2019年7月20日 (土)

今週の読書はパフォーマンス測定に否定的な『測りすぎ』をはじめ計6冊!!!

今週の読書は、経済書らしきものをはじめとして、小説まで含めて、以下の通りの計6冊です。ただ、最初の『世界統計年鑑』は通して読むようなものではなく、パラオラとページをめくっただけです。今日はすでに図書館回りを終えていて、来週の読書の分の本も借りてきたんですが、来週も数冊の充実した読書になりそうな予感です。

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まず、英エコノミスト誌『The Economist 世界統計年鑑 2019』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。英国のエコノミスト誌の編集部による「世界統計年鑑」です。英語の原題は Pocket World in Figures 2019 であり、1991年度の初版発行以来27年間、毎年データのアップデートと収録項目の見直しを経て発行され続けているそうです。どうでもいいことですが、私は数年前に英語の原書を利用したことがあり、ハードカバーだったと記憶していますが、この2019年度版の邦訳書はペーパーバックでした。今は英語の原書もペーパーバックになっているのかもしれません。前半第1部が世界ランキングであり、国土面積や人口などの世界各国のランキングが示されており、後半第2部が国別の統計となっています。有人宇宙飛行の歴史とかのごく一部の例外を除いて、いわゆるクロスセクションの統計であり、タイムシリーズで示されているものはほとんどありません。まあ、私のように図書館で借りてパラパラとページをめくるよりは、購入して座右に置いて必要に応じて参照する、という使い方が正当なのかもしれない、と思わないでもありません。なお、邦訳の2019年度版は東京23区の区立図書館の中でも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館と文京区立図書館と墨田区立図書館と世田谷区立図書館の5館しか蔵書しておらず、しかも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館では禁帯出となっていますから、借り出せるのは極めてわずかとなっています。ある意味で、希少価値が高い、といえるかもしれません。

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次に、エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社) です。400ページを超える大作であり、著者は、ワシントンポスト紙で30年のキャリアを持つジャーナリストです。英語の原題はズバリ Janeseville であり、2017年の出版です。タイトルの街は米国ウィスコンシン州の南部に位置しています。本書のpp.426-27に地図があります。本書にも紹介されている通り、GMの大きなプラントがあった企業城下町であり、パーカー万年筆の発祥の地でもあります。そして、サブプライム・バブル崩壊後の2008年12月にGMが工場を閉鎖した前後から物語が始まります。かつては、工場のブルーカラーとして三交代の勤務で時給28ドルを稼いでいた熟練工の正規雇用された労働者が、非正規で半分の時給の仕事しかなくなって、一方でGMの工場再開や別の企業の工場誘致に希望をかけて、町おこしや企業へのインセンティブ付与を進めようとするグループがあり、他方で、新しい雇用・労働市場に対応するべく職業訓練や能力開発のために地域のブラックホーク技術大学に通い始める人々、あるいは、家計を支えるためにアルバイトを始める高校生などなど、著者は現地インタビューはもちろん、かなり膨大な情報を収集した跡がうかがわれます。そのうち、統計情報が補遺1で「ロック郡における調査の説明および結果」と補遺2で「職業再訓練に対する分析の説明および結果」とそれぞれ題して巻末に収録されています。そして、著者も私も不思議なのが、ブrックホーク技術大学、2年制だそうですから、おそらく、米国的なコミュニティ・カレッジに近い教育機関だと思いますが、こういった大学での学び直しや職業訓練・能力開発を受けた場合、かえって、再就職率が低かったり、再就職できても時間当たり賃金が少なかったりする、という統計的に分析された事実です。通常の理解とは逆に見えます。サンプルがそう大きくもないでしょうから、きわめて大きなバイアスが母集団にかかっている可能性は否定できません、例えば、もともと再就職率が困難だったり、高賃金が望めなかったりするグループが、こういった大学での学び直しや能力開発を受けた可能性はあるものの、本書のこの結論、というか、分析結果については議論を呼びそうな気もします。左派は能力開発が中途半端で不足している可能性を指摘して、一層の施策の充実を提案しそうな一方で、右派は能力開発が効果的でない可能性を議論して、こういった施策の廃止ないし縮小を求めそうな気がします。でも、全体として、暗い雰囲気のリポートながらも、将来に向けた明るさも感じられる内容でした。

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次に、ジェリー Z. ミュラー『測りすぎ』(みすず書房) です。本書冒頭で著者自ら記しているように、著者は本来米国の歴史研究者です。ただ、資本主義に歴史や思想史についても研究しているようで、経済学とまったく関係ないともいえないようです。英語の原題は The Tyranny of Metrics であり、2018年の出版です。ここで経済学に関する小ネタですが、本書の英語の原書タイトルの元ネタがあるように私は感じています。というのも、ヤング教授による "The Tyranny of Numbers" という学術論文があり、1990年代前半までのアジア新興国・途上国の経済成長は資本や労働といった要素投入に支えられたものであり、全要素生産性(TFP)はそれほど伸びていない、という点を実証し、さらに、このヤング教授の論文を受けてクルーグマン教授が "The Myth of Asia's Miracle" を書いて、1997~98年のアジア通貨危機を「予言」した、とされています。何ら、ご参考まで。ということで、本書では定量的に把握、すなわち、計測できる点を重視した経営や政策運営などを鋭く批判しています。エコノミスト、特に右派のエコノミストにとっては、マイクロな市場における価格が絶対唯一の情報であって、価格に従った資源配分こそが効率性を保証する、と考えられており、この市場における価格に類似した指標をついつい求めてしまいがちな傾向を本書では戒めています。私が考えるに、何かを定量的に把握し、それを改善の指標とする場合、3つの間違いが生じる可能性があります。第1に本来のパフォーマンスの代理変数にならない指標を採用する間違いで、第2に計測のミス、第3に目的外の利用です。本書でも、第1のポイント、すなわち、学校や病院などのパフォーマンス指標として不適当な指標が取られている例が大量に指摘されています。例えば、患者の死亡率でもって病院のパフォーマンスを代理すれば、重篤な患者を受け入れない可能性が高まり、ホントにそれで病院の社会的使命が果たされるのか、という気がします。第2のポイントで、計測ミスはいっぱいあって、私の直感ながら、我が国のサービスの生産性は正しく計測されていない可能性があります。ここまで、「おもてなし」の精神でいっぱいの飲食店や宿泊の生産性が、他の先進国と比較して低いとはとても思えません。ほとんど事故なく正確極まりない運行を誇る新幹線の生産性が低いとはとても思えません。第3のポイントでは、学校の生徒のテスト結果を教師の評価と考えるのか、校長の評価と考えるのかでは、かなり受け止め方が異なるような気もします。最後に、第4の観点があり得るとすれば、評価すべきでないものを評価しようと試みている場合もありそうな気がします。総合的に、興味ある評価の計測に関する批判が本書には詰め込まれています。また、巻末のチェックリストも参考になりそうです。

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次に、松本佐保『バチカンと国際政治』(千倉書房) です。上の表紙画像からはピンと来ないかもしれませんが、A5のかなり大きな版でページ数も300ページを上回り、ボリューム感は十分あります。著者は、国際関係史の研究者であり、タイトル通りに、19世紀くらいから直近のフランシスコ教皇まで、バチカンが国際政治にかかわった歴史をひも解こうと試みています。ただ、私なんぞは、おそらくバチカンに親近感を持っているであろう著者が、どこまでバイアスをかけていえるのかが判断しにくく、直感的ながら、国際政治におけるバチカンの影響力を過大に評価しているリスクはありそうに感じてしまいました。ただ、本書ではスコープ外のようですが、15すぃきまつのコロンブスによる新大陸発見の後、スペインとポルトガルの間で西半球の米州大陸を西経に沿って分割したトルデシリャス条約は、当時の強硬アレクサンデル6世が仲介していますし、本書でも言及されている通り、チリとアルゼンティンの長い長い国境紛争はしばしばバチカンによって仲裁されています。私が在チリ大使館に勤務していた時にも経験しました。ということで、影響力の大きさにはやや眉に唾つけて読むとしても、本書で著者が指摘する通り、国際政治の中でバチカンが旗幟鮮明だったことは確かです。特に、第1次世界大戦の戦中から戦後にかけては一貫してドイツ寄りの立場を示して戦勝国からは煙たがられましたし、第2次大戦後の東西冷戦の中では、一貫して西側や米国寄りの反共の立場を堅持しました。そして、やはり、フランシスコ教皇の下でバチカンもかなり大きく変化しようという兆しや雰囲気は私のような部外者も感じ取っています。教皇専用の豪華専用車を廃してバスや列車のような公共交通機関を利用して移動したり、飛行機ではエコノミークラスの登場したり、と本書で指摘されている事実に加えて、私はフランシスコ教皇がカバンをもって飛行機のタラップを上る写真を見てびっくりした記憶があります。国際的なさまざまなテーマは、時代が進むにつれて広がりを見せ、通商問題などの経済関係はさすがにまだ手が伸びていないようですが、戦争と平和の問題はもちろん、地球規模での環境問題など、通常の国民国家やその集合体である国連などの国際機関に加えて、バチカンのようなトランスナショナルなパワーが活躍する場が増え、必要とされるようになったように私も感じています。そのためにも、ひいき目やバイアスなしでバチカンの力量を評価できる研究が必要です。

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次に、古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』(ミネルヴァ書房) です。著者は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究者であり、本書は、自然科学的な内容は豊富ながら、基本的には、私は歴史書だと受け止めています。まず、上の表紙画像に見られるように、副題は「連続体の人類生態史」となっています。「連続体」とは、英語でスペクトラム、フランス語でスペクトル、であり、文字通り、人類史を連続で捉えようと試みています。しかも、伝統的な歴史学の観点ばかりではなく、生物学や医学に加えて、地理学や社会学、もちろん、人口動態学まで、さまざまな学問領域を横断的に駆使しつつ、人類の異文化体験や多様化について解明を志向しています。特に、男女の性別まで含めて、もちろん、人種や文化の違いなどについて対立的、というか、何らかのグループの特徴を区別する要素として用いるのではなく、人類15万年の歴史を連続で捉えようとする試みは、私はそれなりに歴史分野に詳しいつもりでしたが、かなり新鮮な視点・分析方法だったような気がします。もちろん、白人の優位と有色人種の劣等性はすでに否定されて久しいものの、どこぞの超大国の現職大統領のように、人種差別的な発言を繰り返す輩も少なくないですし、まだまだ、分断的に世界を捉える感覚は広く残っています。エコノミスト的な視点から、本書で注目したのは、経済学的な視点も入れつつ、格差を論じている点です。例えば、生物的な身長に個人間で3倍の差があることはまれでしょうし、体重は身長よりもう少し差が出来そうに感じないでもありませんが、本書では、代謝量なども含めて個人間の格差はせいぜい3~4倍と結論しています。そして、狩猟採集社会における生まれながらの格差は3倍程度であるのに対し、農耕社会では11倍、牧畜社会では20倍と算出した上で、現代社会における2桁も3桁もの大きさに及ぶ経済的な格差、例えば、所得や消費の金額や居宅の広さなどが、生物的に必要かどうか、社会経済的に許容できるかどうかを鋭く問うています。確かに、我と我が身を振り返れば、実用的な範囲では、例えば、自動車は標準的な家族に3台もあれば十分ですし、いかな大食漢も人の5倍を毎日のように食べ続けるのは、かえって苦痛の方が大きいように感じます。ルソー的な自然状態では格差3~4倍という本書の議論は、受け入れられる素地が十分にありそうな気がします。

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最後に、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社) です。著者は、2017年の前作『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビューした若手のミステリ作家です。前作はタイトルそのままに映画化され、主人公の剣崎比留子役は浜辺美波が務めるそうです。本作品が第2作になり、主人公というか、ワトソン役のストーリーテラーとホームズ役の謎解きに当たる探偵役は前作から共通しており、シリーズというか、前作の続編と考えるべきです。さらに、犯罪発生のシチュエーションも前作と同じで、ほぼほぼクローズド・サークルだったりします。超能力開発を目的とする斑目機関の謎に迫ろうと試みますが、一定の前進はあるものの、もちろん、解明には至りません。次回作に続きます。本作品では、デビュー作のようなゾンビ菌によるテロという非現実的な出来事ではなく、予言や予見といったオカルト的な要素はあるものの、あくまで現実の人間心理に基づく超常現象なしでの謎解きがなされます。そして、実に、論理的な犯人像の解明がなされますが、単独犯でなく協力者の存在がカギとなります。そして、最後に謎解きの本質には関係しませんが、大きなどんでん返しがあります。これはよく考えられたプロットだと感心してしまいました。ただ、このどんでん返しがあってもなくても殺人犯の解明には関係しないのは、少し残念な気がします。ミステリの謎解き、特に、長編ミステリの場合、好みにもよりますが、私はタマネギの皮を剥くように、少しずつ着実に謎が解明されていくようなプロセスが好きなんですが、この作品では、「名探偵、みなを集めて『さて』といい」のようなカンジで、最後の最後に一気に謎が解明されます。それはそれで、好きなミステリファンもいそうな気がします。相変わらず、地名や人名の固有名詞にセンスないんですが、それはそれとして、私は続編も読みたい気がします。

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2019年7月13日 (土)

今週の読書はバルファキス教授の素晴らしい経済書をはじめとして計7冊!!!

このところ、経済書はやや失敗読書が続いていたんですが、今週は一昨日に取り上げた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』もよかったですし、バルファキス教授の話題の本もよかったです。ということで、今週も経済書をはじめとして、計7冊の読書でした。今日、読書感想文でまとめて取り上げるのは6冊ですが、ご寄贈いただいた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』を一昨日に取り上げており、これを勘定に入れて計7冊という意味です。なお、梅雨の中休みをついて、本日のうちに、すでに自転車で図書館をいくつか回っており、来週も数冊の読書になりそうです。

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まず、ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社) です。著者は、ギリシア出身の経済学の研究者にしてギリシアが債務危機に陥った際に政権を取った急進左派連合シリザのツィプラス政権で財務大臣に就任し、大胆な債務削減を主張しています。このブログの4月28日付けの読書感想文で取り上げたバルファキス『黒い匣』で詳細にレポされている通りです。本書も『黒い匣』以上に話題の書です。原書はギリシア語だそうですが、邦訳の底本となった英訳書の原題は Talking to My Daughter about the Economy であり、2013年の出版です。ということで、10代半ば、ハイスクールに通う娘にエコノミストの父親が経済について解説しています。ここで経済とは資本主義経済のことを指しています。ですから、まず、経済格差の解明のために経済史を振り返ります。すなわち、必要最低限の生産だったものが余剰が出ることにより、それを我が物にする階級が現れ、その根拠付けのために宗教などが動員されるわけです。明記はされていませんが、背景には生産力の増進があります。そして、この歴史の考えはマルクス主義的な唯物史観そのものです。その中で、産業革命がどうして英国で始まったのかについて、p.67で解説されています。3番目の観点は、いかにもノースらの制度学派的な見方で、私は目を引かれました。そして、産業経済から金融経済の勃興、さらに、産業経済の中でも製造業における機械化の進展、20世紀に入って世界恐慌からケインズ経済学による政府の経済への介入、最後は、ギリシア的にアリストテレスのエウダイモニアに行き着くんですが、その前に、すべてが商品化される資本主義経済に対して、著者は「すべてを民主化しろ」と叫びます。常々、このブログで私が主張しているところですが、資本主義経済と民主主義は矛盾します。民主主義は1人1票の制度ですが、資本主義経済では株主総会のような購買力による格差があります。この矛盾を背景に、著者は資本主義経済ではなく民主化の方向を志向します。この点はキチンと読み取るべきです。

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次に、飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所) です。著者は、明治大学の経済学の研究者であり、リフレ派に近いと私は認識しています。本書は、タイトル通りの内容を目指しているようなんですが、前半の「日本史に学ぶ」部分はともかく、タイトル後半の「マネーの論理」はどこまで迫れているのか、やや疑問です。本書の対象とする期間は、7世紀の律令制の時代、我が国では古典古代の時代から、19世紀の江戸期までで、近代は対象外となっています。そして、本書の冒頭は、白村江の戦いで倭が唐の水軍にボロ負けするところから始まり、唐に敗北した国家の再建、というか、国家とは広範囲における安定した統治の実現である、というところから貨幣の鋳造が志向された、と解説しています。まあ、本書のスコープからすればそうなんでしょうが、もちろん、貨幣鋳造以外にも、律令という名の法制度の整備、碁盤目状の街路を整備した首都、あるいは、宗教上のシンボルとしての大仏、などなど、少しは言及して欲しい気もします。そして、本書のスコープそのものであるマネーの論理、というか、貨幣論についても、かなりガサガサだというふうに私は受け止めました。貨幣とは、あくまで、他の人々も貨幣として受け取ってくれる、という同義反復的な定義が適用されるというのは、私もその通りだろうと思います。ただ、歴史を紐解いているわけですから、もう少し厳密に歴史に当たって欲しかったです。特に、史料の残っている江戸期については、私でも徳川幕府による三貨制の金貨・銀貨・銭だけでなく、いかにも封建的な領主による藩札の発行もあれば、堂島の米切手が貨幣と同じように、すなわち、みんなが貨幣として受け取ってくれるがゆえに貨幣の役割を果たしていた点も、中央政府の発行する貨幣でないから無視したのか、それともご存じないのか、私には判りかねますが、マネーの論理とともに、歴史についても、もう少し読み応えある展開が欲しかったです。決してブードゥー・エコノミクスではありませんし、右派的な経済論が展開されているわけでもないんですが、ピント外れというか、経済書にしてはとても物足りなかった読書でした。

