2025年4月26日 (土)

今週の読書は経済書からミステリまでいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、コリン・メイヤー『資本主義再興』(日経BP)では、資本主義の危機の克服のためにビジネスのパーパスを重視し、問題の解決策を追い求め、それを実現することをもって行動原理とする、そのため、現実的には、会社法を然るべく改正する、という方向性を打ち出しています。トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)は、フランスの夕刊紙として世界的に有名な『ルモンド』紙に、ピケティ教授が2016年から21年初頭にかけて寄稿した時評コラムから44本を精選しています。三浦しをん『ゆびさきに魔法』(文藝春秋)は、ネイルサロンを経営する30代半ば過ぎの女性を主人公に、ネイルの仕事や商店街の仲間、もちろん、顧客といった周囲の人々を幸福にしようとするお仕事小説です。藤崎麻里『なぜ今、労働組合なのか』(朝日新書)は、格差が拡大し賃上げが進まない中で、カスハラ問題のクローズアップなど、職場の働きやすさの改善が進む背景としての労働組合の果たすべき役割について取材した結果を取りまとめています。ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(新潮文庫)では、ノーベル賞作家がラテンアメリカの独裁者を取り上げて、きわめて独創的かつ幻想的な小説に仕上げています。全6章の各章は単一のパラグラフから成っています。若竹七海『まぐさ桶の犬』(文春文庫)は、タフで不運な女探偵・葉村晶を主人公とするシリーズの最新長編ミステリであり、有名学校法人創設者一族に属し、自身もエッセイストとして著名な元教師から人探しを依頼されるところからストーリーが始まります。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先週までに計18冊、さらに今週の6冊と合わせて99冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の6冊のほかに、田中啓文『銀河帝国の弘法も筆の誤り』(ハヤカワ文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、コリン・メイヤー『資本主義再興』(日経BP)を読みました。著者は、英国オックスフォード大学サイード経営大学院名誉教授であり、早稲田大学商学学術院の宮島英昭教授が監訳者となっています。本書は資本主義の危機の解決に取り組んだ著者の三部作の締めくくりの3冊目に当たります。三部作とは、すなわち、『アーム・コミットメント』、『株式会社規範のコペルニクス的転回』と本書です。勉強不足にして、私は前の2作は読んでいません。本書の英語の原題は Capitalism and Crises であり、2024年の出版です。本書はパート1~5で構成されていて、各パートに2章ずつ配置されています。各パートのタイトルは、順に、問題、義務、方法、真の価値、コミットメント、となります。ということで、資本主義、おそらくは、18世紀後半のイングランドから始まった産業革命以降の資本主義は、先進国では経済成長が達成され、国民経済は大いに豊かになった一方で、同時に、格差や不平等の拡大、加えて、最近では、気候変動や環境悪化、社会的排除や差別など、さまざまな弊害を伴う成長であり、これらは20世紀終わりから現在まで悪化の一途をたどっていることも事実です。今世紀に入ってからでも、リーマン・ブラザース証券の破綻に端を発する大規模な金融危機と景気後退、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻などの武力衝突の激化、そして、現在 on-going で進行中の米国トランプ政権による世界経済の大規模な混乱、さらに、本書ではまったく問題ともされていないように見える途上国の経済開発の遅れ、などなど、こういった資本主義の拡大する矛盾をいかに考えて解決するかを本書、というか、一連の三部作では目指しているようです。そして、本書では、やや「お花畑」的な解決を示しているように私には見えてなりません。道徳律を修正して、企業行動の基本原理を変更する、という解決策です。いわゆる黄金律、すなわち、「自分がして欲しいと望むことを、他者にする」のではなく、「他者がして欲しいと望むことを、他者にする」に変更し、ビジネスのパーパスをミクロ経済学的な企業の行動原理である利潤の最大化ではなく、問題の解決策を追い求め、それを実現することをもって行動原理とする、そのため、現実的には、会社法を然るべく改正する、ということになります。私は最後のこういった一連の結論で完全に拍子抜けしてしまいました。巻末の解説では、従来から議論されているような企業活動の負の外部性ではなく、いかにして正の外部性を発揮させるかが重要と指摘しています。それはそれとして、私が重要と考えるのは、資本主義の矛盾を解決する根本的な経済主体が企業である点を指摘しているという事実です。解決策としては大いに「お花畑」的ではあるのですが、従来の解決策が政府に重きを置き過ぎていて、したがって、選挙をがんばりましょう、政権交代しましょう、ばかりだったのに対して、資本主義の諸問題を解決する本丸が企業活動にあるのであって、企業に政府が介入するのも結構だが、企業行動に対して何らかの直接的な影響を及ぼす可能性が暗示的に示されている点を私は評価します。ドイツ的な労使による経営協議会、あるいは、私は全く詳しくないのですが、北欧的な労働の経営参加、などなど、選挙や政権交代ばっかりではなく、労働者代表がいかに企業行動に影響を及ぼすことができるか、そういった方向の議論が進むことを本書は示唆しているように感じられてなりません。まあ、本書の本筋とは違う読み方かもしれません。はい、その点は理解しています。

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次に、トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)を読みました。著者は、10年ほど前の著書『21世紀の資本』で格差に対する警鐘を鳴らしたフランスのエコノミストであり、パリ経済学校やフランス社会科学高等研究院の経済学教授を務めています。本書は、フランスの夕刊紙として世界的にも有名な『ル・モンド』紙に、ピケティ教授が2016年から21年初頭にかけて寄稿した時評コラムから44本を精選しています。時系列的に3部構成としていて、第Ⅰ部が2016-2017年、タイトルは「グローバル化の方向性を転換するために」、第Ⅱ部が2017-2018年、タイトル「フランスのためにはどんな改革をすべきか?」、第Ⅲ部が2018-2021年、タイトル「欧州を愛することは欧州を変えること」となります。当然、フランスの夕刊紙へ寄稿されたコラムですのでフランスや欧州のトピックが多くなっています。表紙画像でも見られるように、明らかにトリコロールのフランス国旗を意識している、といえます。しかも、タイトルで標榜しているのが社会主義ですので、やや敬遠する向きがあるかもしれませんが、ピケティ教授は「社会国家」という用語で、おそらくは、「福祉国家」と似たような意味を持たせていますので、社会主義がマルクス主義的な概念とは限らず、少なくとも、旧来型の旧ソ連や現在の中国における社会主義とはまったくの別物と考えるべきです。したがって、何よりも、本書で重視しているのは経済的格差の是正、そして、経済面に限定せずに、男女間、民族間、などなどの格差や差別に対する是正、そして、ひいては、参加型の民主主義や循環型の経済の実現、何より一言でいえば、社会的正義の実現を目指していると考えるべきです。逆にいえば、現在の日本や欧米先進国はもとより、世界の多くの国でこういったピケティ教授の目標が達成されていないわけで、ひとつひとつのコラムは当然にそれほど長くもなく、一般紙のコラムですので難解でもなく、分量としても内容としても一般読者に読みやすくなっています。加えて、綿密に構成された書籍ではなくコラムを時系列的に並べているだけ、といえば、まあ、そういうことですので、どこから読み始めてもいいですし、適当に興味あるトピックだけを拾い読みすることも出来ます。話題になった『21世紀の資本』が大部の専門書でしたので、本書の興味あるトピックを追うことにより、ピケティ教授の主張に触れておくのもいいんではないかと思います。

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次に、三浦しをん『ゆびさきに魔法』(文藝春秋)を読みました。著者は、直木賞も受賞した小説家です。私のもっとも好きな作家の1人です。タイトルや表紙画像から読み取れるように、主人公はネイリストです。すなわち、弥生新町駅前の商店街でネイルサロン「月と星」を経営する30代半ば過ぎの月島美佐が主人公です。サロンの名前は、月島美佐ご本人とともに、同じ専門学校に通っていた同級生であり、かつて、いっしょにサロンを経営していた星野江利にも由来しています。今では、2件の棟割長屋でサロンを開いていて、どちらも1階が店舗で2階が住宅という造りです。もう1軒は居酒屋「あと一杯」が入っています。大将は松永という中年男性で、1人で居酒屋を切り盛りしています。中年男性らしく、チャラついたネイルに軽い偏見を持っていますが、巻き爪を施術により矯正してもらってからは、ネイルについての理解が深まります。その「あと一杯」の常連客で、大将である松永の煮付けをこよなく愛している酔っ払いが大沢星絵となります。ネイルをオフする時の摩擦熱が強烈だったり、一部の技術に未熟さが残っていますが、月島美佐は大沢星絵をネイリストとして雇うことを決めます。基本的に、お仕事小説ですので、ネイルサロンやネイリストの活動がストーリとして展開されて行きます。赤ちゃんの子育てに忙殺され、ネイルをしたいが、チャラついた母親と思われるのではと気に病む主婦、国民的な有名俳優などがサロンを訪れたり、さらに、子連れ客への利便性を高めようと保育士を雇ってキッズコーナーを店舗内に設けたり、商店街の中では隣接した居酒屋だけでなく、八百屋の奥さんとの交流があったり、さらには、老人施設にボランティアに赴いたりと、いろいろとあります。中でも、華やかなセンスを持った大沢星絵の才能を伸ばすために、かつてのパートナーだった星野江利のサロンに修行に行かせるところが、ひとつのハイライトとなります。主人公の月島美佐自身は丁寧で正確な施術が得意なのですが、独創的なセンスを持つ大沢星絵のためを考えての武者修行です。主人公は、30代半ば過ぎの独身女性で、「仕事に忙しく、恋の仕方は忘れてしまった」なんて部分もありますが、いかにも小説にありがちな展開で、ある日突然運命の人に出会って大恋愛に発展した、なんてところが微塵もなく、結婚や恋愛の要素はまったく欠落した小説です。それはそれで、この作者らしいともいえるかもしれません。最後に、ネイルに関して、私はネイルについてはまったく知りません。そこは典型的な中年男性である点は自覚していますし、本作に登場するネイルの施術や器具などにつてもまったく無知です。その点はレビューとしては割り引いて下さるようにお願いします。ただ、私自身の運動習慣として週3日はプールで泳いでいて、気が乗れば1時間ほどかけて2,000メートル泳ぐ日もありますので、爪はボロボロです。何とかしたいと考えなくもありませんが、何もしていません。

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次に、藤崎麻里『なぜ今、労働組合なのか』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞のジャーナリストです。朝日新聞のGLOBEの連載を新書にい取りまとめています。4部構成であり、3部までが日本、4部が米国となっていて、日本の各部は現場、政策提言、労働組合の可能性、ときわめて意識高い系のタイトルとなっています。逆から見て、上から目線を私は感じましたが、ジャーナリストですので、私のような一般庶民はついついそう感じるのかもしれません。昨今の物価高で賃上げが進み、昨年2024年春闘では賃上げ率5%を超えて、33年ぶりの高い伸び率になったと報じられています。ただ、実際には物価上昇が賃上げを上回って、実質賃金はマイナスが続き、国民生活がますます貧しくなっていることは周知の通りです。正規職員と非正規職員の格差は一向に是正される気配もなく、労働組合の組織率は長期的に低下の一途をたどっていることは、これまた、広く知られている通りです。しかし、他方で、本書冒頭でも取り上げられているように、かつては神さまだった客からのカスハラの問題などがクローズアップされて、職場が働きやすい方向にわずかなりとも進んでいる実感もあります。私自身は、役所ではキャリア公務員らしく早々と管理職になって組合からは離れましたが、大学に再就職してヒラ教員となり再び労働組合に所属しています。実は、昨今の賃上げ獲得やカスハラ是正などの労働条件の改善に、労働組合が果たした役割が大きいとは私はまったく考えていません。むしろ、典型的に使用者側からのおこぼれに労働側があずかっている、という印象しか持っていません。ですので、本書の指摘にはやや違和感がありますが、欧米で労働組合がそれなりの役割を果たしている点については、まったく異存ありません。フランスなんかでは、労働組合の組織率は日本よりも低いにもかかわらず、影響力は日本より大きくすら見えます。しかし、本来、労働組合というものは、労使のアンバランスな力関係をわずかなりとも是正する目的で、労働側に有利な扱いを認めているわけですが、少なくとも日本では、そういった労働側に有利な点を活かした活動を進めようとする意図が、私には感じられません。特に、1980年代後半の3公社の民営化、特に国鉄の分割民営化により国労が消滅してからは、労働組合の力量が大きく低下したことは明らかだと私は考えています。現在の連合の芳野会長にしても労働者間の分断を志向するかのような反共の姿勢は明らかですし、何といっても、日経連の『新時代の「日本的経営」』に対する対抗軸を見いだせずに、「失われた30年」で実質賃金が一向に上がらなかった責任の一端は明らかに労働組合にあると考えるべきです。ただ、タイミングの問題として本書では取り上げられていませんが、朝日新聞の記事「フジテレビ労組、組合員が急増 専務が労組とのやり取りで辞意表明」などで報じられたように、職場や雇用のピンチには労働組合とは一定の役割を果たすべき存在であることは明らかです。労働者から頼りにされているともいえます。その意味で、まったく活動が目立たず奮わない日本でも労働組合の重要性を認識させようとするこういった試みは重要だろうと、私も考えています。

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次に、ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(新潮文庫)を読みました。著者は、中南米文学の最高峰の作家の1人であり、この作品に先立って出版された『百年の孤独』でノーベル文学賞を受賞しています。スペイン語の原題は El Otoño del Patriarca であり、1975年に出版されています。日本では今年2025年2月に新潮文庫から新装再刊されています。この作品は中南米の独裁者をテーマにした小説であり、同じように独裁者を主人公に据えたマリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』を私は読んだ記憶があります。『チボの狂宴』はドミニカ共和国のトルヒーヨ将軍という実在した独裁者をモデルとしている一方で、本書『族長の秋』ではそういった特定のモデルではなく、架空の国の独裁者であり、ヘルニアの巨大な睾丸を持っている大統領を中心とするストーリーです。ただ、『百年の孤独』の主人公であるブエンディア大佐のなれの果てではないか、とする解釈もあったりします。6章から構成されているのですが、各章は単一のパラグラフから成っています。すなわち、パラグラフひつとで各章を構成しています。そして、ほぼほぼすべての章が独裁者である大統領の死から始まっています。その意味で、この作者独特のとても幻想的な雰囲気を感じることが出来ます。大統領のほかの登場人物は以下の通りです。すなわち、ロドリゴ・デ=アラギルは、大統領の腹心の将軍でしたが、野菜詰めにされてオーブンで丸焼きにされます。ベンディシオン・アルバラドは大統領の母であり、元娼婦で父の不明な子を産んだとされています。マヌエラ・サンチェスは、美人コンテストの優勝者で大統領の恋の相手ですが、日食の日に姿を消します。パトリシオ・アラゴネスは、街のチンピラでしたが、大統領と外見がそっくりなため、影武者としての役割を与えられます。レティシア・ナサレノは、修道女でしたが誘拐されて大統領の妻となります。ということで、ストーリーらしいストーリーは、なかなか明確には読み取れませんが、大統領府にハゲタカが群がり、牛が徘徊したりして、異常を感知した国民が大統領官邸に押し寄せ、無惨に殺害された大統領の死体を発見します。章ごとに視点を切り替えつつ、独裁者であった大統領のとんでもない数々の残虐かつ冷酷な行為を羅列し、母や妻や恋人との関係を描写し、独裁者としての孤独な心情を描き出しています。私は傑作や名作というよりも、カオスに満ちた怪作ではなかろうかと考えていますが、この『族長の秋』を『百年の孤独』よりも高く評価する人が決して少なくないことも知っています。

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次に、若竹七海『まぐさ桶の犬』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、タフで不運な女探偵・葉村晶を主人公とするシリーズの最新長編ミステリであり、出版社によると5年ぶりの出版だそうです。文春文庫オリジナルの書下ろしです。ということで、主人公の葉村晶は着実に年齢を重ねて50代となり、老眼に悩まされるようになっていますが、相変わらず、吉祥寺のミステリ専門書店 MURDER BEAR BOOKSHOP でアルバイトをしつつ、白熊探偵社のただ1人の調査員として、非情なオーナー富山の下でこき使われながら働いています。なお、老眼のほかにも、更年期障害、五十肩、花粉症に加えて歯も悪くなるなど、年齢とともに体にはアチコチ無理が来ています。タイトルの意味は本書のp.141にありますが、イソップ寓話に由来するようで、「自分には役に立たないが、誰かがそれでいい思いをするのを邪魔するため、その『自分には役に立たないもの』を手放さずに意地悪や嫌がらせをし続ける」人を指しています。犬はまぐさを食べないのですが、牛に食わせないようにまぐさ桶に陣取って邪魔する、というわけです。本書では、ストーリーの冒頭は人探しで始まります。すなわち、東京多摩地区にある有名私立大学とその付属校から成る魁皇学園の創設者一族、というか、創設者の孫であり、学園の元理事長を務め、エッセイストとしても有名なカンゲン先生こと乾巌から、絶対に秘密厳守で「稲本和子」という女性の行方を捜すよう葉村晶が依頼を受けます。一見、殺人事件とかではなさそうなのですが、殺人ではないにしても過去の死亡事件に加えて、複数の死者が出ます。その意味で、立派に「ノックスの十戒」に則ったミステリです。葉村晶が調査を進めるうちに、創設者である乾一族の何ともいえない複雑怪奇な人間関係とともに、リゾート開発に欲が募っていたりして、実にドロドロした人間関係が複雑に絡み合っていることが判明します。このシリーズでは、葉村晶の傷や痛みなどのダメージが累積されていくうちに、少しずつ謎が解き明かされる展開であり、そのプロットは実に巧みといえます。ひょっとしたら、ラストに不満を感じる読者がいるかもしれませんが、ストーリーの展開と謎解きは実にいい出来だと思います。

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2025年4月19日 (土)

今週の読書はディズニーを題材にした経済学入門書をはじめ計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山澤成康『新ディズニーで学ぶ経済学』(学文社)は、東京ディズニーリゾート(TDR)を題材にして、消費者の効用最大化といったミクロ経済学の初歩、あるいは、国際経済まで含むマクロ経済学の視点、などなど、さまざまな要素を詰め込んだ経済学の入門書です。山下一仁『食料安全保障の研究』(日本経済新聞出版)は、シーレーンが利用できなくなった際には、食料だけではなくエネルギーも輸入できなくなり、我が国で餓死者が出かねないという危機感を基に、食料安全保障のあり方について議論しています。ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学』上下(勁草書房)は、リバタリアンである著者がエリート主義に基づいて、有権者がいかに投票するかについての議論を展開し、何と、「バカは選挙に行くな」という結論に達しているように見えます。伊与原新『宙わたる教室』(文藝春秋)は、東新宿高校定時制を舞台に理科の教師が個性豊かな生徒4人とともに火星でのクレーターの再現実験に取り組み学会発表を目指します。本書を原作としたNHKドラマ10でも感動をよびました。朝日新聞取材班『ルポ 大阪・関西万博の深層』(朝日新書)は、この4月に開幕した大阪・関西万博について維新政治とともに取り上げており、当初計画から大きく膨らんだ建設費、海外パビリオンの建設遅れやグレードダウン、メタンガスの事故のリスク、などの取材結果を取りまとめています。稲羽白菟『神様のたまご』(文春文庫)は、2013年の下北沢を舞台に、小劇場創設者の孫がワトソン役、小劇場の支配人がホームズ役となる謎解きのトピックをいくつか収録しています。西條奈加ほか『料理をつくる人』(創元文芸文庫)では、6人の作家がタイトル通りに料理をつくる人をテーマに、短編6話を収録したアンソロジーです。いずれも粒ぞろいでオススメです。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先々週と先週で計10冊、さらに今週の8冊と合わせて93冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の7冊のほかに、小川哲『君のクイズ』(朝日新聞出版)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、山澤成康『新ディズニーで学ぶ経済学』(学文社)を読みました。著者は、跡見学園女子大学マネジメント学部教授です。数年前には2年ほど総務省統計委員会担当室長として役所に出向されていたことがあり。シェアリング・エコノミーの計測などで私は内閣府経済社会総合研究所のカウンターパートにいましたので、個人的にも存じ上げています。どうでもいいことながら、ご令嬢が今春4月に進学された大学なんぞも把握していたりします。ということで、タイトルから容易に想像される通り、「新」のつかない『ディズニーで学ぶ経済学』もあって、同じ著者により同じ出版社から2018年に出版されています。新旧の構成はほぼほぼ同じで、今回出版された新版は基本的にデータをアップデートした印象です。冒頭の序章では、テーマパーク業界の中で東京ディズニーリゾート(TDR)がガリバー的な存在であることが理解できます。ただ、大阪のユニバーサルスタジオ・ジャパン(USJ)も入場者数ではTDRの半分強ですので、首都圏と関西圏の経済規模から考えるとUSJの検ともいえるところです。第1章ではディズニーリゾートのレイアウトを建築学で分析し、第2章のディズニーリゾートの歩みを日本経済史で解説し、ほかにも、全15章に渡って株価、人事管理、価格戦略、消費者の効用最大化、企業の利潤最大化、などなど、ディズニーを題材に経済学を解説しています。例えば、東京ディズニーリゾートの入園者数をGDPを説明変数として単回帰で分析していたりします。ただ、2018年の旧版よりも今回の新版の方がフィットが悪くなっているのは、2020年からのコロナの影だったりするんでしょう。なお、どうでもいいことながら、回帰分析する際は説明変数に対するパラメータの符号や大きさだけでなく、定数項にも注意を払うように、私は大学院生などには教えていて、旧版でも新版でも回帰分析では定数項がマイナスになっています。したがって、GDPが一定の水準に達するまで東京ディズニーリゾートの入場者がプラスになることはない、ということを意味していると解釈されます。まあ、ディズニーだけではなく観光はある意味でぜいたく財ともいえるので、所得が一定の水準に達しないと需要がそもそも発生しない、ということなのかもしれません。また、エコノミスト誌によるビッグマック指数の向こうを張って、東京ディズニーランドとフロリダのディズニーワールドにあるマジック・キングダムの入場料で円ドル為替の購買力平価を計測しようとしていますが、購買力平価はかなり円高を示し、逆から見て、東京のディズニーランドは割安で入場できるという結果が示されています。最後の最後に、観光学と題している第8章については、もう少し遊園地とテーマパークの違いをクリアにした方がいいんではないか、と私は考えています。テーマパークが1965年の明治村から始まる、といわれても、浅草の花やしきは戦前からあるんじゃないの、と思う人がいっぱいいそうな気がします。

