2024年10月12日 (土)

今週の読書は経済書や専門書からミステリまで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って先週6冊の後、本日の7冊をカウントして251冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、新刊書レビューだけで年間300冊に達するペースかもしれません。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、瀬尾まいこ『あと少し、もう少し』(新潮文庫)も読んでいて、すでにFacebookなどでシェアしていますが、もうずいぶんと前の出版ですので新刊書とは見なしがたく、本日のレビューに入れていません。それから、図書館で借りたものも、生協の書店で買ったものも合わせて、新書が手元に大量に積まれていますので、今後、精を出して読みたいと思います。

photo

まず、長谷川将規『続・経済安全保障』(日本経済評論社)を読みました。著者は、湘南工科大学の研究者です。タイトルから容易に想像されるように、「続」のつかない本も同じ著者が上梓しているのですが、10年以上も前の2013年の出版ということで、今回はパスして新刊の本書だけを読みました。出版社のサイトに詳細な目次が示されています。まず、経済安全保障という言葉の定義を明らかにしていますが、ちょっとばっかし私の理解とは異なっています。すなわち、冒頭で「安全保障への経済の利用」もしくは「安全保障のための経済的手段(経済手段)」としてますが、私の実感として通常理解されている経済安全保障とは、本書pp.6-7で議論されているように、「(重大な脅威から)経済を守る」というものに近い気がします。守られる対象は、企業の生産や流通などだけではなく、広く国民生活の安定にも及びます。例えば、企業における生産の安定的な継続、また、エネルギーや食料供給の安定とかが眼目となります。ただ、中身としてな大きく異なるわけではないように私は受け止めました。ただ、本書ではこの定義に従って9タイプの経済安全保障における経済手段を提示しています。すなわち、(1) シグナリング: メッセージを伝える、(2) 強化: 国のパワーを支える経済手段、(3) 封じ込め: 対立国のパワーの拡大を防止する、(4) 強制: 経済的損害を利用して敵対国を誘導する、(5) 買収: 経済的利益と引換えに敵対国を誘導する、(6) 相殺: 敵対国からの悪影響を緩和する、(7) 抽出: 敵対国の富や資源を調達する、(8) モニタリング: 敵対国の情報を得る、(9) 誘導: 敵対国の国益認識を変容させる、ということになっています。はい。私は専門外なので、このあたりは本書から適当に丸めて引用しています。ということで、私はいわゆるステイトクラフトの一部をなすエコノミック・ステイトクラフトを想定したのですが、本書p.25からの議論では似ているが違う、ということにようです。これも十分に理解したとまで自信を持っているわけではありません。第1章でこういった基礎的な概念や定義を明らかにした後、第2章では中国に関する議論を展開しています。すなわち、日本にとって中国とは脅威国でありながら密接な経済的交流のあるCEETS=Close Economic Exchange with a Threatening Stateであるので、大きなジレンマが生じる、という主張です。私が接している情報から極めて大雑把に分類すると、いわゆるネトウヨは経済的な交流を軽視して中国が脅威国である点を強調しますし、逆に、大企業やその連合体である経団連などは経済交流の重視に傾きます。まあ、当然です。それに対して、9カテゴリーの経済安全保障の手段をどのように組み合わせて効果的に対処するか、といった論点が提示されています。専門外の私の方で十分に理解して解説できるとも思えませんし、詳細は読んでいただくしかありません。第3章ではデカップリングについて論じていますが、私はすでに昨年2023年11月にレビューした馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)で明らかな通り、ウクライナ侵攻したロシアに対する経済制裁といったような攻撃的なデカップリングについては別にしても、自社の生産や企業活動を安定的に継続できるように取り計らう防衛的なデカップリングについては、輸入依存度の高さだけを問題とするのではなく、供給の途絶リスクの蓋然性に加えて、どの程度の期間で代替が可能となるか、などを分析することが必要であり、こういった対応は、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済みである。」という主張に強く同意します。本書の主張する「ガーゼのカーテン」というのは十分理解できた自信はありませんが、理解できたとしても同意することはないものと思います。第5章のデジタル人民元に対応する金融面の経済安全保障については、かなり先のお話として可能性があるとはいえ、米国のドル基軸通貨体制、また、これを基盤とするSWIFTなどのシステムについては、目先の近い将来ではゆるぎないものと私自身は楽観しています。本書でも中国の貿易決済は輸出入とも米ドルの占める比率が90%超である、と指摘していところです。たぶん、日本は輸出で50%、輸入でも70%くらいだろうと私は考えていますから、中国は日本以上にドルに依存しているわけです。最後に、本書は学術書に近いので広く一般読者に対してオススメできるわけではありませんが、海外との貿易などに従事しているビジネスパーソンであれば、十分読みこなせるでしょうし、それなりにオススメできます。

photo

次に、ミレヤ・ソリース『ネットワークパワー日本の台頭』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、米国ブルッキングス研究所の研究者であり、東アジア政策研究センター所長を務めています。本書の英語の原題は Japan's Quiet Leadership であり、2023年の出版です。ということで、大胆不敵にも日本をそれなりに評価し、英語の原タイトルは、いかにも日本が世界で知らないうちにリーダーシップを取っている実態を表しているようでもあり、ネトウヨなどによるやや的外れな「日本スゴイ論」を別にすれば、めずらしく日本を持ち上げている本です。5部構成となっており、グローバル化、経済、政治、地経学、地政学の5つの観点から日本を論じています。まず、グローバル化では、さすがに、日本の立遅れを指摘しています。ただ、日本が遅れているのは本書の視点からは主として移民の受入れですので、私はこの点は立ち遅れていても何ら不都合ない、というか、十分にOKだと受け止めています。移民受入れで測ったグローバル化で、日本が世界に先頭に立つ必要はまったくありません。第2部の経済は私の専門分野ですので、意図的に後でレビューすることにして、第3部の政治について、著者が日本を評価しているのは、ポピュリズムに流されないレジリエンスがある、という点です。ここは、私はビミョーだと受け止めています。すなわち、確かに日本では大陸欧州のいくつかの国のように、明確なポピュリスト政党が議会で議席を伸ばしたり、あるいは政権についたりすることにはなっていません。ただ、他方で、米国でもご同様にポピュリスト政党の伸長は見られないのですが、共和党という伝統的でGOPとも呼ばれる政党がトランプ前大統領というポピュリストに、いわば「乗っ取られた」形になっているのも事実です。安倍内閣が前の米国トランプ政権同じようにポピュリスト政権であったとは考えませんが、いくぶんなりともそういった色彩がある気がします。そして、それ以上に、私は議会にポピュリスト的な議員が議席を得ることは、それほど悪いことではないと考えています。少なくとも、ごく短期で民主党政権による政権交代があったとはいえ、自公連立政権がここまで長々と安定した政権維持をしているのが、その裏側でポピュリスト政党の進出を抑えている、とまで評価するのは過大な評価だと思います。第3部の政治から第2部の経済に戻って、本書ではアベノミクスを真っ当に評価していると私は受け止めています。今週国会が解散されてから、というか、その前からアベノミクスについてはさまざまな評価がなされています。いくつかのアイテムについて、何で見たのかは忘れましたが、いわゆるアベガーのように全否定で評価する向きもあります。例えば、アベノミクスの5つのアイテムのうちの4つ、すなわち、物価についてはリフレ政策、金融については緩和政策、為替については円安志向、消費税増税については慎重姿勢、といった経済政策運営については、本書と同じで、私は正しかったと考えています。5つのアイテムのうち残る1つの間違いはトリクルダウンです。ただ、成功の中でも、ひとつだけ留保するのは金融緩和であって、生産をはじめとする企業活動にはプラスであったことは確かなのですが、地価やひいては住宅価格の大きな上昇をまねいて、マイホームを念願する国民生活を圧迫しかねない点は考慮すべきであった可能性は残ります。大いにそう考えます。繰り返しになりますが、アベノミクスで大きな誤りであったのは、トリクルダウンの考えに基づいて、株価をはじめとする企業への過剰な対応をしてしまったことです。これまた繰り返しになりますが、トリクルダウンについてはまったく破綻しています。企業優遇以上に大きなアベノミクスの弱点であったのは分配の軽視です。ですから、経済的な格差が大きく拡大してしまいました。米国なんかでは富裕層がさらに所得を増加させることによる格差拡大でしたから、平均所得は上向きましたが、日本では非正規雇用の拡大などによる低所得層の所得が伸び悩むという形での格差拡大でしたので、平均所得は伸び悩んだり、減少すらしたりしました。菅内閣の後を継いだ岸田内閣では分配重視を打ち出したのですが、金融所得倍増なんぞに大きくスライスしてしまって、OBゾーンに落ちただけに終わりました。総合的に考えて、アベノミクスを評価する点で、本書は正しくも世界標準の経済学を理解していると私は受け止めています。最後の4部と5部はごく簡単に、第4部の地経学による分析では、特にアジア地域におけるインフラ重視の経済援助やTPP11やRCEPといっ地域貿易協定から日本のエコノミック・ステートクラフトを評価し、第5部の地政学的観点からは、国連決議に基づく平和維持活動への参加、日米豪印戦略対話(クアッド)や自由で開かれたインド太平洋(FOIP)などでの我が国のイニシアティブを評価しています。大学の図書館で借りて読んだのですが、研究と教育のために手元に置いておきたいので生協で買い求めました。

photo

次に、エミール・シンプソン『21世紀の戦争と政治』(みすず書房)を読みました。著者は、英国出身で現在は米国ハーバード大学の研究者ですが、本書が出版された2012年の時点では、英国の防衛奨学基金を得て英国陸軍に従軍してアフガニスタンで作戦行動中だったのではないか、と想像しています。ただ、軍事活動ですので、そこまで明記はしていません。本書の英語の原題は War from the Ground Up であり、繰り返しになりますが、2012年の出版です。ということで、戦争について深く考察したクラウゼヴィッツ『戦争論』を基にしつつ、いくつかの点で現代的な修正、というか、追加を加えています。なお、本書に序を寄せている軍事史の大家マイケル・ハワード卿は「クラウゼヴィッツ『戦争論』の終結部と呼ぶに相応しい」と激賞しています。なお、軍事行動としては、著者本人の実体験はアフガニスタンの英米軍の作戦行動から取っているようです。私は軍事作戦や軍事行動についてはまったくのシロートながら、一応、政治や戦略との観点から、クラウゼヴィッツ『戦争論』、リデル-ハート『戦略論』、マハン『海上権力史論』などの有名な戦略論はいくつか読んでいます。ですので、戦争とは別の手段を持ってする政治や外交の延長で考えるべき、というクラウゼヴィッツの『戦争論』に対しても限定的ながら一定の理解はもっています。そして、ナポレオン戦争を題材とするクラウゼヴィッツの『戦争論』に対して、本書が何を現代視点から修正・追加しているかというと、2点理解しました。第1に、戦争をナラティヴによる構成物と捉え、母国ないし作戦遂行地域の国民・住民からの支持を取り付けるか、あるいは、管制化に置くか、といった、軍人だけではない多くに人々を巻き込む総力戦について考えている点です。専制国家であれば、そういった観点は大きな要素とはならない可能性がありますが、民主主義体制の下における軍事行動・作戦行動は、本書では「コンテスト」という用語を用いて幅広いサポートが必要である点を強調しています。第2に、第2次世界大戦くらいまでの、古典的というか、近代的な戦争は相対立する国家間で宣戦布告をもって開始され、どちらか一方が降伏する形で集結します。しかし、現代の対テロ武力行使などはこういった類型には当てはまらず、非対称な形を取ります。宣戦布告はありませんし、2国、あるいは2極に集結した形の武力衝突ではなく、3者の間で戦闘が繰り広げられる場合もあります。まったく専門外の私でも、その萌芽的な3国による戦闘については、すでに第2次世界大戦からあったことは聞き及んでいます。それはフィンランドの立場です。領土拡張的な姿勢を示すソ連から攻められ、「敵の敵は味方」という論法にしたがって、ドイツからの支援を受けていましたが、決してファシズムやナチズムを支持しての観点からの戦争ではありません。現在では、特に本書ではアフガニスタンの民兵組織の例を引いて、敵と味方という2極に分類することができず、フランチャイズ的に戦闘に参加するグループがある点を明らかにしています。加えて、その昔の中国の旧満州にあった地方軍閥の中には、その地域に侵攻する勢力に対しては日本軍であれ、国民党軍であれ、共産党軍であれ、ともかく、すべての侵略者に対して敵対した地方軍閥もあった、と考えられます。まあ、私なんぞよりももっと専門知識のある人が読めば、さらに多くのポイントが含まれていえる可能性は否定しません。でも、私はクラウゼヴィッツの逆を考えて、本書の戦略論は戦争だけではなく、政治、特に国内政治にも十分当てはなるのではないか、と考えています。本書p.169では、「戦略とは本質的に、要望(desire)と実現可能なこと(possibility)のあいだで交わされる弁証法的関係」と指摘しています。はい。その通りだと思います。ですから、クラウゼヴィッツのように戦争とは政策に従属する一方的なものではなく、双方向なものである可能性も排除できない、という本書の主張はそのまま受け入れることが出来ます。

photo

次に、榎本博明『「指示通り」ができない人たち』(日経プレミアシリーズ)を読みました。著者は、MP人間科学研究所代表ということなのですが、私は人事コンサルタントではないか、と受け止めています。本書では、管理職の目線で部下の教育について考えています。その主要な観点は章構成通りに3つあって、認知能力、メタ認知能力、非認知能力、ということになります。ざっくりいって、認知能力とは学生でいえば学力のことです。社会人でいえば、認知を外した能力そのものと考えても大きく違いません。そして、メタ認知能力とは、その認知能力をどのようにしたら伸ばすことができるかを把握する能力です。最後に、非認知能力とは、認知能力、仕事の遂行能力以外の分野であり、社交性とか、落ち着いた温厚な態度とか、ていねいなしゃべり方とか、継続してやり抜く忍耐、とかとなります。私自身はキャリアの国家公務員から大学教員ですから、それなりに認知能力の高い同僚や部下に囲まれたお仕事となります。広く知られている通り、公務員試験というものがあり認知能力評価の観点も含んでいて、たぶん、あまりに低い認知能力、本書で例示されているような極度の認知能力不足の同僚や部下はいなかったのではないか、と思います。大学教授が頭いいというのは、まあ、当然かもしれません。したがって、本書の第1章で例示されているような、日本語を理解する、あるいは、国語的な読解力の不足、記憶力の欠如というのは、ホントに日本企業にいっぱいあるのだろうか、と疑問に感じています。確かに、分数の計算ができない大学生、%が判らない大学生というのはあり得ますが、それほど日本人の基礎学力は低くないと思います。ただ、確かに、メタ認知能力、すなわち、どうすれば認知能力を伸ばすことが出来るかを知っている人は少しくらいであればいるような気がします。そして、本書でも指摘しているように、能力の低い人ほど自分の能力を過大評価しがちであるというのは、いくつかの実証例もありますし、その通りだと思いますが、業務に支障が出るくらいに自分の能力について誤解している人はそれほど多くはないのではないか、と私は考えています。したがって、本書ほど極端に認知能力・メタ認知能力が低い同僚や部下というのは、ちょっと想像できません。非認知能力についてもご同様であり、草食系的な向上心のない部下はそれなりにいますし、若い世代の昇進意欲が年々低下しているのも、いくつかのアンケートなどから明らかになっています。私自身もそうだったかもしれません。ただ、そういった向上心の不足というのは、ご本人の問題もさることながら、日本経済社会全体として停滞に極みにある、という事実も併せて考える必要がありそうな気がします。他方で、本書が指摘するように、「甘え」が受け入れられないからすねたりする人がどれくらいいるのかは私は疑問です。ということで、私は本書で取り上げられている例はかなり極端であると私は受け止めています。おそらく、通常のオフィスや工場などでは見られないような極端な例が人事コンサルに持ち込まれ、その上で、人事コンサルに持ち込まれた極端な例の中からさらに極端な例を本書に収録している可能性があります。他方で、ここまで本書がベストセラーになって売れて注目されるのはやや謎です。私自身は、日本人はそれなりに勤勉であって、時間厳守や手先の器用さなどから、決して潜在的な生産性は低くない、と考えています。また、社会に出る前の段階でも、経済開発協力機構(OECD)の実施している「生徒の学習到達度調査 (PISA)」の結果などからして、初等中等教育段階での日本人の優秀性というのは実証されていると受け止めています。でも、本書で取り上げている例が事実としていっぱいあるのであれば、考えを改めないといけないかもしれません。

photo

次に、楊海英『中国を見破る』(PHP新書)を読みました。著者は、静岡大学の研究者なのですが、生まれは南モンゴルのオルドス高原であり、モンゴル名はオーノス・チョクト、日本名は大野旭というそうです。したがって、いわゆる漢民族ではなくモンゴル人ということで、中国に関して少し独特の見方を示しています。タイトル通りなわけです。最初と最後を別にして、本書は3部構成であり、いずれも中国の本質を見破る視点を提供しています。すなわち、第Ⅰ部が歴史を「書き換える」習近平政権、第Ⅱ部が「他民族弾圧」の歴史と現在、第Ⅲ部が「対外拡張」の歴史と現在、ということになります。まず、第Ⅰ部の歴史改変については、どこの国のどの政権でもやっているように思いますが、視点として興味深いのは「中国4000年の歴史」がいつの間にか「5000年」に書き換えられている、という指摘です。そうかもしれません。さらに、漢民族が成立したのは20世紀の清朝廃止後であると主張し、しかも、易姓革命を繰り返してきた中国の歴史はどうしようもなく、王朝を捏造するわけにもいかず、民族としての漢民族が継続されてきたのだ、という「民族の万世一系」の神話を作り出した、と主張しています。私には真偽のほどは確認できません。第Ⅱ部の他民族支配については、本書で指摘するように、もっとも重要なポイントは現時点での少数民族弾圧ではないでしょうか。著者はモンゴル系ですし、それなりの実体験も示されています。国際的にも、モンゴルの他に、ウイグル、チベット、南方のエスニック・グループ、台湾の高山族、などなど、本書以外でもアチコチで言及されている通りです。第Ⅲ部の対外拡張については、清朝が極めて例外的に日本に学ぼうと留学生を送り出したほかは、いわゆる朝貢制度を経済的あるいは貿易のシステムではなく政治的なものと解釈して、古い歴史を引っ張り出して領土拡張の根拠にしていると本書では主張しています。これもどこの国でもやっているように私は見ていますが、現実的に考えれば、日本とは尖閣諸島で領有権争いをしていますし、フィリピンやベトナムとも南シナ海で領土紛争があるわけで、決して現時点での軍事や外交とも無関係ではありえません。ただ、武力的な領土拡張だけではなく、経済的な借款をテコにした領土的野心も忘れるべきではありません。本書で抜けている視点として、スリランカのハンバントタ港がまるで「債務の罠」のように、中国に対して運営権を譲渡した事実などがあり、注目すべきではないか、と私は考えています。嫌中派には溜飲の下がる読書かもしれませんが、少し眉に唾して読んだ方がよさそうに私には見受けられました。

photo

次に、浅田次郎『母の待つ里』(新潮文庫)を読みました。著者は、日本でも有数の売れている小説家ではないかと思います。この作品を原作として、今夏、NHKでドラマ化がなされています。「母の待つ里」に行くのは3人いて、まず第1に、名の知れた大企業の社長で、独身のままで結婚もしていない松永徹、第2に、定年と同時に妻から離婚されながらも、のんきな生活を送っている室田精一、第3に、親を看取ったばかりのベテラン女医で、病院勤務に区切りをつけることを決意した古賀夏生、となります。どうでもいいことながら、私はドラマの方はまったく見ていないのですが、NHKのサイトによればドラマでは、松永徹を中井貴一が、室田精一を佐々木蔵之介が、そして、古賀夏生を松嶋菜々子が、それぞれ演じています。繰り返しになりますが、私はドラマの方は見ていませんので、ソチラは何ともいえませんが、原作となった小説の方は極めて不思議な印象でした。冒頭の松永徹のところで作者は早々にネタバレを明らかにしていますが、このレビューはいっさいネタバレなしで進めます。まず、東京の人にとってのふる里、というか、母の待つ里というのはこういったイメージなのだということが、関西人の私には十分理解できたとは思えません。すなわち、東京の人、しかも、この作品では社会的に成功しているか、少なくとも劣悪な状態ではない生活を東京で送っている人が考えるふる里、母の待つ里とは、雪深い東北の寒村にあって、今でも関西人には理解しにくい方言を使っている人が少なくないところ、ということなのだろうと思います。私は大学を卒業した後に東京で国家公務員の職を得て、出身地の関西、京都の片田舎に両親を残してふる里を離れ、定年退官した後になって再就職でふる里に舞い戻る、という半生でした。父親は東京で働いている間に亡くなり、母親は関西に戻ってから亡くなりました。それほど方言がきつくなく、雪も少なく、愛嬌のある関西弁をしゃべる人の多い土地柄です。ただ、他方で、子ども2人は、親と同じ意味で、置き去りにしました。すなわち、東京の大学を出た方は東京で就職していましたし、大阪の大学を出た方も大阪に住んで仕事をしています。東京に残した子は、社長になるかどうかは別にして、この小説に登場するような、ふる里観やイメージを持つのかもしれません。でも、ふる里は雪深い東北にあるのではなくて、関西であって欲しいとうのは私の勝手な願いです。大阪の子は、まあ、私の住まいと十分日帰り圏内ですので、年1-2回くらいは顔を合わせます。親を置き去りにしてふる里を離れて就職し、子どもを置き去りにして定年後にふる里に帰ってしまう、というわがままな私からして、とても不思議で少し理解が及ばない小説でした。時に、私は男親なもので、ふる里といえば母親かもしれませんが、「父の待つ里」はないんでしょうかね?

