2026年10月10日 (土)

今週の読書はマーケティングの経営書から怪しげなキワモノ健康書までいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、フィリップ・コトラー + ヘルマワン・カルタジャヤ + イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング6.0』(朝日新聞出版)では、Z世代やアルファ世代といったデジタル・ネイティブ世代の増加に対応する没入型、あるいは、リアルとデジタルが融合するマーケティング6.0、メタマーケティングを取り上げています。中北浩爾『現代日本政治史』(有斐閣)では、終戦後の米軍占領下で非軍事化と民主化の目標を実現するための5大改革司令、すなわち、女性参政権、労働組合、教育、秘密警察廃止、経済民主化、に始まって、55年体制の成立と終了、小選挙区の導入、などなど、現在の高市内閣に至るまでの戦後政治史を取りまとめています。楊双子『四維街一号に暮らす五人』(中央公論新社)は、台湾台中市の中心街、文教地区近くにひっそりと残るシェアハウス四維街一号に暮らす5人の女性、4人の大学院生と大家さんの小説であり、『臺灣料理之栞』というレシピ本も含めて台中のローカルフードと併せて物語が展開されます。松本弥『古代エジプト人の愉快な生活』(文春新書)は、ピラミッド建設の時期などの古代エジプトの庶民も含めたエジプト人の愉快な日常生活について、欧米の資料に頼ることなく、パピルスに残された象形文字のヒエログリフを読み解くことにより明らかにしようと試みています。長尾和宏『病気の9割は自分で治せる!』(PHP新書)は、反ワクチン論者らしい著者によるキワモノと考えるべきで、前の『歩く人はボケない』を読んで、ブログやSNSでレビューするべきではない、と考えたくらいの著者の本ですので、批判的に受け止めて自分で判断できる読者にオススメしたいと思います。リチャード・デミング『絞首台のある庭』(新潮文庫)では、主人公の私立探偵マニー・ムーンをグレース・ローソン、莫大な遺産の相続人のひとりである19歳の女子大生が訪れて、死につながりかねない不可解な事件が周囲で起こっているため、ボディガードを依頼するところからストーリーが始まります。
今年2026年の新刊書読書は、1~9月で233冊、10月に入ってから先週の6冊と今週の6冊を加えて合計245冊となります。また、これらとは別に、恩田陸『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫)も読んだのですが、新刊ではありませんから、本日の読書感想文には含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、フィリップ・コトラー + ヘルマワン・カルタジャヤ + イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング6.0』(朝日新聞出版)を読みました。著者3人は順に、ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院名誉教授、Mコープの創業者・会長、インドネシアの中心的なマーケティング・メディアであるマーケティアズのCEO、となっています。英語の原題は Marketing 6.0 であり、2023年の出版です。本書は3部構成となっていて、第1部が概論、第2部がイネーブラーと環境、第3部が体験、となっています。邦訳書の出版社ではこのシリーズは『3.0』から手がけているようで、巻末の宣伝はそうなっています。ただ、本書冒頭では、製品主導のマーケティング(1.0)、顧客志向のマーケティング(2.0)、人間中心のマーケティング(3.0)に続いて、デジタル化の象徴ともいえるドイツ政府の「インダストリー4.0」に対応したマーケティング(4.0)、日本政府の「ソサエティ5.0」に対応したマーケティング(5.0)から、本書ではZ世代やアルファ世代といったデジタル・ネイティブ世代の増加に対応する没入型、あるいは、リアルとデジタルが融合するマーケティング(6.0)、メタマーケティングを取り上げている、とされています。最初はタイプミスかと思ったのですが、「フィジタル」physital =フィジカル physical + デジタル digital というネーミングを使っています。さまざまな媒体を通じたマーケティングであるオムニチャンネル・マーケティングがさらに進化して、メタマーケティング6.0になるそうです。リアルかバーチャルかという二項対立を超えたメタマーケティングだそうです。経済学の隣接領域の経営学とはいえ専門外ですので、そのあたりは読んでいただくしかありません。そのマーケティング6.0を可能にするイネーブラーが5つ列挙されており、すなわち、データ収集のためのモノのインターネット(IoT)、データ処理のための人工知能(AI)、体験をモデル化するための空間コンピューティング、インターフェース拡張のためのARとVR、そして、インフラのためのブロックチェーンとなります。詳細は第2部第5章で取り上げられていますので、そのあたりについても読んでみてのお楽しみです。ただ、この5項目のイネーブラーのうち2点だけ少し詳しく見ておくと、空間コンピューティングとは、第1部で言及されている範囲では、コンピューティングというほどのレベルではなく、自動ドアのようなセンサー技術かと思っていたのですが、衣類のスマート試着室とかの例が上げられており、さらには、SNSの将来形としてのメタバースまで拡張されうるマーケティングと考えられます。また、AR=拡張現実とVR=仮想現実だけではなく、MR=複合現実も合わせて、エクステンデッド・リアリティ=XRを提唱しています。ただ、他方で、3人に1人がデジタル疲れ=digital fatigue を感じているというコンサルの指摘にも言及されており、視覚と聴覚というデジタルで可能な範囲だけでなく、五感のうちの視覚と聴覚以外の嗅覚、味覚、触覚も含めた五感を魅了するマーケティングの重要性も強調されています。最後に、こういった方面に詳しくない私の理解では、没入型のマーケティングとして、本書でも言及されているポケモンGOを思い浮かべました。ポケモンGOに触覚とか嗅覚、さらに、可能な範囲で味覚を加えるようなマーケティングである、ということなのかもしれません。まあ、専門外もいいところなので、誤解していたり、理解が不足していたりするところはご容赦下さい。

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次に、中北浩爾『現代日本政治史』(有斐閣)を読みました。著者は、中央大学法学部教授であり、ご専門は日本政治史、現代日本政治論だそうです。まずは、そのあたりの第一人者ではないか、と私は考えています。本書は、タイトル通りに、戦後から最近の高市内閣までの日本の政治史を取りまとめています。ただ、出版社からして学術書か、といわれれば、必ずしもそうではなく、本書冒頭でも大学での1セメスターの講義向けに13章構成としている旨が明記されていて、初学者や一般向けにも十分適用できるのではないかと私は考えています。まず、終戦直後の日本の政治の特徴については、これは高校くらいでも教えているのではないかという気がしますが、占領主体は連合軍というよりも、ほぼほぼ米軍が単独で担っていて、しかも、直接の軍政、沖縄のような軍政ではなく間接統治であった、という点が上げられています。前者の米軍単独占領に比較対象されるべきは、同じ敗戦国のドイツであり、ドイツの場合はソ連軍も占領に加わり、東西ドイツに分割して統治されたのは広く知られている通りです。その米軍占領下の日本統治では、非軍事化とそのための民主化の目標を実現するため、5大改革司令が出されています。すなわち、女性参政権、労働組合、教育、秘密警察廃止、経済民主化、ということになります。そして、私も大学の授業で取り上げている経済改革としては、この5大改革司令にやや重複するものの、本書では財閥解体、労働改革、農地改革の順で指摘しています。ただ、日本の占領下での政治については、東西冷戦の激化、特に、中国における共産党政権の成立などの影響もあり、いわゆる「逆コース」が進められた、占領軍だけでなく、独立後の保守政権下でも「逆コース」が進んだ、という理解が一般的ではないかと思うのですが、本書では憲法改正が出来なかったことなどを根拠に、逆コースは失敗であった、と結論しています。その後、いわゆる55年体制の成立、すなわち、左右の社会党が合同し、自民党が結成される、というのは広く知られている通りです。このあたりの1960年くらいまではまさに戦後政治史の激動の時期ではないか、と専門外のシロートながら、私は考えています。なお、1980年代前半には私はすでに国家公務員として政府部内でお仕事を始めています。私が経済企画庁に就職した際は、中曽根内閣の下で河本副総理が経済企画庁長官でした。ですから、本書第10章では転換点が1989年であるとしていますが、1990年前後の動き、すなわち、経済的には消費税の導入、政治的には小選挙区制などは政府内部から見ていますし、専門外とはいえ、それなりの情報には接してきたつもりです。1994年から約1年半に渡って社会党の村山内閣が活動していた時期には、経済企画庁の政務次官も社会党からお迎えし、夏休みの時期のご外遊を手配した経験もあったりします。そして、今世紀に入ってからの小泉内閣における新自由主義的な経済政策、竹中大臣の下で経済政策については、郵政民営化こそ横から眺めていただけですが、それなりに見知っている部分も少なくありません。もっとも、本書は政治史といいつつも、もちろん、経済政策の部分も少なくなく、例えば、p.120図表5-2にあるような戦後日本の経済計画一覧、とか、予算編成プロセス、労働慣行、などなど、エコノミストにも勉強になる内容も多く含まれています。ただ、補章の天皇制に関しては異論を持つ読者もいそうな気がします。

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次に、楊双子『四維街一号に暮らす五人』(中央公論新社)を読みました。著者は、台湾の作家であり、本書の前に日本で出版された『台湾漫遊鉄道のふたり』が話題となっていると思います。私は未読ながら、できれば読んでみたいと考えています。本書の中国語の原題は『四維街一号』であり、2023年の出版です。タイトル通りに、台中市の中心街、文教地区近くにひっそりと残るシェアハウス四維街一号に暮らす5人の女性の小説です。訳者のあとがきによれば、「百合小説」だということですが、初老に差しかかった男性の私にも楽しい読書でした。著者や訳者のあとがきによれば、タイトルは実在の建物、1938年に建てられた「四維街日式招待所」だそうで、もう少し住所を書き加えると、台中市西区四維街一号となるそうです。「四維街」は通りの名であり、「一号」が番地、ということになります。よく知られたように、日本語の「市」に当たる中国語は「城」です。この小説では、全5章でシェアハウスに住む5人の女性が取り上げられていて、その住人の1年の物語となっています。大家さんのほか4人はすべて大学院生です。1階には郭知衣と廬小鳳の2人が、また、2階には徐家樺と蕭乃云、それに、大家の安修儀の3人が、それぞれ暮らしています。章別に取り上げられているのは、第1章が蕭乃云であり、大学院修士課程に入ったばかりで、人見知りして恥ずかしがりやですので、ほかの入居者などとのお付き合いはそう得意ではありません。第2章は徐家樺であり、小説では家家と呼ばれています。同じく大学院修士課程1年生で、苦学生ながら大柄な陽キャです。第3章は廬小鳳で、大学院修士課程2年生、人柄も気遣いもよくできる良家のお嬢様です。第4章の郭知衣も、大学院修士課程2年生、男言葉で会話し、仙女のように浮世離れし、BL作家として連載を持っていたりもします。最終章は大家さんの安修儀、将軍を輩出した家柄ですのでお金持ちなんだろうと想像できます。一時は台湾政情を危惧して米国ロサンゼルスに留学して大学院博士課程まで進んだ30代女性ですが、叔母の死により四維街一号のシェアハウスを相続し、博士号取得を中断して帰台しています。大家の安修儀をのぞく4人の大学院生は台中から見て東西南北の四方の出身者であり、中には、台湾最大のエスニックグループである 閬南人や客家人もいます。ストーリーとしては、この5人の居住人が織りなす1年間の生活について、話題となっている『台湾漫遊鉄道のふたり』と同じように、食事、というか、台中のローカルフードと併せて展開しています。実在のレシピ本らしいのですが、『臺灣料理之栞』という1912年発行の日本語の本も含めて、四季折々のお料理やスイーツを作ったり、買ってきたり、みんなで楽しんでいます。本書の読ませどころですし、私がまったく不調法な部分ですので、このあたりは読んでみてのお楽しみです。

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次に、松本弥『古代エジプト人の愉快な生活』(文春新書)を読みました。著者は、日本オリエント学会正会員ということなのですが、私の理解ははかどっていません。本書は、タイトル通り、通常は王や政府代表者などの高位高官の動向で綴られる歴史について、特にピラミッド建設の時期などの古代エジプトの庶民も含めたエジプト人の愉快な日常生活について、欧米の資料に頼ることなく、パピルスに残された象形文字のヒエログリフを読み解くことにより明らかにしようと試みています。時代としては約5000年前から3000年間の時代、ということです。巻頭数ページに渡ってカラーで絵文字が解読されています。その後、本文に入ってからも、カラー印刷も含めて、きわめて多くの図版とそこに収録されている文字の現代日本語訳が収録されていて、確かに、実に楽しげな古代エジプト人の生活を垣間見ることが出来ます。ただ、私の想像ながら、この時代にこういった何らかの文字で時代の雰囲気を残すことができたのは、おそらくきわめて限られた上層階級の人々だけであったでしょうから、それほどご政道の批判めいたものは現れません。というか、本書では取っていないだけかもしれません。本書の構成としては、冒頭の第1章でエジプト文字を簡単に解説した後、第2章から第7章でさまざまなシーンに応じてエジプト人の書き残したものが紹介されています。最初の方は、お仕事編であり、出勤簿から「サソリに咬まれたので休みます」といったものがあったりします。エジプト版の『鳥獣戯画』が紹介されるとともに、ペットとの暮らしについては、エジプト人のネコ好きが明らかにされていて、侵攻してきたペルシア軍がネコを前線に置いたところ、エジプト軍が総崩れになったらしいです。本書にはありませんが、ネコはエジプト発祥だったような記憶もあります。もちろん、酒を飲んで騒いだり、恋を語ったり、といったところは本書でもハイライトとなりますので、読んでみてのお楽しみです。また、最後の方の第6章と第7章では、古代エジプト人の医学と死についてもうかがい知ることが出来ます。まじめに生死を考えている様子だけではなく、亡くなった妻に対して「もう化けて出ないで」、という懇願も含まれていたりします。絵文字の部分は飛ばして読んでもいいですし、じっくりと取り組むのも一案ですし、いずれにせよ、タイトル通りに、肩の凝らない読書ができると思います。

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次に、長尾和宏『病気の9割は自分で治せる!』(PHP新書)を読みました。著者は、医学博士の開業医のようです。その昔に、私は同じ作者の同じPHP新書で『歩く人はボケない』という本を読んだのですが、歩くことによりタイトル通りにボケないどころか、ガンも治るという "One size fits all" 的な健康法で、私自身が感心しないと受け止めましたので、あえて、ブログやSNSでレビューしないことに決めた記憶があります。本書についても、いくつかのSNSで見かけて、怪しげな内容であるかもしれないと感じましたが、まあ、そういうのも含めての読書、レビューなんだろうと思って読んでみた次第です。まず、本書については、ハッキリいってキワモノと考えるべきです。私が読んだ以前の『歩く人はボケない』(PHP新書)と同じで、歩くこと、特に太陽光を浴びて歩くことを推奨しています。私はこの点については大きな異論はありません。ただ、本書の中心となるのは第4章であろうと思います。すなわち、糖尿病、リウマチ、認知症、片頭痛、慢性腰痛、便秘、胃炎、肝炎、肺炎、気管支ぜんそく、不眠症、高血圧、脂質異常症、自律神経失調症、はては、がんまで、章のタイトルが「自分でできる病気の直し方」となっていて、まさか、これを信じ切ってそのまま実践する人はいない、とは思いますが、ちょっと気にかかるところです。というか、批判的な読書が必要とされるような気がします。私は大学生を相手に授業をするのが重要な業務のひとつとなっていて、何度いっても新入生に理解されにくいのは、批判的な学習です。高校までは先生が正解を持っていて、その先生が持っている正解にたどり着くのが生徒の努力だったのですが、大学では先生は正解にたどり着く努力の仕方を教えるのが役割であって、正解そのものを与えるのが仕事ではありません。私は期末リポートなどではオープンクエスチョンを出題することがしばしばあります。例えば、日本の食料自給率は40%を下回っていて、先進国でも最低レベルですが、この食料自給率を引き上げた方がよいか、それとも引き上げる必要はないか、といったリポートテーマを出します。高校までであれば、食料自給率引上げの必要あり、あるいは、必要なし、でどちらかが正解で100点、どちらかが不正解で0点、だったのですが、大学ではキチンと論理立ててリポートすれば単位を与えます。教科書に書いてあること、先生が教えたことが無条件に真実かどうか、自分自身でリサーチすることを求め、いろんなことを批判的に理解することを大学では学びます。本書も同じことで、本書に書いてあることを丸ごと事実として実践する読者にはオススメできません。なにぶん、繰返しになりますが、私は前の『歩く人はボケない』を読んで、ブログやSNSでレビューするべきではない、と考えたくらいの著者の本ですので、本書に書いてあることを、批判的に受け止めて自分で判断できる読者にオススメしたいと思います。最後に、p.212以降を読むと、この著者は反ワクチンのお考えをお持ちのようです。その点も考慮して、本書を読むか読まないかを判断できる人にオススメします。

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次に、リチャード・デミング『絞首台のある庭』(新潮文庫)を読みました。著者は、米国のハードボイルド調のミステリ作家であり、同じハードボイルド作家として日本でも有名なロス・マクドナルドと生没年がともに同じらしいです。邦訳は2冊目となります。前作も新潮文庫から出版されており、日本独自編集の短編ないし中編集の『私立探偵マニー・ムーン』です。私はこの前作も読んでいます。本書は作者の初めての長編であり、英語の原題は The Gallows in My Garden であり、1952年の出版です。舞台は明示されていないものの、状況からミズーリ州のセントルイスであると推測されています。主人公は前作と同じで私立探偵のマンヴィル(マニー)・ムーンです。古い表現ながら、マッチョでハードボイルドなタフガイ探偵です。戦時中は軍隊で軍曹をしていて、負傷したため片足が義足です。脇を固めるのは、地元警察署で殺人課のトップを務めるウォーレン・デイ警視と部下のハネガン警部補、さらに、ジョージ・チェスター署長は戦時中はムーンと同じ歩兵部隊の少佐でした。警察以外は、前作でオーナーが亡くなって「エル・パティオ」を引き継いでカジノからレストラン&バーに業態転換したファイスタ・モレノはファシスト国家のイタリアから米国に逃れて、ムーンの婚約者だったこともあり、現在でも恋仲に近い感じです。その「エル・パティオ」の警備をしているモウルディ・グリーンは戦時中はムーン軍曹配下の二等兵だったようです。前置きが長くなりましたが、この作品では、初夏の7月半ばに、ムーンの事務所兼自宅を19歳の女子大生グレース・ローソンが訪れてボディガードを依頼するところからストーリーが始まります。グレース・ローソンは兄のドン、というか、ドナルド・ジュニアなどとともに、ドラッグストアのチェーンで財を成したローソン家の遺産相続人であり、1年ほど前に自動車事故で亡くなった父親のドン・シニアから、21歳になるまで結婚しないことを条件に、莫大な遺産相続の権利を示されています。でも、最近、もうひとりの遺産相続人である兄のドン・ジュニアが失踪し、グレースには乗馬の際の馬の腹帯に切れ込みが入れられていたり、ミルクに毒が入っていたり、大きな植木鉢が落下してきたり、と死につながりかねない不可解な事故か事件が起こっているため、ボディーガードの依頼です。しかも、グレースがムーンの事務所兼自宅を去った後に、2人組のギャングがムーンを襲ったりします。ローソン家にはドン・ジュニアとグレースの継母であるアン・ローソンとアンの叔母で画家のアビゲイ・ストルツが住んでいます。そういった家族とは別に、週末ごとに、グレースのフィアンセのアーノルド・テート、亡くなったドン・シニアの弟でドン・ジュニアやグレースから見て叔父に当たる医師のダグラス・ローソン、ローソン家の顧問弁護士のジョナサン・マナリング、ドン・シニア亡き後にドラッグストア・チェーンの経営を担っているジェラルド・カッシングがやって来ます。また、使用人も女中頭のマギー・サリヴァンほか、数人います。こういったローソン家にいる、あるいは、やって来る10人あまりの、いわば容疑者がいるわけで、マニー・ムーンが見事にその謎を解き明かします。ミステリの謎解きですので、背景説明はタップリするとしても、あらすじは簡単に終わっておきます。はい、いかにも米国的なハードボイルドで、謎解きも本格的で楽しめます。

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2026年10月 3日 (土)

今週の読書はマクロ経済書、書道史、時代小説など計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、朴勝俊・長谷川羽衣子・松尾匡『積極財政を理解するためのマクロ経済学』(せせらぎ出版)では、為替レートや金利、物価、賃金などの変動要因をよりよく理解し、怪しげな俗説に戸惑わないよう、同時に、豊かな国民生活を実現するための財政政策や金融政策の基礎となるマクロ経済学を志向しています。本田恒平『非正規雇用の政治経済学』(ミネルヴァ書房)では、非正規雇用のうちの派遣労働に主に着目しつつ、日本の高度成長期における長期雇用や年功賃金などの雇用慣行を、特に正規雇用で崩すことなく維持することに貢献した、という視点で派遣労働法の政治過程などを分析しています。アンドリュー・ハートマン『マルクス・イン・アメリカ』(新日本出版社)は、歴史的な構成となっており、南北戦争をアメリカ革命と考え、本書の出発点としつつ、金ぴか時代の労働者の組織化や労働運動、20世紀の大恐慌時代、さらに戦後ニューレフトなどの米国におけるマルクス主義を概観しています。中村伸夫『中国書道史紀行』(大修館書店)では、後世の便宜上の分類として発生順の篆書、隷書、草書、行書、楷書を区別しつつ、書聖と称される東晋の王羲之、楷書が完成した北魏から隋と唐の欧陽詢など、また、時代が下って最後の清朝までの漢字の書の名作を取り上げています。葉室麟『草雲雀』と『柚子の花咲く』(文春文庫)は、ともに葉室作品らしく、決して高位高官として後世に名を残したわけではないものの、市井でまじめに精一杯生きようとしている不器用な一般人にスポットを当てて、その生き様を大いに称揚する時代小説です。
今年2026年の新刊書読書は、1~9月で233冊、10月に入ってから今週の6冊を加えて合計239冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、朴勝俊・長谷川羽衣子・松尾匡『積極財政を理解するためのマクロ経済学』(せせらぎ出版)を読みました。著者は、順に、関西学院大学総合政策学部教授、グリーン・ニューディール政策研究会事務局長、立命館大学経済学部教授、となっています。はい、立命館大学の同僚である松尾教授だけでなく、私は3人とも面識があります。ですので、かどうかはともかく、本書はご著者からご寄贈いただいております。本書は、タイトル通りに、日ごろから話題に上る為替レートや金利、物価、賃金などの変動要因をよりよく理解し、きわめて怪しげな財政破綻論や通貨の信認に基づく議論などに戸惑わないよう、あるいは、騙されないよう、同時に、豊かな国民生活の実現に向けて必要な財政政策や金融政策のための基礎知識を身につける上で助けとなるマクロ経済学の教科書を志向しています。5章構成であり、第1章で、現在の通貨制度におけるおカネと財政の関係を明らかにし、第2章で短期的な不況対策やインフレ抑制について考えるための理論を考え、第3章でより長期的な観点から、望ましい産業構造や総労働配分を実現するための課税のあり方などを考える思考枠組が提供され、第4章で実物経済と金融経済の関係を体系的に把握し、最後の第5章で為替レートや国際収支などについての理解を深める議論が展開されています。従来のマクロ経済学の教科書に比べて、いろいろと工夫されている点はありますが、では、大学の授業で使うか、といわれれば、やや否定的な回答にならざるを得ない気もします。ただ、大きく間違っている点はありませんし、従来のマクロ経済学ではそうそう扱わない点もたくさん盛り込まれています。しかし、ブランシャール教授の教科書にあるとはいえ、マクロ経済学のIS-LM曲線にフィリップス曲線を加えて、IS-LM-PC曲線による所得と利子率と物価の決定は、やっぱり、判りにくい気がします。通常のAD-AS曲線の方が学生には理解しやすいかもしれません。ただ、家計貯蓄残高により国債発行高の天井が形成されるという議論をきちんと否定的に考えているのは当然です。すなわち、国債を発行して市中で消化すれば、それは保有者には資産になるわけですので、国債発行とともに民間部門の貯蓄は同額増えると考えて大筋間違いではありません。ただ、両建てで政府の国債と民間部門の資産が増加しますので、金利の変動に脆弱になる可能性は考えておく必要があります。日本が米国に次ぐ世界第2位の経済大国であった時代はとうに過ぎ去り、段々と開放的な小国経済(small open economy)になりつつありますので、マンデル・フレミング・モデルからして、海外の金利の影響を受けやすくなる可能性があります。そして、最後に、為替レートの考え方です。実質実効レートが通貨の実力であるとか、産業の競争力であるという世間一般の謬見を本書が正している点は高く評価します。その通りです。しかも、本書で取り上げている4種類の為替レートのどれで考えても、円安なら輸出をする企業が有利になる点は当然です。ただし、企業の競争条件を有利にしても、まったくトリックルダウンは生じなかった、というのがアベノミクスの帰結です。それよりも、円高にして輸入品を割安にした方が国民生活を豊かにできる可能性が高い、というのが最近の論調で一定の支持を得るようになっている気がします。もっとも、円高になれば化石燃料輸入が有利になって気候変動問題に決していい影響をもたらさない、という点は気がかりです。気候変動対策としてのCO2排出を抑制するため、激変緩和は必要としても、今のようにエネルギー企業に補助金を出して化石燃料の価格を抑えるのではなく、一定は価格引上げを容認する必要があるような気もします。加えて、ひねくれた考えですが、円高で海外旅行をしやすくなるのは富裕層に裨益する可能性が高い、とも考えています。ですが、総合的に考えて、現時点では円安よりも円高の方が国民生活には利益をもたらす、というのが私の見方です。