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次に、リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(河出書房新社) です。著者はイングランドの歴史研究者です。本書の英語の原題は The Hungry Empire となっており、直訳すれば「腹ペコの帝国」とでもなるんでしょうか。2018年の出版です。ということで、大英帝国における食の探求と大英帝国の形成そのものの密接な関係について、グローバルな視点から歴史的に解き明かそうと試みています。4部20章の構成となっています。各章のタイトルが中身のトピックをかなり詳細に表現しています。大英帝国とは、明らかに、海の帝国であり、世界各地からいろんな食材と調理方法を本国に持ち帰ります。ただ、基本は食べる方ですので、カリブ海のラム酒なども垣間見えますが、お酒をはじめとする飲み物はメインではありません。大英帝国の本国は欧州の西端に位置する島国であり、産業革命を経て工業や商業、とりわけ金融業については世界をリードしていた時期が長かったわけですが、農業や食料生産については決して恵まれた条件にはなく、世界各地、特に北米植民地や大洋州のオーストラリア・ニュージーランドなどの農業生産に適した植民地からかなり大量に食料を輸入して食卓が出来上がっているわけです。また、帝国主義時代には戦争や軍事衝突も少なくなく、保存食の研究なども世界に先駆けて行われています。大英帝国の前のポルトガルやスペインなどによる大航海時代には、アジアの胡椒を入手するのが大きな目標だった時代もあるんですが、大英帝国では食そのものの通商が盛んになります。インドの紅茶にカリブ海やブラジルの砂糖を入れ、カナダやオーストラリアの小麦で作ったパンを食べる、といった大英帝国の食生活が徐々に確立していく段階を歴史的に跡付けています。ただ、必ずしも記述の順が一貫性なく、少なくとも編年体では構成されていません。ですから、場合によっては、章を進むと時代がさかのぼる、といったことも起こります。ただ、さすがに歴史から敷く、イングランドとイギリスの区別はちゃんとされています。ユーラシア大陸の反対側の東端に位置する島国の日本はほとんど登場しませんが、世界的な食生活の歴史がとても分かりやすく展開されています。グローバル化の進展の中で、EUを離脱しようとしている英国の栄光の時代の記録かもしれません。最後に、注を入れれば400ページを超えるボリュームで、とても面白い本ながら、読むにはそれなりの覚悟を要します。

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次に、北岡伸一『世界地図を読み直す』(新潮選書) です。著者は、長らく東大の政治学の研究者だった後、国連代表部大使を務め、現在では国際協力機構(JICA)の理事長職にあります。実は、私の高校の先輩で、その昔には東京の同窓会会長だったりもしたと記憶しています。本書は、新潮社の『フォーサイト』に連載されていたコラムを単行本に取りまとめています。副題は「協力と均衡の地政学」となっていて、確かに地政学的な考察も盛り込まれていますが、まあ、基本はJICA理事長として訪問した世界各国の紀行文に近いと私は受け止めています。ですから、悪くいえば、世界各国の実情について国際協力の供与サイドから「四角い部屋を丸く掃く」ような紀行文と考えるべきです。しかも、国際協力=ODA実施機関の理事長の訪問先ですので、ほぼほぼすべてが途上国となっていて、欧米をはじめとする先進国は取り上げられていませんし、中国も対象外となっているのかもしれませんから、やや世界地図や地政学を銘打つにしては対象が狭い印象があります。ということで、著者の視線としては3つのポイントを据え、すなわち、第1に、先進国や中国が抜けているにもかかわらず、地政学の観点からのアプローチを取ろうと試みています。この点は、私は専門外ながらハッキリいって、失敗しているよな気がします。これは取り上げている国に偏りがあるからで、先進国や中国に加えて、アジアでもASEAN創設時のオリジナル加盟国5か国がスッポリと抜け落ちています。第2に、日本とのかかわりの中で途上国をとらえようと試みています。この点はまあいいんではないでしょうか。ただ、JICAの前身が海外移住事業団でしたから、ブラジルなどはしょうがないんでしょうが、やや現地移住者からの情報に偏りがあるような気がしないでもありません。かなりさかのぼって、歴史的に我が国との関係を把握しているのは心強い限りです。最後に第3に、著者のJICA理事長職としての機能的あるいは権能的な部分だけでなく、研究者や国連大使経験者としての幅広い観点からの人脈が生かされているように見えます。この点はさすがであると受け止めています。JICA理事長には、かつての緒方貞子女史のような個性豊かな国際派が就任したりしていましたが、政治学の研究経験者もいいんではないか、と思わせるものがありました。でも、開発経済学の専門家もJICA研だけでなく、JICA本体のトップにもいかがでしょうか?

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次に、横山秀夫『ノースライト』(新潮社) です。著者は、ファンも多いベテランのミステリ作家です。最近では、映画化もされた『64』の原作を私は読んだ記憶があります。本書は、建築家、というか一級建築士の青瀬稔という人物を主人公に、その建築士が設計して、「平成すまい200選」にも選ばれた家の施主が一家ごと集団で失踪した事件を、その建築士が自ら謎を解明すべく事実の確認に当たる、というものです。そこに、主人公の家族、子供のころも父母と少し前までの妻と子供、離婚してから思春期に差しかかった娘、そして、勤務する小規模な建築事務所の直面する危機などを織り交ぜながら、かなり時間軸として長い物語が展開します。なぞ解きのミステリとしてはともかく、家族や人生を長期に展開する大作といえます。ということで、主人公の青瀬の子供時代は、父親がダム建設に関する熟練工でありことから、経済的には恵まれた状態にありながら、高度成長期の日本各地を転々とする生活を送ります。大学は中退したものの一級建築士の資格を取得し、バブル経済期には豪勢な生活を送って結婚もし子供もできる一方で、バブル崩壊後は転落の人生の危機を迎え、結局、大学の同級生が所長をする建築事務所に勤務するものの、結婚生活は破綻し子供とは月に1度しか会えません。そして、青瀬の代表作となり「平成すまい200選」にも掲載されたY邸の施主と連絡が取れなくなり、信濃追分のY邸まで青瀬が出向いたところ、Y邸には施主一家が引っ越した後がなく、タウトの椅子が置いてあるだけでした。他方で、青瀬の勤務する建築事務所は著名芸術家の記念ミュージアム建設のコンペに参加する権利を獲得したものの、市政との癒着を全国紙で指摘され、コンペは辞退し建築事務所の所長は入院した病院から転落死してしまいます。最後が、かなり一気に終わる、というか、途中までタマネギの皮をむくようにジワジワと真実に迫った青瀬なんですが、なぞ解き部分が建築事務所の所長の葬儀あたりから一気に進んで、割合とあっけなく謎が解明されます。そうでなくても、かなりのボリュームを要した大作ですから、これ以上長くするのにはムリがあったのかもしれませんが、ここまで余剰を残した終わり方なのであれば、もう少しなぞ解きの部分もゆっくりと進めるわけにはいかなかったのか、と、やや残念に思わないでもありませんが、途中まで見事に読者をミスリードしながら、実に見事、というか、やや不自然ながらも予期せぬ終わり方には、それなりの感慨もなくはありません。なお、タイトルは北からの採光を意識した住まいのつくりのことで、北半球では柔らかな採光になるような気がしますが、何度かこのブログでお示ししたように、私の在チリ大使館勤務のころの経験として、ごく当然ではあるんですが、南半球では太陽は北を回りますから、北向きのベランダの採光がすぐれています。どうでもいいことながら、ご参考まで。

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最後に、朝倉かすみ『平場の月』(光文社) です。何となく、舞台が東武東上線沿線っぽくって、朝霞、新座、志木といったあたりの地域性が出ているような小説です。基本は長編小説ですが、各章を短編に見立てて読めば立派な連作の短編集といえるかもしれません。読み方次第だという気もします。作者は北海道出身の小説家であり、私は不勉強にして、この作品を初めて読みました。この作品で山本周五郎賞を受賞するとともに、直木賞候補に上げられています。私はこの作品は大衆小説とかエンタメ小説ではなく、純文学であると受け止めています。まあ、私の解釈からすれば、落ちはない、ということです。そして、ラブストーリーです。50歳に手が届く中学校の同級生だった中年男女のラブストーリーです。ということで、舞台は埼玉の中でも東京に近い地域であり、登場人物は主人公の男性、青砥のほか、中学の同級生が多く登場します。特に、青砥が中学のころに告白したこともある須藤が青砥とペアをなします。青砥は検査を受けた腫瘍が良性であった一方で、須藤の腫瘍の方はがんと宣告されたりもします。そして、第6章、あるいは、第6話から須藤はストーマ、すなわち、人工肛門を付けることになります。抗ガン剤治療で髪も抜けます。そして、最後には須藤は死にます。50歳でがんなんですから、常識的に死ぬんだろうと思います。そういう意味では、ラブストーリーの中でも悲恋の物語なのかもしれません。第2章のタイトルにもなっていますが、「ちょうどよくしあわせ」というのがひとつのキーワード、というか、本書のテーマになっています。でも、ラブストーリとしては物足りません。50歳だから、というのでもないのでしょうが、燃え上がるものがない一方で、生活感が充満しています。ただ、それを評価する読者も少なくなさそうな気がします。私は、まあ、もういいかな、というカンジです。ワクワクする読書ではありませんでした。ただ、何度も逆接でつなぎますが、それがいいという読者もいそうな気がします。

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2019年7月11日 (木)

ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) を読む!

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ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。ご著者は、松尾先生と「ひとびとの経済政策研究会」となっていて、私は松尾先生にお礼のメールを差し上げておきました。すでに、役所を定年退職して、もともと大したことのなかった影響力がすっかりなくなったにもかかわらず、いまだにご著書をご寄贈いただけるのは有り難い限りです。
まず、どうでもいいことかもしれませんが、少しは気にかかるところで、本書タイトルの「左派・リベラル派が勝つ」というのは、何に勝つのか、という点なんですが、基本的に選挙に勝って政権を奪取する、という意味のようです。まあ、単なる選挙での躍進で議席数を増やして、与党が改憲に必要な議席数に到達するのを阻止する、というのも意味あるかもしれませんが、私はそれでは物足りません。政権を取って政策を実行する足がかりとすべきと考えます。また、どうでもいいことながら、自称マルキストの中には、政権奪取のためには選挙ではなく、もっと暴力的な手段に訴えかねない人たちがいる可能性は否定しませんが、私自身はそんなことはありませんし、おそらく、ご著者の方々も私と同じではなかろうかと想像できます。しかも、政権選択選挙ではありませんが、参議院議員選挙という国政選挙がすでに公示されているタイミングです。
本書は2部構成で、前半は松尾先生が左派・リベラル派の経済政策のバックグラウンドとなる理論を展開し、第1部の末尾にはQ&Aまで付し、第2部では選挙の際のマニフェストの案が示されています。ということで、世論調査や内閣支持率の分析から本書は始まります。そして、若い世代では経済政策を重視し現政権支持率が高い一方で、年配世代は内閣支持率低い、という事実を明らかにしています。私も定年退職するまで、総理大臣官邸近くのオフィスに通っていましたから、官邸や国会議事堂などに向けて何らかの意思表明する人々を見かけることも少なくなかったんですが、大雑把に、年配は左翼的な主張、若者は右派的な意見表明、というパターンが多かったような実感を持っています。そして、少なくとも、現在の安倍内閣で経済や雇用が改善したのは事実です。本書でも、pp.38-40のいくつかのグラフで定量的に実証しています。もちろん、背景には、その前の民主党政権の経済政策がパッとしない、というか、ハッキリいえば、ひどいものだったので、安倍内閣になってその前に民主党政権時の経済政策が否定されただけでOK、という面があるのも確かです。ただ、さらにその前を振り返れば、小泉内閣の時のいかにも右派的な構造改革という名の供給サイド重視の経済政策で実感なき景気回復の果てに、2008年の米国のサブプライム・バブル崩壊による世界不況が民主党への政権交代を促したのも事実です。ですから、1992年の米国大統領選挙時に、当時のクリントン候補が標榜していた "It's the economy, stupid!" というのは今でも真実なんだろうと思います。それに対して、本書で指摘しているように、左派・リベラル派は景気拡大に対してとても冷たい態度を示し、「脱成長」を主張する場合すらあります。ですから、年金をもらってぬくぬくと生活している高齢世代はともかく、リストラされないように必死に働いている若い世代の間で左派への支持が低いのは、ある意味で、当然です。本書でも、米国のトランプ大統領、フランス大統領選挙で一定の支持を集めたルペン党首、など、経済政策的には反緊縮で金融緩和支持の左派的な政策志向を示すポピュリストが少なくないと指摘しています。実は、ナチスのヒトラーがそうだったわけですが、同時に、現在では、欧米の主要な左派、すなわち、英国労働党のコービン党首、スペインのポデモス、米国のサンダース上院議員などと大きな違いはありません。ですから、本書で明確に指摘されているわけではありませんが、右派と左派で大きく経済政策が異なるのは先進国では日本くらいのものかもしれません。第2部の選挙マニフェスト案では、消費税を5%に戻すとともに、法人税を増税し、所得税の累進性を強化することにより、医療や教育の充実を図る、との方向が示されています。従来から、私はインフラ投資はまだ必要なものが残っている、と主張しているんですが、第2部のマニフェスト案でも必要な公共投資は実行するとされています。そして、ベーシックインカムの導入に加えて、目立たないんですが、TPPは白紙に戻すとされています。私は全面的に賛成です。ただ、私の単なる趣味かもしれませんが、ベーシックインカムが格差是正の政策というのは理解するものの、ベーシックインカムと累進税制の強化のほかにも何か格差是正策があれば、なおいいんではないかと思います。

最後に、本書でも簡単に触れられているんですが、米国のサンダース上院議員の経済ブレーンであるケルトン教授らの支持する現代貨幣理論(MMT: Modern Monetary Theory)に関して、現時点では直感的に成り立つ可能性を私は感じているんですが、不勉強にして、それほど大きな確信があるわけではありません。その昔の税収に関するラッファー曲線は、レーガン大統領の時のブッシュ副大統領が "voodoo economics" と評したらしいんですが、よく考えると、税率ゼロで税収ゼロは当然としても、税収は税率の上昇に従った単調な増加関数ではない可能性も十分あり、どこかで税収を最大にする税率がありえることは直感的に理解できなくもありません。ラッファー曲線と同列に議論するのは気が引けるものの、現時点では日米両国の財政当局や中央銀行からMMTはかなり批判されているように見受けられる一方で、確かに、財政赤字がGDP比で発散すれば何らかの不均衡を招く可能性が高いと私は考えるものの、自国通貨建ての国債発行で財政資金を調達し、その国債は中央銀行が市中から買い上げれば、いわゆる「雪だるま式」に発散しない可能性も理解できなくもありません。もう少し勉強したいと思うのですが、なかなか能力も時間も不足しています。

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2019年7月 7日 (日)

先週の読書は前週に続いて経済書は失敗読書ながら計5冊!!!