photo

次に、高野結史『奇岩館の殺人』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。第19回「このミステリーがすごい!」大賞・隠し玉として『臨床法医学者・真壁天 秘密基地の首吊り死体』で2021年にデビューしています。ということで、典型的なクローズド・サークルにおける連続殺人ミステリです。ミステリの舞台はカリブ海の孤島に建っている奇岩館です。タイトル通りなわけです。少し奇妙な形をしていて、カリブ海にあるにしては日本で考えるような洋館建てです。本書p.129に見取り図があります。ここに、主人公の1人である「佐藤」がアルバイトに応募して連れてこられます。単に、外国の豪邸で3日間過ごせば100万円というアルバイトなので、日雇い仕事をしているのに比べて条件が格段にいいのですが、なぜか、ミステリの素養を問う条件があったりします。本名は不明ながら、「佐藤」と名乗って、出しゃばったことはしない、という点も言い含められます。怪しげなアルバイトながら、行方不明になった徳永を探すという目的もあって応募します。そして、殺人事件が起こるわけです。出版社のサイトにあるのでネタバレではないと思うのですが、そのまま引用すると、「それは『探偵』役のために催された、実際に殺人が行われる推理ゲーム、『リアル・マーダー・ミステリー』だった。佐藤は自分が殺される前に『探偵』の正体を突き止め、ゲームを終わらせようと奔走するが……。」ということになります。ですから、最初っからミステリがメタ構造になっているわけです。しかも、この「リアル・マーダー・ミステリ」には組織した会社サイドの演者/役者が入っていて、その主たる現場の演者がもう1人の主人公のような役割を果たして、「佐藤」とともに交互の視点でストーリーが進められます。有名な、というか、国内で有名な古典的ミステリに見立てての殺人、それにクローズド・サークルでの密室などの条件が加わり、なかなか大がかりなミステリに仕上がっています。でも、殺人事件の謎、また、会社が組織したリアル・マーダーの謎ともに、それほど複雑で凝ったものではありません。すなわち、読み進むうちに少しずつ真実が明らかになっていくタイプのミステリであり、その意味で、私の好きなタイプのミステリです。ですので、途中まで読んで、どのように終わらせるのかも段々と理解が進みますし、最後の最後のオチについても、まあ、そうなんだろうな、という納得感があります。主人公の「佐藤」は、決して、極めて反社会的な殺人ゲームを組織する悪辣非道な会社に挑む正義のスーパーマンではありませんし、殺人ゲームを組織した会社サイドからの視点を提供する人物も、繰り返しになりますが、決して悪辣非道な人非人ではなく、勝手気ままな上司やまったく協力的ではない協力者に苦しめられるサラリーマンだったりもします。ゲームとして殺人が行われるという非人道性は十分大きいとしても、また、ラストも「佐藤」が会社の手に落ちるものの、決してバッドエンドではありません。まあ、要するにエンタメ小説なわけです。その意味で、悪辣非道なゲームを描き出しているにしては、まあ、少しくらいは親しみを持った読書ができるかもしれません。最後に、私の読解力不足かもしれませんが、表紙画像がどの場面に対応しているのか、私には理解できません。

| | コメント (0)

2024年10月 5日 (土)

今週の読書は市場経済史に関する経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って本日の6冊をカウントして244冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間250冊は明らかに超えて300冊に達するペースかもしれません。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、M.W.クレイヴン『キュレーターの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)も読んで、すでにFacebookなどでシェアしていますが、もう2年余り前の出版ですので新刊書とは見なしがたく、本日のレビューに入れていません。『キュレーターの殺人』の続編である同じ作者同じシリーズである『グレイラットの殺人』も手元にあって続けて読む予定ですが、コチラはまだ出版から1年ですのでレビューしたいと思います。

photo

まず、B. ファン・バヴェル『市場経済の世界史』(名古屋大学出版会)を読みました。著者は、オランダのユトレヒト大学の研究者です。オックスフォード大学出版会から出ている英語の原題は The Invisible Hand? であり、2016年の出版です。原書と邦訳の両方の出版社から考えると、かなり専門性高い学術書と考えるべきですが、経済学プロパーというよりも歴史学との学際分野である経済史ですので、それほど一般向けにもハードルは高くないと私は見ています。ということで、まず、単に市場経済と聞くと製品市場のことかと受け取れられがちですが、本書の邦訳タイトルの市場経済は要素市場を対象にしています。すなわち、労働と資本、あるいは、資本のもとになる資金、はたまた、土地です。狭い意味での資金提供だけではなく、貸付なんかも含みます。どうして、生産物市場ではなく、生産要素市場に着目するかといえば、取引が継続的だからです。生産物市場では、1回限りの取引=交換で終わる場合も少なくありませんが、労働を考えれば典型的であって、継続的に何年間もの契約を交わして労働を提供する場合が多いのは明らかです。ですので、ムチャな、というか、詐欺的なものも含めて、不公正な取引が生産物市場に比べて少なく、かなり長期に渡る歴史的な分析にふさわしいと考えられます。本書では、この要素市場について、3つの時代と地域を分析対象としています。すなわち、中世初期の帝国における市場、500~1500年のイラク、中世都市国家における市場、1000~1500年の中部及び北イタリア、そして、中世後期から近代初期の公国群における市場、1100~1800年の低地諸国です。これらに加えて、エピローグとして正真正銘の近代、すなわち、1500~2000年のイングランド、アメリカ合衆国、西ヨーロッパにおける市場も最後に概観されています。中国や日本はメインでは取り上げられていません。それぞれの経済発展を後付けつつ、生産要素市場の成立ないし発達を分析し、生産要素市場を起源とする不平等についても分析しています。それぞれの時代や地域の具体的な分析は読んでいただくしかありませんが、結論においては、「サイクル」なる用語を用いて、歴史的な発展段階を説明しようと試みています。このサイクルは、例えば、p.250の図6-2などでは、横軸に年代、縦軸に1人当たりGDPをとったカーテシアン座標で逆U字カーブを描く可能性を指摘しています。本書では何ら言及ありませんが、極めてクズネッツ的な逆U字カーブであり、経済発展の歴史的段階において、たぶん、不平等により経済発展が阻害される可能性を示唆しています。これは、21世紀の現代の経済に対して極めて示唆に富んでいます。要するに、注目すべきは生産要素市場が発達したところで、あるいは、生産物市場も同様かもしれませんが、自動的にそのまま経済発展が続くわけではない、ということです。グラノベッター的にいって、経済学がモデルとしているような自由で十分な情報のある市場というものは、現実には存在せず、社会関係や規則が存在して市場においても権力格差が作用している、という結論です。

photo

次に、大谷俊雄『霞が関官僚の英語格闘記 「エイゴは、辛いよ。」』(東洋経済)を読みました。著者は、財務省OBであり、財務省勤務時はいわゆる国際派として米国コロンビア大学に留学したり、アジア開発銀行(ADB)や国際通貨基金(IMF)・世界銀行などのご勤務の経験があるようです。タイトルは「エイゴは、辛いよ。」となっていて、もちろん、英語で苦労されたエピソードもいっぱいありますが、まあ、基本は自慢話です。ただ、留学や国際機関勤務などでの勤務は、多くの一般的なビジネスマンにはそれほど経験されない場合が多いと思いますので、そういった経験談はそれなりに参考になるかもしれません。ただし、著者がタイトル通りに霞が関官僚ですので、ビジネス的な経験は含まれていません。すなわち、私も公務員でしたので決定的に経験がないのですが、ビジネス上の商談やその結果としての契約については、本書にも含まれていません。逆に、国際会議における発言や司会進行などは一般的なビジネスマンにはそれほど関係深くないかもしれません。まあ、ダボス会議に出席するトップクラスのビジネスマンだけのような気がします。また、コラムで英語表現を数多く取り上げていて、繰り返しになりますが、国際会議なんて関係ないビジネスマンも少なくないこととは思いますが、読み物として楽しむことはできるのではないでしょうか。何度か、私も主張しているのですが、この先の日本経済を考えて、必要な人材分野はもちろん介護を担う人材なども重要である一方で、大学が一定の役割を担うべき分野の高スキルの人材としては、データサイエンス人材、グローバル人材、デジタル人材、グリーン人材が日本にはもっと必要ではないかと私は考えています。大学レベルでは、おそらく、データサイエンス人材のための教育がもっとも進んでいるように私は受け止めています。アチコチにデータサイエンスを標榜した大学の学部や学科ができているように見受けます。他方で、DXを担うデジタル人材と環境分野で活躍が期待されるグリーン人材については、やや工学的な分野ではなかろうかと受け止めており、私の所属する経済学部ではグローバル分野で活躍するための教育が必要とされるような気がします。その意味で、本書を読んでみた次第です。ただ、60歳の定年まで東京の役所で働いていた実感として、少なくともグローバル人材は東京では決して不足しているような気はしませんでした。十分いるように感じていました。ただ、東京、あるいは、首都圏を離れると、関西圏でもグローバル人材がそれほど十分でないことが実感されます。実は、私の勤務校ですらそうです。海外における留学や勤務経験のある教員はそれほど多くありません。東京の大学とは大きな差があります。逆に、海外留学や海外勤務経験のある教員は重宝されているように感じます。たとえ、海外に留学や勤務しなくても、外国人観光客によるインバウンドを考えれば、もっといえば、日本国内から一歩も出なくても、本書で力説しているような語学力とか、それなりのグローバルなスキルは必要です。そのためにも、実体験に基づくこういった本も有益ではないか、という気がします。

photo

次に、株式会社闇[編]『ジャンル特化型ホラーの扉』(河出書房新社)を読みました。編者は、ホラー×テクノロジー「ホラテク」で、新しい恐怖体験をつくりだすホラーカンパニー、と紹介されています。私は不勉強にして知りませんでした。8ジャンルのホラーが収録されている短編集であり、帯に「14歳の世渡り術」と記されており、本文中には言及ないものの、私は中高生向けのホラー小説集と聞き及んでいます。出版社のサイトで「14歳の世渡り術」で検索すると、大量の図書がヒットします。一応、「児童書」というジャンルに指定されています。ですので、本書も小学校や中学校を舞台にするホラーが多く収録されています。そして、各短編の最後には、そのホラー短編がカテゴライズされたジャンルの解説などが収録されています。収録されている短編のあらすじは順に、澤村伊智「みてるよ」(心霊ホラー)は、たぶん、小学校が舞台です。ランドセルを背負った背の高い男の子が教室などをドアの隙間から覗いているのを主人公は目撃します。この男の子は「あすかわくん」らしく、学校で変質者に殺されたらしいです。そして、どうも、覗かれている人は何らかの不調、というか、明確におかしくなってしまうようです。続いて、芦花公園「終わった町」(オカルトホラー)は、より大規模に主人公が住む町全体が、皐巫女の風習の伝説に基づいて狂気に襲われます。主人公だけが正気を保つのですが、ある意味で、人々が次々とゾンビ化していく町のようです。続いて、平山夢明「さよならブンブン」(モンスターホラー)は、いじめを受けている主人公が自殺を試みようとした廃墟でモンスターキャットのブンブンと出会います。どうも、ブンブンは主人公をいじめていた同級生などを処罰しているようです。この作品がプロットといい、ラストの終わり方といい、本書の中では文句なく最高の出来だと思います。続いて、雨穴「告発者」(サスペンスホラー)は、主人公は友人とコンビで動画作成を始めるのですが、10年前のある日、友人は動画作成後に自殺し、その問題動画の冒頭部分が10年後の今になって拡散され始めています。10年後に20代になって、元動画をポストしたサイトのパスワードを忘れた主人公は、実家に帰って古いパソコンで元動画を削除しようと試みます。続いて、五味弘文「とざし念仏」(シチュエーションホラー)は、学校の文化祭でお化け屋敷をクラスでやることになり、転向してきたばかりの主人公はひょんなことからドラム缶に閉じ込められてしまいます。でも、ペアになったクラスメートが助けてくれません。続いて、瀬名秀明「11分間」(SFホラー)は、主人公のクラスの朝礼に担任の先生に代わってAIがやって来ます。そして、「自由」についての話を始め、人間の持つ「思いやり」をなくさなければ、ホントの「自由」は手に入らない、などと言い出します。タイトルの11分間はAIが世界を支配する時間であり、要するに、AIはわずかに11分間で世界支配に失敗してしまいます。世界がAI支配からどのように脱するのかは読んでみてのお楽しみです。続いて、田中俊行「学校の怖い話」(モキュメンタリ―ホラー)は、いかにも学校にありそうな短いショート・ショートの怪談、呪いの鏡とか、主人公と母親だけが覚えていて、ほかのクラスメートの記憶から消えている死んだ女子とか、をいくつか集めています。とても伝統的、というか昭和的な怪談だろうと思います。最後に、梨「民法第961条」(モキュメンタリ―ホラー)は、文芸部に所属していた主人公の高校時代の朝読会の思い出の体裁を取っています。タイトルに取られている民法961条では遺言に関する規定があり、手紙の写真などのビジュアルな恐怖も同時に収録されています。

photo

次に、吉弘憲介『検証 大阪維新の会』(ちくま新書)を読みました。著者は、桃山学院大学の研究者であり、ご専門は財政学、地方財政学だそうです。ですので、ご専門の観点から地域政党である大阪維新の会について、どういったグループに手厚く、また支持されていて、逆に、どういったグループに対して冷たい政策を持って臨んで、また、支持されていないか、について検証しています。一応、当然のお断りですが、本書で対象としている大阪維新の会は大阪のローカル政党であり、他方、日本維新の会は全国政党です。もちろん、政策的には密接にリンクしている、というか、ほぼほぼ同じと考えていいのでしょうが、例えば、住民投票で2度に渡って否定された「大阪都構想」なんて政策は大阪維新の会だけで、日本維新の会はそういった地域ローカルの政策は地域ごとになくもないのかもしれませんが、「大阪都構想」のような大阪以外のローカル政策は、私は不勉強にしてよく知りません。ということで、本書の冒頭の2章で政党としての特徴とか、主要な政策を概観した後、第3章からが本書の眼目である検証を始めます。その際、財政学・地方財政学の独特の見方なのかもしれませんが、公務員や役所の外郭団体、あるいは、教育組織や住民組織などの中間団体を通じた従来型の財政リソースの分配ではなく、大阪維新の会はこういった中間組織を経由せずに住民に直接財政リソースを頭割りで分配するという形を志向していると指摘し、それを「財政ポピュリズム」と呼んでいます。マクロエコノミストとして私はこの点には大きな異論があります。すなわち、従来の中間組織として本書がスポッと忘れているのが建設会社や土木会社であり、いわゆる「土建国家」タイプの財政リソースの分配だったと思います。それに対して、教育バウチャーとか、あるいは、何らかの社会保障による住民への直接の財政リソースの分配については、むしろ「福祉国家」としてあるべき姿のひとつではないか、と私は考えているからです。いずれにせよ、クラウドソーシングによるアンケートの結果を駆使しつつ、政党としての支持の構造を明らかにし、特に、大阪維新の会は大阪「土着」の支持層から支持されているだけではなく、生活保護や貧困世帯児童支援に対する見方を除けば、全国の一般的な傾向から統計的に有意に乖離するものではない、と結論しています。ほかにもいろんな定量的な分析がなされていて、それはお読みいただくしかありません。最後に、本書は「財政ポピュリズム」という用語に示唆されているように、大阪維新の会の政策、あるいは、政策運営を批判的に見ているように感じましたが、私はまったく別の観点から大阪維新の会については批判的な見方をしています。少なくとも、来年の万博についてはマネジメントが破綻しているように見えますし、万博の先にあるIR=カジノ構想については特に強く反対します。

photo

次に、佐高信・西谷文和『お笑い維新劇場』(平凡社新書)を読みました。著者2人は、評論家とジャーナリストです。タイトルから明らかなように、また、表紙画像からもうかがえる通り、ほぼほぼ、たぶん大阪維新の会と日本維新の会の両方を対象にした維新の会に対する強い批判を加えた著者2人の対談を収録しています。すなわち、冒頭が維新不祥事ワースト10で始まり、終章もそれに加えて維新不祥事ワースト10の追加で締めくくっています。広く報じられている通り、兵庫県で100条委員会を設置して調査が行われている齋藤元彦知事(失職)も維新の会の推薦を受けて当選していて、本書のスコープには時間的に入らなかったようですが、あるいは、冒頭か終章のワースト10に入れるべきとの意見も無視できない気がします。著者2人の主張は維新に批判的、というか、反対の立場を鮮明にしていて、詳細はお読みいただくしかありませんが、私の方で気になったのが、維新を報じるメディアの問題についての著者2人の見方です。要するに、維新に気兼ねしてメディアが報じない不祥事た不都合がいっぱいある、と著者2人は主張しています。私が現在の与党政権に関する見方とかなり共通する部分がありますので、取り上げておきたいと思います。まず、維新の会の不透明な政治資金、文書交通費を自分に対して寄付しているという領収書について、記事として取り上げたのが『日刊ゲンダイ』と『赤旗』だけと主張しています。事実関係は私には確認しようがありませんが、あり得ることだと受け止めています。メディアが権力や権力に近いグループの主張について、また、国民の間で議論が分かれている論点について、メディアとして都合の悪いものと見なし選別して報道しない姿勢は長らく続いています。日本の民主主義が大きな危機に陥っているひとつの要因がメディアの姿勢にあることは明らかです。その裏側で権力者がやりたい放題になっているわけです。最近、報道ではサッパリなNHKがドラマで不平等を取り上げた「虎に翼」がありましたが、この朝ドラがヒットしたひとつの要因は不平等の蔓延だと私は受け止めています。繰り返しになりますが、権力者は何をやってもやりたい放題なわけです。権力者とは政治権力だけではなく、もっと広い意味で上位者と考えるべきで、上位者が下位者に対してやりたい放題で下位者は抵抗するすべがなくなりつつある、というのが日本の現状に近いと私は考えています。私はいろんな職場でほぼほぼ常に主流派のポジションになく、非主流派か反主流派とみなされていたと考えているのですが、かつての長期政権を保った内閣で一時期「お友だち内閣」というのがありました。インナーサークルに所属するお友達は特段の主張なくても、上位者の忖度により希望が通る一方で、私のような非主流派の下位者はギャーギャーいわないと要望が実現されません。反主流派に属する下位者はギャーギャーいっても希望が通らないかもしれません。おそらく、国政トップの内閣から始まって、私のような一般国民が働く職場まで、こういった上位者の圧倒的な権力が平等とか公平の観点を大きく外れる形で下位者にのしかかってきており、多くの下位者は抵抗するすべがない、と私は考えています。革命はいうまでもなく、政権交代すら望むべくもない可能性が高くなっています。その典型的な専制的上位者の醜い行動をさらしているのが、全部ではないとしても維新所属の政治家であることを本書は主張しています。そして、そういった行動をメディアはスルーしているわけです。なお、維新政治家による専制的上位者の行動に対する抵抗に成功したのは、一部のれいわ新選組の国会議員さんくらいしか私は知りません。大石晃子代議士などです。そういった高いレベルではないとしても、私は職場における上位者の「圧政」に対する抵抗に失敗している「そのた大勢」の1人ではなかろうかと思います。でも、抵抗すらしていない人が決して少なくないので、私は抵抗を続けたいと思います。

photo

次に、石田祥『猫を処方いたします 3』(PHP文芸文庫)を読みました。著者は、小説家です。タイトルに「3」とあるように、シリーズ第3巻です。もちろん、私は第1巻と第2巻も読んでいます。シリーズ第3巻の本書は4話構成となっています。「中京こころのびょういん」を舞台に、ニケ先生と看護師の千歳のコンビが少し心を病んだ患者に本物の猫を処方するストーリーです。京都のど真ん中が舞台ですので、ある意味では「京都本」ともいえますし、実際に、第1巻は第11回京都本大賞を受賞しています。1話から3話は、フツーに患者が猫を処方されるのですが、最後の第4話は舞台となっている「中京こころのびょういん」ができる、あるいは、発生する前日譚を含んでいます。ということで、各章のあらすじは、第1話では、雑貨を扱っている会社の経理担当の30前の女子社員が新製品に関する企画について、社長も出席する重要なプレゼンを控えたタイミングで訪れます。表紙画像の右側の猫を思わせるシャム猫が処方されます。第2話では、父親としての育児のまっ最中で、会社の飲み会に出席するのも気が引けている営業マンが、猫を処方されるのではなく、中京こころのびょういんで「猫を習う」という実技、というか、療法を受けます。第3話は、似顔絵をメインに請ける30歳のイラストレーターが前途に迷いを生じて訪れ、ラグドール種のプロの猫を処方されます。本来であれば、指名料が必要なくらいのプロの猫だそうです。第4話は、中京こころのびょういんが現在入っているビルの5階の同じ部屋にあった猫のブリーダーにアルバイトに来た10代の女性の視点から、ブリーダーの破綻の様子を描写しています。とても切ないストーリーです。そして、ほぼ全話に登場するのが中京こころのびょういんと同じビルの同じフロアに入っている日本健康第一安全協会、そうです、アノ怪しげな健康器具である磁気ネックレスを売っている会社の椎名彬です。当然ながら、なかなか真実に近づいてはいませんが、そのうちに何らかの悶着があって、このシリーズは終わるんだろうという気がします。謎めいた中京こころのびょういんですが、今少しシリーズが続くとしても、私の予想では10巻には至らないのではないか、という気がします。5巻かもう少しの数巻で完結するようなペースでストーリーが進んでいるように見受けます。でも、次が楽しみです。

| | コメント (0)

2024年9月28日 (土)