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次に、本田恒平『非正規雇用の政治経済学』(ミネルヴァ書房)を読みました。著者は、立教大学経済学部の助教です。15年ほど前に私が勤務していた労働政策研究・研修機構(JILPT)の研究員のご経験もあるようです。ご専門は政治経済学、戦後労使関係、労働政策だそうです。本書は出版社からして、基本的には学術書と考えるべきですが、小難しい計量分析をいっぱい収録しているわけではないですし、雇用や労働という身近なトピックですので、それほどハードルは高くないと考えられます。主として、タイトルの「政治経済学」を政治過程も含めた歴史、くらいに考えておけばいいような気がします。まず、非正規雇用は、定義がそれなりに難しいと私は考えています。ですので、本書でも定義を明確に打ち出すことなく議論を始めています。私は、学生諸君に雇用や労働を教える際、逆に正規雇用を定義して、その正規雇用でない雇用を非正規雇用、と教えています。すなわち、正規雇用の要件は3点あり、(1) 無期限、(2) 直接、(3) フルタイム、となります。この3条件のうちのいずれかから外れるのが非正規雇用と考えられます。最初の「無期限」というのは、その昔の終身雇用のように死ぬまで、というわけではなく、定年までの雇用であって、この(1)から外れるのが有期雇用、3年とか5年とかの有期雇用、ということになります。(2)から外れるのが、本書で主として着目している派遣労働です。雇用されている会社で働くのではなく、別の企業に派遣されて働くわけです。(3)は、その昔からフルタイムならざるパートタイム雇用というのがいっぱいあったかと思います。今でもあります。本書では、繰返しになりますが、主として派遣労働に着目します。労働者派遣法は1985年に制定され、翌1986年から施行されています。本書でも詳細に法改正が後づけられています。政府による無償の職業紹介、今のハローワークにおける職業紹介に加えて、営利事業としての職業紹介とともに労働者派遣が始まります。労働者派遣は、当初はいくつかのポジリスト、すなわち、ファイリングなどの労働者派遣を許可する職種を決めていましたが、徐々に規制緩和され、今ではネガリスト、すなわち、労働者派遣を禁止する職種を指定するようになっています。本書ではほぼほぼ無視しているのですが、私自身は2006年の製造業への派遣許可が大きかったと考えています。その労働者派遣のバックグラウンドとして、当時の日経連による『新時代の「日本的経営」』について考えています。非正規雇用拡大の契機としての日経連批判がどこまで妥当か、という視点です。私も本書と同じ結論で、決して日経連が求めなくても、何らかの非正規雇用は「発明」されていただろうと考えています。まあ、例えが悪いですが、コロンブスが発見しなくても、いずれ米州大陸は発見されていただろう、ということです。その上で、労働者派遣法の規制緩和の政治過程について、詳細に検討を加えています。このあたりは本書の最大の読ませどころですので、レビューなんぞで取り上げたりせず、お読みいただくのがベストだろうと思います。ただ、注目すべきは、派遣労働は決して日本の労働調整に反するものではなかった、という点です。すなわち、特に米国の雇用慣行などと比較して、日本の雇用は企業業績に応じたボーナス制度の存在などにより賃金の調整が大きく、逆に、雇用者数の調整が緩やかである、という特徴を持っています。米国では雇用契約が3年とかに及ぶこともあっては賃金の硬直性が高く、逆に、レイオフなどの量的調整に頼る部分が大きいと考えられます。ですので、派遣労働は日本の高度成長期における雇用慣行を、特に、正規雇用で崩すことなく、維持することに貢献した、という視点です。ただ、私のような雇用を重視するエコノミストからすれば、雇用される側の視点がいささか薄弱な気がします。本書でも指摘しているように、正規雇用を望みつつも不本意非正規に置かれている労働者は少なくありません。非正規雇用は正規雇用に比べて賃金が低い上に、雇用の安定性にも欠けるところがあり、二重の意味で正規雇用よりも不利な立場に置かれています。私も、すべての雇用者が正規雇用されるべきであるとまでは考えておらず、雇用者のサイドから見た柔軟な非正規雇用は一定認めつつも、全体として非正規雇用が減少する方向を目指し、少なくとも不本意非正規はなくなるような雇用・労働政策が必要だと考えています。

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次に、アンドリュー・ハートマン『マルクス・イン・アメリカ』(新日本出版社)を読みました。著者は、米国イリノイ州立大学の教授であり、ご専門は歴史学だそうです。本書の英語の原題は Karl Marx in America であり、2025年の出版です。はて、米国でマルクス主義がどのように捉えられていて、政治の分野で、あるいは、なんらかの市民運動でマルクス主義が影響を持っているのか、またまた、主として経済学、あるいは、ほかの社会科学の分野で基礎的な理論を提供しているのか、といわれれば、私は疑問に感じていました。例えば、日本ではフランスやイタリアなどの欧州諸国と同じで共産党が戦後の政治舞台で立派に活動し、議会でも議席を有していたりします。あるいは、共産党という名ではないとしても、階級政党のような名を冠した英国の労働党やドイツの社民党は政権を担うこともありますし、フランス社会党もご同様です。しかし、米国でも、それなりの共産主義、あるいは、マルクス主義の系譜があることを本書で知りました。本書は歴史的な構成となっており、19世紀後半の南北戦争を独立戦争に次ぐ第2のアメリカ革命と考え、本書の出発点としています。そして、金ぴか時代(Gilded Age)の労働者の組織化や労働運動、20世紀初頭のボリシェビキ革命に同調した米国におけるジョン・リードらの文学の展開、1930年代の大恐慌におけるマルクス主義、戦後リベラリズムにおける繁栄した米国経済におけるマルクス主義、、マッカーシズムに代表される冷戦下の保守主義、1970年代からのニューレフト=新左翼によるベトナム戦争への反対、1980年代のレーガン政権下における新自由主義への抵抗、最後に、21世紀のマルクス主義を議論しています。私が注目したのは、米国におけるマルクス主義、というよりも、いくつかの章で分散的に議論されているように、米国でなぜマルクス主義が大きな動きにならなかったのか、についての分析です。ひとつは、米国経済のフロンティアの追求を上げています。特に太平洋岸を目指した米国経済圏の広がりにより、不平等の拡大や資本主義の閉塞感が発生しにくかった、という解釈です。また、マルクス主義がドイツからの移民の思想と受け止められた点も上げています。2度の世界大戦の敵国であり、今での国連には敵国条項が残っています加えて、本書では明確には指摘していませんが、米国における宗教の影響も私は見逃せないと考えています。例えば、『孤独なボウリング』の著者であるパットナム教授が共著で『アメリカの恩寵』という本を書いていて、ソーシャル・キャピタルのひとつとして米国における独特の宗教の役割にスポットを当てています。そもそも、ピルグリム・ファーザーズを持ち出すまでもなく、米国はとても宗教的に濃厚な土地柄だと考えるべきです。ただ、20世紀半ばからの米国については、ニューディール政策はまったくマルクス主義者でもなんでもないローズベルト大統領が、ケインズ政策的な政策を採用し、1960年代までの民主党政権などで継続されてきたため、資本主義的経済の限界が露わにはならなかった、という点は忘れるべきではありません。本書でも1935年のワグナー法(全国労働関係法)について同じような視点を提供しています。すなわち、マルクス主義に限定されないながら、国民の利益になるような格差是正や生活水準の引上げなどにつながる政策を左翼や労働者が獲得すれば、それはそれで左翼や労働者の大きな勝利なのですが、同時に、資本主義の限界を露呈させてマルクス主義的な革命をもたらすような方向とは矛盾しかねない、という点があるのだろう、と私は考えています。もう少し考えれば、米国経済が豊かであっただけに、労働者や一般国民、資本家や富裕層ならざる一般国民の不満が高まらなかった、という点は米国でマルクス主義が盛り上がらなかった一因ではないか、という気がします。ただし、私はマルクス主義に関しては興味を持ちつつも専門性がありませんから、この読書感想文もそれほど自信がありません。

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次に、中村伸夫『中国書道史紀行』(大修館書店)を読みました。著者は、筑波大学名誉教授であり、日展内閣総理大臣賞や日本芸術院賞などの受賞歴のある書道家であり、全日本書道連盟理事長などの団体役員でもあります。書道展の関係では読売書法会に関係していて、まあ、何と申しましょうかで、伝統的な書道芸術の方向性が伺えます。ちなみに、日本における三大書道展といえば、伝統的な読売書法展と日展、そして、やや前衛的な毎日書道展となります。ただ、出典数からすれば毎日書道展が最大ともいわれています。読売と毎日はあるのですが、なぜか、朝日新聞は入りません。謎です。なお、本書はタイトルから書道の名品をたどって旅行するように受け取る向きがあるかもしれませんが、そうではありません。旅行記ではないと考えるべきです。また、中国の書道史ですから漢字だけです。本邦で発展したかな文字の書道は含まれていません。本題に入って、本書は2章構成です。第1章で書道の歴史について考え、後世の便宜上の分類として発生順の篆書、隷書、草書、行書、楷書を区別し、どうして、楷書が最後で、その後、新しい書体が現れなかったのか、と疑問を呈していますが、当然に回答はありません。250ページほどの本書の中で200ページを超えるボリュームを持つメインパートが第2章ということになります。歴史を後づけて、殷の時代の甲骨文から始まって、書聖と称される東晋の王羲之、さらに、最後の書体である楷書が完成した北魏から隋と唐、時代が下って最後の清朝までを取り上げています。私が全盛期に書道を習っていた際は、先生の方針で延々と欧陽詢「九成宮醴泉銘」の漢字を練習していました。ですので、東晋の王羲之から北魏ないし隋・唐の欧陽詢、褚遂良、虞世南、さらに、すこしおもむきがことなるものの盛唐の顔真卿、あるいは、米芾などの楷書や行書が中心となる読書でした。ただし、本書では「九成宮醴泉銘」は誠に残念にも取り上げられていません。こういった後世に残る書道作品の書き手は、当然に進士及第などの政府高官、というか、中には有能な政治家などがいたりして、決して、支配階級から大きく外れた吟遊詩人的な人物は多くありません。もちろん、時代が下るにつれて「作品のための作品」が多くなりますが、1000年以上も前の書道作品については、何らかの政治性を帯びたものが少なくありません。例えば、私がせっせと練習していたお手本の欧陽詢「九成宮醴泉銘」は、唐の第2代皇帝である太宗が離宮の「九成宮」で避暑中に、甘い湧き水=醴泉を発見した功績を記念して建立された四六駢儷調の名詩を清書した碑文です。そういった政治性を捨象して、現代にも鑑賞に耐える素晴らしい芸術性を残した書道の名品を本書では集めています。

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次に、葉室麟『草雲雀』と『柚子の花咲く』(文春文庫)を読みました。著者は、私の大好きな時代小説作家であり、2017年に亡くなっています。今回読んだ両方とも、別の出版社からすでに単行本と文庫になっていたのですが、最近になって文春文庫から2次文庫として出版されています。時代はいずれも江戸期であり、地方の決して大きくはない藩を舞台にしています。『草雲雀』では、媛野藩栗屋家の三男として生まれた栗屋清吾は、地味で控えめな性格で、家を継ぐ嫡男ではなく、いわゆる部屋住みの身です。ただ、剣の腕はめっぽう強く、道場では秘太刀「磯之波」を伝授されています。本来であれば、入り婿する先を見つけるのが当時の習慣ですが、女中のみつを妻としたために婿入りも出来ません。みつとの結婚も家長の長男には認められておらず、子を成すことも許されません。そんな時、道場仲間の山倉伊八郎から自分の用心棒になるよう頼まれます。というのは、山倉伊八郎の実父は実は元家老の国東武左衛門であることが判明し、その元家老の実父の後を継いで藩の筆頭家老を目指すため、栗屋清吾の剣が必要だということです。「子どもを持ちたい」というみつの願いに応えるためにその申し出を引き受けたものの、山倉伊八郎改め国東伊八郎の家老就任を阻もうとする敵からの刺客が次々と襲いかかります。『柚子の花咲く』では、鵜の島藩領内で牢人の遺骸が発見されます。その殺された牢人は、武士、町人、農民がいっしょに勉学に励む郷学である青葉堂村塾、これは鵜の島藩の隣藩である日坂藩にある村塾の教授である梶与五郎でした。梶与五郎は貧しい子どもに自分の弁当を与えて、いつも自分はお腹を空かしているような情の厚く、武士や農民の子どもたちから慕われる教師でした。しかし、無惨な遺体で発見された後、妻敵討ちだったとか、賭場への出入りとか、梶与五郎にまつわる悪い噂がささやかれるようになり、汚名を着せられてしまいます。そして、かつて梶与五郎の教え子であった日坂藩の郡方を務める筒井恭平と勘定方の穴見孫六が梶与五郎の汚名をそそぐべく調査を始めます。どちらの作品も、葉室作品らしく、決して高位高官として後世に名を残したわけではないものの、市井でまじめに精一杯生きようとしている不器用な一般人にスポットを当てて、その生き様を大いに称揚する時代小説です。私の好きな作家による好きなタイプの時代小説であり、大いにオススメです。

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2026年9月26日 (土)

今週の読書は経済書やミステリなど計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、中本悟・中川涼司・松村博行・森原康仁[編著]『米中対立と経済安全保障』(晃洋書房)では、ハイパー・グローバリゼーションの下で、米国トランプ政権の誕生から、経済を「武器」として活用し世界の分断のリスクが高まっている時期の経済安全保障について分析しています。稲葉振一郎『経済と社会』(有斐閣)では、「経済」と呼ばれてる事柄について、系統立てた学問的知見をもとに、その何たるか、大げさにいえば「本質」をわかりやすく解説することをテーマとし、社会主義と対比する形で資本主義の経済を考えています。野澤千絵『マンション高騰の真実』(中公新書ラクレ)では、平均価格が1億円を超える東京のマンション高騰の原因を「住まない買い手」であると指摘し、登記簿などを徹底解析し、国内外の富裕層や法人が新築マンションだけではなく中古マンションまで買い漁っている実態を明らかにしています。ローレンス・ロビンズ『大統領の弁護人』(ハヤカワ・ミステリ)では、退任したばかりの前大統領が、在職中に法律顧問室勤務の女性弁護士を殺害した容疑で逮捕され、高校時代からの友人の弁護士に依頼します。ガードナーによるペリー・メイスンのシリーズのような法廷ミステリです。ロス・モンゴメリ『ハレー彗星の館の殺人』(角川文庫)では、ハレー彗星が地球に最接近する1910年5月の英国の貴族の館を舞台に、ハレー彗星の青酸ガスから逃れるために密閉された館で、当主の子爵が他殺死体で発見された謎解きを、当主の大叔母が展開します。E.A.ポオ & W.アーヴィングほか『古典アメリカ幽霊譚傑作集』(創元推理文庫)には、13話の短編、1830年代から1905年までの米国幽霊怪談が収録されています。ポオやアーヴィングといった著名な作者の作品をはじめ、ゴシックスリラーな怪奇と幻想、さらに、狂気の中に理性を見せる作品が収録されています。
今年2026年の新刊書読書は、1~8月で209冊、9月に入ってから先週までの18冊と今週の6冊を加えて合計233冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、中本悟・中川涼司・松村博行・森原康仁[編著]『米中対立と経済安全保障』(晃洋書房)を読みました。編著者は、順に、立命館大学経済学部教授、立命館大学国際関係学部教授、駒澤大学経済学部教授、専修大学経済学部教授となります。はい、筆頭編著者の中本先生は私の尊敬する先輩教員です。ちょくちょく、中本先生の後を受けて米国経済を教えている大橋先生との共著を見かけるのですが、本書では大橋先生は入っていません。はい、どうでもいいことでした。本書は序章と終章を別にすれば、3部10章の構成となっており、第Ⅰ部が経済安全保障論の台頭とその国際的波及、第Ⅱ部が経済安全保障と産業・産業政策、第Ⅲ部が経済安全保障と世界経済、をそれぞれテーマとしています。私の授業でも取り上げていますが、経済安全保障を強力に取り上げているのは経済産業省であり、特に、2022年の「通商白書」では中国からの調達を意識した安全保障に関する議論がなされていました。本書では、暗黙のうちに、1990年代初頭のソ連や東欧諸国における共産主義の崩壊からグローバリゼーションの大きな流れが生じたことを前提にしつつ、さらに、21世紀に入ってハイパー・グローバリゼーションとなった下で、特に米国にトランプ政権が誕生してから、経済を「武器」として活用し、世界の分断のリスクが高まっている点を指摘しています。そういった産業や個別企業やサプライチェーンから国際的な経済秩序と関連させて経済安全保障を本書では論じています。ただ、私が常に感じているのは、経済安全保障という名で政府や国家がどこまで企業活動をサポートする必要があるのか、という点です。例えば、慶応義塾大学の木村教授は、小川英治[編] (2023) 『ポストコロナの世界経済』、東京大学出版会の第2章において、「デカップリング」という用語を用いつつ、経済制裁などの攻撃的なデカップリングに対して、防衛的なデカップリングでは、輸入依存度の高さだけを問題とするのではなく、供給の途絶リスクの蓋然性に加えて、どの程度の期間で代替が可能となるかを分析することが必要であり、こういった対応は、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済みである。」と指摘しています。私が霞が関の役所で勤務していた経験からして、経済産業省には経済を国家統制しようとするマインドがあります。というか、経済産業省に限定せず、財務省とかほかの役所でも、そういった国家統制的なマインドがあることはあるのですが、川上のサプライチェーンや逆方向の川下の販売網など、企業の意思決定ではなく政府のコントロールに従わせる必要がどこまであるのか、本書でも議論は不十分だと私は感じてしまいました。

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次に、稲葉振一郎『経済と社会』(有斐閣)を読みました。著者は、明治学院大学社会学部教授であり、ご専門は、たぶん、社会学なんだろうと思います。本書冒頭で、「本書のテーマは、『経済』と呼ばれてる事柄について、系統立てた学問的知見をもとに、その何たるか、大げさにいえば『本質』をわかりやすく解説することである。」と記しています。「わかりやすく」の部分が少し気にかからないでもなく、出版社からしても本書はほぼほぼ学術書に近くて、決して一般向けや入門書ではないと私は考えているのですが、その部分をおくとしても、たしかに大げさだという気がします。私は経済とは社会の中のある側面だと考えています。どの側面かというと、トートロジーなのですが、経済の側面です。では経済とは、資本蓄積とその資本と労働に支えられた生産と流通と消費だと考えています。ただ、それら資本蓄積などの活動を円滑にするための金融というのは忘れるべきではありません。本書では、資本主義という用語で経済活動の一端を把握しようと試みています。私はそれはそれで正しいと考えますが、本書でも指摘しているように、資本主義とは社会主義と対比する用語といえます。そしてココが本書と私の違いですが、社会主義とは計画経済ではありません。むしろ、何らかの計画に基づいた指令経済と考えるべきです。資本主義でも、何度か別の機会に私が繰り返したように、企業、特に大企業では計画は持っています。単年の年度計画も数年間の中期計画もあります。計画というよりも目標に近いものですが、そういった計画を持つことではなく、計画に基づいて政府が生産や流通を中央統制的に司令することがソ連流の社会主義の本質と考えるべきです。そういったソ連流の社会主義ではなく、分散化された市場における価格付けをシグナルとして生産や流通、さらに消費の意思決定が行われるのが資本主義です。意思決定の際の情報や決定要因が違いとなります。ですから、現在の日本のように、政府の権力や情報操作が大きくなれば、資本主義的な分散型の意思決定ではなくなる可能性があり、統制経済に移行する可能性すら考えられます。ただ、そういった統制指令経済とソ連流の社会主義経済で大きな差があるのは誰が権力、統制を行うに際しての指令を出す権力を持っているかです。マルクスがブルジョワ権力に対してプロレタリアート独裁を対比させたのは、その意味では、本質をついた見方であった気がします。ただ、今では「プロレタリアート独裁」なんて、大きな意味はないと私は考えています。本書でも指摘している通り、ケインズ主義的な福祉国家による幅広い国民に裨益する経済政策の方向が可能となったからです。ただ、1970年代の石油危機などに際してインフレに対するコントロールがケインズ政策では不十分であったことから、新自由主義的な勢力が巻き返しを図り、現在もまだ日米をはじめとする多くの国で新自由主義的な経済政策が取られていることは事実です。ブックレビューというよりも少し違う方向に進んでしまいましたが、本書が解説しようと試みている経済についての私の考えはそういったものです。

