2017年10月14日 (土)

今週の読書は経済書から小説までいろいろ読んで計7冊!

今週の読書は、なかなかにして重厚な経済学及び国際政治学の古典的な名著をはじめとして、以下の通り計7冊です。がんばって読んでしまいました。

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まず、オリバー E. ウィリアムソン『ガバナンスの機構』(ミネルヴァ書房) です。著者はノーベル経済学賞を授与された世界でもトップクラスの経済学者であり、専門分野はコース教授らと同じ取引費用の経済学です。本書は、 『市場と企業組織』と『資本主義の経済制度』に続く3部作の3冊目の完結編であり、英語の原題は The Mechanism of Governance であり、邦訳書のタイトルはほぼ直訳です。原書は1998年の出版ですから、20年近くを経て邦訳されたことになります。本書の冒頭でも指摘されている通り、取引費用の経済学は広い意味での制度学派に属しており、その意味で、同じくノーベル経済学賞を受賞した経済史のノース教授らとも共通する部分があります。そして、いわゆる主流派の経済学の合理性では説明できないながら、広く経済活動で観察される事実を説明することを眼目としています。少なくとも、経済史における不均等な経済発展は主流派の超のつくような合理性を前提とすれば、まったく理解不能である点は明らかでしょう。その昔は、合理的な主流派経済学で説明できないような経済的活動については、独占とか、本書では指摘されていませんが、外部経済などに起因する例外的な現象であるとされていましたが、現在では、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授の専門分野である行動経済学や実験経済学にも見られるように、個人の合理性には限界があり、この限定合理性の元での現象であるとか、ウィリアムソン教授やコース教授の取引費用の観点から、一見して非合理的な経済活動も合理性あるとする見方が広がって来ています。ということで、本書では取引費用から始まって、ガバナンスについて論じているのはタイトルから容易に理解されるところです。しかしながら、本書のレベルは相当に高く、おそらく、大学院レベルのテキストであり、大学院のレベルにもよりますが、大学院博士後期課程で取り上げられても不思議ではないレベルです。それなりのお値段でボリュームもあり、そう多くはありませんが、モデルの展開に数式を用いている部分もあります。書店で手に取って立ち読みした後で、買うか買わないかを決めるべきですが、読まなくても書棚に飾っておく、という考え方も成り立ちそうな気がします。だたし、最終第14章はそれほど必要とも思いませんでした。

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次に、フィリップ・コトラー/ヘルマワン・カルタジャヤ/イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング 4.0』(朝日新聞出版) です。著者のうちのコトラー教授はノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の研究者であり、私でも知っているほどのマーケティング論の権威です。英語の原題は Marketing 4.0 であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。今年2017年の出版です。私は専門外なので知らなかったんですが、コトラー教授によれば、マーケティング1.0は製造者の生産主導のマーケティングであり、2.0は顧客中心、3.0は人間中心とマーケティングが進歩して来て、本書で論じられる4.0はデジタル経済におけるマーケティングです。ただし、本書でも明記されている通り、従来からの伝統的なマーケティングが消滅するわけではなく、併存するという考えのようです。もちろん、インターネットの発達とそれへのアクセスの拡大、さらに、情報を受け取るだけでなく発信する消費者の割合の飛躍的増大からマーケティング4.0への進歩が跡付けられています。といっても、私の想像ですが、おそらく、グーテンベルクの活版印刷が登場した際も、あるいは、ラジオやテレビが普及した際も、それをマーケティングと呼ぶかどうかはともかくとして、こういった新たなメディアの登場や普及によりマーケティングが大きく変化したんではないかという気がします。基本的に、経済学では市場とは情報に基づいて商品やサービスが取引される場であると理解されており、その意味で、市場で利用可能な情報が多ければ多いほど市場は効率的になるような気がします。ただ、それに関して2点だけ本書を離れて私の感想を書き留めれば、まず、本書では注目されていないフェイク・ニュースの問題があります。消費者のレビューにこれを当てはめれば、日本語でいうところの「やらせ」になり、いくつか問題が生じたことは記憶に新しいところです。こういったフェイクな情報とマーケティングの関係はどうなっているのでしょうか。フェイクな情報は市場の中で自然と淘汰されるのか、そうでないのか。私はとても気にかかります。こういったコトラー教授なんかの権威筋のマーケティング論の本を読むにつけ、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らの行動経済学や行動経済学における意思決定論は、おそらく、企業が市場でしのぎを削っているマーケティングにはかなわないような気がします。理論的な実験経済学や行動経済学よりも、理論化はされていないかもしれませんが、市場の場で鍛えられた実践的なマーケティングの方が、よっぽど的確に選択や意思決定を明らかにしているような気がします。いかがでしょうか。

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次に、フランソワ・シェネ『不当な債務』(作品社) です。著者はフランスのパリ第13大学の研究者であり、同時に、社会活動にも積極的に取り組み、近年では反資本主義新党NPAの活動に携わり、トービン税の実現を求める社会運動団体ATTACの学術顧問も務めているそうです。フランス語の原題は Les Dettes Illégitimes であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。2011年の出版です。ということで、私の目から見て、フランス国内で主流のマルクス主義経済学的な観点である蓄積論からの債務へのアプローチであり、同時に、ケインズ経済学的な観点も取り入れて、マイクロな経済主体の経済活動をマクロ経済への拡張ないしアグリゲートする際の合成の誤謬についても債務問題に適応しています。特に、この観点を日本経済に当てはめる場合、資本蓄積が先進諸国の中でももっともブルータル、というか、プリミティブに実行されており、かなりあからさまな賃金引き下げ、あるいは、よりソフィスティケートされた形である非正規雇用の拡大という形で、先進国の中でも特に労働分配率の低下が激しく、その分が実に合理的に資本蓄積に回されているわけです。最近時点での企業活動の活発さと家計部門の消費の落ち込みを対比させるまでもありません。その上で、かつての高度成長期から現在まで、債務構造が大きく変化してきているわけです。別の経済学的な用語を用いると貯蓄投資バランスということになりますが、高度成長期や、そこまでさかのぼらないまでも、バブル経済前で日本経済が健全だったころは、家計が貯蓄超過主体であり、家計の貯蓄を企業の投資の回していたわけですが、現在では、「無借金経営」の名の下に、企業はむしろ貯蓄超過主体となっており、一昔前でいえば月賦、現在ではローンを組んで、あるいは、クレジットカードによる支払いで、家計が債務を負った形での消費が進んでいるわけです。教育すら奨学金という過大な債務を学生に負わせる形になって、卒業後の雇用に歪みを生じていることは明らかです。加えて、政府債務についても、銀行やその他の金融機関、あるいは、民間企業を救済するための債務を生じている場合が多いのも事実です。こういった債務をいかにして解消するか、貯蓄と債務のあり方について、資本蓄積の過程から分析しています。かなり抽象度が高くて難しいです。私は一応、京都大学経済学部の学生だったころに『資本論』全3巻を読んでいますが、それでも、理解がはかどらない部分が少なくありませんでした。

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次に、秋元千明『戦略の地政学』(ウェッジ) です。著者は長らくNHKをホームグラウンドとして活動してきたジャーナリストです。アカデミックなバックグラウンドは明確ではありませんが、実際の外交や安全保障に関する情報には強いのかもしれません。本書では、最初の方で歴史的な戦略論、すなわち、マッキンダーのランドパワーとシーパワーの特徴やハートランドの重要性の強調、さらに、スパイクマンのリムランドからハートランドを取り囲む戦略論、マハンのシーパワー重視の戦略論、ナチスの戦略論を支えたハウスホファーなどなど、まったく専門外の私でも少しくらいなら聞いたことがあると感じさせるような導入を経て、最近の世界情勢を地政学的な観点から著者なりに解釈を試みようとしています。その基本的な考え方は、日本はシーパワーの国であり、その点から米英と連合を組み、特に、米国と同盟関係にあるのは安全保障の観点からは理由のあることである、ということについては、本書の著者以外も合意できる点かもしれません。その上で、第8章冒頭にあるように、著者は現在の安倍政権を安全保障に関する考え方が地政学に立脚しているとして大いに評価しています。吉田ドクトリンとして米国に安全保障政策を委ねて、日本は経済復興に重点を置く、という戦後の基本路線を敷いた吉田総理以来の地政学的な基本を共有していると指摘しています。その上で、やや外交辞令にようにも聞こえますが、米国をハブにしつつ、大昔のように日英同盟も模索するような視点も見られます。ただ、本書では明確に指摘していませんが、民主党政権下で米国との同盟重視から中国に方向を変更しようと模索した挙句、結局、虻蜂取らずというか、中国も袖にしてメチャクチャな反日暴動や日中対立の激化を招いた経験から、羹に懲りて膾を吹くような態度は判らないでもないものの、米国が世界の警察官を降りる現状では視点を大きく変えて、米国との同盟をチャラにする仮定での我が国の安全保障政策も、あるいは、そろそろ考える段階に達したのかもしれません。もちろん、その場合は、米国に指揮権を委ねている自衛隊の軍事行動の自律性というものも考慮する必要があります。私は専門外のシロートですので簡単にいってのけてしまうんですが、難しい問題なのかもしれません。

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次に、佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社) です。私はこの作者の作品読んだのは、前作の江戸川乱歩賞受賞作『QJKJQ』が初めてで、この作品が2作目なんですが、当然の進歩がうかがえて、この作品の方が面白く読めました。前作はデニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』の焼き直しのような気がして、どうも、オリジナリティが感じられなかったものの、本作は、おそらく、パニック小説に分類されて、高嶋哲夫の作品などと並べて評価されるような気がしますが、作品の出来としてはともかく、オリジナリティにあふれていたような気がします。以下、ネタバレを含みます。未読の方は自己責任でお願いします。ということで、要するに、アフリカで保護されたチンパンジーが「京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト」、通称KMWPなる霊長類の研究所、これは我が母校の京大の霊長類研究所とは違って、天才的なAIの研究家で大富豪となったシンガポール人によって設立された民間の研究機関ですが、そのKMWPに収容され、ふとしたきっかけで警告音を発してしまい、その警告音がヒトを含む霊長類を同種の生物の殺戮へと向かわせる、というものです。ただ、主人公の霊長類研究者とキーパーソンの1人であるシャガという若者など、鏡像認識の特殊な要因により軽微な影響もしくはほとんど影響を受けないヒトもおり、主人公がそのチンパンジーを始末する、というものです。警告音に対する遺伝子的な対応の違い、鏡像認識と警告音によって引き起こされるパニック現象との関係、さらに、シンガポール人大富豪がAI研究を手終いして霊長類研究に乗り換えた理由、などなど、とてもプロットがよく考えられている上に、タイトルとなっているankと名付けられたチンパンジーの警告音が引き起こすパニックの描写がとても印象的かつリアルで、さすがに作者の筆力をうかがわせる作品です。舞台を京都に設定したのも、霊長類研究とパニックが生じた際の人口や街の規模、さらには、外国人観光客の存在などの観点から、とても適切だった気がします。ただ、難点をいえば、現在から約10年後の2026年10月に舞台が設定されているんですが、AIとか霊長類研究とかの、かなりの程度に最新の科学研究を盛り込みながら、ソマートフォンとか、SNSとか、動画のアップロードとか、現状の技術水準からまったく進歩していないような気もします。このあたりは作者の科学的な素養にもよりますし、限界かもしれませんが、ここまで進歩内なら現時点の2017年でいいんじゃないの、という気もします。でもいずれにせよ、この作者の次の作品が楽しみです。

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最後に、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』上下(集英社文庫) です。著者は米国を代表する国際政治学者だった研究者であり、2008年に亡くなっています。英語の原題は The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order であり、邦訳タイトルは必ずしも正確ではなく、原題の前半部分だけを抜き出している印象です。英語の原点も邦訳もいずれも1998年の出版です。何を思ったか、集英社文庫から今年2017年8月に文庫版として出版されましたので、私は初めて読んでみました。よく知られた通り、第2章で文明を8つにカテゴライズしています。すなわち、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明です。その上で、これらの文明と文明が接する断層線=フォルト・ラインでの紛争が激化しやすいと指摘しています。さらに、1998年の出版ですから冷戦はとっくに終わっており、以前は脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、もっとも深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突である、と結論しています。このあたりまでは、あまりにも有名な本ですので、読まなくても知っている人も少なくないような気がします。もちろん、西欧文明=西洋文明中心の分析なんですが、エコノミストとしては西洋文明が覇権を握ったバックグラウンドとしての産業革命をまったく無視しているのが最大の難点のひとつだろうと感じています。専門外であるエコノミストの私ごときがこの個人ブログという貧弱なメディアで語るのはこれくらいにして、あとは、もっと著名な評論やサイトがいっぱいありますから、google ででも検索することをオススメします。何よりも、実際に読んでみるのが一番のような気もします。

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2017年10月 8日 (日)

先週の読書は経済書や人気の時代小説など計7冊!

米国雇用統計で1日ズレて日曜日になった先週の読書は、経済書をはじめとして計7冊です。かなりよく読んだ気がします。でも、先週の読書界の話題はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞だったと思います。村上春樹はどうなるんでしょうか?

