2019年5月25日 (土)

今週の読書も話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』から小説まで計6冊!

今週も、質量ともに充実した読書でした。話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』、あるいは、生命科学などの教養書、さらに、小説では『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の辻村深月の受賞後第1作『傲慢と善良』などです。

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まず、ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』(白水社) です。著者は、トルコはイスタンブール出身で米国ハーバード大学を本拠にしているエコノミストです。かつて、実証はされていませんが、グローバリゼーション、国家主権、民主主義の3つを同時に追求するのは難しく、どれか1つを犠牲にせざるをえない「政治的トリレンマ」の視点を提示し、トリフィンによる国際金融のトリレンマ、すなわち、固定為替相場、資本の自由な国際移動、自律的な金融政策の3つは同時には成り立たない、というのに対比させた論点でした。前著の『グローバリゼーション・パラドクス』や『エコノミクス・ルール』なんかも、ものすごく暗くて婉曲な表現で、正確を極めればこその判りにくさがあったんですが、本書では磨きがかかっている気がします。本書の英語の原題は Straight Talk on Trade であり、2018年の出版です。ということで、アダム・スミスが葬り去った重商主義が米国と中国のG2で復活しつつあるように見える現時点で、自由貿易と重商主義的な輸出振興と関税などによる輸入抑制の重商主義的な方向性を論じています。まず、著者は自由な貿易と攻勢な貿易の峻別を提示します。貿易に限らず、すべての経済活動や経済外活動も、インチキをする自由を認めるほど世間は甘くないわけで、特に、決して好ましいとは受け止められていないグループや得体の知れない外国人が、いかにもインチキのように見える方法により自分や親しい人々のグループに不利益を及ぼしているようであれば、それに一定の歯止めを要求する権利はあるように見えます。それを主張して選挙で票を集めることも可能な気がするわけです。しかし、経済意外の分野では、私はシロートながら、国内重視のナショナリストと国際重視のコスモポリタンないしインターナショナリストは相反するように見えるんですが、本書の著者は、経済分野については国内市場を整備して秩序あるものとし開放的にすることは同時に国際的な貢献にもなる、という意味で、国内重視と国際重視が経済学的には両立しうると主張します。これはマルクス主義でも同じことであり、100年ほど前には世界同時革命論のトロツキーと一国革命論のスターリンの対立があったんですが、国内で革命を成功させることにより世界革命に貢献するという意味で、国内重視と国際重視はマルクス主義では両立します。ですから、従来から、グローバリゼーションを擁護するエリートの間では、自由貿易で不利益となるグループへの補償とグローバル・ガバナンスの強化によって問題を克服しようという考え方が根強いわけですが、著者はこの考え方に対しては「手遅れ」として否定的な見方を示します。なぜかといえば、国民の間の民主的熟議を軽視し、国際機関や政府官僚などのテクノクラートに解決を委ねてしまう貿易テクノクラシーになりかねず、そうなれば、英米などに見られるように結果として、貿易に反対するポピュリズムとデマゴーグの台頭を許したと著者は考えているからです。そこで、著者はケインズを引用して、「資本主義は一国の中でのみうまく機能するものであり、国同士の経済交流は国内の社会的、経済的契約を過度に侵害しないよう規制しなければならない。」と主張し、資本主義には国家による経済運営が必要であることを強調します。私が読み終えた現段階で、著者のグローバリゼーションに対するスタンスはこれに尽きます。すなわち、各国の置かれた政治経済情勢の多様性と政策の自由裁量を求める需要を認識した緩やかなルールこそが現実的なアプローチであり、国内の民主的手続きにより市場をコントロールする大きな権限を国内権力である政府に与えれば、グローバリゼーションの効率性と正統性を高めることができる、というわけです。ただ、その場合、世界経済の動向ですから、どの国がリーダーシップを発揮するのか、が気にかかるところです。トランプ政権下の米国には私は無理そうな気がするんですが、同時に、人権の軽視や政敵の抑圧を続ける中国とロシアには、「グローバルなリーダーシップなど発揮できるはずがない」と著者は厳しい評価を下しています。かなりの範囲でこれらの貿易の政治経済学には私も同意します。以上でホントは終わりなんですが、私の興味の範囲で、本書のテーマである貿易とはやや観点が異なるものの、開発経済学的な視点で、著者は明記はせずに、ルイス的な二重経済モデルを持ち出して、ルイス的な用語を用いれば、限界生産性に対してではなく生存水準の報酬を得られる生存部門から、限界生産性に応じた報酬が得られる資本家部門に労働力が移動することにより高度成長が成し遂げられる、という意味での開発は、そろそろ終了ではないかと結論しています。アフリカでは小売やサービスで雇用が拡大しており、製造業が農業からの労働力を吸収するというルイス的な二重経済の発展的解消による高度成長は中国や東南アジアで終了し、南アジアやアフリカなどではリープフロッグ的な経済発展をする可能性を示唆しています。最後に、私の読書感想も飛びますが、経済モデルをダイナミック、というか、動学的にその時々で違うものにするのは、まあ、判らなくもないんですが、そこまでいうと、もはやモデルでも、科学でも、何でもなくなるような気がして怖いです。

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次に、ティム・オライリー『WTF経済』(オライリー・ジャパン) です。著者は、オライリー・メディアの創業者CEOであり、テクノロジー系の技術書の出版には慧眼を示しています。本書の英語の原題は WTF?: What's the Future and Why It's Up to Us であり、2017年の出版です。"WTF" とは最後の翻訳者の解説によれば、感嘆表現 "What the Fuck!?" の略で、「なんじゃこりゃ?」くらいの意味であり、口語ではかなり普及しているとはいえ、結構お下品な表現のようです。ということで、本書では著者は、著者自身が深くコミットしてきたコンピューターの歴史を振り返るところから始め、もちろん、自慢話しも多く盛り込みながら、新しい技術がもたらす "WTF?" という驚きを、悪い驚きではなくよい驚きにし、そして、インターネットやオープンソースソフトウェアの展開に置おいて、著者が果たした、とご自分で考えている役割やその際に適用した考え方や手法などを、新たに出始めている人工知能=AIや大規模ネットプラットフォームにも適用することで、いい方向に向かうのではないか、という主張をしています。ビジネスの世界で大成功した著者のことですから、すでに引退した官庁エコノミストの私なんぞには及びもつきませんが、オープンソースソフトとインターネットの普及により、ウェブが共通のプラットフォームとして普及し、今度はその上で提供されるサービスが重要となり、すなわち、ウェブ2.0に進化し、加えて、利用者の多くがパソコンからスマホをはじめとするモバイルに移行するにつれて、その性質は強まってきているわけで、さらにさらにで、グーグルやフェイスブックやアマゾンはAPIを公開し、他のプレーヤーがサービスを構築するための新たなプラットフォームを提供しつつ、というか、それを足場に、そこで利用者について収集したビッグデータも排他的にビジネスに活用して収益を上げているわけです。他方で、著者も注目しているようなギグエコノミーでの労働者の働き方が、著者の主張するように未来的で望ましいものかどうかは、私には疑問です。典型例はウーバーの運転手であり、市場における力関係は往々にしてそうなんですが、一応、対等なでウィン・ウィンな取引関係の形をとっていても、おカネを出す方の要求におカネをもらうほうが従うこととなります。フリーランス的な自由な労働形態としてもてはやされ、ブラック企業における非正規雇用よりも好ましそうな響きを持ちつつも、雇用の安定性や労働の実態はどこまで評価できるものかは私には疑問です。本書ではかなり偏った視点を提供しているとしか思えません。そういった弱点、疑問点を含みつつも、近い将来のビジネスの方向性については、それなりに参考になりそうな気もします。

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次に、ギデオン・ラックマン『イースタニゼーション』(日本経済新聞出版社) です。著者は、 Financial Times を中心に活動しているジャーナリストです。英語の原題もそのまま EASTERNIZATION であり、2016年の出版なんですが、あとがきには2018年ころのお話が出てきたりします。というのも、邦訳は2018年11月にアメリカで刊行されたペーパーバック版に基づいているからだそうです。本書は、必ずしも経済のトピックではなく、外交やその延長としての軍事・安全保障などにおける東洋、特に中国とインドの台頭について分析を加えています。タイトルはかなり面妖で、ウェスタニゼーションが東洋の国々の西洋化であったのは明らかで、例えば、イスとテーブルの生活や着物を捨てて洋服を着たり、といったことで、はなはだしくは、我が国の鹿鳴館のような活動もあったりしたわけですが、現時点で、西洋の国が東洋の生活様式を取り入れているようなことは私はあまり聞き及びません。まあ、体重コントロールのために日本食が流行ったり、座禅を組んでマインドフルネスな仏教を感じたり、といったくらいのことはあるかもしれませんが、経済社会の中での東洋化が欧米で進んでいるとはとても思えませんので、あまりいいタイトルではなさそうな気がします。まず、アジアや東洋というと、当然に、日本もそのカテゴリーに入るわけで、特に1980年代後半、プラザ合意以降我が国のバブル経済期には、日本経済に着目する動きもありましたが、本書では我が国は明確に台頭するアジアの代表にはなりえないと否定されています。その最大の眼目は人口や市場規模です。日本は人口では中国やインドと1桁違うわけですし、市場規模としても決して大きくないと見なされているわけです。そのうえで、特に、アジアへのピボットを目論んだ米国の第1期オバマ政権の動向、クリントン国務長官やその側近ブレーンなどの取材に基づく米国や欧州のアジア志向を分析しています。もちろん、その先鞭として天然門事件以降の中国の対外開放路線に基づく経済発展、さらに、今世紀の習近平政権からの大国化の路線を跡付けています。とても興味深かったのは、pp.70-71で展開されている習近平政権の中国の互いに関連する3つの思想性で、被害者意識に根ざしたナショナリズム、米国に肉薄する国力への自信の増大、内政の安定と欧州の潜在的な破壊的役割への憂慮、だそうです。私には4点に見えるんですが、最初の「被害者意識」は我が国にだけ向けられているように見えるのは私だけでしょうか。19世紀の英国とのアヘン戦争なんて、メチャクチャえげつないものだったように思え、更にその結果として香港の割譲まであったんですが、英国に対しては、我が国に対するほどの被害者意識は持っていないように私には見受けられるんですが、いかがなもんでしょうか。むしろ、私の単なる印象論ですが、インドの方が英国に対してよくない感情を持っていそうな気がします。それはそうとして、本書でも何度か出てくるトゥキディデスの罠は避けることができるんでしょうか?

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次に、リチャード・ハリス『生命科学クライシス』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストです。英語の原題は Rigor Mortis であり、直訳すれば「死後硬直」です。2017年の出版です。サブタイトルを見る限り新薬開発にフォーカスしているように見えますが、メインタイトル通りに生命科学全般を対象にしているように私には読めました。ということで、創薬をはじめとする新しい医療のイノベーションが進まない現状について警告を発しようと試みています。いろんな論点があるんですが、本書で取り上げられている順に私なりに解釈すると、まず、新訳や新たな医療技術について、その有効性をテストする際の方法の不適切さが強調されています。統計的な検定が不適切だったり、そもそも統計的な検定を行うためのサンプル数が確保されていなかったり、かなり初歩的な無理解がありそうな気がします。本書では、ショッキングな表現ながら、これまで発表された学術論文で間違っているものが多いと指摘しています。ただ、そこまでいわれると、ホントかね、という気がしないでもありません。薬学の場合、作用機序というものを考えて、薬がどのような順序で効果を発揮するかを考えるわけですが、経済学と同じで、実は、モデルにおける因果関係というものは必ずしも明確ではありません。薬ではなく、医療行為に関してはもっとそうです。どうして、この医療行為が効くのかは判らなかったりするわけです。ですから、統計的な有意性が求められるわけで、著者はその棄却水準のp値が5%でいいのか、という点まで含めて疑問を呈しています。サンプル数を60%増やしてp値を0.5%にすべきではないか、という意見のようです。同様に、有効性のテストの再現性も問題とされています。我が国の理化学研究所のSTAP細胞のスキャンダルについても触れられています(p.209)。続いて、実験動物、多くはマウスということになるんでしょうが、マウスで有効だった薬が人間でも有効であるとは限らない、とも主張しています。最後に、研究者の評価のあり方についても批判的です。これは経済学や他の科学分野でもそうなんでしょうが、生命科学の関係では、『サイエンス』、『ネイチャー』、『セル』といったインパクトファクターが高く権威ある学術誌への査読論文で研究者が評価され、数少ないテニュアの研究者ポストを目指さざるを得ない、という意味で、現在の研究者のインセンティブ構造にも問題があると指摘しています。ごもっともです。そして、ひとつの画期的な考えとして、生命科学の進歩のペースを意図的に落とすことさえ選択肢として提示しています。これも、生命科学だけでなく、他の科学や学問分野にも当てはまる可能性があります。先日、4月13日付けの読書感想文で取り上げた豊田長康『科学立国の危機』とは真逆の主張のように見えますが、本書は本書で間違ってはいないような気がします。なぜなら、科学研究を加速するためには、本書の主張のように逆に研究をペースダウンするか、『科学立国の危機』の主張のように研究リソースを画期的に拡大するか、どちらかなのかもしれません。

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次に、ピーター・ブラネン『第6の大絶滅は起こるのか』(築地書館) です。著者は惑星科学を専門とする科学ジャーナリストであり、本書は初めての著書だそうです。英語の原題は The End of the World であり、2017年の出版です。原題の意味は、要するに、現在までの5回の絶滅に続く第6回目の絶滅が生ずれば、それは世界の、とはいわないまでも、人類が今までに到達した文明の終わりを意味する、ということなんだろうと、読後に感じています。ということで、地球が惑星として成り立ち、生命が誕生してから、いままでに5度の大絶滅が生じてきたと解明されています。それが第2章から第6章までのタイトルとなっており、順に解説されています。出版社のサイトから目次をそのままコピペすれば、オルドビス紀末の大絶滅【4億4500万年前】、デボン紀後期の大絶滅【3億7400万年前、3億5900万年前】、ペルム紀末の大絶滅【2億5200万年前】、三畳紀末の大絶滅【2億100万年前】、白亜紀末の大絶滅【6600万年前】、というわけです。最初のオルドビス紀末の大絶滅は宇宙からの殺人光線であるガンマ線バーストの放射とか、氷河湖の決壊による大洪水などが仮設として提出されています。また、宇宙からの放射線の影響はペルム紀末の大絶滅の原因ともいわれています。これらの中でも、一番最近の白亜紀の大絶滅、恐竜の絶滅が当然ながらもっとも科学的な根拠がハッキリしていそうなんですが、1980年にアルバレス父子のグループから提唱された小惑星衝突仮説で決まり、というわけでもなさそうで、インド亜大陸の火山爆発というデカントラップ説も本書では紹介されています。しかし、本書でもお供興味深いのは、過去の5回に渡る絶滅における仮説の紹介や検証ではなく、現在進行系の第6回目の絶滅が始まっているかどうか、さらに、近い将来の絶滅はどのくらいの確度で生じるか、といった将来見通しの方ではないでしょうか。例えば、恐竜が絶滅した白亜期末の大絶滅のひとつ前の三畳紀末の大絶滅の原因は地球の温暖化に起因します。ほぼほぼサンゴは絶滅したんですが、もちろん、すべてが絶滅したわけではなく、細々と生き残った種が現在まで生きながらえていたりするわけです。そして、更新世末の大絶滅【5万年前―近い将来】は進んでいるのかどうか、第1に気候の温暖化は産業革命以降に急速な勢いで進んでいることは確かですし、第2にホモサピエンスの通った後にハッキリと種の絶滅が生じていることも事実です。ただ、本書の著者は人類が滅ぼしたのは190万種のうちのたったの800種だと主張しています。そして、次の第6回目の大絶滅が何の原因で生じるにせよ、人間の寿命という観点からはかなり遠い先の話であることは確かで、その時の人間社会や文明の状況は何ともいえないながら、実際に生命が失われる絶滅というよりは、電気に依存した現代生活を見ても理解できるように、地球環境の変化は文明の喪失をもたらす可能性が高い、と主張しています。私は専門外もいいところですが、そうかもしれません。というか、違っているという主張をするだけの根拠を持ち合わせません。最後にどうでもいいことながら、私はガンプラを通じてガンダムに詳しい倅どもと違って、それほどガンダムの物語は知らないんですが、シャア・アズナブルは何度か、というか、私の知る範囲では、第2次ネオ・ジオン抗争の際に、小惑星5thルナを連邦軍本部所在地であるチベットのラサに落下させたり、あるいは、地球へのアクシズ落としを企んだりして、巨大ではあるものの、こういった爆発物でない単なる物体を地球に落としたところでどうなるものでもあるまい、とシロートなりに考えていたんですが、第6章で恐竜を絶滅させた白亜紀末の大絶滅の原因とされる小惑星の衝突の衝撃をとても念入りに記述してあって、私はそのとてつもないパワーにびっくりしてしまいました。やっぱり、シャアはえらい?

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最後に、辻村深月『傲慢と善良』(朝日新聞出版) です。タイトルは、いかにも、ジェーン・オースティンの代表作『高慢と偏見』 Pride and Prejudice を思い起こさせるものですが、この作家の自負を表しているのかもしれません。男女間の恋愛ないし結婚をテーマにしている点は同じです。作品の中にの明示的に言及があります。『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の第1作です。2部構成で、さらに、最後にエピローグがついてきます。婚約した男女が、結局、最後は結ばれるというハッピーエンドの恋愛小説です。しかし、結婚式の日取りまで決まっていながら、婚約者の女性が失踪します。ということで、第1部は、婚約者の女性に失踪されてしまった男性の視点から、女性の失踪の謎解きが始まります。結局、男性から見た女性は70点で、その前には100点満点の女性に逃げられて、40歳も近くなって結婚に逃げ込んだ印象です。ただ、女性がストーカーという非現実的ですぐにバレる嘘をついたのに気づかない男性も異常な気がします。第2部は失踪した女性の視点でストーリーが進みます。しかし、最後は大甘で、男性は失踪した女性を許す形になり、女性のそんな男性の包容力を受け入れます。私は決してせっかちな方ではないつもりで、私とカミさんが結婚したのも、この作品の男女と同じくらいの年齢でしたし、世代が違うので婚活という言葉もなく、婚活めいたことはしませんでしたし、見合いとかの出会いで断られた時には、全人格を否定するような断り方が不自然ではなかった時代です。加えて、今以上に結婚が男女の恋愛感情だけでなく、経済も含めた打算で決まっていた時代背景です。私は30歳を過ぎて、海外勤務のお話があり、結婚を考えないでもなかったんですが、時代はバブル経済のまっ盛りで、結局、二重の理由で結婚には至りませんでした。すなわち、バブル経済のころは十分に遊べて、結婚するまで不自由していない、という意味で、この作品の男性とよく似た恵まれた状況にありました。逆の面から見て、京大の経済学部を出て公務員なんてセンスのない職業選択に女性からは見えたわけで、「どうして証券会社に就職しなかったの?」というカンジの見方が圧倒的で、経済的な打算から公務員は結婚相手として決して上位には来なかったわけです。1994年に大使館勤務を終えて帰国すれば、バブル経済崩壊の後で学生の就職は超氷河期で、公務員の株が顕著に上昇していてびっくりした経験があります。そこで、私は結婚したわけです。ですから、上から目線の結婚だったかもしれませんし、この作品の男性のような考えは、女性の行動もいうに及ばず、とうとう私は理解できませんでした。世代が違うのでしょうから、この読書感想文は参考にはならないかもしれません。

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2019年5月18日 (土)

今週の読書は経済書中心に『図書館巡礼』も読んで計8冊!!!