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次に、野澤千絵『マンション高騰の真実』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、明治大学政治経済学部政策学科教授であり、ご専門は都市政策・住宅政策だそうです。マンション価格、特に東京をはじめとする首都圏のマンション価格がとてつもなく高騰していて、その昔は1億円を超える「億ション」といえば、それなりに立派なマンションだったのですが、今ではごくフツーのマンションでも億単位のお金が必要、というのは広く報じられている通りです。このマンション価格の高騰、まさに本書のタイトルに対する結論はズバリ、「住まない買い手」であると指摘しています。ただ、決して外国人だけでなく、日本人富裕層も「住まない買い手」に含まれる、と本書では結論しています。本書では、単にインタビューなどのケーススタディだけではなく、徹底したフィールドワークに基づく登記簿などのデータを徹底解析し、国内外の富裕層や法人が新築マンションだけではなく中古マンションまで買い漁っている実態を明らかにし、そういった多くが転売や資産保有などの目的で取得されているため、マンション価格を釣り上げ、ホントに住む必要のある人々をクラウディング・アウトしている、という実態を明らかにしようと試みています。特に、マンション購入法人の6-7割は、企業の顔ともいえるweb上のホームページすら持たず、本書では「顔の見えない法人」と称しています。また、海外からの購入については、よくいわれる中国ではなく、台湾だということで、「台湾有事」からの避難かもしれないと本書では分析しています。マンションが「住まない買い手」に高額で売られ、当然住まないわけですので、町としても機能不全に陥る危険、都市政策にも重大なリスクをもたらす可能性が高まります。そういった実情を分析した上で、第4章ではカナダなどの海外の事例を紹介し、終章で方策を7点上げています。このあたりは読んでみてのお楽しみです。私も専門外ですので、こういった方策の実現性や有効性については、十分には評価しかねます。でも、定年後に東京を脱出して郷里の関西に戻った身として、やや無責任ながら、東京や首都圏在住者だけでなく、何らかの対策が必要であることについては多くの国民が合意できるのではないか、と考えています。

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次に、ローレンス・ロビンズ『大統領の弁護人』(ハヤカワ・ミステリ)を読みました。著者は、米国を代表する著名な弁護士だそうで、イェール大学とハーバード・ロースクールを卒業後、連邦検事補や訴訟次官補を歴任し、後に法律事務所を立ち上げ、2020年の大統領選挙の際には民主党バイデン陣営の顧問弁護士を務めています。本書の英語の原題は The President's Lawyer であり、2024年の出版です。なお、著者は本書が初めての出版であり、その出版の2024年10月から数週間後に72歳で亡くなっています。ですので、私だけでなく、すべての読者について、本書がこの著者の初読だということになります。本書の構成は第1部が弁護士、第2部が公判、となっています。主人公は、著者をモデルにしたのか、大統領とは高校のころからの友人関係を維持している弁護士であり、大統領選挙キャンペーンときには法律顧問を務めています。そして、その大統領は、きわめて正確性を考慮すれば、前大統領、ということになります。在任中はリベラル派の大統領でしたが、わずかに1期4年でニュー・ナショナリストの現職大統領に選挙で敗れています。その前大統領が、在職中に法律顧問室に勤務していた32歳の女性弁護士を殺害した容疑で逮捕されます。その被害者の女性は妊娠数週間で、胎児の父親は前大統領というDNA鑑定結果が出ます。しかし、前大統領は警察の取調べで、被害者女性との性的関係を否定しており、虚偽の発言をしてしまっていました。さらに、被害者の衣類から前大統領のDNAが検出され、毛根がないのでDNA鑑定はできなかったものの、前大統領のものと酷似した毛髪も発見されます。まあ、状況証拠的には前大統領が強く疑われる一方で、状況証拠以上の決定的な直接証拠は存在しません。第1部では、いかにも政治家らしく前大統領が虚偽事項も交えて適当な弁舌で切り抜けようとしますが、まったく裏目に出ます。第2部の公判編では、本書でも時折言及されているE.S. ガードナーによるペリー・メイスンのシリーズよろしく、法廷劇が展開されます。最後に、真犯人が強く示唆される場面で終わります。でも、ペリー・メイスンのように明らかな真犯人が証拠とともに示されるわけではありません。最後の最後に、本書の巻末にも出版社からの言及ありますが、精神疾患、特に遺伝的な精神疾患について、少し違和感ある記述が見かけられます。

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次に、ロス・モンゴメリ『ハレー彗星の館の殺人』(角川文庫)を読みました。著者は、もともと児童向け小説を専門とするロンドン在住の小説家であると巻末解説で紹介されています。本書は、著者が初めて挑んだ大人向けの小説だということのようです。小説の舞台は、イングランドの海岸沿いにあるワールズ・エンドという架空の土地にあるタイズ館、英国貴族であるワールズ・エンド子爵のストッキンガム-ウェスト卿のお屋敷です。ワールズ・エンドはいわゆる潮汐島であり、満潮時には土手道が海水下となって孤立したクローズドサークルを形成します。モン・サン・ミッシェルと同じです。時代は1910年5月であり、ハレー彗星が地球に最接近するタイミングです。主人公のスティーブン・パイクは20歳前で、少年院から出所したばかりで、このお屋敷の使用人に雇われます。主たる役割は、当主の子爵の大叔母に当たるミス・デシマの召使いです。ミス・デシマは79歳の老嬢であり、当主の子爵の向こうを張って科学者です。なかなかに向こう気が強くて、上流階級にふさわしくない下品な表現も平気で口にしたりします。当主の大叔母なのですから年上ですし、当主の子爵に対してすら何らの遠慮もありません。その上、というか、何というか、移動には車椅子を要します。ですので、使用人が居つかないわけで、雇い入れられたばかりのスティーブンがその役目を押し付けられます。当主の子爵がハレー彗星の尾の部分に青酸ガスが含まれ、地球上の多くの生物が死に絶える可能性があると考えているのに対して、ミス・デシマはその可能性を一笑に付しています。繰返しになりますが、当主の子爵は科学者として、それなりの根拠を持って、ハレー彗星の青酸ガスから生き延びるために、タイズ館を封印すべく使用人を総動員します。煙突や窓などを封印してしまい、したがって、タイズ館が全体として、さらに個々の部屋が密室状態となるわけです。そして、ハレー彗星が地球に最接近した翌日、屋敷のタイズ館と各部屋の密封を解いたところ、当主の子爵が殺害されて発見されます。その昔に祖先の一族と同じように目を射抜かれています。警察やスコットランドヤードの刑事がやって来て、スティーブンは最有力容疑者と見なされてしまいます。ミス・デシマがスティーブンらの助けを借りつつ、犯人探しのwhodunnitと密室というhowdunnitの両方の謎を解き明かそうと奮闘します。

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次に、E.A.ポオ & W.アーヴィングほか『古典アメリカ幽霊譚傑作集』(創元推理文庫)を読みました。タイトル通り、大雑把に英国のビクトリア期に当たる1830年代から1905年の米国幽霊怪談のアンソロジーです。出版社からすでに、『英国クリスマス幽霊譚傑作集』、『ロンドン幽霊譚傑作集』、『英国幽霊屋敷譚傑作集』が出版されており、そのシリーズに入る短編集であり、13の短編幽霊譚を収録しています。収録は編年体であり、1835年作品から1905年作品まで、出版の古い順に並べてあります。作者とタイトルは収録順に、ナサニエル・ホーソーン「灰色の戦士」、ワシントン・アーヴィング「首吊り島からの客」、エドガー・アラン・ポオ「悪魔に首を賭けるな」、ローズ・テリー・クック「訪れ」、ジェーン・グッドウィン・オースティン「無人の小屋 - ある幽霊譚」、ジョン・ウィリアム・デ・フォレスト「太鼓叩きの幽霊」、クララ・レクラーク「水車小屋の幽霊 - テキサスの逸話」、サラ・オーン・ジューエット「灰色の男」、ヘンリー・ヴァン・ダイク「白い染み - ある絵の話」、ヘゼカイア・バターワース「ロムニー沼地の古屋敷」、フランク R. ストックトン「老アップルジョイの幽霊」、マリー・ヴァン・ヴォースト「吹雪の道」、エリザベス・ガーヴァー・ジョーダン「カスバート尼僧の試練」となります。ポオやアーヴィングといった著名な作者の作品も含まれています。ゴシックスリラーな怪奇と幻想、さらに、狂気の中に理性の輝きを見せる作品が収録されている印象です。巻末の編者あとがきにあるように、この時期は米国の現在に至る国家としての形が、アラスカとかハワイを別にして、おおむね形成された期間であり、同時に、1770年代の独立戦争もまだ記憶に残る中、1846年から48年にはメキシコとの米墨戦争、1961年から65年はいわずと知れた南北戦争、1898年のスペインとの米西戦争など、戦争に明け暮れていた時期であり、戦死した兵士の幽霊譚も本書にはいくつか収録されています。ただ、私が従来から知っていたのはストックトン「老アップルジョイの幽霊」だけなのですが、これはクリスマスの時期の陽気な幽霊の物語です。アップルジョイ家の初代当主の幽霊が、その孫である現在の当主の姪のところに現れて、クリスマスに姪の恋人のトムを招くようにいいます。米国でクリスマスの時期の幽霊話しとして広く語り継がれていると私は聞き及んでいます。別に、米国らしく降霊術が登場する短編もあります。

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2026年9月19日 (土)

今週の読書は経済書のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、原田泰・井上智洋・中里透[編著]『政府支出を考える』(金融財政事情研究会)では、序章のタイトルが「なぜ政府支出が重要なのか - バラマキは悪くない」となっていて、緊縮財政とは一線を画している一方で、表紙画像にあるように「効率的な政府支出」についても目を配っています。大竹文雄『経済学的思考を組み立てる』(中公選書)は、毎日新聞の書評欄を中心に著者が様々な媒体で最近10年余りの間に取り上げてきた書評を取りまとめています。ざっくりいって、意思決定、格差・不平等、教育、労働、EBPM、市場・制度・イノベーション、マクロ経済、幸福のテーマです。土屋うさぎ『謎の香りはパン屋から 2』(宝島社)は、前作に続いて日常の謎を考える連作短編集であり、主人公の市倉小春が大学2年生に進学し、大阪の石橋阪大前駅近くにあるパン屋の「ノスティモ」を舞台とし、店長の堂前やレナ先輩に囲まれ、後輩アルバイトに高校生の杏樹が加わっています。生島和樹『転売ヤーの会計学』(光文社新書)では、経済学ではなく、簿記会計の観点から転売ヤーの活動について考え、転売ヤーの原価や利益をどう見積もるのか、また、転売ヤーに利益が出るかどうかについて、とても興味深い結論を導いています。結論は読んでみてのお楽しみです。三宅香帆『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(新潮新書)では、面白い話ができるよう、「比較」、「抽象」、「発見」、「流行」、「不易」といった技術を使って、書籍や映画に接することで、作品鑑賞を人に話すようなトピックの元ネタにする方法を作品に即して展開しています。河内春人『継体天皇』(中公新書)では、中国の歴史書で日本が取り上げられることが少なく、記紀もそれほど信頼できない、という端境期のような5世紀に皇統が途絶えそうになって、北陸から招聘された応神五世孫の継体天皇に着目し、アジア域内のグローバルな視点も含めた歴史書です。
今年2026年の新刊書読書は、1~8月で209冊、9月に入ってから今週までの18冊を加えて合計227冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。ただし、先週言及した王谷晶『ババヤガの夜』(河出文庫)とカーター・ディクスン『黒死荘の殺人』(創元推理文庫)については、SNSでのレビューを諦めました。悪しからず。

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まず、原田泰・井上智洋・中里透[編著]『政府支出を考える』(金融財政事情研究会)を読みました。編著者は、順に、名古屋商科大学ビジネススクール教授、駒澤大学経済学部准教授、上智大学経済学部准教授です。本書は、タイトル通りに財政支出について考えているのですが、序章のタイトルが「なぜ政府支出が重要なのか - バラマキは悪くない」となっていて緊縮財政とは一線を画している一方で、表紙画像にあるように「効率的な政府支出」についても目を配っているようにも受け止めています。本書では現れませんが、「ワイズ・スペンディング」という言葉も一時は流行した記憶があります。基本は、効率的な支出と軌を一にする用語であろうと考えるべきです。本書の構成は序章を別にすれば、12章から成っており、各章の中心は公共投資、医療、介護、産業政策、中小企業政策、エネルギー政策、農業政策、科学技術政策、地方交付税、労働政策、少子化対策、そして、EBPMとなっています。主要な政府支出項目に着目しているわけですが、誠に残念ながら、私のホームグラウンドである教育政策は科学技術政策や地方交付税の一部として現れるだけです。大きなテーマは財政の効率化のように私は受け止めましたので、バラマキとは対極にあるような気もします。ただし、私が2023年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" で展開したような政府財政のサステイナビリティについては、歳入がスコープ外ですので、特段の分析は収録されていません。ただ、各分野についてはとても詳細で示唆に富む分析がなされていますが、社会保障では医療と介護だけが取り上げられており、金額で一定のボリュームを占める年金が議論されていない点については少し違和感があります。年金は別にして、医療について国民皆保険を現状のまま維持する困難については私も同意します。また、農業政策については、経営体への支援、あるいは、個別補償と生産物価格支持をデカップリングすべきという見方は、その通りと思いますが、自給率という世界でも類を見ない農業政策の目標については、どう考えるべきか、もう少し踏み込んだ議論が欲しかった気がします。最後に、環境政策・気候変動対策はエネルギー政策の中で議論されていますが、もはや一国の枠内で議論する限界を感じるのは私だけではない気がします。

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次に、大竹文雄『経済学的思考を組み立てる』(中公選書)を読みました。著者は、大阪大学特任教授であり、ご専門は労働経済学、行動経済学だそうです。本書は、毎日新聞の書評欄を中心に著者が様々な媒体で最近10年余りの間に取り上げてきた書評を取りまとめています。序章と終章を別にすれば8章構成であり、ざっくりいって、意思決定、格差・不平等、教育、労働、EBPM、市場・制度・イノベーション、マクロ経済、幸福、となります。やや、ベッカー教授のような経済学帝国主義の趣きがないでもなく、すべてを経済学で解決することができるような内容になっているのは、まあ、致し方ないように私は受け止めました。私のような未熟者と違って、さすがに熟達のエコノミストですので、書評とはいえ一流の解説がなされています。これらの書評に目を通すだけで、読まずに内容を把握できそうな気がします。ただ、1点だけ気になるのは、最近流行のEBPMなのですが、私は一般均衡的に考えられているのか、あるいは、ルーカス批判をクリアしているのか、といった点が気になっています。もう、誰もルーカス批判の観点を持ち出さなくなっているのですが、政策が変更されると構造的なパラメータもそれに合わせて違ってくる可能性は否定できません。もちろん、そんなことを言い出せば不可知論に陥るので深入りはしませんが、政策変更による反応は考えておくべき課題のひとつかと考えます。少しさかのぼって考えると、広く知られているように、経済学的なEBPMの基礎は医学のEBM(Evidence Based Medicine)でした。医療に関しては、患者がどういう治療や投薬を受けるかで患者の行動が変化することはほぼほぼない、と考えて問題ありません。しかし、経済政策については政府の政策により家計や企業の行動や選択の基となる構造的なパラメータが変化することがありえます。その点を誰も議論しようとしないのは不思議です。医学で活用されたEBMを経済学的なEBPMへ適応させるのは少し異なるはずなのですが、見落とされている気がしなくもないです。最後に、因果関係を見る際にも、私は割と雑に単変数=univariateな時系列を考えるもので、双方向で互いに因果関係を形成している場合が少なくないと感じています。例えば、双方向ではなく3方向ですが、肥満、低所得、喫煙は3つ巴でグルリと因果の輪を形成している可能性があります。世間一般でも「悪循環」という表現があり、悪い例かもしれませんが、ギャンブルで負けが込んでくると、さらに掛け金をつり上げてますます負けが大きくなる、といったケースもないではありません。いずれにせよ、双方向の因果関係を含めて、どれかひとつのボタンを押せば、それ以降の結果がすべて変更されるというのは単純に過ぎる可能性、あくまで可能性ですが、そういった可能性は忘れるべきではないと思います。

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次に、土屋うさぎ『謎の香りはパン屋から 2』(宝島社)を読みました。著者は、小説家なのでしょうが、この作品の前作で第23回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しています。前作とともに、主人公は市倉小春、大学2年生に進学しています。舞台は大阪の石橋阪大前駅近くにあるパン屋の「ノスティモ」であり、主人公がアルバイトしています。漫画家を目指している主人公はデビューが決まっています。店長の堂前やレナ先輩と変わらず賑やかな日々を送っていますが、後輩アルバイトに高校生の杏樹が加わっています。5話から成る連作短編集です。収録順にあらすじは、「すれ違いメロンパン」では、春先に高校生アルバイトの杏樹がレナ先輩からパワハラを受けたといって辞めると言い出し、小春が誤解を解くものの、じつは、杏樹にはノスティモでアルバイトをする別の理由がありました。「祝福のデニッシュ」では、小春のいるパンのブーランとともに、ノスティモにあるケーキのパティスリーに、人見知りが激しくてパティスリー部門から外には出ないヨネケンこと米倉賢治がいて、ジューンブライドの友人の結婚式に向けてウェディングケーキを作ったのですが、地震で倒れて台無しになります。「燃えろカツサンド」では、カフェスペースでカツサンドを注文した音羽さんが、注文したにもかかわらずカツサンドを食べずに慌てて暑い8月の夏の外に出て行き、レナ先輩は闇バイトを疑います。「聖夜のフレンチトースト」は、12月のクリスマスの季節に、小春が恋愛成就にご利益の大きいのお初天神に行くと、電動キックボードにぶつかりそうになりますが、イケメン高校生に助けられてお茶に誘われます。最後の「涙する塩パン」では、ノスティモのオープニングスタッフだった湯浅がキッチンカーで塩パンを売っていて、ノスティモ店長の堂前に指定対決の勝負を挑みます。ということで、日常の謎をテーマとする短編ミステリですので、いわゆるノックスの十戒にあるような殺人事件は含まれません。確かにいい作品なのですが、収録短編がミステリか、といわれると、違うような短編もあります。どうしてかというと、謎としての提示がなされていないからです。ですので、謎解きと呼ぶべきでないような気もします。要するに、日常の謎ではなく、日常の出来事の裏側を探る作りになっている短編も含まれています。ミステリではなく、そういったウラ読みの短編、ということです。主人公がまだ大学2年生ですので、続編があれば私は次も読むような気がしますが、読まないかもしれません。

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次に、生島和樹『転売ヤーの会計学』(光文社新書)を読みました。著者は、福島大学経済経営学類准教授であり、ご専門は会計学、特に、財務会計だそうです。私は会計学は専門外ながら、本書で取り上げているような転売ヤーについては、会計学ではなく経済学の視点から、それなりに考えを持っています。まず、本書では、会計学の視点から正規、というか、合法的かつ効率性を増す形での流通と非合法な転売ヤーを区別しています。しかし、経済学の視点からは、はなはだ申し上げにくいものの、合法性はそれほど問題となりません。もちろん、まったく無視されるわけではありません。例えば、駐車料金に対してレッカー移動がないとした場合の駐車違反反則金を比較して、後者の方が安ければ堂々と駐車違反を考慮に入れたりもします。他方で、経済学の見方では、本書ではほとんど登場しない競争的市場の方が重視されると私は考えています。ただ、経済学の専門知識に基づく「競争的」という言葉は、一般的な「競争」とは少し異なります。勝ち負けでの競争ではなく、同種の市場参加者がいっぱいいる、という意味です。本書では、ガンプラやポケモンカード(ポケカ)を主として例示して議論を進めていますが、他方で本書でも言及している「興行」のチケットもあります。コンサートとか、スタジアムでのスポーツ観戦とかです。一般に、転売ヤーが利益を上げるのは、小売価格よりも高い価格で買ってもいいと考える消費者が一定数いる場合です。この場合は、小売価格が需要曲線と供給曲線の交点で決まる経済学的な均衡価格になっておらず、供給者の方でコストに粗利分をマークアップさせて、ある意味で、ずさんな価格付けを行っていることから転売ヤーがつけ込む隙が生じます。であれば、供給者がきちんとしたマーケティングを行って価格を変更すればいいわけです。供給量=需要量が減少して転売ヤーに回らないことになり、それを補う形で価格が上昇して、付加価値総額も大きくなります。そうでなく、興行のように供給曲線が垂直である場合は、市場が競争的ではない、と表現します。競争的市場と比較して、価格が上がっても供給は増えません。価格を引き上げて転売ヤーに対応する方法と、価格は変えずに強力な転売規制で対応する方法があります。おそらく、転売ヤーの収益は統計的に捕捉されないでしょうから、付加価値総額は変化しないように思います。興行だけではなく、短期的には保育園の定員も価格による弾力性がゼロですから、同じことになります。ただ、本書では、転売ヤーに利益が出るかどうかについて、とても興味深い結論を会計学の観点から導いています。本書の結論ですのでレビューで明らかにするわけにもいかず、読んでいただくしかないのですが、著者の学識と見識の高さが示されていると私は受け止めました。

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次に、三宅香帆『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(新潮新書)を読みました。著者は、文芸評論家だそうで、以前に出版された『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題になったのではないかと思います。本書は、基本的に、会話を弾ませるという目的を持っているのですが、そのテクニック、というか、スキルを読書や映画・ドラマから導こうとしています。ですので、何もないところからの話題を発生させるというのはムリがあると考えるべきです。詳細は読んでいただくしたないのですが、サワリとしては、5つの技術、すなわち、「比較」、「抽象」、「発見」、「流行」、「不易」のいずれかの技術を使って、書籍や映画に接することで、作品鑑賞を人に話すようなトピックの元ネタにすることができる、ということです。しかも、第1部では技術解説編ということで、いくつか抽象的にスキルを考えていますが、第2部の応用実践編では、逆に、抽象度低く、実際の作品を取り上げることにより、このような読書をすれば話題として用いることができる、といった観点からの解説となっています。映画やドラマも少なくありませんが、逆にいえば、取り上げられているのは本が多く、読書しない人にはそれほど有益ではないかもしれません。でも、本書を読むということは読書もしている、ということなのでしょうから、まあ、役立つ可能性は十分あります。実は、そろそろ季節到来のノーベル賞、特に私の専門分野の経済学賞を受賞しているカーネマン教授の以前の著書の『ファスト&スロー』の冒頭にも、同じようなことが書かれており、活用法は「オフィスでの井戸端会議」である、としていました。本書も同じように話題を見つけ出して、整理し、トピックとして会話を弾ませるような読書、ついでに、映画やドラマの活用を考えています。そのためには、第1部の技術解説編にあるように、ノートを取りながら内容をより深く把握する、というのも重要だと私は考えています。ですので、ひょっとしたら、読書に限定してかもしれませんが、職場やご近所での会話を弾ませるための読書と学術的な理解を深める読書は、ともに同じ方向を向いているのかもしれません。他方で、トピックが何であれ、話術で面白い話ができる、という人も少なくないものと思います。落語の噺家などがそうではないかと思いますが、そういった「話が面白い人」は、本書のスコープ外となっているようです。