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まず、小川英治[編]『世界金融危機後の金融リスクと危機管理』(東京大学出版会) です。編者は一橋大学の国際金融論を専門とする研究者であり、編者以外の各チャプターの著者も一橋大学を中心に、学習院大学、中央大学、早稲田大学のそれぞれの研究者であり、出版社も考え合わせると明らかに学術書であると理解するべきです。ですから、読み進むのはそれなりにハードルが高くなっています。でも、マクロとマイクロの両方の観点から、タイトル通りの金融リスクや金融危機管理を論じており、2007-08年のリーマン・ショックをはさんだ金融危機から、ほぼ10年を経て、やや時が経ち過ぎて気が抜けた気もしますが、それなりの分析を披露しています。ただ、繰り返しになりますが、学術書ですので読み進むのはそれほど容易でもなく、特に、本書冒頭第1章の金融危機後のリスク分析の新しい流れの解説については、数式を中心とするモデル分析であり、モラル・ハザードという聞きなれた概念からモラル・ハザードに限定されない逆選択などの情報理論、あるいは、ネットワーク効果なども含めて、従来からの、というか、リーマン・ショック以前に主流であった金融リスク分析モデルである無裁定価格アプローチの限界を明らかにしつつ、決定論と確率論を比較する試みなどは、かなり理解が難しいといえます。第1章の結論として、モラル・ハザードの理論的な分析として、ブラウン運動に基づく正規分布からの乖離、下方へのジャンプ確立を服ネタ確率密度の変更可能性の考慮、それに、いわゆるファット・テールの問題など、そういった従来にない前提の変更などを行えば、シャープ比の引下げに伴うリスク資産価格の適切な評価、あるいは、リスク効用を投資者の限界効用と逆方向にヘッジさせるように動かす可能性など、極めて興味深い指摘がいくつも込められているだけに、今後の実証が楽しみながら、金融の専門家ならざる通常のビジネスマンには理解が難しそうな気もします。ほかに、私の目から見て興味深いテーマは危機時の流動性、とくに、世界経済レベルでの流動性の最終的な供給者、すなわち、Internationa Lender of Last Resort の議論なんですが、国際的な流動性が米ドルであるならば米国連邦準備制度理事会(FED)にならざるを得ないが、世界経済の必要性と米国経済の環境が必ずしも一致するとは限らない、という指摘も可能性は低いながらあり得ることだと受け止めました。2008年リーマン・ショック後の金融危機に際しては、世界経済の観点からも、米国経済の観点からも、FEDが大幅な金融緩和、量的緩和を含みレベルの金融緩和を行うべき経済情勢の一致が世界経済レベルと米国国内経済レベルで見られましたが、特に、物価上昇率の水準次第で、必ずしも世界経済の必要と米国国内経済の必要がFEDの金融政策レベルで同じになるかどうかは保証されていうわけではありません。そうなると、国際通貨基金(IMF)はどうなのか、私が3年間暮らしたインドネシアでは、少なくとも、IMFに対する信任が高かったとはいえないと思いますし、果たして、国際流動性の最終的な供給者はどの機関が担うべきか、まだまだ国際金融の問題が解決されるには時間がかかるのかもしれません。

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次に、西川祐子『古都の占領』(平凡社) です。著者は仏文の研究者から、女性史などの研究もしているようで、京都的には、私の記憶ではその昔に寿岳章子先生がいらっしゃいましたが、その後継かつ小型版といったところなんだろうかと受け止めています。ということで、本書は、読んだ私の目から見て、京都における戦後占領の歴史の研究書というよりも、ジャーナリスト的にトピックやキーパーソンをインタビューした結果を取りまとめたものであり、逆から見て、著者である取材者のバイアスは当然に反映されています。すなわち、占領軍の兵士に着目する場合でも、京都の地域住民の生活に貢献し、市民から感謝されるような兵士もいれば、占領軍の治外法権などの特権的優越的な地位を悪用して強盗強姦などの犯罪行為そのもので地域住民を苦しめた兵士もいたんでしょうし、統計的なマクロの把握と比較であればともかく、どちらに着目するかは取材者のバイアスです。その意味で、私は本書がどこまで意味ある労作なのかは判断しかねます。同時に、戦勝国から進駐してきた占領軍と敗戦国の地域住民ですから、俗に表現しても、仲良く協同して占領目的である非軍事化と民主化を進められれば、それに越したことはないものの、決して対等な関係であるハズもなく、もしも、仮にもしもですが、本書でいくつか取り上げているような交通事故や売買春などでは、加害者と被害者に分かれるとすれば、占領軍が加害者的な立場になり、京都の地域住民が被害者的な役回りになる、というのはある意味で自然かもしれません。そして、それは大昔の京都だけではなく、現在の沖縄でも生じている関係であることはいうまでもありません。もちろん、大昔の京都と現在の沖縄の重要性を論ずるつもりはありませんし、すでに戦後長らくの期間が経過し、記録や記憶が失われつつあり、あるいは、意識的か無意識的かは別にして、決して意図的に思い出したくもないと考える日本人が少なくない中で、こういった資料の歴史を何らかの形で残しておく作業は貴重なものといえます。

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次に、マイケル L. パワー/ジェイ・シュルキン『人はなぜ太りやすいのか』(みすず書房) です。著者2人は産婦人科の医師、というか、研究者であり、邦訳者も医学の研究者です。英語の原題は The Evolution of Obesity であり、直訳すれば、「進化する肥満」とでもするんでしょうか、2009年の出版です。ということで、タイトルから明らかなように、肥満をテーマにしており、肥満とはBMIで体重との関係を測ったりはしているものの、基本的に、脂肪の過剰と定義しています。そして、もちろん、肥満については健康への阻害要因として、好ましくないものと捉えられています。しかし、人類の長い長い歴史からして、肥満が問題となり始めたのはせいぜいが20世紀からの100年間であり、肥満がほぼほぼ存在しない前史時代や人類史の初期段階を別にしても、19世紀くらいまでは肥満が問題視されることはなかったと指摘しています。まあ、人類の寿命がそれほど長かったわけでもないことから、肥満が問題視されることもなかったんではないかと考えられます。でも、人類の寿命が長くなるに従って、肥満が死亡率の高さと相関していることが注目されたようです。そして、本書では肥満に対して進化生物学的アプローチを中心に迫っており、結論として、肥満の増加はヒトという種の適応的生物学的特性と現代という時代環境との間のミスマッチに起因する、というものです。すなわち、種としての誕生以来、人類は生命維持に必要な食物獲得のために身体を動かさねばならず、現在のようなあり余る食物に恵まれることが稀な環境で数十万年を生き延びて来たわけであり、生存のための適応は、当然、食物というエネルギー摂取の効率を高める方向に働いたんですが、20世紀以降のここ100年ほどの期間では、高カロリー食料が市場に溢れ、例えば、ピザが自宅の玄関まで宅配され、身体活動は余暇のスポーツという贅沢に変わった一方で、身体は過去の進化の刻印をとどめているため、食物摂取を通じたエネルギーの過剰蓄積への歯止めが弱いまま人類は飽食の時代を迎えた、その結果が肥満である、ということになります。加えて、進化の過程で大型化した脳を支えたのが脂肪だったこと、また、脳の発達のために赤子が脂肪を豊富に蓄えて生まれてくることも、太りやすさの背景にある、と指摘します。そして、最後の結論として、「肥満の回避も何かひとつによって達成できるわけではない」ということになりますので、とても学術的な内容ながら、当然、実践的ではないわけです。私のような専門外の者の読書としては、ともかく難しかったです。一定の前提を必要とする本のような気がしますので、決して、多くの方にはオススメできません。私自身も半分も理解できたとは思えません。でも、興味あるテーマを取り扱っていることは事実です。

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次に、三浦しをん『ぐるぐる♡博物館』(実業之日本社) です。著者はご存じの通りの直木賞作家です。ミステリ作家以外で、私のもっとも好きな作家のひとりです。ですから、余りにも当たり前ですが、文章はとっても達者です。訪れた、というか、本書の表現では、ぐるぐるした博物館は、東京の国立科学博物館をはじめとして、計10館です。本書で取り上げている、というか、同じことですが著者が訪れた順に、長野の茅野市尖石縄文考古館、東京の国立科学博物館、京都の龍谷ミュージアム、静岡の奇石博物館、福岡の大牟田市石炭産業科学館、長崎の雲仙岳災害記念館、宮城の石ノ森萬画館、東京の風俗資料館、福井のめがねミュージアム、大阪のボタンの博物館、となっており、番外編としてコラムで取り上げられているのが3か所あり、熱海秘宝館、日本製紙石巻工場、和紙手すきの人間国宝である岩野市兵衛さんの工房、となっています。だいたいにおいて、名は体を表していますので、何の博物館か明らかではないかと思いますが、石ノ森萬画館の「萬画」はマンガの意味ですし、京都の龍谷ミュージアムは龍谷大学という大学があり、浄土真宗のお寺が母体となっていますが、ご同様に龍谷ミュージアムも西本願寺が母体となっていて、でも、浄土真宗に限定されず幅広く仏教を中心にコレクションを行っているようです。私は三浦しをんのエッセイは何冊か読んでいて、やや年代は異なるものの、酒井順子のエッセイについては、調べがよく行き届いていて、お利口な大学生や大学院生が提出するリポートのような印象があるのに対して、三浦しをんのエッセイは、バクチクの追っかけをやっているとか、電車に乗っている際に耳をダンボのようにして聞き及んだ街の話題とか、かなりエッセイストの生活に密着した話題が多かったような気がしていたんですが、最近では、キチンとした取材に基づいてジャーナリストのような、というか、雑誌に連載されるに堪える調べの行き届いたエッセイになっているようです。本書の博物館訪問記のエッセイも、とてもよく取りまとめてあり、ページ数の関係か何か、ボリューム的にもう少し詳細な情報が欲しいと思わないでもありませんが、楽しく読める達者な文章のエッセイに仕上がっています。テーマも博物館ですから、目からウロコの知識も得られて一石二鳥ではないでしょうか。ただ、マンガに関する石ノ森萬画館訪問の際に、とても興奮した文章が見受けられますが、マンガに関しては10年ほど前に開館した京都国際マンガミュージアムを取り上げて欲しかった気がします。それだけが残念です。

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次に、畠中恵『とるとだす』(新潮社) です。昨年15周年を迎えた「しゃばけ」シリーズの最新第15話です。長崎屋の跡継ぎの若旦那である一太郎を主人公とし、次の「まんまこと」シリーズとは違い、妖がいっぱい出て来るファンタジーです。今年2017年1月号から5月号までの「小説新潮」に連載されていた5話を収録しています。すなわち、「とるとだす」、「しんのいみ」、「ばけねこつき」、「長崎屋の主が死んだ」、「ふろうふし」です。5話が続きものになっており、一太郎の父親である長崎屋藤兵衛が広徳寺での薬種問屋の寄合で倒れてしまいますが、その原因は他の薬種問屋さんたちに勧められるまま、沢山の薬を一度に飲んでしまったことで、昏睡状態になってしまいます。藤兵衛旦那の意識を回復させるべく一太郎は奔走することになります。それが「とるとだす」とそれに続く5話で語り尽くされます。「しんのいみ」では、一太郎は江戸の海に現れた蜃気楼の世界へと紛れ込んでしまいます。さらに、「ばけねこつき」では、一太郎は奇妙な縁談話を持ちかけられ、騒動に巻き込まれます。「長崎屋の主が死んだ」では、詳細不明ながら長崎屋に恨みを持って死んだ狂骨という骸骨の亡霊のような妖もどきが現れ、次々と人を襲い、中には死に至るものも出てしまいます。最後の「ふろうふし」では、神様の大黒天が現れて長崎屋藤兵衛の本復のためのヒントをくれて、一太郎が常世の国に渡ろうとしますが、結局、お江戸の中で騒動に巻き込まれてしまいます。でも、最後は、父親の藤兵衛が回復し、めでたし、めでたしで終わります。

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次に、畠中恵『ひとめぼれ』(文藝春秋) です。人気シリーズ「まんまこと」最新刊第6話です。町名主の跡取りであるお気楽者の麻の助とその友人を主人公にし、お江戸を舞台にするシリーズで、「しゃばけ」のシリーズと違って、妖が登場しません。普通の人間ばかりです。その上、時が流れます。子供は大きくなり、老人は死んだりもします。このシリーズ第6話は、『オール読物』に2015年から16年にかけて掲載された6話を収録しています。すなわち、札差の娘と揉めて上方へ追いやられた男の思わぬ反撃に端を発する「わかれみち」、盛り場で喧伝された祝言の約束が同心の一家に波紋を呼び起こす「昔の約束あり」、麻之助の亡き妻に似た女にもたらされた3つの縁談の相手が目論むホントの目的を探る「言祝ぎ」、火事現場で麻之助が助けた双子から垣間見える家族や大店の内情とそれを原因とする騒動に巻き込まれる「黒煙」、大店次男坊が東海道で行方不明となり店の内情が明らかとなる「心の底」、沽券が盗まれた料理屋に同心一家と雪見に行ったから麻の助がその料理屋の隠された暗部を明らかにする「ひとめぼれ」の6話です。町人の営む大店や料理屋などで、一見して外からはうかがい知れない何らかの暗い部分が、麻の助の巻き込まれる騒動により明らかとなって行く短編が多く収録されており、町人や武士の商売や一家の内情に深く切り込んだ内容となっています。もちろん、楽しいことばかりではなく、暗い部分の方が圧倒的に大きいんですが、それなりに明るく乗り越えようとする麻の助とその仲間たちを微笑ましく応援できる好編です。

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最後に、木俣冬『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書) です。著者は、ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポ、インタビュー、レビューなどを得意とするライターです。この新書では、タイトル通り、NHKの朝ドラについて、特に2010年前後くらいからSNSなどで拡散し、再び大きな盛り上がりを見せていると分析しています。朝ドラが人口に膾炙し始めるのは、1966年の「おはなはん」からであるのは衆目の一致するところであり、1983年のバブルの走りのころの「おしん」がもっとも注目を集めたのもご同様です。しかし、年末大晦日の紅白歌合戦と同じで、朝ドラも長期低落傾向にあったんですが、2007-09年くらいにほぼ底を打ち、2010年度上半期の「ゲゲゲの女房」から再び上向きに転じています。最近では「あさが来た」や「とと姉ちゃん」などがヒットといえますが、かなり全体的にいい出来栄えではないかと思います。というのは、私は実はほとんどの朝ドラを毎日のように見ているからです。2003年の夏の人事異動でジャカルタから一家で帰国して、その2003年度後半は「てるてる家族」でした。本書の著者によれば、低迷期入りの第1陣を飾った作品だそうですが、石原さとみは決して悪くなかったと記憶しています。最近お作品で私が途中で見るのを止めてしまったくらいにひどかったのは「まれ」でした。本書でもややキツい評価になっています。「てるてる家族」の後は低迷期に入り、「ゲゲゲの女房」の後もいくつか駄作はありましたが、本書では2011年下半期の「カーネーション」が史上最強の朝ドラと評価されています。そうかもしれません。先週月曜日から下半期の「わろてんか」が始まりました。期待は膨らみます。

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2017年9月30日 (土)

今週の読書は経済書から京都本まで計6冊!

今週の読書は計6冊です。1週間単位で4-5冊で抑えたいところですが、今週は新書が2冊あり、冊数から判断されるほどのオーバーペースではありません。すなわち、私はついつい新書は読み飛ばしてしまう方なので、モノにもよりますが、2時間ほどで読み終える新書もめずらしくありません。今週読んだ新書のうちの1冊は京都本でしたので、特にスラスラ読んでしまった気がします。

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まず、ロバート・プリングル『マネー・トラップ』(一灯舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、Central Banking という雑誌の創始者で、その発行会社の会長だそうです。同時に、金融評論家・経済記事編集者・企業家でもあるそうです。英語の原題は The Money Trap ですから、邦訳書のタイトルはそのまま直訳です。2011年にハードカバー版が、2014年にペーパーバック版が、それぞれ発行されています。ということで、いわゆるリーマン・ショック後に世界経済にあって、経済成長を回復し、金融危機が残した諸問題を解決することへ向けた各国の政府や中央銀行の努力が、極めて限定的な効果しかもたらさなかったのかについて、本書では、弾力的な信用供給・機能不全に陥っている銀行システムと未改革の国際通貨制度の相互作用に求め、これをマネー・トラップと呼んでいます。いずれも同じ経済や金融の解説書なんですが、本書でも、経済や金融の歴史をひも解き、リーマン・ショック後に行われた対応策、そして、いろいろと提案されている政策を広い範囲にわたって分析しています。要するに、アレが悪かった、コレが気に入らないと、いろいろと政府や中央銀行の失政を指摘し、銀行経営者などの行動を批判しているわけです。その意味で、極めてありきたりな経済・金融書といえます。加えて、2011年までの情報で執筆されていますから、サマーズ教授らの secular stagnation の議論は踏まえていません。しかし、とてもユニークなのはその解決策であり、ブキャナン的な意味で米ドルを憲法化することにより国際通貨制度を固定化させ、さらに、銀行をナロー・バンク化して、英国でいうところのユニット・トラスト、米国のミューチュアル・ファンドで運用する、逆にいえば、銀行の資産運用先を限定して勝手な資産運用を禁じる、というものです。国際通貨制度をカレンシー・ボード的に米ドルにペッグさせるというのは、東南アジアなどでもいくつも例がありますし、その昔は北欧の国の中には独マルクにペッグした金融政策運営をしていた国もありました。ようするに、トリフィンの国際金融のトリレンマのうち、固定為替相場と自由な資本移動を認めて、各国独立の金融政策を放棄する、ということです。しかしながら、本書では否定していますが、これは形を変えた金本位制にほかならず、おそらく失敗するものと私は予想していますし、何よりも、こういった金融政策の放棄に積極的に応ずる国は、ユーロ圏がかなりそれに近いとしても、そう多くはないものと認識しています。

