2020年1月12日 (日)

先週の読書は経済書なしで計6冊!!!

先週は、経済書なしで以下の通りの計6冊です。先週、定年退職する直前まで勤務していた役所の研究所の後輩とお話をしていたんですが、今の家を引き払って関西に引っ越しすることとなれば、私の読書ペースがかなり落ちるんではないか、と指摘されてしまいました。まさにその通りと思っています。私のことを読書家であると、善意の誤解をしている知り合いも何人かいたりするんですが、実は、私の読書量は東京都特別区の極めて潤沢な予算に裏付けられているわけで、おそらく、関西に引っ越せば読書量は半減以下に低下し、加えて、読書のタイミングも出版からかなり遅れる可能性があるような気もします。

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次に、高橋直樹・松尾秀哉・吉田徹[編]『現代政治のリーダーシップ』(岩波書店) です。著者・編者は、政治学などの研究者です。2部構成であり、副題が上の表紙画像に見られるように「危機を生き抜いた8人の政治家」となっていて、第1部と第2部に4人ずつ配置しています。第1部はリーダーの個性や資質を強調していて、英国のメージャー首相、ドイツのコール首相、ベルギーのフェルホフスタット首相、アイルランドのヴァラッカー首相であり、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は執筆時に現役首相だったといいますから、それくらいの時点でどこまで評価できるのかはやや疑問です。第2部はリーダー個人の個性や資質に言及しつつも、リーダーを取り巻く制度や環境にも重点を置いていて、英国のブレア首相、フランスのミッテラン大統領、ロシアのエリツィン大統領、そして、メキシコのゴメス中央銀行総裁というラインナップです。本書のタイトルにもあるリーダーシップについては、私の認識では、バーンズのその名も『リーダーシップ』が本書でも古典的なテキストとされていて、もうすっかり大昔に読んだので私は忘れましたが、何種類かのリーダーシップが解説されています。ただ、編者のあとがきにもあるように、平時で status quo で昨日と同じ今日と明日を送っていればいい時期ならば、いわゆる前例踏襲の官僚で十分なのですが、何らかの危機においては微分不可能な下方への屈曲が起きていますので、従来通りの計画をそのまま実行しているのではなく、計画を大きく変更する必要に迫られるわけで、そこにリーダーシップが必要となります。ただし、本書では「英雄待望論」の立場は排されています。ただ、いくつか気になるところがあり、第1部のコール首相は東西ドイツ統一時の政治的トップでしたし、それなりの決断力と指導力は認めるものの、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は、単に個性的というだけで選ばれているような気がします。第2部のブレア首相が後継のブラウン首相とのツートップ的な環境で議論されているとすれば、同じくミッテラン大統領についても、典型的なねじれ現象であったシラク首相との関係にも言及が欲しかった気がします。英国や日本のようなウェストミンスター議会でなく、大統領と首相の両方がいる場合、一般に、ドイツなどのように先進国では首相が優先し、途上国では韓国などのように大統領がトップを務める、というパターンが多いような気がしますが、フランスだけは並立し、しかも、社会党という左派のミッテラン大統領とコアピタシオンながらド・ゴール派の流れをくむ共和国連合のシラク首相が並立していた時期があります。わずかに2年ほどで、隣国ドイツ統一の少し前の時期であり、ドイツ統一時は大統領・首相ともに社会党だったんですが、政治的リーダーを取り巻く環境や制度を論じるのであれば、ミッテラン大統領とシラク首相はぜひとも分析対象に乗せるべきだと私は考えます。メキシコのゴメス中銀総裁について、金融政策の専門性や事務処理能力についてはともかく、人脈などのソーシャル・キャピタルに重点を当てるのであれば、もはや、リーダーシップではないような気もするんですが、いかがでしょうか。最後に、リーダーシップについて、私の考える我が日本の2点を確認しておくと、第1に、田中角栄総理が総理を辞任してからのリーダーシップはすごかったんではないかという気がします。もっとも、リーダーシップではなく、単なるパワー=政治力という気がすることも確かです。第2に、リーマン・ショック後に「政治主導」を掲げて政権交代に成功した民主党政権は、危機時のリーダーシップのあり方として、とても方向性は正しかった気がするんですが、結果的に大きくコケたのはどうしてなんでしょうか。さまざまな分析あるものの、私はまだコレといった決定打を発見していません。

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次に、池田太臣・木村至聖・小島伸之[編著]『巨大ロボットの社会学』(法律文化社) です。著者や編者は、大学の社会学の研究者です。ロボットについては、1963年にアニメ放送が開始された「鉄腕アトム」と「鉄人28号」が我が国での嚆矢となるわけですが、本書では、「巨大ロボット」ということで、鉄腕アトム的なサイズではなく、大きなロボットであって、でも、鉄人28号のように外部のリモコンで操作されるわけでもなく、かといって鉄腕アトムのようにAIよろしく自立的に行動するわけでもなく、ガンダム的にコクピットに人間が入って操作する巨大ロボット、のアニメの社会学を展開しています。「鉄腕アトム」と「鉄人28号」の放送開始の1963年は私は小学校に上がる直前であり、私個人は「鉄人28号」に熱狂した記憶があります。お絵描きでは常に題材は鉄人28号でした。今でも主題歌は歌えるのではないかと思います。また、本書で定義する「巨大ロボット」、すなわち、ドラえもんや鉄腕アトムのサイズではなく、見上げるような大きさのロボットであり、コックピットに人間が入って操縦するロボット、トランスフォーマーのような棒筒などではなくヒト型であり、しかも、それがアニメで放送されたものとなると、その典型である「ガンダム」が放送開始された1979年には20歳過ぎの大学生のころであり、それなりにアニメにも関心の高い年代であり、私としても親しみを覚えます。ただ、本書では「ガンダム」が放送開始された1970年代末はむしろ、巨大ロボットがマンネリ化していた時期であり、むしろ、「ガンダム」は例外的なヒットを飛ばした、ということなのかもしれません。また、1990年代半ばから放送された「エヴァンゲリヲン」も、基本的には「ガンダム」の路線を引き継いで社会的現象も引き起こしました。例えば、私の記憶が正しければ、日本酒の「獺祭」は、「エヴァンゲリヲン」の特務機関ネルフの将校であった葛城ミサトが愛飲していたことから流行に波に乗った、と私は考えているんですが、私と同世代ないし若い世代の酒飲みといっしょに「獺祭」を飲んでも、この葛城ミサトの事実は認識されていないようです。「エヴァンゲリヲン」を見ていないのだろうと思います。同じヒット商品ということで経済的な観点では、ガンダムについては1/144HGスケールをはじめとするガンプラが大きな影響力を持っていたと私は考えています。我が家の倅2人も小学生のころからガンプラ作成にいそしみ、上の倅なんぞは中学・高校・大学と模型クラブに所属して、中学・高校の文化祭はいうに及ばず、大学祭でもガンプラの作品を展示していた記憶があります。こういった経済的・社会的現象も引き起こした「巨大ロボット」について社会学的に解明した結果を、本書は興味深く取りまとめています。

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次に、伊岡瞬『不審者』(集英社) です。作者は、注目の小説家であり、私は初めて作品に接しました。この作品は、会社員の夫と5歳の息子、それに、夫の母親と都内は調布市に暮らす30代前半の主婦を主人公に設定しています。ストーリーのあらすじは、主人公は主婦業のかたわら、フリーの校閲者として仕事をこなす一方で、子供の幼稚園バスのママ友との通り一遍ながら交流もあり、平凡な日々を送っていましたが、ある日、夫がサプライズで客を招き、その人物は、何と、21年間音信不通だった夫の兄だといい出します。その義兄は現在では起業家で独身だと夫はいうものの、最初は自分の息子本人だと信用しない義母の態度もあり、主人公は不信感を募らせるのですが、夫の一存で1週間ほど義兄を同居・居候させることになってしまいます。それから、というか、その直前くらいから、主人公の周囲では不可解な出来事が多発するようになり、主人公は特に子供の安全について不安を募らせる、というカンジです。要するに、ネタバレの結論をいえば、私が読んだ中では、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』のように正常と異常が反対な作品と同じだったりします。なお、さすがに、ネタバレ部分は透明フォントを使っており、カーソルなどで範囲指定して色を反転させても見ることはできませんが、それなりにhtmlの知識があり、あくまで見たいのであれば、見ることはできるでしょう。約300ページの出版物の中の最後の方の250ページ目くらいから謎解きが始まるんですが、ここに達するまでに、かなり多くの読者は謎が解けているくらいの割合と平凡なプロットで、ミステリとしては凡庸な仕上がりです。もっと、早くからタマネギの皮をむくように、徐々に真相に迫るような運びの方が望ましいのですが、まさか、そこまでの表現力ないとは思いませんから、作者があくまで意図的に最後に一気に真相を明らかにする手法を選んだのではないか、と私は受け止めています。ただ、もしそうだとすれば、やや疑問が残るところです。なお、私の知り合いでオススメしてくれた読書人からの受け売りながら、最後の最後に犯人の弁護をするために登場する白石法律事務所は、同じ作者の別の作品である『代償』や『悪寒』にも出ているそうです。私の読後感としては、謎解きこそ少し疑問あってミステリとしては物足りない気がしますし、かなり、「小説的」な異常なシチュエーションで展開されるストーリーではありますが、主人公の視点から見た平凡な日常が崩れていく、という意味では、それなりのスピード感あふれるサスペンスとしていい出来ですし、別に代表作があったりするんではないか、とも気にかかりますし、ということで、もう少しこの作家の作品を読んでみたい気もします。引っ越しで忙しくて、読まないかもしれませんが、それなりに読書意欲はあります。

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次に、いとうせいこう『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書) です。著者は小説家、ノンフィクション・ライターです。2017年だったと思うんですが、同じ著者が『「国境なき医師団」を見に行く』という本を同じ出版社から出していますので、その続編ということになり、本書でも、前著が「俺」を主語にして、やや興奮気味の内容だったのに対して、本書はもっとすそ野を広くと考えたと記しています。ということで、やや落ち着いて、1999年にノーベル平和賞を受賞した「国境なき医師団」MSF=Médecins Sans Frontières について、日本国内のスタッフとともに、海外の現に活動しているサイトのスタッフをインタビューした内容です。本書にもあるように、「国境なき医師団」とはいえ、もちろん、医師以外にも医療スタッフは必要なわけですし、本書でもロジスティックスに携わるスタッフが登場したりして、医療が半分、非医療も半分という構成が明らかにされています。ですから、医師でなくても「国境なき医師団」になれるわけです。私はエコノミストであって、もちろん、医師ではありませんし、医療関係のスキルも、ロジスティックスのスキルもなく、紛争地帯などにおける医療活動を支えることは出来そうもありませんが、本書でも、地震被害が大きかったハイチやアフリカの紛争地帯を想像させるウガンダ・南スーダンといったサイトでのインタビューもありますが、フィリピンについては「錨を下ろして活動する必要」という言葉があります。必ずしも本来業務ではないものの、私も開発経済に携わるエコノミストとして、ささやかながらインドネシアで3年間活動した経験があります。もちろん、公務員の活動の一部として辞令1枚で赴任した私なんぞと違って、"too motivated" という表現が本書にもありますが、過大とさえいえる意欲をもって「国境なき医師団」の活動を進めるスタッフには、その使命感のレベルの差は歴然としています。ただ、基本は、各個人の持っている能力や専門性を生かして、途上国の発展や途上国の人々の幸福のためにどれだけ役立てられるか、ということであると私は考えています。現在の資本主義の実態を見れば、その昔のスミス『国富論』的に個人の経済的利益の追求が見えざる手により経済全体の厚生を高める、という神話はほぼ崩壊したわけですし、自主的な利他的活動が求めらるのはいうまでもありません。本書では、個々のインタビュー結果の事実関係を通じて、個人的な小さな物語から大きな物語、すなわち、いかに、世界、特に、途上国で大きな困難を抱える人々の役に立つかの精神や使命感の高さを読み取って欲しいと私は期待します。もちろん、世界に目を向けつつも、国内で困難を抱える人も少なくないわけで、資本主義的な自己の利益追求から、国内外を通じて、より広い視野での活動の大切さを感じ取って欲しいと思います。


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最後に、マルティン・エスターダール『スターリンの息子』上下(ハヤカワ文庫) です。作者は、スウェーデンのミステリ作家であり、本書は初めての邦訳書だそうです。スウェーデン語のタイトルは BE INTE OM NÅD であり、解説によれば「慈悲を乞うなかれ」という意味だそうです。スウェーデン語の原書の出版は2016年ながら、邦訳書は2018年出版のドイツ語版から訳出されているそうです。3部作の第1作のようです。ということで、舞台は基本的に1996年2月から3月にかけてのストックホルムなんですが、時折、1944年1月のストックホルムも振り返られたりします。軍隊から恋人の勤務する通信コンサル会社に転職した主人公は、その恋人がロシアで消息を絶ったことで捜索を始めるところからストーリーが動き出します。もちろん、主人公はロシアに行くことになるんですが、ストックホルムとともに虚々実々のスパイもどき、というか、スパイそのものの駆け引きや、外国小説らしく拳銃がドンパチやったり、爆弾が炸裂したりと、かなり残虐な場面もあったりします。最後は、まあ、それなりに意外感あるのではないでしょうか。スウェーデンにはエリクソンなどの通信機器メーカーが有名ですし、小説の舞台となっている1996年の時点でも、かなり先行き有望観があったでしょうから、こういった北欧通信機器企業に旧ソ連のスターリン主義者、というか、スターリン信奉者が暗躍する一方で、第2次世界大戦終盤の1944年のソ連のよるストックホルム誤爆、というか、空爆の謎を絡めたサスペンスとしてストーリーが進みます。旧ソ連崩壊から数年を経たエリツィン政権下のロシア経済の混乱、特に、経済マフィア的なギャングの暗躍をスウェーデンの秘められた歴史とともにストーリーを進めるのは、私はそれなりに面白く感じないでもないんですが、体感的に理解できる読者とそうでない読者がいそうな気がします。出版の20年前の1996年を舞台に選んだのも、戦争終盤の1944年から50年、ということで、戦争の生き残りがまだいる可能性を残したかったんでしょうが、ややムリありますし、欧州にはまだまだネオナチ的なヒトラー信奉者がいそうな気がする一方で、ロシアにまだスターリン信奉者なんているのか、というシロート目線の疑問もあります。加えて、海外作品ですから仕方ありませんが、馴染みのない人物名がとても複雑な人間関係を構築してくれて、私のような人名記憶キャパの小さい読者はなかなか理解がはかどりません。私自身は、ラーソンからラーゲルクランツに書き継がれている「ミレニアム」のシリーズは大好きですし、スウェーデンをはじめとする北欧ミステリの作品のレベルの高さを知っているだけに、今後の作品に期待なのかもしれません。

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2020年1月 4日 (土)

年末年始休みの読書やいかに?

年末年始の読書は、すでに火曜日に取り上げたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を別にして、いろいろと取り混ぜて、以下の通りです。なお、今日の日経新聞に、昨年2019年12月28日の読書感想文で取り上げたアイザックソン『イノベータース』上下と11月30日付けの青山七恵『私の家』の書評が掲載されていました。大手新聞に先んじたのはとても久しぶりな気がします。なお、まだ正月休みが私の場合続いていて、夕方から缶ビールを開けている上に、全部で9冊もありますので、手短かにして手を抜きます。悪しからず。

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まず、ミレヤ・ソリース『貿易国家のジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。著者は、メキシコ出身のエコノミストであり、現在は米国ブルッキングス研究所の東アジアセンター所長を務めており、中学生の頃に日本語を勉強していて当時の大平総理と会ったことがあるそうです。英語の原題は Dilemmas of a Trading Nation であり、2017年の出版です。ということで、タイトルにあるジレンマとは、本書では2つ指摘されていて、ひとつは既得権益に切り込む決断が求められる局面になるほど反対論が広がり、幅広い合意を得にくくなる点であり、もうひとつは自由化で不利になる部門に対する補助金の支出と、一部の産業に縮小や退出を求める改革の断行が出来にくくなる点、とされています。自由貿易の場合、一国全体ではお得なわけですが、あくまで得をするセクターと損をするセクターを比べて、前者から後者に補償がなされるとういう前提ですので、ジレンマと称するのは少し違う気もしますが、現実には、そういった補償は十分ではなく、確かに焦点を当てる値打ちはあるのかもしれません。本書でも指摘されている通り、損をするセクターはツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論からして主張する声が大きくなりますので、それなりの補償が自由貿易を公正な貿易にするために必要です。本書では、当然ながら、日本についても大きな注目を払っています。

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次に、石井光太『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、貧困や格差に注目しているようですが、エコノミストではありませんから、本書ではかなりアバウトな議論が展開されていると覚悟して読み始めるべきです。例えば、冒頭から、世界の貧困と日本の貧困が並べられていますが、前者の世界レベルは絶対的貧困である一方で、後者の日本レベルは相対的貧困率ですので、著者が意図的にそれを狙っているとは思いたくありませんが、詳しくない読者は日本人の7人に1人が1日1.9ドル未満で暮らしていると勘違いすることと思います。ただ、若年者にスポットを当てた貧困論、あるいは、格差論を展開していますので、私は好感を持ちました。貧困を論ずる場合、どうしても、母子家庭、高齢者、疾病が3大要因となっている現実がありますので、高齢層に注目してしまう例もあるんですが、母子家庭を含めて若年者の貧困や家庭問題に着目しているのは評価できます。また、日本国内だけでなく、広く世界の貧困の実態にも目配りが行き届いています。

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次に、広田照幸『大学論を組み替える』(名古屋大学出版会) です。著者は、東京大学大学院教育学研究科教授などを経て、現在は日本大学文理学部教授、日本教育学会会長を務めています。出版社からしても、かなり学術書に近い印象です。何度か書きましたが、私は今年は生まれ故郷の関西に引っ越して、4月から私大経済学部の教員になる予定です。ただ、学生諸君への教育や自分自身の研究とともに、公務員出身ですので何らかの大学運営に携わることも期待されているのではないか、と勝手に想像して、大学改革論を1冊読んでみました。教育については、医療などとともに、いわゆる非対称性の大きい分野であり、市場経済では効率性が確保されません。その上、学問の自由や大学自治が絡むと、かなりヘビーなイシューとなります。今年の1年目からいきなり大学や学部の運営に関わることはないとは楽観していますが、これから、先々勉強することとしたいと考えています。

