2024年3月 2日 (土)

今週の読書は話題の『技術革新と不平等の1000年史』ほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダロン・アセモグル & サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』上下(早川書房)では、技術革新に基づく生産性向上が必ずしも生活の改善にはつながらず不平等が拡大する歴史をひも解いています。水野敬三[編著]『地域活性化の経済分析』(中央経済社)は、限られたリソースをどのように地域活性化に活用するかをゲーム論などを用いて分析しています。太田愛『未明の砦』(角川書店)は、巨大自動車メーカーの非正規工員4人が労働組合を結成して待遇改善を求める姿とを共謀罪を適用して取り締まろうとする権力や企業サイドの対決を描き出しています。宮部みゆき『ぼんぼん彩句』(角川書店)は、短い17文字の俳句に詠まれた背景を小説にする俳句文学を目指す短編小説集です。天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)は、児童虐待などの社会的な背景ある殺人事件を取り上げた社会派ミステリです。町田尚子『どすこいみいちゃんパンやさん』(ほるぷ出版)は、大きなミケネコのみいちゃんがパンを作ってお店を開店する絵本です。
ということで、今年の新刊書読書は先週までの1~月に46冊、3月第1週の今日ポストする7冊を合わせて53冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。また、ついでながら、天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)のシリーズ前作『希望が死んだ夜に』も読みましたが、新刊書ではないので本日のブログには取り上げずに、Facebookですでにシェアしてあります。

photo

photo

まず、ダロン・アセモグル & サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』上下(早川書房)を読みました。著者は、ともに米国のエコノミストです。アセモグル教授はそのうちにノーベル経済学賞を取るんではないか、とウワサされていますし、ジョンソン教授は国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミストも務めています。英語の原題は Power and Progress であり、2023年の出版です。ということで、実に巧みに邦訳タイトルがつけられています。まあ、Progress が技術革新に当たっていて、Power の方が権力者による不平等の基礎、ということになるんだろうと思います。ものすごく浩瀚な資料を引いていて、さすがに、私も所属している経済学の業界でも優秀な知性を誇る2人の著者の水準の高さが伺えます。ただ、いろいろと傍証を引きつつも、結論は極めてシンプルです。すなわち、経済が発展成長する素である技術革新、イノベーションは生産性を向上させ、もちろん、生産高を増大させることは当然で、これを著者たちは「生産性バンドワゴン」と読んでいますが、こういった生産性向上が自動的に国民生活を豊かにするわけではなく、その利益を受けるのはエリート層であって、決して平等に分かち与えられるわけではない、ということです。特に、現在のような民主主義体制になる前の権威主義的なシステムの下では、生産性の向上により労働が楽になったり、短くなったりするとは限らず、逆に、労働がより強度高く収奪されてきた例がいくつか上げられています。例えば、中世欧州では農業技術の改良によって飛躍的な増産がもたらされましたが、人工の大きな部分を占める農民には何の利益もなく、むしろ農作業の強度が増していたりしましたし、人新世の画期となる英国の産業革命の後でも、技術進歩の成果を享受したのはほんの一握りの人々であり、工場法が成立するまでの約100年間、大多数の国民には労働時間の延長、仕事の上での自律性の低下、児童労働の拡大、それどころか、実質所得の停滞や減少すら経験させられていました。こういった歴史的事実を詳細に調べ上げた後、当然、著者2人は現時点でのシンギュラリティ目前の人工知能(AI)に目を向けます。すなわち、ビジネスにおいては、AIを活用して大量のデータを収集・利用して売上拡大や収益強化を図る一方で、政府もまた同じ手法で市民の監視を強化しようとしていたりするわけです。国民すべてに利益が及ぶように、テクノロジーを正しく用いて、社会的な不平等の進行を正すには、ガルブレイス的な対抗勢力が必須なのですが、組織率の長期的低下に現れているように労働組合は弱体化し、市民運動も盛り上がっていません。先進国ですら民主主義は形骸化し、国民の声が政治や経済に反映されることが少なくなっていると感じている人は多いのではないでしょうか。それでは、こういったテクノロジーの方向に対処する方法がないのか、という技術悲観論、大昔のラッダイト運動のようなテクノ・ペシミズムに著者たちは立っていません。かといって、技術楽観論=テクノ・オプティミズムでもありません。日本の電機業界が典型だったのですが、生産性の向上が達成されると雇用者を削減する方向ばかりでしたが、逆に労働者を増やす方向に転換すべきであると本書では主張しています。その典型例を教育に求めています。もちろん、エコノミストらしく税制についても自動化を進めつつ労働者を増やすようなシステム目指して分析しています。アセモグル教授は、かつて『自由の命運』で「狭い回廊」という概念を導き出していましたし、この著作でもご同様な困難がつきまとう気がしますが、企業に対する適切な規制や税制をはじめとする政策的な誘導、そして、何よりも、そういった技術を自動化とそれに基づく労働者の削減に向けるのではなく、テクノロジーを雇用拡大の方向に結びつける政策を支持するような民主主義に期待したいと思うのは私もまったく同じです。

photo

次に、水野敬三[編著]『地域活性化の経済分析』(中央経済社)を読みました。編者は、関西学院大学の研究者であり、本書は関西学院大学産研叢書のシリーズとして発行されています。地域経済の観点から、本書では限られた財政資源、人的資源、観光向けの社会的あるいは自然資源などのリソースを活用し、どういったシステム設計が可能なのか、についてゲーム論などを援用しつつ分析を進めています。まず、本書は2部構成であり、前半は地域経済の活性化、後半は地域サービズの活性化、をそれぞれテーマとしています。前半では、地方のインフラを始めとする社会資本整備について、いわゆるPPP(Public Private Partnershipp)を活かした社会資本整備について、地方政府に任せ切るのではなく中央政府の仲介機能を活用する、などの政策提言を行っています。また、公企業の役割については、民業圧迫を批判されることもありますから、民業補完と民業配慮について民業と官業=公企業の2企業の複占を考え、シュタッケルベルク的な反応とクールノー的な反応から分析を進め、短期では民業補完と民業配慮のどちらも社会厚生を上昇させる一方で、長期には公企業の民業配慮は社会厚生を悪化させる可能性があると結論しています。前半の部の最後には、雇用と就業のミスマッチについて、山形県庄内地方のケースを分析しています。後半のサービス経済の分析の部では、観光資源管理について富山県の立山黒部アルペンルート、また、兵庫県の城崎温泉に関して理論モデルによる分析、すなわち、コモンプール財の外部性を回避する方法につきゲーム論で分析しています。観光客の移動経路については、山形県酒田市のアンケート調査データなどを基に、ネットワーク分析を試みています。また、地域サービスとの関連が私には十分理解できなかったのですが、季節性インフルエンザのワクチン接種に関する公費助成の効率的な水準に関してゲーム理論からの分析を試みています。最後の章では結婚支援サービスの効果に関して理論分析を試みています。基本的に、ほぼほぼすべてマイクロな経済分析であり、ゲーム論を援用した分析も少なくありません。ですから、実証分析ではなく理論モデルの分析が主になっています。ただ、城崎温泉などをはじめとして、実際の地方経済分析の現場に即した理論モデル構築がなされている一方で、理論モデルそのものも明らかに地域経済分析のフレームワークを超えて一般性あるものではないかと私は受け止めています。私自身は東京で官庁エコノミストとして定年まで長らく働いていましたので、地域経済の現実はそれほど身近に接してきたわけではありませんし、本書のようなマイクロな理論モデル分析ではなく、マクロの実証分析を主たる活動分野としてきましたが、唯一の査読論文は長崎大学に出向していた際の長崎経済分析でしたし、関西に引越してからの我と我が身を振り返って、もう少し地域経済についても考えるべきではないか、と感じています。

photo

次に、太田愛『未明の砦』(角川書店)を読みました。著者は、シナリオライターが本業かもしれませんが、いくつか秀逸なミステリも書いていたりする脚本家・作家です。私は、探偵事務所の鑓水などが主人公となっている『犯罪者』、『幻夏』、『天上の葦』の社会派の三部作を読んだ記憶があります。本書と同じで、いずれも角川書店からの出版です。ということで、本書も社会派色が強くなっています。主人公は、日本を代表する大手自動車メーカーで働く非正規工員4人、すなわち、矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平です。本書冒頭のプロローグでは、この4人が日本で初めて共謀罪で逮捕されようとしているシーンから始まります。本編では、この主人公4人が会社の正規社員である組長に誘われて、千葉県笛ヶ浜で夏休みを過ごすところから時系列的なストーリーが始まります。4人が労働組合を結成して巨大資本の自動車メーカーに対抗しようとし、御用組合に加入している正社員から差別され、様々な不利益をこうむります。かなりの長編ですので、この巨大資本の自動車メーカーの工場労働者とともに、経営トップも登場します。会社名と経営トップの名前が共通していますから、明らかにトヨタを意識したネーミングだと考えるべきです。もちろん、この自動車メーカーを巡って、与党政治家、キャリア官僚、そして、所轄の公安警察官、さらに、「週刊真実」なるネーミングで、いかにも「週刊文春」を想像させるような週刊誌のジャーナリストも登場します。作者の視点はあくまでも非正規労働者や彼らを支援する労働組合ユニオンの関係者に優しく、経営者、キャリア官僚、与党政治家などには批判的なまなざしが向けられます。過去に私が読んでいる同じ作者の小説に比べて、それほどスリリングな場面が多いわけではなく、自動車工場における労働の実態がかなり誇張され、ここまで死者が出るのも異常だろうと思わないでもありませんが、日本経済のもっとも基礎的、エッセンシャルな部分を構成する人々についてはよく描写されている気がしました。巨大資本には対抗するすべがなく、単に企業の言い分を受け入れるだけの存在から、自覚的で社会や、その前に自分の境遇をよくしようと考える方向に変わっていく様子が実に感動的に、決して現実的とは思えませんが、とっても感動的に描写されていました。その昔であれば、抑圧されたプロレタリアートが蜂起して革命を起こす、ということになるのかもしれませんが、今ではその選択肢は極めて限定的な気もします。最後に2点指摘しておきたいと思います。第1に、与党政治家が登場するのですから、野党政治家の活躍も何とか盛り込めなかったものか、という気がします。主人公の4人をサポートするのが労働組合関係者だけ、というのは、小説として少し視野が狭い気がしてなりません。もう少しジャーナリストのご活躍もあってよかったのでは、という気もします。あまりにもサポートが少なすぎる印象があります。ただし、労働関係の場合、私のような大学教員はそれほど出る幕はないかもしれません。他方で、ミャンマーのクーデタなどは大学教員もしゃしゃり出たりします。同僚教員の推測によれば、私はミャンマー軍政政府のブラックリストに入っている可能性が高いそうです。第2に、本書は小説であり、しかも、第1の点で指摘したように、救いの道が労働組合に限定されていますから、市民運動とのバランスを取るためにも、エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)をオススメします。チェノウェス教授は、非暴力の自覚的な市民抵抗者が人口の3.5%まで増加すれば社会は変わる、という研究成果を実証的に示した米国ハーバード大学の研究者です。昨年2023年10月末に、私はFacebookでこの本のブックレビューをポストしています。

photo

次に、宮部みゆき『ぼんぼん彩句』(角川書店)を読みました。著者は、日本でも有数の販売を誇っているであろう小説家であり、本書は俳句小説と銘打った新しい試みだそうです。短編集であり、俳句の17文字をタイトルに取って、以下の12編が収録されています。なお、短編タイトルの後のカッコ内の人名、というか、俳号はタイトルの俳句の作者となっています。好きな作者の作品ですし、かなりていねいに読んだので長くなります。まず、「枯れ向日葵呼んで振り向く奴がいる」(よし子)では、婚約解消した女性が主人公となります。婚約解消した相手の男性は二股をかけていて、もう1人の女性が妊娠したため婚約を解消したところです。バス代1800円の「長旅」をして市民公園に着き、そこにある熱帯植物園には向日葵がいっぱいでした。続いて、「鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす」(薄露)では、離婚する女性が主人公となります。主人公の女性は司法書士の高給取りですが、男性の方は15才の時に交通事故死したみっちゃんが忘れられず、妹をはじめとして家族ぐるみで思い出を共有しています。男性は、そのみっちゃんが描いた未完成の鶏頭の絵を形見のように、今もって大事にしていますが、実はみっちゃんが鶏頭を描いたのは別の理由からでした。続いて、「プレゼントコートマフラームートンブーツ」(若好)では、ハンドメイドを趣味とする男性が小学生の息子とともに、土地の神様が宿る大きな銀杏に住むリスを題材にクリスマスプレゼントの作成を始めます。そこに、男性に騙されたらしい女性がやって来ます。続いて、「散ることは実るためなり桃の花」(客過)では、すでに結婚した娘を持つ女性が主人公です。その娘の結婚相手が、司法試験に挑戦しながら働きもせず、善良を信じ過ぎる娘を騙しているようにしか見えず、他の女性との浮気すら許容しています。続いて、「異国より訪れし婿墓洗う」(衿香)では、やや近未来的でSFのような設定です。再生細胞が広範に医療に利用されるようになり、寿命が100歳を軽く超えるようになった日本で、主人公の女性の娘は国際結婚をして外国ぐらしをしていましたが、お盆の亡夫の墓参りに帰国します。続いて、「月隠るついさっきまで人だった」(独言)では、のんびりした姉としっかりものの5歳違いの妹の姉妹が主人公です。姉に彼氏ができたのですが、トンデモなタイプの男性で、祖母の葬式の名古屋まで追いかけて、ナイフを振り回したりします。続いて、「窓際のゴーヤカーテン実は二つ」(今望)では、アラフォーで子供のいない夫婦が主人公です。南西向きの部屋が暑いのでゴーヤをカーテン代わりに植えたところ、真冬になっても実がなったままで枯れそうにもありません。不妊治療に奇跡をもたらすゴーヤの実に使えるのではないかと夫がいいだしたりします。続いて、「山降りる旅駅ごとに花ひらき」(灰酒)では、家族の中の「黒い羊」のようなパッとしない次女、しかも、母親似の美貌の長女と次女に挟まれて、父親似の次女が主人公です。祖父の遺言状の確認のために温泉宿に一族が集まり、遺言状ではまたまたパッとしない腕時計を譲られますが、その宿の女将から重大な祖父の秘密を知らされます。続いて、「薄闇や苔むす墓石に蜥蜴の子」(石杖)では、小学生が主人公で、引越し先の裏山を探検しているとトカゲが走り去り、追いかけるうちにキラリと光る虫眼鏡を発見して、交番に届けたところ大騒動になります。というのも、虫眼鏡には5年前に行方不明になった小学生の名があったからです。虫眼鏡が発見された近くからとんでもないものが発見されます。続いて、「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」(蒼心)では、女子大生が主人公で、彼氏になってから豹変した男性とその取巻きから無理矢理に心霊スポットの廃墟の元病院に連れて行かれてしまいます。そこで出会ったのは人ならぬ存在だったりします。続いて、「冬晴れの遠出の先の野辺送り」(青賀)では、かなわぬ恋に敗れて26歳で自殺した男性の妹が主人公です。昔ながらの徒歩の野辺送りではローカル線に沿ったルートが設定されましたが、列車は停まってしまいます。県庁所在都市の名門校の女子高生と話しているうちに、主人公は亡き兄について、いろいろと感情を高ぶらせます。続いて、「同じ飯同じ菜を食ふ春日和」(平和)では、夫婦と女の子の家族3人が主人公です。父親の方の郷里に法事や何やで帰省するたびに訪れる展望台での会話で構成されているのですが、ざっと考えても十数年にわたっての会話です。展望台からは Remember 3.11 の文字が見えます。と長々とあらすじを展開しましたが、人ならぬ存在が登場する「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」がもっともよかったと感じています。12の短編の前半は、あるいは、後半のいくつかの短編も、やや常軌を逸した男性が登場し、どこまで現実的なお話なのかと疑問に思わなくもないのですが、まあ、そこは小説なのだと割り切って考えるべきなのかもしれません。

photo

次に、天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書は、同じ作者の『希望が死んだ夜に』に続く社会派ミステリ仲田蛍シリーズの第2弾となります。前作と同じで神奈川県警真壁刑事といっしょに捜査に加わります。何の捜査かというと、風俗産業のオーナーの殺人事件です。前作と同じように川崎市の登戸付近の事件です。容疑者は、かつて殺害されたオーナーの経営する風俗店で働いていた女性なのですが、その小学生の娘が殺害当日の母親のアリバイを詳細に記憶しています。深夜でテレビがついていて、真夜中で日付が変わったシーンなどを克明に証言して、警察でも全面的ではないとしても証拠能力があると認定されます。その容疑者は今では風俗店ではなく、ファミレスで働くシングルマザーであり、容疑者の娘がきさらという名です。家庭ではシングルマザーの母親がこの小学生の娘を虐待、というか、ネグレクトしつつ虐待していて、食事を十分に与えなかったり、母親の気分次第で風呂場で水攻めにしたりします。もちろん、家庭での洗濯や入浴が行き届かないわけですので、小学校でもいじめにあっています。しかし、きさらは少なくとも母親から虐待されているという自覚はなく、一種のマインドコントロールの状態にあって、風呂場での水攻めがしつけであると思い込まされています。小学校では、同じクラスの翔太だけが味方になってくれていますが、きさらは少なくとも家庭での虐待については自覚しません。そこに、仲田が登場して謎解きをするのですが、ある意味で、本格的なミステリなのですが、時間のミスリードがあり、同様に、ノックスの十戒のひとつである双子のケースに近いミスリードもあったりしますから、ホンの少しだけ反則気味であると感じるミステリファンがいる可能性はあります。でも、なかなか見事なプロットだと思います。社会派のミステリファンを自負するのであれば、特に前作の『希望が死んだ夜に』を読んだファンであれば、ぜひとも抑えておきたいオススメ作品です。ただ、読者によっては、前作の方がクオリティ高いと支持する人がいそうな気もします。私もその1人です。

photo

最後に、町田尚子『どすこいみいちゃんパンやさん』(ほるぷ出版)を読みました。著者は、イラストレータ・絵本作家です。本書は単独での執筆ですが、私が読んだ範囲でも『なまえのないねこ』(小峰書店)なんかのように、原作者とともにイラストを担当したりしている作品も少なくないと思います。ということで、とても久しぶりの絵本の読書感想文です。私も周辺ではこの絵本の評価は高くて、それなりにはやっているようです。従って、出版社も力を入れているのか、特設サイトが開設されたりしています。「どすこいちゃん」の写真募集と称して、いわゆるデブ猫の写真を募集していたりします。なお、この絵本は4-5歳からが対象となっています。私も読んでみて、主人公のどすこいみいちゃんが、朝早くから起き出して、お相撲体型を利用して、というか、何というか、力仕事でパンを作るという労働を賛美する趣きがある一方で、それ以外はさほどの社会性があるわけでもなく、ましてや、何らかの人生の深い教訓を示唆しているわけでもなく、その上、表紙画像に見られるように、いかつくて、それほど愛嬌があるわけでもない表情のデブ猫が主人公ですので、絵本としてはいかがなものか、と私自身は考えないでもないのですが、繰り返しで、なぜか、私の周囲ではなかなか評判がいいようです。

| | コメント (0)