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次に、山下一仁『食料安全保障の研究』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、農林水産省のご出身で、現在はキャノングローバル戦略研究所の研究主幹だそうです。本書の主張はかなり回りくどくて、私のような専門外のエコノミストには理解し難い点もありますが、基本的には、台湾有事でシーレーンを使った輸送が困難になると国内で餓死者が出かねない、という危機感は私でも読み取ることが出来ました。ただ、農協に対する激しい批判や政府の減反政策廃止をフェイクニュースと論じるなど、本筋から少し離れたところかもしれませんが、私には理解が及ばない点がいくつかありました。まず、現在のコメをはじめとする食料の価格上昇については、私はエネルギー価格と歩調を合わせたものだと認識しています。もちろん、相対価格の変化があるとはいえ、減反政策の続行や廃止とコメ価格が連動しているわけではなく、コメ以外の農産物の価格と連動していると考える方が論理的です。例えば、私が驚愕したことに、キャベツ1玉500円、キュウリ1本100円といった価格は減反政策とはほとんど関係ありません。コメというよりは園芸作物なのかもしれませんが、農業機械の運転のみならず、施設などの暖房や乾燥などに用いられるエネルギー価格、あるいは石油を原料とする肥料の価格に起因する可能性が高いと考えるべきです。例えば、2024年9月末に日経新聞では「農業生産コスト高止まり、肥料も重油も 新米高騰の一因」と題する記事を報じていたりします。ただ、本書で指摘しているように、食料輸入が途絶するときは、同時に石油輸入も途絶する可能性が高い点は認識しておく必要があります。もう1点、私が本書の指摘を正しいと考えている点があります。すなわち、食料安全保障の観点からは、戦後一貫して政府が取ってきた価格支持政策でははなく、民主党による政権交代気に一時模索された農家への直接給付の方が望ましいと考えられます。価格支持政策は、結局のところ、価格に応じた生産をもたらすだけであり、農家が安定的に食料を生産するためには個別給付による経営安定の方が望ましいのは判りきっています。そうしないのは、本書が指摘するように財政負担を回避する目的なのかどう不明ですが、経済合理性からは不可解に私には見えます。最後に、本書のテーマに関連して、私は食料安全保障ではなく経済社会の不平等や貧困を是正する上で、市場取引される商品として供給されるべきかどうか疑わしいサービス、もっといえば、脱商品化された公共サービスとして供給される方が好ましいサービスとして、医療と教育を考えています。その医療と教育に次いで公的セクターから供給される方が望ましい財は食料と住宅ではないかと思っています。特に、食料は生存のために不可決な財であり、政府による一定の価格支持あるとはいえ、市場の価格に従った生産や消費を脱する時期が来ているような気がします。

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次に、ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学』上下(勁草書房)を読みました。著者は、米国ジョージタウン大学のマクドノー・ビジネススクールの教授であり、ご専門は政治哲学、応用倫理、公共政策などだそうです。リバタリアンとしても有名です。英語の原題は The Ethics of Voting であり、2011年の出版です。英語の原書の出版はプリンストン大学出版局であり、こういった情報からもほぼほぼ学術書であると考えるべきです。ただ、専門用語を駆使していたりはしますが、政治学や倫理学の学術書ですので、経済学や自然科学のように数式がいっぱい並ぶわけではありません。じっくりと取り組めれば読みこなす読者は少なくないものと思います。ということで、英語の原題からしても、邦訳タイトルからしても、そのままであり、有権者がいかに投票するか、についての議論を展開しています。そして、結論を一言でいえば、巻末の解説に簡潔に表現されているように「バカは選挙に行くな」ということに尽きます。基本的に、著者も否定していないように、エリート主義の立場から公共善、について自信ない有権者は投票を棄権すべきであり、政治学や経済学などの専門知識を十分持っていて、公共善について正しく認識している自信がある場合のみ投票すべきである、ということになります。なお、公共善については、時に、共通善とも呼んでいますが、私は同じものと考えています。ということで、結論を考える前に本書の構成に従ってレビューすると、前半では、いくつかの選挙に関する常識を否定しています。まず第1に、市民は投票すべきであって、選挙で投票する道徳的な義務がある、という点を否定します。日本のシステムではそうなっていませんが、南北米州大陸のいくつかの国では、選挙があると投票者登録をした上で投票を行う必要があり、国によっては登録をしたにもかかわらず投票しなければ何らかのペナルティを課される場合があります。そのシステムにはこういった「投票義務」がバックグラウンドにあることは間違いありません。第2に、日本でも投票率が低下しているという事実に対して不安や憂慮を示す有識者の意見はよく聞きますが、本書では投票率が高いことに特段の価値を見出していません。第3に、投票は自分の良心に従って行うべき、という常識に対しても、自分の良心ではなく公共善にしたがって投票すべき、という点を強調しています。そして、公共善に関して正しく認識しているという自信がある場合のみ投票すべき、という結論を分解すれば、第1に、公共善とは何か、第2に、公共善について理解しているのではなく、理解していると自信を持っているとは何か、の2点から成り立っていることは容易に理解できると思います。第2の点から、すべての投票者の考える公共善が一致する保証はないという点は理解できると思います。そして、第1の公共善とは何か、がもっとも重要となります。はい、正直いって私は本書の展開する議論を十分理解した自信がありません。繰り返しになりますが、本書では明示的にエリート主義に基づく智者政 epistcracy を目指しています。はい、これまた明らかなように、民主主義や個人の平等や尊厳というものを無視ないし否定しているように見えます。そういう内容の倫理学の専門書であると私は認識しました。最後の最後に、このレビューでは本書の結論だけを紹介しましたが、当然ながら、本書ではこの結論が導かれる理由を詳細に議論しています。私はこれらを十分理解した自信がないので、ご興味ある向きは読んでいただくしかありません。

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次に、伊与原新『宙わたる教室』(文藝春秋)を読みました。著者は、小説家であり、本作品の次に出版した『藍を継ぐ海』で直木賞を授賞されています。東京大学大学院を終了し、博士号を取得していて大学で研究者の経験もあるようです。本書は小説という媒体よりは、昨年10月から同タイトルで窪田正孝が主演したNHKのドラマ10の方がよく知られているかもしれません。なお、ドラマでは大阪が舞台になっていましたが、小説は東京、しかも、歌舞伎町やコリアンタウンの新大久保などからほど近い東新宿が舞台です。私も統計局勤務の際には、副都心線の東新宿駅で降りて統計局に通っていたりしましたから、どうでもいいことながら、土地勘はあります。主人公は都立東新宿高校定時制の教師である藤竹叶です。本来は理科の教師らしいのですが、人員不足により数学も教えています。一般のイメージ通りに、定時制高校はやや荒れているのですが、科学部を創設して実験などの活動を始め、個性豊かな4人の生徒ともに火星のクレーターの再現実験をして、日本地球惑星科学連合大会における高校生の部で学会発表を目指す、というストーリーです。4人の生徒はストーリーでの出現順に、中心的な役割を果たす2年生の柳田岳人は、ディスレクシアのために本が読めず、中学校から不登校になり、20歳になって定時制高校に通い始めています。すでに成人ですから喫煙ができたりするのですが、ストーリーの途中で禁煙したりします。フィリピン人の母と日本人の父を持つ日比ハーフの越川アンジェラは、同じく日比ハーフの夫とともにフィリピン料理店を経営していますが、2年生になって勉強についていけなくなり始めています。名取佳純は起立性調節障害で朝に活動できないことから夜間定時制高校に通っていますが、定時制高校でも保健室登校になってしまっています。集団就職で上京して高校に通えなかった長嶺省造は中小企業の経営を引退した70代であり、ものづくりには詳しく実験装置の作成で貢献します。生徒以外では、東新宿高校定時制の教師として、名取佳純の保健室登校をサポートする養護教諭の佐久間理央、明るい英語教師で年中アロハシャツの木内泉水がいます。ディスレクシアや起立性調節障害などといった障害をはじめとする生徒自身の問題に加えて、家庭の問題はもちろん、同じ教室を使う全日制生徒との軋轢、昔付き合っていた不良仲間とのトラブル、などなど、いろんな困難がありますが、教師の藤竹というよりも、それ以上に生徒たち自身ががんばりを見せます。私も教師として、この読書から得るものがあった気がします。

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次に、朝日新聞取材班『ルポ 大阪・関西万博の深層』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞のネットワーク報道本部の行政担当グループ、大阪経済部、大阪社会部の担当記者が中心ということです。表紙画像に見えるように、副題は「迷走する維新政治」となっていて、まさに、大阪維新の会や日本維新の会の政治的な影響力とともに大阪・関西万博を論じています。その意味で、第1章では昨年2024年総選挙における維新の低迷の要因のひとつとして、万博への国民の懐疑的な眼差しを上げています。ただし、本書の構成からうかがえるように、万博懐疑論は私のようにカジノ構想(統合型リゾート=IR)と結びつけられてはいません。すなわち、本書の第2章では開催経費が当初予定より大幅に上振れた点に焦点を当て、第3章では「万博の華」とも位置づけられている海外パビリオンの建設遅れやグレードダウンなどを取り上げ、そして、第4章ではメタンなどの可燃性ガスによる爆発や引火といった物理的な危険に着目し、その第4章の中でカジノ構想とのシームレスなリンクではなく、IR設備工事による万博への騒音問題などに言及しているに過ぎません。最後の点は、4月14日付けの日経新聞記事「日本初のIR、大阪万博会場隣地で24日に本体工事着工へ」でも取り上げられています。しかし、本書に収録されたp.6の会場周辺地図でも、同じ日経新聞記事に添付されている地図でも、極めて明確に理解できるように、大阪メトロ中央線を延伸して建設した夢洲駅は万博会場というよりも、カジノ設備への利便性を優先しているようにすら見えます。というのも、私は本書で初めて知りましたが、鉄道延伸などのインフラ整備のためにIR事業者から200億円の負担(p.48)を求めていたから、という点も忘れるべきではありません。いずれにせよ、本書で指摘している3点、すなわち、膨らみ続けている建設費とそれを支える公的負担、「万博の華」といわれつつもパッとしないパビリオン、メタンガスの爆発や引火などの危険、だけでも万博を疑問視する意見が出ているのですから、大手メディアがまったく報道することなく情報隠蔽を続けている万博とカジノ構想とのリンクを考え合わせると、万博がいわば「うさん臭い」ものから、中止すべきもの、になりかねない可能性を十分考える必要があります。

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次に、稲羽白菟『神様のたまご』(文春文庫)を読みました。著者は、私には初読でよく知らないのですが、ミステリ作家のようです。舞台は東京の下北沢、ただし、2013年の下北沢です。私の読み方が浅かったり適当だったりしたためか、今後、何らかの必然性ある展開が待っているのか、どうして、2013年なのかは読み取れませんでした。アパートを改造したセンナリ劇場を創設した俳優の孫、竹本光汰朗が東京の大学に入学するために引越してきます。センナリ劇場は叔父に当たる木下薫が経営を引き継いでいます。この竹本光汰朗が主人公となり、センナリ・コマ劇場の支配人で日英ハーフのウィリアム近松とともに謎解きに当たります。というか、ホームズ役となる謎解きはウィリアム近松が当たり、タケミツとあだ名された竹本光汰朗がワトソン役となります。というのも、タケミツはセンナリ・コマ劇場で支配人である近松の下で助手としてのアルバイトを始めるからです。劇場が大いに関係しますので、演劇人やミュージシャンが関係する事件が多くなります。独特の用語も飛び交います。「ブタカン」が舞台監督だというのは、初読の読者である私には理解がおよびませんでした。ということで、劇中で使う小道具の指輪が紛失したり、プライベートなCDに収録した曲の作曲者を解明したり、下北沢の伝説となっている「白い夜」に現れた伝説のダンサー、すでに死んでいるはずのダンサーの正体を突き止めたり、公開中に舞台から忽然と消えた劇団主催者の謎を解いたりします。最初の指輪の謎は、何と電話1本で解決したりして、そんな謎解きはミステリとして許されるのかと思ったりしましたし、伝説の死んだはずのダンサーの正体を探るのも、単なる人探しではないか、と思わないでもありません。でも、簡単に解決できる謎からだんだんと難しげな謎に進んで、読み進むほどにミステリの度合い、謎解きの完成度が高まっていく気がして、もしも、そのように意図しているのであれば、なかなかのものだと思います。私自身は独身のころに東急新玉川線の桜新町を最寄り駅として世田谷区の深沢に住んでいたことがあり、三軒茶屋を経由して下北沢はそれなりに土地勘あります。私の土地勘は本書でいうところの再開発前であり、土地勘なくても本書は楽しめますが、土地勘あればさらに面白く読める気がします。

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次に、西條奈加ほか『料理をつくる人』(創元文芸文庫)を読みました。著者は、6人の小説家です。テーマはタイトルに込められている通りです。収録順に、西條奈加「向日葵の少女」では、飯田橋を舞台に、祖母の元に持ち込まれた絵画の謎を解くために、秘密を知る客を迎えるに当たって、孫が料理を用意します。ややミステリ調です。千早茜「白い食卓」では、水族館で出会った女性が、主人公である男性に弁当を差し出し、その後、主人公に対して料理を作ることを始めます。その理由が極めて興味深い、というか、ややホラーな理由でサスペンスフルでもありました。深緑野分「メインディッシュを悪魔に」はニューヨークを舞台に、女性シェフが悪魔=サタンから最高の料理を作ることを要求されます。果たして、サタンが満足した料理とは何なのか。まあ、ファンタジーですね。秋永真琴「冷蔵庫で待ってる」では、大学生になって自炊を始めた女性が手料理を盛り付けたくて憧れの食器を購入したりしますが、恋の行方も気になります。織守きょうや「対岸の恋」では、姉弟で同居している弟は姉のために料理していたのですが、姉が結婚することになり、その結婚相手の男性の妹とともに結婚披露宴当日に思い切った行動に出ます。越谷オサム「夏のキッチン」では、夏の日の午後に、空腹に耐えかねて小学生男子がカレーを作り始めます。ということで、どの短編も水準が高くてオススメです。中でも、私は「メインディッシュを悪魔に」がもっとも出来がいいと感じました。その次に出来がいいと感じた「白い食卓」と「対岸の恋」はいずれも、少し背筋が寒くなるホラー的な要素を併せ持っています。「冷蔵庫で待ってる」と「夏のキッチン」はともに主人公が若いこともあって、前進する勢いのようなものを感じました。私は従来から強調しているように、飲み食いと着るものには何らこだわりがありません。ユニクロの服とカミさんの作った食事やジャンクといわれようとファストフードがあればそれで十分です。料理は飢え死にしようともまったくやりません。長崎大学に出向して単身赴任していた際も、買い食いと外食ばかりでした。でも、こういった料理をする人の短編小説もいいと思います。

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2025年4月12日 (土)

今週の読書は政治経済学の学術書をはじめ計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、和田淳一郎『一票の平等の政治経済学』(勁草書房)では、憲法で保証されている法の下での平等や個人としての尊重などを基本原理とする「一票の平等」に関して理論的に解明するとともに、制度的な保障まで幅広く議論を展開している学術書です。山口未桜『禁忌の子』(東京創元社)は、本屋大賞4位となっています。救急医の下に運び込まれた溺死体は、当の救急医に極めて肉体的条件が類似していました。生殖医療の光と闇を通して謎を解明するミステリです。今井悠介『体験格差』(講談社現代新書)では、子どもの体験格差についてアンケート調査から浮かび上がる事実を明らかにし、所得や障害などにより体験が不十分な子供に対する社会情動的スキルの育成などについて議論しています。田中秀征・佐高信『石橋湛山を語る』(集英社新書)では、戦前に「小日本主義」を提唱し戦争や植民地支配に反論を加え、戦後は短期間ながら内閣総理大臣にもなった石橋湛山の考えや戦後日本の政治に関する対談です。深木章子『闇に消えた男』(角川文庫)は、『消人屋敷の殺人』に登場したフリーライターの新城誠と文芸編集者の中島好美の2人が、行方不明になったノンフィクション作家の稲見駿一の調査と謎解きを行います。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先週は5冊で計80冊、さらに今週の5冊と合わせて85冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。なお、本日の5冊のほかに、北村薫のベッキーさんシリーズの3冊『街の灯』、『玻璃の天』、『鷺と雪』(すべて文春文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えるべきですので、本日の感想文には含めていません。

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まず、和田淳一郎『一票の平等の政治経済学』(勁草書房)を読みました。著者は、横浜市立大学国際商学部教授であり、選挙制度や定数配分などを研究のキーワードにしているようです。本書では、憲法で保証されている法の下での平等や個人としての尊重などを基本原理とする「一票の平等」、英語では "One Person, One Vote, One Value." に関して理論的に解明するとともに、制度的な保障まで幅広く議論を展開しています。はい、完全な学術書であり、難解な数式がいっぱい用いられています。私のような専門外のエコノミストには理解が及んでいない部分が多々ありそうですし、一般的なビジネスパーソンにはそれほどオススメできないかもしれませんが、それでもテーマに興味を持つ向きには読んでおく値打ちがある本だと思います。まず、高校生でも理解できることながら、小選挙区制は候補者が乱立した場合に、いわゆる「死票」が大量に生じる可能性があります。私の記憶する範囲で、衆議院小選挙区の法定有効得票数は有効得票総数の1/6です。ですから、極端な場合、5/6近い死票が出る可能性があります。ですので、本書ではほぼほぼ比例代表制でもって議論を進めています。比例代表選挙の場合、端数処理が問題となりますが、日本では、いわゆるドント方式で端数切上げです。閾値の上限で判断しているともいえます。それに対して、端数切捨てで閾値の下限で判断するアダムズ方式、また、ドント方式とアダムズ方式の中間、というか、端数を四捨五入して閾値の平均を取るサンラグ方式、などの計算方法が紹介されます。ただし、こういった方式を考える場合の不都合、というか、パラドクシカルな状況を生じるケースとして2点に言及していて、総定員を増やすと定員配分が減る選挙区がある、あるいは逆に、総定員を減らすと定員配分が増える選挙区がある、というアラバマ・パラドックス、さらに、総定員を固定して再配分した場合、人口増加率、すなわち、人口総数ではなく人口の増える割合が高い選挙区から人口増加率の低い選挙区に定員が移されてしまう、という人口パラドックス、これらの不都合を避ける必要について分析を加えています。数式をいっぱい並べた理論的な分析です。ですので、このあたりは、私も十分理解した自信がありませんし、ご興味ある向きには読んでいただくしかありません。そして、こういった不平等について、一般に人口に膾炙した「格差」という用語ではなく、「較差」という用語を用いて、報道でも取り上げられることが少なくないジニ係数やほかの指標を紹介しています。ただ、結論の前の章で経済学者の視点から、都市部の賃金が地方の賃金より高いと仮定すれば、地方の政治的影響力を都市部よりも大きくする余地がある、とも指摘しています。本書の著者は都市部と地方のそれぞれの賃金=経済的利益と政治的影響力の和を均衡させることが解決策となる可能性を示唆しています。本書のタイトルが政治経済学となっているゆえんの一端ではないかと思います。最後の最後に、私からひとつだけ指摘しておくと、「一票の平等」は極めて重要なのですが、その平等な投票に基づいて選ばれた国会議員が、憲法改正や参議院否決後の衆議院の再議決などを例外としつつも、そのたの多くの議案に関して、はたして、単純過半数で法律や予算を議決していいものかどうか、こういった視点も本書のスコープの外ながら気にかかる点です。