10連休のゴールデンウィーク明けにしては、今週はよく読書にいそしんだ気がします。いつもの通り、経済書が中心なんですが、昨日から岩波ホールで「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」が公開されていまして、その関係でもないんですが、図書館に関する教養書も読んだりしています。1日1冊を超えるペースで読んだ結果、計8冊の大量の読書です。

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まず、佐々木実『資本主義と闘った男』(講談社) です。著者は、日本経済新聞記者だったジャーナリストです。上の表紙画像にも見える通り、タイトルの資本主義と闘った男とは、宇沢弘文教授です。本書の指摘を待つまでもなく、おそらく、1960年代にはもっともノーネル経済学賞に近かった日本人であることは明らかです。宇沢の2部門成長モデルは今でも経済成長理論で参照されるモデルです。もっとも、私なんかも理解が容易なソローの新古典派的な成長モデルやもっと単純なAKモデルが一般的な気もしなくもありません。ということで、本書はその宇沢教授の伝記となっています。ただ、宇沢教授の行動でもっとも不可解だったとされる2点についてはまったく解明されていませんので、私は大いに不満です。不可解な2点とは、スタンフォード大学からカリフォルニア大学バークレイ校に移ったのは本書でも指摘する通りの事情なんでしょうが、スタンフォード大学に復帰せずに、何を血迷ったのか、シカゴ大学に移ったのはなぜなんでしょうか。本書では、アロー教授の弟分でいることに飽き足らずに新天地を求めたかのような推測が並べられていますが、それなら、おそらく、宇沢教授と極めて周波数の合致するカリフォルニア大学バークレイ校に留まるのがベストの選択であった気もします。そして、シカゴ大学教授から東大助教授で帰国したんですから、何となく足元を見られた雰囲気もあります。これは、余りに右派なシカゴ大学経済学部に嫌気が差した、というのはかなりの程度に理解できますし、個人的な思想を基にする嫌がらせもあったんだろうと想像できます。いずれにせよ、きちんと進路を考えて1960~70年代に経済学の主流であった米国で研究を重ねれば、宇沢教授がノーベル経済学賞を授賞されていた可能性はかなりあるんではないか、という気がします。しかし、宇沢教授は帰国して東大に復帰し、それからは、経済学の研究よりもアクティビストとして活動することに重点を置いたような気がします。ノーベル経済学賞に関しては、1980年代からは英国で研究を続けた森嶋教授が、そして、1990年代半ばくらいからは林文夫教授が、さらに、21世紀に入ってからは清滝教授が、日本人研究者としてはもっとも近い、といわれるようになったんだろうと私は理解しています。もちろん、ノーベル賞を目指すのが研究者の人生最大の目標とはならないケースはいっぱいあることは私も理解しており、アクティビストとしてもエコノミストを離れて私個人としては、ポジティブなフィードバックを考慮せずに、市場経済が自己調整的に均衡に向かうメカニズムを有すると盲信する右派的な資本主義と闘った宇沢教授はとても尊敬できるところです。それにしても、宇沢教授を取り巻くキラ星のようなエコノミストの面々に私は圧倒されてしまいました。

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次に、ビクター・マイヤー=ショーンベルガー & トーマス・ランジ『データ資本主義』(NTT出版) です。著者は、オックスフォード大学オックスフォード・インターネット研究所の研究者とドイツのビジネス誌 brand eins のジャーナリストです。英語の原題は Reinventing Capitalism in the Age of Big Data であり、2018年の出版です。ということで、本書の著者は人間の本質について調整を行うこととして捉え、従来の市場では極めて単純化された価格という貨幣単位での評価により財・サービスの交換、というか、資源配分が行われていたんですが、ビッグデータの時代になり、データリッチ市場が出現するに及んで、価格という貨幣単位だけで単純に評価されていた商品が膨大なデータを参照することにより、過剰な簡略化を逃れて最適な配分に調整されるようになる未来、近未来、というよりもすでにいくぶんなりとも実現されている事実を明らかにしています。そして、著者は経済の中で、市場は分権分散型であるのに対して、企業は集中型であるとのモデルを提示し、富国生命の保険支払査定業務へのAI導入をやや揶揄しつつ、ダイムラーの意思決定組織のフラット化について高く評価しています。データリッチな企業経営を実践したいのであれば、富国生命のようにAIをパーツとして導入するのではなく、ダイムラーのように組織としてデータリッチネスをうまくいかせるような組織にする必要がある、という意味で、集中型の企業の意思決定を分権分散型にする必要を指摘しています。しかし、エコノミストが考える市場とは、まさに情報の塊であって、著者は少しバイアスのかかった見方を示しているとしか私には考えられません。ですから、市場が本来の資源配分の効率性を発揮するためには情報がいっぱいあった方が望ましいのはいうまでもありません。ただ、現実にはGoogleやAmazonやFacebookやといったインターネット企業は情報独占により巨大な収益を上げていることも事実であり、本書の著者はスーパースター独占企業と呼んでいますが、こういった企業に対してはアルゴリズムの公開よりも、情報の共有を促す仕組みが必要と指摘します。そのための基礎はすでに機械学習により出来上がっているという評価です。そして、ここから先は付加的な部分で、データ資本主義とは関係薄くて、やや飛躍するようにも見えますが、社会生活の基礎としてユニバーサル・ベーシックインカム=UBIを提唱しています。私はこれに大いなる理解を示すものです。ただ、ここ10-20年ほどの労働分配率の低下と資本の蓄積が加速しているという事実、ピケティ教授らの指摘する不平等の拡大については、やや違った見方を示しています。これは私には理解できませんでした。

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次に、アジェイ・アグラワル & ジョシュア・ガンズ & アヴィ・ゴールドファーブ『予測マシンの世紀』(早川書房) です。著者は3人ともカナダはトロント大学ロットマン経営大学院の経営戦略論やマーケティングの研究者です。エコノミスト的な考え方が随所に見られます。英語の原題は Prediction Machines であり、2018年の出版です。ということで、タイトルにある予測マシンとは、ズバリ人工知能=AIのことであり、本書の著者はAIとは予測マシン=Prediction Machinesであると位置づけています。これは、AIについて考える際のひとつの前進だという気がします。というのは、今まで、AIについては幽霊のように実態について、あるいは、その作用に関して、特に考えるでもなく、単純に恐れたり、軽視したりしている考えがまかり通っているからです。ビッグデータという定義のない表現をするかどうかはともかくとして、膨大な量のデータを処理して、データがいっぱいある前提の大量のパラメータを推定して、かなり正確な予測を行い、それをAIが、あるいは、人間が判断を下す、というプロセスを明確にしています。ただ、私からすればまだ足りない部分があり、それは評価関数を人間がAIの外から与えるか、それとも、AI自身が決めるか、ということです。おそらく、ホントのAIは後者なんでしょうね。というのも、本書でも登場しますが、MicrosoftのTayが学習の過程でナチス礼賛とか、差別的な学習結果が示された事実があります。そして、AIはほぼほぼ制限のないデータ処理と評価関数の設定により、かなり急速に人類の知能を上回る可能性があります。もっとも、この場合の「知能」も定義が必要なんでしょうが、通常の意味で、例えば、人類の知能はイヌ・ネコを上回る、位の意味で定義も十分ではないかと私は思いっています。そうすると、何が起こるかといえば、例えば、ここでも哺乳類を考えて、ウシについては、その昔の濃厚の動力の提供という重労働からは逃れたものの、ウシ、特に雌ウシ独特の昨日である搾乳、あるいは、雄ウシの場合は牛肉の提供に供されるわけです。ニワトリの場合も、メスが卵の提供、オスはウシと同じで鶏肉の提供が主たる眼目となって飼育されているのは広く知られている通りです。もう少し知能が高いと、例えば、イヌ・ネコのようにペットの地位に上ったりしています。おそらく、人間とAIの関係も知能の高さの差に従って、こういった現時点における人類と哺乳類の関係になぞらえることができると私は予想しています。もちろん、ひとつの可能性として、哺乳類ではなく鳥類ですが、北米のリョコウバトのような運命が待っている可能性も否定できません。ですから、本書でいう予測マシン=AIの未来は、単なる予測ではなく、新しい知能の誕生と考えるべきだと私は考えています。あるいは、ハードウェアのマシンではなくソフトな技術について考えれば、自動車の自動運転が主流になれば、現在のような人間が手動運転する自動車は、現時点の馬術のような扱いになるような気もします。いずれにせよ、本書で考えるようなトレードオフについては、人間から見たトレードオフであって、AIから見ると違う観点がありそうな気もします。不安な未来についても、"But Who Will Guard the Guardians?" ではないんですが、AIを制御するAIが必要になりそうな気がします。

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次に、持田信樹『日本の財政と社会保障』(東洋経済) です。著者は東大経済学部の研究者です。今年3月の退官ではないかと記憶しています。相も変わらず、財政学の権威が我が国の財政赤字を問題にし、持続可能な財政とその最大の支出項目のひとつである社会保障について分析しています。すなわち、問題意識としては、財政赤字の解消とまでいわないまでも、その縮減を目指して、「中福祉・中負担」を標榜しつつも、実体は「中福祉・低負担」となっている財政・社会保障の姿を、ホントの「中福祉・中負担」にすべく財政や社会保障を改革することは可能か、また、より規範的には、そうせねばならない、ということに尽きます。確かに、一般論として、財政赤字がフローで垂れ流され、ストックで積みあがっていくのは、何らかのショックに対して脆弱そうに見えて、財政のサステイナビリティの観点から均衡に近づけたい、というのは私も理解します。ただ、他方に、やや極端かつ圧倒的な少数派ながら、米国の大統領候補を目指す民主党の予備選に出ていたサンダース上院議員の経済スタッフのケルトン教授らが主張する現代貨幣理論(MMT)も注目され始めており、この根本的な均衡財政の必要性から解き明かして欲しい気もします。というのは、少なくとも、両極端を考えて、初期条件から財政赤字がなく、従って、国債残高がゼロであれば、中央銀行の金融オペレーションが成立せず、指標金利が得られませんから、金融政策が運営できません。もちろん、逆の極端は財政が破綻して、資本や資金の海外逃避やハイパー・インフレのケースです。その間のどこかに最適解があるハズなんですが、不確定な経済学ではそれを探し当てることが出来ません。悲しきエコノミストなわけです。繰り返しになりますが、私は決してMMTを支持しているわけではありません。むしろ、boodooエコノミクスだとすら思っています。さて、本筋に戻って、本書では、マクロの財政経済データやマイクロな国民生活基礎調査のデータを用いたフォーマルな計量分析がなされていますが、根本的な財政赤字の最適ラインは、もちろん、算出されていません。最後に、立命館大学の松尾教授の従来からの主張ではありませんが、財政や税制を考える際に、右派は税金を多く徴収して財政支出を削減しようという方向であるのに対して、左派は減税と財政支出の増加を志向します。「もっとカネをよこせ」ということです。財政や税制に関する本を読む場合に、これを念頭に置くと、とても理解が進んだりします。もうひとつ、私の観点ですが、需要について考えるのは左派エコノミストであり、供給サイドを重視するのは右派エコノミストです。これも時折役に立ちます。

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次に、スチュアート・ケルズ『図書館巡礼』(早川書房) です。著者は、作家・古書売買史家とされていますが、私はよく知りません。英語の原題はズバリ The Library であり、2017年の出版です。ということで、私はおそらくかなりの図書館ヘビーユーザではないかと自覚しているんですが、本書の著者ほど図書や図書館に対して愛情を持っている読書家は出会ったことがありません。もちろん、本書にはさらに強烈な愛書家がいっぱい登場します。世界の図書館の歴史といえば、アレクサンドリア図書館があまりにも有名なんですが、そのアレクサンドリア図書館ができる前の本のない時代にボルヘスによって想像されたバベルの図書館のような空想上の図書館から図書館の歴史を始めています。でも、もちろん、事実上の図書館の歴史は第2章のアレクサンドリア図書館から始まります。入港した船から書物や巻物が押収され、もちろん、コピーを取った上で、原本が図書館に留め置かれ、コピーが元の場所に返却される、という専制君主らしいやり方が印象的です。図書の材質がそもそも羊皮紙やパピルスですし、デジタル技術はもとよりアナログのコピーもありませんから、書写生が手で書き写す必要があります。当然です。さらに時代が下って、画期的であったのは、1573年モンペリエの勅令により、フランス王国における出版については法定納本制が敷かれた点です。少し遅れて英国でもオックスフォード大学に納本する制度が始まっています。我が国でも、国会図書館への納本義務についてはかなりの国民の間に知識として普及しているんではないでしょうか。こういった納本制の効果もあり、21世紀に入って図書館版のムーアの法則が成り立つそうで、15年ごとに蔵書が2倍に増加すると本書の著者は指摘しています。もちろん、第5章で取り上げられているように、さかのぼること15世紀に印刷技術が発明されて1500年ころにはロンドンに5社が印刷所を展開していたそうですから、この辺りから本格的な出版ラッシュ、というか、図書館にも納本されるようになり、現在見られる本棚に縦置きするというのは画期的なイノベーションだったようです。図書の出版と図書館の蔵書の増加は、当然ながら、常に順調に進んだわけではなく、第6章ではバチカン図書館がカール5世軍により破壊された点が指摘されています。もちろん、その後も火災による被害などもあることは忘れるべきではありません。いずれにせよ、図書館は単なる図書の倉庫ではなく、読書階級が読書するとともに図書を借り出し、加えて、有識者たり司書が働く知的な場所であり、私が利用するような公的な図書館だけでなく、本書に登場するような愛書家や読書家が収集したコレクションを収納していたりもしますから、公立私立の別を問わず図書館は知の集積場という性格を持つことは当然でしょうし、場合によっては、建物についてもそれなりに壮麗な建築だったりもします。収納された図書とともに建築そのものも、大きな知的価値を持っていたりもするわけです。経済学の用語でいえば、メチャメチャな外部経済を持っているといえます。小説でも、本書でよく取り上げているのはエーコの『薔薇の名前』とトールキンの『指輪物語』なんですが、ともに図書や図書館が重要な役割を演じています。ただ、最後に、現在の図書のデジタル化や電子図書の普及に対して、図書館がどのようなポジションにあるのか、包括的でなくとも著者の見識を示して欲しかった気もします。いずれにせよ、私は図書館の利用がもっと盛んになるように願っています。

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次に、ローラ J. スナイダー『フェルメールと天才科学者』(原書房) です。著者は米国セント・ジョーンズ大学の歴史と哲学の研究者です。英語の原題は Eyes of the Beholder であり、普通の高校英語では、"Beauty is in the eye of the beholder." の慣用句で習うんではないでしょうか。原書は2015年の出版です。ということで、本書では、17世紀の半ばから後半にかけてオランダがデルフトを舞台にした画家・画商のフェルメールと顕微鏡の製作者であり顕微鏡を用いたさまざまな新発見に貢献した科学者のレーウェンフックの同い年の2人を主人公とした歴史ノンフィクションです。主人公の2人が友人とか顔見知りであったかどうかは史料がありませんが、フェルメールが不遇のうちに負債を残して没しった後に、レーウェンフックがその遺産管財人に任じられているようですから、何らかのつながりはあったものと著者は推察しています。ということで、同じオランダのデルフトの同い年の2人に共通するものとは、まさに英語の原題の通りに、一般には目に見えない何かを見る力であったと著者は考えているようです。画家で画商でもあったフェルメールは、レンズと鏡とカメラ・オブスクラを駆使して、極めてていねいに作品を仕上げています。我が国では、本書冒頭の図版にも収録れている「牛乳を注ぐ女」や「真史の耳飾りの少女」が有名ですが、歴史に残された記録を調べても生涯に45程度の作品しか残さなかったようですし、現存していて確認されるのは35作品にしか過ぎないとされています。じつは、今年2019年2月まで東京展が、そして、ゴールデンウィーク明けの5月まで大阪展が、それぞれ開催されていたフェルメール展なんですが、「日本美術史上最多の9点」が売りの文句になっていて、「9/35」という表示もあり、たった9点という評価は当たらないのだろうと思います。また、科学者のレーウェンフックは我が国ではフェルメールよりも知名度が少し低いんではないかと私は想像していますが、顕微鏡でありとあらゆるものを観察して生物の自然発生説にとどめを刺したり、それらのおびただしい数の観察結果を論文に取りまとめてロンドンの王立協会に送りつけて、最後にはとうとうフェローに任命されて大喜びしたりと、デカルト的に理性だけで結論を出そうとするのではなく、ベーコン的に観察に基づいて事実から結論を引き出す姿勢が、他の人物による再検証可能性の担保とともに、とても近代的な科学の真髄を象徴している気がします。本書の主人公が生きた17世紀半ばから後半にかけての時代は、我が国では鎖国が完成した一方で、清とオランダだけには門戸を開き、その後は蘭学という形での西洋科学の摂取に向けた時代であったわけですが、当時の江戸幕府がオランダを西洋唯一の貿易相手国、あるいは、西洋文明の窓口に選んだのは、なかなかの慧眼だったのかもしれません。

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次に、井坂理穂・山根聡[編]『食から描くインド』(春風社) です。チャプターごとの著者は、大学の研究者が多く、歴史や文化人類学や文学の専門家であり、もちろん、地域研究の研究者も含まれています。タイトルに見られる「インド」は、大きなインド亜大陸を指して使われているようで、表現は悪いかも知れませんが、英国の植民地だったころのインドとの見方も成り立ちそうです。ですから、特に、宗教についてはイスラム教の食への影響も着目されています。本書は3編構成であり、英国による植民地支配とナショナリズムの観点、文化や文学に見るインドの食、食から見たインド社会、といった感じで私は読みました。まず、我が国でも明治維新とともに食生活や食文化は大きく変化し、一般には西洋化が進んだわけですが、インドでも独立時に同じように西洋化が進むという方向性がある一方で、逆に、インドの独自性を守ろうとする方向性もあったようです。そして、植民市時代には、英国人メムサーヒブの料理が紹介され、ゴア出身のキリスト教徒の料理人が重宝された、との見方も示されています。我が家も、ジャカルタ在住時にはキリスト教徒のメイドさんを雇っていて、豚肉に対するタブーなどが一切なかったのを私も記憶しています。本書には明記してありませんが、我が家の経験ではジャカルタでは複数のメイドさんを雇う場合、料理人がメイドさんの頭として扱われ、お掃除などをするメイドさんを、場合によっては、指揮命令下に置くこともあると聞いたことがあります。インドではどうなんでしょうか。そして、食に関する本書の議論に戻ると、チキンティッカー・マサーラーに関して、英国発祥の料理がインドに持ち込まれたのか、それとも、インド伝来の料理なのか、といった議論も紹介されています。4冊の伝統的な料理書、すなわち、『料理の王』、『料理の月光』、『料理規則の鏡』、『広範な料理の知識』といった本が紹介されています。ただ、日本人が考えるように、すべてがカレーというわけではありません。食に起因する社会会問題としては、第8章で飲酒が取り上げられています。アルコール度数の低い現地酒であるアラックが労働者階級のエネルギー源となっていたのは少し驚きました。もちろん、イスラム教における豚肉のタブーについても人るのチャプターが割かれています。私は豚肉に関するイスラム教徒のタブーはユダヤ教から受け継いだものだろうと理解していたんですが、本書ではそのあたりの由来は不明としています。最後に、本書でももう少し図版が欲しかった気がします。顔写真は何枚かあるんですが、料理そのものや、もちろん、調理器具、あるいは、食器なども実物や歴史的な書物の紹介図を見れば、もっと理解がはかどりそうな気がします。

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最後に、レグ・グラントほか『世界史大図鑑』(三省堂) です。各ページをじっくり読むというよりは、カラー図版を眺め渡すことを主眼とする図鑑です。ここ2-3週間の読書で、図版が欲しいと読書感想文に書いたケースが散見されていますが、その反動というわけでもなく、ついつい、近くの区立図書館で借りてしまいました、三省堂の大図鑑シリーズの1冊であり、このシリーズにはほかに、経済学、心理学、政治学、哲学、社会学などがあるんですが、なぜか、物理学や化学などは一括化されて科学で1冊にまとめられていたりしますし、変わり種としては『シャーロック・ホームズ大図鑑』なんてのがあったりもします。ということで、本書は、編年体で6部構成であり、第1に人類の起源として20万年前から紀元前3500年くらいまで、そして、第2に古代の文明として紀元前6000年から西暦500年くらいまで、第3に中世の世界として500年から1492年まで、第4に近世の時代として1420年から1795年まで、第5に近代という意味なんでしょうが変わりゆく社会と題して1776年から1914年まで、最後に第6にコンテンポラリーな現代の世界として1914年から現在まで、という形で、少し重複を含みつつ、構成されています。タイトル通り、世界史についての図鑑であり、アルタミラの洞窟壁画から、今世紀に入ってからの同時多発テロや世界金融危機まで。世界の歴史において重要な意味をもつ104の出来事を取りあげ、オールカラーの図解と写真でわかりやすく解説してあります。解説はそれほど専門的でもありません。また、我が国や西洋先進国をフォーカスするだけでなく、アジア・アフリカのトピックや第2次世界大戦後のイベントにも多くのページを割いており、21世紀の視点から人類の起源以来の過去を俯瞰する「世界史」の見方を展開しています。ただ、トピックごとの図版ですから、それらのリンケージを探ろうとするグローバル・ヒストリーの観点は希薄な気もします。ただし、現代の関心に合わせて、人口増加や気候や環境の変化など、人類史を通じて長期的に重要な意味をもつトピックも取り上げていますし、各章末に「もっと知りたい読者のために」というコラムを第6部の後の巻末に設け、さらに60のテーマに関して簡潔に解説を加えています。もちろん、索引なども充実しています。それぞれの関心や必要性に応じて、いずれかのテーマの大図鑑を買い求めるもよし、私のように図書館で借りてザッと眺めるもよしで、いろんな利用方法があるような気がします。

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2019年5月11日 (土)

今週の読書は左翼エコノミストの経済書をはじめとして計6冊!