2024年2月24日 (土)

今週の読書は経済書3冊ほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、楡井誠『マクロ経済動学』(有斐閣)は景気循環の原因を外生的なショックではなく、設備投資、物価、資産価格に求め、冪乗則を援用してマクロ経済の動学を解明しようと試みている学術書です。野崎道哉『マクロ経済学と地域経済分析』(三恵社)は、ポストケインジアンのモデルに産業連関表を組み合わせたモデルを用いたり、地域産業連関表を用いた分析を試みています。田代歩『消費税改革の評価』(関西学院大学出版会)は、著者の博士号請求論文を基に、消費税と世代間不平等などを分析しています。吉田修一『永遠と横道世之介』上下(毎日新聞出版)は横道世之介シリーズ三部作の完結編であり、39歳になった世之介の日常生活を描き出しています。小林泰三ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』(角川ホラー文庫)と吉岡暁ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』(角川ホラー文庫)では、角川書店が主催する日本ホラー小説大賞という新人文学賞の短編賞を集成したアンソロジーです。なお、飯田朔『「おりる」思想』 (集英社新書)も読んだのですが、余りにも出来が悪くて論評するに値しないと考え、取り上げませんでした。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、2月第3週までに18冊の後、今週ポストする7冊を合わせて46冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

photo

まず、楡井誠『マクロ経済動学』(有斐閣)を読みました。著者は、東京大学の経済学者です。本書では、景気循環の原因を外生的なショック、例えば、戦争とか一次産品価格の上昇とか、海外要因や政策要因などを想定するのではなく、マクロ経済の内生的な同調行動を引き起こす冪乗則 power law を想定してマイクロな経済に基礎を置きつつ、マクロ経済の動学的な運動を解明しようと試みています。なお、出版社からしても明らかに学術書、そして、私の目から見てもかなり高度な学術書です。学部生には読みこなすには大きなムリがありますし、博士前期課程、というか、修士課程の大学院生でもややムリがあり、博士後期課程の院生でなければ十分な理解が得られない可能性があります。ハッキリいって、私も十分に理解できたかどうか自信はありません。ということで、本書は2部構成であり、序章と前半の3章で景気循環理論と対応する経済モデルを解説しています。本書が寄って立つのは、実物的景気循環モデル(RBC)に物価の粘着性を加えて、貨幣と実物の二分法の課程を緩めたニューケインジアン・モデルであり、景気変動の原因としては3つの震源、と本書では表現していますが、要するに経済変動、すなわち、設備投資、物価、資産価格を想定してます。繰り返しになりますが、海外要因や政策要因ではありません。そして、私が往々にして軽視する点のひとつですが、マクロ経済のミクロ的な基礎づけを考え、ミクロの経済行動が冪乗則によってマクロ的な期待値を集計できないようなエキゾチックな波動を考えています。本書では「波動」という言葉を使っていませんが、おそらく、波動なんだろうと私は受け止めています。後半では、景気変動の3つの「震源」、すなわち、設備投資、物価振動、資産価格についてモデルの拡張を含めて論じています。繰り返しになりますが、とても難解な学術書であり、私自身が十分に理解しているかどうか自信がないながら、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、合理性についてややアドホックな前提が置かれている気がします。限定合理性を仮定するのか、それとも、消費CAPMのような超合理性を考えるのか、モデルによりやや一貫しないような気がしました。第2に、個別企業の価格付け行動に基づく相対価格の変化が基本的に考えられているようですが、デノミネーションのような貨幣単位の変更といった極端な例を持ち出すのではなく、一般物価水準がマクロ経済に及ぼす影響については、もう少し分析があってもいいのではないか、という気がします。第3に、資産価格については合理的・非合理的を問わず、バブルについての分析が欠けている気がします。バブルによるブームの発生とバブル崩壊による、あるいは、バブル崩壊後の金融危機による景気後退については、もう少し踏み込んだ分析ができないものか、という気がします。ただ、いずれにせよ、トップクラスの経済学の学術書です。おそらく、一般的なビジネスパーソンでは読みこなすのは難しい気がいますが、大学院生にはチャレンジしてほしいと思います。

photo

次に、野崎道哉『マクロ経済学と地域経済分析』(三恵社)を読みました。著者は、岐阜協立大学の研究者です。出版社は、私の知る限りで自費出版などで有名な会社なのですが、本書が自費出版であるかどうかは言及がなかったと思います。本書は2部構成なのですが、前半と後半はほとんど関連性なく別物と考えたほうがよさそうです。中身は完全な学術書です。一般的なビジネスパーソンには向かないと思いますし、エコノミストでも専門分野が違えば理解がはかどらない可能性があります。ということで、前半部ではマクロ経済分析に関してケインズ型のモデルを考え、理論的な分析を試みています。最初の第1章でケインジアン・モデルについて考え、特に乗数分析についての理論を考察しています。具体的には、ケインズやカレツキの乗数分析をレオンティエフ的な産業連関表に統合した宮澤先生のモデルを用いて、東日本大震災後の宿泊などのリゾート産業における消費減少のインパクトを計測しようと試みています。続いて、第2章で2国間の国際貿易を明示的に取り込んだ理論モデルを基に、動学方程式モデルを用いたシミュレーション分析を実施しています。第3章で急にポストケインジアン・モデルを用いだインフレ目標政策の分析をしています。均衡の安定性が論じられています。第4章では、開放経済体系におけるインフレ目標政策を用いた分析により、積極財政政策と金融政策ルールとしてのインフレ目標が両立することが示されています。第5章では、ポストケインジアンのニューコンセンサス・マクロ経済学(NCM)と呼ばれるISSUE曲線はあるが、LM曲線を必要としない経済学を用いた分析を行っています。特に、バーナンキ教授等が行ったファイナンシャル・アクセラレーター・モデルの含意については、ポストケインジアン飲み方から批判的な検討が加えられています。後半部では産業連関表の作成や利用が中心となります。特に、大垣市の産業連関表の作成にページが割かれています。本書のタイトルの後半部分といえます。ただ、私はこの後半についてはなかなか理解がはかどりませんでした。また、第7章の表7.1と表7.2が10ページ超に渡って、老眼に私には苦しい大きさの数字で延々とデータ試算結果が示されています。これは、紙の印刷物でお示しいただくよりも表計算ファイルのフォーマットでダウンロードできる方が有益ではないか、という気がしました。実は、私も役所の研究所でAPECの貿易自由化政策の推計のために "Protection Data Calculation for Quantitative Analysis of MAPA" という論文を書いて関税率データを計算したことがあります。私の場合は、Excelファイルでダウンロードできるように、すでに25年以上の前の研究成果ながら、今でも国立国会図書館のサイトに収録されています。ご参考まで。

photo

次に、田代歩『消費税改革の評価』(関西学院大学出版会)を読みました。著者は、札幌学院大学の研究者であり、本書は関西学院大学に提出した博士論文を基にしています。タイトル通りに消費税に関する経済分析なのですが、序章と終章を除いて4章構成であり、世代間の受益と負担の公平性、所得階級別の軽減税率の効果負担の分析、同じく、年齢階級別の軽減税率の効果負担の分析、そして、年齢階級別の限界的税制改革のシミュレーション分析を主たるテーマにしています。博士論文ですので、極めて詳細なデータの出典やモデル構築時の詳細情報が含まれていて、とても参考になります。私自身は大学院教育を受けておらず、もちろん、博士号も取得していないので、こういった大学院生の博士論文を指導する機会はないものと考えますが、何人か博士論文審査の副査を務めた経験もあり、単なる経済学的な興味だけではなく、教育的な経験にもなるのではないか、と考えて読んでみました。まず、博士論文ですから非常に手堅く異論の出ない通説に寄って立った論文だという印象を受けました。例えば、財政に関して世代間の受益と負担の公平性に関しては世代重複(OLG)モデルを用いて分析し、通例、若年者が負担超過で高齢者が受益超過となります。ある意味で、シルバー民主主義の結果なのですが、どうして若年世代、あるいは、極端な場合には、まだ生まれていなくて、これから生まれる将来世代の負担が超過となるかといえば、財政赤字がリカード的に将来返済されると考えるからです。従って、本書のコンテクストでいえば、消費税率が低くて財政赤字が積み上がるような税率であれば、将来負担が大きくなって若年世代や将来世代の負担が、高齢世代よりも大きくなるわけです。逆にいえば、消費税率を高率にして財政赤字が積み上がらない、あるいは、財政赤字が解消されるような税率にすれば世代間の不公平は軽減ないし解消されます。本書では、この世代間不平等を解消する消費税率を24%程度と試算しています。既存研究からしてもいい線だと思います。ただ、ここは経済学の規範性を無視した議論であって、消費税率が24%とかきりよく25%となれば、マクロ経済がどうなるか、といった議論はなされていません。まあ、世代間不公平・不平等を解消するのと景気を維持するのとの間で、どちらにプライオリティを置くかの議論は別なわけです。あと、経済学ですので、評価関数によって差が生じます。すなわち、本書でも、低所得者層に配慮するロールズ的な厚生関数を前提にするのか、そういった違いを考慮せず同じウェイトで考えるベンサム的な厚生関数なのか、で政策評価が異なる例がいくつか示されています。そもそも、アローの不可能性定理によって推移律が成り立たないことから社会的な厚生関数を考えることがどこまで意味あるかは疑問なのですが、本書のような純粋に学術的、あるいは、教育的な経済学を考える場合には意味あるといえます。ちなみに、軽く想像される通り、低所得者層に配慮するロールズ的な厚生関数を前提とすれば、2019年10月から日本でも導入された軽減税率は意味がある、という結論となります。最後に、本書で興味深い点のひとつは、シミュレーションを多用している点です。基礎的で手堅いモデル設定に対して、シミュレーションを用いるのは、これからさらに注目されるかもしれません。

photo

photo

次に、吉田修一『永遠と横道世之介』上下(毎日新聞出版)を読みました。著者は、日本でももっとも売れていて有名な小説家の1人ではないかと思います。本書は横道世之介シリーズ第3作であり、完結と銘打たれています。一応おさらいですが、シリーズ最初の『横道世之介』では、世之介が長崎から大学進学のために上京した1987年にスタートし、ほぼほぼ大学1年生の時の12か月をカバーしています。本書でも登場する社長令嬢で言葉遣いまでフツーと違う与謝野祥子との恋が私には印象的でした。最後に、16年後の現在である2003年から周囲の人々が世之介を振り返る構成となっています。私は小説を読んだのはもちろん、映画も見ました。2作目の『続 横道世之介』あるいは文庫化されて改題された『おかえり 横道世之介』では大学を卒業したものの、バブル最末期の売り手市場に乗り遅れて、パチプロ、というか、フリーターをしている24才の世之介の1993年4月からの12か月を対象としています。世之介は小岩出身のシングルマザーの日吉桜子と付き合って、世之介が知らないうちに勝手に投稿された写真コンテストで作品が「全量」と評価されて、プロカメラマンに成長していきます。そして、この続編でも27年後の2020年の東京オリンピック・パラリンピックのトピックが最後に挿入されています。今週読んだ第3作では世之介は38才から39才のやっぱり12か月です。もちろん、カメラマンの活動を続ける一方で、「ドーミー吉祥寺の南」なる下宿を所有するあけみと暮らしています。あけみは事実婚のパートナーで、芸者をしていたあけみの祖母が残した下宿を切り盛りしています。学生下宿というわけでもなく、世之介よりさらに年長の勤め人男性、書店員の女性、もちろん学生もいます。そこにさらに知り合いの中学教師の倅で、引きこもり男子高校生まで加わります。その9月から翌年の8月までの12か月が対象です。先輩カメラマンが壁に突き当たって活動を事実上停止したり、後輩カメラマンが子供を授かって結婚したり、緩いながらもいろいろな出来事があります。でも、世之介がいつも考えているのは事実婚のパートナーあけみではなく、付き合った時点で余命宣告されていた最愛の二千花であり、世之介は二千花と過ごした日々を何度も何度も回想します。そして、この作品でも15年後が挿入されています。表紙画像に見られるように、「横道世之介」シリーズ堂々の完結編とうたわれています。三部作の完結のようです。ただ、私は最初の『横道世之介』も読み終えた段階では、これで続編はないものと思っていました。今度こそホントに終わるのでしょうか。もう、世之介はアラフォーに達していますので、決して青春物語ではありませんし、初編と続編のように世之介は成長を見せるわけでもありません。でも、ほのぼのといい物語です。多くの読者にオススメします。

photo

photo

次に、小林泰三ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』吉岡暁ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』(角川ホラー文庫)を読みました。著者は、ホラー小説家がズラリと名を並べています。まずおさらいで、私が調べたところ、現時点では「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」という文学賞があるのですが、これは「横溝正史ミステリ大賞(第38回まで)」と「日本ホラー小説大賞(第25回まで)」を2019年に統合したもので、角川書店の新人文学賞となっています。2019年が第29回ですから、回数は前者の「横溝正史ミステリ大賞」を引き継いでいます。そして、後者の「日本ホラー小説大賞」には、大賞、読者賞、優秀賞といった各賞のほかに、創設された1994年から2011年までは、大賞のほかに長編賞と短編賞に分かれていました。その短編賞を集成したのがこの2冊です。11編の短編が受賞順に収録されています。ただ、1年で2作の受賞作があったり、あるいは逆に受賞作がなかったり、はたまた、受賞したものの、この2冊には収録されていない短編があったりします。私が調べた範囲では、2001年吉永達彦「古川」と2010年伴名練「少女禁区」は収録されていません。理由は不明です。以下、ものすごく長くなりますが、収録順にあらすじです。なお、タイトルの後のカッコ内は受賞年です。まず、『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』から、小林泰三「玩具修理者」(1995年)では、子守していたときに弟を死なせてしまった姉が、何でもおもちゃを修理してくれる玩具修理者のところに死体を持込みます。回想する形の会話でストーリーが進みますが、ラストが秀逸です。沙藤一樹「D-ブリッジ・テープ」(1997年)では、横浜ベイブリッジにゴミとともに捨てられた少年の死体が、今はもう見ない60分テープとともに発見されます。そのテープに収録されていた質疑応答のような会話でストーリーが進みます。節ごとにこの会話と聞いている人たちの感想が交互に盛り込まれています。グロいです。残酷です。希望や救済といったものが微塵も見られません。かなりの読解力を必要とします。朱川湊人「白い部屋で月の歌を」(2003年)では、除霊のアシスタントを務める少年のジュンが主人公で、様々な霊魂を自分の体内に受け入れています。除霊している中で、ジュンは男に刺され魂が抜けた女子に恋してしまい、霊魂を閉じ込める白い部屋から月を眺めたりするわけです。しかし、ジュンの庇護者であり金儲け主義の霊媒師はこの恋を許してくれません。最初が幻想的で、ラストはジュン正体が明らかになってとってもびっくりします。森山東「お見世出し」(2004年)のタイトルは花街で修業を積んできた少女が舞妓としてデビューするための儀式を指します。主人公である綾乃のお見世出しの日は、お盆前の8月8日に決められて、33年前に自殺した幸恵という少女の霊を呼び出していっしょにお見世出しをすることになってしまいます。あせごのまん「余は如何にして服部ヒロシとなりしか」(2005年)では、主人公の鍵和田は同級生の服部の姉に連れられて、古い家屋を訪れたところ、文化祭のセットで作ったはりぼての風呂があり、お湯も張らずにいっしょにお風呂に入ったりします。なんとも、不条理、シュールで不可解なホラー小説であり、それはそれで背筋が寒くなります。タイトルの由来は読んでみてのお楽しみです。次に、『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』から、吉岡暁「サンマイ崩れ」(2006年)のタイトルの「サイマイ」とは、三昧から派生していて方言でお墓のことです。舞台は和歌山県であり、熊野本宮に近い山村が大水害で多くの死傷者を出したと聞き、主人公の男性は精神科の病院を抜け出し、奇妙な消防団員2人と老人といっしょに熊野古道を進み、崖崩れで崩壊した隣村の墓地にたどりつきます。ラストに驚愕します。曽根圭介「鼻」(2007年)では、ややSF的に舞台は鼻の形で人々が二分され、「ブタ」と呼ばれる人たちが「テング」を呼ばれる人たちを差別して、その昔の「民族浄化」のような形で殺戮すらしていたりします。平文の医師が主人公の部分とゴシックの刑事が主人公の部分が交互に現れ、差別に批判的な医師は被差別者を救うために違法な手術をすることを決意する一方で、刑事は少女の行方不明事件の捜査中に、かつて自分が通り魔として傷つけた男に出会ったりします。雀野日名子「トンコ」(2008年)のタイトルであるトンコは、主人公ともいえるメスの子豚の愛称です。高速道路でトラックが横転事故を起こし、搬送中のブタの一部が行方不明になり、そのうちの1匹がトンコなわけです。トンコは山を下って用水路で犬をまいて、海にまで達するうちにいろいろなものに遭遇するわけです。田辺青蛙「生き屏風」(2008年)では、酒屋の主人の死んだ奥さんがあの世から帰ってきて屏風に取り憑いてしまいます。主人は仕方ないので、戻ってきてしまった奥さんの退屈を紛らすため、県境で魔や疫病の侵入から集落を守ってる妖鬼を選んで、酒屋に連れてきて話し相手をさせます。その妖鬼の親の鬼やいろんな話がそもそもホラーなのですが、最後に、屏風の奥さんが海に流して欲しいといい出してちょっとびっくりのラストになります。朱雀門出「寅淡語怪録」(2009年)では、夫婦で町会館の清掃奉仕に来た中年男性の主人公が、その町会館から地域の怪異話を収録している「寅淡語怪録」を持ち帰ります。読み進むうちに、収録されていた怪談の中に現れるぼうがんこぞうを100均ショップで見かけたり、勝負がつかないので組手を解くと3人いたという3人相撲などの怪談と同じ怪異を体験してしまいます。さらに、図書館の書庫に所蔵されている同様の100巻を借り出して、妻とともに怪異のあった場所を訪れたりします。最後に、国広正人「穴らしきものに入る」(2011年)では、主人公の男性は、洗車をしていた際に水道のホースに入って自動車の運転席側から助手席側に移動してしまい、それ以降、いろんな穴を通り抜けることを試みます。難易度でABCにランク付けしたりして一種の冒険を楽しんでいますが、電気の壁コンセントに入ったところで万事休してしまいます。ということで、何といっても新人文学賞ながら「日本ホラー小説大賞」の短編賞を受賞した短編のアンソロジーです。とてもレベルの高いホラー短編が集められています。私の趣味に基づけば、表紙デザインは今年2024年1月早々にレビューした「現代ホラー小説傑作集」の『影牢』や『七つのカップ』に比べてチト落ちるような気がしますが、デザインだけの問題で中身は充実しています。

| | コメント (0)

2024年2月17日 (土)