今週は、年度初めの4~6月期のお仕事がピークで、昨日に米国雇用統計が入って読書日が1日多いにもかかわらず、先週に続いて少し失敗読書の経済書を含めて、以下の5冊です。昨日の土曜日午前中が梅雨の中休みで図書館回りを終え、今週も話題の経済書をはじめとして数冊の読書になりそうです。

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まず、松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。作者の松尾先生からご寄贈いただきました。ただ、昨日のお届けだったもので、さすがに、まだ読んでいません。日を改めて単独で取り上げたいと思います。先週の読書計5冊の外数です。

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まず、ビョルン・ヴァフルロース『世界をダメにした10の経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者はフィンランド出身のエコノミストであり、ハンケン経済大学教授を務めた後に米国の大学でも教えたが、1985年に銀行業に転じ、1990年代前半に投資銀行を起業し、現在は北欧最大級の金融コンツェルンであるサンポ・グループの経営者となっています。原題は DE 10 SÄMSTA EKONOMISKA TEORIERNA なんですが、このままでは理解できないので、英語では The Ten Worst Ideas in Economics となるようです。2015年の出版です。ということで、典型的な右派エコノミストの理解なんですが、「邪悪な理論」と指摘され各章のタイトルになっているアイデアに番号を振って整理しつつ羅列すると、(1)緊縮財政は経済成長の足かせになる、(2)資本主義は搾取を生みだす、(3)増税は財政赤字の穴埋めになる、(4)格差是正は経済成長につながる、(5)「インフレ」とは消費者物価の上昇である、(6)市場は非効率である、(7)金利はマイナスにできない、(8)自由市場は存在しない、(9)「陶酔的熱病、恐慌、崩壊」は資本主義の宿痾だ、(10)インフレ退治が中央銀行の唯一の仕事である、ということになります。いつもの論理のすり替えに近いんですが、誰も主張していないことに対して「邪悪な理論」としてあげつらっているものもありますし、まったく的外れなものも少なくありません。特に、あまりまじめに正面からコメントしたくもないんですが、第5章のインフレに対する見方はそれなりに同意できる部分があります。すなわち、貨幣なしの物々交換であればインフレは生じない、という指摘です。ですから、インフレとは物価上昇ではなく貨幣価値の下落であり、それ以外は相対価格の変化に過ぎない、というのは事実なんだろうと思います。

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次に、伊丹敬之『平成の経営』御厨貴・芹川洋一[編著]『平成の政治』(日本経済新聞出版社) です。6月15日の読書感想文で取り上げた『平成の経済』とともに、平成3部作をなす経営と政治の2冊を読みました。経済の平成は明らかにバブル経済とその崩壊で特徴づけられるんですが、経営については、当然ながら、経済と同じでバブル経済とその崩壊が大きく影響します。他方、政治では、何といっても、国際的には冷戦の終了と国内的には小選挙区制の採用が大きな平成の特徴と考えるべきです。ですから、政治的には米ソの冷戦が終了し、米国がソ連や社会主義陣営を圧倒したわけですが、平成の初期には経済や経営ではバブルに浮かれた日本では、政治はともかく、経済や経営では米国よりも日本の方が先進的である、という誤解がったのも確かです。もちろん、バブル経済が崩壊して長期の停滞に陥った日本では、やっぱりダメなのか、という空気が蔓延したのも事実です。ただ、マクロ経済と違って、個々の企業や、あるいは、産業では経営的に優劣がつくわけで、『平成の経営』では自動車産業を持ち上げる一方で、電機産業についてはシャープやサンヨーなどの消滅会社もあるわけですから、厳しい目で見ています。政治にせよ、経営にせよ、ガバナンスという意味では大きな変化が平成の時代に生じています。すなわち、経営では従業員が圧倒的な比重を占めていたところに、株主という要素がジワジワと大きくなっています。グローバル化が進み、ストックとしての株主構成では外国人の比率は決して大きくないものの、売買高ではかなりのウェイトを占め、ガバナンスの点からは外国人の圧力に負けた、というわけでもないんでしょうが、株主への配慮が欠かせなくなっています。他方、政治の政党のガバナンスについては、小選挙区での公認候補に対する影響力から、政党執行部のパワーがとてつもなく大きくなりました。2005年の郵政選挙における「刺客」などに見られる通りです。最後に、とても興味深い点で、私は現在の安倍政権の経済政策がとても左派的であると考えているんですが、『平成の政治』では経済政策だけでなく、安倍内閣そのものの左派制を強調しています。でも、護憲の左派に対して、改憲を大きな政治的目標に掲げているんですから、これは少し疑問が残ります。

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次に、鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟』(白水社) です。作者は団塊の世代の生まれで、翻訳書を中心とした編集に携わってきたエディターです。本書では、その編集者としての経験から、書物の出現に始まる読書という知的行為と、それに関して記憶という精神作用の間にはどのような歴史があるのかを東西の経験からひと解いています。読書や本という物体は、アレクサンドリアの図書館を例外とすれば、西洋ではキリスト教のカトリック修道院に期限があり、本書でも指摘しているように、文字の記録としての本という形では、ラテン語で記録されているばかりでした。これは信じがたいんですが、その昔のラテン語は文字がびっしりと続いており、アイルランドでようやく単語間にスペースを置く分かち書きが始まり、さらに、コンマやピリオドなどのパンクチュエーションが始まったようです。そうでないと読みにくくて仕方なかったんでしょう。ということで、私は自分をそれなりの読書家であると自任しており、このブログも毎週土曜日の、今週だけは米国雇用統計が間に割って入って日曜日ながら、読書感想文がひとつの売り物になっていますから、通勤やなんやで聞き流しているモダンジャズの音楽鑑賞よりも重視しているつもりなんですが、本書広範の記憶という面では考えさせられるものがありました。ついつい、HDに入っている250枚くらいのアルバムのモダンジャズの音楽をウォークマンで聞き流すのと同じで、私は年間に250冊から300冊位の読書なんだと思うんですが、ついつい読み飛ばして頭に残っていない、というか、記憶に残っていないような気がしないでもありません。私の考える限り、それでいい読書もあります。それは事実です。まあ、何といいましょうか、要するに時間つぶしというヤツです。それはそれで読書のひとつの効用ですが、もちろん、すべての読書がヒマ潰しでよかろうハズもなく、頭にいれるべく勉強んの読書もあるハズです。その比率の問題なのかもしれません。

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最後に、ピーター P. マラ & クリス・サンテラ『ネコ・かわいい殺し屋』(築地書館) です。著者は鳥類学者とサイエンスライターです。英語の原題は Cat Wars であり、直訳すればネコに対する戦争、とでもなるんでしょうか、いずれにせよ、ネコの捕食される、というか、狩られる方の鳥類学者の著作ですので、ネコに対する憎しみに満ち溢れているように私には見えます。ということで、これはおそらく事実なんだろうと思うんですが、ネコが人間によって連れて来られて、侵略的な外来種として在来種の絶滅に加担したのは事実なんだろうと私は思います。ただ、おそらく私を含めた多くの人々と著者では、自然というものに対する定義と評価関数が大きく違うと読んでいて気づきました。私の直感では、著者のいう自然とは、著者の考える自然であって、ミルの『自由論』の考え方を借りれば、いわば、トピアリーのような、著者の考える自然を持ってよしとし、ホントのあるがままの自然ではないような気がします。もちろん、あるがままの自然には天然痘ウィルスがいたり、マラリアが蔓延していたりするわけで、そういったものは自然界から駆逐することが許容されると私も同意します。しかし、ネコを天然痘ウィルスと同列に考えて、在来種の復活のために駆逐することに同意する人は少なそうな気も同時にします。ニュージーランドの鳥類の例が本書冒頭に取り上げられていますが、それなら、ニュージーランドに入植した欧州人を去勢して、マオリ族という在来種を復活させようという意見は、おそらく、許容されないような気がします。北米大陸での欧州人および黒人とネイティブ・アメリカンについても同じであろうと私は考えます。だから、ネコもOKというのは短絡的に過ぎるかもしれませんが、著者たちの一派の考えがすべて正しく、それが「自然」というものなのであり、それ以外の考えはすべて非科学的、と言わんばかりの主張には同意できない点がたくさんあった、ということは書き記して残しておきたいと思います。

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2019年6月29日 (土)

今週の読書は経済書の読書に失敗しつつ計6冊!!!

今週も、梅雨のうっとおしいお天気が続く中で、それなりに読書に励み、以下の通りの計6冊を読みました。経済書は1冊だけだったんですが、とんでもない失敗読書でした。先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みのトンデモ経済学が展開されていました。その分、とても私好みの左派的な英国労働党コービン党首にスポットを当てたノンフィクションを読みましたので、これは読書の甲斐がありました。

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まず、野口悠紀雄『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎) です。著者は、財務省から学界に転じたエコノミストです。ですから、相も変わらずに、ものすごく上から目線の仕上がりになっています。ということで、いきなりネタバレかもしれませんが、結論を先取りすると、要するに、昭和の時代から続いてきたバブル経済に浮かれて世界経済の変化を見抜けず、従来手法による対応しか取れずに変化への対応を誤った、ということになります。ここでの対応とは、必ずしも政策対応に限定せず、企業経営の方にむしろ比重が置かれています。政策対応として特徴的なのは、これまた従来からのこの著者の主張で、金融政策は景気局面によって非対称であり、景気引き締めには有効性が高い一方で、逆の景気浮揚策としては力不足、というか、ほとんど有効ではない、ということになります。ですから、物価目標はヤメにして、実質賃金上昇率を金融政策の目標とすべきであるとの議論を展開しています。というか、全然展開していないんですが、主張はしています。とても矛盾していることは著者ご本人は気づいていないようです。世界経済の大きな変化は、ひとつには、インターネットの普及に依る部分があり、著者はインターネット上にポータルサイトを作ろうと試みたことがあるようで、その時点ではアマゾンやヤフーとそう違わないポジションだった、と自慢していますが、それを企業化できないところが、すなわち、企業の新陳代謝の少なさが我が国経済のひとつの弱みになっていることは気づかないようです。政権交代による民主党内閣の成立が平成という時代を画するひとつの特徴だったと私は考えているんですが、わずかに、この民主党政権の評価はいい線いっています。ほとんど実現する裏付けない公約で政権交代したところで、なんの意味もなかったというのは明白です。ほかは、インターネットのポータルサイトと同じで、かなりのボリュームが著者の自慢話した個人的な平成回顧に当てられています。特に、第4勝広範のスタンフォード大学でのサバティカルについては、なんの意味もなしておらず、単なる自慢話と個人的な回想にとどまっています。せめて、第5章の米国の住宅バブルを取り上げたところに入れれば格好もついたような気がするんですが、編集者の責任もあるかもしれません。もともと、左派エコノミストである私とは主張が大きく食い違っていますし、経歴からしてガンガン上から目線で迫ってくるわけですが、著者もお年を召したような気がして、ややモノにならないように思えてなりません。ハッキリいって、先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みの失敗読書でした。

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次に、アレックス・ナンズ『候補者ジェレミー・コービン』(岩波書店) です。著者は、ライター・ジャーナリストのようですが、2018年から、まさに、労働党のコービン党首のスピーチライターを務めています。本書の英語の原題は The Candidate であり、初版が2016年に出版された後、最終第15章に2017年の英国総選挙を増補した改訂版が2018年に第2版として出版されており、本邦訳書はその第2版を底本として翻訳されています。ということで、初版本は英国労働党の投手戦でジェレミー・コービン現党首が選出されるまでのドキュメントであり、繰り返しになりますが、増補第2版において2016年のBREXIT国民投票や2017年英国総選挙に関するルポを含めるようになっています。上下二段組で400ページを超えるボリュームです。軽く英国労働党の最近の歴史をおさらいすると、ご案内のように、1997年にブレア党首がニュー・レイバーとして、まあ、何といいましょうか、右派を代表した現実路線から選出された上で総選挙にも勝利し政権を奪取したんですが、例の2001年のアル・カイーダによるテロ、9.11ニューヨークの貿易センタービルへのテロに対する報復で、英国は米国とともにイラクへの多国籍軍の中心となり、結局は、米国ブッシュ政権に加担しただけでの結果に終わり、さらに、2008年の米国サブプライム・バブル崩壊の余波をもっとも大きく受けた国のひとつとして、労働党は大きく国民の支持を失い、ニュー・レイバーのブレア-ブラウン政権から2010年の総選挙で労働党は敗退し、ミリバンド党首を経て、本書の舞台となる2015年の労働党の党首選において現在のコービン党首が選出されています。2017年の英国総選挙においては、労働党の政権返り咲きこそならなかったものの、選挙前の大方の予想を裏切って大躍進を果たし、英国保守党を過半数割れに追い込みました。本書では、コービン党首を始めとして、どうしても人物を中心に据えて語られていますので、私のように英国政治のシロートにはやや難しいところがありますし、いろいろと魑魅魍魎の跋扈する陰謀論的な政治の世界は判り難いんですが、私自身左派エコノミストを自称していますし、経済政策的には反緊縮や国民本位の財政支援、あるいは、を志向する左派的な経済政策でもって、労働党員の間でも、国民の中ででも支持を拡大したコービン党首の政策志向は大いに賛同できるものです。我が国の社会主義政党を振り返って、その昔の社会党にはいわゆる「左翼バネ」というものがあり、選挙や大衆運動で苦境に陥った際には左派的な政策志向が社会党に作用して、「苦しい時の左派頼み」のような方向性が打ち出される傾向があったように記憶していますし、英国でも同じような「左翼バネ」があるのかもしれませんが、私のような左派のエコノミストから見れば、本書でいうような反緊縮や反貧困・反格差の経済政策は正しい方向性を示していると考えています。特に、コービン支持に回った若年層の置かれた状況は、英国でも日本でも大きな違いはないように感じています。本書で示された、著者のいうコービン党首に目立つ「個人的な温かみや寛容さ」、そして「誠実さ、原則を守る姿勢、倫理的な力」などとともに、こういった個人的な資質にとどまらない左派的な政策志向も読み取るべきではないか、と私は考えています。

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次に、富増章成『読破できない難解な本がわかる本』(ダイヤモンド社) です。上の表紙画像にあるように、世界の名著60冊のダイジェスト的な解説本なんですが、巻末に参考文献がツラツラと記されており、著者もオリジナルの古典はほとんど読んでいないようです。世界の名著の解説書を読んだ上でのコンパクトな解説に仕上げた、といったところです。私は基本的にこういった古典の解説書は評価しないんですが、何を血迷ったか、ついつい手が伸びてしまいました。誠に残念ながら、60冊の大量のダイジェストですので、あまり頭に入らず、モノにならなかった気がします。やっぱり、古典はちゃんと読まないとダメな気がします。私は海外に出た折には国内では出来ないことをしようと試み、スポーツに勤しむとともに、ボリュームのある古典的な名著を読むことに挑戦しています。チリに行ったときに失敗したんですが、やっぱり、本場ラテンアメリカのスペイン語の本を読もうと考えて、ガルシア-マルケスの『100年の孤独』を丸善で高い値段で洋書を買って持って行ったのはよかったんですが、よくよく考えれば、チリではスペイン語の本はお安く売られていて、到着後に現地で買えばよかったと後悔した記憶があります。それはともかく、ジャカルタではフロムの『孤独な群衆』とブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読みました。上の倅が大学に入って心理学だか、社会学だかを勉強するといい出した折に、私の本棚にある『孤独な群衆』を見て、それなりに関心してくれたのを思い出します。本書でも取り上げられています。ただ、ブルクハルトは取り上げられていません。また、このブログにも書いた記憶がありますが、定年退職するまで奉職していた経済官庁の採用面接で、「大学時代に何をしましたか」というありきたりな質問に対して、経済学の古典を勉強したことについて言及し、スミス『諸国民の富』、リカード『経済学と課税の原理』、マルクス『資本論』、ケインズ『雇用・利子及び貨幣の一般原理』を読んだと自慢して感心されたことがあります。特に、ほかはともかく、『資本論』を学生のころに読んだキャリア公務員は少ないだろうといわれてしまいました。最後に、忘れていた著者についてですが、大学の哲学科や神学部を卒業し、予備校で日本史などの社会科系の学科の講師をしているそうです。ですから、哲学や社会科学系の本が多く取り上げられており、こういった名著の中に、当然に入るべき、ニュートンの『プリンピキア』やダーウィンの『種の起源』が落ちていて、ついつい笑ってしまいました。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界が動いた「決断」の物語』(朝日新聞出版) です。著者は、ジャーナリストではなさそうですが、いわゆるノンフィクション・ライターを職業としているようなカンジです。よく調べが行き届いているという点では、ジャンルはまったく異なりますが酒井順子のエッセイを思わせるものがあります。英語の原題は Farsighted であり、2018年の出版です。この著者は何冊かベストセラーを書いているんですが、この著者の本では、私は昨年2018年1月27日付けで同じ朝日新聞出版から出ている『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』の読書感想文をアップしています。ということで、本書はタイトル通りに決断、意思決定のノンフィクションです。ただ、意思決定に関しての研究者ではありませんから、それほど深い内容ではなく、一般向けの本と考えるべきです。題材になっているのはいくつかのエピソードであり、特に私の頭に残っているのはビン・ラディンを急襲する件に関する当時の米国オバマ大統領の決断、そして、決断へ至るまでの情報収集についてが秀逸です。ほかにも、ダーウィンの結婚や人生の岐路に立った際の決断も取り上げていますし、いろいろあります。こういった個別具体的なエピソードについて、第1章から第3章までを使って、情報収集とそれに基づく予測、そして、何といっても本書のタイトルである決断について考察しています。基本的な方法論はトベルスキー-カーネマン的な経済心理学や行動経済学です。プロスペクト理論こそ出てきませんが、損失回避や限定合理性などを基礎にした考察がなされています。4章と5章では、グローバルに考えるべき決断と個人の問題を持ち出しています。最後の個人の問題とは、ニューヨークから温暖なカリフォルニアに引っ越す際の著者個人の体験に基づく引っ越しの決断で、ちょっとどうかなという気もしました。まあ、ほかのエピソードはともかく、当時の米国オバマ大統領がビン・ラディンを襲撃するに際して行った決断の件だけでも、経済心理学や行動経済学の観点から考えるとこうなる、という考察が示されており、それなりに読む価値はあることと思います。