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次に、ニール・ドグラース・タイソン & エイヴィス・ラング『宇宙の地政学』上下(原書房) です。著者は、米国自然史博物館の天体物理学者と同じ博物館ん研究者・編集者です。英語の原題は Accessory to War であり、2018年の出版です。ノッケから、天体物理学がいかにも戦争のために利用可能な現状を宣言し、中世から天文学者が戦争において果たした役割の解説から始まったりします。でも、本書は純粋な天文物理学書でもないことは当然ながら、軍事的な武器の解説書といった内容でもなく、もっと散文的なコンテンツを想像していた私には、かなり詩的な表現ぶりに驚かされたことも事実です。中世から始まって、宇宙の軍事利用の歴史をかなり長期にさかのぼって振り返り、米ソの宇宙開発の戦争利用の可能性を広く主張し、私も含めてついつい人々が目を逸らしがちな現実を明らかにしてくれています。

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次に、加藤陽子『天皇と軍隊の近代史』(けいそうブックス) です。著者は東大の歴史研究者であり、近代史がご専門と認識しています。ということで、タイトル通りの内容なんですが、明治以降の近代で初めて譲位という形で天皇の交代があり、開眼した経験を経て、近代における天皇と軍隊の歴史を振り返ります。天皇から「股肱の臣」と呼ばれた軍隊に対して、軍人勅語が示され、統帥権の独立、というか、内閣からの不感症を確立して戦争に突き進む実態が歴史研究者によって明らかにされています。ただ、内容的には、掘り尽くされた分野ですので、特に新たな史的発見があるわけではありません。ただ、振り返っておく値打ちはありそうな気がする分野です。

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次に、諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) と外川淳『明智光秀の生涯』(三笠書房知的生きかた文庫) です。著者は、陸上自衛隊高等工科学校教官と歴史アナリスト・作家です。今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀だったりしますので、私も少し勉強してみたく、2冊ほど借りて読みました。明智光秀といえば、当然ながら、織田信長を暗殺した本能寺の変なんですが、その要因としても、現代でいえばパワハラに反発した怨恨説から、天下奪取説、調停や室町幕府や果ては秀吉までが絡む黒幕説、などなど、いろいろと持ち出されているんですが、斉藤利三首謀説まで飛び出しています。ただ、斉藤利三が仕掛けたのだとすれば、春日局が取り立てられることはなかった気もします。それは別として、跡付けの歴史的な観点からすれば、天下統一後の政治的展開を考えれば、重厚な家臣団を擁する織田か徳川くらいしか治世展開を続けることが出来ず、成り上がりの豊臣秀吉とか、明智光秀も天下統一を維持して天下泰平まで実現することは難しかっただろうと私は考えています。明智光秀は確かに文化人だったのかもしれませんが、それだけで天下はどうにもなりません。

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最後に、グレン・サリバン『海を渡ったスキヤキ』(中央公論新社) です。著者は米国ハワイ生まれで、1984年に来日し、英会話学校教師として勤務後、雑誌『日本語ジャーナル』の英文監修者・翻訳家として活動した後、1992年に帰米してコーネル大学大学院でアジア文学を履修、とあり、邦訳者のクレジットがありませんから、著者が日本語で書いたものであろうと私は想像ています。基本的に、和食が米国でどのように受容されていったのかの歴史を展開しているんですが、その和食を持ち込んだ日本人が米国で受容されたのかの歴史にもなっています。もちろん、第2次世界対戦時の収容所についても言及があり、悲しい歴史にも目を背けていません。天ぷらは本書では注目されていませんが、スシや鉄板焼など、とても家庭の主婦が調理するとは思えない料理が、ついつい、米国をはじめとする諸外国では「日本食」として認識される中で、そういった誤解を助長しかねない本書なんですが、それはそれで、和食・日本食の海外展開での歴史を知ることが出来るような気がします。

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2019年12月30日 (月)

本年最後の読書感想文でジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を読む!

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先週借りておいたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(日本経済新聞出版社) を読みました。隣国ソ連に侵攻された1930~40年代のフィンランド、江戸末期にペリー来航などで欧米列強から開国を迫られた日本、世界で初めて選挙によって社会主義アジェンデ政権が誕生した後に軍事クーデターとピノチェトの独裁政権に苦しんだチリ、クーデター失敗と大量虐殺を経験したインドネシア、東西分断とナチスの負の遺産に向き合ったドイツ、白豪主義の放棄とナショナル・アイデンティティの危機に直面したオーストラリア、の6カ国を題材にしたケーススタディです。先月は本書の出版宣伝なのかどうか知りませんが、来日公演会の開催などがあったようです。私の目から見て、かなり著者の専門分野から外れた問題意識を展開しているような気がして、どこまで信頼感を持って読み進めばいいのか不安だったんですが、さすがに、それなりの仕上がりにはなっています。米国まで含めても、せいぜいが200年間の7か国が対象ですし、著者の12項目のクライテリアをもってしても、結論を一般化するのはとても難しい気がしますが、さすがに、エピローグで著者ご自身がナラティブで定性的な議論の展開から、定量的な手法の導入をいわざるを得なくなっていたりします。評価項目の7番目に公正な自己評価というのがありますが、要するに、自分自身あるいは自国を客観的に評価するということだろうと私は理解していて、これがもっとも難しいのだろうと想像します。もうひとつ難しいのは、本書には現れませんが、評価関数の設定です。経済学では、トレードオフという概念があって、要するに、コチラを立てればアチラが立たず、という相反する2つの目標があったりします。そこまでいかなくても、リソースの不足から2つ以上の複数の目標達成は困難で、プライオリティに従ったリソース配分を必要とする場合も少なくありません。いずれにせよ、第3部第10章の日米が直面する高齢化や政治的分裂といった危機に加えて、最後のエピローグ前の第3部第11章に示された危機意識、すなわち、人類全体の危機として核、気候変動、エネルギー、格差が指摘されていて、本書の問題意識はそれなりに重要だと直感的には私なりに理解するんですが、失礼ながら、単なる無責任な問題意識の表明であればともかく、著者ご自身にどこまで解決策を示す能力があるのかどうか、言葉を変えれば、どこまで行っても著者には結論を出せない問題に入り込むような不安が残ります。

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2019年12月28日 (土)

今週の読書は資本主義について考えさせられる経済書をはじめとして計8冊!

今週の読書は、資本主義について深く考えを巡らせる経済書をはじめとして、以下の通りの計8冊でした。大雑把に、都内の区立図書館は今日までの営業のようですが、結局、ダイアモンド『危機と人類』は来週の年末年始休みに回すことにしました。

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まず、根井雅弘『資本主義はいかに衰退するのか』(NHKブックス) です。著者は、我が母校である京都大学経済学部の経済学史を専門とする研究者です。当然ながら、40年ほど昔の私の在学中にも経済学史の先生はいたわけですが、そのころの経済学史担当の先生は時代を先取りしていたというか、「研究室内禁煙」を明記していました。私の所属するゼミの先生なんて、自らパイプを燻らせているような時代でしたので、何となく違和感を覚えた記憶が残っていますが、今なら何ということもなく、私も来年私大の教員になる際には研究室は禁煙にする予定だったりします。それはそれとして、本書の具育大は「ミーゼス、ハイエク、そしてシュンペーター」となっており、20世紀前半から1970年代くらいのオーストリアン学派の中核をなしつつも、必ずしもナチスによるユダヤ人迫害ばかりでもなく、米国の大学に研究の場を求めたエコノミスト3人です。本書のタイトルからして、資本主義から社会主義への移行をテーマにしているわけですが、1990年代初頭に旧ソ連が崩壊して多くの東欧諸国とともに資本主義に移行し、中国・ベトナム・キューバなどの一部に社会主義と自称する国が残ってはいるものの、資本主義と社会主義の歴史的な役割についてはすでに決着がついた、と考えるエコノミストが多そうなところ、それを経済学史的にホントに振り返っています。ご本家のマルクスをはじめとして、マルクス主義のエコノミストの多くは、あくまで私の想像ですが、資本主義から社会主義への移行は歴史的必然であり、好ましいと考えていたわけですが、副題に上げられたオーストリア学派の3人については、少なくともシュンペーターは決して好ましいとは考えず渋々ながら資本主義から社会主義への移行はある程度の歴史的必然であると考えていた一方で、ミーゼスは今でいうところの市場原理主義的なエコノミストですし、ハイエクも社会主義を左派の全体主義、ファシストを右派の全体主義とひとくくりにして論じていたと私は認識していますので、シュンペーターとはかなり見方が異なると考えるべきです。ただ、1930年代にウォール街に端を発する世界大恐慌の中で、古典派的な完全競争を賛美する資本主義はむしろ好ましくなく、何らかの政府の市場介入が必要と考えるエコノミストが多かったことも事実です。ひとつの大きな流れがケインズであるのはいうまでもありません。古典派的なレッセ・フェールの資本主義をいかに安定的な気候に作り替えるかが当時のテーマであり、ミーゼスのように資本主義の不安定性を否定する議論は、当時は受け入れがたかった気がする一方で、気が進まないながら渋々社会主義への移行を見込んだシュンペーターの見方も理解できるところです。経済体制的には大きな意味ある議論とは考えられませんが、資本主義をいかに社会全体に、あるいは、国民に安心できるシステムに磨き上げていくか、という点でのエコノミストの努力を読み取るべきかもしれません。巻末の読書案内が迷惑なくらいに充実しています。私はかなり前に同じ著者の『経済学者はこう考えてきた』を読んで、その際、巻末の読書案内は適当だったような記憶があるんですが、本書のはやや重厚に過ぎる気がしました。もっとも、あくまで個人の感想です。

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次に、望月智之『2025年、人は「買い物」をしなくなる』(クロスメディア・パブリッシング) です。著者は、デジタルマーケティング支援を提供するコンサルタント会社の経営者です。今週号の「東洋経済」のアマゾンで「売れているビジネス書」ランキングで、先週の130位から29位にランクアップしたと注目されていたりしました。ということで、買い物についての将来像を提供してくれています。本書の終章で出て来るのを少し私なりにアレンジすると、その昔は、1日かけて百貨店で買い物をしていたところ、私の子供時代なんかはモータリゼーションの時代で一家そろって朝から自動車でショッピングモールに出かけてランチの後に帰宅するという半日がかりの買い物の時代を経て、自転車で1時間のスーパーの買い物、そして、最近では、リアルの店舗なら10~15分でコンビニ、あるいは、5分以内でインターネット通販で買い物を終える、といったカンジでしょうか。通販を別にすれば、お店に足を運んで、品定めをし、レジに並んでお支払いを済ませ帰宅する、ということで、「家に帰り着くまでが遠足」ではないですが、帰宅までを考えれば、確かに買い物はメンドウです。しかし、他方で、資本主義的な世界観からすれば、典型的にお金を払って買う方とお金をもらって売る方の、決して対等ではあり得ない関係が実現するのが買い物という現実です。例えば、我が家は子供が小さかったということもあって、買い物の荷物を運び込むのに便利な低層階、2~3階に住んでいたんですが、最近ではインターネット通販などで買ったものを運んでもらえば高層階の生活も快適、なんて時代であったりするわけで、お金持ちの国民がお金を払って運ばせる側とお金をもらって運ぶ側に分断されている感すらあります。他方で、本書のいうように、もはや消費の選択すらせずに、AIにお任せでいつものトイレットペーパーや日用品や化粧品などを定期的に購入するようなライフスタイルも可能にあっています。トイレットペーパーの在庫をAIが確認して自動的に発注するとかです。こうなれば、人類がAIの家畜ないしペットになる一歩手前、と感じるのは私だけでしょうか。ネコが飼い主にエサをねだって、トイレの砂を交換してもらうようなもんです。ペットのネコがペットフードに依存して狩りをしなくなるように、人間もAIのチョイスにお任せで買い物をしなくなるのかもしれません。「上級国民」はAIが必需品を発注して、「下級国民」がそれを運ぶ、ということになるのかもしれません。そうならないように、自覚的な民主勢力の行動が求められているのかもしれません。本書もある意味で資本主義について深く考えさせられる読書でした。

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次に、 レイ・フィスマン & ミリアム A. ゴールデン 『コラプション』(慶應義塾大学出版会) です。著者2人は、米国の大学において行動経済学と政治学のそれぞれの研究者です。英語の原題は Corruption であり、2017年の出版です。一般名詞としての「コラプション」には、汚職と腐敗の2通りの邦訳がありますが、本書では前者の意味で用いており、さらに、公務員に対するものだけを対象としています。ですから、少し前に我が国でも話題になった建設業界の談合などは少し違う扱いかもしれません。ということで、本書で一貫して強調されているのは、汚職を含む資源配分ないし所得分配についてもひとつの均衡であるという点です。ですから、限定的とはいえ、経済合理性からいくぶんなりとも説明できるハズ、ということになります。例えば、どこかの駐車場に料金を支払って車を置くか、路上駐車で罰金を支払うか、はたまた、路上駐車で取り締まりの警官に賄賂を支払って罰金を逃れるか、の大雑把に3つの選択肢から、主観的な期待値と確率から最適解を選択するわけです。ただ、一般論ながら、公務員に賄賂を渡して不正な手段で利益を上げるのは、経済的な最適資源配分から歪みを生じて非効率を生み出す可能性が高くなり、これも一般論ながら、汚職は避けるべきであると見なされており、そのための方策についても本書では考えを巡らせています。個別具体的なケーススタディよりも豊富ですが、定量的な分析に重点が置かれているようです。例えば、民主主義と専制主義でどちらが汚職の割合が高いか、については、王政を例外として専制主義の方に汚職がはびこる可能性を指摘していますし、他方で、公務員のお給料を上げれば汚職が減少するケースとそうならないケースの分析など、いろんなケーススタディも示されています。日本に住んでいる我々にはそれほど目につきませんが、途上国では賄賂を贈る汚職は日常的にあり得るものです。実は、私はチリではともかく、インドネシアでも現地の免許証を取って自動車を運転していたんですが、ほとんど現地語を理解しない私がどうやって免許証を取得したかといえば、控えめにいっても、違法スレスレのわいろ性あるつけとどけが効き目あったとしか思えません。ただ、その昔には、本書で紹介されているようなレフの議論にもあるように、極論すれば、途上国の不可解で不合理な規制を回避するために賄賂を贈っての汚職がむしろ経済合理的だった可能性も比叡出来ないわけですが、今ではそんなこともないと考えるべきです。途上国援助や開発に絡んだ汚職は今もって決して例外的なものではなく、基本的にはカギカッコ付きの「文化」とすらいえる段階まで一般化した汚職が、みんながやっているから自分の汚職に対する認識とは別にして、自分もやる、ということにつながっています。前半のみんながやっている、という部分は期待ですから、我が国のデフレ対策と同じで、期待に働きかけて、誤った期待を払拭するのはとても時間がかかります。特効薬はありません。地道な活動が必要、という結論しか出て来ず、私のようなのんびりした田舎者が取り組むべき課題のような気がして、逆に、せっかちな都会人には不向きかもしれません。

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次に、岡奈津子『<賄賂>のある暮らし』(白水社) です。著者はアジア経済研究所の研究者であり、地域的な専門分野は中央アジアです。この読書感想文の直前に取り上げた『コラプション』がケーススタディよりも定量的な評価に重きを置いた学術書だったのに対して、本書も専門的な学術書の要素あるとはいえ、ほぼほぼケーススタディ、しかも、著者が自分で情報を収集した限りのカザフスタンのケーススタディとなっています。本書でも、基本的に公務員や何らかの有資格者に対する賄賂を取り上げており、交通警官をはじめとする警察官や役所への対応における賄賂、さらに、教育と医療の現場における賄賂に着目しています。カザフスタンは1990年代初頭に旧ソ連の社会主義経済から切り離されて独立し、いわゆる移行国として市場経済化が進められる中で、資源依存ながら今世紀初頭から経済成長が本格化し、現在では1人当たりGDPが1万ドルを超える高位中所得国となっています。その中で、本書で取り上げられているようなメチャクチャな賄賂がまかり通るようになっているようです。私はインドネシアの汚職の現状に関する情報もいくぶんかは接する機会がありましたし、そもそも、ビジネス上で賄賂とまでいわないまでも、営業が売り込む際の接待などは我が国でも日常的に見られるわけですし、医療についてもお金持ちほど高額で先進的な医療を受けられるのは、決して賄賂が常態化しているわけではない先進国でも、これまいくぶんなりとも、ご同様です。しかし、本書で取り上げられている教育における賄賂というのはややびっくりしました。いい学校に合格するのも賄賂が効いて、成績も博士号の学位も賄賂次第、というのはどうなんでしょうか。1人当たりGDPが平均的に1万ドルを超えるくらいの高位中所得国における教育の賄賂の相場を本書から見ても、かなり高額であることはいうまでもありません。少なくとも、我が日本においては、それなりに教育の場における公平性というのが確保されてきたことは特筆すべきです。ですからこそ、森友・加計問題が大きな注目を浴びたわけですし、医大入試の性差別もご同様です。もちろん、こういった例外を別にすれば、少なくとも入試の公平性については我が国では信頼感あるわけですし、だからこそ、この暮れの大学入試への民間英語試験導入や記述式問題の見送りなどが大きく報じられているわけです。我が国でのそれなりのブランド大学への信頼感はまだ残っていて、それが悪い方向に作用するケースも決して少なくありませんが、学界はいうまでもなく、政界や官界や実業界などでも大学のランクはそれなりの重みを持ち、単なるシグナリング効果だけにしても、有効なケースも少なくありません。こういった教育の場における賄賂については、カザフスタンの先行きを懸念させるに十分な気がするのは私だけではないと感じました。

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次に、ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』1&2 (講談社) です。英語の原題は Innovators であり、2014年の出版です。著者は、CNNのCEOを務めt顔ともあるジャーナリスト、また、歴史学者であり、本書の冒頭で自身を「伝記作家」と位置付けています。伝記作家としては、今までは個人を取り上げてきており、世界的なベストセラーとなった『スティーブ・ジョブズ』1&2のほか、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下、『ベンジャミン・フランクリン伝』、『アインシュタイン伝』、『キッシンジャー伝』などがあります。ただ、本書では特定の個人を取り上げるのではなく、コンピュータやICTとも称される通信技術、もちろん、インターネットも含めてのテクノロジー全般を、発明者というものは存在しないものの、幅広く関連する人物像にスポットを当てています。私は英語版の原書の表紙を見た記憶があるんですが、ラブレス伯爵夫人エイダ、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、アラン・チューリングの4人が並んでいたりしました。まず、第1巻では、コンピュータの母といわれ英国の女性数学者でもある伯爵夫人エイダ・ラブレスの存在から、世界初のコンピュータENIACの誕生、プログラミングの歴史、トランジスタとマイクロチップの発明、そしてインターネットが生まれるまでを網羅し、第2巻では、比較的直近までのデジタルイノベーションのすべて、すなわち、パーソナルコンピュータ、ソフトウェア、ブログ、Google、ウィキなどが取り上げられた上で、終章でラブレス伯爵夫人エイダに立ち戻っています。邦訳のイノベーターはそのままイノベーションを行う人という意味ですし、コンピューターやインターネットなどのイノベーション、さらに、人工知能=AIに関する著書の考え方が色濃く示されています。例えば、イノベーションは突出した天才が1人で実行するのか、それとも、テクノクラート的なチームでの達成の成果なのか、という点については、やや残念なことに折衷的な見方が示されており、傑出した大天才がチームを組んでイノベーションを実行する、ということになっています。ただ、後者のAIに関する見方は明確であり、機械が思考することはありえないとのレディ・エイダの考えを示し、機械はあくまで人間のプログラミングに従って動くものと規定しています。ですから、AIが人類の支配者になることは想定していないようです。ということで、ジャーナリスト的な才能ある歴史研究者、というか、その逆の歴史研究者の資質あるジャーナリストでもいいんですが、テクノロジーの詳細な解説はほぼほぼなしに近い点に不満を持つ向きがあるような気がしないでもないものの、人物像を生い立ちから家庭的なバックグラウンドまで迫ってキャラを立て、技術が社会的ンどのような貢献をなしたかを明確に示した歴史書です。時系列的に順を追っているだけでなく、タイトル通りのイノベーターたちという人物を就寝に据えながら、技術を章別のテーマに立てて、かなり判りやすく史実を並べています。決してコンパクトではありませんし、英語版の原書は5年前の出版ながら、キチンと押さえるべきポイントは押さえられており、邦訳がいいのも相まって、私のように工学的な知識がなくても、スラスラと読み進むことが出来ます。