今週の読書は専門書のほか新書や小説も含めて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って先週までに計22冊をポストし、合わせて232冊、本日の6冊も入れて238冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達するペースかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、瀬尾まいこ『図書館の神様』(ちくま文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしています。新刊書読書ではないと考えられるため、本日の読書感想文には含めていません。

photo

まず、ジューディア・パール & ダナ・マッケンジー『因果推論の科学』(文藝春秋)を読みました。著者は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者であり、コンピュータ科学者、哲学者、それと、科学ライターと紹介されています。英語の原題は The Book of Why であり、2018年の出版です。巻末に東大の松尾豊教授が解説を寄せています。本書では、因果推論に関して、当然といえば当然ながら、確率論的なアプローチを取っています。そして、因果推論については3段階を考え、p.52にあるように、第1段階では見る能力、観察に基づく関連付け、第2段階では行動する能力に基づく介入、そして、第3段階では想像する能力に基づく反実仮想を想定してます。ただ、本書は参考文献や索引を含めれば600ページを超えるボリュームながら、第1段階で軽く300ページを超えますから、導入部に主眼をおいているのではないかと私は感じています。ですので、そもそも「因果」とは何かについても、それなりに哲学的な考察を加えているのですが、私のようなエコノミストにとって重要性の高い時系列的な考えは紹介されていません。すなわち、因果関係の重要なひとつの要素として、原因が時間的に先行して、結果は後に来る、というのがあります。ですので、私なんかはエコノミストとして原因と結果がスパイラルのように入れ替わる可能性を認めます。典型的には、現在の岸田内閣が提唱したような好循環の経済です。単純化すれば、景気がよくなって物価が上がってデフレを脱却し、さらにマイルドなインフレが景気を刺激し...という経済循環が上げられます。すなわち、因果関係はそれほど単純ではなく、ある事象Aが別の事象Bの原因であるが、時間の経過とともに、逆に、BがAの原因となる局面に変化することも考えられます。そういった時系列的な流れの点には本書の視点は向けられていません。私はこの方面は詳しくないのかもしれませんが、ひょっとしたら、こういった循環的、というか、インタラクティブな双方向の因果関係を考えるのはエコノミストだけなのかもしれません。ただ、本書で優れているのは因果関係を確率的に考える点とAIまで視野に入れている点です。第2のAIについては、私も一知半解で十分に理解したかは自信がありませんので、読んでいただくしかありませんが、確率的に因果関係を捉えるというのはしばしば忘れられている点ですので強調しておきたいと思います。もちろん、確率を不要とするような決定論的な因果関係も世の中にはいっぱいあります。例えば、セックスと妊娠は統計的にはほぼほぼ無相関ですが、決定論的にセックスが妊娠の原因であることは、多くの日本人は認識していることと思います。そして、本書では明言していないものの、統計とは確率の別表現である点も重要です。ただし、統計的な確率は決定論的な確率に漸近的に収束するだけです。サイコロを考えれば、極めて多数回の試行により、それぞれの目の出る確率は⅙に近づきますが、どこまで行っても⅙にはならない可能性が高いことは十分理解できると思ます。最後に、第10章においてAIとの関係で、そう詳しくもない私も考えさせられる点がありました。すなわち、意図的であるかどうかの問いです。英語なら intentional だと思うのですが、意図的に何らかの結果をもたらすべく行動する、あるいは、行動をやめておく、というのと、意図的でなく結果がもたらされる関係との差異をどう考えるか、について重要な問いを本書では発しています。エコノミストは、というか、私は意図的であるかどうかに重要性を見出すことはしません。よくない例かもしれませんが、意図的な殺人であれ、偶発的な事故であれ、人が死ぬという結果をもたらした原因に重きを置くことなく、非常に物神的で良くないと受け止める人がいるかもしれませんが、労働力として、あるいは、消費者として1人が欠けた、という受止めです。たぶん、経済学はこれに近い考えをしますが、法律では意図的な殺人か、偶発的な事故かは大きな違いがあります。この意図的と偶発的の違いが強調されるのであれば、社会科学の分野として経済学よりも法学の方がAI研究に向いている可能性があったりするんでしょうか。現時点では、私には何ともいえません。

photo

次に、法月綸太郎ほか『推理の時間です』(講談社)を読みました。著者の1人の法月綸太郎は、本書のスーパーバイザーを務めており、京大ミス研出身の新本格派のミステリ作家です。収録されているのは短編が6話であり、2話ずつが whodunnit と whydunnit と howdunnit、すなわち、犯人が誰であるかを推理するミステリ、動機を推理するミステリ、そして、犯行方法を推理するミステリにカテゴライズされています。収録順に、法月綸太郎「被疑者死亡により」と方丈貴恵「封谷館の殺人」が whodunnit の犯人の推理、我孫子武丸「幼すぎる目撃者」と田中啓文「ペリーの墓」が whydunnit の動機の推理、北山猛邦「竜殺しの勲章」と伊吹亜門「波戸崎大尉の誉れ」が howdunnit の犯行方法の推理、となっています。加えて、読者への挑戦状があり、問題編と解答編が分かれていたりもします。しかもその上に、スーパーバイザーの法月綸太郎を中心に、作者が別の作者の作品の謎解きにも挑戦しています。とてもよく当たっている結果もあれば、まるで的外れなのもあります。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。ミステリですので、アッサリとあらすじを紹介します。法月綸太郎「被疑者死亡により」は、交換殺人の疑いをかけられた男が法月に依頼に来るところから物語がはじまります。交換殺人のもう1人の容疑者が料理人であるにもかかわらず、家に食べ物がいっさいなかった理由が秀逸です。方丈貴恵「封谷館の殺人」は、タイトル通りに密室の館ものです。館の主人が殺害され、使用人に扮していた泥棒が、ふりかかる疑いを避けるべく犯人について、体重からの推理を繰り広げます。我孫子武丸「幼すぎる目撃者」は、フツーに幸福そうな一家で、妊娠中の妻が夫を刃物でメッタ突きにして殺害します。その妻の犯行の理由を推理します。本書の中ではもっともレベルの高い出来だと思います。田中啓文「ペリーの墓」は、江戸末期の黒船来航のタイミングで不審な死体が見つかり、なぜ彼が殺されなければならなかったかを推理します。黒船のペリーとペルリの違いに着目です。北山猛邦「竜殺しの勲章」は、第2次世界大戦中のフィンランドで、当時のソ連と戦っているフィンランドがソ連の敵であるナチス・ドイツから支援されて送られた大型砲の輸送中に、ナチス将校を殺害する方法を推理します。伊吹亜門「波戸崎大尉の誉れ」は、これも大戦中の中国満州で軍需物資の横流しの噂が流れ、ジャーナリストの軍属が査察に来たところ、重傷を負ったはずの内部告発者が姿を消します。もっとも疑いの強い人物が犯人なのですが、犯行方法を推理します。本書でもっともレベルが低いと私は感じました。ある意味で、whodunnit の犯人推理がミステリの王道といえる一方で、逆に、whydunnit の動機の推理のプロットは難しいんだろうと感じます。その中で、我孫子武丸「幼すぎる目撃者」はアッと驚く超意外な犯行動機でした。いずれにせよ、続編が出ないかと期待しています。大いに期待しています。

photo

次に、満薗勇『消費者と日本経済の歴史』(中公新書)を読みました。著者は、北海道大学の研究者であり、ご専門は日本近現代史です。ですから、エコノミストではなく、本書のタイトルはあくまで消費者となっていて、マクロ経済の消費ではありません。大衆消費社会とか、歴史的な視点で消費者を捉えようとしています。戦後日本の闇市から始まって、高度成長期のテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器、1970年代石油ショックのころの狂乱物価とトイレットペーパーなどの買いだめ行動、1980年代後半バブル経済期のブランド志向に反し、バブル経済崩壊後、さらに、デフレ期に至るファストファッションなどの安価な商品への志向の高まり、などなどを歴史的に把握しようと試みています。また、同時に、最近時点で注目されている推し活やカスハラなども消費や消費者のひとつの側面を映し出しているような気がします。ということで、本書でスポットを当てている点はいくつかあるのですが、私が注目するのは、ダイエー・松下戦争、堤清二とセゾングループのビジョン、セブンイレブンなどのコンビニの衝撃、お客様相談室の誕生などです。まず、ダイエーは「主婦の店」と称してスーパーの1業態として発足しましたが、安売りをひとつの目玉に掲げ、逆の供給サイドからすれば価格決定力の喪失につながることから、長らくダイエーと松下、現在のパナソニックが反目する状態が続いていました。でも、時代は消費者が「王様」から「神様」になるところであり、水道理論に基づいてコストから小売価格を算定するメーカーではなく、消費者にとってのバリューから価格を小売店で設定する方向に変化しつつある象徴であった、と本書では解説しています。ただ、本書でも指摘しているように、顧客満足度を追う企業は、ある意味で、ジレンマに直面します。すなわち、ある時点での満足度が次の時点の期待度を高めてしまい、消費者の期待がどんどんと高まってしまう、という現象に直面します。そして、このころから消費者ではなく、客とか顧客という表現を企業は用い始めます。消費者相談室からお客様相談室への衣替えです。そして、客からの商品・サービスに関する評価やクレームを基に商品開発を進める、という姿も出始めます。最後に、現在の消費者は、カスハラといったネガな部分もありますが、応援消費や推し活も盛んですし、さらに進んでSDGsとの関係からもエシカル消費も伸びていると本書でも指摘し、そういったさまざまな消費の方向性を論じています。私の感想は2点あります。まず、消費者相談室からは、画期的なイノベーションは生まれない可能性が高い点です。フォードの言葉ではありませんが、「顧客の要望は、もっと早く走れる馬がほしい」というこであって、自動車というイノベーションは消費者の評価やクレームからは生まれないような気がします。その点で、供給サイドでは企業が主たるプレイヤーになるべきである、というのが私の見方です。もう1点は、トフラーのいった「プロシューマー」をどう考えるか、です。トフラー的な「プロシューマー」ではありませんが、メルカリなどでC2Cビジネスが拡大していることは明らかで、企業から消費者への商品やサービスの流れだけではなく、消費者が自ら商品やサービスを生産して別の消費者に提供する、という流れをどう考えるべきか、私はまだ定見を持ち合わせませんが、興味ある展開ではなかろうかと考えています。

photo

次に、濱口桂一郎『賃金とは何か』(朝日新書)を読みました。著者は、労働省(旧)のご出身で、労働政策研究・研修機構(JILPT)の労働政策研究所の所長です。エコノミストではありませんから、タイトルに引かれて読んだ本書でも、経済学的な賃金についてはほとんど何も解明されていません。すなわち、本書は3部構成となっていて、第Ⅰ部が賃金の決め方、第Ⅱ部が賃金の上げ方、第Ⅲ部が賃金の支え方、となっています。その上、第Ⅰ部がボリューム的に過半のページ数を割かれており、日本の賃金の決め方の歴史が延々と展開されています。経済学的な決まり方ではありません。その意味で、歴史の勉強にはなりますが、戦後日本の労働慣行の大きな特徴である長期雇用と年功賃金が経済学的には補完関係にある点などは、誠に残念ながら、それほど詳しく言及されているわけではありません。エコノミストの目から見て、本書のタイトルの問いに答えるとすれば、賃金のもっとも重要な本質のひとつは要素所得である、ということになります。もう少していねいに表現すれば、経済活動あるいは生産活動が行われ付加価値が得られた後に、その付加価値が経済活動あるいは生産活動に参加した生産要素の間に分配されるうちの労働の取り分、ということになります。もう一方の取り分は資本に配分されます。なお、マルクス『資本論』第3巻最終章のように3大階級を論じるとすれば、労働と資本のほかに土地を提供するグループ、あるいは、マルクス的に階級への分配もあり得ます。ですから、賃金を上げようと思えば、極めて単純には2つの方法があり、付加価値を高めるか、付加価値の配分を労働に有利にするか、ということになります。後者の観点からは階級闘争が発生しても不思議ではない、ということになるかもしれません。ただ、私はそのあたりは詳しくありません。1点だけ付け加えておくと、生産活動に参加する労働を増やして付加価値のうちの労働の取り分を増やそうとしても賃金は上がりません。労働投入を増やせば、付加価値のうちの労働への分配は増加すると考えるべきですが、1人当たり、あるいは労働時間当たりの賃金は増えません。ですから、賃金上昇の目的をもって付加価値を高めるためには、資本の取り分を増やさずに資本を多く用いて生産するか、労働生産性を高める必要があります。経営サイドは後者を主張することは広く知られた通りです。もうひとつの方法は労働の取り分を増加させることです。付加価値の分割は分配率と呼ばれます。労働分配率と資本分配率なわけです。そして、1990年代からかなり長期に渡って労働分配率が低下していうことは経済学の大きな謎とされています。その昔、カルドアの定型化された事実 Kaldor's stylized facts のいの一番では「労働分配率と資本分配率が長期間でほぼ一定」というのがあったのですが、完全に崩れています。いくつかの統計で企業の利益剰余金が積み上がっている一方で、賃金がまったく上がっていない、日本の賃金は韓国にも抜かれて先進国の中で最低レベル、というのはエコノミストの間で広く確認されていところです。でも、階級闘争が激化したり、ましてや革命に至ったりすることは目先まったく予想されず、政権交代すら見込めないのは私には大きな謎です。

photo

次に、まさきとしか『あなたが殺したのは誰』(小学館文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、警視庁のやや変わり者の三ツ矢秀平刑事と戸塚警察署の田所岳斗刑事のコンビによるシリーズ第3弾です。一応、前2作の『あの日、君は何をした』と『彼女が最後に見たものは』については、私はどちらも読んでいます。2時点2地点の異なるストーリーが交互に進みます。ひとつは1993年バブル経済崩壊後の北海道鐘尻島を舞台とする過去パート、もうひとつは2020年代の東京を舞台とする現在パートです。さらに、本書は3部構成であり、第1部「彼を殺したのは誰」、第2部「彼女を殺したのは誰」、第3部「あなたが殺したのは誰」となっています。事件としては、現在パートでマンションの部屋で頭から血を流している永澤美衣紗が発見され、死亡が確認されます。しかし、部屋にいたはずの生後10か月の乳児である永澤しずくが見当たりません。部屋には「私は人殺しです。五十嵐善男」と書かれてた紙が落ちていたのですが、署名の五十嵐善男は2か月前に起きた強盗殺人事件の被害者でした。この殺人事件・誘拐事件を東京の三ツ矢と田所のコンビで捜査に当たります。他方、バブル経済崩壊後の北海道の離島では、小寺忠信とその父親が経営する島唯一の料亭である帰楽亭が別館を建設し始めたころに、「リンリン村」と呼ばれる巨大リゾート開発が頓挫し、料亭経営が苦境に陥ります。また、本土から移住してきてビストロときわを経営する常盤恭司の妻である常盤由香里は、娘の小学4年生の常盤結唯を札幌の英語塾に通わせたりして、島からの脱出を企図しています。そんな中、帰楽亭の別館建設を請け負っていた建設会社経営の殿川宏が小寺忠信を刺殺します。その後、殺された小寺忠信の妻である小寺則子と常盤恭司が行方不明になりますが、連絡船の船長である熊見勇吉の目撃により駆け落ちしたのではないか、札幌に住んでいるのではないか、といった噂が流れます。小寺忠信と小寺則子の倅である高校生の小寺陽介は帰楽亭を継ぐことを諦めます。ということで、ミステリですのであらすじはこれくらいにしますが、要するに、三ツ矢と田所のコンビが解き明かすべき謎は永澤美衣紗を殺害した犯人、そして、連動して永澤しずくの捜索となります。なお、蛇足ながら、五十嵐善男が被害者となった強盗殺人事件も同時に解明されます。シリーズ3作を読んで、ハッキリいって、最初の『あの日、君は何をした』がもっとも意外な結末だったと私は感じたのですが、ミステリとしての完成度や謎解きのクリアさからいって、本作品がもっともレベルが高いと私は感じました。ただ、第3部「あなたが殺したのは誰」の最後の最後、殺された永澤美衣紗が何者だったのかという点については、まあ、異論あるかもしれません。最後の最後のさらに最後の付足しで、三ツ矢の上司である切越係長の引きによって田所が警視庁本庁に異動するようですので、このシリーズはさらに続くものと予想されます。私は楽しみです。

photo

次に、南綾子『婚活1000本ノック』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家なのでしょう。本書を原作にしてフジテレビで福田麻貴主演のドラマになっています。冒頭第1話でのp.11に「わたしの身に実際に起こったできごとであり、登場するすべての人物・団体はマジで実在する」とあり、まるで、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になったダン・ブラウンのラングドン教授シリーズのような書出しとなっています。主人公は作者と同じ南綾子であり、30歳を少し越した独身、エロ小説も引き受ける売れない小説家という設定です。ドラマの方は見ていないので何ともいえませんが、本書は連作短編集のような形で6話から成っています。もちろん、タイトル通りにすべて主人公である南綾子の婚活の記録です。ちなみに、ドラマの方は10回の放送だったと聞き及んでいますが詳細は不明です。6話の構成は、第1話で主人公について回る幽霊の山田クソ男が登場し、この幽霊とコンビで、というか、オススメで婚活を行うことになります。ビジュアルは表紙画像の上の方に現れる男だと思います。続いて、第2話が青山のマンションで開かれたお料理合コン、第3話が新宿で開かれたお見合いパーティー、第4話が親戚の叔母が持ち込んだ伝統的なお見合い、第5話がマッチングサイトの利用、第6話が地方の嫁取り系のイベントへの参加、となります。私が感銘を受けた名言はp.78にある「婚活とは、巨大なゴミ箱の中に落としたコンタクトレンズを手探りで探すようなものだと常々思う。」というのがあります。まったく、その通りです。私は結婚が遅い方で、30代も後半に差しかかったタイミングでした。すべてバブル経済が悪いわけです。すなわち、私はもう60歳で公務員の定年を過ぎ、65歳の大学教員の定年も過ぎて60代後半に差しかかっているのですが、1985年から1990年くらいのバブル経済の期間はまさにアラサーのころであり、今はもはや死語となっている「結婚適齢期」だったのですが、あの狂騒狂乱の時代に結婚する必要をまったく感じませんでした。他方で、お相手となる候補者たちも、京大経済学部を卒業していながら公務員をやっているなんて、アノ時代に目端の利かない人物である、という評価でした。というか、そうだったんだろうと思います。したがって、結婚もせずに独身のまま、在外の大使館に赴任して、経済アタッシェとして楽しく海外生活を送った後、1990年代半ばに帰国すると、バブル経済はすっかり崩壊し、就職は超氷河期に入っていて、公務員試験は難関となっていました。エコノミストとしてあり得ないと理解はしつつも、あのままバブル経済が続いていたら、私も婚活に力を入れる必要が大いにあったかもしれません。

| | コメント (2)

2024年9月21日 (土)

今週の読書は経済書のほか小説なしで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って先週先々週と計16冊をポストし、合わせて226冊、本日の6冊も入れて232冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、瀬尾まいこ『温室デイズ』(角川文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしています。新刊書読書ではないと考えられるため、本日の読書感想文には含めていません。

photo

まず、森永卓郎『投資依存症』(フォレスト出版)を読みました。著者は、テレビなどでもご活躍のエコノミストです。余命宣告されてから精力的な出版を続けています。同じ出版社から、『ザイム真理教』、『書いてはいけない』、『がん闘病日記』、そして本書と立て続けに刊行しています。私はタイトルから判断して『がん闘病日記』だけはパスしましたが、ほかは読んでいますし、シリーズ、かどうかは別にして、本書も同じ出版社から刊行されています。本書では、タイトル通りに、投資という行為について考え、ゼロサムに終わりかねない投資はギャンブルと同じであり、しかも、現時点で日本経済は株式資産市場などがバブルの状態にあることなどから、けっしてオススメ出来ない、と結論しています。まず、投資に関して、お金が自動的に増えることはないと指摘しています。その通りです。ただし、この指摘は金融資産に対する投資について当てはまるわけではありますが、実物資産に対する投資については生産過程における付加価値があれば増えるような気がします。もちろん、第2章では、完全市場においては超過利潤が生まれないことから、利潤ゼロであれば株式の理論値はゼロになる、という点を指摘して、やや完全市場に関する前提がキツい気はしますが、株式と実物資産のいずれも投資にはリターンがない、という理論を展開しています。加えて、現実に歴史的に見て株価は上がっているという点に関しては、日経平均に採用されている会社の株は上がっているかもしれないが、そうでない株の方が多い、さらに、投資信託なんかでは手数料が決して少額ではない、などと主張しています。私は理論的にはツッコミどころが多いのは認めますが、少なくとも米国や欧州と違って、日本では金融資産への投資がギャンブルと同じであることについては概ね同意します。決して、金融教育を普及させても、この点だけは変わりません。本書ではインサイダー取引については何ら言及がありませんが、日本の株式市場が欧米と同じようにダーティーである可能性は否定できないと考えています。要するに、一般投資家や国民の多くではなく、ごく一部の富裕層の投資家が有利になる資産運用となっている可能性については否定できません。銀行の定期預金の金利などを見ても、大口預金に有利な設定がなされています。おそらく、一般国民に政府が投資を奨励している背景には、証券会社あるいは投資銀行の相場捜査だけでなく、フィービジネスの実態に対する無理解があるような気がしてなりません。小口の一般国民が投資でババを引かされる確率は、大口投資家とかなり統計的に有意な差があるのではないか、と私は想像しています。その意味で、本書の指摘はかなり正確です。でも、ギャンブルと同じで、節度ある態度で参加していてお金をスるのも楽しい、という面はあります。ただ、ギャンブルと同じで、本書のタイトル通りに、依存症になる可能性も無視できません。