月曜日が10連休の最終日だったとはいえ、ほぼほぼゴールデンウィークも終わって、今週の読書は、左翼的なエコノミスト・アクティビストの経済書をはじめとして以下の6冊です。今日の土曜日も、いいお天気で気温も上がった昼間のうちに自転車で周辺図書館を回り終えており、来週も数冊は読みそうな予定です。

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まず、ラジ・パテル『値段と価値』(作品社) です。著者は、英国生まれで現在は米国テキサス大学で経済学の研究者をしています。研究だけでなく、ジャーナリストとして情報を発信したり、アクティビストとして1999年シアトルにおけるWTO閣僚会議に対する抗議行動を組織したことでも有名です。英語の原題は The Value of Nothing であり、2010年の出版です。ということで、本書では、マルクス主義の影響も強く見られ、シカゴ学派に代表されるような現在の主流派経済学が圧倒的に支持している市場における効率的な価格付けを認めていません。例えば、マクドナルドのビッグマックは日本では390円、スイスは728円、エジプトは195円で販売されていますが、実は、森林保全などの環境、あるいは、ほかの社会的コストを加えて試算すると、助成金なども含めて、原価だけでも200ドルを超える、といった説を持ち出すとともに、市場の公正さに関する疑義も呈しつつ、市場経済に対する疑問を並べています。私もこれは気になっているところで、労働者の賃金を低く抑えて、労働分配率を引き下げつつ、現在に日本では企業が果てしなく内部留保を溜め込んでいます。これは、市場に分配機能が備わっておらず、政府の介入が必要な根拠とされてきましたが、実は、市場が公正な価格付けに失敗している、というのが本書の著者の主張です。そうかもしれません。そして、現在の民主主義社会におけるマネーの役割は、教育を受けたり、病気の際に医者にかかったり、食料を買ったりすることを通じて、社会で自由になるための権利である、とも主張しています。これはその通りです。しかも、私が従来から指摘している通り、民主主義は1人1票で決定する原則なんですが、市場経済は利用可能な購買力で加重平均された決定となります。最後に、著者はかなりの程度に直接民主主義的な市民参加を通じて、例えば、ポルトアレグレの市民参加型予算などの例を示し、直接行動の重要性を訴えます。ただ、私の目から見て、フリーソフトウェアは少し違う気もします。いずれにせよ、経済だけでなく、広く現代社会の暗部を直視し、その解決に向けた方策を提示しており、我が国でももっと広く読まれるべき書だという気がします。

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次に、リチャード・ブックステーバー『経済理論の終焉』(パンローリング) です。著者は、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズなどの投資銀行、また、ヘッジファンドでリスク管理の責任者を務めた後、米国財務省の勤務を経て、現在はカリフォルニア大学で研究者をしています。英語の原題は The End of Theory であり、2017年の出版です。本書についても、先の『値段と価値』と同じように、合理的なホモ・エコノミクスを前提とするシカゴ学派的な主流派経済学を批判し、タイトル通りに、少なくとも金融論においては経済理論は終焉し死んだと結論しています。その上で、表紙画像にあるように、エージェントベースのモデルを再構築し、理論に基づいた構造パラメータに依存するモデルではなく、新たな変化に対応して柔軟に構造パラメータを変更できるような、というか、ここまでくると構造パラメータではなくなるわけですが、柔軟なモデルを提唱しています。私はすでに定年退職して、もう官庁エコノミストではなくなりましたし、不勉強にしてエージェントベースのモデルというのは理解がはかどりませんが、要するに、代表的な個人を1人だけ想定する主流派経済学ではなく、異質な個人の集団を考える、ということなんだろうと思います。でも、金融に関しては、本書でも指摘している通り、流動性の出し手の問題がある一方で、本書では指摘していない取引の調整速度の問題もあります。メチャクチャに調整速度が速いわけです。それを、言葉は悪いんですが、エッチラオッチラとモデルを修正することで調整スピードに追い付けるかどうかは、実務的に疑問が残ります。ただ、そういった現実の金融動向に即した調整可能なモデルの構築が有効であろうとは直感的に感じます。もうひとつ疑問なのは、異質な個人がヒューリスティックに解を求めようとするかどうかです。異質であるがゆえに、ヒューリスティックでない方法で、カーネマン教授のいうシステム2で解を求める可能性があるような気もします。いずれにせよ、本書で著者が指摘する現在の主流派経済学のモデルに関する難点はかなり当たっていて、異質な個人から成る上にかなり複雑でアルゴリズムで解明できない人間の判断をモデル化するのに、現在のような著者のいう「演繹的で公理的な手法の妥当性は低くなっていく」のは事実だろうと思いますし、リカーシブで柔軟なモデルがより妥当性高い可能性は否定できません。しかし、実際の危機の際に有効かどうかは経験が不足している気もします。

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次に、齊藤孝浩『アパレル・サバイバル』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ファッション流通コンサルタントで、専門は店頭在庫最適化だそうです。その著者の主張によれば、アパレル業界では10年おきくらいにパラダイムシフトがあり、最近では、1998年ころにユニクロなどのSPA型のビジネスモデルの展開が始まり、2008年のH&Mの日本上陸に始まるファストファッションのブームも2018年にそのH&M1号店が閉店して終了し、時代はオムニチャンネルなどのデジタル展開が始まる、というわけです。私自身のワードローブを見ても、確かに、フルタイムのキャリアの公務員だったころから、まあ、行政職ではなくて研究職の官庁エコノミストだったせいもあって、オフィスに着て行く洋服までもユニクロとGUが多かったような気がします。オックスフォードのボタンダウンシャツをトップに着て、ボトムスはチノの細身のパンツ、季節によってはソフトジャケットを上に着て、クールビズではない季節でもネクタイを締めることもなく、足元はリーガルのビジネスシューズなんぞはとっくに脱ぎ捨てて、一応、皮革製ではあるもののあんまりビジネス向きではない靴を履いたりして、時には、デッキシューズにベリーショートのソックスを合わせることもありました。今や、定年退職したパートタイマーですので、かなり服装は乱れています。自分のことはさて置いて、本書では、アパレルの小売ないし流通と、アパレルに限定されない小売業ないし流通を、ややごっちゃに論じているところもありますが、アパレルの今後の方向を探る上でとても参考になりました。例えば、H&Mといったファストファッションから、さらに低価格を思考し都市型のPRIMARKのようなウルトラ・ファストファッションがロンドンで移民も顧客対象としつつ展開しているとか、オンラインでウルトラ・ファストファションを牽引するASOS、あるいは、著名ブランドの過剰在庫をキャッシュで買い取ってディスカウント販売するT.J.Maxxなどの巨大なオフプライスストア、などなど、著者は、日本では欧米先進国から10年遅れでトレンドを追いかける傾向があると指摘しますが、こういったアパレルの業態が今後は日本でも出てくるのかもしれません。最後は、もちろん、Eコマースの展開です。ただ、我が国のZOZOタウンについては、ZOZOスーツの失敗などがあり、著者が考えるほど順調には伸びていない印象もあります。さらに、オンライン販売については、AMAZONがそうだったように、洋服やファッション・アイテムというよりは、書籍やCDなどのように大きな差別化がなされていない商品から始まるような気もしますが、いずれは洋服やアクセサリなどの嗜好性の強い財にも広がるのは確実です。ブランドへのロイヤリティをいかに形成し維持するかはマーケターの腕の見せ所かもしれません。

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次に、アランナ・ミッチェル『地磁気の逆転』(光文社) です。著者はカナダのトロント在住で、ニューヨーク・タイムズやCBCラジオなどで活躍する科学ジャーナリストです。本書の英語の原題は The Spinning Magnet であり、2018年の出版です。本書では、地磁気の謎に挑んだ歴史上の科学者たちの業績を追いながら、そもそも磁力とは何なのか、なぜ地球は巨大な磁石となっているのか、そして、何よりも、なぜ磁気逆転が起こるのか、加えて、来るべき磁気逆転の危機を前にいかに備えるべきか、などなどについての考察を進めています。地磁気、というか、磁場研究については、私のような専門外の人間でも知っているのが第15章のファラデーと第16章のマクスウェルではないでしょうか。でも、右手の法則だとか、左手の法則だとかのファラデーの研究成果を数式で簡単明瞭に示したのがマクスウェルだとは知りませんでした。ただ、歴史を離れて磁気や地磁気の研究に関しては、私にはとても難しく、例えば、本書のテーマである地球磁場の逆転については、p.240に簡単な説明があって、3段階を経ることとされており、双極子成分が弱まり、すなわち、S極とN極の差が小さく不明瞭になり、次に、磁極が地球の反対側にすばやく移動し、最後に、双極子成分が再び大きく成長する、ということになります。各段階に数百年かかる可能性も示唆されていますし、正確なことは誰にも判らないそうです。直近の地磁気の逆転は67万年前に起こり、100年で逆転が終了したという研究もある一方で、1万年かかったという研究も少なくないようです。ですから、私のような専門外に者に地磁気の逆転が正確に理解できるはずもなく、雰囲気として感じ取れるだけ、という気もします。自然科学の分野でこのように経済学のように曖昧模糊とした分野があるとは知りませんでした。もっと、天文学の星の運行のように未来永劫まで正確に予測できるんだと思っていましたが、いずれにせよ、地磁気の逆転に関しては不明な点が多いようです。そして、何らかの要因で地磁気が乱れると、まあ、大規模な逆転までいかないとしても、多くの動物の行動に影響を及ぼすとともに、スマートに制御された電気の配電などにも強烈なインパクトがあります。コイルと磁石で発電しているんですから当然です。私のようなシロートから見て、それを防ぐ方法はないような気もします。まあ、よく判らないながらも恐ろしいことだという感覚は伝わって来ました。最後に、本書にはまったく図版が用意されていません。私の理解がはかどらなかった要因のひとつかもしれません。シロート向けとはいわずとも、地球磁場のマップくらいは欲しい気がします。

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次に、中川越『すごい言い訳!』(新潮社) です。著者は、編集者を経てエッセイストになっていますが、手紙に関する著作が多いようです。ということで、本書は文豪や名だたる評論家・エッセイストの手紙の中から、言い訳に関するものを集めています。7章建てとなっていて、恋愛、お金、無作法の詫び、頼まれごとの断り、失敗や失態、ありがちなケース、の横断的な6章に加えて、最終章は夏目漱石の言い訳を集めています。基本パターンは何らかの不都合、すなわち、浮気の発覚とか、借金返済の滞りとか、作品がかけなくなったりとか、などなどに対して詫びをいっておいて、それでも、責任回避をしたり、不都合のように見えるが実は不都合ではない、といい張ったりするわけです。もちろん、「記憶にない」という言い訳の横綱を持ち出したり、言い訳が逆効果になったりする例もあります。こういった言い訳を、最終章の夏目漱石はいうまでもなく、名だたる文豪や評論家などの筆で生計を立てている有名人の手紙から抽出していますので、表現力が豊かな上に、そもそもがいわゆる芸術家ですから、私のような一般ピープルとは違って、表現する前の発想がそもそも常識を超えている場合もあったりします。さらに、そういった言い訳をする場合でも、というか、言い訳をする場合だからこそなのかもしれませんが、人柄や性格といったものが手紙ににじみ出ているような気がします。そして、中にはこういった著述業を生業とする有名人の文才にしてすら苦しい言い訳も散見され、いろんな人生があるものだと実感させられます。私は、文豪などの言い訳を数多く拝読して、今後の人生で使うことがあるかもしれない、などといった下心がなくもなかったんですが、巻末の「おわりに」で著者がしみじみと「なるほど言葉は、言い訳は、極力控えるのが賢明です。」というのが結論なのかもしれません。

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最後に、杉本昌隆『弟子・藤井聡太の学び方』(PHP文庫) です。著者は8段のプロの棋士であり、何冊かの将棋本も出版していますが、それよりも、タイトルや上の表紙画像からも理解される通り、藤井聡太七段の師匠としても有名です。子弟ともに名古屋周辺の東海在住です。昨年2018年2月に単行本として出版された第30回将棋ペンクラブ大賞受賞作品の文庫本化です。ということで、今さらながら、史上最年少で中学生のプロ棋士になり、プロデビュー後の29連勝、1年間で3回の昇段、朝日杯将棋オープン戦で史上2人目の連覇などなど、将棋界を超えて広く一般に知名度を上げ、数々の記録を塗り替えて、一大ブームを巻き起こした藤井聡太七段の師匠がいかに弟子を導いたのか、がテーマとなっています。本書でも着目している「思考力」、「集中力」、「忍耐力」、「想像力」、「闘争心」といった将棋の棋士として必要な資質に加え、「自立心」や「平常心」も含め、決して棋士として将棋に強くなるために必要、というだけでなく、将棋を離れても人間として大成し、人生を豊かにするために欠かすことができません。一応、私も教員の経験があり、地方国立大学の経済学部2年間出向し、最大400名ほどの学生を相手にする講義を受け持った記憶もありますが、大学教授というのは決して勝負師ではありませんし、勝負師を育てるわけでもありません。ただし、お金を払って教えを請うアマチュアを、お金を取れるプロに仕立て上げるという点では同じです。そこは、小学校や中学の教師と大学の教員の違いです。その意味で、決して勝負師を育てるわけではありませんが、お金を取れるプロに育てるという点については、同様の経験をしたつもりです。でもやっぱり、違いは大きいです。第4章が読みどころです。私が育てたのは平凡極まりないサラリーマン予備軍ではないかと思いますが、そうではなくて、その世界のトップになるには努力だけでは足りないわけで、持って生まれた才能というものの大切さと、それに気づく感性の重要性を理解できた気がします。

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2019年5月 4日 (土)

ゴールデンウィーク10連休の読書はさすがにたくさん読んで計8冊!

今週はゴールデンウィーク10連休で、さすがにかなり大量に読みました。経済専門書やテキストから進化心理学、ミステリっぽいエンタメ小説、新書に短編ミステリを収録した文庫本、などなど、以下の通りの計8冊です。やや短めの読書感想文を取りまとめています。

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まず、ローレンス・サマーズほか『景気の回復が感じられないのはなぜか』(世界思想社) です。上の表紙画像を見ると、何か、いかにも英語の原題が The Enigma of the Elusive Recovery であるかのような誤解を与えかねないんですが、私の想像するに、本書の原書に当たる本は出版されていないんではないかと思います。原書は存在せず、VOX や各論者のブログサイトにアップされた記事、また、テキストが入手可能な講演などをもとに邦訳を施したのであろうと私は受け止めています。その意味で、邦訳に当たった山形氏は翻訳者であるとともに、編集者なんだろうと思います。同時に、解説もしていたりします。ということで、いわゆる長期停滞論 Secular Stagnation、1930年代にハンセン教授が提唱した考えを現代に応用したサマーズ教授と、それに対する反論を提示したバーナンキ教授、さらに、コメントを寄せるクルーグマン教授の見方を紹介しています。すなわち、いわゆる Great Recession 以降の景気の低迷について、このまま放置すれば構造的な経済の停滞に陥ると警告し、財政政策の出動によるインフラ整備の必要性を論じるサマーズ教授に対して、通常の景気循環に異なる特徴は必ずしも多くなく金融政策で対応可能と反論するバーナンキ教授、さらに、ややサマーズ教授寄りの論陣を張るクルーグマン教授、という形になっています。私は、基本的に、バーナンキ教授の見方が正しいと感じており、ラインハート-ロゴフの This Time Is Defferent は、なくはないものの、それほどお目にかかれる機会は多くない、と感じています。ただ、ケインズ的に表現すれば、「嵐が過ぎれば波はまた静まるであろう」ではダメなわけであり、景気循環のひとつの局面だから何もしなくていい、ということにはならないと考えます。

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次に、 後藤和子・勝浦正樹[編]『文化経済学』(有斐閣) です。著者は、基本的に、文化経済学ないし経済学そのものの研究者です。タイトル通りに、文化経済学のテキストです。テキストとして、学部レベルなのか、大学院博士課程前期レベルなのかは、個々のレベルによるのかもしれません。文化経済学のテキストとしては、私の大学生のころにはすでに存在しており、ボウモル&ボウエンによる舞台芸術のパラドックスを取り上げたものでした。私の大学生の時には、芸術とは4分野であり、絵画や彫刻をはじめとする美術、小説などの文学、お芝居や舞踏などの舞台、そして、誰でも判りやすい音楽です。今では、これらはハイカルであり、これらに属さないアニメやマンガや映画などはサブカルに分類されます。文化経済学の厄介なところは、余りに外部経済が大きく、産業活動のようにGDPなどの統計で把握することが難しい点です。外部経済が大きいので、それなりに公的部門からの助成も必要ですし、スタジオなどのインフラ整備も欠かせません。官庁エコノミストをしていた私からすれば、メインストリームの経済学とはとても感じられませんが、インバウンド消費のもととなる観光産業への示唆も含めて、とても重要な分野に成長する可能性を秘めている気がします。

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次に、竹信三恵子『企業ファースト化する日本』(岩波書店) です。著者は、ジャーナリスト出身で、今は大学の研究者です。上の表紙画像に見えるサブタイトルのように、本書は安倍内閣が進める働き方改革に対する疑問や反論を提示しています。たじゃ、ジャーナリスト出身の著者ですから、統計を用いての計量的な分析ではなく、ケーススタディに終止しているんですが、どうも、ケースの選択が恣意的な気もします。特に、私が考える資本主義的な働き方改革とは、傾向的な利潤率の低下の果てに、絶対的剰余価値の生産に資する改革といえます。ですから、本書でも指摘されているように、長時間労働の容認が主たる内容になります。この点で本書の指摘はとても正しいんですが、ケーススタディの例がよくありません。教員やパートタイム公務員を取材していたんでは、働き方改革の本質に迫るには距離がある、といわざるを得ません。私は工場に働くブルーカラーが労働者の真髄だとは思いませんが、広く絶対的剰余価値の生産について取材することの必要性を痛感しました。着眼点も論旨も問題ないんですが、控えめにいっても、迫力のない単なる著者の心情の吐露に終わっています。

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次に、アラン S. ミラー & サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス』(パンローリング) です。著者は、いずれも米国の研究者です。進化心理学ですから、遺伝子の保存がすべてのクライテリアで、それを基にホモサピエンスを考えるんですから、セックスと結婚がすべてとなります。しかもしかもで、それでとてもよく我々の行動原理を説明できるんですから、なかなかに手強い相手かもしれません。私は進化心理学には圧倒的に反感を覚えていて、種の保存にここまで重点を置くのには反対です。その前に個の保存も必要なわけで、闘争に勝ち抜けるような暴力的な男性は遺伝子を残せる可能性が高くなるのは事実かもしれませんが、暴力的であれば個の存在を危うくする可能性も高まります。相打ちになって3番目の個が遺伝子を残す可能性もあるわけです。いずれにせよ、進化心理学的なセックスと結婚観は私には大いに疑問です。

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次に、葉真中顕『W県警の悲劇』(徳間書店) です。男尊女卑で旧態依然たる警察組織の中でも、特にセクハラなどが横行して後進県的な雰囲気の強いW県警における女性警官の活動をメインテーマにしています。特に、W県警初の女性警視となり、さらに警視正に昇進し県警部長に就任するとともに、念願の円卓会議に出席を果たす女性警察官の昇進と転落をさまざまな視点から描き出しています。なお、円卓会議とは、23年で異動するお飾りのキャリアの県警本部長に代わって、県警を実質的に動かす影の組織なんですが、これがそもそも組織防衛や隠蔽工作に熱心と来ています。ということで、基本は連作短編集となっていて、それほど本格的ではないにしてもミステリ短編です。もっとも、謎解きというよりも、極めて巧みに読者をミスダイレクションする小説の方が目立ちます。ややネタバレながら、特に第2話の「交換日記」は我孫子武丸『殺戮にいたる病』に肉薄する出来栄えだという気がします。一方で、千春の正体はそれほど難しくなく判るんではないかと思います。私が気がかりなのは、第1話の最後で失踪した警察官については、とうと最後まで謎解きがなされませんでした。ひょっとしたら、続きがあるのかもしれません。それから、読者によっては読後感の悪い「イヤミス」と受け止める向きもありそうな気がしました。

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次に、市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書) です。著者は、東大人文研の研究者であり、もちろん、専門はユダヤ宗教だったりします。歴史、宗教、学問、社会あるいは経済からと、いくつかの視点からユダヤ人とユダヤ教について解説を加えています。私の歴史感覚や宗教感覚からすれば、ユダヤがローマ帝国に敗れ去った際に、ユダヤ人の信仰していたメシアはとうとう現れず、ユダヤ教はもうダメだ破綻した、というところからキリスト教が始まったんだと思っていましたが、まあ、私ごときシロートの考えですから少し違うようです。それから、十戎でも何でもいいんですが、殺すなかれとか、利子の禁止とかは、あくまで同朋、というか、同じ宗教の信者の間でのお話であって、キリスト教徒は聖地奪回のための十字軍でイスラム教徒をいっぱい殺しているんでしょうし、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間で利子付きのの貸借が行われていても不思議ではありません。もう一度、私のシロートなりの解釈ですが、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、遺伝子によってユダヤ人の特徴が語られるんではない、と認識しています。ですから、ユダヤ人論は人文研で宗教を基礎として研究されていて医学部で遺伝や優生学的な研究が行われているわけではない、と私は理解しています。

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次に、折原一ほか『自薦 THE どんでん返し 3』(双葉文庫) です。シリーズ3作目の自薦による、どんでん返しの短編ミステリ集です。タイトル通り自薦です。執筆陣が、 折原一、北村薫、鯨統一郎、長岡弘樹、新津きよみ、麻耶雄嵩の6人ですから、とても豪華な短編アンソロジーです。それから、このシリーズからのスピンアウトとして「新鮮THEどんでん返し」というシリーズも誕生しています。2017年暮れの発売で、私も読みました。

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最後に、ロバート・ロプレスティ『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』(創元推理文庫) です。本邦初公開の作家の作品集です。レオポルド・ロングシャンクスこと、シャンクスなるミステリ作家を主人公とする連作短編ミステリ集です。本邦初公開ですから、もちろん、私も初めて読んだんですが、これは掘り出し物です。

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2019年4月28日 (日)

ご寄贈いただいたバルファキス『黒い匣』(明石書店)の読書感想文など!