今週の読書は教育に関する学術書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は教育に関する学術書をはじめとして計7冊、以下の通りです。
まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)は先進国が加盟する国際機関が人的資本形成に重要な役割を果たす教育について分析しています。中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)は、教育学の観点から少規模学級による学力格差是正効果などの定量的な分析を試みています。万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)は、第170回直木賞受賞作品であり、8月の猛暑の京都の御所グラウンドにおける草野球のリーグ戦に参加した不思議な選手についてのストーリーです。東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)は、ラプラスの魔女こと羽原円華が知り合った中学生の父親が殺された殺人事件の謎の解明に挑みます。伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)は、戦間期におけるケインズの活動について、対ドイツ賠償問題と英国の金本位制復帰に焦点を当てて議論しています。阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)は、博士課程に進んだり海外留学を経験して、高学歴でありながら低所得に甘んじている「難民」について実例を引きつつ考察しています。西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)では、何と、20年間の人工睡眠から目覚めた主人公がバブル期の北海道経済界で注目されていた若手財界人殺害の事件に遭遇します。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、2月第2週までに11冊の後、今週ポストする7冊を合わせて39冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

photo

まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)を読みました。著者は、いわずと知れたパリに本部を置く国際機関であり、日本や欧米をはじめとする先進国が加盟しています。慶應義塾大学の赤林教授が監訳者となっていて、巻末の解説を書いています。かなり学術書に近いのですが、一般の教育関係者やビジネスパーソンにも十分有用な内容です。本書は5章構成となっていて、経済的に人的資本が重要であることを第1章で論じた後、第2章では経済に限定せずに、教育が広範な社会的な成果をもたらす点を指摘し、そして、第3章から第5章は学校教育の実践編となり、財政や予算配分などについて分析しています。私も大学の教員ながら、学校運営についてはシロートですし、ましてや学校財政や予算運営については大した見識があるわけではありませんから、主として、第1章と第2章を中心にレビューしておきたいと思います。まず、本書ではなぜかほとんど言及がないのですが、経済学的には生産関数という理論があり、生産要素、すなわち、資本ストックと労働をインプットして付加価値が生み出される、と考えます。この付加価値の一定期間の合計がGDPなわけで、GDPの伸び率を成長率というわけです。そして、本書でも言及あるように、資本ストックはともかく、もうひとつの生産要素である労働についてはシカゴ大学のベッカー教授の人体資本理論が教育を考える際の経済学の中心となります。人的資本は知識や経験をはじめとするスキルの限定的なストックであるとみなされていました。これはすなわち短期的な成長への寄与を中心に考えられていたことを意味します。しかし、ローマー教授などの内生的成長理論あたりから、人的資本はイノベーションへの貢献や普及を通じて長期的な成長にも寄与する部分が大きいと考えられるようになっています。日本でも「教育は国家100年の大計」といわれるように、人的資本形成に長期的な視点は欠かせません。ただ、2020年以降のコロナ禍の中で財政制約が厳しくなるとともに、目の前の命を救う医療や社会保障に比較して、教育に割り当てられる予算を見直す必要が生じたことも事実です。その上、コロナの前から格差問題がクローズアップされており、教育が経済的な格差にどのような影響を及ぼしてきているのか、といった分析も不可欠になっています。おそらく、教育にはスキル向上を通じた人的資本蓄積に寄与するのはもちろん、それ以上に、経済学的には外部性が大きいという特徴があります。例えば、感染症のパンデミックのケースを考えても、議論の絶えないマスク着用やワクチン接種の問題を差し置いても、衛生状態や栄養摂取の改善などについては、それなりの教育を受けて意識の高い人間が増加すれば、かなりの程度に解決される可能性があります。統計的なエビデンスは必ずしも十分には示せませんが、私の直感では明らかに学歴と喫煙習慣は逆相関しています。また、これも議論が分かれるかもしれませんが、2016年の英国のEU離脱の国民投票では、学歴とremainは正の相関があったと報告されています。加えて、本書では、メンタルヘルスの問題なども教育水準の向上とともに改善される可能性があると示唆しています。ただ、他方で、教育については普遍性と先進性の間にトレードオフがあるのも事実です。日本でいうところの「読み書き算盤」といった基礎的なスキルは義務教育で国民の多くが普遍的に身につける必要がある一方で、高等教育をどこまで普及させるべきかの観点は議論が分かれます。

photo

次に、中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)を読みました。著者は、桃山学院大学の研究者であり、専門は経済学ではなく教育社会学のようです。本書はほぼほぼ学術書と考えていいと思いますが、教育関係者にも配慮しているような気もします。例えば、経済学の学術書であれば、本書第1章の「科学的エビデンスとは何か」なんて議論はすっ飛ばしているような気がします。一般の教育関係者に配慮しているのか、それとも、教育学や教育社会学のエビデンスに対する考え方がまだこのレベルなのかは、私にはよく判りません。そして、本書では科学的エビデンスとは因果関係のことであると見なしています。いつも、私の主張のように、時系列分析の観点からは因果関係とともに相関見解も十分重要だと私は考えているのですが、そこは経済学との違いなのかもしれません。ただ、教育学や教育社会学と経済学で共通する観点、すなわち、実証的な分析と規範的な分析についてはキチンと押さえられています。例えば、本書でも少人数学級の有効性について分析をしているのですが、少人数学級が学習到達度の観点から有効であるかどうかと少人数学級を普及させるべきかどうか、の点は異なる観点から考えられるべき、ということです。経済学も同じで、例えば、財政支出拡大が成長に寄与るるかどうかは実証的に分析できますが、それでは、財政支出を拡大してまで成長を加速させるべきかどうかは別問題です。こういった実証と規範を考えた上で、いくつかの教育に関する論点をフォーマルな定量分析で実証的に明らかにしようと試みています。結論をいくつか抽出すると、まず、少規模学級による学力格差是正効果は小さいものの、その効果は本書では認められています。私のやや古い認識によると、週人数教育は学習到達度にはそれほど有効ではない、というのがこの世界の常識だったような気がしますが、学習到達度ではなく学力格差に着目すると効果あるという結論です。私自身としては一定の留保はつけておきたいと思います。大学のゼミナールが典型なのですが、少人数教育を尊ぶ考えについて、私自身は疑問を持っています。少人数教育ではそれだけ学習に対する圧力、まさに日本的な「圧力」、教師から、あるいは同じ生徒や学生間のプレッシャーがあるので学力への効果があると考えられますが、勉強するしないはそんなことで決まるものではありませんし、とくに、上級校になるに従って学校での学習の比率よりも家庭、というか、自分自身で学習すべき比率が高まりますから、私自身は少人数教育の効果には疑問を持っています。私の直感では、小学校の教員は少人数学級に好意的で、大学の教員はそうでもなさそうな気がします。しおれは、学校での学習と自分自身でやる学習の比率の差であろうと私は考えています。ただ、2点注意すべきなのは、まず、少人数学級ほど教員の負担が小さいことは事実だろうと思います。ですから、本書の分析結果のように、教師のサイドからすれば職務多忙の解消と学級規模の縮小が求められています。そして、従来からの定量分析結果に示されているように、学級規模を縮小させて15~20人くらいを境に学習効果が高まるのは事実だろうとおもいます。ギャクニ、コロナ禍の中で学級規模を40人から35人にしたくらいではほとんど効果はない可能性があると認識すべきです。そして、本書の分析結果として興味深かったのは、日本国民の間では、従来から教育は私的な活動であって、教育の便益は個人に帰属する可能性が高いことから、私的に費用を負担すべきものという感覚が先進各国と比べても高かったと私は認識しているのですが、その意識はかなり変化してきており、公的な支出をより増加させる機運が高まっている、との分析結果が示されています。よく主張される点ですが、日本位の先進国で高等教育機関である大学の無償化が進んでいないのは米国を別にすれば日本くらい、というのがあります。私自身は、大学学費がここまで高いのは雇用慣行の年功賃金が関係していると考えています。すなわち、雇用者の賃金が若年期に生産性より低い賃金しか支給されない一方で、中年以降の子育て期に生産性を上回るので教育費が負担できてしまう、という構図があります。大学の学費を政府が無償にするのではなく、企業に負担させているわけです。もうひとつは、少なくとも1950年代生まれの私くらいまでは、国公立大学は実質的に無償に近かった、という事実があります。私の京都大学の学費は年間36,000円だったと記憶しています。この額であれば、決して私の親は高給取りではありませんでしたが、かなり無償に近い印象でした。ただ、最近時点では国立大学でも年間50万円を大きく上回る学費が必要ですし、公的支出を拡大する機運が高まっているのは、ある意味で、当然かもしれません。

photo

次に、万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)を読みました。著者は、私の後輩の京都大学ご出身の小説家です。私はこの作者の作品はかなり大量に読んでいると自負しています。そして、この作品は、いわずと知れた第170回直木賞受賞作品です。作者の『鴨川ホルモー』のデビューから16年ぶりの京都を舞台にした青春小説です。本書は2部構成、2本立て、というか、順に短編ないし中編の「十二月の都大路上下る」と表題作の「八月の御所グラウンド」を収録しています。両者は密接にリンクしている連作なのですが、独立して読んでも十分楽しめます。ということで、前者の「十二月の都大路上下る」は全国高校駅伝で京都市内を走る県代表の女子高生が主人公です。この主人公JKは1年生なのですが、前日になって先輩の2年生JKが体調不良で交代で出場することになります。主人公JKは極度の方向音痴の上に、雪が舞う最悪のコンディションで、右に曲がるか左なのかのコースを間違えそうになるところ、よく見かける歩道を並走する人たちにコースを教えてもらいます。しかし、この野次馬の並走者が現在には決してマッチしない服装であり、駅伝翌日の買い物で主人公がそれに気づく、というストーリーです。「八月の御所グラウンド」は主人公が、いかにも京都大学を思わせる工学部の男子大学生になります。自堕落な生活を送ってきた学生なのですが、いよいよ卒業が近づいて卒論単位の条件に指導教員から、何と、夏の暑い真っ盛りの8月の御所グラウンドで開催される「たまひで杯」の野球リーグ戦に優勝するとの条件を示されます。京都の8月という極めて悪条件な天候の中で、野球をするための9人を集めるのに苦労し、中国人の大学院留学生の女性に加わってもらったりしていたのですが、とても不思議な3人組も出場することになります。そして、中国人の大学院留学生が調べたところ、確かに、大学に学籍はあったが、卒業も中退もしていない学徒出陣した学生だったことが明らかになり、さらにさらにで、あの伝説の名投手がピッチャーをしていたのではないか、と示唆されます。そして、中国人の大学院留学生は中国にいたころの経験からトトロを持ち出して、正体が明らかになるともう現れない、と主張しますが、彼らは野球に参加し続けます。はい、いい作品でした。ただ最後に、すごく最近の『ヒトコブラクダ層ゼット』あるいは、文庫化の際にタイトル変更して『ヒトコブラクダ層戦争』は別としても、私はこの作者の割合と初期の作品、特に、関西を舞台にした作品が好きです。すなわち、デビュー作の『鴨川ホルモー』、そして、『鹿男あをによし』、『偉大なる、しゅららぼん』、『プリンセス・トヨトミ』の4作です。順に、京都、奈良、滋賀(琵琶湖)、大阪を舞台にしています。これら4作品と本作品を合わせて5作のうちで、この作品『八月の御所グラウンド』が突出した大傑作、という気もしません。むしろ、5作品の中では『プリンセス・トヨトミ』が1番ではないのか、という気すらします。ですから、決してこの直木賞受賞作品をディスるつもりはありませんが、こういった一連の作品を合わせて合せ技1本で直木賞、ということなのではないか、と考える次第です。

photo

次に、東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)を読みました。著者は、日本でもっとも人気あるミステリ作家の1人ではないかと思います。この作品は「ラプラスの魔女」シリーズの長編ミステリであり、『ラプラスの魔女』の続編となります。従って、シリーズ作品を時系列的に順に並べると、『魔女の胎動』、『ラプラスの魔女』、そして本作品『魔女と過ごした七日間』となります。本作品は『ラプラスの魔女』から数年を経ていますが、このシリーズを通じて時代設定は近未来、ということになります。ですので、AIが広範に活用されていたりします。主人公は、まあ、シリーズに共通して羽原円華なわけですが、この作品では中学3年生の月沢陸真ともいえます。そして、羽原円華の「ラプラスの魔所」としての特殊な能力については特に本作品では解説なしで始まります。すなわち、羽原円華が糸のないけん玉を操るのを月沢陸真が目撃したりするわけです。羽原円華は独立行政法人数理学研究所で働いており、そこには特殊な能力を持ったエクスチェッドの解明を試みています。といったプロローグにに続いてストーリーが本格的に始まります。月沢陸真の母親は早くに亡くなっていて、その上、本書冒頭で父親の月沢克司が他殺死体となって多摩川で発見されます。父親を亡くした月沢陸真を気づかい、中学校の友人の宮前純也が家に誘い、自動車修理工場を経営する宮前純也の親も優しく接してくれたりします。月沢陸真の父親の月沢克司は警備会社に勤務していたのですが、その前には見当たり捜査員として町中を流しては指名手配犯を見つけ出す、という刑事をしていました。その月沢克司が他殺死体となって発見されたのですから、当然、警察の捜査が始まります。そして、羽原円華が「ラプラスの魔女」としてその特殊な能力を活かして闇カジノにルーレットのディーラーとして潜入したりするわけです。まあ、ミステリなのであらすじはここまでとします。本書で大きな焦点を当てられているのがDNAを活用した警察の捜査、あるいは、DNAのデータベースです。この作者の作品で、私が読んだ範囲では『プラチナデータ』と同じです。小説そのものは10年以上も前の作品ですが、時代設定は本作品と同じ近未来となります。ただ、極めて記憶容量のキャパに制限大きい私の記憶ながら、重複する、というか、同じ登場人物はいないと思います。最後に、DNAの活用に加えて、AIに対しても作者はかなり明確に否定的な態度を示していると私は受け止めました。例えば、AIによる顔認証や顔貌の識別よりも人間のプロである見当たり捜査員の優秀生を持ち上げたりしているわけです。そのあたりは、私はニュートラルなのですが、読者によっては好みが分かれるのではないかと思います。

photo

次に、伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)を読みました。著者は、高崎経済大学の研究者であり、専門は現代経済思想史だそうです。本書冒頭に、ケインズ卿はマーシャル以来のケンブリッジ大学の経済学の正当なる継承者であって、断絶を認めるに近いケインズ「革命」があったかどうかは言葉の問題、と指摘しています。まあ、そうなのかもしれません。本書では、第1次世界大戦後の対独賠償の問題を中心に据えて、第2次世界大戦後のブレトン-ウッズ体制については言及がほとんどありません。ケインズについては、2022年11月に平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』をレビューして、戦間期におけるワンマンIMFとしてのケインズの活動を実に見事に捉えていただけに、ブレトン-ウッズ体制構築時の交渉のの欠落や新書という媒体のボリュームの小ささも含めて、本書はやや物足りない気がします。でも、ケインズの「平和の経済的帰結」は極めて重要かつ高名なパンフレットですし、本書でも、ケインズの的確な賠償積算の正しさをあとづけています。この点は、その後にドイツが戦後賠償の過酷さに耐えかねてナチスの独裁を許してしまったという歴史的事実でもって、圧倒的にケインズの見方の正しさが証明されている、と考えるべきです。そういった国際舞台でのケインズの活躍とともに、本書で焦点を当てているのは英国国内の経済問題におけるケインズの考え方と活動です。大きな商店は戦間期の金本位制復帰です。いろんな観点があって、英国は旧平価でもって金本位制に復帰したのは歴史的事実です。そして、我が日本も英国と同じで旧平価で金本位制に復帰しています。ただ、この範囲では同じような経済政策に見えるのですが、本書では、旧平価での金本位制復帰は、ロンドンの国際金融市場としての活力の維持、あるいは、米国ニューヨークに国際金融活動の中心が移行しないような配慮、という観点で考えられた政策です。他方で、ケインズは平価を減価させた水準での金本位制復帰、ないし、金本位制の放棄を念頭に置いていたのですが、これは、国内の経済活動、特に製造業の国際競争力の観点から主張されています。ムリにポンド高の為替レートでもって金本位制に復帰すれば、国内経済はデフレに陥り、製造業の国際競争力は低下します。そして、英国の政策決定はケインズの減価政策を取らずに、旧平価での金本位制復帰を決めたわけです。そのあたりは、私は国内均衡を重視し、現時点からの後知恵とはいえ、国内均衡の重視や国際競争力の維持という観点が、当時は、希薄であったことにやや驚きます。ただ、日本が英国と同じように旧平価で金本位制に復帰したのは、国際金融市場としてのロンドンの地位の維持という政策目標が日本にはないわけですから、単なる誤解というか、経済政策に対する無理解から生じた悲劇であった、と考えるべきです。そして、こういった経済政策に対する無理解から国民生活を苦境に陥れる政策決定は、何と、今でも行われている、と考えられる例が少なくない、と私は指摘しておきたいと思います。

photo

次に、阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)を読みました。著者は、東北大学の大学院修士課程に進み、修士学位を取得した後、犯罪加害者の家族への支援組織を立ち上げて活動しています。間違えてはいけません。犯罪被害者ではなく、犯罪加害者の家族への支援です。本書では、実例に基づきつつ、ということはかなり極端な例である可能性があるわけですが、高学歴者の苦境を分析しています。本書での高学歴者難民とは、博士課程難民、法曹難民、海外留学帰国難民、にカテゴライズされ、いくつか実例を上げつつ、後半の章で家族からのヒアリングや社会構造的な解明を試みています。冒頭に強烈な例を持ってきています。すなわち、博士課程まで大学院を進みながら、結局、安定した職がなくて闇バイトで逮捕されたり、万引きを繰り返したりといった例です。繰り返しになりますが、かなり極端な例ですので、どこまで一般化して考えるかは読者の想定に委ねられている部分が大きいと私は考えます。ただ、おそらく、実例としてはあり得るのだろうと思います。また、法曹難民については、当然ながら、司法試験に合格しなかった人です。合格してしまえば何の問題もないのでしょうが、合格しなければ生活が成り立たない例はあるものと容易に想像されます。ほか、海外留学からの帰国者も含めて、私の実体験からしても、永遠に学生や院生、あるいは、資格試験挑戦者を続けて就職しない、ないし、出来ない人はいることはいます。ある意味で、高学歴難民といえるかもしれません。ただ、本書の著者のように犯罪加害者を身近に接していると、やっぱり、高学歴難民よりも低学歴であるがゆえに低所得の犯罪加害者が割合としては多いのではないか、と私は直感的に考えます。もちろん、高学歴であれば犯罪加害者になる可能性が低いと考える人が多いでしょうから、その反例を持ち出すことには意味があります。他方で、高学歴を目指すこと自体を疑問視するべきではないと私は考えます。私は高学歴そのものは否定されるべきではないと考えますが、博士課程まで終了して博士学位を取得しても、研究職への就職が容易ではないという現実があります。

photo

最後に、西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)を読みました。著者は、我が国でももっとも多作なミステリ作家の1人です。本書も、この著者の代表作である十津川警部シリーズのトラベルミステリです。本書はややSFがかったミステリで、20年間の人口睡眠から主人公が目覚めるところからストーリーが始まります。その主人公は、父親から受け継いだ銀行経営者であり、バブル期に思い切った融資を実行して、北海道経済界の若手6人衆の1人とされながら、1990年代後半の金融危機で銀行が破綻し、背任容疑で逮捕されて実刑判決を受け、1年半を刑務所で過ごす羽目になってしまいます。そして、刑務所を出所した後、米国NASAの技術に基づく「20年の眠り」に入ったわけですが、20年後の2月に目覚めてみると時代はコロナのパンデミックに入っていたわけです。そして、主人公が目覚めるとともに、連続殺人事件が発生します。バブル期にもてはやされた北韓道の6人衆のうち、主人公を除く経済界の財界人が次々を殺されます。主人公は20年を経て現在でも忠実な女性の秘書と行動をともにし、もう1人の男性秘書がJR石北本線特急オホーツク1号で主人公から目撃されたことから、犯人の可能性があると追跡を始めます。当然、東京でも殺人が発覚し、十津川警部も捜査にあたるわけです。タイトル通りに、北海道内のJR石北本線特急オホーツクでの移動に基づくアリバイトリックがあり、また、北海道にとどまらず、東京や京都でも主人公は出向きます。ただ、最後はややモヤッとした結末です。私には殺人までする動機の強さが理解できなかったのですが、それは、読んでいただくしかありません。小説の中のキャラがそれほど際立っているわけではなく、ハッキリいえば明確ではなく、逆に、ドラマ化はしやすいんではないか、と、ついつい、どうでもよくていらないことを考えてしまいました。

| | コメント (2)