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次に、湊かなえ『落日』(角川春樹事務所) です。著者は、ご存じイヤミスと呼ばれる読後感の悪いミステリ作家です。本作品は直木賞候補作となっています。ということで、同年代30歳過ぎの2人の女性をメインとサブの主人公に配し、20年前の少年・少女時代の地方の一家殺人事件の真相に迫るミステリです。メインの主人公はアシスタント的な役割ながらシナリオライター、サブの主人公は世界を舞台に活躍する映画監督です。この2人は出身地が同じで、その地で起こった一家殺人事件、すでに裁判が終わって判決も確定している事件をテーマとするドキュメンタリー映画の製作に先立って、事件の真相解明に迫ります。その中で、児童虐待が大きなテーマとなり、事件で殺された虚言壁のある高校生、犯人でその兄の男性、その殺人事件のあった家族の隣家に小さいころ住んでいたサブの主人公の映画監督、同じ町でピアニストを目指す姉を交通事故で無くしつつも、まだ生存して世界で演奏活動を続けているフリをするメインの主人公のシナリオライター、それぞれが何らかの異常性とまでいわないとしても、心に闇を持っていて、真実を直視するところまでいかないようなケースが散見されるんですが、それをサブの主人公である映画監督が強力なパワーで切り開いていきます。出版社の宣伝文句では「救い」という言葉も強調されていますが、私が考えるキーワードは裁判と映画です。特に、前者の裁判については精神鑑定も含めての裁判です。映画はサブの主人公の映画監督だけでなく、映画好きの登場人物にも着目すべき、という趣旨です。何となく、イヤミスを連想させるキャラ、例えば、殺人事件の被害者となった虚言壁ある高校生をはじめとして、イヤなキャラクターの登場人物はいっぱいいるんですが、なぜか女性は美人が多くなっています。映画化を意識しているのかもしれません。映画化されたら、おそらく、私は見に行くような気がします。それはともかく、私は長らくこの作者のベストの代表作は、10年余り前のデビュー作『告白』だと感じて来ましたが、少し前の作品あたりからさすがに考えを変更しつつあり、本作品は新は代表作と見なしていいような気がします。

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最後に、秦野るり子『悩めるローマ法王 フランシスコの改革』(中公新書ラクレ) です。ちょっは私とほぼほぼ同年代で読売新聞のジャーナリストのご経験が長いようです。現在のフランシスコ教皇については、就任直後にはとても好意的な報道が多く、私もアルゼンティン出身、初めてのラテン余りか出身の教皇として大いに注目して来たんですが、最近では金銭スキャンダルや性的虐待の問題を背景に、教皇支持の主流派と反主流派の亀裂や混乱が生じているのも事実のようです。少し前に訪日を果たしたばかりでもあり、就任直後の「熱狂的」ともいえる高評価から少し時間を経て、現在のバチカンの真実を読んでみました。まず、私自身は仏教徒であり、浄土真宗の信者である門徒です。ただ、カトリックの南米チリで大使館勤務の経験があり、ムスリムが多数を占めるインドネシアの首都ジャカルタで一家4人で3年間生活した記憶もあります。それなりに多様な宗教に接してきたつもりです。ということで、私自身は今持って、フランシスコ教皇に関するノンフィクションの代表作はオースティン・アイヴァリー『教皇フランシスコ』(明石書店) であると考えており、2016年5月に私も読んでおり、このブログに読書感想文を残しています。本書では、その後の性的虐待問題、これも、ボストングローブ紙『スポットライト 世紀のスクープ』(竹書房) にとどめを刺しますが、何と、同じ2016年5月の『教皇フランシスコ』を取り上げた次の週に読書感想文を残した記憶があります。そういった読書から3年半を経過して、ちょっと新書判で取りまとめられているお手軽なノンフィクションを読んでみましたが、やっぱり、思わしくありませんでした。ほとんど何の収穫もなかった気がします。フランシスコ教皇ご出身のアルゼンティンのペロン政権について、かのポピュリストのペロンを「エビータの夫」的な紹介をするなんて、読者のレベルをどのように想定しているのか、なんとなく透けて見える気がしますし、会計ファーム・コンサルタント会社のPwCが Princewaterhouse というのも、タイプミスと見なすにはレベルが低すぎます。第8章のタイトル「中国市場を求めて」というのも、宗教活動を表現するにはいかがか、という気がしますし、全体的にかなりレベルが低いといわざるを得ません。

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2019年12月21日 (土)

今週の読書ややや失敗感ある経済書など計7冊!!!

今週の読書は、興味深いテーマながら、ややお手軽に書き上げてしまった感のある開発経済学の学術書やかなり特定の党派色強く市場原理主義かつ経済学帝国主義的な経済書、あるいは、経営書、さらに、歴史書などなど、いろいろと読んで以下の計7冊です。やや失敗感ある本が普段に比べて多かった気がします。いくつかすでに図書館を回り終えており、来週の読書も数冊に上りそうな勢いで、さらに、年末年始休みを視野に入れて、かなり大量に借りようとしています。ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』は借りたんですが、来週読むか、その先にするか未定ながら、たぶん、年末年始休みにじっくりと腰を据えて読む体制になりそうな気がします。他方、来週の読書はなぜかコラプション=汚職関係がテーマになった本や、来年のNHK大河ドラマに迎合して明智光秀関係の本も入ったりする予定です。

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まず、トラン・ヴァン・トウ & 苅込俊二『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房) です。著者はベトナム出身の早大の経済学研究者とそのお弟子さん、となっています。本書タイトルにある「中所得国の罠」とは、とても最近の用語であり、 Gill and Kharas (2007) "An East Asian Renaissance: Ideas for Economic Growth" という世銀リポートで提唱された概念であり、その後の10年を考察した世銀のワーキングペーパーで同じ2人の著者による "The Middle-Income Trap Turns Ten" という学術論文も2015年に明らかにされています。本書では、何点かに渡って、「厳密な定義や合意ない」と繰り返されていますが、多くのエコノミストの間で緩やかなコンセンサスがあり、低開発状態から1人当たりGDPで見て3000ドルから数千ドルの中所得国の段階に達したものの、1万ドルを十分に超える先進国の段階に達するのに極めて長期の年数を要した、あるいは、まだそのレベルに到達していない、といった国々が陥っている状態を指しています。本書でのフォーカスはアジアですが、もちろん、東欧や中南米などでも見受けられるトラップです。例えば、ポーランドは1人当たりGDPが1万ドルを少し越えたあたりで伸び悩み始めたといわれています。その原因としては、資源国ではいわゆる「資源の呪い」に基づくオランダ病による通貨の増価、あるいは、その後の段階では、ルイス転換点を越えたあたりで低賃金のアドバンテージを失って、さらなる低賃金の低開発国から追い上げられるとともに、先進国の技術レベルには達しないという意味で、サンドイッチ論などが本書でも紹介されています。このサンドイッチ論は Gill and Kharas (2007) でも展開されています。そして、アジア地域において、歴史的に中所得国の罠を脱して先進国の段階に到達した日本と韓国のケーススタディを実施するとともに、どうも中所得国の罠に陥っている東南アジアASEAN各国、ただし、先進国の所得レベルに達したシンガポールは除き、高位中所得国のタイとマレーシア、低位中所得国のインドネシアとフィリピン、さらに、中国のケーススタディを進め、どうすれば中所得国の罠から脱することが出来るかの議論を展開しています。もちろん、本書くらいの学術書で昼食苦国の罠を脱する決定打が飛び出すはずもなく、それどころか、そのためのヒントすらなく、日本や韓国では資本は海外資本ではなく民族資本に依拠しつつ、技術は海外からの先進技術を導入してキャッチアップしたのに対して、ASEANや中国は資本ごと海外からの直接投資(FDI)に依存した、などという、やや的外れな議論もあったりします。ほとんど、実証らしい実証もなく、大学学部生レベルのデータとグラフで議論を展開していますので、判りやすいといえば判りやすいんですが、それほど学術的な深みも感じられません。議論をスタートさせる一つのきっかけになる本かも知れません。

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次に、井伊雅子・五十嵐中・中村良太『新医療経済学』(日本評論社) です。著者たちは、経済学ないし薬学の博士号を取得した医療経済学の研究者です。本書では、我が国財政が大赤字を出して財政リソースが先進国の中でも限られている中で、その最大の原因をなしている社会保障給付のうちの医療費に関して費用と効果を考える基礎的な経済学的視点を提供しようと試みています。まず、冒頭でベイズ的な確率計算をひも解き、検査結果で擬陽性が出ることによるムダの可能性を指摘することから始まって、基本的に、「最適化」のお題目の下に、財政支出の切りつめを図ろうという意図が明らかな気もします。確かに、その昔は日本の医療は「検査漬け」とか「薬漬け」といわれた時期もあり、ムダはそれなりにあって決して小さくはないと思いますが、命と健康を守るために必要なものは必要といえ勇気も持つべきです。本書でも引用されている通り、ワインシュタインの "A QUALY is a QUALY is a QUALY." といわれており、人々の健康や命にウェイトを付けることは極めて困難であり、本書でも、健康な1年と寝たきりの10年を等価と仮定したりしているんですが、極めて怪しいと私は考えざるを得ません。本書後半の第5章あたりでは、決して経済学的な知見だけで医療へのリソースを左右するものではないとか、いろいろといい訳が並べられているのも理解できる気がします。医療については、教育と同じく、情報の非対称性の問題が市場的、というか、経済学的な解決を困難にしているわけで、この点は本書でも認識しているようですが、決定的に欠けているのは、本書にはルーカス批判の視点がないことです。おそらく、医療政策ないし財政政策が変更されれば、少なくとも、医療提供者である医者や薬剤師ほかの対応は大きく変化を生じると私は考えますし、需要サイドの患者の方でも受診行動に影響が及ぶ可能性は小さくありません。それをナッジで何とかしようという意図が私には理解できません。加えて、医療の場合は少なくとも伝染性の病気の場合、外部性が極めて大きく、罹患した患者ご本人の意向に沿うよりも社会的な感染拡大防止の観点が優先する場合もあり得ます。教育における義務教育と同じで、医療についても憲法25条で定める生存権、すなわち、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するわけですから、義務教育を健康や医療政策に適応するような形で、必要最低限のレベルの検診を受ける権利があると考えるべきです。現在の医療が過剰かどうかは、私もやや過剰感をもって見ている1人ですが、基礎的な国民の権利とともに分析が進められるべきトピックと感じています。アマゾンにも本書の評価は3つ星と芳しくないレビューが掲載されていますが、その中で、レビュアーは経済学は医療費抑制の切り札になるか、という問いに対して否定的な見方を示していて、私はそのレビュアーの見方には反対で、経済学は医療費抑制の切り札になるものの、経済学にそういう役割をさせるのは誤りであり、エコノミストとして経済学にそういう役割を担ってほしくない、と考えています。ボリュームが違いますので私も強く主張することはしませんが、まあ、左派エコノミストの私なんかとは違って、こういう人たちは、国民生活に直結した医療費などの社会保障や教育費は槍玉に上げても、防衛費の効率性を分析して削減のターゲットにすることは思い浮かびもしないんでしょうね、という気がします。

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次に、平川均・町田一兵・真家陽一・石川幸一[編著]『一帯一路の政治経済学』(文眞堂) です。編著者は、私の直感では亜細亜大学系の地域研究者ではないかという気がします。習近平主席をはじめとする中国首脳部が推進する「一帯一路」=Belt and Road Initiative (BRI)政策に関して、そのファイナンス面を担当するアジアインフラ開発銀行(AIIB)も合わせて、いろんなファクトを集めるとともに、中国の意図や経済的な意味合い、さらに、アジア・アフリカをはじめとして、欧州や日米などの先進国の対応などに関する情報をコンパイルしたリポートです。特に、アナリティカルに定量分析をしているわけではなく、基本的に、ファクトを寄せ集めているだけながら、我が国は対米従属下で米国に追従して一帯一路にもAIIBにも距離を置いていますので、それなりに貴重な情報が本書では集積されています。基本的なラインについては、漠然と私も理解しているように、元安という価格面での対外競争力の維持のために、外為市場に為替介入しまくって元をドルを買っていますので、ドル資金を豊富に保有しており、それを原資にした中国から西に向かう海路=一帯と陸路=一路の整備なわけで、文字通りの物流のための交通インフラ整備とともに、政治外交的な意図もあると本書では指摘しています。すなわち、ひとつは、特にアフリカ圏で天然資源取得とともに、外交面で台湾支持派の切り崩し、というか、台湾から中国へへの転換を目指した動きです。もうひとつは、その昔は日米の加わったTPPに対抗して中国主導の経済研の構想です。ただ、後者についてはトランプ米国大統領というとんでもないジョーカーが出現し、事態は別の様相を呈し始めているのは周知の事実だろうと思います。ただ、これだけでは済まず、中国が鉄鋼などで大きな過剰生産能力を持っていることも周知の通りであり、外為市場介入した結果のドル資金をインフラ整備として一帯一路諸国にAIIBなどを通じて融資するとともに、中国製品の販売先として確保する、という戦略にもつながっています。ですから、本書でも指摘されている通り、返済を考慮しない過剰な貸し付けが実行されたり、あるいは、返済がデフォルトした上で港湾利権を分捕ったりしている例もあるようです。繰り返しになりますが、解析的に定量分析などをしているわけではなく、一帯一路のプロジェクトなどの情報をコンパクトに取りまとめている一方で、惜しむらくは、昨年2018年年央少し前くらいからの米中貿易摩擦から以降の情報は収録されていません。中国にとって他国は輸出先として、その限りで重要なだけで、世界的な自由貿易体制などはどうでもいいと考えているに違いない、その意味では、米国トランプ政権も同じ、と私は見なしているんですが、やっぱり、米国が中国製品の輸出先として重要であった、という事実を改めて突き付けられた現時点で、一帯一路やAIIBからの融資について、中国がどう考えているのか、やや謎です。

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次に、オマール・アボッシュ & ポール・ヌーンズ & ラリー・ダウンズに『ピボット・ストラテジー』(東洋経済) です。著者3人は、大手コンサルタント会社であるアクセンチュアの高級幹部です。英語の原題は Pivot to the Future であり、2019年の出版です。ということで、「ピボット」といえば、私なんぞの経営の門外漢には、むしろ、オバマ政権における外交の軸足設定、すなわち、大西洋から太平洋へ、同じことながら、欧州からアジアへの軸足設定の変更を思い出させるんですが、本書ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代において経営の中心を変更するという意味で使われています。何と、自社アクセンチュアをはじめ、ウォルマートやマイクロソフト、コムキャスト、ペプシコなど世界的な大企業におけるピボットの事例を豊富に紹介しています。当たり前ですが、ひとつの商品やサービスには、いわゆる、プロダクト・サイクルがあり、売れる時期もあれば盛りを過ぎることもあるわけで、多くの製品・サービスは時代とともに消え去ることも不思議ではありません。馬車が自動車に代替されるたり、メインフレームのコンピュータがサーバとPCに置き換わったりするわけで、長期に渡って同じ製品やサービスを供給し続けるのではなく、その軸足を変更する必要があります。それを第1部で「潜在的収益価値を解放する」と表現し、私のいつもの主張とは異なり、マネジメントの経営書にしてはめずらしく、失敗例をいっぱい並べたてています。第2部では「賢明なピボット」として、イノベーションのピボットを集中・制御・志向の3つのコンセプトから解き明かそうと試みています。そして、経済学的にいえば、全要素生産性であらわされるイノベーションのほかの2つの生産関数の生産要素、すなわち、資本=財務と労働=人材の観点からピボット、というか、ピボットのためのイノベーションをサポートする方策を探っています。第2部では第1部と違って、失敗例はほとんどなく、成功例のオンパレードですので、私のいつもの経営書に対する批判、すなわち、成功例の裏側に累々たる失敗例があるのではないか、という疑問がもう一度頭をもたげないでもないんですが、まあコンサルタントによる経営指南書とはこういうものだと考えるほかありません。最初に観点に戻りますが、製品・サービスの有限のプロダクト・サイクルに対して、それを生み出す企業というのは going-concern なわけですので、イノベーションあるいはイミテーションなどを基にした新たな製品・サービスの供給を始めないと継続性に欠けると判断されかねません。一部の公営企業などはそれでいいと私は考えないでもないんですが、民間部門では、当然ながら、大企業ほど経済社会的な影響が大きいわけですので、それなりの生き残り策を必要とするんだろうというくらいは理解します。ただ、理解できなかったのは、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代における経営の軸足に関するピボット戦略なのかどうか、ありていにいえば、DXの時代でなくても有限のプロダクト・サイクルと going-concern の企業の関係はこうなんではないか、という気がしないでもありませんでした。