photo

次に、ジャック・アタリ『教育の超・人類史』(大和書房)を読みました。著者は、フランスのミッテラン大統領の顧問を務めたりした欧州一流の知識人といえます。本書では、経済学ではない私の現在のフィールドともいえる教育について、タイトル通りに、ホモ・サピエンス登場のころからの歴史的な動向を探った後、現在を突き抜けて未来の許育について考察を巡らせています。教育については、まあ、その歴史はひょっとしたら別の教育史のテキストがあり得ると思いますし、それなりに信頼できる書物ではあっても、著者が一流の専門家であるとも私は見なしていませんので、ここでのレビューは教育の将来の方向、すなわちお、本書第7章を中心に見ておきたいと思います。もちろん、現時点での教育の到達点は、まだまだ不十分とはいえ、いろんな社会経済的な格差を背景にしつつも、一定の義務教育が実施された先進国では、本書では「読み書き算盤」と表現していますが、いわゆる読み書き計算が実用的に国民に広く普及しています。初等中等教育は所得や性別の差なしに広く普及し、大学を中心とする高等教育についても半数ないし半数を超える男女が進学するに至っています。本書では、「教育」という言葉を知識や情報の後世への伝達という意味で使っていますので、その意味で、いわゆる初等中等教育という基礎的な知識や情報の後世への伝達は、それなりに順調であろうと私は考えるのですが、著者からすれば、まだまだ不十分、という部分もあるのだろうと思います。問題は、この先生リアの更衣った教育という名の知識や情報の後世への伝達です。本書では3つのシナリオを提示しています。そして、驚くべきことに、3つのシナリオのうち2つまでが知識の伝達制度が崩壊ないし弱体化する可能性を示唆しています。本書で名付けたシナリオの3つの方向をタイトルだけお示しすると、無知による蛮行、人工物による蛮行、ホモ・ハイパーサピエンスと超集合知、となります。詳細は本書を読んでいただくしかありませんが、大学において教育に携わる教員として、私なりの教育論をお示ししておきたいと思います。まず、初等中等教育までは必要なレベルへの到達が求められます。いわゆる読み書き計算の現時点までのそれなりのプラスアルファが加わるわけです。そして、私の携わる高等教育ではそういった初等中等教育のレベルアップとともに、全員ではないものの、突出した能力の開発というものも場合によっては必要とされます。大学が教育機関として特殊なのは、よくいわれるように研究を行っているからです。研究成果はイノベーションとして生産過程に取り込まれて生産力の向上に結実するわけです。他方で、研究成果は初等中等、そして高等教育のコンテンツにもなります。この点がやや特殊なところです。そして、もうひとつ教育が、高等教育だけでなくすべての教育が特殊な点は、行政的に見てとてつもなくスピルオーバーが大きい、すなわち、個人の利得と社会的な利得に差がある点です。個人として読み書き計算ができる利得=ゲインよりも、すべてではないとしても圧倒的大多数の国民が読み書き計算をできるというのは、集合的に考えて国家としての利得が個人の利得の合計をはるかに上回る、と考えるべきです。他方で、予算措置なしの何らかの教育的な措置が可能に見える点も考慮せねばなりません。例えば、道路を通したり、橋を架けたりするのは、当然に大規模な光司が必要で、予算措置なくして道路や橋は出来ません。しかし、教育については「理数科教育を充実させる」というのは、それほどの予算措置なくして教員の負担で出来てしまうように見えます。このギャップが大きいため、個人はもとより、政府でも教育にかける財政リソースをケチる可能性が高くなります。現在の日本でも教育が崩壊しかけていることは報道などでも確認できるのではないでしょうか。

photo

次に、山我浩『原爆裁判』(毎日ワンズ)を読みました。著者は、編集者、ライターです。本書は、話題のNHK朝ドラ「トラに翼」の参考文献といえます。ドラマの主人公のモデルとなった三淵嘉子について、その生涯を跡づけるとともに、同時に、原爆使用についても米国での開発から歴史をひも解いています。この裁判の判決については、極めて短いダイジェストながらドラマでも放映されました。米国による原爆投下は国際法違反と断じ、原告らの救済に対して司法権の限界を示して、行政と立法の、そして、政治の貧困を指摘した画期的な判決でした。しかし、本書で指摘していることは、まず、驚くべきことに、この歴史的な裁判の記録が判決文を除いてあらかた処分されていることです。例の神戸地裁の酒鬼薔薇事件の裁判記録が処分されていたことが発覚し、裁判所が謝罪したのは広く報じられて記憶に新しいところですが、ドラマの主人公のモデルとなった三淵嘉子が参加した裁判の記録も判決文以外はほぼほぼすべて処分されていると、本書では指摘しています。歴史的にも極めて貴重な資料ですし、何らかの意図を感じる国民も少なくないものと私は想像しています。ほか、ドラマを楽しむ上で、個人的な人となりについても本書では詳しく取り上げています。ただ、ドラマの前半部分のハイライトとなった主人公の父親の疑獄事件への関与については、本書では一切言及がありません。また、最高裁長官のご子息との結婚は事実のようですし、何よりも本書のタイトルであり、後半のハイライトのひとつとなった原爆裁判については、本書でも、右陪審として弁論の最初から最後まで参加した、裁判長も左陪審も途中で交代する中で、三淵判事だけは最初から最後まで参加していたと、何度も繰り返し強調されています。ただ、原爆の開発、あるいは、三淵判事の生い立ちなんかに割かれたページ数の方が多くて、本書のタイトルである原爆裁判に関しては、それほどのボリュームは割かれていません。裁判記録が残っていないのも一因でしょうし、私の下衆の勘繰りながら、まあ、読者の関心は原爆裁判というよりも、ドラマ主人公のモデルとなった人物の方にあるんではないか、という推測が透けて見えます。はい、その通りです。私も巻末に添付されている原爆裁判の判決文を読みましたが、ドラマで大幅にダイジェストされていた部分で十分と感じました。NHK朝ドラ「トラに翼」にご興味ある向きには、とてもいい参考文献といえます。

photo

次に、原田昌博『ナチズム前夜』(集英社新書)を読みました。著者は、鳴門教育大学の研究者であり、ご専門はドイツ現代史だそうです。はい、実に的確な専攻分野だと思います。ということで、2022年暮れにテレビ番組で飛び出した表現に「新しい戦前」というのがあり、その翌2023年には内田樹と白井聡の対談による対談書も出版されています。そして、本書で焦点を当てているナチズム前夜のワイマール共和国は、第1次大戦後のドイツのとても理想的で高度に民主主義的な政治体制であり、私なんぞの専門外の人間からすれば、民主主義が一瞬で崩壊したように見えます。その時代を概観するのが本書となるわけです。私が少し驚いたのは、当時の1920年代のワイマール共和国においては政治的な暴力が日常茶飯事となっていた点です。本書では、まず、左派の共産党と右派のナチスなどが中道の社会民主党が主流をなしている国家、あるいは警察に対して暴力的行為に及んだ後、左派と右派の間の、すなわち、共産党とナチスの間の暴力に変質した、と主張しています。私はホンワカとナチスが一方的に国家・警察や共産党を攻撃していたのではないか、と想像していたのですが、おそらく、当時のコミンテルンの方針もあって、共産党がかなり暴力的な手段に訴えていた時期なのだろうと受止めています。ただ、本書ではコミンテルンについてはまったく言及ありません。ナチスがイタリアのファシスト党から受けた影響はいくつか言及されていますが、コミンテルンに言及ない点は少し疑問です。当時の各国共産党なんてコミンテルンのいいなりだったのではないかと私は想像しています。もちろん、そういった暴力は日本の過激派学生のゲバ棒なんて生易しいものではなく、拳銃での撃ち合いということらしいです。現在の日本の治安状況からは、これまた、想像ができかねます。もはや、銃で撃ち合う、特に政府権力や警察を対象にして拳銃で撃ち合うというのは、内戦状態に近い印象すらあります。そういった拳銃を使った暴力が頻発し日常化する中で、選挙によりナチスが比較第1党となり、ヒンデンブルク大統領に直接的な恫喝までした上で、ヒトラーが首相に任命され、いわゆる「授権法」を国会で議決して、ワイマール共和国の民主主義は一気に崩壊し、ナチスの、というか、ヒトラーの独裁体制が成立するわけです。詳細は、新書ながら400ページ近いボリュームとはいえ、本書を読んでいただくしかありませんが、コミンテルンとドイツ共産党の関係はすでに疑問を明らかにしていますので、それ以外に私なりに3点ほど本書に関して指摘しておきたいと思います。第1に、私はエコノミストですし、ワイマール共和国といえば、民主主義の崩壊に先立って経済が崩壊してハイパー・インフレーションに陥ったという歴史的事実は高校などでも習いますから、経済と政治的暴力とのインタラクティブな関係はもう少し掘り下げて分析してほしい気がします。単に、暴力だけを表面的にクロニクルに追うだけでなく、他の諸条件、特に経済との関係を考えたいと思います。第2に、ユダヤ人との関係です。ユダヤ人は本書で指摘されているようなワイマール共和国の暴力とどのような関係にあったのでしょうか。ナチスはユダヤ人に暴力的に接したのは容易に理解できるとしても、共産党はユダヤ人に暴力をふるったのかどうかは気にかかるところです。第3に最後に、これは疑問ではなく逆に評価する点ですが、ナチスないしナチズムを「国民社会主義」と邦訳しています。通常一般的には、「国家社会主義」と邦訳される場合が多いような気がしているのですが、私は「国民社会主義」だと理解しています。この点についても何の言及もありませんが、私は正しい用語を使っていると考えています。

photo

次に、倉山満『自民党はなぜここまで壊れたのか』(PHP新書)を読みました。著者は、憲政史研究家、また、肩書としては救国シンクタンク理事長兼所長ということになっています。本書でも、過去の刊行本についての言及がいっぱいあるのですが、私はこの著者は初読だと思います。ということで、本書では、タイトルとはほとんど何の関係もなく、日本の政治状況について記述しています。ですので、タイトルになっている問いに対しては、本書を読んでも回答は得られません。まあ、そういう本もいっぱいあります。本書は3部構成であり、これだけは知っておきたい政治改革挫折の歴史、あなたが日本の政治に絶望する10の理由、「ひれ伏して詫びよ」というのがそれぞれのタイトルです。まず、私も実感しているところですが、いくら何回総選挙をしても、日本では一向に政権交代が起こりそうにありません。歴史的事実として、2009年9月の総選挙で政権交代があったのは事実ですが、わずかに衆議院議員1期3年余りで2012年年末の総選挙で再度の政権交代があったのも事実です。ですから、本書で指摘する通り、派閥解消や政治改革などは自民党の長らくのお家芸であって、過去、何度となく繰り返されたものの、一向に実効が上がっていません。本書では、派閥解消を口にするたびに党内の派閥は強固になっていった、と指摘しています。はい、その通りだという気がします。加えて、政治資金に関する腐敗は目に余るものがあり、自民党内における自浄作用はまったく見られません。まあ、派閥解消なんて1回だけ本腰で実行すれば、それで終了なのですが、何度も派閥解消が実行されているわけで、その昔の笑い話に「趣味は禁煙」とか、「毎年1度は禁煙をしている」というのとそう大してレベルは変わりません。私の友人は、現在の政治状況であれば、フランスなら市街戦が起こっても誰も驚かない、という人がいますが、日本では何ら政権交代を期待する声すら上がりません。たぶん、現在の自民党の総裁選挙で国民の多くが騙されてしま、この先1年間で必ずある総選挙でも政権交代にはつながらないのだろうと私は予想しています。要するに、日本人は黙々と耐えるだけなわけです。少し頭を使えば、自民党は国会における最大会派であって、政権の座にあるわけですから、総裁選挙に立候補している候補者の主張は、現時点でも十分に実現可能なわけなのですが、それを総裁に就任しなければ実現できないかのごとく主張しているのも謎です。本書では、第2部で日本の政治に絶望する理由を10項目上げています。具体的には読んでいただくしかないのですが、私の大きな疑問として、多くの日本人は現在の政治に絶望しているのではなく、ひょっとしたら、大いに満足しているのではないか、という点です。私も66年余り日本人をやっていますが、実に不思議です。最後に、私なりに本書のタイトルの問いに答えるとすれば、アベノミクスが成功したのが一因、すべてではあり得ませんが、安倍政権が経済政策を成功させて国民の強い支持を受けたのがひとつの要因ではなかろうか、と考えています。

photo

次に、清水克彦『2025年大学入試改革』(平凡社新書)を読みました。著者は、政治・教育ジャーナリストです。本書は、まあ、有り体にいえば、大学入試を控えた高校生やその親に対するアドバイスが主たるコンテンツなのですが、私のような大学教員にもかなり参考になります。すなわち、一応、私は大学の教員ですし、それも私大ですので国公立大学よりも入試のバラエティが富んでいると一般的には考えられます。大学院入試は別として、高校からの普通の一般入試のほか、推薦入試、学士入学の入試、AO入試、そして、たぶん、私のような一般教員は関わらなさそうですが、総合型選抜入試なんてのもあります。国公立大学と私大の大きな入学方式の差は付属校です。私が京都大学の入試を経験した50年近く前は一般入試の一発勝負だったのですが、いくつかの入試の選択肢があり、その分、入学してくる新入生にも多様化が進んでいる、というのは決して悪いことではありません。ただ、大学での勉学にふさわしい学力を身に着けている点は必須であることもいうまでもありません。現時点で、私の勤務校では付属校からの入学や何やがあって、一般入試で入学する学生は40%ほどではないかといわれています。本書では、さすがに私学トップ校である早慶は55-56%が一般入試と推定しています。そして、一般入試による学生が通常は付属校からのいわゆる持上がりの学生よりも学力的に優位であると考えられていますが、本書でも、私の実感でも、必ずしもそうではありません。例えば、私の勤務校ではありませんが、慶應義塾大学なんかでは、むしろ塾高からの入学者、ただし、幼稚舎とかではなく塾高から慶應義塾のコースに入った学生がもっとも優秀で、いわゆる「金時計」の人たちである、と慶應義塾卒業生から実しやかに聞いた記憶もあります。ホントかどうかは私には確認のしようがありません。本書では難関校を目指す際に総合型選抜入試を候補に考えるのを推奨しています。私はこの入試方式に詳しくないのですが、ボランティア活動なんかを評価し、一般入試のような一発勝負ではなく高校3年間をトータルで評価する方式ですから、別の意味で負担は小さくないと思います。でも、学力だけではなく生活面も含めて、こういった入試によく適合するご家庭はありそうな気がします。最後に、本書では取り上げられていませんが、私の勤務校はそれなりの規模で歴史もありますので、スポーツなどを基にした推薦入試制度もあります。甲子園球児を野球部に迎える、といったものであり、スポーツに限らず文化活動に基づく水栓もあります。例えば、私の勤務校のある滋賀県は競技かるたの伝統があり、高校選手権が近江勧学館で開催されたりします。まさに、『成瀬は天下を取りにいく』の世界です。ですから、競技かるた、囲碁・将棋、書道が絵画などの芸術面で秀でた高校生などに開かれた制度です。

| | コメント (2)

2024年9月14日 (土)

今週の読書は経済書からホラー小説まで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って計20冊をポストし、合わせて180冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

photo

まず、北村周平『民主主義の経済学』(日経BP)を読みました。著者は、大阪大学感染症総合教育研究拠点特任准教授ということらしいのですが、学位の方はストックホルム大学国際経済研究所で経済学のPh.D.を取得していますので、まあ、エコノミストと考えてよさそうです。本書では、新しいタイプの政治経済学を取り上げていて、それが民主主義を分析しています。本書が解き明かそうと試みている民主主義のうちの決定についてはとてもわかりやすく上手に解説しています。数式がかなり多くて、数式を見ただけでアレルギーを起こしかねない読者には不向きかもしれませんが、ちゃんと読めば数式もそれほど難解なものではありません。政治の決定プロセスを経済学的手法を用いて分析しようとしていますので、経済学に関心ある向きにも、政治や民主主義、あるいは、広く市民運動などに関心ある向きのも、どちらにも安心しておすすめできる良書です。ということで、私なんかの狭い了見では、政治経済学といえばかなりの確度でマルクス主義経済学に軸足のある経済学であり、特に、国際政治経済学となればほぼほぼマルクス主義経済学確定、というカンジなのですが、本書はそうではなく主流派経済学の分析手法により民主主義を考えようと試みています。ですので、民主主義における決定の基本となる選挙を考える際に根幹となるのは、どうしても、ダウンズの「中位投票者定理」になります。政策についても、本書では登場しませんが、ホテリングのアイスクリーム・ベンダー問題のような解決策と考えて差し支えありません。すなわち、ここでは単純に左翼と右翼という表現を用いるとすれば、選挙では真ん中あたりの中道に位置する中位投票者がキャスティングボードを握る、ということです。左翼と右翼でなくても、プランAに強く賛成のグループと強く反対のグループを考えても同じです。明確に賛成と反対のどちらかが賛同者大きいとすればともかく、賛成でも反対でもどちらでも大きな利害関係内容なグループの動向が決定権を持ちかねないわけです。これに加えて、本書でが因果推論の成果を取り入れて、因果関係から政策評価を試みる方法を解説しています。それ自体はありきたりですが、ランダム化比較実験(RCT)、回帰不連続デザイン(RDD)、操作変数法(IV)、差の差法(DID)です。ほぼほぼ完全に経済学の手法といえます。というか、私はそう考えています。本書では、こういった経済学の考えや手法を基本にして民主主義の決定について分析しています。ただ、注意すべきは、決定過程であって、議論の展開と関係ない最終的な投票行動の分析が中心になります。ですので、ディベートで相手の議論を否定したり、といった点は本書には含まれていません。もうひとつ、私が重要と考えているのは民主主義と経済の関係です。すなわち、前世紀末から今世紀初頭に中国のWTO加盟を議論した際、中国を世界貿易に取り込むことから中国は経済的に豊かになることが軽く予想され、この前段は達成されたといえます。そして、後段では経済が豊かになると権威主義から民主主義的な要素がより受け入れられやすくなる、という予想がありました。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックによる撹乱があったとはいえ、現在の習体制は民主主義からむしろ遠ざかっているようにすら見えます。民主主義と経済の関係については、同じ中国語圏でもシンガポールや台湾については経済発展とともに民主化が進んでいるように見えますが、メインランド中国ではそうなっていません。ロシアも権威主義的傾向を強めている印象がありますし、南米のいくつかの国でも民主主義が後退している可能性があると私は受け止めています。日本では、明らかに経済の停滞とともに民主主義が後退しています。安倍内閣のころから権力者は法の支配の外に置かれて、何をやっても問答無用であり、虚偽発言を繰り返しても国民がそのうちに忘却する、という流れが続いています。直近では兵庫県知事がそうです。こういった民主主義と経済の関係は、基本的に無相関であると考えるべきなのか、本書では正面から議論していませんし、私にしても理解が進みません。

photo

次に、南彰『絶望からの新聞論』(地平社)を読みました。著者は、朝日新聞政治部ご出身のジャーナリストであり、現在は朝日新聞を退職して沖縄の琉球新報の記者です。ということで、1年半ほど前の昨年2023年2月に鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)を読んでレビューしていますが、基本的に同じようなラインのノンフィクションです。まず、印象的だったのが、朝日新聞経営陣の腰の引けた報道・編集方針です。政権に楯突く反対論に対して、ネットでの炎上を警戒して極度に慎重姿勢を取り、政権や権力に対して融和的な編集方針を本書では強く批判しています。まさに、メディアのサイドでの「忖度」といえます。さらに進んで、朝日新聞だけでなく、というか、むしろ、朝日新聞は国内メディアの中でも政権との緊張感高い方のメディアだと私は考えるのですが、その朝日新聞だけではなく国内メディアの政権や権力者との距離感についても強い疑問を呈しています。本書タイトルにある「絶望」は私を含めて多くの日本人も共有しているのではないかと思います。この「絶望」は朝日新聞だけではなく、メディアにとどまることだけでもなく、すべての日本人に関係する「絶望」なのだと思います。私自身は、ミレニアムの2000年紀が明けてからの日本は、少なくとも、民主主義や政治という面で確実に劣化していると考えています。大きな原因は経済の停滞です。経済が停滞する中で経営者サイドから労働者や組合に対する支配の強まりが始まり、それが民主主義を劣化させて政治の迷走を生み出していると思います。もちろん、政治家リーダーとして総理大臣を経験した小泉・安倍といった政権担当者の名を上げることも出来ますが、そういった総理や権力者が独走して日本を劣化させたのではないと私は考えています。経済的な停滞にもかかわらず、利潤追求という経済学的な合理性に基づく行動を取る中で、労働組合組織率に端的に現れるように雇用者サイドの力量が弱まり、同時に、政治のサイドでも雇用者に振りで経営者に有利な派遣労働に関する制度的な変更がなされたこともあって、雇用者が過酷な労働条件を行け入れざるを得なくなり、一定割合の雇用者が正社員のステータスを失って非正規に移行してしまったことから、民主主義を支えるための時間的な余裕がなくなり、もちろん、心理的な圧迫感とともに民主主義の劣化につながったのが基本的なラインであると私は考えています。加えて、議会における反対党勢力も劣化しています。一度は政権交代に成功しながら、誤った、あるいは、不十分な政策対応で総選挙1回という短期間で政権を手放しただけでなく、野党政権に対する極めて不面目な印象を国民に植え付けてしまいました。メディアの劣化については本書で詳しく展開されています。現在の政権与党では政治改革がホントにできるかは不透明ですし、少なくとも経済政策を国民目線で策定する能力はほとんどなく、大企業に有利な方向でしか経済政策は運営されないおそれが高いと私は危惧しています。本書は、日本の国としての劣化をメディアのサイドから追っているオススメの本だといえます。