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次に、樫原辰郎『帝都公園物語』(幻戯書房) です。著者は大阪ご出身の脚本家、映画監督、フリーライターだそうですが、少なくとも本書に関してはしっかり下調べが行き届いている気がします。冒頭の有栖川宮記念公園などから始まって、上野公園はそれほどではないとしても、本書の中心は日比谷公園と新宿御苑と明治神宮、というか、明治神宮を含む代々木公園となっています。明治期になって放棄されたお江戸の武家屋敷を新政府が接収して、その中から、霞が関の官庁街を設計し、銀座の煉瓦街を作り出し、練兵場や弾薬庫などの軍事施設を置き、それらとともに公園が計画されていった歴史的な経緯もなかなか興味深く読ませます。本書が指摘する通り、公園は建造物とは異なり、造園や園芸に時間がかかります。先々を見通して、小さな苗木を植えれば、開園当初は物足りなく感じる人々もいますし、当時の技術的水準では大きな樹木を移植するのは難しかったかもしれません。大きな樹木の移植ということでいえば、日比谷公園の首かけ銀杏の由来も明らかにされています。また、本書や類書で見強調されている通り、明治期は欧風文化を摂取したわけで、その中心はお雇い外国人と留学帰りの人々だったわけですが、当然に、我が国と欧米とでは違いがあるわけで、特に、公園作りの植生に関しては差が大きかったのかもしれません。東京都のシンボルになっている銀杏については、本書ではアジアでしか見られず、欧州では氷河期に絶滅したとされていますし、逆に、欧米では適した樹木でも我が国ではうまく根付かない、といった場合も少なくないような気がします。また、本書では公園を舞台にした社会現象や風俗などにも目配りされており、日露戦争の終結に反対して集会参加者が暴徒化した日比谷焼打ち事件が特に大きく取り上げられています。私のような公務員のホームグラウンドである霞が関からの地理的な距離の近さから、また、吉田修一の芥川賞受賞作である「パークライフ」を思い出しつつ、ついつい、日比谷公園に興味を持って読み進みましたが、新宿御苑も農業試験場として始まった歴史なども知りませんでしたし、なかなかオフィスやご近所の井戸端会議でお話しできるトピック満載、という気がします。

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次に、京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館) です。著者は滋賀県立大学教授であり、平安時代を中心とする中世史の研究者です。ということで、タイトル通りに、牛車についての解説書です。次の『荷車と立ちん坊』が幕末から明治期の東京を中心とする物流を取り上げているのに対して、本書は牛車ですから平安時代を中心とする中世の貴族などの人の乗り物にスポットを当てています。現在の自動車になぞらえれば、輸入高級車から大衆車まで、牛車のランクは当然にあり、上級貴族にしか許されなかった種類の牛車と、買い貴族が用いだ牛車は違います。女性が乗る牛車と男性向けも違うらしいです。私はまったく知らなかったんですが、牛車は後ろ乗りの前降りだそうで、それを間違えて都の物笑いになった田舎での木曽義仲がいたりします。ただ、当時から乗馬の習慣はあったわけで、スピードを必要とし、また、手軽に乗れる馬に対して、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示し、いわば、社会的なステータスを表現するひとつの手段でもあったと解説されています。ですから、より上位者の乗ったと思しき牛車とすれ違ったら、下位の牛車は道の脇に止めて、牛を車から離すことにより車全体で前傾姿勢を取って、お辞儀のような姿勢を示す必要があったとされています。ただ、畳が敷いてあるとはいえ、木製の車輪でサスペンションもあったとは思えず、乗り心地がさほどよかったとは考えられないと指摘されています。また、室町期にはすっかりすたれたものの、歴史上、著者が確認できた範囲で、最後の牛車は江戸時代終盤に降嫁された和宮ではなかろうか、とひも解かれています。本書はこういった牛車に関する歴史的な基礎知識を読者に示すだけでなく、それを基に、幅広く古典文学や資料に加えて、絵巻物なども動員しつつ、失敗談などのエピソード、ただし、『源氏物語』などのフィクションありなんですが、かなり実態に近いと見なせるエピソードをはじめ、牛車をめぐる悲喜劇をかなり大量に引用している点も魅力ではないでしょうか。

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次に、武田尚子『荷車と立ちん坊』(吉川弘文館) です。著者は早大教授であり、専門分野は歴史ではなく、社会学のようですから、出版社の特色として歴史書が多いものの、著者の専門分野の社会学の視点からの歴史書と考えておいた方がよさそうです。明治維新後の近代日本において、まだ荷車は人力で動かしており、それを助けるべく、上り坂などでたむろする立ちん坊と呼ばれるアシスト要員がいたりしたわけです。典型的には、「車夫馬丁」と蔑みの目で見られるなど、けしからぬ風潮がありますが、本書ではそれに疑問を呈しつつ、近代日本で激増した物流を支える人々の仕事と生活を明らかにします。とはいえ、こういった車引きの生活は苦しく、社会の下層をなしていたことも事実です。私は高校のころからしばらく読んでいた『ビッグコミックオリジナル』に連載されている「浮浪雲」を思い出してしまいました。「浮浪雲」は幕末期の品川の物流を支配する夢屋の頭を主人公にしたマンガであり、勝海舟、清水次郎長、坂本龍馬など歴史上実在する著名な人物も多数登場して、主人公と親交を持ったりしています。主人公は東海道の物流を支配し、その意味で、絶大な権力を持ちながら、ひょうひょうと遊び歩き、女性を見れば老若美醜を問わず、「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞を向ける好人物です。このマンガの主人公である雲が絶大な権力を握るのは、要するに、私の考える物流、本書でスポットを当てている分野が、とてもネットワーク的な分野であり、いわゆる歯車的なパーツがびっしりと詰まっているからです。すなわち、世界はもとより、日本全国すべての物流をカバーしきれる組織はそれほどなく、何らかの意味でいわゆる荷物をリレーしなければなりませんから、どこかの歯車がうまく回らないと、すぐに物流全体がダメになりかねません。しかし、他方で、日本、というか、日本人の得意な分野でもあり、例えば、コンビニの品揃えなどは物流のバックアップがなければ、どうにもなりません。明治期の物流は移動手段が機械化される前の段階では人力に頼る部分が大きく、それなのに、決して実入りはよくなく社会的な地位も高くない、といった階層により支えられてきていました。本書では、そういった社会階層の仕事と生活を明らかにしつつ、私のような専門外のシロートにも判りやすく解説してくれています。

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次に、矢部宏治『知ってはいけない』(講談社現代新書) です。著者は、よく判らないんですが、博報堂勤務を経て、現在は著述業、といったところなんでしょうか。本書では、我が国の対米従属の基礎と実態を明らかにしようと試みています。どこまで評価されるかは読者にもよりますが、最近では、日本が米国のポチである事実はかなりの程度に理解が浸透しており、特に、本書でも指摘されている通り、2012年の孫埼享『戦後史の正体』からは、日本がホントの意味での独立国かどうかすら疑問視する向きも出始めたりしています。本書では、著者は、対米従属の対象は米国政府ではなく米軍であり、日米合同委員会が我が国権力構造の中心に据えられて、米軍が我が国の高級官僚に直接指示を下す体制になっている、と主張しています。私は公務員ながら高級官僚とされるエリートに出世できなかったわけで、どこまで本書の主張が真実かは請け負いかねますが、かなりの程度に否定できない部分が含まれているような気がすることも確かです。例えば、本書の主張にひとつに、自衛隊は米軍指揮下で軍事行動を行う、というのがありますが、これはかなり真実に近い、と私は考えています。ですから、その昔の『沈黙の艦隊』のように、米軍が自衛隊を攻撃することはあっても、その逆なないんだろうと考えています。p.94 にあるように、アメリカへの従属ではなく米軍への従属であり、精神的な従属ではなく、法的にガッチリ抑え込まれている、というのはかなりの程度に正しい可能性があると受け止めています。その意味で、本書が矛盾する主張、すなわち、日本は法治国家ではない、と主張しているのは間違っていますが、明確に間違っているのはこの1点だけかもしれません。最後に、9章構成の9点の主張の各章の扉に4コマ漫画を配しています。これもなかなかよく出来ています。

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最後に、大野裕之『京都のおねだん』(講談社現代新書) です。年に1-2冊読む京都本です。本書の著者はチャプリン研究科にして、脚本家、映画・演劇プロデューサーです。大阪出身で、京都大学入学とともに京都に引っ越し、現在でも京都在住だそうです。ということで、私の専門分野なんですが、タイトル通り、京都のおねだんについて調べています。第3章では絶滅危惧種のひとつとして京都大学が取り上げられています。それから、京都大阪の夏の風物詩として地蔵盆にスポットを当てています。地蔵盆が京都と大阪くらいしかないのは、何となく知っていましたが、お地蔵さんを貸し出すサービスがあるのは知りませんでした。それから、季節の風物詩ということで、団扇や扇子について論じられていますが、私の子供のころには、子供だったので詳細は知りませんが、毎年、福田平八郎先生の野菜や花の絵を団扇にして配っているお店がありました。我が家にはナスや朝顔を描いた福田平八郎先生の絵の団扇があった記憶があります。もちろん、コピーなんですが、それなりの値打ちモノだったように感じないでもありませんでした。また、名曲喫茶柳月堂のことが取り上げられていますが、私はクラシックではなくジャズをもっぱらに聞いていましたので、荒神口のしあんくれーるの方が記憶に残っています。どちらも会話を交わすことは出来ません。本書にもある通り、柳月堂はそもそも会話が禁止されており、しあんくれーるでは余りの大音響でジャズがかかっていて、人間の出す大声の限界を超えているような気がしました。それから、花街のお話がありますが、京都の西の方にある島原は忘れられているようです。私のが大学のころに属していたサークルではイベントの招待状の発送準備を島原の歌舞練場で作業する伝統がありました。冒頭で作者は本書が京都本であることを否定していますが、それなりに立派な京都本だという気がします。

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2017年9月23日 (土)

今週の読書は話題の経済書をはじめ計5冊!

今週は話題の経済書をはじめ、以下の計5冊とかなりペースダウンしました。これくらいが適当な読書量ではないかという気もしますが、さらにもう少し減らすのも一案ではないかと思わないでもありません。

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まず、 アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』(文藝春秋) です。著者は東独生まれで、アマゾンのチーフ・サイエンティストの経験もある人物です。科学者というか、起業家というか、そんな感じです。英語の原題は Data for the People であり、今年2017年の出版です。そして、英語の原題よりも興味あるのは上野表紙画像の右下に見える英語のサブタイトルであり、post-privacy economy をいかに消費者のために作り上げるのか、といった問題意識のようです。ということで、私は従来からプライバシーには2種類あって、片方が市場である消費生活で何を買ったとかのプライバシーは、もはや成立しない、と考えています。ただ、もうひとつのプライバシー、典型的にはベッドルームのプライバシーは守られるべきだと思います。タダ、ビミョーなのは片方が市場であって、市場でないような、政府による大きな規制のもとにある市場との取引、典型的には医療や教育などの場合は、個別に考えるべきだという気もします。ただ、本書の著者の見方は、私のべき論ではなく、事実として、ベッドルームのプライバシーすらも守られていない、という考えが第4章以下で強く主張されています。例えば、ベッソルームとはいわないまでも、在宅か不在かはスマート・メーターの電気の使用状況により判断できる、とか、町中の至る所に設置されている監視カメラとか、スマホのGPSにより個人の位置情報はほぼほぼ完璧に把握されている、とかです。その上で、英語表現的にいえば、get even だと思うんですが、一方的に消費者から企業に情報を提供するだけではなく、企業が収集し蓄積している自分に関する情報の開示を求める必要を論じています。あるいは、企業と対等な情報を収集するため、例えば、コールセンターへの電話は消費者サイドの承諾を得た上で録音されていますが、消費者には録音データは開示されませんから、同時に消費者の方でも企業サイドの承諾を得た上で録音するとか、といった消費者サイドでの対応も必要と論じられています。確かに本書を読むと、私のように2種類のプライバシーを分けて論じるのは、現実問題として、もはやその段階を超えているのかもしれないと感じさせられます。最後に、タイトルがよろしくありません。アベノミクスのように、アマゾンの経営上のポリシーとか、アマゾン的な新たな経済学を思い浮かばせるようなタイトルですが、中身はプライバシー情報に基づく企業と消費者の緊張関係を論じています。

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次に、坂野潤治『帝国と立憲』(筑摩書房) です。著者は東大社研の歴史学者であり、ご専門は日本近代政治史です。ですから、私はかなり楽しみに読み始めたんですが、読後は少し失望感もありました。すなわち、本書の主眼は帝国主義と立憲主義のせめぎあいの中で前者が優位を占めて、結局、日本が侵略戦争に突入してしまった、という反省から、戦争回避の可能性を歴史から探る、というものだったハズなんですが、サブタイトルにも見られる通り、日中戦争の開戦回避というかなり局所的な話題に終始したきらいがあります。実は、私も歴史の大きな流れには興味があり、例えば、地方大学に出向していた際に学生諸君に質問し、コロンブスが1492年の新大陸を発見しなかったら、現時点まで米大陸は発見されていなかったかどうか、を問うたところ、当然ながら、あのタイミングでコロンブスが米大陸を発見しなくても、誰かがいつかは発見していただろう、という見方が圧倒的でした。同じことは昭和初期の中国との開戦にも当てはまるような気がします。ですから、あおのタイミングで、あの場所で日本が中国に侵略戦争をしかけていなかったとしても、大きな歴史の流れとして日中戦争は起こっていた気がします。その根本的な歴史の流れの解明を私は期待していたんですが、1874年の台湾出兵に始まる日中戦争への大きな歴史の流れを解き明かす試みは、少なくとも本書ではそれほど明らかにはされなかったと受け止めています。私の専門分野ではないので、著者が別の学術書か何かで明快な解答を与えてくれているのかもしれませんが、残念ながら、本書ではクリアではありません。というか、私程度の読解力と歴史に対する素養ではクリアに出来なかったのかもしれません。圧倒的な大国、あるいは、歴史上の先進国として仰ぎ見ていた中国に対する侵略行動については、もっとさかのぼらなければ解明できない可能性がある、としか私には考えようがありません。侵略や植民地化で特徴つけられる帝国主義を防止するものとして立憲主義を対置した時点で、少し問題意識が違っていたのではないか、という気もします。また、立憲は立憲主義ではなく、帝国は帝国主義とは違う、とする著者の言葉遊びにもなぞらえられかねない主張も私の理解を超えていました。

