、「官庁エコノミスト」のカテゴリーがとても広い意味で使われ始めた気がします。まあ、私も大学教授なんですから、いろんなカテゴリーを幅広く使うのはいいことかもしれません。ということで、高齢社会が進む一方で、様々な観点から高齢者の労働参加促進が政府の重要な政策のひとつとなっており、いくつかの統計からいろんな観点を提示しています。さすがに、私にとっては目新しい視点があったわけではありませんが、楽しく読めるビジネスパーソンも少なくないように思います。政府の視点からは、本書では出て来ませんが、年金支給までなんとか食いつないでもらうために、高齢者をおだて上げてても、企業を叱りつけてでも、なんとか65歳まで所得を政府以外から得て欲しいと考えていることは明白です。ですから、女性雇用などとセ抱き合わせにして、かつ、働き方改革なんて、勤労世代をはじめとして全世代を巻き込む形で高齢者の労働参加を促進する政策が展開されています。しかし、「生涯現役」を喜んで受け入れる高齢者がいる一方で、私もそうですが、従来から主著している通り、「生涯現役」なんて真っ平御免で、一定の年令に達したら引退してラクをしたい、と考える人々も一定数いることは本書でも主張されています。まあ、どこまで健康寿命が伸びるかにも依存しますが、果てしなく「生涯現役」はカンベンして欲しいです。

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最後に、筒井淳也『社会を知るためには』(ちくまプリマー新書) です。著者は、社会学を専門としており、何と、学部は違えども、私と同じ大学の社会科学の研究者です。どこにも明示的に書かれていないんですが、おそらく、大学に入学したばかりの20歳前後の学生を対象にしているんではないか、という気がします。ですから、専門外の私なんかにはそれなりにフィットしたレベル感でした。前の書評と重なりますが、経済学と社会学は同じ社会科学であり、同じ経済社会の分析をします。おそらく、私のような計量的な分析を主とする研究者であれば、分析手法も大きくは違っていません。何が違うかといえば、分析の対象です。経済学が経済行為や経済システムを分析対象とするのに対して、社会学はもっと広義の社会、ないし、経済関係で結ばれているわけではない家族や地域を分析します。ですから、本書のどこかにありましたが、「系」ということばは社会学では「家系」とか、「母系と父系」などのように、家族なんかのつながり方で用いる一方で、経済学では自然科学と同じで「システム」という意味でしか使いません。物理学の「太陽系」と同じです。でも、どちらも社会や社会をなして生活ないし生産している人間はとても緩い関係を保っていますので、太陽系の万有引力の法則みたいなのは十分な説明力を持たない場合がほとんどです。それでも、私は世のため人のために役立つようにと願って経済学の研究と教育を続けています。

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2020年11月21日 (土)

今週の読書は重厚な経済書のほか新書やファンタジー小説もあって計6冊!!!

今週の読書は、よく読んで以下の6冊でした。重厚な経済書から新書やファンタジーのボンコ本までさまざまなバリエーションです。なお、経済週刊誌から「今年のトップ経済書」のアンケートが来ていましたが、今週のうちに回答を投函しておきました。実は、私自身は先週の読書感想文で取り上げた吉川洋『マクロ経済学の再構築』を一番にあげようかと考えないでもなく、また、ようやく図書館の予約が回って来て今日にも取りに行こうかと考えている小林・森川[編著]『コロナ危機の経済学』も考えなくもなかったんですが、前者は候補リストになく、あまりに小難しい学術書と受け止められている可能性があり、また、後者もリストにない上にアンケート回答の締切に読書が間に合わないという勝手な事情もあり、回答には加えませんでした。私の職業柄からビジネス書ではなく、それなりの学術書っぽい経済書や教養書がよかろうと考えて、また、先週も書いたように、トップグループの経済書を選ぶのではなく、2番手か3番手の経済書を選んで、その上で、目立つような気の利いたコメントを付ける、という戦略を取っておきました。10年ほど前の長崎大学経済学部のころは首尾よく私のコメントが掲載されましたが、今回はいかに?

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まず、ポール・コリアー『新・資本主義論』(白水社) です。著者のコリアー教授、というか、ナイトの爵位を授与されていますのでポール卿というべきかもしれませんが、著者は英国オックスフォード大学の開発経済学や公共政策の重鎮です。ひょっとしたら、そのうちに、ノーベル経済学賞を授与されるかもしれません。もっとも、英国では、マーシャルやケインズなどの系譜からケンブリッジ大学の経済学が目立っています。本書の英語の原題は The Future of Capitalism であり、2018年の出版です。著者の出身であるシェフィールドの鉄鋼業の衰退などから説き起こして、戦後世界経済の黄金期であった1950-70年代への回帰を強くにじませつつ、行き過ぎた市場原理主義た利益に走る経営者などの個人を格差拡大の観点から批判しつつ、倫理観ある経済社会を目指した経済書です。しかも、私には理解できないながら、強く共同体主義(コミュニタリアニズム)に基づく社会民主主義を推奨し、ナショナリストあるいはポピュリストを批判するとともに、逆に、共産主義も排除しています。前者のポピュリズムの方は英国のBREXITや米国のトランプ大統領、あるいはフランスのルペン党首などが念頭にあるのは容易に理解できるものの、後者の共産主義への嫌悪感は私にはよく理解できません。スターリン的なソ連型の共産主義や毛沢東型の中国が念頭にあるのかもしれませんが、大陸欧州のイタリア、フランス、スペインなどのユーロ・コミュニズムは、私の印象ではかなり社会民主主義に近い印象がある一方で、コミュニタリアニズムとはかなり違っているという受け止めなのかもしれません。ただ、さすがに、私だけでなく、多くのエコノミストや社会科学者はヘーゲルによる弁証法的な歴史の発展を念頭に置きますので、1950-70年代の戦後世界経済の黄金期への単純な回帰ではお話になりません。そこで、著者は、経済人 economic man から社会人 social man への転換とともに、経済的父権主義から社会的母権主義への転換も主張しています。これは私の理解を超えている第1点です。私の理解できない第2点は、格差の発生と拡大を高学歴者の高スキル職業の獲得とその内輪での結婚や家族構成などに起因すると見ている点です。もしそうであれば、社会の中のかなり幅広い層が当てはまることとなり、実際に、本書でもどこかに社会の半分が高所得に該当するやの表現がありましたが、実際には所得階層の上位1%、あるいは、0.1%への集中が見られるのが格差問題の本質のひとつであり、それがいわゆる「オキュパイ運動」で現れたのではないか、と私は考えています。第3の点は、社会民主主義をど真ん中の中道と主張する点で、これは左右の両翼への拒否からむしろ分断を深めることになりはしないかと不安すら覚えます。ということで、著者がやや専門外でがんばり過ぎて、アサッテの方向に行ってしまった感はあります。その上、せめて昨年のコロナ前に邦訳が出版されていたらよかった気がします。もちろん、米国大統領選挙で結果が出た後に読んだ私も悪いのかもしれませんが、出版のタイミングも遅きに失した感があります。ややビミョーな読書でした。なお、詳細な記事が朝日新聞の読書サイトで著者本人のインタビューなどとともに掲載されています。ただ、私は本書は「ど真ん中」の社会科学の本だと思うんですが、なぜか「じんぶん堂」というコーナーで取り上げられています。謎です。

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次に、西村淸彦・山澤成康・肥後雅博『統計 危機と改革』(日本経済新聞出版) です。すべて元職ながら、著者は、統計委員会委員長、統計委員会担当室長、統計委員会担当室次長の3人です。西村先生と山澤先生は大学の研究者、肥後さんは日銀です。私は本書の中で展開されている統計改革のごく一部のお仕事に関わったことがあり、役所勤務のころに研究成果も出していますし、著者3人ともお会いしたことがあります。もっとも、面識あるとまではいえないかもしれません。本書の中身は、一般のビジネスパーソン2対ステはあまりにも技術的な内容に過ぎる気がしますが、政府や地方公共団体などの役所に勤務する公務員向けなのか、という気もします。というのは、「犯罪白書」だか、「警察白書」だかが、警察官昇進試験向けに警察官に愛読されているようなものだ、と仄聞したことがありますが、本書も同じような印象があります。ですから、同時期に経済統計に関わった私などからすれば、行政改革担当大臣の下で議論された統計改革に携わった東大名誉教授のことがまったく出てこないのは、何となく理解できますし、逆に、もっと大きな問題についても、やや等閑視されている印象すらあります。大きな問題というのは、私が考える限り、SNA統計≒GDP統計中心主義がこれでいいのか、という点と、統計作成上の個人や企業のプライバシーをどう考えるのか、という2点です。私は現時点では、本書で当然の前提のように考えられているSNA統計中心主義、別の表現をすれば、その他の統計はすべからくより正確なGDPの算出のために設計・実施されるべきである、というのは、十分理由のあることなのだと考えています。ただ、内輪にいれば理解できるものの、一般の学生・院生やビジネスパーソンにはもう少していねいな解説が必要かもしれません。そして、ホントに景気動向を把握するための統計でGDPがピカイチかといえば、まったく疑問がないわけでもありません。ただし、例えば、同じ内閣府で作成している景気動向指数についてもSNA統計と同じ加工統計であって、1次統計から作成されるわけですから、景気動向指数をSNA統計に代替して中心に据えたところで、大きな変化はありません。ですから、国連主体でマニュアルが作成され国際的な比較が可能なGDPを中心に据えた統計システムを構築するのは、現時点で、十分理由があると理解はしていますが、まったく新たな景気統計を日本主導で世界に示すのも視野に入れるべきではないか、という壮大な展望も示すことも意味あるかもしれません。第2のプライバシーの問題については、そこまで単純ではないながらも、実に単純にアッサリと示すと、もしも統計が重要な公共財であるなら、マーケットとの取引についてはプライバシーを制限する、あるいは、極端には認めない、という方向も国民から理解を得られる可能性があります。ただ、他方で、マーケットを相手にしないベッドルームのプライバシーは断固として守られるべきです。その点は忘れるべきではありません。ひとつ戻って、マーケットとの取引については、典型的には消費や投資なわけですが、何を売り買いしたかはプライバシーに関わりなく記録されているのが実情です。ただ、現状では、現金決済がまだ後半に見られるため、支払った方の「誰が」が不明の場合が多くありそうな気もします。しかし、キャッシュレス決済、これはスマホのQRコード決済だけでなく、クレジットカードや電子マネーも含めてのキャッシュレス決済であれば、支払った方の記録も残ります。誰が何を売り買いしたのかはプライバシーと今は考えられていますが、拳銃やポルノやその他の倫理的な問題ある買い物は、逆に、プライバシー保護が緩和されれば、ひょっとしったら、好ましい方向に向かう可能性すらあります。ですから、悪い見方をすれば、統計作成のための便宜とはいえ、ある意味で、買い物を政府に監視されるわけですから、気持ち悪いのは当然ですが、それ以上の公共の福祉への貢献があるかどうかがポイントになります。信号のある交差点で好きに進めないのは公共の福祉の観点から受け入れられているわけですから、あるいは、国民や企業のお買い物の中身を政府に情報として、あくまで統計作成のための情報として提供することは、ひょっとしたら、受け入れられる可能性もあります。伊藤計劃の代表作で『ハーモニー』がありますが、健康状態に関する情報開示をお買い物に関する情報提供に置き換えることが出来るなら、ああいった世界かもしれません。