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次に、河内春人『継体天皇』(中公新書)を読みました。著者は、関東学院大学経済学部教授だそうで、私と同業者かもしれないと思うのですが、ご専門は日本・東アジア古代史だそうですので、少し違うかもしれません。本書はタイトル通りであり、継体天皇について歴史的な議論を展開しています。その昔に流行って、今ではそれほど見向きもされない征服王朝説なんかでは、大陸から北陸を通って騎馬民族がヤマト朝廷を征服した、なんてのもあり、継体天皇がそれに擬されることもあったやに聞き及びましたが、今では制服王朝説もそれほど現実的ではないと考えられるようになっているようです。専門外の私からすれば、継体天皇は応神天皇や仁徳天皇からの皇統が武烈天皇で途切れたため、北陸で大伴金村が応神五世孫を見つけた、というのが記紀の記述になっている、という程度の知識しかありません。この継体天皇のころの5世紀は、本書でも言及されているように、雄略天皇は実在しなかった、とか、武烈天皇が暴虐の王だったとか、いろいろとどこまで信じていいか不明なナラティブがあります。というのも、本書で解説しているように、6世紀からはそれなりの歴史があって、記紀も信用できますが、4世紀より前の記紀はまったく信頼が置けず、神話の世界も多く入り混じっていますので、当時の世界的な大先進国である中国の歴史書に頼る部分が多くなります。他方、本書や倭の五王の時期である5世紀は中国の歴史書で日本が取り上げられることが少なく、記紀もそれほど信頼できない、という端境期のような時期だということです。いずれにせよ、詳細は読んでいただくしかありませんが、4-5世紀の日本はヤマト朝廷がそれほど強力には確立しておらず、地方も含めた豪族の支持なしには天皇制も十分に機能しない、という時期です。ですので、本書でもしばしば言及されているように、古市集団と百舌鳥集団が天皇を出し合い、継体天皇のケースのように皇統が絶えると地方から呼び寄せる、という形で天皇制が継続されていたわけです。その意味では、決して征服王朝などではなく、継体天皇も当時の天皇選出のルールに則った方法で選ばれている、という本書の指摘はもっともです。ただし、樟葉で即位して、なかなかヤマトに入れなかった点については、もう少し掘り下げた分析が欲しかった気がします。本書では、古典古代の世界史的な大陸情勢も視野に入れて、グローバル・ヒストリーのような視点も交えて、日本の古代史がほどよく理解できるように工夫されています。天皇制が男系男子で万世一系かどうかはともかく、天皇制の視点から古代史を勉強するにはいい本だと思います。

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2026年9月12日 (土)

今週の読書は経済書や小説など計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、佐々木宏夫『「二つの人生」を生きるための経済学再入門』(慶應義塾大学出版会)では、長くなった人生に対して、現役と引退ではなく、第1と第2の「現役時代」と呼んで、特に第2の現役時代を、必ずしも合理性だけではなく、生きる知恵としての常識の体系として経済学を活かす方法を考えています。友寄英隆『日本経済再生への道』(新日本出版社)は、マクロ経済学の合成の誤謬をキーワードとし、新自由主義的な経済政策からマルクス主義経済学的な計画経済を志向する経済書です。ただ、合成の誤謬だけでなく、囚人のジレンマの方も頭においておく必要があると思います。瀬尾まいこ『ありか』(水鈴社)は、夫の浮気を理由に離婚したシングルマザーを主人公に、保育園に通う娘、元夫の弟、保育園のママ友、職場の年配の同僚、そして、生活費に窮して主人公に無心する母親、など親子を取り巻くやや重いストーリーです。町田その子の作品かと思ってしまいました。佐藤正午『熟柿』(角川書店)では、妊娠中の主人公がひき逃げ死亡事故を起こし、刑務所での服役中に長男を出産し、刑期を終えて出所すると警察官を辞職した夫に離婚を求められます。西へ西へ移動して働き、子どもとの再会を願います。でも、交通事故被害者の視点が抜けています。赤根智子『戦争犯罪と闘う』(文春新書)では、オランダのハーグにある国際刑事裁判所(ICC)の所長である著者が、ICCと同じハーグに置かれた国際司法裁判所(ICJ)との違いを解説したりし、世界で幅を利かせつつある「力による支配」ではなく、「法による支配」の重要性を強調しています。堤未果の『すばらしい新世界』(集英社新書)は、1930年代のオルダス・ハクスリーによるディストピア小説『すばらしい新世界』を意識したものとなっていて、日本語で日本人を対象に書かれていますので、仏教の四苦である「生老病死」になぞらえた構成となっています。
今年2026年の新刊書読書は、1~8月で209冊、9月に入ってから先週の6冊と今週の6冊を加えて合計221冊となります。また、英国推理作家協会(CWA)のインターナショナル・ダガー賞(翻訳部門)を日本人で初めて受賞した王谷晶『ババヤガの夜』(河出文庫)とカーター・ディクスン『黒死荘の殺人』(創元推理文庫)も読みましたが、新刊ではないので、本日のレビューには含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、佐々木宏夫『「二つの人生」を生きるための経済学再入門』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、早稲田大学名誉教授です。ゲーム論がご専門のようです。本書冒頭では、人生100年時代が到来し、織田信長の幸若舞のような「人生50年」とは違う生き方、人生を模索する目的を表明しています。経済学などではオーバーラッピング・ジェネレーション・モデルとして現役世代が働いて、引退世代が貯蓄や年金で生活する、というモデルがあり、同時に、ライフサイクルモデルとも重なる部分があります。そして、長くなった人生に対して、必ずしも合理性ばかりではなく、生きる知恵としての常識の体系として経済学を活かす方法を本書では考えています。私は単なる呼称だけの問題のような気もしますが、「第1の現役時代」と「第2の現役時代」と本書では呼んでいます。その第1と第2のそれぞれの「現役時代」の対象表がp.11に示されています。私自身はまだ働いていて、年金生活には入っていないとはいえ、ほぼほぼ本書でいう「第2の現役時代」に入っている気がします。所得こそ年金ではなくお給料をちょうだいしていますが、子どもたちは大学を卒業して社会人となって独立していますし、本書でも強調しているように、寿命のリスクとしては死んで所得が途絶えるリスクよりも生きながらえて生活費に困窮するリスクの方が大きくなっています。ただ、本書はさすがに大学教授経験者の本らしく、決してハウツー本ではありません。「ハウツー」の基礎となっている考え方、特に経済学やゲーム論について議論を展開しています。例えば、やり直しがきかない「第2の現役時代」における人生の戦略についてゲーム論的な基礎を議論したり、市場や市場における価格から情報を読み取ったり、不動産市場から終の棲家を考えたり、といった議論が進みます。その上で、より大きな社会的な出来事について、社会選択理論を通じた意思決定、市場社会と伝統社会の異同、人口減少の光と影、さらに進んで成長なき経済社会をどう生きるか、などなど、経済リテラシーを活用した「第2の現役時代」の過ごし方について考えています。繰返しになりますが、決してハウツー本ではなく、長い人生を楽しく豊かに過ごすヒントがいくつか読み取れると思います。

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次に、友寄英隆『日本経済再生への道』(新日本出版社)を読みました。著者は、労働者教育協会理事であり、同じ出版社の月刊誌『経済』編集長などを歴任しています。本書は、表紙画像にあるように、マクロ経済学の合成の誤謬をキーワードとし、新自由主義的な経済政策からマルクス主義経済学的な計画経済を志向するものです。まず、本書では新自由主義を明確には定義していません。pp.10-11に簡潔に7の視点を提示しているだけで、その点は批判あると思います。私の考えでは、新自由主義とは、1970年代に2度に渡る石油危機やニクソン米国大統領によるドルショックなどを契機に、戦後経済のいわゆる「栄光の30年」(フラスティエ著、Les Trente Glorieuses, ou la révolution invisible de 1946 à 1975 など参照)が終わり、ケインズ経済学がインフレ抑制に失敗したことから、本書でも指摘しているように、反動的な新古典派経済学が巻き戻しを図ったことにより、現在まで、日米をはじめとしていくつかの先進国の経済政策の主流となっています。確かに、本書の先に指摘したページで概観されている通りですが、何といっても、政府、すなわち、中央政府や地方政府を民間企業と同じような原理で運営することから始まっています。今ではもう誰も注目していないニュー・パブリック・マネジメント(NPM)と呼ばれた手法です。ですから、現在の米国のトランプ大統領が典型で、連邦政府を企業マネジメントと同じように考え、外交交渉を取引(ディール)を見なします。要するに、企業と同じ損得で考えるわけです。逆にいえば、公共財の供給という視点が希薄なわけです。ですので、市場万能主義・市場原理主義はいうまでもなく、企業経営と同じで低所得者よりも富裕層に有利で、公助よりも共助、さらに自助と自己責任が強調され、グローバル化が進んだ経済社会で、利益を上げられる場所を探してモビリティが高く、利益が出るのであれば武器輸出でも何でも手を出す、というわけです。そういった基本的理解の上で、本書で提示されている7つの観点を読むといいと思います。という前置きが長くなりましたが、本書では合成の誤謬を強調していますが、私はどちらかといえば、囚人のジレンマの方も頭においておく必要があると考えています。すなわち、例えば、労働者への賃金で考えると、他社労働者の賃上げが進む一方で、自社労働者の賃下げや賃金据置きができると、コスト削減から利益の増大が可能となります。しかし、少し前までの日本の状況のように、各社いっせいにそろって賃上げが進まないとなると、所得が停滞して消費が増加せず、景気が悪いままで推移することになりかねません。その上で、本書では戦後日本の経済計画について評価しています。はい、一定の限界あるとはいえ、私も役所の同僚とともに "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" というリサーチ結果を取りまとめ、世銀リポートに引用されたりして、途上国の経済発展における経済計画の果たす役割や重要性を強調しています。ただ、日本は先進国ではないか、という反論もあろうかと思いますが、それほど、というか、旧ソ連的な中央政府から指令を出すがごとき計画経済ではなく、本書でも指摘しているような何らかの indicative/informative な役割を主眼とする経済計画は有益であろうと考えています。いつも私が強調するところですが、日本政府は経済計画をヤメにしてしまいましたが、おそらく、ほぼほぼすべての上場企業では毎年の経営計画、さらに、中期的な経営計画(よく「中計」と略称されるもの)を持っている、というか、作成しているのではないでしょうか。上場企業よりも規模が大きく、年間予算で100兆円をはるかに超える中央政府が、そういった経済計画を持たないのは、むしろ無責任といえます。ほかにも、私自身はマルクス主義経済学の専門性はまったく持ち合わせないので、本書をそれほど的確に評価する能力も十分ではないかもしれませんが、本書が一定の合理性ある方向を示していると評価しています。

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次に、瀬尾まいこ『ありか』(水鈴社)を読みました。著者は、小説家であり、本書は2026年本屋大賞7位となっています。主人公は飯塚美空、20代半ばで工場に勤務し、幼稚園児のひかりとの母子家庭です。ひかりはこの小説の中で保育園の年中さんから年長さん、そして、小学校に進学します。飯塚奏多とできちゃった婚しましたが、結婚生活2年ほどで夫の浮気を理由に離婚して、今はシングルマザーとなっています。元夫の実弟、美空から見れば義弟の飯塚颯斗がとってもマメに育児や家事を手伝いに来てくれます。毎週水曜日は颯斗がひかりを保育園にお迎えに行き、そのまま美空の家で夕食となるのがルーティンです。いっしょに3人でクリスマスや誕生日を祝ったりもします。保育園児のひかりは素直でのびのびと育っています。颯斗は年上の男性と同棲しているLⒼBTQだったりしますが、親にはカミングアウトしていません。保育園のそらくんのママ友の三池さん、職場の同僚で年配の宮崎さんなどとともに、しっかりと人生を送っています。しかし、美空の母親、彼女も金遣いの荒い夫と離婚して、シングルマザーとして美空を育ててくれたのですが、この美空と母親の親子関係がやや生活に影を落とします。美空が20代半ばで、母親も50代前半の年齢という設定で、母親は生活費に窮して美空に無心しますが、颯斗はキッパリと断るべき、という意見です。あらすじはここまでとします。はい、このあたりから、瀬尾まいこの小説を読んでいたつもりが、町田その子の小説と間違えたのだろうか、という勘違いすらしました。とても重い雰囲気の小説になっています。この作者の小説は、それほどどんでん返しはありませんが、最後に近づくにつれて、何か大きな「ちゃぶ台返し」が待っているのではないか、と思いつつ読み進んだりしました。実際に、どんでん返しがあるかどうかは、読んでみてのお楽しみです。最後の最後に、私が数年前まで公務員をして働いていた東京に対して、関西圏、特に今住んでいるところは関西は関西でも京阪神ではなく、県庁所在市ですらありませんから、やや東京の考えやスタイルにタイムラグを持っている印象があります。さすがに、最新ファッションや流行語なんかはタイムラグ短く伝わるような気がしますが、例えば、マンションのオートロック、ダブルでオートロックになっているマンションは東京ではめずらしくありませんでしたし、実際に、我が家はそういったダブルのオートロックにマンションに住んでいましたが、引越しで家探しをしていた経験から、関西圏では京都市内ですらそういったダブルのオートロックのマンションは見かけませんでした。この小説に即していえば、三池さん、そらくんママのサングラスにそういったものを感じます。1980年代後半バブル経済期の東京では、すでにサングラスには何の偏見めいた見方もありませんでしたが、40年を経て、関西圏在住の作者にはサングラスに対する偏見とまではいいませんが、少し派手めのファッションと組み合わせて、サングラスにやや特殊な役割を期待するようなところが感じられます。はい、私は町中を歩いていてもフツーにサングラスをするのですが、たしかに、関西の片田舎では東京と比べると、異常なくらいにサングラス着用者は少ない気がします。

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次に、佐藤正午『熟柿』(角川書店)を読みました。著者は、小説家であり、本書は2026年本屋大賞次点の2位となっています。主人公は市木かおり、離婚して旧姓に戻っています。元夫は田中哲也、警察官です。この夫婦の住まいは千葉です。ストーリーはこの夫婦が離婚する前の2008年から始まります。すなわち、少し変わり者で庭の柿の木や実を大切にしていた大叔母の晴子の葬式が千葉ではない栃木かどこかの北関東であり、主人公はすでに妊娠しており、夫はその祝い気分でお酒を勧められ、妻の親戚縁者の葬式の場でありながら、酒を断れず酔いつぶれてしまい、帰り道は妻のかおりが運転することになります。帰路でかおりは人身事故を起こしたことも気づかず、結果としてひき逃げ死亡事故を起こしてしまいます。刑務所での服役中に長男の拓を出産し、刑期を終えて出所すると警察官を辞職した夫が待っていて、離婚届に署名し子どもの親権は、当然のように、元夫が持つことになります。その後、拓が保育園を卒園する際に、かおりは卒園式にふさわしいいでたちで拓に会おうとしますが、拓と同級生で同じ保育園児の久住呂咲から拓を連れて来るといわれながら、別の園児を間違って連れ去ってしまいます。久住呂咲の母親の久住呂百合が一応の事情を把握していて警察にも必死で弁明してくれ、逮捕や裁判は免れたものの、子どもとの接見を禁じられ、追われるように各地を流れてゆくことになります。この久住呂親子は最後までかおりの味方になってくれるキーパーソンでもあります。母親の久住呂百合は生命保険会社勤務で、かおりは子どもの拓を受取人にして多額の生命保険に入ります。犯罪歴を隠して西へ西へとかおりは移動して働き、必死になって保険金を支払い続けます。もちろん、そう平坦な道であるはずもなく、刑務所出所後、約15年、子どもの拓が久住呂咲とともに高校生になった時点で、小説はラストを迎えます。重くてしんどい小説です。でも、ラストまで読めば救われたと感じる人もいそうです。私自身は当然にラストまで読みましたが、決して救われたとは思えませんでした。加えて、交通事故の被害者や遺族の視点がまったく欠落しているのにも大きな違和感を感じました。主人公が交通事故死させた被害者に思いを馳せるシーンも少なかった気がします。その意味で、それほど評価できる小説かどうか、私はやや疑問に感じました。

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次に、赤根智子『戦争犯罪と闘う』(文春新書)を読みました。著者は、名古屋出身の元検事にして、現在はオランダのハーグにある国際刑事裁判所(ICC)の所長を務めています。広く報じられている通り、先月2026年8月に、米国財務省外国資産管理局(OFAC)は、大統領令14203号に基づき、赤根所長を米国の制裁対象者リストであるSDNリストに追加しています。本書はその制裁前の時点で執筆公刊されています。本書での記述順とは少し異なりますが、同じくオランダのハーグにある国際司法裁判所(ICJ)と赤根所長の国際刑事裁判所(ICC)のちがいはp.80の図2にある通りで、ざっくりいって、ICCは国連機関であり、すべての国連加盟国がメンバーとなっていて、国家間の紛争を国際法に基づいて解決すべく活動し、裁定を行っています。ですから、対象は国です。他方で、赤根所長のICJは国際条約であるローマ規定加盟国をメンバーとし、中核犯罪、すなわち、ジェノサイド犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪の4つのきわめて重大な罪を犯した個人、ロシアのプーチン大統領とかの個人を裁きます。はい、専門分野が違うとはいえ、私は初めて知ることが出来て勉強になりました。そして、こういった4つの中核犯罪=core crimesで裁かれようとしている中には、国家元首、あるいは、元国家元首がいたりするわけです。一例として、本書でもフィリピンのドゥテルテ前大統領が上げられます。こういった中核犯罪の裁きの原点は、第2次世界大戦後のニュルンベルク裁判と東京裁判だそうです。そのあたりは専門外の私にも想像できます。ICJの組織や詳細な活動内容、あるいは、活動実績などはお読みいただくしかありませんが、本書で強調されている点は、何といっても、軍隊の武力などを背景にした「力の支配」ではなく、「法の支配」の優先を強調していることです。世界の警察という公共財を提供してきた米国が、現在のような「力の支配」の側につく恐ろしさは多くの市民が感じているところでしょうが、本書を読めば、ロシアがウクライナに対して行っている戦争行為、また、米国やイスラエルの中東での戦争などが、いかに理不尽で「法の支配」に反するものであるかが理解できます。また、こういったICJが行っている中核犯罪に対する国家レベルでの活動が欧州の大国、例えば、ドイツでも行われていて、日本はそういった法整備や行政上の体制整備がまったく進んでいないことにも驚かされます。まあ、GDP規模で追い抜かれても仕方ない、といったところかもしれません。

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次に、堤未果の『すばらしい新世界』(集英社新書)を読みました。著者は、国際ジャーナリスト、と本書では紹介されています。タイトルをどう表記すればいいのか判らないのですが、出版社のサイトに従っています。学術論文を書く私のセンスからすれば、堤未果『堤未果の『すばらしい新世界』』(集英社新書)と二重カギ括弧がダブるような気もします。タイトルから用意に想像できるように、約100年前1930年代のオルダス・ハクスリーによるディストピア小説『すばらしい新世界』を意識したものとなっています。ただ、日本語で日本人を対象に書かれていますので、仏教の四苦である「生老病死」になぞらえた構成となっています。第1章「生」では、デザイナーベビーという言葉こそ使っていませんが、遺伝子操作された赤ちゃん、さらに最先端を行く優秀な受精卵の売買、ペットのクローン作成、などに焦点を当てています。第2章「老」では、老化が遺伝子コピーのバグであることは、それはその通りなのですが、いろんな最先端医療技術などにより150歳までの寿命を達成したり、若返りの人体実験を自ら試行したり、果ては、肉体が死んでもデジタルで生き続ける方法などが取り上げられています。第3章「病」ではハクスリーの『すばらしい新世界』における万能薬のソーマを持ち出して、現時点の抗うつ薬ブロザックを論じています。埋込み型の監視カメラが食生活までコントロールする世界とか、AIが人間を監視・監督する会社なども当然のように注目されています。第4章「死」では安楽死から始まります。私はよく知らなかったのですが、カナダでは20人に1人が医師の手で死んでいるらしいです。著者自らの叔母ががん治療を拒否して死んでいくのにも、少し怖い気がするのは私だけではないと思いますが、同時に共感する読者もいそうです。はい、私もこの分野にはそれほどの知見を持ち合わせませんから、詳細はお読みいただくしかありません。しかし、他方で、劇症だったり致死率の高い伝染病であれば社会的な課題となりますが、本書で取り上げている範囲では、確かに個人の選択の問題であるとするレベルの問題が少なくない気もします。ですから、第1章「生」が典型ですが、神の分野かヒトの分野か、というのは宗教に近い気もします。いずれにせよ、本書で議論しているのは容易に結論が得られるテーマではありません。ですので、読者がそれぞれ熟慮して解決を図るべき問題であろうかと思います。

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2026年9月 5日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小田正規『21世紀型通商政策への転換とその課題』(日本評論社)では、世界的に貿易自由化の通商政策が一段落した現在、食料自給率について議論し、付加価値貿易統計で見た貿易の姿を明らかにし、国境前の措置としての規制制度間整合を考え、最後に、経済安全保障に着目しています。小田真由『インフレ日本の安い賃金』(日経BP)では、国際比較から日本人は仕事に対してエンゲージメントが低く、幸福度も低く、その大きな原因は低所得にある、と指摘し、過剰スペックのために支払われないアンペイドな労働が少なくない、と強調していますが、解決策は具体性に欠けます。東野圭吾『永遠の記憶』(文藝春秋)はガリレオ・シリーズ最終作であり、2部構成の前半で、湯川教授と大学の同級生だった草薙管理官の部下の刑事である内海薫が帰宅途中のスーパーで70代の男にナイフで刺される、という傷害事件が発生し、後半で昔の事件との関連が解明されます。吉田修一『タイム・アフター・タイム』(幻冬舎)は、作家デビュー30周年という記念作品であり、主人公の男女2人の長崎での高校時代のラブストーリー、20年余り後に偶然再び出会ってからの40代のラブストーリー、ともにみずみずしい男女関係が明確な筆致で描き出されています。小砂川チト「ゾンビ回収婦」(『文藝春秋』収録)は第175回芥川賞受賞作品であり、年末師走の12月にAIに仕事を奪われて夫婦で失業してしまい、夫が演奏旅行に出てしまって残された妻が、ゲーム内のホテルでゾンビ回収婦になります。冒頭で、「労働といういち文化が終わった」と宣言されています。マシュー・リチャードソン『スパイたちの遺灰』(ハーパーBOOKS)では、諜報史を研究する冴えない大学准教授の主人公に、伝説のエージェントであり、米ソ冷戦期の伝説の凄腕スパイ、ロシア問題のエキスパートとしてMI6長官までも嘱望されていた女性スパイから、手記の一部のコピーが渡されます。
今年2026年の新刊書読書は、1~8月で209冊、9月に入ってから今週の6冊を加えて合計215冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、小田正規『21世紀型通商政策への転換とその課題』(日本評論社)を読みました。著者は、日本大学国際関係学部の准教授です。シンクタンクのご出身のようで、したがって、というか、何というか、本書ではぶっちぎりで難しい定量的な分析は示されていません。というか、ほとんど実証分析ではないような気がします。まず、本書でも強調されている通り、私の通商政策に関する認識も同じで、1993年に実質的に妥結されたウルグアイラウンドの後に、WTOの場でドーハラウンドが開始されましたが、約25年前の今世紀初頭に実態的に破綻、というか失敗してすでに終了したオワコンとなりました。私は授業なんかでは婉曲に「頓挫」と表現したりしていますが、まあ、失敗して終了しています。そのため、マルチの場での貿易交渉は二国間あるいは多国間でもWTO加盟国全体ではなく、いわば友好国間での自由貿易協定に重点が移ってしまいました。その上で、米国・メキシコ・カナダのUSMCAもありますし、世界のほかの国はともかく、とりわけ日本については、米国が抜けたもののTPPがCPTPPとして残り、さらにハイクオリティなRCEPも妥結しましたので、ほぼほぼ貿易の自由化、広い意味での貿易自由化の通商政策は一段落、大きく一段落したといえます。ここでついでながら、本書ではまったく言及ないものの、「本来の貿易自由化」、あるいは、「狭い意味での貿易自由化」とは輸入ゼロを含めた数量制限を撤廃して関税化することを指します。すなわち、関税さえ払えば「輸入が自由にできる」という意味です。ただ、多くの先進国ではこの意味での狭い貿易自由化はかなり前に終了していて、数量制限を撤廃して関税化した後に関税率を引き下げるのも含めて「広い意味での貿易自由化」を指す場合が多くなっています。本書では、サービス貿易については言及ないながら、関税の歴史を振り返った後、食料自給率について議論し、付加価値貿易統計で見た貿易の姿を明らかにし、国境を越える前の措置としての規制制度間整合を考え、最後に、経済安全保障に着目しています。ただ、全体的に浅く広く概観した印象です。食料自給率については、私の授業でも取り上げているフードロスの観点も取り入れており、一般にも判りやすく解説されています。ですので、出版社からしても学術書っぽく見えていますが、定量分析もほとんどなく、一般のビジネスパーソンでも十分読みこなせる内容となっています。その意味でも、オススメです。