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次に、ペトリ・レッパネン & ラリ・サロマー『世界からコーヒーがなくなるまえに』(青土社) です。著者は、ノンフィクション・ライターとコーヒー業界に長いコンサルタントです。フィンランド語の原題は Kahvivallankumous であり、「コーヒー革命」という意味だそうで、2018年の出版です。ということで、私はコーヒーが好きです。オフィスにはコーヒーメーカーがあり、平日すべてではありませんが、お勤めのある日には2~3杯は飲んでいる気がします。しかし、本書の著者はコーヒーが世界からなくなる可能性も含めてコーヒーに関する「革命」あるいは大変革を議論しています。というのも、本書ではフィンランドが世界1のコーヒー消費国であるとされており、実は私の認識では1人当たりコーヒー消費量のトップはルクセンブルクだと思うんですが、確かに、フィンランドに限らず、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、などはトップ10に名を連ねているようにお記憶しています。そのコーヒー消費大国からコーヒーの将来を考える本であり、著者によれば、大量消費と気候変動のせいで、私たちが今までのようにコーヒーを飲める日は終わりを迎えつつある、ということになります。ですから、コーヒーを次世代にも残すために私たちは何をすべきなのか、あるいは、環境に配慮した良心的なコーヒーの生産と消費は可能なのか、といったテーマで議論を展開しています。まず、現在のおーひーの普及状況はサードウェーブとして、消費量拡大のファーストウェーブ、カフェラテなどのアレンジ・コーヒーが普及して多様なの見方が普及したセカンドウェーブから、原料としてのコーヒーに注目し、栽培された地域、コーヒー豆の収穫方法、そして焙煎のもたらす味への影響といった様々な点に注意を払う、という趣旨で、ワインなどと同じ飲み方に進化してきている点を指摘しています。しかし、30年後の2050年やあるいは2080年にはコーヒーは栽培・収穫されなくなっている可能性も指摘されています。サステイナビリティの観点から本書では、まず、栽培サイドのサステイナビリティ、我が国で今はやっている表現からすれば、コーヒー農園における働き方改革のようなものを考え、さらに、需要サイド、すなわち、我々のコーヒーの飲み方まで議論を展開しています。私が知る範囲でも、南米ではコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みます。実は私もそうです。しかし、本書の著者は、質の低いコーヒーに砂糖とミルクを加えてごまかすような飲み方は推奨しませんし、熱すぎるコーヒーも味をごまかそうとする意図がある可能性を指摘します。人間は体温と同じくらいのものがもっとも味を識別できると主張し、キンキンに冷えたビールも低品質のものをごまかしている可能性があるといいます。そういった、栽培サイドと飲用サイドの両方からコーヒーを大切に考え、サステイナビリティに配慮したコーヒーの栽培と飲用を本書では論じています。私は熱いコーヒーに砂糖とミルクを大量にぶち込んで飲む方であり、こういった分野に決して詳しくありませんが、コーヒーに限らず、多くの農産物やあるいは漁業などにも同じ議論が適用できる可能性があるんではないか、という気がします。

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次に、衣川仁『神仏と中世人』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、徳島大学の歴史の研究者です。古典古代を過ぎて、平安後期から鎌倉期にかけての中世の宗教についての論考なんですが、この時期は古典古代の密教に加えて、いわゆる新興仏教、我が家が帰依している浄土真宗や日蓮宗などが起こり、さらに、禅宗が我が国にもたらされている時期となるものの、そういった新興仏教の観点は本書にはほとんどありません、浄土真宗信者の門徒としてやや不満の残るところです。といはいうものの、本書の冒頭では宗教に関して「富と寿」を求める中世日本人から説き起こし、かなり現世的な利益を求める人々の姿を描き出しています。まあ、現代から考えても、貴族や豪族などの当時の経済社会の頂点に近いところにいて、大きな格差社会の中で衣食住に困らない階層の人々は、現世的な利益よりも、むしろ、来世への望み、すなわち、輪廻転生を解脱して極楽浄土への生まれ変わりを願ったのかもしれませんが、明日をも知れぬ命のはかなさと背中合わせの一般大衆としては、来世のことよりも現世的な利益を求める心情は大いに理解できるところです。ただ、私なんぞは現世の利益は自分の努力である程度は何とかなる可能性がある一方で、来世の生まれ変わりだけは宗教に縋る必要あると考えるんですが、まあ、現代のように灯りもなくて暗い夜には魑魅魍魎が跋扈して、いろいろと怖い思いがあったんだろうというのは理解できます。ということで、繰り返しになりますが、現世的な利益のうち、本書で冒頭取り上げられるのは「富と寿」であり、前者の「富」は宗教とともにある程度努力や自己責任で何とかすることも視野に入ります。ただ、後者の「寿」は健康や生死観なんですが、コチラの方は宗教も大いに力ありそうな気がします。というのは、「病は気から」という言葉があるように、肉体的な条件とともに、精神的なパワーで病気を治癒させる可能性は決して小さくないからです。O. ヘンリーの「最後の一葉」なわけです。その点で、近代医学の観点から、その昔の加持祈祷なんて効果ないと見なされがちですが、私は決してそうでもなかろうと受け止めています。また、本書でも指摘されている通り、ホンネとタテマエがあって、農業社会の中で、農業生産が大きなアウトプットを占め、大部分の一般大衆が農民であったころ、天候に左右されがちな農業のため、雨乞いの儀式なんぞはそれなりに重要ながら、為政者も一般大衆も宗教が転校を左右できるとは常識的に考えないとはいえ、為政者としては農業振興のために何らかの宗教的な儀式を執り行うポーズを見せる必要あった、というのも理解できるところです。それにしても、私が子供のころには「バチが当たる」という宗教的表現はそれなりの重みあった一方で、今では耳にすることもないような気がします。

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最後に、山形浩生・安田洋祐[監修]『テクノロジー見るだけノート』(宝島社) です。監修者は、ご存じ、野村総研のコンサルタントで翻訳者と大阪大学の経済学の研究者です。最新テクノロジー、特にAIやIoTなどのICT分野の技術を中心にして、ゲノム解析などのバイオも含め、9つのカテゴリーに分けて、最近の流れを解説しています。その9分野とは、宇宙ビジネス、AIとビッグデータ、モビリティ、テクノロジーと暮らし、戦争とテクノロジー、フードテック、医療技術、人体拡張技術、小売りと製造業のテクノロジー、となっています。文章は平易で読みやすく、イラストもあっさりしているのでスラスラと読めて、各分野のテクノロジーの概要を知ることができます。まあ、テレビや新聞などのメディアでも広く報じられ、それなりの専門書も決して少なくない分野ばかりですから、それなりの教養あるビジネスパーソンであれば、すでに知っている部分も決して少なくないような気がしますが、私のようなテクノロジーが専門外のエコノミストにとっては、平易なイラストで技術をわかりやすく解説してくれるのは助かります。ただ、気を付けなければならないのは、テクノロジーに対して倫理中立的で、あくまで技術面の解説に徹している点です。すなわち、先ほどの9分野でも5番目には何気に「戦争とテクノロジー」が入っていますし、6番目の「フードテック」ではさすがに、遺伝子組み換え作物(GMO)に関する注意書きのような短文が見かけられますが、続く「医療技術」や「人体拡張技術」でのデザイナーベビーやほかの倫理的な議論については触れられてもいません。AIやビッグデータ、その他のICT技術に関してはテクノロジーの倫理中立性を仮定しても構わなさそうな気がしますが、人間はいうに及ばず、植物を含む生物の遺伝子レベルの操作に関するテクノロジーについては倫理的な側面についても、それなりの注意を払うべきではないか、と私は考えています。食品について、植物の天然モノはほぼなくなり、動物食材の天然モノも極めて少なくなって、栽培された植物、あるいは、飼育された動物の食材が多くを占めていますが、それだけに、天然モノの価値も忘れられるべきではありませんし、ヒトはいうまでもなく、植物を含めて生物を遺伝子レベルから操作することの危険性や倫理的な面の議論もバランスよく紹介すべき、と私は考えます。地球環境への配慮や生物多様性の議論も必要ですし、技術的に出来ることは、経済社会的に生産増につながり、人間の効用を増加させるのであれば、やるべき、もしくは、やって構わない、ということにはならないような気がするのは私だけでしょうか?

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2019年12月14日 (土)

今週の読書は経済書と歴史書を計7冊!!!

今週の読書は、経済書と歴史書、その中間の経済史の本など、以下の通りの計7冊です。今週の読書のうちでは、特に、中身はともかく、『ナチス破壊の経済』がとてもボリューム豊かでした。私は経済史が大学時代の専門でしたので、それなりにていねいに読んだつもりですが、読書に時間をかける人の場合、上下巻2冊で1週間では読み切れない可能性もあります。

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まず、小林大州介『スマートフォンは誰を豊かにしたのか』(現代書館) です。著者は、北海道大学の研究者であり、シュンペーターの学説史がご専門で、本書の副題も「シュンペーター『経済発展の理論』を読み直す」となっていて、実は、スマートフォンを題材にしたシュンペーター的なイノベーションの解説となっています。そして、タイトルの問いに対する回答は本書の最後にあって、あまりにもありきたりですが、関係者すべてを豊かにした、と結論されています。私は少し前にシュンペーターの『経済発展の理論』を読んだ記憶がありますが、本書でも指摘しているように、極めて難解です。もちろん、私も読解力の問題もあるんでしょうが、何がいいたいのか、半分も理解できなかった気がしますので、こういった入門書は必要かもしれません。ということで、シュンペーター的なイノベーションは、基本的に経済動学的に理解されるべきと私は考えているんですが、企業経営においても極めて重視されていることは広く知られている通りです。ですから、私がイノベーションを経済動学的に理解するというのは、逆に、企業経営を知らない公務員を長らく経験してきたなのかもしれない、と考えないでもありません。シュンペーターは、本書でも指摘するように、イノベーションに基づく開発者の独占的な利益を容認し、企業家がその利潤を目指してイノベーションを競い合う経済社会を想定していたんだろうと私は考えていますが、もちろん、テクノロジー的なイノベーションだけでなく経営管理や経営プロパーのイノベーションもある一方で、テクノロジー的なイノベーションが枯渇しつつあるんではないか、特に、1970年代を境にして低いところにあって入手しやすい果実は取り尽くしたんではないか、という考えがいわゆる長期停滞論のひとつの根拠になっていることも事実です。そして、本書の第4章でも注目されているように、スマートフォンが格差拡大につながるかどうか、あるいは、イノベーション一般が格差にどのような影響を及ぼすかも現在の経済社会を考えれば、ひとつの焦点となる可能性もあります。本書でも、シュンペーターはケインズとともに、マルクスとも対比されており、イノベーションが格差拡大や経済社会の不安定性につながりかねない恐れも指摘しています。末期のシュンペーターは、かなり確度高く資本主義から社会主義に移行する可能性を認識していたのは事実ではないでしょうか。ただ、現実にはソ連が崩壊したわけですし、マルクス主義的な理論に基づいて、発達した資本主義国である欧米や日本などが社会主義に移行する兆しすら見られないもの、さらに確たる事実です。やや異なる観点ながら、クズネッツに批判されたよいう「イノベーションの群生」についても本書では議論を回避しているように見受けられます。総合的に考えて、場合によっては高校生から大学新入生くらいに対するシュンペーター的なイノベーションの解説書としてはいいような気もしますが、ビジネスパーソン向けかどうかはやや疑問で、読者のレベルによっては少し物足りない点があるような気もします。

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次に、アダム・トゥーズ『ナチス破壊の経済』上下(みすず書房) です。著者は、英国出身で現在は米国プリンストン大学の歴史学の研究者です。本書は、副題で「1923-1945」となっているように、シュトレーゼマン政権下の1923年、すなわち、ナチスが政権に就く10年前から終戦までの四半世紀近い期間を対象としたドイツの戦時経済史となっています。すなあち、経済をナチスのヒトラー政権の中心に据えてドイツ紙を見直す、というものです。実は、私は出版社の宣伝文句にひかれて、ナチスの経済政策はケインズ政策を先取りしたものであり、アウトバーンなどのインフラ建設をはじめとした財政支出による完全雇用を達成した、とするのは誤り、といった趣旨の宣伝文句だったような気がするんですが、そこまであからさまではありません。ただ、ケインズ政策による完全雇用の達成とはかけ離れて、ドイツ国民のみならず、ユダヤ人はいうに及ばず、占領下のポーランド人やろ愛亜人などの捕虜も含めて、劣悪な労働環境の下で軍需生産に強制的に就労させ、また、英国と比較しても女性労働の徴用が大きかったり、石油の資源確保が不足していたりといったナチスの戦時経済の実態を明らかにしています。そして、結論としては、我が国戦時経済の分析でもよく見かけるので、かなりありきたりな気もしますが、短期に戦争を終結していればドイツに勝機あったかもしれないものの、長期戦となって圧倒的な工業生産力を有する米国の参戦により、経済的生産力の基礎から考えた戦争の帰趨は明らかであった、ということになります。日本の場合も同じで、本書のスコープ外でしょうが、大和魂や何のといっても、戦争遂行能力の基礎は工業力である、ということになります。逆にいえば、最近の中国製造業の興隆に至るまでの時期、例えば、1980年くらいまでは基礎的な工業生産力から考えれば、米国サイドが常に戦勝国となる、ということになります。とすれば、1960~70年代のベトナム戦争の結果はなぜなのか、という疑問も生じますが、これまた、本書のスコープを大きく外れた問いだ、ということになります。冒頭にも記しましたが、本書は読書にかなりの時間を要します。定評ある山形浩生さんの翻訳ですから訳は悪くないんでしょうが、小さい字でページ数のボリュームもあります。それなりの覚悟をもって読み始める必要あると考えた方がよさそうです。

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次に、出川光『クラウドファンディングストーリーズ』(青幻舎) です。著者は、クラウドファンディングに関するディレクターを務めているそうで、リクルートコミュニケーションズを経て、クラウドファンディングのCAMPFIREの創設期にかかわっています。クラウドファンディングとは、いわゆるシェアリング・エコノミーの5つのカテゴリーの中のひとつで、ほかのカテゴリーではAirbnbなどが代表的で民泊と称されるスペースのシェア、また、日本では事業展開できていないものの世界的にはUberが有名なライド・シェア、逆に、日本でしか見られないフリマアプリのメルカリなどのモノのシェア、そして、家事やベビーシッターなどのスキルのシェア、となります。一応、官庁エコノミストとしての私の最後の研究成果はちょうど1年前の昨年2018年12月のシェアリング・エコノミーの研究だったりしますので、それなりに詳しいところです。そして、本書でも明らかにされているように、クラウドファンディングには3種類あり、寄付型と投資型と購入型で、本書では最後の購入型のみを取り上げています。おカネを集めて、何かを作ったりイベントを開催したりして、ファンディングに応じた出資者に対して、その制作物を贈ったり、イベントに招待したり、というリターンがあるわけです。もちろん、資本主義社会ですので、出資額に応じた差がつきます。これを格差というか合理的な違いと捉えるかは、まあ、それぞれかもしれませんが、出資した金額により得られるものが違うというのは自然な気もします。本書では成功した10のケースを取り上げていますが、私の知る限り、ちゃんとしたディレクターがついて目利きの力量があれば、購入型のクラウドファンディングはかなりの程度の成功確率があるんではないか、という気がします。そして、本書では株式会社の創設のような純粋な経済活動ではなく、クラウドファンディングはストーリーを必要とし、強化を基にしたつながりを生むものである、かのように描き出されています。私は半分くらいは希望的観測をもって賛同しますが、半分は懐疑的です。繰り返しになりますが、資本主義経済の下で出資額に応じたリターンがあり、そして、そのリターン品はそのうちにメルカリに出品されたりするんではないでしょうか。それなりに実体を知る者からすれば半信半疑で、やや眉に唾を付けて読むべき本かも知れません。また、どこかの新聞の書評でも見かけましたが、成功例ばかりで取りまとめてあり、それはそれで成功確率高いと知る私なりに理解するものの、失敗例もあれば深みが出たのは確かでしょう。

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次に、リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』(岩波書店) です。著者は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史研究者の大先生です。私は2年ほど前に同じ岩波書店のエリオット『歴史ができるまで』を読みましたが、同じように、グローバル・ヒストリーを視野に入れつつ、歴史的な思考についてのリベラルな歴史学に関するエッセイがつづられています。基本的には、排外的あるいは歴史修正的な傾向を強く戒めています。本書冒頭で取り上げられているのは、ポストトゥルースの時代におけるフェイクニュースの類いであり、例えば、トランプ米国大統領がオバマ前米国大統領の出生に関する疑問、にとどまらず、明確な虚偽の情報を流している、といったものです。もちろん、近代史でその最たるものはナチスによるユダヤ人大量虐殺です。600万人という数字を過大だと指摘したり、あるいは、ホロコーストそのものを否定したりする論調は後を絶ちません。我が国の例でいえば、従軍慰安婦であったり、南京大虐殺であったりするのかもしれません。本書で著者は、近代歴史学の祖ともいえるランケに立ち返って、こういった歴史に対する修正というか、ハッキリいえば、ウソがまかり通るよになったのは、一面、歴史が民主化したことも寄与していると指摘します。エリートだけに許されていた歴史学が広く開放されたからだ、といわれればそうかもしれませんが、かつては一部の権力者や知識人から一般大衆に提示されていた歴史が、ある意味で「民主化」され、誰でもが語れるようになると、特にネット上などで改変や修正の憂き目にあうというのも国民の民度を象徴しているような気がします。逆に、そういった歴史の改編や修正を許さず正しい歴史を学ぶ機会を提供することこそが必要です。なぜ歴史を学ぶかといえば、現在ないし将来の問題を解決するためであると私は考えています。もちろん、ランケのいうように、「未来の世代に教訓を垂れるために過去を断罪する目的で歴史を書いているわけではない」というのは判り切っているんですが、それでも、現在の目の前にある問題を解決するヒントを求めて歴史を振り返るんではないでしょうか。視点を変えると、本書の後半は歴史とマイノリティというテーマが設定されています。著者自身が女性であることからジェンダー史なども視野に入れつつ、東洋と西洋、男性と女性、黒人と白人などのうちの歴史におけるマイノリティの分析にも心を砕いています。また、最後の訳者のあとがきにもあるように、かつては歴史学会で大きな勢力を誇ったフランス的なアナール派の歴史観、というか、歴史分析がかなり後景に退き、国としての歴史の浅い米国の歴史学が注目を集め出しているのも事実です。自然科学や社会科学で、例えば、ノーベル賞受賞者で大きな比重を占める米国の学術界ながら、歴史については欧州の後塵を配してきた感あるものの、異常なくらいのナショナリズムやポピュリズムにまったく意味不明の根拠を置いて恣意的な歴史の解釈や意図的な過去の忘却を目指そうという勢力に対し、リベラルな米国歴史学のあり方を垣間見たような気もします。