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次に、繁田信一『平安朝の事件簿』(文春文庫) です。著者は、歴史の研究者です。本書は、治安を司る検非違使の長である別当を務めた藤原公任の残した「三条家本北山抄裏文書」、すなわち、『北山抄』のバックグラウンドとなる公文書を基に、我が国の古典古代末期の平安朝の中期、色んな意味で色んなものが緩み始めたころ、その時代の庶民ではないとしても、貴族社会の最下層に生きる人々のリアルな生活、というか、凶悪事件を含むさまざまな違法事案を取り上げています。ほかにも、当時の生活をしのばせるいろんな情報があり、「侍」とは武士と同じ意味で使われるんですが、実は、その後の用人のような存在であり、主の入浴と排泄と部屋の掃除が欠かせない役目、などといった文書が明らかにされています。どこかの時代小説に「用人は藩主の尻拭い」といった旨の表現がありましたが、その通りかもしれません。他にも、他人の水田の稲を刈り盗る狼藉者の侍とか、根拠となる証文ないにも関わらず高利貸の横暴な取り立てに苦しむ未亡人とか、海運業者なんだか難破船を襲撃する海賊だかわからない瀬戸内の船首とか、壁が朽ちているとかの刑務所の設備が劣悪なことが原因で拘留していた犯罪者を逃がした責任を問われる刑務所長が連名で施設の改善を要求したりとか、広く一般的には、上位の貴族に根拠ない無理難題を突きつけられる下級貴族の苦悩とか、などなどが広く収録されています。繰り返しになりますが、決して私のような一般庶民ではなく、下級貴族の世界、すなわち、その昔に日本史で習った「かみ・すけ・じょう・さかん」の中の下2つくらいの位階の下級貴族の世界をしのぶことができます。私は電車やバスの中なんかで読書していて、平気で笑い出したりする「ヘンなジーサン」なんですが、当のご本人たちは大真面目ながら、後世の我々の読書では笑える部分も決して少なくありませんでした。

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次に、佐々木閑・小原克博『宗教は現代人を救えるのか』(平凡社新書) と釈徹宗『歎異抄救いのことば』(文春新書) です。前者は仏教研究者とキリスト教研究者の対話で構成されており、後者は仏教研究者の「歎異抄」解説です。2冊とも仏教研究者は浄土真宗が対象であり、3人とも京都ないし大阪の大学の研究者です。ということで、私も前々から理解していたのですが、2点ほど明らかになりました。すなわち、第1に、キリスト教が社会変革、というか、社会全体を救済しようとしているなかなか立派な宗教であるのに対して、我が浄土真宗は社会の救済なんて露ほども念頭になくて、ジコチューな宗教であることが、今やハッキリと理解できるようになりました。「駆け込み寺」という表現がありますが、仏教は本来的には社会に対峙するものではなく、社会には弾き出されたものを出家、あるいは、在家のままでも受け入れる寺、というか、より正しくはサンガを用意している宗教だということです。第2に、やっぱり、そうはいいつつも、浄土真宗とキリスト教は一神教という観点をはじめとして、かなりの似通った点がある、ということです。ただ、阿弥陀仏は天地創造をしたキリスト教の神様と違って、私のような凡人を極楽浄土に生まれ変わらせてくれるだけであり、その1点に特化した存在です。その意味で、私のようなズボラ者にはよくあっていると思います。その昔の聖徳太子のころは、仏教といえば中国や挑戦などの最新の文化とともに日本に入って来て、少し前の韓国におけるキリスト教のような受け止められ方だったんでしょうが、まあ、平南末期から鎌倉期にかけて新仏教で覚醒するまでは、かなり堕落していたような気もします。加えて、高校生のころから慣れ親しんだから、というわけでもないでしょうが、やっぱり、「歎異抄」の親鸞聖人のお言葉はとてもよく理解できます。人生の指針となる部分がいくつか含まれている気がします。ただ、この2冊に共通して私が疑問と考えたのは、特に、浄土真宗に限定するわけではありませんが、仏教の世界における末法思想について特段の言及がなかった点です。おそらく、仏教界全体で末法の世は認識されていたでしょうが、特に、浄土真宗や日蓮宗などは末法思想が強い一派であると私は考えています。その末法の世をいかに生きるかが焦点となっているわけで、ある意味では、キリスト教の最後の審判にも近い部分があるような気もしますし、何らかの言及あって欲しかった気がします。特に、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックを経験した後の世界をどのように末法と関連させるか、は私の興味あるところです。

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最後に、望月麻衣『満月珈琲店の星詠み』(文春文庫) です。著者は、北海道出身ながら、現在は京都の城陽市に在住らしく、京都本をよく書いています。実は、城陽市には10年ほど前まで私の祖母が住んでいました。祖母はさすがになくなりましたが、まだ、叔父夫婦は住んでいますし、木津川北岸の城陽市は我が父祖の地です。ただ、京都的な感覚からすれば、洛外もいいところです。ということで、作品としては、私も読んだことがあるのは、「京都寺町三条のホームズ」シリーズ、「京洛の森のアリス」シリーズ、「わが家は祇園の拝み屋さん」シリーズなどがあります。タイトルから容易に想像されるように、京都本です。私は最後のシリーズは読んだことがありませんが、前2シリーズは読んだことがあります。「京都寺町三条のホームズ」シリーズは女子高生-女子大生の真城葵と鑑定士の家頭清貴を主人公にした謎解きミステリです。20巻近くまで続いていると思います。「京洛の森のアリス」シリーズは3巻で終わってしまいましたが、ファンタジー小説です。そして、本書『満月珈琲店の星詠み』がこれからシリーズ化するかどうかは現時点では不明ながら、猫が喫茶店=満月珈琲店を店主として運営するというファンタジーです。しかも、キッチンカーらしくアチコチに出没します。そして、客の注文は聞かずに店側で飲み物や軽食を用意します。タイトルにあるように「星詠み」もします。ただホントは「星読み」なんだろうと私は考えています。決して、星を入れた歌を詠むわけではありません。星の動きを解説するわけです。ですから、猫ではなくケンタウロスの役目ではないか、と私は考えるんですが、ホグワーツ近くの禁じられた森ならケンタウロスもふさわしいかもしれませんが、京都の鴨川の河原であれば猫が適当であるという気分も私は理解します。ゆるく読めますので、時間潰しには最適です。

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2020年11月14日 (土)

今週の読書は超難しい経済書をはじめとして新書も入れて計4冊!!!

今週の読書は、重厚なマクロ経済学の超難しい学術書をはじめとして、それなりにボリュームある以下の4冊です。実は、久しぶりに経済週刊誌から今年のベスト経済書のアンケートが届きました。長崎大学に出向していたころから数えてほぼほぼ10年ぶりです。こういったベスト経済書の回答については、私はケインズ的な美人コンテストに似たアプローチを取ります。すなわち、株式投資の際によく引き合いに出されるケインズ的な美人コンテストは、ホントに自分自身が美人と思うかどうかではなく、コンテスト参加者が広く美人と受け止めるかどうかに従って投票する、というものですが、こういった経済書アンケートについては、逆に、トップになりそうな経済書を選んでしまうと、私なんぞは著名エコノミストに埋もれてしまう恐れが高く、トップグループの経済書を選ぶのではなく、2番手か3番手の経済書を選んで、その上で、目立つような気の利いたコメントを付ける、という戦略を取ります。どうしても、今年はAI/デジタル経済、あるいは、最新のコロナとかがキーワードになります。そうでないニッチな経済書を選考したいと思います。

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まず、吉川洋『マクロ経済学の再構築』(岩波書店) です。著者は日本を代表するエコノミストであり、専門分野はマクロ経済学です。ほぼほぼ私と同じ専門分野なんですが、まあ、そこは比べるのも畏れ多いというものです。本書の中身は基本的にタイトル通りであり、1970年代にケインズ経済学がインフレを招いたことによりネオリベ的な方向につながったクラシカルな経済学の批判、すなわち、マクロ経済学のミクロ的な基礎づけに対する批判で成り立っています。特に、DSGEモデルに発展した実物的景気循環理論(RBC)や雇用のサーチ理論などに対して、ヘテロな個人に対応して代表的な消費者・家計や雇用者といったホモな存在を強く否定し、それらに対置するに、統計物理学に基づく経済物理学を応用しています。一番判りやすいのがp.35にある概念図であり、個別のミクロ経済主体がバラバラに集まってマクロを形成しているのではなく、まずミクロの経済主体の周囲に小宇宙があって、その小宇宙がマクロを形成している、というものです。加えて、価格がすべてではない(p.37)、とか、供給サイドの生産性の伸び悩みではなく需要の飽和こそが経済成長を規定する(第5章)とか、同じ5章の一部ながら、生産=供給サイドと需要サイドをつなぐルイス2部門モデルとか、アカデミックなレベルはかなり異なるとしても、私の従来からの主張と極めて類似した論点が含まれていることは感激しました。しかし、いかんせん、アカデミックなレベルが高すぎます。税抜8000円という価格も数が出ないという価格付けなんだろうという気がします。おそらく、大学院のそれも博士後期課程の教科書なんだろうと私は受け止めています。というのも、一応、それなりのレベルを誇る大学の経済学部教授を職業とする私からみても難解です。誠に失礼ながら、一般のビジネスパーソンの通常業務にとって有益かどうかは議論が分かれます。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『カッティング・エッジ』(文藝春秋) です。著者はご存じのミステリ作家であり、本書は著者の代表的な2シリーズのうちのNYをホームグラウンドとする四肢麻痺の犯罪科学者リンカーン・ライムのシリーズの最新巻です。と行っても、実は、著者の新しいシリーズの『ネヴァー・ゲーム』というコルター・ショウを主人公とする新刊が出たと新聞で見て探したところ、昨年に本書がすでに出版されていたという事実を知った次第で、お恥ずかしい限りです。ということで、ストーリーとしては、ニューヨークの有名なダイアモンド・デザイナーと顧客の計3人が殺害された事件から始まって、著者独特のどんでん返しが何回か繰り返されます。まあ、それにしても、ニューヨークの地価に豊かなダイアモンド鉱脈が眠っているというのは、誰がどう見てもムリがありますから、さらにその先のどんでん返しがありそうなのは容易に想像できますので、それほどの意外感はありません。前作『ブラック・スクリーム』ではニューヨークを飛び出してイタリアに出向いて国際的な活躍を見せつけたライムとサックスの夫婦は、本書ではニューヨークから、というよりも、ライムは自宅のタウンハウスからすら出ませんし、前作と比較して地味な印象は免れません。おそらく、著者もその点は自覚しているようで、ご本人の登場はともかく、著者のもうひとつの看板シリーズの主人公であるキャサリン・ダンスへの言及があったり、本書のケースの背景にウォッチメイカーがいたりと、それなりに工夫は凝らされています。まあ、私のように本書の著者のファンであれば、押さえておくべきアイテムであることは間違いありません。