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2日続けての読書感想文で、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。ご寄贈いただきました。栞には「訳者 謹呈」とあり、訳者のうちのどなたかからちょうだいしたものと思いますが、本書の訳者は私の独断では、People's Economic Policy で意見ホウメイしていらっしゃる先生方が多いのかな、と感じています。少なくとも、訳者代表で訳者解説を書いている立命館大学の松尾匡教授と本書の訳者筆頭の朴勝俊教授は両方に重なっています。
前置きが長くなりましたが、本書の著者のバルファキス教授はゲーム論を専門とするエコノミストであり、とても申し訳ないながら、本書よりもむしろダイヤモンド社から出版されている『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』で有名だという気がします。そして、本書との関係でいえば、財政破綻後のギリシアに成立したチプラス首相のシリザ政権で財務相を務め、国際通貨基金(IMF)、欧州共同体(EU)、欧州中央銀行(ECB)のトロイカとの交渉に当たっています。
さらに、読書感想文に入る前の私の研究業績の自慢話ですが、長崎大学経済学部に日本経済論担当教授として出向していた時に、私は財政関係やギリシアの財政破綻に関して、いかの紀要論文を取りまとめています。繰り返しになりますが、自慢話です。


まだまだ続く自慢話ですが、私はこういった財政学に関する紀要論文を取りまとめていますので、大学出向中に財政学担当の准教授の教授昇進を審査する資格審査委員会に名を連ねたりしました。資格審査委員会を選任した教授会で私は居眠りしていて、自分が選ばれたのを知らなかったりしましたが、それな別のお話で自慢にはなりません。
ようやく、読書感想文の本論に入ります。本書ではバルファキス教授の本領発揮で、リベラルで左派的な経済学では何を目指すかが明確に示されています。すなわち、財政破綻した政府が、メチャクチャに限定された財政リソースを使って支払いをすべき対象は、果たして、トロイカや先進各国にあるギリシア国債を有する銀行なのか、あるいは、ギリシア国内の年金生活者や社会保障給付を受けている恵まれない市民なのか、ということです。著者が交渉に当たったトロイカ担当官は前者に対する支払いを優先し、ギリシア国内の貧困層への支払いを劣後させます。果たして、それが正しい経済政策なのか、答えは明らかだろうと思います。そして、トロイカの担当官は4%の経済成長と4%のプライマリ・バランス黒字をギリシアに命じますが、この2つは激しいトレードオフがあり両立は極めて困難です。後者の財政黒字を達成するためには、財政支出の切り詰めか税収の大幅増が必要ですが、そんなことをすれば成長が犠牲になります。確かに、2009~10年ころは放漫財政のギリシア政府をバッシングする雰囲気が国際社会では強く、ギリシアの財政政策は借金返済にはまだまだ生ぬるい、という論調が強かったのも事実です。先ほど引用した私の2番めの紀要論文「ギリシアにおける財政危機に関するノート」ではこういった論調に反論しており、2010~11年の2年間で「GDP7%の財政調整は、極めて大きな額に上る」とし、「野心的」と評価しています(ともに、p.175)。つまり、当時の「生ぬるい」との論調に迎合することはせず、基本的な規模感は本書のバルファキス教授と同じと受け止めています。

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何らかの流動性不足に陥って、IMFなどの国際機関からの借り入れに頼り、厳しいコンディショナリティを課された国においては、IMFは常に怨嗟の的であり蛇蝎のごとくに嫌われています。ということで、私のもうひとつの体験はジャカルタにあります。すなわち、上の画像では、アジア通貨危機の際に外貨不足に陥ってIMFからのクレジットに頼ったインドネシアの当時のスハルト大統領がIMFのカムドゥッシュ専務理事が見下ろすもとでLOI (Letter of Intent) に署名しています。本書で、MOU (Memorandum of Understanding) と称されているモノと同じだと思います。そして、本書では登場しないものの、スティグリッツ教授などが指摘するごとく、こういったワシントン・コンセンサスが正しいとは、私はとても考えられません。私の従来の主張ですが、国際機関の代表者は、例えば、IMFの専務理事などのように加盟国による投票で選ばれるとはいえ、民主主義的な選出過程によって選ばれる主権国家の政府代表を上回る権力を行使するのは、民主主義と資本主義の不整合ないし矛盾によるものです。民主主義はあくまで基本的人権に基づく1人1票の選挙で決定しますが、資本主義は株主総会的な購買力による加重平均で決定します。この矛盾が解消されるのは、現在の資本主義を何らかの方法で改良するしかありません。

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本書では、緊縮財政に対する反論が主要な通奏低音をなしていますが、その意味で、本書の訳者である松尾教授や朴教授らの『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) にも私は大いに期待しています。およそ1ト月後の5月23日の発売と聞き及んでいます。官庁エコノミストであったころから、私は自分を左派であると位置づけてきており、金融政策も同じですが、財政政策に関しては左派が拡大のバラマキ大いに結構に対して、右派は緊縮であり、左派はハト派であり、右派はタカ派です。そして、これも私の従来からの指摘ですが、現在の我が国安倍政権は政治的外交的には極めて右派的なんですが、経済政策についてはとても左派的です。さらに、ついでに、我が国の政治的な左派は経済的には緊縮財政や財政均衡を目指しているかの如き志向があり、とても右派的です。私の目には不思議に映ります。もっとも、私のもうひとつの経済政策に関する左右両派に関する視点、すなわち、右派は供給サイド重視で左派は需要サイド重視、というのは、我が国の現状に当てはまる気もします。

最後の最後に、還暦を過ぎたエコノミストのたわ言かもしれませんが、本書の著者であるバルファキス教授のような左派エコノミストにして政治の実践家、ということでは、京都出身の私は昔の蜷川虎三知事を思い出します。我が母校である京都大学経済学部の教授にして、京都府知事を7期務めた大先輩です。

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2019年4月27日 (土)

今週の読書は経済書や『左派ポピュリズムのために』をはじめ計8冊!

今週は、以下に9冊リストアップしていますが、読んだのは実は8冊です。最初に置いたのは、ご寄贈いただきましたのでフォントも大きくして宣伝に努めております。今週の読書は経済書に加えて左派応援書もあります。経済成長懐疑的なタイトルの本もありますが、中身はジャーナリストらしくキチンと整理されたもので、闇雲に反経済学的な内容では決してありません。今日から10連休という人も多いような気がしますが、私は特に遠距離の外出はしませんし、読書感想文は定例の土曜日に限らず随時アップし、いつも通りに、読書とスイミングに励みたいと思います。ブログに取り上げる予定の経済指標の公表は米国雇用統計くらいのもので、日本国内の経済指標公表は少しの間お休みです。

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まず、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。しかしながら、ご寄贈いただいたのですが、先月末の定年退職前に私が在籍していた役所の研究所にお届けいただき、私の手元に来るまで少しタイムラグがありましたので、誠に恥ずかしながら、読み始めたものの読み終わっていません。2段組みで600ページ近いボリュームですので、かなりの読書量を誇る私でも時間がかかっています。今日から始まる長いゴールデン・ウィーク中には何としても読み終えて、貴重なご寄贈本ですので単独にて取り上げたいと予定しています。それほど時間はかからないつもりですので、今しばらくお待ち下さい。

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まず、クリス・ヒューズ『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』(プレジデント社) です。本書の英語の原題は First Shot であり、2018年の出版です。著者のクリス・ヒューズは、何といっても、ハーバード大学に進学しマーク・ザッカーバーグのルームメイトとなり、ファイスブックの共同創業者から億万長者となったことで米国でも有名であり、次いで、その巨万の富を足がかりに、2008年の米大統領選でオバマ陣営のネット戦略を指揮したり、リベラル系の老舗雑誌を買収して経営に乗り出したりしています。本書は、基本的には、著者の半生を綴った自伝なんだろうと思いますが、アメリカの堅実な中流家庭に育った努力型の秀才と自称しつつ、自身の半生を振り返っていて、恒例の方の自伝のように自慢めいた部分がなくはないものの、自身の半生で、あるいは、米国の経済社会で、反省あるいは修正すべきポイントもいくつか提示されています。例えば、ですが、ザッカーバーグのルームメイトという運の良し悪しが、ファースト・ショットとして、何世代も継承されるような格差を生む「勝者総取り社会」に疑問を感じ始めます。フェイスブックの株式公開により巨万の富を得た点は、宝くじに当たったようなものだと自覚しています。ほとんどの米国人はこういった幸運に恵まれず、自動車事故や入院などのための緊急出費も捻出できないのに、他方で、幸運を持って億万長者になれる、それはそれで、米国的なサクセスストーリーなのかもしれませんが、そんなことが可能になる社会は何かが歪んでいると考えています。私はこれも健全な思考だと受け止めています。そして、著者自らの富と経験を注ぎ込んで、米国ではなく、サックス教授らと発展途上国における経済開発の実践に取り組んだりしています。それらの結果として、解決策が年収5万ドル未満層への保証所得にあるとの結論に至っていますが、同時に、所得制限なしのユニバーサルなベーシックインカムには否定的です。その原点は職業的な天命のようなものにあるんではないか、とうかがわせる記述がいくつかあったりします。私自身は、著者の主張するような「負の所得税」まがいの保証所得ではなく、ユニバーサルなベーシックインカムが正解だと考えています。というのは、著者は職を持って働いて、何らかの賃金、というか、所得を得ることの重要性を指摘しているわけですが、それは取りも直さず資本主義的な経済活動への参加を促しているわけです。私は、必ずしも経済活動でなくても、例えば、無償のボランティアなどの社会参加活動でもOKだと考えています。もちろん、私のような考えには、現在も存在する生活保護を悪用するような反社会的組織のようなものがつけ込むスキがあったりするわけですが、所得を得られる敬愛活動だけでなく、必ずしも金銭的な報酬を目的とせず、広く社会参加活動を重視すれば、やっぱり、ユニバーサルなベーシックインカムの方がより優れた制度ではないでしょうか?

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次に、デイヴィッド・ピリング『幻想の経済成長』(早川書房) です。著者は Financial Times をホームグラウンドとする英国のジャーナリストであり、東京支局長の経験もあります。英語の原題は The Growth Delusion であり、2018年の出版です。ジャーナリストらしく、GDP/GNPがクズネッツ教授により開発された歴史なんぞをひも解きつつ、GDPないし経済統計の正確性や計測すべきポイントなどを明らかにした上で、経済政策の目指すべきポイントについての議論を展開しています。類書では、経済統計のメインをなすGDPについて否定したり、あるいは、エネルギーや環境とのサステイナビリティの観点からゼロ成長を推奨したりといった、私のようなエコノミストの目から見てメチャメチャな経済成長否定論ではなく、GDPの統計としての把握のあり方と現在の経済活動とのズレ、あるいは、GDP出は買った経済規模と国民の幸福感のズレ、などを正面から議論の対象にしています。まず、本書では自身がなかったのか、明記していませんが、スミスの『国富論』では経済社会における富とは製造業だけが生み出せるものであり、サービスはまったく無視されていた点は重要です。20世紀に入ってクズネッツ的なGDP/GNPではサービスは当然に経済活動に含まれて、生産高に算入されるわけですが、本書でいえば、第5章に明記されているように、インターネットの普及に伴って、一部のサービスが専門業者の生産から家計で生産するようになって、GDP/GNP統計に反映されなくなったのは事実です。例えば、従来でしたら旅行代理店に行って宿の手配をしていたところ、家や職場からインターネット経由でホテルの予約ができるようになっています。また、Airbnb や Uber などのシェアリング・サービスの普及もGDP/GNPの観点からは成長率の押し下げ要因となる可能性があります。ただ、これらが国民生活の幸福度や利便性の観点からマイナスかというと、そんなことは決してありません。逆に、選択肢の増加などによって幸福度にはプラスの影響すらありえます。こういった観点からインターネットやモバイル機器を使いこなす若者の幸福観を論じたのが、日本でいえが古市憲寿だったりするわけです。こういった統計としての限界、というか、GDP/GNP統計が開始された時代から経済モデルが明らかに変化したわけですから、新しい統計が必要なわけで、統計家かエコノミストがサボっているのか、あるいは、能力が不足しているのか、新しい指標がまだ出来ていないわけです。そこで、ブータン的な幸福度指標が注目されたりするわけですが、本書でも疑問を呈しています。主観的な幸福度を政策目標にすることについては私はハッキリ反対です。極めて極端な主張かもしれませんが、健康状態が悪くて寿命が短くても、消費生活が貧しくても、識字率が低くても、薬物により主観的な幸福度が高ければOK、ということになりかねないからです。ですから、主観的な幸福度あるいはエウダイモニアではなく、客観的な生活の利便性や豊かさ指標のようなものを国民の合意により形成する必要があると私は考えています。健康指標、文化指標、もちろん、経済指標などの組み合わせからなる総合的な社会指標の統計が必要ではないでしょうか?

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次に、伊藤元重『百貨店の進化』(日本経済新聞出版社) です。著者は我が国を代表するマクロ経済分野や国際経済学の権威の1人です。なぜに、百貨店についての本を書いているのかは不思議な気もしますが、百貨店協会創設50週年で20年前に百貨店の本を書いているようですし、私の記憶でも『吉野家の経済学』の共著者だったように覚えていますから、こういった経営的な分野もお得意なのかもしれません。ということで、バブル崩壊直後の1991年に売上のピークを迎えて、その後はいわゆるジリ貧状態にあり、売上げだけを見れば、百貨店よりもコンビニの方が伸びているわけながら、百貨店の草分けともいえる三越をはじめとして、いわゆる老舗のお店が少なくない、というのも百貨店業界だったりするわけで、著者も、100年継続する企業であるからには、それなりに時代の変化への対応力があるんではないか、と示唆しています。確かに、アマゾンや楽天などのネット通販に加えて、メルカリなどのネットを通じた中古品販売も急成長しており、ジリ貧の百貨店業界とは好対照をなしている一方で、アマゾンがリアルの実店舗の展開を始めたりしているのも事実です。もちろん、これだけ外国人観光客の訪日が増加してる中で、インバウンド消費の恩恵に預かれるのは、ネット通販ではなく実店舗、特にドラッグストアと百貨店であると私も聞いたことがあります。逆に、成長著しいアジアをはじめとする海外展開も必要です。我が家が今世紀初頭にジャカルタで3年間暮らした折にも、ジャカルタにあるそごうですとか、シンガポールの高島屋に足を運んだ記憶があります。我が家のジャカルタ生活から20年近くが経過し、インターネットの普及や発達とともに消費者が利用可能な情報は飛躍的に増加しており、消費者の選択の幅も広がっている一方で、消費の実店舗の場合、いまだに集積に一定のメリットがありますから、レストランのように隔絶した世界にある一軒家のレストランでの消費は別にして、物販の消費の場合は集積した百貨店やショッピングモールに利便性が認められるのも忘れるべきではありません。アパレル製品、特に、婦人服と一蓮托生で成長を享受してきた百貨店の歴史はその通りなんでしょうが、高齢化と人口減少が進めば消費のパイは確実に減少を続けます。その小さくなる一方のパイの奪い合いの中で、本書にはない視点ながら、「働き方改革」の進行する中で、個人消費者相手に休日が少なく営業時間が長い百貨店が、どのような経営戦略を持って成長を図る、あるいは、地盤沈下を食い止めるのか、私自身は百貨店は大好きですし、それほど買い物はしないまでも、モノではなくコトを消費する場として重要だと考えていますから、これからの合従連衡の業界集約とともに、本書のタイトル通りの「百貨店の進化」に期待しています。

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次に、シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(明石書店) です。著者はベルギー出身で現在は英国ウェストミンスター大学の研究者です。英語の原題は For a Left Populism であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳といえます。2018年の出版です。私は少し前まで、県庁エコノミストにして左派、というビミョーな立ち位置にあったんですが、そのころから、立命館大学の松尾匡教授のご著書などを読むにつけ、かなり硬直的と言うか、教条的な左派の訴えに対して、もっと国民の幅広い層から指示されるような経済政策を提示すべき、と考えてきたところで、本書は、経済学ではなく政治学的なアプローチながら、基本は同じような発想に基づいているような気がします。ということで、極めて正しくも、戦後の政治経済史について、本書では1970年代までの経済が順調に成長してきた時代について、福祉国家の拡大、労働運動の前進、完全雇用の政治的保証といったケインズ的な経済政策に支えられたものと捉え、そのケインズ主義的な経済政策が1970年代の2度に渡る石油危機でインフレが進む中での景気後退というスタグフレーションにより終焉し、新自由主義的な経済政策が取って代わった、と理解しています。すなわち、本書の著者のホームグラウンドでいえば英国保守党のサッチャー政権であり、本書では登場しませんが、米国ではレーガン政権なわけです。我が国では中曽根内閣といえるかもしれません。そして、英国のサッチャー政権の炭鉱ストに対する態度は、これまた、本書には登場しませんが、米国レーガン政権の航空管制官ストに対する姿勢と基本的な同じなわけです。そして、こういった新自由主義的な経済政策を背景に、企業活動が野放しに利潤追求を行い、そして、経済格差が拡大したわけです。しかしながら、2007~08年の Great Recession の中で、大銀行は政府から資本注入を受けて救済される一方で、教育や社会福祉といった政府支出は大いに削減され、不景気による失業の増大も相まって、国民生活は急速に悪化を示したわけですから、新自由主義的な経済政策も破綻した、と考えるべきです。そして、2016年の英国のBREXIT国民投票や米国大統領選挙でのトランプ大統領の出現、あついは、フランス大統領選挙での国民戦線の躍進をはじめとする大陸欧州でのポピュリスト政党の支持拡大などにより、ケインズ的な福祉国家、新自由主義に続く第3の段階が始まったわけです。そして、本書では、ポスト構造主義とマルクス主義をブリッジする理論的な政治学のフレームワークを提供しようと試みています。それが、ラディカル・デモクラシー、あるいは、本書の著者の表現を借りれば、民主主義の根源化、ということになります。これだけを見ると、日本社会に即せば講座派的な二段階革命論に近い気がして、私は好感を持ちました。民主主義は1人1票という完全平等論に基づいていますが、資本主義は購買力、すなわち、手持ちの利用可能な貨幣量によってウェイト付された平等観です。ですから、資本主義をラディカルに民主主義化することが必要で、それは社会主義革命に先立つわけです。二段階革命論の正当性といえます。ただ、経済学に基づく経済政策も実践的かつ経験的な面が大きいんですが、政治学というよりも、本書のターゲットは政治的な運動論でしょうから、経済学よりもさらに実践的かつ経験的な結果を出すことが求められます。ですから、今後の左派政党による実践を待ちたいと思います。