photo

次に、丸山正樹『夫よ、死んでくれないか』(双葉社)を読みました。著者は、小説家です。ミステリが得意分野なのかもしれません。30代半ばの女性3人、主人公の甲本麻矢、大学時代の友人の加賀美璃子と榊友里香が主要な登場人物です、まず、甲本麻矢は大手の不動産会社勤務、結婚後5年を経過して寝室を別にしたセックスレスで夫婦の間は冷え切っています。加賀美璃子はフリーランスの編集者・ライターで、離婚を経験したバツイチです。榊友里香は結婚7年目の専業主婦で、3人の中で唯一の子持ちで娘がいます。亭主の榊哲也を「ガーベ」=garbageと呼んでいます。まあ、いろいろとあるのですが、榊友里香が亭主のガーベを突き飛ばして亭主の榊哲也が「逆行性健忘」という記憶障害になってしまいます。榊友里香は甲本麻矢と加賀美璃子を呼び出して、亭主の榊哲也を殺害しようと試みますが、結局、決行には至りません。他方、榊哲也は最近10年ほどの記憶を失っただけではなく、人格的にも穏やかな好人物になるのですが、記憶障害が回復する可能性はあると医師から告げられます。そして、主人公の甲本麻矢の方でも事件が起こります。夫の甲本光博が失踪してしまうのです。香水の香りなどから不倫している女性の存在が疑われます。甲本麻矢の勤務先には失踪の事実を伏せていたのですが、職場の後輩の鳥居香奈から雰囲気が少し変わったのではないか、と指摘を受けてしまいます。鳥居香奈はバリキャリの甲本麻矢に憧れていて、仕事でも目標にされています。他方、失踪中の甲本光博から甲本麻矢にメールが送られてきて、何と、甲本光博と加賀美璃子のツーショットの写真が添付されていました。しかし、甲本麻矢が加賀美璃子に確認して、不倫ではないと判断します。そこで、甲本麻矢は亭主の失踪の原因を探るためにパソコンのパスワードのロックを解除して起動したところ、甲本麻矢の亭主の甲本光博と榊哲也のつながりが浮かび上がります。そうこうしているうちに、榊哲也が逆行性健忘から回復し、すべてを思い出して、殺害の決行は思いとどまったものの、救急への連絡をひどく遅らせた点などから、甲本麻矢と加賀美璃子に慰謝料を請求しようとします。そのころ、甲本麻矢は業界トップ企業にヘッドハンティングの誘いがあり、榊哲也にまつわるスキャンダラスな出来事を考慮して断ります。で、最後の最後に、こういった一連の出来事の謎が解き明かされます。ということで、あくまで一般論ながら、本書のように夫に死んでほしいと考えている妻がいっぱいいる一方で、逆に、妻に死んで欲しいと願っている夫もかなりいるんではないか、という気がしています。

photo

次に、マイク・モラスキー『ピアノトリオ』(岩波新書)を読みました。著者は、米国のセントルイス生れで、今年2024年3月まで早大の研究者をしていて、現在は名誉教授です。同じ出版社から、昨年2023年に『ジャズピアノ』上下巻を上梓し、第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。ご当地には県立図書館で所蔵していて、私も興味分野だけに読もうかと考えないでもなかったのですが、諦めた記憶があります。ということで、ややお手軽な新書版で本書を読んでみました。第1章の導入部分のピアノトリオの聞き方から始まって、やっぱり、第2章からがメインとなり、モダンジャズ初期の名演から最近時点までの演奏が網羅的に取り上げられています。ただ、本書でも明記しているように、あくまでピアノトリオですので、ソロやカルテットより大きなコンボでの演奏が主となっているピアニストは入っていません。例えば、セロニアス・モンクとか、ハービー。ハンコックです。私も50年をさかのぼる中学生や高校生のころからモダンジャズを聞きはじめ、いかにも日本人的に最初はコルトレーンから入りました。しかし、いつのころからか、コルトレーンを聞くには前日から十分な睡眠を取って体調を整え、気合十分の体制でないと聞けなくなってきて、今ではピアノトリオ中心に聞くようになっています。私自身の音楽の聞き方としては、リラックスや癒やしではなく、緊張感を高めて仕事やスポーツなんかに臨む、というカンジで聞いています。知り合いとお話していて、そういう音楽の聞き方はレアケースではないか、と指摘され、確かに、以前はそういう聞き方をするのは軍歌ぐらいと思わないでもなかったのですが、テニスプレーヤーの錦織圭がヌジャベスの音楽を試合前に聞いているとインタビューで答えたりしています。試合に対する集中力を高めるというよりは、心穏やかに落ち着くためのようですが、緊張感を高める音楽の聞き方があってもいいと私は考えています。コルトレーンはまさにそういうアルバムを多く残しています。ピアノトリオのモダンジャズも、決してBGMとして流すだけではなく、いろんな聞き方ができるという点を本書でも強調しています。第1章では、ユニゾン奏法、ブロックコード、ロックハンド奏法などのピアノテクニックにも言及しています。誠に残念ながら、日本人ピアニストは小曽根真や上原ひろみに言及ありますが、演奏は取り上げられていません。後、モダンジャズですので、どうしても米国中心になるのは理解できますが、欧州のジャズももう少し取り上げて欲しかった気もします。エンリコ・ピエラヌンツィなんて、いい演奏をいっぱい残しています。最後に、ピアノではありませんが、先週の9月7日にテナーサックス奏者のソニー・ロリンズが誕生日を迎えています。1930年生だそうです。本書でも言及されていますが、ジャズプレーヤーには薬物使用や荒れた生活で早世する人が少なくなく、自動車事故でなくなる人もずいぶんといます。そういった中で、90歳を大きく超えているのは少しびっくりです。

photo

次に、スティーヴン・キング『死者は嘘をつかない』(文春文庫)を読みました。著者は、私なんぞがいうまでもなく世界のホラー小説の大御所です。本書は、作家活動を開始してから50周年を祈念した第3弾となります。文庫オリジナル長編だそうです。なお、第1弾が『異能機関』上下、第2弾が『ビリー・サマーズ』、そして、本書に続く第4弾の日本独自中篇集『コロラド・キッド 他2篇』も今月9月に入って刊行されています。まあ、私はキングをコンプリートに読むほどのファンではありませんから、暑い時期の怪談話というわけではないものの、適当につまみ食いして読んでいるわけです。なお、英語版の原題は Later であり、2021年の出版です。ということで、ニューヨーク、ないしその近郊を舞台とし、本書の主人公のジェイミー・コンクリンが22歳の時点で、9歳ころからの自分を振り返るというホラー小説です。語り手のジェイミー自身が何度も、これはホラーストーリーであると繰り返しています。そして、ジェイミーには死んだ人が見えて、会話を交わせたりするわけです。ジェイミーの家族はシングルマザーの母親であるティア・コンクリンだけであり、ティアの兄でありジェイミーの叔父であるハリーが若年性認知症を発症して、ティア・コンクリンが文芸エージェントの仕事を引き継いでいます。ティアの同性のパートナーはニューヨーク市警の刑事であるリズ・ダットンです。主人公のジェイミーは死者が見えて、会話が交わせますので、大人の事情によりその「能力」が利用されてしまったりします。すなわち、隣室の老夫婦の奥さんが亡くなった折に、亡くなったミセス・バーケットの指輪のありかを聞き出したりするまではよかったのですが、徐々に少年には荷の重い死者との対面を強いられるようになります。まず、文芸エージェントである母親のティア・コンクリンの収入の大きな部分を占めていたクライアント、作家のレジス・トーマスがシリーズ最終巻を書き残して亡くなった直後、すでに死んだ作家から最終巻のあらすじを聞き出すよう母親から要求されます。死者から聞き出した内容を、作家が遺稿を残したことにして、実は、エージェントの母親がジェイミーの聞き出したあらすじからシリーズ最終巻を自分で書いて出版するという運びなわけです。こういった死者と話す際に、なぜか、死者はジェイミーに対して、というか、他の人に対してはいざ知らず、ジェイミーに対しては嘘をつけずに、しかも、どうやら、黙秘を貫く権利もないようです。そして、母親のパートナーである刑事は、結局、不祥事により警察を解雇されるのですが、警察勤務中に、あるいは、警察解雇後に死者から聞き出すよう要求され、大きなトラブルになるというホラーです。最後の最後に、ジェイミーは自分の父親が誰なのかを知ることにもなります。『It』なんかでも感じたのですが、キングがこういった若者や子供を描写するのがとても上手だと思ってしまいました。私は青春小説が好きなのですが、キングは青春小説に優れた作家だと実感できます。

photo

次に、入江敦彦『怖いこわい京都』(文春文庫)を読みました。著者は、京都は西陣で生まれ育った京都人であり、作家、エッセイストです。現在はロンドン在住だそうです。ということで、本書は2010年に新潮社から刊行された単行本に加筆して文庫化されています。かなり加筆して、百物語よろしく99話を収録しています。9章から構成されていて、異形の章では、闇の狛犬、魔像、人喰い地蔵など、伝説の章では、丑の刻参り、狐塚、清滝トンネルの信号など、寺院の章では、血天井、釘抜きさん、化野など、神社の章では、七野神社、天神さん、呪歌など、奇妙の章では、御札、エンササンザ、千躰仏など、人間の章では、京女、タクシー、イケズなど、風景の章では、墓池(一応、念のためですが、「墓地」ではなく「墓池」であって、タイプミスではありません)、古井戸、鬼門など、幽霊の章では、幽霊街道、公衆トイレ、四辻など、妖怪の章では、鵺、土蜘蛛、天狗などが、それぞれ取り上げられています。一部に例外はありますが、基本的にほぼほぼすべてのテーマで具体的な場所や施設が明記されています。例えば、風景の章の墓池は西方寺などです。何といっても、1200年前からの古都であり、神社仏閣、あるいは、それに付随するお墓なんかもいっぱいありますので、京都の怪談話は尽きません。菅原道真なんて讒言により左遷されて怨霊になって京都に舞い戻るわけですから、由緒正しき歴史の深さを感じます。私が公務員をして東京に住んでいたころ、子供たちを卒業させた小学校は南青山にあって、ボーイスカウト活動は乃木神社を拠点とした港18団でしたし、少し歩いて明治通りに出れば東郷神社なんてのがあって、その親分格の明治神宮何かとともに、ひどく新しい神社な気がしました。上野の寛永寺なんてのも、東叡山という山号に示されているように、比叡山延暦寺が京の都の辰巳の鬼門を守るのと同じ趣旨でお江戸の鬼門を守るために、徳川期初期に創建されているのはよく知られた通りです。もちろん、京都にも平安神宮なんてミョーに新しい神社があるのも事実ですが、東京都京都の歴史の長さの違いを実感できます。それだけに、恨みつらみのたぐいも歴史を経て強大化している可能性を和は感じます。もっとも、他方で、本書でも取り上げられている京都の心霊スポットとして、清滝トンネルや東山トンネルは近代に入ってからのスポットです。明らかに、逢坂の関なんかは東海道の一部であって、京都の三条通りからつながっていますので、トンネルではなく山道です。まあ、昔はトンネルなんて掘れなかったわけです。いずれにせよ、私は本書の著者と同じで、いわゆる霊感なんてものをまったく持たず、しかも、基本的に近代物理学で解明できる範囲で生活や仕事をこなしていて、超自然的な現象や存在は視野に入りませんが、こういった歴史を感じる怪談話は決して嫌いではありません。まだまだ暑い日が続く中で、冷気を感じさせる読書をオススメします。

| | コメント (0)

2024年9月 7日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして小説なしで計5冊

今週の読書感想文は以下の通り経済書をはじめとして5冊です。小説はありません。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って本日5冊をポストし、合わせて220冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、池井戸潤『不祥事』(講談社文庫)と『花咲舞が黙ってない』(中公文庫)を読みました。すでに、mixiとFacebookでシェアしています。

photo

まず、ギャレット・ジョーンズ『移民は世界をどう変えてきたか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国ジョージ・メイソン大学の研究者です。英語の原題は The Culture Transplant であり、2023年の出版です。サブタイトルは「文化移植の経済学」となっています。将来に向かっての労働力不足を解消するための移民の導入に対して、私は大いに懐疑的であり、少なくとも日本の地理的な条件として世界でも有数の人口大国を隣国に持っていることから、ハードルの低い移民受け入れは国家としてのアイデンティティの崩壊につながりかねない、と感じています。本書は、この私の問題意識と共通する部分があり、少なくtも、多くの左派リベラルのエコノミストように移民をア・プリオリに認めて、多様性や包摂性=インクルージョンを求める論調ではありません。いくつか論点がありますが、まず、本書では移民が受入国に同化するかどうかについては懐疑的です。むしろ、経済面では移民受入れ国の地理よりも移民そのものの民族性の方がより大きな影響力を持つと指摘しています。世界経済を考える場合、よく「グローバルサウス」ということをいい、その昔は南北問題を話題にしていましたが、そういった地理的な条件ではなく民族性のほうが経済発展に対して大きな影響力を持つ、という議論です。経済的繁栄の要因として、設備投資率、貿易開放の年数、儒教的背景を持つ人口比率の3点を本書では冒頭に上げています(p.5)。そして、投資に対しては貯蓄の裏付けが必要なのですが、移民の民族性として「倹約」の傾向は明らかに移民により輸入される、との分析結果を示しています。その上で、国家史=S、農業史=A、技術史=Tの頭文字を取ったSATスコアにより経済的繁栄=1人当たり所得が決まる、との結論です。少なくとも、このうちの技術を考える場合、場所を基準とした尺度よりも人を基準とする方が説得力あるのは当然です。また、移民については多様性が持ち出されますが、本書ではこれもやや懐疑的です。すなわち、経済学、というか、生産に関してはスキルの多様性が分業の深化において有利に働くとしても、経営的あるいは文化的には多様性は決してプラスにならない、と指摘しています。また、エリート集団に所属していれば多様性は受け入れやすいが、そうでなければ多様性の必要性はそれほど感じない、との分析結果も示しています。東アジアの経済的成功例である日本や韓国を観察すれば、多様性に関する認識は変わる、とも述べています。米国や欧州における右派ナショナリスト・ポピュリストの主張などを考え合わせると、よく理解できそうですし、決してポピュリストではない私もかなりの程度に合意します。最後に、東南アジア、タイ、マレーシア、インドネシア、それにシンガポールの例を見て、「家人ディアスポラを拡大すること」(p.197)が経済的繁栄につながる、と結論しています。はい、数百年の世界の経済史を考えれば、結論としては間違っていない可能性のほうが高い、と私は受け止めています。ただ、最後の最後に、経済的な凋落の崖っぷちに立っている日本のエコノミストとして、やや自嘲的ながら経済的な繁栄がすべてなのか、という疑問は残ります。

photo

次に、西野倫世『現代アメリカにみる「教師の効果」測定』(学文社)を読みました。著者は、神戸大学の研究者です。本書の観点は、教師の効果=teacher effectiveness、すなわち、教師が教育においてどのくらいの重要性を持っているか、というテーマであり、本書でも取り上げている米国スタンフォード大学のハヌシェク教授やハーバード大学のヘックマン教授などのように、米国ではエコノミストが分析しているテーマだと私は考えています。ですから、私が勤務校の大学院の経済政策の授業を担当していた時には、『フィナンシャル・レビュー』2019年第6号で特集されていた教育政策の実証研究の論文を読ませたりしていました。ほかにも、例えば、小塩隆士ほか「教育の生産関数の推計」といった経済学的な研究成果もあり、ここでは首都圏や関西圏の中高一貫の進学校、まあ、開成高校や灘高校などが思い浮かびますが、そういった進学校では、身も蓋もなく、トップ大学の入学試験合格という成果は学校の成果ではなく、その学校に入学する生徒たちの平均的な学力によって決定される、という結論を示しています。有り体にいえば、賢い子が入学して、特に学校で強烈な学力の伸びを見せるわけでもなく、そのまま、東大や京大に進学する、というわけです。同じ考えがその昔は米国にもあって、1970年代初頭くらいまで、学業成績を決定するのは、家庭環境=family backgroundと学友の影響=peer effectsが大きく、学校資源=schoolinputsの影響はほぼないか、あってもごくわずか、という研究成果が主流でした。しかし、こういった見方は学力の計測について進歩が見られ、データがそろうにつれて否定されます。すなわち、学力の測定は4つの方法があり、素点型=status models、群間変化型=cohort-to-cohort models、成長度型=growth models、伸長度型=value-added modelsがあり、まさに、開成高校や灘高校ではありませんが、賢い子が入学して賢いまま難関校に合格する、という素点型に基づく評価ではなく、伸長度型の評価に移行しています。要するに、学校において教師がどれだけ生徒の学力を伸ばせたか、を評価するわけです。その上で、米国ではそれを教師自身の人事評価に直結させるシステムに発展しています。どうでもいいことながら、"value-added"は経済学では「付加価値」という訳語を当てていますが、教育学では「伸長度」なのかもしれません。こういった考えが普及する前には、教師の効果の計測は生徒の学力伸長度ではなく、経験年数や学位、すなわち、修士学位を持っているかどうか、などで計測されていました。ただ、私は少し疑問を持っていて、単純に教育といってもいくつかの段階があり、初等教育、特に義務教育レベルでは到達度、素点型が重要なのではないか、という気がしています。読み書き計算という生活上や就業する際の基礎を十分に身につけることが充填とすべきです。その上で、中等教育については高等教育への進学を目指すのであれば、それ相応の学力伸長が必要ですので、本書で指摘しているような伸長度モデルに基づく教師の評価が効果的である可能性が高まります。そして、最終的な高等教育においては、また別の評価の尺度があり得るような気がします。ただ、私の方でも指摘しておきたいのは、本書でも指摘しているように、何が、あるいは、どういった要因が高い伸長度をもたらしたのか、という点の分析はまったく出来ていません。当たり前です。どういった教育方法が高い伸長度をもたらすのか、という点が解明されていれば、行政の方でマニュアルめいたものを作成・配布して、多くの教師がベスト・プラクティスを実践できますが、まったくそうはなっていません。ですから、「教師の効果」は測定という前半部分は実践され始めている一方で、その分析結果を教育現場にフィードバックする後半部分はまったく手つかずで放置されています。この部分を解明する努力がこれから必要となりますが、前半部分は経済学の知見が大いに活用できますが、後半部分はまさに教育学の正念場と考えるべきです。最後の最後に、日本における「全国学力・学習状況調査」、いわゆる学力テストは現状では計測対象が極めて不明確であり、何を計測しようとしているのかが不明と私は考えています。加えて、繰り返しになりますが、教育現場における実践も進んでいないのですから、本書で展開されているような教師の評価に用いるのであれば、かなり慎重な扱いが必要と考えますので、付け加えておきたいと思います。

photo

次に、モーガン・フィリップス『大適応の始めかた』(みすず書房)を読みました。著者は、気候危機対策のために活動する英国の環境慈善団体の役員です。本書執筆時にはグレイシャー・トラストに所属していて、この団体は本書でも何度か登場します。英語の原題は The Great Adaptations であり、2021年の出版です。ということで、本書の適応の対象は、当然ながら、気候変動です。本書では「気候崩壊」という用語も使われています。さまざま機会に言及される産業革命から+1.5℃目標とか、あるいは少し緩めに+2.0℃目標とかの目標はかなり怪しくなってきた、と考える人は少なくないと思います。また、今年の『エネルギー白書2024』第1部第3章では、2050年のカーボン・ニュートラルに関して「温室効果ガスの削減が着実に進んでいる状況(オントラック)」(p.60)との分析結果を示していますが、たとえ2050年カーボン・ニュートラルが達成可能だとしても、それは+1.5℃目標が達成可能だという意味であって、実は、現状で昨年だと思うのですが、すでに+1.3℃の上昇を記録しています。現時点での+1.3℃の上昇でも、これだけの異常な猛暑や台風被害などが発生しているわけです。ですから、ここからさらに+0.2℃上昇して+1.5℃目標が達成されたとしても、現時点での異常気象よりさらに気象が異常度を増すことは明らかです。加えて、炭素回収・貯留(CCS)については、実用化されるとしても、メチャメチャ大きなキャパを必要とすると試算しています。ですから、本書では2012年10月のハリケーン・サンディの後のニューヨークスタテン島では、再建を諦めて州政府に土地を買い上げてもらって撤退=retreatの選択肢を選ぶ住民が少なくなかった事実から始めています。どうでもいいことながら、原因は気候変動ではありませんが、我が国のお正月の能登半島地震でも、政府は撤退を促して放置しているのか、という見方もあるかもしれません。まあ、違うと思います。世界における気候変動に対する適応例、あるいは、適応アイデアを本書ではいくつか上げています。モロッコの霧収集、ネパールのアグロ・フォレストリーなどで、詳しくは読んでいただくしかありませんが、アイデアとしては、海面上昇への対応として英国東岸からバルト海を守るため、英国スコットランド北東端とノルウェイ西岸の間、さらに、英国イングランド南西端のコーンウォールからフランス北西端ノブルターニュの2基にダムを建設する、というNEED計画があるそうです。途方もないプランのような気もしますが、技術的にも予算的にも可能で、海面上昇による沿岸部からの撤退よりも安いと主張しています。真偽の程は私にはまったく想像もつきません。ただ、他方で誤適応の可能性も排除できません。本書では、海面上昇に対してコンクリート堤防よりも砂丘の方が効果的である可能性を指摘していますが、行政にも一般国民にもなかなか理解が進まないのではないか、と私は恐れています。本書でも指摘していますが、経済的な誤適応を防止する方策のひとつとして、経済社会の不平等の軽減を促す必要は特筆すべきと考えるべきです。加えて、自然界ですでに適応が始まっている可能性についても本書では指摘しています。自然界の適応には3種類あって、種の移動、種の小型化、生物気候学の変化を上げています。最初の2つは理解しやすい一方で、最後の生物気候学の変化とは、開花や巣作りの時期の変更などの生物学的事象のタイミングの変化を指します。人類はホモ・サピエンスとしてアフリカに発生してから移動を繰り返しているわけで、大移動もひとつの選択肢ということになります。そういった対応をするとしても、現在の文明が生き残れるかどうか、私には何とも予測できません。気候変動対策に失敗し、さらに本書でいう適応にも失敗すると、現在の文明社会が崩壊する可能性が決して無視できません。