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次に、橘永久&ジェフリー・トランブリー『日本人の9割がじつは知らない英単語100』(ちくま新書) です。著者は、開発経済学の研究者と英語コミュニケーションの研究者です。これはなかなかに面白い英語の本です。日本人の多くが馴染みある単語であっても、ネイティブがまったく異なる意味で使っている単語を、タイトル通り、100取り上げています。どこかに書きましたが、和足は大学の経済学部でこの2020年度下半期には週6コマもの授業を受け持っているんですが、何と、加えて負担が重いことに、うち週2コマが英語の授業だったりします。それなりに、教える方の私も下調べをしたりして英語力がついた気がしなくもなく、そのおかげか、いくつかすでに知っている、使っている単語もあったりしました。経済学とは馴染みの深い094 wageなんかがそうです。また、090 tipは本書にはズバリの用法はありませんでしたが、tipping pointなんて使い方はよく知られているような気もします。また、080 sportについては、『グレート・ギャッツビー』で村上春樹が日本語に訳し切れなかったold sportなんて、呼びかけも取り上げて欲しかった気がします。

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最後に、辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』(文春新書) です。最後に、古関裕而本です。著者は、よく知りませんが、軍歌の研究者とどこかで見た記憶があります。まあ、古関裕而とはそういう存在なのかもしれません。もっとも、私が盛んに古関裕而の新書を読んでいるのは、当然ながら、NHKの朝ドラ「エール」の影響です。朝ドラ「エール」もいよいよ最終場に差しかかってきましたが、本書でも明らかにされているように、古関裕而のお坊ちゃん育ちのいい性格とともに、金子の猛女振り、かかあ天下振りもより一層に明確にされているような気がします。朝ドラの最後は東京オリンピックなんでしょうか。

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2020年11月 8日 (日)

先週の読書は経済書なしで小説を中心に計5冊!!!

先週の読書は、経済書がなく、教養書もやや旧聞というカンジのAIに関して否定的な見方を提供するものだけで、何と、画期的なことに小説が2冊あり、ほかに新書も2冊読んでいます。ただ、新書のうちの1冊はモロに経済に近いテーマだったりします。この週末はいろいろあって読書感想文に手が回らず、遅くなったこともあって簡単にご紹介だけしておきたいと思います。

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まず、松田雄馬『人工知能に未来を託せますか?』(岩波書店) です。著者は、NEC中央研究所ご出身の技術者であり、現在はベンチャー企業を起業しているようです。タイトルは半ご否定という形式であり、AIに未来は託せない、という結論を導き出しています。要するに、AIは人間を代替できない、という結論です。ただし、少なくとも、AIが人間を代替するだけでなく、人間を支配することもないような「未来予想」となっています。著者の強い信念の吐露は感じられましたが、私にはやや根拠薄弱と見えました。でも、そうなればイイナというのは確かです。

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次に、池井戸潤『アルルカンと道化師』(講談社) です。半沢直樹シリーズ最新刊ではなかろうかという気がします。というのは、私は少なくとも文藝春秋と講談社から出ている半沢直樹シリーズは新刊時にすべて読んでいるんですが、文庫本になった後、半沢直樹+数字のタイトルの改題の文庫本を図書館で見かけたことがあり、改題の際に何か改変があったかどうかについてはフォローしていません。これも、どうでもいいことながら、私の好きな居眠り磐音シリーズは、改題こそありませんが、文庫本を別の出版社から出す際に内容を修正していると聞いたことがあります。ということで、本題に戻って、美術雑誌出版社を買収すると見せかけて、バンクシーを思わせるような落書きのある本社ビルをまるごとM&Aしてしまおうとするベンチャー企業経営者に対して、大阪西支店の半沢融資課長がガンとして融資継続の姿勢を崩さず、本社や大阪営業本部のM&A推進方針に抗して、バンカーとしての心意気を示す、というストーリーです。いつもの半沢直樹シリーズと同じで、いかにも小説らしく現実にはありえないような都合のいいストーリ展開なんですが、小説としてはあざとい気がする一方で、うまくまとめ上げればドラマとしてはヒットするのかもしれません。

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次に、朝井まかて『グッドバイ』(朝日新聞出版) です。私はまったく存じ上げなかったんですが、先月10月6日に本願寺文化興隆財団から公表があり、本年度の親鸞賞受賞作品です。でも、本願寺とか、親鸞とか、浄土真宗とかが前面に出て来るわけではありません。私が浄土真宗の信者の門徒だから反応しただけで、失礼ながら、権威の高い文学賞なのかどうかは私は存じません。本願寺文化興隆財団のサイトを見たところ、ほかに、蓮如賞というのもあるようです。親鸞賞11回の歴史の中で、私が読んだ小記憶があるのは和田竜『村上海賊の娘』だけでした。ということで、本書は、幕末から明治維新期に長崎の大店、菜種油を扱う大浦屋を継いだ希以(けい)、後に同じ読み方で漢字を恵とした女性商人の一代記です。扱いを菜種油から茶葉に変更し、開国に伴って米国への輸出に乗り出した女傑の生涯を描き出します。もちろん、小説ですのでノンフィクションではないんだろうと思いますが、壮大なスケールで広い視野からの当時の女性像を余すところなく書き切っています。とても爽やかな読後感を保証したいと思います。ちょっと大河ドラマというわけにも行かないでしょうが、朝ドラあたりにならないものかと期待しています。でも、もう、朝ドラの「あさが来た」で似たようなのがありましたからダメですかね。

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次に、森永卓郎『グローバル資本主義の終わりとガンディーの経済学』(集英社インターナショナル新書) です。著者は、ご存じ、JTご出身のエコノミストです。私にも理解できるような非常にリベラルな論を展開するタイプのエコノミストですし、私も本書には大いに賛同できる点があります。ということで、国連のSDGsなどに議論を紹介しながら、この新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大前までのグローバル資本主義の限界を指摘し、ある意味で、ガンディー的な社会主義、というか、「隣人を助ける」原理を包含する経済社会に向けた方向性を打ち出しています。冒頭から、マルクス主義的な経済学の復権を指摘していますので、ベルンシュタイン的な修正主義的社会民主主義ではなく、共産主義の前段階としての社会主義が念頭にあるのかもしれません。立派な見立てだと私も同意します。ただ、実際の適応にあたっての「トカイナカ」とか、ベーシックインカムを別にすれば、私の頭の中で???が並ぶようなアイデアでしたので、私にはやや理解が及びませんでした。誠に残念。

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最後に、刑部芳則『古関裕而-流行作曲家と激動の昭和』(中公新書) です。著者は、日本近現代史を専門とする研究者です。ただ、学術書という感じはありません。私は何よりも現在放送中のNHKの朝ドラ「エール」を高く評価していますので、その主人公夫妻を取り上げた本書をとても楽しんで読むことができました。ドラマは今もって現在進行形です。今月で終了予定と明らかにされています。軍歌「露営の歌」で一世を風靡し、軍歌や戦時歌謡の覇者となった後、戦後はラジオドラマ「鐘の鳴る丘」とか、鎮魂歌「長崎の鐘」もヒットさせ、東京五輪行進曲「オリンピック・マーチ」の作曲者でもあります。私にとっては何といっても阪神タイガースの応援歌である「六甲颪」の作曲者と認識されています。朝ドラとともに、大いに楽しい読書でした。

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2020年10月31日 (土)

今週の読書は役に立たない科学の本と役に立たないポストコロナの2冊など計5冊!!!

今週の読書は、経済書ではなく東大出版会の教養書をトップに置いています。経済書らしきものは読んだのですが、まったくモノになりそうもないので、この読書感想文では後回しにしました。新書も含めて、以下の5冊です。

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まず、エイブラハム・フレクスナー & ロベルト・ダイクラーフ『「役に立たない」科学が役に立つ』(東京大学出版会) です。出版社が出版社ですので、ボリュームに比べてややお高い値付けになっています。買って読むのは素晴らしいことですが、私のように図書館で借りるのも一案かという気がします。なお、どうでもいいことながら、上の表紙画像に見える帯の推薦を書いている梶田先生は、今をときめく日本学術会議の会長ではなかったかと記憶しています。ということで、プリンストン高等研究所の歴代2人の所長が時間を隔てて書いたエッセイです。要するに、一言でいえば、基礎科学の重要性を強調しています。ですから、本書のタイトルにいう役に立たない科学とは基礎科学のことであって、私の研究のようにレベルが低くて役に立たない、というわけではありません。基礎研究とか、あるいは、モノによっては極めて偶然に新たな現象の発見があり、それらが解明された当時にはどういった役に立つのかが、サッパリ判らないながら、100年ほどの時間を経て大いに実用的な役に立つという例がいくつか収録されています。ですから、少なくとも一見ムダに見えても、ひょっとしたら、ものすごく時代を先取りしている可能性があるわけで、その意味で基礎研究が重要というわけです。今は、かつてのようなリソースが十分にある時代と違って、企業における研究はかなり縮小されていますし、大学における研究も同様です。特に、大学では「競争的研究資金」の獲得と称して、外部の研究リソースを獲得すべし、逆にいえば、学内のリソースは少ない、ということになっています。科学における研究も、さらにいえば、いたって実利的な企業におけるイノベーションも、どちらも「数撃ちゃ当たる」というのが大方のコンセンサスなんですが、選択と集中よろしく、リターンが望める研究しかリソースが割り当てられない現状は、おそらく、科学やイノベーションにとって望ましくないと私は考えています。十分にダイバーシティが確保され、一部にムダと見える要素を含んでいても、幅広い研究を実施し、科学やイノベーションがしっかりと進むような研究環境が必要です。経済の長期停滞下にあって、イノベーションも低いとことの果実は取り尽くした、といわれる時もありますが、まだまだ十分なイノベーションは開発可能です。それを阻んでいるのは、余裕ない経済と限定的な研究開発のデフレ・スパイラルではないか、と私は考えています。政党助成金で配布して、それが買収資金に使われるくらいなら、研究資金に回すというのはダメなんでしょうか?