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次に、新井一二三『台湾物語』(筑摩選書) です。著者は、ジャーナリストを経て明治大学の研究者です。本書の副題は『「麗しの島」の過去・現在・未来 』となっており、台湾等の別名である美麗島にちなんでいます。まず、簡単な台湾の近代史のおさらいですが、日清戦争の賠償の一環として1895年に当時の清から日本に割譲されます。本書に従えば、台湾にいる人々の一部は列強の介入を求めて運動したようです。でも、遼東半島と違って台湾は返還されませんでした。そもそも、朝鮮半島のように戦場になるわけでもなく、どうして台湾が日本に割譲されたのかといえば、まあ、本書では何も触れていませんが、清から見てそれほどの価値がなかった、ということなんではないかと私は勝手に想像しています。そして、1945年の終戦まで50年間に渡って日本の統治下にありました。本書でも盛んに登場しますが、李登輝元総統の言葉で「私は22歳まで日本人だった」というのがあります。帝国主義的な植民地政策の一環でしょうから、良し悪しは別にして、台湾には日本語ネイティブの人が少なくないようです。その台湾も、1949年に大陸で共産党政権が成立して中華人民共和国となり、国民党の残党が蔣介石を筆頭に200キロの海峡を中国本土から台湾に渡って来て、事実上の亡命政権が成立します。日米をはじめとして少なからぬ国がこれを中国正当の国家として認め、国連にも常任理事国として参加したりします。その後、長らく続いた戒厳令も終わり民主化されて、国民党ではない民進党の総統が選挙で選出されたりします。ですから、いまだに本省人と外省人の差別があったりもしますし、国民党政権が渡って来た当初には中国語を理解しない台湾人も少なくなかったといいます。むしろ日本語だったらしいです。そういった日本でそれほど話題にならない台湾にスポットを当てています。観光資源としての有名な名所や温泉地、もちろん、グルメスポットなども紹介されています。昨年度下期のNHK朝ドラの「まんぷく」のチキンラーメン、というか、日清食品創業者の安藤百福も台湾人だと記憶しています。また、本書の中のトピックで、私が唯一知っていたと自慢できるのは2007年に封切られた映画の『練習曲』から流行り始めた「環島」です。主人公がギターを背負って自転車に乗り、高雄から反時計回りに台湾島をぐるっと一周するだけの、ロードムービーです。私は長崎でこの映画の上演会に出席した記憶があります。まあ、同僚教員が参加している市民オーケストラの演奏会にも行きましたし、単身赴任で時間があったんでしょう。それはさて置き、長崎はさすがに東京よりも中国や台湾やアジアに近い、と実感したことを覚えています。なお、知っている人は知っていると思いますし、今の映画の説明でも理解できようかと思いますが、「環島」とは、自転車やオートバイ、あるいは、鉄道でぐるっと台湾を一周することで、島ですから海沿いの道や鉄道が多いらしく、亜熱帯の海の風光明媚なところを堪能できるといいます。海沿いですから大きな起伏もないでしょうし、私も定年になったら自転車で1~2週間ほどかけて台湾を環島したいと、かねがね思っていました。でも、現実は、「貧乏暇なし」でいつになったら体が空くのか判ったものではありません。

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最後に、米澤穂信『本と鍵の季節』(集英社) です。著者は、私も好きな人気ミステリ作家の1人です。主人公は高校2年生の男子生徒2人、堀川次郎と松倉詩門で、ともに図書委員です。ですから、本書のタイトルの前半は「本」となっています。なお、どうでもいいことながら、日本語タイトルの「季節」は上の表紙画像に見られるように、英文タイトルには現れません。そして、後半の「鍵」は主人公のうちの1人が探す父親の自動車の鍵です。地理的な舞台が東京西部の北八王子にあるとされている公立高校の図書室を起点としますから、何となく古典部シリーズと似た雰囲気を感じ取る読者もいるような気がします。6編から成る短編集ですが、第1話の「913」は金庫を開ける暗号ミステリを中心に据えており、私は何かのアンソロジーで読んだ記憶があります。第2話以下の5編は初めてのようです。第2話以下のタイトルは順に、「ロックオンロッカー」、「金曜に彼は何をしたのか」、「ない本」、「昔話を聞かせておくれよ」、「友よ知るなかれ」となっており、最後の2話が鍵にまつわる物語です。高校2年生の男子2人を主人公に、図書室から始まるストーリーながら、それほど軽いトピックではありません。年寄りを死んだことにしたり、美容院の窃盗、校内暴力で割られたガラス、自殺した高校3年生の読んでいた本、そして最後の2話は、犯罪を犯して刑務所に収監されている男が隠した盗品探し、がそれぞれのテーマとなっています。ですから、同じ作者の古典部シリーズとか、小市民シリーズのような日常の話題に即した軽い謎解きミステリではなく、モロに犯罪が絡んで来ますので、その意味で、重いストーリーといえます。しかも、最終話は完結させていません。作者が意図的に完結させていないわけですので、続編はないもの、と私は受け止めています。あるいは、続編があっても、主人公が1人に減っているものと考えられます。最後に未読のファンに対するご注意で、繰り返しになりますが、高校2年生が主人公とはいっても、古典部シリーズや小市民シリーズのような日常的な謎解きを含んだ青春物語ではありません。モロの犯罪や人死にに2人の高校生が向き合っています。

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2019年6月22日 (土)

今週の読書は歴史上の偉大なエコノミスト12人の伝記をはじめ小説も含めて計7冊!

一昨日の木曜日6月20日に、ご寄贈いただいた松尾匡[編]『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) を取り上げましたが、今週の読書はほかに、以下の通り、私の予想に反して意外と人気の出なかった『アダム・スミスはブレグジットを支持するか? 』はじめとして、経済書を中心に以下の6冊です。実は、先週取り上げた『「追われる国」の経済学』についても、私はもっと話題になるんではないか、と考えていたんですが、どうもそれほど注目を集めているわけではないようです。官庁エコノミストを定年退職してから、私の読書眼もやや鈍っているような気がします。

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まず、リンダ・ユー『アダム・スミスはブレグジットを支持するか?』(早川書房) です。著者は、英国のキャスターであるとともに、オックスフォード大学で経済学博士号を取得しているエコノミストでもあります。英語の原題は The Great Economists であり、2018年の出版です。本書では、邦訳タイトルのように、アダム・スミスが英国のEU離脱を支持するかどうか、など、歴史上の著名なエコノミスト12人が現代的な経済課題にどう答えるか、という体裁を取っていますが、もちろん、そんなことにストレートに回答できるハズもなく、実は、12人のエコノミストの伝記になっている、と考えるべきです。私が読んだ限りでは、少なくとも、アダム・スミスがBREXITを支持するかどうかは明確ではありませんでした。私が読み逃しただけかもしれませんが、まあ、そんなことは判りません。スミスが自由貿易を支持したことは明記されていますが、そんなことは本書を読まなくても理解できるでしょう。ただ、今さらながらに思い起こしてしまったのは、マルクス的な共産主義の最も基本は公平と公正だということです。でも、マルクスが現在の中国経済をどう評価するかは、確かに、ビミョーなところかもしれません。ほかにも基本的なラインを思い出したのは、マーシャル的な経済学は政策科学であり、政策的な解決策を提示する必要ある、というのは重要なポイントだと思います。私はエコノミストとして、現状判断はそう無理なくできるような気がしますが、コンサル的に処方箋を書くのは少し苦手だったりしますので反省しています。かなり現在に近くて、それだけに仮定的な判断のあり方に興味あったのは、リーマン・ショック後の金融危機に対するフリードマン教授の対処方法です。本書の著者は、フリードマン教授は日本に量的緩和をオススメした実績もあり、FEDが当時のバーナンキ議長の下でQEを実施したのは支持するだろうと判断しています。私もそうなんだろうと思います。ということで、最後に、繰り返しになりますが、現代的な経済問題に対する歴史上の偉大なエコノミストの対応を仮定的にせよ期待するのではなく、あくまで、偉大なエコノミストの生い立ちを含めた伝記だと思って読み進むことをオススメします。

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次に、森信茂樹『デジタル経済と税』(日本経済新聞出版社) です。著者は、財務省から退官後は研究者に転じた税法の専門家です。実に興味あるタイトルであり、例のロボット課税とか、あるいは、税制ではないにしてもベーシック・インカムの議論なども収録されていますが、基本は、かなり課税に関するテクニカルな議論が展開されていると考えるべきであり、その意味でかなり難しい内容です。私は半分も理解できた自信はありません。ただ、GAFAなどのIT大企業がタックスヘブンの利用や極めてアグレッシブな課税回避スキームの利用で、ほとんど税金を収めていないのは広く知られた通りです。本書では、double Irish with a Dutch sandwitch などの手法を詳細に解説しており、経済協力開発機構(OECD)の試算では1,000~2,400億ドルの課税漏れが生じている、などと紹介しています。ただ、これも本書で取り上げていますが、こういった課税逃れについては、まっ先に指摘されたのは英国におけるスターバックスです。結局、本書でも指摘しているように、スターバックスは自発的に年間1,000万ポンドの納税を行っているそうですが、要するに、デジタル経済でなくても、本書で指摘しているようなアグレッシブなものも含めたタックスへ分bを利用した移転価格による課税逃れは、多国籍企業には広く見られるものではないのか、という気はします。すなわち、デジタル経済特有の問題ではないと私は考えます。これも、本書で取り上げられている武富士創業者一族による相続課税逃れも同じです。その意味で、最初に触れたロボット課税とか、AIとロボットによる雇用の喪失に伴うユニバーサルなベーシック・インカムの問題こそがデジタル経済に特有の税制問題であろう、と私は考えるんですが、本書では極めて限られたスペースでしか論じられていません。誠に残念です。

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次に、野村総合研究所『ITロードマップ 2019年版』(東洋経済) です。これも、税制の本と同じで、工学的な技術、それも、この先5年位を見据えた技術動向ですから、誠に情けないながら、私にはサッパリ理解できない内容だった気がします。毎年出版して、今年で14冊目、ということのようですが、恥ずかしながら、私は初めて読みました。今まで何をしていたのかは不明だったりします。これまた、半分も理解できた気がしませんが、巻末に用語解説がありますので、場合によっては、先にそれに目を通しておくのも一案かもしれません。日本語の用語集で、エンティティや決定木くらいならともかく、勾配ブースティングになると、私にはサッパリ判りません。また、量子コンピュータというのは何度も聞いたことはあるものの、0と1だけでなくその中間的な値を取れる、などと解説されても理解にはほど遠い気がします。工学的な技術動向に疎いエコノミストに理解できて興味あったのは、例えば、Amazon Go といった無人店舗の拡大と雇用の問題とか、AIに特化したチップの製造が試行されているとか、3Dプリンタによる製造が試作品などの付加製造からより幅広く実用化される方向にあるとか、といった点です。特に、カスタマー・エクスペリエンス(CX)から、今後はエンプロイー・エクスペリエンス(EX)の現実化に進むといわれれば、そうかもしれないと考えたりもします。アリババが国家と一体化して進めているように、信用スコアの構築と実用化なんかも今後の課題になりそうです。セキュリティ面で、Google のゼロ・トラスト・モデルで、ソフトウェアも、人も、何も信用しない、というのはゼロ・トレランスからの発想だろうか、と思わないでもありません。最後に、どうでもいい指摘で、データ・サイエンティストがセクシーであるというのは、2012年の『ハーバード・ビジネス・レビュー』ではなく、もっと前の『マッキンゼー・クォータリー』ではなかったか、と私は覚えています。私が統計局に出向したのが2010年の夏で、その着任挨拶で引用した記憶があります。

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次に、羽賀祥二[編]『名古屋と明治維新』(風媒社) です。編者は、名古屋大学をホームグラウンドとしていた研究者で、すでに引退しているようです。チャプターやコラムごとの著者には、名古屋市博物館や蓬左文庫の学芸員などが名を連ねています。ということで、あまりまとまりもなく、統一性や整合性も十分ではないような気もしますが、それぞれの観点から幕末から明治初期の名古屋について歴史的に跡付けています。というのは、私のようなシロートから見ても、明治維新の立役者は薩長土肥といった西南雄藩であり、その敵役は会津藩などであり、徳川政権の親藩ご三家については、第8代将軍吉宗以来の伝統で、14代の家茂もそうなんですが、宗家の本流といっても差し支えないくらいの紀伊、逆に、徳川宗家とは距離を置き反体制派的な色彩すらある水戸、に対して、親藩ご三家筆頭ながら何となく特徴に欠ける尾張、という受け止めが一般的ではないでしょうか。ですから、新政府軍は名古屋を素通りしたりしています。ただ、支配階層から見た歴史はそうなのかもしれませんが、民衆の指示というのは目には見えなくても不可欠なわけで、例えば、本書でもp.57に新しい勢力の一半として、薩摩芋や長芋で薩長を暗示しつつ、尾張大根もOKといった政治風刺のチラシが紹介されているなど、当時の一般国民レベルでは尾張藩も薩長土肥と同列とはいわないまでも、改革派と見なされて支持されていたようです。ただ、やや強引に見える立論もあり、例えば、青松葉事件から尾張藩関係者が明治新政府で栄達しなかった原因を探るのはムリがありますし、入鹿池の決壊から成瀬・竹腰両付き家老の勢力伸長を解き明かそうと試みるのも強引な気がします。いずれにせよ、ややまとまりに欠ける名古屋論集だという気がして残念です。

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次に、柚月裕子『検事の信義』(角川書店) です。著者は、本書の検事佐方貞人シリーズなどで売れっ子のミステリ作家です。本書はシリーズ4作目だそうですが、私は過去3作すべて読んでいると思います。本書は著者の作家デビュー10周年記念作品だそうで、佐方貞人を主人公とする短編4作を収録しています。主人公のモットーは「まっとうに罪を裁かせる」であり、真実に迫る姿勢が好ましく感じられます。私自身は、かなり融通を利かせる方ですので、やや取り組み方の姿勢が違っているんですが、「青臭い」部分もある佐方健司検事の方に共感を寄せそうな読者がいっぱいなんでしょう。ということで、舞台は平成10~12年ころ、約30年前の東北地方にある架空の県庁所在都市である米崎市の米崎地検に勤務する検事の佐方と佐方を補佐する事務官の増田、地検で佐方の上司に当たる副部長の筒井、さらに捜査機関である米崎東警察の南場署長らの登場人物がお話を進めます。佐方は任官4~5年目ですから、まだ30歳前後であり、米崎市は東京から北に新幹線で2時間だそうですから、ほぼほぼ仙台をイメージしてよさそうです。軽いミステリの謎解きになっていますが、謎解きが主眼の小説ではありません。むしろ人間模様というか、人間性の発露のようなものを描くのを目的とした小説です。ということで、私はこのシリーズの中では主人公の佐方検事や補佐役の増田事務官もさることながら、上司の筒井副部長のキャラが好きです。第2話の終わりの方に「俺は、恨みは晴らさないが、胸に刻む主義だ」とうそぶいていたりします。佐方は「覚えておきます」と答えています。なかなかの会話だという気がします。

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次に、久住祐一郎『三河吉田藩・お国入り道中記』(インターナショナル新書) です。著者は、豊橋市美術博物館の学芸員です。冒頭に、「古文書から読み解く参勤交代の真実=リアル」とあるように、徳川後期の参勤交代について、譜代大名で三河吉田藩に封じられている松平家の若殿様が、天保年間に父親の名代としてお国入りする際の大名行列について、目付けとして実務を担当した藩官僚の記録から解明を試みています。ところが、ページ数のボリュームで数えて、⅔くらいまで実際の参勤交代は出発しません。それだけ、準備がタイヘンだということであり、「道中心得方之留」などといったマニュアルが紹介されたりもします。正室が江戸詰めであるわけですから、若殿は通常江戸の生まれ育ちであり、父親たる大名の名代として初めてお国入りする際の行列の規模については、通常よりも大きめ、でも、名代ではなく大名を相続してからのお国入りよりは小さく、ということに決まります。19世紀に入ってからの天保年間ですから、徳川政権が成立してからはもちろん、参勤交代が制度化されてからも200年が経過しており、藩官僚としては参照すべき前例がタップリ蓄積されているわけです。そして、天下泰平が続く中で、先週取り上げた『壱人両名』にあったように、本音と建前を使い分けて、融通を利かせるように制度も変化を続けています。そういった例がいくつも見られ、微笑ましいというか、日本人の知恵といったものに感心させられます。

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最後に、原真人『日本銀行「失敗の本質」』(小学館新書) です。著者はジャーナリストです。かなりひどく経済政策について理解していない気がしますが、まあ、こういったジャーナリストからの政策当局に対する批判は、当然ありうべきものです。日銀などの先進国における中央銀行が政府から独立しているとはいえ、政策当局が国民から独立しているわけではないと私は常々考えていますので、国民サイドからの何らかのチェックは必要です。ただ、日銀による金融政策運営を軍部による戦争になぞらえるのは、やや下品な気もしますが、批判論者の立場がよりクリアになるということであれば、それなりにアリなのかもしれません。例えば、冒頭から、「異次元緩和」は真珠湾攻撃、「マイナス金利」はインパール作戦、「枠組み変更」は沖縄戦に、それぞれなぞらえられたエピグラフが配されています。批判の中心は、現在の黒田日銀の異次元緩和が財政ファイナンスにつながり、財政赤字が積み上がっていくことに対する素直な恐怖なのかもしれません。それはそれで、エコノミストの側で理解すべきです。まあ、自然科学の素養のない大昔の人が暗闇を怖がったのと同じなのかもしれません。というのは、本書の議論のバックグラウンドには特段の経済学的な裏付けはないと私は感じたからです。決して、オススメはしませんが、何かの点で現政権に反対意見を持ちたいという党派的な読者には好意的に受け入れられる可能性があります。ただ、それなりの基礎的な知識あるエコノミストや現在のアベノミクスを支持している多くの国民からは、とても疑問の多い内容だと思います。繰り返しになりますが、正面切ってまじめに論評するレベルには達していない一方で、権力に対する批判は、これくらいの健全ではない批判であっても許容されるんではないかと、私は広い心を持ちたい気がします。

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2019年6月20日 (木)

ご寄贈いただいた『「反緊縮!」宣言』を読む!