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次に、新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房) です。著者は図書館情報学を基礎に、日本近世史を専門分野とする研究者です。著者のおかげなのか、編集者が優秀なのか、構成がとてもシンプルかつ明解で、読み進むに当たってヘンにつっかえたり戻ったりする必要もなく、とても助かります。我が国の古典古代である飛鳥時代の聖徳太子のころから説き起こして、近代的な西洋文化に基づく図書館が出来る大昔からのわが国特有の図書館的な機能を持った施設の歴史をひも解いています。さすがに、第1章の古代から中世にかけての図書館はそれほど史料もないのか、大雑把にしか概観できていませんが、第2章と第3章の江戸時代が本書のタイトル通りにメインとなる部分であり、第2章の幕府の図書館、第3章の地方の藩校などの図書館などなど、興味深いエピソードが満載です。特に、私のような東京都内各区立図書館のヘビーユーザとして、毎週最低でも3-4冊は借りるタイプの読書をする人間には、とりわけ身に染みる部分もあって興味深く読めました。私のようなヘビーユーザでなくても、図書館や読書に対する関心が高まるような気がします。特に、我が国の図書館や読書の歴史を考えると、欧州中世にキリスト教の教会が知識や情報を独占し、そのために庶民が理解できないラテン語を大いに活用した歴史があり、それをルターの宗教改革やグーテンベルクの活版印刷が大きな変革を準備したのとは違い、決して識字率などが高かったわけではなかったものの、それなりに地方でも教養ある教育が実施されており、しかも、漢字だけでなくかな文字の普及もあって、読書の普及も見られたような気がします。本書本来のスコープである江戸幕府期に紅葉山文庫が整備充実され、系統的な収集と管理が行われて、しかも、改革者たる8代将軍吉宗が大いに利用したくだりなど、やや吉宗が借り出した書籍のリストがウザい気もしますが、それなりに興味深いものがあります。加えて、江戸時代に小山田与清が商人として築いた財を投じて江戸の町で解説した私設図書館など、当時の文化水準の高さを象徴する新発見、というか、私にとっての新発見もありました。ただ、図書館についての本ですので、例えば、グーテンベルクの活版印刷に相当するような蔦屋の印刷出版業に関して少し情報が不足するような気もします。図書館は図書を収集・管理するわけですから、出版される本と借りる読書人から成立していることは忘れてはならないと思います。

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次に、岡本和明・辻堂真理『コックリさんの父』(新潮社) です。タイトルの人物は一世を風靡したスプーン曲げのユリ・ゲラーとともに、1979年代の我が国オカルト界を席巻した中岡俊哉という人物です。実は、私は1970年代のそのころに、いかにもオカルトに興味を持ちそうな中高生だったんですが、まったく記憶にありません。なお、著者のうち、最初の著者はこの中岡俊哉のご令息で、後の方の著者は放送作家だそうです。ということで、主人公の中岡俊哉は「オカルト」というよりは、ご本人は心霊科学の研究者などと称していたようなんですが、本書はその生い立ちから始まって、戦争期に渡満し、その後もしばらく中国大陸にとどまって、北京放送のアナウンサーをしたりした後、我が国に帰国し、中国大陸の怪奇物語などを少年誌に寄稿しつつ、次第に超常現象の第一人者の1人とされ、テレビ番組で活躍したり、といった人生を概観しています。2001年に亡くなったそうです。10代で満州に渡ったあたりもそうですが、かなり冒険的な人生観をお持ちだったのかもしれません。ユリ・ゲラーのスプーン曲げには終始懐疑的だったようですが、クロワゼットの透視力を信頼してテレビでも取り上げたりした後、本書のタイトルであるコックリさんの体系的な解明に努めたりしています。コックリさんについては、私の中高生のころに流行ったりしていましたが、私はまったく信じておらず、やったこともありませんし、親しい友人がやっているかどうかも知りませんでした。そして、中岡俊哉はコックリさんの後、心霊写真やハンドパワーの方に向かいます。心霊写真については、ちょっと違うかもしれませんが、例の「貞子」の元になった『リング』のビデオテープへの念写などがオカルト界では有名かもしれませんが、私は可能性あると考えているのは、限りなく医療行為に近くて胡散臭いんですが、ハンドパワーの方です。というのは、医学の世界では、経済学のような因果推論というものはほとんど重視されておらず、単なる統計的な有意性で病気やケガを治しているように私には見えるからです。例えば、統計的にはセックスと妊娠はほぼ無相関なのだそうですが、明らかに因果関係をなしているのは、高校を卒業したレベルの知性を持った日本人であれば理解していることと思います。同様の知性があれば、喫煙と発がんの間に一定の相関があることも情報として知っている可能性が高いと私は考えますが、不勉強にして、その因果関係はどこまで明らかになっているかは私は知りません。おそらく、単に統計的に有意な発がん率の差が喫煙者と非喫煙者の間にある、という事実だけではないかと想像しています。その昔は、ナイフでケガをしたら、傷口とともにナイフの方にも塗り薬を塗布していたらしいですから、このあたりはオカルトに近いのかもしれません。

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最後に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書) です。著者は紛れもなくバッタの研究者です。バッタの中でも、アフリカで数年に1度大発生し、農作物に大きな被害を与えるサバクトビバッタだそうです。エコノミストの私はもちろん専門外であり、相変異を示すものがバッタ(locust)、示さないものがイナゴ(grasshopper)というのも知りませんでした。当然に実感ありませんが、日本人研究者がサハラ砂漠のバッタを研究することもあるんだ、というくらいの感想です。そして、人工的な研究室で飼育実験ばかりで野生の姿を見たことがなかったバッタの研究のため、ポスドクで研究資金を獲得してモーリタニアの研究所に2年間の予定で滞在し、本書はその間の研究とともに生活などを中心に取りまとめられています。新書としては異例のぶ厚さなんですが、読んで驚いたのは、バッタという昆虫に対しても、アフリカ途上国に対しても、著者がまったく上から目線を示していない点です。同じ高さの目線で、というよりも、ひょっとしたら、著者の自虐趣味かもしれませんが、さらに低い視点からバッタやモーリタニアを詳しく描写しています。私も開発経済学の専門家として、途上国に入ることもありますし、「指導」と称する業務を担当したこともありますが、こういった現地事情や現地人はもとより、研究対象に対する真摯な姿勢は見習いたいものだと感じました。ただ、現地語に対する学習意欲が異様に低い点は気にかかりましたが、私もジャカルタ滞在の折にマレー・インドネシア語を勉強しようとも思わなかったですし、スペイン語圏の大使館勤務をしながら、せっせと英語を勉強していたクチですから、大きなことはいえません。バッタに関する研究については何の基礎知識なくとも、モーリタニアやバッタに関して、とても実態に迫ったノンフィクションが楽しめます。

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2017年9月16日 (土)

今週の読書もついつい読み過ぎて計7冊!

今週の読書はぶ厚な経済書をはじめとして、以下の7冊です。先週も『戦争がつくった現代の食卓』と『世界からバナナがなくなるまえに』の食べ物関係2冊を読んだんですが、なぜか、今週も歴メシと和菓子の2冊が入っています。食欲の秋なのかもしれません。

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まず、 エドワード P. ラジアー/マイケル・ギブス『人事と組織の経済学 実践編』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国の労働経済学者であり、ラジアー教授なんぞはノーベル経済学賞に擬せられたりもしているような気がします。英語の原題は Personal Economics in Practice, 3rd Edition であり、2015年の出版です。そして、学術的な水準は大学院博士前期課程くらいに使えるテキストです。学部生ではやや難しいでしょう。ただし、1998年にラジアー教授は邦訳で同じ出版社から『人事と組織の経済学』を出版しており、やや英文タイトルに変更あったものの、中身は半分以上同じだという気がします。というのも、私は労働経済学とかのマイクロな分野はほとんど専門外なんですが、数年前に勤務上の都合で国際共同研究を担当し、まったく専門外ながら労働や雇用に関する研究のグループの研究取りまとめをせねばならなかったことがあり、その際に1998年出版の旧版を読みました。旧版の方がややページ数が多かった気はしますが、冒頭の採用に関するチャプターなんか、安定した生産性を示す労働者よりも、リスクある労働者を雇うべし、といった結論も旧版から同じだと思いだしてしまいました。すなわち、野球でいえばアベレージ・ヒッターではなく、ホームランか三振か、といったバッターを雇用すべきであるという結論で、安定性を重視する日本人としては不思議に思ったんですが、本書の結論のひとつとしては、リスクある労働者が結果を出せない場合、すなわち、野球でいえば三振ばかりしている場合、解雇すればいいじゃないか、という、いかにも米国流の考え方だったのを思い出してしまいました。米国的なCEOの超高給と一般労働者との給与格差については、職階による給与の差が大きいほどスキルアップのインセンティブが大きくなる、と旧版と同じ論理を展開している部分が多いんですが、IT化の進展により意思決定の中央集権化が進む可能性を指摘していたりと、当然のように版を重ねている部分もあります。第2版を見ていないので何ともいえませんが、適切にアップデートしている気もします。ただ、人事管理に関しては、合理的なホモ・エコノミカスを対象とするインセンティブの体系ですので、合理的といえば合理的なんですが、資本と異なるモビリティの問題とか、個々人による異質性の問題とか、まだまだ解明されていない点は多いと考えさせられます。加えて、現時点では実験経済学は消費の場などにおける選択の問題が中心に据えられていますが、労働経済学が分析対象とする雇用や業務遂行の際の選択を実験で明らかにできれば、さらに経済学は進歩しそうな気もします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、すでにそういった研究は進められていそうな気もします。

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次に、淵田康之『キャッシュフリー経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研のベテラン研究員であり、著者が野村総研から出している主要なリポートの一覧が野村総研のサイトに示されています。本書のテーマは、今年5月27日付けの読書感想文で取り上げたロゴフ教授の『現金の呪い』の理論的な面を背景に、日本の現状に合致するように取りまとめてあります。というのも、買い物の決済でキャッシュが占める比率は日本ではとても高く5割ほどに達します。銀行預金が大好きな点と併せて、日本人のひとつの嗜好を示しているような気がします。米国では買物のキャッシュ支払比率は2割に届かず、カード払いが半分ほどに上ります。また、1000ドル札のような超高額紙幣はないものの、日本で1万円札が市中で何の問題もなく流通するのもやや不思議です。名目値でほぼ等価の米国の100ドル札は、少なくとも私の経験では、首都ワシントンのスーパーマーケットでとても使い勝手が悪いです。もちろん、米国の100ドル札はいわゆる法貨ですから、受け取ってもらえないことはあり得ないんですが、ホンモノの100ドル札であることをチェックするのに、やたらと手間取り時間もかかります。ロゴフ教授の主張するキャッシュレス化の利点はマネー・ロンダリングなどの不正対策や金融政策の効率化だったんですが、本書では4点指摘しており、第1にそもそも紙幣やコインを製造するコストの削減、あるいは、偽札や盗難などのリスクの減少、第2に銀行ATMでの現金引き出しやスーパーの支払いの場での小銭の勘定などに費やす時間の短縮、第3にストレスない快適な買い物の実現、第4にマネー・ロンダリングや不正送金の防止などを上げています。さらに、日本の現状にかんがみて、例えば、インバウンド消費の支払いにおけるキャッシュフリー化などの利点も論じていますし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた課題ともいえます。キャッシュ大国である、当然に、その逆から見て、キャッシュフリー後進国である日本の実情に即して、どのようにキャッシュフリー化を進めるかにつき、政府や日銀の政策面も批判的に紹介しつつ、現実的な対応を議論しています。

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次に、大島隆『アメリカは尖閣を守るか』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。国際報道のキャリアが長く、米国駐在経験もあるようです。ということで、本書のタイトル通りの内容について、米国のサイドから公開されている公文書などを渉猟して明らかにしようと試みています。というのも、オバマ前政権も現在のトランプ政権も、尖閣諸島における我が国の施政権を認めていて、我が国の施政権の及ぶ範囲は米国の防衛義務が及ぶと明らかにしていますので、本書のタイトルに対する回答は yes でしかあり得ません。そして、その yes である根拠を時代をさかのぼって明らかにしようと試みているわけです。もちろん、その背景には米国ファーストで、同盟国に対して応分の負担を求める発言を繰り返すトランプ大統領の存在があります。さかのぼるのはサンフランシスコ平和条約と同時に署名された日米安保条約です。でも、沖縄返還時の交渉経緯も重要です。ただし、この沖縄返還までは日米のほかのもう1国の当事者である中国とは、台湾の中華民国政府を意味していたのに対し、現在では北京の中華人民共和国の共産党政権となっています。そして、忘れてはいけない点は、本書でも何度も繰り返されている通り、尖閣諸島の領有権については米国は態度を明らかにせず、関係国で話し合いをすべき、という原則であり、尖閣諸島についても領有権に対する態度があいまいです。ただ、尖閣諸島の施政権については日本が有していることを認めており、従って、日本の施政権の及ぶ範囲で日米安保条約に基づく防衛義務が発生する、という立場です。ですから、本書では明記していないものの、竹島については韓国が実効支配していることから、日本の施政権を米国が認めない可能性が大いにある点は留意しておかねばなりません。おそらく、バックグラウンドで大量のドキュメントを消化している割には、出て来た結論はありきたりな気もしますが、バックグラウンドの確認努力を評価すべきなのかもしれません。

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次に、遠藤雅司『歴メシ!』(柏書房) です。著者は歴史料理研究家だそうで、本書では、最古のパン、中世のシチュー、ルネサンスの健康食、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会などなど、オリエントから欧州にあった8つの時代の歴史料理を検証し、現代人向けのレシピにまとめています。第1章 ギルガメシュの計らい では古代メソポタミアを、第2章 ソクラテスの腹ごしらえ ではいわゆる古典古代のギリシアを、第3章 カエサルの祝勝会 ではローマ帝政期を、第4章 リチャード3世の愉しみでは中世イングランドを、第5章 レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房 では中世イタリアを、第6章 マリー・アントワネットの日常 と 第7章 ユーゴーのごちそう会 ではでは革命期のフランスを、第8章 ビスマルクの遺言 では統一期のドイツを、それぞれ取り上げています。フランス革命までは料理人といえば、我が国の「天然平価の料理人」ではないですが、王宮や貴族のお抱えで料理を作っていたものの、革命により貴族が没落し、その料理人がパリ市内でレストランを開いた、ということのようです。私は料理はまったくせず、しかも、つくるほうだけでなく食べる方でも、グルメでも何でもなく、食事とは栄養の補給くらいにしか考えていません。ですから、長崎大学経済学部の教員として単身赴任していた折にも、鍋釜はもちろん、コップや皿などの食器すら宿舎に持っておらず、朝食の際にパンをミルクで流し込むほかは、大学生協などでの外食か、そうでなければ、弁当を買い求めていました。不健康な食生活でしたので、よく体を壊していましたし、2009年にメキシコ発の豚インフルエンザが我が国でも流行した際には、しっかりとり患して長崎でも流行の最先端ではなかろうかといわれたくらいです。ですから、いろんな料理のレシピを見ても実感が湧かないこと甚だしいんですが、お料理の好きな人は実際に作ってみようかと考える向きも少なくないような気がします。次の『和菓子を愛した人たち』と同様に、フルカラーの写真が満載です。