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次に、小田真由『インフレ日本の安い賃金』(日経BP)を読みました。著者は、(株)小川製作所取締役だそうで、その会社は家業を引き継いだということのようです。家業の前はエンジニアであり、大学では経済学や経営学などを学んだわけではなく、理工学部のご出身です。本書では、かなり的確にオーバースペックの問題を、そういった用語なしで、指摘しようと試みています。すなわち、売り手として安くてハイスペックな良い製品・サービスを提供する、という一方で、買い手としての価値の受け取り方が重要(p.006)と指摘しています。たしかにそういう面があるのは否定できません。でも、それだけではなく、本書ではたくさん見逃しているところがあります。まず、本書の前半部分のエンゲージメントとか、幸福度は、経済学としてはほぼほぼ無視して差し支えありません。事実として確認しておけば、国際比較から明らかなように、日本人は仕事に対してエンゲージメントが低く、幸福度も低い、その大きな原因は低所得にある、という現実を本書では指摘しています。日本は先進国の中でも貧困が広がって、不平等・格差が大きい経済である点も強調されています。はい、その通りです。労働者のお給料とGDPは連動していて、高い相関がある、というか、定義的に一部をなしていて、賃金の総計に資本所得を加えれば分配のGDPに等しいハズです。その上で、最初に戻ると、過剰スペックでアンペイドな部分が大きい、という指摘です。これも部分的に正しいかと思います。私のような教師に即していえば、「やりがい搾取」ということになります。児童・生徒・学生かわいさに、お給料が支払われない労働をやっている、ということです。教師だけでなく、そういった過剰スペックのための支払われないアンペイドな労働が少なくないのが日本経済の特徴のひとつです。本書では、そういった点について第3-4章でラーメン屋さんを題材に議論しています。これも部分的には正しいと思いますが、それがすべてではないことには理解が及んでいないように見えます。第5章から指摘しているように、供給能力と需要ギャップもたしかにひとつの要因で否定はしませんが、第6章からの中小企業論となるともっと大きくスライスしています。例えば、p.160から始まる中小企業から日本経済の好循環をもたらす5つの理由については、最初のAI以外の4項目は、もう50年以上も条件として備わっていますから、ハッキリいって、今議論すべきなのは第1点目のAIだけしか残りません。ですので、最後は第6章で生産性を上げるとか、コストを適正に売値に反映させるとか、もう長らくいわれ続けてきたありきたりな処方箋しか提示できていません。具体性に欠ける点もあります。私の直感ながら、ひょっとしたら、現在の日本の低賃金は主流派経済学ではなく、マルクス主義経済学で解明できそうな気がしています。絶対的あるいは相対的な剰余価値の生産です。アンペイドな労働があって、フルで受け取れなくなっている一方で、資本所得の方にはそれほどアンペイドな部分はなくフルで受け取っていて、したがって、労働分配率が低下し続けています。その点は、最近の朝日新聞の記事「労働分配率、5年連続減 利益は過去最高 25年度法人調査」などのメディアの記事にも示されています。労働者にアンペイドな労働を強いる一方で、資本、特に大企業はガッポリ儲けているわけです。中小企業はアンペイドな労働に基づいてコストカットを強いられて、大企業の利潤の最大化に貢献させられているのではないでしょうか。アンペイドな労働の存在という現状分析はよかったのですが、対応策である処方箋は基本的に間違っている可能性が高い、と私は考えています。

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次に、東野圭吾『永遠の記憶』(文藝春秋)を読みました。著者は、日本でもっとも人気のあるミステリ作家の1人であり、先日大腸がんで亡くなっています。本作品は最新作であると同時に、絶筆というか、遺作というべきなのかもしれません。この作者の作品の中でもっとも人気あったシリーズのひとつである帝都大学湯川教授が真相を解明するガリレオのシリーズです。2部構成となっていて、前半第1部では、湯川教授と大学の同級生だった警視庁捜査1課の草薙管理官の部下の刑事である内海薫が、帰宅途中のスーパーでの買い物中に70代の男にナイフで刺される、という傷害事件が発生します。内海薫の命に別状はなかったのですが、入院する必要がありました。まったく何の面識も接点もないと見られた内海薫と犯人の関係をガリレオこと湯川教授の示唆によって解明し、後半第2部ではその犯人にまつわる人間関係を追っていくと過去の事件、具体的には直木賞受賞の『容疑者Xの献身』と結びつく、という結末となります。なにぶん、ミステリですのであらすじは早々に終えます。私はたぶんガリレオのシリーズは短編も長編も、もちろん、直木賞受賞の『容疑者Xの献身』も、湯川が准教授のころから教授に昇進してからも、また、草薙がいち刑事から管理官に出世し、内海がまだ登場しないころも登場してからも、ともかく、すべて読んでいると思います。この作品を読むとすると、できれば多くのガリレオ・シリーズの作品を事前に読んでおいた方がより楽しめるのは当然です。少なくとも、『容疑者Xの献身』のあらすじなりとも把握しておく方がいいような気がします。逆にいって、有名作家が亡くなったからといって、この作品だけを読もうとするのはオススメできません。また、特に第2部では、タイトルが「終活る」と書いて、「ふりかえる」と読ませていて、湯川も草薙も「終活」について何度か言及し、草薙の周囲、というか、内海をはじめとする警視庁捜査1課でも湯川と草薙の引退が話題になります。第2部のタイトルなりとも、作者の何らかの意図が感じられる言葉をキーワードにしている、と読む読者も少なくないものと思います。私は従来から、伊坂幸太郎が決して遵法精神が行き届いているわけではないやんちゃなミステリ作品を書く一方で、この作品の作者である東野圭吾は実に遵法精神あふれる作品が多い、と感じていたのですが、絶筆となったのであろうこの作品で、少し見方を変える必要があるように感じました。最後の最後に、私自身の好みからいえば、本書はガリレオシリーズとしては最高傑作のひとつかもしれませんが、この作者の作品としては、『白夜行』をもっとも高く評価しています。おそらく、『白夜行』に続く次点の傑作としてもガリレオシリーズではなく、『手紙』が私は好きです。

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次に、吉田修一『タイム・アフター・タイム』(幻冬舎)を読みました。著者は、長崎出身の芥川賞作家であり、最近では映画化された『国宝』の作者、ということになっています。純文学も大衆文学も、という二刀流です。本書は、作家デビュー30周年という記念作品であり、日経新聞に連載されていたものを単行本にして出版されています。出版社の方でも特設サイトを開設しています。本書の主人公はともに長崎出身で、高校の同級生だった久遠愛とオッソーこと尾崎颯です。冒頭で、2人が土砂降りの雨の中で、偶然にもタクシーに同乗して20年ぶりに出会います。同じ都立多摩公園に建設する美術館のプロジェクトで、オッソーは建設会社の、そして、久遠愛は広告代理店の、どちらも担当者でした。そして、主人公2人の高校生のころの長崎にさかのぼって、長い長いストーリーが始まります。久遠愛は酒屋の娘で、兄は酒屋を継ぐことなくトラック運輸の仕事を始めます。兄妹の母親は亡くなっていて、父親が再婚した継母がいたりします。オッソーは両親が離婚した母子家庭で、母親が県議会議員との不倫の際に交通事故死し、母親の妹である叔母の家に引き取られます。県議会議員の妻は高校にやってきて、オッソーに対して自分の夫はオッソーの母に誘惑されたとか、恨みごとを述べて去って行きます。その後、この女性は夫の後を引き継いで県議会議員から国会議員になったりします。叔母は子連れの夫と再婚していて、その連れ子はオッソーから見ると義理の従妹になるわけですが、オッソーや久遠愛と同じ高校の下級生だったりします。オッソーも、久遠愛も高校の成績は悪くなく、高校も進学校ですし大学進学を目指していますが、2人は高校3年生の夏休みには、友人たちとともに男女2人ずつの4人で友人の親が経営する民宿の手伝いのアルバイトでひと夏を過ごし、2学期になってからもオッソーは週末ごとに久遠愛の部屋を訪ね、久遠愛の兄は暖かく見守ります。しかし、高校3年生の冬休みになって、オッソーは叔母の家に居づらくなり、大学受験を目の前に控えて、久遠愛とともに沖縄へ逃避行に出ます。まあ、ここから先は読んでみてのお楽しみです。沖縄への逃避行は、特設サイトに吉田修一自身のエッセイとして日経新聞4月12日付けの「伊平屋島の卓球台」が転載されていますから、何とかギリギリでネタバレではないと思います。本書については、いろんな評価を見かけます。私はもともとがこの作者が大好きですし、この作品も500ページを超えるボリュームながら、ほぼほぼ一気読みでした。高校生という青春時代ながら、まあ、お子さまの恋愛ともいえるラブストーリー、それに加えて、20年余り後の40代のラブストーリー、ともにみずみずしい男女関係が明確な筆致で描き出されています。人物の造形が素晴らしいですし、作者の郷里である長崎、主人公2人が高校生活を送る長崎についても、私は長崎大学勤務の経験から親しみを持っています。ものすごくオススメの作品です。この作者のファンでなくても、『国宝』の映画を見ていなくても、ぜひとも読んでおくべき作品だと思います。ただ、最後に、ほぼほぼすべての登場人物の家庭、というか、夫婦関係がまだLGBTQなどの少数派であればまだしも、何らかの破綻の要素を持っているような気がして、少し、そのあたりは小説という特殊な作られた世界であるような気がしました。私の両親や私自身のような偕老同穴の夫婦関係ではありません。

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次に、小砂川チト「ゾンビ回収婦」(『文藝春秋』収録)を読みました。著者は、小説家であり、この作品はいうまでもなく第175回芥川賞受賞作品です。表紙画像を示している通り、私は単行本ではなく全文収録されている月刊『文藝春秋』2026年8月号で選評とともに読みました。ストーリーは、もう広く報道などで明らかな通り、8年勤続したにもかかわらず、年末師走の12月にAIに仕事を奪われて、夫とともに解雇された女性が、VRの世界で口唇期ホテルなるところで、NPC(NonPlayer Character)としてゾンビ回収婦を始める、というものです。ついでながら、夫の方は演奏旅行に出るといっていなくなってしまいます。はい、ストーリーは一向に進まず停滞します。選評で山田詠美は「スローダウン」と表現しています。SFテイストともいえますが、典拠は示せないながら、誰かが「ハイパーパンク小説」と呼んでいた気がします。ただ、選評で吉田修一が「クレーム小説」といっています。私は何度か表明しているように、雇用を重視し、国民がディーセントなお給料でやりたい仕事に就くのが、経済政策の最大の目標のひとつだと考えるエコノミストですが、この作品では冒頭に「労働といういち文化が終わった」と高らかに(?)宣言していたりします。はい、AIに仕事を奪われて失業すると、そうなのかもしれません。他方で、ロバート・キャパの言葉だったと記憶しているのですが、「私は大喜びで失業した従軍カメラマンとなり、生涯、失業したままでいたいと願っている」"I hope to stay unemployed as a war photographer 'til the end of my life." というのもあります。まあ、職業により失業の捉え方も違うのでしょう。ストーリーは停滞し、主人公は延々とゾンビ回収婦の仕事をゲーム内で続けるのですが、余りにも主人公がそれに適応・順応していて、私は読み進むうちに、現実世界と間違えてゲームであることを忘れてしまうほどでした。逆から考えると、現実感が失われているような気がします。前任者のグッドニュースさんと間違えられたり、アラスカやサラトガといった固有名詞の人名や地名が登場して、ゲームなんだと実感させられます。最後に、エコノミストの読者に戻って、「働かざる者食うべからず」ということわざが出てきます。働かなくてもお金がもらえるベーシックインカムが小説で登場するのは、まあ、もっと先のお話なんだろうと思ってしまいました。

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次に、マシュー・リチャードソン『スパイたちの遺灰』(ハーパーBOOKS)を読みました。著者は、ウェストミンスター大学の研究員、スピーチライターだそうで、私の著者に関する理解はそれほどはかどっていません。本書の英語の原題は The Scarlet Papers であり、2023年の出版です。英語の原題の "Scarlet" は色ではあるのですが、本書では人名です。その昔に、英国のMI6の凄腕スパイであり、MI6長官まで上り詰めようかという人物、という想定です。この小説の舞台は主として英国であり、主人公はLSE、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの諜報史の研究者、准教授ですが、まだ終身在職権(テニュア)は持っていません。そういった冴えない准教授のマックス・アーチャーのところに、伝説のエージェントであるスカーレット・キング、繰返しになりますが、米ソ冷戦期の伝説の凄腕スパイであり、ロシア問題のエキスパートとしてMI6長官までも嘱望されていましたが、小説の舞台となる2010年には90代となっている女性スパイから手記の一部がコピーとして提示されます。この女性スパイに関しては、今でも顔写真すら明らかではありません。そのスカーレット・キングからアーチャーに手記の一部のコピーが渡され、諜報史の専門家として中身を吟味するよう要請されます。すなわち、スカーレット・キングの諜報活動を記した手記を出版したいという意向です。本書は文庫版ながら600ページを超えるボリュームであり、そのマックス・アーチャーや年老いたスカーレット・キング、ほかの登場人物などの活動を記した現在パートの部分と、主人公のアーチャー抜きで冷戦当時のスカーレット・キングの諜報活動を追った過去パートの部分が交互に記述されます。加えて、現在パートでは、このスカーレット・キングの手記をめぐってMI5や英国と関係深いイスラエルやフランスの諜報機関が入り乱れます。さらに、現在パートでは、マックス・アーチャーの周囲の人物、離婚を進めている妻や父親などが、きわめてトリッキーな関係を見せます。もちろん、スカーレット・キングの活動の過去パートでは米国の諜報機関も活動していたりしますし、キム・フィルビーなどの二重スパイも多数登場します。何せ、スパイ小説です。それも、ドンパチを見せ場とする007ジェームズ・ボンドのようなスパイではなく、ジョン・ル・カレに登場するような心理戦を主戦場とするスパイが多い印象です。そもそも、スカーレット・キングはホンモノなのか、その手記はホンモノなのか、アーチャーの周囲の人々、スパイたちはどう動くのか、スパイ小説らしく、何回もちゃぶ台がひっくり返されます。ラストにはさらに大きなサプライズも用意されています。このあたりが帯に見える「ジェフリー・ディーヴァー絶賛!」につながるのだろうと思います。ただ、読み方によってはスパイ小説である必要は必ずしもなく、スパイ小説の形を借りたエンタメ小説、として読む読者もいっぱいいそうな気がします。というのも、スパイ小説としては大きな疑問があり、現場のエージェントがスパイ組織のトップの候補の1人に目されることって、特に、英国ではありえないような気がします。日本でいえば、ノンキャリアの叩き上げの刑事が警視総監になるようなものではないか、という気がします。そういった疑問を含めても、それでも、キャラや展開の面白い小説で、オススメです。

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2026年8月29日 (土)

今週の読書はいっぱい読んで計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、植田健一『経済成長』(日本評論社)は、著者の講義ノートを基に『経済セミナー』にマクロ開発経済学として連載されていたものを単行本化しています。ソロー=スワン・モデルなどの新古典派経済成長理論、さらにAKモデルなどの内生的経済成長理論を中心に、実証なども含めたテキストです。ブランコ・ミラノヴィッチ『ミラノヴィッチが語る資本主義大難題』(明石書店)は、2014年から24年までの著者のブログ記事などを取りまとめており、著者の専門分野である不平等や貧困の問題を中心に、気候変動や環境なども含めて、きわめて多岐に渡るトピックを網羅しています。加藤真也『この1冊でミクロとマクロが同時にわかる経済学』(かんき出版)は3部構成であり、経済学の初学者などに向けて、第1部で経済全体の循環とともに個別分散的な市場の役割を概観した後、第2部ではマクロ経済学、第3部ではミクロ経済学を中心に据えて解説しています。ナオミ・クリッツァー『陽の光が消えた町で』(早川書房)は、ヒューゴー賞、ローカス賞、ネビュラ賞など、受賞作品や最終候補作品などが多数収録されている短編集で、基本、SF小説なのですが、小難しげな科学的なメカやシステムなどはあまり登場せず、ファンタジーの色彩が強いと感じます。信国遥『未館成の殺人』(光文社)では、「西のk大、東のx大」と称された名門ミステリ研究会の一行が、クローズドサークルをなす絶海の孤島に、近くの島から漁船で運んでくれた漁師とともに取り残され、サバイバルに必死になっている中で、自殺や事故と紛らわしい連続殺人事件が起こります。大和書房編集部[編]『アンソロジー引っ越し』(大和書房)には、作家や文筆家をはじめとして、きわめて多岐にわたる著者のエッセイが多数収録されており、また、時代もそれぞれで、現代や戦後だけではなく、戦前戦中やもっと古い時代の引越にまつわるエッセイも収録されています。木村忠正『スマホは心を操る』(朝日新書)では、前半で独自データに基づく数量分析に基づきポイントアプリによる「ポイ活」がかなりスマホ依存を強めていることが明らかにされ、後半はハードウェアというよりはソフトウェアのSNSや動画配信などにおける炎上や分断、あるいは、フェイクについて議論しています。小林和樹『兵庫県知事問題 失敗の本質』(ちくま新書)では、選挙で示された兵庫県民の選択の失敗ではなく、斎藤知事も含めたきわめて多くの関係者の失敗について議論しているばかりで、権力との適度な緊張関係というメディアの本質、それを担保するための綿密な取材の重要性はやや希薄です。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年で177冊、8月に入ってから先週までの24冊と今週の8冊を加えて合計209冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、植田健一『経済成長』(日本評論社)を読みました。著者は、当時の大蔵省からシカゴ大学で学位を取得して転籍し、現在は東京大学経済学部の教授です。本書は、著者の講義ノートを基に『経済セミナー』にマクロ開発経済学として連載されていたものを単行本に取りまとめています。ですので、後半にルイス的な転換点とか、ハリス=トダロ・モデルなどが言及されています。まず、序章では、シカゴ大学での研究成果を活かして、なのか、何なのか、ケインジアン的な財政政策や金融政策の議論は長期的な経済成長を考える上では無意味、と断定しています。表現は慎重であるべきですが、まあ一定理解できます。逆に、私が問いたかったのは、もともとが開発経済学ですので、国際開発援助(ODA)あるいはODAによるビッグプッシュの役割です。ただ、タイトルを変更していますので、スコープ外だという気はします。全体的な印象として、政府の役割がそれほど重視されていないわけですので、ODAの役割は雰囲気で理解すべきかもしれません。本書の構成は、冒頭章で経済成長論の導入を示した後、ソロー=スワン・モデルとその発展形であるキャス=クープマンス・モデルといった新古典派経済成長理論を取り上げた後、内生的経済成長理論としてAKモデルとローマー・モデルに着目し、さらに、内生的経済成長理論に人的資本の要素を加えたマンキューらの "A Contribution to the Empirics of Economic Growth" やスミスの協業に基づく分業などを論じ、実証ほかのトピックを加えています。私は学部で経済成長論や開発経済学を教えることはありませんが、大学院の修士論文指導で補完的に取り扱うことがあり、その際は、アセモグルによる Introduction to Modern Economic Growth をオススメすることにしています。あるいは、本書の評価が確立されれば、日本語による経済成長論のテキストのひとつになる可能性があります。構成としても標準的であり、例えば、私が役所の同僚と共著で書いた "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" は経済計画が経済発展や成長に果たした役割を解説していて、東南アジアの大学院で教えるテキストを目指していたのですが、付録で成長論についても言及していて、やっぱり、新古典派的なソロー=スワン・モデルと初歩的な内生的成長論のAKモデルを取り上げています。本書が学部レベルか、大学院レベルか、については、私はそれほど専門性を持ちませんが、政府の指導要領などでかなりの程度に均一化された中等教育と異なり、大学での高等教育レベルでは大学により違いそうな気がします。東大なら学部で、あるいは、特に名を秘す某大学では大学院で、といった違いはありそうです。最後に、第1章 p.24 でカルドアの定型化された事実に対比するような形で3点上げられている (1) 成長率の低下、(2) 労働分配率の低下、(3) 金利で代理した資本収益率の低下、についても、ギリギリ成長論のスコープ内か、外か、際どいところですが、不十分にせよ何らかの示唆が欲しかった気がします。