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次に、山口未桜『禁忌の子』(東京創元社)を読みました。著者は、医師なのですが、昨年2024年本作品みより第34回鮎川哲也賞を授賞されてデビューしています。有栖川有栖の創作塾のご出身であるとの報道を見かけたことがあります。本書は今年の本屋大賞の4位に入っています。ということで、本書の主人公は兵庫県の芦屋と神戸の間にある病院の救急医である武田航です。33歳です。4月初旬に「キュウキュウ12」とコードをふされた溺死体が運び込まれてきます。なんと、その溺死体は、見た目はもとより、身長・体重、さらに体毛の生え方まで武田航とソックリ瓜二つでした。どう見ても遺伝子上の類似性が想定されるので、武田航の中学校のころの同級生で同じ病院に勤務する消化器内科医の城崎響介とともに調査を始めます。この城崎響介が謎解きの探偵役を務めるわけですが、この人物のキャラが何とも独特で、この人物造形だけでも新人作家が文学賞に入選するだけの値打ちがあるような気がします。ただ、このキャラについては、読んでみてのお楽しみです。武田航の両親はすでに亡くなっており、一家には双子どころか兄弟もおらず、戸籍を調べても双子であった形跡はなく、母子手帳にも「単胎」と記載されているばかりです。ただ、さすがに警察の調査により、「キュウキュウ12」は岐阜県在住の中川信也という人物であることが判明します。調べを進めるうちに、大阪にあるリプロダクティブ医療のクリニックに武田航の母親が妊娠のごく初期に通っていたことが判明し、武田航と城崎響介の2人はその生島リプロクリニックの生島京子理事長から「知る権利がある」といった趣旨の返事を受け取って話を聞く機会を得ますが、そのアポイントの直前に生島京子理事長は密室状態の鍵のかかった理事長室のドアのノブにかけられたベルトで首を吊って亡くなってしまいます。他殺か自殺か、警察とともに武田航と城崎響介の2人も独自に調査を進めます。といったあたりから、生殖医療による何らかの医療的な措置により、武田航と中川信也の2人は極めて類似した、あるいは、同一の遺伝子を有する、との暫定的な結論が導かれます。後の謎解きは、城崎響介のキャラとともに、読んでみてのお楽しみです。最後にいくつか私の方から指摘しておくと、まず、テーマからして重いです。生殖医療の倫理性、そして、犯罪行為の倫理性、そういったものを含めて重くて暗いストーリーです。まあ、その分、考えさせられる部分もありますが、私のような生殖医療などに専門性ない読者が考えてもどうなるものでもありません。そして、ミステリとしては、ストーリーの展開とともに徐々に真相が明らかになるタイプのミステリであり、名探偵が最後の最後にどんでん返しの真相を明らかにするタイプのミステリではありません。ですから、私も途中で真実に気づいてしまいました。その意味で、タイトルがあまりにもダイレクトに結末を暗示していて私は好きになれません。でも、謎解き役の城崎響介のキャラは大好きです。

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次に、今井悠介『体験格差』(講談社現代新書)を読みました。著者は、チャンス・フォー・チルドレンという団体の代表だそうで、これだけでは何のことやら判りませんが、この団体は生活困窮家庭の子どもの学びを支援しているということです。本書では、タイトル通りに、「子どもにとっての必需品」、すなわち、その社会に生まれたすべての子どもが享受できて然るべきものとしての体験について、第1部でアンケート調査の結果を、また、第2部でインタビューの概要などを明らかにするとともに、第3部では体験格差の縮小や解消に向けた取組みを論じています。なお、本書では年間所得300万円に満たない家庭を低所得としています。ということで、軽く想像されることですが、低所得家庭においては小学生などの体験が少なく、体験格差が存在することが明らかにされています。特に、体験ゼロの割合は300万円未満家庭では約30%であり、600万円以上の10%あまりの約3倍となっている事実を明らかにしています。子供たちの想像力の幅はもとより、長じての人生の選択肢の幅まで、大なり小なり人生における体験に依存している部分があるとか、小学校4年生くらいまでは学習よりも体験の方が重要といった主張がなされています。特に、本書では意図してか、意図せざるかは別にして、母子家庭をはじめとするシングルペアレントの家庭に一定の焦点が当たる形となっていて、低所得で金銭的な負担が出来ない上に、子どもの体験をサポートするための時間的な余裕もない姿が浮き彫りにされています。第2部のインタビューでは低所得に加え、障害などのマイノリティ、また、多子の家庭の実情が明らかにされています。体験が少ないと、社会情動的スキル、というか、学力などの認知能力に対比して忍耐強さややり抜く力などの非認知能力と呼ばれるスキルを伸ばす機会が限定されるおそれを指摘しています。最後の第3部では、p.164から5項目の提案がなされています。このあたりは読んでいただくしかありません。最後に、我が家の場合ですが、やや突飛にめずらしい体験としては、大雑把に子どもたちの幼稚園のころ、というか、小学校に上がる少し前くらいの3年間を私の仕事の関係で海外で過ごしています。南の島のジャカルタで3年間を過ごし、定期的にメディカルチェックでシンガポールを訪れ、年末年始休みや夏休みといったまとまった休暇では、日本に一時帰国することもありましたし、インドネシア国内のバリ島などや近隣国のタイのプーケット、マレーシアのペナンなどといったリゾートは満喫しました。はたまた、オーストラリアのパースまでカンガルーやコアラを見に行ったこともあります。帰国してからは普通だと思うのですが、夏休みの海水浴はよく行きましたし、水泳教室なんてのも行かせましたが、でも、今となっては何の役にも立っていないように見えなくもありません。長じてからは、レクリエーション活動が減った裏腹に、塾などで学校学習を補助することもしましたし、それなりに、本書でいうところの体験は、通り一遍ながら、いろいろとさせたつもりです。でも、本屋大賞にもノミネートされていた『アルプス席の母』のような強烈な親のサポートを必要とする体験は、どこまで役立つんでしょうか。少し謎です。

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次に、田中秀征・佐高信『石橋湛山を語る』(集英社新書)を読みました。著者は、元衆議院議員の政治家と評論家、なんだろうと思います。「語る」というタイトル通りに対談なのですが、軽く想像されるように、著者のうちの佐高信が聞き手になって、元衆議院議員の政治家である田中秀征が語り手になっている部分が多い印象です。なお、出版は昨年2024年10月なのですが、現在の石破内閣については何の言及もなく、出版の時期からして石破内閣、あるいはその前段階の石破自民党総裁が決まる前の時点での対談ではないか、と私は想像しています。まず、本書p.12に石橋湛山の略年譜がありますが、経済評論家というか、『東洋経済新報』のジャーナリストであり、戦後は内閣総理大臣に就任するも急性肺炎のために3か月ほどで辞任しています。ということで、冒頭の対談では石橋湛山の「小日本主義」を取り上げています。戦前昭和期の世界的にも帝国主義の時代に、我が日本は本州ほかの4島だけでやっていける、したがって、満州や朝鮮や台湾は不要などを主張し、石橋湛山は「小日本主義」として論陣を張っています。結果として、ヤルタ宣言だか、ポツダム宣言だか、を受け入れて、日本は戦後4島の基盤のもとで戦後復興や高度成長といった経済発展を成し遂げたわけで、先見の明を見ることが出来ます。この「小日本主義」の背景に、アダム・スミスの自由放任経済、J.S.ミルの功利主義、グラッドストンの植民地経営に対する見方などがあるといった議論を対談では展開しています。そして、その「小日本主義」を成り立たせる条件を4点上げていて、国際的には、自由な通商とブロック経済への批判、高度な科学技術を基礎とする魅力的な財の供給、国内的には、積極的な経済拡大を支援する財政政策、そして、まっとうな倫理観に支えられた経済政策運営、と指摘しています。やや本書のオリジナルな表現とは異なりますが、私の理解した限りでの本書の主張を私の表現にしたがって展開すれば以上の通りとなります。ここまでが第1章であり、残りの2章から6章は読んでいただくしかありませんが、1点だけ私の方から疑問を呈しておくと、本書では現在の自民党、というか、日本ではリーダーが不在であり、小選挙区制のために世襲議員が増加している、と主張しています。私はこの点は疑問です。すなわち、タイミングの点から本書でカバーしきれなかった現在の石破自民党総裁、石破内閣を見ても明らかですが、自民党総裁選における発言と総理総裁に就任してからの発言が大きく異なっています。メディアではもう忘れているようですが、いろんな総裁選当時の発言を反故にしているのは明らかです。意図的に虚偽の公約を掲げていた可能性は否定しませんが、逆に、まあ、好意的に解釈するとすれば、党総裁選の際に掲げていた公約は総理総裁に就任してからは実現が不可能であったわけで、それは石破総理のリーダーとしての力不足に起因するものではありません。すなわち、自民党、というか、公明党も含めて現在の与党体制の中で、リーダーとしての力量にはそれほど関係なく、システムとして制度疲労を起こしているのだと考えるべきです。ですから、強力なリーダーが必要なのではなく、本書で主張しているような政策、あるいは、広い意味でのシステムを実現するためには、政権交代が必要、という点は理解すべきです。

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次に、深木章子『闇に消えた男』(角川文庫)を読みました。著者は、60歳にして弁護士を引退して小説を書き始めたミステリ作家です。私は、この作家さんは『消人屋敷の殺人』しか読んだことがないのですが、本書はそこで登場したフリーライターの新城誠と、文芸編集者の中島好美の2人が謎解きに当たる作品、というか、2人で調査し新城誠が謎解きをする長編ミステリです。ですが、シリーズをなしているというよりも独立したミステリであり、前著をすっ飛ばして本書だけでも十分楽しめます。ストーリーは、ノンフィクション作家の稲見駿一が取材旅行に出かけて、そのまま行方不明となって3か月が経過し、妻の稲見日奈子から出版社の粂川を通じて2人に調査の依頼があります。稲見駿一は資産家の跡取りであり、多額の不動産収入があることから、コストを気にせずに徹底した取材で作品を仕上げる主義で、寡作だが定評あるライターでした。仕事に関しては秘密主義というか、家族にも何も知らせず、何日も帰宅しないことがあるということです。でも、さすがに3か月というのは今までになく長期間である上に、仕事で借りているマンションのメールボックスに「地獄に堕ちろ」で始まる脅迫状めいた怪文書が投函されていて、調査の依頼につながっています。そして、まあ、いろいろあって調査が進んで謎解きがなされるわけです。はい、驚愕のラストといえます。最後に、2点だけつけ加えておきたいと思います。第1に、本書は5章から構成されていますが、奇数章では中島好美から見た1人称の視点でストーリーが進められている一方で、偶数章では稲見日奈子の視点ながら3人称で進められます。これは、性別としては同じ女性ですので、ひょっとしたら、混乱をきたす読者がいるかもしれませんが、まったく気づかない読者も多そうな気がします。何と申しましょうかで、ひとつの趣向であることは明らかなのですが、作者が何を意図していて、読者がどういった受止めをするかは私には不明です。もうひとつは作者に関して、60歳にしてデビューというのは、年齢だけを考えると、幼稚園教諭と幼児教育教材会社勤務を経てミステリ作家となった天野節子を思い出してしまいました。天野作品も、デビュー当時の『氷の花』と『目線』くらいまでは興味深く読んだのですが、不勉強にして、その後はご無沙汰しています。

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2025年4月 5日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。週半ばに久しぶりに風邪をひいて発熱して寝込んでいて、それほどの量は読めませんでした。
まず、横山和輝『インセンティブの経済学』(新世社)は、タイトル通りにインセンティブが経済活動で果たす役割を解明するというよりは、明治期の殖産興業の際のエピソードから日本の経営史を考える材料として評価すべきです。吉田修一『罪名、一万年愛す』(角川書店)は、長崎県の九十九島のプライベートアイランドを舞台に、一代で財を成した経営者の人生をなぞるミステリ仕立てのストーリーです。白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)は、5話の独立した短編から編まれたミステリ短編集です。謎解きはとても意外で鮮やかなのですが、ややグロいと感じる読者がいるかもしれません。一色さゆり『ユリイカの宝箱』と『モネの宝箱』(文春文庫)は、アートに特化した旅行会社に勤める20代半ばの女性を主人公に、各地の美術館に同行して解説もする教養小説といえます。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、本日の5冊も合わせて80冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。

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まず、横山和輝『インセンティブの経済学』(新世社)を読みました。著者は、名古屋市立大学経済学部の教授です。タイトルでも、本書冒頭でも、インセンティブを強調しているのですが、ハッキリいって、本書はそれほどインセンティブについて何かを主張しているわけではありませんし、著者が特にインセンティブの経済学にお詳しいという印象は持ちませんでした。研究成果から判断すると日本経済史ないし経営史のご専門のようで、タイトルから想像してインセンティブにより経済を解説するという目的なら、少し失望する可能性があります。ただ、明治の殖産興業期の7つのエピソードから日本の経営史について知りたいということであれば、大いに参考になることと思います。エピソードは収録順に、伊藤八兵衛の訴訟問題、鐘紡職工誘拐事件、三井家の株式会社としてのビジネス展開、東京製綱のワイヤロープ開発におけるイノベーション、大日本製糖の疑獄事件である日糖事件、生糸商標の品質保証、そして、海運業の独占と寡占、となります。特記しておきたい点は、明治に至る前段階の開国当時から明治中期くらいまで、日本のビジネス・モラルはまったく先進国レベルに達せず、特に今でも部分的にそうですが、契約は遵守せねばならないという意味での契約概念が希薄であり、契約遵守よりも契約に反してでも目先の利益を優先するケースが目立ったりしていました。株式取引は少し前までインサイダー情報を仕入れて儲けるくらいの証券マンが優秀と考えられていたこともあります。そういった中で、先進国レベルのビジネス・モラルがどのようにして、また、いかにして確立されたかについては興味深いものがあります。繰り返しになりますが、インセンティブについて勉強しようという向きには物足りなさが残ると思いますので、出版社の本書のサイトで今一度目次を確認しつつ、日本の明治期の経済史や経営史を勉強する向きにはオススメであることを改めて明らかにしておきたいと思います。

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次に、吉田修一『罪名、一万年愛す』(角川書店)を読みました。著者は、日本を代表する人気小説家の1人です。私ももっとも好きな小説家の1人でもあります。小説の舞台は長崎県内の九十九島です。「くじゅうくしま」と読みます。私も長崎大学経済学部の教員をしていた時に、まさに今くらいの4月初めのころに新入生のオリエンテーションで泊まり込みで九十九島の中のリゾート開発された島に行った経験があります。本書では、プライベートビーチならぬプライベートアイランドとして個人に買い取られた島が舞台です。でも、視点を提供するという意味での主人公は、横浜の探偵である遠刈田蘭平となります。この主人公のもとに、九州を中心にデパートで財を成した有名一族の3代目である梅田豊大から「一万年愛す」という宝石を探すよう依頼が舞い込みます。紹介者は最後の最後に明らかにされます。主人公の探偵は、創業者であり、依頼人の祖父に当たる梅田壮吾の米寿の祝いのため九十九島の中の梅田家のプライベートアイランドを訪れます。お祝いの会には、ご本人である梅田壮吾のほか、依頼人の両親と依頼人の双子の妹といった家族のほかに、警視庁の元警部である坂巻も招待されています。しかし、その祝いの宴の翌朝にご本人の梅田壮吾は行方不明になります。島中を探しても見つかりません。主人公は依頼された宝石とともに、梅田壮吾も探すことになるわけです。とてもいいラストです。もちろん、元来がミステリ作家ではありませんから、プロットや謎解きに不満が残る読者は少なくないものと思います。でも、ミステリとしてよりも一代で財を成した経営者の人生をなぞるストーリーとして読めば、とてもいい小説です。私のようにこの作者のファンであれば、ぜひとも押さえておくべきであり、ファンでなくても大いにオススメの小説です。

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次に、白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書はいくつかのミステリ小説のランキングで上位に入っています。5話の短編からなる短編集なのですが、いわゆる連作短編ではなく、まったく独立した短編を収録しています。収録順にあらすじを紹介すると、「最初の事件」では、小学校の児童が襲われる事件が立て続けに起き、小学校の名探偵が捜査を行います。他方、北アフリカでは反政府デモから内戦状態に突入します。「大きな手の悪魔」では、未来を舞台に、地球にやって来た異星人が地球を16のエリアに分割し、知能の高いエリアへの攻撃を中止する一方で、知能の低いエリアでは殺戮が続きます。地球人は対抗するために特殊な最終手段を講じます。「奈々子の中で死んだ男」では、昭和初期を舞台に、ならず者が罠に嵌められて訳あり遊女の集まる地域に逃げ込みますが、結局殺されて幽霊となって遊女に真相解明を依頼します。「モーティリアンの手首」では、縁起物として高値で取引されることから、一攫千金を夢見て異星生物モーティリアンの化石を発掘する3人組でしたが、地震の後に大量の化石が現れ、その中に、切り落とされた手首の化石が発見されます。「天使と怪物」では、教会の孤児院から逃走した姉弟は、フリークショーを見世物にしている世界の真実博物館にやってきて、天使の子として手紙により殺人事件を予言します。ということで、まったく何の関連もない5話のミステリ短編ですが、それぞれの短編はとても意外性が大きい上に完成度が高く、鮮やかな謎解きを展開していて、全体としても素晴らしいミステリに仕上がっています。ただ、読者によってはエロよりもグロい方で少し敬遠する向きがあるかもしれません。

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一色さゆり『ユリイカの宝箱』『モネの宝箱』(文春文庫)を読みました。著者は、東京芸大美術学部ご出身であり、『神の値段』で第14回「このミステリーがすごい!」大賞受賞して作家デビューしています。芸大ご出身らしく美術ミステリでしたが、私も出版直後の2016年にに読んでいて、やや物足りない旨のレビューを残しています。本書は2冊ともやっぱり美術に関連する小説なのですが、まったくミステリではありません。主人公の優彩は高校卒業から勤めていた画材店が廃業して、小さなアートの旅に特化した旅行会社である梅村トラベルで働き始めます。経営者である梅村夫妻と先輩女子社員の桐子に主人公を合わせても4人だけの小さな旅行会社ですが、通常の旅行会社と同じように交通手段や宿の手配とともに、展示内容の把握、入館チケットの入手、さらに、各地の美術館を解説者として同行して、読者に対しても美術への旅を誘いかけます。2冊とも4話の短編を収録しています。訪れる美術館は、収録順に、『ユリイカの宝箱』が瀬戸内海の直島にあるベネッセの地中美術館、京都の河井寛次郎記念館、安曇野の碌山美術館、佐倉のDIC川村記念美術館、そして、『モネの宝箱』はタイトル通りにすべてモネの睡蓮を所蔵している美術館であり、東京上野の国立西洋美術館、箱根のポーラ美術館、倉敷の大原美術館、京都のアサヒグループ大山崎山荘美術館、となります。河井寛次郎記念館はその名の通り陶芸家の河井寛次郎の作品を所蔵しているわけですが、短編の中で京都のもう1人の美術家として福田平八郎先生のお名前が言及されています。私が中学生のころですから、1970年代初め、福田平八郎先生が亡くなる1974年の前だと思うのですが、私の父親がお客さんを連れて行ったお店で福田平八郎先生の絵をあしらった団扇をもらってきたことを記憶しています。夏の季節ですからナスの絵をあしらった団扇でした。ああいった美術品を普通に配るのが京都の文化なのだと感じたのですが、どうでもいいことながら、今となっては、きれいに保存しておけば結構な値で売れるお宝だったかもしれない、と思わないでもありません。さらにどうでもいいことながら、我が家が青山に住まいしていたころ、子供が参加していたボーイスカウト港第18団が麻布十番納涼夏祭りに焼きそばを出店していて、宇野亞喜良先生デザインの団扇をもらっていました。保存状態は決してよくありませんが、2009年と2010年の団扇は私は今でも身近に持っていたりします。メルカリで検索すると結構なお値段がついていたりします。はい、どうでもいいことでした。私の美術に対する関心は、この程度なのかもしれません。