2024年2月10日 (土)

今週の読書はデータサイエンスの学術書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、依田高典『データサイエンスの経済学』(岩波書店)は、理論的な面とともに、経済学、特にマイクロな経済学が我が国経済社会での選択にいかに役立つかを解説しています。塩田武士『存在のすべてを』(朝日新聞出版)は、誘拐事件の後3年を経て解放された男児が画家になってメディアに登場したことから、新聞記者が空白の3年を取材で埋めようと試みます。織守きょうや『隣人を疑うなかれ』(幻冬舎)は、連続殺人犯が同じマンションに住んでいるかもしれないという状況で、姉弟の2人が犯人探しを進めます。藤崎翔『モノマネ芸人、死体を埋める』(祥伝社文庫)は、引退した野球選手のモノマネしか出来ない芸人が、その野球選手から死体の処理を依頼されます。話題の達人倶楽部[編]『気の利いた言い換え680語』(青春文庫)は、対人関係の悪化を防止することも視野に入れて、ネガな表現をポジに言い換える例を多数収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、先週6冊の後、今週ポストする5冊を合わせて32冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
なお、どうでもいいことながら、先週レビューした鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)をFacebookでシェアしたところ、ブックレビューしたスレ主の私を差し置いて、コメント欄がやたらとバズっていたりします。まあ、そろそろ終了ではないかという気がしますが、よく判りません。

photo

まず、依田高典『データサイエンスの経済学』(岩波書店)を読みました。著者は、私の母校である京都大学経済学部の研究者です。本書は、ビッグデータや人工知能(AI)に先立つ段階からデータを分析する手法をていねいに解説し、理論的な面とともに、経済学、特にマイクロな経済学が我が国経済社会での選択にいかに役立つかを解説しています。データサイエンスとしてデータを集めて分析するという意味で、RCT(randomized controlled trial) や差の差(DID)分析などに加えて、因果推論や機械学習もカバーしています。基本的に学術書であり、大学のレベルや分野によっては修士課程では少し難しい可能性もあります。ですので、一般社会人、というか、ビジネスパーソンの手にはおえないと思います。はい、かくいう私もマクロエコノミストですので、こういったマイクロなデータの分析には少し読み進んで困難を感じています。本書の構成としては三部構成であり、まず、第1部はデータ収集から始まります。ですので、私も総務省統計局でやならいでもなかったアンケート調査の設計から始まります。最近ではネット調査が多くなるんだろうと思います。そして、顕示選好も含めてコンジョイント分析と続きます。第2部では、行動科学の成果フィールド実験におけるも含めたRCTやオプトインとオプトアウトの比較など、そして、第3部では因果推論や機械学習が取り上げられて、コーザル・フォレストや限界介入効果の測定などを例にした議論が進められています。実際の例としては、著者のグループがフィールドで実施したインターネット接続、というか、インターネット接続における需要代替性・補完性の調査、コンジョイント分析では喫煙習慣、時間選好度、危険回避度の測定、そして、ダイナミックプライシングに関してはけいはんな丘陵における電力選択、などなど、実例も豊富に入っています。本書については、キチンと然るべき目的で然るべき水準の知性を持った人が読めば、大いに役立つと思います。そのうえで、少しだけ私の理解がはかどらなかった点を上げておきたいと思います。まず、第1点目は、本書冒頭でも言及されている行動経済学の再現性です。ただ、再現性という点については、私自身がお仕事として従事していた統計局の調査でも、完全な再現性は望めません。調査疲れ(survey fatigue)は避けられませんし、厳密に要求すべきではないのは判っていつつも、それでも気にかかります。世の中には、あれほど騒がれながら、「STAP細胞はあります」とだけ言い残して学界を去った女性もいるわけです。第2に、因果関係がすべてではない点は強調しておきたいと思います。本書での第1部でコンジョイント分析が取り上げられており、あくまでマイクロに原因と結果を追求する姿勢が見られますが、マクロ経済では必ずしも因果関係が重要とは思えない場面もあることは確かです。第3に、こういった資金的に大規模な調査、フィールド実験はそのリソースを持つ大企業に有利な結果をもたらす点は忘れるべきではありません。例えば、ダイナミックプライシングで時間別に電力料金を設定すれば、電力会社は収益アップにつながるのでしょうが、中小企業や消費者はギリギリまで高い料金を請求されるわけで、経済学の専門家であるエコノミストが誰のために研究をしているのか、についてはちゃんと考えるべきだと思います。

photo

次に、塩田武士『存在のすべてを』(朝日新聞出版)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私はグリコ・森永事件を題材にした『罪の声』ほかを読んだ記憶があります。ということで、いや、すごい迫力があり、よく考えられた小説でした。まだ2月も始まったばかりなのですが、ひょっとしたら、私が今年読むであろう中で今年一番のミステリかもしれません。物語は、神奈川県を舞台にした1991年の二児同時誘拐事件から始まります。1人は厚木の小学生男児、もう1人は横浜山手の未就学男児です。厚木の小学生は早々に、そして、横浜山手の男児は身代金受渡しに失敗しながらも、何と、3年後に無事に保護されます。そして、この小説では、後者の3年後に帰還した男児が3年間どこでどう過ごしていたのかについての謎解きを主たるテーマにしています。でも、その謎解きの開始は誘拐事件から30年後という大きな時の隔たりがあり、誘拐事件としては時効が成立しています。謎解きの主役、というか、事実関係を求めて全国を回るのは、誘拐事件当時は入社早々ながら、30年後には地方の支局長になっている大手新聞の記者の門田です。プロローグをおえて、誘拐事件当時の刑事であった中澤が死んで葬式に門田が出席するところから物語の幕が切って落とされます。ひとつのきっかけは、写真週刊誌に新進気鋭で期待の若手写実画家が、この誘拐事件の被害児童であった、とすっぱ抜かれたことです。そして、門田とともに、もう1人、この写実画家の高校時代の同級生であった画廊経営者の娘の里穂もこの画家を探します。もう後は読んでいただくしかありませんが、とても綿密な構成と感動的なストーリーです。特に、ラストはとりわけ感動的です。ということで、本書と深く関係する画壇と美術品について、雑談でごまかしておきたいと思います。ランガー女子による古い古い『芸術とは何か』(岩波書店)に従えば、芸術、もちろん、ハイカルチャーであって、サブカルを含まない芸術には4分野あり、順不同で、美日、文学、音楽、舞踏、となります。このうち、文学についてはグーテンベルク以来コピーがかなり容易になり、大衆性が増しています。音楽と舞踏についても、昨今の技術進歩によりかなりの程度にコピーが普及しています。他方で、美術、絵画や彫刻については、本書でもしてk敷いているように、「一品もの」であって、コピーは容易ではありません。ですから、というか、何というか、クリスチャン・ラッセンのようなデジタルアートでコピーが無制限に可能な絵画は、ややハイカルの中では価値が低いとみなされるわけです。他方、芸術については、特に美術については、経済学的にスピルオーバーが大きく、公共財的な周囲に広く便益を及ぼすことから、そのままでは過小供給に陥る可能性が高くなります。日本ではまだまだですが、欧米では芸術に関してはチャリティをはじめとして、公共的な財源も使って補助がなされています。本書では、公共的な補助はどうしようもなく皆無なのですが、美術愛好家の手厚い援助により芸術家の才能が伸ばされるさまがよく描かれています。美術界の旧弊あるしきたりなんかも、私がよく知らないだけで、本書に書かれている通りなのかもしれません。

photo

次に、織守きょうや『隣人を疑うなかれ』(幻冬舎)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私は『幻視者の曇り空』や『花束は毒』を読んでいます。本書は、同じマンションの連続殺人犯がいるのではないか、という設定のミステリです。謎解きの探偵役は姉弟であり、マンションに住む姉の今立晶と隣接したアパートに住む弟の小崎涼太です。小崎涼太の隣室の土屋萌亜が、殺人事件の被害者のJKを隣のマンションで見たと小崎涼太に相談した直後に行方不明になります。小崎涼太はフリーランスの事件を追うライターなのですが、隣接するマンションに住む姉の今立晶にその話をし、今立晶の高校の同級生だった友人で同じマンションに住む県警刑事にも相談します。他方、土屋萌亜が目撃したJKは3都県にまたがる連続殺人犯の3人目の被害者であり、その手口が25年ほど前の「スタイリスト」と呼ばれた未解決犯の手口に酷似している点が指摘されます。まず、どうして3都県にまたがる連続殺人事件だと判明したのかというと、持ち物リレーが施されていたからで、これが「スタイリスト」とまったく同じであることがキーポイントになります。持ち物リレーとは、この場合、1人目に殺された女性のネックレスが2人目に殺された女性の首にかけられていて、2人目に殺された女性の腕時計が3人目の女性の腕につけられていた、ということです。土屋萌亜はこの3人目の被害者のJKを隣接するマンションで目撃したわけです。ただ、土屋萌亜がJKを目撃した日付から1か月が経過しての殺人事件でしたので、防犯カメラの動画は上書き消去されてしまっていました。そして、探偵役の姉弟がマンションの住人の中に連続殺人犯がいると見立てて、犯人探しを始めます。本書のタイトルはこのあたりの事情を踏まえています。ですから、マンションの隣人が連続殺人犯であっても不思議はないわけで、事実、何度か黒いパーカーの男につけられるケースもあります。本書も、『幻視者の曇り空』や『花束は毒』と同じで、登場人物がかなり少ないです。海外ミステリなんかでは2ダースくらいの登場人物がいて、犯行の動機ある人物だけでも1ダースくらいいる小説が少なくなく、外国人の人名に不案内なことも相まって、なかなか理解がはかどらない場合もあるのですが、この作品の作者の場合、登場人物が少ないにもかかわらずラストで大きなサプライズを用意する、という特徴があります。本書でもそうで、探偵役の姉弟以外には、ほんの一握りの登場人物で、しかも、かなりキャラが明確なので読みやすいといえるのですが、ラストは少しびっくりします。ただ、難点は姉弟の2人の探偵役がいるので仕方ないかもしれませんが、視点が頻繁に入れ替わります。やや読みづらい印象を持つ読者がいそうな気がします。しかも、姉の今立晶がヤンキーの男言葉で語りますから、よりいっそうの混乱を生じかねません。その上、マンションの設定に少し疑問が残ります。マンション住人を片っ端から当たるので、わずか20戸少々という設定なのですが、そんな小規模マンションがどこまで不自然でないと感じるかは読者次第といえます。加えて、今どきのマンションはすべからくオートロックになっています。誰でも簡単にマンション内に入れるわけではありません。特に、関東首都圏のマンションは2重のオートロックになっているケースも少なくありません。少なくとも、我が家が住んでいた城北地区のマンションはそうでした。作者は関西在住なので、関西には私が知る限り2重のオートロックのマンションはほぼぼないのですが、本書の舞台は千葉県ですし、どこまでマンションの実態を作者が理解しているのか、やや疑問に感じないでもないところがいくつかありました。

photo

次に、藤崎翔『モノマネ芸人、死体を埋める』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、お笑い芸人から転じた小説家です。まず、あらすじですが、主人公の関野浩樹はタイトル通りにモノマネ芸人です。マネ下竜司の芸名で、プロ野球の往年の名投手竹下竜司のモノマネ一本で生計を立てています。竹下竜司ご本人にも気に入られ、晩酌のお供をして多額の小遣いまで稼ぐ順風満帆な芸人生活で、アルバイトの必要もなく生活できています。モノマネされているご本人の竹下竜司の方は、若い2人目の夫人と広尾の豪邸に住んでいて、現役時代に稼いだ貯金がワンサカとあって、マネ下竜司にも金払いがよかったりします。その一方で、荒っぽい気性でプロ野球チームのコーチや監督は務まらず、酒と不摂生でぶくぶくと太っていたりもします。ある夜破局が訪れて、竹下竜司は行きずりの女性を殺してしまいます。殺害現場である竹下竜司の広尾の自宅に呼び出された浩樹は愕然とする。竹下竜司が捕まれば、竹下竜司のモノマネしか芸のないモノマネ芸人であるマネ下竜司こと関野浩樹は廃業必至となるわけです。自首を勧めるといった選択肢がないでもなかったのですが、マネ下竜司こと関野浩樹は事件を隠蔽する道を選びます。まず、タイトル通りに、死体を北関東の山中に遺棄し、モノマネ芸人ならではの方法で警察のDNA検査をすり抜けたりします。最後がどういうラストを迎えるのかは読んでみてのお楽しみ、ということになります。ひとつの読ませどころはモノマネ芸人の会話や生活実態です。作者自身が元はといえば芸人さんですから、かなり真に迫ってリアルです。どこまで作者の実体験に基づいているのかは、私には知りようがありませんが、まったく私の知らない世界ですので、かなり面白おかしく接することが出来た気がします。そして、タイトルの死体が登場して埋めるあたりから、後半は怒涛の展開になります。チラッと言及した警察とのやり取りも含めて、なかなかよく考えられています。ラストは少し尻すぼみなのですが、それなりに楽しめます。

photo

次に、話題の達人倶楽部[編]『気の利いた言い換え680語』(青春文庫)を読みました。著者は、「カジュアルな話題から高尚なジャンルまで、あらゆる分野の情報を網羅し、常に話題の中心を追いかける柔軟思考型プロ集団」と出版社のサイトで紹介されています。本書は、1月末にブック・レビューした『すごい言い換え700語』の続編といえます。基本は、話し相手に不快感を与えないような形の言い換えなのですが、中には意味が違うんじゃあないの、といった例もあったりします。落語家と教員はしゃべるのがお仕事の要ですので、おしゃべりの「極意」とまではいわないとしても、それなりの判りやすい話し方が要求されます。ただ、私の場合は判りやすくかつ正確である必要があると考えています。というのも、今年度後期の期末リポートの採点を終えて成績をインプットしようとしたところ、非常に出来が悪いことに気付かされました。さすがに半分とはいいませんが、かなり高い割合で単位を認めない、「落単」という結果になりそうです。学生の理解が悪いとばかりはいい切れず、私の教え方も悪いのかもしれないと反省しています。ただ、本書のような言い換えで済む問題ではありません。本題に戻って、本書では聞く側の印象をかなり重視しているように見受けられます。典型的には、A but B. であればあとの方のBが強調された形になりますし、逆に、B but A. であればAが強調されます。この例では意味だけですが、言い換えの中にはネガな表現からポジな表現に置き換えるというのが少なくありません。「根暗」を「落ち着いている」とかです。ただ、私は京都人でひねくれた考え方、受け止め方をする傾向にありますので、本書の逆を念頭に人の話を聞いていることが少なくありません。本書では登場しませんが、よく持ち出される例で、「ピアノがうるさい」とはいわずに、「ピアノの練習ご熱心ですね」というのがあります。逆から考えて、「ピアノの練習ご熱心ですね」とまるで褒められているような表現をされたにもかかわらず、「ピアノがうるさい」という意味なんだと理解して、ピアノの練習は控える必要があるのかもしれない、と考えたりするわけです。話す方のサイドでは言い換えになるかもしれませんが、聞く方のサイドになった場合は、素直に聞くだけではダメなのかもしれません。

| | コメント (2)

2024年2月 3日 (土)