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次に、遠藤誉・白井一成『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(実業之日本社) です。本書では、2人の著者の問題意識がアチコチにあるようで、しかも、2人の著者が属する中国問題グローバル研究所の中国在住の学者さんのインタビューも入っていて、ハッキリいって、何をテーマにどういう立論で、どういった結論が導かれているのか、私にはよく理解できませんでした。次の『ポストコロナの資本主義』と同じで、相反する論旨を堂々と展開している部分もあり、私の理解が及びませんでした。少なくとも、現在の中国のトップである習近平の行動原理のひとつに「父のトラウマ」があるというのは、何とも理解し難い気がします。ひょっとしたら、本書には書かれていないトランプ米国大統領の隠れたモチベーションにも「父のトラウマ」があったりするんでしょうか。そこから、米中対立を解き明かすというにはハッキリとムリですし、さらにそこに第5章のように新型コロナウィルス感染症(COVID-19)を埋め込ませようとするのは、さらにさらにで、頭の回転が鈍い私には理解できませんでした。ポストコロナ時代の米中覇権と新世界秩序形成の行方は米中両大国の「父親のトラウマ」でもって解き明かせるのだとすれば、経済学や政治学の役割というものが何なのか、私はまったく理解できません。「父親のトラウマ」は別にして、要するに、表面から見えている要因だけでなく、いろいろと隠されたウラ事情があって、それらが引き金となっていろいろな見える部分を動かしている面がある、というのは、理解できないことではありませんし、いわゆる「陰謀論」ではよく持ち出される論点です。でも、私には、いったい、本書が何を主張したいのか、謎のままの読書でした。私なんぞよりも知性的に大きく上を行く、と自覚している人以外にはオススメしません。

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次に、岩村充『ポストコロナの資本主義』(日本経済新聞出版) です。これまた、出来の悪い本でした。著者は日銀出身の研究者なんですが、ほぼほぼ毎回持ち出すのはお得意のブロックチェーンだけで、ほかは内容がない、というか、、むしろ毒になるような内容もいっぱい詰め込まれています。例えば、冒頭の何章かで、現在の我が国政府の公式見解をそのまま踏襲して、PCR検査の拡大不要論を展開しています。PCR検査にせよ、何の検査にせよ、偽陽性が検知されてしまうのは確率的にありえるのは当然なんですが、PCR検査で陽性になれば隔離されてしまうという恐怖感をハンセン病を持ち出すというのも、私はどうかという気がします。私は逆にPCR検査は拡充すべきであると考えているのは、本書の著者が情報不足からか、それとも意図的にか、見落としている大きなポイントがあります。それは、本書でまったく書かれていない点で、若者で無症状な感染者がいたり、あるいは、潜伏期間が2週間とかなり長いことから、そういった無症状感染者や潜伏期間の感染者が感染を広めてしまう可能性が十分あるからです。COVID-19のひとつの大きな特徴です。ですから、無症状の若者が基礎疾患があったり、高齢で抵抗力が弱まっている人々に感染を拡大しないためには何らかの検査で感染の有無を判定することが必要です。しかも、著者は日本で感染がそれほど拡大せず、あるいは、死者が諸外国と比べて少ないのは、国民がある程度自主的に接触を減らしたせいだということは何度も書いています。接触を減らすということと、隔離との違いは決して小さくありませんが、感染症対策として基本的な作用は同じであるということは理解が及ばないのでしょうか。本筋の経済についても、ブロックチェーンはまだしも、「底辺への競争」ばっかりで、このブログでも取り上げたOECDなんかの課税提案については、まだ、お勉強している人は少ない印象なのでしょうか。いずれにせよ、今週の読書のうち、「ポストコロナ」というタイトルで選んだ2冊は失敗でした。どなた様にもオススメしません。

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次に、養老孟司『AIの壁』(PHP新書) です。著者はご存じ『バカの壁』がベストセラーになった東大医学部の名誉教授にして解剖学者です。本書でも基本は口述筆記で、AIの発展がめざましい碁や将棋に関連して羽生善治、エコノミストでありAIに関連した著書もある井上智洋、この人走りませんでしたが哲学者の岡本裕一朗、人工頭脳プロジェクト「ロボットは東大に入れるか。」を進めてきた数学者の新井紀子、との対談を収録しています。それぞれに個性的で興味深い内容を含んでいますが、さすがに、井上准教授との対談は私にはそう目新しいものはなく、その私の目から見て、新井教授との対談が群を抜いていました。前の安倍内閣のご飯論法にも通ずる小泉元総理の人を食ったような論理的に破綻した論法について、むしろ、小泉元総理が国民の論理的な能力を正確に推し量ったものではないか、すなわち、国民の論理的に考える能力が崩壊していることを小泉元総理が見抜いたのではないか、と指摘しています。私は目から鱗が落ちるようでした。時の政治エリートのレベルは国民のリテラシーが決定するわけですので、小泉元総理の論法やご飯論法については、要するに、国民のレベルがそれを生み出すところまで落ちているのであろうということは、私にも薄々感じられていましたが、それを見切った発言だったとまでは思いが至りませんでした。ご指摘のように、インターネットなりなんなりに接続して、テキストだけで意思疎通を図ろうとするのはムリがあるのかもしれません。

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最後に、藤本修『コロナ不安に向き合う』(平凡社新書) です。著者は、関西をホームグラウンドとする精神科医であり、研究者でもあります。タイトル通りに、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)という従来にない恐怖や不安に対して、ストレスをいかに上手く部b参して生活や仕事を進めるか、という観点からいろんな事が書かれています。特に、いくつかの例を引いて、判りやすく解説がなされています。本書で指摘されているように、4月から始まった緊急事態宣言が解除されると、コロナ前の生活が戻ると思っていた部分があって、自粛警察や理不尽な知事の発言などにも耐え忍んだにもかかわらず、緊急事態宣言が終わると、こんどは「ウィズ・コロナ」でコロナと共生するがごとき生活を強いられて、バカバカしくなったのは私だけではないのでしょう。第4章ではPCR検査の混乱を指摘し、ひとつのストレッサーになった可能性が上げられています。今週の読書でも、相変わらず、PCR検査に関して間違った見方を堂々と示しているエコノミストがいるんですから、こういった混乱は悲しいところです。最後に、コロナ不安に向き合う10箇条が列挙されています。私が読んだ範囲では、特にCOVID-19に起因するストレスだけに適用すべき内容ではなく、広く現代社会のストレス一般にも適用できそうに見えます。私は東京にいるころは、ほとんど新書は読まなかったんですが、余り読書が進まない学生向けと思って新書を読みだしたところ、少なくとも、今週の新書の読書2冊はとてもいい結果をもたらしてくれた気がします。これで自信を持って、学生諸君にも新書の読書をオススメすることが出来ます。

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2020年10月24日 (土)

今週の読書は歴史書ばかりで計4冊!!!

今週の読書は、先週末から読み始めて、水曜日10月20日に読書感想文をアップしたケルトン教授の『財政赤字の神話』がメインになってしまい、それ以外は4冊、すべて歴史に関する本ばかりで以下の通りです。

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まず、金井雄一・中西聡・福澤直樹[編]『世界経済の歴史[第2版]』(名古屋大学出版会) と河崎信樹・村上衛・山本千映『グローバル経済の歴史』(有斐閣アルマ) です。とてもよく似たタイトルの2冊ですから、内容も大きくは異なりません。どちらも学術出版社からの出版です。ただ、前者は経済史、後者は経済の歴史、というのは同じようでいて、実はかなり異なっています。また、上の画像だけを見ると判然としないんですが、やや大きさが異なります。上の『世界経済の歴史[第2版]』がA5版なのに対して、下の『グローバル経済の歴史』はいわゆる四六判で少し小さくなっています。ページ数は変わりありませんが、大きさの分、『世界経済の歴史[第2版]』の方がいっぱい詰め込んである印象です。ということで、どちらも経済の歴史をグローバル・ヒストリーの連関関係で見ているわけですが、私の直感的な印象では『世界経済の歴史[第2版]』の方が経済的な見方が多く、『グローバル経済の歴史』の方は歴史的な見方が支配的な気がします。どちらも、従来の世界史的な王朝史ではありません。私自身は『世界経済の歴史[第2版]』の歴史観の方に馴染みがあり、ある程度は主流派経済史のノース教授などの制度学派的な色彩を持ちつつ、マルクス主義的な発展段階論も踏まえています。『グローバル経済の歴史』はもっと素直に、というか、何というか、特段のバックグラウンドなしに歴史を歴史そのままに記述している印象です。読み比べたわけではありませんが、ボリュームの要素もあって、『グローバル経済の歴史』は通史で終わっていますが、『世界経済の歴史[第2版]』は第Ⅰ部で通史を記述した後、第Ⅱ部ではテーマ別の歴史に取り組んでいます。一昨日のケルトン教授の『財政赤字の神話』を読んだばかりだったので、『世界経済の歴史[第2版]』第Ⅱ部第9章 信用システムの生成と展開が面白く読めました。MMTだけでなく、本書でも「はじめに預金ありき」で、預金を原資に信用が展開される、という議論は明快かつ徹底的に否定されています。すなわち、原初に預金を集めたから貸出ができる、というわけではまったくなく、銀行がかすから預金が増える、というメカニズムであると冒頭から指摘され、金匠のゴールドスミスの証券から始まるという信用の歴史が明らかにされています。また、京都大学経済学部の恩師は西洋経済史とともに、経営史の講義も担当していたのですが、その経営史についても幅広く議論されています。シュンペーターやチャンドラーの経営史的な貢献などです。いずれにせよ、歴史学については、というか、経済史については展開の歴史がハッキリしており、マルクス主義的な色彩の強い発展段階論から、経済発展論や成長論が展開され、先進国を対象とする成長論を発展途上国に応用して従属理論となり、このあたりから経済史と開発経済学が分岐し、前者はウォーラーステインの貢献などにより世界システム論となり、最終的に現在のようなグローバル・ヒストリー論に結実しています。単なる歴史ではなく、経済史、あるいは、経済に焦点を絞った世界史なのですが、なかなか勉強になります。少し前に流行った高校の世界史をやり直すよりは、こういった経済史の本を読む方が私にはあっている気がします。強くします。