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次に、ヘレン・トムスン『9つの脳の不思議な物語』(文藝春秋) です。著者は医学部出身ながら医者ではなく、英国のジャーナリスト・サイエンスライターです。英語の原題は Unthinkable であり、2018年の出版です。単純なものであれば、命令にも必ず従ってしまう「ジャンパー」と呼ばれる人々がいる、というウワサのような情報からお話が始まり、最後もそれで締めくくられます。その中で、邦訳タイトルにあるように、人間の脳に関する9つの奇妙な症例について、その症状を呈しているご本人や周囲の人に対するインタビューなどを通じて明らかにしようと試みています。本書でも何度か言及されているように、オリバー・サックスの著書のような趣きがあります。ということで、それが第1章から第9章まで並んでいて、具体的に章タイトルを上げると、第1章 完璧な記憶を操る、第2章 脳内地図の喪失、第3章 オーラが見える男、第4章 何が性格を決めるのか?、第5章 脳内iPodが止まらない、第6章 狼化妄想症という病、第7章 この記憶も身体も私じゃない、第8章 ある日、自分がゾンビになったら、第9章 人の痛みを肌で感じる、となります。古典古代から、人間らしい心や知能の働きは頭の脳ではなく、心臓に宿ると考えられていましたが、現在では脳の働きとされていることは広く知られている通りであり、同時に謎の多い分野でもあります。各省全部を取り上げるわけにもいきませんが、例えば、第1章では生後9か月から、日々の完全な記憶がとどめられている症例であり、逆にいえば、忘れるということの意味も同時に問うています。第2章では自分の家で迷子になっておトイレにも行けないような症例、一般的には方向音痴と称される例の極端なものが取り上げられます。もちろん、逆に、『博士が愛した数式』のように、極端な短期しか記憶がとどめられない例も取り上げられています。こういった脳の働きにおけるいくつかの症例を取り上げつつ、必ずしも、以上と成城の議論には深入りしていませんが、やや関心も向けつつ、議論を進めています。私の関心が向いたひとつの例は第4章で、特に、育った環境の異なる双子についても、かなりの性格の一致が見られる、というものです。それだけを取り上げると、性格は環境ではなく遺伝子で決まる、と結論しそうになりますし、私の実体験としても、我が家の倅2人の兄弟について見るにつけ、遺伝子の働きは偉大だと感じずにはいられませんが、その遺伝子がどのように受け継がれるかについては少し疑問も残ります。また、何らかの問題行動、反社会的な行動、あるいは、ハッキリと犯罪行為があった場合などについては、本人の意思や判断の免罪を主張するようで、違和感もあります。すなわち、およそ地球上で最高の治世を持つと考えられる霊長類の人類にして、単なる遺伝子の運び手であるとすれば、いったい、自分とは何なのか、最後の究極の疑問に突き当たる気もします。

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次に、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』(角川書店) です。作者の作家デビュー30周年を記念して、平成最後にいろいろと、というか、ハッキリいって、脈絡なく、作者ご自身の単行本未収録作品を集めています。「有栖川作品の見本市」というのが宣伝文句ですし、上の表紙画像にその雑多な雰囲気が見られると私は考えています。この雰囲気は、先週の4月20日付けの読書感想文で取り上げた山内マリコの『あたしたちよくやってる』と似ているんですが、『こうして誰もいなくなった』は小説のみを収録していて、エッセイなどは含んでいません。作者ご本人の前口上にもあるように、ファンタジー、ホラー、本格ミステリがグラデーションをなすように並べられているようで、発表順といった編年体とかではありません。ただ、未収録作品集だけに、作者のシリーズに登場する江神二郎とか、火村英生といったおなじみの名探偵は登場しません。まあ、仕方ないんでしょう。収録作品は以下の14編で、最後の本書タイトルと同じ表題作は短編というよりも、独立した単行本として発行されてもおかしくないような内容の本格ミステリで、後述の通り、クリスティ作品『そして誰もいなくなった』を下敷きにしていますが、結末は大きく違っています。ということで前口上が長くなりましたが、収録作品は、「館の一夜」、「線路の国のアリス」、「名探偵Q氏のオフ」、「まぶしい名前」、「妖術師」、「怪獣の夢」、「劇的な幕切れ」、「出口を探して」、「未来人F」、「盗まれた恋文」、「本と謎の日々」、「謎のアナウンス」、「矢」、「こうして誰もいなくなった」となっています。なお、あとがきに作者ご本人から、かなり詳しい解説が提供されていますので、立ち読みの範囲でもかなりの情報を得ることが出来そうな気がします。なお、作者ご自身の単行本に未収録とはいえ、何らかのアンソロジーに収録されている作品も多く、逆に、ラジオ番組の朗読用原稿なので今まで活字になっていない作品もありますが、私は4話が既読でした。収録順に、「線路の国のアリス」は推理作家協会編集のアンソロジー『殺意の隘路』にて、また、「劇的な幕切れ」はアミの会(仮)編集のアンソロジー『毒殺協奏曲』にて、「未来人F」は『みんなの少年探偵団 2』にて、「本と謎の日々」は『大崎梢リクエスト! 本屋さんのアンソロジー』にて、それぞれ読んだ記憶があります。特に、「劇的な幕切れ」が収録されている『毒殺協奏曲』は、つい今月の4月7日付けの読書感想文で取り上げています。でも、やっぱり、もっとも印象的なのは表題作の「こうして誰もいなくなった」です。130ページ余りの本書の中でも最大のボリュームですし、クリスティ作品と同じく通信の途絶した孤島での連続殺人事件です。不勉強な私にはお初の登場で、響・フェデリコ・航という奇抜な名探偵が登場します。同じ京都系の新本格ミステリ作家である麻耶雄嵩作品のメルカトル鮎に少しネーミングが似ていて、事件解決に邁進します。江神二郎とか、火村英生と同列に論ずるべき名探偵ではないかもしれませんが、密かにシリーズ化することを期待している読者もいそうな気がします。私は江神二郎と火村英生の2人で十分です。ひょっとしたら、火村英生だけでも十分かもしれません。

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次に、佐々木閑『大乗仏教』(NHK出版新書) です。著者は京都にある花園大学の仏教学科の研究者であり、仏教に対するかなり柔軟なお考えの持ち主と私は見ました。青年と講師の間の問答形式に基づく講義の形で議論が進み、最後の補講で『大乗起信論』パッチワーク説が明らかにされます。仏教は、本書では別の用語を用いていますが、いわゆる小乗仏教と大乗仏教に分かれて、後者が北伝仏教と呼ばれるように、中国や我が国に入って来ています。それなりのボリュームの信徒数を誇る世界の3大宗教たる仏教をわずかに2分類するのはムリがあり、キリスト教をカトリックとプロテスタントとギリシア正教の3分類するくらいの粗っぽさだという気がしますが、その大乗仏教が護持する経典であるお経についての解説書と考えても本書は成り立つような気がします。そして、本書の著者の論を待つまでもなく、仏教は釈迦の提唱した原始仏教から、本書の副題である「ブッダの教えはどこへ向かうのか」の通り、かなり大きく変容しており、それはそれで宗教として民衆の役に立っている、というのが本書の著者の議論だと私は受け止めています。大乗仏教も小乗仏教以上に釈迦の唱えた原始仏教から離れているのも事実だろうと思います。本来は、輪廻転生の中で釈迦やブッダに出会って菩薩となり、仏教的な修行を始め自らもブッダになることを目指すのが仏教的な道なんでしょうが、私の信奉する浄土真宗や浄土宗などは単に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで輪廻転生から解脱して極楽浄土に生まれかわれる、とする教義ですし、本書でも座禅を中心教義、というか、中心となる修行と考える禅宗は修行の宗教といえます。そして、禅宗は中国発祥であり、インド発祥ではなく、釈迦の始めた原始仏教から直接に派生したものではありません。まあお、それをいい出せば、大乗仏教がすべてそうなんでしょうが、その仏教の多様性こそが中国や日本で受け入れられたひとつの要因ながら、逆に、日本の仏教はヒンズー教に極めて近いと著者は主張し、それゆえに、仏教が創始されたインドにおいて仏教がヒンズー教に取って代わられたゆえんである、とも指摘します。このあたりは私にはよく理解できませんでした。でも、釈迦やブッダに出会って仏教に覚醒し、菩薩として修行を始める、というのが、釈迦やブッダに代わって真実の書であるお経に出会うことに変容し、それ故に、お経に対する「南無妙法蓮華経」というお題目が日蓮宗の信徒に広まったのも、この年齢に達して初めて知りました。私はすべての日本人が仏教徒ではないことは理解しているつもりですが、日本の文化や風俗の中にかなりの程度に仏教的な、釈迦の提唱した原始仏教ではないにしても、日本的に変容した仏教がベースになっている部分もあり、本書の値打ちはそれなりに高いと受け止めました。

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最後に、アガサ・クリスティ『ミス・マープルと13の謎』(創元推理文庫) です。火曜日クラブの延長戦なのか、始まりなのか、いわゆる安楽椅子探偵のミス・マープルの13の事件に渡る謎解きが楽しめます。100年近い、というか、90年前に原作がアガサ・クリスティによって書かれ、60年ほど前に邦訳書が出版されているそうですが、創元推理文庫創刊60周年記念による新訳刊行だそうです。大昔に読んだ記憶がないでもないんですが、クイーンの国別シリーズ、コチラは角川文庫からの新約とともに、やっぱり、文章が読みやすくてスンナリと頭に入ってくるような気がします。収録されている短編は、「<火曜の夜>クラブ」、「アシュタルテの祠」、「消えた金塊」、「舗道の血痕」、「動機対機会」、「聖ペテロの指の跡」、「青いゼラニウム」、「コンパニオンの女」、「四人の容疑者」、「クリスマスの悲劇」、「死のハーブ」、「バンガローの事件」、「水死した娘」の13話であり、最後の作品だけは夜に語られたものではなく、スコットランドヤードの元警視総監であるヘンリー・クリザリング卿にミス・マープルが犯人名を書いたメモを託して、ヘンリー卿が地元警察の捜査に同行したりします。まあ、短編ですから、とてもアッサリとミス・マープルが謎を解き明かしてしまうのは、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、謎の中身は割と殺人事件も少なくなく、さすがのクリスティ作になるミステリだと感じさせます。

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2019年4月20日 (土)

今週の読書は『ピケティ以後』をはじめ、計7冊ながらボリュームたっぷり!!

今週は、『21世紀の資本』という話題の高かった経済書を発行から3年後に振り返る、というビミョーな位置づけの経済書をはじめとして、パットナム教授による米国の宗教についての社会学分析など、以下の通りの計7冊です。ただ、『ピケティ以後』とパットナム教授の『アメリカの恩寵』はともに、大判の書物で600ページを超えるボリューームでしたので、それぞれが通常の2冊分くらいに相当しそうな気もします。今週もすでに自転車で図書館を回り、来週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、ヘザー・ブーシェイ & J. ブラッドフォード・デロング & マーシャル・スタインバウム[編]『ピケティ以後』(青土社) です。5部22章から構成され、600ページを超える大作です。編著者と章構成などは出版社のサイトに詳細が示されていますが、このサイトにも本書にもかなり誤植があります。これは後ほど。ピケティ教授の『21世紀の資本』については、フランス語の原書が2013年、英語の翻訳版とその英訳版からの邦訳版がともに2014年に出版され、その後3年を経ての余波、功罪、真価などについて問い直そうと試みています。本書の英語の原題は After Piketty であり、2017年の出版です。ということで、まず、『21世紀の資本』のおさらいから始まります。すなわち、r>gが成り立てば経済成長に基づく所得よりも資本からの利得のほうが上回るため、その要因による格差が拡大すること、米国などのスーパー経営者のスーパーサラリーなどを見ても理解できるように、1%の富裕層では資本所得よりも労働所得のシェアが高いものの、0.1%の富裕層になれば資本所得が圧倒的な部分を占め、そのため、相続に基づく世代間の格差拡大の連鎖がポジティブにフィードバックしかねない、などです。これらのおさらいを含めつつ、最終章のピケティ教授自身からの回答を別にしても4部21章にして600ページを超える大著であり、しかも、チャプターごとに著者が異なっていてテーマもさまざまなわけですので、ハッキリいって、出来のいいチャプターとそうでないのが混在しています。最後の山形浩生さんによる訳者解説でかなりあからさまに記述されているように、奴隷やフェミニスト経済学のようにできの悪いチャプターも少なくないですし、ピケティ教授の格差論や経済学とは何の関係もなしに、あるいは控えめにいっても、ほとんど関係なしに、ご自分の持論の展開に終始しているチャプターもいっぱいあります。それらのチャプターを見渡して、私の見方でも訳者解説と同じで、第16章と第17章は出来がいいと思います。特に、第16章はムイーディーズ・アナリスティクスの計量モデルに基づく議論は一番の読み応えがあります。それでも、やや結論が楽観的で格差の弊害を軽視している点は懸念が残ります。でも、貯蓄率の変動を介して格差が景気循環に対してプロサイクリカルに作用するという視点はその通りだと私は受け止めています。また、エコノミストの目から見てなのかもしれませんが、第Ⅳ部の政治経済学的な見方は参考になりました。資本主義の根本となる私有財産制がいかにして理論付けられてきたか、というのは根本的な問いかけに対する答えのような気がします。最後に、誤植が多いです。やや知名度に欠ける出版社なので仕方ないかもしれないのですが、要請と妖精は誤植にしてもヒドい気がしますし、反トラストとせずともアンチ・トラストでいいのに、半トラストはないと思います。

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次に、ロバート D. パットナム & デヴィッド E. キャンベル『アメリカの恩寵』(柏書房) です。著者のうち、パットナム教授はハーバード大学の研究者であり、『孤独なボウリング』や『われらの子ども』で有名です。キャンベル教授はブリガム・ヤング大学のご卒業ですからモルモン教徒なんではないかと私は想像しています。本書の英語の原題は American Grace であり、ハードカバー版は201年の出版ですが、この邦訳書の底本となっているペーパーバック版は2011年の新たな調査結果を盛り込んで2012年に出版されています。ですから、パットナム教授の著書の順でいえば、『孤独なボウリング』と『われらの子ども』の間に入ることとなります。今週2冊めの600ページ超の大作です。ということで、「人種のるつぼ」といわれる米国は同時に宗教も極めて多様性を有しており、基本はWASPと称される伝統的なキリスト教プロテスタントなんですが、もちろん、ヒスパニックをはじめとし、イタリア人などを含めて、本書でラティーノと呼んでいる人々やアイルランド人やポーランド人の間ではカトリックが主流でしょうし、さらに、キリスト教の中でも東方正教もいれば、もちろん、ユダヤ教も少なくありません。パットナム教授は改宗したユダヤ教徒ですし、キリスト教の中でもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなんて、カルトすれすれながら連邦議会議員にとどまらず、閣僚や大統領候補まで輩出している新興宗教もあります。おそらく、私の直感ながら、クリスチャン・サイエンスからさらに、エホバの証人まで行けばカルトと見なされそうな気もしますが、例えば、私が自伝を読んだ範囲では、ブッシュ政権下の最後の財務長官を務めたゴールドマン・サックス証券出身のポールソン元長官はクリスチャン・サイエンスですし、2期目のオバマ大統領に挑戦した共和党のロムニー候補はモルモン教徒でした。本書では、福音派や黒人プロテスタントなどの例外的な存在のキリスト教徒も含めて、ほぼほぼ99パーセントはキリスト教中心ながら、ユダヤ教や、あるいは、イスラム教徒や仏教徒まで視野を広げつつ、米国民が西欧に比べて極めて宗教的である点を、「毎週教会に行く」などの行動の面から確認しつつ、女性の権利拡大、所得の不平等の拡大、同性婚の容認などについての米国民の思考パターンや行動の源泉としての宗教について分析を展開しています。私にはやや疑問の残る結論なんですが、本書では、多様な人々から構成されている米国社会において、それぞれのグループは自らのアイデンティティを確認するために宗教へと向かう一方で、人々はそれらの宗教に基づいてばらばらになるのではなく、むしろ長期的には他のグループ出身者と知り合い、友人になり、さらには婚姻関係を結んだりして、かなりの程度に交流を深めます。そして、こういった社会的流動性こそが、やがては異なる宗教間の橋渡しをすることを、著者は「アメリカの恩寵」と名付け、実際の米国社会がそういった方向に進んでいることを実証的に示そうと試みています。私は、マルクス主義的なエコノミストですから、経済が下部構造となって文化を規定し、その文化が政治的な傾向を示す、と考えています。もちろん、宗教は第2段階の文化であり、それが、米国においてはティーパーティーなどの政治動向に、もちろん、共和党と民主党の分断に結びついている、と考えています。トランプ政権の成立などを見ても、ここ数年における動向は私の見方を指示していると自負しています。

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次に、川本裕司『変容するNHK』(花伝社) です。著者は朝日新聞の記者であり、なぜか、NHKウォッチャーだったりもします。本書は、そのジャーナリストとしてのNHK観察の結果を取りまとめていますが、特に、ここ数年の籾井前会長の就任とその活動・発言や、政府との距離感や政府の意向の忖度などについて、事実関係とともに考えさせられる材料を提供しています。加えて、放送局としての国民に対する情報提供の在り方も考えさせられます。すなわち、エリート層に対する情報解釈の方向まで含めたニュースの報道や解説やドキュメンタリ番組などを提供しつつ、単なるエリート層向けにとどまらず、一般大衆向けのエンタメ番組の提供まで、放送局は幅広い役割を担う必要がある点も忘れるべきではありません。また、同時に、本書ではほとんど用語として現れませんが、ガバナンスについても議論されています。一般的な民法ではコマーシャルを流して収入としている一方で、NHKでは受診料を徴収することが認められています。コマーシャルは市場における評価を代理する一方で、もちろん、広告主に対しての忖度が働きます。受信料収入で放送番組を作成しているNHKで政権に対する忖度が働くのと、果たして、どちらにどういった長短があるのか、決して単純ではありませんが、もう少し議論なりとも展開してほしかった気もします。加えて、衛星放送に伴って受信料収入が潤沢になったことをもって、NHKの不祥事のひとつの原因との指摘も取り上げられており、事実上の国営とはいっても、いち放送局がここまで肥大化するのが適当なのかどうか、私は疑問を持ちます。すなわち、JRやNTTのように単純に地域で分割するのが適当とは決して思いませんが、放送のチャンネルごとにいくつかにNHKを分割するという見方も成り立つように見えるところ、そういった視点は本書の著者にはないようです。ただ、海外の同種の放送局との対比はそれなりに説得力あります。例えば、英国BBCには解釈ある一方で、NHKは解釈なしの生の情報を流しているとか、これもBBC幹部の発言で、政党政治の目的と放送局の目的は異なる、といったあたりです。視聴者目線としては、裏方の編成などのエラいさんばかりではなく、現場の記者やキャスターについて女性ばかりが取り上げられていた気がします。まあ、私の気のせいかもしれません。岩田明子記者が安倍官邸に食い込んでいるというのは、それはその通りでしょうし、ジャーナリストとしては悪くないような気もしますが、本書ではなぜか奥歯にものの挟まったような取り扱いしかなされていません。他方で、章まで立っている国谷裕子キャスターは「クローズアップ現代」で官房長官に対して否定的な立場からのインタビューをして降板につながった点を指摘しています。また、有働アナウンサーも取り上げられていました。いずれにせよ、受信料収入で成り立っていて、予算が国会で議論されるNHKなのですから、従来からそれなりの政府への遠慮や忖度はあったことと私は想像していますが、前の籾井前会長の特異なキャラクターが生み出した1冊と受け止めています。