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松尾匡[編]『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) をご寄贈いただき早速に、読ませていただきました。去る4月28日付けの読書感想文でバルファキス『黒い匣』を取り上げた際に、本書についても軽く紹介しておきましたが、早速にご寄贈いただき、誠に有り難い限りで御礼申し上げます。まったく、催促したようで、やや下品な気がしないでもありませんでしたので、今後は控えたいと思います。
上の表紙画像の通りに、本書では、左派リベラルの経済政策や経済学について、財政学を中心に金融政策も含めて、幅広く、決して経済政策だけでなく生活者の視点も含めて展開しています。左派と右派の経済政策は、実は、見分けられやすそうで、なかなか違いが判りにくい、というか、経済政策そのものが判りにくくなっているうらみはありますが、私がいつも強調しているように、見分けるべきポイントはいくつかあり、以下に5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、財政政策や金融政策では引き締め的な政策を志向する右派に対して、左派は財政政策では政府支出の拡大や減税、また、金融政策では金利引き下げや量的緩和などの景気拡大的な政策を志向します。第2に、経済学のもっとも初歩的なツールとして2次元的なグラフの需要曲線と供給曲線がありますが、右派は供給面を重視して生産性の向上や規制緩和をはじめとする構造改革の推進などを目指しますが、左派は需要面を重視して賃上げによる所得増やワークライフ・バランスの改善を目指すといえます。同様の需要と供給の観点で、知的財産権を最大限尊重してその期間を長期化しようとする右派に対して、アフリカに対するHIV治療薬の需要に関して、特許を超越する形で供給しようとするスティグリッツ教授のような考え方が左派になります。ケンイズの有名な言葉として、「長期に我々はみんな死んでいる」というのがあるのは広く人口に膾炙しているんではないでしょうか。なお、今の安倍内閣は憲法改正を目指す右派政権であるにもかかわらず、春闘に介入するがごとき態度で企業に賃上げを求めたり、反ブラック企業やワークライフ・バランスの改善を目指しているではないか、との反論はあるんですが、それは後回しにします。ということで、この2点はかなり幅広い合意があるような気がしますが、以下の2点はやや議論あるかもしれません。すなわち、第3に、右派は自由貿易を遵守する一方で、左派は自由で制限ない貿易よりも公正な貿易の推進を求めます。フェアトレードと呼ばれ、途上国の児童労働やスウェット・ショップに左派は反対です。しかしながら、いわゆるカギカッコ付きながら「自由貿易」に正面切って反対するのは、良識あるエコノミストとして、とても勇気が必要です。ただ、価格だけをシグナルとする市場取引の典型が「自由貿易」ですので、私はその意味で「自由貿易」を全面的に肯定するのにはためらいがあります。ビミョーな言い回しなんですが、公正な自由貿易というものはあり得るわけで、公正な自由貿易であれば私は無条件で支持すると思います。ただ、不公正な自由貿易よりも公正な制限的貿易の方がマシな気もしています。もっとも、このあたりは理論的・理念的な表現よりも実証的に解決すべき課題なんだろうとも思います。またまた、反論ある可能性があり、では、関税率引き上げを連発しているトランプ米国大統領はどうなんだ、という見方も成り立ってしまう恐れがあるんですが、これも後回しにします。そして、第4に、第2の観点から派生すると考えるエコノミストもいそうな気がしますが、右派は長期の経済政策を志向し、年金の「100年安心」などを掲げたりしますが、左派は短期の経済政策をより重視するような気がします。そして、最後に第5のポイントとして、今までの4点に通底するところなんですが、右派エコノミストは市場における価格情報をシグナルの中で最大、というか、唯一の判断材料とする一方で、左派エコノミストは価格だけでなく、さまざまな関連情報、例えば、宇沢弘文教授的なシャドウ・プライスや外部経済的な社会で幅広く関連する価値を認めます。右派エコノミストがカギカッコ付きながら「市場原理主義」と呼ばれるゆえんです。ただし、この最後の4番めと5番めのポイントは、私も実はそれほど自信がありません。左派全体で幅広く当てはまることではなく、ひょっとしたら、私だけかもしれません。その昔に、官庁エコノミストだったころは周囲に左派エコノミストがほとんどいなかったので視野が狭くなり、私の考え方の特徴が左派全体にいえるのではないか、とついつい考えがちになってしまいます。でも、私が所属し奉職していた役所は、その昔に都留重人教授のご指導を受けたことに見られるように、少なくとも私がお勤めを始めたころは、政府官庁の中では左派的でリベラルな雰囲気ある役所と考えられていることも事実です。
さて、留保して後回しにした2点なんですが、私は以下のように考えています。まず、改憲を目指す安倍内閣が左派的な経済政策を採用しているんではないか、という反論に対しては、基本的には、まったくその通りだと私は考えています。現在の安倍内閣は改憲を目指す姿勢はもとより、外交や安全保障では右派政権であることは明らかなんですが、経済政策は日銀とのアコードに基づく超緩和的な金融政策に見られる通り、かなりの部分について左派的な経済政策を採用しています。もちろん、財政政策については、本書でも指摘している通り、2013年度で終了してしまったように見えますし、企業や経団連に対する賃上げ要請やワークライフ・バランスの重視など、まだまだ不十分との見方もあり得ますが、かなりの程度に左派的な経済政策と見なすエコノミストが多そうな気がします。どうしてそうなのかの理由は不明なんですが、左派こそ硬直的な経済政策を放棄して、初期のアベノミクスを十分参考にする必要があるように私には見えてなりません。次の2点めで、トランプ米国大統領の制限的な通商政策をどう考えるか、については、繰り返しになりますが、理論的・理念的な観点ではなく実証的に考えるべきではないかと思います。すなわち、例えば、先週の読書感想文でリチャード・クー『「追われる国」の経済学』を取り上げたところで、それに即して私の独自解釈も含めて少し雑駁に展開すれば、貿易赤字を続ける米国で、まあ、表現はよろしくないかもしれませんが、国内の選挙民の中で貿易上の「負け組」が「勝ち組」を上回ることは十分あり得ることであり、選挙の票数で貿易上の「負け組」が過半数になれば制限的な通商政策を求めることもあり得ますし、当然、ポピュリスト政権ではそういった主張で得票を増加させる戦略を取ることを有利と考える可能性があります。その結果ではなかろうか、という気がしますが、私自身で実証するだけの能力はありませんので、必ずしも十分に自信あるわけではありません。直感的に、そのように感じているだけです。そして、やや強引に視点を我が日本に向けると、国際商品市況の石油価格にも依存しますが、我が国がコンスタントに貿易黒字を計上していたころ、もしも、貿易相手国の児童労働やスウェット・ショップなどの労働条件が著しく劣悪な低賃金労働で生産される製品やサービスを公正な価格を下回る低価格で輸入した結果の貿易黒字であれば、国民がどう考えるかはかなり明らかではなかろうか、と私は受け止めています。ですから、価格だけをシグナルとする無条件に自由な貿易よりも公正な貿易の方を私は志向します。左派エコノミストがすべて同じ見方か、と問われれば自信がありませんが、少なくとも米国のサンダース米国上院議員と私はそうではないか、という気がします。左派の公正な貿易とトランプ米国大統領の制限的な通商政策とは、当然ながら、考え方、捉え方が180度違うという事実、すなわち、トランプ米国大統領の制限的な通商政策は、相変わらず価格だけをシグナルにして、自国産業保護のために輸入価格に上乗せされる関税を課すのに対して、左派の公正な貿易とは自国と他国を問わず児童労働やスウェット・ショップなどの雇用者を搾取する労働をはじめとして、情報の不足する農民から、場合によっては暴力的な手段を用いたりして、農産物を安く買いたたくなどの不公正な取引に反対する、という違いは忘れるべきではありません。
直接、左派と右派の違いには関係ないかもしれませんが、「国民にもっとカネをよこせ!」とはいっても、その際のカネの渡し方にも注意が必要です。井上准教授のチャプターだったと思うんですが、ムダな公共投資というカネの使い方はダメ、といった趣旨の主張がありました。私はインフラ投資一般をムダとは考えませんが、確かに、インフラ投資にムダが多いのは事実です。そして、基本的に、左派は社会福祉や教育の充実による国民への還元をもっと主張すべきと私は考えています。要するに、ホントの意味での福祉国家の実現であり、社会福祉を通じて国民にカネを還元すれば、格差の是正につながることが大いに期待されます。本書のスコープの中で、少し物足りなく欠けていると私が考えるのはこの点です。繰り返しになりますが、国民へのカネの還元方法について、インフラ投資をすべて否定するものではありませんし、まだまだ必要なインフラ投資は積み残されているものがある、と私は考えている一方で、公共投資による国民への還元はいわゆる「土建国家」の旧来手法であり、加えて、カネの渡し方そのものが不公平感を増幅するとともに、実際に格差の是正にはつながらない可能性が高い、と考えるべきです。この「土建国家」的な公共投資によるバラマキに代わって、社会福祉による国民への財政資金の還元の重視は、左派はもっと主張していいように私は感じています。

こういった観点から、本書で展開する左派的な経済学や経済政策から始まって、生活者の実感まで、さまざまな考え方はとても共感できるものです。多くの方が手に取って読むことを願っています。そして、それほど自信ないものの、私の左派的な経済学が、もしも、左派一般に共通する経済学であるのであれば、本書のスコープである財政政策や金融政策にとどまることなく、価格だけをシグナルとして児童労働やスウェット・ショップや農民搾取などを許容しかねない「自由貿易」よりも公正な貿易の観点、また、構造改革や生産性向上などの供給サイドの重視よりも賃上げや所得の増加などを重視する需要サイドの経済学、さらに進めて、「土建国家」を脱却してホントの福祉国家の実現、などなど、もっともっと広範に左派経済学を展開していただきたいと、大きな期待を持って応援しつつ、最後に、安倍政権に何でも反対ではなく、経済政策で参考にすべき部分は受け入れる柔軟性が必要ではなかろうか、という気がします。強くします。

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2019年6月15日 (土)

今週の読書はリチャード・クー『「追われる国」の経済学』ほか経済書中心に計5冊!

このところ、少しずつペースダウンに成功しつつあり、今週は経済書中心に以下の5冊です。リチャード・クー『「追われる国」の経済学』は久々に読みごたえある本格的な経済書でした。なお、今日の土曜日が雨ですので自転車に乗れず、まだ徒歩圏内の図書館しか行けていないんですが、やっぱり、数冊の読書になりそうな予感です。明日の日曜日に近隣図書館を自転車で回りたいと予定しています。うまくいけば小説も読めるかもしれません。

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まず、リチャード・クー『「追われる国」の経済学』(東洋経済) です。英語の原題は The Other Half of Macroeconomics であり、2018年の出版です。この原題の趣旨は後ほどもう一度取り上げます。著者はご存じの通り野村総研のエコノミストであり、世界的にも影響力があると考えられています。これも広く知られたバランシシート不況の主張を本書ではさらに拡大し、「追われる国」あるいは、被追国になれば、サマーズ的な secular stagnation 長期停滞論やインフレ率が上昇せずデフレ的な経済状況が継続することや、金融政策が量的緩和までやっても効果ないことや、はては、1930年代にナチズムやファシズムが台頭した要因までが明らかにされる、というカンジです。なお、出版社の東洋経済のオンライン・サイトには「追われる国」で金融政策が効かない根本理由に関する解説記事がありますので、この読書感想文ととともに参考になるかもしれません。ということで、著者が前々から指摘しているバランスシート不況は、資金の出し手がありながら有望な投資プロジェクトがなく、資金の取り手がいないために貯蓄過剰となり、金融政策の効果が大きく殺がれる、もしくは、ほぼ無効になる、という状況を指しており、本書で何度も繰り返して振り返る p.35 の図1-3の3と4の状態を指します。ここで英語の原題に戻りますが、この図1-3の左側の1と2が主流派経済学の対象とするモデルであり、右側の3と4が The Other Half of Macroeconomics なわけです。そして、その最上級なのが追われる国、被追国であり、労働が生存部門から資本家部門に移動して、ルイス転換点(LTP)を超えて、本書でいうところの黄金期、我が国でいえば、1950~60年代の高度成長期を終了した段階に達すると、国内で投資に対する資金需要が低下するとともに、途上国や新興国といった海外投資が国内投資よりも高リターンになる、というのが被追国で、こうなると、国内投資はますます実行されなくなり、海外投資に資金が流れ、金融政策でいくら金利を下げても、量的緩和をしても、国内での投資が過小となり、逆から見ると、国内貯蓄が過剰となります。貯蓄投資バランスは事後的に必ず一致してゼロとなりますから、民間部門が過剰貯蓄であれば、残る海外部門か政府部門がこの貯蓄を吸収して投資をせねばなりません。海外部門は世界各国で相殺すればでネットでゼロになるわけですから、政府支出で民間部門の過剰貯蓄を吸収せねばいつまでも長期停滞が続くわけですから、先進各国が金融政策に頼っている現状は間違いであり、財政政策で停滞を脱しなければならない、というのが本書のエッセンスです。本書では、それを別の角度から見て、従来の伝統的経済学で暗黙の前提とされている企業部門の利潤最大化ではなく、企業部門が負債返済に最大のプライオリティを置く経済とか、あるいは、中央銀行が最後の貸し手になるをもじって、政府が最後の借り手になる、とかの印象的な表現をいろいろなところで用いています。それなりに、判りやすい表現とか理屈ではないかと思います。私の実感、というか、定型化された事実を矛盾なく表現できるモデルが提示されている印象です。少なくとも、私のような左派の財政支出拡大を主張するエコノミストには、とても受け入れられやすい本書の主張なんですが、おそらく、右派の財政均衡論者には不満が残る点があるんではなかろうかという気がします。というのは、財政支出拡大による収支均衡からの逸脱や政府財政破綻の可能性について、本書は何の論点も提示していません。最近のMMTはもちろん、ケインズ的な長期に我々はみんな死んでいる、といった言い訳もせず、ひたすら無視しています。ある意味で、見上げた態度かもしれません。私はこれで正解だと受け止めているんですが、右派エコノミストの中には難癖をつけたりする人がいるかもしれません。最後に、どうでもいいことながら、開発経済学を専門分野のひとつとする私にとって、ルイス転換点(LTP)がここまで何度も頻出する経済書は久し振り、というか、開発経済学の専門書を別にすれば、初めてかもしれません。第3章では1ページあたり平均3回くらいLTPというのが出てくるような印象です。それなりに感激しました。