今週の読書は高圧経済に関する経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)は、需要が供給を超過する高圧経済の特徴について、エコノミストだけではなく一般ビジネスパーソンにも判りやすく解説しています。宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)は、本屋大賞にもノミネートされた前作『成瀬は信じた道をいく』の続編であり、成瀬あかりの大学入試や大学生になった後のびわ湖観光大使としての活動などのパーソナル・ヒストリーを追っています。長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。もう、文庫本が出ているのですが、私は単行本で読んで、新刊書読書とはいえ4年ほども前の出版なのですが、次の作品との関係で取り上げてあります。その次の作品、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。一気に時間が流れて、啓子は定年退職してからも再雇用で犯罪捜査に当たり、菜月は大学生、さらに卒業して地元紙の記者になり、シングルマザーになっています。鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)は、ジャーナリストがワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)は、ホーソーンとの3作の契約が終わったホロヴィッツが殺人事件の容疑者となって逮捕され、ホーソーンに解決を委ねます。
ということで、今年の新刊書読書は先週まで、というか、1月には21冊で、今週ポストする6冊を合わせて27冊となります。順次、Facebookでもシェアしたいと思います。

photo

まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)を読みました。編著者は、内閣府の官庁エコノミストを経て日銀制作委員を経験した私の先輩と明治大学の研究者です。本書は9章からなり、それほど耳慣れない高圧経済についていろんな側面から解説を加えています。学術書っぽい体裁ではありますが、中身は一般ビジネスパーソンにも十分判りやすく考えられています。ということで、高圧経済とは、基本的に、インフレギャップが生じている経済といえます。すなわち、供給能力を上回る需要があり、経済が需要超過の状態にあることが基本となります。需要超過ですから、少し前までの日本経済が陥っていたデフレではなく、マイルドないしそれ以上のインフレ圧力があります。労働者の失業が減少して完全雇用に近くなり、そのため、労働者の流動性が高まって、より生産性が高くて、従って、賃金の高い職に就くことができます。もちろん、男女格差などの経済的合理性なく雇用者を差別的に扱う労働慣行は大きく減少します。加えて、需要が増加しますので労働生産性が需要の増加に応じて上昇します。雇用の流動性についても、現時点では、使用者サイドから低賃金労働者を求めて解雇規制の緩和などの方策が模索されていますが、高圧経済では雇用者のサイドから高賃金を求めて自発的に転職する、などの大きな違いが生じます。現在は、何とか黒田前日銀総裁の異次元緩和と呼ばれた金融政策によってデフレではない状態にまで経済を回復させましたが、高圧経済で需要超過となればインフレ圧力が大きくなります。日銀物価目標にマッチするマイルドなインフレで収まるか、あるいは、もっと高いインフレとなるかは需要超過の度合い次第ということになりますが、ここまでデフレ圧力が浸透している日本経済ですから、現在の物価上昇を見ても理解できるように、そうそうは高インフレが続くとも思えません。ですから、私なんかから見ればいいとこずくめの高圧経済なのですが、問題は実現する方策です。異次元緩和の金融政策だけでは、何とかデフレではない状態までしか均衡点をずらすことができませんでしたから、ここは財政政策の出番ということになるのが自然の流れだろうと思います。そして、現在の円安は高圧経済に必要です。小泉内閣からアベノミクスの少し前まで継続していた構造改革とは、需要を増加させるのではなく供給サイドを効率的にするという思想でしたから、高圧経済の観点からは真逆の政策でした。その意味で、日本経済に必要な経済政策を考える上でとても重要な1冊です。

photo

次に、宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)を読みました。著者は、本屋大賞にもノミネートされた『成瀬は天下を取りにいく』の作者であり、本書はタイトルから用意に想像される通り、その続編であり主人公の成瀬あかりは大学生に進学しています。学部は明記されていないものの、著者や私と同じ京都大学です。そうです。成瀬あかりが京都大学の後輩になって、私もうれしい限りです。出版社が特設ページを設けています。ということで、前作と同じ5話の短編からなる連作短編集です。各話のあらすじは、「ときめきっ子タイム」では、成瀬あかりの後輩に当たるときめき小学校4年3組の北川みらいが自由学習の時間の課題で成瀬と島崎みゆきのコンビデアルゼゼカラを取材することになり、調べを進めます。「成瀬慶彦の憂鬱」のタイトルは軽く想像される通り、成瀬あかりの父親で、京都大学の受験日に娘に試験場まで同行することになりますが、試験場で野宿しようとしている受験生を成瀬あかりが自宅に連れて帰ります。「やめたいクレーマー」では、大学生になった成瀬あかりが平和堂グループの一角であるフレンドマートでアルバイトしていて、その店の顧客であるクレーマーの女性とともに万引き防止に取り組みます。「コンビーフはうまい」では、成瀬あかりがびわ湖観光大使の選考に臨み、市会議員の娘で祖母と母もびわ湖観光大使を経験した女性とともに選考の結果任命され、観光大使-1グランプリなるゼゼカラの2人がチャレンジしたM-1グランプリのようなコンテストに臨みます。最終話の「探さないでください」では、いかにもタイトル通りに成瀬あかりが家出をします。それも大晦日です。その大晦日には東京から島崎みゆきが成瀬家にやって来て、ときめき小学校の北川みらいやフレンドマートのクレーマーも巻き込んで大捜索が行われます。以上のように、やや、成瀬あかりの奇行に焦点を当て過ぎているのではないか、という気がして、私の評価はハッキリと前作から落ちます。私は成瀬あかりの奇行に見える行動については、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也と同じで、世間一般から比べて異常なまでに合理的であるから「奇行」に見えるだけ、と考えていました。しかし、特に第2話で、見知らぬ受験生を自宅に連れ帰るというのは、まったく合理的ではありませんし、最終話もやや同じ傾向です。ただ、前作の流れがありますので、とても楽しく読めました。最後に、この作品にご興味ある向きは、本屋大賞にもノミネートされていることですし、前作の『成瀬は信じた道をいく』から先に読むことをオススメします。

photo

次に、長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。この作品では菜月は中学生になり、新聞記者になる夢を持って新聞部で活動しています。5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「黒い遺品」では、半グレの構成員が殺害され、現場には花が残されていたのですが、実は、菜月が犯人を目撃していたので似顔絵を書くことになります。啓子の相棒の黒木から、得意な道具で描くとうまく描けると示唆され、亡父の趣味のひとつだった囲碁の碁石を使って菜月が似顔絵を描いて犯人逮捕につながります。「翳った水槽」では、菜月の中学校の担任先生はアラサー独身なのですが、羽角家に家庭訪問に来て忘れ物をして菜月が届けるとベッドで横たわっていて、殺されたと後で知ることになります。表題作の「緋色の残響」では、菜月が4-5歳のころに習っていたピアノ教室で、菜月のクラスメートで勉強もピアノもよくできる子が死亡します。ピーナツのアレルギーで不慮の事故かと見られたのですが、何らかの殺意が感じられることから捜査が進められます。「暗い聖域」では、菜月がクラスメートの男子から料理を教わりたいといわれて男子生徒の自宅に行きます。アロエの苦みを取る方法を知りたいということです。直後に、その男子生徒が崖から突き落とされて大けがを負うのですが、啓子は謎の言葉「安全な場所に逃してあげる」と菜月に約束することになります。最後の「無色のサファイア」では、菜月がイジメにあっているのではないか、という上方が母親の啓子に伝えられます。他方、質屋での強盗殺人事件の被告に最高裁で無期懲役の判決が下されたが、菜月の所属する中学校の新聞部は長期に渡る徹底した調査を継続していた。このイジメに見える菜月の行動が、実は、長期戦の調査と深く関係しています。ということで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。私自身は「ノックスの十戒」に反している、とまでは思いませんし、各短編に詳しい説明がありますので、特に気にはなりませんが、本格ミステリと呼ぶのはためらわれる読者もいるかも知れません。

photo

次に、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。『緋色の残響』の続編となるこの作品では菜月は高校生から大学生、さらに、一気に地元紙の新聞記者になって、さらにさらにで、シングルマザーとなる20代後半までの長期をカバーしています。その時点では母親の羽角啓子は60歳定年後の再雇用で引き継式犯罪捜査に当たっています。前作と同じ5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「緑色の暗室」では、菜月は高校に進学しても新聞部に所属し、アナログ写真の現像のために、マンション一室を使ったレンタル暗室に行った際にネガを1枚階下に落とし、その部屋を訪ねると菜月が小学生のころに教育実習に来ていた女性が住んでいて、その菜月が卒業した小学校の教師をしていると聞きます。他方、同年代の20代後半の女性が殺されるという殺人事件が発生する。表題作の「球形の囁き」では、菜月はすでに大学生となって2年生で、夏休みにデパートの職員売り場でアルバイトした際に、とても懇意になり「もう1人のおかあさんみたいな人」といっていた女性が殺されます。その女性は保育士の資格を持っていて、同じデパートの託児ルームで手伝いをしていたことから捜査が進みます。「路地裏の菜園」では、菜月は大学生でベビーシッターのアルバイトをしている母親の啓子と同じ警察に勤務する事務職員の女性が大怪我を負う事件が発生します。家庭内暴力(DV)で離婚寸前の元夫が疑われることになります。「落ちた焦点」では、すでに菜月は地元紙の記者をしていて、杵坂署の刑事と恋仲にあります。一角の山の展望台から転落事故があり女性が殺されますが、証拠が不十分で容疑者は無罪判決を受け確定します。しかし、その後、この容疑者は遺書を残して自殺します。「黄昏の筋読み」では、菜月は引き続き地元紙の記者ですが、すでにシングルマザーになっており、母親の啓子は杵坂署を60歳で定年退職した後、引き続き再雇用で犯罪捜査に当たっています。菜月の娘の彩弓はお向かいの70歳くらいの元県庁職員によく懐いていて、彩弓の好きな昆虫を持って来てくれたりします。啓子は、早朝のジョギング途中に不審な死に方をした事件の操作を進めます。ということで、この作品も、前作『休憩の囁き』と同じで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。

photo

次に、鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)を読みました。著者は、医療問題を中心に活動しているジャーナリストです。ですから、医療関係者、というか、医師や医学研究者あるいは薬学の研究者ではありません。ですので、どこまで医学的な見識を想定するかは読者に委ねられている部分も少なくありません。本書では、タイトル通り、コロナワクチンに対する不信感を強調する情報収集活動の結果が集められています。ただ、コロナワクチンって、何種類かあったんではなかろうか、という疑問には答えてくれていません。そのワクチンの種類にはこだわらずに、ワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。本書でも冒頭に示されていますが、メリットとリスクの見合いで、単純にメリットがリスクを上回ればいい、という経済効果的な考えは廃されるべきという点は私も合意します。でも、私は現時点ではワクチンのデメリットやリスクがメリットを上回っているとは見なしていません。その点で著者の結論には同意しませんが、こういった議論が必要である点は大いに認めたいと思います。まず、コロナの症状の重篤化や死亡率に関しては、年齢との何らかの相関が強く疑われていた点は指摘しておくべきかと思います。典型的な比較対象のペアは戦争です。ばかげた見方かもしれませんが、戦争では、おそらく、20代や30代の男性が主たるリスクの対象と考えられる一方で、コロナのリスクは高齢者、特に、80歳以上の高齢者に大きなリスクあったと考えるべきです。その意味で、シルバー民主主義的な決定メカニズムが働いた可能性が否定しきれないと私は考えています。すなわち、コロナ対策、ワクチンも含めたコロナ対策に決定に関しては、国民の平均ではなく高齢者の方に有利なバイアスが働いた可能性が否定できません。その意味で、平均的な国民の意識とはズレを生じている可能性もあります。ただし、この点に関しては医学的な検証が必要と私は考えます。統計的な結果論だけではなく、疫学的な因果関係が立証されねばなりません。さらに広く、潜在的な利益・不利益も考え合わせる必要があります。ですので、総合的に考えれば、コロナパンデミックの2-3年後くらいに集中的にワクチン接種により社会的な同様を防止したという点は、私は評価されるべきかと思います。ただ、医学的にどう見るかは何とも自信ありません。おそらく、あくまで私の直感に基づいた感触だけの根拠ない見方ながら、コロナワクチンについては医学的・経済的・社会的な効用を考えれば、それなりの差引きプラスの効果があった、と私は考えています。ただし、個人としては、私はコロナワクチンはそれほど信用していません。ですので、教育者として学生に接する立場ですから、3度目まではワクチン接種しましたが、これで打止めとしています。

photo

次に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国の人気ミステリ作家です。この作品はホロヴィッツ&ホーソーンのシリーズ第4作です。第3作までは、契約に基づいてホロヴィッツがホーソーンの事件解決を小説に取りまとめる、ということでしたが、その契約が終了した後の第4作になるわけです。ですから、冒頭で、ホーソーンの方から小説執筆を継続するようなお話がホロヴィッツにあるのですが、ホロヴィッツの方では印象悪くてすげなく断ってしまいます。でも、その翌週、ホロヴィッツの戯曲を酷評した劇評家のハリエット・スロスビーが死体で発見されます。凶器は、やっぱりホロヴィッツが脚本を手がけた戯曲の上演の記念品だった短剣で、ややネジが緩んでいるところがあって、ホロヴィッツの受け取ったものと断定され指紋まで発見されます。ホロヴィッツは警察に逮捕されて1時釈放されますが、困り果ててソーホーンに泣きついて事件解明を依頼するわけです。ホロヴィッツ本人にはまったく身に覚えがない一方で、多くの状況証拠がホロヴィッツが犯人であることを指し示しているわけです。そして、ハリエット・スロスビーが劇評家になる前の個人的なパーソナル・ヒストリーを追って、まあ、古典的ともいえるミステリの謎解きが始まります。典型的な whodunnit とともに、同時に whydunnit も解決されます。当然です。面白かったのは、タイムリミットが設定されていて、ホーソーンに協力する同じアパートの住人がコンピュータをハッキングして警察を混乱させたりしながら時間を稼ぎ、ロンドンを離れての調査をしたりしています。また、前3作で謎のまま放置されていたホーソーンのパーソナル・ヒストリーも一部だけながら明らかになります。世間のウワサではこのシリーズは10作あるようなので、これから小出しにしていくのかもしれません。繰り返しになりますが、古き善き時代のミステリであって、犯人探しや動機の解明など、ミステリの醍醐味をたっぷり味わえる佳作と私は思います。ただ、おそらく、シリーズの中盤に差しかかった作品ですので、前3作を把握しておかないと本作品の魅力はそれほど味わえません。加えて、後に数作続くわけですので、例えば、ホーソーンの生い立ちなんかが不明の部分多く残されるなど、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれません。10作をすべてコンプリートしてから一気に読む、という読み方もありかも、と思わないでもありません。

| | コメント (0)

2024年1月27日 (土)

今週の読書はマルクス主義の環境書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)では、晩期マルクスの研究から得られた地球環境に対するマルクス主義のインプリケーションが示されています。ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)では、家庭内暴力で収監されていた元夫が刑務所から釈放されたことにより逃げる母娘を保護するためにコルター・ショウが活躍します。川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)では、紙の本の読書、特に音読が脳機能の活性化に役立つ研究成果が紹介されています。物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)は、川下である教育現場の実情を考慮せずに、タブレットを活用したGIGAスクール構想を進めようとする川上の教育政策企画・立案の危うさを指摘しています。青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)では、徒目付の片岡直人が離縁した元夫を刺殺した元妻、また、大川を泳いで渡る商人の、それぞれの「なぜ」を追求します。話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)では、社交的に良好な関係の維持あるいは円滑な対人関係のために、適切な言い換えを多数収録しています。
ということで、先週まで計15冊の後、今週ポストする6冊を合わせて21冊となります。また、これらの新刊書読書の他に、昨年暮れに封切られた映画の原作となった倉井眉介『怪物の木こり』(宝島社)を読みました。新刊書読書ではないので、このブログには含めずに、別途、Facebookでシェアしておきました。

photo

まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)を読みました。著者は、著者は『人新世の「資本論」』で注目されたマルキスト哲学者、思想家であり、東京大学社会科学研究所の研究者です。本書では、晩期マルクスの思想を中心に、環境マルクス主義について議論を展開しています。なお、本書はケンブリッジ大学出版会から2023年2月の出版された Marx in the Anthropocene: Towards the Idea of Degrowth Communism をもとに邦訳された日本語版です。日本での出版は講談社ですが、もともとの出版社を見れば理解できるように完全な学術書であると考えるべきです。中心はマルクス主義経済学や思想としてのマルクス主義に基づく脱成長論といえます。ということで、このままでは資本主義の終わりよりも世界の、あるいは、地球の終わりの方が近い、というフレーズが本書にも収録されていますが、晩期マルクスの物質代謝やその物質代謝の亀裂から脱成長を本書では議論しています。というのは、マルクス主義というのは、私も実は歴史観についてはマルクス主義に近いと自覚しているのですが、唯物史観に基づいて生産力が永遠に成長していき、この生産力が伸びるために生産関係が桎梏となって革命が起こる、という考えに基づいています。しかし、晩期マルクスはこういった永遠の成長ではなく、地球環境のサステイナビリティのために脱成長を志向していた、というのが極めて単純に短くした本書の結論です。その中心は第3部の第6章にあります。このあたりまでは私にもある程度は理解できます。ただ、その後の第7章からは私の理解を大きく超えます。どうして、今までこういったマルクスの見方に誰も気づかなかったのかというと、エンゲルスが『資本論』だ異2巻とだ異3巻の編集ですっ飛ばしたからだ、ということのようです。この点は私には何ともいえません。ただ、私の疑問は主として以下の3点あります。第1に、マルクス主義経済学では、どうしてもマルクスに依拠しないと脱成長が正当化されないのか、という疑問です。例えば、私のような主流はエコノミストからすれば、単純に考えて、マルクスの『資本論』はスミス的な完全競争の世界に適用され、その後の市場集中が進み、独占や寡占が進んだ経済はレーニンの『帝国主義論』が分析を進める、といった経済学説史的な展開がなく、すべてがマルクスの考えでないと正当化されないというのは、とても不便に感じます。第2に、私の理解がまったく及ばなくなった第7章にあるのですが、成長と環境負荷が資本主義の下で見事にデカップリングされ、成長が続いても環境負荷が高まらない、という技術的なブレイクスルーがなされたとしても、「そのような社会が善き生を実現できる望ましい世界にはならないだろう」というのも、私の理解は及びません。別問題として切り分けることが出来ないものでしょうか。第3に、本書から私はそれほど強いメッセージとして読み取れなかったのですが、おそらく、本書では社会主義は無条件二脱成長を実現し、環境負荷を低減できる、ということにはならないものと私は想像しています。現在の資本主義的な生産様式のままでは脱成長が不可能であるというのは、ほのかに理解するものの、社会主義体制で脱成長を成し遂げるために何が必要なのか、やや理解がはかどりませんでした。同時に、私はまず社会主義革命があって、その後に、社会主義体制下で脱成長が成し遂げられるという二段階論と受け止めましたが、この私の受け止めが正しいのか、それとも間違っているのか、そのあたりを読み取るのに失敗した気がします。

photo

次に、ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)を読みました。著者は、ツイストとも呼ばれるどんでん返しがお得意な米国のミステリ作家です。本書は、コルター・ショウのシリーズ4冊目であり、前の3冊で三部作完成ともいわれていましたので、新しいシーズンに入ったのかもしれません。主人公のコルター・ショウは、開拓期の米国の賞金稼ぎを引き継ぐかのように、懸賞金を求めて難事件に挑み、人を探し出すというプロです。出版社のサイトによれば、「ドンデン返し20回超え」だそうで、この作者の作品の特徴がよく現れています。ということで、あらすじはごく単純に、優秀な原子力エンジニアであるアリソン・パーパーがひとり娘とともに姿を消します。理由は、家庭内暴力(DV)で逮捕投獄されていた元夫のジョン・メリットがなぜか刑期を満了せずに早期に釈放されたからです。元夫のジョンは優秀な刑事でしたので、そのスキルやコネやをフルに駆使して元妻と娘の行方を追います。別途、なぜか、2人組の殺し屋もこの母娘の後を追います。主人公のコルター・ショウはアリソン・パーカーの勤務する原子力関係の会社社長から、「ポケット・サン」と命名された超小型原子炉の部品だかなんだか、このあたりは技術的に私の理解が及びませんが、を取り戻すべく、母娘の失踪とは別件で雇われていたのですが、この母娘の発見と保護も追加的に依頼されます。ということで、母娘を追う3組のプロ、すなわち、主人公のコルター・ショウ、元夫で優秀な刑事だったのジョン・メリット、そして、謎の殺し屋、スーツとジャケットと呼ばれる2人組の追跡劇が始まります。母娘を匿ってくれる友人がいたり、あるいは、3組の追跡者が母娘の足跡を追うために情報を収集したりと、いろんな読ませどころがありますが、なんといってもこの作者ですので、ストーリー展開の構図が二転三転しコロコロと変わって行きます。どんでん返しですので、味方だと思っていた人物が実は敵であったり、あるいは、その逆だったりするわけです。そして、通常は、味方だと思っていた人物がいわゆる黒幕的に敵側であったり、あるいは、敵側と通じていたりして読者は驚かされるわけですが、本書の作者の場合は、逆も大いにあります。この作者のシリーズは、本作品のコルター・ショウを主人公とするシリーズ、ニューヨーク市警を退職した物的証拠に依拠するリンカーン・ライムを主人公とするシリーズ、取調べの際の言葉や態度から真相に迫るカリフォルニア州警察のキャサリン・ダンスを主人公とするシリーズ、の3つが代表作なのですが、いずれもどんでん返しを特徴としていますので、私の方でも、敵か味方か、あるいは、犯人かそうではない善意の関係者なのか、については疑ってかかるような読み方をしてしまいます。もっと素直に、読み進める読者の方が楽しめるのかもしれません。