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次に、佐伯智広『皇位継承の中世史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、帝京大学の歴史研究者です。本書は、まさに、タイトル通りであり、特に、私なんかの専門外の歴史好きでも知っている中世における天皇継承のトピックとして、持明院統と大覚寺統のいわゆる両統迭立の問題を解き明かそうと試みています。私なんぞは、単純に鎌倉幕府の介入により、持明院統の後深草天皇と大覚寺統の亀山天皇に分かれて、それが室町初期の南北朝の源流となった、くらいの事実関係に関する知識しかないんわけで、セクションのタイトルに「元寇と両統迭立」なんてあったりすると、少しびっくりしたんですが、元寇はさすがに関係ない、との結論が示されています。ただ、本書を読んでもまだ私は得心行かず、両統迭立の結果を招いた原因も、また、北朝、というか、足利氏の幕府側が吉野の南朝を攻め切れなかった原因も、最後に、南朝が約束は反故にされると、後知恵ながら判り切っていたにもかかわらず、北朝に三種の神器という形で正当性を譲った理由も、イマイチよく判りませんでした。私の読解力の問題もありますが、事実関係を淡々と積み重ねていくだけでは歴史の因果関係は明確にならないことを実感しました。加えて、両統迭立から南北朝の分裂、さらに斎藤いるに至る過程が、それほど、というか、私が考える穂と単純ではないのだろうと想像しています。実に、マルクス主義的な唯物史観からすれば、生産力が伸びて生産関係のくびきを破壊するという、かなり一直線な西洋的な史観ですので、そこまで単純に適用できる歴史的な事象というのは、まさに、大雑把な歴史の流れ、というか、もっと超長期に渡る歴史の方向性であって、唯物史観は、個別の歴史的な事象の解明に役立つ手術用のメスではなく、大きな木を切り倒す斧や鉈なのだ、と実感した次第です。また、皇位をめぐる室町期の動向については、3代将軍足利義満による皇位簒奪について今谷明などが議論していますが、本書ではやんわりと否定されています。中世的ないわゆる「治天の君」である上皇による院政などに関しても、本書では豊富に実例を上げて論じており、私のような歴史の好きな人間には知的好奇心を満たしてくれるいい入門書であるという気がします。

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最後に、今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、岡山大学の国史の研究者です。本書では、正倉院御物に残された現在の岐阜県の襲来の戸籍から、古典古代の律令制の奈良時代の家族像を解明しようと試みています。戸籍は、ある意味では、権力者の側から税を取り立てる単位として取りまとめられたものですから、本書でも明らかにされているように、現在の戸籍のように氏名や性別・生年だけでなく、古典古代においては租庸調の税を勘案して、身体的な特徴、例えば、障害の有無や程度などの課役負担の参考となる個人情報も記されています。まあ、現代的な個人情報保護なんて、何ら念頭にない権力者サイドの記録ですから当然かもしれません。こういった古典古代における戸籍に関する基礎的な知識を明らかにした後、定量的な歴史学が展開され、まず、著者は人口の推計を試みています。そもそも、本書でも指摘しているように、奈良時代とはいえ、日本という国の領域がビミョーに違っているわけで、時の大和政権の支配下にある地域が100年単位で見れば決して同じでないわけですし、加えて、口分田の配分で差別され、それゆえに税負担も異なる身分があり、良民と賤民の違いもあるわけですから、現代的な感覚で人口を見るわけにもいかず、加えて、それ相応の幅をもって見る必要あるものの、8世紀前半の我が国の人口はおよそ450万人とか、9世紀初頭の延暦年間の総人口は540~590万人、あるいは、奈良時代の初めから平安初期のおよそ100年間で100万人の人口増加があった、などの結果が示されています。さらに、出生時の平均余命、いわゆる平均寿命は28歳余りで30歳を下回っていたとか、合計特殊出生率は6.5人くらいとか、人口にまつわるトピックがいくつか推計方法とともに示されています。さらに、タイトル通りに、古典古代における婚姻、通常、日本では妻問い婚の形式が注目されますが、それらと家父長制との関係、また、再婚が決して稀ではなかった子人制度についても戸籍記録から明らかにしています。自然災害との関係では、飢饉と疫病の流行、さらに、飢饉の際に山に入って職を得る、などなど、興味深い古典古代の戸籍に関する話題がいろいろと取り上げられています。

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2019年12月 8日 (日)

先週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!

先週の読書は、いろいろ読みました。昨日の土曜日に米国雇用統計が割り込んで、少し多めの印象かもしれません。今週の読書の本もおおむね借りてきており、いつも通りの数冊に上る予定です。また、今週ではありませんが、そろそろ、来週かさ来週あたりにジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』上下の予約が回って来そうです。

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まず、曾暁霞『日本における近代経済倫理の形成』(作品社) です。著者は、中国の研究者です。特に、邦訳者のクレジットなどがないので、著者が日本語で書いたのではなかろうかと私は想像しています。とても外国人の日本語とは見受けられませんでした。ということで、西欧におけるウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のプロテスタンティズムに当たる近代資本主義的な倫理を我が国に求めた研究成果です。そして、結論としては渋沢栄一が上げられ、まあ、当然というか、平凡極まりない結果なんですが、その方面での渋沢の代表作である『論語と算盤』を持ち出して、江戸期の儒者2人にその源流を見出しています。これも、平凡極まりない結論なんですが、荻生徂徠と海保青陵です。どこまで肯んずるかは個人的な見方も関係するとは思いますが、大量の書物を残した2人ですので、著者が見出したような個人的な利得を許容するようなテキストも残っているんだろうと思います。まあ、有り体にいえば、ほかの、場合によっては儒学者でない文筆家の著書からも、同じような表現は見つかる可能性は高そうな気もします。近松門左衛門や井原西鶴なんて、とても確率が高そうな気がします。ですから、ここは、荻生徂徠と海保青陵が渋沢栄一に先立つ江戸期の近代的経済倫理の源流と同定するのは疑問が残ります。ただ、本書がすぐれている点もあります。それは、荻生徂徠と海保青陵が江戸期において、明治以降の近代的経済倫理の源流となった経済的な背景をキチンと押さえている点です。単に、個人的な資質やあるいは育った家の特性などから導き出しているわけではなく、江戸期の経済動向を把握した上で荻生徂徠や海保青陵の倫理的思想の意味を考えようとしています。中国の研究者ですから当然かも知れませんが、マルクス主義的な上部構造と下部構造を意識しているのかもしれません。ただ、経済の専門家ではなさそうに感じた点が2点あり、第1に江戸期の支配階層であった武士が米価に経済的に依存しているのと、江戸期の「士農工商」は実は現在でもいくぶん姿を変えて残っていることです。米価の動向に武士が依存していたのは当然です。俸給を武士は米でもらうわけですから、極端にいえば、米が割高で高く売れて、相対価格として米以外が安ければ、武士の生活水準は上がります。もうひとつの「士農工商」については、本書で指摘するように、渋沢は「官尊民卑」を強烈に否定ないし批判したわけですが、それだけ、明治期には広く残存していたわけで、今でも見受けられるのは異論ないものと考えます。ですから、今でもお役人の官が上に来て、農はかなりシェアが小さくなったので脇に置くとしても、工商の順は今でも維持されている場合が少なくありません。例えば、我が国を代表する経済団体のひとつである経団連の会長は製造業からしか選出されず、銀行や保険、もちろん、小売を始めとするサービス業などの非製造業から会長は出ません。ただ、これは西洋でも同じことであり、キリスト教文化の下で利子が否定されたことから派生して、商業がいくぶんなりとも地位を貶められているのは事実ではなかろうかという気がします。ですから、本書では、米によって年貢が収められる税制から明治期に地租という金納制が開始された点を持って、近代資本主義の幕開けとしていますが、実は、講座派の議論を待つまでもなく明治期の日本には広く半封建的な残滓が見られ、さらに現在に至るまで、すべてが払拭された独立した資本主義経済かどうかは疑わしい、と考えるのもひとつの見識であろうと私は受け止めています。

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次に、アニー・ローリー『みんなにお金を配ったら』(みすず書房) です。著者は、アトランティック誌の寄稿編集者を主としてこなしているジャーナリストであり、本書の英語の原題は Give People Money で、2018年の出版です。タイトルから容易に想像されるように、ユニバーサル・ベーシックインカム (UBI=Universal Basic Income) についてのリポートです。全10章のうち終章をコンクルージョンとして、第1章から第9章までが3章ずつのグループをなしており、最初の3章がUBIの原理原則や理論的な背景などを取り上げ雇用との関係を解明を試みており、次の3章では貧困削減という切り口からUBIを論じ、最後の第3部では社会的包摂という観点からUBIの導入につき議論しています。基本的に、UBI導入に向けた賛成論を展開しているわけですが、統計的なエコノミストの分析も豊富に当たっていて、もちろん、ジャーナリストらしい現地取材も十分で、説得力ある議論を展開しています。UBIについては、まず、日米欧の先進国経済で観察されるように、雇用者の賃金がかつてほど上がらなくなった、という事実があります。スキル偏向的な技術進歩が進み、いわゆるスーパースター経済が成立した技術的背景がある一方で、スキルが2山分布のように高スキルと低スキルに分裂し、低スキル雇用がますます増加しています。同時に、低賃金だけからというわけでもなく、低開発国におけるものも含めて貧困問題をUBIが解決の一案となることも確かです。加えて、UBIで最低限の生活が保証されれば、芸術などのハイカルだけでなくボランティア活動に時間的な余裕ができるのも事実です。すなわち、エコノミストの目から見て、現在の市場に基づく雇用の配分は大きく失敗しているわけで、社会的に必要な分野への人間労働の配分が賃金という価格シグナルに従ってなされると、まったく最適化されない、ということです。ですから、私はUBIを強力に支持します。ただ、その支持するという前提で、疑問をいくつか上げると以下のとおりです。すなわち、本書の著者などは、UBIによる勤労意欲の低下を取り上げる場合が多いんですが、私は逆で、雇用主の賃金支払へのインセンティブへの影響を考えるべきです。要するに、UBIの金額だけ賃金カットされれば、何もなりません。現在までのUBIの社会的実験では、地域的に切り離されたりして、あるいは、ランダム化比較試験(RCT=Randomized Controlled Trial)が実行されたりする場合には、賃金差は生じないでしょうが、全国一律でUBIが導入されれば、雇用主の方で賃下げのインセンティブが出るのではないかと考えないでもありません。UBIで人々が働かなくなるのではなく、賃金を支払わなくなるんではないか、という恐れはいかがなもんでしょうか。次に、話題の現代貨幣理論(MMT)との関係で、UBI導入には財源が必要です。インフレになった折にUBI財源はカットできないからです。特に、最初の賃金への影響については、まだ、正面から取り上げた議論に、私は不勉強にして接していませんので、ぜひ考えを深めたいと思います。

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次に、ダレン・マクガーヴェイ『ポバティー・サファリ』(集英社) です。著者は、小説家・ノンフィクションライターです。英語の原題は Poverty Safari であり、2007年の出版です。ということで、「サファリ」とは動物を自然に近い形で見学するためのアミューズメントパークであることはいうまでもありません。要するに、「貧困層を見学する」ということなのでしょう。本書では、著者の実体験から、アルコールや薬物の乱用、犯罪歴、多額の負債、破壊的・暴力的な行為、子供のころ保護者からうけた虐待やネグレクト、教育の不足、若年からの喫煙習慣、総選挙での投票経験の欠如、などなど貧困層、特にイングランドでCHAV、本書の著者のホームグラウンドであるスコットランドでNEDと呼ばれる暴力的な傾向のある貧困層の特徴がよく出ている気がします。なお、約2年前の2017年12月16日付けの読書感想文でオーウェン・ジョーンズ『チャヴ 弱者を敵視する社会』を取り上げています。父親が犯罪で服役する中、母親はアルコールやドラッグに溺れて子供をかまわず、子供は学校にも行かずに小さいころから喫煙して暴力行為を繰り返す、といった印象です。なかなか、日本の、あるいは、古典的な貧困とは様相が違っていて、単純な解決方法などないように思えてなりません。左派的に行政的に財政リソースを配分しても酒代に消えるだけかもしれませんし、右派的な自己責任論を展開しても何にもなりません。私はある程度長期戦を覚悟して教育から始めるしかないような気がします。これは、開発経済学の観点から途上国を見たときと同じ感想なので、なかなかに自信がないんですが、少なくとも「特効薬」的で短期に解決する政策手段は思いつきません。古典的な貧困であれば、それこそ、ベーシックインカムが有効かもしれませんし、そこまで進歩的な政策手段でなくても財政リソースをつぎ込めば何とかなるような気がします。でも、アルコールや薬物の乱用、さらには、英国ですからこの程度ですが、米国になれば銃の問題も生じるような暴力の問題もあります。何とも、根深い貧困問題ですが、何らかの解決方法はあると私は楽観視しています。でも、右派的に自己責任論で押し通すのは何の解決にもなりません。金銭的な裏付けを持って、さらに、ケースワーカーなどの優秀な人材を適切に配置し、子供達はしっかりと教育を受けられる環境に置き、様々なきめ細かい方策を地道に続けていくことにしか解決の道はないのかもしれません。著者のいうように、左派的に社会的問題であり、ネオリベラル的な政策の犠牲者というのも、一面ではそうなのかもしれませんが、社会的な責任とともに、ある程度は自己責任も併せて問題として取り上げる必要があるのかもしれません。エコノミストとして、いささか自信のない分野かもしれませんが、エコノミストこそもっとも力を発揮すべき分野である、と思わないでもありません。

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次に、ポール・モーランド『人口で語る世界史』(文藝春秋) です。著者は、英国出身であり、ロンドン大学気鋭の人口学者だそうです。英語の原題は The Humman Tide であり、2019年の出版です。ということで、マルクス主義的な上部構造と下部構造で経済原理主義的な論調はいくつか見て来ましたが、本書では人口動態原理主義が展開されています。でも、歴史の根本に置けるのは、確かに、経済か人口動態くらいかもしれません。人口が歴史を形作る場合、常に参照されるのはマルサスであり、本書では常識的に、マルサス主義は2度転回した、と結論しています。すなわち、科学技術の発展、本書では産業革命における生産力の大きな伸長をもって、マルサス的な食料生産の限界を超えたことが指摘され、さらに、それにもかかわらず、女性教育の普及や女性の労働市場への参加などから、生産面から支えられるだけの人口増加が見られないようになる、というか、むしろ逆に生産が増える一方で人口が減少に転ずる、という2度の転回を明らかにします。第1の転回は決して農業生産の増加ではなく、むしろ、工業生産の増加やそれに伴う交易の広がりにより、海外からの食料調達が可能になった、と描かれています。その後、英国人研究者ですので英国中心史観でもないのでしょうが、産業革命を真っ先に達成した英国、というか、イングランドから始まって、イングランド以外の英国諸国、大陸欧州、そして米国に視点を変えつつ人口を論じています。さらに視野を広げて、東欧からロシアを論じ、アジア、中南米、アフリカと議論を展開します。人口の増減については、本書冒頭でも指摘されていますが、出生率と死亡率、そして、移民などの人口移動で説明できますが、本書では明記していないものの、出生率の上昇により人口増加がもたらされると、人口構成は若くなり、逆に、死亡率が低下すると人口の中で高齢者の比率が上昇します。この人口構成について、本書では決して無視されているわけではありませんが、やや量的な人口の規模に重点を置くあまり少し軽視されているような気がしなくもありません。エコノミストにはそのあたりが銃と考えられます。すなわち、人口と生産のマルサスの罠を脱すれば、ある意味で、相乗効果があり、人口と生産が手を携えて車の両輪として増加を続ける、という局面があります。出生率が上昇するとともに、死亡率が低下します。日本の戦後の高度成長期などが典型といえます。そして、次の転回に従って、出生率が低下し始め、死亡率の低下も頭打ちとなります。極めて例外的な国を除いて、前者の出生率の低下が始まれば、もう一度出生率が上昇するケールはほぼありません。我が国人口の現状を見れば明らかです、おそらく、これは出生率を引き上げるおいうよりも、その現状を受け入れて対応する、というしかないのかもしれません。最後に、2019年出版の原書1年もたたずに翻訳したのは、たいへんな生産性の高さだという気もしますが、国名の邦訳がややひどい気がします。ひょっとしたら、原書で書き分けられていない気もしますが、USとアメリカ合衆国は大きな違いないと思うものの、イングランドはまだしも、ブリテンとグレート・ブリテンとUKはどう違うんでしょうか。訳者あとがきで、誇らしげに「イギリス」という国名は使わなかった、と邦訳者が自慢していますが、原作者に質問するなりして、もっとキチンと書き分けて欲しかった気がします。

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次に、将基面貴巳『愛国の構造』(岩波書店) です。著者は、オタゴ大学の研究者だそうですが、私は不勉強にしてオタゴ大学というのを知りませんでしたから、ネットで調べるとニュージーランドにあるそうです。本書でいう「愛国」とは、上の表紙画像に見えるように、英語のpatriotismです。最近、ネトウヨの本などを読んでいるんですが、その中では愛国というよりは、反日に対する嫌悪感が充満しているという印象があります。在日はもちろん、外国人は無条件で反日と認定されるようですし、日本人でもリベラルな方向性はあまり親日とは見なされないようです。その中で、反日と親日を分けるものとは少し異なる次元ながら、愛国を考えたのが本書です。ただ、言葉遊びではなく、国という場合、民族を主たる構成員と考えるnation、出身地の地理的な位置関係を重視するcontry、政府とほぼほぼ同じ意味で使われる国家などのstate、の少なくとも3つの概念があり、本書では丹念にひとつひとつ論を進めています。ただ、我が国でいう「国」については私は異論があり、我が国での「国」は統一国家としての日本ではなく、むしろ、その昔の人の表現かもしれませんが、「お国はどこですか」とか、もっと昔の「国持大名」などのように、関西でいえば、河内、摂津、丹波、丹後、大和、紀伊、といったその昔の大名の領域に近い概念ではなかろうかという気がします。もちろん、「国持大名」という表現があるように、大名のすべてが国を持っていたわけではありませんし、島津のように薩摩と大隅の2国を持っていた例もありますが、現在の都道府県よりももう少し細かい単位ではないか、という気がしないでもありません。米国も連邦制の国家であって、よく似た印象を私は持っています。少なくとも、ヤンキーの北部と貴族的な南部は大きく異なります。私は京都南部の小領主や旧貴族の荘園などが点在していた地域の出身ですから、余りそういった気分は理解できなかったのですが、10年ほど前に長崎大学に出向した際に、九州ではそういった「お国自慢」が幅広く言い伝えられており、逆に、自分の出身地についてなーバスである、という気もしました。それはともかく、本書では国家という政治共同体にアイデンティティの基礎を置くことの問題点、特に、国家による聖性の独占の問題をひも解こうと試みています。1890年に明治期の日本では「教育勅語」を明らかにし、このことが大きなターニングポイントであったと指摘しています。その後、天皇の神格化が進み、愛国心の名のもとに青年の命をムダに消耗する戦争へと投入していく、というのが歴史的な事実です。ですから、愛国を持ち出されると私なんぞは懐疑的なメガネを取り出して着用する場合が少なくなく、愛国を唱えるグループはそれだけで損をしている気もしますが、それでも教育現場に「愛国心教育」を持ち込もうという動きは跡を絶ちません。単なる無条件の自国礼賛に陥った愛国に代替するアイデンティティが必要だと私は考えていて、官庁エコノミスト経験者としてだけでなく、大学教員経験者としても、教育の重要性は十分認識しているつもりであり、エコノミストとしての専門性を生かして教育の現場に戻る道を模索しているところです。最後は、少しヘンな話になりました。ご容赦ください。

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最後に、橘玲『上級国民/下級国民』(小学館新書) です。著者は、作家・ノンフィクションライターといったところです。私は、たぶん、この著者の本を読むのは初めてです。本書は、結論からいえば、上級国民とは団塊の世代で高度成長期を満喫して正社員でがっぽり稼いだ既得権益者であり、下級国民はその犠牲になって正規雇用を得られなかったりした若者、ということなんだろうと思います。私自身が団塊の世代の10年後の生まれで、団塊の世代の恵まれた状態をつぶさに見てきた経験があります。とても卑近な例ですが、国家公務員でも団塊の世代までは問題なく「天下り」で再就職したのに対して、私なんぞはものすごく苦労させられているわけです。それを、能力の問題とか、自己責任とか、そういったものにすり替える議論がまかり通っているわけで、正社員になれない若者の能力不足とか、ましてや、自己責任なんてとんでもない、という主張を私もこのブログで繰り返していたりするわけです。経済学的な実証研究の成果として、たとえ正社員であっても、景気後退期に就職した世代は生涯賃金で損をしていることは明らかな事実として確立しており、しかも、米国の場合では就職してから数年でこの賃金格差が縮小する一方で、日本の場合はかなり長期に影響が残る、というのもスタイライズされた事実です。ですから、私は決して国民相互間の分断を煽るつもりはありませんが、引退世代と現役世代の格差は明確に存在し、しかも、それが投票行動に基づいていることから、政治レベルでは解消することが困難である、という事実は十分に認識される必要があると思っています。本書の内容はやや誇張されている部分もあるように見受けますし、一部にあるいは不正確な内容も含まれているかもしれませんが、大筋では恵まれた団塊の世代とその犠牲になった就職氷河期世代、という構図は大きくは間違っていないんではないか、と考えています。それだkらこそ、政府でも就職氷河期世代対策を今さらのように打ち出したりしているわけです。繰り返しになりますが、本書の内容をすべて肯定するつもりもありませんが、世代間格差というものは現に存在し、それは解消されるべきであり、自己責任や能力の問題ではない点は理解されて然るべき、と私は考えています。

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2019年11月30日 (土)

今週の読書はまたまたマルクス主義の経済書など計7冊!!!