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次に、小峰隆夫『平成の経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストのご出身の研究者です。私は研究畑で計量経済モデルをシミュレーションしたり、学術論文を書いたり、それを学会発表したりしていたんですが、ホントの官庁エコノミストというのは「経済白書」を執筆したりするものなんだということを思い起こさせられました。でも、私はこの著者の部下として働いたこともあったりします。ということで、本書でも、その昔の「経済白書」や省庁再編後の「経済財政白書」などからの引用がいっぱいあったりします。なお、本書はこの出版社から出ている「平成3部作」の1冊であり、ほかに『平成の政治』と『平成の経営』があります。私は前者は読んだんですが、対談や鼎談を収録しているだけでした。後者は読むかどうか迷っています。経営についてはともかく、政治と経済については、一般常識として、経済はバブル経済で平成が始まって、バブルが崩壊して長期停滞の後、アベノミクスで何とか復活を遂げつつある、というのが実感で、政治については、消費税の導入で始まって自民党一党与党体制が連立になり、いろいろな連立政権が試行された後、また、非自民の政権交代もあった後、結局、現時点では自公連立政権が支配的、ということなんだろうと思います。そして、いずれにせよ、その政治経済の底流には対米従属があり、米国からの本格的な独立を志向する政権は長続きしない、というのは間違いではないように私は受け止めています。長くなりましたが、本書では、バブル経済でユーフォリアが支配的だった平成初期の経済、さらに、そこに消費税が導入され、景気拡大という自然増収による財政再建ではなく、税制の変更に立脚した財政再建が試みられたところから始まった平成の経済をコンパクトによく取りまとめています。ただ、バブル経済についてはストックの視点だけから語られていますが、私が平成元年の「経済白書』を読んでややショックだったのは、フローの面で日本経済が新たな段階に入って、景気循環は消滅したとは書かれていませんでしたが、かなりの程度に景気循環が克服されたような印象で捉えられていた点です。この平成元年の「経済白書」のフロー面の記述については本書でも注目していません。私からはやや不思議な気がします。私は定年まで経済官庁に勤務していながら、不勉強にして、いまだに経済循環を克服した経済体制を知りません。我が国がアベノミクスでかなり長期の経済回復を果たしたのは事実ですが、現時点で、景気転換局面に差しかかっている可能性を否定できるエコノミストは少ないと思いますし、遠からず、景気は転換する可能性が充分あると考えるエコノミストが多数派ではないかと受け止めています。さて、本書に戻って、私が疑問と考える分析結果が2点あり、ひとつは「実感なき経済回復・拡大」の原因を成長率が低い点に求めていることです。私は賃金上昇率が低かった点が原因ではないかと考えています。すなわち、労働分配率の低下も「実感なき」の一員と考えますし、格差の拡大ももう少しスポットを当てていいんではないかという気がします。第2に、最後の結論で、短期的な需要面の政策ではなく中長期的な構造対策に重点をくべきという考え方です。というのは、従来からの私の主張である右派と左派の違いもさることながら、現在の景気局面を完全雇用から考えるべきではない、と私は考えています。すなわち、完全雇用が達成されているのは景気ではなく、デモグラフィックな人口要因に起因するということはあまりにも明らかであり、完全雇用が達成されたからもう短期政策は不必要、というわけでもなかろうと考えています。加えて、量的な雇用だけでなく、質的な正規・非正規とか、賃金上昇がまだ始まっていないとか、完全雇用が達成された、かどうかはまだ議論あるんではないでしょうか、という気がしなくもありません。

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次に、岡田羊祐『イノベーションと技術変化の経済学』(日本評論社) です。著者は、一橋大学の研究者であり、同時に、公正取引委員会競争政策研究センターの所長も務めています。本書はタイトル通りのイノベーションや技術論に関する大学学部レベルないし大学院博士前期課程くらいの学生・院生を対象に想定しているようです。学生か院生かはそれぞれの大学や大学院のレベルに依存するんだろうと思います。どうでもいいことながら、私が地方大学に出向していた際に、各年版の「経済財政白書」はどの段階で教えるべきか、と考えていたところ、学部3~4年生を想定する教員と大学院博士前期課程を想定する教員と両方いたりしました。本題に戻ると、本書は4部構成であり、第1部 技術変化と生産性、第2部 イノベーションと競争、第3部 イノベーションと組織、第4部 イノベーションと政策で成り立っています。特に、第3部の第8章 技術の複合的連関とシステム市場においては、最近時点でのデジタル経済の発展やGAFAなどのプラットフォーマーに情報が集中する経済における競争政策やイノベーションについて論じていて、この章だけでも大いに得るものがありそうな気がします。ということで、イノベーションや技術革新といえばシュンペーターの名が思い起こさせられますが、本書でもシュンペーターが掲げた2つの仮説、すなわち、独占的な市場ほど技術変化が起こりやすい、および、企業規模が大きいほど技術変化は効率的に遂行される、の2点を軸に議論が展開されます。独占とイノベーションの関係については、特許により事後的な独占が期待できるのであればイノベーションのインセンティブは高まる一方で、事前的に市場独占が形成されていればイノベーションの必要なく大きな利潤を上げることができることから、イノベーションのインセンティブは決して高くないとも考えられます。企業規模についても同様に、余裕資金あればイノベーションの活発化につながる一方で、十分なキャッシュフローは革新へのインセンティブを殺ぐ場合もあり得ないことではありません。本書では、こういった理論的なモデルを展開しつつ、我が国のイノベーション環境についても概観しているわけですが、私のようなシロートが見る限り、イノベーションの基となる技術開発については何らかの外部効果を伴うわけであり、その意味で、イノベーションへのリソースのインプットは過少になる可能性がありますから、何らかの公的資金の投入が必要とされる場面も想定すべきことはいうまでもありません。本書では、それなりにイノベーションについて鳥瞰的な広い視野から、かつ、包括的に学習できるように工夫されています。ただ、本書の冒頭にあるような意図のひとつである実証的な研究に対しては、少し手が伸びていないような気もします。

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次に、譚璐美『戦争前夜』(新潮社) です。著者は東京生まれの中国人文学者です。本書のサブタイトルは「魯迅、蔣介石の愛した日本」となっており、日本への留学経験あるこの2人の中国人文豪と軍人を通して日中関係、特に、1930年代の日中戦争前までの日中関係に光を当てようと試みています。私の目から逆に見て、徳川期の鎖国を終了して明治維新を迎え、日清戦争や日露戦争で対外的な領土拡大を成し遂げた一方で、さらに大正デモクラシーの背景をもって、日本人が中国大陸や台湾を含め、あるいは、本書ではややスコープ外ながら、東南アジアやさらに欧米まで、ひょっとしたら、21世紀の現時点よりも国際化、というか、対外進出が、いい意味か悪い意味かを別にすれば、進んでいたような印象を持ちます。日本人が外国に留学に行ったり、あるいは、魯迅と蔣介石の例のように留学生を受け入れたり、といったのはいい例のケースが多そうな気がする一方で、軍事力の背景をもって対外進出を強行した例も決して無視できない可能性があります。いずれにせよ、魯迅と蔣介石の例のように中国から留学生を受け入れていた本書の時期はほぼほぼ100年前であり、戦争や中国大陸での共産革命、さらに日中国交樹立から今世紀に入っての尖閣諸島の領有をめぐる確執などなど、さまざまな日中関係の原点が100年前にあったのかもしれません。東アジアでは一足先に開国と近代化というよりは西洋化を進めた日本に対して、中国では解放改革が遅々として進まず、日清戦争では日本に敗れ、20世紀の辛亥革命による近代国家の成立を待たねばなりませんでした。辛亥革命後も混乱が続いたのは、明治維新後の日本と対照的な気もします。もちろん、本書はそういった国内政治や、あるいは、外交・安全保障などをテーマにしているわけではありませんが、その一端はうかがい知ることができます。というのも、主たる舞台は日本では東京であり、中国大陸では上海となっていますが、中国政府のあった北京も時折登場します。また、決して既存文献の渉猟に終始することなく、何人かの関係者の末裔にインタビューするなどといった著者のアクティブな取材に基づく記述も見受けられます。もちろん、魯迅と蔣介石のたった2人だけによって広い中国を代表させるのは無理があるわけですが、ひとつの視点として大いに代表性はあるような気もします。

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最後に、尾脇秀和『壱人両名』(NHKブックス) です。著者は、神戸大学の研究院であり、専門は日本近世史です。私はこの著者の『刀の明治維新』(吉川弘文館) を読んだことがあり、昨年2018年10月7日の読書感想文で取り上げています。ということで、本書では、私のようなシロートには「士農工商」としか知らない徳川期の身分制度における方便のような事実上の抜け穴となっていた「壱人両名」の実態について、決して体系的ではないんですが、個別の史実を積み上げて、解明を試みるよいうよりは、例外的な身分制度上の取り扱いが存在した、という事実を世間に明らかにしようとしています。ノッケから、公家の正親町三条家に仕える公家侍の大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の例を持ち出して、この2人は名前も身分も違うが、実は同一人物である、といった徳川期の身分制度の例外的な扱いを明らかにし、常識的な徳川期の身分制度しか知らないシロートの私のような読者に、例外的で決して多数に上るとは思えないながら、それまでの常識を覆すような事実を突きつけて本書は始まります。日本近世の封建制度下にあっては、氏名、服装、職業、住居などなどの個人の属性が身分によって固定化されており、しかも、おそらく戸籍上の把握や納税の便だと思うんですが、人別と支配があり、それを二重に持っていながら、実は自然人としては1人である、といった例を豊富に持ち出し、その上で、こういった「壱人両名」が建前としての制度からはみ出ていながら、実態に即する形でまかり通っていた事実を明らかにしています。ただ、融通を利かせる目的で黙認された例もあれば、ご本人の我がままのために勝手・不埒な「壱人両名」と見なされて、あるいは、もとより徳川期には違法とされていたことから、何らかの処罰を受けた例まで、いろいろと取りそろえられています。ただ、今となってはどうしようもありませんが、実印から同一人物と特定するのであれば、個別のケーススタディに終始するのではなく、例えば、特定の一村においてどのくらいの割合の「壱人両名」が存在したのかについて、何らかの統計的な把握を試みることはできなかったのか、とやや残念な気もします。徳川期の天下泰平の下で、お役に着けない貧乏御家人が内職に励んだのは有名なお話で、私が長らく勤め上げた公務員に兼職や副職が原則として認められなかったのとは大違いで、そういった内職的な役割を別に持つというノリと同じような気もします。もちろん、そもそも、御家人の内職や本書で注目している「壱人両名」の存在が歴史の大きな流れに何らかの影響を及ぼしたとは、私は決して思いませんが、歴史的な教養というか、それなりの学識ある教養人の話題を豊富にするという意味はあるような気がします。従って、本書のような歴史上の細かなネタを展開した本は私は大好きです。

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2019年6月 9日 (日)

先週の読書はライトな経済書と変わり種の『元号通覧』をはじめとして計8冊!!!

先週の読書も経済書はややライトながら、当然のように入っているものの、小説なしで計8冊でした。森鴎外の手になる変わり種の『元号通覧』も入っています。実は、今週に予定している読書についても、すでに図書館回りを終えていて、経済書をはじめとして数冊手元にあるんですが、新刊の小説は借りられていません。一昨年の2017年に新約が出たチェスタトンの「ブラウン神父」シリーズの創元推理文庫の5冊は先週末から今週末にかけて読んだものの、特に取り上げるつもりもなく、新たな出版として、今年に入ってから話題の小説、『本と鍵の季節』、『ノースライト』、『シーソーモンスター』、『平場の月』、『そして、バトンは渡された』、『続 横道世之介』、『魔眼の匣の殺人』、『検事の信義』などなど、いくつかの図書館に分割して予約してあるんですが、スタートが遅れてなかなか順番が回って来ません。3月末で定年退職してから2か月余りの期間で、文庫も含めて小説はまだ10冊に達していなかったりします。

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まず、松元崇『日本経済 低成長からの脱却』(NTT出版) です。著者は財務省出身の官僚で、第2次安倍内閣の発足時に内閣府の事務次官を務めていたそうです。私はその時には、総務省統計局でのんびりしていて、内閣からは遠くでお仕事していましたので、よく判りません。ひょっとしたら、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストだったのかもしれませんが、現在は、財務省OBらしく国家公務員共済組合連合会理事長に天下りしているようです。ということで、本書の主張は極めて明快で、現在の我が国の低成長は少子高齢化の必然的な帰結でも何でもなく、いわゆる終身雇用と称される融通の効かない硬直的な雇用システムの下で、企業が労働生産性を上げるような投資を行っていないためである、と結論しています。ですから、雇用の流動化を図って生産性の低い部門から生産性の高いセクターに労働が移動できるようにするとともに、その生産性高いセクターで積極的な生産増に結びつく投資が実行されることが必要と結論しています。私の従来からの主張の通り、右派エコノミストは緊縮財政を主張し、供給サイドを重視し、自由な貿易に力点を置きます。この著者の立場そのものといえます。他方、私のような左派エコノミストは財政支出拡大を主張し、需要サイドを重視し、自由貿易よりも公正な貿易を目指します。まず、生産性と労働移動なんですが、我が国の高度成長期のしかも初期のように、農業などの生存部門から限界生産性がゼロの労働力が資本家部門のような限界生産性で賃金が決まるセクターに移動することによる生産性の上昇は、極めて一時的な現象であり、ルイス・モデルの二重構造が解消される一時的、というか、1回限りの経験でしかありません。二重経済が解消された後の我が国経済の現実は、生産性の高いセクター、典型的には電機産業などの労働力が相対的に減少する、という形で進みました。高生産性セクターの絶対的な雇用者数は増加を示したかもしれませんが、シェアという意味で、相対的には雇用者の縮小が続いています。ですから、ルイス的な二重経済の解消の時期における農業などの生存部門から製造業などの資本家部門への労働移動を、二重経済解消後にも適用するというのにはムリがあることはキチンと認識すべきです。その上で、財政政策や金融政策が長期的に供給サイドに影響しないというのは、百歩譲って認め、ケインズ的なアニマル・スピリットやスンペーター的な創造的破壊も重要だとはいえ、短期的には需要の高まりによる生産性向上もあるという点は忘れるべきではありません。決して、長期には我々はすべて死んでいるとは思いませんが、短期的には需要から生産性向上がもたらされるルートは再確認すべきです。それから、我が国とスウェーデンの大きな違いは、増税などで政府が国民から負担を求めても、スウェーデンのような福祉国家では医療や年金のような社会保障、あるいは、教育のような実物により国民への還元が図られるのに対して、我が国のような土建国家では土木建設業界だけが潤うことに対する拒否反応があるのは、財政支出の査定を行う主計部門を経験した財務官僚として認識されていないのはとても不思議な気がします。福祉国家ではない土建国家で負担増に対する拒否反応が強いのは当然です。雇用の流動化や企業の投資の前に、国民の税金を還流する仕組みとして、行政システムの福祉国家化が財政再建のためには必要不可欠と私は考えています。

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次に、経済同友会『危機感なき茹でガエル日本』(中央公論新社) です。基本的に、タイトルから想像される通り、危機感を煽るお説教本なんですが、読む前の私の印象としては、ゴールドマン・サックス証券にいたデービッド・アトキンソン氏の著書と同じではないか、といったところの感覚でした。ただ、本書ではアトキンソン本よりも悲観的な色彩が強く、逆に、さすがに経済同友会という大きな組織をバックにしていますので、アトキンソン本のような印象論よりも、さらに一歩進めた緻密さがあるような気がします。でもまあ、同列に論じる読書子がいても不思議ではないかもしれません。ということで、本書では、世界中で進む3つの大きな潮流、すなわち、グローバル化、デジタル化(IT化やAI化など)、ソーシャル化の流れの中で、日本がどんどん世界のライバルに遅れを取り、諸課題に対応できない事態が続いているとの基本認識の下、経済同友会が昨年2018年12月に打ち出した Japan 2.0 の実げに向けた提言を集めています。ただ、本書では目標設定として、国連への配慮でもないんでしょうが、あるべき未来を持続可能な社会とp.36で明記している一方で、まったく別の目標に向かうような記述も少なくありません。というのも、上の表紙画像にも見られるように、国家価値を3次元的に捉えて、X軸=経済の豊かさの実現、Y軸=イノベーションによる未来の開拓、Z軸=社会の持続可能性の確保、と表現しようとしているんですが、それでは、p.36の持続可能な社会は3軸のうちのひとつにしか過ぎないのか、という気もします。強くします。あるいは、私の読み方が悪いんでしょうか。逆に、というか、当然かもしれませんが、悲しいことに、企業がいかにもっと儲けられるかに終始していて、持続可能性は財政や社会保障に歪曲化されているような気もします。ですから、労働者のワーク・ライフ・バランスとか、所得たる賃金とか、そして、雇用者の所得が消費に向かう好循環などはまったく念頭になく、現状を私なりに観察するに、賃金をミニマイズして、ひたすら企業収益を上げたい、ということに尽きるようです。もう少し、CSR的な企業の社会的な責任や責務のような視点が盛り込まれているかと期待しましたが、まったくダメなようです。そして、本書のタイトルとなっている「茹でガエル」が企業経営者のことも、控えめにいっても、含まれている、ケース・バイ・ケースながら、大きな部分を占めるケースも決して少なくない、という視点は持ち合わせていないようです。私には広く知られた事実だと思っていたんですが、日本人が認知的な能力のレベルでも、雇用者としてのまじめさなどの非認知的な能力でも、世界の中でもっとも優秀なパフォーマンスを上げる能力ある点については、経済開発協力機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査(PISA)」などでも実証されているところであり、他方で、日本ほど賃金が上がっていない国も少ないわけで、これだけ優秀な人材を低賃金で雇用できていながら、本書にもあるようにフォーチュンの企業ランキングから見て、サッパリ日本企業の業績が上がらないのは、アトキンソン本で時折主張されているように、経営者に問題があるのではないか、という合理的な疑問が生じるのは当然です。その点にもう少し経営者もチャーチル的に正面から立ち向かう必要があるんではないでしょうか。でも、最後に、その昔の経団連の事務局職員は官僚ならぬ「民僚」と呼ばれていて、前例踏襲などの現状維持バイアスが極めて強いやにいわれていたんですが、経済同友会については、私も長崎大学経済学部に出向していた2010年に都市経営戦略策定検討会提言書『みんなでつくろう 元気な長崎』の策定に参画した経験などから、それなりの問題意識を持って改革に取り組もうという姿勢があり、この点は大いに評価すべきかもしれません。