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次に、濱口桂一郎・海老原嗣生『働き方改革の世界史』(ちくま新書) です。著者は、厚生労働省出身の労働研究者と労働に詳しいジャーナリストです。私は研究機関でごいっしょした経験もありますが、ほとんど面識はありません。そして、ややタイトルに「難あり」なのですが、話題を呼べそうなので働き方改革を前面に押し出しているものの、それが100%間違いとも思えませんが、実は、労働運動ないし労働組合の歴史とした方が、より正しく本書の中身を反映しているように考えます。特に、主要な中身は12講から成っており、労働関係の古典的な学術書を読み解く形で、私の好きな方法論だったりします。主要な歴史の流れに沿って、団体交渉や争議などの集合取引という労使対立のから始まって、労働者の経営参加や共同経営といった労使の協調の考えが取り入れられ、その2本足で労働運動が進められてきたとの歴史的な解明がなされています。ただし、これは大陸欧州の場合であって、英米のアングロ・サクソンでは相変わらず前者の集合取引一本槍で、逆に、日本では労使協調が主流になっているのはよく知られた通りです。もちろん、21世紀に入ってからは、日本に限らず、英米や大陸欧州でも労使対立的な色彩が徐々に薄れ、というよりも、労働組合の組織率がどの先進国でも大きく低下しているのが事実でしょう。こういった点は、最後の12講で唯一我が国研究者の本が取り上げられ、そういった労使関係の二元的な側面が特に強調されています。最後に、本書でも何度か言及されているように、日本でも少し前までは労働運動や労働組合といえば、かなりの強者の論理に支配されており、正規雇用の熟練工などのための活動だった気がします。すなわち、主婦のパートや学生アルバイトなどといった非正規雇用はお呼びではなかったわけで、その意味で、昨今の格差拡大にはどこまで力が及んだかは大きな疑問です。私の勤務する大学でも、日本では特に世代効果が大きいと認識されており、従って、景気後退期に就職する学生諸君の生涯賃金はかなり低下し、その影響は米国などと比べてかなり長期に及びます。これから先の方向として、こういった世代効果も含めて、旧来の賃金や労働時間などの狭い意味の待遇だけでなく、社会一般における格差の問題や非正規と正規の同一労働同一賃金の実現に向けて、労働運動や労働組合の果たす役割は大きいと私は認識しています。私も、大学教員に再就職して、役所勤務のころは管理職として労働組合を長らく離れていましたが、もう一度組合員となり、いろいろと考えを巡らせたいと思います。

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最後に、本郷和人・井沢元彦『疫病の日本史』(宝島社新書) です。著者は、東大資料編纂所の研究者と作家です。両者の対談が主要な部分を占めています。私はこの両者による同じ出版社からの『日本史の定説を疑う』を読んだ記憶があります。やっぱり、対談を基にしていました。ということで、ハッキリ言って、どうということもない内容です。相変わらず、社会全体が右傾化する中で、「日本人すごい論」がいっぱい出回っていますが、本書も、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染者や死者が日本では少ないという「事実」について歴史的な解明を試みています。ただ、結論はややお粗末で、「穢れを嫌うから」という1点で終わっています。それを延々と歴史的に解説しているだけであり、そもそも、我が国がCOVID-19のパンデミックを避けられたのかどうかは、現時点で判断するのはややリスクが伴う気がしますし、実は、PCR検査が他国と比較して圧倒的に少なく、症状のない感染者を見逃している可能性については認識が及んでいないようです。加えて、日本に伝統的な神道が穢れを嫌い遠ざける一方で、古典古代期に海外から導入された仏教は穢れを救う、とか、宗教的な見方が示されているのはやや笑いを誘う部分があり、私は通勤電車で読んで笑ってしまって、ややバツの悪い思いをしたりしました。宗教に関しては、ルネサンスや宗教改革がペストの流行を一因とするのはその通りなのですが、そもそも、キリスト教が下層階級から受け入れられ始めたのがペストを一因とする点についても考えが及んでいないようです。明治維新直前の孝明天皇が天然痘で亡くなったのは、細菌テロの可能性があると示唆していますが、そもそも、明治期に入ったあとでドイツに留学した超優秀な陸軍軍医だった森林太郎が脚気の治療で大間違いをしたほどのレベルの医療情報しかないわけですので、明治以前に細菌テロが可能とも思えません。私は歴史も科学的に研究すべきだと考えていますし、単に、他の人が知らない面白そうな事実を並べればいいというものではないような気がしています。

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2020年10月21日 (水)

ケルトン教授の『財政赤字の神話』を読む!!!

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ステファニー・ケルトン『財政赤字の神話』(早川書房) をご寄贈いただきました。より正確にいうと、大学の同僚教員を通じて暗に要求したら、出版社の方で気を利かせてお送りいただいた次第です。ご寄贈いただいた本はていねいに読んで、貧弱なメディアながら書評をブログで明らかにすることを旨としております。なお、本書の英語の原題は The Deficit Myth であり、後で章別構成を見るように、特に財政赤字に限定したわけではなく、貿易赤字も含めて、その昔の「双子の赤字」といった感じで取り上げています。また、英語のdeficitは「赤字」という訳だけではなく、「欠乏」という意味もありますので、財政赤字を生じてでも、本当に解決すべきdeficitがある、という点を取り上げていて、最終8章がconclusionとなっています。ただし、邦訳タイトル通りに、圧倒的な重点は財政赤字にあります。
というこで、神話として以下の6つを上げています。すなわち、(1)政府の財政収支は家計と同じように考えるべきである、(2)財政赤字は放漫財政による支出過剰の表れである、(3)財政赤字は将来世代への負担となる、(4)財政赤字は民間投資をクラウディング・アウトし長期的な成長を損なう、(5)財政赤字を補填してもらうために海外への依存を高める、(6)政府の社会保障給付が諸悪の根源であって財政赤字を発生させている、という6点です。この6点で最初からの6章が構成されていて、なかなか判りやすくなっています。ただし、5点目の第5章では赤字は赤字でも、財政赤字ではなく貿易赤字のお話ですので、あまりMMTとは関係なく、ほぼほぼ主流派経済学と同じ論点が示されています。
第1章では、家計は通貨の利用者であるのに対して、中央銀行を含む統合政府は通貨の発行者であり、その意味で、通貨主権を有する政府には支払い能力に限界はない、という点はまったくその通りだと私も合意します。ただ、支払い能力に限界がないという点はいくらでも支出していい、というのとは異なります。その点が第2章であり、放漫財政の指標は財政赤字ではなく、インフレであると主張しています。これもまったく、その通りです。第3章では、従って、財政赤字が将来世代への負担となることはない、と結論しています。これも、まったくその通りです。そして、第4章あたりから少しスジが悪くなり始めます。すなわち、第4章では財政赤字が貨幣的に資金を吸収することから利子率を引き上げて民間投資を阻害することはない、と主張しています。これはその限りでは妥当かもしれませんが、ここから貨幣的な現象と実物的な現象を都合よく使い分け始めるような気がします。貨幣的には政府赤字が利子率上昇を通じて民間投資をクラウディング・アウトすることはないのはその通りながら、実物的には政府が一定のリソースを入手するわけですので、民間部門でスラックがあるという前提が必要です。そうでなければ、例えば、完全雇用でなくても政府が購入しようとする物品に供給余力なければ、価格上昇を生じて民間部門から一定のリソースを奪うことにつながる可能性があります。この貨幣的取引と実物取引の混同、というか、おそらく著者は私なんぞよりもよっぽど頭のいいエコノミストでしょうから、意図的に使い分けているのかもしれませんが、第5章でも続きます。バケツの例がバランスシートと同じように出て来て、前のp.146の例では、政府と民間部門との間の取引で、政府が民間部門から100ドルで自動車を買って、90ドルの税を徴収すれば、政府部門に▲10ドルの赤字が、そして、非政府部門に+10ドルの黒字が残る、とされていました。今度は、p.178の例では、民間部門が海外部門から5ドル輸入して、逆に、3ドル輸出すれば、海外部門に+2ドルの黒字が残るが、2ドル分の実物リソースが海外から国内に入ってくる「黒字」である、と説明されています。このあたりは、貨幣的な赤字と黒字の符号を変えたものが実物的な赤字と黒字になるわけですので、どうとでもいえるような気がしてなりません。ただし、最後の第6章の社会保障給付が財政赤字の原因ではない、というのはまったくその通りです。日本ではその昔に、狐や狸しか通らないような農道や林道を作って、それが財政赤字の原因、なんぞと称されたこともありましたが、この論点も神話であるのは当然です。第7章ではdeficitを「欠乏」と見なして、米国経済を切り口に貧困や不平等の問題を解決するために政府が財源を気にせずに支出できる重要性を議論しています。基本的に、著者の視線は米国にあるものの、日本など他の先進国にも当てはまる論点が少なくありません。特に、民主主義がカネの力で動かされかねないという点が各国共通のような気がします。最後の解説に駒澤大学の井上先生が、本書だけではなく一般的な広い意味でのMMTの論点を、事実と仮説と提言に分けて示しています。とても要領がいいと感心しました。全体を通じて指摘しておきたいのは、MMTの財政赤字の考え方については、無制限の政府支出、というか、同じことですが、財政赤字を容認するものという印象がありますが、まったくの間違いです。インフレを指標にしたきめ細かい財政オペレーションを目指すものです。
最後の最後に、2点指摘しておきます。いわゆるマルクス主義経済学を別にすれば、私はおそらく主流派経済学を大学で教えている教員の中でも、かなり最左翼に属しているものと自覚していて、それだけに、第1に、MMTの財政支出に対する基本的な考えは理解できるものの、本書のスコープ外ながら、どこまで現実的な財政政策としてオペレーションが可能かには少し疑問があります。すなわち、金融政策が市場の合理的な行動を前提に金利や貨幣供給などを政策手段として用いて、ユニバーサルな全国一律に近い効果を有するのに対して、財政政策はかなり個別的な効果を発揮します。例えば、九州で高速道路を作っても東北や北海道の人には特に便益を感じない、あるいは、保育所の増設は高齢の引退世代には便益を及ぼさない、ということがあり得ます。ですから、その財政オペレーションは単純ではありません。しかも、インフレをひとつの重要なターゲットにした財政運営が必要なわけですから、同時にマクロ経済も慎重に見極める必要があります。ひょっとしたら、中央銀行以上に財政当局に独立性が必要になるのかもしれません。それを本書では、国会議員が適切に運営できるかのような期待を表明しているかのような部分がありますが、私には疑問です。ただ、他方で、長らく役所に勤務してきた私の経験から、MMT的なきめ細かな財政のオペレーションを実行する能力は、ひょっとしたら、日本の財務省の官僚がもっとも優秀そうな気すらします。実務的に、日本でMMTの財政オペレーションを出来なければ、他の先進国で出来る国はそう多くないように感じるのも事実です。第2に、私は財政の持続可能性に関する紀要論文を取りまとめたりしていますが、財政の持続可能性について、MMT的な政府に無制限の支払い能力があるから、という、ある意味で極めて単純な見方はしていません。おそらく、動学的非効率に陥っているからだと考えています。このブログでは詳しく議論しませんが、理論的には関西学院大学の村田先生の論文が学術的には重要であり、また、昨年の American Economic Review に掲載された Blanchard 論文でシミュレーション結果が示されています。Blanchard 論文については本書でも指摘していますが、否定されています。ここではひとまず、動学的非効率、ないし、動学的効率性の喪失、とは、成長率が国債利子率を上回っている状態である、とだけ指摘しておきます。

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2020年10月17日 (土)

今週の読書は経済書がなく経営書だけながらも充実の計5冊!!!