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次に、楊継縄『文化大革命五十年』(岩波書店) です。著者は中国新華社出身のジャーナリストです。本書は著者の大作『天地翻覆』を編集し直したものだそうです。タイトル通り、1966年から毛沢東の死や4人組の逮捕・失脚までの約10年間続いた中国におけるプロレタリア文化大革命について論じています。もちろん、中国共産党自身が1981年6月の11期6中全会で採択した歴史決議、すなわち、「毛沢東同志が発動した『文化大革命』のこれらの左傾の誤った論点は明らかにマルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国の具体的実践を結び付けた毛沢東思想の道からはずれており、それらと毛沢東思想とは完全に分けねばならない」との指摘だけで終わるハズもなく、近代史でもまれに見るような国家的な大混乱を引き起こしています。このプロレタリア文化大革命について、著者は3つのグループないしプレイヤーを設定し、毛沢東、造反派、官僚集団のの三角ゲームであったとし、毛沢東が紅衛兵などを扇動しつつ官僚集団を粛正するためには造反派を必要とし、逆に、この文化大革命が毛沢東の意図した範囲に収まらずに、暴走した結果、秩序を回復するためには官僚集団を必要とした、と結論しています。短くいえばそうなんですが、こういった考察を3部構成として、文化大革命の進行、その後のポスト文革の後処理、特に毛沢東死後の4人組の逮捕と失脚、そして、50年の総括に当てています。文革さなかの酸鼻を極めた死刑の処刑、特に、処刑される者が最後に発する声を防止するための驚くべきやり方など、一般大衆の中の犠牲者の像が明らかにされるとともに、もちろん、大きなターゲットとされた劉少奇や林彪の考えや行動を跡付けています。ポスト文革の後処理については曹操の故事を引きつつ責任追及をあいまいにするような論調が出た点を紹介しつつ、文革終了の大きな起点となった毛沢東の死去の後の中国の政治的な継承と混乱について分析を加えています。そして、「中体西用」として、中国的な体を西洋的な用で運用する、すなわち、権力の抑制均衡と資本の制御のための有効な制度は立憲民主制度であると結論しています。もちろん、今さら指摘するまでもなく、文化大革命を発動した毛沢東の動機はたんン位劉少奇の排除だけではありえませんし、また、発動した毛沢東にすら制御できなくなり、暴走した文化大革命のムーブメントを鎮めて秩序を取り戻すには官僚組織のシステマティックな活動が必要であり、その結果として、官僚組織の頭目である鄧小平の権力奪取の一因となったのは理解できるところです。いまだに、中国国内では正面から文化大革命に向かい合うことができないでいる現時点で、それなりの貴重な事実関係のコンパイルではなかったかと私は受け止めています。ただ、結論としての権力の抑制均衡のための立憲民主性、というのはやや物足りません。

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次に、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』(白揚社) です。著者はリスボン出身で、現在は米国南カリフォルニア大学の研究者であり、専門分野は神経科学や神経医学です。英語の原題は The Strange Order of Things であり、2018年の出版です。かなり難しい進化生物学の専門書です。私は半分も理解できたとは思えません。本書は3部構成であり、第1部では生物の進化に従って、生命の誕生から神経系が発生するまでが概観され、第2部では神経系が高度に発達することにより、心や感情や意識などの生物の精神的な働きが描写され、第3部では生物たる人類が構成する社会における文化や経済やその他の社会的な活動のマクロの社会学が語られます。そして、その根本となっているのがホメオスタシスです。本書では冒頭の方で「恒常性」と訳され、「平衡」や「バランス」といった概念に注目しつつ、本書では、単に生存を維持するのみならず、生存に資するようなより効率的な手段の確保と繁殖の可能性の両方を意味する繁栄を享受し、生命組織としての、また生物種としての未来へ向けて自己を発展させられるよう生命作用が調節される、といった働きが重要であるとする。そして、生命体の調節は非常に動的であるものの、進化の過程で人類だけに備わった高度に発達した脳の働き、という従来の進化生物学的な考えを否定し、ホメオスタシスに支えられた単細胞生物に始まる生命現象全体を通して、心や意識や感情などを位置づけます。例えば、細菌は環境の状態を感知し、生存に有利な方法で反応し、その過程では相互のコミュニケーションもあると主張し、はすでに知覚、記憶、コミュニケーション、社会的ガバナンスの原点が見られると指摘しています。ですから、よく、我々エコノミストに対して「経済学中華思想」という、なかなかに正しい指摘や、あるいは、非難が寄せられることがありますが、本書では正々堂々と生物学中華思想を展開しています。人間が高度に発達した脳をもって心や意識や思考を持つ例外的な存在である点は否定しないものの、こういったホメオスタシスに基づく生物としてのはtら期は単細胞生物の時代から備わっていたと主張するわけです。ですから、これらのホメオスタシスの働きをもって、パーソンズ的な社会学は解釈されるべきであるし、サブプライム・バブル崩壊後の金融危機や景気後退なども一連の生物学的な根拠がある、と指摘します。本書を通読した私の解釈によれば、感情や意識などはホメオスタシスの心的表現であり、身体と神経系の協調関係が意識の出現をもたらし、ここで生れた意識や感情などをはじめとする心の働きが人間性の現われである文化や文明をもたらした、ということになり、ひいては、芸術・哲学・宗教・医療などのあらゆる文化・文明をいかに動的であるとはいえホメオスタシスという生物的現象に帰すことができる、という主張です。そして、こういった視点から人工知能(AI)についても議論の射程に入れつつ、決して悲観的ではなく、生物的進化の流れの中で解決できる課題、と考えているような感触を私は受けました。ただ、繰り返しになりますが、専門外の私にはかなり難しい読書でしたので、間違って読んでいる部分もかなりありそうな気がして、ここまで堂々と読書感想文を書くと少し怖い気もします。

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次に、山内マリコ『あたしたちよくやってる』(幻冬舎) です。著者は、『ここは退屈迎えに来て』でデビューした話題の小説家であり、私も決して嫌いではなく、何冊か読んでは読書感想文をアップしています。本書では、Short Story と Essay と Sketch の3種類のカテゴリーの文章が集められており、それぞれに異なるフォントを使っています。なぜか、Short Story だけには扉のページがあったりもします。初出が明示されていないのですが、どこかで発表した短い文章に、いくつかは書下ろしを入れて単行本にしたのではないか、と私は想像しています。著者ご本人は1980年生まれですからアラフォーなんですが、本書の視点はアラサーのような気がします。私のような還暦を過ぎた男性にはなかなかむつかしくて付いて行けない女性のファッション・アイテムもありますが、こういった軽快な文章は私も嫌いではありません。職業や、年齢や、結婚や、ファッションまで含めて、いろんな観点から女性を語った短編+エッセイ集です。 ドラえもんの登場人物で構成しながらもドラえもん自身は登場せずしずかちゃんを中心とする短編の「しずかちゃんの秘密の女ともだち」、そして、京都の喫茶店文化を綴るエッセイ「わたしの京都、喫茶店物語」、などが私の印象に残っています。いつもながら、特にこの作品はタイトルからもうかがえる通り、とても強く現状肯定的でありながら、時には自分自身を否定して新しい自分探しを始めようとし、それでも、自分のオリジナルに返っていく主人公の人生について、所帯じみていながらも軽やかに進める山内マリコの筆致を私はは評価しています。おそらく、私には書けない種類の文章だと直感的に感じています。ただ、純文学に近い小説であるにもかかわらず、所帯じみているのも事実です。もっと浮世離れしている部分があってもいいような気がします。もちろん、ファッション・アイテムを買い求めるにはお金が必要ですし、異性や同姓とのおつきあいにも出費は避けられません。あるいは、女性の場合はお付き合いの出費は抑えられるのかもしれませんが、男性の負担は少なくありません。エコノミストだったころの所帯じみた発想かもしれませんが、著者の作品に登場する主人公も著者自身の実年齢に合わせて、すこしずつ年齢層が高くなっているような気がしないでもありませんし、今後の年齢とともに社会で果たすべき役割や責任や何やが重さを増す可能性が高い中で、軽やかな著者の作品に現れる女性主人公が、あるいは新境地を切り開く際に登場させる可能性ある男性主人公が、どのようなステップを踏んで進化して行くのかが楽しみです。

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最後に、小倉紀蔵『京都思想逍遥』(ちくま新書) です。今朝の朝日新聞朝刊の読書欄で取り上げられていました。著者は我が母校京都大学教授であり、哲学研究者です。そして、本書のタイトル通りに、京都をそぞろ歩きます。ただ、京都といっても広いわけですから、著者のいう「京の創造性臨界ライン」、すなわち、京都頭部の比叡山から始まって、大雑把に京大や吉田神社あたりから伏見稲荷や深草くらいまでのエリアとなります。本書 p.49 の地図で示されいる通りです。この地域的な特徴に、著者の留学先であったソウルの韓国や朝鮮半島を重ね合わせたり、あるいは、これも著者の趣味の藤原定家の歌を引用したりしつつ、その思想的あるいは芸術的な背景を探ります。いくつか、面白い視点は、やはり、平安京を開いた桓武天皇の血筋にある朝鮮半島の視点です。でも、他方で、和辻哲郎が「古今和歌集」よりも「万葉集」を高く評価した、などといった新年号「令和」の選定にも合致した現時点の時代背景を先取りした視点も紹介されたりしているのはなかなかの先見性だと私は受け止めました。著者の専門領域である京都大学の哲学者は、経済学者と違って、綺羅星のごとく存在するわけですが、何といっても西田幾多郎にとどめを刺します。その西田教授にも大いに関係する哲学の道とか、逍遥するのは京大生だけではありません。哲学者としても、西田先生をはじめとして、西谷啓治先生た田辺元先生などはドイツ学派、すなわち、ドイツ観念論、中でもヘーゲル哲学に根ざしていた一方で、『「いき」の構造』の九鬼周造先生はフランス学派、ベルクソンを必要とした、などといったペダンティックな議論は、とても京都思想にふさわしい展開ではないかと私は思います。本書にも登場する梶井基次郎の短編「檸檬」の八百卯は私が京大生のころにはまだありました。まあ、丸善はなかったですが、そういった舞台装置がまだ雰囲気を残していました。また、井上先生の『京都ぎらい』への言及もありますが、少し物足りません。井上先生は京都バブル、あるいは、かなり不当な京都プレミアムに対する疑問を呈しているわけですが、それを商家としての杉本家だけに矮小化するのはどうか、という気もします。さらに、疑問点をもう2点だけ上げておくと、京都や関西にある在日朝鮮人に対する差別はもちろん考えさせられる点ですが、著者の留学先というのはともかくとしても、日本人間の差別、すなわち、部落差別についての言及がないのは少し疑問です。最後に、京都を逍遥するとすれば先斗町あたりから祇園は欠かせません。まさに、著者のいう「京の創造性臨界ライン」のど真ん中に位置しているにもかかわらず、また、五条楽園には言及しているにもかかわらず、どうして祇園を抜かしたのか、積極的な理由があるなら明示すべきですし、ついうっかりと忘れたのであるなら、迂闊にもほどがあると思います。

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2019年4月13日 (土)

今週の読書は経済書や経営書をはじめとして古いミステリ短編集まで計7冊!

今週の読書は、経済書や経営書をはじめとして、幅広く完全版として復刻された古典的なミステリ短編集まで含めて、以下の通りの計7冊です。本日午前に図書館回りをすでに終えており、来週も数冊の読書計画となっています。

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まず、 守口剛/上田雅夫/奥瀬喜之/鶴見裕之[編著]『消費者行動の実証研究』(中央経済社) です。著者たちは経済学を専門とするエコノミストというより、むしろ、マーケティングの分野のビジネス分析の専門家です。消費者の選択というより、消費行動がマーケティングによってどのような影響を受けるか、という分析を集めた論文集です。消費者行動は外部環境の影響を受けながら常に変化しているわけなんですが、ICT情報技術の発展に伴って、ハードウェア的に高性能かつ携帯性に優れたデバイスなどが普及するとともに、ソフトウェア的にSNSなどで情報が画像や動画などとともに拡散するなど、消費者の情報取得行動やそれに基づく選択や購買行動は大きな変化を遂げてきています。同時に、このような情報技術の進展と消費者行動の変化は、企業のマーケティング活動といった実務にも大きな変革を促してきたところであり、消費者行動とそれに対応する企業のマーケティング活動が大きく変化し続けている現状において、消費者行動の実証研究に関連する理論や分析手法を整理すべく、計量的な分析も加えつつ、さまざまな消費行動への影響要因を分析しようと試みています。ただ、本書でも指摘されているように、コトラー的に表現すれば、行動経済学や実験経済学とはマーケティングの別名ですから、実務家が直感的に感じ取っていることを定量的に確認した、という部分も少なからずあります。もっとも、企業活動にとっての評価関数が、場合によっては、企業ごとに違っている可能性があり、株価への反映、売上げ極大化、利益極大化、あるいは、ゴーン時代の日産のように経営者の利便の極大化、などもあるのかもしれません。いずれにせよ、エコノミストたる私から見て違和感あったのは、あくまで、本書の視点は消費者行動をコントロールすることであり、しかも、企業サイドから何らかの企業の利益のためのコントロールであり、日本企業が昔からの「お客様は神様」的な視点での企業行動とはやや異質な気がしました。ある意味で、欧米正統派経営学的な視点かもしれませんが、消費者視点に基づく顧客満足度の達成ではない企業目的の達成というマーケティング本来の目的関数が明示的に取り上げられており、グローバル化が進む経営環境の中で、従来の日本的経営からのジャンプが垣間見られた気がします。実務家などでは参考になる部分も少なくないものと考えますが、情けないながら、私には少し難しかった気がします。

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次に、ロビン・ハンソン & ケヴィン・シムラー『人が自分をだます理由』(原書房) です。著者はソフトウェア・wンジニアと経済学の研究者です。英語の原題は The Elephant in the Brain であり、2018年の出版です。英語の原題は "The Elephant in the Room" をもじったもので、くだけた表現なら「何かヘン」といったところでしょうか。ですから、私はこの邦訳タイトルは、あまりよくないと受け止めています。ということで、繰り返しになりますが、著者2人はいずれも心理学の専門家ではありませんが、本書は進化心理学の視点からの動機の持ち方に関する分析を展開しています。すなわち、本書 p.11 の図1にあるように、何らかの行動の動機として美しい動機と醜い動機があり、美しい動機でもって言い訳しつつ、他人だけでなく自分自身も欺いている、というのが本書の主張です。かつて、経済学の分野でもウェブレンのいう衒示的消費という説が提唱されたことがあり、すなわち、人に見せびらかす要素が消費には含まれており、使用価値だけで消費者行動が説明できるものではない、ということです。典型的には、「インスタ映え」という言葉が流行ったところですし、例えば、単に美味しいというだけでなく、見た目がよくて写真写りもよく、スマホで写真を撮ってインスタにアップしてアクセスを稼ぐのがひとつの目標になったりするわけです。それはそれで、なかなか素直な動機なんですが、それを自分すら偽って合理的なあるいは美しい動機に仕立て上げるというわけです。消費は本書10章で取り上げているんですが、同様に、芸術、チャリティ、教育、医療などの分野を取り上げています。邦訳タイトルがよくないよいう私の感触を敷衍すると、教育などはエコノミストの間でもシグナリング効果と呼ばれ、基礎的な初等教育の読み書き算盤なともかく、高等教育たる大学を卒業下だけで、ここまでの所得の上乗せが生じるのは教育と学習の効果というよりは、むしろ、大学進学のための勉強をやり抜く粘り強さとか、あるいは、学習よりむしろ大学での人脈形成とかの価値を認める、という部分も少なくないと考えられています。特に、本書は米国の高等教育を念頭に置いているんでしょうが、日本のように大学がレジャーランド化しているならなおさらです。ゾウさんが頭の中にいて、「何かヘン」なわけです。

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次に、佐藤俊樹『社会科学と因果分析』(岩波書店) です。著者は東大社研の社会学研究者であり、社会科学の中でも経済学とは少し異なる気もしますが、副題にあるようなウェーバー的な視点からの因果論を展開しています。本書にもある通り、極めてシロート的にウェーバーの因果論、すなわち、適合的因果構成については、ウェーバーと同時代人であるものの、架空の人物であるシャーロック・ホームズの考え方が思い起こされます。つまり、何らかの結果に対して原因となる要素が網羅的に列挙された上で、それらの原因候補について考察を巡らせ、可能性のない原因候補を消去していった上で、最後に残ったのが原因である、とする考え方といえます。ただ、ミステリの犯人探しならこれでいいのかもしれませんが、実際の社会的な事象に対する原因の考察についてはここまで単純ではありません。そして、私にとってウェーバー的な視点といえば、本書ではp.378だけに登場する「理念型」、あるいは、現代社会科学でいえば、モデルにおける因果関係が重要な出発点となります。おそらくは、歴史上で1回限りのイベントである結果に対して、その結果を生ぜしめるに至ったモデルの中で、複数の原因候補があり、しかも、原因と結果が一義的に規定されるとは限らず、同時に原因でもあり結果でもある、というリカーシブな関係があり得る場合、それを現実の複雑な系ではなくモデルの中の系として、ある意味で、単純化して考え、相互作用も見極めつつ因果関係を考察しようと試みたのがウェーバー的な方法論ではなかったか、と私は考えています。経済学の父たるスミス以来、経済学では明示的ではないにせよ、背景としてモデルを考えて、その系の中で因果関係を考え、政策的な解決策を考察する、という分析手法が徐々に確立されて、一時的に、どうしようもなく解決策の存在しないマルサス的な破綻も経験しつつ、ケインズによる修復を経て、経済モデルを数学的に確立したクライン的なモデルの貢献もあって、経済学ではモデル分析が主流となっています。これは物理学と同じと私は考えています。ただ、現時点までの経済学を考えると、ビッグデータと称される極めて多量の観察可能なサンプルを前にして、どこまで因果関係を重視するかは、私は疑問だと考えています。おそらく、ビッグデータの時代には相関関係が因果関係よりも重要となる可能性があります。すなわち、一方的な因果の流れではなく、双方向の因果関係でスパイラル的に原因と結果が相互に影響しあって動学的に事象が進行する、というモデルです。ただ、こういったビッグデータの時代にあってもモデルの中の系で分析を進め、可能な範囲で数学的にモデルを記述する、という方向には何ら変更はないものと私は考えています。その意味で、ウェーバー的な因果関係の考察はやや時代錯誤的な気もしますが、別の意味で、アタマの体操としてのこういった考察も必要かもしれません。

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次に、豊田長康『科学立国の危機』(東洋経済) です。著者は三重大学学長を務めた医学分野の研究者です。本書では、研究成果を権威あるジャーナルに掲載された論文数で定義した上で、論文数とGDPや豊かさ指標は正の相関を持ち、科学立国によりGDPで計測した豊かさが伸びる、としてそのための研究成果たる論文数の増加の方策を探ろうと試みています。OECD.Statをはじめとするかなり膨大なデータに当たり、さまざまなデータを駆使して我が国の科学技術研究の現状、そして、その危機的な現状を打開するため、決定的な結論として、研究リソースの拡充、すなわち、研究費の増加とそれに基づく研究員の増加が必要との議論を展開しています。なお、本書の主たるターゲットは医学や理学工学など、いわゆる理系なんですが、経済学・方角、あるいは心理学などの文系も視野に入れています。ということで、私自身も地方大学の経済学部に日本経済論担当教授として出向の経験があり、科研費の研究費申請などの実務もこなせば、入試をはじめとする学内事務にも汗をかいた記憶があります。研究については、ほとんどが紀要論文であり、本書で研究成果としてカウントされている権威あるジャーナルに掲載された論文には含まれないような気もしますが、査読付き論文も含めて20本近くを書いています。その私の経験からしても、研究はリソース次第、あるいは、本書第3章のタイトルそのままに「論文数は"カネ"次第」というのは事実だろうと考えます。もちろん、一部に、いまだに太平洋戦争開戦当時のような精神論を振り回す研究者や評論家がいないわけではありませんが、研究リソースなくして研究成果が上がるハズもありません。本書でも指摘しているように、我が国の研究に関しては「選択と集中」は明らかに間違いであり、むしろ、バラマキの方が研究成果が上がるだろうと私も同意します。これも本書で指摘しているように、我が国における研究は大企業の研究費は一流である一方で、中小企業や大学の研究費は三流です。でも、その一流の大企業研究費をもってしても、多くののノーベル賞受賞者を輩出してきたIBM基礎研究所やAT&Tベル研究所に太刀打ちできるレベルにないのは明白です。最後に2点指摘しておきたいと思います。すなわち、まず、因果の方向なんですが、本書では暗黙のうちに研究成果が上がればGDPで計測した豊かさにつながる、としているように思いますし、私も基本的には同意しますが、ひょっとしたら、逆かもしれません。GDPが豊かでジャカスカ金銭的な余裕あるので研究リソースにつぎ込んでいるのかもしれません。でも、これは研究成果を通じてGDP的な豊かさに結実する可能性も充分あるように思われます。次に、歯切れのよい著者の論調の中で、p.47図表1-14に示された我が国における国立研究機関の研究費のシェアの大きさについては、原子力研究などにおける高額施設でフニフニいっていますが、私の知る限りで、国立の研究機関、研究開発法人はかなりムダが多くなっています。もちろん、はやぶさで名を馳せたJAXAのような例外もありますが、NEDOやJSTなどはお手盛り研究費でムダの塊のような気がします。