photo

次に、赤川学[編]『猫社会学、はじめます』(筑摩書房)を読みました。編者は、東京大学の社会学研究者です。本書で指摘されているように、2017年のペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」において飼育頭数ベースで猫が犬を上回りました。2023年調査では、犬が6,844千頭、猫が9,069千頭と差が広がっています。そして、編者や各章の著者は、いうまでもなく、大の猫好きだったりします。ペットロスの体験談も含まれていたりします。まず、猫が犬よりもペットとして飼われる頭数が多くなったのは、当然ながら、お手軽だからです。大きさとしては、犬種は色々あるものの、大雑把に犬よりも猫の方が小さく、それだけに餌代なども負担が小さそうな気がします。猫は犬と違って散歩に連れ出す必要はありませんし、狂犬病の予防接種も不要です。日本ではもう狂犬病というのはほとんど身近なイメージがなくなりましたが、アジアではまだまだ撲滅されたわけではありません。我が家は20年以上も前に子供たちが幼稚園に入るかどうかというタイミングでインドネシアの首都ジャカルタに3年間住んでいましたが、ご当地ではまだ狂犬病は残っており、狂犬病というのは噛まれたら直ちにワクチン接種しないと、病気を発症してからでは致死率100%ですから、とてもリスクの高い病気です。我が家はノホホンとしていましたが、一戸建ての社宅住まいのご家族なんかでは狂犬病のワクチンがどの病院で接種できるか、なんてリストを冷蔵庫に貼っている知り合いがいたりしました。それはともかく、そのうえ、本書で示されているように、犬と猫では出会い方も大きく異なります。犬の場合はペットショップでの購入が50%を超えるのに対して、猫は20%には達せず、野良猫を拾った32%や友人/知人からもらった26%の方が多かったりします。何といっても、猫の魅力は決して人に媚びることなく、一定の距離をおいて人に接する孤高の存在せある点だと私は考えています。加えて、本書でも指摘しているように、姿形が美しい、というか、可愛いのも大きな魅力です。本書ではこういった猫の魅力に加えて、さらに、社会学的な分析も提供しています。すなわち、猫カフェ、猫島、また、マンガの「サザエさん」における猫の役割、などなどです。最後に、私も京都の親元に住んでいたころ、およそものごころついたころから、大学を卒業して東京に働きに出るまで、ほぼほぼ常に猫が我が家にいました。ですから、私は猫のノミ取りが出来たりするのですが、今は外には出さない家飼いでノミなんかいないし、また、特に雌猫の場合は去勢されているケースも少なくありません。私は猫については野生というわけではないものの、自由に振る舞うことが大きな魅力のひとつになっているので、こういった家飼いで外に出さない、あるいは、生殖能力を処理するのが、ホントに猫のためになっているのかどうかについては、やや疑問に感じています。我が国の住宅事情をはじめとする猫の飼育事情を考えると、こういった飼い方も十分考えられるのですが、私には何が猫のためなのかよく判りません。ミルは『自由論』でトピアリーとして刈り込まれた庭木についてとても否定的な見方を示していますが、猫を外に出さずに家飼いする現在の飼い方については、それと同じような見方をする人もいそうな気がします。

photo

次に、石川九楊『ひらがなの世界』(岩波新書)を読みました。著者は、私よりも一回りくらい年長なのですが、京都大学OBという意味で先輩であり、もちろん、書家としても有名です。ただ、私はこの著者の書道作品、本書各章の扉にいくつか示されているような著者の書道作品については、それほど好きではありません。というのも、私が学んだ先生によれば書道作品は字として読めなければならない、というのが持論でした。例えば、「大」と「犬」と「太」は天のあるなし、あるいは、どこに点を打つかで字としては異なる字を表します。その違いが読み取れなければ書道作品ではない、という主張でした。でも、私は悲しくもそれほど上達せず、基本、楷書ばかりを練習して、行書を少しやっただけでした。草書やかなに手が届くまでの力量はまったくありません。ということで、本書ではひらがな=女手の世界を解説しています。万葉文字から始まって、ひらがなが成立・普及し、1字1字独立して書く楷書と違って、ひらがなは続けて書く連綿という手法が主になります。そして、本書で指摘されているように、一般にはそれほど知られていませんが、掛詞の前に掛筆や掛字があり、字が抜けていたりします。ですので、ひらがなについては書く前にまず読む訓練をする場合も少なくありません。私は、200ページあまりのこれくらいのボリュームの新書であれば、それほど時間をかけずに読み飛ばすことも少なくないのですが、本書の第2章からはとても時間をかけました。悲しくも、書くことはおろか、ひらがなを読む訓練すら受けておらず、著者のご指摘通りにひらがなを読むことから始めましたので、そのために普段と違ってとても時間をかけた読書になりました。逆に、ひらがなをはじめとする図版をとてもたくさん収録しており、それを著者の解説とともに鑑賞するだけでも、私のような人間は幸福を感じたりします。ボリューム、というか、ページ数から考えても、本書の場合は第2章がメインと考えるべきです。そして、その第2章以降の第3章と第4章の歴史的なひらがな作品を鑑賞できるのは、本書の大きなオススメのポイントといえます。書道、特に、ひらがなに興味ある多くの方にオススメします。

| | コメント (0)

2024年8月31日 (土)

今週の読書は経済書のほかホラーもあって計7冊

今週の読書感想文は以下の通り、久しぶりに読んだ経済書をはじめ計7冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに計22冊、そして、8月最後に今週7冊をポストし、合わせて215冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、染井為人『悪い夏』も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

photo

まず、松尾匡『反緊縮社会主義論』(あけび書房)を読みました。著者は、私の同僚、すなわち、立命館大学経済学部の研究者です。本書は、基本的に、著者の主張に対する批判への再反論という形を取っており、はしがきにもある通り、書き下ろされている第7章と第8章を別にすれば、何らかの形で公表されたものを収録しています。ただし、私のように職場の同僚として著者のnoteのサイトをメーリングリストにしたがってプッシュ型配信を受けていたり、あるいは、学術雑誌をていねいに読んでいたりする人は極めて例外的でしょうから、まあ、初めて接する読者が多いのだろうと想像しています。私は官庁エコノミスト出身ですし、まさに、主流派の政府公認の経済学をもってお仕事してきたキャリアがほとんどですので、本書で展開されている経済学や経済学以外の部分をどこまで理解できたかはいささか自信がありません。というか、少なくとも、出版社のサイトに示されている目次でいって、第5章とその先はほぼチンプンカンプンです。まず、ワルラスの定義によれば、経済学は純粋経済学・応用経済学・社会経済学に分かれて、本書で展開されている経済学は社会経済学といえます。所有や税・財政、また富の分配に関する経済学です。同時に、正確ではないかもしれませんが、社会経済学とはかなりマルクス主義経済学に近い、あるいは、ほぼ同一の経済学を指す場合もあります。ということで、はなはだ不十分ながら、50年ほど前に大学で接したマルクス主義経済学に基づいて、私なりに少し考えたいと思います。すなわち、全体として私自身も支持できる経済学だと思うのですが、2点だけ指摘しておきます。まず、歴史観については、本書のタイトル通りにポスト資本主義を展望し、その上で、本書が標榜する社会主義を考えるのであれば、唯物史観が中心に据えられなければなりません。私自身は主流派エコノミストの端くれながら、素朴な理解として唯物史観的に生産力、すなわち、生産性ではなく、生産物の量は歴史的に一貫して増加していく、と考えています。そして、主流派経済学と折合いをつければ、生産力の増大とともに商品が希少性を減じて、いきなり最終形になだれ込むと、商品価格が限界的にゼロになって、各個人がフリーに商品を得ることが出来るのが共産主義社会だと考えています。その段階で「国家が死滅する」かどうかは私には難しくて判りません。もちろん、「晩期マルクス」の研究により脱成長論が地球環境との関係で注目されているのは理解していますが、私は疑問を感じています。その点からして、本書は長期の唯物史観ではなく、やや短期の視点に偏重しているきらいがあるような気がしないでもありません。ただ、景気循環の中で需要がより重要な要因であり、構造改革のように供給を重視するのは決して望ましい結果をもたらさない、という点は大いに賛同します。もうひとつは、民主的な参加と選択にもっと重点を置いてほしい気がします。冒頭の何章かで「リスク・決定・責任」のリンケージが強調されています。その通りだと思います。私は公務員だったころには、とても素直に、というか、半ば建前として、最後に国民は正しい選択をする、と信じていました。あるいは、信じているフリをしていました。でも、最近の自民党総裁選の報道を見ても、大きな失望しか感じません。たぶん、国民はまた正しい選択から目をそらされている、あるいは、そう仕向けられているような気がします。少し前までは、メディアと野党、加えて、ナショナルセンターとしての連合をはじめとする労働組合の劣化が原因だと考えていましたが、ひょっとしたら、国民のレベルそのものがそんなものかもしれないと感じ始めています。ただ、民主的な選択をする基礎として格差や不平等の是正は絶対に必要ですし、それも含めて、極めてラディカルな民主的な改革、情報操作などに惑わされることなく、ホントに国民が正しい選択を出来るような基礎が必要です。民主主義の大改革とは、学生によく説明する時には、「花咲舞のように考えて行動すること」だと私はいっています。すなわち、例の「忖度」をしたり、組織の論理とかに惑わされることなく、自分の信ずるところ、正義、あるいは、良心にのみ従って参加し、議論し、決定する、ということです。こういった民主主義の徹底というのは、おそらく、社会主義に先立つ資本主義の枠内での大改革であり、それがなければ、国民は社会主義を選択しないのではないか、という気がします。そして、教育の大きな目的のひとつは、特に高等教育は、そういった民主的な参加・議論・選択・決定のできる学生を社会人として輩出することなのだと思っています。

photo

まず、田中琢二『経済危機の100年』(東洋経済)を読みました。著者は、財務省ご出身で2019-2022年に国際通貨基金(IMF)日本代表理事を務めています。ですので、本書は、少なくとも戦後についてはIMF公式の歴史をなぞる形になっています。もちろん、1944年以前は、そもそも、国際通貨基金(IMF)が設立されていませんから、公式の歴史というのはありません。ということで、第1次世界大戦終了後の1920年くらいから直近コロナ禍くらいまでの世界経済の危機の歴史を概観しています。歴史の概観は8章までとなっていて、第9章と第10章で結論部分を構成している印象です。時代しては、第1章が第1次世界大戦から世界恐慌、第2章が第2次世界大戦終了の歳のブレトン・ウッズ体制の成立と1970年代における終焉、第3章はやや重複感あるも、1970年代の石油危機とスタグフレーション、第4章が980年代の中南米を中心とする累積債務問題、第5章がG7サミットなどを国際協調の進展と1985年のプラザ合意、第6章もメキシコのテキーラ危機とアジア通貨危機、第7章で21世紀初頭のドットコム・バブルからリーマン・ショックまで、第8章で新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックとウクライナ戦争、となっています。それほど新しい視点を提供する本ではなく、今までの常識的な経済史をなぞっているだけなのですが、それはそれで歴史書として重宝しそうな気がします。おそらく、読者に想定しているのは一般ビジネスパーソンや学生であり、私のような研究者は含まれていない気がしますし、少なくとも学術書ではありません。一般向けに判りやすいとはいえ、学術書のような厳密さはなく、少なくともタイトルにある「危機」くらいは、何を持って危機としているのかの定義くらいは欲しかった気がします。少なくとも短期の景気循環ではなく、中長期の構造的なショックを想定しているのだろうと思いますが、ショックと危機は違う気もしますし、加えて、経済の中の内生的な要因も経済外の外生的な要因もゴッチャにして議論している印象があります。もうひとつは、IMFの公式の歴史に基づいているので仕方ないのかもしれませんが、ほぼほぼ金融に関する危機で終始しています。例外は1970年代の2度に渡る石油危機くらいのもので、COVID-19パンデミックも需要ショックなのか、供給ショックなのか、十分な分析はありません。従って、金融以外の実物経済の側面はほぼほぼスコープに入っていません。ドットコム・バブルはインターネットを含むITC技術に基づいている側面も無視できないのですが、そういったITC技術の活用による生産性の向上なんかはまったく無視されています。そして、金融ショックについても重要な観点が抜け落ちています。すなわち、不良債権の問題に著者は気づいていないようです。ドットコム・バブルやCOVID-19ショックでは、それほど不良債権が発生しませんでした。他方で、我が国の1990年代初頭のバブル経済崩壊では、そもそも、不良債権についての経験も乏しく、ましてや政策対応の難しさも理解できておらず、長々とバブル崩壊後の不況局面が継続しましたし、リーマン・ショック後のGreat Recessionでは長期不況=secular stagnation論まで飛び出して話題になったのは記憶に新しいところです。私は本書は経済書としてははなはだ不満が残る内容だといわざるを得ませんが、それでも、歴史書としてはそれなりの有益性があると感じています。その意味で、手元に置いておきたい本であり、学生諸君やビジネスパーソンにはオススメです。

photo

次に、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)を読みました。著者は、日本共産党文教委員会の責任者です。本書は、教員の重労働と人員不足の原因を探り、その対応策について議論しています。というか、その解決策・対応策は本書のタイトルそのままであり、教師を増員することでしかありえません。本書ではまず、歴史的にもっとも重要である1958年の「義務標準法」に関して、当時の雑誌に掲載された文部省職員の解説文から説き起こし、小学校では1日4コマを標準としていた事実を突き止めます。それが、なし崩し的に事実上1日6コマになって行く経緯が解き明かされています。実は、個人的な事情ながら、私が役所の定年退職後に採用された現在の勤務校では、大学の教員の持ちコマは週5コマを標準とする、という点が公募文書に明記されていました。はい、ハッキリいって、まったく守られていません。今年2023年3月の定年退職の後で特任教員としてお仕事を継続していますが、特任教員は週4コマが標準となっているものの、私はこの春学期は6コマ持っていました。10月からの秋学期でも5コマあります。初等中等教育の学校だけでなく、高等教育の大学でも教員は過剰な授業負担に苦しんでいるわけです。本書でも指摘しているように、ほかの行政分野であれば予算がなければ仕事にならないケースが少なくないのは明らかです。例えば、道路を敷設するとすれば工事費が必要なわけで、予算措置なければ道路はできません。しかし、教育現場はそういうムリが通りかねない素地がある点は理解すべきです。デジタル教育でタブレットを使う、ということになれば、タブレットを購入する予算は必要ですが、それ以外は現場の教員の努力以外の何物でもありません。生徒や学生のために理数系の教育の充実を図る、なんてのは、予算措置が皆無でも現場の教員の負担により達成すべき目標になってしまいかねないわけです。その上、現状でも教師の負担が限界に達していることは明らかです。では、どうするかというと、業務を減らすか、教師を増やすかどちらかしかないのは誰もが理解していると思います。現在の行政では、例えば、部活を外部委託するなどの業務負担の軽減を眼目として、あくまで教師の増員は認めないような姿勢と私は受け止めていますが、本書では、まさにタイトル通りに教師を増員すべきと指摘しています。例えば、部活については、単なるレクリエーション活動であって、生徒の気晴らしでしかないのであれば、外部委託もあり得るかもしれません。しかし、教育の一環である限りは教師が責任を持って進めるべきです。私が見ても、日本は教師はもとより、公務員も少なく、そのため、外部委託で大儲けしている企業がいっぱいあります。東京五輪なんかでも電通やパソナといった企業に丸投げしてカギカッコ付きの「ビジネスチャンス」を創出し、賄賂の可能性まで開拓しているのは広く報じられているところです。ですから、私も本書の指摘には大賛成であり、学校業務を減らす方向の解決策を志向するのではなく、教師を増員すべきだと考えます。外部委託で大儲けする機会を一部企業にもたらし、しかも、そこから政治献金やパーティー券の販売へといった還流を期待するのではなく、学生や生徒・児童の身になって考えれば、教育の質を維持するためにも、本書が指摘するように、教師の増員という結論が得られて当然だと思います。

photo

次に、楠谷佑『案山子の村の殺人』(東京創元社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、クイーンや法月綸太郎・有栖川有栖よろしく、本作の中にも名前が出現します。しかも、これまた、クイーンや岡嶋二人などと同じで執筆担当とプロット担当の2人による分業体制を取っています。いとこの同い年で、しかも、同じ大学の同級生という執筆担当の宇月理久とプロット担当の篠倉真舟が主人公となります。特に、前者が本作のワトソン役で視点を提供します。この大学生作家のペンネームが楠谷佑なわけです。田舎の村を舞台にした執筆の取材のために、この2人のもうひとりの大学の同級生である秀島旅路に誘われて、奥秩父の宵待村、というか、秩父市宵待地区に出かけます。秀島旅路の実家がそこで地区唯一の旅館を経営しています。時期としては、大学の後期試験を終えた冬の終わりです。そこで殺人事件が起こるわけです。なお、タイトルにある案山子については、この宵待地区が専業の案山子製作者もいるほどの案山子で有名な地区であり、アチコチに案山子がいるとともに、特に、1件目の殺人事件で一定の役割を果たすことに由来します。1件目の殺人事件は、ボウガンから放たれた矢による殺人です。豪雪地帯ではないものの、雪が降って宵待地区は秩父警察の到着が大幅に遅れ、一時的にクローズド・サークルとなります。ただ、次の2件目の殺人事件のあたりで警察が到着します。加えて、1件目の殺人事件の現場はいわゆる雪密室となっていて、足跡から犯人を特定するどころか、殺害犯人が現場にどのように接近・離脱したのかも謎となります。続いて、2件目の殺人事件では、お忍びでやって来ていた秩父出身の有名シンガーソングライターが刺殺されます。この2件の殺人事件を大学生2人のミステリ作家、というか、ハッキリいえば、プロット担当の篠倉真舟が解明する、というわけです。そして、この作品が奮っているのは、いわゆる「読者への挑戦状」があることです。しかも、何と2回に渡って「読者への挑戦状」があったりします。もちろん、誰が犯人なのかの whodunnit に加えて、雪密室の howdunnit、さらに、動機の解明という意味での whydunnit などなど、いくつかの謎の解明が必要となります。はい。頭の回転の鈍い私にはサッパリ謎は解けませんでした。でも、実に実に、王道ミステリといえます。「読者への挑戦状」だけでなく、謎解きもとても論理的でていねいです。ただ、難をいえば、連続殺人事件とはいいつつも、たった2件だけで終わってしまう点です。3件目、4件目の殺人事件があった方が大がかりで読者受けはしそうな気もしますが、それは今後に期待するべきなのかもしれません。いずれにせよ、ミステリファンであれば押さえておきたいところで、かなりオススメです。

photo

次に、獅子吼れお『Q eND A』(角川ホラー文庫)を読みました。著者は、詳細不明でよく私には判らないのですが、取りあえず、小説家なのだろうと思います。本書はデスゲームが展開されるホラー小説であり、主としてゲームは早押しのクイズだったりします。高校生のAこと芦田叡は、気づくとデスゲームに巻き込まれていました。それが早押しのクイズであり、主催者はオラクルです。オラクルの正体はよく判らないのですが、地球外生命体で地球人よりもいっぱいいろんな能力がある、ということのようですから、まあ、ウルトラマンみたいな存在です。そのオラクルによって二十数人が集められて、無理やりデスゲームの早押しクイズに参加させられるわけです。参加者は、もともとのクイズ解答能力のほかに、オラクルにより異能が与えられます。例えば、A=Answerはクイズの答えがわかる; B=BANは指定した参加者の能力を一定時間無効にする; C=Counterは他の参加者がボタンを押す行動を予知し、その前にボタンを押すことができる; などです。そして、デスゲームですのでクイズの敗者は死にます。クイズの敗者だけでなく、異能を指摘されても死にますし、逆に、異能を指摘することに失敗しても死にます。主人公の芦田叡とその友人のほかに、クイズ王のQも参加しています。そして、極めて特殊な設定として、こういったオラクルのデスゲームから一般市民を守るために警察官が何人か参加しています。そして、警察官は人狼ゲームになぞらえて、クイズ王のQか、あるいは、A=Answerか、あるいは、その両方がオラクルによって仕込まれた「人狼」なのではないかと考えて、排除しようと試みます。まあ、ほかは村人なわけなのかもしれません。こういったルールに基づいてゲームが進められ、果たしてラストはどうなるのか、それは読んでいただくしかありません。私の頭の回転が鈍いせいか、あるいは、感性に問題があるのか、それほどの恐怖は感じませんでしたが、不可解なるものに対する違和感は大きかったです。ただ、その不可解なるもの正体がオラクルなわけで、しかも、このデスゲームのフィールドにおいてはオラクルが神の如き絶対者なわけですから、私のような根性なしは絶対者に従う羊のようなもので、抵抗する姿勢を示すような精神的に強い人なら、逆に恐怖をより強く感じるかもしれません。何かを論理的に解き明かそうと試みるのではなく、夏の夜に読むホラーとしてオススメです。

photo

photo

次に、宮部みゆきほか『堕ちる』澤村伊智ほか『潰える』(角川ホラー文庫)を読みました。角川ホラー文庫30周年を記念して、サブタイトルとして「最恐の書き下ろしアンソロジー」ということで編まれています。出版社によればシリーズでもう1冊あって、『慄く』というタイトルらしいのですが、なぜか、12月出版とされています。たぶん、誰か原稿が間に合わない作者がいたのではないか、と私は想像しています。間違っているかもしれません。ということで、著者と合わせて、収録されている短編を順に取り上げると次の通りです。
まず、『堕ちる』です。宮部みゆき「あなたを連れてゆく」は15年前の房総が舞台となります。小学校3年生男子である主人公が夏休みに1人で房総にある親戚の家に預けられます。そこの子であるアキラはすごい美少女で、とんでもないものが見えたりします。新名智「竜狩人に祝福を」では、物語はまるでゲームのように場合分けがなされて進行します。人間を支配する竜=ドラゴンに対抗する竜殺し=dragon slayerの活動を中心に進みますが、実は最後は実社会に戻って大事件が起こります。芦花公園「月は空洞地球は平面惑星ニビルのアヌンナキ」では、小学生が河童に出会って願いを叶えてもらうところから始まりますが、実は、地球は宇宙人の高度生命体に支配されていたりします。内藤了「函」では、一等地にありながら幽霊屋敷の建つ不動産を相続した主人公が、相続のために必要な手数料を捻出するのに、アパートを退去して敷金の返却で充当したため、その幽霊屋敷に移り住むハメになります。もちろん、幽霊屋敷の祟りはタップリあって、なかなか不動産は換金できません。三津田信三「湯の中の顔」では、作家が湯治場にやってきて、近在の農民とは明らかに異なる年配男性から怪談のような小説の基になりそうな民話のたぐいを聞き、男性の小屋を訪れると、怪異に追いかけられます。しかし、この怪異は越えられないものがありました。小池真理子「オンリー・ユー - かけがえのないあなた」では、故人の資産処分で別荘地のマンションを訪れた司法書士事務所の女性がマンション管理人室にいた管理人の後妻と連れ子に歓待されます。その後、管理人が自殺して再びそのマンションを訪れた際に、管理人家族に関してとんでもない真実を知ります。
次に、『潰える』です。澤村伊智「ココノエ南新町店の真実」では、東京多摩地区郊外にある心霊スーパーにオカルト雑誌の取材が入ります。9時の閉店後に店内を取材したところ、はい、人に害なす者がいました。阿泉来堂「ニンゲン柱」は、主人公が市役所を辞めて専業作家になったもののスランプで筆が進まず、北海道に取材に出かけたところ、有名ホラー作家といっしょに地方の行事に遭遇し、とてもサスペンスフルな展開となります。特に、ラストが怖かったです。鈴木光司「魂の飛翔」は、この著者の代表作であり、日本でもっとも有名なホラー小説のひとつである「リング」のシリーズの前日譚となります。山村貞子の腹違いの妹に当たる佐々木芳枝は光明教団の開祖となります。しかし、実験で貞子のビデオにつながる念写をしようとすると、さまざまな妨害が入ったりします。大正時代と「リング」の1990年前後を行ったり来たりします。原浩「828の1」では、主人公の母親が老人ホームで、特に意味もなく「828の1」とつぶやくようになり、その謎の解明のために菩提寺の住職などに当たりますが、強烈に死の予感がします。一穂ミチ「にえたかどうだか」では、5歳の女の子と母親が主人公なのですが、引越し先にはホームレスすれすれの格好の女性が同じ階の住人としていたり、また、親子ともに友人もできなかったのですが、たまたま、同じマンションの住民で同じ年齢の女の子と母親と親しくなります。しかし、スピーカーのような情報通の高齢女性から真実を知らされます。小野不由美「風来たりて」は、石碑のあった丘というか、塚に一戸建て5戸の住宅開発がなされます。しかし、その場所は過去には刑場があったりして祟りが感じられます。
いずれの短編ホラーも力作そろいです。この季節、私はホラーを読むことも多いのですが、海外のキングやクーンツを別にして、また、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」や「牡丹灯籠」に小泉八雲くらいまでの前近代の怪談も除いて、本邦に限定してのモダンホラー小説の中では、短編では小松左京「くだんのはは」や小林泰三「玩具修理者」、長編では小池真理子『墓地を見下ろす家』や鈴木光司『リング』とそのリリーズ、あるいは、貴志祐介『悪の教典』といったところを個人的に評価しています。幽霊や妖怪をはじめとする怪異な存在、あるいは、近代科学では解明できない超常現象、といったところも怖いのですが、私が一番怖いのは人間、それも頭のいい人間が残忍な行為に走ることです。その意味で、『悪の教典』はホントに怖いと思います。

| | コメント (2)