今週の読書は、マルクス主義経済学に立脚するものを含めて経済書から教養書、さらに、私の好きな純文学小説の作家である青山奈々枝の小説、また、ブルーバックスで復刻された古典的な数学書まで、以下の通りの計7冊です。冬晴れのいいお天気の下、すでに図書館周回も済んでおり、来週も数冊の読書になる見込みです。

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まず、デヴィッド・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社) です。著者は、ジョンズ・ホプキンス大学やオックスフォード大学を経て、現在はニューヨーク市立大学の研究者をしており、専門分野は経済地理学です。マルクス主義経済学に立脚する研究者です。本書の英語の原題は Marx, Capital, and the Madness of Economic Reason であり、2017年の出版です。上の表紙画像に見えるように、副題は「グローバル経済の行方を<資本論>で読み解く」となっています。ということで、資本主義には強い過剰生産恐慌の傾向があるわけですが、本書では19世紀半ばの経済恐慌を取り上げ、説得的な議論を展開しています。本書では、特に、恐慌に関して価値と反価値から特徴付けようと試みています。特に、反価値として負債に基づく経済発展を措定し、当然ながら、資本主義的な過剰生産により利潤最大化が達成されず、恐慌に陥る歴史的必然が導かれます。経済地理を専門とする研究者らしく、時系列的な流れと空間的な広がりを同時に議論の基礎として展開し、例えば、グローバル資本主義の展開については、利潤確保のための安価な労働力の確保を動機としていることは明らかです。ですから、本書では登場しませんが、いわゆる雁行形態発展理論などが成立するわけです。アジアでは日本が先頭に立って、いわゆるNIESが日本に続き、さらにASEAN、さらに中国、またまたインドシナ半島の国々などが続くわけで、その先にはアフリカ諸国が控えているのかもしれません。そして、空間的に地球上で帝国主義的な進出も含めて、グローバル資本主義が行き渡ってしまえば、利潤追求のための拡大再生産が大きな壁に突き当たり、恐慌を引き起こし、ひいては資本主義の死滅に至るわけです。典型的な唯物史観に基づく生産関係と生産力の間の矛盾による階級闘争なわけですが、現実んの歴史はマルクス主義的な歴史観のように進んでいないことも確かです。他方で、価値と反価値の弁証法については、私が不勉強にして知らないだけか、マルクスの文献に典拠があったりするんでしょうか。また、本書のテーマとどこまで関係するかは自信ありませんが、気候変動に関する分析も秀逸です。全体的に、ポストケインジアンなハイマン・ミンスキー教授らの分析に類似性あるようにも思えますが、剰余価値の生産の限界と資本主義的生産の地理的な広がりに関しては、このハーヴェイ教授のマルクス主義的な分析に軍配が上がるような気がします。

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次に、橘木俊詔『日本の経済学史』(法律文化社) です。江戸期からの我が国における経済学史をかなり独特の、というか、いわゆる経済学史的な視点ではないまとめをしています。ノーベル経済学賞の受賞者を出すための英文論文の必要性については、まったくその通りなんですが、skレは経済学に限らず物理学などの自然科学についても同じではないかという気がします。世界的には英語での普及が絶対条件であり、学問的な完成度よりも語学的な普及の容易さ、というものが重要なのでしょう。ノーベル賞に限定すれば、文学賞でスペイン語がやや有利、という気もします。例えば、私が南米はチリにある日本大使館に勤務していたのは1990粘弾前半の3年間であり、1995年度のノーベル文学賞に大江健三郎が選出される前でしたので、我が国のノーベル文学賞受賞者はたったの1人でした。しかし、人工的には我が国の10%くらいの小国であるにもかかわらず、チリにはその時点で2人のノーベル文学賞受賞者がいました。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと左派詩人のパブロ・ネルーダです。国連公用語にもなっているスペイン語の有利なところを見た気がしました。本書では、その昔の我が国の東大・京大などの帝大におけるマルクス主義経済学の隆盛と一橋大などの高商における現代経済学を対比させていますが、私も旧制帝国大学卒業生ですから、少なくとも、東大や京大であれば何の経済学を勉強したのかは就職には関係ないといえます。ですから、私の視点は逆であり、我が国の経済学の研究レベルが低い、というよりは、欧米、特に米国の経済学のレベルが高すぎるのではないか、と考えています。加えて、良し悪しは別にして、我が国では経済学だけでなく超絶的なトップエリートの育成システムが存在しないような気がします。さらに加えて、60歳近傍の私くらいの年代までは、工学や理学系については大学院に進学しても修士課程・博士前期課程で終わって、普通に就職するという道がありました。企業でも工学的な研究職は採用します。でも、経済学部の場合、大学院に上がるということは、そのまま博士後期課程まで進み、アカデミックな研究者を目指す、ということだったような気もします。役所や日銀などのごく特殊な組織でなければ経済学の研究はなされておらず、国際機関への就職などはスコープ外でした。逆にいえば、東大や京大の経済学部卒業生の就職が極めてスムーズであったともいえます。いずれにせよ、いわゆるマル経と近経の派閥抗争的な見方には、私はやや違和感を覚えます。

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次に、稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』(講談社選書メチエ) です。著者は明治学院大学の経済研究者であり、本書ではスミス的な古典派経済学やマルクス主義経済学も含めて、経済学の考えから労働について哲学しています。すなわち、経済学的には労働は美徳として単純な勤労観で支えられているだけでなく、出来れば避けたいコスト感も併せ持っています。ですから、時間の配分については、労働によって得られる賃金と機会費用のレジャーの効用を比較して労働供給が決定されるという定式化となっています。そういった労働観に対して、実際の経済の歴史は一貫して機械による人間労働の置換を進めてきたわけで、基本的には、AIを生産現場に活用することはこの延長上にあるともいえます。ですから、AIによる労働の置換に対して、歴史上のラッダイト運動が参照されるのもアリなわけです。そして、もうひとつの古典派経済学やマルクス主義経済学、あるいは、現代経済学においても、生産要素は土地と資本と労働であり、私が『資本論』を読んだところでは、第3巻は土地から地代を得る地主、資本から利潤を得る資本家、労働から賃金を得る労働者の3大階級で締めくくられています。もちろん、エンゲルスの編集にして正しければ、という前提ですが、今までの経済学者でこのエンゲルスの編集に目立った異議を唱えた人はいなかったと私は認識しています。何がいいたいかというと、本書の指摘にある通り、AIは資本なのか、労働なのか、ということを問題にすべきとは私は思いません。すなわち、AIとは資本であって労働ではないことはほぼほぼ確実です。なぜ「ほぼほぼ」というかといえば、まだAIが完成形として人間労働に置き換わったシンギュラリティに達していないからです。ただ、この場合、「シンギュラリティ」はAIが人間からのインプットを必要とせず、高度に自律的な判断を下し、同時に、同じ意味で自律的に行動することになる、という段階と考えておきたいと思います。加えて、AIが意思決定するプロセズが「ブラックボックス」で恐怖ないし違和感を持つ人もあったりするんでしょうが、本書の著者は、そもそも資本主義的な生産・分配、また、市場における価格決定などは、すべてブラックボックスで処理されているに等しい、と指摘しています。これもその通りです。いままで、オックスフォード大学のグループのように単純労働だけでなく、医師や弁護士などの労働もAIによって置き換えられる可能性がある、といった論調が多かった分野ですが、とても新鮮で理解しやすい議論が展開されています。200ページほどのコンパクトなボリュームながら、今週の読書の中で一番だと思います。

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次に、有江大介『反・経済学入門』(創風社) です。著者は一線を退いたとはいえ経済学史を専門とする経済学の研究者です。本書は、著者自身による本書の前書きによれば、社会科学概論という授業のテキストとして企画されたもののようです。ですから、経済学をターゲットのひとつとしつつも、幅広く社会科学、あるいは、科学といったものを対象にしています。それも、古典古代から現代までの長いタイムスパンで論じています。そして、結論を先取りすれば、経済学が科学として生き残るのは、現実からの演繹を徹底して、「経済工学」Economic Engineering としての道ではないか、と本書の最後で記しています。本書は、基本的に、経済学に基礎を置きつつ、社会科学全般について論じた教養書という位置づけなのではないか、という気がします。ただ、私の社会科学や歴史観などと共通する部分も少なくなく、例えば、第Ⅰ部第7章では、歴史の進み方特にグローバル化については「止められない」という表現で、かなり一直線に進む歴史観を支持しているように見えます。ただ、これは西洋由来の学問としての経済学の影響も私は見てしまいます。すなわち、東洋的な、というか、中国的なといってもいい円環的ないし循環的歴史観に対して、西欧的ないし西洋的な歴史観は一直線だと私は受け止めています。そのひとつがマルクス主義的な唯物史観であって、原始共産制に始まって、古典古代の奴隷制、中世の封建制、近代の資本制から社会主義ないし共産主義が展望されていますが、まだ、本格的な社会主義的生産は実現されていません。やや脇道に逸れましたが、本書について私の感想は、基本的に賛成なのですが、マクロな次元における科学としての経済学は、本書の結論通り、経済工学的な側面を強め、その基礎としては実験経済学の知見が生かされる可能性が高いと私も思います。ただ、マイクロな選択の理論としての経済心理学的な方向もあるんではないか、という気がします。典型的にはツベルスキー=カーネマンの研究です。もっと進めば、神経経済学のような分野かも知れません。ここでもやや古い経済学的な合理性が前提とされず、限定合理性の下でのマイクロな選択が解明され、ひいては経済工学的なマクロな経済社会の方向性を議論することになるような気もしますが、それはそれで独立した分野と考えられる可能性もあります。でも、本書についても、経済書というよりも水準の高い教養書であり、私は図書館で借りましたが、残念ながら、東京都の公立図書館では区立図書館で新宿区や杉並区など数館、多摩地区の図書館では国立市しか蔵書してません。でも、1500円プラス税というお値段ならお買い得、という気もします。

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次に、メレディス・ブルサード『AIには何ができないか』(作品社) です。著者は、米国のデータジャーナリストであり、同時に、ニューヨーク大学アーサー・L・カーター・ジャーナリズム研究所の研究者でもあります。英語の原題は Artificial Unintelligence であり、2007年の出版です。ということで、本書では、AIに限らず、テクノロジーに対する懐疑論が展開されています。私はどちらかといえば、AI悲観論、というか、カーツワイルの指摘するような2045年というのでは二としても、人類の英知を超えるAIはいずれ出現し、人類はAIのペットになる、というものです。それに反して、本書では、AIは人類を越えられない、あるいは、AI以外の技術もそれほどのパワーはない、との議論を展開しています。私には正確なところは判りません。AIをはじめとする現在花盛りのテクノロジーは、かなりのパワーあるような気がしますが、何分、専門外で理解がはかどりません。単純な情報処理であれば、マシンは人類をとっくに超えていると思いますが、単純でない、まあ、どこまで単純でないかも問題ながら、例えば、ヒューリスティックな直感判断をマシンに求めるのは、確かに無理がありそうな気もします。ただし、ヒューリスティックな判断は間違いも多いわけで、時間が節約できるのと正確性は、当然、トレードオフの関係にあります。加えて、MicrosoftのTayがマシン学習の課程でナチスやヒトラーを礼賛し始め、ユダヤ人虐殺や差別を肯定したとして、開発を中止したというのも事実ではなかろうかといわれています。当然ながら、AIにも限界、というか、欠陥は考えられるわけです。少なくとも、AIや最新テクノロジーに関して、繰り返しになりますが、私はやや悲観バイアスに傾くんですが、悲観も楽観もせずに社会常識に従った良識的な対応が求められているんだろうと思います。本書のようなAIの限界を指摘する主張も、その意味で、バランスよく目を向けておく必要があると思います。私もAI悲観論から、少しずつですが本書のようなAI限界論に傾いて来た気もします。AIをもって神に措定する必要はまったくありません。

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継に、青山七恵『私の家』(集英社) です。著者は、ご存じの通り芥川賞作家であり、純文学の担い手です。本書では、主人公の女性の祖母の法事に集まった親戚一同を見渡すところから物語が始まります。作者の青山七恵は、私の大好きな作家の1人なのですが、最近、フォローするのをサボっており、最後に読んだのは数年前の『ハッチとマーロウ』でしたので、パタパタとこの間に出版された『踊る星座』と『ブルーハワイ』の2冊の短編集も併せて読んだりした次第です。ということで、本書は連作短編集の体裁のように見えますが、私の解釈によれば長編であり、それほど複雑ではなく、通常の親戚付き合いの範囲で、3代に渡る女性に着目した構成になっています。ただ、3代に渡る家族史ですので、長編と考えれば、かなり長い期間を対象としている上に、章が時系列で並んでいるわけでもなく、逆に、時代がさかのぼったり、大きく飛んだりしますので、その意味では、読み進むのにやや読解力を必要とします。なお、日本語の「家」には英語のhomeとhouseがありますが、明らかに前者のhomeです。建物としての家についてはほとんで触れていません。家族を主として、親戚やご近所も含めた人間関係を抜群の表現力と構成力で描き出しています。3代の女性陣の最年長は法事の対象である祖母であり、まあ、男尊女卑の時代ですから、死ぬまで自分は損な役回りになっていると不満を持った人生のように描かれています。その祖母の子は3人いて、行方不明になっていた長男、主人公から見れば叔父に当たる男性はニュージーランド在住で、四十九日の法要には間に合いませんでしたが、一周忌には現地で結婚した妻や子とともに帰国します。まあ、男性は本書ではオマケかもしれません。主人公の母は、元体育教師という質実剛健な女性でありながら、祖父母の家に里子のような形で出された不遇な子供時代にこだわっています。姉妹は同棲していた男性に逃げられて、東京から北関東の実家に戻って来ています。大叔母は孤独を愛しながらも、異性の崇拝者に囲まれ波乱に富んだ老後を送っています。それぞれのキャラクターがとても明らかに設定されていて、繰り返しになりますが、作者の表現力と構成力が素晴らしいと感じました。また、この作者の作品を追いかけたいと思います。

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最後に、高木貞治『数の概念』(講談社ブルーバックス) です。著者は、我が国数学界の大御所という表現では不足し、巻末の秋山教授による解説によれば「日本の近代数学の祖」ともいえ、もちろん、すでに亡くなっています。没年である1960年がそもそも定年退職した私の生年に近いわけで、創設間もないフィールズ賞の第1回の選考委員も務めています。ドイツ留学でヒルベルトに師事しています。とんでもない大先生なわけです。なぜか私はこの大先生の『解析概論』(岩波書店) を持っていて、箱入りのハードカバーの大判本ですので、読みとおした記憶ないながら、本棚に飾ってあります。本書は、1949年に初版が、1970年に改訂版が、それぞれ岩波書店から出版されたものを新装改版しています。高木教授の最後の著作と見なされています。わずかに、新書判でも200ページ余り、秋山教授による解説を除けば140ページ足らずのボリュームにもかかわらず、誠に残念ながら、私は本書で展開されている議論をすべて理解するだけの数学的な能力はありません。でも、美しい数学の世界に触れただけでも幸福な気分になれる人は少なくないだろうと思います。混み合った通勤電車で本書を開くと、それなりの優越感を持てるかもしれません。もちろん、図書館から借りていますので、待ち行列に割り込んで、ほかの数学に専門性ある人の機会費用を上昇させているという意見もあるかもしれませんが、逆のケースもあり得るんでしょうから、お互いさまです。

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2019年11月23日 (土)

今週の読書感想文は経済書なしながら小説2冊で計6冊!!!