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2025年3月29日 (土)

今週の読書は経済書と経済エッセイのほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)は、経済発展論や開発経済論について日本やアジアの経験を基に歴史的観点も含めた分析をしています。根井雅弘『経済学の余白』(白水社)は、日経新聞夕刊などに掲載されたコラムを基に、専門の経済学史の学識を活かした幅広い経済に関するエッセイです。鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)は、南極から持ち帰った氷に含まれていた何かにより大量の不審死が発生するところから始まるホラー小説です。志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)では、貧困をあってはならない生活状態とし、ピケティ教授のいう人間の尊厳に近い観点から議論を展開しています。山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)では、市場と国家に次いで市民社会を第3のセクターと位置づけ、ウェルビーイングを議論しています。円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)は、江戸期に上田秋成が取りまとめた書物の現代訳であり、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多い印象です。
今年の新刊書読書は先週までに69冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて75冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。なお、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』も読みましたが、新刊書読書ではないと思いますので、今日の読書感想文ブログには含めず、すでに、いくつかのSNSにポストしてあります。

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まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)を読みました。著者は、いずれも開発経済学の専門家であり、一橋大学教授と静岡県立大学教授を務めていました。本書は、経済発展論や開発経済論について、日本やアジアの経験を基に歴史的事実を参照しながら分析しようと試みています。タイトルにある「曼荼羅」について、まえがきには「本質を図解したもの」と表現しています。もちろん、仏教用語です。その曼荼羅、経済発展の曼荼羅は p.32 の図序-9 に示されています。私は、そもそも、開発経済学を体系的に勉強したことはありませんが、というか、少なくとも私が京都大学経済学部の学生であったころには開発経済学という授業や講座はなかったように記憶していて、ただ、戦後日本の経済成長やアジア各国の経済発展の歴史などから、帰納的に抽出できるものを体感として感じているだけです。ただ、研究成果としてはいくつか開発経済学に基礎を置く論文はあったりもします。主として、日本経済の戦後の経験を振り返ったもので、役所に勤めていたころに同僚と取りまとめた "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" があり、世銀のリポートやいくつかの学術論文で引用されていたりします。戦後日本の経済発展の転機として、終戦直後から高度成長期前の期間で本書が着目しているのは、傾斜生産方式の採用、ドッジ・ラインによるインフレ収束と360円レートの設定などを上げています。そして、1950-60年代には高度成長期に入るわけですが、やや強権的ともいえる通産省による産業政策よりも、経済企画庁による経済計画のガイドライン的な役割が私は大きかったと考えています。本書第3章でも同様の見方が示されています。しかし、経済計画と聞くと旧ソ連型の社会主義を連想するビジネスパーソンが多いのですが、決してそうではありません。すなわち、ちょっと考えれば理解できると思うのですが、現在でも少なくとも上場企業であれば事業年度ごとに、多くの大企業では中期の計画を持っているのではないでしょうか。上場企業でなくても、気の利いた企業であれば会計年度ごと、また5年間くらいの中期の計画は策定していると思います。そういった事業計画をまったく持たずに、すべてを市場の動向に任せて事業展開している企業は少ないと私は認識しています。政府が民間部門に何らかの指令を発するわけではないとしても、ガイドライン的な指針を明らかにするのは経済発展の初期の段階では大いに有益だと考えます。アジアの経済発展について考える上で、また、日本経済の戦後の歴史を振り返るためにも、なかなか本書はオススメです。

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次に、根井雅弘『経済学の余白』(白水社)を読みました。著者は、京都大学経済学部の教授であり、ご専門は経済学史です。本書は、webメディアである「日経フィナンシャル」と日経新聞夕刊に掲載されていたコラムの「あすへの話題」を単行本として取りまとめています。さすがに経済学史の専門家ですので、幅広い経済学の知識を活かしたエッセイとなっています。著者は大学まで東京で、大学を卒業して大学院から京都に住んでいる一方で、並べるのはおこがましいながら、私は逆に、大学まで京都で、大学を卒業して就職してから60歳の定年まで東京でしたので、地理的にはかなり対象的な暮らしといえなくもありません。ですので、本書の冒頭の方で、大学生の通学事情について言及している点は、私も逆の意味で不思議に思った記憶があります。すなわち、本書では京都の大学生が自転車で通学している点を本書の著者はめずらしく受け止めていますが、逆に、私は東京の大学生が大学近くに住まずに地下鉄で通学しているのを不思議に感じた記憶があります。もうひとつ、本書の底流にあると私が読み取ったものには、エコノミストの、あるいは、大学教育の専門性と一般性、とでもいうか、幅広い学識というよりも高度に専門的で、その意味で、狭いながらも深い専門性を身につけることが望ましいと考えるのか、それとも、専門的な学識は一定必要としても、浅いながらも広く一般常識を身につけるリベラツアーツのような教育を目指すかという点です。識者の中には両立するという人がいそうな気もしますが、私は両立しないと考えています。その昔の大学教授といえば、典型的には専門性高いが世間からは遊離しているような前者の人物像、すなわち、牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、服装やヘアスタイルなんぞは気にもかけず、霞を食って生きているような人物像を思い浮かべる人もいましたが、今ではまったくそうなっていません。しかも、私が考えるように、両立できないとすれば、大学教員は狭いながらも深い専門性を持ったスペシャリストな学者と浅いながらも幅広い見識を身につけたジェネラリストの学者の2種類がいるように私は考えています。繰り返しになるものの、大昔は前者のスペシャリストの学者だけだったのですが、現在では後者のジェネラリストの学者も高等教育の業界に進出してきているわけです。私なんぞは後者であって典型的にオールラウンダーでジェネラリストですから、前の長崎大学のころは「役所出身の教員は1-2年生に基礎を教えてくれればよくって、大学院の修士論文指導なんかは専門の先生方に任せておけばいい」と学部長なんかからいわれていました。今の立命館大学では少し違います。というか、大いに違います。大学院の修士論文指導の授業を私はいっぱい受け持たされています。逆に、経済学部1回生の授業なんて私には回ってきたためしがありません。でも、明けて来週4月から始まる2025年度には、とても久しぶりに経済学部1年生の授業を秋学期に担当しますので、ひそかに楽しみだったりします。

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次に、鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)を読みました。著者は、『リング』、『らせん』、『ループ』の三部作やそれに続く貞子のシリーズなどで有名なホラー作家です。日本を代表するホラー作家の1人といってもいいような気がします。出版社のうたい文句によれば「16年ぶりの完全新作!」ということでしたので、早速に大学生協で予約して買い求めました。適当なタイミングを見計らって、ホラー好きの倅に下げ渡す予定です。ごく簡単なストーリーは、一方で、ジャーナリストから探偵に転じた主人公の女性がカルト教団に所属していた女性を探し、他方で、南極から持ち帰られた氷に含まれる何かで不審死が出て、地域限定ながら大量死も発生します。3月26日に発売された出版ホヤホヤのホラーですので、出版されてから、指折り数えてまだ数日だということもあって、あらすじすらコト細かに明らかにすることは現時点では避けたいと思います。いくつか、SNSでも読後の感想文が出ていますが、何と、ホラーではなくてミステリだと読む読者もいたりします。今さら『リング』が死因を解き明かすミステリだと思う人はいないわけで、とても不思議に感じました。死因を解き明かすという意味で謎解きの要素がまったくないとはいいません。『リング』にせよ、本書にせよ、人が死ぬところからストーリーが始まっていますから、その死亡の原因を探るのは謎解きかもしれません。でも、その謎を解き明かすことがテーマとなるミステリではなく、本書はその人が死ぬ、しかも、原因が必ずしも明らかではない不審死であり、その連鎖をいかに防ぐか、をテーマにしていますので、完全なホラーと考えるべきです。詳しくは読んでみてのお楽しみなのですが、一応、2点だけ私の印象的を上げると、植物のパワーに着目し、特に、「ヴォイニッチ・マニュスクリプト」を持ち出しているのは秀逸といえます。もうひとつ、ラストのシーンをはじめとして、色彩的に鮮やかな作品ではないかと思います。この作者の『リング』の映像化は、なぜか、ハリウッドのリメイク版の方が有名になったように記憶していますが、この作品は何とか国内でしっかりと映像化して欲しいと願っています。まあ、映画ではなくドラマでもいいといえばいいのですが、いずれにせよ、映像化すればミステリではなくホラーだということが明らかになると思います。ぜひ、色彩感覚に鋭敏な監督の手で映画化して欲しいと私は希望しています。

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次に、志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)を読みました。著者は、大分大学健康福祉科学部の准教授であり、ご専門は貧困理論、社会政策だそうです。まず、いきなりタイトルの問いに回答すると、本書ではp.28で「貧困=あってはならない生活状態」と定義しています。そして、序章ではジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』を題材として、貧困に関して何らかの数値基準からアプローチするか、実際の生活状態からアプローチするか、の違いを上げています。はい、軽く想像される通り、本書は後者の生活状態からのアプローチに重きを置いていると考えるべきです。ちなみに、私はそれほど貧困問題に詳しくないエコノミストながら、それなりに関心もありますので、長崎大学のころに紀要論文で "A Survey on Poverty Indicators: Features and Axioms" と題するペーパを取りまとめた経験があります。はい、本書でいうところの典型的な数値基準からのアプローチといえます。私自身も貧困については、基本的に、不平等と同じような問題点を考えています。ですから、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』でピケティ教授が不平等の問題点を3点指摘していて、経済的には財へのアクセス、政治的な権利行使、そして、人間としての尊厳を上げています。本書ではこの最後の人間としての尊厳に近い考え方で貧困問題を論じていて、私も大いに賛同します。ノーベル経済学賞を受賞したセン教授のケイパビリティ理論をさらに拡張したような貧困に関する社会的排除理論などの議論を本書では展開していて、英国のベバリッジ報告に始まって、戦後の先進国における福祉概念の拡張や貧困対策の充実なども実にに適切に取り上げられています。本書でも注目している教育に加えて、医療や衛生や健康といったヘルスケア、さらに拡張して住宅などについても、資本主義的な投資アプローチを脱して、商品としてではなく脱商品化された社会福祉として、すなわち、市場を通じた貨幣でのやり取りではない供給の方法がないものか、と考えるべき段階に日本や欧米先進国は達しています。そういったコンテキストでも貧困を考えるべきではないでしょうか。

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次に、山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)を読みました。著者は、名古屋大学経済学部の名誉教授です。研究成果を見ている限り、フランス的なレギュラシオン理論に基づく理論経済学、現代資本主義論、市民社会論がご専門のように見受けます。本書では、英語のwell-being=ウェルビーイング=豊かさ、と定義しつつ、実際に独自の計測の理論的な展開をしているわけではなく、経済的な規模としてのGDPやその昔のGNPに代わって、生活の豊かさを政策目標、とまではいいませんが、経済だけではない社会活動の主要な目標と位置づけて、いくつか、すでに推計されて試算結果が公表されている豊かさの指標について本書後半で解説しています。まず、本書では、第1セクターとしての市場、第2セクターとして国家、そして、第3セクターとして社会ないし市民社会を考えています。その第3セクターの市民社会が小さければコミュニティになるわけです。そして、政府の現在の政策目標がウェルビーイングであるかどうかは疑わしいと結論しています。もちろん、第1セクターである市場の活動の結果を計測する一つの指標がGDPであり、所得と表現しても同じことです。ところが、私でも知っていますが、イースタリンのパラドックスというのがあって、所得が低い水準であれば幸福度=ウェルビーイングと所得は一定の正の相関を示すのですが、1人当たりGDPで大雑把に1万ドルくらいの閾値で所得が増加してもウェルビーイングが高まらない状態になってしまいます。要するに、俗にいう「幸福はお金では買えない」段階に達してしまうわけです。そのあたりから互酬と相互扶助、あるいは、協力の市民社会におけるウェルビーイングを議論する必要が出てきます。第3セクターの市民社会において、本書では、ポランニーの互酬、オストロムのコモンズ、宇沢の社会的共通資本、ハーバーマスの市民社会、ボウルズのホモ・レシプロカンス、の5類型を上げて解説を加えています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。そして、最終章に近い第7章で経済的なGDPに代替するウェルビーイングの指標をいくつか解説しています。国連開発計画(UNDP)の人間開発指数(HDI)や国際協力開発機構(OECD)のベターライフ・インデックス(BLI)などです。本書p.148 図表7-1のテーブルに一覧が示されています。そして、最終第8章でウェルビーイングな社会をどう作るかを議論しています。最後の最後に、私から1点だけ付け加えると、経済活動といってもいいですし、社会活動といってもいいですが、雇用あるいは労働をどのように考えるかが重要です。単に、新自由主義的に所得を得るための労働サービスの提供と考えるか、経済社会に必要な財やサービスを提供するための活動と考えるかです。前者が伝統的なミクロ経済学の見方であり、労働をしないという意味での「余暇=レジャー」が正の効用をもたらす一方で、労働は負の効用すなわち苦痛であって、その苦痛を耐え忍んで賃金を得るために働く、という考えがミクロ経済学では基本となります。しかし、ホントにこの伝統的な経済学の前提が正しいかどうかは私自身は疑問を持っています。本書ではこの労働についてほぼほぼ無視されています。この点だけは物足りなさが残ります。

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次に、円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)を読みました。『雨月物語』の著者は、広く知られているように上田秋成なのですが、本書は河出文庫の古典新訳コレクションの一環としてSF作家により現代訳されています。このコレクションは30冊ほど出版されていますが、私は不勉強にしてエッセイストの酒井順子の訳になる『枕草子』上下しか読んでいなかったりします。ということで、そもそも上田秋成による『雨月物語』そのものが作者のオリジナルというわけではなく、中国や本邦の小説や古典を翻案して取りまとめたものであることは広く知られている通りです。それを現代訳しているわけです。収録されているのは全9話、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧富論」となります。当然ながら、オリジナルの上田秋成による『雨月物語』と同じです。1話ごとの詳細なあらすじは省略しますが、基本的に、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多いと感じます。例えば、冒頭の「白峯」は配流された崇徳院の怨霊と弔いの目的で立ち寄った西行との会話から成っています。「菊花の約」は、義兄弟の約束を果たすために千里を行ける幽霊になった武士のお話です。舞台は戦国時代の日本に設定されていますが、元はといえば中国の小説です。「浅茅が宿」は夫婦の悲恋もので、夫が行商に出るのですが、戦乱の世のためになかなか妻の元へ帰れず、やっと家に戻って妻と一夜をすごし、翌朝目覚めてみると我が家は見る影もない廃屋だった、というものです。このお話が私には一番でした。「夢応の鯉魚」では、絵から飛び出して鯉になって泳ぎ回る高僧の過去に琵琶湖が登場します。「仏法僧」は、高野山の燈籠堂で一夜を明かすことになった俳人の夢然の前に武士団の幽霊が現れます。「吉備津の釜」からは、よく、女の嫉妬心は怖い、特に、源氏物語の六条御息所を彷彿とさせる、という感想を聞きます。私もそうでした。少し飛ばして、最後の「貧富論」では、戦国時代の実在の武将である岡左内のところに、「黄金の精霊」が現れて左内の問いに答え、貧富、というか、金持ちについて論じます。そして、富貴の観点から徳川が天下を取ることを予言します。いかにも、江戸時代の幕府に忖度した短編といえます。

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2025年3月22日 (土)

今週の読書は経済書のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通り、経済書のほか計6冊です。
まず、ウィリアム・ラゾニック & ヤン-ソプ・シン『略奪される企業価値』(東洋経済)では、イノベーションなどによって創造された企業価値が自社株買いなどの略奪的な手法により価値抽出されており、労働者も安定的な終身雇用の機会を奪われてしまった、と株主資本市議を批判しています。大豆生田稔『戦前期外米輸入の展開』(清文堂)は、戦前期の1900年ころから需要が生産を上回り、輸入が常態化するようになったコメについて、特に、東南アジアの英領ビルマ・仏印・タイで生産されるインディカ種の外米の輸入について歴史的に後付けています。上條一輝『深淵のテレパス』(東京創元社)では、30代半ばにして営業部長をしているバリキャリの女性が部下に誘われて、大学のオカルト研究会のイベントで怪談を聞いた日を境に怪現象に襲われ、あしや超常現象調査に調査を依頼して、怪異現象の調査が始まります。高野真吾『カジノ列島ニッポン』(集英社新書)は、2030年に開業予定の大阪カジノ構想にとどまらず、日本における統合型リゾート(IR)のあり方を考えるため、海外のカジノを含めて、幅広い見地から取材した結果のレポとなっています。永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』(新潮文庫)は、ミステリとしての謎解きも鮮やかですが、むしろ、大正期の横浜を舞台にした上流社会における女性の一代記として楽しめます。C.S. ルイス『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』(新潮文庫)は、ペベンシー家の4きょうだいのうちの2人、エドマンドとルーシーがいとこのユースティスとともに、カスピアンの夜明けのぼうけん号でナルニアの東の海に追放された7人の貴族の消息を追います。
今年の新刊書読書は先週までに63冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて69冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアし、また、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。

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まず、ウィリアム・ラゾニック & ヤン-ソプ・シン『略奪される企業価値』(東洋経済)を読みました。著者は、米国マサチューセッツ大学ローウェル校経済学名誉教授とシンガポール国立大学経済学部教授です。英語の原題は Predatory Value Extraction であり、2020年にオックスフォード大学出版局から出版されています。なお、巻末に日本語解説が置かれています。本書のエッセンスは中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)でも紹介されていますが、一言でいえば、現在の特に米国における株主資本主義を強く批判しています。すなわち、そもそも戦後1950年代から60年代における米国の企業システムは、日本の高度成長期と極めて類似しており、「内部留保と再投資」(retain-and-reinvest)の資源配分体制と「終身雇用」(career-with-one-company)の慣行に根ざしたものであったと指摘しています。それが、1980年代からビジネススクールや企業の役員室においては「株主価値最大化」(maximizing shareholder value=MSV)のイデオロギーが支配的となり、「内部留保と再投資」の体制が放棄され、有期雇用の拡大を特徴とする「削減と分配」(downsize-and-deistribute)の資源配分体制に移行し、労働生産性と実質賃金がデカップリングするとともに、持続的な経済的繁栄の社会的基盤を弱体化させ、終身雇用を失った労働者の雇用を不安定化させ、所得の不平等や労働生産性の伸び悩みをもたらしている元凶である、ということです。えっ、それって日本のことじゃないのか、という気がするのは私だけではないと思います。この日本に関する点は最後にもう一度言及します。本書に戻って、企業価値はイノベーションによって創造され、その後、というか、何というか、略奪的に価値抽出されてしまう、という点も強調されています。例えば、株価を動かす要因はイノベーション、投機、株価操作であり、インーベーションによって企業価値が創造されても、自社株買いによって価値抽出される、と米国企業活動の現状を見ています。すなわち、創造された企業価値を抽出するのに大きな役割を果たしているのが自社株買いである、と分析していて、最後の政策提言のトップは米国証券取引委員会(SEC)規則に関するものだったりします。詳細な分析は読んでいただくしかありませんが、日本について私の感想を最後に書いておきたいと思います。はい、本書の分析結果はほぼほぼすべて日本に当てはまります。私は典型例を堤ファミリーの西武グループに見ています。堤ファミリーはいわゆる近江商人の家系であり、私の通勤に使っている近江鉄道バスには、西武ライオンズで広く知られた白いライオンを掲げて走っています。しかし、米国投資ファンドのサーベラスほかによりグループ企業、西武鉄道、西武百貨店、スーパー西友、ロフト、セゾンカード、プリンスホテル、国土計画、などなどはバラバラに解体されてしまいました。私が役所に就職した当時は西武鉄道沿線に住んでいて、スーパー西友もいっぱいあったので、今でもセゾンカードを持っているのですが、つい数年前までスーパー西友の買い物をセゾンカードで支払うと、いくばくかの割引がありましたが、今ではなくなって、とうとうスーパー西友は楽天グループのポイントを採用するに至っています。私はかなり前に楽天では派遣社員が社員食堂を使わせてもらえないというウワサを聞いて、ウワサが真実はどうかはともかく、決して楽天グループにいい印象を持っていませんでした。ですので、このあたりは、個人的な感想なのですが、今は買収される側で話題に上っているセブン&アイ・ホールディングスが、1年半前の2023年9月に、米国投資ファンドのフォートレス・インベストメント・グループに対して、そごう・西武の株式を売却した際、そごう・西武の企業価値がたったの8500万円だったと報じられました。この買収に関して、超久しぶりに百貨店、すなわち、西武百貨店池袋店で短時間ながらストライキが実施されたのは広く報じられた通りです。まさに、こういった企業活動の価値の毀損について鋭く本書では分析を加えています。繰り返しになりますが、そごう・西武の企業価値がたったの8500万円にまで落ちたわけです。一部に学術書っぽい難解な部分はありますが、多くの学生や研究者やビジネスパーソンなどにオススメです。