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次に、マイケル・ヘラー『グリッドロック経済』(亜紀書房) です。著者は米国コロンビア大学ロースクールにおいて不動産法担当の研究者であり、著者略歴にはアッサリと「開発援助関連調査に従事」以外に何ら言及ないんですが、本書の中で何度かロシアや東欧での私権設定に関する世銀の移行国援助に携わった経験からの記述が見受けられます。実は、私自身も1990年代半ばにポーランドにおける移行国援助のプロジェクトに参加した経験があり、開発経済学はそれなりの専門分野なんですが、法律家の開発援助はやや畑が違いそうな気がします。英語の原題は The Gridlock Economy であり、邦訳タイトルはそのままです。邦訳者によるあとがきにもあるように、リーマン・ショック前の2008年の出版ですが、特に記述が古いとかの問題はないように感じました。どうでもいいことながら、邦訳者のサイトに安芸書房から出版される前の2017年1月時点でのpdfファイルがアップされていたりします。特にセキュリティがかかっている様子もなく、やや恐ろしい話だと思わないでもないんですが、「グリッドロック経済」へのアンチテーゼを自ら実践しているのかもしれません。そのうちに削除されるかもしれませんが、まあ、何らご参考まで。ということで、本書で著者は、知的財産権も含めて、所有権とか細分化すると、あとあと収拾つかなくなって身動きとれなくなり、過少利用 underuse に陥りかねない、と警鐘を鳴らすとともに、その解決法を提示しています。有名なハーディン教授の「コモンズの悲劇」では、多数者が利用できる共有資源が過剰利用されて乱獲の末に資源の枯渇を招いたりするとされている一方で、利用権などの権利関係が複雑に絡み合ったグリッドロック状態になると過少利用になる、というわけです。ですので、「第1章からアンチコモンズの悲劇と章題を設定して本書を始めています。第2章の用語集の後、第3章からグリッドロック状態について米国経済を基に、薬の開発における知的所有権のグリッドロック、電波割り当てのグリッドロック化による周波数帯の過少利用、著者の専門分野である不動産のグリッドロック、特に、本書の随所で均等相続やそれに近い分割相続による土地所有の分散から土地利用が過少になっている例がいっぱい取り上げられています。そして、資本主義への移行段階でのロシアの所有権問題、さらに、オープンアクセスにもかかわらず絶滅しないチェサピーク湾の牡蠣に着目し、最後に解決のためのツールキットを提示しています。ただ、その解決策は極めて地味というか、時間もかかれば段階も踏むタイプの従来から存在している予防策とか、行政による私権制限などの力業の解決策であって、みんながアッと驚く新しい画期的なものではありません。よく、パテント・トロールと称されるように、このグリッドロックを利用して金もうけに走っている不埒な企業もあり、あるいは、グリッドロックになっていなくても知的財産権が先進国企業の業績向上にはつながっても、途上国の経済開発には決して役立っていない現状については、世銀副総裁を務めたスティグリッツ教授などがよく主張しているところです。そういった開発経済学の観点からも大いに参考になる内容でした。

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次に、スティーヴン・プール『RE: THINK』(早川書房) です。著者は、英国のジャーナリストであり、言語とか文化・社会に関するコラムなどを執筆しているようですから、日本的な分類ながら、理系ではなく文系なんではなかろうかと私は受け止めています。ということで、本書でも当然に言及されていますが、ニュートンの有名な表現で「巨人の肩」というのがありますし、本書では引用されていないながら、経済学ではケインズの誰かしら過去の経済学者の奴隷という表現もあるところ、大昔であればまだしも、21世紀の現在に至れば、それなりに優れたアイデアはもちろん、まったくモノにならない誤っているにもかかわらずゾンビのように何度も復活を繰り返すアイデアも、すでにほぼほぼ出尽くしていて、もはや、根本的に新しいアイデアというのはないのかもしれないとの視点から本書は書かれています。基本的に3部構成であり、第1部で、アフガニスタンで展開する米軍で騎馬部隊が復活したとか、医療用ヒルの活用とか、現在の認知行動療法でギリシアのストア主義が復活したとか、こういった例がたくさん取り上げられています。特に、ゼンメルヴァイスの消毒の例が典型なのかもしれませんが、誰かがそのアイデイアを思いついた当時はブラックボックスで、何がどうなって有益な結果が導かれるのかが、サッパリ解明されていなかったので、無視されたり、普及しなかったりして忘れられていたアイデアが、その後の科学的な知見の蓄積を経て、その後、あるいは、現時点で見直されて取り入れられる、ということがいくつかあるようです。逆に、まったくモノにならず誤っていることが明らかであるにもかかわらず、何度も繰り返して復活するゾンビのようなアイデアもあり、本書では地球は球体ではなく平面である、という例が取り上げられています。このアイデアのカッコ付きの「信者」は、その信念を否定する情報をフェイクニュースと見なすようです。また、びっくりしたんですが、ユニバーサルなベーシックインカムも古くからあるアイデアだと紹介されていますし、先週の読書感想文で取り上げたばかりのアイデアで、選挙によらずしてくじ引きで代表を選出する民主主義とかのアイデアも取り上げられています。中国由来の四文字熟語ですから本書では登場しませんが、「温故知新」という言葉を思い出してしまいました。でも、本書では、ほぼほぼすべてのアイデアはすでに世の中に存在している、とは主張していますが、もちろん、過去の事例を参考にすべきとか、ましてや、前例踏襲を推奨しているわけではありません。ミョーにオリジナリティを重視する傾向ある人に対しては、それなりの反論材料になりそうな気もします。

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次に、ポール R. ドーアティ & H. ジェームズ・ウィルソン『HUMAN+MACHINE』(東洋経済) です。著者たちは、アクセンチュアのコンサルです。邦訳者も同じコンサルティング・ファームの日本法人にご勤務のようです。ということで、コンサルらしく、マシン、本書ではほぼほぼイコールで人工知能(AI)と考えていいんですが、AIは人間の仕事を奪わないという前提で、人間とAIとの協調・共存、特に、企業における人間とAIの共同作業による生産性の工場や売上アップなどについて解説を加えています。この人間とAIの協働については、冒頭から章別に、製造とサプライチェーン、会計などのバックオフィス業務、研究開発、営業とマーケティングなどなど、企業活動に即して議論を展開しています。先週の読書感想文で『データ・ドリブン・エコノミー』を取り上げた際にも同じことを書きましたが、AIやITの成果を語る際に、生活面での利便性の向上や娯楽での活用では、私はモノにならないと考えています。すなわち、AIとはいっても、シリに道順を聞いたり、アレクサにトイレットペーパーを発注させたり、ましてや、リアルなゲームで遊べるとかでは、経済社会上のインパクトはそれほど大きくないと考えるべきです。『データ・ドリブン・エコノミー』や本書で展開されているように、企業活動、というか、生産の場でのAIの活用がこれからのホントの量的な生産性向上や質的なイノベーションにつながるという意味で、経済社会の進歩への貢献が大きくなると考えるべきです。いくつかの視点をコンサルらしく、上手に整理して、さらに、ポイントを的確に指摘しているように見えますが、とても大げさ、というか、現実離れした指摘が半分くらいを占めているような印象があり、どこまで普遍的な適用可能性があるコンサルティングだろうかと疑問に思わないでもありません。ただ、私は定年退職するまで延々と公務員を続けてきましたので、民間企業の生産活動の実態に疎いことは自覚していますので、ホントに自信がある疑問ではありません。ただ、MELDSの5つの視点からのフレームワークが提示されていますが、ハッキリいって、具体性に欠けます。まあ、スポーツの場での技術論ではなく、精神論を展開しているような印象があります。日本人はこういった精神論的な提言が好きかもしれませんが、どこまで役に立つかは不明です。やや、上滑りした議論が展開されている印象であり、そもそもの出発点で、AIと人間が協働できるか、それとも、人間労働はAIに駆逐されるのか、について、真剣な検討・分析がまったくなされていないのが気がかりだったりします。ただ、こういったコンサルティングで成功する企業もありそうな気がしますが、それを普遍化する営業活動をアクセンチュアはするんでしょうね。営業活動をそのまま受け入れるばかりではなく、語られない失敗例があるかどうか、見抜く目が必要かもしれません。

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次に、松尾豊『超AI入門』(NHK出版) です。著者は、東大の工学系の特任准教授であり、人工知能(AI)などの最先端技術の専門家であり、NHKのEテレで毎週水曜日の夜に放送されている「人間ってナンだ? 超AI入門」の司会や解説をしています。この番組は現在シーズン4に入っていますが、本書は2017年から始まったシーズン1全12回のうちの著者の担当した放映6回分を講義の形で提供しています。巻末に専門家2氏のインタビューを収録しています。私はこの番組を定期的に見ていないので、よくは知らないながら、たぶん、シーズン1ですから最初の方の「入門の入門」といった部分なんだろうと想像しています。まあ、私のテクノロジーに関する見識はたかが知れたもんですし、すでに定年退職した身として、今後のキャリアアップのための自己研鑽などの意欲はかなり低いわけで、世間一般についていくための常識的な内容が判っていればいい、という学習・読書態度だったりします。ですから、先週か今週に読んだ本にあったんですが、アインシュタインの言葉ではないかとされている電信に関する解説があり、電信とはとても長い猫のようなもので、ニューヨークで尻尾を引っ張るとロサンゼルスでニャアと鳴く、無線電信の場合は猫がいないバージョンである、といった引用があり、私の技術=テクノロジーに関する知識はこんなもんだろう、としみじみと実感した覚えがあります。「超」がつくくらいのAIの入門書なんですが、私のAIに関する知識といえば、ビッグデータという言葉があり、まあ、今でもありそうな気がするところ、ビッグデータのような極めて大量のデータ、テキストデータでも、画像データでも、動画データでも何でも、をコンピュータにインプットしてディープラーニングなる機械学習をさせれば、過去の例から確率の高い回答を作るあるいは選ぶことができる、といった程度です。AIには、私の考えでは、人間的な意識や心といったものはなく、過去のデータに基づいて外からか自らか評価関数を設定し、得られたデータと組わせて、将来の予測を立てたり、何らかの選択肢の中からもっとも適当なものを選び出す、という機能を持つコンピュータの動作です。そして、これらを応用すれば、人間が労働やゲームなどで対外的に働きかける何らかのアクションを代替できる、ということなんだろうと受け止めています。ですから、生産現場でロボットアームにインストールされて溶接や塗装を実行することも可能となりましょうし、絵画の作成や音楽の作曲や文学作品の執筆なども3Dプリンタなどの適切なハードウェアと組み合わせれば、十分可能です。哲学的に考えれば、本書でも取り上げられているように、チューリング・テストや中国語の部屋やといった議論があるのは私も理解しますが、すでに定年退職したもののエコノミストとしての感覚から、実践的なAIの活用という面からは、関係は薄いと感じざるを得ません。ただ、異性からの愛の言葉のようなものをうまく合成してささやくことは可能であるような気がします。後は、こういったAIの実践的な機能を基にして、人間の方でいかにうまくAIを活用するか、あるいは、マッド・サイエンティストのような人物が現れて、あるいは、マイクロソフトのテイの実例があるように、AIが自ら暴走して、その結果として世界はムチャクチャにされるのか、それは防止できるのか、といったところは気がかりです。

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次に、新井和宏『持続可能な資本主義』(ディスカヴァー携書) です。著者は、金融機関勤務からリーマン・ショックを機に、鎌倉投信というファンド運営会社を立ち上げたらしく、私は少し前の同じ著者の『投資は「きれいごと」で成功する』というきれいごとの本を読んだ記憶があり、よく似た内容であったような気がしますが、記憶はやや不確かです。本書は、2017年出版の単行本を新書化したもののようで、部分的に古くなっているところも散見されますが、大筋では問題ないと受け止めています。ということで、我が国でいえばバブル経済期くらいまでの右肩上がりの拡大型の資本主義を批判している趣旨なんでしょうが、まあ、言い古された長期的な視野の重要性とか、その昔の近江商人の「三方よし」を超える「八方よし」と著者が名付けた、株主だけでない幅広いステークホルダーへの配慮とか、ありきたりな部分を別にすれば、私から見れば、現在の経済システムにおける3点の問題を指摘しているように受け止めています。第1に、企業活動の外部経済性、というか、スピルオーバーをきちんとカウントし、かつ、第2に、市場における情報の非対称性をいかに克服するか、ということに加えて、第3に、資源配分の効率性の追求だけでなく、所得分配の公平の実現に重点を置く、ということだと解釈すべきではないでしょうか。すなわち、第3の点から考えれば、本書の著者の底流にある考えでは、あくまで私の想像ですが、右肩上がりの拡大型の資本主義においては、増分をうまく分配することにより、社会を構成する全員の経済厚生を改善することができていたところ、成長がかなり低くなり、こういった増分を望めなくなった段階で、生産や消費に使用される事前的な資源の分配から事後の所得分配に重点を置くべきなのですが、そうならずに格差が拡大しているのが現実です。そして、第1と第2の点に関しては、もともと、主流派経済学でも市場の失敗であると認識されていて、何らかの政府の介入が必要とされるところなんですが、著者はこれを企業の力、というか、著者の勤務する鎌倉投信のような金融機関とその投資・融資先である企業の活動の方向を少し違えることにより実現できる、と主張しているように私は受け止めました。特に、治者の主張の実現性は企、業の社会的な役割を重視する日本的な経営風土の中では、英米的な市場原理主義に近い資本主義下よりも実現性が高い、と認識されているようで、この点については私も反論はありません。ただ、資本主義下では市場ですべての情報が利用可能なわけでもなく、情報の非対称性というのは完全には解消されません。しかるに、情報が非対称であるにもかかわらず、財・サービスに付随する情報はほぼほぼ価格、すなわち、貨幣単位で表現されてしまいます。このあたりは、著者のような目利きの専門家であれば貨幣単位で評価された価格以外の情報も得られる可能性あるものの、私のような一般消費者には見抜けない可能性が高く、何らかの支援が必要そうな気がします。この点について、著者は決して上から目線ではありませんが、「自分にはできるので、経営者は同じことをやればよい」ということを主張するばかりで、一般消費者が視野に入っていない懸念があります。企業経営者に語りかけるだけでなく、もう少し、決して専門知識が豊富なわけではなく、目利きではない多くの読者や一般消費者への温かいまなざしが必要ではないでしょうか。

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最後に、森鴎外『元号通覧』(講談社学術文庫) です。著者は、いわずと知れた明治の文豪ですが、最晩年に本名の森林太郎として宮内省図書頭に任ぜられ、本書の執筆、というか、編纂に当たっています。ただし、本書未完のまま鴎外は亡くなりましたので、図書寮の部下であった吉田増蔵氏によって補訂されています。何と、令和に改元された本年2019年5月1日の出版です。出版社はこのタイミングを狙っていたんだろうと思わないでもありません。森鴎外は1922年大正11年に亡くなっていますので、昭和と平成、もちろん、令和には言及されていないものの、大化から大正までの250近い元号が列挙され、その典拠から不採用になった候補に至るまで、日本の元号が一望できます。元号の百科事典のような本かも知れません。本書にして正しければ、令和は今まで一度も候補になったことはないようです。他方、明治は過去10回も候補になっているそうです。元東京都知事の猪瀬直樹の解説です。最初のページから最後まで通読するたぐいの本ではないでしょうし、元号に何ら関心ない私はパラパラとめくっただけですが、この時期ですので、元号に関する知的好奇心がくすぐられる読者がいそうな気がします。たぶん、あくまで私の想像に基づくたぶん、ですが、多くの図書館で購入・蔵書しているような気がしないでもありません。

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2019年6月 1日 (土)

今週の読書は読み応えあった経済書をはじめとして小説なしでも計7冊!!!