今週の読書は、とうとう経済書を読みませんでした。先々週に、現代貨幣理論の入門書に加えて、バルファキス教授の『わたしたちを救う経済学』、さらに、総務省統計局で消費統計担当の課長をしていた経験から大好きな消費者選択に関する野村総研の『日本の消費者は何を考えているのか?』を読んだ後、先週の読書感想文では、マルクス主義に立脚する『戦争と資本』などを無理やりに経済書に分類しましたが、自分自身でも純粋の経済書は読んでいないような気がしていました。今週はどんな角度から考えても、6冊読んだにもかかわらず、その中に経済書はありませんでした。私はこの読書感想文では書名のカラーで一応の分類をしているつもりで、赤は経済書、青は経済以外の専門書や教養書やドキュメンタリー、緑が小説やエッセイなど、そして、中身というよりも出版形態ということで、ライムが小説を中心とする文庫本、ピンクはドキュメンタリーっぽい新書、としています。赤の経済書がないのは、どれくらいさかのぼってしまうんでしょうか、それとも、初めてかもしれない、と思っています。

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まず、雨宮処凛[編著]『この国の不寛容の果てに』(大月書店) です。編著者は、ご存じの通り、貧困・格差の問題に取り組むエッセイストです。本書の副題が『相模原事件と私たちの時代』とされているように、相模原の障害者施設である津久井やまゆり園に元職員の男が侵入し入所者19人を刺殺した事件を切り口として、編著者とジャーナリスト、研究者、精神科医、ソーシャルワーカーなどとの対談集として取りまとめられています。障害者に対する選別ないし疎外意識をタイトルの「不寛容」と表現しているわけです。私が不勉強なだけかもしれませんが、財政赤字が膨大なるがゆえに命の選別が行われていることに、エコノミストとして愕然としました。同じコンテクストで、LGBTQを「生産性」で選別したり、ある意味でナチス的な優生学に基づく選別したりする傾向は、ひょっとしたら、多くの国民が多かれ少なかれ持っている可能性は私も否定できませんが、それが、財政赤字との関連で選別につながるとは、まったく想像の外でしかありませんでした。私は財政赤字にはノホホンと寛容で、反緊縮の立場から財政拡大を主張する左派エコノミストですが、法人税を減税する一方で消費税率を引き上げ、緊縮財政の下で国民の基本的人権まで否定しかねないような現状は極めて異常といわざるを得ません。私が常に主張している点ですが、失業や不本意な非正規就業はマクロ経済政策も含めた経済状況によるものであり、個人の自己責任を問えるものではありません。主流派経済学でも、不況期に卒業・就職を迎えたクタスターは、我が国においては明らかに生涯賃金が低く、経済的に不利な状況にあることは明確に実証されていますし、実に、これは我が国にかなり特徴的な現象であり、米国などでは就職時が不況期であっても数年のうちにその低賃金状態は解消するのですが、我が国ではかなり長期に低賃金の状態を引きずるという実証結果が示されています。ただ、この不寛容はわが国だけに特徴的なものであるかといえば、必ずしもそうではなく、米国におけるトランプ大統領の当選や英国の反移民の観点からのBREXIT、あるいは、大陸欧州でのポピュリスト政党の得票拡大なども、基本的には同じ政治経済の現象ではないかと考えられます。もちろん、本書で指摘されているように、長く続いた戦後民主主義の政治的正しさ = political correctness に対する反発とか苛立ちもあるでしょうし、順番待ちしていて列に並んでいる自分の前を移民などが割り込んでくるという被害者意識もあるでしょう。でも、本書では障害者をフォーカスしていますが、ひょっとしたら、根本にあるのは経済的な格差の拡大や貧困の蔓延かもしれない、と私は考えざるを得ません。何らかの経済的貧しさから心理的な剥奪観を持ち、その原因となっているように見える「敵」を見つけようとしているような気もします。戦後の高度成長がルイス転換点に向かう1回限りの特異な成長であったことを考えると、経済が均衡に向かう中での高成長をもう一度はムリなわけであり、国民生活を豊かにしていくためには何らかの政策的なサポートが必要であると痛感します。

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次に、伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』(青弓社) です。著者は、ネット企業で2ちゃんねるの書き込みなどをフォローしたりしていた後、現在は社会学の研究者となっています。本書の副題から、時間的なスコープは、1990年から2010年くらいまでであり、本書では、少なくとも2012年末に現在の安倍政権が発足してから、ネット右派の活動は大きく減退したような観察結果を記しています。ということで、従来の伝統的な右派が街宣車や街頭演説などの行動する右翼であったのに対して、まさに、「ネトウヨ」と呼ばれるネット右派は街に出て行動するのではなく、ネット上の言論活動を主たる舞台としてると特徴づけています。もっとも、1990年以前にさかのぼって、左派リベラルについて、都会、高学歴、高収入などの特徴を列記し、右派はその反対、というように分析していたりします。中曽根元総理からの引用である「魚屋さん、大工さん」といったところです。ただ、右派のひとつの特徴である排外主義的な主張については、ほぼほぼ排外されるのは韓国であり、尖閣諸島問題などの中国は、特段の言及ないように受け止めました。このあたりは、私には少し疑問を持ったりもしています。少し戻ると、左派リベラルの象徴として、朝日新聞がやり玉にあがることが多いわけですが、ともかく、膨大なネット情報を駆使して、いろんな特徴づけを展開しています。しかし、今年に入ってからの韓国の徴用工判決を起点とする日韓関係の悪化にまでは目が届いていません。まあ、書籍メディアの不利な点かもしれません。それはそれとして、私も関西出身ですから、首都圏とは在日コリアンの数や比率がかなり濃い地方性であり、その昔のコリアン観を知らないでもないんですが、現在の嫌韓感情とはかなり違っていたような記憶があります。すなわち、私の父もそうだった気がしますが、いわゆる統計的な差別はあった気がします。例えば、単位人口当たりの犯罪率とかです。ただ、これは、大学のランキングで東大・京大・阪大の順番と同じで、在日コリアンの人格的な問題ではなかったような気もします。ですから、とても考えにくいかもしれないものの、在日コリアンの方の犯罪率が下がればそれでいいわけで、その根底にある人格的あるいは民族的な蔑視は、まったくなかったわけではないとしても、現在よりもかなり小さかった気がします。エコノミスト的な見方であれば、分業の中の一部を担っているわけで、それはそれなりに有り難い、とまではいわないまでも、カギカッコ付きの「必要悪」に近い認識ではなかったか、と勝手に想像しています。でも、今の嫌韓右派はまさに排外主義であって、分業の余地すらなく、ひたすら排除したがっているような気がしてなりません。私の見方が正しいかどうか、専門外ですのではなはだ自信はありませんが、先に取り上げた『この国の不寛容の果てに』と同じで、格差の拡大や貧困が根本的な原因のひとつとなっている気がしてなりません。

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次に、田中里尚『リクルートスーツの社会史』(青土社) です。著者は、大学卒業後に暮しの手帖社などで編集の仕事に携わりながら、比較文明学の博士号を取得した後、今は文化学園大学服装学部の研究者をしています。本書はタイトルがそのままズバリであり、学生服ないし制服での就活から敷くルートスーツの着用に移行した後、さらに、そのリクルートスーツが初期から現在の真っ黒に至るまで、どのように社会的な変遷をたどったか、しかも、私が高く評価するところでは、スーツの歴史だけを取り出したのではなく、バックグラウンドの経済社会的な変化と合わせて論じています。しかも、男女のジェンダー別に詳細に論じていますので、500ページを軽く超えるボリュームに仕上がっています。ということで、私は今年61歳になりましたので、1980年代初頭に就活をしているハズなんですが、さすがにほとんど記憶にありません。1990年代のバブル崩壊後の氷河期や超氷河期と呼ばれる時代背景でもなく、まあ、京都大学経済学部ですから就職には恵まれていたといえます。少なくとも、制服のない高校を卒業していますので、詰襟の学生服で就活をしたハズはありません。たぶん、何らかのスーツだった気もするんですが、他方で、私は革靴というものを持っていた記憶がなく、大学卒業の際にアルバイト先から靴券なるものをもらって、生涯で初めて革靴を買ったと感激した記憶があります。ひょっとしたら、スニーカーのままでスーツを着ていたのかもしれません。それから、私が就活をしていたころの標準的なリクルートスーツは、今の真っ黒と違って、紺=ネイビーの三つ揃えだったと本書では指摘しています。これまた、私の記憶では、私は61歳になる現在まで三つ揃えのスーツは買ったことがありません。オッドベストの共布ではなく、ジャケットやズボンとは違う色調のニットならざるベストは着用したことは何度もありますが、ジャケット・ズボン・ベストがすべて同じ友布の標準的な三つ揃えは買ったことも着たこともありません。それから、いつからかはこれまた記憶にありませんが、私のオフィス着のワイシャツは長らくボタンダウンです。普段着でレギュラーカラーのシャツを着ることはいくらでもありますし、勤め始めたごく初期はレギュラーカラーだったような気がしないでもありませんが、長らくボタンダウンしか着用していません。本書ではレギュラーカラーのワイシャツがリクルートスーツに合わせる基本と指摘しています。また、本書で指摘するように、陸ルーツスーツの変化のバックグラウンドに、経済要因があることはいうまでもありませんが、不況のごとに敷くルートスーツのスタイルが大きく変化するというのは、エコノミストから見てもびっくりしました。そうなのかもしれません。ただ、黒一色の陸ルーツスーツに真っ白でレギュラーカラーのワイシャツといった個性がないというか、画一的な服装の大きな原因は、やっぱり、新卒一括採用であるという本書の指摘については私もまったく同意します。ただ、我が国社会の減点主義的な面もいくぶんなりとも一因ではないかと考えており、新卒一括採用がなくなれば、一定のラグはあるものの、リクルートスーツがバラエティに富むようになる、というのはやや疑問な気もします。ボリュームの割には読みやすく、歴史の好きな私にはいい読書でした。

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次に、川上未映子『夏物語』(文藝春秋) です。著者は芥川賞作家であり、受賞作は11年前の「乳と卵」です。そして、本書はその続編といえますが、第1部は受賞作のおさらいをしてくれています。すなわち、アラサーで東京在住の主人公の10歳近い姉が主人公の姪っ子といっしょに大阪から上京してきて、豊胸手術のカウンセリングを受ける第1部が置かれています。そして、第2部では、その8年後に舞台を改め、アラフォーになり小説が出版された主人公が、私のような凡庸な男には理解が及ばない「自分の子どもに会いたい」との思いに突き動かされ、パートナーなしで第3者からの精子提供による人工授精(AID)での出産を目指す、という内容です。前作の「乳と卵」では極論すれば登場人物は縁戚関係にある3人、すなわち、主人公とその姉と姪っ子の3人だけといってよく、母親や祖母については回想の中で登場するのが主だったんですが、この作品では、同じ女性作家の仲間のシングルマザー、編集者、AIDに関してやや否定的な傾向ある活動をする団体の男女、などなど、長編小説らしく多彩な人物が登場します。子供を持った、あるいは、持とうとするならば生活する能力、というか、ハッキリいえば、消費生活の基礎となる金銭を稼得する能力というのは不可欠であり、主人公の貯金額まで明らかにするというのは、ある意味で大阪出身の作家らしいという気もしますが、作品にリアリティを持たせる上で、私はとてもよかった気がします。主人公は、子供のころから決して恵まれた家庭環境にあったわけではありませんが、子供を持とうと決意する過程が少し雑な気がします。前作の「乳と卵」では、テーマが主人公の姉の豊胸手術ですから、命の重みに話が及ぶわけではありませんが、本書では命や人生というものの重みが決定的に違いますし、話が重くなります。大阪弁の流暢なおしゃべりで進むだけではないわけです。その意味で、もう少していねいに主人公が子供を持とうと思うようになった心情の変化を追って欲しかった気もします。もちろん、私の読解力の問題があり、子供を産まない男の読み方が浅いのかもしれませんが、もしもそうであれば、もっと私のような鈍感な男性読者にも思いをいたして欲しかった気がします。別の見方をすれば、こういった重いテーマを書き切る筆力には、著者はまだ欠けているのかもしれません。ただ、私が従来から主張しているように、親子や家族のつながりというのは、決して、血やDNAや遺伝子に基づくものだけではなく、いっしょに暮した記憶の方がより重要な要素になるわけで、その点では私と同じ見方に立っている気がしました。三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』のシリーズと同じだと思います。その意味で、妊娠確率高いと称する精子提供者を断ったのも、決して遺伝子やDNAの観点ではないような気がして、私なりに判る気がします。

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次に、朝井リョウ『どうしても生きてる』(幻冬舎) です。この著者も直木賞作家です。短編集であり、収録されているのは6話です。すなわち、主人公が事故死などを報じられた死亡者のSNSアカウントを特定する「健やかな論理」、妻の妊娠を口実にマンガ原作創作の夢を諦めサギまがいの保険勧誘に邁進する男性の心情を描く「流転」、不安定な派遣、契約、アルバイトをはじめ、正社員などの人の雇用形態を想像してしまう主人公を描いた「七分二十四秒目へ」、エリートポストといいつつも人事異動の後、痩せていく夫への主人公の心配と苛立ちを描き出す「風が吹いたとて」、妻の収入が自分を上回ったとき、妻に対しては勃起できなくなった夫を主人公とする「そんなの痛いに決まってる」、胎児の出生前診断をめぐる夫婦の意見の相違と対立をテーマとする「籤」の6編です。このうち、2番めの「七分二十四秒目へ」は先々週の最後に取り上げた日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』にも収録されています。生と死という、これまた重いテーマにまつわる6編です。いままで、私が読んだこの作者の作品は青春物語のように、高校生や大学生とか、就職したばかりの若い年代の主人公が多かった気がしますが、本書に収録された短編では中年といえる年代の主人公もあり、作品の広がりを感じられました。ただ、繰り返しになりますがテーマが重く、今週の読書感想文はかなりの部分が「現代社会の生きにくさ」といったものを何らかの形で取り込んだ本に仕上がっている気がします。今までの若い世代を主人公にした作品では、主人公や主人公を取り巻く登場人物の意識、自意識が痛さや生きにくさの原因だった気がしますし、本書でもそれを踏襲している作品も少なくありませんが、いくつかの作品では登場人物の意識ではなく、社会のシステムが生きにくさの原因となっているものもあり、これも作品の幅が広がった気がします。この作者については、決して多くの作品を読んでフォローしておりわけではありませんが、私のような低レベルの読者に対しても、それなりに好ましい作品が多い気もします。

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最後に、フランソワ・デュボワ『作曲の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者は、フランス出身のマリンバ奏者であり、作曲家でもあります。本書冒頭で、音楽一家に生まれ育ったと自己紹介しています。また、慶應義塾大学で作曲を教えるべく教壇に立った経験もあるそうです。ということで、西洋由来の音楽、特に、作曲についての科学を第1章の足し算と第2章の掛け算で始めて、作曲のボキャブラリーを増やすという意味でいろんな楽器を使う第3章に進み、第4章で結論、というか、作曲の極意、プロのテクニックを披露しています。私のすきなジャズ音楽家としては2人、いずれもピアニストのセロニアス・モンクとビル・エバンスが言及されています。ジャズの場合、モンクなどはかなり多くの名曲を残していますが、アドリブでの演奏そのものが作曲に類似しているといえなくもないと私は考えています。その意味で、ビル・エバンスについてはドビュッシー的な和音の転回を駆使したピアノ演奏をしているという指摘は、とても判りやすかったです。フランス人なのですが、作曲、というか、音楽の日本語用語は完璧です。もちろん、翻訳なんですが、カタカナ語としては、邦訳者がなぜか英語を基にしたカタカナ表記を選択しているような気がします。例えば、主音・主和音は「トニック」としていますが、在チリ大使館勤務時にスペイン語でピアノを習った経験ある私としては、女性名詞の「トニカ」でもいいんではないかと思わないでもありません。まあ、私もピアノを習ったのは日本語とスペイン語だけで、英語やフランス語で習ったことはありませんので、何ともいえません。それなりに音楽の知識や素養内と読みこなすのに不安あり、例えば、少なくとも五線譜に落とした楽譜に対する理解くらいは必要ですが、基礎的な知識あれば、決して音楽演奏や作曲の経験なくとも十分に楽しむことが出来る本だと思います。

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2019年11月 9日 (土)

今週の読書は話題の現代貨幣理論=MMTのテキストをはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、財政のサステイナビリティに関する話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の第一人者による入門テキストをはじめとして、以下の通りの計7冊です。NHKの朝ドラと「チコチャンに叱られる!」の再放送を見終えて、これから、来週の読書に向けた図書館回りに出かける予定ですが、来週も充実の数冊に上りそうな予感です。

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まず、L. ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』(東洋経済) です。著者は、米国バード大学のマクロ経済学研究者です。米国ワシントン大学ミンスキー教授の指導の下で博士号を取得しているそうです。英語の原題は Modern Money Theory であり、2015年の出版、第2版です。話題のMMT=現代貨幣理論の第1人者による入門教科書です。私は今回は図書館で借りましたが、来年になれば研究費で買えるのではないかと期待していますので、ザッと目を通しただけ、というところです。MMTに関しては大きな誤解があり、主流派のエコノミストは、おそらく、ちゃんと理解しないままに、MMTとは無制限に国債を発行して財政、もしくは、財政赤字を膨らませる理論である、と受け止めているんではないかと思います。でも、本書を読めば、MMTもそれなりに美しく主流派経済学と同じようなモデルに立脚したマクロ経済学理論であると理解できることと私は考えます。まず、冒頭で、貨幣=moneyとは一般的、代表的な計算単位であり、通貨=currencyとは中央銀行を含む統合政府が発行するコインや紙幣、とそれぞれ定義し、通貨が貨幣になる裏付け、通貨が生み出されるプロセス、財政政策の方向、の3点を理解することが重要と私は考えます。まず、第1に、通貨が貨幣という一般的な交換手段となる裏付けについては、市場で交換価値がある、すなわち、みんなが受け取るから、という主流派経済学の貨幣論を説明にならないと強く批判し、そうではなく、すなわち、交換で何か貨幣と同じ価値あるモノを受け取れるからではなく、政府が納税の際に受け取るからである、と指摘します。これはとても建設的な意見でクリアなのではないでしょうか。第2に、通貨創造についても、銀行が帳簿に書き込むからであって、それに対する預金の裏付けはない、と指摘します。キーストロークによる貨幣創造です。ですから、私なんぞも以前は誤解していたんですが、「国債発行が国内の民間貯蓄額を越えればアブナイ」という議論を否定します。政府が国債を発行して民間経済主体の銀行口座に預金が発生するわけです。当たり前なんですが、誰かの負債はほかの誰かの資産となります。そして、第3に、自国通貨を発行する権限のある中央銀行を含む政府は支出する能力はほぼ無限にある一方で、支出する能力が無限だからといって支出を無条件に増やすべきということにはならず、インフレや、同じことながら、通貨への市場の信認などに配慮しつつ、経済政策の目標を達成するための手段と考えるべきと指摘しています。逆から見て、プライマリーバランスや公債残高のGDP比などの財政健全性に関する指標を機械的に達成しようとするのは不適切である、ということになります。ということで、さすがに、定評あるテキストらしく、背後にあるモデルが明快であり、とても説得的な内容となっています。しかしながら、最後に、間接的な関連も含めて、3点疑問を呈しておくと、第1に、国債消化についてであり、負債は逆から見て資産とはいえ、国債が札割れを起こすこともあり、その昔の幸田真音の小説のような共謀は生じないとしても、負債が必ずしも資産に転ずるわけではない可能性をどう考えるか、そうなれば、主流派的な「みんなが受け取るから国債が資産になる」という考えが復活するのか、すなわち、我が国の財政法では国債の日銀引き受けは否定されているわけで、何らかの民間金融機関、プライマリーディーラーが国債を引き受けてくれる必要があるんですが、それが実現されないほどの大量の国債発行がなされる場合をどう考えるかに不安が残ります。第2に、私はリフレ派のように中央銀行が本書で政府の役割を果たすのも経済理論的には同じだと考えていて、例えば、「日銀はトマトケチャップを買ってでも通貨供給を増やすべき」と発言したとされるバーナンキ教授も同じではないかと思っていて、そうすればリフレ派とMMT派の違いはかなり小さく、MMT派が市場を無視する形で主権国家が財政を用いて強権的に購買力を行使するのと、中央銀行が市場の合理性を前提に通貨の購買力を行使して貨幣を供給するのと、は大きな違いではなく、実質的には差はなくなるような気がしないでもありません。最後の第3点目で、本書とは直接の関係ないながら、特に現在の日本で財政赤字がここまでサステイナブルなのは、動学的効率性が失われているからではないか、と私は考えています。動学的効率性の議論はかなり難しくて、長崎大学に出向した際に紀要論文で取りまとめた「財政の持続可能性に関する考察」においてすら回避したくらいで、このブログで論ずるにはあまりにもムリがありますが、MMT的な財政のサステイナビリティと動学的効率性が失われている時の財政のサステイナビリティが、どこまで違って、どこまで同じ概念なのか、理論的にはかなり気にかかります。ということで、ついつい長くなり、私には私なりの疑問はあるものの、実践的には、このテキストがどこまで中央銀行を含む政府の中で信任を得られるか、ということなのかもしれません。ケインズ政策が米国のニューディール政策に取り入れられるのに大きなタイムラグはありませんでしたが、政府を定年退職した我が身としてはとても気がかりです。なお、最後になりましたが、ひとびとの経済政策研究会のサイトに、とても参考になる解説メモが関西学院大学の朴教授によりアップされています。以下の通りです。ご参考まで。ただ、このメモを取りまとめた時点では、朴教授はMMT論者ではないと明記しています。お忘れなく。