早川書房からステファニー・ケルトン教授の『財政赤字の神話』をご寄贈いただいたようで、本日、自宅に届きました。できるだけ早く読んで、来週早々にでも読書感想文をアップしたいと思います。ということで、今週の読書は、専門分野である経済書がありません。一応、最初に経済書に近い経営コンサルの本を置いておきます。そして、小難しいと評判の悪い読書感想文をもっと判りやすくすべく、新書も3冊読んでいます。

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まず、冨山和彦『コロナショック・サバイバル』(文藝春秋) です。著者は、司法試験に合格していて、ボスコンに勤務していた経験を持つコンサルです。本書に続いて、『コーポレート・トランスフォーメーション』という本も2部作後編として出版していて、ソチラの方が本編のようですが、それだけにまだ予約の順番が回って来ず借りられていません。まず、本書では、コンサルらしく判りやすい表現で、第1波のローカル・クライシスが観光、宿泊、飲食、エンターテインメント、(日配品や食料などの生活必需品以外の)小売に打撃を与え、第2波のグローバル・クライシスでは自動車や電機といった我が国のリーディング・インダストリーもサプライ・チェーンの切断で打撃を受け、さらに、第3波のファイナンシャル・クライシスで金融危機の可能性まで言及した第1章が印象に残ります。でも、私はむしろ第1章から第2章の流れを見るべきと考えます。すなわち、コロナ・ショックの最大の危機は売上の消滅であって、キャッシュ流入の消滅であると分析した上で、資金繰りの流動性問題がソルベンシー問題に転化する危険を指摘します。エコノミストは「通商白書 2020」でも取り上げられた Guerrieri et al. (2020) "Macroeconomic Implications of COVID-19: Can Negative Supply Shocks Cause Demand Shortages?" のように、需要ショックか供給ショックか、なんてことを気にしますが、経営学や企業経営を指南するコンサルでは違うんでしょう。従って、「修羅場の経営の心得」なるものがいくつか指摘されていて、キャッシュ流入の危険があることから、迅速果断なトリアージの必要性、捨てる覚悟の重要性が主張されています。ここまではエコノミストとしては物足りないんですが、そこから敷衍して、経済政策でも捨てずに守るべきは「財産もなく収入もない人々」と「システムとしての経済」であると第2章で指摘します(p.73)。私は圧倒的に同じ考えを持っています。専門分野が経営学なのか、経済学なのか、でかなり受け取り方が違う気もしますが、コロナ・ショックで格差がさらに広がったと私も実感しており、エコノミストとしてはこの格差拡大に対処し、金融的なシステミック・リスクも含めて、経済システムの維持を図る必要性を指摘している点は重要だと受け止めています。続編の方は、まあ未読だけに何ともいえないながら、タイトルだけからすればもっと経営学の方に偏っている印象があり、本書も十分オススメです。

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次に、長谷部恭男『戦争と法』(文藝春秋) です。著者は長らく東大法学部の研究者を務めた憲法学者です。私は法律や政治学については専門外なのですが、戦争を法で縛る有効性が理解できません。本書の内容は極めて明快であり、リベラルな議会制民主主義のもとでの常識と呼ぶにふさわしいものであり、戦争を国家間の「決闘」であり、相手国の憲法秩序を破壊しようと試みるものである、という点は然るべし、と私も感じます。ただ、そうだからこそ、戦争に関してはリベラルな議会制民主主義で縛れないものがあり、結局は、「勝てば官軍」で、勝った方が負けた方を一方的に法的な秩序も何もなしに屈服させて支配するだけ、というような気もします。典型的には、ケインズが「平和の経済的帰結」を書いた第1次世界対戦終了後のフランスと英国のドイツに対する態度がそうだと私は考えています。加えて、戦争中の行為については一般的な法律で、これまた、どこまで縛れるかは疑問です。本書の最後の方にもありますが、平時であれば、鉄砲で人を撃ち殺すことは重大な犯罪ですが、戦争で敵国の兵士を殺すことが命令されたりするわけです。ですから、私は国際法にはまったく詳しくないのですが、広島・長崎への原爆投下も含めて、核兵器の使用についてはその人道的観点から反対するものの、兵士を鉄砲で殺すのと、市街地に爆撃を加えて兵士でない一般市民を殺害するのと、どこまで区別すべきなのかという疑問は残ります。そうでなければ、かつて、イラクのフセインが取ったような一般市民や外国人の人質を「人間の盾」とする防衛が有効になってしまう恐れがあると私は危惧します。加えて、世界中でリベラルな議会制民主主義の国はまだ少数派であり、中には、内戦を戦っている国もあるわけで、本書はあくまで国家間の戦争だけがスコープであるとしても、大規模な武力行使と戦争の実態的な違い、少なくとも、国際法上の違いよりは、より実践的な違いはどこに置かれるのかも疑問です。おそらく、米国や英国などの成熟した議会制民主主義国が、それなりの法的手続きに則って戦争ないし大規模な武力行使を始める大きな要因は、私はそれを始める時の政権が国民の支持を取り付けておく必要を感じるからではないか、と想像しています。国民の支持への必要性が大きくない権威主義国家で得あれば、そこまでの法的な手続きを踏まない可能性が高まるような気がします。従って、私の眼前で繰り広げられている非常に困った事象は、現在の日本の政権が国民からの支持を取り付ける必要をそれほど大きく感じていないからではないか、と想像しています。国民の関心が日本学術会議とはまったく別のところにあって、毎日の生活さえそれなりに保証しておけば、後はやりたい放題、ということなのではないか、という気がしないでもありません。その意味で、日本はまだ成熟した民主主義ではないのかもしれませんし、米国も2016年から退化してしまったのかもしれません。

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次に、原彬久『戦後日本を問いなおす』(ちくま新書) です。著者は、東京国際大学名誉教授であり、専門分野は国際政治学や日本政治外交史、安保改定の政治過程をめぐる先駆的研究で知られているそうです。本書の基本認識は我が国の対米従属ないし対米依存をどう考えるかであり、上の表紙画像に見られる「日米非対称」というのはそうういう意味です。その上で、戦後日本の3つの基層を天皇制、憲法、日米安保条約として論考を進めています。私はこの日本の対米従属や対米依存から脱却して、真の独立ないし自立を回復する点について、なぜ必要かをもっと掘り下げて欲しかった気がします。もちろん、本書では、対米従属せざるを得なかった、その要因を分析しているところもあり、地政学に基づく軍事的な要因よりみ、むしろ、「ビンのふた」的な強すぎる日本の回避、2度と対米戦をを指向しない日本のために、米国の方が日本の対米従属や対米依存を必要とし、日本ないし日本の支配層がそれを受け入れた、という分析結果のように私は受け止めています。もちろん、バックグラウンドには本書で指摘するような国民性=強者へのへつらいなどもあるのかもしれません。逆に、こういった日本の対米従属を押し付ける米国の意向を拒否するのは、日本にとってどういうメリットがあるのかに私は興味を持ちます。まあ、もう一度対米戦を戦って勝ちたい、という願望は荒唐無稽であるとしても、単なる「気持ち悪い」論とか、米国のポチを脱したい、だけではない何かがあるんではないでしょうか。強者へのへつらいを克服すれば気持ちいいのは、そうなのかもしれませんが、具体的な利益が見えずにインセンティブもないような気がします。もちろん、講座派的に2段階革命の第1段階として対米従属を打破して民主主義の徹底を図る、というのは重要な論点ですが、本書ではまったく現れません。私は少なくとも、現行の安保条約はあまりにも米軍に有利になっていて、これは廃棄ないし改定すべきと考えていますし、安保条約への態度が日米非対称解消への第1歩と考えますが、他方で、現実的に、オーストラリアのように日米安保条約のような片務的条約なしでも、ほぼほぼ無条件な対米従属を見せる国もあります。エコノミストとして、対米従属するインセンティブと、対米従属から脱するメリットをもう少し考えてみたい、という気にさせる読書でした。

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次に、山岡淳一郎『感染症利権』(ちくま新書) です。著者は、ノンフィクション作家です。明治・大正期の山岡新平と北里柴三郎、さらに、戦中の731部隊や戦後のハンセン病対策まで含めて、幅広く取材した結果が盛り込まれています。ただ、本書のタイトルである「感染症利権」は戦後の段階に達するまで、決して着目されているようには見えませんでした。加えて、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に関する利権はまったく現れません。その意味で、少しガッカリなんですが、戦後、731部隊の流れで戦犯訴追を免れて、ミドリ十字を設立して利益を得、厚生省にも影響力を拡大して利益を貪ったストーリーなどは読み応えがありました。その意味で、陰謀論は少し出て来るにしても、何だか告発本とかの印象はなく、いたってマジメな取材に基づくマジメな内容です。明治・大正期から大規模な検疫を実施した歴史とか、広く公衆衛生や防疫に関わった医師や役人の活躍も取り上げられています。ただ、そういった歴史に関係なく、というか、過去の成功と失敗には何の関係もなく同じたぐいの過ちが繰り返されている、というのも事実かもしれません。医薬業界が感染症とは関係なく、昔から貪欲に利益追求を繰り返してきたのは明らかですし、それを米国などが「知的財産権」の御旗のもとで守り続け、支払い能力にかける先進国内の非富裕層や途上国で、失われなくていい生命が失われていっているにも目を向ける必要があります。やや専門外の私の能力を超える読書だったかもしれないと反省していますが、たぶん、もっとしっかりした興味を持つ読書家や私よりももっと専門的知識ある読書家には、ちゃんと役立つような気がします。ということで、しっかりした書評を見たい方には出版社のサイトにある池田教授の書評をオススメします。

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最後に、ヤマザキマリ・中野信子『パンデミックの文明論』(文春新書) です。著者はイタリア人の亭主を持ってイタリア在住の漫画家と脳科学者で、対談を収録しています。マンガの方は私は『テルマエ・ロマエ』を部分的に読んだことしかないながら、映画の方は第1作だけ見ました。脳科学についてはまったく専門外ながら、いずれも新書で『サイコパス』と『シャーデンフロイデ』を読んだ記憶があります。典型的なラテン人であるイタリア人と日本人で共通点と相違点を考えた文明論です。というか、イタリアで日本を遥かに超えて新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が大流行してしまったのは、「ハンカチで洟をかむから」というのは、文明論というよりは生活実践論のような気もします。いずれにせよ、両国の国民性がよく理解できます。対談ですから、一種の「掛け合い」なんですが、ヤマザキマリが歴史上から取り上げた事象に中野信子が脳科学の見地から解説する、あるいは、逆に、中野信子が脳科学の見地から取り上げた事実にヤマザキマリが歴史的な観点から解説を加える、といったカンジで進みます。一神教と八百万の神々の対比は、私はそれほど説得的に受け止めませんでしたが、アントニヌスのペストのパンデミックの中でそれまでカルトとしか見なされていなかったキリスト教が広く受け入れられるようになった、という視点は新鮮に感じました。今回のCOVID-19パンデミックでは、さすがに、「天罰」的な発言はそれほど見かけませんでしたし、カルト的な宗教や民間療法的なCOVID-19予防法も出回らず、私の印象では少なくとも日本国民はかなり理性的な対応に終始した気がしています。まあ、その意味で、「民度が高い」というのも高位高官の発言としては気にかかるものの、実感としては決して的外れではないと感じます。これだけ、政府がゆるゆるの対応であり、緊急事態宣言が遅れた言い訳で東京都知事に責任転嫁するほどの見識のなさを露呈していながら、少なくともイタリアほどの大流行にはならなかったのは、「自粛警察」なんて存在を度外視するにしても、流動性の低さに起因する生活習慣を含めた国民の対応の成果であるのは、本書を読んでも明らかです。

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2020年10月10日 (土)

今週の読書は話題の『メイドの手帖』をはじめ計5冊!!!