2024年8月24日 (土)

今週の読書はまたまは経済書なしで計6冊

今週の読書感想文は以下の通り経済書なしで教養書や小説など計6冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに計16冊をポストし、今週の6冊を合わせて計208冊となります。今後、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。また、小松左京『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』(角川ホラー文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

photo

次に、養老孟司『時間をかけて考える』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、解剖学者であるとともに、『バカの壁』などのベストセラーも書いていたりします。ということで、本書は上の表紙画像に見られるように、サブタイトルが「養老先生の読書術」となっていますが、実は、2007年から昨年2023年までに著者が毎日新聞の書評欄に書いていた書評を収録しています。まえがきにあるように、文学、というか、フィクションはほとんど取り上げられていません。大きな例外のひとつはスティーヴン・キング『悪霊の島』です。構成は3部構成となっていて、最初に意識の問題を中心に心と身体に着目し、続いてヒトを問題の中心に据えて自然と環境を論じ、最後に日常の視点から歴史と社会を取り上げています。繰り返しになりますが、2007年から2023年までですのでほぼ15年に渡る書評を収録しています。その意味も含めて、さすがに私にも大いに参考になりました。大いに参考になったひとつの要因は、ほぼほぼ私の読書と重なっていないからです。要するに、私が読まなかった本をたくさん取り上げてくれている、ということです。「フィクション」と切って捨てた文学がほとんど含まれていないのも一因かもしれません。主要なところでは、環境に関するアル・ゴア『不都合な真実』や鵜飼秀徳『無葬社会』、宮沢孝幸『京都大学おどろきのウイルス学講義』などが私の既読書だったくらいで、ほんとに重複が少なかった気がします。タイトルとなっている「時間をかけて考える」というのは、いかにも、カーネマン『ファスト&スロー』を思い起こさせますが、ヒューリスティックではなく熟慮の必要性を強調しているわけでもなく、要するに、読書で時間をかけて考えるということなのだろう、と私は受け止めています。ただ、読書についての本をレビューするのは私は最近少し困っていて、高い確率で「最近の若者は本を読まない」というご感想をいただきます。学校図書館協議会などが毎年行っている「学校読書調査」によれば、30年以上に渡って平均読書冊数は増加を続けていますし、逆に、不読者の割合は減少し続けています。そして、こういった明白なエビデンスを示しても、特に年輩の方なのかもしれませんが、その昔の表現を借りれば「壊れたレコード」のように「最近の若者は本を読まない」を繰り返します。インターネットが普及し、ゲームをはじめとして読書以外の余暇活動が選択肢としていっぱいある中で、今の小中高校生はホントに読書に熱心に取り組んでいます。本書に収録されているような新聞その他のメディアによる書評が大きな役割を果たしている可能性を指摘するとともに、私のこのブログやSNSなどにおけるブックレビューも少しくらいは役立っていると思いたい、という希望的観測を添えておきます。

photo

まず、マウンティングポリス『人生が整うマウンティング大全』(技術評論社)を読みました。著者は、マウンティング研究の分野における世界的第一人者だということです。不勉強にして、私は存じ上げませんでした。本書は4章構成であり、第1章でさまざまなマウンティングを解説しています。私自身の本書の読書はこの章が眼目だったといえます。ページ数的にも半分を超えます。その後の3章で、武器として人と組織を動かすマウンティング術、ビジネスに活かしイノヴェーションをもたらすマウンティング術、最後に、マウントフルネス、すなわち、マウンティングを活用した人生戦略、となります。私の眼目であったさまざまなマウンティングについてを中心にレビューすると、まず、マウンティングとは、要するに「自慢」のことだといえます。ですから、本書のp.168にあるように、学歴、年収、社会的地位、居住地、婚姻歴、教養、海外経験、子供の有無などについて、自分の優位性を相手に理解させることを目的とした情報提供、あるいは、おしゃべり、となります。しかし、第1章で、私が大いに驚いたのは、達観マウンティングなんてものがあったり、第2章では自虐マウンティングが出てきたりします。私自身は、周囲にいうのに、「飲み食いと着るものは特段のこだわりはない。マクドナルドと吉野家とユニクロで十分」というのがありますが、ひょとしたら、達観マウンティングなのかもしれません。しかし、私自身はマウンティングを取る意図はまったくありません。ほかもそうであり、たとえば、p.168にある最初の項目である学歴なんぞは、私ごとき京都大学経済学部ではお話にならないような職業に身を置いてきたわけです。京都大学がエライと思っているのは私の両親くらいのものでしたが、もう2人とも亡くなりました。恥ずかしながら、キャリアの国家公務員の半分以上は東大卒であることは、現在はともかく、私の就職した1980年代初めころは常識でした。公務員を定年退職してからも大学教員ですから、私のような4年生学部卒の学士号しか学位ないのは超低学歴と考えるべきです。少なくない大学教員が博士号を持っているのは広く知られている通りです。年収も、公務員や教員はそれほどの高給取りというわけではありません。ただ、私の場合、少なくとも公務員を定年退職して関西に移り住んだ時点から、居住地、特に海外勤務については自慢しようと思えば自慢できるような気がします。大学教員でも関西の大学教員は、海外はおろか、東京で働いた経験のある人すら決して多くありません。しかし、誠に残念ながら、周囲の大学教員がそれほど東京に関する地理的な情報を持たないためにマウンティングすらできない、というのが実情です。私は公務員のころに参事官の職階に上がって資格を得て、千葉の松戸から南青山に引越したのですが、松戸と南青山の違いを理解できる関西方面の大学教員はそれほど多くありません。たとえば、私の母は晩年に茅ヶ崎の妹の住まいからほど近い施設に入っていたのですが、関西人からすれば茅ヶ崎は東京の地理的な範疇に入ります。ですので、東京に住んでいた、という事実は重要かもしれませんが、その詳細は問われなかったりします。ついでながら、私はマウンティングのほかに、縄張りというものもほとんど意識しないので、生物学的なオスとして何か欠陥があるのかもしれません。でも、もうそれほど残された人生が長いわけでもないのでオッケーだと思っています。

photo

次に、貴志祐介『兎は薄氷に駆ける』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、ホラーやSF小説などを中止とするエンタメ系の小説家です。私の京都大学経済学部の後輩なのですが、当然ながら、まったく面識はありません。なお、上の表紙画像には、ホラーやSFといった作者の作風を考慮してか、「リアルホラー」という謳い文句が帯にありますが、本書は少なくともホラーではありません。おそらく、私のつたない読書経験から考えれば法廷ミステリと考えるべきです。私の感想では、E.S.ガードナーによるペリー・メイスンのシリーズを思い起こさせるものがあります。なお、毎日新聞に連載されていたものを単行本に取りまとめていて、500ページ近い大作です。ということで、あらすじは、嵐の夜に資産家の独身男性が亡くなります。レストラン経営で得た資産の一部を注ぎ込んだクラッシクカーのマニアでしたが、キャブレターでガソリンをエンジンに送り込むクラシックカーのエンジンの不完全燃焼、ランオンと呼ばれる現象によりガレージ真上にあった寝室で一酸化中毒で亡くなります。事件か事故か、そこから始まり、警察は死亡した男性の唯一の遺産相続人である甥を逮捕し、長時間に及ぶ極めて厳しい取調べから自供を引き出して起訴し裁判となるわけです。亡くなった男性の兄がこの裁判における被告の父親なわけですが、この父親には交通事故に起因する軽い知的障害があり、15年前に資産家老女の殺人事件の犯人として逮捕され厳しい取調べにより自供しており、冤罪と疑わしい裁判の判決が確定した後に獄死しています。亡くなった資産家男性の甥で逮捕され裁判の被告となるのが日高英之で、15年前の日高英之の父親の事件の際と同じ本郷弁護士が弁護します。そして、本郷弁護士に調査のためアルバイトとして雇われた垂水謙介の視点でストーリーが進みます。日高英之の恋人の大政千春も垂水謙介の調査を手伝ったり、法廷で証言に立ったりします。まず、目を引くのは、警察の強引な取調べです。自白偏重の捜査が明らかです。これを逆手に取ったのが東野圭吾『沈黙のパレード』といえます。本書では200ページ過ぎあたりから裁判の法廷となり、警察と検察の黒星が積み重なってゆきます。また、陪席の女性判事補が少し被告寄りとも見える姿勢を示したりします。繰り返しになりますが、ペリー・メイスンのシリーズを彷彿とさせる法廷シーンです。たぶん、法廷ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、これをミステリと考えるのであれば、いわゆる名探偵もので、名探偵がラストに関係者を集めて「アッ」と驚く結末を示すタイプのミステリではなく、私の好きなタイプ、すなわち、玉ねぎの皮をむくように徐々に真実が明らかにされていくタイプのミステリです。従って、ラストは決して驚愕のラストではないのですが、続編がある可能性を残して本書は終わります。実は、というか、何というか、この著者の代表作のひとつである『悪の教典』についても私はネットで蓮見の独白を見かけたことがあり、続編がある可能性が残されているものと認識しています。でも、本書はさらに強く続編の可能性が示唆されていると私は考えています。最後に、タイトルなのですが、薄氷を駆ける兎は日高英之です。そして、それを追う猟犬が警察や検察の法執行機関であり、ある意味で、冤罪の源です。そして、薄氷が割れて冷水に落ちるのは兎か、あるいは、猟犬か、もしも続編があれば明らかにされるのかもしれません。

photo

次に、染井為人『芸能界』(光文社)を読みました。著者は、2017年に『悪い夏』で第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞して作家デビューしています。北海道新聞のインタビューによれば、「ジュニアモデルのマネジャーなどとして芸能界に身を置いてきた」ということですので、芸能界のご経験があるようです。私は本書の前作の『黒い糸』に感激して、本書も読んでみました。ただ、『悪い夏』は未読です。本書は短編集であり、7話が収録されています。収録順にあらすじを紹介します。まず、「クランクアップ」では、25年在籍した事務所を落ちぶれて退所する俳優が中心となります。すなわち、相原恭二は売れっ子だった俳優なのですが、ファンを名乗る反社の男性からお酒を奢ってもらい、週刊誌にすっぱ抜かれて落ちぶれて事務所から独立しようとしますが、大きな罠が待ち構えています。「ファン」では、人気タレントを10年かけて育て上げた辣腕マネージャーが主人公です。すなわち、坂田純一は有名になった若手女優を育てた敏腕マネージャーなのですが、現在は新たに芸人と売り出し中のアイドルグループを担当しています。しかし、担当するタレントが次々に活動休止に追い込まれ、その背景にとんでもない事情が見え隠れします。「いいね」では、50歳にしてインスタにハマったベテラン女優が主人公です。すなわち、元アイドルの石川恵子は50歳を過ぎてインスタに目覚め、修正しまくった写真をポストして、いいねを集めることに熱中し、やがて暴走します。「終幕」では、若い男子が集うミュージカルを仕切る女性プロデューサーが主人公です。すなわち、叶野花江はイケメン男子たちをキャストにミュージカルを運営する女性プロデューサーなのですが、キャストたちをホストのように扱った上、自分に色目を使うキャストを特別扱いするようになり、結局、大きく転落します。「相方」では、容姿をイジるネタで30年笑いを取ってきた漫才コンビが主役となります。すなわち、容姿で笑いをとっていたコンビ「ミチノリ」なのですが、今ではルッキズムが批判され、コンプラ的にも容姿ネタはNGになり、かつてのように笑いを取れなくなったことに悩みます。かなりベタな展開です。「ほんの気の迷い」では、誹謗中傷に悩まされ孤独とたたかうアイドル俳優が主人公です。すなわち、栗原翔真は若手ナンバーワンの売れっ子俳優です。しかし、一部のアンチからナルシスト扱いされ誹謗中傷を受けています。また、家族にも問題があり、母親はカルト宗教に熱中し、弟は地元で俳優である兄の名前を使って女性たちと問題を起こしています。その中で、SNSでエゴサーチをした時、突然体調が悪くなってしまいタイヘンな事態に立ち至ります。「娘は女優」は、震災の町からデビューした中学生女子の父親が主人公となります。すなわち、村田幹一は福島の自転車屋を営んでいますが、大事な一人娘の皆愛が修学旅行先の東京で芸能事務所からスカウトされてしまいます。レッスンや何やで東京に行く機会が多くなり、勝手に芸名をつけたり、グラビアに出たりする娘に父親は猛反対、反発しますが、なぜ彼女がこんなふうに突き進むのかの理由がとてもよかったりします。本書も、『黒い糸』ほどではないものの、ややどす黒いものを感じる短編が多く収録されていますが、最後の「娘は女優」がとっても爽やかなラストなので読後感はよかったりします。近く、『悪い夏』の文庫本を借りる予定なので楽しみです。

photo

次に、米澤穂信『冬季限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は著者による小市民シリーズの作品であり、私は本書がシリーズ完結編である可能性を示唆する出版社の宣伝文句を見たような記憶があります。私のことですから、記憶は不確かです。なお、小市民シリーズはTVアニメになって、すでに7月から放送されているのではないかと思います。ということで、小市民シリーズですので小鳩常悟朗と小山内ゆきが主人公です、互恵関係にあるものの、恋愛関係にはない高校3年生の同級生です。そして、本書では3年前に2人が中学3年生だったころにさかのぼります。要するに、馴れ初め、というか、2人が知り合ったきっかけを明らかにするわけです。両方のストーリーが交互に語られますので、「現在編」と「3年前編」と名付けてレビューを進めます。ついでながら、現在編と3年前編のどちらも交通事故が大いに関係します。というのは、現在編ではクリスマス直前に小鳩常悟朗が交通事故にあい、年明けの大学受験を諦めざるを得ないほどの大ケガを負って入院します。他方、3年前編では中学校でも小鳩常悟朗と小山内ゆきの2人は同じ学校の生徒でした。そして、2人が通う中学校のバドミントン部員である日坂が交通事故にあいます。3年前編の交通事故は轢き逃げ犯が捕まっているのですが、被害者である日坂が事故時の同行者について隠し事をしていて、小鳩常悟朗が事故の真相を追いかけることになります。現在編の交通事故では轢き逃げ犯は捕まっておらず、小鳩常悟朗が入院していますので、小山内ゆきが調査を進めているのだろうと思いますが、ストーリーが基本的に小鳩常悟朗の視点で進みますので、それほど明確ではありません。なかなかに、驚愕のラストでした。3年前の事故と現在の事件を同時に調査し、当然ながらボリュームからしても大作ですし、以前の小市民シリーズでは日常の謎を扱っていて、ここまでの交通事故による大ケガという被害はなかった気がしますので、その意味でも完結編にふさわしい終わり方だったかもしれません。

photo

次に、エラリー・クイーン『境界の扉 日本カシドリの秘密』(角川文庫)を読みました。著者は、私なんぞが何かいうまでもない超有名なミステリ作家です。本書の舞台は主人公エラリーや父リチャードのホームグラウンドである米国ニューヨークです。ストーリーは、日本育ちの人気女流作家カレン・リースが文学賞受賞パーティーの直後、ニューヨーク中心部にある日本風邸宅で死体となって見つかります。カレンは癌研究の第一人者であるジョン・マクルーア博士と婚約中であり、文学賞受賞とも合わせて、作家としても個人としても幸福の絶頂にあると思われていました。カレンの死亡当時、マクルーア博士は大西洋を船で横断中であり、たまたま、エラリーと乗り合わせていました。カレンが亡くなった時、マクルーア博士の娘である20歳のエヴァがカレンの邸宅を訪れており、エヴァのいた部屋を通らなければカレンの部屋には行けない密室状態だったことから、唯一犯行が可能だったのはエヴァであることが推定されます。そして、なぜか、私立探偵のテリー・リングがリース邸に現れます。もちろん、エヴァ自身は無実を主張しますし、リングはエヴァの側に立って警察との対応をエヴァに教唆したりします。警察もエヴァを逮捕するには至りません。エラリーは、父親であるリチャード・クイーン警視をはじめとするニューヨーク市警と異なる見方を示し、さまざまな局面で対立しながら、事件の謎に挑みます。もちろん、事件の真相解明のためにカレン・リースの日本滞在時のいろいろな事実が解き明かされ、マクルーア博士やカレンとともに、その当時日本に滞在していたカレンの姉エスターやマクルーア博士の弟などの日本における動向についても明らかにされます。私立探偵のリングのほか、カレンが日本から連れてきたメイドのキヌメがエキゾチックな雰囲気を持って登場したりします。もちろん、最後にはエラリーが密室殺人の謎を解き明かします。驚愕のラストでした。なお、本書は越前敏弥さんの新訳により今年2024年年央に、他の国名シリーズなどと同じ角川文庫で出版されています。不勉強にして旧訳を読んでいないので比較はできませんが、とてもよくこなれた邦訳に仕上がっていると、私は受け止めています。

| | コメント (2)

2024年8月17日 (土)

今週の読書も経済書なしで小説に絵本を加えて計5冊

今週の読書感想文は以下の通り、経済書なしで小説と絵本で計5冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週と先々週で計11冊をポストし、今週の5冊を合わせて計202冊となります。200冊を超えました。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。今後、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。また、エラリー・クイーン『靴に棲む老婆』(ハヤカワ・ミステリ文庫)とサキ『けだものと超けだもの』(白水Uブックス)を読んで、Facebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

photo

まず、青崎有吾『地雷グリコ』(角川書店)を読みました。著者は、ミステリ作家です。ですので、本書はミステリに分類していいのだろうと私は解釈しています。もっとも、本書はゲームを中心に据えた連作短編集となっていて、タイトルを列挙すると、表題作の「地雷グリコ」に始まって、「坊主衰弱」、「自由律ジャンケン」、「だるまさんがかぞえた」、「フォールーム・ポーカー」となります。短編タイトルからある程度は想像できると思いますが、「地雷グリコ」はジャンケンをして勝った手に従って階段を登るグリコの変形で、特定の段の地雷があるわけです。「坊主衰弱」は百人一首かるたを使った坊主めくりの変形、「自由律ジャンケン」はグー/チョキ/パーにプレイヤーが違う手を加えたジャンケン、「だるまさんがかぞえた」はだるまさんが転んだの変形、「フォールーム・ポーカー」は3枚の手札を元にスートごとの部屋に入ってカード交換をするポーカーです。まあ、レビューで詳細に説明できるとも思えませんから、このあたりは読んでいただくしかありません。主要登場人物を敬称略で、主人公は都立頬白高校1年生のJK射守矢真兎です。勝負事やゲームにやたらと強いです。射守矢真兎の友人で同じ1年生の鉱田の視点でストーリーが進みます。ホームズ譚でいえば、ワトソン役です。頬白高校の生徒会から、最初の表題作「地雷グリコ」で射守矢真兎の相手プレイヤーとなり、その後、ゲームの審判を務めたりする3年生の椚迅人と会長の佐分利錵子もいます。そして、ラクロス部の塗辺はゲームをプレーするわけではありませんが、最初の「地雷グリコ」で審判を、最後の「フォールーム・ポーカー」でゲーム考案と審判をします。頬白高校以外では、第2話で主人公の射守矢真兎と勝負するかるたカフェのオーナーもいますが、もっとも重要なのは、射守矢真兎や鉱田と中学校の同級生で、首都圏屈指の名門校である星越高校に進んだ雨季田絵空です。ストーリーは、要するに、射守矢真兎がゲームに勝っていくということで、それはそれで単純です。各ゲームの設定については、おそらく、私よりも適切な解説者がネットにいっぱいいるのだろうと思いますので、ここでは省略します。私が本書のレビューでもっとも強調したいのは、第171回直木賞に関して一穂ミチ『ツミデミック』との対比です。私は、一穂ミチ『ツミデミック』が直木賞のレベルに達しているかどうか疑問だと考えていて、それは今も変わりありません。ただ、第171回直木賞の候補作の中で、私が聞き及んだ範囲での下馬評からすれば、本書の青崎有吾『地雷グリコ』が最有力、と考えていましたが、それはやや過大評価であったかもしれません。すなわち、本書で主人公の射守矢真兎がゲームに勝っていくのは、必ずしも論理的に、ロジカルな解決で勝っていくわけではなく、多分に心理戦を勝ち抜いた、ということなのだろうと思います。その上、ゲームが余りにマニアックです。ですから、こういったマニアックな作品が好きな読者は、メチャクチャ高く評価する気がします。ただ、一般的な読者はそうではないかもしれません。その意味で、本書が直木賞の選外となった可能性に思い至りました。繰り返しになりますが、だからといって、『ツミデミック』が直木賞のレベルに達していると考えるわけではありません。文学賞選考の難しいところかもしれません。ということで、文学賞を離れてゲームや勝負事の方に戻って、経済学にはゲーム理論というものがあります。そして最後に心理戦とは何の関係もなく、ジャンケンの必勝法、というか、ジャンケンにもっとも確率高く勝つための方法がゲーム理論から明らかにされています。さて、その意味で、すなわち、もっとも確率高くジャンケンに勝つための戦略とはいかに?