公務員を定年退職して、今はパートタイムの勤務を続け、それなりに時間的な余裕あるものですから、読書が進んでいる気がします。今週も、新刊の小説にこそ手が伸びませんでしたが、一応、3年ほど前の『海の見える理髪店』なんぞを読んだりもしています。新刊書の読書ではありませんから読書感想文には取り上げていません。新刊書としてはなかなかに感銘を受けた経済書の『データ・ドリブン・エコノミー』をはじめとして、以下の通りの計7冊です。

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まず、森川博之『データ・ドリブン・エコノミー』(ダイヤモンド社) です。今週一番の読書でした。とても得るものがあったような気がします。著者は東大の工学系の研究者です。表紙の見開きにあるんですが、過去20年はデジタル革命の助走期であって、まもなく飛翔期を迎えデジタルが社会の隅々まで浸透する、という現状認識や将来予測には、これだけで敬服すべきものがあるように感じました。ただ、一連の動向がバブルの崩壊を経て再び台頭し、ホンモノになるためには30~40年を要するので、新の意味でデジタル社会が到達するのは2040年以降、というのは、やや筆が滑っているような気がしないでもありません。私はたぶん生き長らえていることはないと思います。ということで、いくつか秀逸な点が含まれた読書だったんですが、例えば、UberやAirbnbに見られるような物的資産のデジタル化とか、製造業のサービス化とか、今までにもさんざ聞いたような内容なんですが、私が特に感銘を受けたのは、今までGAFAなどはインターネット上でやり取りされるウェブデータを集めていた一方で、本書の著者は、これからはリアルデータの収集が重要となると指摘し、リアルデータは1社では集め切れないので、我が国にもまだチャンスが残っている、という点です。すなわち、ウェアラブル端末で収集した体調管理上のデータ、あるいは、POSデータなどのヴァーチャルな世界ではないリアルな世界から得られるデータの収集を重視すべきと主張しています。そして、製造工程やサービス提供のプロセスにおける地味ながら必要な作業のデジタル化、例えば、パトランプの監視などのデジタル化が今後進む、というか、進めるべき分野と指摘しています。まったく、私もその通りだと考えています。というのは、30年近くも前にインターネットの普及に関する書評をある雑誌に依頼されて書いたことがあり、その際に、インターネットやその関連技術について、生活や娯楽の場での活用ばかりを指摘していて、生産現場での活用がない限り、ホントの意味での経済社会での活用とはいえない、と難癖をつけた記憶があり、昨年2018年9月15日に取り上げたロバート・ゴードン教授の『アメリカ経済 成長の終焉』の読書感想文でも「現在進行形のIT産業革命についても、生産の現場におけるイノベーションというわけではなく、国民生活における娯楽や生活様式の変化に及ぼす影響の方が大きく、生産性向上や生産の拡大にはつながりにくい」との評価を下していたんですが、本書の著者によれば、それはまだ助走期だからであって、こさから飛翔期に入れば本格的に生産現場で活用される、ということなんだろうと理解しました。生産現場のデジタル化をここまで重視した論考は初めて接しました。今週の読書の中で一番のオススメとする根拠です。

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次に、クラウス・シュワブ『「第四次産業革命」を生き抜く』(日本経済新聞出版社) です。従来の産業革命を凌駕する経済社会へのインパクトを有する可能性ある第4次産業革命については、生産性の飛躍的な向上やテーラーメイド的な消費者ニーズへの細かな対応など、今までにない特徴あるとともに、とてもdisruptiveな技術と指摘されています。ですからこそ、将来を考える際の視点としては、公平な分配、外部生の包摂、人間の尊厳の回復の3点が忘れられるべきではない、と著者は主張しています。ただ、公平な分配を考える際に、格差を25%タイルで考えているようで、上位1%でもバフェットのいうように「連戦連勝」なわけですから、もう少していねいな視点も必要そうな気もします。特に、AIやロボットが本格的に生産現場に投入されることにより生産性が向上すると仮定すれば、その果実は誰に分配されるのか、資本家階級という言葉はもはや死語なんでしょうが、AIやロボットと協働しない人々の方が、AIやロボットと協働し、あるいは、生産現場から排除される人々よりも多く分配されるとすれば、大きな不公平感が残る可能性は指摘しておきたいと思います。もちろん、こういった問題意識は著者にもあり、多くのステークホルダーと協働して、先行きの変化を見極めてビジョンを共有できるようにし、想定した人々が恩恵を受けられるようなシステムを構築する、あるいは、そういったシステムに変えていく「システム・リーダーシップ」という新しいリーダーシップを提唱しています。本書p.350のあたりです。頭の回転が鈍い私には、どうもピンとこないですが、こういったリーダーシップは従来は国内的には政府や政権党がエリートを軸に保持し、世界経済の場では覇権国に付与されていたような気がします。欧米先進国のいくつかでポピュリズムが伸長し、例えば、トランプ米国政権の「アメリカ・ファースト」のように、世界的なビジョンが共有されなくなったという現実の反映なのでしょうか。それとも、第4次産業革命に付随する何らかの特徴に基づくものなんでしょうか。私にはイマイチ理解できませんでした。もっとも、本書は基本的にダボス会議に集まるようなグローバルな場で活躍するリーダー向けに書かれているんでしょうから、私のような一般ピープルには難しすぎるのかもしれません。なお、新たなテクノロジーについてはもっと理解できませんでした。すなわち、ブロックチェーン、IoT、AIとロボット、先進材料、3Dプリント、バイオテクノロジー、ニューロテクノロジーなどなどです。2年半前の前著である『第四次産業革命』も私には難解だったんですが、さらに磨きがかかった気がします。

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次に、大沢真知子ほか[編著]『なぜ女性管理職は少ないのか』(青弓社) です。著者は日本女子大の研究者であり、本書はまさにタイトル通りの質問に答えようと試みています。広く知られた通り、我が国では女性の社会的進出が遅れているとされており、比較対象としては、先進国はもとより、いくつかのアジア諸国と比べても、例えば、本書のテーマである女性管理職比率は低くなっています。最近の論調では国会議員などの公職の議員比率が議論されたりしていますが、そこまでいかなくても、企業の女性管理職比率が低いのは事実だろうと私も感じています。私自身は定年退職するまで国家公務員でしたから、就職・採用される際の試験区分でかなりの程度に、少なくとも管理職になれるかどうかは決まってしまいます。私はキャリアでしたから、ほぼほぼ確実に管理職まではなれます。私のように能力低い場合は課長級止まりでしたが、多くの同僚キャリア公務員はもう少し上まで昇進できる場合が多いような気がします。他方、キャリアの中の女性比率とノンキャリアの女性比率では、おそらく、後者の方が高くなっているような気がします。ですから、属性条件で管理職の女性比率が低くなっているのも一半の理由はあります。もちろん、さまざまな性差別が存在することは事実であり、本書でもジェンダーステレオタイプに基づく差別的な扱い、また、敵意的あるいは好意的な性差別に加えて、統計的な差別も確認しています。私も南米のラテンのマッチョな国で外交官をしていましたから、レディファーストと称した騎士道的な好意的性差別については広く見受けました。同様に、TBSドラマの「わた定」ではありませんが、就職氷河期のような就活が限界的な状況にあった時には、女性が被害者となる確率高く、非正規雇用に回ってしまったこともあったと記憶しています。出生率を高めるのは、私には少し方向が違うような気もしますが、ジェンダー革命といわれ、女性の社会的な進出とともに出生率は当初下がるものの、その後U字型を描いて上昇するような状況に、日本はいつになれば達するんでしょうか。最後に、どうでもいいことながら、p.118から進化心理学に言及されていますが、もっとも性差別の激しい学問分野だという印象があるんですが、いかがなもんでしょうか。

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次に、小林慶一郎『時間の経済学』(ミネルヴァ書房) です。著者は、経済産業省の官僚から慶応大学の研究者に転じています。シカゴ大学の学位ですから、ややネオリベラルかもしれません。ということで、私は少し誤解していたんですが、万人に平等に与えられている「時間」の選択、というか、時間を使った行動の選択のお話かと思っていたところ、どうも、世代間の平等・不平等を敷衍して、この著者のいつもの主張である財政再建の重要性を伝える内容になっています。官庁エコノミストのころから左派だった私のいつもの主張ですが、財政政策に関しては、右派は財政再建と小さな政府、歳出削減や増税に重点を置き、左派は財政拡大と大きな政府、再出増加や減税に力点を置きます。ですから、現在の安倍内閣は、外構や安全保障、もちろん、憲法改正に関してもゴリゴリの右派と見なされていますが、経済政策に関しては社民党や共産党もビックリの左派だったりするわけです。加えて、これは私独自の視点ながら、左派は需要サイドを重視し、自由貿易には懐疑的で自由な貿易よりも公正な貿易の方が見込みがあると考え、右派は供給サイド優先で構造改革を推進する傾向があり、もちろん、自由貿易が何より重要と受け止めています。ただ、右派ではないのかもしれませんが、米国トランプ政権のように貿易赤字を回避する傾向ある重商主義的な通商政策を志向する場合もあります。やや脇道に逸れましたが、本書では、さまざまな論拠を持ち出して、例えば、ロールズ的な正義と個人の善感覚とか、時間的な不整合の問題とか、あるいは、ノッケではライフ・ボートのジレンマを持ち出して、どこかの世代がババを引かなければ財政再建できないとか、いろんな論拠から財政再建を訴えています。ただ、ライフ・ボートのジレンマもそうなんですが、本書の著者の考えるカギカッコ付きの「合理性」はあくまでシカゴ学派的な右派の論理に立脚しており、必ずしもすべてのエコノミストで同じ合理性を認識しているのではない点は、読み進む上で注意すべきと私は受け止めています。いずれにせよ、財政再建とか、地球環境問題とか、解決に長期の時間を要する問題は市場ではどうにもならない場合があります。本来は、何らかの政府ないし独立の機関が解決に当たるべき、というのは、本書の著者の主張の中で唯一私が合意する点です。ハイエク的な観点でも、市場では充分でない場合があるわけです。

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次に、ロベルト・テッロージ『イタリアン・セオリーの現在』(平凡社) です。著者は哲学の一分野ながら美学の専門らしく、どこまで本書のタイトルに応じた議論ができるのか、私には評価できないレベルなんですが、やや気にかからないでもありません。ということで、本書では大陸欧州中心に、イタリアン・セオリーこと、イタリアで展開されている現代哲学について、大陸欧州の中心たるフランスやドイツの啓蒙主義時代から現代につながる哲学との連続性や類似性とともに、イタリアに特有の知的伝統、特に、スピノザやマキャベリなどの政治哲学とに求め、イタリアン・セオリーの全体的な把握を試みています。もちろん、2000年に出版されたハート&ネグリによる『<帝国>』でマキャベリやスピノザの用いたマルティテュードによりグローバル化を読み解いたのが、割合と最近のイタリアン・セオリーの新たな展開だったわけだと私は理解しています。すなわち、かなりの程度にブルータルな大国のヘゲモニーに基づくグローバル化に対して、それぞれの国家や民族などの多様性を容認しつつ、国家権力ではなく国民や企業の間のネットワーク上の権力としてのマルティテュードをグローバリズムのカギとして提案したわけです。結局のところ、私のようなシロートにとっては、ネグリのマルティテュードしかイタリアン・セオリーを知らず、そのマルティテュードの大昔の提唱者や使用者としてマキャベリやスピノザの名を上げるだけなんですが、そこはさすがに、本書では、ネグリだけでなく、アガンベンやエスポジトも含めたこの3人を中心に議論を展開し、3つの観点、すなわち、生政治、共同体、政治神学からイタリアン・セオリーの現時点での到達点をひも解こうと試みています。ただ、ネグリ自身が1960年代くらいからの左翼思想家であることは明らかですし、その時代のフランスの構造主義あるいはその後のポスト構造主義の影響力は、我が国では計り知れません。1960年安保のあたりから始まる新左翼の運動がその典型例と考えるべきです。日本では、少なくとも、イタリア思想界については、新左翼的な潮流よりも、むしろ、伝統左翼ともいうべきグラムシのヘゲモニー論から始まって、ロンゴやベルリンゲルなどのユーロ・コミュニズムが影響力あった気もしないでもないんですが、本書ではユーロ・コミュニズムではなくグラムシなどの個人的な思想しか注目していないような気もします。まあ、繰り返しになりますが、この分野に専門外でシロートの私のような日本人からの視点かも知れません。

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次に、ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック『選挙制を疑う』(法政大学出版局) です。著者は、ベルギーの作家なんですが、博士号を取得しており、欧州を代表する知識人のひとりと目されているようです。原書のオランダ語タイトルは Tegen Verkiezingen であり、邦訳者の解題に従えば、英語に直訳すると、Against Elections だそうです。初版は2013年の出版ですが、邦訳は2016年の版を底本としています。ということで、現代民主主義が「民主主義疲れ」に陥っていると指摘しつつ、その責任を、政治家、民主主義、代議制民主主義、選挙型代議制民主主義の4つの求める思考実験を行って、18世紀以来の選挙型の代議制民主主義について否定的な見方を示しています。とはいっても、あくまで思考実験から始まるわけですが、古典古代のギリシアまでさかのぼって民主主義を考え直し、捉え直し、その上で、選挙型ではなく、くじ引きなどの抽選型の民主主義を二院制議会のうちの一院で採用すべきではないか、その方がホントの熟議民主主義に適しているんではないか、と結論しています。我が国でも、選挙ではない裁判員制度が取り入れられていますので、判らないでもありませんが、同時に、やや無謀な気もします。いくつかの、本書でいう民主主義の治療法があると思うんですが、ハナから取り上げられていない手法もあります。というのは、これだけインターネットが普及し、SNSの利用者が多くなっているわけですから、まず、代議制民主主義ではなく直接民主主義のコストがかなり低下していることは無視すべきではありません。さらに、特に我が国のように世代間格差が大きくてシルバー民主主義が大きな権力を行使している国にあっては、1人1票ではなく、未成年の子供の投票権を親の代理によって認めるデーメニ式の投票などが提案されていたりしますが、これも本書では議論にすら取り上げられていません。ただ、「判らないでもありません」に戻ると、我が国で最近の10年くらいに、いわゆる「ねじれ国会」を経験していますから、同じような選挙システムに基づく二院制議会が、どこまで意味あるかについては疑問を持っている人がいそうな気がします。ポピュリズムが勝利した国では、いわゆる「多数派による専制」の可能性があり、我が国でも現政権の圧倒的な権力が報じられたりていますから、三権分立に加えて、執行権を行使する政府のパワーについて、何らかのチェックをした方が、熟議に基づく民主守護として、あるいは、結果として好ましい可能性がないわけではない、と私も同意します。ただ、繰り返しになりますが、それが抽選型の議会による民主主義かね、という気もします。抽選で選ばれた議会の権威が落ちそうな気もしますし、もしも、抽選が民主主義にいいということであれば、当然に、その適用範囲を拡大することになるわけで、我が国のような内閣制はヤメにして、政府、というか、総理大臣を直接選ぶのか、それは選挙でいいのか、それとも民主主義に好ましい抽選なのか、という疑問も残ります。頭の体操ながら、大統領や総理大臣を抽選で選ぶとすれば、「無謀」と見なす人が多いんではないかと私は考えるんですが、いかがでしょうか。

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最後に、戸部良一『昭和の指導者』(中央公論新社) です。上の表紙画像のうち、上の人物は浜口雄幸総理、下は吉田茂総理です。まあ、見れば判ると思います。著者は歴史学の研究者であり、国際日本文化研究センターや防衛大学校の名誉教授です。本書では、昭和期の指導者として6人、すなわち、浜口雄幸、近衛文麿、東条英機、吉田茂、中曽根康弘、そして、昭和天皇を取り上げ、現代に最も近い中曽根康弘から時代をさかのぼる形で比較・や分析を試みています。加えて、補論として宇垣一成についても議論を展開しています。もっとも、宇垣の場合は、将来の指導者と目されつつ、ついにトップの地位にたどり着けなかったため、補論になっているんだろうと私は想像しています。昭和初期の太平洋戦争開戦までの時期は、あれだけの我が国近代史上まれにみる激動期であったにもかかわらず、というか、激動期であったがゆえに、かもしれませんが、なぜ、指導力や統率力を欠くリーダーしか登場しなかったのか、を著者は問い、その原因が分かれば現代のヒントにもなると指摘しています。しかし、通り一遍でうわべだけの指導者像をもとに議論するのでは、ハッキリいって、モノになるとは思えませんが、指導者としての意図だけでなく、政治のトップとしての結果責任も含めて、著者からこれら6人の指導者に対して、時には厳しく、時には暖かい視線を送って分析を進めています。特に、優柔不断で軍部の専横を許したとの批判が根強い近衛文麿総理と、何といっても太平洋戦争開戦の最大の責任者である東条英機総理に対しては、世間一般の見方より大きく好意的な評価が下されている気がします。私には理解できないところです。

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