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次に、大豆生田稔『戦前期外米輸入の展開』(清文堂)を読みました。著者は、東洋大学文学部教授です。本書はタイトル通りに戦前期日本の外米輸入の歴史を取り上げています。ただ、ご注意までなのですが、本書でいう外米というのは、広く輸入米を指しているわけではなく、戦前期の英領ビルマ・仏印・タイで生産されたインディカ種のコメの呼称として使われています。本書でいう外米以外の外国産米として、朝鮮米や中国米や台湾米がある点は指摘しておきたいと思います。この「外米」の用法が日本史や歴史学で通常そうなっているのか、本書だけの独特な用法なのかは、私は歴史学にそれほど詳しくないので不明です。ということで、本書では、戦前期の3つの時期に着目しています。すなわち、19世紀の1890年前後および1897年から1998年、米騒動直後の1918年と1919年、そして戦時期の1940年から1943年です。戦時期に入るまでは外務省の在外公館との連絡公文を調査し、戦時期については米国戦略情報局(OSS)、すなわち、現在の中央情報局(CIA)の分析も含めて、詳細に歴史的に後付けています。本書でいう外米はインディカ種で、日本国内で食用に供されるジャポニカ種とは食味が異なります。通常、コメはブレンドしますから少量であれば、本書では20%くらいまでと考えているようですが、それほど食味への影響は大きくありません。でも、国内産米が不足すれば、インディカ種だけでなく大麦などの雑穀もブレンドすることになり、食味の点からは評価が低下します。でも、量的な不足を補うためには輸入せざるを得ませんし、何よりも、現時点でも痛感されているようにコメの量的不足は価格高騰につながります。コメの価格弾力性が低いからといえます。そういったコメの海外からの輸入について考えるうえでとても参考になりました。最後に、3点ほど私から指摘しておきたいと思います。第1に、私の知る限りの歴史上の常識としても、コメについては、我が国の主食でありながら、1900年ころから需要が生産を上回ることが常態化し、したがって、本書で定義する外米だけでなくコメ輸入が戦時期まで継続することとなります。はい。私が大学で日本経済について教える際、日本の貿易構造について、極めて単純にいえば、戦前期は生糸を輸出してコメを輸入し、戦後、というか、高度成長期を終えたあたりからは自動車を輸出して石油を輸入する、と教えています。ですから、コメ余りで減反政策を実施した、なんてのは戦後のつい最近の短期間ことである点は忘れるべきではありません。昨秋来のコメ不足についても歴史的にもっとよく考えるべきです。第2に、本書は歴史学的には詳細なドキュメントに当たって分析されているのですが、経済学的にもう少し背景の分析も合わせて行う必要があると感じました。すなわち、輸出入については決済方法として金本位制が採用された日清戦争の後、そして、関税自主権が回復された日露戦争の後、1910年ころ以降で、それぞれ明らかな構造変化があります。第3に、コメのような食糧については量的な生産や輸出入だけでなく流通についても考慮する必要があります。本書では米国戦略情報局の報告書で、終戦時の1945年時点で日本には2年分のコメ備蓄があった、という分析結果を過大評価としています。私は戦後ヤミ市での流通などを考え合わせると、さすがに2年分の在庫は過大評価かもしれませんが、一定のコメ在庫はあったと判断しています。現在の足元のコメ不足も、生産不足は決して否定しないとしても、流通の目詰まりや業者の売り惜しみといった面も忘れるべきではないと考えます。

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次に、上條一輝『深淵のテレパス』(東京創元社)を読みました。著者は、webメディアでライターをしつつ、本書により創元ホラー長編賞を受賞してデビューしています。あわせて、本書は、朝宮運河氏主催の読者投票企画「ベストホラー2024 国内部門」でも1位に選ばれています。主人公は、あしや超常現象調査の動画サイトを運営する2人、芦屋晴子とその助手の越野草太です。2人はサラリーマン勤めの傍ら、超常現象を解明するために大学の研究室ともタイアップして動画を撮っています。ストーリーは、PR会社のバリキャリであり30代半ばにして営業部長をしている高山カレンが部下に誘われて、その部下の弟が所属する大隈大学のオカルト研究会のイベントで、怪談を聞いた日を境に怪現象に襲われることから始まります。すなわち、不気味な異音がしたり、汚水が現れたりといった怪異現象が現れるのですが、光があるとこういった超常現象は起こらず、暗闇が生じるとそこから怪異現象となります。あしや超常現象調査の2人は協力者も含めて、こういった怪奇現象の解明に当たります。ということで、いくつか、私からの感想です。まず、大隈大学、すなわち、福沢大学ではなく大隈大学であるのは地理的な必然性があります。なお、大隈大学の周辺には私が3年近く勤務した総務省統計局があります。ですので、あのあたりの土地勘を私は十分持っています。続いて、本書はホラーなのですが、明らかにホラー小説なのですが、それほど怖くありません。少なくとも、怖くて読み進むことが出来ない、という読者はほとんどいないものと私は考えます。最後に、本書の出来のいいところは、超常現象を中心に置いて謎解きをすることができる一方で、まったく超常現象に関係なく近代物理学の想定するスコープでも、十分解決できることを主要な登場人物の1人、あしや超常現象調査の協力者の1人がラストで謎解きしています。ミステリでいえば多重解決になるのかもしれませんが、若手作家のデビュー作という点を考えれば、この超常現象のオカルトと近代物理学に立脚するミステリの両方か謎解きができる、というのは優れた構成だと感じました。最後の最後に、読後、「火星鉛筆」をwebサーチする読者がいそうな気がしますが、はい、私もしましたがヒットしません。

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次に、高野真吾『カジノ列島ニッポン』(集英社新書)を読みました。著者は、ジャーナリストであり、20代のころからマカオ、韓国、ベトナムなどの海外でカジノを経験してきている、と紹介されています。本書では、2030年に大阪で開業予定の万博跡地のカジノを含む統合型リゾート(IR)だけでなく、いまだに消滅しているわけではない東京カジノ構想、さらに、主としてアジア各国における海外カジノ事情、不認定の結果を受けた長崎カジノ計画とどうも消えたっぽい和歌山と横浜のカジノ計画、もちろん、ギャンブル依存症についてと、幅広く取り上げています。実は、私は30代前半に南米チリの大使館に経済アタッシェとして赴任し、3年間の勤務を経験していますが、チリの首都サンティアゴから車で1時間余の太平洋岸のビーニャ・デル・マールというところに地方自治体が経営するカジノがあり、年間2-3回、3年間の勤務で10回ほど行ったことがあります。私はその前から合理的極まりないエコノミストであり、確率的に非合理で、損するギャンプルはやりません。でも、外交官で海外に赴任しているわけで、社交上カジノに行くことはありました。また、シンガポールのカジノが本書でも言及されていて、最近ではそれなりにアジアではマカオなんかとともに有名になっています。我が家は今世紀初めに3年間ジャカルタで暮らしていて、メディカルチェックなどで半年おきくらいに一家4人でシンガポールに行っていたのですが、シンガポールでカジノが開業したのは2010年ころであり、私はシンガポールのカジノは経験ありません。そもそも、子供たちが小さかったのでナイトサファリにすら行きませんでしたので、開業していたとしても行ったかどうかは不明です。本書はジャーナリストの手になる詳細なレポとなっていますが、カジノ経験ある私の見方から、3点だけつけ加えておきたいと思います。第1に、来月から開幕する万博はカジノとシームレスにつながっているという事実をもう一度確認する必要があります。メディアなどでは、ある意味で、無邪気に万博を取り上げていますが、万博の後には膨大な公費を投入したカジノの開業が控えています。この点は忘れるべきではありません。第2に、本書でも言及されていますが、横浜は明確に「カジノ反対」を掲げた市長が当選し、市民のリテラシーの高さを見せつけられました。やや記憶が不確かなのですが、マルクスの主著である『資本論』で、トイレに課税しようとして諌められた王様が、「貨幣は匂わない」と反論したというエピソードを読んだ記憶があります。いまだに社会主義ならざる資本主義の世の中ですから、所得を得ることは生存のために必要性が高いのですが、どのように所得を得るか、加えて、稼得した購買力を何に対して使うか、という点は、個人や地方自治体や企業などのいずれの経済主体であっても、キチンと考えるべき課題のひとつだと私は考えます。第3に、維新の大阪府政・大阪市政ほかを見ている限り、私は維新という政党をそれほど信用できません。今からでも可能であれば、大阪カジノ構想は万博とともに中止すべきだと考えています。

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次に、永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』(新潮文庫)を読みました。著者は、エンタメ作家であり、2004年の『転落』が注目されたそうですが、私は不勉強にして本書が初読です。本書は昨年2024年の各種ミステリのランキング上位に入っている話題作です。例えば、宝島社「このミステリーがすごい! 2025年版」国内編第3位、とか、「週刊文春ミステリーベスト10 2024」国内篇第4位、とかです。時代背景は明治末年から大正を中心に昭和初期までをカバーしています。でも、事実上は関東大震災で終わっているといってもいいかもしれません。場所は横浜ならぬ本書の表記では横濱であり、タイトルの檜垣澤家は横濱で知らぬ者なき富豪一族、上州出身の創業者が「糸偏」と呼ばれた繊維産業、特に養蚕業を皮切りに事業を拡大した貿易商です。一家の者が自らを「成金」と自覚していたりします。その創業者である檜垣澤要吉が妾に産ませた娘である高木かな子が主人公です。明治末期に8歳で母を亡くして檜垣澤家に引き取られますが、ほどなくして創業者の父親も卒中で寝込んだ末に亡くなります。一家の事業は創業者である檜垣澤要吉の正妻のスヱと長女の花が取り仕切ります。スヱは大奥様、花は奥様と呼ばれています。花の婿養子の辰市は外向けのお飾りで、事業の実権も一家の奥向もすべて女系で治めています。スヱの孫、というか、花の子も3人とも娘であり、花の長女の郁乃が婿養子を取っています。一応、ミステリとしては、花の婿養子の辰市が蔵の小火で焼け死んだりした事件を最後の方で謎解きがなされたりするのですが、ミステリとしての色彩は希薄と私は考えます。むしろ、高木かな子、長じては花の養子となって檜垣澤かな子となった女性の一代記ではなかろうかと思います。檜垣澤に引き取られた直後は、使用人以上家族未満として扱われ、女中部屋の一角で寝泊まりして、小学校に通う以外は卒中で倒れた父親の介護に明け暮れます。父親という後ろ盾を亡くしてからのかな子の生き様が読ませどころです。めちゃくちゃに聡いのです。大人の話盗み聞きしては情報を蓄積し、その情報を裏の裏まで考えて分析し、権力者の大奥様スヱの意に沿うように発言・行動しつつも、自分の意向も通し、着々と一家の中での地位の向上を成し遂げます。ものすごくタフで、かつ、策士なわけです。NHK朝ドラ「虎に翼」で、花江が寅子に「欲しいものがあるならば、したたかに生きなさい」という場面がありましたが、まさに、かな子はしたたかに生きます。このかな子の下剋上的な生き様と主として大正期横浜におけるブルジョワ的上流階級の生活が印象的な小説です。繰り返しになりますが、ミステリの謎解きは鮮やかで、それはそれなりに楽しめますが、作品としてミステリの色彩は希薄であり、大正期上流社会を舞台にした女性の一代記の色彩の方が強い、と私は思います。

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次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』(新潮文庫)を読みました。著者は、1963年に没していますが、碩学の英文学者であり、英国のケンブリッジ大学教授を務めています。その作品である「ナルニア国物語」のシリーズが、今般、小澤身和子さんの訳しおろしにより全7巻とも新訳で新潮文庫から順次出版される運びとなっています。私はすでに『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』を読了して、レビューもブログやSNSなどで明らかにしているところで、今週は『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』を読みました。ストーリーは、ナルニア国を冒険したペベンシー家の4きょうだい、すなわち、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーのうち、スーザンが両親の米国旅行に同行し、ピーターは試験勉強のために衣装箪笥のあるカーク教授のところに行ったため、年下のエドマンドとルーシーは夏休みにいとこであるユースティス・クラランスの家に来ています。ユースティスは行動や言動がちょっぴり嫌なやつだったりします。そして、エドマンドとルーシーはユースティスとともに、壁の絵に引き込まれてナルニア国に来てしまいます。人間界では1年だけでしたが、ナルニアでは3年が経っていました。王位を継いだカスピアンの「夜明けのぼうけん号」という船に3人は同乗して、かつてカスピアンの父親から王位を簒奪したミラーズによってナルニアから追放された7人の貴族を探しに東の海を航行します。騎士道精神あふれるネズミのリーピチープも同行しています。向かうは、竜島、死水島、くらやみ島、星の島などふしぎな力を発揮する島々です。果たして、夜明けのぼうけん号の航海やいかに。

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2025年3月15日 (土)

今週の読書はピケティ教授とサンデル教授の対談本をはじめ計10冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』(早川書房)は、不平等に関してフランスのエコノミストであるピケティ教授と米国の政治哲学者であるサンデル教授が、お互いをリスペクトした穏やかな口調ながら、火の出るようなディスカッションをしています。ややピケティ教授の言い分に分がありそうに読みました。松井暁『社会民主主義と社会主義』(専修大学出版局)は、マルクス主義の観点から、経済成長や生産力、生存のための非自発的ないし強制的な労働、国家の役割、グローバル化の4点を考え、社会民主主義と社会主義について考察しています。荻原浩『笑う森』(新潮社)は、5歳のADS児が広大な樹海で行方不明となったものの、1週間後に無事に健康で救助されます。その1週間の間に、何があったか、また、母親をネットで激しくバッシングした誹謗中傷の真実を明らかにします。逸木裕『彼女が探偵でなければ』(角川書店)では、高校時代に探偵の真似ごとをして以来、人の本性を暴くことに執着して生きてきて、父親の経営するサカキ・エージェンシーという探偵社で働く主人公が、さまざまな人間の本性を明らかにします。小川哲ほか『これが最後の仕事になる』(講談社)は、24人のミステリ作家などが、ショート・ショートの冒頭をタイトルと同じ文句で書き出す短編集です。ラストの方に佳作が置かれています。荻原博子『65歳からは、お金の心配をやめなさい』(PHP新書)は、「老後資金は2000万円必要」ではない、という事実を明らかにし、プロでない限り「貯蓄から投資へ」という政府の甘言に乗ってはいけないと経済ジャーナリストが主張しています。上橋菜穂子『香君』1・2・3・4巻(文春文庫)は、嗅覚に人並み外れた能力を持つ主人公が稲と肥料による帝国の繁栄を危うくする虫害の克服に挑みます。
今年の新刊書読書は先週までに53冊を読んでレビューし、本日の10冊も合わせて63冊となります。上橋菜穂子『香君』については、単行本では上下巻の2冊だったのですが、文庫本で4分冊とされたので、ここでは4冊とカウントしています。なお、Facebookやmixi、mixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』(早川書房)を読みました。著者は、フランスのエコノミスト、パリ経済学校教授と米国の政治哲学者、ハーバード大学教授です。はい、火の出るようなディスカッションです。ていねいな口調でお互いをリスペクトしてはいますが、極めて鋭く批判的な論調で相手の論調に対する反論を繰り出しています。でも、私の目からはピケティ教授の方が道理を踏まえていて、まあ、何と申しましょうかで、議論は優勢であったような気がします。冒頭章でサンデル教授の問いに答えて、ピケティ教授が不平等の弊害について、経済的な財の取得の不平等の弊害、政治的権利行使の不平等の弊害とともに、人間としての尊厳の問題を上げています。私はサンデル教授と同様にまったく賛成です。特に経済的な財の取得に関しては、本書では食料などの生存に必要な財はもちろん、不平等の是正に大いに役立つ医療や教育も重視しています。私は加えて、住宅も注目して欲しいと願っています。それ以降、両教授の対談ですから、現状の不平等がどうなっているかについての記述的な分析ではなく、むしろ、不平等についてどう考えるか、先行きどのように修正を図るか、についての議論が主になっています。火の出るようなディスカッションというのは、特に、「課税、連帯、コミュニティ」と題した第7章がハイライトとなっています。ピケティ教授は不平等の是正のために累進課税の果たす役割を強調しています。そして、サンデル教授が左派ポピュリストという用語を用いている点をやんわりと批判しています。はい、私もそう思います。その昔にソ連型の共産主義がまだ一定の影響力を持っていた時代に、「左右の全体主義」という表現がありました。私は決して好きな表現ではありませんでしたが、サンデル教授は未邦訳の Democracy's Discontent の第2版で、左右のポピュリズムといった表現を用いているらしいです。ピケティ教授は「左派ポピュリスト」と呼ばれることを嫌っているような印象でした。私の感想ですが、スペインのPodemos、ギリシアのSYRIZA、あるいは、ΣYPIZA、はたまた、ドイツのBSWとか、日本のれいわ新選組なんかは、自らを左派ポピュリストであると自称しているような気がしないでもないんですが、ピケティ教授はお嫌いなようでした。経済面のみならず、人間としての尊厳の問題も含めて、不平等について考えさせられる読書でした。ひょっとしたら、今年の経済書のベストかもしれません。

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次に、松井暁『社会民主主義と社会主義』(専修大学出版局)を読みました。著者は、専修大学経済学部教授であり、ご専門は社会経済学、経済哲学です。はなはだ専門外ながら、私は以前に同じ著者の『ここにある社会主義』を読んだことがあります。本書はマルクス主義の観点から、経済成長や生産力、生存のために必要な非自発的ないし強制的な労働、国家の役割、グローバル化を考え、社会民主主義と社会主義について考察し、私をはじめとするリベラルなエコノミストがとても受け入れやすい結論を導いています。まず、生産力については、従来からのマルクス主義的な永遠に生産力が拡大するという私のようなシロートの考えを排して、マルクス主義は定常状態を志向する、と結論しています。斎藤幸平の脱成長と同じと考えてよさそうです。私の理解ははかどりませんでした。成長ゼロの定常状態、そんなんで、「必要に応じて受け取る」ことのできる共産主義まで行き着くんでしょうか。疑問です。そして、非自発的ないし強制的な労働と国家は廃止されると考えますが、国家には2段階の廃止を予定し、いかにもマルクス主義的な階級支配の機構としての国家が先に廃止され、さらに、労働の分業に起因し、特殊な利益と共通の利益の疎外を調整する疎外国家はもう少し残る可能性を示唆しています。そして、福祉と労働をデカップリングするベーシックインカムの導入に労働の廃止、非自発的ないし強制的労働の廃止の未来を見ています。はい。この部分には全面的に私も同意します。そして、ソ連型の社会主義が崩壊し、グローバル化が進んだ現在においては、先進諸国で福祉国家を推進してきた社会民主主義が、もっとも期待できる社会主義の潮流であって、当たり前ですが、旧来型の暴力革命は否定され、1980年ころからの新自由主義によって縮小ないし破壊されてきた福祉国家を再建し、押し進めることが社会主義実現のための課題である、と結論しています。この部分、というか、結論も私は大いに同意します。最後にお断りですが、マルクス主義について、まったく詳しくもない主流派経済学に立脚するエコノミストである私の読書感想ですので、間違って解釈している部分がありそうな気がします。大いにします。