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次に、虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』(山川出版) です。虎屋のサイトで2000年から連載されてきた歴史上の人物と和菓子の内容を書籍化したものです。どうでもいいことながら、オールカラー300ページほどで税込み2000円弱というのは安いと思います。もっと、どうでもいいことながら、我が家の倅たちが幼稚園くらいのころに、絵本を買う場合、イラストだと安かったんですが、写真だととたんに高価になった記憶があります。上に見える表紙画像は川崎巨泉の饅頭食い人形なんですが、こういった写真がフルカラーで収録されています。ということで、もともとのサイトからの転載が中心ですから、タイトル通りに、原則2ページくらいの細切れながら、歴史上の著名人と和菓子の関係を明らかにしています。冒頭は紫式部から始まっています。フルカラーですから、和菓子の色彩上の利点なども手に取るように明らかで、谷崎潤一郎が引用している夏目漱石の言葉で、羊羹の色に対比して洋菓子のクリームの色は「あさはか」と表現されています。ただ、やや勘違いもあるような気もしますし、虎屋文庫がおおもとになっているので、虎屋で扱っていないタイプの和菓子が含まれていないという恨みもあります。上の表紙画像にしても、私は和菓子というよりは中国風の印象なんですが、どうでしょうか。また、本書冒頭の紫式部にしても、当時の文化を背景に考えれば、洋菓子のシュークリームがあるわけではなく、国風文化の下で中国の影響すら薄いわけですから、和菓子が好きだったというよりは、甘いもの、現在の言葉でいえばスイーツが好きだった、ということなんでしょう。鎖国下の江戸時代もチャプターひとつを占めていますが、同様だという気がします。また、唐菓子がよく取り上げられている気がして、和菓子との境界につきやや疑問が残ります。

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次に、本格ミステリ作家クラブ[選・編]『ベスト本格ミステリ 2017』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブの創設が2000年で、その翌年の2001年から編まれている短編集の2017年版です。収録作品は、天野暁月「何かが足りない方程式」、青崎有吾「早朝始発の殺風景」、西澤保彦「もう誰も使わない」、似鳥鶏「鼠でも天才でもなく」、井上真偽「言の葉の子ら」、葉真中顕「交換日記」、佐藤究「シヴィル・ライツ」、青柳碧人「琥珀の心臓を盗ったのは」、伊吹亜門「佐賀から来た男」、倉狩聡「もしかあんにゃのカブトエビ」の短編と評論が1編となっています。極めて論理的に謎が解き明かされる「早朝始発の殺風景」、また、なかなか上手に騙してくれる「交換日記」などが私の感性に合致した気がします。2段組みの小さな活字で、資料編も合わせれば500ページ近いボリュームなんですが、さすがの作家陣の短編作品ですので、私はとてもスラスラ読み進むことができました。

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最後に、米澤穂信ほか『短編学校』(集英社文庫) です。このブログでも読書感想文に取り上げた記憶がありますが、同じ集英社文庫から出版されている『短編少女』や『短編少年』といったシリーズの最新刊ではないかと思います。収録作品は、米澤穂信「913」、本多孝好「エースナンバー」、中村航「さよなら、ミネオ」、関口尚「カウンター・テコンダー」、井上荒野「骨」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」、吉田修一「少年前夜」、辻村深月「サイリウム」、山本幸久「マニアの受難」、今野緒雪「ねむり姫の星」の10作品となっています。 短編集にもかかわらず、なかなか深い作品が多かったような気がします。でも、こういったアンソロジーの常として、10本もの収録作品があれば、2-3は既読である可能性があります。まあ、既読の作品数が多いということは、それだけ残念という意味ではなく、読書家の証なのかもしれません。

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2017年9月 9日 (土)

今週の読書は直木賞受賞の佐藤正午『月の満ち欠け』ほか計7冊!

今週もまたまたオーバーペースで、やや読み過ぎた気がします。話題の経済書もありますが、今週の読書の目玉は何といっても直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』です。私は村上春樹の好きなハルキストですが、最近の小説ではダントツだった気がします。以下の7冊です。

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まず、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋) です。著者はオランダ人のジャーナリストであり、広告収入にまったく頼らない「デ・コレスポンデント」の創立メンバーの1人だそうです。2014年に出されたオランダ語の原書は自費出版に近かったらしいんですが、アマゾンの自費出版サービスで英語に訳されると、今年2017年には世界20か国での出版が決まったといいます。英語のタイトルは Utopia for Realist となっています。ということで、本書の邦訳の副題は『AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』となっていますが、決してAIやロボットとの競争だけを視野にしているわけではなく、特に格差についてその解消を目指していると考えるべきです。英国の有名なスピーナムランド制をはじめとして、カナダやインドなどで実施され、社会実験レベルのものまで含めたベーシック・インカムの効果に関する文献をひも解き、ベーシック・インカムが決して勤労を阻害したり、怠惰を招いたり、といった事実は観察されず、むしろ、貧困や格差の是正に役立っている点を強調しつつ、その上で、産業革命期から1980年代まで一貫して減少を示した労働時間が上昇に転じ、しかし、そういった中でも労働生産性は上昇を続けている、という事実を説得力ある方法で示しています。また、ありきたりな国民総幸福量、ブータンの例を引きつつ、こういった幸福度指標については明確に否定しています。ケインズの週15時間労働の予言にも触れつつ、正統派の経済学に基づいた方法でベーシック・インカムの利点を展開し、同時に、本書の終盤では国境を開放して自由な個人の行き来を推奨しています。決して、グローバル化を格差の原因として排除する議論には与していません。これも、正統派の経済学に立脚した議論といえます。ラッダイト運動の歴史に言及しつつ、AIとの競争には勝てないことを明言し、その意味では「敗北主義」っぽく見えなくもないんですが、私から見ればリアリストなんだろうと思えます。マルクス・エンゲルスのような左派経済学者に加えて、ケインズなどの正統派エコノミスト、さらに、ハイエクやフリードマンなどの右派まで幅広く引用して、左右両派のどちらからも支持されているベーシック・インカムの利点を浮き彫りにしています。AIによる職の代替可能性からベーシック・インカムが議論されることが多いんですが、あくまで私の信頼厚い左派からする議論かもしれませんが、格差是正まで含めて幅広い議論に資する良書だと思います。

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次に、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大社研教授であり、専門分野は労働経済学や人事制度などであると私は認識しています。私は景気循環や開発経済などの中でも、マクロ経済を専門分野とするエコノミストであり、労働経済学とか、人的資源管理論とかのマイクロな分野は専門外なんですが、本書でも紹介される初歩的なミンサー型の賃金関数は推計して研究成果として取りまとめたことがあります。ということで、タイトルから勝手に想像して、マイクロな人事制度、すなわち、人事評価やそれに基づく人事異動による個々の労働者・雇用者の配置、さらに、評価に基づく職階とそれに連動する賃金水準の決定に関する議論を期待していたんですが、私の期待は裏切られました。わずかに関連するテーマは第4章の人事採用、それに、中間管理職の貢献の計測に関する議論だけでした。まあ、そうなんでしょうね。今話題の女性活躍推進、働き方改革、高齢化対応などのほか、定着率の向上などの人的資源管理に関するトピックが中心で、その前提として統計的・計量的な分析手法に関する簡単な解説などがあります。本書冒頭では、人事についてはいわゆるPDCAが回っていないと断言されており、人事に集まるデータを統計的・計量的に分析することにより、人事の過大に対応しようと試みています。ただ、先月8月26日付けの読書感想文で取り上げた山口一男『働き方の男女不平等』についても同じことを書きましたが、個々人の能力や生産性、あるいは、家庭環境などもひっくるめて人事で評価し最適な人事配置を行うことは、現在のシステムでは不可能と私は考えています。だからこそ、役所ほど典型的ではないとしても、大手企業などでは入社年次で管理されて来たわけであり、別の言葉でいえば、横並びで人事管理され、特に、大卒総合職の場合はゼネラリストとして、会社や役所などの組織にメンバーシップ参加し、無限定に指定された役割をこなす、という人事制度がまかり通って来たわけです。しかし、他方で、本書の p.237 で指摘されている通り、ゾクセイ、ニーズキャリアなどが大きく多様化し、単純な相対比較が難しくなった現時点で、どのような人事評価制度の下で評価を下し、各個人の適性や能力や生産性やその他の属性に従って、職階を上らせたり、あるいは、下らせたり、また、どういった役割でどの職場に配置するか、の労働力の最適配置論を考え直すべき時期に来ている気がします。もちろん、マイクロな人的資源管理論から派生して、マクロの経済社会全体の生産性やその生産性に基づくマクロ経済の成長や、さらにさらに、で、人口問題の緩和・解消などまで視野に収めた議論は華々しくていいんですが、人的資源管理論の本来の役割である個々人の処遇のあり方をすっ飛ばして、いきなりマクロの議論をしても合成の誤謬を生じるだけのような気がします。従って、もう20年近くも前の邦訳出版ですが、ラジアー教授の『人事と組織の経済学』などと比べるとかなり見劣りします。もっとも、比較対象の相手のレベルが違い過ぎるかもしれません。ただ、人事部局に集まるデータをもっと活用した方がいい、という点については一般論としては大賛成なのですが、実際のデータ管理の運用は困難がつきまとうような気もします。すなわち、役所の人事部門などは「身内に甘い」との指摘を受けることがあったりするんですが、人事に関するデータや各種情報が人事部局には集まるわけで、それをどう使うかは考えどころです。「身内に甘い」といわれても従業員を守る姿勢を貫くのか、それとも、次は誰をリストラ対象としようか、という視点で活用するのか、人事としての情報活用の方向性も考えどころかもしれません。

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次に、ロバート H. フランク『成功する人は偶然を味方にする』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国コーネル大学ジョンソンスクール経済学教授であり、長らくニューヨーク・タイムズ紙で経済コラムを執筆しています。本書の英語の原題は Success and Luck であり、2016年の出版です。私もそうですが、うまく行けば自分の努力や能力を要因として上げ、逆に失敗すれば運が悪かったとか、他人の責任にする、というとても立派な人格的な傾向がある人は少なくありません。現在および少し前の阪神の監督について私の評価が芳しくないのはそういったところで、試合後の感想で、打たれた投手について「あそこは抑えて欲しかった」とか、打てなかった打者に対して「あそこは打って欲しかった」とかいう監督は私は決して評価しません。逆に、選手起用に関する監督自身の責任をアッサリと認めると潔さなんぞを感じます。同様に、本書では成功したケースでもご本人の能力や努力だけではなく、運の要素がかなりあることを認めつつ、失敗したケースでも成功のケースとの差は紙一重であり、運の要素で失敗に終わるケースが少なくない、という点を明らかにしています。同時に、政府などの公的部門が個人の効用や企業の生産活動に対して補完的なインフラを提供している点も強調しており、例えば、スピードの出る高級車を買っても道路が凸凹ではスピードを出してのドライブができないわけで、これらの点を総合して、成功した高所得者から累進的にガッポリと税金を取るべきである、と主張しています。そして、エコノミストの目から見てとても特徴的なのは、累進消費税を提唱している点です。私は不勉強にして知りませんでしたが、第2次大戦中にフリードマン教授も戦費調達の観点からその導入を提唱していたらしく、現在の我が国の消費税のように財サービスの購入時に税抜き価格に上乗せして消費者が業者に支払って、そのために、益税が出来たりする制度ではなく、収入と支出と貯蓄のバランスから支出額を算定して、それに対して累進的に課税するというシステムのようです。いずれにせよ、成功と不成功の間の差は大きくなく、しかも、現在のような勝者総取り方式で、小さな努力の差に対して大きな格差が生じかねない経済社会では、何らかの格差是正策が求められるのは当然です。最後に、成功と不成功を分ける要因として能力や努力ではなく、本書のように運を強調し過ぎると、努力しようとする意欲を阻害する可能性がありますが、現在の日本のように努力し過ぎて過労死したりするような社会では、もっとゆったり構えるというか、私は少しくらい努力を推奨しない意見があってもいいような気もします。ダメですかね?

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次に、アナスタシア・マークス・デ・サルセド『戦争がつくった現代の食卓』(白揚社) です。作者は編集者であり、本書のために2年半を調査に費やしたフードライターでもあります。ご亭主がキューバ人、ということはラテン人であり、お姑さんも本書に登場し、私の大使館勤務時の南米生活に照らしても食生活は豊かではないか、という気がします。本書では、特に、ネイティック研究所なる米軍ご用達の軍人向けの糧食などの開発研究所をはじめ、米軍と通常の我々一般人の食卓の関係をひも解くんだろうと期待して借りてみたんですが、もっと食品学、化学や生物学などの食品に関する学問、日本でいえば女子大にあるような食物学科のような学術的な内容が中心となっています。少し脱線すると、我が国の明治期に軍と食料ということでいえば、彼の文豪森鴎外も軍医として横槍片手に参加した脚気論争があります。白米だけで十分なカロリーが摂取できる一方で、脚気は何らかの病原菌に起因すると主張する森鴎外などの陸軍一派に対して、海軍は麦飯や白米まで精製しない玄米などにより、実証的に脚気を回避した論争です。もちろん、米軍でもその昔には同じような事件があったのかもしれませんが、少なくとも本書では関係ありません。軍人に供する食品に関しては、シュンペーター的なイノベーションの観点からして、食材、調理、包装を含めた輸送、などなどのイノベーションが考えられ、一般人食卓に供される食品と共通する部分も少なくありません。例えば、食材については米国人大好きなステーキについては、Tボーン・ステーキのような骨付き肉ではなく、成形肉の利用が始まったり、調理は保存食として従来からの塩漬け、燻製、干物などに加えて、宇宙食にも応用されたフリーズ・ドライの製法が発達したり、包装についてはナポレオン戦争期に開発された缶詰に加えて、レトルト・パウチのような空気を通しにくい包装が開発されたり、輸送については、もちろん、冷蔵・冷凍での輸送が可能になったり、と軍民共通のイノベーションがさまざまに紹介されています。ただ、第12章のスーパーマーケットのツアーで紹介されているように、軍民で共通している食品は30~70%にも上る一方で、具体的にそれほど一般読者向けの楽しく理解できる例が多くありません。私は女子大に設置されている食物学科が理系だということを大学に入ってから知って、少なからぬショックを受けたんですが、そういった理系の人向けの本だという気もします。私は国際派の公務員ですから、売国出張はついつい首都のワシントンDCが多くなるんですが、倅たちへの土産にはスミソニアン博物館の宇宙食のアイスクリームを買う場合が多いです。軍ではありませんが、こういった新しい食品のイノベーションが一般家庭の食卓に並んだりするんでしょうから、そういった楽しい実例がもっと欲しかった気がして残念です。

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次に、ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社) です。訳者あとがきのよれば、著者は米国ノースカロライナ州立大学の研究者であり、専門分野は進化生物学だそうです。英語の原題は Never out of Season であり、2017年今年の出版です。邦訳タイトル通り、プランテーション栽培されるバナナの話から始まって、ジャガイモ、キャッサバ、カカオ、というか、チョコレート、コムギ、天然ゴムなどなど、企業収益性の観点から植物や生物としての多様性を損なう形でのモノカルチャー化が進み、結果として、緑の革命などのように多くの人口のための食料生産には資することとなった一方で、病原菌やネズミなども含めた病害虫の侵食には弱くなり、極めて短期間のうちに緑の農場が茶褐色になってしまう被害をもたらす可能性が高まったリスクを指摘しています。繰り返しになりますが、緑の革命により、スーパーマーケットで消費者の食料の入手は容易になった一方で、殺虫剤や除草剤などの化合物に対する依存が強まったり、灌漑の必要が高まったりしたため、農村は収穫が増加して収益が増大した一方で、種子や農業機械や肥料などの化学品を購入する必要が高まり、同時に、支出も増加するという経済モデルに組み込まれる結果となった、と著者は指摘します。まあ、私のようなエコノミストからすれば、経済学が農学を支配するようになってめでたい、と考えられなくもありませんが、他方で、完全に人為的な世界である経済と自然との共存の思想が不可欠な農学との乖離に目をつぶらねばならない必要も生じたわけです。どちらが好ましいかは基本的な世界観、人生観、哲学によります。先の『戦争がつくった現代の食卓』にもありましたが、食品工業が生み出した加工食品にもそれなりの合理性はありますし、すべての食料生産を近代資本主義的に短期的な効率性だけを優先させて行うことは問題があるとしても、農業を自然のままにして餓死する貧困層を放置するのには忍びません。ということで、人類のそのコンポーネントのひとつであるところの多様な生態系の維持と、人類そのものの生存や種の維持と、両者が矛盾なき場合は問題ないものの、両者が両立しない場合には悩ましい問題が生じる可能性があります。そういった意味で、世界観や人生観などの哲学的な見方も含めて、考えさせられる本でした。