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次に、マリー=クレール・フレデリック『発酵食の歴史』(原書房) です。著者はフランスのジャーナリストであり、食品や料理に関するライターでもあります。フランス語の原題は NI CRU, NI CUIT であり、直訳すれば、生ではなく、火も通さず、といったところでしょうか。2014年の出版です。副題に Historie とあるので、日本語タイトルにもついつい「歴史」を入れてしまったんでしょうが、ラテン語系統では歴史よりも物語なんでしょうね。読書の結果として、それほど歴史は含まれていないと私は受け止めています。本書は3部構成であり、第1部で古代からの発酵食品と文明とのかかわり、第2部で具体的な食品を取り上げた発酵食品のそれぞれ個別の例を紹介し、第3部で発酵食品を通して現代社会の問題を投げかけています。特に最後の第3部では、食べ物が画一的均質な工業製品として供給され、効率的にカロリー補給ができる食品として、いわば、味も素っ気もない無機質な食品ではなく、スローフードとして食事を楽しみ、コミュニケーションを図る食事のあり方まで含めて議論を展開しようと試みています。発酵食品ということで、酵母が糖などを分解するわけで、典型的にはアルコールを含有するお酒ということになります。西洋的にはビールとワインとなりますが、私は正しくはエールとワインだと考えています。そして、エールとビールの違いはホップにあります。要するに、エールにホップを加えた飲み物がビールだと私は考えています。アルコール含有飲料は、本書にもあるように、俗っぽくは楽しく陽気に酔いが回るとともに、トランス状態に近くなって神に近づくかもしれない、と思わせる部分もあります。発酵食品は微生物が活躍しますので、火を加えると発酵が停止しますから、各国別では、強い火力でもって調理することから、ピータンなどの例外を除いて、中国料理がほとんど登場しません。火の使用をもって人類の進化と捉え、調理の革命と考える向きも少なくないんですが、本書では真っ向からこれを否定しているように見えます。また、各国別の食品に戻ると、日本料理では大豆から作る発酵食品である味噌・醤油・納豆とともに、何といっても、京都出身の私には漬物が取り上げられているのがうれしい限りです。京都では、しば漬けとともに、全国的にはそれほど有名ではないんですが、酸茎をよく食べます。今度の京都土産にいかがでしょうか。本書を読んでいると、他のノンアルコールの飲み物でもコーヒーや紅茶など発酵させた飲み物はいっぱいありますし、欧米の主食であるパンはイースト菌で発酵させますから、発酵食品ではない食品を見つけるほうが難しいのかもしれません。ただ、発酵と腐敗が近い概念として捉えられている可能性は本書の指摘するように、そうなのかもしれませんが、毒物を発酵により解毒することもあるのも事実で、そこまでいかなくても、渋柿を甘くする働きも発酵であり、ペニシリンまで言及せずとも、いろんな応用が効くのが発酵であるといえるかもしれません。

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次に、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS/第二次惑星開発委員会) です。著者は京都出身で立教大学をホームグラウンドとする文化・文芸評論の研究者です。本書は、タイトル通りに解釈すれば、ウルトラマンを切り口に戦後サブカルチャーを解釈しようと試みているようですが、間口はさらに広く、ウルトラマンだけでなく特撮一般に切り口を広げるとともに、戦後サブカルだけでなく戦争当時からのマンガなどのサブカルも含んだ構成となっています。というのは、オモテの解釈で、実は、そこまで広げて論じないと本1冊になならないんだろうと私は見ています。でも面白かったです。ウルトラマンのようなテレビ、あるいは、映画もそうなんでしょうが、こういった動画を論じようとすれば、本の速読のようなことはムリですから、時間の流れの通りにすべてを見なければならないんですが、研究者でそこまで時間的な余裕ある場合は少ないんではないかという気もします。でも、見てるんでしょうね。本書でも論じているように、デジタルなCGが現在のように十分な実用性を持って利用される時代に至るまで、すなわち、アナログの世界では、融通無碍なアニメーションの世界、現在のNHK朝ドラのアニメータの世界と対比して、いわゆる実写の世界があり、その間のどこかに特撮の世界があったんだろうという気がします。そして、実写の世界には「世界の黒沢」を始めとして、本書でも取り上げられている大島渚や小津安二郎のような巨匠がいますし、アニメの世界でも、戦後の手塚治虫からジブリの宮崎駿、もちろん、ポケモンやドラえもんも含めて、世界に通用する目立った作品が目白押しなんですが、特撮だけはウルトラマンの円谷英二が唯一無二の巨峰としてそびえ立っていて、独自の世界を形成しているというのも事実です。私のように60歳近辺で団塊の世代に10年と少し遅れて生まれでた世代の男には、プロ野球とウルトラマンといくつかのアニメが少年時代の強烈な思い出です。その意味で、本書のウルトラマンを軸としたサブカル分析には、かなりの思い入れがあったりします。

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最後に、C. デイリー・キング『タラント氏の事件簿』(創元推理文庫) です。著者は19世紀末に生まれて、すでに定年退職した私が生まれる前に亡くなっています。要するに古い本だということです。ただ、この邦訳の完全版は昨年2018年1月の出版です。私は古いバンを読んだことがありますが、この完全版には新たな作品も収録されています。ということで、収録されている短編は、「古写本の呪い」、「現われる幽霊」、「釘と鎮魂曲」、「<第四の拷問>」、「首無しの恐怖」、「消えた竪琴」、「三つ眼が通る」、「最後の取引」、「消えたスター」、「邪悪な発明家」、「危険なタリスマン」、「フィッシュストーリー」の12話です。いわゆる安楽椅子探偵に近いタラント氏が日本人執事兼従僕のカトーとともに登場します。でも、カトーがなぞ解きに果たす役割はほとんどありません。資産家で働く必要のない、いかにもビクトリア時代的なタラント氏ではありますが、ニューヨーク東30丁目のアパートメントに住む裕福な紳士であり、舞台は米国ニューヨークとその近郊です。どこかの短編に年齢は40台半ばと称していたように記憶しています。その意味では、事件の舞台だけはクイーンの作品に似ていなくもありません。なお、ワトソン役は出番の少ない執事兼従僕のカトーではなく、最初の事件の当事者で家族で親しくなるジェリー・フィランが務めます。設定はオカルト的あるいは心霊現象的なものも少なくなく、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズのような感じですが、語り手のフィランが結婚するなど、時間が着実に流れるのがひとつの特徴かもしれません。もっとも、ホームズのシリーズでもワトスンも結婚しましたので、同じことかもしれません。

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2019年4月 7日 (日)

先週の読書はいろいろ読んで計7冊!!

何だかんだといって、経済書は少ないながら、今週もそれ相応に読んだ気がします。先週だけはポッカリとあいた無職の時期で、今週に入って明日からは働きに出る予定です。週4日、逆から見て、週休3日制のパートタイムですが、オフィスワークでそれなりのお仕事です。ただ、公務員の定年間際の年功賃金が最高レベル近くに達した時期と比べれば、お給料は大きくダウンします。仕方ないと考えています。

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まず、平沼光『2040年のエネルギー覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は東京財団の研究員であり、外交・安全保障、資源エネルギー分野のプロジェクトを担当しているそうです。本書では、やや大袈裟なタイトルなんですが、2040年までをスコープとして、タイトルにある「覇権」は忘れて、今後のエネルギー転換の方向を探ろうと試みています。まず、そのエネルギー転換の原因なんですが、温暖化防止対策としての二酸化炭素排出規制となっています。私のような1970年台の2度の石油ショックの記憶ある世代では、エネルギー問題とは石油問題であり、供給サイドの産油国側の要因、そして、需要サイドの先進国ないし新興国側の要因、これに加えて、金融面での金利や通貨供給の要因などを思い浮かべますが、この先は気候変動要因が大きく立ちはだかり、従って、石炭削減と再生可能エネルギーの大幅な普及を目指すこととなります。本書では再生エネルギー価格の大幅な低下により、2040年には欧州では再生可能エネルギーのシェアが50%のレベルに達することが目標とされており、天然ガスはともかく、電力用途としての石油は終焉すると見込まれています。これに加えて、エネルギー消費の一定の部分を占める自動車についてもその将来像が示されており、電気自動車は家庭向けの巨大な蓄電装置になる可能性を示唆しています。私は再生可能エネルギーの技術的な面、例えば、本書でも取り上げられている海洋温度差発電についてはサッパリ判りませんし、再生可能エネルギーの価格低下もすっ飛ばしますが、少なくとも、少し前までの我が国における太陽光発電などの再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度における価格が高すぎて、日本では再生可能エネルギーへの転換が進んでおらず、従って、国際規格の策定などで遅れを取り、ビジネスになっていない、というのはその通りと感じています。他方で、かなり進んでいる欧州に対して、本書でも米国は不確定要素が大きいと指摘し、トランプ政権になってからシェールガスやシェールオイルを含めた化石燃料の支配を通じて世界エネルギーのコントロールを覇権を目指すという形で、やや時代錯誤的ながら方針が定まったと受け止めているようです。なお、本書では原子力発電についてはほとんど言及がありません。最後に、私が大学で勉強した古い古いマルクス主義的な技術論からすれば、西洋の覇権を決定づけた産業革命におけるもっとも大きな発明のひとつが蒸気機関であることはいうまでもなく、さらにそれを敷衍すれば、要するに、水を沸かして上記にしてタービンを回し、その動力をそのまま、あるいは、電力に変換する、というのがマルクス主義的な視点でいうところの資本主義的なエネルギー観です。ですから、水を沸騰させるのは石炭・石油といった化石燃料を用いたニュートン力学的な方法であっても、核分裂や核融合を応用した相対性理論的な方法であっても、水を沸騰させてタービンを回す、という点については変わりありません。それに対して、水を沸騰させてタービンを回す部分をすっ飛ばす太陽光発電こそが、未来の社会主義的なエネルギーである、といった議論をしていた記憶があります。まあ、違うんでしょうね。

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次に、ダグラス・マレー『西洋の自死』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストであり、「スペクテーター」の編集者だそうです。英語の原題は The Strange Death of Europe であり、2017年の出版です。ということで、ある意味、とても注目の論考です。すなわち、欧州を代表する形で、難民受け入れや移民に強烈に反対の論陣を張っているからです。本書の著者は、欧州への難民はサブサハラのアフリカからが多いとされている一方で、そのほとんどをイスラム教徒と同定しているようで、しかも、政治的な難民かどうかは疑わしく、「経済的な魅力が主たる誘引」(p.452)と指摘します。そして、キリスト教的な欧州におけるイスラム教徒のテロ行為をはじめとし、国家財政的にも負担となっている点を強調しています。本書の論理にはやや疑問に感じる部分があるものの、私も基本的には移民受け入れには懐疑的です。純粋経済学的には、昨年2018年3月11日にボージャス教授の『移民の経済学』を取り上げていますので、「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった。」というフレーズに象徴される通り、要するに、移民と競合し代替的な低賃金労働者などは移民受け入れによって損をする一方で、その低賃金労働力を豊富に使える企業経営者などは得をするわけです。ただ、本書ではイスラム教徒受け入れという宗教的な軋轢をかなり重視しており、私の場合はお隣の人口大国中国からの移民により、宗教的な面は抜きにしても日本的な何かが壊される恐れを直感的に感じています。そして、本書の著者とかなり似通った視点は、あくまで、大量移民の受け入れが国内的な混乱をもたらす可能性があるわけで、国民のコンセンサスに基づいて政府が移民受け入れをキチンとコントロールすれば、「同化」という言葉を使うかどうかは別にしても、それなりに問題の発生を防ぐことができそうな気もします。ただ、繰り返しになりますが、移民受け入れで損をするグループと得をするグループがありますし、一般的には後者のほうが政治的なパワーを有していると考えるべきですから、移民受け入れは格差の拡大につながりかねないデリケートな問題であることも確かです。その意味で、本書でも指摘しているように、国内の政治家などのエリート層やオピニオンリーダーが移民受け入れに賛成し、本書でいうところの大衆は懐疑的な視線を送る、というのは経済的にもその通りなんだろうという気がします。また、私の歴史観からして、世界経済のグローバル化は不可逆的な進み方をしており、従って、貿易の自由化や開放度の向上、資本移動の自由化とともに、労働力の移動たる移民も増加するのであろうと受け止めていますが、本書の著者はp.103からのパートでこの見方に反論しているところ、この部分については私はイマイチ理解がはかどりませんでした。最後に、中野博士が本書冒頭に解説を寄せています。実は、大きな声ではいえませんが、この20ページ余りに目を通しておけば、本書の80%ほどは読んだ気になれるんではないか、と私は考えています。いずれにせよ、耳を傾けるべきひとつの見識だと私は受け止めています。

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次に、スティーヴン・ホーキング『ビッグ・クエスチョン』(NHK出版) です。著者は現時点で最も著名な宇宙物理学者といえ、昨年2018年3月に亡くなっています。21歳の時に発病したALSで余命5年といわれたことを考え合わせると、76歳の天寿を全うしたといえます。英語の原題は Brief Answers to the Big Questions であり、2018年の出版です。ということで、タイトル通りに大きな疑問に著者が答えようと試みています。すなわち、神は存在するのか? 宇宙はどのように始まったのか? 宇宙には人間のほかにも知的生命は存在するのか? 未来を予言することはできるのか? ブラックホールの内部には何があるのか? タイムトラベルは可能なのか? 人間は地球で生きていくべきなのか? 宇宙に植民地を建設するべきなのか? 人工知能は人間より賢くなるのか? より良い未来のために何ができるのか? の10の疑問です。私は不勉強にして、すでにホーキング博士が明らかにしている回答もあるようで、それも知りませんでしたが、私から見て興味深かったのは、7番目と8番目の問いに対して、ホーキング博士は従来から向こう1000年の間に人類は地球を出て宇宙に新たな生活の場を求めるべきと提言しているようです。その理由は何点かあり、かつて恐竜を絶滅させたような小惑星の衝突の可能性、人口の増加により地球のキャパを超過する可能性、さらに、核戦争の危機を上げています。ガンダムを見る限り、シャアの目論見の原点にある小惑星の落下衝突の可能性は否定しようもありませんし、恐竜が絶滅したというのも歴史的な事実なのかもしれませんが、1000年の間に起こるかどうかは別問題であり、そもそも、元エコノミストの私には1000年というタイムスパンは余りに長過ぎて、何とも想像のしようもありませんが、斯界の権威の従来からの変わらぬ発言ですから、そうなのかもしれないと思ってしまいます。それから、人工知能AIについては、私の懸念を共有しているような気がします。コンピュータが人類の知能や知性をエミュレートすることはそう難しいことではないと考えるべきです。その場合、AIが人類に接する態度は、我々人類はイヌ・ネコなどのペットを飼う際を大きくは異ならない可能性が軽く想像されます。ただ、神については、ホーキング博士はすべての事実は神抜きで科学的に説明可能、として神の存在や必要性を否定していますが、私は何か不可解な現象に遭遇した際に神の存在を仮定することにより個々人の心に安らぎをもたらすのであれば、神の存在を否定する必要性は小さいと考えています。いずれにせよ、ホーキング博士は人類の到達したもっとも上質の知性を体現する一人でしょうから、本書の主張が全て正しいと考えないとしても、こういった視点を共有しておくことは教養人として意義あることではないかと私は考えます。

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次に、ヴァイバー・クリガン=リード『サピエンス異変』(飛鳥新社) です。著者は、英国ケント大学の研究者であり、専門は環境人文学だそうです。英語の原題は Primate Change であり、2018年の出版です。本書は歴史を分割した5部構成であり、第1Ⅰ部がBC800万年からBC3万年、第Ⅱ部がBC3万年からAD1700年、第Ⅲ部が産業革命から20世紀初頭の1700年から1910年、第Ⅳ部がそれ以降の現時点まで、第Ⅴ部が将来、ということになっており、出版社の宣伝文句では、15,000年前の農耕革命、250年前に英国で始まった産業革命、そしてスマホ・AI・ロボットなどの現代文明、などの人類が生み出した文明の速度に、人類の進化が追いついていないんではないか、という問題意識から始まっているらしいということで借りて読んだんですが、どうも違います。冒頭で、現代人はミスマッチ病で死ぬ確率が高いというお話から始まり、ミスマッチ病とは、要するに、進化の過程も含めてとはいえ、肉体条件と損周囲の環境とのストレスに起因する病気のことのようです。まあ、周囲の環境条件に進化が間に合わない、ということであれば広く解釈できるのかもしれません。でも、私のような健康に無頓着な人間からすれば、健康オタクのお話が続いていたような気もします。ということで、具体的に判りやすいのはギリシア時代からであり、奴隷が生産活動に励む一方で、本書では貴族とされていますが、私の認識に従えば、市民はスポーツに励んで健康を維持するわけです。しかし、本書第Ⅲ部が対象とする産業革命期には劣悪な労働条件と石炭などに起因する環境汚染により、本格的に一般市民の健康が悪化し始めます。それでも、伝染性疾患への対応から寿命が伸びる一方で、産業化が進んで農作業から向上やオフィスにおける椅子に座った仕事が大きく増加して、これが健康を蝕む、というのが著者の認識です。やや、一般の理解とは異なります。すなわち、私なんぞは、戸外の農作業に比べて、オフィスの事務作業はいうまでもなく、工場の流れ作業であったとしても、屋根のある雨露のしのげる環境での椅子に座った仕事というのは、健康にいいんではないか、そのために寿命が伸びたんではないか、と考えているんですが、著者は認識を異にするようです。第Ⅳ部冒頭の章番号なしのパートが著者の考えをエッセンス的に示している気がするんですが、私にようなシロートとはかなり理解が異なっています。米国で肥満や糖尿病が多いのは、私はかなりの程度に食生活に起因すると考えているんですが、著者は座った生活が原因と考えているようです。理解できません。エピローグで、著者の考える対策がp.299に示されていて、それは政府が運動不足と肥満対策に取り組む、ということのようです。それが出来ないからムダにヘルスケアに財政リソースをつぎ込んでいる現実を著者は認識できていないようで、少し悲しくなりました。最近の読書の中でも特に無意味に近かった本のような気がします。

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次に、更科功『進化論はいかに進化したか』(新潮選書) です。著者は、分子古生物学を専門とする研究者であり、本書ではダーウィン進化論の歩みをひも解き、今でも通用する部分と誤りとを明らかにしようと試みています。まず第1部で、著者はダーウィン進化論のエッセンスは、進化+自然選択+分岐進化、の3本柱だと主張し、歴史的に見て、特に2番めの自然選択が人気なかったと指摘しています。まあ、今西進化論が共存を重視するのに対して、ダーウィン進化論は競争重視と解釈する向きもあるようですから、ひょっとしたらそうなのかもしれません。その上で、私のような元エコノミストにはかなり自明のことなんですが、ダーウィン的な進化とは進歩とか改良といった価値判断を含んでいるわけではないとの議論を展開します。当然です。私の理解では、環境の変化に対してショットガン的に何らかの突然変異的な形質の変化が生じ、その中で環境にもっとも適した自然選択が生き残る、ということになります。ただ、著者は生存バイアスについては少し配慮が足りないような気もします。すなわち、環境に適して生存が継続した生物については、生きていても化石になっても、かなり多くの観察記録が残るとしても、適していなかった変化を遂げた個体の観察例は多くない可能性が高いのは忘れるべきではありません。第2部では、生物の老化、ないしは死ぬことについて考察を進め、老化して衰えるというよりは、子孫の残すことができる年齢でピークを迎える、と考えるほうが正しい、という趣旨のようです。それはその通りということで、還暦を超えて定年退職した私も少し考えさせられるところがありました。鳥と恐竜についても、やや生存バイアスについて考えが不足しているような気がしました。鳥は生存している一方で、恐竜はジュラシックパークで復活させなければ死滅してしまったわけですから、恐竜から鳥への進化、と一般的に考えられるのは一定の理由があります。もちろん、著者の指摘するように、鳥と恐竜は同時に共存していたというのが正しいんでしょうが、そこは生存バイアスを考慮すべきです。最後の直立二足歩行で自由になった手の使い方については、私も大いに同意します。ただ、単婚と結びつけるのはやや不自然な気もしました。進化生物学は物理学などとともに、科学としての経済学との類似性が指摘される学問分野であり、なかなか興味深い読書でした。

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最後に、アミの会(仮)編『怪を編む』(光文社文庫) と『毒殺協奏曲』(PHP文芸文庫) です。実は、アミの会(仮)編集の本としては、文庫本はすべて読んでいると思います。なお、順番からすれば、上の表紙画像の後の方の『毒殺協奏曲』はアミの会の2冊めに当たるんですが、文庫本になって最近の出版ですので読んでみた次第です。ある意味で当然でしょうが、登場人物に薬剤師が多かった気がします。『怪を編む』の方はほぼほぼ1年前の出版なんですが、ショートショートのホラーっぽい短編集で、霊的ながら現実的でない怖さとものすごく現実に即した怖さのどちらも楽しめます。2冊めの『毒殺協奏曲』は、女性作家の集まりではなかったかと記憶しているアミの会の編集本に2冊めにしていきなり男性作者が入っています。『毒殺協奏曲』はタイトル通りに毒殺の作品を集めており、本格ミステリとはいい難い作品ばかりですが、それなりに楽しめます。『怪を編む』は5部構成で、AREA ♥、AREA ♣、AREA ♦、AREA ♠、AREA ★となっています。私には後ろの方のAREA ♠とAREA ★の作品が印象的でした。

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2019年3月30日 (土)

今週の読書は注目の統計に関する学術書から新版のミステリまで計9冊!