今週の読書は、話題の『メイドの手帖』をはじめ、意識的に読んでいる新書も含め以下の通りの計5冊です。

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まず、安宅和人『シン・ニホン』(News Picks パブリッシング) です。著者は、慶応大学の研究者ということになていますが、本書を読む限りは、ヤフーのCSOとか、マッキンゼーのコンサルの経験が大きいような気がします。本書の基本は、類書と同じであり、上の表紙画像にあるように、AI✕データ時代を見据えて素早く対応し先行者利益をゲットする点を重視していますが、そのためにいろいろとコンサル的な解決方法を示しています。その際に何度か、「妄想」という言葉が出てきますが、それなりの重要性を持つキーワードです。もちろん、妄想するだけではなく、「カタチにする」重要性も忘れられているわけではありません。ということで、AI✕データ時代は、その昔からいわれている重厚長大産業からの脱皮が真の意味で必要となります。というのも、従来からの大企業がデンと居座って産業界を支配する一方で、米国のGAFAが典型的なように、情報系企業の企業価値が大企業に上回る現象がよく起こるようになっています。その上で、日本のみならず、世界的にも、売上や利益といった従来からの企業指標がそのまま企業価値につながるわけではなくなっています。そして、本書が優れているのは、類書になく、研究を重視し、そのためのリソースを充実させるべきと考えている点です。もちろん、この研究資金拡充だけであれば、研究系の類書との大きな違いはないんですが、AI✕データ時代を見据えて素早く対応し先行者利益のゲットを主眼とするたぐいの書物として、研究リソース充実を打ち出すのはめずらしいく、もっぱら、ブチブチと政府や大学に文句をいう本が多い気がします。研究リソース充実の重要性を主張しているという点で、私も大いに共感するところがあります。加えて、今回の菅内閣による日本学術会議人事への加入を著者がどのように考えるかにも興味あります。ただ、最後のナウシカ張りの「風の国」については、高齢者の都会への移住を進めるという以外は、私はまったく興味ありません。最後の最後に、本書のいくつかの興味深い図表は財務省のサイトでみた記憶があります。ただし、「不許複製」ということのようです。著作権法に基づく引用ならいいのでしょうか。よく私には判りません。

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次に、ステファニー・ランド『メイドの手帖』(双葉社) です。著者はシングルマザーで作家になる夢を持っていて、その第一歩となる大学入学までを綴ったエッセイ、というか、ノンフィクションの作品です。英語の原題は MAID であり、2019年の出版です。オバマ米国前大統領の目に止まり、前大統領の2019年夏の読書リストと年間推薦図書にも選出されています。ということで、ほぼほぼ最低賃金で清掃の仕事に就いたシングルマザーの半生を対象にしています。ただ、私はどこまでフィクションで、どこまでノンフィクションなのかは判断できません。著者が予期せぬ妊娠とDVのパートナーとの別離によって陥った貧困はかなりのもので、小さい子を連れてスーパーのレジに並ぶ際に、所持金の計算をせねばならないほどの貧困状態です。日本でいえば、幼稚園児くらいの子どもにマクドナルドのハッピーセットを与えるのが贅沢と受け止めています。もちろん、日米の差はかなり大きく、著者が都会ではなく、米国でもかなり不便な地方住まいである点も考慮しなければなりません。ですから、自動車への執着やガソリン代の認識は日本人には理解できない可能性があります。ただ、日本でも、エコノミストの視点では、貧困は高齢、母子家庭、疾病が3大原因と見なされており、米国でも同じなのかもしれません。クリーニング・レディとしての清掃という仕事にも日本人としては理解が及ばない可能性があるものの、私は2度の外国生活でメイドを雇った経験があり、日本人くらいの所得レベルであればメイドを雇って、まあ、トリックル・ダウンに協力せねばならないという雰囲気は感じました。ジャカルタでは、結局、1人しかメイドを雇わなかったのですが、いくつかの日本人家庭では2人雇って、調理中心のコキさんと、掃除や選択中心のチュチさんがいて、前者の方がお給料は高い、というのも聞いたことがあります。400ページを超えるボリュームですし、私が2日かけた読書ですから、それなりの覚悟は必要ですが、多くの人が手に取って読むことを私も願っています。

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次に、畑中三応子『<メイド・イン・ジャパン>の食文化史』(春秋社) です。著者は編集者・食文化研究家だそうで、私から見てジャーナリストと考えてよさそうです。もちろん、専門分野は食品や食文化なんだろうと思います。同じ著者の前著は『カリスマフード』で、同じ出版社から出ています。私も前著を読んだことがあり、2017年4月に読書感想文をポストしています。ということで、タイトルにあるように、食文化史なんですが、その昔の舶来信仰は食文化もそうだったわけで、明治期から続いてフランス料理を有り難がったり、バブル期にブームとなったイタリア料理=イタ飯などに代わって、最近では、国産品の方に価値を置くようになっている、と著者は指摘しています。例として、飲食店で見かける「当店はすべて国産米です」の表示とか、和食がUNESCOの世界文化遺産に登録されたりと、和食や国産食品が輸入食品や海外の食文化よりも「日本エライ」のような感じになっている、というあたりから始まります。もちろん、1996年の堺などでのO157による集団食中毒、また、今世紀に入ってからもBSE、あるいは、中国の毒餃子とか、食品の安全性に関する注目が高まるにつれて、国産食品への関心や信頼が高まった点を歴史的に解き明かしています。もちろん、食材だけでなく、家畜感染症対策、食料自給率の果てしない定価、はたまた、そういった事実を報ずるメディア事情まで、日本人の食文化や食にまつわる意識を幅広く取り上げて、しかも、とてもユーモラスな語り口で明らかにしていきます。もちろん、私たちの周囲には純粋な和食だけでなく、ラーメン、カレーをはじめとして、海外の食をとてもうまく取り込んだ食文化がいっぱいです。そういったものも含めて、「世界に類をみない国際性の豊かさ」とか、「情けなくも愛おしいメイド・イン・ジャパン」などと紹介されています。

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次に、木村昌人『渋沢栄一』(ちくま新書) です。著者は、公益財団法人渋沢栄一記念財団に長らく勤務された研究者であり、本書のタイトルにぴったりな研究者とお見受けしました。ということで、新1万円札の肖像画にまさにピッタリのはまり役ともいえる渋沢栄一についての評伝です。その作者がまた渋沢財団の研究部長だったというのですから、ここまで的確な人物はいなさそうですが、逆に、提灯持ちに終わるリスクもあります。江戸期に現在の埼玉県深谷市で生まれて、明記、対象、昭和の時代を90年あまリ生きた財界の大御所の一代記です。私は同じちくま新書から出版されている『論語と算盤』の現代語抄訳もも読んだ記憶があります。本書では、渋沢の経済活動、特に民間での財界活動のもっとも特徴を3点、すなわち、論語と算盤とカギカッコ付きの「民主化」と特徴づけています。最後の「民主化」はデモクラシーではなく、官尊民卑を脱して官ではなく民を主とする経済活動を提唱した、という意味でカギカッコを付してあります。そして、その最大の眼目は私利私欲を満たすことではなく、経済活動の倫理性に求められます。その基礎が論語なわけですが、本書が踏み込み不足と感じる最大の点がここにあります。すなわち、私は19世紀後半のアジアの状況からして、儒教よりもキリスト教的な博愛主義の方が先進的とみなされていたような気がします。韓国なんかが典型です。論者の中には、渋沢の野放図な女性関係に男尊女卑的な論語の背景を見る研究者もいますが、はっきりと間違いです。中国に発する論語に男尊女卑の観点はありません。男尊女卑が明確になるのは日本だけです。それはともかく、渋沢に関して、かなりいいとこ取りの研究書であることは間違いありません。新1万の肖像画の渋沢を知るいい機会だと思います。

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最後に、神代健彦『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書) です。著者は、私の住まいからのほど近い京都教育大学の研究者です。専門は戦後日本の教育学史、ないし、道徳教育の理論だそうです。私も大学に教職にある身として、それなりの興味を持って読み進みました。ということで、すでに大方の識者によって否定された教育を「緩める」ことを目的に書かれていると、私は受け止めています。ただ、およそ、体系的でなくテキトーな論述ですので、それほど説得力はありません。ひょっとしたら、しゃべった内容をテープ起こししたのかもしれません。ただ、教育と学習と学校などのキーワードはそれなりにきちんと使い分けられています。著者がいいたいであろうことは、教育にそれほど期待してはいけないし、教育がすべてを解決できるものではない、ということで、私なりに解説すると、現在の教育の目指すものも実態もどちらもオーバースペックなのだ、といいたいのだろうと思います。ただ、本書でも言及されているように、2003年のPISAショックで「ゆとり教育」は完全に否定されているのも事実です。しかも、やや哀れにも、現在の教育の目指すものを否定した著者は、それに代替する教育のあるべき姿や目標を提示することに明らかに失敗しています。ですから、古典古代のエウダイモニアなどを持ち出したりしているわけですが、明らかに論旨がうねっています。現在の教育が、工業社会、それも初期の工業化社会の完全競争に近く、低品質で画一化されたスペックの大量生産に適応した人材を輩出することを目標にして成功していたのに対し、ポスト工業社会ではより多様な人材が必要になる一方で、教育がそれに対応できていないのも事実です。ここで、私は「多様な人材」とスラッと書きましたが、これは水平的な専門分野の多様化とともに、しばしば、特にネオリベな文脈では、低スキルから高スキルまでという意味での垂直的なカギカッコ付きの「多様化」が要求される場合もあります。私自身はこの「垂直的な多様化」に必ずしも賛成できず、出来る限り教育や教養を高めることが望ましいと考えていますが、それは別としても、少なくとも専門分野の水平的な多様化が必要とされていることは明らかです。そのために、家庭と学校でどのような分担意識を持って、どのような目標で進めるべきか、本書はそのために一致点を探す手がかりにはなっても、解決策の提示には明らかに失敗しています。

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2020年10月 4日 (日)

先週の読書は行動経済学の経済書をはじめとして計4冊!!!