photo

次に、白川尚史『ファラオの密室』(宝島社)を読みました。著者は、マネックスグループ取締役兼執行役と本書で紹介されていますが、本書は第22回『このミステリーがすごい!』大賞における大賞受賞作です。ですので、というか、何というか、出版社では特設サイトを開設したりしています。ミステリなのですが、タイトルから容易に想像できるように、舞台は古代エジプトであり、いわゆる特殊設定ミステリです。何が特殊設定かというと、主人公の死者が蘇って謎解きをするわけです。ということで、あらすじは、主人公である神官書記であるセティの死後審判から始まります。すなわち、紀元前1300年代後半の古代エジプトにおいて、ピラミッドの崩落によりセティが亡くなるのですが、セティの死体にはナイフが胸に突き刺さっていました。そして、心臓に欠けがあるため冥界に入る審判を受けられない、といいわたされます。セティは自分自身で欠けた心臓を取り戻すために地上に舞い戻るのですが、当然ながら、生命力が十分ではないため、期限は3日しかありません。セティが調査を進める中で、もうひとつの大きな謎に直面します。というのは、棺に収められた先王のミイラが、密室状態であるピラミッドの玄室から消失し、外の大神殿で発見されます。これは、先王が唯一神アテン以外の信仰を禁じたため、その葬儀が否定したことを意味するのか、あるいは、アテン神の進行が間違っているのか、王宮でも、巷でも、信仰に基づく大混乱が生じます。タイムリミットが刻々と迫るなか、セティはピラミッド作りに駆り出されている奴隷の異国人少女カリなどの助力を得つつ、エジプトを救うため奮励努力するわけです。そして、先王のミイラが玄室から消失して外部に現れた謎は、何と申しましょうかで、まあまあそれなりに解けるのですが、セティ自身がナイフを突き立てられて死んだ謎には大きなどんでん返しが待っています。ちょっと私もびっくりしました。繰り返しになりますが、特殊設定ミステリであり、そのために少しファンタジーっぽい仕上がりになっています。そして、古代エジプトが舞台ですし王宮を巻き込んだ壮大なドラマともいえます。そういった要素が好きなミステリファンに大いにオススメします。

photo

次に、津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、小説家であり、2009年に「ポトスライムの舟」で第140回芥川賞を受賞しています。もう15年も前ですが、「ポトスライムの舟」は私も読みました。この作品は毎日新聞丹連載されていたものを単行本に取りまとめています。ということで、物語は1981年に始まり、1991年、2001年、2011年、2021年と10年おきに40年間を追います。最初の1981年、山下理佐は高校を卒業したばかりで、その10歳年下の妹である山下律は小学2年生から3年生に進級するところ、この2人の姉妹が家を出て独立した生活を始めるところからストーリーが始まります。どうして2人が家を出たかというと、それまで姉妹は離婚した母親と3人で暮らしていたのですが、母親に婚約者が現れて、山下理佐の短大進学のための入学金をその婚約者の事業資金に充てて、理佐が進学できなくなってしまった上に、妹の律が母親の婚約者から虐待されるからです。そして、山奥のそば屋で理佐が働き、住居も斡旋されて引越すわけです。そば屋では挽きたてのそば粉を使ってそばを作っているという評判で、そのそば粉を石臼で挽いている水車小屋があり、貴重な石臼が空挽きにならないように、そばの実が尽きると「空っぽ!」と叫ぶ賢いヨウムが飼われていて、そのヨウムがタイトルのネネです。ヨウムは50年ほど生きるといわれているらしく、姉妹が引越した時に10歳くらい、そして、エピローグの2021年には、ほぼほぼヨウムの平均寿命である50歳くらいに達している、という設定です。ある意味、とても奇妙に見えかねない姉妹が田舎の方で地域に溶け込み、姉は結婚し、妹がいったん大学進学を諦めながらも、働いて大学進学に必要な金額を貯めて大学進学を果たして就職する、などなど、必要な場面はとてもていねいに表現し、逆に、不必要なシーンは適当にカットし、決してストーリーを追うだけでなく、表現の美しさも含めて、とても上質な小説に仕上がっています。特に、カギカッコを使った直接話法と間接話法の書分け、律が幼少時にはひらがなで表現し、長じては漢字にする話法、などなど、表現の巧みさには舌を巻きました。ストーリーとしては、決して恵まれた家庭環境にない姉妹、また、類似の境遇の登場人物に対して、周囲の心温かな人々がさまざまな面から支援し、家族のあるべき形、あるいは、まあペットというには少し違うのかもしれませんが、ネネも含めた家族や仲間の重要性、緩やかな時間の流れ、都会にない自然の美しさ、などなどとともに、大学教員の私からすれば、教育と学習の重要性を深く感じさせる作品で、繰り返しになりますが、とても上質の仕上がりです。最初に書いたように、10年おきのストーリーですが、一見して理解できるように、最後の方は2011年は東日本大震災、2021年はコロナ、とまだ記憶に新しい時代背景も盛り込まれています。この作者特有のやや皮肉の効いたところ、不自然あるいは不穏当なところが影を潜めているのは、私には少し残念ですが、それを逆に評価する読者もいるかも知れません。私にとっての最大の難点は、ネネの好きな音楽がいっぱい登場するのですが、モダンジャッズ一辺倒の私にはほとんど馴染みがなかった点です。でも、私の大したこともない読書経験ながら、今年の純文学のナンバーワンの作品でとってもオススメです。

photo

次に、藤崎翔『みんなのヒーロー』(幻冬舎文庫)を読みました。著者は、芸人さんから小説家に転じたミステリ作家です。あらすじは、かつては特撮ヒーローのテレビ番組で主役を演じた主人公の堂城駿真は、今ではすっかり落ちぶれた俳優となっています。ある日、大麻を吸わせる店でセフレの女優と大麻をキメた後、帰り路で泥酔して道路に寝ていた老人を轢いて逃げてしてしまいます。警察の追求におびえていましたが、彼の熱狂的なファンである山路鞠子がその現場の動画を撮影していて、それを基に結婚を迫られます。その熱狂的なファンの山路鞠子が、何とも、ルッキズムに否定的な世の中とはいえ、飛び切り見た目が悪いわけです。でも背に腹は変えられず、堂城駿真は山路鞠子と結婚します。その歳の結婚に至るストーリーを山路鞠子が創作するわけですが、それを世間が評価してしまって、カップルでテレビ番組に出演したりして、まあ、芸人と同じパターンで堂城駿真が山路鞠子とともに売れ出してしまいます。コマーシャルも含めて収入も激増したりします。当然、結婚したわけで子供が出来ることになります。そのころ、堂城駿真は芸人枠ではない俳優として売れ出します。しかし、それほど人生が甘いわけでもなく、いろんな紆余曲折を経て、この作者らしくストーリーが二転三転します。ミステリですので、あらすじはこのあたりまでとします。この作者らしく、ストーリーが「波乱万丈」するだけでなく、表現も軽妙でスンナリと耳に入ってきます。実は、図書館の予約の関係で、出版順では同じ作者の『お梅は呪いたい』の前に、この作品を読んでしまいましたが、まあ、読む順はそれほど関係なさそうな気がします。時間潰しの読書にはぴったりです。

photo

次に、マーク・コラジョバンニ & ピーター・レイノルズ『挫折しそうなときは、左折しよう』(光村教育図書)を読みました。著者として上げておきましたが、文章をマーク・コラジョバンニが、絵をピーター・レイノルズが、それぞれ担当しているようです。そして、ついでながら、邦訳は米国イェール大学助教授の成田悠輔です。はい、お聞き及びの読者も少なくないと思いますが、昨年あたりに日本の少子高齢化問題をめぐって、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」などの発言を繰り返し、ニューヨーク・タイムズなどの海外メディアも含めて、大いに批判されたのは記憶に残っている人も多いと思います。なお、英語の原題は When Things Aren't Going Right, Go Left であり、2023年の出版です。挫折と左折を組み合わせたタイトルですが、秀逸な邦訳だと思います。絵本の主人公、というか、たった1人の登場人物はやや年齢不詳ながら小学校高学年から中学生くらいの男の子です。うまくいかない時、その原因として心理的なものをいくつか上げています。すなわち、モヤモヤする悩み、オロオロする心配、ビクビク、イライラ、の4つです。それらを地面に置きてきたのですが、家への帰り道で左折し続けるとイライラが小さく、ビクビクは静かで、オロオロは落ち着いて、モヤモヤはいないも同じ、という状態になっていたので連れて帰ることにします。大きな教訓はタイトル通りであり、「挫折しそうになったら左折する」、あるいは、「電源オフ」という表現も使っていたりします。私が知る範囲では、昨年から今年にかけてそこそこはやった絵本だと思います。絵本ですから対象年齢層は低いのかもしれませんが、私のような60歳を大きく超えた大人でも十分楽しめ、また、タメになる絵本です。

| | コメント (0)

2024年8月10日 (土)

今週の読書は経済経営書のほか計4冊にとどまる

今週の読書感想文は以下の通り4冊です。
8月に入って、年1本の論文を書くために参考文献をかなり大量に読み始めました。全部を完読しているわけではなく、サマリと結論部分だけで勝負している論文も少なくないのですが、それでも40本近い論文をリストアップしていて、たぶん、全部で参考文献は100本を超えると思います。ほとんどが英文論文ですので、まあ、サマリと結論だけでもそれなりの時間がかかるわけです。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って計20冊をポストし、合わせて180冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、この読書感想文のほかに、クイーン『ダブル・ダブル』を読みました。というのは、新刊書の『境界の扉-日本カシドリの秘密』の予約が回ってきそうで、これに先立つ『フォックス家の殺人』と『10日間の不思議』はすでに読んでいるのですが、『ダブル・ダブル』と『靴に棲む老婆』を新訳で読んでおこうと考えています。Facebookやmixiでレビューする予定です。たぶん、来週は『靴に棲む老婆』を読むのだろうと思います。

photo

photo

まず、デロイト・トーマツ・グループ『価値循環が日本を動かす』『価値循環の成長戦略』(日経BP)を読みました。著者は、会計に軸足を置く世界的なコンサルティング・ファームです。2冊とも、「価値循環」というキーワードを設定していますが、『価値循環が日本を動かす』の方は一般的なマクロ経済分析も含めた日本経済の概観を捉え、昨年2023年3月の出版です。そして、『価値循環の成長戦略』の方は、本来の、というか、何というか、企業向けの成長戦略のような指針を示そうと試みています。どちあも、キーワードの「価値循環」のほかに、お決まりのように「人口減少」を日本経済停滞の原因に据えています。まあ、私も反対はしません。企業経営者から見れば、ある意味で、私のようなエコノミストは気楽なもので、GDPの規模が人口減少に応じて縮小しても、国民の豊かさである1人当たりGDPが増えていればOKであろう、という考えが成り立ちます。すなわち、GDPが成長しなくても、例えば、ゼロ成長の横ばいであっても、人口が減れば自動的に1人当たりGDPは増加します。GDPが縮小するとしても、人口減少ほどの減少率でなければ、これまた、1人当たりGDPは増加します。しかし、企業経営者からすれば、従業員1人当たりの売上が伸びているというのは評価の対象にはならないそうです。というのは、企業の経営指標はあくまで資本金とか資産当たりの売上とか利益であって、人口減少と歩調を合わせて資本金や資産が減少するわけではありません。資本金は自社株買いにより減少させることが可能ですが、企業資産、あるいは、そのうちの資本ストックは増加する一方です。ですので、企業業績もそれに従って増加させないといけないわけです。ということで、まず、『価値循環の成長戦略』において、価値循環の基本的な枠組みとして、4つのリソース、すなわち、ヒト、モノ、データ、カネを効果的に循環させる必要があると説きます。代表例として、ヒトの循環として、交流型人材循環、回遊型人材循環、グローバル型人材循環の3つ、モノの循環として、リペア・リユース・アップサイクルと地域集中型資源循環の2つ、データの循環として、顧客志向マーケティング、デマンドチェーンの構築、地域コミュニティの構築の3つ、カネの循環として、社会課題解決型投資とスタートアップ投資の2つをそれぞれ上げています。詳細は読んでいただくしかありませんが、社会課題解決型投資の一例として、気候変動に対処し1.5℃目標を達成することによる経済効果は388兆円と試算していたりします。続いて、『価値循環の成長戦略』では、4つのリソースを循環させる壁を取り払う点にも重点が置かれます。組織間の壁や意識や思い込みの壁としての「新品崇拝」などです。また、高成長企業の分析から、売上を数量×単価に分解し、共通化による頻度向上に基づく数量効果を得るためのライフライン化、そして、差異化による高価格化を得るアイコン化、そして、その中間を行くコンシェルジェ化の3つの成長戦略の方向を示します。それを実際に適用する市場として、7つの成長アジェンダを掲げます。すなわち、モビリティ、ヘルスケア、エネルギー、サーキュラーエコノミー、観光、メディア・エンターテインメント、半導体、となります。これも詳しくは読んでいただくしかありません。最後に、私の方から2点だけ指摘しておきたいと思います。まず第1に、いつもの主張ですが、こういったコンサルティングについてはどこまで再現性があるのかが不明です。本書に書いてあることは、成功企業からの抽出例で、それはそれでいいのですが、すべてのリンゴは木から落ちる一方で、本書の成功企業の実践例を試みたすべての企業が成功するかどうかは不明です。第2に、本書でも何度か指摘されている人材についてですが、私が従来から指摘しているのは、全体的な人的資本のレベルアップもさることながら、特に重要な3分野の人材、すなわち、グローバル人材、デジタル人材、グリーン人材の重要性です。そして、これらの人材が首都圏、特に東京に偏在していることの良し悪しを考える必要があります。私は東京で国家公務員として60歳の定年まで勤務していて、これらのグローバル人材、デジタル人材、グリーン人材は日本にはいっぱいいると考えてきました。でも、関西も京阪神から外れる地で暮らすと、大学教員にすらこういった人材が十分ではない恐れを感じています。東京にこういった人材が集中していることをどう評価するかについては、私自身でも今後もっと考えますが、少なくとも、東京以外にはグローバル人材、デジタル人材、グリーン人材が大きく不足している点は忘れるべきではありません。

photo

次に、染井為人『黒い糸』(角川書店)を読みました。著者は、『悪い夏』で第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞して作家デビューしています。ですので、ミステリ作家であろうと思います。本書も基本的にミステリであるのですが、横溝ばりにとても怖いお話に仕上がっています。舞台は主として千葉県松戸市です。はい、私もジャカルタから帰国した直後に何年か住んでいたことがあり、それなりに土地勘はあるのですが、もちろん、地理に詳しい必要はまったくありません。ストーリーは交互に2人視点から進められます。すなわち、松戸の結婚相談所でアドバイザーとして働くシングルマザーの平山亜紀とその息子である小太郎が通う旭ヶ丘小学校の6年のクラス担任の長谷川祐介です。時期は、小学6年生が卒業を控えた年明けから卒業式のある3月くらいまでなのですが、実は、この小学校ではその前年にクラスメイトの小堺櫻子という女児が失踪するという事件が起きていて、事件後に休職してしまった担任に替わって長谷川祐介が小太郎のクラスの担任を引き継いでいます。当然ながら、失踪した女児の両親から小学校へのプレッシャーは大きいといえます。平山亜紀の方の結婚相談所などに関連する主要登場人物は、DVが理由で別れた元夫とともに、なかなか成婚に至らない女性会員がいて、強いプレッシャーを受けていたりします。職場の同僚には土生謙臣がいて、この女性会員の担当を引き継いでくれます。ただ、結婚相談所の所長はそれほど業務上で頼りになるわけではありません。長谷川祐介の周辺や小学校サイドの主要登場人物は、まず、小学6年生のクラスの倉持莉世で、母親が熱心な信者という宗教2世かつ父親は左翼という複雑な家庭に育ちながら、とても大人びた考えをするしっかりものでクラス委員です。それから、長谷川祐介と同居している兄はたぶんポスドクで遺伝に詳しいという設定です。小堺櫻子に続く被害者は倉持莉世で、殺害されるわけではなく襲撃されて意識不明の重体で入院することになります。そして、小堺櫻子が行方不明になった際も、倉持莉世が襲撃された際も、どちらも直前までいっしょに行動していたのはクラスメイトの佐藤日向なのですが、倉持莉世は新たに担任になった長谷川祐介に対して襲撃される前に「小堺櫻子の事件の犯人は佐藤日向の母親の聖子」といわれたりしていました。何とも、やりきれない驚愕の真相でした。まあ、こういう結末もアリなのかと思いますが、小説中でもそうですが、ワイドショーでいっぱい取り上げられるのは当然な結末という気もします。ただ、意外性という観点からはとってもいい小説でした。小説の舞台となっている季節は冬から春先なのですが、この酷暑の季節に読むにふさわしいホラー調のミステリであり、最後はサスペンスフルな展開が待っています。本書がよかっただけに、デビュー作の『悪い夏』を読んでみたいと思います。強く思います。

photo

次に、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読みました。著者は、文芸評論家だそうです。本書では、タイトル通りの問いに対して回答を試みています。ただ、歴史的にかなりさかのぼって、日本が近代化された明治維新からの読書について考察しています。すなわち、江戸期までは出自によって職業選択や立身出世が決まっていたのに対して、近代化が進んだ明治期から出自ではなく、教育、広い意味で職業訓練も含めた自己研鑽が職業選択や立身出世の大きな要因になり、その結果として、もともと日本では識字率が高かったわけですから、読書が盛んになった、と説き起こします。図書館が整備され、さらに、昭和期に入って改造社の円本「日本文学全集」が大いに売上げを伸ばしたりする経緯を解説します。そして、戦後になって、1950年代から教養ブームが始まり、文庫本や全集の普及、さらに、60年代に入って、源氏鶏太によるサラリーマン小説の流行、カッパ・ブックスなどの実用的な新書の登場などを概観し、ハウツー本や勉強術のベストセラーを紹介し、本が階級から開放され、広く読まれるようになった歴史的経緯を明らかにします。1970年代に入ると司馬遼太郎の本がブームになり、まさに代表作のひとつである『坂の上の雲』のように、国としての日本と自分自身の発展・成長のために読書も盛んとなります。ただ同時に、1970年代にはテレビ、特にカラーテレビも大いに普及し、読書の時間が削られるような気もするのですが、逆に、「テレビ売れ」の本もあったそうです。まあ、今もあるような気がします。さらに、首都圏や近畿圏では通勤時間が長くなり、電車で文庫本をよく習慣もできつつあったと指摘しています。1980年代には、ややピンボケ気味の解説ながら、カルチャーセンターに通う女性が増え、『サラダ記念日』や『キッチン』といった女性作家の作品が売れた、と解説しています。繰り返しになりますが、このあたりはややピンボケの印象で、私は少し疑問を感じないでもありません。1990年代はさくらももこと心理テストから概観し始め、私としてはピンボケ度がますます上がったようで心配したのですが、バブル経済の崩壊を経て、自己啓発書が売れたり、政治の時代から経済の時代へ入ったりといった経済社会的な背景を強調します。そして、読書は労働に対するノイズであると指摘し、ただ、自己啓発書はこのノイズを取り去る働きをすると主張しています。2000年代に入って、労働や仕事で自己実現、というのがキーワードになり、仕事がアイデンティティになる時代を迎えたと主張しています。私は、前からそうではなかったのか、という気もします。そして、本書の本題としては、インターネットの普及や仕事の上でのITCの活用などが急速に進んだ2000年代からインターネットは出来るが、読書はしないという流れが始まったということのようです。2010年代になり、1990年代から始まっていた新自由主義的な流れが強まって、ますます労働者に余裕がなくなった、という流れで本が止めなくなったと結論しています。このあたりは、長々とレビューしてしまいましたが、本書p.239にコンパクトなテーブルが掲載されています。終章では「半身社会」を推奨して、全身全霊をやめようと主張し、最後のあとがきで働きながら本を読むコツをいくつか上げています。私の感想ですが、読書という行為と日本の経済社会における勤労や立身出世を結びつけtなおは、当然としても、いい着眼だったと思います。ただ、インターネットがここまで普及した世の中で、読書が何のために必要なのかをもう少しじっくりと考えて欲しかった気がします。それだけに、やや上滑りの議論になってしまったかもしれません。

| | コメント (2)

より以前の記事一覧