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次に、佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店) です。ご存じ、第157回直木賞受賞の話題作です。タイトル通り、生まれ変わり、あるいは、輪廻転生の物語ですが、そのバックボーンは明らかに熱烈なる恋愛小説です。ということで、私はこの60歳超のキャリアの長い人気作家の作品については、『鳩の撃退法』くらいしか読んでいないんですが、おそらく、この『月の満ち欠け』クラスの小説は日本文壇ではそうそう出ないような気もします。それほどの大傑作といえます。私の場合、読書の中でも小説の比重はそれほど大きくなく、経済書をはじめとする教養書や専門書の方が大きな比率を占め、さらに、小説の中でも好みで時代小説やミステリが多いものですから、純文学やこういった現代ものの大衆小説はそれほど読みませんが、完全にノックアウトされました。論評の前に、まず、私は自然の摂理のひとつとして、輪廻転生や生まれ変わりはあり得る可能性を否定しません。すべての生き物が生まれ変わって輪廻転生する、なんてことを主張するつもりは毛頭ありませんが、この小説にあるような動機も含めて、何らかの強烈な思いがあれば、生まれ変わりになって生命をつなぐこともあり得ますし、生命をつなげなければ幽霊になることもあり得る、とその可能性を全否定することはしません。まあ、レアケースなんだろうとは思います。他方で、私自身はそれほど強烈な思いを持っているわけではないので、生まれ変わりや輪廻転生をしないとは思いますが、さらに積極的にこれらを否定するために、浄土真宗の信者となって念仏を唱えるわけです。なお、一般的な用語ながら、輪廻転生から抜け出すことを解脱と定義しているのは広く知られた通りです。宗教から小説に戻ると、この作品と似た小説に東野圭吾の出世作である『秘密』があります。広末涼子主演で映画化もされました。これも、特定の人物の記憶をはじめとする人格が親しい他の人物に転移する、というストーリーです。しかし、『秘密』の場合は転移された方がその思いを振り払って自立して行くのに対して、この『月の満ち欠け』は何と4代に渡って思いを遂げるために生まれ変わりを繰り返します。というか、初代を別にすれば、生まれ変わりとしてこの世に現れるのは3代と数えることも出来ます。そして、原則として、同じ名前を引き継ぎ、とうとう東京ステーションホテルに現れなかった三角くんを思い続け、ラストにはその思いを成就するわけです。加えて、生まれ変わりはこの流れだけではなく、もう1人いることが強く示唆されます。ハッキリいって、これが衝撃のラストです。また、人間でない生まれ変わりの可能性も示唆されています。映画化されたら、私はぜひとも見たいと思います。

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最後に、NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』(講談社現代新書) です。昨年2016年9月25日に放送された同名のNHKスペシャルの取材結果です。タイトルからして、いかにも人口減少の問題点に着目しているように思ったんですが、どうも、原因が人口減少とは言い切れず、ハッキリしない現状の問題点もひっくるめて、地方の衰退全般を取り上げているように感じられ、やや焦点がボケているように受け止めました。日本創成会議が取りまとめて中公新書で出版された消滅可能性都市の中に東京23区で唯一登場した豊島区への取材から始まって、財政再生団体に指定された北海道の夕張市、夕張市がやや極端な例であるとして、一部の地方公共団体にて行政サービスの提供が放棄された例として、島根県雲南市、浜田市、京都府京丹後市などの取材の結果が明らかにされ、こういった行政サービスの提供停止は、決して一部の例外的な地方だけの問題ではなく、タイムスパンの長さは別にして、日本全体の問題に拡大しかねない、とのトーンで取りまとめています。注目の本であり、図書館の予約からかなり待たされましたが、どうも私には気になる点があります。繰り返しになりますが、人口減少だけでなく、あらゆる社会的な日本の問題点を、かなり恣意的な取材により極端な例を持ち出して誇張しているような気がしてなりません。京都出身で、長らく東京で公務員をしてきた私ですので、かなりバイアスのかかった見方しかできませんが、それでも、人口問題も含めて社会的に、あるいは、経済的には市場にて、政策の必要なく解決できる問題も少なくありません。おそらく、人口減少問題も政策の手当なしで反転する可能性が十分あると私は考えますが、問題は時間的な余裕です。人口減少が反転するにはとてつもなく長期を要し、その期間をもっと短縮するために有効な政策がある、という点については私も合意します。本書のタイトルの問題意識では人口を増加させれば解決できるような、誤った印象を持たされかねませんが、人口だけでなく、もっと根源的な問題があることを明らかにすべきではなかろうかという気がします。

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2017年9月 3日 (日)

先週の読書はかなりオーバーペースで経済書など計8冊!

先週の読書は、米国雇用統計が土曜日に割って入って、読書日で1日多かった一方で、ケインズものが冒頭に2冊並んでいますが、やっぱりマクロ経済学や開発経済学などの専門かつ好きな分野の読書が多かったものですから、かなりオーバーペースで8冊に達しました。以下の通りです。今週はもう少しペースダウンしたいと思っています。でも、直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』とか、昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていた東大社研の大湾教授の『日本の人事を科学する』なんぞが借りられたりしたもんですから、やっぱり、かなりのボリュームを読んでしまうかもしれません。

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次に、大瀧雅之・加藤晋[編]『ケインズとその時代を読む』(東京学出版会) です。著者はチャプターごとに大量にいたりするんですが、大雑把に、東大社研と日本政策投資銀行設備投資研究所とのコラボとなっているように受け止めています。例えば、政策投資銀行のサイトでは本書が研究成果として取り上げられていたりします。4部構成を取っており、第Ⅰ部 第一次世界大戦の帰結と全体主義勃興の危機 では、J.M.ケインズ『平和の経済的帰結』、J.M.ケインズ『条約の改正』とケインズ自身の2冊の後、E.H.カー『危機の二十年』とF.A.ハイエク『隷従への道』が取り上げられています。ハイエクの著作については、ケインズと比較対照される形で注目される場合もあるんですが、本書では西欧リベラルの同じグループの中に属し、やや左派と右派の違いだけ、といったトーンで並べられています。ただ、ケインズに着目した本ですので、ハイエクが後景に退いている印象はあります。当然です。第Ⅱ部 理論の展開 では、T.B.ヴェブレン『企業の理論』、A.C.ピグー『厚生経済学』、L.ロビンズ『経済学の本質と意義』がケインズ『一般理論』前史として、そして、J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から始まって、R.F.カーン『ケインズ「一般理論」の形成過程』、A.P.ラーナー『調整の経済学』、J.E.ミード『理性的急進主義者の経済政策』が『一般理論』と並んで紹介されています。『一般理論』前史のピグーについては、古典派経済学から脱して、何らかの経済的厚生を高めるための政府の介入に道を開いた、と評価されています。続く第Ⅲ部 1930年代の世界と日本 では世界的なファシズムの台頭と日本に着目し、J.M.ケインズ『世界恐慌と英米における諸政策1931~39年の諸活動』、高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』、石橋湛山『石橋湛山評論集』が取り上げられており、どうでもいいことながら、現在のリフレ派エコノミストの先達となった昭和初期の我が国エコノミストを取り上げながら、現在のリフレ派経済学を否定して、財政赤字削減をサラッと主張しているチャプターの著者もいて、少し笑ってしまいました。最後の第Ⅳ部 ケインズの同時代人 では、J.M.ケインズ『人物評伝』、フランク・ラムジーのいくつかの論文と著書、E.H.カーのソ連史研究が取り上げられています。ご本人のケインズを別にすれば、複数のチャプターで取り上げられているのはカーだけなんですが、リアリストの立場から国際政治における権力=パワーを軍事力、経済力、合意形成力の3要素から論じており、私のようなシロートにもなかなか参考になります。また、ソ連型の経済が崩壊した現時点からでは理解が進まないものの、中央集権的な指令型の計画経済という面ではなく、男女間を含めて平等の実現、自由と民主主義の新しい形、などなど、本来のマルクス主義的な社会主義の明るい未来に憧れていた20世紀前半期の西欧の雰囲気がよく伝わります。各チャプターの最後に参考文献が数冊明示されています。唯一疑問なのは、シュンペーターがまったく取り上げられていない点です。ハイエクも含めて、いわゆるブルームズベリー・グループやケンブリッジ・サーカス以外のエコノミスト・文化人も取り上げているんですが、なぜか、シュンペーターだけは無視されている印象です。ケインズと立派な同時代人だと思うんですが、理由はよく判りません。

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次に、根井雅弘『ケインズを読み直す』(白水社) です。著者は私の母校である京都大学経済学部の研究者であり、入門書をはじめとして何冊かの著作があると記憶しています。私の在学中は木崎先生が教えていた経済学史の担当ではないかと思います。ご出身大学が早大ですので、若田部先生と同じコースかもしれません。ということで、タイトル通りに、ケインズの足跡をたどったケインズ経済学の入門書です。通常の理解の通りに、ケインズ卿については卓越した経済理論家であるとともに、同時に政治的なアジテータでもあり、また、国内外を問わずに国際金融などの制度論に立脚した実務にも精通していた、ということになります。ケインズ卿については最初に取り上げられるべき『平和の経済的帰結』が第1次世界大戦後のドイツ賠償問題ですから、ケンブリッジ大学卒業後のキャリアはインド省で始めたとしても、エコノミストとしての活動は割合と地味なドイツ経済の分析から賠償能力を積み上げ、それを英国内外にパンフレットとして明らかにする、という活動でした。同時に、金本位制への復帰に際しての平価の設定、さらに、その後、第2次世界大戦では英国の戦費調達のために米国を説き伏せたり、戦後は現在IMFと世銀で結実した国際金融体制の整備に努力しましたが、実際には英国のケインズ案は、ことごとく米国のホワイト案に凌駕されつつも、重要な骨格はいくつか残した、という結論ではないでしょうか。その後、実際にケインズ経済学が実践され花開いたのはケインズの死後であり、国としても1960年代のケネディ政権以降の米国なんですが、この実務的なケインズ革命について本書では終章で「『未完』に終わった」と結論しています。すなわち、1970年代に入ってのインフレ高進からケインズ経済学への不審が高まり、特に、決定的だったのは、ノーベル経済学賞も受賞したシカゴ大学のルーカス教授によるケインズ反革命であり、貨幣数量説の装いを新たにしたマネタリズムなどとともに、先進国の経済政策のシーンからケインズ経済学をかなりの程度に駆逐した、との印象かもしれません。しかし、私の印象ながら、今はもう死語となった「混合経済」、すなわち、古典派的な自由放任経済を終えて、経済政策が積極的に雇用の拡大、完全雇用を目指す体制を整え、戦後の社会福祉を重視して国民の経済厚生を政府が積極的に支援するような経済政策運営に舵を切ったのは、何といってもケインズ経済学の功績です。ケインズ卿の意図したような政策運営にはならず、右派的・古典派的な経済学の巻き返しに何度も遭遇したという意味では、確かに、ケインズ革命は未完かもしれませんが、私のような官庁エコノミストの目から見て、政府が何とか経済成長を加速し雇用を増大させるという方向で国民の経済的厚生の向上に努めるようになったのはケインズ経済学を基礎とする政策論の功績であると考えます。

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次に、森田朗[監修]/国立社会保障・人口問題研究所[編]『日本の人口動向とこれからの社会』(東京大学出版会) です。著者人はまさに国立社会保障・人口問題研究所の研究者で固めていて、専門家がズラリと並んでいます。出版社から判断しても、学術書と考えるべきですが、最後の方の第12章のシミュレーションなどの方法論のごく一部を除いて、人口問題ですから少子高齢化以外の何物でもなく、それなりに理解ははかどりやすいんではないかと思います。ただし、研究所の攻勢からして、社会保障や財政との関係をホンの少しだけチラリと論じているほかは、ほぼほぼ人口問題をそれ単独でユニラテラルに論じていますので、逆に判りにくい気もします。フランスのアナール派やジャレド・ダイアモンド教授のように病原菌と論じてみたり、あるいは、地理学と関連付けたりといった工夫は見られません。ひたすら過去のトレンドから投影された未来を垣間見ようと努力している様子がうかがえます。経済はかなりの程度に循環するんですが、人口動態はかなりの程度にトレンドに沿って動きます。もっとも、第Ⅱ部のライフコースの議論では、ヒトの個体たる人口だけでなく、社会的な構成要素のもっとも小さい単位である家族のあり方、さらに、人口高齢化に従って高齢者に有利な政策選択が行われがちなバイアス、などなどについても取り上げていますし、第Ⅲ部では日本に限らずシンガポールや韓国、台湾などのアジア諸国における猛烈な高齢化の進展についても解き明かそうと試みています。まあ、私の個人的な感想では、マルサス的な人口問題は人口と農地や耕地の比率が人口を養う上でやや厳しいアジアにこそ当てはまる可能性が高いんではないか、という気がしますし、従って、中国の一人っ子政策をはじめとして、シンガポールなどでも厳しい人口抑制作を採用していた歴史があるのも理解できるところです。日本もそうかもしれません。そういったアジアからの移民が欧米で黄禍論を引き起こしたりしたわけなのかもしれません。ただ、日本の場合はマクロとしての人口の総数ではなく、子供や若年者に厳しく、高齢者に甘い政策を意図的に取り続けてきましたので、中国やシンガポールなどとともに、明らかに政策的に人口の高齢化、さらに、人口減少がもたらされている点は見逃すべきではありません。せも、そういった議論を国立の研究所が展開するのも難しい、という点についても、公務員として理解していたりします。最後に、私も大学教員として出向中に書いた紀要論文「子ども手当に関するノート: 世代間格差是正の視点から」でも引用した Lutz et. al. (2006) による Low-Fertility Trap Hypothesis に関する論文が複数のチャプターで引用されていました。私は紀要論文で p.175 の Chart 1 を引用した記憶があります。