photo

次に、川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)を読みました。著者は、医学者であり、東北大学の研究者です。どこかで見た名前だと思っていたのですが、ニンテンドーDSのソフトで有名な「脳トレ」の監修者だそうです。ということで、本書ではそれなりの統計的なエビデンスでもって、タイトル通りに、(紙の)本を読むことによる脳の若返りを含めた活性化について論じています。ただ、単に省略されているだけなのか、それとも、別の理由によるのか、私には明確ではありませんが、統計的な有意性に関する検定結果は明示されていません。ですので、グラフを示してのイメージだけ、ということになります。一般向けの新書ですので、単に省略されているだけだろうと、私の方では善意で解釈しています。結論については、それなりに首肯できる内容です。すなわち、紙の本を読むこと、特にマンガやイラストの多い絵本などではなく活字の本を読むことにより、ビジネスパーソンの創造性が向上したり、読書習慣により子供の脳の発達を促したり、認知症の症状が改善したりといった脳機能の改善や回復が見られる、という結果が得られる、ということです。最後の認知症の症状の改善については、一般的な「常識」として、認知症は進行を遅らせることができるだけで、回復は望めない、といわれていますが、音読によりアルツハイマー型認知症患者の脳の認知機能を向上させることができ、そのことはすでに研究論文も公表されている、と指摘しています(p.70)。私はまったくの専門外ですので、本書の主張が正しいのか、世間一般の常識が正しいのか、確たる見識を持ちませんが、本書の著者の主張は先述の通りです。そして、本書の前半がこういった読書、特に音読による脳機能活性化について取り上げられており、後半は、スマホ・タブレットによる脳機能へのダメージについて議論されています。本書の著者の主張によれば、スマホ・タブレットは依存性が強くて、長時間の使用は脳機能の発達に悪影響を及ぼすことがデータから明らかであって、酒と同じように法的に規制してもいいのではないか、ということになります。スマホやタブレットを長時間使うのは、結論からすれば、疲れないからであって、MRIで計測するとダメージが蓄積されていくことが確認できるとしています。他方で、GIGAスクール構想などでスマホやタブレットを勉強道具として活用することも進められているわけですが、著者は大きな疑問を呈しています。とくに、スマホやタブレットはマルチファンクションであり、勉強以外のことに集中力が削がれる可能性も指摘しています。本書では、コンテンツではなくデバイスに着目した議論が展開されていて、私のようにデバイスではなくコンテンツの方が問題ではないか、と単純に考える一般ピープルも多いことと思いますが、その点も本書では否定されています。デバイス主義ではなく、コンテンツ重視の観点からは、例えば、ポルノ小説を紙の本で読むよりは、ゲーム感覚でタブレットで勉強する方が脳機能の活性化にはいいような気がするのですが、本書は真逆の結論を然るべき研究成果に基づいて主張しています。やや意外な結論なのですが、そうなのかもしれません。

photo

次に、物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)を読みました。著者は、塾を経営する傍ら社会批評などの執筆活動をしている、と紹介されています。本書では、GIGAスクール構想に基づき、小中学校における教育のデジタル化、有り体にいえば、タブレットを使った教育について強く批判しています。私が読んで理解した範囲で、以下の理由によります。すなわち、まず第1に、タブレットの目的外使用をやめさせることがほぼほぼ不可能だからです。これは容易に想像できます。第2に、本書で「川上」と読んでいる文部科学省や国会議員などの教育政策の企画立案をするグループが、「川下」の教育現場にいる教師や教育実態をまったく把握せず、政策の企画立案をしていて、教育現場からかけ離れた方針を打ち出しているためです。本書でも指摘しているように、「川下に流し込む」ことにより、実施責任を教育現場に負わせることができるので、かなり無責任な政策決定になっている可能性はあります。よく言及されるように、を考案したアップル社のスティーブ・ジョブズは自分の子供にはスマホ、というか、iPhoneやタブレットのiPadは与えなかった、というのは、私自身は確認のしようもありませんでしたが、よく聞いた話です。本書では、冒頭で「2023年7月にオランダ政府が学校教室におけるタビレット、携帯電話、スマートウォッチの持込みを禁止した、とも指摘しています。オランダ政府のデバイス原因説よりは、私自身は、ややコンテンツ要因説に近い気がするのですが、本書でもコンテンツ要因説をとっているように感じました。確かに、タブレットを教室で使うようになれば目的外使用、というか、タブレットを勉強に使わずにゲーム、SNSなどに使う誘惑が大きくなるのは当然ですし、それを教員が効果的に防止するのは難しそうな気がします。ただ、デバイスについては工夫の余地があるのも事実です。20年くらい間に発売が開始された初期のニンテンドーDSのように通信機能なしで、半導体チップを差し込んで勉強のみに使用するデバイスを汎用的なタブレットの代わりに開発することは十分可能ではないか、という気がするからです。ただ、私は大学教員なわけですが、ある程度は学力でグループ分けされた結果の学生を受け入れている大学と違って、義務教育である小中学校ではあまりにも学力の分散が大きくて、一律なデジタル教育が難しい、というか、不可能に近いのは理解します。私の授業でも、学内サイトにアップロードした授業資料を教室内のモニターに映写したり、学生のPCやタブレットなどのデバイスで見ながら授業を進めることが多いのですが、私自身は少し強引にでも教科書を指定していて、教科書を教室に持って来て授業を受けるように指導しています。でも、決して少なくない先生方は教科書の指定はしていないような気がします。特に、経済学部ではそのように私は受け止めています。本筋から離れてしまいましたが、本書を読んでいて、タブレットを使った教育は、少なくともいっそう格差を拡大させる可能性があると感じました。すなわち、私自身の信念に近いのですが、教育というのはある意味で格差を拡大する可能性を秘めています。学力の高い高校生が大学入試で勝ち残ってトップ校に進学し、さらに学力を高めて卒業するわけです。教育のデジタル化についても同じで、教育や学習というのは自分に跳ね返ってくるのですが、そこまで深い理解ない小中学生であれば、遊ぶ子は遊んでしまうし、勉強する子はしっかりと勉強ができる、という環境を与える結果になるような気がします。タブレットに限らず、ICT教育デバイスを活用して学力をさらに伸ばす子、逆に、汎用的なデバイスでゲームやSNSなどで遊んで学力を十分に伸ばせない子、がいそうです。私の直感では、前者はもともと学力の高い子でしょうし、後者はもともと学力の低い子である可能性が高いような気がします。それがいいのか悪いのか、現時点では、私は望ましくない、と考えますが、容認するという考えもあり得るかもしれません。

photo

次に、青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)を読みました。著者は、時代小説の作家であり、本書は『半席』の続編となっています。前作は6編の明らかに短編といえる長さの6話から成る連作短編集でしたが、本作品は中編くらいの長さの2話からなっています。もちろん、「なぜ」を探る徒目付の片岡直人が主人公であり、その昔の徳川期には、今にも部分的に引き継がれている自白中心の取調べであり、しかも、今とは違って拷問をしてまでも捜査側の見立てに従った自白を引き出して、はい、それで終わり、という犯罪捜査でしたが、主人公の片岡直人は、「なぜ」を探る、ミステリの用語でいえば whydunnit を追求するわけです。しかも、前作のタイトルに見られるように、一代御目見得の御家人で世襲出来ない半席の立場からフルスペックの世襲できる旗本に上昇すべく努力を繰り返しているわけです。ということで、あらすじですが、その上役の内藤雅之が遠国ご用から戻って、馴染みの居酒屋で出会うところから物語が始まります。いろいろと、幕府の鎖国政策に対する批判めいた会話や周辺各国からの脅威や海防について語りつつ、片岡直人の活動が再開されます。「再開」というのは、前作『半席』の最後でいろいろとあって、主人公の片岡直人は心身ともに不調であった、という事情からです。最初の中編では、かなり年配の侍の家を舞台にした事件です。離縁されて3年半もけ経過してから、元妻が元夫を刺殺します。しかも、元夫は高齢で病床にあり、それほど先が長いわけではなさそうに見えました。そもそも、なぜ離縁したのかから謎解きを始め、元夫の郷里の越後の風習までさかのぼって刺殺事件の裏にある「なぜ」を解明しようと試みます。2番めの中編は、そこそこ繁盛している商家の主が10月の冷たい水をものともせずに、また、決して達者な泳ぎではないにもかかわらず、毎日決まった時刻に大川を泳いで渡っていると噂になり、片岡直人が見に行って少し話し込んだりします。そして、どのような理由で泳いでいたのかを突き止めようと、ご用のついでにこの泳ぐ者の出身地である三河まで立ち寄って、片岡直人が調べを進めます。前作の『半席』も同じで、この作品も明らかに時代小説とはいえミステリであると考えるべきです。繰り返しになりますが、whydunnit のミステリです。さすがに直木賞作家の作品ですし、特に、私のように、時代小説もミステリもどちらも大好きという読者には大いにオススメです。

photo

次に、話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)を読みました。編者は、出版社のサイトで「カジュアルな話題から高尚なジャンルまで、あらゆる分野の情報を網羅し、常に話題の中心を追いかける柔軟思考型プロ集団」と紹介されています。本書の1年後の昨年年央くらいに同じシリーズで『気の利いた言い換え680語』というのも出版されています。私は図書館の予約待ちです。ということで、本書では、「ダメだなあ」より「もったいない!」、「新鮮野菜」より「朝採れ野菜」、「迅速に対応」より「30分以内に対応」といった言換えを集めています。ナルホドと納得するものばかりで、なかなかにタメになります。その上で、いくつか考えるところがあります。まず、第1に、私は関西出身ながら大学卒業後に東京に行って、定年の60歳まで長らく公務員をしていました。独身のころは東京の下町に住んでいて、今でも相手次第ながら日常会話には東京下町言葉でしゃべっています。そして、私の実感からすると、関西弁はソフトで、東京下町言葉はややハードな印象を持っています。ですから、失礼をわびたり、学生を褒める際には関西弁で、何らかの強調を示したり、学生を叱る場合は東京下町言葉がいいんではないか、と勝手に思っています。例えば、後者の叱る場合は「アホンダラ」というよりも、「バッキャロー」と言い放つ方が効きそうな気がします。私の勝手な憶測です。第2に、あくまでタイトルのように「言い換え」ですから、書き言葉、文章に本書の指摘が適するかどうか不安があります。特に、学術論文を書く際には、当てはまらない場合がありそうな気がします。まあ、それは本書の目的から外れるので仕方ないと思います。第3に、これは苦情なのですが、「言い換え」ではなく明らかに意味の違う例が本書にはいくつか散見されます。典型的には、p.225の「万障お繰り合わせの上、お越しください」を「ご都合がつきましたら、お越しください」では来て欲しい度合いが明らかに異なります。最後に、私は「官尊民卑」という言葉もある日本で長らく国家公務員をした後、現在は大学で教員として学生に教える立場ですので、話し相手に対してはついつい目下に接するようになりがちです。ですので、なるべくていねいに表現するように努めているとしても、ついつい、上から目線の言葉になりがちなことは自覚しています。本書の最初の方にあるように、否定や不同意を表す際には、学生には明確に「違う」といってやるのもひとつの手ですが、相手が同僚教員などであれば、しかも、経済学というのはそれほど明快に割り切った回答を得られる学問領域ではありませんから、本書にはない表現で私は「疑問が残る」とか、「見方が分かれる」と表現する場合があります。私なんぞのサラリーマンをした後に大学に来た実務家教員よりも、自分の方がエラいと思っている大学院教育を長らく受けた学術コースの教員がいっぱいいるので、それはそれなりに表現を選ぶのもタイヘンです。

| | コメント (2)

2024年1月20日 (土)

今週の読書は開発経済学の専門書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、熊谷聡・中村正志『マレーシアに学ぶ経済発展戦略』(作品社)は、「中所得国の罠」から脱しつつあるマレーシア経済について、歴史的な観点も含めて分析しています。多井学『大学教授こそこそ日記』(フォレスト出版)は、優雅なのか、そうでなくて過酷なのか、イマイチ不明な大学教授のお仕事について、実体験を基に取りまとめています。井上真偽『アリアドネの声』(幻冬舎)は、地震でダメージ受けた地下の構造物から視覚や聴覚に障害ある要救助者をドローンで誘導しようと試みるミステリです。西野智彦『ドキュメント 異次元緩和』(岩波新書)は、昨春に退任した黒田日銀前総裁の金融政策の企画立案や決定の舞台裏を探ろうと試みています。ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)は、英国を舞台に高校を卒業して大学に進学するピップを主人公にしたミステリ三部作の最終作であり、それまでの単なる犯罪のリサーチを越えた大きな展開が待っていました。
ということで、今年の新刊書読書先週までの10冊に加えて、今週ポストする5冊を合わせて計15冊となります。なお、これらの新刊書読書の他に、藤崎翔『OJOGIWA』を読みましたので、そのうちにFacebookでシェアしたいと予定しています。

photo

まず、熊谷聡・中村正志『マレーシアに学ぶ経済発展戦略』(作品社)を読みました。著者は、お二人ともアジア経済研究所の研究者です。私は20年ほど前にインドネシアの首都ジャカルタにある現地政府機関に勤務していて、それほどマレーシアに詳しいわけでもないのですが、アジアにおける経済発展のロールモデルとしては、欧米諸国ならざる国の中で最初に先進国高所得国になった日本が筆頭に上げられるのですが、マレーシアやタイなども東南アジアの中では経済発展モデルのひとつと考えられます。しかし、やや物足りないのは、本書で考えている「中所得国の罠」をマレーシアがホントに脱して現時点で高所得国入りしたわけではない、という点です。本書でも、この点はハッキリしていて、マレーシアは高所得国ではなく、「高所得国入り間近」と表現されています。まあ、そうなんでしょう。基本的に、学術書というよりは一般向けの教養書・専門書に近い位置づけではありますが、「中所得国の罠」に関して世銀が出した基本文書である Gill and Kharas による An East Asian Renaissance ではなく、アジア開銀(ADB)の Felipe らのワーキングペーパーを基に議論しているのも、見る人が見れば違和感を覚えかねません。ただ、そういった点を別にすれば、よく取りまとめられている印象です。すなわち、「中所得国の罠」についてはルイス的な二部門モデルを基に資本と労働を資本家部門で活用するところから始まって、要素集約的な成長から全要素生産性(TFP)による成長への転換、そして、より具体的には産業の高度化がキーポイントになる、というのはその通りです。その上、「中所得国の罠」を離れて、マレーシアの政治経済的な歴史を振り返るという点においては、私のような専門外のエコノミストにはとても参考になりました。二部門モデルに関しては、マレーシアではルイス的に生存部門と考えられる農村部におけるマレー人労働力を、都市部における資本家部門と考えられる商工業、多くは華人によって担われている商工業に移動させることにより経済発展が始まります。その過程で、マレーシア独自のプリブミ政策が導入され、人種間での均衡が図られることになります。この点は、いろいろな議論あるところですが、インドネシアにおいて反共産主義の立場から華人経営に対する、やや非合理的とも見える制限を課した政策に比べれば、まだマシと考えるエコノミストもいそうな気がします。ただ、現時点で考えれば、本書でもマレーシアが高所得国入りしたと結論しているわけでもなく、少し前までは、マレーシアこそが典型的に「中所得国の罠」に陥っている典型的な国、とみなされていただけに、本書で指摘するような外需依存が強い経済発展から内需主導の経済発展への転換が、この先成功するかどうかという、より実証的・実践的な検討が必要そうな気がします。マレーシアは、本書でも指摘しているように、インドネシアと比較すれば明らかですし、タイなどと比べても人口が少なくて国内市場の制約が大きいだけに、それだけに注目されるのは当然です。加えて、同じように「中所得国の罠」に陥っているように見える中国が、人口という点ではマレーシアと対極にありながら、どのように「中所得国の罠」を逃れるか、という観点からもマレーシアが注目されるところかもしれません。

photo

次に、多井学『大学教授こそこそ日記』(フォレスト出版)を読みました。著者は、関西の私大の現役教授だそうです。その1点では私と同じだったりします。もう少し詳しくは、大手銀行を経て、S短大の専任講師として大学教員生活をスタートし、以降、T国立大を経て、現在は関西の私大KG大に勤務している、と紹介されています。本書については、正体を隠すことで、学内外からの反発を気にせず、30余年にわたり大学業界で見聞きしたことを思う存分、表現したかったので執筆した、といった旨の執筆動機が記されていました。加えて、本書の内容はすべて著者の実体験だそうです。繰り返しになりますが、関西の私大の教授職にある、という1点だけで私と共通点があるわけですが、本書の著者は、銀行勤務経験があるとはいえ、大学院に進みいわゆる学術コースを経て大学の研究者になっているのに対して、私の場合は実務家コースで、60歳の定年までサラリーマンをした後に大学に再就職しているという大きな違いがあります。ですので、私は大学内の学務や教務と称される学内行政を担当したことはほとんどありません。講師から准教授そして教授へと昇進するために熱心に研究に取り組むほどでもありません。年に1本だけ紀要論文を書いておけばそれでOKと思っているくらいで、査読論文もほとんどありません。まあ、有り体にいって、私はすでにテニュア=終身在職権のある教授職についてしまったわけですし、性格的にも、また、年齢的にも上昇志向はまったくありませんので、釣り上げた魚に餌はやらない、と似通った対応になってしまう可能性も十分あるわけです。ですので、経済学部ですから、どうしてもマルクス主義経済学と主流派経済学が共存しているわけですが、私については学内の派閥活動なんかも関係薄く、人事についても双方から推薦者の連絡を受ける、といった状態となっています。しかも、まもなく定年に達して教授会の構成員ですらなくなります。勤務校は著者とそれほど大きなレベルの違いない関関同立の一角ですので、学生の就学態度やほかの何やも大きな違いはないと思います。ただ、私の場合は、大学生ともなれば18歳成人に達しているわけで、よくも悪くも独立した人格として接し、逆から見れば、それなりの自己責任を求めます。ですので、授業中の居眠りや私語を禁止したり、といった授業態度をの改善を要求するようなことはしません。「学び」は自己責任でやって下さい、ある意味で、演習生を甘やかしますから、後になって、「先生が厳しくいってくれなかったから勉強しなかった」といった逆恨みはしないようにお願いするだけです。たぶん、経済学部というのは、私の経験からしても、多くの大学でもっとも少ない勉強で卒業できるような気すらしますので、それなりの自覚が必要です。勉強する学生にはご褒美があり、勉強しない学生も卒業は問題ないとしても、授業料相当の成果を手にできるかどうかは自覚次第です。高校生までであれば、「よくがんばった」でOKなのかもしれませんが、大学生であればそれなりの結果も必要でしょうし、多くの経済学部生は卒業後は就職するわけで、仕事に就く準備が必要な一方で、仕事に就くまでの息抜き的な部分も必要そうに見える学生もいます。ただ、本書に収録された多くの著者のご経験は、たしかに、大学教授であれば多かれ少なかれ経験しそうな気もします。その意味で、荒唐無稽な内容ではありません。