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次に、ブランコ・ミラノヴィッチ『ミラノヴィッチが語る資本主義大難題』(明石書店)を読みました。著者は、ユーゴスラビア出身のエコノミストであり、ルクセンブルク所得研究センター(LIS)上級研究員や世界銀行の主任エコノミストを務めています。主として、格差・不平等や貧困問題に着目していると私は認識しています。本書の英語の原題は The World under Capitalism であり、2025年の出版です。著者が2014年から2024年までにブログやSubstackに発表した小論から抜粋して取りまとめています、とまえがきにありますが、私が見た限りでは2013年の記事もあったような気がします。なお、Substackというのは私はよく知りませんが、我が国のNoteみたいなものではないかと想像しています。違っていたらごめんなさい、です。索引などを別にしても500ページを超えるボリュームです。5部構成となっていて、最後のさまざまな考察を別にすると、第Ⅰ部が資本主義の下での世界、第Ⅱ部が不平等、第Ⅲ部がグローバリゼーションと多極化世界、第Ⅳ部が歴史、となっています。第Ⅰ部タイトルが英語による本書のタイトルになっているわけです。きわめて多岐に渡るトピックを網羅している印象で、とても短いレビューでは済まないのですが、エコノミストの私の趣味にあわせて概観しておきたいと思います。まず、注目すべきは資本主義経済と環境、あるいは気候変動の問題です。はい、私は現状を投影したままの将来では、2050年までにはカーボンニュートラルは世界レベルでは達成できないと考えています。個別の国レベル、例えば日本では可能かもしれませんが、地球レベルではムリだと思います。他方で、本書では世界レベルでの脱成長には明確な疑問を呈しています。途上国の生活レベルの引上げには成長が必要であり、そうでなければ、先進国の生活レベルを極端なくらい引き下げる必要があり、80~90パーセントの消費のカット、と指摘しています。ただ、別のところで、スーパーリッチからできるだけ多くのリソースを吸い上げる、そういった過剰な贅沢財への課税を強化する、という方向性には、肯定的な見方が示されています。私自身の短期的な将来予想も似通っていて、途上国のための成長が必要な一方で、経済と環境のデカップリングは技術的に出来なさそう、専門外ですので大きな自信はありませんが、ムリそうな気がしますから、あるいは場合によっては、気候変動により世界文明が破綻する危機が生ずる可能性がある、と考えています。政治面では、米国のトランプ政権、現在の政権ではなく2017年から21年の当時ながら、トランプ政権は明確に新自由主義=ネオリベラルだと主張しています。昨年ですが、2冊の文春新書を読んで、齋藤ジン『世界秩序が変わるとき』ではトランプ政権は新自由主義的な経済政策とは異なる政策を実行しようとしている、と指摘している一方で、中野剛志『基軸通貨ドルの落日』ではトランプ政権の経済政策は新自由主義に基づいている、と結論していて、私は明確に後者の方に軍配を上げました。本書でもまったく私と同じ結論が示されています。また、不平等について論じている部分では、不平等が経済成長につながるといった主張を上げつつ、そういった統計はないとして、推奨されるものではない趣旨が明確にされています。まあ、当然です。そして、これまた私と同意見に近いのですが、ここ20年から30年で世界的な貧困削減や不平等の是正が進んだのは、主として中国が原因であって、中国を除いた統計では世界経済の貧困も不平等もそれほど改善されていない、と指摘しています。はい、そうだと思います。中国の1980年代以降の経済政策は、かつての旧ソ連でレーニンが取った新経済政策(NEP)と大きな違いがない、とも指摘しています。この点については、レーニンのNEPをよく知らないので、何ともいえません。移民や奴隷制に関する興味深い論考もありますが、読んでみてのお楽しみです。最後に、私のこれまた興味の範囲で、歴史の部でマルクス主義的な歴史観に対して強い支持が表明されています。歴史は経済的な余剰の分配をめぐる闘争で動いている、という歴史観です。ただし、共産主義は1世紀続いた世俗的な宗教、用語としては矛盾していますが、そのように見なしているようです。

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次に、加藤真也『この1冊でミクロとマクロが同時にわかる経済学』(かんき出版)を読みました。著者は、名城大学経済学部教授であり、同時に、内閣府経済社会総合研究所の客員主任研究官も務めています。私が定年退官した時の職場であり、そのラインからご寄贈いただきました。まさか、とは思いましたが、表紙を見てミクロ経済学とマクロ経済学が同時に解明されたモデルが提示されているのか、と誤解してしまいました。本書は3部構成であり、第1部で経済全体の循環とともに個別分散的な市場の役割を概観した後、第2部ではマクロ経済学、第3部ではミクロ経済学を中心に据えて解説しています。マクロ経済学ではとても現代的な解釈で、財政政策なんかを取り上げて基本的に需要がGDPを規定する、ということになっています。私の歴史観では、先進国だけで途上国は別でしょうが、戦後から1970年代くらいまでは供給がGDPを決めていて、1970年代以降に需要がGDPを決める世界が出てきた、と考えています。戦後すぐのころは松下幸之助流にいう「水道理論」であって、作れば作るだけ売れる時代がありました。そして、1950年代から60年代の高度成長が終わって、1970年代に石油危機があり、固定為替相場制をひとつの要素としていたブレトン-ウッズ体制が終焉し、供給能力が需要を上回るがために需要がGDPを決める、という現代的な時代が始まっています。いずれにせよ、経済学の初学者、あるいは、経済学以外の学問領域を専攻する学生を相手にする場合、こういった広い領域をカバーするテキストはとても有効です。その昔は、私はマンキュー先生の『入門経済学』、たぶん、第3版あたりをオススメしていました。ミクロとマクロだけでなく、長期と短期に分けた解説をしていたテキストです。その後、現在の立命館大学に着任してから、アセモグル/レイブソン/リスト(ALL)『入門経済学』をオススメすることが多くなっています。本書も、場合によってそういった経済学の初学者や他学部の学生に勧める経済学入門書的なテキストの候補になるかもしれません。ちなみに、私が学生だったころの経済学の入門書といえばサムエルソン先生の『サムエルソン経済学』でした。どうでもいいことながら、最近2025年3月に、学文社から『初版 サムエルソン経済学』という本が出版されています。大学の図書館で見かけました。なお、その昔は、このテキストのバージョンによってエコノミストの世代が判るようになっていました。私の場合は原書第10版であり、当然のことながら、上下巻のハードカバーで箱入り、岩波書店から出版されていました。私が知る限り、ノードハウス先生が共著者に入った第13版、1992年93年出版が最後ではないか、という気がします。大学の図書館を調べた範囲でもそうです。私が持っているのとはバージョンが3版違いますので、10-15年の違い、という気がします。

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次に、ナオミ・クリッツァー『陽の光が消えた町で』(早川書房))を読みました。著者は、米国ミネソタ州在住の作家です。本書に収録されている「報酬は猫の写真で」で2016年度のヒューゴー賞とローカス賞をダブルで受賞するなど、受賞作品や最終候補作品などがいっぱい収録されています。本書は日本オリジナルの短編集です。基本、SF小説なのですが、小難しげな科学的なメカやシステムなどはあまり登場せず、SFというよりもファンタジーと受け止める読者も少なくないだろうと私は考えています。収録されているのは6話の短編です。順に簡単にあらすじを追っておきます。まず、「小さな図書館の司書さまへ」は、田舎町にある自宅の庭先に図書の無料貸出しの小さなボックスを設置したところ、本の貸出しに対してハンドメイド品や金貨が置かれるようになります。表題作の「陽の光が消えた町で」では、災害により空が灰に覆われ、食料の供給が不足し、電気も不安定になり、主人公は近所の人たちと協力して、物資を集め技術を持つ人たちが役に立てるよう調整していたところ、女性が慢性閉塞性肺疾患の病気のため、機械による酸素補給をし続けなければならないことことを聞き、住人たちで自転車による発電チームを結成します。「怪物」では、主人公の女性は遺伝子研究で大きな成功をしたのですが、高校で出会った中国系米国人の男性は人生で道を踏み外して行き、主人公は悪用された技術に対応して中国に行って男性を探します。ラストはとても哀しかったです。「報酬は猫の写真で」では、主人公は猫の写真が好きなAIであり、LGBTQや何やの問題について、人々にもっとも合理的な選択肢を提示してくれるのですが、その回答の動機は決して善意ではありませんでした。でも、AIの動機は決して怖いものではありません。「海を見渡す四姉妹」では、アザラシの研究をしていた主人公が海辺の町に引越すと、「四姉妹」と通称される大きな4つの岩があり、それにまつわる不思議な伝承もあります。夫婦で研究者を目指しながら諦めた妻が、もう一度チャレンジする姿がかっこよかったです。最後に、「アルゴリズムでよりよい生活を」では、朝のモーニグコールから始まって、さまざまな有益なアドバイスをしてくれるアプリをインストールして幸福度が上がる主人公なのですが、やっぱり落とし穴があって、少し怖い宗教だったりします。最後に、各短編のタイトルを記した扉に賞の受賞やノミネートが記されており、6話の合計でヒューゴー賞、ネビュラ賞など有名な英米SF賞を8タイトルも受賞している短編集です。それほどメカや科学的な難しい仕組みのないSFであり、とても明るい気持ちにさせてくれるお話が少なくなく、オススメです。

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次に、信国遥『未館成の殺人』(光文社)を読みました。著者は、小説家なのでしょうが、『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』が新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」に選出されてデビューしており、本書が2作目となるようです。まあ、タイトルから何となく理解できると思いますが、綾辻行人へのオマージュ、というか、何というか、クローズドサークルをなす絶海の孤島に建設された館における連続殺人事件をテーマとするミステリです。しかも、その館を設計した建築家は黒澤泰洋という設定ですが、綾辻行人の館シリーズに登場する中村青司のモデルではないか、というウワサが挿入されていたりします。しかもしかも、で綾辻行人の出身である我が母校京都大学ミス研に対抗してというか、何というか、舞台となるX大学ミス研はかつて「西のk大、東のx大」と称された名門ミステリ研究会、という設定です。そのx大ミス研の6名が夏合宿で伊豆諸島の中の孤島である飛輪島に向かいます。周囲200メートルほどの孤島です。そこには、黒澤泰洋が設計、建築した未完成のように見える館があります。しかし、島に着く直前に船が炎上し、1年生の西京春季が船に取り残され、島に着いてからも連続殺人が起こるわけです。ミス研メンバーをリストアップすると、4年生は部長の三雲清世と「局長」というやや侮蔑的なあだ名の涌井正義、3年生の遠藤恭平、2年生で主人公、というか、視点を提供する北見律、1年生の西京春季と白波瀬真緒の6人です。部長の三雲清世と白波瀬真緒は従姉妹です。3年生の遠藤恭平はアウトドア派ですが、他のメンバーはインドア派です。1年生ながら、西京春季は講文社の主催する講文ミステリ新人賞に応募し、の受賞こそ逃しましたが、最終候補に残っていました。涌井正義は太っている皮肉屋で、創作能力なんかはそれほど高くなく、最終学年なのにまだ就活で内定が出ない、という状況です。この6人に加えて、御蔵島から飛輪島に雨鷺兼重という名の漁師が漁船で送ってくれます。繰返しになりますが、飛輪島に到着する直前に船が炎上して、船酔いで船室にいた西京春季が取り残されます。加えて、食料や飲料の大部分も失われます。島に着いたミス研5人+漁師の雨鷺の6人によるサバイバル生活が始まるわけです。でも、アウトドア派でサバイバルに強そうな遠藤恭平が最初に殺されます。次に、三雲清世も死にます。さらに、殺人が連続するわけです。ただし、完全に殺人とばかりはいえない状況で、自殺や事故に見えなくもありません。さらに、x大ミス研の卒業生だか、先輩だかでx大ミス研を復活させた功労者の名瀬朝日が雄弁社主催のヴァン・ダイン賞を受賞した作品に関する盗作疑惑がからんだりします。ミス研メンバーではない漁師の雨鷺兼重の正体も気にかかるところです。ハッキリいって、ビジュアルがほとんど示されず、登場人物が少ない割には、文章もあまりスムーズではありません。さらに、謎解きにもツッコミどころがありそうな気がします。さらにさらに、で、綾辻行人の館シリーズに関する最低限の情報が必要です。したがって、それほど強くオススメするわけではありませんが、何せ、連絡の取れない絶海の孤島での連続殺人事件という王道ミステリです。そこに価値があるかもしれません。

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次に、大和書房編集部[編]『アンソロジー引っ越し』(大和書房)を読みました。フィクションの小説ではなく、たぶん、ノンフィクションのエッセイを集めたアンソロジーです。図書館で借りた本の表紙の見返しには、平井太郎、すなわち、江戸川乱歩の転居通知のはがきのレプリカが入っていたりします。編者の書店編集部はともかく、各エッセイの著者はきわめて多岐にわたり、作家や文筆家が多いのは確かなのですが、大杉栄といった社会運動家などが含まれていたりします。また、時代もそれぞれで、決して現代や戦後だけではなく、戦前戦中やもっと古い時代の引越にまつわるエッセイも収録されています。もちろん、各エッセイの長さもマチマチです。加えて、文章だけではなく、数ページに渡るマンガもいくつか収録されていました。それらをそのたの最終章も含めて、8章にかなり無理やりに分類しています。第1章が片付けや荷造り、第2章は引越に必要な出費、第3章では猫中心に犬も含めてペットを連れた引越、第4章では引越荷物の思い出、第5章は引越する本人ではなく知合いの引越、第6章は引越にまつわる奇っ怪なお話、第7章は引越先での新しい生活、そして、第8章はその他いろいろとひっくるめて、という構成です。収録エッセイは、繰返しになりますが、きわめてバラエティに富んでおり、読んでいただくしかありません。仕方ないので、私自身の引越経験をいくつか書いておきます。たぶん、私自身も引越したのは10回を上回ると思います。50歳を過ぎるまでマイホームを持たずに、公務員住宅を借り続けていましたので、割と多い方かもしれません。回数はともかく、日本人の中で最長の距離の引越を経験した1人だと自負しています。すなわち、在チリ大使館勤務のために、東京とチリのサンティアゴを往復しています。地球儀を見れば判りますが、日本の反対側はアルゼンティンあたりの南米ですからチリも相当な距離です。赴任した際は独身だったので、それほど荷物は多くなかったのはまだ幸いだったかもしれません。しかし、ヘミングウェイ『老人と海』は4冊ありました。探すのが面倒なので、読みたくなったら買っていたのだろうと思います。結婚して子どもが2人生まれた後で、家族で東京とジャカルタを往復する引越もしました。基本的に外交官あるいはそれに準ずる身分で海外引越をしていますので、家族が入国審査で過重なチェックをされたり、荷物が外国の官憲に検められたりすることもなく、スムーズに引越していると思います。ただ、海外引越は手荷物以外の大きな荷物が船便で遅れて届くのでタイヘンです。実は、定年退職した後の現時点でも、3度目の海外生活ができないか、と考えていたりもしますが、実現しそうもありません。

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次に、木村忠正『スマホは心を操る』(朝日新書)を読みました。著者は、立教大学社会学部教授であり、ご専門は科学技術社会論、メディアコミュニケーション論だそうです。本書は6章構成なのですが、前半3章では独自データに基づく数量分析が展開され、後半3章ではハードウェアのスマホというよりは、ソフトウェアのSNSや動画配信などにおける炎上や分断、あるいは、フェイクについて議論しています。前半のデータ分析については、読んでいただくのがベストかと思います。ただ、特にポイントアプリによる「ポイ活」がかなりスマホ依存を強めているという事実は押さえておくべきかもしれません。私自身はまったくポイ活をしていない、というか、dポイントをカードで貯めているくらいなもので、スマホのポイ活については理解が及んでいませんから、その意味でも、このレビューだけでなく本書を読んでいただくしかありません。ポイ活のインパクトは本書の52ページから53ページにある図1-8を見れば明らかです。ポイントアプリ以外でも、習慣化させるようなアプリ作りが進んでいる点が注目でしょう。また、用語の厳密性を担保するため、99ページの表3-1では、中毒(intoxication)、乱用(abuse)、依存(dependence)、嗜癖(addiction)の定義が示されています。そして、前半第3章のラストで、本書ではスマホ依存や習慣を断ち切るためではなく、スマホとの関係をどのように再設計するか、を重視していると指摘しています。後半では最後通牒ゲームと独裁者ゲームを通じて不公平感の正体を考えることから始めて、ネット世論の中で我々の道徳心理=モラルがデジタル空間で増幅されている、と指摘しています。そういったものが炎上、分断、フェイクをもたらし、熱狂や煽りにつながる、という主張です。しかも、そういった人間心理がAIと「共演」している、という独特の用語を用いて解説されています。AIはもちろん特定の価値観や分断の意図を持っているわけではありませんが、共感、強調、互恵、怒り、嫌悪、排他などの感情のうちで、どういったものが行動を引き出しやすいかを判断する、というわけです。特に、ネット世論を動かす4つの道徳心理が217ページの表5-1に上げられています。その上で、最終第6章274ページからネット世論について報道や分析をする際の提案がなされています。これも読んでいただくしかありません。最後に、私自身はほとんどスマホを扱いません。ですので、70歳になって今のお仕事を辞めたらスマホは手放そうと考えています。ただ、これには裏事情があり、SNSや動画はそれほど見ないとしても、スマホではなくタブレットのメールやブラウザといったアプリを使っている、という点はあります。繰返しになりますが、ハードウェアとしてのスマホとのおつきあいなのか、それとも、ソフトウェアのSNSや動画配信などの問題か、このあたりの見極めは本書でも十分ではありません。最後の最後に、文部科学省による「全国学力テスト」のひとつの結果として、スマホなどでSNSや動画に費やす時間が多いほど小中学生の成績がよろしくない、といのがあリました。小中学生だけでなく、私は大人でもご同様であるかもしれないと考えています。すなわち、スマホなどでSNSや動画に多くの時間を費やしている人は知性や知能の面でどうなのでしょうか?

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次に、小林和樹『兵庫県知事問題 失敗の本質』(ちくま新書))を読みました。著者は、NHKのジャーナリストですが、東京都知事選挙や兵庫県知事選挙があった2024年には退職しているようです。まず、タイトルにある「失敗」とは誰の失敗なのか、選挙で示された兵庫県民の選択の失敗なのだろうと私は考えていたのですが、読み進んでいるうちに、何と、斎藤兵庫県知事ご本人をはじめとして、知事への告発文書を出した西播磨県民局長、こういった一連のニュースを報じた主としてオールドメディア、などなど、きわめて多くの関係者の失敗を指しているようです。ちょっと、メディアのジャーナリストとしての見識を疑いましたが、NHKの記者が長いのが原因かもしれません。私は兵庫県民ではありませんし、海外生活の6年間を含めて70年近い人生のうちの80パーセントあまりは京都府民と東京都民でした。10パーセント足らずが海外生活、同じく10パーセント足らずが千葉県民と長崎県民であって、兵庫県民はもちろん、隣県の大阪府民の経験もなく、2024年の兵庫県知事選挙は横目で見ていただけで、それほどの情報は持ち合わせませんが、結果についてはびっくりしたのが実情です。2012年の第2期安倍内閣のころから「勝者総取り」で、権力者は法の支配から別枠になって、何をしても許容される状態になったピークが兵庫県知事選挙のころだったと考えています。加えて、私自身はメディアが権力と適切な緊張感ある距離を保つことなく、その昔の「大本営発表」のたれ流しに近づいているという危機感を感じており、現在の高市内閣でさらに強まっていると危惧しています。ひとつには、役所などにおける排他的な記者クラブ制度に既存メディアが安住しているというのもあります。特に、NHKについては2014年からの籾井会長の任期中に、報道ではない放送、あるいは、政府のプレスリリースの配信の傾向が強まったと考えています。実に嘆かわしいことに、ほぼ時を同じくして2014年の朝日新聞による吉田調書誤報も生じ、既存メディアの中でもっとも権力との緊張感が高かった新聞のひとつである朝日新聞がその緊張感を薄れさせていったと感じています。少なくとも、この兵庫県知事問題については、告発者が西播磨県民局長ですから、それなりの権力者だったのは事実ですし、私はそれほどの情報を持ち合わせませんが、本書で指摘するよう「怪文書に近い」というのも事実とは受け止めています。しかし、メディアの報道姿勢として、権力サイドのプレスリリースをそのまま流すのではなく、権力者ならざる人々に対して綿密な取材を行って真実を見極める点が重要です。本書に、書かなかったこと、すなわち、報じなかったことは事実ではないからである、という下りがありますが、権力者の側ではエビデンスなしに繰り返し強く主張すれば、事実であるかのように報じられる場合があります。これは、よく知られている通り、ナチスのゲッベルスの方法論です。同じことが、一部のSNSなどで見られます。それに対抗するのは、オールドメディアでは綿密な取材、ということになります。繰返しになりますが、2024年兵庫知事選挙の失敗とは、県民の選択の誤りであり、それを引き起こしたメディアにも大きな責任があると考えるべきです。

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2026年8月22日 (土)

今週の読書もいろいろ読んで計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、馬奈木俊介『ウェルビーイングの経済学』(中央経済社)では、経済産業研究所(RIETI)が2023年度に実施した独自調査のデータなどを活用して、主観的な幸福度や満足度などに関して、フォーマルな定量分析が行われています。ただ、ウェルビーイングの定義と計測は難しく感じました。河野有里『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)では、通史を明らかにするのではなく、個人単位での「史眼」や「史観」を論じています。発展段階説としてのマルクス主義的な史的唯物論もあれば、いわゆる皇国史観を持った歴史著述者も取り上げられています。永井紗耶子『めぐる糸』(双葉社)では、明治39年の東京を舞台に、霊異が「視える」主人公の斎木啓吾が連翹寺子爵家の次男、若様の連翹寺正周とともに子爵家の財力と影響力をバックに、また、アルバイト先の新聞社の取材を基に、さまざまな謎を解き明かすオカルトファンタジーの連作短編集です。秋吉理香子『月夜行路 Returns』(講談社)は、前作『月夜行路』の続編であり、辻沢涼子が野宮ルナとともに前作の大阪と違って、東京を舞台に夏目漱石のゆかりの地を回ったりしてさまざまな不可解な事件の真相を明らかにし、最後に、古いパソコンにあるファイルのパスワードを解明します。畠中恵『猫君 りんねの輪』(集英社)では、冒頭で猫宿の長が惨殺され怪僧天海も襲われ、猫宿に残されたみかんや師匠たち、猫宿の長や天海を襲った襲撃者とその黒幕、さらに、東海道筋の戸塚の猫又、などなどが入り乱れて猫宿、というか、江戸城を舞台に、尋常ならざるバトルを繰り広げます。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年で177冊、8月に入ってから先週までの19冊と今週の5冊、すなわち、8月の24冊を加えて合計201冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、馬奈木俊介[編著]『ウェルビーイングの経済学』(中央経済社)を読みました。編著者は、九州大学大学院工学研究院教授です。本書は、タイトル通りの学術書であり、かなりフォーマルな定量分析に基づいており、一般の読者にはややハードルが高いかもしれません。本書では、冒頭2章で基礎的なウェルビーイングについて議論した後、農村と都市におけるウェルビーイングの格差、GIS(地理情報システム)を用いた緑化との関係、孤独感からウェルビーイングへの波及経路、不妊治療がウェルビーイングに及ぼす影響、災害被災地域でのウェルビーイングの維持、競争と協調のウェルビーイングへの影響などなどを取り上げています。ただ、本書を読む上で、もっとも難しいのは「ウェルビーイング」の定義と計測です。特に、本書の場合はチャプターごとの著者が異なっており、しかも、分析対象としているデータも必ずしも統一されていません。データについては、経済開発協力機構(OECD)の Better Life Index (BLI) やギャラップなどの既存データとともに、経済産業研究所(RIETI)が2023年度に実施した独自調査のデータも活用されており、そもそもウェルビーイングの定義がエコノミストの間で強いコンセンサスあるわけでもないことから、読む方も骨が折れます。チャプターごとの著者によっては、主観的なウェルビーイング、満足度、幸福度、などなどさまざまです。分析の目的によって、ウェルビーイングの定義を変更し、データもいろんなものを使う点は私も理解するのですが、ウェルビーイングをもって beyond GDP の指標となる可能性を追求するのであれば、よりしっかりした定義や計測が必要であることはいうまでもありません。GDPが国連というきわめて大規模な国際機関によってマニュアルが示されている指標である点は忘れるべきではありません。本書でもいくつかのチャプターでは主観的ウェルビーイング(SWB)を取っていますが、主観的な幸福度や主観的な満足度とどう違うのか、逆に、「主観的」と付すのであれば「客観的」なウェルビーイングな何なのか、についても考えておかねばなりません。フランスにおけるスティグリッツ委員会やOECDのBLIなどがひとつの候補となりますが、おそらく、主観的な幸福度や満足度では国によって差がありすぎるでしょうから国際比較に難が生じるでしょうし、アリストテレス的なエウダイモニア(本書p.139では、「ユーダイモニア」と表記)も少し違う気がしますし、何とも難しいところかもしれません。本書では、効率を旨とする経済学らしい観点で、GDPは経済成長に基づいており、人的資本と物的な資本ストックの蓄積および生産性向上という名の効率性の強化で計測されてきたと指摘していて、私もその通りかと思いますが、そもそも、ウェルビーイングないし幸福度の定義と計測がある程度のコンセンサスないと、国際比較だけでなく、国内でのウェルビーイングの向上目指した政策も難しくなります。GDPは付加価値の総計ですから、雇用との関係が深く、私のような雇用を重視するエコノミストからは使いやすい指標ですし、加えて、ベーシックインカムの議論あるとはいえ、雇用や労働はウェルビーイングや幸福度や満足度との関係は無視できません。もっとも、私自身は定義や計測を先行させるばかりではなく、本書で取られているように、「群盲象を撫でる」がごとき感なきにしもあらずながら、同時に何らかのデータを用いた研究を進めるのは十分理由があることだと思います。だた、俗にいう Garbage In, Garbage Out: GIGO にならないように願うばかりです。