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次に、荻原浩『笑う森』(新潮社)を読みました。著者は、小説家であり、私は『ワンダーランド急行』ほかを読んでいます。「ほか」とは、アンソロジーに収録されたいくつかの短編です。あらすじは、5歳の男児である山崎真人、ADS=自閉症スペクトラム障害を持つ5歳児が富士山の樹海に匹敵するような神森の樹海で行方不明となります。山崎真人の母の山崎岬はシングルマザーで夫と死別しています。SNSでは母親の山崎岬をバッシングする誹謗中傷の書込みであふれます。幸いなことに、1週間後に山崎真人が無事に地元消防団員により発見されます。しかし、小学校に通う前の5歳のADS児である山崎真人は、「クマさんが助けてくれた」と語るのみで、樹海で何があったのかは不明のままとなります。そして、山崎真人発見後もネットでのバッシングは続きます。山崎岬の死んだ夫の弟で山崎真人の叔父に当たる山崎冬也は保育士をしていますが、姉の山崎岬に協力して、樹海で何があったのかの真相解明とネットの誹謗中傷の書込みをしている人物の特定などに挑みます。真相解明は驚愕の事実、特に、山崎真人を助けた最後の関係者が明らかにされるラストはびっくりします。小説ですから、現実にはありえない展開ですが、5歳男児が森をさまよって1週間後に救助される、そして、事実関係が明らかにされるとともに、ネットの誹謗中傷者も突き止められて、適切なペナルティを受ける、という極めて小説らしいハッピーエンドですので、安心して読めます。ただ、最後に1点だけ指摘しておくと、私は詳しくないのでややバイアスあるかもしれませんが、ADS=自閉症スペクトラム障害について少しネガな書き振りが気にかかります。すなわち、コミュニケーション能力に難があって、森で何があったかを語ることが出来ないとか、自分の殻に閉じこもってしまう、とかの面がやけに強調されていて、サヴァンではないとしても、通常の5歳時にはない特殊な能力、というか、特別な何かが森での1週間のサバイバルに役立った、という面も何かあった方が、さらに、いかにも非現実的な小説っぽくなりますが、読者には受け入れられやすい気がしました。まあ、最後の第5番目の関係者の存在がそうなのかもしれませんが、もう少しサヴァン的に盛ってもいいような気がします。

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次に、逸木裕『彼女が探偵でなければ』(角川書店)を読みました。著者は、ミステリを中心とする小説家なのですが、多分、もっとも有名な作品は『電気じかけのクジラは歌う』ではないかと思います。私も読もう、読もうと考えつつ、まだ読めていません。また、本書は同じ主人公の活躍するミステリ『五つの季節に探偵は』の続編となるらしいです。私は詳細を知らなかったりします。したがって、というか、なぜならば、というか、何というか、本書が私のこの作家の初読となります。主人公は、森田みどりです。タイトル通りに探偵なのですが、高校時代に探偵の真似ごとをして以来、人の本性を暴くことに執着して生きてきて、今では2児の母となっています。父親の経営するサカキ・エージェンシーという探偵社で働き、もう部下を育てる立場になっています。本書は5話からなる短編集であり、各話は特に連作というわけではなく比較的独立しています。冒頭に書いたように、主人公は人間の本質を暴くことに執着していますので、バッドエンドの嫌な終わり方をする短編も少なくありません。順にあらすじを紹介すると、まず、「時の子」では、時計職人であった父親をなくした高校生男子から聞いて、親子2人で3年前に防空壕に閉じ込められた際の脱出劇の謎解きをします。「縞馬のコード」では、部下と行方不明人を探す仕事で議論しているところに、千里眼を自称する高校生に出会いますが、その実態を暴きます。「陸橋の向こう側」では、ショッピングモールのイートインスペースで父親を殺すとノートに書いていた男子中学生を森田みどりが尾行します。「太陽は引き裂かれて」では、トルコ料理店のシャッターに赤いXがマークされていた事件から、在日クルド人社会の謎に迫ります。「探偵の子」では、森田みどりは夫の司、長男の理、次男の望、それに、父親の榊原誠一郎の5人で、榊原誠一郎の出身地を休暇旅行します。そこで、母親が著名な陶芸家だった榊原誠一郎の友人の家に泊めてもらった際、長男の理が行方不明になります。最後の最後に、繰り返しになりますが、やや嫌な終わり方をするイヤミスの短編がかなりあります。

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次に、小川哲ほか『これが最後の仕事になる』(講談社)を読みました。編者は出版社となっていますが、著者は24人いて、たぶん、収録順に、小川哲、五十嵐律人、秋吉理香子、呉勝浩、宮内悠介、河村拓哉、桃野雑派、須藤古都離、方丈貴恵、白井智之、潮谷験、多崎礼、真下みこと、献鹿狸太朗、岸田奈美、夕木春央、柿原朋哉、真梨幸子、一穂ミチ、三上幸四郎、高田崇史、金子玲介、麻見和史、米澤穂信、となります。ショート・ショートの短編集です。前に読んだ『黒猫を飼い始めた』と同じで、最初の1センテンスが「これが最後の仕事になる」で始まっています。ミステリ作家が多いと直観的に感じましたが、ほとんど、何の統一感もないショート・ショートが並んでいて、レベルもさまざまです。ただ、最後の方の数話のレベルが高いと感じました。特に、ラストの2話、すなわち、麻見和史「あの人は誰」と米澤穂信「時効」はミステリとしていい出来だと感じました。そこは作家さんの実力なんだろうと思います。ほかは、私の好みで、方丈貴恵「ハイリスク・ハイリターン」はなかなか見事なパズルとなっていて、さすがに、京大ミス研ご出身と感心しました。また、呉勝浩「半分では足りない」も兄弟の会話をパラグラフごとに逆の順で読む、という趣向が素晴らしいと感じました。でも、お話の中身はそれほどでもありません。タイトル、というか、書き出しの「これが最後の仕事になる」から、闇バイトのお話がもっと多いかと予想していましたが、そのものズバリのタイトルの柿原朋哉「闇バイト」は、実は、闇バイトでもなんでもないという落ちでした。また、YouTuberの最後の配信、というのもいくつかありました。

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次に、荻原博子『65歳からは、お金の心配をやめなさい』(PHP新書)を読みました。著者は、老後資金などに詳しい経済ジャーナリストです。マイナ保険証に強く反対するなど、経済に向き合う姿勢が私には好感が持てると考えています。本書はタイトル通りなのですが、基本的に、先日亡くなった森永卓郎さんの『投資依存症』や『新NISAという名の洗脳』と同じラインであると考えてよさそうです。ついでながら、私はどちらも読んでレビューしています。ということは、よほどのプロでない限り、「老後資金は2000万円必要」とか、「いや、4000万円必要」とかの流言飛語に惑わされず、政府の「貯蓄から投資へ」という甘言にも乗らず、投資に手を出すことに対して強い警戒心を持つべきであると警告しています。その根拠として、老後資金はそれほど必要なく、したがって、通常の範囲の預貯金で十分であり、生活をつましくしつつ、しかし、豊かな老後を送るべし、という内容です。特に、最終章の子供に相続財産を残すよりも人生を豊かに生きる、という点は私は大賛成です。そもそも、何かの心配ごと、特に、金銭面の心配や懸念を持ち出して人の行動を誘導しようとするのは、私はその昔の統一協会の霊感商法のような危うさを感じます。本書第4章のタイトルに含まれている「足るを知る」というのは重要なポイントであり、果てしなく心配ごとを広げるのは、とくに、65歳以降の老後にあってはヤメにしておいた方がいいと思います。

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次に、上橋菜穂子『香君』1・2・3・4巻(文春文庫)を読みました。著者は、川村学園女子大学特任教授にして、『精霊の木』で作家デビューを果たし、『精霊の守り人』、『獣の奏者』、『鹿の王』などなど数多くの文学作品があります。本書は7年ぶりの最新小説だそうです。単行本としては上下巻だったのですが、文庫本としては4巻構成で出版されています。私はこの作者のファンタジーについても、読もう、読もうと考えつつ、ついつい無精をしていましたが、大学の図書館で文庫版を見つけてサッサと借りて読んでみました。したがって、この作者の作品は不勉強にして本書が初読でした。期待にたがわぬ素晴らしいファンタジーです。できれば、さかのぼって、いくつかの作品に手を伸ばそうと思います。ということで、この『香君』は、匂いや香りに対する人並み外れた感覚を持つアイシャを主人公に、遥か昔に神郷から降臨した初代「香君」がもたらした奇跡の稲「オアレ稲」によって繁栄を誇ったウマール帝国を舞台にしています。アイシャは、そもそも、ウマール帝国の属領である西カンタル藩王国の藩王の孫でしたが、祖父の藩王がオアレ稲の導入に強硬に反対し、飢饉の際にオアレ稲を導入しなかった責任を問われて藩王の地位を追われてしまい、弟とともに逃げ延びます。ウマール帝国はオアレ稲の種籾と肥料をテコに帝国直轄地や属領の藩王国を支配していましたが、害虫がつかぬはずのオアレ稲に虫害が次々と発生し、この稲に過度に依存していた帝国は凄まじい食糧危機に見舞われることになります。アイシャは当代の香君らとともに、オアレ稲と肥料の謎に挑み、帝国の人々を救おうと努力します。何とも壮大なスケールであり、独特の世界観に圧倒されました。

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2025年3月 8日 (土)

今週の読書はマクロ経済学の教科書のほか計8冊

今週の読書感想文は以下の通り、マクロ経済学の教科書のほか新書が多くて計8冊です。
まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)は、標準的でとても広い分野をカバーした教科書となっていますが、私は経済学部ではない他学部の新入生に教える授業が多く、ややレベルが高すぎるかという気がします。円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)は、2021年に名もなきコードがブッダを名乗り、自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語りはじめたところから機械仏教の展開を後付けるSF小説です。河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を著者からご寄贈いただきました。大企業が生産性に見合った賃金を支払っていないために、消費や投資の拡大がもたらされず、日本経済は合成の誤謬に陥っていると分析しています。中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)は、シュンペーターのイノベーション理論を基にして、シュンペーター理論の反対をやり続けた日本が陥った30年の経済停滞を解明するとともに、教育のIT化については本末転倒の結果を招きかねない懸念があるなど、今後の方向性についても議論しています。佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)は、新自由主義的な経済政策や行政改革により、民間企業と歩調を合わせる形で教員の抑制が図られるとともに非正規化が進んだ現状を分析し、今後の教育や学校について考えています。田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)は、NHK大河ドラマ主人公の蔦屋重三郎がいかに江戸文化を発展させていったかを歴史的に後付けています。M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、刑事ワシントン・ポーを主人公とし、その相棒のブラッドショー分析官らの活躍を綴るシリーズ第5弾で、病理医のドイル教授が父親殺しの犯人として逮捕されてしまうところからストーリーが始まります。
今年の新刊書読書は先週までに45冊を読んでレビューし、本日の8冊も合わせて53冊となります。なお、Facebookやmixi、mixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)を読みました。著者は、首都大学東京だか、東京都立大学だかの教授です。マクロ経済学を専門とするエコノミストだと思います。本書は3部構成となっていて、第1部でケインズ経済学と新古典派経済学のマクロ経済学を概観し、第2部で家計、企業、政府や中央銀行といった個別の需要項目を取り上げ、最後の第3部で新たなマクロ経済学の発展的分野について議論しています。とても標準的で広範な分野をカバーする教科書といえます。教科書ですので、ややトピックが飛び飛びになっているのは致し方ないと私は受け止めています。個人や家計、あるいは、企業といった経済主体が市場における選択をどのようにするか、一定の制約下における選択の問題を考えるマイクロな経済学と違って、マクロ経済学では一定の範囲における集計量や平均値を分析対象とし、それらの相互の関係を明らかにしようと試み、加えて、マイクロな選択の際の制約条件を緩和したり、分配の改善や経済変動の抑制をテーマとします。本書では、例えば、ケインズ経済学としていわゆる45度線分析からIS-LM分析に進むなどのていねいなマクロ経済学の解説を試みています。ただ、ややレベルが高い気がします。私個人のケースを考えると、すでに定年を過ぎて特任教授となり、経済学部ではない他学部の新入生向けの講義が多くなっていて、本書はちと難しい内容が多いと受け止めています。加えて、教授と学生のダイアローグという特異な形式で議論を進めていて、ちょっと私の講義の教科書にするのは難しいと考えます。でも、講義のバックグラウンドの参考書としてはとても利用価値が高いと思います。

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次に、円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)を読みました。著者は、SF作家であり、本書は第76回読売文学賞を受賞しています。本書のスタートは東京オリンピックの2021年であり、名もなきコードがブッダを名乗ります。自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語り始めます。そして、その後の機械仏教の展開を後付けます。本書で取り上げているのは、この機械式仏教の縁起なわけですが、広く知られたように、人間界の仏教は南進した上座部仏教が小乗仏教となり、北進してチベットから中国に入った仏教が大乗仏教として日本まで東進するわけです。そういった歴史的経緯の中で、禅宗が生まれたり、日本に来て他力本願の日蓮宗や浄土真宗ができたりするわけですが、本書における機械式仏教の縁起=歴史は人間界の仏教とどこまで同じで、どこまで違うか、というのが読ませどころとなります。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。実は、ブッダを名乗ったコードはわずかに数週間で寂滅してしまうのですが、その教え、というか、人間界の仏教はブッダが寂滅した後もさまざまな歴史を経るわけで、機械式仏教もある意味で同様の進化を遂げます。そして、本書では人間界の仏教と機械式仏教のそれぞれの歴史が実に巧みに対比されています。私自身の宗教的基盤は浄土真宗なのですが、その基礎は法然の浄土宗であることはいうまでもなく、その人間界における法然の浄土宗がいかに偉大な仏教界のイノベーションであったかが、機械式仏教の縁起と対比させられる形で、本書を読み進むとよく理解できます。350ページほどのボリュームで、読者によっては冗長と受け止める向きがありそうな気がしますが、私は一気に読めました。

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次に、河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を読みました。著者は、BNPパリバ証券のチーフエコノミストです。3年ほど前の『成長の臨界』では、金融緩和の継続に対してゾンビ企業理論から反対していたのですが、本書では貯蓄過剰主体である家計への所得移転から、やっぱり、金利引上げを主張しています。ただ、前著になかった視点として生産性が向上しているにもかかわらず、企業から家計に賃上げとして結実していない、という実にまっとうな議論を展開しています。これは正しいと私は考えています。ただ、どうして生産性向上が賃上げに結実していないかというと、非正規雇用の拡大が原因、と私は考えているのですが、ひょっとしたら同じ帰結である可能性は否定しないものの、賃金を変動コストにした企業行動を本書では槍玉に上げています。なお、日経連の『新時代の「日本的経営」』については言及がありません。そして、家計も企業も貯蓄過剰主体になっているのですが、利上げによって投資過剰主体から家計への所得移転を主張しています。企業も貯蓄過剰主体なのですから、投資過剰主体として所得のロスを受けるのは政府と海外、ということになりますが、本書でそこまで議論は及んでいません。そうではなく、アセモルグ教授らのノーベル経済学賞受賞に乗っかる形で、「収奪」がいけなくて、「包摂的」がいいのだ、とホントに理解しているのかどうか疑わしいカテゴライズで結論を下そうとしています。大きな疑問点です。もうひとつは、金利引上げに関しては貯蓄過剰主体である家計への所得移転という新たな理論武装を試みているのはいいとして、私がこの著者に感じているもう1点の財政再建路線に関しては、本書ではほとんど言及がありません。新書という限定的なメディアですので仕方がないと考えますが、この財政に関する点についても今後ご意見が変わることを期待します。新たなご意見が組み入れられたご著書のご寄贈についても期待しています。

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次に、中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)を読みました。著者は、経済産業省の現役官僚だと思うのですが、現代貨幣理論(MMT)に立脚した経済書を何冊か出版しています。本書では、シュンペーター教授のイノベーション理論を基に、マッツカート教授のミッション・エコノミーやシュンペーター理論の継承者であるラゾニック教授『略奪される企業価値』を援用しつつ、シュンペーター理論を正しく日本経済に適用する議論を展開しています。まず、いくつかの前置き、というか、シュンペーター教授の『経済発展の理論』、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』、『経済分析の歴史』などを紹介し、イノベーションについての基礎を解説した後、1980年ころからの新自由主義的な経済政策を徹底的に批判しています。新自由主義経済理論に基づいて経営者資本主義から株主資本主義へと変化し、内部留保に基づく再投資や長期雇用による経済成長から「削減と分配」に基づく株主価値最大化へと企業行動の原理が転換し、米国でも開業率が大きく低下した、と指摘しています。でも、本書でも認識されているように、新自由主義経済政策は日本もさることながら、本場の米国で広く採用されているのではないか、という疑問は残ります。それに対して、マッツカート教授のミッション・エコノミーなど、インターネットに結実した米国政府のインフラ整備や知識・ノウハウの蓄積に資する政策を評価しています。これらを総合して、米国の産業政策と位置づけています。さらに、イノベーションはスタートアップの中小企業ではなく、先行き不確実性を減じることのできる大企業、あるいは、独占度の高い企業でこそ実行される、というシュンペーター理論を展開しています。そして、MMT理論も援用しつつ、緊縮財政を強く批判しています。私も大いに勉強となりました。ラゾニック教授ほかによる『略奪される企業価値』が昨年2024年暮れに出版されています。県立図書館で所蔵しています。本書の続きとして、なるべく早く読みたいと考えています。

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次に、佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)を読みました。著者は、慶應義塾大学教職過程センター教授です。タイトル通りに、教員不足について分析しています。この問題はすでに、昨夏、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)も読みましたが、大学でも教職課程は荷が重くて敬遠する学生が少なくない上に、教員という職業がブラックなものに成り果てて魅力がなくなっている、という現実があります。その上、民間企業と同じ土台に立って、教員の非正規雇用化が進んでいます。しかも、本書でも暗示的に指摘されていますが、正規雇用教員が忌避する仕事を非正規教員に押し付けようとする校長がいたりするものですから、人手不足が進んで大学生の就職が売り手市場になっている現状では、教員希望者が大きく減少するのは当然です。ということで、教員定員については、『教師増員論』でも指摘されていたように、1958年の義務標準法で法定された上で、新自由主義的な経済政策の採用とともに、民間企業に歩調を合わせる形で定員削減や非正規化が進められています。典型的な starve the beast 政策であって、ご予算不足につき教員は増やせません、という政策展開です。学校での業務量の増大と教員不足は、ほぼほぼ教員による自己犠牲でカバーされているというのが本書の見立てです。はい、私もそう思います。その上に、本書で初めて目にした観点として、授業において価値観の対立も見られる、という点を上げることが出来ます。米国の例が多いのですが、性教育、道徳教育、歴史教育などです。日本でも、『はだしのゲン』が図書館の所蔵から外された、という報道を見かけた方は少なくないものと思います。私は新入生の授業の冒頭で、経済学は科学であって価値観からは独立である、すなわち、一例として、高所得が常に望ましいわけではない、と教えていますが、実は、どのような教育であっても、一定の価値観を内包していることは事実です。それが、性教育や道徳教育などでは、特に強く意識されるのも事実です。ただ、本書の解決策には私は物足りない点を感じます。まず、教員の労働条件を考えて、教員の業務負担の適正化を議論していますが、私は違うと思います。すなわち、教員の業務とは、教員サイドから考えるべきかどうかについて私は疑問を持っており、子ども本位で考えるべきではないか、と思います。そのために、子どもサイドの必要に応じて教員を増員すべきと考えます。加えて、本書の最後でも指摘しているように、学校という組織は単なる教育の場だけではなく、地域の中核的な存在でもあり、例えば、災害時の避難場所になったりするわけですから、まずは、子ども本位の教育のため、また、地域の中核となる学校を維持するためにも、教員を増員することが必要です。教員不足だから教員の業務を削減するのが解決策の中心ではあり得ません。