photo

次に、井上真偽『アリアドネの声』(幻冬舎)を読みました。著者は、昔風にいえば覆面作家であり、年令や性別すら明らかにされていない作家で、基本的にミステリやサスペンス色の強いエンタメ小説をホームグラウンドにしているように感じますが、私はひょっとしたら初読かもしれません。ということで、あらすじです。主人公は高木春生という20代半ばくらいの男性、小学生のころに中学生の兄を事故で亡くしたトラウマがあります。その贖罪のためにということで、災害救助用の国産ドローンを扱うベンチャー企業に就職します。その業務の一環で障害者支援都市WANOKUNIを訪れます。これは、会社が参加しているプロジェクトで地下に都市が建設されています。まあ、都市というくらいの規模ではありませんが、集合住宅やショッピング街、リクリエーション施設や学校まである、というものです。そこで大地震に遭遇するわけで、所轄の消防署に勤める消防士長とともに、ドローンをオペレーションして、まさに、災害救助用ドローンの出番となるわけです。その要救助者が、WANOKUNIのアイドルである中川博美です。彼女はヘレン・ケラーのような三重苦、というか、三重障害者であって、視覚聴覚に加えて唖者でもあります。加えて、WANOKUNIのある県の県知事の姪というA級市民であったりもします。でも、障害のためにドローンから話しかけることが不可能なわけです。しかし、彼女がドローンの誘導に従ってシェルターに向かう中で、目が見えるのではないか、声や音が聞こえるのではないか、といった、まあ、何と申しましょうかで、障害者ではない、というか、障害を偽装している可能性を示唆する行動に出ます。結末は読むしかないのですが、軽く想像されるのではないかという気もします。私は、どうして要救助者の中川博美が視覚や聴覚を持っているかのような行動を示すのか、という謎を早々に気づいてしまいましたので、その分、私の感想はバイアスがかかっている可能性がある点をご注意下さい。ということで、視点が地上の安全地帯でドローンを操作する主人公の高木春生に限定されますので、それほど緊迫感を感じることができませんでした。まあ、視覚と聴覚のない要救助者の中川博美の視点が使えませんから、仕方ない面は理解します。、また、トリックの都合上、ドローンのカメラ機能が早々に壊れて、要救助者の様子が判らない、というのも緊迫感を欠きます。元々、ドローンのオペレーションなんて、ゲームをプレーするような感じではないかと想像していますが、それがさらに緊迫感を欠く結果となってしまいました。暴露系のユーチューバーも登場しますが、何のために出てきたのか、私にはサッパリ意味が判りませんでした。謎です。要救助者の中川博美の視点が使えないのと同じ理由で映像化も難しそうな気がします。その意味も含めて、ちょっと世間一般の高評価に比べると、私の見方は厳しいかもしれません。でも、要救助者の中川博美は、最後の最後ながら、とっても行動力あり爽やかでいいキャラだったんだと気づきました。ほかの読者が衝撃を受けたラストとは違うポイントに目が行っているかもしれません。繰り返しになりますが、どうして要救助者の中川博美が視覚や聴覚があるかのような行動を示すのか、という謎を早々に気づいてしまいましたので、その分、私の評価は厳しい目に振れるバイアスあると思います。悪しからず。そして、最後の最後に、ややアサッテを向いた感想ながら、これだけ地震が多くて活断層もアチコチに走っている日本で、この小説にあるような地下構造物はヤメておいた方がいいんではないかと思います。まったく同じことが原子力発電所についてもいえます。

photo

次に、西野智彦『ドキュメント 異次元緩和』(岩波新書)を読みました。著者は、時事通信のジャーナリストです。タイトルから判る通り、昨春に退任した黒田日銀前総裁の金融政策を振り返っています。世界でも前例の少ない異例の政策であったことは、本書のタイトルからもうかがい知ることが出来ます。逆にいえば、日本のマクロ経済が古今東西でも類例を見ないデフレにあった、ということです。よく、経済学には人間が出てこないといわれますし、私もその通りと考えているのですが、本書では金融政策をはじめとする経済政策の企画立案や決定などの背景にある人の動きがよく理解できます。特に、トップクラスの政府・中央銀行の人事については、私のようなキャリア官僚でありながらサッパリ出世しなかった者からすれば、目を見張るような驚きに満ちています。政策的には、黒田前総裁は白川元総裁からのゼロ金利を引き継ぎつつ、金利ターゲットから量的緩和へのレジームチェンジを果たすとともに、舞います金利やイールドカーブ・コントロール(YCC)などの非伝統的な手法を次々と導入しました。ただ、どうしても、黒田総裁の政策を評価する際には、本書では眼科医があるように思えてなりません。すなわち、私はアベノミクスの3本の矢の第1の金融政策、もちろん、第1であるだけでなく、圧倒的な重点が置かれていた金融政策とはいえ、アベノミクス全体での評価が必要と考えるからです。金融政策でデフレ脱却が十分でなかった大きな要因は、本書でも指摘されているように、3党合意に基づくとはいえ、2014年の消費税率引上げだろうというのが衆目の一致するところです。浜田先生なんかは、デフレ脱却のための財政政策の必要性について、考えを変えたと公言していたほどです。ただ、それでも黒田前総裁の異次元緩和を評価するとすれば、本書の最後の方にある雨宮前副総裁と同じ感想を私は持ちます。批判する向きには何とでもいえますが、この政策しかなかったという気がします。そのうえで、アベノミクスの評価が芳しくないのは、圧倒的に分配政策を欠いていたからであると私は考えています。よくいわれるように、アベノミクスではトリックルダウンを想定し、景気回復初期の格差拡大を容認していて、その後も分配政策の欠如により格差が拡大し続けた、と考えるべきです。特に、企業向け政策は株価を押し上げた一方で、国民向けの分配政策が欠如していたものですから、賃金引上げにつながる動きが企業サイドにまったく見えず、政策でも考慮されずで、国民が貧しくなっていったと私は考えています。ただ、この格差拡大について金融政策の責任を問うのは不適当です。私は異次元緩和に適切な分配政策が加わっていれば、デフレ脱却は可能性が大きかった、と考えています。もちろん、政策の重点の置き方に関する誤解や無理解に対する批判はあろうとは思います。ただ、繰り返しになりますが、異次元緩和だけではなく、より幅広くアベノミクス全体を評価することは忘れてはなりません。

photo

次に、ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。この作品は三部作の3作目となっていて、1作目は『自由研究には向かない殺人』、2作目は『優等生は探偵に向かない』となります。この作品の最初の方は、当然ながら、2作目とのつながりが強いのですが、読み進むと1作目の方が直接的な関係が強い気がします。ややジュブナイルなミステリと見なす読者がいるかも知れませんが、まあ、立派な長編ミステリ作品です。ということで、簡単なストーリーは、主人公は相変わらずピップです。舞台は英国のリトル・キルトンというやや小さな街です。日本の高校、それもそれなりの進学校に当たるグラマー・スクールを卒業して大学に進学する直前の時期です。ピップはストーカーされているらしく、無言電話、首を落とされたハト、道路に描かれたチョークの人形、などに悩まされます。警察のホーキンス警部だったかに、相談しますが、まったく頼りになりそうもありません。というところからスタートします。2部構成ですが、ミステリですので、後は読んでみてのお楽しみ、ということになります。1作目も2作目も、基本的に、主人公のピップは犯罪行為、あるいは、犯罪行為とみなされた事件のリサーチを進めます。相棒はピップの恋人だったが1作目の発端となる自殺を遂げたサルの弟のラヴィです。そして、特に1作目ではかなり強気にリサーチを進めます。違法スレスレ、というよりも、ほぼほぼ違法な調査手段なわけです。この3作目でも基本は同じです。ただ、この3作目ではリサーチの枠を超えます。メチャクチャ大きく超えます。その意味で、第1部のラストは衝撃です。第2部はこの衝撃の第1部のラストの後処理となります。おそらく、この第1部ラストの出来事は評価や感想が大きく分かれると思います。私は否定的な評価・感想です。ただ、明らかに著者は警察や裁判をはじめとする英国の法執行機関や体制に対する大きな失望、というか、批判や不信感を持っていて、このような行動をピップにさせるのだろうという点は理解します。経済学の割と有名な論文に、2007年のノーベル経済学賞を受賞したハーヴィッツ教授の "Who Will Guard the Guardians?" というのがあります。本書を読んでいて、私はこれを思い出してしまいました。加えて、そのピップをとことんサポートするラヴィの姿勢には大きな共感を覚えます。出版順としてはこの3作目の後に、三部作の前日譚となるスピンオフ作品がすでに出ているようですが、明らかに、このシリーズはこれで打止めだと思います。主人公のピップに、従来通りの強気で違法スレスレのリサーチを続けさせるのはムリです。多くの読者の納得は得られないだろうと思います。最後に、三部作それぞれの出来ですが、1作目が一番だったと思います。その続きで2作目を読むと大きくガッカリさせられ、繰り返しになりますが、この3作目は評価が分かれそうです。私は共感しませんが、読者によっては1作目よりも高く評価する人がいても、私は不思議には思いません。

| | コメント (0)

2024年1月14日 (日)

綾辻行人『十角館の殺人』の実写映像化の試みやいかに?

今年2024年になってから、とても意外なことに、綾辻行人『十角館の殺人』の実写映像化の試みが明らかにされています。hulu のサイトにある『十角館の殺人』のトレイラは、わずか15秒ながら以下の通りです。

このミステリでは、大学ミステリ研究会の大学生が大分県沖合の島に渡っ角て十角館に泊まり、次々に殺害されていく、というストーリーで、島の方と本土の方の動向が交互に記述されて小説が進みます。島の学生たちはミステリ作家から取ったニックネームで呼び合い、本土の方ではフツーに氏名で呼び合うことがミスリードの源泉となっています。そして、俗にいう「驚愕の一行」があって、私なんぞは「エッ」となるわけです。しかし、実写画像化してしまえば、見た瞬間に犯人がバレバレになってしまいます。果たして、どう処理するのでしょうか。興味はありつつ、たぶん、あくまでたぶんですが、私自身は実写映像化された作品は見ないだろうという気がします。でも、そうはいいつつも、とても楽しみであることは確かです。
実に適当ながら、「読書感想文のブログ」に分類しておきます。

| | コメント (0)

2024年1月13日 (土)

今週の読書は環境経済に関する専門書のほか計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、野村総合研究所『排出量取引とカーボンクレジットのすべて』(エネルギーフォーラム)は、2050年を目処としたカーボンニュートラル達成のための排出量取引とカーボンプライシングの一環であるカーボンクレジットについて、いかにもコンサル会社らしく網羅的に情報を集めています。高橋祐貴『追跡 税金のゆくえ』(光文社新書)は、先進国の中でも異常に公的債務が積み上がっている日本の財政の、特に歳出についてのムダを一般財団法人を抜け穴にした予算支出のあり方に一石を投じています。吉田義男ほか『岡田タイガース最強の秘密』(宝島社新書)は、昨年2023年のシーズンにセ・リーグ優勝と日本一に輝いた阪神タイガースの強さの秘密を岡田監督の采配から探ろうと試みています。東海林さだお『パンダの丸かじり』(文春文庫)は『週刊朝日』に連載されていた食べ物に関するエッセイを収録しています。最後に、東海林さだお『マスクは踊る』(文春文庫)はコロナ前後のエッセイとともに、漫画の方も収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は先週5冊の後、今週ポストする5冊を合わせて計10冊となります。また、この5冊以外に、綾辻行人『十角館の殺人』も読んでいます。すでに、Facebookでシェアしてあります。

photo

まず、野村総合研究所『排出量取引とカーボンクレジットのすべて』(エネルギーフォーラム)を読みました。著者は、シンクタンクというか、コンサルタント会社であり、その野村総研のサステナビリティ事業コンサルティング部のスタッフが執筆に当たっています。タイトル通りに、カーボンニュートラルに向けて、二酸化炭素の排出権取引とカーボンクレジットという経済的な対策について網羅的に取りまとめています。今年に入って授業で不得手な農業と環境を講義する必要から、私も大学教員として、不断のお勉強を続けているわけです。ということで、本書でも指摘しているように、2018年4月に閣議決定された「第5次環境基本計画」においても、第1部第3章のp.13から始まる環境政策の基本的手法において7手法を上げていますが、大きく分けて規制的手法と経済的手法に分かれ、その経済的手法のうちでカーボンニュートラルを目指す政策手段の代表的なものが、 本書でいう排出権取引とカーボンクレジット、ということになります。排出権取引が数量アプローチであり、カーボンクレジットは価格アプローチです。カーボンクレジットの代表的なものがカーボンプライシングに基づく炭素税ということになります。数量アプローチの排出権取引は二酸化炭素排出量を確実にコントロールできる一方で、取引上で価格変動が十分ありえますのでビジネス上の不確実性が残ります。他方で、カーボンプライシングに基づく炭素税などの価格アプローチは、主として政府が炭素価格を税法で設定しますので、透明性が高くて価格固定のために安定したビジネス展望が開ける一方で、二酸化棚そ排出量のコントロールは確実ではありません。どちらもメリットとデメリットがあるわけで、本書ではその性格上、価格アプローチと数量アプローチのどちらかに軍配を上げることを明記しているわけではありませんが、世界の趨勢では炭素税などの数量アプローチが主流となりつつある、と私は感じています。特に、政府が炭素税を課す場合、透明性が高くて、しかも、いわゆる2重の配当が得られます。すなわち、炭素税の課税により二酸化炭素排出を減少させるとともに、税収をグリーン公共事業などに振り向けることが出来ます。二酸化炭素排出の量的コントロールは不確実かもしれませんが、税率の修正はそれほど、というか、少なくとも消費税率の引上げよりは国民的な合意が得られやすいように私は感じます。加えて、排出権取引については当初の排出権割当を行う際に、不透明性や利権が生じる可能性があるのではないかと危惧します。炭素税が税制の特徴からして一律に課せられるのに対して、排出権の割当は、過去の実績に基づくグランドファザリングにせよ、産業の技術特性に基づくベンチマーク方式にせよ、入札によるオークションを別にすれば、どうしても不透明性が残ります。最後に、私自身は大学の授業で取り上げてはいるのですが、環境政策に関して、例えば、国連のSDGsとか、日本政府の2050年カーボンニュートラルとかは、ハッキリいって懐疑的です。特に、我が国では2050年にカーボンニュートラ栂達成できるとは、まったく考えていません。まあ、私は2050年には90歳を超えますので見届けることはかないませんが、まあ、達成可能だと考えている人はどれくらいいるのでしょうか。政府の世論調査でも、例えば、2023年7月調査の「気候変動に関する世論調査」でも、2050年カーボンニュートラルが達成可能かどうかの設問はなかったように記憶しています。質問してはいけないのかもしれません。

photo

次に、高橋祐貴『追跡 税金のゆくえ』(光文社新書)を読みました。著者は、毎日新聞のジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、税金のゆくえ、すなわち、政府の歳出についての調査報道の成果を取りまとめています。5章構成であり、それぞれに歳出のムダを指摘しています。一般社団法人を使った電通やパソナなどによる中抜き、オリンピックマネーに注ぎ込まれた政府予算、コロナ対策として緊急性を重視したゼロゼロ融資の不透明性、消防団員への報酬が遊興費に消える昔ながらのしきたり、単年度で消化しきれない防衛費などを基金に積み立てる正当性、となっています。私は60歳の定年まで国家公務員をしていましたから、それなりにこういった予算の使い方を知らないわけでもなく、エコノミストとしてフツーに読み進みましたが、そうでなければ、大きな怒りさえ覚える読者がいそうな気がします。国民として、収めた税金がムダな有効に活用され政策に活かされているのかどうかは、当然に気にかかるところです。しかし、本書の著者による調査の結果は、政府予算の使い方には大いなるクダがある、というものです。電通やパソナが一般社団法人を「活用」して、政府からの収入を大いに中抜して収益を上げているのは、いっぱい報じられているところですし、オリンピックでは贈収賄までして私腹を肥やしている輩がいるのも事実です。コロナ禍の中で経営の苦しい事業者がいたのは事実ですし、救済の必要性は十分理解するとしても、それを悪用するチェックが不十分であるのも確かです。テレビドラマや小説の『ハヤブサ消防団』ではまったく言及されていないものの、地方の消防団員への報酬がジーサンの孫への小遣いに消えているというのショックでした。防衛費はロシアのウクライナ侵攻などに悪乗りする形で大幅な増額が決められてしみましたが、「基金」に積み立てる形で不十分なチェック体制のままに使われようとしています。ただ、本書で指摘されているような税金のムダ使いの大きな原因は、私は政府の公務員が少ないので、支出する政府の側のチェック機能が働いていないせいだと考えています。例えば、経済協力開発機構(OECD)の Government at a Glance 2023 p.181 にあるグラフ 12.1. Employment in general government as a percentage of total employment, 2019 and 2021 を見れば明らかな通り、日本の公務員は先進国の加盟する国際機関であるOECD平均の1/3に達しないくらい少ない水準です。これではチェック機能が行き届かないのは当然だと考えるべきです。本書で指摘するように、増税の前に排除すべき歳出のムダがあるのは確かですが、同時に、政府の機能も考える必要があります。