今週は、まさに定年退職直前で仕事があろうハズもなく、時間的な余裕がたっぷりありましたし、そろそろ官庁エコノミストではなくなることから、経済に限定せずに幅広い読書に努めたこともあり、いろいろと古典的なミステリなんぞも読んで、以下の通りの計9冊です。

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まず、国友直人・山本拓[編]『統計と日本社会』(東京大学出版会) です。編者や著者は経済統計の研究者や専門家であり、第Ⅲ部の公的統計改革では官庁統計担当感やその経験者などの実務家も執筆に加わっています。ということで、今国会での大きなトピックとして、厚生労働省作成で賃金動向などを調べている毎月勤労統計の不正問題がありますが、とても皮肉なことに、不正問題に相応して統計の重要性がクローズアップされています。私も総務省統計局に出向して消費統計の担当課長を務めた経験がありますし、その何台かあtの高2が本書第11章の執筆に当たったりしていますが、統計が着実にそのマニュアルに基づいて公表されている際には、注目はされても問題にはならないものですが、やや不思議な動きを示して、さらに、それが統計作成上の不正に基づく可能性があれば、今回のような大問題になるわけです。役所の仕事はある麺でそういった部分があり、着実かつ堅実の遂行されているのが当然であって、問題がある方がおかしい、ということなんでしょう。ただし、インフラとしての統計については、中等教育から高等教育にかけて統計が生徒や学生にリテラシーを高めるべく教えられ、政府統計を担う組織や職員が必要に応じて整備される、等々の前提がキチンと整えられないと機能するわけはありません。ITCHING技術の進歩により、ハードウェアはムーアの法則に従った指数関数的な伸びを示し、ソフトウェアについてもそれに従った進歩を遂げている現在、教育現場での若い世代のリテラシーの涵養や、公的部門たる政府や業界団体などでそれにふさわしい体制整備が行われていないと、データをプロセスした結果たる統計の作成や利用が進むハズもありません。私はその意味で、身近な地方公共団体における統計主事の必置義務が、行政改革の一環として廃止された1989年(だと思うんですが、やや自信がありません)の制度改革の影響は無視できないと思いますが、残念ながら、それに言及した分析は本書では示されていません。また、公的統計に限らず、マーケティングにおけるデータにしても、本書で指摘されているようなビッグデータの高解像度、高頻度、多様性豊かなデータの利用が限られたインターネット企業にしか出来ない事実も、独占との関係においてもどこまで許容すべきか、との議論も興味あるところです。Googleのチーフエコノミストに転じたハル・ヴァリアン教授がマッキンゼイ・クォータリーで「今後10年でセクシーな職業は統計家である」と発言したのは2009年で、私が統計局に出向していたのは2010~13年の3年弱ですが、そのころは、まだ統計の重要性については萌芽的な認識しかありませんでしたが、統計偽装問題を経て、統計の我が国における重要性が改めて認識された現在、本書の指摘はもっと国民各層に共有されて然るべきではないか、と私は考えています。

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次に、末廣昭・田島俊雄・丸川知雄[編]『中国・新興国ネクサス』(東京大学出版会) です。著者・編者は東大社研のグループではないかと私は想像しています。改革開放路線を取ってからの中国の経済発展はめざましく、GDPで測った経済規模ではすでに我が国を凌駕し、購買力平価ベースでは米国を上回っている可能性すらあります。その中国が共産主義というイデオロギーではなく、経済、特に貿易や投資という実利の世界で新興国や途上国とのリンケージを強めていて、米国の世界的な覇権を揺るがしかねない、という認識が広まっています。ただ、19世紀的なパクス・ブリタニカや20世紀のパクス・アメリカーナと違って、中国は世界の政治経済の秩序、特に自由と民主主義と多様性を許容する世界秩序の擁護者ではなく、自国、あるいは、中国共産党の利益のためであるという点は忘れるべきではありません。本書ではそこまで明確に指摘しているわけではなく、ほのかに示唆しているだけですが、本書冒頭でツキディディスの罠として、新興リーダーたる中国が旧来リーダーである米国に対抗して戦争になる可能性を指摘しているのは、ややミスリーディングです。一昔前の我が国と同じで、現在の中国は、経済的な利益の追求はしても、政治的あるいは軍事的な覇権を求めているとは私にはとても思えません。ですから、本書でも視点は経済面に集中し、貿易と投資による新興国や途上国と中国との関係を明らかにしようと試みています。ですから、本書でも指摘しているように、アイケンベリーのように米国の構築してきた世界的な制度的秩序が継続するという見方とイアン・ブレマーのようにGゼロという多極化世界が現出するか、という2つの見方は相反するのではなく、経済的にはブレマーの見方が成り立つ一方で、政治外交・軍事的にはアイケンベリーに軍配が上がると考えるべきです。そのうえで、本書の指摘するように、経済的には中国の台頭により米国一極集中ではなく多極化した経済構造になりつつありますが、中国の貿易は一昔前の我が国と同じで水平分業的な構造となっており、途上国や他の新興国からエネルギーや原材料を中国が輸入し、逆に、中国からは工業製品を輸出する、という貿易構造が形成されています。さらに、投資面でもアジアインフラ投資銀行(AIIB)などをテコとして、途上国や新興国のインフラを整備するために、中国の「2つの過剰」、すなわち、貿易黒字の裏側で積み上がっている外貨準備の過剰、そして、共産主義に基づく計画経済が解消を目指した生産過剰、特に鉄鋼やセメントなどのインフラ整備に用いられる素材の生産過剰を解消するための新興国・途上国とのリンケージを中国が築こうとしている可能性を忘れるべきではありません。

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次に、ゲアリー・スミス『データは騙る』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア州のポモナ・カレッジの研究者で専門は経済統計学のようです。英語の原題は上の表紙画像にも見られるように Standard Deviations であり、直訳すれば標準偏差ですから、データの散らばりの度合いということになります。2014年の出版です。ということで、最近の国会論戦では厚生労働省の毎月勤労統計の改ざんが頻繁に取り上げられており、アベノミクスの成果として統計を改ざんして賃金が上昇したように見えかけたのではないか、との質疑をよく見かけました。私も統計局の消費統計担当課長として3年近く出向していましたが、統計に問題がないとはいいませんが、悪質な改ざん、意図的なごまかしはなかったと断言できます。ただ、本書では、そういった意図的なごまかしの手法についていくつか取り上げ、さらに、データ情報の誤った解釈に基づく誤った結論の導出に警鐘を鳴らしています。繰り返しになりますが、著者のご専門である経済分野とともに、スポーツや医療のデータも豊富に実例として引用し、身近で判りやすい例がいっぱいです。特に、本書冒頭で強調されている通り、何らかのパターンを見出してしまう傾向には注意が必要です。コイントスでオモテが出続けているので、次もオモテだろうと考える順張りの発想も成り立てば、そろそろウラが出るとする逆張りの発想も飛び出します。しかし、ホントのところはランダムにオモテウラが出ているのであって、コイントスには決してパターンなどは存在しない、という正解を忘れている場合が多いのは確かです。そして、理論なきデータとデータなき理論の両方は危ういと指摘し、データから理論モデルを組み立てる重要性を論じています。つまるところ、科学と言うんは自然科学にせよ、社会科学にせよ、先週取り上げた『FACTFULNESS』ではないんですが、ファクトたる事実を観察して、それらに共通するパターンを見つけ出し、その理論モデルの適合性を追加データで検証する、というのがもっとも基本となるわけですから、何らかのパターンの想定は必要なんですが、そのパターンに無理やりに合致するデータを集めようというのは統計の改ざんにつながりかねない思考という気もします。パターン化の誤謬のほかにも、交絡因子や生存バイアスなどなど、陥りやすいデータの見方の失敗例を数多く取り上げています。ただ、データ分析の専門家に意図的にデータをミスリードするように見せられたら、それを見破るのはそう簡単ではないと実感しました。

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次に、三浦信孝・福井憲彦[編著]『フランス革命と明治維新』(白水社) です。編著者は東大西洋史学科系統の研究者であり、本書は昨年2018年が明治維新150年であったことを記念して開催されたシンポジウムの発表論文を取りまとめたものです。そのシンポジウムにおいては、明治維新とフランス革命を対比させる試みがなされ、フランスからも研究者を招聘しています。ということで、明治維新を考える際に常にトピックとなるのは、明治維新がブルジョワ革命であって、権力が新興の産業ブルジョワジーに移行したため、社会主義革命が次のステップとする労農派の立場を正しいと考えるのか、それとも、明治維新は封建制の払拭に失敗した不徹底なブルジョワ革命であって、社会主義革命に先立って民主主義革命が必要であり、それに引き続いて社会主義革命が起こる、とする二段階革命説に立つ講座派を正しいと見るか、です。本書では明確に前者の労農派の立場に立っています。一方、何度かこのブログでも書きましたが、寄生地主制の広範な残存やそれがための戦後GHQによる農地改革の実行などに見られるように、私は講座派の見解を支持しています。ですから、かなり根本的な部分で、本書と私は明治維新に対する見方が違っています。それを前提としつつも、まずまず、明治維新とフランス革命に関する対比はよくなされている気がします。例えば、対外的なプレッシャーに関してですが、明治維新は黒船来週に対応する国内政治の動向がヒートアップした結果として生じており、明らかに対外要因に基づく革命である一方で、フランス革命については国内要因に基づき、いわば、自然発生的に生じていますが、逆に、その革命の動きが対外的な軋轢を生じてナポレオンによる対外遠征の原因となっています。日本でも、明治維新後に征韓論が台頭し、西郷が政府から離れるきっかけになったことは歴史的に明らかですが、最終的には西南戦争により国内問題として処理されています。明治末期の日清戦争や日露戦争は、鎖国を廃止して対外開放を実行したという意味のほかは明治革命とは直接の関係なく、むしろ、植民地獲得のための帝国主義戦争ともいえます。加えて、日本でも徳川期の士農工商が四民平等に取って代わったわけで、いわゆる二重の意味で自由な市民が誕生しています。さらに、日本においては封建的な重層的な土地所有を地租改正により一気に一掃したわけで、その裏側で担税力ある寄生地主の存在を許したわけです。ただ、産業資本は育つ余地に乏しく、地租改正などによる税収を上げた上で、その財政的な余裕を生かして、八幡製鉄のような官営工場を設立して産業資本の育成に努めた、この土地所有における強固な寄生地主の存在と産業資本の不足が明治維新をして不徹底なブルジョワ革命ならしめた、ということなんだろうと私は考えています。本書の見方とは異なります。念の為。

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次に、木畑洋一『帝国航路(エンパイアルート)を往く』(岩波書店) です。19世紀後半の明治維新を経て文明開化と呼ばれる富国強兵策を展開する明治期の日本に対して、まさに、パクス・ブリタニカと呼ばれるこの世の春を謳歌していた英国の帝国航路、すなわち、英国からフランスのマルセイユ、エジプトのスエズ、アラビア半島のアデン、インドないしセイロン、シンガポールから香港や上海に通ずる東西の交易路を紹介しています。時代的なスコープは19世紀半ばから第2次世界大戦前までとなっています。この時期、我が国からは欧米に外遊や留学に向かうエリート層が少なくなく、米国向けに太平洋を渡る場合はバツにして、欧州向けに旅立つ場合はこの帝国航路は大陸経由のシベリア鉄道ルートとともに、主要な経路となっています。ただ、NHK大河ドラマ「いだてん」でも用いられたシベリア鉄道ルートと違うのは、帝国航路ではアジア各国の港町を通る点です。ですから、この時期の大きな特徴として、帝国主義的な植民地化の機運とも考え合わせ、本書で何度も指摘しているように、文明開化された英国や欧州の人々と違って、アジアの中国人やインド人などは野蛮・未開で、肌の色が黒くて悪臭を放っているとして、かなり大きな差別感情をむき出しに見ている日本人エリートが多かったようです。そして、アジアが欧州の植民地となるのはほぼ自業自得であり、怠惰で迷信深く野蛮・未開なアジア人は土人であって、勤勉で生産性高く科学的な知見を有している文明人たる欧州に支配されるのは当然、との見方が示されています。そして、その先には、アジア解放の名の下に、欧州の支配に代わって我が国がアジアを支配するようになる道筋が暗黙のうちに想定されていたように思います。実は、今世紀初頭2000~03年に私の仕事の都合により、一家でジャカルタに滞在して帰国した折、まだ生きていた私の父親が、その昔の戦後に南方から帰国した軍人などがいわゆる「南洋ボケ」とか、「南方ボケ」といわれるような、価値観や思考パターンに少しズレを生じていたことを指摘してくれました。我が家の帰国直後に父は亡くなりましたので、父が私やカミさんを見てどのような「南洋ボケ」の判定を下したのかは不明ですが、直感的に私にも理解できるものがありました。昭和一桁の私の父でも、アジア人に対するそれなりの偏見があったのですから、本書のスコープである19世紀的な時代背景では、それなりの偏見があったのも仕方なかったのかもしれません。

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次に、石平『中国人の善と悪はなぜ逆さまか』(産経新聞出版) です。現代中国における腐敗の問題から始まり、一般的社会的な贈収賄の腐敗行為は糾弾されるべきであるにもかかわらず、自分の家族が収賄していい生活を遅れるようになるのは歓迎したり自慢したりできる「全家腐」という善悪の逆転について、その真相を解き明かそうと試みています。すなわち、「宗族」という日本にはない考え方があり、家族のもう少し大きな親類縁者をさらに拡大したような同族関係で成り立つ少国家的な集団、立法や行政や司法の三権も講師しかねない集団である「宗族」について解説を加えています。私は十全に理解した自信はありませんが、血縁でつながったインナーサークルのようなものなんだろうと思います。他の「宗族」と武力抗争もすれば、その集団から科挙合格者を出して栄華を極めたりといったところです。そして、その「宗族」の外の集団に対しては徹底的に残忍になるということなんですが、それはキリスト教徒でも同じことで、殺すなかれとか盗むなかれは同じキリスト教徒の間でだけ通用する戎であり、異教徒は殺してもよいというのがキリスト教ですから、動物一般の殺生も禁じる仏教とは違います。ただ、本書を読んでいて、私の理解が及ばなかった点は、共産党政権の成立に伴って、この「宗族」が徹底的に破壊されたにもかかわらず、人民公社の活動とともに復活を果たした、という点です。人民公社を乗っ取る形で「宗族」が復活したとされているんですが、鄧小平による人民公社解体後も「宗族」がさらに拡大しているようで、なかなか私のような凡人には理解が及びません。でもまあ、何となく中国的な前近代性を垣間見たような気もします。体制が民主的な共和制であろうと、独裁的な共産制であろうと、やや偏見が入っているかもしれませんが、中国という国の本質、あるいは中国人の本性といったものは、4000年の歴史の中でそれほど大きく違わない、ということなのかもしれません。

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次に、レイフ G.W. ペーション『許されざる者』(創元推理文庫) です。著者はスウェーデンを代表するミステリ作家のひとりでありますが、何と、本書は邦訳第1作だそうです。上の表紙画像に見えるように、スウェーデン語の原題は Den Döende Detectiven であり、2010年の出版です。繰り返しになりますが、この作者の初の邦訳です。ということで、元警察庁の長官であり、凄腕の刑事だった主人公が脳こうそくで倒れた際に、その主治医からすでに時効となった事件の犯人についての示唆を受け、同じく引退した刑事仲間とともに再捜査に当たる、というストーリーです。そして、タイトルの「許されざる者」というのは、ズバリ、小児性愛者のことです。私は自他ともに認める知性派の異性にひかれる男ですので、いわゆるロリコンとはかなり遠い距離感を持っているんですが、確かに、大人の女性がいうことを聞いてくれないなどの理由で少女性愛に走る男性は少なくないような気もします。しかも、本書では被害にあった少女の父親がスウェーデンから米国に渡って大成功した大金持ちであり、小児性愛者に私的な制裁を加えている疑いありとされていて、かなり複雑なストーリー展開を示しています。さらに、私がもっとも不自然と感じるのは、すでに時効となった小児性愛犯罪の犯人の特定が、匿名のタレコミによるもので、その裏付けが超法規的なDNA鑑定ですから、やや例外的な事実判明としか思えません。ミステリとしては反則スレスレ、という気もします。でも、一枚一枚タマネギの皮をむくように真実が少しずつ明らかにされていく過程は、作者の小説家としての力量が示されていて、私ですらとても評価できるものだると理解しました。その意味で、プロットはともかく重厚なミステリ描写を楽しむことのできる読書でした。

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次に、エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの冒険』(創元推理文庫) です。1934年出版本の新約です。著者は紹介の必要もないでしょう。本格ミステリの王者ともいえます。本書には、「アフリカ旅商人の冒険」、「首吊りアクロバットの冒険」、「一ペニー黒切手の冒険」、「ひげのある女の冒険」、「三人の足の悪い男の冒険」、「見えない恋人の冒険」、「チークのたばこ入れの冒険」、「双頭の犬の冒険」、「ガラスの丸天井付き時計の冒険」、「七匹の黒猫の冒険」、「いかれたお茶会の冒険」の11話が収録されています。タイトルからも伺えるように、シャーロック・ホームズの短編からの影響も強く見られ、ナポレオンの彫像に黒真珠を隠すのに対して、売れない本にめずらしくて高価な切手を隠すとか、いろいろとあります。でも、時代背景とともに、英国と米国の違いもあり、やっぱり拳銃が多用されている気がしますし、その当然の帰結として殺人事件の比率が高い気もします。チャーミングな女性も数多く登場させますし、まあ、総じてやや現代的な色彩がホームズ譚よりも強いのは当然でしょう。

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最後に、G.K. チェスタトン『奇商クラブ』(創元推理文庫) です。これも1905年出版の古典的な短編集です。チェスタトンはブラウン神父シリーズでよく知られているわけですが、そのブラウン神父ものの前に出版されています。「ブラウン少佐の途轍もない冒険」、「赫々(かくかく)たる名声の傷ましき失墜」、「牧師さんがやって来た」、「恐るべき理由」、「家宅周旋人の突飛な投資」、「チャド教授の目を惹く行動」、「老婦人の風変わりな幽棲」の7話が収録されています。バジル・グラントが主人公で、その弟のルーパートとワトソン博士のような役回りで書き留めておくのはスウィンバーンです。奇商クラブのノースオーヴァーが登場する冒頭作から、以下ネタバレかもしれませんが、人に意図的に凹まされる会話応酬世話人、客が厄介払いしたい人物に対する職業的引き止め屋、樹上住宅専門のエージェント、体全体で表現する新たな言語体系の創設者、などなど風変わりなビジネスについて謎解きがなされます。

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