昨日に、米国雇用統計が割り込んで、読書感想文がいつもの土曜日ではなく、今日の日曜日になりました。前回に続いて、またまた、行動経済学のナッジに関する経済書や私がかつて統計局で担当していた家計調査に関する統計書など、以下の通りの計4冊です。新書も入っています。なお、今週半ばに、綾辻行人の『Another 2001』が発売になって、私も久しぶりの長編なので買って読もうと考えていたのですが、悲しくも、1割引の生協には「そうは問屋が卸さない」ようで、生協で買うのは諦めてしまいました。

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まず、那須耕介・橋本努[編著]『ナッジ!?』(勁草書房) です。チャプターごとの著者や編者は、大学の法律の研究者が多いように見受けました。というのも、基本的に、本書はサンスティーン教授についての訓詁学に近いような批判的解釈を中心としており、その大元のサンスティーン教授が法学者なのですから、そうなのかな、という気がします。ホモ・エコノミカスてきな合理的判断と行動を限定的に否定して、ナッジによるリバタリアン・パターナリズムについての学術書です。いろいろな見方が示されていて、チャプターごとの著者で必ずしも整然と統一的見解があるようでもないと考えるべきですが、当然ながら、ナッジについては肯定的な見方が多くなっています。私は行動経済学はともかく、ナッジに関してはやや疑問が大きいと考えています。理由は、前回の読書感想文との重複を気にせず展開すると、第1に、一般論として、ナッジで解決ないし効率解に近づくことが出来るのはそれほど重要な経済社会問題ではないような気がします。もちろん、喫煙や肥満が重要でないというと反論がありえますが、政府の役割はもう少し違うような気がする、というよりも、ややアサッテの角度から反論が出て来る恐れがあります。例えば、大昔のフリードマン教授の『選択の自由』で大きな政府を攻撃していますが、私の記憶ながら、政府の役人がおもちゃのピストルを撃って安全性を確かめるような仕事をしていていいのか、という大きな政府批判がありました。喫煙や肥満はともかく、個別の問題に対するナッジによる政府の個人生活への介入は、右派から同様の批判を招く可能性があります。政府の経済政策は、貧困や不平等の是正、雇用の最大化、景気循環の平準化、公共財の提供、物価の安定、途上国の開発援助、などなど、もっと大きな問題に取り組むべきではないか、という批判にはどのように考えればいいのでしょうか。第2に、これは特殊日本だけかもしれませんが、政府に対する信頼感が低く、政府のナッジに対する批判は避けられません。典型的には増税に対する国民の考えがかなり先進国の中でも、日本は際立って否定的である点は考慮してナッジが設計されるべきです。私は何度かシンガポールを訪れた経験があり、シンガポール国民の政府に対する信頼感と日本では大きな差があると実感した記憶があります。しかも、日本国民は「お上」意識があって、ガバナビリティが高いだけに、かえって厄介ともいえるかもしれません。第3に、法学者や経済学者がナッジについて考えるよりも、販売促進部のマーケターや宣伝部のスタッフの方が肌で実感する部分の方が確度が高そうな気がします。肥満防止た喫煙率の低下を目指した政府のナッジよりも、むしろ、例えば、個別のビールの銘柄の売上増加を目指した宣伝活動の方がうまくやれそうな気がするのは、私だけなんでしょうか。

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次に、佐藤朋彦『家計簿と統計』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、総務省統計局を定年体感したOBで、実は、私とも同時期に統計局にいて面識があります。基本は、公務員OBのお仕事に関した本ですから、出版社から受ける学術書というイメージではありません。書名から明らかな通り、家計簿に基づいて作成されている家計調査に関する、まあ、ありきたりな表現ながら、ちょっとしたネタ本です。1920年の岩野教授の「東京ニ於ケル20職工家計調査」や1926年の「大正15年家計調査」などに始まった家計調査の歴史をひもといて、第3章から第5章までの小ネタの披露が本書の真髄なのだと私は受け止めています。私が担当課長だったころから、こういった小ネタの取りまとめは行われており、総務省統計局のサイトを探したところ、今でも、家計簿からみたファミリーライフを冊子で発行しているほか、家計ミニトピックスを毎月pdfのメモで出しています。ただ、さすがに、本書ほどのボリュームはありませんから、本書ではこういった統計局の無料の広報資料よりかなり充実した内容となっています。私が統計局で家計調査を担当していたのはもう10年近く前ですから、かなり忘れている部分もあって、とても興味深く拝読しました。高齢者でスポーツクラブ使用料が高い伸びを見せたり、長崎ではタクシー代支出が多いん、なんてのはまったく知りませんでした。加えて、若年層で新聞が購入されなくなっている、など、実感として感じることが出来るいろんな購買活動について、定量的な統計で把握することが出来ます。特に、ランドセルの購入時期が年々早くなっている、という点については、2才違いの倅を持つ身として実感しました。2003年9月にジャカルタから帰国して、1年生の上の倅のためにランドセルを買いに走りましたが、9月というタイミングでは世間でランドセルを取り扱っていませんでしたので、老舗の百貨店で在庫を確認して買い求めた記憶があります。ということで、もとてもいい本だという基本を踏まえつつ、著者ほどの見識あるなら、という観点から、2点だけ改善点を上げておくと、第1に、家計調査は日時で把握できるのは確かですが、その実例が半夏生でタコの購入が増えるというのは、いかにもマイナーな印象です。先ほどの家計ミニトピックスの中には、一応、半夏生のタコもあるんですが、それよりも、バレンタインデーのチョコレートとか、節分の恵方巻、といったいい例があるので明らかに見劣りします。第2に、最後の付録のe-statの使い方の解説はいかにも冗長で、ヤメといた方がよかった気がします。むしろ、apiを使ったデータ取得の方がずっと有益であったのではないか、と思わざるを得ません。ただ、繰り返しになりますが、慶應義塾大学出版会から出ているものの、決して学術書ではなく、一般読者でも興味深く読め、全体としてとても有益ないい本であることは当然です。

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次に、谷口将紀・宍戸常寿『デジタル・デモクラシーがやってくる!』(中央公論新社) です。著者は、ともに東大の政治学の研究者です。著者が、インタビューした結果も本書に収録されています。著者2にな決してテクノロジーの専門家ではありませんから、電子投票とかの方向に重点が置かれて、間接民主主義から直接民主主義を技術の観点から指向するという本では決してありません。もちろん、そういった方向は含みますが、それも含めて本書は3部構成となっています。すなわち、政治や民主主義に関する情報流通がデジタル化で変化するというのが第1部です。第2部では、そういった情報の流れに従って合意形成の仕組みも変わるという点が中心になり、第3部ではその意味から政治制度が従来の投票や間接民主主義からアップデートされる、という点が注目されます。ということで、冒頭の問いかけが、「政治はなぜ遅れているのか?」から始まります。一般に、日本という国は少し前まで経済は一流だが、政治は二流だといわれていて、その日本の政治について、加えて、経済や製造技術なんかと比較しての政治について、なぜシステム的に新しいものを取り入れられないのか、という問いかけです。ただ、私はエコノミストとして、今はもはや経済も二流三流に落ちてしまったような気もしますが、それはそれとして別のお話です。まず、情報の流れがデジタル化によって大きく変わっています。従来の紙媒体の本や新聞ではなく、ネットで断片的で信頼性低い情報が多くなっています。フェイクニュースなんてその典型です。ポストトゥルースも話題になりました。結局、フィルタ・バブルやエコー・チェンバーが形成されて、バランスいい情報を得にくくなっているのが現実なのでしょう。その上で、ヒューリスティックに直感勝負の決め方ではなく、熟議民主主義をどのように形成し、多くの国民が納得できる合意をどのように形成するか、これも大きな課題となっています。もちろん、最近話題の討論型世論形成についても注目しています。そして、最後に、新しい制度の模索が始まっています。電子投票による参加の幅の拡大もそうですし、間接民主主義から、国民投票のコストが低くなれば、直接民主主義も頻度高く出来る可能性があります。ただ、私自身は、直接民主主義であれば、モロに投票者の利害を反映しかねない制度になる恐れがあり、間接民主主義によって選ばれたエリートがもっと幅広い視野からいろんな決定をすべき、という考えを持っています。そして、本書では触れられていませんが、果たして投票の分岐点は過半数でいいのか、という点もあります。憲法改正などで過半数ではなく⅔を必要とするケースがいくつかありますが、過半数に基づく決定についてはもう少し柔軟に対応するべきケースがあるような気がしなくもありません。最後に、本書のおわりにで触れられているんですが、世代間公平性の確保をAIに委ねるというアイデアには、ハッとさせられるものがありました。私が間接民主主義で選ばれたエリートに託そうとしているいくつかの論点を、人間のエリートではなく、AIを活用するという観点は新鮮でした。

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最後に、桃崎有一郎『「京都」の誕生』(文春新書) です。著者は、高千穂大学の歴史研究者です。私はこの大学が、まだ、高千穂商科大学といっていたころに、すぐ近くに住んでいた記憶があり、我が家の子供達は2人ともこの大学の近くの大宮八幡宮でお宮参りをしたりしました。ということとは何の関係もなく、年1-2冊読む「京都本」です。本書では、平安京がいつ、どのようにして京都になったのかを解き明かそうと試みています。その最大の契機は平氏などの武士の台頭と、平安京の外でありながら京都に位置する周辺部の開発であったと結論しています。時代の流れとともに生産が増加するのはマルクス主義的な歴史館の当然のみかたなんですが、その豊かになった京都に盗賊が横行するようになり、検非違使では取り締まりきれなくなって、地方に下っていた武士を京都に呼び寄せたのが平安京の京都への転換のはじまりとされています。特に大きかったのは平氏の存在です。清盛は白河院の落胤とみなされ異例の出世を遂げるとともに、現在の祇園のあたりに当たる六波羅の開発を行います。また、京都南部で今は伏見区にある鳥羽の開発や西八条の開発など、平安京の中に置けないお寺の配置などで平安京が拡大して京都になった、との推論です。そうかもしれません。もともとは皇族に連なる平氏や源氏が地方に下って武士となり、その武士を治安維持のために京都に呼び寄せ、平安京周辺の開発が進むとともに、保元・平治の乱などを通じて権力が貴族から武士に移るというのはその通りな気がします。もちろん、その際に、いわゆる院政が広く行われて、何の制約も受けない勝手気ままな白河法皇なんかが京都の開発に湯水のごとくお金を使った、というのもあります。ただ、平安京から京都への変化は、そういった周辺の開発と、それに伴う現在の京都に近い平面的な広がりによると同時に、権力構造についても関係なしとはしません。すなわち、やっぱり、全国に及ぶ行政権限が貴族から武士に移行した鎌倉幕府の成立が、同時に実効的な権力のない京都成立のためには必要だった気がします。その権力のない貴族からなる京都が、室町時代という例外的な一時期を除いて、今の京都の雰囲気を作ったような気がします。平面的な広がりだけで京都を見るのではなく、中身も見る必要があるのではないでしょうか。

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