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次に、マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋) です。昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者はノンフィクション・ライターであり、特に売れたのは『マネー・ボール』ではないでしょうか。映画化もされましたし、私も読んでいたりします。本書の英語の原題は The Undoing Project であり、邦訳書の p.348 で「事実取り消しプロジェクト」と訳されています。2017年の出版です。ということで、その『マネー・ボール』に関する書評から行動経済学に関する関心が芽生えたようで、本書では主としてトヴェルスキー&カーネマンを中心に据えて行動経済学の歴史を、特に黎明期の歴史をひも解いています。記憶の不確かさ、あるいは、記憶の操作可能性から始まって、判断や意思決定の際の心理的アルゴリズムの解明、そして最後は有名なプロスペクト理論の発見のきっかけや平易な解説を展開しています。その前段として、トヴェルスキー教授も、カーネマン教授も、どちらもユダヤ人ですから、ナチスによるホロコーストにも触れていますし、中東戦争の記述もかなり生々しく感じられます。また、特にセンセーショナルな書き方ではなく、エコノミストであれば誰もが知っている一般的な事実ではありますが、トヴェルスキー教授の攻撃的だが水際立った知性とカーネマン教授の重厚だが慎重かつ少し進みの遅い知性を比較していて、さらに、愛煙家であり1日2箱の煙草を灰にしたカーネマン教授が生き残ってノーベル賞を授賞された一方で、嫌煙家であったトヴェルスキー教授が悪性腫瘍で早くに亡くなった事実も、それほど対比を鮮明にさせることなく淡々と跡付けています。そして、2人の心理学的な発見が、まず、医学に応用され、その次に経済学で注目され、結果的に、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したわけです。終章のタイトルが「そして行動経済学は生まれた」とされていて、ある米国ハーバード大学教授の言葉として、「心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者のことをばかだと思っている」というフレーズを引用しています。最後は、カーネマン教授にノーベル委員会からと思しき電話がかかる場面で終っていますので、セイラー教授らによるその後の行動経済学の発展は、それほど重視されていません。まあ、経済学史の本ではないんですから、そうなのかもしれません。私自身は何らかの理論や実証で功績あった経済学者の生まれや育ちや性格などについては、それほど大きな興味あるわけではありませんが、映画にもなった『ビューティフル・マインド』のナッシュ教授の生涯などとともに、経済学に多くの人々の関心を引きつける効果がある、という意味で、こういった本の効用も十分評価しているつもりです。

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次に、ショーン B. キャロル『セレンゲティ・ルール』(紀伊國屋書店) です。著者はウィスコンシン大学マディソン校の進化生物学の研究者ですが、本書は進化生物学の本ではなく、むしろ、生物多様性に関する食物連鎖・栄養カスケードに関する理論と実践に関して、ポピュラー・サイエンスとして取りまとめられています。舞台はアフリカはタンザニアにあるセレンゲティ国立公園です。タンザニアの北部、ケニアとの国境に近い地域で、従って、ビクトリア湖のすぐそばに位置する哺乳類の多様性に富む地域です。世界遺産に指定されています。そして、本書の第Ⅲ部第6-7章において、本書のタイトルであるセレンゲティ・ルールを6点に渡って取りまとめて提示しています。専門外のシロートである私なりの解釈なんですが、一般的に食物連鎖と呼ばれている流れを本書では栄養カスケードと称していて、要するに、ネコ科の肉食獣がシカなどの草食獣を捕食し、そして、草食獣は草木を食べる、という構造です。そして、本書では二重否定の構造を持ち込みます。すなわち、イエローストーンでヘラジカが増えすぎた場合、日本でもよくありますが、シカやイノシシが増えて農作物が被害にあうケースでは、日本ではヒトが猟銃をもってイノシシなどを直接に駆除する一方で、イエローストーンではシカを捕食するオオカミを放った、という例が紹介されていて、そうすると、当然に、オオカミはヘラジカの一種であるエルクを捕食しますから、エルクそのものが個体数を減少させる一方で、エルクが食べつくしていたポプラの成長が促進される、という2段階目の効果が発現します。これを本書では二重否定と呼んでいます。そして、本書のもうひとつの特徴は、こういったオオカミエルクとポプラといったマクロの連鎖、もちろん、地球規模のマクロではないにしても、日本でいえば都道府県くらいの大きさの地域のマクロの栄養カスケードや生態系に見られる現象を、何と、マイクロのレベルのガンになぞらえている点です。物理学などでマクロの宇宙論とマイクロの原子や分子に関する理論に類似点を見出す方法論も見かけたりしますし、生物学でも生物の集団であるマクロとマイクロな個体にそういった類似点を例示しることもあり得るんでしょうし、何よりも、それなりにポピュラー・サイエンスとして私のようなシロートの一般大衆の理解を促進もするんでしょうが、私の目から見て、少なくともマクロの生態系の攪乱をマイクロな生物個体や遺伝子レベルのガンに例えるのは、ややムリがあるような気もします。少なくとも、エコノミストの世界では合成の誤謬があり、マイクロな世界を足し上げて行ってもマクロな世界にはなりません、というか、ならない場合があります。たっだ、エコノミストの目から見て興味深かったのは、マルサス的な『人口論』の世界が密度依存調整により否定されていることです。p.204 あたりです。マルサス的なくらい将来像は技術革新により克服される、というのが私のような平凡なエコノミストの一般的理解ですが、そもそも、個体密度が増加すれば個体数の増加率はマイナスに転化する、というのは、それはそれとしてあり得ることですし、生物学的に明らかにされていることは、とても参考になりました。

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次に、又吉直樹『劇場』(新潮社) です。話題の作者の芥川賞受賞後第2作目の小説です。東京を舞台に演劇人である主人公の永田と、永田の恋人の沙希、さらに、中学のころから永田とともに演劇を続けてきた野原、さらに、永田・野原の劇団からスピンアウトしてライターとしても一定の成功を収めた青山という女性、さらにさらにで、別の注目劇団を主宰する小峰などなど、かなり限られた登場人物なんですが、永田と沙希の愛の行方がストーリーの中心となります。なお、永田・野原のコンビは関西人で、この作者の前作「火花」と同じで関西弁でしゃべります。そして、主人公である永田の行動のターニング・ポイントとなる感情は嫉妬です。嫉妬が怒りに転じて、そして人間関係が壊れて行くような気がします。「本音と建前」という言葉がありますが、決して本音を隠してうわべだけの建前で人間関係を築いて、大人の付き合いを進めるのが上品だとは決して思いませんが、本音をさらけ出して人間性の底の底まで理解し合えないというのも、少し問題ではなかろうかという気もします。その意味で、本書の主人公の男女関係、劇団や演劇関係者との人間関係については、私も理解できる部分と理解を超えている部分があります。ただ、前作と違って嫉妬というテーマがかなり露骨に現れていて、その分、決して上品ではない可能性もあるものの、作者の魂の叫び、とまではいわないまでも、誠に正直に書き綴っている気もします。何かのメディアで報じられていましたが、「火花」よりもこの作品の方を先に書き始めていた、という情報もあり、ある意味で、作者の第1作のようでもあり、言葉は悪いかもしれませんが、第1作目のつたなさのようなものが感じられるかもしれません。また、純文学ですから、文体や表現力はかなり上質といえますが、ストーリーを追うものではありません。主人公である20代の男女間の恋愛の進行はかなりつまらない、と感じる読者も多そうな気がします。

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次に、タンクレード・ヴォワチュリエ『貧困の発明』(早川書房) です。私はよく知らないんですが、作者はフランスのエコノミストであり、小説家だそうです。私はフランス語には決して詳しくないんですが、スペルは Voituriez であり、もしも、最後が z で Voiturier であれば、英語でいえば Valet Parking の意味であり、私はフランスはパリしか知りませんが、パリ市内でも何度か見たことがあります。ということは別にして、本書はあくまでフィクションの長編小説であり、ピケティ教授が「今までに読んだいちばん可笑しな小説」と評価したと出版社のサイトでは紹介されています。フランス語の原題は L'Invention de la Pauvreté であり、邦訳タイトルはそのまま直訳されています。タイトル通りに貧困をテーマにしていますが、先進国内の貧困ではなく、途上国の貧困、あるいは、経済開発を主題にしています。主人公は世銀チーフエコノミストにして、国連事務総長の特別顧問でもあるプリンストン大学教授のロドニーです。誠に僭越ながら、私と専門を同じくする開発経済学者です。ここまでの肩書からは、ノーベル経済学賞も受賞したスティグリッツ教授が強く連想されるんですが、そうでもないようです。フィクションのフィクションたるところです。でも、国連事務総長ドン・リーは韓国人の設定で、そのモデルは、明らかに、前国連事務総長の潘基文ではないでしょうか。そのほか、国連、世銀、国際通貨基金(IMF)、また、組織ではなく会議名ですが、ABCDE会議など、ほぼほぼ実在の名称をそのまま流用している印象です。エロ・グロ・ナンセンスの部分は別にして、開発経済学を専門分野のひとつとする私から見ても、確かに開発経済学にはいくつかの考え方があり、『エコノミスト 南の貧困と闘う』の著者であるイースタリー教授のように市場メカニズムを活用して、途上国の国民のインセンティブに基づく行動に期待するエコノミストもいれば、サックス教授に代表されるように、先進国からの開発援助などを活用しつつ、公的部門も関与した形でのビッグ・プッシュを重視する開発経済学者もいっぱいいます。実は、私は後者の考え方に近かったりします。冒頭のバレー・パーキングは別にしても、開発経済学のいくつかの考え方を背景知識として持って読めば、さらにこの小説が楽しめるかもしれません。あるいは、私のように、少しだけ不愉快さが増すかもしれません。

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最後に、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書) です。著者は証券会社のエコノミストから学会に入り、埼玉大学から法政大学教授に転じているようです。ということで、相変わらず、独特の長期的な歴史観を披露しているんですが、ヒストリアンとしてその歴史の底流に流れる法則性が感じられずに、私はいつも戸惑っています。従来と同じように、1970年代のルイス的な二重経済の消滅と石油ショックなどにより、我が国を含めて戦後先進諸国の高度成長が終了し、1970年代からゆっくりと時間をかけて低成長と低金利に象徴されるように資本主義が終焉する、そして、中世的な停滞の定常状態の時代が来る、というのが著者の見立てです。ただ、資本主義の勃興については大航海時代のイノベーションにより、世界が広がり英蘭が覇権を掌握した、ということに本書でもなっているんですが、それがなぜなのか、そして、成長率や金利が低下して資本主義が終焉するのはなぜなのか、加えて、産業革命の位置づけについてもほとんど無視されており、私には疑問だらけです。資本主義が終焉して中世的な定常状態に戻る、という史観ですから、基本的には循環史観だと思うんですが、おそらく、著者の歴史学に関する素養からして、そういった歴史観の確立があるのかどうか疑問であり、歴史的な事実を跡付けて、室町幕府の後は戦国時代になって、全国統一を果たした織豊政権から徳川が江戸幕府を確立する、それはなぜなのか、よく判らないながら、そうなのだ、といっているに等しい気もします。蒐集=コレクションについては、その基礎となっている生産活動について何も見識がないので、どこかで湧き出た蒐集対象品を持ち出す、という以外の感触はありません。基本的に私の歴史観はマルクス主義に近いんですが、ほぼほぼ一直線に生産力が増加するという単純な歴史観で、その生産力の桎梏となる生産システムが革新される、場合によっては土地や生産手段=資本の所有制度の変更も歴史を動かす原動力になる、という意味で、ノース教授らの制度学派にも近いかもしれない、受け止めていますが、この著者の歴史観はまったく理解できません。その上、閉じたvs開いた、資本主義、帝国などの用語がかなり感覚的に、そして、キチンと定義されずに並べられていて、もう少し読者の理解を助ける工夫も欲しい気がします。

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2017年8月26日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!

今週は夏休みからお仕事に復帰して、それでも8月ですので、やや時間的な余裕もあり、7冊とついついオーバーペースになってしまいました。新書や文庫を含みますので、それほどのボリュームでもないんですが、来週はもう少しセーブしたいと思います。

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まず、山口一男『働き方の男女不平等』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国シカゴ大学社会学教授ですが、研究内容はほとんど経済学といって差し支えありません。本書では、タイトル通り、男女間の労働市場における差別についてモデルを用いた理論分析と実証分析を行っています。基本的には、労働供給サイドではなく、企業側の女性労働の需要サイドの研究なんですが、途中で少し私も混乱を来してしまい、時間当たり賃金率なのか、時間当たり賃金率に労働時間を乗じた所得なのか、もしも後者であれば、単に女性を長時間働かせればOKということかもしれません。ただ、最終第8章で著者の考えが最後の最後に明らかにされるんですが、生産性と比較した賃金の機会の平等を考えるのであれば、統計的な差別を含めて、企業サイドの女性労働値の差別的取扱いに従って、機会の平等を確保しつつ結果の平等を達成できない事態が考えられるとした上で、結果としての平等を追求すべき著者の考えが明らかにされます。ホントの適材適所を実現し、性的な差別のない雇用環境を整え、各人が生産性や適正に従った労働を実行し、その労働に応じた賃金を受け取る、というのは確かに理想かもしれませんが、現在の制度学派的な思考の下では、ハッキリいって、労働や雇用の課題ではありません。所得はもちろん、ワークシェアリングを含めた分配の課題と考えるべきです。そして、理想の所得の分配が、理想的な労働や仕事の配分に基づいて実行されるかは、マルクス主義的に考えなくても、現行の制度下では実行可能かどうかは疑問です。ケインズの1日3時間労働とともに、のっとも理想的な雇用や労働の配分と所得の分配を実現するためには、現在の市場による資源配分ではない、別のシステム、ひょっとしたら、社会主義や共産主義かもしれませんが、たぶん、違うだろうと私は想像しています。そういった、別の次元を考える必要があるような気がしてなりません。

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次に、香取照幸『教養としての社会保障』(東洋経済) です。著者は厚生労働省、というか、厚生省出身の公務員で、現在はどこかの大使に転出していますが、小泉内閣のころに長らく官邸に詰めていたことを記憶しています。私もそのころ官邸勤務でした。ということで、タイトルからも理解できる通り、社会保障という場合、著者のように実務として関係する場合、そして、アカデミックな世界などで学問として関係する場合が多く、制度的に複雑なこともあって、身近な割には教養として接することはないような気もします。平易な表現とともに、国民各層が身近に接するマイクロな社会保障の面だけでなく、政府財政への影響なども含めたマクロの社会保障の両面を取り上げています。なかなかの良書だという気がしますが、難点もいくつかあります。まず、冒頭に社会保障に対する批判については教育の責任として文部科学省に責任を転嫁しています。私は冒頭のこの部分だけでかなり評価を落としているんではないか、と受け止めてしまいました。それから、ここまで社会保障を展開しているんですから、最近の話題としては人工知能(AI)やロボットの活用に伴うベーシック・インカムについてほとんど触れないのは、やはり、現時点での社会保障論としては物足りない気がします。

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次に、塚崎公義『経済暴論』(河出書房新社) です。著者は興銀の調査部から学界に転じたエコノミストのようです。実務家ご出身で大学院などのアカデミックな経歴ではありませんから、経済学部卒業ではなく法学部卒業だったりします。ということで、少し常識登攀するようないくつかの事実を平易に解説しています。ただし、私の目から見て、経済合理性に基づいて世間一般の常識と反する結果を導き出しているケース、例えば、埋没原価サンクコストの問題とか、組織への忠誠心と仕事のプロ意識のトレードオフとか、が取り上げられている一方で、行動経済学的な検知などから人間の非合理的な決定が世間一般の常識と反するケースを、特に区別せずに同一の「世間一般の常識と違う」というカテゴリーでくくっていますので、経済学的な素養があれば、逆に疑問に感じる場合もありそうな気がします。でも、本書の結論たる最終第6章の、特に、最後の数点の論点、すなわち、日銀が債務超過に陥っても問題ない、また、日本政府は破綻しない、あるいは、日本経済は労働力不足で黄金時代を迎える、などの論点は私もまったく同意します。ただ、黒田日銀の金融政策を「偽薬効果」と称しているのは、何らの根拠が示されておらずレッテル貼りに終わっているのが残念です。期待に働きかける金融政策に対する無理解が背景にあったりするんでしょうか?