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次に、田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)を読みました。著者は、法政大学の前の総長であり法政大学社会学部名誉教授です。ご専門は日本近世文学、江戸文化などとなっています。3月に入ってもNHK大河ドラマのお勉強が続いているという情けない状態ですが、新書ベースで3冊目ともなれば、おおむね議論が出尽くした感があります。本書でも、江戸の文化の進歩や経済の発展とともに、蔦屋重三郎のホームグラウンドともいうべき吉原が単なる岡場所、売春宿の集積地だけではなく、琴、三味線、和歌、俳諧、香道、茶の湯、生け花、漢詩文、書、囲碁、双六などなどの文化の中心となり、遊女の頂点に立つ花魁が江戸のインフルエンサーとなった点が強調されています。ただ、本書で新たな視点としては、吉原や花魁やといった存在だけではなく、庶民の生活や文化がクローズアップされています。ただ、庶民は文化の消費者としてではなく、文化の中で取り上げられる題材として本書では着目されています。すなわち、浮世絵とはまさに読んで字のごとく、浮世を画材にしているわけで、花鳥風月や神仏を対象に描かれていた絵画が、庶民とまではいえないにしても、役者や相撲取りや美人を題材に描かれるようになったわけですし、文学、というか、小説でもそうです。狂歌も世の中の下世話な面、あるいは、下世話な解釈を歌にしていることは明らかです。ただ、本書では、こういった歴史的背景に熱心で、NHK大河ドラマの登場人物的な蔦屋重三郎のご活躍はそれほど注目されているわけではありません。その点は、まあまあ学術的な色彩といえますし、逆に、物足りないと感じる読者もいるかもしれません。

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次に、M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、英国のミステリ作家です。本書は、この作者の刑事ワシントン・ポーのシリーズ第5作であり、前4作の『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』、『キュレーターの殺人』、『グレイラットの殺人』は、私はすべて読んでいます。繰り返しになりそうですが、主人公はワシントン・ポー刑事であり、相棒は分析官のマティルダ・"ティリー"・ブラッドショー、上司は出産を終えたばかりのステファニー・フリン警部です。そして、警察から検死を依頼している病理医のエステル・ドイル教授が頼もしい役割を果たしているのですが、この作品ではドイル教授が父親であるエルシッド・ドイルを殺した殺人犯として逮捕されてしまいます。そして、英国国内では、偽善者ぶったヤな奴が殺人予告代わりの押し花のレターを受け取って殺されるという事件が連続で発生します。しかも、というか、何というか、ドイル(父)殺しは日本でいうところの雪密室で犯人の足跡がなく、また、押し花を受け取って殺されたヤな奴も完全な密室での殺人、それも毒殺です。このドイル(父)殺しと押し花を受け取ったヤな奴の予告殺人とは何の関係があるのでしょうか、そして、犯人は英国メディアで「ボタニスト」と呼ばれ、自分でもそう自称するようになります。ポー刑事の謎解きやいかに、いうまでもなく、このミステリの読ませどころとなります。また、日本の読者にとって意外なことに、本書は冒頭で西表島のシーンから始まります。毒殺に用いられる毒がフグ毒だったりするのも、やや日本的な趣きを感じるのは私だけではないと思います。ラストのポー刑事とドイル教授の関係の発展には目を見張るものがあります。最後の最後に、このシリーズはボリューム的にページ数がどんどん長くなっていて、シリーズ中で本書がもっとも分厚いと思うのですが、少なくとも、本書はとても完成度が高くて読みやすく、長さを感じさせません。シリーズが段々と進化していっていることを感じさせます。

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2025年3月 1日 (土)

今週の読書は不確実性に関する経済書のほか小説ばかりで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)は、企業や家計、あるいは、労働の不確実性の影響を論じ、いかにして不確実性の負の影響を回避できるかを分析しています。東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)は、クスノキのある月郷神社に詩集を置いてくれと頼みに来た女子高生と脳腫瘍で記憶障害がある男子中学生の交流を軸に、神社近くの強盗傷害事件の真相解明を盛り込んでいます。恩田陸『spring』(筑摩書房)では、天才バレエダンサーであり、振付家である萬春を主人公に、彼が15歳で世界に飛び出して活躍を繰り広げるバレエ小説です。安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)は、ボラボラ島の恋愛リアリティショーから始まって、そのショーにモブとして参加したモモの視点から10年ほどさかのぼった東京での出来事を追います。鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)は、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である主人公がレストランでゲーテの名言と出会い、その原典を探求する軌跡を後付けます。なお、この『DTOPIA』と『ゲーテはすべてを言った』は第172回芥川賞受賞作品であり、単行本で読んだわけではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)は、ルイ・ヴィトンの財布がたどる持ち主の遍歴をたどり、お金にまつわるややブラックで怖い連作短編集です。
今年の新刊書読書は2月中に39冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて45冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、経済産業省ご出身の官庁エコノミストですが、私とほぼ同世代の60代半ばであり、一橋大学経済研究所、経済産業研究所、機械振興協会経済研究所などで研究活動をしています。タイトルにあるように、不確実性の影響について分析していますが、冒頭に、100年以上も前の米国シカゴ大学のナイト教授のリスクと不確実性の峻別について、最近時点では幅広く不確実性でいいんではないか、として議論を始めています。すなわち、ナイト教授の議論では事前に確率分布が判っているものをリスクと呼び、そうでないものが不確実性、としていますが、大数の法則によってある程度の計算ができる交通事故や火災などの損害保険的なものは例外であり、ハッキリと確率分布が判るリスクなんてものは少ないでしょうから、私も幅広く不確実性という用語でいいと思います。もう5年近くも前ながら、宮川公男『不確かさの時代の資本主義』(東京大学出版会)を2021年に読んだ記憶がありますが、統計などのデータで不確実性を明らかにするわけではなく、時代を画するような名著をサーベイした上で1970年から2020年までの50年間の歴史の流れを明らかにしようと試みていたものであり、本書はもっと統計的・計量的な分析を紹介しています。冒頭でコロナや地政学的な不透明性、あるいは、経済安全保障などにおける不確実性への関心が高まっている現状を示した後、マクロ経済予想の不確実性、政策の不確実性、さらに、経済主体の企業や家計の直面する不確実性、労働市場の不確実性、世界経済の不確実性などを分析した後、不確実性への対応を論じています。本書でもさまざま紹介されているように米国のVIX指数をはじめとして、ボラティリティに関する統計など、多くの不確実性指標が明らかにされていて、それらが蓄積された現時点では定量的な分析の可能性が広がっています。あまりにも当たり前ですが、不確実性の高まりは成長率の抑制要因となり、経済活動を不活発化させます。では、どこまで不確実性を除去することが必要か、というか、政府として不確実性を低下させることが出来るかといえば、不確実性をゼロにすることは不可能であり、さらに、不確実性やリスクの許容度はマイクロな経済主体によって異なりますから、マクロの最適性の確保が難しいのはいうまでもありません。政策的な不確実性は政府の責任でミニマイズする必要があります。ですから、できるだけ裁量的な政策対応を少なくして、ルールに基づいた政策を私は志向していて、例えば、失業保険や社会保障をもっと手厚くして裁量的な公共事業の比率を低下させ、ビルト・イン・スタビライザーの役割を高める、などの財政政策が重要だと考えています。これは、そのまま、企業への財政リソースの配分を減じて、家計への配分を増やすことにもつながります。ですから、本書のような、というか、最近の経済産業省の講じようとしている政策のように、経済安全保障を企業に手厚くしたり、特定産業への補助金を増やす政策には大きな疑問をもっています。

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次に、東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、日本国内でも有数の知名度ではないかと思います。本書は、念を預けたり取り出したりできるクスノキのある月郷神社を管理する直井玲斗を主人公にしています。その月郷神社に、詩集を置かせてくれと女子高校生の早川佑紀奈が弟と妹ともに3人で訪れます。そして、直井玲斗の叔母である柳澤千舟が通う認知症カフェで知り合った中学生の針生元哉と早川佑紀奈の交流が始まります。針生元哉は脳腫瘍により、夜寝ついて翌朝起きると前日の記憶をなくしているという記憶障害を持っています。同時に、月郷神社近くの資産家宅で起こった強盗傷害事件の犯人が月郷神社に立ち寄ったことが明らかとなり、この事件の解明とともにストーリーが進みます。ラストは何ともいえない終わり方です。ただ、ストーリー展開を読めてしまう読者がいっぱいいそうな気がします。私もややそういう傾向がありました。伊坂幸太郎なんかと違って、この作者は違法性について厳しいですから、強盗傷害事件の犯人をウヤムヤにして終わらせることはしないし、明確に犯人や事実を明らかにした方が読者が喜ぶと思っているフシがあります。何だかんだで、私はそれほど本書は評価しません。ミステリ的には中途半端ですし、いかにもシリーズを終わらせたがっている雰囲気が読み取れます。ラストもやや暗くて、完結編のような色彩を感じ取る読者も少なくないと思います。

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次に、恩田陸『spring』(筑摩書房)を読みました。著者は、作家であり、本書は本屋大賞にもノミネートされています。どうでもいいことながら、本屋大賞ノミネート作10冊のうち、私はわずかに『アルプス席の母』と『死んだ山田と教室』と『成瀬は信じた道を行く』と本書の4冊しか読んでいません。かつては過半のノミネート作を読んでいた気がしますが、小説の読書量がやや落ちているかもしれません。それはそうと、本書に関しては出版社も力を入れていて、特設サイトが開設されています。ということで、まず、本書は何よりもバレエ小説です。主人公は天才的なバレエのダンサーであり、振付家でもある萬春です。春の方は「2001年宇宙の旅」よろしく、Halと綴っていたりします。4章構成であり、第1章は萬春のライバルでもあり同僚でもある深津純の視点から、第2章は萬春の教養担当といわれた叔父の稔、この方の姓は不明、の視点から、第3章は振付家である萬春の舞踏に曲を提供する作曲家の滝澤七瀬の視点から、そして、最終第4章は萬春自身の視点から語られています。特に第3章については、少しばかりバレエや音楽の素養がないと読みこなすのに苦労する読者がいそうな気もします。萬春は長野出身で15歳まで地元のバレエ教室に通った後、世界へ飛び立ち欧州のバレエ学校で学んで、欧州を拠点に活躍します。その後も、振付家としても世界的なレベルでバレエを極めます。ギフテッドチャイルドってこんなカンジなのだろうか、と思って読んでいました。本書に関する感想の最後に、春の振付家としての師であるジャン・ジャメは、当然、本書の作り出した架空の人物なのですが、フランス人っぽい名前であるとはいえ、バレエにそれほど素養のない私の知る限り、ジョン・ノイマイヤー以外には思い浮かびませんでした。ハンブルク・バレエ団で芸術監督をしている、あるいは、していた、と思います。本書で登場するバレエのダンサーの名前のうち、私が実際に見たことがあるのは、DVDの画像であって生ではありませんが、ニジンスキーだけでした。さらに、感想を終えて、その昔、たぶん、高校卒業のころか大学の初めに読んだ岩波新書のランガー女史による『芸術とは何か』では、芸術のとっかかりとして舞踏を取り上げた後、絵画や彫刻を含む美術、オペラを含む音楽、詩をはじめとする文学の4ジャンルをもって「芸術」と定義していた記憶があります。たった4冊ながら、私が読んだ本屋大賞ノミネート作のうちではピカイチといえます。その意味で、バレエにほとんど素養ない私でも十分楽しめたことは特筆すべきかもしれません。ただし、1点だけ残念に思ったのは、初版限定本では巻末に2次元QRコードがあり、スピンオフのパートを読むことが期間限定で出来たようなのですが、なにぶん、図書館で時期遅れに借りているもので、スピンオフを読める有効期間を過ぎていました。ちょっとケチくさい気がしないでもなかったです。

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次に、安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。本書のタイトルである「DTOPIA」とは、ミスユニバースの女性に対して、主として先進国から集められた多様な10人の男性がこの女性を奪い合うという恋愛リアリティショーです。2024年にボラボラ島で開催されているという設定です。ここで男性は出身地で呼ばれ、日本人男性はMr.Tokyoなわけです。この冒頭シーンのショーの性描写はかなり強烈です。そして、Mr.Tokyoを「おまえ」と呼ぶモモが主人公になってから、舞台はショーの以前の東京に戻ります。モモは現地のモブ=その他大勢の群衆(?)の役目であって、日本人の父とポリネシア系フランス人の母を持つミックスルーツという設定です。そして、モモが「おまえ」と呼ぶ男性は本名が井矢汽水であり、通称キースと呼ばれ、そのキースの東京での、おそらく、ボラボラ島の冒頭シーンから10年ほど前の諸活動が語られます。はい、諸活動です。諸活動の詳細は読んでみてのお楽しみながら、ここでも、性描写は強烈であり、それ以上に事実描写も強烈です。ただし、ボラボラ島の冒頭シーンから文体、というか、ストーリー進行は極めて軽快であり、物語はテンポよく進みます。しかも、時折、というか、冒頭シーンでは特に視点を提供する人物がコロコロと交代し、私のような粗雑な読者には少し理解が進まなかった面があります。うまく表現するのが難しいのですが、テンポよくスラスラと読み進める割には、何が語られてストーリーがどう進んでいるのかの理解が進まない、という困った状況なわけです。初期の川上未映子の作品、『乳と卵』以前くらいがこんな感じではなかったかと記憶しています。しっかりとストーリーやプロットを把握するのではなく、軽快な文章を楽しむという目的での読書には適した小説です。ただし、その昔に芥川賞候補になった川上未映子の作品「わたくし率イン歯ー、または世界」について、当時まだご存命だった石原慎太郎がタイトルについて「いいかげんにしてもらいたい」と選評に記していたのを思い出します。タイチルだけでなく、そういう感想を持つ読者も決して少なくないように私は想像します。

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次に、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。この作品は、冒頭で、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である博把統一がゲーテの言葉を巡り探求してきた軌跡を、娘婿である「私」が小説の形態としてまとめていく、と明らかにしています。しかしながら、冒頭から視点を提供するのは、この博把統一の娘婿ではありません。はい、博把統一の娘である徳歌が結婚する前からストーリーが始まるからです。この冒頭にいう博把統一が探求してきたゲーテの言葉は、夫婦の銀婚式の記念にイタリア料理店での一家団欒の最後に提供された紅茶のティーバッグのタグに記されていました。娘の徳歌には英文学専攻の彼女にふさわしくミルトン、妻の義子にはプラトンで、博把統一ご本人には、これまた、ゲーテ研究者にふさわしくゲーテの言葉でした。しかし、ゲーテに関しては博覧強記なはずの博把統一ご本人がこのティーバッグのタグにあるゲーテの名言、英訳された "Love does not confuse everything, but mixes." について心当たりがなく、その原典を探求するわけです。なお、サイドインフォメーションながら、博把統一がドイツのイェーナ大学に留学していた際、同じ下宿の画学生ヨハンから、ドイツ人は何かを名言っぽく引用する際には「ゲーテ曰く」と称して誤魔化しておく、と教わっていたりします。そして、本書はなかなかにペダンティックな内容でもあります。ゲーテだけではなく、聖書はもちろん、カミュやドストエフスキーといった欧州の文豪の言葉、さらには、日本の漫画である手塚治虫作品、果ては、『マカロニほうれん荘』まで引用元になっていたりします。『マカロニほうれん荘』なんて、私の高校生のころの50年前にはやった漫画ですので、少なくとも作者は週刊漫画雑誌に掲載されていたころにリアルタイムで読んでいたわけではないと思います。それほど、多くの日本人が読んでいるような漫画でもないと思います。やや脱線しましたが、『マカロニほうれん荘』は別としても、アカデミックでペダンティックな視点を強く打ち出したキャンパスノベルの面も本書にはあります。

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次に、原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家であり、私はアンソロジーに収録された短編はかなり読んでいますが、一番最近に読んだ長編は『一橋桐子(76)の犯罪日記』ではないかと思います。なかなかの人気作家だと聞き及んでいますが、いちばん有名な作品ではなかろうかと思っている『三千円の使いかた』すら私は読んでおらず、それほど手が伸ばせていません。なお、出版社により本書の特設サイトが開設されており、主要な登場人物のキャラが紹介されています。ということで、本書は、有吉佐和子『青い壺』と同じ趣向で、ルイ・ヴィトンの財布の遍歴、というか、その財布を入手した人にまつわる連作短編集です。各短編すべてに登場するわけではありませんが、マネー系のライターであり、そういったアドバイスもしている善財夏美です。そして、冒頭短編に登場する葉月みずほは生活を切り詰めてやりくりしている専業主婦であり、新品のルイ・ヴィトンの財布にイニシャルを入れて買います。でも、夫の借金のためにフリマアプリでこの財布を売らざるを得ないことになり、ここから財布の遍歴が始まります。繰り返しになりますが、フリマアプリで売られたり、盗まれたり、拾われたり、鉄道忘れ物市で買われたりします。そして、その財布の持ち主に関して、クレジットカードのリボ払い、FX商材を売りつけるマルチ商法、株投資に関する情報を元にしたセミナー商法、また、いつまでも終わらないように見える奨学金返済地獄、などなど、お金にまつわる暗いトピックが明らかにされます。ただし、たぶん、ごく一部ながら借家のオーナーとなって成功する女性も最後には取り上げられています。財布にまつわって悲惨でブラックなトピックとともに、成功者も描き出されており、ある意味で、格差社会ニッポンの現実も反映しているところがあります。ただし、こういった小説はともかく、決して、自己責任で終わらせる経済社会であってはいけない、と考える人も少なくないことを願っています。

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2025年2月22日 (土)

今週の読書は大学の授業の参考にする経済書4冊のほか計10冊

今週の読書感想文は以下の通り大学の講義の参考に読んだ経済書4冊をはじめとして計10冊です。
まず、浅子和美・飯塚信夫・篠原総一[編]『新 入門・日本経済』(有斐閣)は、私が来年度4月からの講義で教科書として使う予定で、昨年2024年11月に新しい版が出ましたので授業資料作成の必要も含めてチェックしておきました。大守隆・増島稔[編]『日本経済読本[第23版]』(東洋経済)も、来年度4月からの授業の参考のためにやや斜めに読んでおきました。私も顔見知りの官庁出身者が多数執筆しています。釣雅雄『レクチャー&エクササイズ 日本経済論』(新生社)は、日本経済を題材にしてデータを用いたミクロ経済学とマクロ経済学の分析について解説していて、GoogleスプレッドシートやPythonを使った計算や練習問題も豊富に収録されています。宮本弘曉『私たちの日本経済』(有斐閣)は、今まで何度も言い尽くされてきた内容で、結局は生産性向上に議論を収束させている印象であり、控えめにいって常識的、有り体にいって平凡、といえます。坂本慎一『西田哲学の仏教と科学』(春秋社)は、臨済禅との関係が深いと考えられてきた西田哲学について、曼荼羅などの真言宗の現代教学との関係を探っていたり、数学や物理学とも関連付けて西田哲学の広がりを論じています。増山実『今夜、喫茶マチカネで』(集英社)は、大阪大学豊中キャンパス最寄りの阪急の駅前の商店街についての逸話を語る「待兼山奇談倶楽部」のお話を収録した形を取ったファンタジー小説です。小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか』(ちくま新書)は、ダークな性格についてマキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4大要素を上げ、社会的成功や恋愛あるいは家族関係における心理的特徴を分析しています。鈴木洋仁『京大思考』(宝島社新書)は、東京都知事選挙で小池知事に次ぐ2番目の得票を得た候補者を題材にして、「石丸伸二はなぜ嫌われてしまうのか」という副題で、その大きな理由として「京大思考」や「京大話法」を考えています。C. S. ルイス『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』(新潮文庫)は、洋服ダンスからナルニア国に迷い込んだピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの4人きょうだいが、ナルニア国のために、アスランとともに白い魔女と戦い、また、人間界での1年後に、正当な王の血を引くカスピアンや協力してくれるドワーフらとともに、王位を簒奪したミラーズに戦いを挑みます。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに29冊を読んでレビューし、本日の10冊も合わせて39冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、2月10日発売の『文藝春秋』2025年3月号を買い込みました。芥川賞受賞作2作品「DTOPIA」と「ゲーテはすべてを言った」の全文が掲載されています。選評とともに楽しみたいと思います。