photo

次に、吉田義男ほか『岡田タイガース最強の秘密』(宝島社新書)を読みました。著者は、一応、経緯を表してなのでしょうが、何を見ても吉田義男をトップに持って来ていますが、収録順でいうと、掛布雅之、江本孟紀、金村曉、吉田義男、赤星憲広、田淵幸一、改発博明、ということになります。最後の方以外はすべて阪神タイガースOBで有名な方ばかりですが、最後の方は阪神タイガースに好意的な報道を旨とする「デイリースポーツ」のジャーナリスト、いわゆるトラ番記者から社長も務めています。ということで、昨年2023年シーズンにセ・リーグ優勝、そして、パ・リーグ覇者のオリックスを下して日本一に輝いた阪神タイガースについて、特に、タイトル通りに岡田監督の焦点を当てつつ論じています。まあ、阪神ファンであれば、あるいは、それなりのプロ野球ファンであれば、シーズン中からシーズン終了後に聞いたようなトピックばかりですが、改めて振り返るのも、阪神ファンには心地よいものです。岡田監督を褒め称える場合、水際立った試合の采配があります。当然です。横浜戦で代打で左投手を引っ張り出しておいて、代打の代打で原口選手を送ってホームランを打ったり、ジャイアンツ戦で初先発した村上投手を7回パーフェクトのまま交代させたり、あるいは、特に最終盤の日本シリーズでは、初戦で佐藤輝選手に初球から盗塁させて先取点を奪って、結果的に、日本でナンバーワンと目されていた山本由伸投手から大量点を上げ、また、第4戦では長らく戦列を離れていた湯浅投手を起用して甲子園の雰囲気を一変させてサヨナラ勝ちに持ち込んだりといったところです。ただ、私が注目したのは、これも言い尽くされた感がありますが、得点力向上のためのフォアボールの重視です。しかも、単に選手指導で「フォアボールを重視せよ」というだけではなく、球団の査定システムとしてフォアボールのウェイトを大きくするという制度面での改革に持ち込んだ点が重要と私は考えています。常々、エコノミストとしての私の主張は、気持ちやココロの持ちようだけでは何の解決にもならない、とまではいわないものの、本格的な対策や政策としては、制度的な裏付け、法令による規制、などといったシステムの変更が必要である、というものです。交通安全を願うココロだけでは交通事故死は減少しません。信号や横断歩道や歩道橋を設置し、スピード制限を設けて、加えて、違反した場合の罰則を法令で決めなければ実効ある交通安全対策にはなりません。こういった私のエコノミストとしての従来からの主張が、岡田タイガースのフォアボールの査定アップで証明されたと感じています。

photo

次に、東海林さだお『パンダの丸かじり』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、本書は『週刊朝日』に連載されていた「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムのうち、2018年1-10月掲載分を収録しています。単行本は2020年11月の出版でその文庫化です。出版社によれば、食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズの第43弾だそうです。ということで、コラムのタイトル通りに、食べ物エッセイです。ただ、人間が食べるものだけではなく、これまた、タイトル通りに、パンダの食べる笹も含まれていたりします。すべては網羅できませんが、取り上げられている食べ物は、かっぱ巻き、七草粥、芋けんぴといった食品、というかすでに食べられる状態になっているものから、鶏むね肉などの素材まで、いろいろとあります。すべてのエッセイに1編2-3枚の挿絵があるのは漫画家ならではの特技を活かしているといえます。余りに話題が多岐に渡っているので、本書の方向性と異なる2点だけ指摘しておくと、まず、ビビンバです。いうまでもありませんが、丼や炊いたご飯とナムルや肉や卵などの具を入れ、よくかき混ぜて食べる料理です。本書の「ビビンバ」ではなく、「ビビンパ」と表記される場合がありますが、私は本書と違って後者の「ビビンパ」と書くのが正しいと思っています。というのは、「ピビン」が「混ぜ」の名詞形で、「パプ」が「飯」の意味となっていて、韓国の文化観光部2000年式のアルファベット表記でも "bibimbap" となるからです。次に、うどんの麺の太さを選ぶ際の無意識の根拠として、心細い時は細麺、心丈夫で心太い時は太麺、普通の時は並麺、というのは、さすがにあんまりだという気がします。まあ、そういった批判的精神を維持しつつ、心安らかに、また、心穏やかに読むべきエッセイだというのは確かです。

photo

次に、東海林さだお『マスクは踊る』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、本書は『オール読物』の「男の分別学」に収録されていたエッセイ、また、『週刊文春』の「タンマ君」に連載されていたマンガについて、それぞれ2019年から2020年の期間のものを抄録しています。ですので、2020年のコロナ後のエッセイを含んでいますので、タイトルや表紙のようにマスクが登場するわけです。なお、エッセイだけではなく、対談も2本収録されています。エッセイや対談の方にも挿絵が数枚入っています。漫画の方はタンマ君がサラリーマンですから、そういった現役世代の中年を主人公に描かれている一方で、エッセイの方はかなり高齢者を重点にしている印象です。対談のテーマも認知症だったりします。特に、エッセイの後半はコロナの時代に入っているようで、パンデミックのころの運動としてクローズアップしている散歩については、日本人的に何でも「道」に仕立て上げて、散歩道としていろんな散歩を類型化しています。もちろん、マスクについても顔が半分ほども隠れるので、目と口で作られる表情について、なかなかに鋭い指摘をしていたりします。コロナ前と思しきバドミントンをディスるエッセイは、私には理解できませんでした。

| | コメント (0)

2024年1月 7日 (日)

今週の読書は年始に経済書なく計5冊

今年初めての読書感想文は以下の通りです。
まず、川上未映子『黄色い家』(中央公論新社)は、アラフォー女性と20歳前後の女性3人による4人の奇妙で合法違法ギリギリの生活を実にリアルに描き出したノワール小説です。奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)は、17年振りに帰って来た精神科医伊良部医師のシリーズの短編集で、相変わらず、患者として伊良部医師を訪れた善良な人間が伊良部とマユミに振り回されつつも治療ははかどります。永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)は、芝居小屋のある木挽町の仇討ちについて目撃者のモノローグから真相を明らかにしようと試みる時代小説です。小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』と鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)は合わせて15人の豪華なホラー作家の執筆陣により、いわゆる怪物の出現しないモダンホラー短編を集めたアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は5冊から始まりました。

photo

まず、川上未映子『黄色い家』(中央公論新社)を読みました。著者は、芥川賞も受賞した作家です。本書については出版社も力を入れているのか特設サイトが開設されたりしています。通常、「黄色い家」といえば、ゴッホの絵画作品 La Maison Jaune だと思っていましたが、「朝日のあたる家」The House of the Rising Sun と同じで、何か特別な意味を含ませているのかもしれません。ということで、主人公は伊藤花という2020年時点でアラフォーの女性、結婚しているという言及はなく、総菜屋で働いています。ひょんなことで、母親と同年代の友人で、花からは20歳ほど年齢が上になる吉川黄美子が逮捕されたというニュースを見かけます。20年ほど前に、同年代の加藤蘭と玉森桃子とともに4人で暮らしていたことがあるので、まだ携帯電話に残っていた加藤蘭に連絡して相談したりしますが、加藤蘭は取り合ってもくれず、逆に、「若気の黒歴史」といわれて、警察に通報するなどを固く禁じられた上に、携帯電話の登録を消去するように要求されたりします。そして、ここから主人公である伊藤花の長い長い回顧が始まります。10代半ばの高校生であったころに始まり、世紀末1999年を過ぎて4人の共同生活が解消されるまでです。花は東村山のアパート暮らしの母子家庭から抜け出して、黄美子とともに三軒茶屋で生活を始めます。スナック「れもん」を経営し、キャバクラをやめた蘭もいっしょに生活するようになってともに働きます。高校生の桃子もその三軒茶屋の家に入り浸るようになって、事実上の4人での共同生活が始まります。アパートから一軒家に引越したりします。しかし、火事でスナックが焼けて収入の道が途絶え、不法行為で稼ぐようになります。最初はスキミングされた銀行の偽造カードを使った出し子だったのですが、スキマーを銀座の高級バーに設置して情報を入手する側に回ります。このあたりで、まあ、もともとが未成年でスナックで酒を飲んでいたころも、偽造カードでATMから出金していたのも違法ではあるのですが、小説としては、第10章のタイトルを「境界線」としているように、明らかに一線を越える活動を始めます。そして、伊藤花と加藤蘭と玉森桃子の3人は決裂し、共同生活が終わります。伊藤花は母親の死後、母親が借りていたアパートに住んで、現在の2020年を迎える、ということになります。出版社のセールストークでは「ノンストップ・クライム小説」ということで、確かに、600ページ余りの膨大なボリュームながら、一気に読むべき作品であろうという気はします。作者の力量だろうと思いますが、とても読みやすくてテンポよく、一気に読めます。ですので、「ノンストップ」の部分は了解です。でも、「クライム」かどうかは読者の見方によります。私は犯罪小説というよりはノワール小説ないし「貧困小説」に近いと受け止めました。ちらちらとみていた再放送の「VIVANT」でもそうでしたが、貧困がテロにつながる温床となるのと、まったく同じように、貧困が犯罪につながると考えるからです。今までの川上未映子の作品とは大いに異なる大作です。

photo

次に、奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)を読みました。著者は、小説家です。アノ伊良部医師シリーズ第4弾です。もう、このシリーズは紹介するまでもないのですが、精神科医の伊良部が看護師のマユミとともに患者を振り回して大活躍する短編集です。出版社のサイトによれば、伊良部は17年ぶりの復活だそうです。ということで、収録短編はあらすじとともに以下の通りです。まず、「コメンテーター」では、コメンテーターが診察に来るのではなく、コロナ禍で精神科医のコメンテーターを探しているテレビ番組のスタッフが、ひょんなことから伊良部と会って、伊良部自身がテレビのコメンテーターになります。これまでのお決まりのパターンは、患者が伊良部の診察に来て、その患者が伊良部に振り回される、というのでしたが、少し展開が違っています。少し展開が違うのはもう1話あります。「ラジオ体操第2」では、煽り運転の被害にあった男性が過呼吸に陥り、伊良部のところに診察に来て、アンガー・マネージメントができていないと診断されます。同じシリーズである『空中ブランコ』の「ハリネズミ」の主人公である尖端恐怖症の猪野が元ヤクザとして登場します。「うっかり億万長者」は、デイトレードで億万長者になりながら、公園で犬に噛まれてしまい、伊良部のところに運び込まれます。伊良部はパニック障害と診断し、その上、億万長者と知って往診に精を出します。「ピアノ・レッスン」では、コンサート・ピアニストが広場恐怖症になり、飛行機はもちろん、新幹線での移動もままならなくなります。そして、なぜか、キーボード奏者の抜けたマユミのロックバンドに参加することになります。「パレード」では、山形から東京に出てきた大学生が、リモート授業から対面授業に切り替わっていく中で、異変を来して社交不安障害と診断されます。伊良部病院の関連の老人施設で中学生とともに、治療と称してボランティアをさせられます。総じて、伊良部の17年ぶりの復活を評価する読者が多いようで、私もその1人です。ただ、あらすじにも書きましたが、今まではすべて患者として伊良部にところにやってきて、その患者が伊良部に振り回される、というお決まりのパターンだったのですが、この作品では、表題作のように医者のコメンテーターを探してテレビ局からやってくる、とか、億万長者のもとに伊良部がせっせと往診するとか、今までにはないパターンも試みられていますし、以前の作品の患者で伊良部に振り回された人物が登場する例もあり、これも初めての試みではないかと思います。伊良部自身はほぼほぼ進化していないのですが、作者はいろいろと試行錯誤して、もちろん、時代背景からしてコロナのトピックも盛り込みながら、小説としては、ひょっとしたら、進化しているのかもしれません。いや、進化しているのだろうと思います。

photo

次に、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)を読みました。著者は、小説家です。本書についても直木賞受賞により出版社が力を入れているのか、特設サイトが開設されたりしています。ということで、芝居小屋のある木挽町で新春早々、ど派手に森田座裏通りで、伊能菊之助が仇とする作兵衛を討ち果たします。そして、本書では、菊之助の国元から侍が上京して、木挽町で目撃者から聞取りをする、その目撃者のモノローグで構成されています。最初は、木戸芸者の一八、次に、立師の与三郎、女形の衣装係のほたる、小道具職人の久蔵とその妻のお与根、筋書の金治といった、芝居小屋の関係者というわけです。こういった聞取りから、菊之助の仇討ちの実態が徐々に明らかになるとともに、芝居小屋の関係者の来し方の人生も浮き彫りになっていきます。そして、この仇討の真相が背景とともに明らかにされます。ですから、この作品は明らかにミステリと考えるべくです。ただ、誰がやったのかの whodunnit やどうやったのかの howdunnit は明らかに見えます。菊之助は作兵衛を討ち果たして首級まで上げていますから、何をやったのかの whatdunnit もご同様です。ですので、なぜやったのか whydunnit に意識を集中して読んでいたのですが、実は、もっと奥深い仇討であったことが明らかになります。なぜなら、木挽町の芝居小屋の関係者に当たった後、聞取りをした侍は国元に帰って、菊之助ご本人から真相を聞き出しているからです。驚くべき真相で、しかも、その前の芝居小屋関係者からの聞取りの中に、伏線が大いに仕込まれていることが明らかになります。私はこの作品はミステリだと思いますので、あらすじの紹介はここまでとします。最後に2点指摘しておきたいと思います。まず、「仇討ち」の表記についてです。少し前に読んだ長浦京『リボルバー・リリー』では、タイトルは「リボルバー」なのですが、小説の中では一貫して「リヴォルバー」と表記されていました。本作品もよく似ていてタイトルは「あだ討ち」ですが、小説の本文ではほぼほぼ一貫して「仇討ち」とされています。この書分けは理由があります。本書の最後で明らかにされます。なかなかの趣向だったと私は受け止めています。次に、関係者から聞取りを行ったモノローグにより真相を明らかにするという小説としての手法は、松井今朝子『吉原手引草』がすでに試みており、花魁失踪の謎を廓の関係者から聞いて回るという形で、十数年前の直木賞を受賞しています。ですから、この作品は時代小説の手法としては、まあ、悪いんですが、二番煎じです。その上、『吉原手引草』は私の記憶にある限り、10人をはるかに上回る聞取りをしていますが、この作品はそれほど手はこんでいません。それだけに、真相の鮮やかさに目を奪われます。一級のミステリに仕上がっています。

photo

photo

次に、小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)を読みました。著者たちは、小説家です。全員がホラー小説に特化した小説家ではありませんが、そういう小説家も少なくない気がします。2冊合わせて15人の作家によるホラー短編小説のアンソロジーです。ということで、まず、収録されている短編の作者とタイトルほか、カッコ内は初出、にあらすじについては、以下の通りです。すなわち、まず、小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)については、小野不由美「芙蓉忌」(『営繕かるかや怪異譚 その弐』角川文庫)は、うら若き女性の死霊に魅入られた男性の主人公の何ともいいがたい心理状態を実に巧みに描き出しています。続いて、山白朝子「子どもを沈める」(『私の頭が正常であったなら』角川文庫は、高校生のころにいじめて、結果的に自殺した同級生JKそっくりの顔の赤ん坊を産んでしまい、その赤ん坊を殺してしまうかつてのJKのいじめる側の悲劇を取り上げいます。続いて、恒川光太郎「死神と旅する女」(『無貌の神』角川文庫は、大正時代を舞台に、死神から命じられるままに殺人を繰り返す少女フジを主人公に、死神フジにが与えた分岐点を境に、大きな時代の流れを取り込んだスケール大きなホラーです。続いて、小林泰三「お祖父ちゃんの絵(『家に棲むもの』)角川ホラー文庫は、孫に語って聞かせる祖母のモノローグの形を取りながら、祖母自身の結婚や生活を狂気を持って明らかにします。続いて、澤村伊智「シュマシラ」(『ひとんち』光文社文庫は、播州のUMAといわれる猿の一種であるシュマシラを探すマニアが異界に入ってしまうタイプのホラーです。続いて、岩井志麻子「あまぞわい」(『ぼっけえ、きょうてえ』角川ホラー文庫は、作者得意の明治期の貧しい岡山を舞台にしたホラーで、漁師夫婦が網本家の倅を殺害した悲劇を題材にしています。最後の表題作で、辻村深月「七つのカップ」(『きのうの影踏み』角川文庫は、信号のない交差点の横断歩道で子供を交通事故で亡くした女性が、その交差点で通学の小学生を見守りつつ、石を詰めたカップを置くという行為に秘められた恐怖をテーマとして、現在の都市伝説にも通ずるホラーです。続いて、鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)については、まず、鈴木光司「浮遊する水」(『仄暗い水の底から』角川ホラー文庫)は、お台場に引っ越した母子家庭の母親が、マンション屋上でキティちゃんのバッグを拾ったところから異変が始まり、水の味の異変から同じマンションで少し前に行方不明になった少女の事故について推理します。続いて、坂東眞砂子「猿祈願」(『屍の聲』集英社文庫)は、不倫の末に結婚・妊娠にたどり着いた女性が、夫の母親に挨拶に行った際に見たのぼり猿とくだり猿の本当の意味を知るホラーです。続いて表題作で、宮部みゆき「影牢」(『あやし』)は、江戸時代の蝋問屋を舞台に、堅実で繁盛していたお店が代替わりで大女将を座敷牢に入れ、だんだんと狂気に包まれていく中で、毒物により主人一家が死んでしまう過程を大番頭が八丁堀の与力に語るモノローグです。続いて、三津田信三「集まった四人」(『怪談のテープ起こし』集英社文庫)は、諸対面お3人と登山をすることになった主人公なのですが、そもそもリーダーとなる唯一の知り合いが来なくなり、そのまま異界に入り込むような体験をします。続いて、小池真理子「山荘奇譚」(『異形のものたち』角川ホラー文庫)は、大学のお恩師の葬式で立ち寄った甲府の鄙びた旅館に関する怪異を主人公の属するテレビ業界で別の会社の女性に知らせたところ、その女性が取材に行って行方不明になるという奇怪な経緯をたどります。続いて、綾辻行人「バースデー・プレゼント」(『眼球綺譚』角川文庫)は、クリスマスと同じ日に誕生日、それも今年は20歳の誕生日を迎える女性が、クリスマスパーティーで奇怪なプレゼントを受け取るという幻想的なホラーです。続いて、加門七海「迷(まよ)い子」(『美しい家』光文社文庫)は、初老に差し掛かる夫婦2人が皇居から東京駅の地下のあたりで、現在と戦中の時代を、また、あの世とこの世の境を彷徨います。続いて、有栖川有栖「赤い月、廃駅の上に」(『赤い月、廃駅の上に』)は、自転車旅に出た高校生が旅の連れ合いとともに寝袋で駅寝するのですが、この世のものではない存在に襲われます。2冊に収録されている短編計15話を一挙に紹介しましたので、とてつもなく長くなりました。いわゆるモダン・ホラーとして有名な作品ばかりで、私は既読の作品も少なからずあります。でも、再読して十分楽しめました。何といっても、角川書店はホラー小説に力を入れている出版社のひとつですし、その昔、私は角川書店のモニターになっていて、澤村伊智のデビュー作であり、第22回日本ホラー小説大賞を受賞した『ぼぎわんが、来る』は、出版前のゲラ擦りの段階で送っていただいて、それを読んで感想を送ったりした記憶もあります。この2冊については、モダン・ホラーとして、いわゆる「怪物」が出てこないホラー小説を中心に朝宮運河が編集しており、最後の解説も担当しています。一昨年2022年と昨年2023年には年末に「ベストホラー2022」と「ベストホラー2023」をツイッタ上で公表していたのを私は見かけています。ホラー小説のファンであれば、必読の2冊です。これがシリーズ的になって3冊目が出版されるのかどうか、私は不勉強にして知りませんが、もしも継続されるのであれば、版権の関係もあるとはいえ、貴志祐介と今邑彩の作品を収録すべくお願いしたいと思います。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