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次に、有栖川有栖『濱地健三郎の霊なる事件簿』(角川書店) です。作者はご存じ関西系の新本格派ミステリの代表的な作者の1人です。法月綸太郎や綾辻行人など私の出身の京都大学ではなく、同志社大学のご出身だと記憶しています。この作品は作者あとがきによれば怪談という位置づけのようですが、依然、『幻坂』に2話ほど収録されてうぃた主人公を心霊探偵として前面に押し出して、事件解明に当たるミステリ風な短編を収録しています。オカルトものとして怪奇現象の解明や除霊などをするものとしては、櫛木理宇「ホーンテッド・キャンパス」がありますが、それほど心霊現象を全面に押し出したものではなく、心霊現象をヒントに実際の人間の犯罪行為を解明するというパターンが多かったような気がします。また、オカルト探偵といえば、エドワード D. ホックの作になるサイモン・アークがいますが、サイモン・アークは超常現象に見える事件ながらm実は物理法則に即した、というか、決して超常現象ではない事件を解明しますので、かなり違います。ということで、本書は、決して、殺された被害者の例から犯人を聞き出すという安直なミステリではなく、新本格の旗手の手になるミステリです。それから、次の真梨幸子のイヤミスとついつい読み比べて比較してしまうんですが、やっぱり、法月綸太郎とかこの作者の作品は文体がとても上品です。それだけ読みやすいともいえます。

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次に、真梨幸子『祝言島』(小学館) です。作者はイヤミスの女王のひとりであり、主として女のいやらしさを盛り込んで読後感の悪いミステリを書く作家です。とはいいつつ、私はかなりこの作家は評価しており、出来る限り新刊書を読もうと努力しています。本書は、作中では小笠原諸島の南端付近にあって、すでに地図からは抹消されているタイトルの島にまつわる物語ですが、主たる舞台は東京です。1964年の東京オリンピックの直前に祝言島の火山が噴火し、島民は青山の都営住宅に避難した、という設定になっています。そこから、40年余の後の2006年12月1日に東京で3人の人物が連続して殺され、未解決となっている「12月1日連続殺人事件」をからめて、独特の異様なストーリを紡ぎ出しています。ミステリである限り、殺人などの違法行為は当然に物語に含まれますが、この作品ではかつてのロボトミー手術などの集団による不法行為が盛り込まれており、その点にやや違和感を覚えました。また、トランスセクシュアルの存在も盛り込んでいますが、真梨作品としてはそれほどの出来とは思えませんでした。たしかに、グロテスクでエロの要素もあるんですが、私自身の読書の傾向として、ややロボトミーで読む気をなくした気がします。

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次に、吉川洋・八田達夫{編著}『「エイジノミクス」で日本は蘇る』(NHK出版新書) です。著者・編者は高名なマクロ経済学者ですが、野村総研や三菱総研のスタッフも執筆陣に加わっています。高齢化が進展して経済の将来に悲観的な見方が広がる中で、敢然とこの見方に挑戦し、高齢化をイノベーションの好機と捉え、日本経済の明るい先行きを示しています。具体的には、本書のp.30の図用に従って、財・サービスのイノベーション+制度のイノベーション×病弱な人+健康な人、2×2の4つのマトリクスに従って、以下第2章から5章まで4章に渡って各論が展開されます。基本的には、ベンチャー資本などによる新たな革新の方向性をかなり拡大解釈しているだけなんですが、やっぱり、こういったイノベーションに関するケーススタディでは、当然ながら、成功例ばかりがクローズアップされ、成功例の裏側にその数倍数十倍数百倍の失敗例が隠されていることが忘れられていることは覚悟しておくべきです。まあ、統計の分析とケーススタディの違いです。本書で取り上げられているイノベーションのシーズがどこまで現実に開花するかは私にも不明ですが、高齢化が決して経済成長にマイナスばかりではない、という点は特に強調されるべきであろうと思います。

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最後に、泡坂妻夫・折原一ほか『THE 密室』(実業之日本社文庫) です。推理小説の中でも、密室をテーマとしたアンソロジーです。収録作品は、飛鳥高「犯罪の場」、鮎川哲也「白い密室」、泡坂妻夫「球形の楽園」、折原一「不透明な密室」、陳舜臣「梨の花」、山村正夫「降霊術」、山村美紗「ストリーカーが死んだ」の7つの短編であり、作者の氏名の50音順で収録されています。それほどレベルは高くありませんが、それぞれに特徴的な密室事件の解明が図られています。江戸川乱歩などのその昔から、縁の下や屋根裏などのある日本家屋の特徴として、密室が成立しにくいといわれ続けていますが、それなりにバリエーションに富んだ短編ミステリを収録しています。ただし、繰り返しになりますが、それほどレベルは高くない上に、それほど新しくもないので、もっと本格的に密室を読みたい向きには、ナルスジャックと組む前のボアローの編集になる『殺人者なき6つの殺人』の方がいいかもしれません。もっとも、コチラもそれほどレベルは高くありません。

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2017年8月21日 (月)

集英社文庫の『明智小五郎事件簿』全12巻を読む!

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このお盆の夏休みまでに、集英社文庫から出版されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻を読みました。作者の没後50年を記念して、昨年2016年5月から刊行が開始され、今年2017年4月に完結しています。ひとつの特徴として、発表順ではなく、シャーロッキアンよろしく、事件発生の年月を特定し、その順番で並べてあります。ただし、戦後の少年探偵団モノは含まれておらず、戦前までの事件しか収録されていません。やっぱり、怪人二十面相や黒蜥蜴などとの対決作品が読ませどころです。ほとんど現実味のない荒唐無稽な犯罪行為などもありますので、小説向きというよりはテレビや映画向きのストーリーかもしれません。なお、最初の画像は12巻セットですが、私は近くの区立図書館で借りて、週末ごとに2-3冊ずつ読み進みました。

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2017年8月19日 (土)

今週の読書はややセーブして計5冊!

今週の読書は新刊書で以下の通り5冊です。ギリギリいえば、経済書はゼロのような気がします。なお、それほど新刊ではないところでは、集英社文庫から5月に全12巻が完結した江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』も読み切りました。これについては日を改めて取り上げたいと思います。

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まず、リー・ギャラガー Airbnb Story (日経BP社) です。著者は「フォーチュン」をホームグラウンドとするジャーナリストです。英語の原題そのまま邦訳のタイトルとしており、2017年の出版です。ということで、タイトル通りに、エアビー創業者3人、すなわち、美大出身者2人とエンジニア、というか、プログラマの3人です。推進派と抵抗派の葛藤にも十分な紙幅を割き、決して、新ビジネスを礼賛するにとどまらない内容で、バランスもよくなっていますが、まあ、基本は肯定派の立場だという気はします。シェアリング・エコノミーを考える場合、いわゆるシリコンバレーの4強、すなわち、グーグルとファイスブックとアップルが従来にないまったく新しいビジネスを立ち上げているのに対して、従来からあるビジネスをリファインしたアマゾンとも違って、その中間的なビジネスと私は考えています。ただし、従来からあるホテルに代替するエアビー、タクシーに代替するウーバーですから、アマゾンに近い形態かもしれません。まったく新しいビジネスを始めたグーグルやファイスブックは既存の抵抗勢力は殆ど無い一方で、アマゾンは従来の街の本屋さんをなぎ倒して成長しているわけですし、エアビーはホテルから競争相手と目されています。すなわち、かつてのスーパーマーケットのようなもので、パパママ・ストアからの反発はものすごいものがあった一方で、消費者からのサポートがどこまでられるかも成長の大きなファクターです。そして、グーグルやフェイスブックのようにブルーシーに悠々と漕ぎ出すのではなく、ロビイストを雇ったり、抵抗勢力に対抗する新興勢力を組織したりと、政治的な取り組みも必要とされかねません。そして、最後はマーケットを独占できるわけではなく、本書ではホッケー・スティックのような成長曲線と表現されていますが、実は、ロジスティック曲線で近似される成長曲線であろうと私は考えており、成長が鈍化するポイントはいつかは訪れます。現時点では1次微分も2次微分もプラスでしょうが、2次微分がゼロからマイナスになり、そして1次微分もゼロになる時期が訪れるかもしれません。当然です。その時にこれらのシェアリング・ビジネスがどう成熟しているかを知りたい気がしますが、私の寿命は尽きている可能性もあります。

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次に、豊田正和・小原凡司『曲がり角に立つ中国』(NTT出版) です。著者は経済産業省OBと海上自衛隊OBで、それぞれ経済や通商、さらに、安全保障の観点から現在の中国について現状分析と先行きの見通しを議論しています。安全保障の観点は私の専門外ですので、主として経済や通商の観点を見てみると、本書と同じように、私も中国はルイス的な転換点を越えて、従って、日本の1950-60年代のようないわゆる高度成長の時期を終えた可能性があると考えています。それを Gill and Kharas のように中所得の罠と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも、海外から技術単独かもしくは資本に体化された技術を導入し、資本の生産性を向上させるとともに、ルイス的な用語を用いれば、生存部門から資本家部門への労働の移動がほぼ終了し、従って、少し前までの低賃金の未熟練労働力が内陸部から無尽蔵に湧き出てくるわけではなく、労働の限界生産性と等しい賃金を支払う必要が出てきたため、チープレーバーに基礎を置く製造業が採算を悪化させている時期に達しています。ただし、ここは私は議論あるところではないかと思いますが、中国の現時点での政権の最大の眼目が共産党政権の存続であることから、すなわち、国民の最大福祉ではないことから、大きな矛盾を抱えることとなります。そして、実際にその矛盾が激化し始めたのは天然モン事件の後の江沢民政権であり、広範な支持基盤のなかった江沢民政権が党や軍などに汚職を許容したり、あるいは、国内問題から国民の不満の目をそらせるために日本などに無理筋の要求をしたりという筋悪の政治が始まります。そして、江沢民-朱鎔基コンビ、胡錦濤-温家宝コンビに比較して、現在の習近平-李克強コンビは習主席に大きな比重がかかりすぎている気もします。もちろん、いわゆる核心については、温家宝主席以外はみんな核心だったわけですから、大騒ぎする必要はないかもしれませんが、少なくとも経済と外交まで総理の李克強から取り上げるのは行き過ぎだという気がします。毛沢東と周恩来んのコンビよりもバランスが悪そうに見えます。そして、ひょっこりひょうたん島のように動けないわけですから、我が国は地理的にどうしようもなく中国の隣国であり、無理筋にも対応させられているのもどうかという気がします。米国のトランプ政権がほぼほぼ中国に無力なのも情けない気がします。

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次に、酒井順子『男尊女子』(集英社) です。定評あるエッセイストによる男女同権、もしくは、男尊女卑的な目線からのエッセイです。相変わらず、よく調べが行き届いた大学生のリポートのようにスラスラ読め、決して、それほど為になるわけではないものの、あるある感がとても強い気がします。もっとも、著者や私のようなベビーブーマーの後の世代くらいまでで、私の倅どものようなミレニアル世代には理解がはかどらない可能性もあるような気がします。ということで、男性に比べて女性が戦略的に、先より後、前より後ろ、上より下のポジショニングを取って、男尊女卑的な因習に従うふりをしつつ、実は、モテを追求しているんではないか、という視点を本書は提供しています。そうかもしれません。私は男尊女卑も男女同権もいずれも興味なく、というか、どちらにも与せずに、ケース・バイ・ケースで経済学的な比較優位の基礎に立って役割分担をすればよい、という能天気な考え方ですので、世の中の男性の平均ほどは男尊女卑的な考えに凝り固まっているわけではないと認識しています。ただ、同しようもないのが妊娠能力であり、これは生物学的な性別に依存します。それ以外は、絶対優位ではなく、比較優位に基づいて役割分担すればいいと考えています。もっとも、実は、最大の制約要因は時間の有限性、というか、平等性であって、等しく各人に1日24時間が与えられています。生産性や性別に何の関係もなく24時間なわけで、これが最大の役割分担の制約条件となります。ですから、ホントに比較優位に基づいて役割分担をすると、場合によっては1日24時間では不足する可能性もあります。最後に、どうでもいいことながら、私はマッチョでレディ・ファーストを女性に対して極めて慇懃無礼に実行しているラテンの国に3年余り赴任していた経験があり、逆に、フツーにアジアな国にも3年間の経験があります。どちらもどちら、という気がします。日本に生まれ育った私には日本の男女間がもっとも自然に接することができるのは当然かもしれません。でも、歴史の流れとして男尊女卑の程度が弱まって、男女同権の方向に変化する歴史的な流れは止められないと覚悟すべきです。

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次に、青山七恵『ハッチとマーロウ』(小学館) です。著者はご存知芥川賞作家であり、私は彼女の大ファンです。基本的に、清純派の純文学作品が多いんですが、『快楽』などで少し背伸びをしようとした跡も見られる一方で、この作品では児童文学に近い仕上がりとなっています。タイトル通りの通称で呼ばれる2人の小学5年生の双子姉妹を主人公に、小学5年生から6年生にかけての12か月をほぼほぼ毎月1章で語り切っていて、ハッチとマーロウが交互に1人称で語っています。大晦日にシングルマザーのママが、大人を卒業してダメ人間になると宣言し、お正月からウダウダしてパジャマを着替えることもなく過ごします。ミステリ作家のママは仕事はもちろんしませんし、家事はすべて双子がこなさねばならなくなります。なお、舞台はほぼ長野県穂高のようです。そういった中で、お正月を過ごし、バレンタインデーを過ごし、4月には風変わりな転入生を軸に物語が進み、7月にはママと双子は東京でバカンスを過ごしたりします。小学5年生や6年生が1人称で語っているんですが、さすがの芥川賞作家ですので表現力はバッチリです。私くらいのスピードで読んでも隔月で1人称の語り口を交代する双子姉妹の個性、というか、俗にいうところのキャラがとても明瞭に読み分けられます。タイトルの順番ですから、おそらむハッチが姉でマーロウが妹なんだろうという気がしますが、勝ち気でシーダーシップに富み、自分のポニーテールも切り落とすくらい行動的なハッチに対して、ややハッチからは後方に退き妹らしくハッチについて行くマーロウ、ただ、ママがダラダラしたダメ人間ですので、ややキャラが立ってない気すらしてしまいます。双子姉妹の父親探しが迎える結末もとても興味深く仕上がっていますが、エンタメ小説ではなく純文学ですので、オチは明瞭ではありません。それでも、作者の表現力の豊かさには驚かされます。

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最後に、伊坂幸太郎ほか『短編少年』(集英社文庫) です。7月9日付けの読書感想文で取り上げた三浦しをんほか『短編少女』の姉妹短篇集です。収録作品は以下の通りです。すなわち、伊坂幸太郎「逆ソクラテス」、あさのあつこ「下野原光一くんについて」、佐川光晴「四本のラケット」、朝井リョウ「ひからない蛍」、柳広司「すーぱー・すたじあむ」、奥田英朗「夏のアルバム」、山崎ナオコーラ「正直な子ども」、小川糸「僕の太陽」、石田衣良「跳ぶ少年」です。これは私が男性だから、そう感じるだけかもしれませんが、『短編少女』と比べて、少年の方はまっすぐで、少なくともホラー的な作品はなかったような気がします。ただ、『短編少女』と比べて、読んだことのある作品は少なかったように思います。新鮮な気持ちで読んだ差なのかもしれません。

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