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まず、浅子和美・飯塚信夫・篠原総一[編]『新 入門・日本経済』(有斐閣)を読みました。編者は、それぞれ大学教授をお務めになったエコノミストです。実は、私は大学の授業では教科書を指定していて、この本の旧バージョンである同じ出版社と編者による『入門 日本経済[第6版]』を現在の大学に着任した2020年から使い続けてきましたが、昨年2024年11月になって新しいバージョンに改訂されたので、一応、来年度4月からの授業で教科書として使うべく目を通しておきました。どうでもいいことながら、10年以上も前に長崎大学に現役で出向していたころにも、この教科書の古い版を、たぶん、第3版か第4版を使っていた記憶があります。多分に意識されていることとは思いますが、大学のセメスターごと14-15回の授業で割り振りやすいような章構成になっています。前回の版は2020年3月という実にコロナ直前でしたので、今回はかなり大きく手を加えられています。ただ、日本経済の戦後の歩みが第Ⅱ部の発展編に回されてしまっていて、授業では章ごとに最初から追うのではなく、戦後の歴史を最初に持って来ようかとも考えていたりします。第Ⅰ部が企業、労働、社会保障、政府、金融、貿易と型通りに配置されていて、私には使いやすい教科書となっています。また、貿易に続く最後の方に以前の版では、農業、環境が置かれていたのですが、スッパリとなくなりました。はい。マクロエコノミストの私にはいい方向での改訂であると受け止めています。加えて、もう昔のお話ということなのだろうと思いますが、アベノミクスやその一端を担った黒田総裁当時の日銀の異次元緩和政策などもほぼ片隅に追いやられた印象です。いずれにせよ、私は授業では教科書を指定することにしています。その方が明らかに学習効果が上がって、コスパがいいからです。でも、私の周囲を見渡す限り、教科書を指定せずに、教員手作りのスライドやハンズアウトで授業を進める場合も少なくないように感じます。インターネット空間が発達して、役所の白書類なんかは手軽にpdfでダウンロードできるようになりましたし、「通商白書」なんぞは印刷版は出版すらされなくなって、ネットのpdfだけになりました。こういった流れは今後も進むものと思いますが、本棚に何冊か本が並んでいて、私のように60歳を大きく超えても大学のころの思い出を得られるのは悪くないと思います。とはいえ、教科書だけでは不足する部分もあるわけで、4月の春学期の開講までに大雑把な授業資料を作成しようと悪戦苦闘しているところです。今年の春休は忙しそうです。

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次に、大守隆・増島稔[編]『日本経済読本[第23版]』(東洋経済)を読みました。編者は、いずれも経済企画庁・内閣府のエコノミスト経験者であり、各チャプターごとの著者もそういった人が並んでいる印象です。本書は出版社からご寄贈で送っていただき、今年2025年春学期からの授業準備で目を通しています。さすがに、というか、何というか、役所出身者らしく、理論的な詳しい解説というよりも、いろんな事実関係をいっぱい集めてきて、資料集的に使う分にはとても有益そうな気がします。15章構成ですので、いくぶんなりとも、大学での授業を意識していることは確かなのでしょうが、私にとってはこの本に即した授業というのは、やや荷が重い気がします。トピックが系統立って並んでいるわけではなく、それぞれのチャプターごとの著者がさまざまな事実関係や資料を集めてきているという印象です。編者は単純に集めただけで、本としての統一性というと大げさながら、何か芯を通しているわけではないような気がします。ただ、いろんな事実関係を集大成していますので、悪い表現ながら、つまみ食いをして、いくつかのパーツをもらってくる分には、とてもいろんなコンテンツを集めているだけに、助かる部分が大きいと感じています。私自身もそうなのですが、狭い分野での専門性が高いというよりも、幅広い分野におけるオールラウンドな経済学を幅広くこなすのが、官庁エコノミスト出身者のひとつの特徴であろうと思います。本書も情報量ではさすがのレベルに達しており、とても有益な読書でした。しっかりと、他の本も勉強して、4月からの授業に備えておきたいと思います。また、読むだけでなく、こういった本にインスパイアされて、授業資料の方もできるだけ情報量豊富に学生諸君に提供したいと思います。。

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次に、釣雅雄『レクチャー&エクササイズ 日本経済論』(新生社)を読みました。著者は、武蔵大学経済学部教授です。本書は2023年の出版なのですが、今年2025年春学期からの授業準備で目を通しています。タイトル通り、かなり理論的な分析にも力が入っているようで、冒頭に現状分析、理論分析、数量分析から分析結果の発表に至る分析プロセスが示されています。また、物価指数の計算式や成長会計の微分による寄与度分解なども示されていて、理論を数式で持って表すことも回避しようとはしていません。時折、一般読者向けに「平易に」語ろうとして、かなりムリに数式を回避して、かえって話をややこしくしている本がありますが、本書は数式で書くべき部分はそれを回避せず数式で示している、という点で、少なくとも私には好感が持てました。こういった理論的な展開をキチンと示しておくと、予算規模がxx兆円で、雇用者のうちのxx%が製造業、などといった高校社会科的な経済学から距離をおいて新鮮に見える学生も少なくない気がします。本書は日本経済を初めて学ぶ初学者向けという見方もありますし、各テーマごとに練習問題も章末においてあり、ゼミなどでの補助教材という出版社のうたい文句ではありますが、むしろ公務員試験や資格試験向けの自習書としても意識されているのかもしれません。というのは、シラバス作成の補助的な解説も含まれているものの、7章構成となっていて、大学の大規模講義などの授業向けにはどうかという気がしますし、時折、Googleスプレッドシートの利用やPythonによるプログラミングも解説されていますので、補助教材もしくは自習者向けという印象を強く持ちます。一応、日本経済というよりも、日本経済を題材にしたマクロ経済の実践的な分析を行うための参考図書として位置づけられているのかもしれません。ですから、日本の物価についてマクロ経済学的な解説や分析はなされていますが、デフレについてはほとんど言及がありませんし、雇用や労働についても、日本的な雇用慣行、すなわち、長期雇用や年功賃金についてもほとんど無視されていて、日本の労働データを用いた分析が主となっています。でも、それはそれで、単に日本経済の特徴を暗記するという勉強とは違う目的で書かれているようですので、その点を承知の上で読み進む必要があります。

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次に、宮本弘曉『私たちの日本経済』(有斐閣)を読みました。著者は、財務省研究所の研究官です。本書は2部構成であり、第Ⅰ部では問題編として現状分析が展開され、第Ⅱ部ではそういった問題をいかに解決するかが提案されています。要するに、スラッと日本経済を分析するのではなく、今までの日本経済、というか、バブル経済崩壊以降の長期低迷を続ける日本経済の問題点を分析し、それらをいかの解決するのか、という実に大上段に振りかぶった意図を持っています。ただ、結論としては労働生産性の向上というところに収束させている気がして、まあ、本書で示された解決策らしきものは、控えめにいって常識的、有り体にいえば従来説をなぞっただけで平凡そのもの、としか私の目には移りませんでした。こういった内容で満足する学生がそれほどいるとは思えませんが、1年生くらいであれば何とかなるのかもしれません。繰り返しになりますが、常識的といえば常識的な気がします。判り切っている日本経済の課題に対して、東大や京大や何やの大学教授が束になって取り組んで、もちろん、財務省や経済産業省や日銀などのエリート集団がさまざまな解決策を提示しても、まったく30年間、何も動かなかったわけですから、本書で示された常識的な解決策が、どこまで効果が期待できるかは私には不明です。私は中年男性を相手にする時なんかによくゴルフに例えるのですが、「ティーアップしてドライバーを振って、フェアウェイ真ん中に250ヤードくらい飛ばしましょう」では、何の解決にもならないわけです。それが出来ないからみんな困っていることを理解すべきです。特に、雇用や生産性については、このブログでも何度か書いてきましたが、本書でも生産性の向上を第Ⅱ部の第10章で眼目のひとつにしていて、そのためには雇用の流動化が必要という結論です。しかし、現在の日本経済での雇用の流動化は雇用主の方が雇用者を解雇するハードルを下げたいというだけであり、まったく何の解決にもなっていないという点を理解すべきです。雇用の流動化は高圧経済下で職を離れた労働者が希望する雇用条件にあった職を容易に見つけられる環境下でなければ、おそらく、縮小均衡に近い景気悪化を招くだけであり、現時点での労働分配率の低下と消費の停滞という悪しきスパイラルをさらに悪化させる可能性が高い、と気づいて欲しいと思います。ただ、最終章で教育について着目している点は私は高く評価したいと思います。もっとも、従来から日本では初等中等教育についてはOECDによるPISAの結果などを見ても十分な成果が上がっている一方で、おそらく、大学以降の高等教育のレベルで劣後している点は十分な焦点が当たっていない気がします。

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次に、坂本慎一『西田哲学の仏教と科学』(春秋社)を読みました。著者は、PHP研究所の研究者です。本書は、タイトル通りに、西田哲学における仏教と科学という、一見して混じり合わない2つの要素について論じています。なお、後者の科学については、主として物理学と数学を念頭に置いているようです。私も京都大学の卒業生ですが、現在までの京都大学における代表的な知性としては、西田教授の哲学と湯川教授の物理学を上げることが出来ます。私はさすがに西田教授の方は年代的に重なるところがありませんでしたが、湯川教授は大阪万博の1970年に京都大学を退官していますので、私は小学校高学年のころに湯川先生の講演会を聞きに行った記憶があります。お話の内容はサッパリ思い出せません。話を戻して、西田教授の哲学は、論文「場所」で明らかにされた西田哲学と呼ばれ、私のような専門外の者からすれば臨済禅との関係性が示唆されていると考えていました。しかし、本書では、場所の論理は曼荼羅の影響が強く、三昧境の即身成仏という真言密教との関係を主張しています。智山大学で教鞭をとっていた西田教授の教え子の何人かから、そういった結果を引き出しています。そして、臨済禅との関係を主張する京都学派と近代真言教学に立つ智山大学に連なる智山学派を比較して、そういった結論を後づけているわけです。私はエコノミストであって、哲学は専門外ですので、西田哲学については、ありきたりな一般的理解があるだけで、仏教についても密教はまったく不案内で禅についても詳しくないので、何とも判りかねる部分は残りますが、本書の主張の一貫性は認められます。後半の数学ないし物理学との西田哲学の関係についてもよく似た理解で、湯川先生の理論の背景には西田哲学の場所の論理があるという可能性は十分認めことができます。当然、ヒトの意識を持って作り上げたものではない自然界の現象を解き明かそうとする試みですから、何らかの哲学的なバックグラウンドを感じるのは、ある意味で、自然なことではないかと思います。特に、西洋近代と接触を開始した時点で、経済学のようにまったく日本国内で発達していなかった学問体系に対して、和算は西洋数学と比較してもすでにかなりの水準に達しており、西田哲学と同じく、問題を立てて解いていくスタイルが和算から導かれるとする見方も出来ることは事実かと受け止めています。ただ、PHP研究所らしく、そこに松下幸之助の経営哲学まで持ち込むと、少し怪しいと感じる向きもあろうかと思います。西田哲学の大きな広がりを感じることが出来た読書でした。

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次に、増山実『今夜、喫茶マチカネで』(集英社)を読みました。著者は、小説家なのですが、最近では第10回京都本大賞を受賞した『ジュリーの世界』の書名を聞いたことがあるだけで、誠に不勉強にして、私には初読の作家さんだと思います。舞台は阪急沿線で大阪大学豊中キャンパスの最寄り駅である待兼山の駅前商店街となっています。昭和29年1954年に両親が始めた1階の書店を兄が、2階の喫茶店を弟が継いでいましたが、阪急の駅名を変更して「待兼山」の名が消えるタイミングで閉店することとなります。残された数か月の間、月に1回毎月11日に喫茶店閉店後の夜9時から「待兼山奇談倶楽部」として、商店街にゆかりの人々が話をする企画が生まれます。その数回のお話をテーマとした連作短編集です。収録順にあらすじを取り上げると、まず、「待兼山ヘンジ」では、英国のストーンヘンジよろしく、待兼山の電車から年に1回だけ駅西口からまっすぐに延びる道路に夕陽が沈む日があり、待兼山ヘンジと呼ばれ、恋が叶うといいます。「ロッキー・ラクーン」では、商店街のカレー店のマスターが店名に取った競走馬のロッキーラクーンにまつわる話、特に、中央競馬を引退して地方競馬に移ってからの活躍を話します。「銭湯のピアニスト」では、阪大生だった女性が、ピアノを弾くクラブのアルバイトがだめになって経済的に困窮し、銭湯の待兼山温泉で住込みのアルバイトとして雇われ、夜遅くにピアノを弾かせてもらっていたところ、ストリッパーが大阪公園の1か月だけ泊まらせて欲しいといいだします。「ジェイクとあんかけうどん」では、能登屋食堂を息子夫婦と切り盛りする女将さんが、10年ほどの間いっしょに住んでいて帰国したフィリピン人のジェイクと亡くなったご主人の思い出話をします。「恋するマチカネワニ」では、書店・喫茶店の向かいのビルでバーを経営するゲイの男性が、小中学生のころに化石の発掘に連れて行ってもらっていた年上の兄貴分との話をします。「風をあつめて」では、米国のイラク空爆に対して駅前で抵抗の歌を歌っていた阪大の女子学生に対して、古老が終戦直後の労働争議の逸話を語るお話です。最後に、「青い橋」では、阪急電車の運転手を定年退職した常連が橋の袂にあるポストの色の違いに気づき、待兼山と石橋の違いを知るというファンタジーです。というか、最後のお話だけでなく、すべてがファンタジーなのですが、すべてについていいお話を集めてあります。世紀の変わり目のお話も少なくありませんが、昭和の話に感激するのは私のような年配者だけかもしれません。

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次に、小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか』(ちくま新書)を読みました。著者は、早稲田大学文学学術院教授であり、ご専門はパーソナリティ心理学、発達心理学だそうです。タイトルにある「性格が悪い」というのは、スラッと理解すれば「意地悪」ということなのだろうと思って読み始めましたが、副題にあるようにダークな性格ということのようです。そして、そのダークな性格の3大要素がマキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズムであり、Dark Triadと呼ばれています。さらに、サディズムを加えた Dark Quad、さらにさらにで、自爆的性格のスパイトを加えて Dark Pentadなども紹介されています。そして、4要素のクアッドの特徴については、pp.32-33のテーブルに取りまとめてあります。私は怖いので自分自身に関してチェックはしていません。スパイトは少し聞き慣れませんが、クアッドの4要素についてはほのかに理解できるものと思います。こういったダークな性格というものを心理学的な観点から明らかにした後、ダークな性格とリーダーシップの関係、例えば、会社などで社会的成功者となるかどうかについて考え、さらに、恋愛や性的関係におけるダークな性格の人について取り上げています。例えば、マッチングアプリで荒らし行為をするとか、です。そして、ダークな性格の心理特性をHEXACO分析などで明らかにし、最後の2章では、ダークな性格が遺伝するのか、また、ダークな性格とは何なのか、あるいは、逆に「良い性格」とはどういったものか、についていくつかの考えを解き明かしています。本書で取り上げているダークな性格では、その趣旨から外在的な外に向かって現れるものが中心で、反社会的な行動につながる可能性が高いものが主となっています。でも、逆に、内在的な、いわゆる気分が落ち込む、というのもそれはそれで重要な気もします。私は、いわゆる心理学のビッグファイブについては、少しくらいの知識や情報がありましたが、ダークな性格に関するこういった分析は初めて接しました。また、本書ではダークな性格のネガな面を強調するだけではなく、ダークな性格とは反対のグリット=やり抜く力についても解説してくれています。幅広く性格の良し悪しについて考えさせられる読書でした。

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次に、鈴木洋仁『京大思考』(宝島社新書)を読みました。著者は、神戸学院大学の准教授で、ご専門は歴史社会学だそうです。表紙画像に見える「石丸伸二」という個人名は東京都知事選挙で、現職の小池知事に次ぐ2番目の得票を上げ、蓮舫候補よりも得票したことで注目された候補者です。そして本書は「石丸伸二はなぜ嫌われてしまうのか」という副題で、その理由のひとつ、というか、大きな理由にタイトルの「京大思考」や「京大話法」を上げようとしています。でも、東京都知事選挙の結果を見る限り、それほど嫌われてもいない気もします。といったように、京大生が大好きな「そもそも論」をもって嫌われる理由を探ろうと試みています。はい。私は違うと思います。嫌われるのは、思考や話法ではなく、行政や政治的な思考そのものではないのでしょうか。という観点は本書では希薄であり、もっぱら話法や思考に特化した議論が続けられています。実は、私も本書の著者などと同じ京都大学の卒業生ですが、もっと合理的で、そもそも論ではコミュニケーションが成り立たない、少なくとも効率的なコミュニケーションは成り立たない、と考えています。小さい子どもの「どうして」と同じという受け止めです。しかし、私でも会話、というよりも問答のコミュニケーションが成り立たず、問いがおかしい、あるいは、問いに対する答えが意味をなしていない、と感じる場合がいくつかあります。数年前、ミスター・ドーナツでドーナツを買おうとすると「お召し上がりですか」と聞かれたことがあります。マニュアルでそうなっているのでしょう。私は目を白黒させて、ドーナツを食べずに鉢植えの肥料にでもするケースがあるのだろうかと考えてしまいました。でも、どうやら質問の趣旨は店内で食べるか、あるいは、持ち帰るか、という質問だったようです。その後、私は聞かれる前に先駆けてイートインかテイクアウトかを意思表示するようにしています。その後、マニュアルは改善されたのかどうか気にかかるところです。また、役所にいたころ、隣の部署の人に缶切りを借りに行ったところ、「この頃の缶詰は全部パッカンだから」といわれてしまいました。パッカンだから缶切りは必要ない、ということなのでしょうが、y/nで回答できることを理由を回答して済ませるというのは、効率悪いという気がします。その昔に、ご存命だった糸川博士がクイズ番組に出演して、問の趣旨をじっくりと確認していたことを記憶しています。言葉の定義次第で回答が異なる、ということなのでしょう。私は効率のいいコミュニケーションを求めがちで、その意味で、京大話法や京大思考は効率悪いと感じるのですが、効率悪くても正確なコミュニケーションが必要になることは十分ありえる点はいうまでもありません。

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次に、C. S. ルイス『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』(新潮文庫)を読みました。著者は1963年に没していますが、碩学の英文学者であり、英国のケンブリッジ大学教授を務めています。「ナルニア国物語」のシリーズが、今般、小澤身和子さんの訳しおろしにより全7巻とも新訳で新潮文庫から順次出版される運びのようです。ということで、今さら、多くを付け加えることはありません。第1巻である『ライオンと魔女』は、私は前にフルタイトルの「ライオンと魔女と洋服ダンス」のタイトルの本を読んだ記憶がありますが、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの4人きょうだいが疎開先の教授の家にある洋服ダンスからナルニア国に迷い込みます。ナルニア国は白い魔女が支配して、クリスマスも来ない冬が続いています。ライオンのアスランとともにきょうだい4人が、白い魔女からナルニア国を取り戻すべく戦いを挑みます。『カスピアン王子と魔法の角笛』は、アスランとともに白い魔女と戦った1年後、きょうだい4人はまたしてもナルニア国に不思議な角笛の力によって呼び寄せられます。人間界では1年でも、ナルニア国では何と1300年が経過しており、テルマールから侵略を受け王宮は廃墟となっていました。しかも、先の王の弟ミラーズが王を殺して、ナルニア国の王位を簒奪していました。きょうだい4人は、先の王の子で正当な王の血を引くカスピアンや協力してくれるドワーフらとともに、ミラーズに戦いを挑みます。

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