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次に、河野有里『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)を読みました。著者は、法政大学法学部教授であり、ご専門は政治学・政治思想史だそうです。本書は、新潮社の国際情報サイト「フォーサイト」の連載を書籍化しています。タイトルからビミョーに理解できるかという気もしますが、本書では通史を明らかにするのではなく、個人単位での「史眼」や「史観」を論じています。発展段階説としてのマルクス主義的な史的唯物論もあれば、いわゆる皇国史観を持った歴史著述者も取り上げられています。「歴史著述者」というのは私の解釈であって本書の表現ではありません。本書ではp.4にて「本職の歴史学者だけでなく、作家や批評家、政治学者や社会学者や人類学者」と表現されています。実に残念ながら、経済学者=エコノミストは入っていないようです。17章に渡って20人の日本史を物語ってきた歴史著述者が取り上げられています。ただ、第1章が百田尚樹に始まって、最終第17章が平泉澄ですから、皇国史観、というか右派的な史観が示されていると受け止める読者もいそうです。しかし、さすがの皇国史観の提唱者である最終章の平泉澄ですら、万世一系は否定しているわけですから、あまりに非科学的な皇国史観は排除されていると考えた方がいいのかもしれません。男系男子に天皇位が限定されるような皇室典範が改正された現時点で読むのに適した歴史論考だという気がします。ひとつの流れとして、さすがに皇国史観ではないものの、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観があり、他方に、その「つくる会」に批判された司馬遼太郎史観があります。でも、司馬遼太郎は章として独立には取り上げられていません。第12章で松本清張とともに一括して着目されています。いずれにせよ、歴史を実証と物語(ナラティブ)の軸と右翼と左翼の軸で分割して論じたp.81の模式図はそれなりに参考になります。最後に、もう一度、エコノミストが取り上げられていないので、マルクス主義的な唯物史観は本書では批判される一方だった気がして、発展段階説にそれなりの親近感を覚える経済史の理解者としては少し残念でした。加えて、グローバル・ヒストリー全盛の時代にあって、日本史を日本というテリトリーの中だけで語ることの難しさも感じました。

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次に、永井紗耶子『めぐる糸』(双葉社)を読みました。著者は、たぶん、時代小説家であり、私は『木挽町のあだ討ち』を読んだ記憶があります。本書は、『小説推理』に連載されていた短編を単行本として出版されています。副題は表紙画像に見えるように、「明治浪漫霊異譚」であり、舞台は明治39年=1908年の東京です。主人公の斎木啓吾は帝大生であり、木彫り職人の父親の正司、母親の幾、妹の寿々が寓居している寺、母親の実兄が住職をしている寺から離れて湯島に下宿していました。少し年長者である連翹寺子爵家の次男、若様と呼ばれ同じく帝大生の連翹寺正周の秘書あるいは書生のような存在です。連翹寺正周は連翹寺子爵邸の蔵に書斎のような部屋があって心霊研究をしています。斎木啓吾は第1話で湯島の下宿から連翹寺子爵邸の敷地内にある書生たちの住む鳳雛寮に移ります。斎木啓吾には大きな秘密があって、この世ならざる「霊異」が視えてしまいます。母も同じ体質で、決して「視える」ことを明かしてはならないと教えられてきましたが、連翹寺正周には「視える」ことがバレてしまい、まったく視えないながら霊異に対する感覚が鋭い連翹寺正周の目となり、連翹寺子爵家の援助を受けながら帝大に通いつつ、小規模ながら気骨ある記事で人気ある銀座の新聞社の毎報社でアルバイトをしています。といった前置きが長くなりましたが、本書は霊異の見える主人公のオカルトファンタジー、少しミステリ仕立ての連作短編を5話収録しています。以下順にあらすじは、まず、「ロマン髑髏」では、40年ほど前の上野の彰義隊に参加した幕臣の髑髏を拾わされる羽目になった斎木啓吾は警察の留置場に入れられて湯島の下宿を追い出され、その髑髏になった幕臣の妻と助けた女の子を探します。続いて、「祈り猫」では、廃寺で手を合わせて祈るような格好をしている猫を、斎木啓吾はアルバイト先の新聞に『奇事片々』として掲載すべく取材しますが、その猫には吉原の花魁が憑依していました。続いて、「笑う写真」では、連翹寺正周の許婚である松木原男爵家令嬢の薫子が榊原兼人の写真館で家政婦の若い女性に写真を撮ってもらい、浅草12階の凌雲閣にて開催された写真展で展示されたところ、その写真が表情を変えるという評判になってしまいます。斎木啓吾には、その写真が松木原薫子には見えません。続いて、「霧箱の糸」では、少し時をさかのぼって、斎木啓吾が中学生のころ、連翹寺正周の父親、すなわち、連翹寺当代子爵の母親で御門跡と呼ばれる寿照尼が京都から上京し、連翹寺正周が新橋に迎えに行きますが、はぐれてしまって斎木啓吾が桐箱から延びる糸を手繰って、易者の占部峯斎の家の近くで見つけ出す、という一校生の連翹寺正周と府立三中学生の斎木啓吾の出会いが回想されます。最後に、「生きていた令嬢」では、石炭で財を成した実業家の永富祐太朗の令嬢で、7歳の時に失踪した絹子が10年を経て現れます。永富家に出入りしている占部峯斎とともに、斎木啓吾と連翹寺正周が真相を突き止めようとします。さすがに面白く読めました。とってもオススメです。

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次に、秋吉理香子『月夜行路 Returns』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ小説家であり、基本的に、私はイヤミス作家と見なしていたのですが、本書の前作となる『月夜行路』とともに、本書もイヤミスではありません。当然ながら、私は前作の『月夜行路』も読んでいます。ということで、前作では夫の浮気を疑って銀座にあるミックスバー「マーキームーン」に入った主人公の辻沢涼子が、バーのママである野宮ルナと大阪に行って、いろいろと文学の知識を活かした謎解きを繰り広げていました。主人公の辻沢涼子は40代半ば、かつてはオリンピック選手候補にまでなった経験ある元バレーボール選手で現在は専業主婦です。前置きはこれくらいにして、前作の舞台は大阪でしたが、続編の本書の舞台は東京です。しかも、序章のタイトルが「吾輩は猫である」となっていることから理解できるように、東京の中でもほぼほぼ夏目漱石に関係するお話ばっかり、と考えてよさそうです。序章では、野宮ルナの父親のものであると後に判明する古いパソコンが持ち込まれるところからお話が始まります。ファイルを開く6ケタ以上の数字を探すミステリ短編3話と短い最終話を収録しています。まず、「桜の森の満開の下」では、夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版復刻本を求めて、辻沢涼子が野宮ルナとともに下北沢の古書店を訪れると、店主が血を流して倒れていました。続いて、「こころ」では、マーキームーンのかつての常連で、当然、野宮ルナと親しくて夏目漱石の熱烈な読者だった高齢女性が亡くなり、辻沢涼子が野宮ルナとともに早稲田にある夏目漱石生誕の地の石碑近くに弔問に訪れたところ、死の直前半年ほどで再婚した前夫と3人の子どもたちとで遺産相続の骨肉の争いを繰り広げていました。続いて、「舞姫」では、日本人男性とドイツ人女性のシュナイダー東大教授夫妻と中学生の男の子の家を辻沢涼子が野宮ルナとともに、『吾輩は猫である』の縮刷版を借りるために訪れると、家政婦に出迎えられます。でも、近くで公園の爆破予告があったり、シュナイダー家でも子どものカナタ=ハンスが問題行動を繰り返していました。そして、最終話の短い「吾輩は吾輩である」では、これまた当然に、パスワードを解明してファイルを開きます。ファイルは文書=ドキュメントなのですが、中身は読んでみてのお楽しみとしておきます。3話の短編の中かでは、たぶん私と同じで、「こころ」がいいと感じる読者が多そうな気がします。まあ、何と申しましょうかで、浜田廣介の有名な童話『泣いた赤鬼』の世界です。

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次に、畠中恵『猫君 りんねの輪』(集英社)を読みました。著者は、時代小説作家であり、「しゃばけ」のシリーズが人気だと思います。「しゃばけ」のシリーズは私も10巻近くまで読んでいた記憶がありますが、あまりにもマンネリなもので読むのを止めました。本書は、前作の『猫君』の続編であり、『小説すばる』に連載されていた5話の連作短編を収録しています。5話のタイトルは、収録順に、「長、死す」、「首玉、化す」、「天海、話す」、「黒幕、露見す」、「明日を、志す」のとなっています。まず、当然ながら前作と同じで舞台はお江戸であり、将軍徳川家斉の時代です。猫が20年生き長らえると猫又という妖しになり、人に化けて言葉を操ったりするようになります。お江戸には6陣あって、20年を経て猫又になった新米は各陣から兄者や姉者に連れられて、何と江戸城にある猫宿に来て立派な猫又になる修行をすることになります。猫宿の長はかつて「魔王」と呼ばれ、人間としては織田信長と名乗っていて、すべての猫又を統べる猫君だったという噂もあります。本書の主人公は、前作では新米だったみかんであり、本書では2年生になっています。本書冒頭では、いきなり、猫宿の長が惨殺されるという超凶事が生じます。別の表現をすると、猫宿の長はりんねの輪に乗った、ということです。これに呼応して、猫君が出ると噂されるみかんたち2年生を除いて、修行中の猫又は各陣に返されてしまいます。そして、猫宿の長を殺害した襲撃者は、次に怪僧天海も狙ったりします。この時代にまで天海が生きているというのも、奇っ怪な気がしますが、それはそれで本書なりの理由があります。猫宿に残されたみかんや師匠たち、猫宿の長や天海を襲った襲撃者とその黒幕となっている人間の武士、さらに、お江戸の外の東海道筋の戸塚の猫又、などなどが入り乱れて猫宿、というか、江戸城を舞台に、きわめて尋常ならざるバトルを繰り広げます。前作ではかっぱが登場しましたが、本書では同じ猫又ながら、お江戸住みではなく戸塚の猫又が出てきます。また、前作で新米猫又たちが将軍からちょうだいした首玉の利用方法が少しずつ明らかになります。ただ、華々しい惨劇で始まりながら、最後は尻すぼみで終わります。

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2026年8月15日 (土)

今週の読書はちょっと異論ある経済書のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、飯倉穣『なぜ日本経済は停滞したのか』(エネルギーフォーラム)では、バブル崩壊以降の日本経済の停滞について、高度成長を支えた理論として有名な下村治博士の下村理論の視点から再検討を加えようと試みていますが、どうも、緊縮財政による財政収支の追求にしか私には見えませんでした。続いて、渡邊勉『調査票のなかの「戦争」』(勁草書房)では、1951年に実施された京浜工業地帯の労働者1万4千人余りに対する調査結果から、男性の割合が高い集団の中で、戦争体験から、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験をした労働者、逆に、戦争体験のない労働者、ほかの人生を後づけています。続いて、村上春樹『夏帆』(新潮社)では、浦和の小児科医の一人娘として生まれ育ち、美大を卒業して絵本やデザインで生活している26歳の女性、とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心が強い主人公の夏帆が、ブラインドデートで「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」といわれてしまいます。続いて、スティーヴン・キング『チャックの数奇な人生』(文藝春秋)には2編の中編が収録されていて、表題作の「チャックの数奇な人生」では、世界に終末が迫り、カリフォルニアの半分が海に没した時期に「ありがとう、チャック!」と書かれた看板広告が至るところに出現します。依田高典『ノーベル賞で語る 現代経済学』(中公新書)では、ノーベル経済学賞の受賞者について、賞創設後の基礎理論への授賞から始まって、1970年代の石油危機やそれに伴うインフレに際してケインズ経済学に疑問が生じ、新自由主義的な色彩の強いシカゴ学派が台頭する歴史が後づけられています。続いて、杉谷和哉『エビデンスの罠』(PHP新書)では、「賢慮」という耳慣れない言葉をひとつのキーワードにしつつ、エビデンスと物語=ナラティブを対比させ、統計的なトリックやデータの嘘について議論する一方で、同時に、フェイクについては警鐘を鳴らしています。カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(創元推理文庫)では、ヘンリー・メリヴェール卿が「部屋が人を殺す」というマトリング邸の後家部屋の謎について、カードで選ばれた人物が部屋にこもるという実験に参加し、実際に密室で毒殺された殺人事件の謎の解明に当たります。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年で177冊、8月に入ってから先週までの12冊と今週の7冊を加えて合計196冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、飯倉穣『なぜ日本経済は停滞したのか』(エネルギーフォーラム)を読みました。著者は、日本開発銀行、すなわち、現在の政策投資銀行のOBであり、設備投資研究所長も務めています。本書は、タイトル通りに、現在、というか、バブル崩壊以降の日本経済の停滞について、高度成長を支えた理論として有名な下村治博士の下村理論の視点から再検討を加えようと試みています。戦後1945-54年の復興期から始まって、コロナによる経済停滞の時期まで編年体で10部、それに今後の展望を加えて11部の構成となっています。ただし、下村理論が何かについては、たぶん、ご著者が十分理解しているだけに読者への解説があまりなく、ようやく今世紀の第7部に入って、p.397から数ページに渡って概観されているだけのような気がします。景気循環とはビミョーに異なる「景気変動」という用語を用いて簡単に解説されています。すなわち、有効需要が有効産出を上回れば需要超過であり景気は回復ないし拡大し、逆の場合は供給超過で景気は下降します。この当たり前の景気循環論に投資の二重性、すなわち、投資は需要項目であると同時に、生産能力を拡大するという見方を組み合わせたのが下村理論、として言及されています。貯蓄率に加えて、回帰支出率、すなわち、生産物に対して生産維持に必要な支出の割合と投資の感応係数の大きさなどを考慮して景気動向を判断するということなのですが、詳細は本書をお読みいただくしかありません。こういった観点から、戦後80年近く、すなわち、1945-2024年の日本経済の動向を分析しようと試みています。はい、当然ながら、1950-60年代の高度成長期までは、下村理論の通りに日本経済は動いており、1970年代の石油危機あたりから軌道を外れ、1990年代初頭のバブル経済崩壊からは、完全に下村理論の枠外となっているように見えます。特に、アベノミクスの金融政策に依存した経済政策運営が本書では強く批判されています。その意味で、私の理解する限り、下村理論とは1980年代からの実物的景気理論(RBC)に近い印象なのですが、いかんせん、私自身が下村理論をそれほどよく理解していない上に、下村理論そのものの理論的解説が少ないので、それほど大きな自信はありません。最後の今後の展望を示した第11部については、雇用を重視する政策運営という以外に、私はまったく理解がはかどりませんでした。本書の冒頭では、終戦直後に累進制の財産税1000億円の1回限りの徴収により、推定GDP比2.5倍あった2174億円の国債残高を1270億円まで償却した(p.13)、とあり、最後の第11部では、経済と財政の均衡を回復させるための大規模なマクロ経済調整によって、実質的な経済水準が10%以上低下することは不可避(p.595)とあります。やや常軌を逸した緊縮財政を志向しているように見えるのは、私だけでしょうか。

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次に、渡邊勉『調査票のなかの「戦争」』(勁草書房)を読みました。著者は、関西学院大学社会学部教授であり、本書はシリーズ「数理・計量社会学の応用」の一環として出版されています。冒頭に明記してあるように、本書のテーマな戦争です。終戦から6年後の1951年に京浜工業地帯の労働者1万4千人あまりに対して実施したデータを基に、国勢調査データなどと比較しながら分析を進めています。基本的に、記述統計を中心として、一般読者にも判りやすく分析している印象です。冒頭に個票から一定の特徴ある個人の生涯を抜き出していますが、第2章以降では戦争体験、すなわち、徴兵、引揚、戦災、といった戦争体験の有無などに基づくコーホート別の分析なども示しています。地域の特性からして全国平均よりも男性の割合が高い集団の中で、戦争体験から、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験をした労働者、逆に、戦争体験のない労働者、エリートたち、女性、のグループで個人的な人生を後づけています。しかし、個々人の状況を個票から見る限りでは、不平等については把握できません。ですので、まず、グループとしては引揚者の割合を見ていますが、京浜工業地帯ではかなり低い割合にとどまっています。それについての合理的な解釈も示されていますが、そのあたりは本書の読ませどころですので、読んでみてのお楽しみです。また、1948年に転居や転職が一時的な増加を示している点も解釈が示されています。漠然とした理解ながら、繊維産業の比重がそれなりにある阪神圏や名古屋圏と違って、京浜工業地帯はいわゆる重工業が集積していて、大規模工場があって、男性労働者の比率が高い、という特徴は垣間見えます。加えて、地理的な条件から東日本、東北や信越地方の出身者が少なくないのも事実です。その上で、第3章では性別、年齢、職業、産業、企業規模という属性から労働者を7つのクラスタに分けて、p.97表3-1とp.98表3-2に基づく分析を示しています。本書前半のハイライトと私は考えています。第4章からはライフコースの分析となります。おそらく、当時は就業者の半分近くが農民でしたから、出身は第1次産業が多いのは当然です。ライフコースのパターンとともに、徴兵、引揚、戦災といった戦争体験も確率的に示されています。戦争経験者のうち、徴兵者の特徴はかなり明確だと思われますので、私自身は引揚者、逆にいえば、外地に赴いた者の特徴に興味がありましたでも、本書によれば、外地居住者と引揚者の間にかなり大きなズレがある、ということのようです。第6章では、戦争体験者、すなわち、徴兵、引揚、戦災の戦争経験者は、非経験者よりかなり所得が高い結果が示され、本書でも「にわかには信じがたい」(p.176)とされていて、そういった謎解きもなされています。第7章の女性の戦後、終章については読んでみてのお楽しみとしますが、調べればすぐに判ることながら、終章のタイトルは「戦争とは人びとを選別するシステムである」となっています。私が以前から主張しているように、戦争はみんなを不幸にするわけではありません。はい、戦争で得をする人がいて、そういった戦争で得をする人が戦争を始めるのです。その点は忘れるべきではありません。

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次に、村上春樹『夏帆』(新潮社)を読みました。著者は、日本人で3番目のノーベル文学賞が待望されていて、日本でもトップクラスの小説家です。ですので、出版社でもこの作品への期待は大きいようで、特設サイトが開設されています。小説の主人公はタイトル通りに夏帆です。現在はさいたま市となった浦和にある小児科の開業医の1人娘として育ち、美大を卒業して絵本やデザインで生活している26歳です。とびきり美しくも賢くもなく、ただ少しばかり好奇心が強い、という性格です。足立区の花畑に住んでいたのですが、ブラインドデートでBMWのモーターサイクルに乗るお相手の佐原から「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」といわれてしまいます。それで、まあ、何と申しましょうかで、お告げのようなものがあって、武蔵境に引越します。JRの駅からかなり離れた一軒家を借り、その地下に住みついたありくい、そうです、表紙にシルエットのあるありくいの奥さんからの情報に基づいて、ファンタジーの世界が繰り広げられます。ただし、このファンタジーの世界は、『街とその不確かな壁』にはなく、『騎士団長殺し』にさかのぼるような、やや「暴力的」な傾向のある村上作品のファンタジーです。もっと前の作品を持ち出せば、『海辺のカフカ』につながっているともいえます。ただし、ファンタジーや幻想ではなく、現実の物語から外れた主人公の夏帆が心のなかで体験している感情のメタファーという見方もできようか、という気がします。その意味でも、村上春樹によるこの傾向の小説の頂点は、明らかに、『海辺のカフカ』だろうと思います。特に、暴力的という意味では、本書におけるとぎやの店主や母親に取り憑いたアマゾンの怪物と対決するシーンは『1Q84』で主人公の青豆が教祖を倒すシーンと重なります。最後に、最近、「ドライブ・マイ・カー」がひとつの話題になって、村上春樹作品の映像化が進んでいるような気がしますが、この『夏帆』を映画あるいはドラマにすると、20代半ばの主人公はどなたになるのでしょうか。成瀬あかりを舞台で演じた山下美月ではなく、私は勝手に藤野涼子を推したいと思います。

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次に、スティーヴン・キング『チャックの数奇な人生』(文藝春秋)を読みました。著者は、世界的なホラー小説の巨匠です。ただし、本書はホラーというよりは、ホラーの要素はあるとしても、どちらかというと感動ストーリーに属するのではないかと考えています。2話の中編くらいの長さの小説が収録されています。「ハリガン氏の電話」と表題作の「チャックの数奇な人生」です。まず、「ハリガン氏の電話」は、『スタンド・バイ・ミー』の系統の作品であり、主人公の少年が10歳に満たないころに朗読や庭木の手入れのために、引退した大金持ちの老人宅に出入りするようになり、ロトくじで当てた3000ドルで少年が老人にiPhoneをプレゼントします。その電話は老人が死んでも少年がかけるとつながったりして、少年のある種の望みを叶えてくれたりします。「チャックの数奇な人生」は、時間をさかのぼるような構成になっていて、第3幕のチャックが死の瀬戸際にあるところから小説が始まり、第2幕、第1幕と時間をもとに戻します。第3幕の冒頭では世界に終末が迫り、カリフォルニアの半分以上が海に没して、「日本沈没」が世界レベルで生じている終末期に、「ありがとう、チャック!」と書かれた看板広告が至るところに出現します。第2幕で物語は過去へとさかのぼり、若き銀行員チャックは出張先のボストンで、ドラムを叩くストリート・ミュージシャンや失恋したばかりの若い女性と出会ったりします。2つの中編作品を読んでみて、私自身の好みとしては冒頭の「ハリガン氏の電話」がいいと感じるのですが、そこは出版社の意向として映画化されて封切られたばかりの「サンキュー、チャック」に敬意を表して、このタイトルにする方が売行きがいいと考えるのは、出版社の担当者だけではないと思います。私も売行きの観点からは同意します。最近では、吉田修一『国宝』で思い知らされましたが、少なくとも日本人の平均的なリテラシーのレベルでは、小説よりも映画の方に大きく影響を受けるということなのだろうと思います。