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次に、ヤニス・ヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』(ele-king books) です。著者は、ギリシアの債務問題が発覚した後の急伸左派連合(シリザ)のツィプラス政権下で財務大臣を務めたギリシア出身のエコノミストであり、反緊縮など、かなりの程度に私と考えを同じくしています。立命館大学の松尾教授が巻末に解説を記しています。なお、バルファキスなのか、ヴァルファキスなのか、は、私はギリシア語を理解しませんが、このブログでも今年2019年月日に『黒い匣』の、また、同じく月日に『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の、それぞれの読書感想文を取り上げています。ということで、本書は基本的には、『黒い匣』と同じテーマ、すなわち、ギリシアの財政破綻とその後処理に焦点を当てています。『黒い匣』では、もちろん、対外的な交渉はあるものの、基本的に、当時のギリシア国内や政権内部にスポットを当てていたのに対し、本書では歴史的にかなり前にさかのぼるとともに地理的にも欧州延滞を視野に入れ、ユーロ圏の通貨同盟が成立する歴史をひも解いています。その上で、『黒い匣』と同じように、ギリシア国民の医療費や年金よりも、公務員給与よりも、欧州各国の銀行への債務返済に対してもっとも高い優先順位を付与するブラッセルのEU官僚やドイツ政府高官などを批判しています。特に、歴史的に通貨連合の設計段階までさかのぼっています、というか、第2次大戦末期のブレトン・ウッズ体制までさかのぼっていますので、何が問題であって、結局のところ、「強い者はやりたい放題、弱い者は耐えるのみ」という結果を招いたのかを解明しようと試みています。一言でいえば、ユーロによる通貨統合は民主的な制御を持たない金本位制の復活であったと私は考えています。トリフィンのトリレンマから、国際金融上では固定為替相場と自由な資本移動と独立した金融政策の3つは同時には成立できません。金本位制下では独立の金融政策を放棄して、また、戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場制では独立の金融政策もしくは自由な資本移動を犠牲にして、それぞれ国際金融市場を機能させてきたわけですが、欧州を除く日米では現在は固定為替相場を放棄しています。しかし、欧州のユーロ圏では独立した金融政策を放棄して固定為替相場、というか、通貨連合を運営しているわけで、そのリンクのもっとも弱い環であるギリシアが切れた、と著者も私も考えています。ギリシアに続くのはPIGSと総称されたアイルランドやスペイン・イタリアなどですが、なぜか、ギリシアに過重な負担を生ぜしめたのはEU官僚とドイツ政府高官が、いわば、後続の破綻可能性ある国への見せしめとする意図を持っていたというのは、私は否定しようもないと受け止めています。本書で著者は、欧州統合や通貨連合に反対しているのではなく、そういった経済政策が国民それぞれの民主主義に従って運営されることを主張しているわけです。その点は間違えないようにしないといけません。ケインズの「平和の経済的帰結」が何度か言及されていますが、ギリシアのツィプラス政権がトロイカの軍門に下った後、ギリシアのナチ政党である「黄金の夜明け」が議席を伸ばしたとまで書いています。正しく国民生活に資する経済政策が実行されない限り、民主主義が何らかの危険にさらされる可能性があることは、国民ひとりひとりが十分に自覚すべきです。

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次に、野村総合研究所・松下東子・林裕之・日戸浩之『日本の消費者は何を考えているのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルであり、3年おきに野村総研が実施している「生活者1万人アンケート」からわかる日本人の価値観、人間関係、就労スタイルなどを基に、世代別の消費行動などをひも解こうと試みています。今回の基礎となる調査は2018年に全国15歳以上80歳未満を対象に実施されており、2018年11月8日付けでニュースリリースが明らかにされています。本書では、世代的には、かの有名な独特のパターンを形成している団塊世代(1946~50年生まれ)から始まって、私なんぞが含まれるポスト団塊世代(1951~59年生まれ)、大学を卒業したころにバブルを経験するバブル世代(1960~70年生まれ)、団塊世代の子供達から成る団塊ジュニア世代(1971~75年生まれ)、さらにその後に生まれたポスト団塊ジュニア世代(1976~82年生まれ)、バブルを知らないさとり世代(1983~94年生まれ)、我が家の子供達が属するデジタルネイティブ世代(1995~2003年生まれ)に分割しています。第1章では、スマートフォンの普及などにより家族が「個」化していき、家族団欒が消失して消費が文字通りの「個人消費」となって行きつつある我が国の消費や文化を見据えて、第2章では世代別に価値観などを分析し、団塊世代や私のようなポスト団塊世代では日本に伝統的・支配的だった価値観が変容しつつあり、また、我が家の子供たちのデジタルネイティブ世代では競争よりも協調を重視し、全国展開しているブランドへの信頼感高い、などとの結論が示されており、さすがに、私の実感とも一致していたりします。また、最後の第3章では「二極化」と総称していますが、要するに、一見して相反する消費の現状を4つの局面から把握しようと試みています。すなわち、利便性消費 vs. プレミアム消費、デジタル情報志向 vs. 従来型マス情報志向、ネット通販 vs. リアル店舗、つながり志向 vs. ひとり志向、となっています。それぞれに興味深いところなんですが、3番目と4番めについては、時系列的に、ネット通販⇒リアル店舗、また、つながり志向⇒ひとり志向、という流れで私は理解しており、特に、ネット通販で大手筆頭を占めるアマゾンがリアルの店舗を、しかも、レジなどのない先進的なリアル店舗を始めたというニュースは多くの人が接しているんではないでしょうか。また、つながり志向にくたびれ果てて、結局ひとりに回帰するというのも判る気がします。ボリューム的にも200ページ余りで図表もあって、2~3時間で読み切れるもので、内容的にも「ある、ある」的なものであるのは確かなんですが、世間一般で言い古されたことばかりが目立ち、特に、何か新しい発見があるのかとなれば、とても疑問です。学問的には世間一般の実感をデータで裏付けるのは、それなりに意味あるんですが、本書については、消費の最前線でマーケティングなどに携わっているビジネスパーソンには、誠に残念ながら、目新しさはほとんどなさそうな気もします。

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次に、三浦しをん『のっけから失礼します』(集英社) です。著者は押しも押されもせぬ中堅の直木賞作家の三浦しをんであり、雑誌「BAILA」での連載に、それぞれの章末と最後の巻末の書き下ろし5本を加えた「構想5年!」(著者談)の超大作(?)エッセイ集に仕上がっています。ということで、相変わらず、著者ご本人も「アホエッセイ」と呼ぶおバカな内容で抱腹絶倒の1冊なんですが、自分自身の興味に引き付けて野球のトピックを、また、著者の追っかけの趣向に呼応して芸能ネタを取り上げたいと思います。まず、多数に上るエッセイの中で野球をテーマにしているのはそう多くありませんが、笑ったのは、著者の体脂肪率が首位打者並み、というので、軽く3割をクリアしているんだろうと想像できます。私自身は2割もないので、守備のいい内野手、ショートやセカンドあたりか、キャッチャーでもなければレギュラーが取れそうもありません。それにしても、阪神の鳥谷選手がどうなるのか、とても気になります。アラフォーの女性編集者が、楽天ファンでありながら、横浜に入団するプロ野球選手になる自分を完璧にシミュレーションしているというのは、驚きを越えていました。私は長らく阪神ファンですが、こういった自分のパーソナル・ヒストリーを改ざんすることはしたことがありません。もうひとつは、追っかけ関係で、BUCK-TICKのコンサートに強い情熱をもっていたのは、以前のエッセイなどから明らかだったんですが、私が読み逃していたのが原因ながら、宝塚への傾倒も並大抵のものではないと知りました。知り合いから『本屋さんで待ちあわせ』でも宝塚や明日海りおの話題があったハズ、と聞き及びました。すっかり忘れていました。それはともかく、明日海りお主演の「ポーの一族」観劇を取り上げたエッセイはもっとも印象的だったうちの1本といえます。ほかにも、EXILEファミリーへの熱い思いなどもありましたが、ソチラは私にも理解できる気がするんですが、三浦しをんだけでなく、一部の女性の宝塚への情熱は私には到底計り知れない域に達している気がします。まあ、逆に、それほどではないとしても、一部男性がひいきにするプロ野球チームへの思い入れが女性に理解できない場合があるのと同じかもしれません。同じ年ごろの女性ライター、というか、早稲田大学出身の三浦しをんに対して、立教大学出身の酒井順子のエッセイは、よく下調べが行き届いたリポートみたいなんですが、まったく違うテイストながら、私はどちらのエッセイも大好きです。

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次に、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋) です。今年2019年本屋大賞受賞作です。先週取り上げた『ベルリンは晴れているか』が3位で、2位以下が200点台の得点に終わった中で、この作品だけは400点を越えてダントツでした。それだけに、図書館の予約の順番もなかなか回って来ませんでした。主人公は女子高校生で、この作品の中で幼稚園前からの人生を振り返りつつ、短大を卒業して20代半ばで結婚するまでのパーソナル・ヒストリーが語られます。その人生は、穏やかなものながら起伏に富んでおり、水戸優子として生まれ、その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮優子を名乗っています。でも、「父親が3人、母親が2人いる。 家族の形態は、17年間で7回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」とうそぶき、家族関係をそれとなく心配する高校の担任教師に対して、ご本人はひょうひょうと軽やかに、愛ある継親とともに、そして、友人に囲まれながら人生を過ごします。まあ、現実にはありそうもないストーリですので、小説になるんだろうと私は考えています。ということで、本書の隠し味になっているピアノについて、この感想文で語りたいと思います。主人公の母親が死んだあと、実の父親が再婚しながら海外勤務のために離婚し継母との日本での生活を選択した主人公なんですが、この2人目の母親がキーポイントとなり、何と、主人公にピアノを習わせるためにお金持ちの不動産会社社長と再婚し、さらに離婚の後、東大での一流会社勤務のエリートが親として最適と判断して再婚して主人公の人生を託します。主人公も期待に応えてピアノを習い、そのピアノが縁となって結婚相手と結ばれ、その結婚式でこの作品を締めくくります。まあ、ここまで出来た継母に恵まれることは極めて稀なわけで、その継母がピアノに愛着を持って調律すら自分でするようなお金持ちと再婚し、最後に、継子を託すに足るエリートと再婚するなんて、あり得ないんですが、この最後の継父が主人公の結婚相手をなかなか認めてくれないというのも、とてもひねったラストだという気がします。もちろん、とてもひねりにひねったストーリー、というか、プロットをを構成し、それをサラリと記述する表現力は認めるものの、ここまで不自然なプロットが進行していく必然性が大きく欠けている気がします。時系列的にそうなった、という流れのバックグラウンドにあるきっかけでもいいですし、何かの必然性、特に、継母の考えや心理状態なんかはもっと深く掘り下げられていいんではないかと思います。私の独特の考えなのかもしれないものの、我々通常の一般ピープルの普通の生活に比べたノーマルよりも、良からぬ方向やアブノーマルなものについては、殺人事件が起こるミステリが典型ですが、それほど詳細な叙述を必要としない一方で、ノーマルよりもさらにきれいで美しく、とても良い方向が示される場合は、なぜ7日を詳細に裏付ける必要があります。残念ながら、作者にはそのプロット構成力ないのか、それとも、私に読解力ないのか、その流れを読み取れませんでした。ですから、私は感情移入することが難しく、「アっ、そう。そうなんだね。」としか感じられず、別のストーリーもあり得るという意味で、実に、小説の舞台を離れた客席から観客としてしか小説を読めませんでした。ハラハラ、ドキドキ感がまったくないわけです。でも、そういった読み方がいいという向きも少なくないんだろうという気もします。小説の好きずきかもしれません。

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次に、日本文藝家協会[編]『ベスト・エッセイ 2019』(光村図書出版) です。収録作品は、50音順に、彬子女王「俵のネズミ」、朝井まかて「何を喜び,何を悲しんでいるのか」、浅田次郎「わが勲の無きがごと」、東浩紀「ソクラテスとポピュリズム」、足立倫行「大海原のオアシス」、荒井裕樹「『わかりやすさ』への苛立ち」、五木寛之「『先生』から『センセー』まで」、伊藤亜紗「トカゲとキツツキ」、井上章一「国境をこえなかった招福の狸」、宇多喜代子「金子兜太さんを悼む」、内田樹「歳月について」、内田洋子「本に連れられて」、王谷晶「ここがどん底」、岡本啓「モーニング」、長田暁二「ホームソング優しく新しく」、小山内恵美子「湯たんぽ,ふたつ」、落合恵子「伸びたTシャツ」、小野正嗣「書店という文芸共和国」、角田光代「律儀な桜」、華雪「民―字と眼差し」、桂歌蔵「師匠,最期の一言『ハゲだっつうの,あいつ』」、角野栄子「アンデルセンさん」、金澤誠「高畑勲監督を悼む」、岸政彦「猫は人生」、岸本佐知子「お婆さんのパン」、北大路公子「裏の街」、くぼたのぞみ「電車のなかの七面相」、黒井千次「七時までに」、「共働きだった両親の料理」鴻上尚史、小暮夕紀子「K子さんには言えない夏の庭」、齋藤孝「孤独を楽しみ孤立を避ける50歳からの社交術」、酒井順子「郵便」、さだまさし「飛梅・詩島・伊能忠敬」、佐藤究「ニューヨークのボートの下」、佐藤賢一「上野の守り神」、沢木耕太郎「ゴールはどこ?」、ジェーン・スー「呪文の使いどき」、砂連尾理「ノムラの鍵ハモ」、朱川湊人「サバイバル正月」、周防柳「山椒魚の味」、杉江松恋「『好き』が世界との勝負だった頃」、瀬戸内寂聴「創造と老年」、高木正勝「音楽が生まれる」、高橋源一郎「寝る前に読む本,目覚めるために読む本」、高山羽根子「ウインター・ハズ・カム」、滝沢秀一「憧れのSという街」、千早茜「夏の夜の講談」、ドリアン助川「私たちの心包んだ人の世の華」、鳥居「過去は変えられる」、鳥飼玖美子「職業と肩書き」、永田紅「『ごちゃごちゃ』にこそ」、橋本幸士「無限の可能性」、林真理子「西郷どんの親戚」、原摩利彦「フィールドレコーディング」、広瀬浩二郎「手は口ほどに物を言う」、深緑野分「猫の鳴き声」、藤井光「翻訳の楽しみ 満ちる教室」、藤沢周「五月雨」、藤代泉「継ぐということ」、星野概念「静かな分岐点」、細見和之「ジョン・レノンとプルードン」、穂村弘「禁断のラーメン」、マーサ・ナカムラ「校舎内の異界について」、万城目学「さよなら立て看」、町田康「捨てられた魂に花を」、三浦しをん「『夢中』ということ」、村田沙耶香「日本語の外の世界」、群ようこ「方向音痴ばば」、森下典子「無駄なく,シンプルに。『日日是好日』の心」、山極寿一「AI社会 新たな世界観を」、行定勲「人間の奥深さ 演じた凄み」、吉田篤弘「身の程」、吉田憲司「仮面の来訪者」、若竹千佐子「玄冬小説の書き手を目指す」、若松英輔「本当の幸せ」、綿矢りさ「まっさーじ放浪記」となっています。収録順はこれと異なりますので、念のため。ということで、もちろん、作家やエッセイスト、あるいは、研究者などの書くことを主たるビジネス、あるいは、ビジネスのひとつにしている人が多いんですが、皇族方から、俳優さんなどの芸能人を含めて幅広い執筆陣となっています。昨年を中心に、いろんな世相や世の中の動きを把握することが出来そうです。掲載媒体を見ていて感じたんですが、京都出身だからかもしれないものの、全国紙の朝日新聞や日経新聞と張り合って、京都新聞掲載のエッセイの収録がとても多い気がします。毎日新聞や読売新聞よりも京都新聞の方がよっぽど収録数が多い気がします。何か、理由があるのでしょうか?

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最後に、日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』(徳間文庫) です。文庫本で大きな活字ながら、700ページに達するボリュームです。私にして読了するには丸1日近くかかります。ということで、収録作品は作者の50音順に配されており、青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」、朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」、朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」、朝倉宏景「代打、あたし。」、小川哲「魔術師」、呉勝浩「素敵な圧迫」、小池真理子「喪中の客」、小島環「ヨイコのリズム」、佐藤究「スマイルヘッズ」、嶋津輝「一等賞」、清水杜氏彦「エリアD」、高橋文樹「pとqには気をつけて」、長岡弘樹「傷跡の行方」、帚木蓬生「胎を堕ろす」、平山夢明「円周率と狂帽子」、藤田宜永「銀輪の秋」、皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」、米澤穂信「守株」となっています。作者に関しては、大ベテランといえば聞こえはいいものの、要するにお年寄りから若手まで、バラエティに富んでいれば、作品もミステリや大衆的な落ちのある作品から、純文学、ファンタジー、ホラーにSF、さらにドキュメンタリータッチと幅広く収録しています。平成最後の昨年の傑作そろいを収録したアンソロジーに仕上がっています。

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