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次に、依田高典『ノーベル賞で語る 現代経済学』(中公新書)を読みました。著者は、我が母校の京都大学経済学部の教授です。ご専門は応用経済学だそうです。本書では、1968年から始まったノーベル経済学賞、スウェーデン国立銀行が創立300周年祝賀の一環としてノーベル財団に働きかけたことで設立され、正式には「ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」ということらしく、本書にはありませんが、私の記憶する限りで、賞金はノーベル財団ではなくスウェーデン国立銀行から拠出されています。そのノーベル経済学賞の受賞者について、かなり系統的に分類して戦後約80年の経済学史を後づけています。ただ、同じ京都大学経済学部教授の根井雅弘教授が10年ほど前に『ノーベル経済学賞』という本を講談社から出しています。根井教授はたぶん経済学史のご専門だったと記憶していますが、まあ、10年経ったのですから、リニューアルさせた、という感じかもしれません。本書冒頭の序章では、1968年に賞が創設される前のエコノミスト、当然、スミスに始まって、リカード、マルクス、ワルラスからケインズまでの5人を振り返り、その後、賞の創設後にミクロ経済学的な一般均衡論やマクロ経済学の分野での計量経済学などの基礎理論への授賞について解説されます。そして、1970年代の石油危機やそれに伴うインフレに際して、ケインズ経済学の有効性に疑問が生じ、そのあたりから新自由主義的な色彩の強いシカゴ学派が台頭する流れが後づけられています。今でも、私はすでに時代遅れだと感じていますが、ノーベル賞の分野ではシカゴ学派の新自由主義的な経済学が幅を利かせているような気がします。もちろん、ルイス卿やセン教授といった開発経済学の分野、あるいは、貧困や不平等の経済学も注目されますし、映画化されてヒットしたナッシュ教授によるゲーム理論、あるいは、カーネマン教授らの経済心理学から発展して来たセイラー教授の行動経済学、などなど、決して最新理論とはいえませんが、さまざまな経済学を概観しています。最近、ということになると、ゴルディン教授のジェンダー経済学、アセモグル教授らの新制度学派による経済発展論などが注目だろうという気がします。ただ、ノーベル賞ですので、いわゆるマルクス主義経済学は大きく劣勢であり、ほぼほぼ純粋なマルクス主義経済学に基づくエコノミストへの授賞はありません。最終章で、ノーベル経済学賞は受賞しなかったものの、学界に大きな足跡を残した経済成長論のハロッド教授と日本の森嶋通夫教授が「ノーベル経済学賞の忘れもの」として取り上げられています。

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次に、杉谷和哉『エビデンスの罠』(PHP新書)を読みました。著者は、岩手県立大学准教授であり、公共政策学がご専門のようです。また、本書の冒頭では何度か村上靖彦『客観性の落とし穴』についての言及があり、かなり意識しているように感じました。ただ、本書では、エビデンスとは必ずしも客観的なデータを考えているようではない印象を受けました。例えば、第1章のタイトルはエビデンスvs物語、ということで、後者の「物語」というのはいわゆるナラティブのことを指しているものと私は理解しました。ただ、この両者を対極に置いて、エビデンスを数値データ、物語をエビデンス否定と考えるのは少し疑問が残ります。いずれにせよ、本書では「賢慮」という耳慣れない言葉がひとつのキーワードになっており、数値によるマネジメントの歴史や陰謀論の問題などを取り上げ、いかにして賢明な判断が下せるかについて考えようと試みています。ただ、データに対する否定的な考えはいくつか見られ、第4章では統計的なトリックやデータの嘘についても議論しています。もっとも、同時に、さすがにフェイクについては警鐘を鳴らしており、第5章ではナラティブとの関係などを示して本書を締めくくっています。最後に、本書が意識している『客観性の落とし穴』については、世間一般でかなり浅い読み方しかなされていないように私は感じています。すなわち、エビデンスとして客観性を求めるのは決して悪いことではないが、例えば、外国人政策や福祉政策など、自分が同意しない政策の方向性が示された場合に、過度にエビデンスや客観性を求めるのは決してよい議論の態度ではない、という含意を読み取っている読者は少ないように感じます。その昔に、「誠意を見せろ」という言葉があり、手に取って見せようのない誠意ではなく、まあ、「最後は金目でしょ」という結論を導かんとするような議論の態度がありました。まさに、私が懸念しているのは、ホントに客観性やエビデンスを求めるのではなく、議論に反対するために過剰なエビデンスや客観性を要求するタイプの態度です。ですので、エビデンスそのものには期待せずに議論の勝ち負けや正しい結論に混乱をもたらすようなエビデンスの求め方、客観性の追求というものを注意すべきではなかろうか、という気がします。

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次に、カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(創元推理文庫)を読みました。作者は、ご存じ、今世紀前半もっとも傑出したミステリ作家の1人です。米国ペンシルヴァニア州生まれながら、英国に移住してロンドンを舞台にしたミステリも数多くあります。英語の原題は The Red Widow Murders であり、1935年の出版、本書は高見治による新訳版となっています。本書は、ヘンリー・メリヴェール卿(H.M.)のシリーズであり、したがって、というか、何というか、密室殺人を扱っています。ホームズ役の探偵はH.M.であることに間違いはないのですが、ワトソン役は米国のハーヴァード大学の英語学講座のテアレイン教授です。舞台はロンドンのマントリング邸、フランス革命当時の死刑執行人一族の家具が運び込まれ、過去に4人が怪死を遂げたという後家部屋の実験を行うのに、H.M.とテアレイン教授、また、H.M.の友人の大英博物館長のジョージ・アンストラザー卿を含めた何人かが参加します。2人以上なら死者が出ないが、1人で2時間こもれば死ぬ、という言い伝えです。もっとも、ジョージ卿とテアレイン教授は立ち合い人として、カード引きには参加しませんでした。カードでスペードのエースを引き当てたフランス人が部屋に入り、15分おきに部屋の外からの呼びかけに応じていましたが、毒殺されて発見されます。死因はクラーレであり、この毒は口から飲んでも何も悪影響がないのですが、毒針で刺されたりすると致命的となります。死者にはクラーレを刺されたような不審な外傷はなく、どのように毒が注入されたのかが謎となります。なお、毒物のクラーレは冒険旅行好きな当主のマントリング卿が収集したものでした。ロンドン警視庁のマスターズ主任警部が赤後家の部屋を徹底的に捜査するのですが、家具から毒針が飛び出すような機械的なトリックはどこからも発見することができません。そうこうしているうちに、後家部屋で第2の殺人が起こります。この家の歴史やオカルティズムに耽溺しており、警視庁からは犯人の容疑が濃いと思われていた当主マントリング卿の弟ガイが、後頭部を凶器で殴られて撲殺されて発見されます。最後に、本書の作者は、カーター・ディクスンなのですが、広く知られているように、ジョン・ディクスン・カーの別名義です。本書は、かなりオカルト趣味の要素を含み、出版当時は日本でも江戸川乱歩はじめとして評価が高かったのですが、死者の返答の声や密室やアリバイなど、後になってオカルト趣味とともにやや否定的な評価も出た作品か、という気がします。最後の最後に、個人的な事情をひとつ。ヘンリー・メリヴェール卿は、『黒死荘の殺人』で初登場するわけで、本書でもその『黒死荘の殺人』からいくつか引用されています。私はそれらの引用に覚えがあるので、『黒死荘の殺人』を読んだことはほぼほぼ間違いありませんが、犯人はもちろん詳細についてまったく記憶にありません。私の記憶力からすればあり得ないことではなく、昨年は本書の続編的な『爬虫類館の殺人』を読みましたし、何かの機会に『黒死荘の殺人』も再読しておきたいと思います。

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2026年8月 8日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、白川方明『通貨に信用を刻印する』(日本経済新聞出版)では、おそらく安倍内閣によるデフレ脱却重視政策のアンチテーゼなのだろうと思いますが、インフレとデフレを非対称に見ていたりして、「時代の空気」をキーワードのひとつに、非伝統的な金融政策に対して懐疑的な見方が示されています。藤谷昌敏『経済安全保障と「経済インテリジェンス」』(芙蓉書房出版)では、サプライチェーンの脆弱性に関する指摘のほか、主として、半導体、AI、量子技術、サイバー空間など、いわゆる最先端技術の海外流出、特に、中国を念頭に置いた経済安全保障について具体例を論じています。首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか』(講談社現代新書)では、デフレ下で価格が動かないために賃金が雇用も含めた調整要因となってしまい、価格転嫁ができないことから賃上げが進まなかった現状、というか、現在のインフレが始まった2022年くらいまでの賃金動向を議論しています。黒猫ドラネコ『参政党と大陰謀論時代』(文春新書)では、現在の参政党の源流のひとつの反ワクチン運動の神真都Qから説き起こして、省庁解体や排外主義などの国政課題だけでなく、反ワクチンやスピリチュアル系の陰謀論などを展開するようになった経緯など、ウォッチした結果を報告しています。伊坂幸太郎ほか『プレゼント』(新潮文庫)は、新潮文庫50周年企画のアンソロジーです。「夏」を共通テーマとして7人の小説家の短編作品から編まれています。すべての作品が素晴らしいのですが、私はエコノミストとして、社会派ミステリの米澤穂信「無明」をイチ推しとします。
今年2026年の新刊書読書は、1~7月の半年あまりで177冊、8月に入ってから先週の7冊と今週の5冊を加えて合計189冊となります。なお、鈴木るりかの『さよなら、田中さん』からの田中花実を主人公とするシリーズを何冊か読んだのですが、新刊書ではありませんので、本日のレビューには含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、白川方明『通貨に信用を刻印する』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、青山学院大学特別招聘教授なのですが、tぷぜんながら、日銀元総裁の方で知られていると思います。本書のタイトルは、アイケングリーン教授に由来するようです。数年前の著者による『中央銀行』から、世間一般の経済社会状況に関して、もっとも大きな変化があったのは2022年を起点とするインフレなのですが、この点についてはそれほど力点が置かれていないような印象を私は受けました。そういった前著からのここ数年来の経済の変化ではなく、同じようなポイントが前著と同じように繰り返されているという印象の方が強かった気がします。金融政策運営上で、少なくともバブル直前の1980年代半ばまで、為替レートが暗黙のうちに重視されていて、円高は困るという「時代の空気」で金融政策が運営されていたのはそこそこ事実だろうと思います。そういった「時代の空気」をひとつのキーワードとして本書を読み解くのも一案かという気がします。その上で、私がいくつか疑問に感じたのは、おそらく安倍内閣によるデフレ脱却重視政策のアンチテーゼなのだろうと思いますが、インフレとデフレを非対称に見ている点です。安倍内閣の当時のリフレ派、たぶん、私も含めた何人かのエコノミストはインフレもデフレもともに貨幣的な現象であって、したがって、金融政策で対応すべき、というのが主要な論調であったかという気がします。それに対して、本書の著者や翁教授などの伝統的な日銀エコノミストは、いわば「金融政策の無力性」のような主張を繰り返していたり、あるいは、デフレの原因を人口減少とか別のところに求めたりして、金融政策による対応を回避する姿勢が鮮明でした。私自身は、デフレにせよ、インフレにせよ、軽微なものであればともかく、通貨現象である点は変わりないと考えています。すなわち、私は授業で明確に教えていますが、一般物価水準とは通貨価値の逆数と考えるべきです。その昔にインフレによる預貯金の「目減り」という表現がありましたが、まさにその通りです。マイルドなインフレを目指すということは、通貨価値のマイルドな低下を容認することであり、財やサービスの名目の価値の緩やかな上昇をもたらすものです。ただ、本書の第4章のような物価の計測に疑問を呈するのは不可知論に陥る危険があり、科学的な分析を旨とするエコノミストの態度ではありません。逆に、ラスパイレス指数の上方バイアスについて口をつぐむのも公平な論評とはいえません。量的緩和をはじめとする非伝統的な金融政策に対しても第9章などで懐疑的な見方が示されていますが、特に、p.165 の引用部分は、たぶん、ローレンス・ボール教授による独立評価局のリポートであり、どこまでIMFによる公式見解であるかは私には不明です。まあ、経済学の場合、私もそうですが、自分に都合いい引用を持ち出すのは通常の手法だろうと思いますので、OKなのだという気はします。ただ、前著なども含めて、この著者の主張に私が違和感を覚えていた原因が判った気がします。第14章以降は政策運営面での実務的な内容も多くなるので、それ以前で考えても、本書ではエビデンスがデータに基づいていない気がします。ですので、本書の議論は全部ではないとしても神学論争的なものに見えがちで、エラい人が自分自身の信念を大きな声でいえば「勝ち」という気がしてなりません。ですから、「時代の空気」ではなく信念に基づく中央銀行の政策策定や運営が、ホンの少しながら怪しげに見えかねない恐れがあるのではないか、と危惧しています。少なくとも、「通貨に信用を刻印」し過ぎてデフレに戻るのは避けたいと思うのは、たぶん、私だけではないと思います。

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次に、藤谷昌敏『経済安全保障と「経済インテリジェンス」』(芙蓉書房出版)を読みました。著者は、金沢工業大学産学連携室主任研究員・明倫館教授だそうですが、長らく公安調査庁にご勤務されていたようです。本書では、サプライチェーンの脆弱性に関する指摘もありますが、主として、半導体、AI、量子技術、サイバー空間など、いわゆる最先端技術の海外流出、特に、中国を念頭に置いた経済安全保障について論じています。ただ、どちらかというと、ケーススタディ、というか、実例を豊富に取り上げている印象です。そして、それぞれのケースで理論的な経済安全保障とか、インテリジェンスを小難しげに抽出するのではなく、模式的な概念図、私が公務員であったころには「ポンチ絵」と呼ばれていたものをいくつか援用して、私のようなシロートにもわかりやすく解説しています。ですので、本書は学術書とか専門書ではなく、広く一般読者を対象にしている印象です。冒頭章でインテリジェンスについて概説した後、第2章では中国の目覚ましい経済発展の背景には、「国家レベルで構築された経済戦略と、情報機関が主導する経済インテリジェンスがあった」(p.9)とはじめにで指摘した中心的な課題が展開されます。特に、中国建国後の大躍進政策、文化大革命、天安門事件を3つの災厄と指摘し、2010年出版の「中国の夢」、さらに、経済発展と安全保障が一体化した「一帯一路」構想について詳しく解説しています。ただ、米国の合成麻薬フェンタニルの原料出荷とか、私には不案内な部分も少なくなく、そのあたりは読んでいただくしかありません。そして、明示されているわけではありませんが、トゥキディデスの罠にいうように、米中対立の中で武力衝突が生じた場合に日本がどちらと協力するかは自明のこととして議論が進みます。加えて、攻撃的な経済安全保障と防御的なものとの違いについて、あるいは、セキュリティ・クリアランスについて、などなど、専門外の私には一知半解だった部分がていねいに一般向けに解説されています。また、大学に勤めている身として、より理工学的な分野とは思いますが、大学における技術情報、あるいは、留学生に関する対応など、私からは違和感ある部分も少なくありませんでした。第4章では中国による経済スパイ活動が取り上げられており、私個人が注目したのはハニートラップによる情報漏洩です。私がもっとも弱いところだという気がします。第5章の中国における情報機関では、孔子学院の存在について取り上げられていましたが、そのあたりは読んでいただくしかありません。第6章と第7章についても、読んでいただくしかないのですが、1点だけ、外国人による土地所有については私も一定の歯止めが必要だと考えています。本書のような経済安全保障という観点ではありませんが、日本が先進国の中の平均以下の下位国となり、円安も進んで日本の土地が安くなった現時点では、外国人が土地購入に参入するのは決して好ましくないと、私ですら考えています。最後に、本書に希薄な点として、政府の責任と企業の責任の役割分担が不明確です。医療保険の個人負担ではありませんが、日本では特に企業向けにはすべてを政府が面倒見るというシステムはとても異質です。私が国家公務員をしていたころには、通商産業省・経済産業省がこういった国家統制にやや前向きなところが見られましたが、どこまで政府が企業に肩代わりしてコスト負担するかについては、十分な国民的合意が必要です。

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次に、首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか』(講談社現代新書)を読みました。著者は、立教大学経済学部教授であり、労使関係を専門とする研究者だそうです。本書はタイトル通りのリサーチ・クエスチョンに対して回答を試みています。まず、一般的な3つの理由、第1に、企業が値上げで儲かった分を労働者に還元せず、「内部留保」として貯めこんでいるという企業悪玉論、第2に、日本人の働き方は効率が悪く、「労働生産性」が低いとする労働生産性説、第3に、各企業の労働組合の交渉力が弱く、企業に対抗できていないとする組合弱体化説、本書ではこの3点について否定的な見方を示しています。まず、時間当たり賃金と月額賃金が乖離していて、短時間労働者の割合の増加、すなわち、非正規雇用の増加が実質賃金の停滞をもたらした要因として上げています。ただ、私の見方からすれば、これは内部留保の増大と軌を一にする企業悪玉説と考えるべきですが、本書では雇用者サイドからパートのシフトを減らすといった要望があることなどを理由として、私とは違う見方を示しています。やや疑問です。次に、物流、特にトラック輸送の業界を引き合いに出して、人手不足でありながら過当競争により賃金を引き上げられない現状を示しています。加えて、私が途上国で見てきたのと同じ現象が日本でも起こっているようで、賃金すなわち労働コストが安いために労働集約的な生産を志向し、設備投資して労働装備率を上げないために労働生産性が停滞する、という悲しい現状も本書は指摘しています。ハッキリと悪循環を生じていると考えるべきです。その上で、デフレ下で価格が動かないために賃金が雇用も含めた調整要因となってしまい、価格転嫁ができないことから賃上げが進まなかった現状、というか、過去形の2022年くらいまでの賃金動向を指摘しています。まさに、デフレの弊害そのものと考えるべきです。本書ではまったく指摘していませんが、私なんかも授業で教えているように、ボーナス制度が広く実施されている日本では賃金の柔軟性が高い、という従来からの特徴を踏まえています。本書では明示していませんが、「奥田の一喝」として有名な2002年のベアゼロ、量的な雇用を守ると称して、質的な賃金引き上げを否定した経営サイドの動きも一因として指摘しています。ただ、日本的な春闘はいわば「みんなで賃上げすれば怖くない」という囚人のジレンマを回避するには悪くないシステムだという点も強調しています。その上で、賃上げを起点とした経済の好循環をもたらす方向性を模索しています。これは、まさに、政府や日銀が目指している賃金が適正に価格に転嫁され、物価と賃金の好循環を目指す、ということです。政府・日銀の「好循環」は企業業績からトリクルダウンする、というのもひとつの視点でしたが、トリクルダウンは完全に破綻していますので、残るのは、デフレを脱却し、賃金と物価の好循環をもたらす、ということであり、この方向は、私も大いに賛成です。その意味で、賃金起点か物価起点か、という違いはあるとはいえ、本書は政府や日銀とほぼ同じ方向性を示していると考えるべきです。最後に、たぶん、ケーススタディの結果だとは思いますが、トラック輸送業界の例が多くて、その代表性に少し疑問を持ちましたが、私の方の誤解かもしれません。

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次に、黒猫ドラネコ『参政党と大陰謀論時代』(文春新書)を読みました。著者は、ウェブライターであり、「スピリチュアルビジネス、疑似科学・偽医療、反ワクチン、陰謀論、デマなど胡散臭いものをウォッチしている」と本書では紹介されています。私は初読の著者でしたが、広い意味でのジャーナリストではないか、と想像しています。本書はタイトル通りに、参政党をウォッチした結果が報告されています。ただ、かなりリアルに偏っていて、集会やデモなんかには著者が参加しているようですが、SNSや動画配信サイトなどのネット情報に関しては、なぜか、ほとんど取り上げられていません。本書では、参政党の前身ではないとしても、ひとつの源流をなす反ワクチン運動を先導した神真都Qから第1章を説き起こしています。はい、私は神真都Qについては聞いたこともなく、本書を読むまでまったく知りませんでした。そして、第2章では、参政党が政党となり、反ワクチンやスピリチュアル系の陰謀論などを展開するようになった経緯などを報告しています。政党内部での粛清めいた幹部交代や人事などの軋轢を後づけた後、現在の神谷代表体制、本書では「独裁」という言葉も使っている体制の確立を報告し、第3章では国政選挙での議席獲得、第4章では反ワクチンから省庁解体、排外主義などを広く報告しています。私は参政党とはかなり真逆な政治経済的なスタンスですので、まったく関知しなかったのですが、、参政党はN党やつばさの党とは対立関係にあるようです。繰返しになりますが、私のようなスタンスの者から見れば、参政党や保守党やN党、つばさの党などはおんなじように見えて、十把一絡げに論じてしまうところがありました。いろいろとこの年齢に達しても知らないことの多い私には、情報を提供したり、あるいは、認識を正しくしてくれる読書であったと感謝しています。

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次に、伊坂幸太郎ほか『プレゼント』(新潮文庫)を読みました。著者は、実に高名な小説家7人であり、本書は新潮文庫50周年企画のアンソロジーです。「夏」を共通テーマとしています。収録作品は順に、まず、伊坂幸太郎「ウッドペッカー荘事件」はSFテイストの作品であり、ワトソン役の主人公はいままで名探偵である白河ヨフネが解決してきた難事件を発表してきて、5つめが「BB湖事件」でしたが、最新の6件目の事件、ホテルの名を取って、タイトル通りの「ウッドペッカー荘事件」について、世に出すかどうかを迷っています。続いて、江國香織「二つの宇宙」では、人見知りが激しくて、こだわりも強く、ディズニーのプリンセスの中でベルの順位を気にするおばあちゃんが、これまた少し変わったところのあり、カポーティの『冷血』が好きで英文科に入ったガールフレンドと会うことになる大学生だったころの夏の思い出です。続いて、宮部みゆき「真実のトランク」は、弟の経営するバーで働く50代女性の主人公が20代のころを回想して、財団の渋い中年男性がバーに置いていったトランクをめぐるオカルチックなストーリーです。続いて、町田そのこ「きっとあの日の光と同じ」は、「コンビニ兄弟」シリーズのスピンオフ作品であり、親友にカノジョができた高校年生の夏、主人公は中学校のころの同級生と出会って、花火を楽しみます。続いて、米澤穂信「無明」では、猛暑だか酷暑だかの夏8月に、新宿駅でまだ若い母親が赤ん坊の首を絞めて殺そうとする殺人未遂事件が起こります。どうしてそのような犯行に及んだのかのwhydunnitの謎解きをする社会派ミステリです。続いて、梨木香歩「見越しのマツ」では、離婚して女性が実家に戻り、斜向かいの豪邸にマツの木が見えます。しかし、その豪邸のご亭主がなくなり、お屋敷が更地になります。続いて、恩田陸「伝説の季節」では、高校2年生だった主人公が卒業式に高3の卒業生からシンプルな形の古い鍵を渡され、その年のサヨコとなり、高校3年生になって受験勉強に忙しい夏に、高校に伝わる伝統を担う役回りとなります。それぞれに、特徴ある文体やさまざまなプロットが楽しめる極上のアンソロジーです。私はエコノミストとして、社会派ミステリの「無明」をイチ推しとします。

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